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=第71回= 院政(いんせい)

院政とは『上皇』が国政の実権をにぎって天皇のかわりに『院庁』で政務を
とる政治の形態のことです。平安時代の後期に『白河上皇』によってはじめ
られました。

院政と呼ばれる時期は,考え方によって異なりますが,院が専制的な政治を
行った時期は『白河上皇』から鎌倉幕府成立以前の『後白河上皇』までです
のでこの時期を指すことが多いようです。しかし,形式的には江戸末期まで
続きましたし,承久の乱で『後鳥羽上皇』が島流しになるまでの約140年間を
指すこともあります。

院政が行われるきっかけになったのは,あの荘園整理令を出した「後三条天
皇」にあります。後三条天皇は,摂関家へ対抗するため,子の白河天皇に譲
位し,後見として政務をとるつもりでした。しかし,まもなく病没したため
上皇となった白河が父の考え方をうけついたのです。

院の政治は,院宣(いんぜん)という私的で形式にとらわれない命令によって
行われました。支えたのは,院近臣(いんのきんしん)とよばれる中・下流の
貴族たちで,彼らは,摂関政治を好まない受領層に支持されました。

経済的には,院分国をふくめた受領と院領荘園で,院は荘園領主としても大
きな力を持ちました。また武力的には,北面の武士があり,僧兵の強訴のと
きなどに活躍しました。

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=第72回= 知行国(ちぎょうこく)

知行国とは『国司以外』の公卿(くぎょう)や寺院などが行政・支配の実権
をあたえられた国のことです。そもそも「知行」とは支配とか統轄の意味
です。

そして,上級貴族を『知行国主』として一国の支配権をあたえ,その国か
ら収益を取得させる制度を「知行国の制度」と言います。これは,平安後
期から貴族にあたえる俸禄支給が有名無実化したため,貴族の経済的収益
を確保するために生み出されました。

知行国は『院政期』になると増加し,院自身も多くの知行国をかかえてい
ました。また,平氏も全盛のころには一族で30ヶ国の知行国をもったとい
われていますし,源頼朝も東国を中心に最高9ヶ国の知行国(関東御分国)
をもっていました。

知行国主の任期は原則として4年でしたが,時代とともに永続・固定化の
傾向が強まっていきました。その後,この制度は,変質をかさねて室町時
代末に消滅しました。

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=第73回= 保元の乱(ほうげんのらん)<平安時代・1156年>

保元の乱は『京都でおきたはじめての本格的戦乱』です。
基本的には「上皇」と「天皇」が対立して戦い『天皇側』が勝利を収めた戦
いです。

この乱は,まず,皇統の継承問題で「崇徳上皇」と「後白河天皇」が対立。
そこに摂関家内部の氏長者をめぐる「藤原忠通」と「藤原頼長」の対立がか
らんでおきました。さらに鳥羽院が没すると,源平両勢力をまきこんだ争乱
へと発展したのです。

人間関係が複雑なので,ちょっと整理してみましょう。

【天皇家】天皇側:後白河天皇(弟) 上皇側:崇徳上皇(兄)

【藤原氏】天皇側:関白・忠通(兄) 上皇側:左大臣・頼長(弟)

【平 氏】天皇側:平 清盛(甥)  上皇側:平 忠正(叔父)

【源 氏】天皇側:源 義朝(子)  上皇側:源 為義(父)

                   ※( )内は,両者の関係です。

1156年,天皇側に挑発された上皇側は源為義・為朝父子や平忠正らの武士を
招集し,臨戦態勢にはいりました。天皇側は,源義朝や平清盛らを動員,天
皇側が白河殿を急襲して勝利をえました。

敗北した崇徳上皇は讃岐(さぬき)に流され,頼長は宇治へのがれる途中に流
矢にあたって死去しました。また武士側では,源為義・平忠正らが死刑,為
朝は伊豆大島にながされました。

この乱は,戦いに武士の力が大きな影響をあたえ,武士の時代を開くきっか
けとなったと言えるでしょう。

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=第74回= 平治の乱(へいじのらん)<平安時代・1159年>

平治の乱とは,1159年,京都で『藤原信頼』と『源義朝』がおこした
反乱です。

この乱の原因の一つとして,前回勉強した「保元の乱」の戦後処理が
あげられます。保元の乱の勝者である天皇側で活躍したのは『平清盛』
と『源義朝』でしたね。しかし,戦功の著しかった「源義朝」は,左
馬頭(さまのかみ)への任官にとどまりました。それに対して「平清盛」
は播磨守(はりまのかみ)・大宰大弐(だざいのだいに)となったことで,
義朝は大きな不満をいだきました。

また,保元の乱の戦後処理にあたった「藤原信西」は清盛との関係を強
化し,権力の座にのぼりましたが,信西と権勢をきそっていた信頼は,
信西と激しく反目するようになりました。そこで,信頼は,義朝との協
力関係を築き『藤原信頼・源義朝』対『藤原信西・平清盛』という対抗
の図式が出来上がったのです。

1159年12月,清盛が京都を留守にしたすきをねらい『信頼・義朝』勢は
挙兵し,後白河上皇と二条天皇をおさえ『信西』を殺害しました。それ
を知った『清盛』は,いそぎ帰京し,天皇をうばいかえすことに成功,
上皇もまた仁和寺(にんなじ)へ逃れました。

天皇・上皇を手中からのがした『信頼・義朝』勢は,アドバンテージを
失い,『清盛』軍による大内裏を攻撃に,義朝の奮戦もかなわず敗退し
ました。

この戦いで信頼はとらえられて六条河原で斬首,義朝は,東国へ逃亡中
尾張国で長田忠致(おさだただむね)に殺されました。

この乱によって,清盛を中心とした『平氏』の政治的地位は高まり,政
権へ近づいていくことになります。

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=第75回= 日宋貿易(にっそうぼうえき)

日宋貿易とは, 平安中期から鎌倉中期に行われた『日本と中国の宋との間
の貿易』のことです。

894年の遣唐使の廃止以後,日本と中国との交流はしばらく停滞していまし
たが,宋の統一後,宋の商人が頻繁に博多に来航するようになり民間貿易が
盛んになりました。

特に,12世紀後半に政権をにぎった『平清盛』は,大輪田泊(おおわだのとま
り),つまり現在の「神戸港」の一部を修築し,宋の商船との貿易を積極的に
おこないました。

それにともない,日本の商船も宋にわたるようになり,13世紀後半に宋が元
にほろぼされるまで,日本と宋の間で活発な貿易が展開されたのです。

主な貿易品は次のとおりです。

 ・輸出品:金・硫黄・刀剣・漆器など

 ・輸入品:織物・書籍・経典・香料・陶器・銅銭など

こうした両国の交流は、日本の社会・経済・文化の諸方面に大きな影響をあ
たえました。特に,禅僧の交流にともなって禅宗が流布し,宋銭の大量輸入
によって日本の貨幣経済が進展しました。

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=第76回= 鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)<平安時代>

鹿ヶ谷の陰謀とは『後白河法皇の近臣が平氏打倒をくわだてた事件』です。

当時,急速に台頭してきた平氏一門と後白河法皇や院近臣たちは,対立を
深め,平家打倒の陰謀がめぐらされることになったのです。

1177年,後白河法皇の近臣藤原成親(ふじわらのなりちか)や僧俊寛(しゅん
かん)らは,京都東山「鹿ケ谷」の俊寛の山荘で平氏打倒のための秘密の会
合を何度かもちました。しかし,仲間のひとりだった多田行綱の裏切りで発
覚してしまいました。

怒った平清盛は,ただちに関係者をとらえ,成親を備前へ配流し,のちに殺
害,俊寛は,九州の鬼界ヶ島(きかいがしま)に流しました。

この事件により後白河法皇と平清盛の関係はますます悪くなったのです。

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=第77回= 源平の争乱(げんぺいのそうらん)<平安時代>

源平の争乱とは,平安時代末期の源氏と平氏の両勢力による争乱をまとめ
て言ったもので『治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)』ともいわ
れます。期間的には,以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)をうけて諸
国の源氏が挙兵した1180年から,平氏が滅亡した1185年までの約5年間を
いいます。

戦闘は,全国規模でおこなわれ,源平両氏だけでなく諸階層をまきこむ大
規模な内乱でした。この争乱は平氏政権が滅亡する過程であるとともに,
源氏政権(鎌倉幕府)の成立過程でもありました。

なお,この一連の争乱は,大きく3つの時期に分けることができます。

 ・第1期:源氏が挙兵した1180年から平氏が都落ちする1183年7月まで

 ・第2期:平氏が都をすて木曾義仲が入京した1183年7月から,1184年
      2月の一ノ谷の戦の前まで

 ・第3期:1184年2月一ノ谷の戦から,1185年3月の壇ノ浦の戦で平氏
      が滅亡するまで

一つ一つの内容は,次回以降少しずつ勉強していきます。

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=第78回= 源平の争乱 〜第1期〜 <1180年〜1183年7月>

前回勉強した「源平の争乱」の第1期は『平清盛』の専制に対してたちあ
がった『以仁王(もちひとおう)』が全国に平氏打倒の令旨を発したところ
からはじまります。令旨とは命令のことです。

そして,それをうけた伊豆の『源頼朝』木曽の『源義仲』があいついで挙
兵し,東国を中心に源氏の勢力が拡大します。頼朝は,鎌倉に拠点をすえ
て東国経営に専念しますが,義仲は,信濃・越後方面に進出。83年5月,
義仲軍は越中の倶利伽羅(くりから)峠の戦で平維盛(たいらのこれもり)軍
を撃破,京都にせまる勢いとなりました。

そして,平氏は,いわゆる「都落ち」となったのです。

ここまでを第1期として考えます。舞台はおもに「東国」で,源氏内部で
は共通の敵である平氏を前にして頼朝・義仲両者は,協調がなりたってい
ました。

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=第79回= 福原京(ふくはらきょう)<平安時代・1180年>

福原京とは,平清盛が一時的に移した『都』です。以仁王が敗死した,
1180年6月に,安徳天皇,高倉上皇を奉じて摂津の福原に遷都しました。

福原は,現在の神戸市で,平氏の拠点の一つでした。平家の指導力を高
めるための措置でしたが,大寺院や貴族たちの反発が激しく,約半年で,
都を元の京都に戻すことになったのです。

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=第80回= 源平の争乱 〜第2期〜 <1183年7月〜1184年2月>

源平の争乱の第2期は,平氏が都を捨て,源義仲が入京した1183年7月か
ら,84年2月の「一ノ谷の戦い」の前までです。

義仲が入京した時点では,西海の平氏,畿内・京都の義仲,関東の頼朝と,
3者が「分立」するような形でした。

しかし,都に入った義仲は,政治的配慮に乏しく,後白河法皇の反感をか
い,反平氏勢力の掌握に失敗しました。そして,義仲が平氏を討つべく中
国地方に滞在する間に,後白河法皇は,頼朝に上京を促しました。

頼朝は,弟の源範頼(のりより)と義経(よしつね)を大将として東国の軍勢
を派遣しました。義仲は防戦しましたが,味方となる武士はなく,あえな
く戦死しました。
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