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=第61回= 不輸・不入の権(ふゆ・ふにゅうのけん)<平安時代>

不輸・不入の権とは『荘園の特権』のことです。

 ・不輸の権:本来,国家に納めなければならない税を免除される権利。

 ・不入の権:国司などが土地の調査や税の取り立てに荘園に入ってくる
       ことを拒否する権利。

もともとは,不輸と不入は別のものでしたが,11世紀後半以降,荘園制の
成熟にともなって一体化し,公権力の排除を意味する語となりました。

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=第62回= 田堵(たと)<平安時代>

田堵とは,平安時代に『荘園や公領の田地の耕作を請け負った有力農民』の
ことです。耕作は国司や荘園領主が1年ごとに荘田や公田を田堵にわりあて,
契約によっておこなわれました。

田堵は土地の所有権はありませんでしたが,国司と組んで勢力を拡大し,大
規模な経営を行い,大名田堵と呼ばれるものも多く現れました。

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=第63回= 平将門の乱(たいらのまさかどのらん)<平安時代>

平将門の乱は,平安時代中期に『平将門』が『関東』でおこした反乱です。
同じころ「瀬戸内」でおきた「藤原純友の乱」とあわせ『承平・天慶(しょ
うへい・てんぎょう)の乱』ともいいます。

平将門は,桓武平氏の高望(たかもち)王の孫で,9世紀末以降,下総(しも
うさ)国(現在の茨城県結城・猿島郡地域)に土着した軍事貴族でした。

彼は,935年に一族との私闘を繰り返し,さらに国司に反抗していた豪族と
手を結び,939年に反乱をおこしました。そして,常陸(ひたち),下野(しも
つけ),上野(こうずけ)の国府を攻め落とし「新皇」を名乗り,関東独立の
姿勢をしめしたのです。

しかし,平貞盛(たいらのさだもり)や藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らに
よって討たれ,将門の野望は崩れ去りました。そして,乱の鎮圧に功があ
った貞盛や秀郷たちは,国家から恩賞を受け,関東の国司に任命され,彼
らはこれをもとに,武門としての基盤を築いたのです。

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=第64回= 藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)<平安時代>

藤原純友の乱は,平安中期に『藤原純友』が『瀬戸内』を中心におこした
反乱です。前回勉強した「平将門の乱」とともに『承平・天慶(じょうへ
い・てんぎょう)の乱』ともよばれます。

939年に東国で平将門の乱がおこると,純友はこれに応じるかのように海
賊を率いて反乱を開始しました。朝廷はまず東国の兵乱を制圧するため純
友に従五位下の位階をさずけ懐柔し,反乱は一時沈静化しましたが,将門
の乱が鎮圧されると純友追討を本格化させました。

純友は,伊予の国府や大宰府を攻め落として朝廷に大きな衝撃を与えまし
たが,朝廷側は清和源氏の祖である源経基(みなもとのつねもと)らに討た
れ反乱はおさまりました。

この乱をつうじて朝廷の軍事力の低下が明らかになり,地方武士の組織が
いっそう強化されることになったのです。

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=第65回= 刀伊の入寇(といのにゅうこう)<平安時代・1019年>

刀伊の入寇とは,平安時代,1019年におこった『異民族の侵入事件』です。

北九州方面に沿海州地方の刀伊(女真族)が侵入,対馬・壱岐を襲いました。
さらに筑前国怡土(いと)郡に侵入し,各地で千数百人をとらえて老人や子供
をふくむ400人以上を殺害,牛馬を殺して食べたと言われています。そして,
肥前国松浦地方を襲いましたが,撃退され大陸に去りました。

この事件がおきたとき,被害は大きかったにもかかわらず,中央政府は,そ
れまで日本近海をあらしていた海賊程度にしか考えていなかったようです。

刀伊軍をむかえた大宰府の最高責任者だった藤原隆家(道長の甥)は,最初は,
兵力があつまらず苦戦をしいられました。しかし,隆家の指揮のもと,敏速
に対応し,数日後には人兵も集まり軍勢を整え,豪族たちと連合し,刀伊軍
の上陸を阻止して撃退に成功したのです。

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=第66回= 平忠常の乱(たいらのただつねのらん)<平安時代>

平忠常の乱は,おこった年号から「長元の乱」とも言います。

この乱は,1028年に,平忠常が安房国守の惟忠(これただ)を殺害したこと
から,房総半島全域にひろがった反乱ですが『源氏が東国進出のきっかけ
をつくった乱』として重要な意味を持っています。

まず,朝廷側は鎮圧勢力として敵対勢力だった平貞盛の流れをくむ坂東平
氏を起用しました。しかし,追討勢力の足並みがそろわず,鎮圧は失敗。
そこで,当時武名をはせていた源頼信(みなもとのよりのぶ)を追討使に任
じ,1031年に,乱は鎮圧されました。

この乱によって,平氏は,東国での地盤を失い,逆に源氏が東国へ進出し
ていくことになったのです。

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=第67回= 前九年の役(ぜんくねんのえき)<平安時代>

前九年の役とは『東北地方でおきた戦乱』です。1051年から62年にわたって
「安倍氏」と「源氏・清原氏」の間で戦われました。

陸奥国(むつのくに)の中部には「蝦夷による一種の自治領」が形成されてい
て,中央政府への貢物さえかかさなければ,干渉されないという慣習ができ
ていました。

しかし,陸奥国俘囚長を務めていた「安倍頼良(あべよりよし)」は,11世紀
半ばから貢納をとどこおらせるようになり,また南に勢力を伸ばしはじめた
ため,対立的な状況になりました。

そこで,陸奥国守藤原登任(ふじわらのなりとう)は,1051年に数千の兵をひ
きいて鬼切部(おにきりべ)で頼良軍と対戦しましたが,大敗してしまったの
です。

驚いた中央政府は,武人の声望の高い「源頼義(みなもとのよりよし)」を鎮
守府将軍・陸奥国守として送り込みました。安倍頼良は鬼切部の一件につい
ては大赦によって免罪されたので,源頼義に遠慮して,名を頼良から頼時に
変え,頼義にしたがい,対決を回避しました。

しかし,源頼義は安倍氏の力をそごうとあえて挑発し,1056年,安倍氏は,
ついに挑発に乗ってしまい反乱に踏み切ることになったのです。

安倍氏は,翌57年に,頼時が殺害されるという事件がおきましたが息子の貞
任(さだとう)を中心に結束し,源氏を圧倒しました。そこで,源頼義は単独
での征討をあきらめ,出羽国俘囚長の清原氏に援助を要請したのです。

1062年,清原光頼・武則兄弟の援軍をうけた頼義は一気に攻勢に転じました。
安倍軍は,衣川柵(ころもがわのさく)をおとされると,鳥海・黒沢尻なども
次々おとされ,本拠の厨川柵(くりやがわのさく)にたてこもりましたが,柵
ごと焼きおとされ,安倍氏はついに滅びたのです。

この戦いのあと,頼義は武門の棟梁としての名声をさらに高め,清原武則は
鎮守府将軍と陸奥・出羽国俘囚長を兼任して一躍東北地方の雄となりました。

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=第68回= 後三年の役(ごさんねんのえき)<平安時代>

後三年の役は東北地方でおこった『清原一族と源義家の戦い』です。

前回勉強した「前九年の役」で陸奥の豪族安倍氏を源頼義とともにほろぼ
した「清原武則」は,その功により鎮守府将軍に任命され,安倍氏の陸奥
の旧領を併合し,奥羽最大の勢力となっていました。

しかし,清原一族内部は複雑で,武則の子息「清原武貞」の3人の子息は,
真衡(さねひら)が先妻の子,家衡(いえひら)が後妻の子,清衡(きよひら)
が,この後妻の連れ子で,前夫「藤原経清(ふじわらのつねきよ)」との間
に生まれた子でした。しかも,その後妻は安倍氏の娘だったのです。

こうした事情に加え,一族の内乱に陸奥守「源義家(みなもとのよしいえ)」
が介入し,大きな争乱となったのです。

戦いは,1083年「真衡」が長老と対立し,長老に「家衡・清衡」が同調し
てはじまりました。

しかし,陸奥守・鎮守府将軍として赴任してきた「源義家」は,真衡に味
方し,両者は降伏したのです。

ところが「真衡」が陣中で急死すると,今度は「清衡」と「家衡」が対立
し,家衡が清衡の妻子をおそって殺害しました。そこで,清衡は義家の出
陣を要請し,「清衡・義家」連合軍は,1087年「家衡」のこもる金沢柵(か
ねさわのき)を包囲して攻略したのです。

「義家」の介入により勝利した「清衡」は安倍・清原の遺領をついで安倍
氏を再興し,本姓の藤原にもどって「奥州藤原氏」の祖になりました。

いっぽう義家は,この戦いを私戦とみなされ朝廷からの恩賞がありません
でした。しかし,義家は,私財をなげうって恩賞を部下へ与えました。そ
して,この事実が義家の武名をいっそう高めることになり,東国武士団の
心をしっかりつかむことになったのです。

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=第69回= 奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)

奥州藤原氏は,平安後期に陸奥国平泉を拠点に奥羽を支配した大豪族です。
具体的には,「清衡」・「基衡」・「秀衡」・「泰衡」の四代をさすこと
が多いようですが,泰衡を除いた三代をさす場合もあります。

奥州藤原氏の祖は,前回勉強した後三年の役で勝利した『藤原清衡』です。

清衡の父は,平将門の乱を平定した藤原秀郷の子孫である「藤原経清」で,
母は,前九年の役で滅ぼされた「安倍頼時(頼良)」の娘です。

ですから,清衡は,土着した官人と豪族との結合ということになります。

二代目の「基衡」は,陸奥の在国司として実質的な国司に,さらに三代目
の「秀衡」は,正式に陸奥守を認められました。彼は,源頼朝の鎌倉勢力
を北方から牽制し,源平争乱期に大きな役割をはたしました。

しかし,四代目の「泰衡」の時代には,「源義経」をかくまったことから
頼朝の武力介入をうけ,1189年に滅亡することになったのです。

奥州藤原氏は,陸奥から産出する金を財源として,独自の「平泉文化」を
築きました。有名な国宝の「中尊寺金色堂」には清衡以降三代のミイラと
四代の泰衡の首が安置されています。

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=第70回= 延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)

延久の荘園整理令は,1069年に『後三条天皇』が出した荘園整理令です。
これまでも何度か荘園の増加を抑制するために整理令が出されましたが,
あまり効果はなかったようです。

しかし,この後三条天皇が出した『延久の荘園整理令』は,対象が摂関家
の荘園におよび,藤原氏に大きな打撃を与えました。

天皇は,整理令の徹底のため「記録荘園券契所」を太政官内部に設置設立
しました。そして,それまで国司に委任されていた荘園整理を,中央が独
自に調査することになったのです。

なお「記録荘園券契所」は,後三条天皇の死後に消滅しましたが,白河上
皇や後白河天皇のとき再設置されました。しかし,白河上皇のときの記録
所では券契審査をおこなわず「訴訟」が中心でした。

また,有名な「建武の新政」をおこなった後醍醐天皇も「記録所」を置き
ましたが,一般政務も担当する中心機関の名称ですので別のものと考えて
いいでしょう。
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