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=第51回= 薬子の変(くすこのへん)<平安時代・810年>

薬子の変とは,嵯峨(さが)天皇が即位した後,奈良の平城(へいぜい)上皇
との間で対立が起こり,上皇の寵愛する藤原薬子を自殺させた事件のこと
です。

平城上皇は,809年に位を弟の嵯峨天皇に位をゆずり,薬子や一部の公卿た
ちをともなって旧都平城京に移りました。ところが,後に,薬子らと復位
をねらって平城の地を拠点に朝廷に対抗するようになったのです。

そのため,政令が上皇方と天皇方の両方からでる状態となり,混乱しまし
た。そして,810年に,上皇が都を平城京へもどすことを命じると,嵯峨天
皇は,ついに立ち上がり,首謀者のひとりとみられた薬子の兄の藤原仲成
を京で逮捕し,薬子の官位を剥奪しました。また,あの名将坂上田村麻呂
を派遣しました。

結局,上皇と薬子は方策を失い,上皇は出家,薬子は自殺し,政変はわず
か数日で終わりました。

この変の結果,薬子がでた藤原式家はおとろえ,蔵人頭(くろうどのとう)
として活躍した藤原冬嗣の藤原北家が,以後,隆盛するきっかけとなった
のです。

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=第52回= 蔵人頭(くろうどのとう)<平安時代・810年>

蔵人頭とは,嵯峨(さが)天皇のときに令外官(りょうげのかん)として作ら
れた『天皇の秘書官』です。

前回勉強した「薬子(くすこ)の変」の際,平城(へいじょう)上皇に秘密が
漏れることなく天皇の命令を太政官組織に伝えるために設けられたのがは
じまりで,藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)や巨勢野足(こせののたり)らの
側近が任じられました。そして,蔵人は,天皇の側近として宮廷において
重要な役割を果たすようになったのです。なお,その役所を蔵人所(くろ
うどどころ)と言います。

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=第53回= 三大格式(さんだいきゃくしき)<平安時代>

三大格式とは『弘仁(こうにん)格式』『貞観(じょうがん)格式』『延喜
(えんぎ)格式』の三つをいいます。

律令制定後,社会の変化に伴い,さまざまな法令が出されましたが,嵯
峨天皇(さがてんのう)のもとで整備が進められました。律令を補足・修
正した法令である『格』と施行細則である『式』に分類・編集したもの
が『弘仁格式』です。

その後も,法典の編纂が受け継がれ,清和天皇(せいわてんのう)のとき
に『貞観格式』が,醍醐天皇(だいごてんのう)のときに『延喜格式』が
編纂されました。


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=第54回= 平安新仏教(へいあんしんぶっきょう)<平安時代>

平安新仏教とは『最澄(さいちょう)』や『空海(くうかい)』らによって
もたらされた,従来の国家仏教とは異なる新しい仏教のことです。

奈良時代の後半には,仏教が政治に深くかかわっていたため,弊害が多
かったことから桓武天皇は,平安京に遷都するにともない,南都の大寺
院を長岡京や平安京に移転することを認めませんでした。

それでは,新仏教の代表的な二人について簡単に説明しておきましょう。

● 最澄 <767年〜822年> 諡号(しごう)は伝教大師(でんぎょうだいし)

 ・近江(おうみ)生まれ。   ※ 近江は現在の滋賀県

 ・804年に遣唐使にしたがって入唐。

 ・比叡山・延暦寺において,天台宗を開く。

● 空海 <774年〜835年> 諡号は弘法大師(こうぼうだいし)

 ・讃岐(さぬき)生まれ。   ※ 讃岐は現在の香川県

 ・804年に遣唐使にしたがって入唐(最澄と同時)

 ・高野山・金剛峰寺において,真言宗を開く。

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=第55回= 承和の変(じょうわのへん)<平安時代・842年>

承和の変とは平安時代初期に起こった『政治的陰謀事件』です。

嵯峨天皇のもとで有能な官僚として活躍した藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)
の子『藤原良房(よしふさ)』は,退位後も,権威を保ちつづけていた嵯峨上
皇の死の2日後の 842年(承和9年)7月17日に,伴健岑(とものこわみね)と
橘逸勢(たちばなのはやなり)を捕らえました。

皇太子の『恒貞親王(つねただしんのう)』を東国に奉じて乱をおこそうとし
ているとの密告によるものです。

その結果,恒貞親王は廃され『道康親王(みちやすしんのう)』が皇太子に立
てられました。伴健岑は隠岐に流され,橘逸勢は伊豆へながされる途中に遠
江(とおとうみ)で死亡しました。

この事件によって,政敵の伴氏が排斥されたため,藤原北家の権力集中がい
ちだんと強まる結果になり,確固たる地位が確立することになったのです。


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=第56回= 応天門の変(おうてんもんのへん)<平安時代・866年>

応天門の変は,平安時代に起こった『政治的陰謀事件』です。この事件は,
藤原氏による他氏排斥事件のひとつと考えられます。

事件は,866年,平安宮大内裏(だいだいり)正門の応天門炎上に端を発しまし
た。炎上からしばらくして,左大臣の源信(みなもとのまこと)の仕業である
とする訴えが,大納言の伴善男(とものよしお)によっておこされました。
しかし,当時,太政大臣だった藤原良房が源信をかばったこともあって犯人
不明のまま数カ月がすぎました。

この間に,源信は政界から身をひきましたが,後に,犯人は,伴善男・中庸
(なかつね)父子であるとの訴えありました。取り調べに対し善男は否認しま
したが,拷問による従僕の自白などもあって,善男父子と関係者が流罪とさ
れ事件は決着したのです。

しかし,訴えた大宅鷹取(おおやけのたかとり)は,善男に恨みをもった人物
であったことや,藤原氏の主導で審理されことから,事件は応天門の炎上を
利用して源氏と伴氏の排除をねらった藤原良房・基経の陰謀という見方が強
いようです。


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=第57回= 摂関政治(せっかんせいじ)<平安時代>

摂関政治とは,平安時代中期の『藤原氏による摂政・関白による政治』の
形態のこと,つまり藤原氏が政治の実権を握っていた時代の政治のことを
言います。

摂政は,天皇が「幼いとき」や女性のときの天皇の代行者,関白は,天皇
が「成人後」の天皇の代行者のことです。

以前にも聖徳太子など摂政になった者はいますが,臣下としてはじめて摂
政になったのが『藤原良房(清和天皇のとき)』でした。また,はじめて関
白に就任したは『藤原基経(光孝天皇のとき)』です。

しかし,10世紀前半には醍醐天皇や村上天皇など,摂政・関白をおかず,
天皇親政がおこなわれた時期もありましたので,摂政と関白の両職が常に
におかれるようになった冷泉(れいぜい)天皇の10世紀後半から,後三条天
皇の即位する11世紀後半までの政治形態を『摂関政治』と言うことが多い
ようです。

摂関政治は,藤原道長のころ全盛期を迎えましたが,道長の子である頼通
や教通の時代になると,藤原氏の女子に皇子が誕生せず外戚関係をきずく
ことができなくなりました。そのため,1068年に外戚関係のない後三条天
皇が即位すると,急速に衰退にむかい,以後,実権は『院』にうつってい
くことになります。

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=第58回= 延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)<平安時代>

延喜・天暦の治とは,平安中期の『醍醐天皇とその子の村上天皇の治世』の
呼称です。10世紀前半の両天皇の時代は摂政や関白をおかず,親政を行った
時期があり,天皇親政が再現され,律令の理念が復活したとして,この両天
皇をたたえ理想化する考え方が生まれました。

「延喜」・「天暦」というのは,両天皇の代表的な年号です。中国の唐で,
太宗皇帝が「貞観(じょうがん)の治」玄宗皇帝が「開元の治」と呼ばれたの
に習ったものと思われます。

この時代には,三大格式の一つ「延喜格式」の編纂や国史「日本三代実録」
の編修,「古今和歌集」の撰集など文化も活発化しました。

のちの建武の新政を行う後醍醐天皇は,通常,死んでから送られる天皇の名
を生きているうちから自分後醍醐と称しました。これは,醍醐天皇に憧れ,
この時代の政治を理想にしていたからなのです。

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=第59回= 安和の変(あんなのへん)<平安時代・969年>

安和の変とは,藤原氏が『左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)』を左遷
した,いわゆる藤原氏による『他氏排斥のため陰謀事件』です。

事件は,皇太子の守平親王を廃し,兄の為平(ためひら)親王を皇太子にたて
ようとしていると密告からはじまりました。調べたところ,醍醐天皇の子で
為平親王の妃の父でもあった左大臣源高明の加担があったとされ,高明は,
大宰府に流されたのです。

この事件により,藤原氏の地位が完全に確立し,以後,摂政や関白が常置さ
れる摂関政治の時代を迎えることになったのです。

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=第60回= 荘園(しょうえん)

荘園とは,一言で言えば『私有地』ということです。律令制のもと,土地
は,公地公民の原則により,本来は私有地は存在しないはずでしたが,奈
良時代の「墾田永年私財法」により,一部私有が認められるようになりま
した。

この墾田永年私財法が,荘園を発生させた要因です。その後,この土地制
度は,形を変えながらも続いていきましたが,応仁の乱で実質的に崩壊し,
豊臣秀吉の太閤検地により「大名知行制」が成立して完全に消滅すること
になります。

荘園は,時期から『墾田地系荘園(初期荘園)』と『寄進地系荘園』に分け
ることができます。

 ・8世紀〜9世紀は『墾田地系荘園』:税がかかる(輸租田)

 ・10世紀〜11世紀は『寄進地系荘園』:税のかからない(不輸租田)

とおおまかに覚えておいてください。
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