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=第41回= 天平文化(てんぴょうぶんか)<奈良時代>

天平文化とは,奈良時代『聖武天皇のころの文化』を言います。

前に勉強したように,聖武天皇は『仏教』によって国の平安をまもろうと
して,東大寺をはじめ諸国に国分寺や国分尼寺を建立するなど仏教に力を
入れていましたね。ですから,当然『仏教色の強い』文化でもあります。

また,唐の文化の影響も強く受け,唐ばかりでなく,シルクロードなどを
通じて,インドやイスラムの影響も入った国際色豊かな文化でもありまし
た。代表的な作品は,次のとおりです。

【建築】

 ・東大寺法華堂(ほっけどう)・転害(てがい)門

 ・唐招提寺金堂(とうしょうだいじこんどう)

 ・法隆寺夢殿(ゆめどの)

 ・正倉院宝庫(しょうそういんほうこ)・・・校倉造りで有名。

【彫刻】

 ・東大寺の盧遮那(るしゃな)仏・・・通称:大仏

 ・東大寺の日光・月光菩薩(にっこう・がっこうぼさつ)像

 ・東大寺戒壇院(かいだんいん)の四天王寺像

 ・新薬師寺の十二神将(じゅうにしんしょう)像
 
 ・唐招提寺の鑑真(がんじん)像

 ・興福寺の阿修羅(あしゅら)像・・・八部衆(はちぶしゅう)像のひとつ
 
 ・聖林寺の十一面観音像

【工芸】正倉院宝物

 ・螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんびわ)

 ・漆故瓶(しっこへい)

【絵画】

 ・正倉院の鳥毛立女屏風(ちょうもうりゅうじょのびょうぶ)

 ・過去現在絵因果経

 ・薬師寺の吉祥天像(きちじょうてんぞう・きっしょうてんぞう)

【書物の編纂】

 ・歴史書:古事記,日本書紀

 ・漢詩集:懐風藻(かいふうそう)

 ・地理書:風土記(ふどき)

 ・和歌集:万葉集

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=第42回= 古事記(こじき)<奈良時代・712年>

古事記は,現存する『日本最古の書物』です。また,最古の『歴史書』で,
序文および上中下の3巻から成り立っています。

 ・序文:成立の経緯。
 ・上巻:天地創成ではじまる神代。
 ・中巻:神武天皇から応神天皇まで。
 ・下巻:仁徳天皇から推古天皇まで。

序文の成立の経緯によりますと,天武天皇が発案して,古くから宮廷に伝
った「帝紀(ていき)」と「旧辞(きゅうじ)」を天皇自ら訂正を加え,これ
を『稗田阿礼(ひえだのあれ)』に暗唱させたとあります。

そして,天武天皇の死でいったん中断しましたが,元明天皇の命令で稗田
阿礼が暗唱していた「帝紀」や「旧辞」を『太安麻呂(おおのやすまろ)』
が筆録しました。

内容は,天地創造,日本の国生みをはじめとして,天孫降臨,神武天皇の
東征,日本武尊(やまとたけるのみこと)の地方征討などの神話・伝承から
推古天皇にいたるまでの物語を天皇中心に構成したものです。

同時期に編纂された「日本書紀」が編年体をとり,公的歴史をしるしてい
るのに対し「古事記」は天皇家の歴史観を表していると言えるでしょう。

尚,『古事記』と『日本書紀』の二つの書物をいっぺんに表して『記紀』
と呼びます。古事記の「記」と日本書紀の「紀」は,同じ「き」でも字が
違いますよね。その点,注意してください。

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=第43回= 日本書紀(にほんしょき)<奈良時代・720年>

日本書紀は,日本で最初の『勅撰の歴史書』です。つまり,天皇の命令に
よって編纂された最初の歴史書ということです。書物としては,古事記の
方が古いのですが,古事記は勅撰ではありませんので注意してください。

日本書紀は,720年に舎人親王(とねりしんのう)を代表として編纂され,元
正天皇に提出されました。編纂の目的は,天皇家の子孫が将来にわたって
地上を支配することの正当性を過去にさかのぼって証明することにあった
ようです。

対象になっている年代は,神代から697年の持統天皇の退位までで,古事記
とは違って,原則として時代順にしるす編年体をもちいて書かれています。
30巻からなり,漢文でしるされています。古代史を研究するには欠かせな
い史料のひとつといえるでしょう

なお,この日本書紀と同じように朝廷による正史が6つ編纂され,それら
は六国史と呼ばれました。参考として記しておきます。

【参考】六国史(りっこくし) 日本の古代国家が編纂した正史

・720年「日本書紀(にほんしょき)」
・797年「続日本紀(しょくにほんぎ)」
・840年「日本後紀(にほんこうき)」
・869年「続日本後紀(しょくにほんこうき)」
・879年「日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)」
・901年「日本三代実録(にほんさんだいじつろく)」

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=第44回= 万葉集(まんようしゅう)<奈良時代>

万葉集は『現存する最古の歌集』です。何と4500余首の歌が20巻におさめ
られています。編者は『大伴家持(おおとものやかもち)』と言われていま
すが,はっきりはしません。作者は天皇から庶民までとひろく,生活に密
着した歌が多いのが特徴です。

表記は,漢字の音と訓を表音的にもちいた,いわゆる『万葉仮名』でなさ
れています。万葉仮名は,日本が固有の文字をもたなかったために、中国
大陸から渡来した漢字を日本語の表記に応用したもので,平安時代にはす
でに読解がむずかしくなっていたようです。

歌のかたちは,次のようなものがあります。

 ・短歌(たんか):五・七・五・七・七
 ・長歌(ちょうか):五音・七音の句を七句以上重ねていく
 ・旋頭歌(せどうか):五・七・七・五・七・七
 ・仏足石歌(ぶっそくせきか):五・七・五・七・七・七

また,これらを組み合わせたり,問答でひとつのかたちをなすものもあり
ました。また,1世紀以上にわたる作歌年代は,ふつう次の4期にわけら
れます。代表的な歌人は次のとおりです。

・第1期 舒明天皇即位(629年)〜壬申(じんしん)の乱(672年)まで

 舒明(じょめい)天皇,天智(てんじ)天皇,有間皇子(ありまのみこ)
 額田王(ぬかたのおおきみ)など。

・第2期 672年〜平城京遷都(710年)まで

 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ),高市黒人(たけちのくろひと)
 天武(てんむ)天皇,持統(じとう)天皇など

・第3期 710年〜733年まで

 大伴旅人(おおとものたびと),山上憶良(やまのうえのおくら)
 山部赤人(やまべのあかひと)など

・第4期 733年〜759年まで

 大伴家持(おおとものやかもち),橘諸兄(たちばなのもろえ)など

そのほか,時期を特定できない作者不明の歌が3分の1ほどありますが,多
くは集団的,民衆的な歌謡で,生活感にあふれ,万人の共感をえられるもの
となっています。


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=第45回= 長岡京(ながおかきょう)<奈良時代・784〜794年>

長岡京は『桓武天皇』が山背国(やましろのくに)乙訓郡(おとくにぐん)に
おいた宮都です。遷都の理由は,いくつか考えられますが,大きな理由と
して,平城京における寺院勢力から絶縁をはかり,新しい政治をめざそう
としたことにあるようです。

ところが,この都は,たったの10年で次の都に移ることになります。しか
も,造営の途中であり,完成を待たずして,何故,また都を移すことにな
ったのでしょうか?

その理由の一つとして『早良(さわら)親王のたたり』があります。

長岡京は,784年に造営が開始され,翌年7月に,30万人以上の諸国の農民
を動員して本格化しました。ところが,その2ヶ月後に造営事業の中心人
物だった藤原種継(たねつぐ)が反対勢力によって暗殺されたのです。この
事件をめぐり,暗殺にかかわったとして大伴継人(つぐひと)ら数人が死刑
にされましたが,皇太子だった早良(さわら)親王もとらえられ淡路への流
罪となりました。しかし,親王は,無実を主張し,淡路へ護送の途中,絶
食して死んでしまったのです。

この事件の後,桓武天皇の母や皇后が死去するなど不幸な事件が相次ぎま
した。また,早良親王にかわって皇太子になった桓武の子の安殿(あて)皇
太子が病気になり,なかなか治らなかったので,陰陽師に占わせたところ,
早良親王のたたりという答えが出たのです。この『たたり』が遷都の大き
な動機になったことは間違いないようです。

また,長岡京は都としての立地条件も悪く,しばしば洪水にみまわれ,特
に 792年には,左京地域が大洪水で冠水してしまいました。こうした中で
天皇は793年1月に長岡京の廃止を決定したのです。

わずか10年間という短期間の宮都でしたが,1954年末以来の発掘調査によ
ると,全域にわたって本格的な工事がおこなわれており,どちらかという
と平安京よりは平城京に近い町割りだったことが分かりました。

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=第46回= 平安京(へいあんきょう)<平安時代・794年>

平安京は『桓武天皇』が山背(やましろ)国の葛野(かどの)郡宇太(うだ)の地
につくった宮都です。

前回勉強した長岡京は,洪水があったり早良親王のたたりを思わせる事件が
多発して,たったの10年で放棄したのでしたよね。ところが,この新都は,
何と,1869年の東京遷都まで1000年以上もの間,日本の都となりました。

遷都にあたって「山背国」は「山城国」に変更されましたので注意してくだ
さい。

平安京は,京都盆地の中央に位置し,東西約4.5km,南北約5.2kmの長方形で,
モデルは,唐の都『長安』です。大きさとしては,だいたい長安の3分の1
程度でした。

都の東側には,鴨川(かもがわ),西側には,桂川(かつらがわ)が流れ,この
両川は,重要な水上交通路になりました。北部中央には政庁や官庁をあつめ
た大内裏(だいり)があり,その南面中央が朱雀門(すざくもん)で,そこから
南に朱雀大路(幅:85m)が平安京南端の羅城門(らじょうもん)までのびていま
した。そして,朱雀大路を中心として左京と右京にわかれていましたが古く
から左京中心にさかえ,右京ははやくからさびれました。

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=第47回= 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)

征夷大将軍と言えば,まずは,何を思い浮かべるでしょうか?

源頼朝や足利尊氏,徳川家康などを思い浮かべる人もいると思うし,坂上
田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を思い浮かべる人もいるでしょう。

征夷大将軍とは,本来『蝦夷征討のため朝廷が派遣した征討軍の総指揮官』
のことです。しかし,中世以降は武家政権の首長,つまり,幕府の首長と
いう意味で使われるようになりました。

この名称は,794年の大伴弟麻呂にはじめてつかわれ,有名な坂上田村麻呂
は,二人目の征夷大将軍ということになります。田村麻呂は鎮守府を多賀
城から胆沢城にうつすなど東北経営にも尽力したので,この職は武力をに
なう者にとって栄誉とされるようになりました。

蝦夷征討が一段落すると一旦,征夷大将軍の称は廃され,1184年に源義仲
が征夷大将軍に任じられたころは,本来の蝦夷追討とは,あまり関係のな
いものになっていました。

その後,源頼朝がこの職につき,室町幕府や江戸幕府など武家の棟梁を象
徴する職になりましたが,1867年の王政復古の大号令により江戸幕府が解
体したのにともない廃絶されました。

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=第48回= 令外官(りょうげのかん)

令外官とは,律令の「令」の「外」の「官」つまり『令に規定されていな
い新しい官職』のことです。実は,あの「摂政」や「関白」も令外官なの
です。

他にも,中納言や参議,これから学ぶ勘解由使(かげゆし),検非違使(けび
いし),蔵人(くろうど)などがあります。個々については,今後,少しずつ
学んでいくことにします。

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=第49回= 勘解由使(かげゆし)<平安時代>

勘解由使とは『解由状(げゆじょう)を審査した監督官』のことです。

解由状とは,国司の交代の際,前任者がきちんと責任を果たしたことを
後任者が証明する『書類』のことで,この書類がなければ,前任者は,
次の職に就くことはできませんでした。この解由状をめぐる紛争が多か
ったので,これを審査するために中央に勘解由使がおかれたのです。

つまり,勘解由使は,国司交代の際の『ひきつぎ』を厳しくするために
設けられたということです。設置されたのは,平安時代初期の 797年ご
ろで『桓武天皇』の強い権力を背景に行われた政治改革の一つです。

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=第50回= 検非違使(けびいし)<平安時代・816年設置>

検非違使は『京内の警察や裁判の業務をつかさどる官職』です。

この官職は,律令の「令」に規定されていない新しい職,つまり,前に
勉強した「令外官(りょうげのかん)」で,平安時代初期の『嵯峨(さが)
天皇』のときに設置されました。そして,天皇が特別に任命する職でし
た。

はじめは,衛門府(えもんふ)内におかれましたが,824年(天長元)に検
非違使庁としてを独立しました。また,権限の方も,次第に拡大してい
き,京職(きょうしき)・弾正台(だんじょうだい)・刑部省(ぎょうぶしょ
う)にかわって京内の民政や,犯人の追捕・訴訟・裁判などをおこない,
大きな権限をもつようになりました。
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