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=第31回= 出挙(すいこ)

出挙とは,国司や郡司が公民に『強制的に稲を貸し付ける制度』です。

春に国家が稲を貸し付け,秋に『利息』とともに徴収しました。この
利息のことを『利稲(りとう)』と読んでいます。

出挙は,国司が行う公出挙(くすいこ),郡司などの豪族が行う私出挙
(しすいこ)に分けられます。「公」と「私」ですから,今風に言えば,
貸し出すのが政府機関なら「公」民間人なら「私」と考えばいいでし
ょう。

この制度は,本来,農民の生活を維持していくために地方の豪族など
の有力者に行われてきたものでしたが,律令制のもとでは,国家に対
する一種の税のようなものになり,利稲は,国家の重要な財源になり
ました。

利稲は,令によると,公出挙で5割,私出挙で10割以下と決められて
いました。随分高い利息だったのですね。

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=第32回= 兵役(へいえき)

律令政治の時代には,租・庸・調の『税』や雑徭などの『労役』のほか
に『兵役』という重い負担がありました。

兵役は,成年男子の3〜4人に1人の割合で兵士が徴発され,諸国にお
かれた軍団で訓練を受け,京を守る『衛士(えじ)』や北九州の沿岸を守
る『防人(さきもり)』になりました。防人にあてられたのは,主に東国
の農民だったようです。

兵士は,武器や食料などを自分で負担しなければなりませんでしたので,
庸や雑徭などが免除されていても,ものすごい負担だったようです。ま
た,兵士を取られた家も働き手を失うことになり,大きな痛手になりま
した。兵士を出した家は滅びるとさえ言われたぐらいです。

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=第33回= 皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)

皇朝十二銭とは,古代の日本政府が発行した『銅銭の総称』で,本朝十二
銭(ほんちょうじゅうにせん)という呼び方もあります。有名な「和同開珎」
から「乾元大宝」までの十二の銅銭を言います。

・708年(和銅元年)  「和同開珎(わどうかいちん・わどうかいほう)」

・760年(天平宝字4年)「万年通宝(まんねんつうほう)」

・765年(天平神護元年)「神功開宝(じんごうかいほう)」

・796年(延暦15年)  「隆平永宝(りゅうへいえいほう)」

・818年(弘仁9年)  「富寿神宝(ふじゅしんぽう)」

・835年(承和2年)  「承和昌宝(しょうわしょうほう)」

・848年(嘉祥元年)  「長年大宝(ちょうねんたいほう)」

・859年(貞観元年)  「饒益神宝(しょうえきしんぽう)」

・870年(貞観12年)  「貞観永宝(じょうがんえいほう)」

・890年(寛平2年)  「寛平大宝(かんぴょうたいほう)」

・907年(延喜7年)  「延喜通宝(えんぎつうほう)」

・958年(天徳2年)  「乾元大宝(けんげんたいほう)」

尚,「和同開珎」は,日本最古の貨幣というのが定説でしたが,1999年に
飛鳥池(あすかいけ)遺跡から出土した「富本銭」の発見により,和同開珎
よりも古い貨幣が存在することが分かったのです。

富本銭は,かつては江戸時代に作られたと信じられていましたが,1985年
に平城京跡から発見され,奈良時代(710年以後)に鋳造されたまじないのた
めの銭という説が出され,それが定説になっていました。

ところが,この1999年の発見により,和同開珎が作られたよりも古い地層
から33枚もの富本銭が出土し,和同開珎より古い貨幣であると断定された
のです。ですから,現在では,日本最古の貨幣は「富本銭」ということに
なります。

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=第34回= 平城京(へいじょうきょう)<奈良時代・710年遷都>

平城京は,710年に元明天皇のときに奈良盆地北端につくられた『宮都』
です。以後,784年に長岡京にうつるまで、奈良時代の天皇8代の律令国
家の首都でした。唐の長安を見本に作られたといわれています。

この都は,よく碁盤の目のようにとか言われますよね。まさにそのとおり
で,東西南北に規則正しくはしる道路によって整然と区画されていました。
東西・南北とも4町(約430m)ごとに大路で区切られ,4町四方の各区画は,
条坊で示されていたのです。

全体的には,東西は,4.3km,南北は,4.8kmと,少し縦長の長方形ですが,
北側に北辺(きたのへ),東側に外京(げきょう)がはりだして,やや不定な
形となっています。中央には,朱雀大路(すざくおうじ)が貫通していて,
東側を左京,西側を右京といいいます。

北部の中央には,宮城があり,ここには,最高の政務と国家的儀式をおこ
なう大極殿(だいごくでん)や天皇の生活する場所である内裏(だいり)など
があり,政治の中心をなしていました。今で言う官庁街ですね。京内は,
貴族や官吏の住宅のほか,大安寺(だいあんじ),薬師寺など飛鳥地方にあ
った多くの寺院が移され,都をはなやかに彩りました。

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=第35回= 長屋王の変(ながやおうのへん)<奈良時代・729年>

長屋王は,壬申の乱で勝利した天武天皇の「孫」で,父は高市皇子です。

720年に,それまで政界の中心人物だった藤原不比等が死ぬと,首班にな
り,やがて左大臣の座につきました。

しかし,729年に,突然密告を受け,邸宅を兵に囲まれたあげく,自殺に
追い込まれてしまいました。この事件を『長屋王の変』と呼んでいます。

何故,こんな事件がおきてしまったのかというと,藤原不比等の息子たち
である4兄弟が陰謀をめぐらしたものと考えられています。

そこで,その4兄弟を記しておきます。

 ・武智麻呂(むちまろ)・・・藤原南家の祖

 ・房前(ふささき)・・・・藤原北家の祖

 ・宇合(うまかい)・・・・・藤原式家の祖

 ・麻呂(まろ)・・・・・・・藤原京家の祖

では,何故,藤原4兄弟は,陰謀をめぐらしてまで,長屋王を排除したの
でしょうか?

長屋王が活躍していたころの天皇は,有名な聖武天皇です。そして,妃だ
った光明子は,あの藤原不比等の娘でした。その二人の間に生まれた親王
が早逝し,他の夫人に親王が誕生したことから,藤原4兄弟は,次の皇位
継承について危機感を抱いていました。

そこで,光明子を本来皇族しかなれないはずの皇后に立てることが不可欠
となり,これに反対することが予想された長屋王を抹殺する必要に迫られ
たものと思われます。
 
長屋王を排除したあと,4兄弟は,光明子を皇族以外では初めての皇后に
立てることに成功しました。これにより藤原氏は,大きな権威を獲得した
のです。

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=第36回= 藤原広嗣の乱(ふじわらひろつぐのらん)<奈良時代・740年>

前回勉強した藤原不比等の4子を覚えていますか?

そうです,武智麻呂・房前・宇合・麻呂でしたね。この4兄弟は,長屋王
を謀殺した後,実権を掌握していました。

ところが,737年に,当時流行していた天然痘によって全員死んでしまった
のです。この天然痘の猛威は,すさまじく,朝廷の重要人物のほとんどが
死に絶えたと伝えられています。

このあと実権を握ったのが皇族の橘諸兄(たちばなのもろえ)です。諸兄は,
翌738年に右大臣になりました。そして,唐から帰国した玄ム(げんぼう)や
吉備真備(きびのまきび)を重用しました。

  この2人と対立したのが,藤原宇合の子,広嗣(ひろつぐ)です。

広嗣は,親族を誹謗したとして大宰府へ左遷されていましたが,740年,玄
ム・真備の追放を求めて九州で乱を起こしました。

  これが,『藤原広嗣の乱』です。

乱は,中央から派遣された大軍と激戦の後,鎮圧されました。広嗣は捕らえ
られ,斬首されました。

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=第37回= 鎮護国家(ちんごこっか)

鎮護国家とは『仏教によって国を鎮め守る』という思想です。

藤原広嗣の乱(740年)が平定された後も朝廷の動揺はおさまらず,聖
武天皇は,短期間に遷都を3回も行っています。

・740年 恭仁京(くにきょう)・・・・・山背(やましろ)
      ↓
・744年 難波京(なにわきょう)・・・・摂津(せっつ)
      ↓
・744年 紫香楽京(しがらききょう)・・近江(おうみ)
      ↓
・745年 平城京に戻る

こうした情勢のもと,かねてから仏教をあつく信仰していた聖武天皇
は『鎮護国家』の思想によって,政治や社会の不安をしずめようと考
えたのです。

そのあらわれとして『国分寺建立の詔』や『大仏造立の詔』を発しま
した。

 ・741年 国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)

  国ごとに国分寺(こくぶんじ),国分尼寺(こくぶんにじ)を建
  てて金光明経(こんこうみょうきょう)など護国の経典を読ま
  せた。

 ・743年 大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)

  近江の紫香楽で,盧舎那仏(るしゃなぶつ)の造立をはじめた。
  この事業は,都が平城京に戻ると奈良に移され,孝謙天皇(こ
  うけんてんのう)の 752年に東大寺の大仏が完成し,大仏開眼
  供養の儀式が行われた。

どちらにしても,これらの詔は,天武朝(672〜686)以来の仏教の護国
経典によって国家の平和をはかったものですが,さしあたっては天然
痘など疫病の流行や飢饉,藤原広嗣の乱などの災厄をはらうのが目的
だったようです。

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=第38回= 恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)<奈良時代・764年>

恵美押勝は,もともと藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)という奈良時代の
政治家です。父は,あの藤原不比等の4子の一人,武智麻呂です。

幼少のときから聡明ですぐれていた人物でしたが,次男ということもあり
あまり出世の見込みはありませんでした。しかし,藤原氏の不振をなげく
光明皇后の目にとまり,後押しもあってみるみるうちに出世し,ついには,
太政大臣の位にまで登りつめるのです。

仲麻呂は,758年に,淳仁天皇(じゅんにんてんのう)から「汎(あまね)く
恵むの美もこれより美なるはなし」「暴を禁じ強に押し勝つ」として『恵
美押勝』の美称をさずけられました。そして,専制的な政治を行ったので
す。

しかし,760年光明皇太后が没すると,権勢にかげりが見えてきました。孝
謙上皇に信任されていた僧・道鏡(どうきょう)が進出してくると,これと
対立し,764年には,ついに兵を上げましが,押勝は,西近江においつめら
れ敗死しました。これが『恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)』です。

この敗戦により,仲麻呂によって擁立されていた淳仁天皇は,皇位を廃さ
れ淡路に流されました。そして,孝謙上皇が再び即位し称徳(しょうとく)
天皇となったのです。

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=第39回= 三世一身法(さんぜいっしんのほう)<奈良時代・723年>

三世一身法とは『開墾奨励の法令』です。奈良時代になると,人口の増加
に対して口分田が不足してきたため,政府は田地の拡大をはかる必要があ
りました。そして,722年に『百万町歩の開墾計画』を立て,翌723年に,
三世一身法が施行されたのです。

内容は,灌漑施設を新たに造成して開墾した場合は『三世』の間,従来の
灌漑施設をもちいて開墾した場合は『本人一代』の保有を認めるというも
のでした。

この政策により,土地不足の解消を狙いましたが,実際は,期限が近づく
と再び耕地が荒廃するなど不十分な点も多く,20年後には,一歩進んだ,
『墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)』が出されることにな
るのです。

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=第40回= 墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)<743年>

墾田永年私財法とは『開墾奨励の法令』です。前回勉強した三世一身法の
内容が「期限付き土地私有」だったのに対し,墾田永年私財法は開墾した
田の永久私有,つまり「期限なしの土地私有」が認められたということで
す。

しかし,位階・官職により開墾田所有者の面積の上限がありました。たと
えば一位なら500町,二位なら400町,初位(そい)・庶人は10町などです。
上限を設けたのは,開墾事業の抑制をねらったものだと思われます。

この法令によって,大化の改新以来の「公地」の原則はやぶられ,いつま
でも班田収授されない私有地が復活し,のちの荘園制につながっていくこ
とになりました。

また,この法令が出された 743年は『大仏造立の詔』が出された年でもあ
り,政府が莫大な財政支出を要する大仏の建立を決意したところでしたの
で,地方の豪族に対し,国家事業への協力をもとめる措置の一つだったと
もいえるでしょう。
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