☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ ☆〜☆ 大場佳代の歴史用語解説 ☆〜☆ ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ =第21回= 二官八省(にかんはっしょう)<飛鳥時代〜> 二官八省とは,律令制の行政組織のことです。古代の官僚制と言い換えて もいいでしょう。 二官とは,二つの官,つまり『太政官』『神祇官』のこと。 八省とは,『中務省』『式部省』『治部省』『民部省』『兵部省』 『刑部省』『大蔵省』『宮内省』の八つの省のことです。 ・神祇官(しんぎかん)は,神々の祭りをつかさどる役職です。 ・太政官(だいじょうかん)は,一般政務をつかさどる役職です。八省は, この太政官のもとにあります。各省の仕事内容は,つぎのとおり。 ・中務省(なかつかさしょう):勅書の作成など。 ・式部省(しきぶしょう):文官の人事など。 ・治部省(じぶしょう):仏事・外交事務など。 ・民部省(みんぶしょう):民政・租税など。 ・兵部省(ひょうぶしょう):軍事・武官の人事など。 ・刑部省(ぎょうぶしょう):裁判・刑罰など。 ・大蔵省(おおくらしょう):財政・貨幣など。 ・宮内省(くないしょう):宮中の事務など。 |
☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ ☆〜☆ 大場佳代の歴史用語解説 ☆〜☆ ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ =第22回= 畿内・七道(きない・しちどう) 畿内・七道とは,律令制で定められた『行政区画』です。 畿内は『山背(やましろ)』『大和(やまと)』『河内(かわち)』 『和泉(いずみ)』『摂津(せっつ)』の五か国。 七道は『東海道』『東山道』『北陸道』『山陰道』『山陽道』 『南海道』『西海道』の七道。 畿内とは,王都を中心に設定された特別行政区域のことで「きだい」と読む こともあります。起源は,中国の北魏(ほくぎ)で,皇帝のすむ周辺地はすぐ れた徳が特にあつくおよぶので,その地域はほかよりも優遇されるべきとの 考えにもとづいています。 実際,畿内に本貫(本籍)をもつ者は庸(よう)の負担と調(ちょう)の半分が免 除され,ほかの地域より税制などで優遇されました。 |
☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ ☆〜☆ 大場佳代の歴史用語解説 ☆〜☆ ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ =第23回= 国司(こくし) 国司とは,中央から国へ派遣され郡司(ぐんじ)を指揮して政務をおこなっ た『地方官』のことです。中央の貴族が,一定の任期で派遣されました。 701年の大宝律令の施行により,戸籍の作成や班田の実地,徴税,警察事務 や訴訟など一国内の政務全般をまかされました。任期は,最初のころは6年 で,後に4年になりましたが,実情は3年未満だったようです。 しかし,鎌倉時代に軍事や警察の仕事をする守護がおかれるようになると, 徐々に権限をうばわれ,室町時代以降は名目だけのものになりました。 |
☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ ☆〜☆ 大場佳代の歴史用語解説 ☆〜☆ ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ =第24回= 郡司(ぐんじ) 郡司とは,律令制の下で,郡の政務にあたった『地方官』のことです。 701年の大宝律令の成立とともにはじまりました。 郡司には,国造(くにのみやつこ)や県主(あがたぬし)など地元の豪族から 選ばれ,終身任じられ,世襲も認められていました。 郡司は,国司に協力して地方の政治にあたったのですが,国司は,中央政 府から任期をかぎられて派遣されていたので,直接人民を支配していたの は,現場をよく知っている郡司の方だったようです。 |
☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ ☆〜☆ 大場佳代の歴史用語解説 ☆〜☆ ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ =第25回= 里長(さとおさ・りちょう) 里(り)とは,国・郡の下に位置する最末端の地方行政区画で「さと」とも読 みます。この里を仕切っていたのが,里長です。里長も,郡司と同じように 地方の豪族から選ばれて終身じられ,世襲も認められていました。 それでは,里とは,どのぐらいの規模かというと,あの大化の改新の詔にも 「五十戸一里」の規定がみえますので,だいたい50戸を1里としていたよう です。 また,藤原不比等政権下の715年に,従来の里を郷(ごう)とし,郷の下に, 里(こざと)をおいた郷里(ごうり)制を実施したこともありました。しかし, 739年末〜740年初に里は廃止され,郷だけが残りました。 |
☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ ☆〜☆ 大場佳代の歴史用語解説 ☆〜☆ ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ =第26回= 太政官(だいじょうかん) 太政官とは,二官八省のところでも勉強したように,律令制における 行政の『最高機関』です。「だじょうかん」という読み方もあります。 広い意味では,八省や弾正台(だんじょうだい)および国司など中央・ 地方官庁をたばねる総合官庁であり,意味を狭く取ると,一般政務の 最高機関である太政大臣・左右大臣・大納言,少納言,左右弁官だけ をいいます。 太政大臣は,太政官の最高職で,適任者がいなければ置かないことも ありました。つまり,常置しなくともよいということです。太政大臣 がいないときには,左大臣・右大臣が首班として政治にあたりました。 そして,太政大臣,左右大臣,大納言からなる公卿(くぎょう)の合議 によって政治は進められ,その結果を天皇が裁可するという方式で行 われたのです。(公卿は後に,中納言・参議が加わるようになります) 公卿の下には,宮中の事務を扱う少納言,および八省の事務を総括す る左右の弁官がありましたが,弁官の各省に対する担当は次のとおり です。 左弁官:中務省,式部省,治部省,民部省 右弁官:兵部省,刑部省,大蔵省,宮内省 |
☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ ☆〜☆ 大場佳代の歴史用語解説 ☆〜☆ ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ =第27回= 大宰府(だざいふ) 大宰府とは,古代の九州北部におかれていた『特別な地方官庁』です。 対外的な『軍事や外交』,『九州(西海道の9国3島)の内政』などを統 轄しました。 ※ 大宰府の「大」は,太ではなく大であることに注意しましょう。 現在,九州にある太宰府市は,太です。なんだかややこしいの で,よく区別して覚えておきましょう。 ・大宰府・・・「大」 ・太宰府市・・「太」 7世紀後半には,筑紫(つくし),吉備(きび),周防(すおう),伊予(い よ),坂東(ばんどう)など,全国の要地に周辺の数カ国を管轄していた 総領(大宰)が置かれていましたが,律令制の成立にあたって廃止されま した。しかし,筑紫だけは存続し,名前も単に『大宰府』と称されるよ うになったのです。 大宰府は,帥(そち),大・少弐(しょうに)以下,600人近い官人が勤務 し,北九州沿岸部で辺境防備にあたる防人を統率する防人司など多くの 被管官司をかかえていました。単なる地方官庁の枠を超えた大規模な官 庁だったので,遠の朝廷(とおのみかど)ともよばれました。 894年の遣唐使の停止後は,おもに唐・宋の商人の貿易を管理するよう になり,平安中期以降は現地出身の府官が成長し,実権をにぎるように なりました。また,941年藤原純友(ふじわらすみとも)の乱のときには, 政庁を焼かれ,1019年には刀伊の入寇(といのにゅうこう)をうけました。 鎌倉時代に,元寇の後,鎮西探題が博多におかれてから,大宰府は存在 価値をうしない廃絶しました。 |
☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ ☆〜☆ 大場佳代の歴史用語解説 ☆〜☆ ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ =第28回= 班田収授法(はんでんしゅうのじゅほう) 班田収授法を簡単に言うと『律令制のもとでおこなわれていた耕地の分 配制度』ということです。 最初に「大化の改新の詔」のところで出てきましたね。しかし,実際に 行われたかどうかは不明です。689年の飛鳥浄御原令(あすかきよみはら りょう)で実施され,その後,庚寅年籍(こういんねんじゃく)・大宝令な どにもとづいて,原則として6年ごとの班年でおこなわれました。しか し,10世紀初頭にとだえました。 ですから,だいたい『7世紀後半から10世紀初頭にかけての約200年にわ たって実施された土地制度』と考えておけばいいでしょう。 では,どのように分配していたかというと,養老令(757年)の規定では, 戸籍の作成時に6歳以上の男女を給付対象としました。そして,口分田と して,国家から,次のように分配されました。 ・良民男子:2段(1段=360歩=約11.7a) ・良民女子:1段120歩 ・賤民男子:240歩 ・賤民女子:160歩 良民男子に2段,女子にその3分の2。賤民(せんみん)には,良民男女の それぞれ3分の1が与えられたわけです。もちろん,この土地は,もらっ たものではなく,貸し与えられたものであり,死んだら返すことになって いました。そして,厳しい課税の対象になっていたのです。 班田収授法の大きな目的は,豪族による土地や農民の支配を防ぎ,国家の 支配下におくことによって徴税の対象を確保することだったといえるでし ょう。 |
☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ ☆〜☆ 大場佳代の歴史用語解説 ☆〜☆ ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ =第29回= 租・調・庸(そ・ちょう・よう) 租・調・庸,あるいは,租・庸・調などと3ついっぺんに呼ばれている ものは,日本古代の主要な『税』のことです。当時は,もちろん,お金 ではなく物で納める『物納税』でした。 それでは,『租』・『調』・『庸』の簡単な区別を見てみましょう。 『租』地方の国々に納める。地方の政治の費用。 口分田の面積に応じて,収穫の約3%の「稲」を納める。 『調』都に納める。中央政治の費用。 布・鉱産物・魚介類・海藻類などの「郷土の産物」の一種 を一定量納める。 『庸』都に納める。中央政治の費用。 中央での10日の労役の代わりに「布」を納める。 『租』は,地方の国々に納める土地に対する税で,地方の国々にたくわ えられ,その国の経費などの当てられました。それに対して,『調』や 『庸』は,農民の手で「都」に運ばれ,中央政府の財源になりました。 この時代は,稲を納める『租』は比較的軽かったものの,各種の労役が 重かったことが税制の特徴でもありました。 |
☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ ☆〜☆ 大場佳代の歴史用語解説 ☆〜☆ ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆ =第30回= 雑徭(ぞうよう) 雑徭とは,国司の命令によって,日数を限って治水灌漑(かんがい)や 架橋,舎屋建築などの土木工事をしたり,国衙(こくが)の雑用などを する『労役』のことです。いわば,律令制における『労働税』という ことですね。前回勉強した租・庸・調と同時に導入されました。 就労日数は『60日以内』と決められていましたが,国司たちは日数い っぱい働かせた上に,私用につかうことも多かったようです。こうし た実情が問題となって,757年に30日以内,一度もとの60日以内に戻さ れたこともありましたが,795年にふたたび30日以内,864年に20日以 内と,しだいに軽減していきました。 |
バックナンバー目次へ TOPのページへ 次(31〜40)へ |