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=第11回= 重祚(ちょうそ)

今日は『重祚』という言葉の意味を覚えましょう。

ちょうそ,何やら聞くだけで重々しい感じがしますね。重祚とは『一度退
位した天皇が再び皇位につくこと』です。簡単に言うと一人で2回天皇を
やるということですね。

先日勉強した中大兄皇子の母に当たる女帝,皇極(こうぎょく)天皇は,
第35代の天皇ですが,645年のクーデターである乙巳の変(いっしのへん)
の後,位を孝徳天皇に譲りました。

クーデターの中心人物である中大兄皇子の母であるのにもかかわらず,位
を退いたのは,皇極天皇が,時の権力者蘇我入鹿(そがのいるか)と親し
い関係であったからだと考えられます。

その後,37代の天皇に返り咲き,斉明(さいめい)天皇となりました。こ
のように同じ人物が再び皇位につくことを重祚というわけです。

長い歴史の中でも,重祚した天皇は,2人しかいません。

もう一人は,奈良時代に,道鏡(どうきょう)と親しい関係で有名な第46
代の孝謙(こうけん)天皇です。孝謙天皇は,一旦退いた後,第48代天皇,
称徳(しょうとく)天皇として返り咲きました。

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=第12回= 白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)<飛鳥時代・663年>

7世紀の後半におこった白村江の戦い。どんな戦いだったのでしょうか?

白村江は「はくすきのえ」とも読みます。665年に,まず,百済(くだら)と
高句麗(こうくり)が連合して新羅(しらぎ)に侵攻しました。そこで,新羅
は,唐に救援を求め,唐は,660年に百済王室を滅ぼしました。

しかし,百済の王室は滅びたものの,各地に残っていた遺臣たちが百済を
復興するために立ち上がりました。そして,日本にも救援を求めてきたの
です。

斉明天皇と中大兄皇子は,日本の力で百済を復興して朝鮮半島における地
位を上げようと考え,救援の大軍を送ることにしました。

白村江の戦いとは『663年,朝鮮半島で中国(唐)・新羅連合軍と日本の百済
救援軍との間でおきた海戦』です。

この戦いで大敗した日本軍は,朝鮮半島から手を引き,以後,国土の防衛に
努めることになりました。百済も完全に滅亡し,朝鮮半島は,676年,新羅
によって統一されました。

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=第13回= 近江令(おうみりょう)<飛鳥時代・668年>

近江令とは,天智(てんじ)天皇の命令をうけて藤原鎌足らが編纂したと
いわれている『日本古代の法令集』のことです。

大化の改新のスタートとなった645年のクーデターの中心人物『中大兄
皇子』が天智天皇『中臣鎌足』が藤原鎌足になったことはご存知ですね。
日本最初の令(りょう)といわれる近江令も,この二人が中心になって作
られました。

しかし,成立事情などには疑問が多く,天智朝(662〜671)にできたが施
行は持統朝(687〜697)とする説や,天智朝は律令編纂に着手した時期で,
それが後の飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)となったという説な
どがあります。

また,もともと体系的な法典ではなく,天智朝でいくつかだされた単行
法令をあつめて近江令とよんだという説もあります。

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=第14回= 庚午年籍(こうごねんじゃく)<飛鳥時代・670年>

庚午年籍とは『日本ではじめてつくられた全国規模の戸籍』のことです。
読み方も難しいですね。庚午とは干支(えと)の庚(かのえ)午(うま)から
きています。つまり,670年は,干支で言うと庚午の年なのです。

ただし,この年が完成年なのか開始年なのかははっきりしていません。
このときの天皇は,天智天皇です。

戸籍の対象になったのは,豪族,公民,曲部(かきべ),奴婢(ぬひ)まで
の全階層です。その目的は身分の良賤(りょうせん)や氏姓・本貫地(本籍)
などをきめて記録することに重点があったと思われます。その結果,徴税
や徴兵などは行いやすくなりましたが,地方豪族は不満を高めたようです。

また,後の大宝令(701年)のもとで『近江大津宮の庚午の年の籍は除かず』
として永久保存のあつかいとされました。

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=第15回= 壬申の乱(じんしんのらん)<飛鳥時代・672年>

壬申の乱といえば,日本史の最初の方に出てくる大きな乱ですよね。
この乱は,簡単に言うと『天智天皇の後継者争い』ということです。

天智天皇の弟である『大海人皇子(おおあまのおうじ)』と息子である
『大友皇子(おおとものおうじ)』が戦い,大海人皇子が勝利しました。

天智天皇は,最初,後継者を弟の大海人皇子と決めていました。
しかし,息子の大友皇子が成長すると,しだいに大海人皇子を遠ざけ
るようになり,671年には,大友皇子を太政大臣とし,次期天皇とする
意思を明らかにしたのです。もちろん,大海人皇子は皇位継承をのぞ
んでいたのですが,暗殺をおそれて吉野に逃れました。

天智天皇の死後,大友皇子は,弘文(こうぶん)天皇として即位していま
したが,672年6月ついに大海人皇子は決起し,戦いが始まりました。

大海人皇子は,吉野から所領のある美濃国に脱出し,交通の要地である
鈴鹿関(すずかのせき)や不破関(ふわのせき)をおさえ,東国の兵を集め,
自軍に組織しました。そして,琵琶湖をはさむようにして,近江大津宮
を攻めました。

弘文天皇(大友皇子)側も西国の兵を徴発しようとしましたが,白村江の
戦いなどで疲弊し,近江朝廷へ不満を強めていた西国の豪族からの動員
は思うように進まず,近江大津宮は陥落し,弘文天皇は自殺しました。

約1ヶ月の戦いに勝利した大海人皇子は翌年の673年に飛鳥浄御原(あす
かきよみはら)宮で即位し,天武天皇となったのです。

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=第16回= 八色の姓(やくさのかばね)<飛鳥時代・684年>

前回勉強した『壬申の乱』で勝利を収めた天武天皇が定めた制度です。
天武天皇は,武力によって政権を獲得しましたので,強大な権力を握りま
した。この『八色の姓』は,豪族を天皇中心の新しい身分秩序に編成しな
おしたものです。

『八色の姓』という文字が示すように8つの姓が定められました。

 真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)
 道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の8つです。

家柄や各氏の政治的地位などを考慮して与えられました。

この制定の目的は,それまで序列のはっきりしなかった姓を順位付けし,
天皇の近親者を最上位にすえることにあったようです。

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=第17回= 飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)<飛鳥時代>

飛鳥浄御原令も前に勉強した近江令と同じように古代の『法令集』です。

681年に天武天皇の命で編纂がはじまり,持統(じとう)天皇の689年に成立し
施行されました。

この法令集は,22巻からなり,律(りつ)と令(りょう)を編纂することになっ
ていましたが,律は完成したかどうか疑わしいと言われています。日本で初
めての統治についての体系的な法令集で,その戸令にもとづき戸籍の作成が
命じられました。

この戸籍は,庚寅年籍(こういんねんじゃく)として690年に完成し,このこ
ろから全国的な班田収授も始まったとされています。

※ 律は,現在の『刑法』,令は,現在の『行政法』のようなものです。

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=第18回= 藤原京(ふじわらきょう)<飛鳥時代・694〜710年>

藤原京とは,奈良盆地の南部に作られた,平城京の一つ前の都です。
畝傍(うねび)山・耳成(みみなし)山・香具(かぐ)山の大和三山にかこまれ
た地につくられました。現在で言えば,奈良県の橿原(かしはら)市と明日
香村に位置しています。

遷都したのは,持統(じとう)天皇ですが,文武(もんむ)・元明(げんめい)
の3代の天皇が都としました。

この都は,中国にならった日本ではじめての本格的な都城(とじょう)です。

都城とは,天皇の住居をはじめ,儀式や政務を行う場所,官庁や倉庫など
の施設に加え,役人や一般の人々の住む京域を備えたものです。これは,
中央集権国家として,是非とも必要なものでした。

7世紀前半にはすでに通っていたとされる奈良盆地を縦横につらぬく古道
を規準に,東西およそ2.1km,南北3.2kmの範囲を碁盤の目状に線引きし,
東西8坊,南北12条とし,朱雀(すざく)大路・六条大路・条間大路・小路
などによって区分けされていたといわれています。

しかし,最近の発見により,藤原京は,この規模をはるかに上回る都だっ
た可能性があることが分かってきました。従来は,平城京の3分の1程度
と考えられていましたが,平城京と同規模,あるいは,更に広大な都だっ
たのではないかと言われるようになっています。

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=第19回= 白鳳文化(はくほうぶんか)<飛鳥時代>

7世紀の後半から8世紀の初頭にかけて栄えた文化を『白鳳文化』と
言います。ちょうど,天武天皇,持統天皇のころの文化です。

天武天皇は,神社も重んじましたが,仏教も厚く信仰し,官立の大寺
院を建立しました。それが『大官大寺(だいかんだいじ)』や『薬師寺
(やくしじ)』です。白鳳文化の代表的な建物といっていいでしょう。

代表的な仏像は『興福寺仏頭(こうふくじぶっとう)』です。もと山田
寺の薬師三尊の本尊の頭部で,人間的な若々しさにあふれているのが
特徴です。

絵画では『法隆寺金堂壁画(ほうりゅうじこんどうへきが)』や,1972
年に発見された『高松塚古墳(たかまつづかこふん)の壁画』が,この
時代のものです。普通,法隆寺といえば飛鳥文化ですが,壁画がつい
たら白鳳文化と覚えておきましょう。

和歌では『柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)』『額田王(ぬかたのお
おきみ)』漢詩では『大津皇子(おおつのおうじ)』などが有名です。
この時期の和歌と漢詩は,それぞれ奈良時代に『万葉集(まんようしゅ
う)』『懐風藻(かいふうそう)』に収められています。

この時代は,唐との交渉も盛んだったので,『初唐』の影響が見られ
る文化であったことも合わせて覚えておきましょう。

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=第20回= 大宝律令(たいほうりつりょう)<飛鳥時代・701年>

大宝律令もこれまで勉強してきた近江令や飛鳥浄御原令などと同じような
日本古代の『法令集』です。

文武(もんむ)天皇の701年に成立し,すぐに施行されました。

編纂には,総裁の刑部親王(おさかべしんのう)以下,藤原鎌足(中臣鎌足)
の息子である藤原不比等(ふひと)らが当たりました。

前に勉強したように,律は現代の『刑法』,令は『行政法』にあたります。
律については,ほぼ手本にした唐のものと同じですが,令については,日
本の実情に即して作られました。

大宝律令の成立は,前に勉強した飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)
には律がなかったと思われるのに対し,『律』『令』ともに完備したこと
や,日本と唐の社会状態などをよく考え,現実的なものにするなど,画期
的なものでした。

そして,この大宝律令の成立によって,645年にはじまる大化の改新でめざ
した天皇中心の中央集権国家体制が,はじめて完成したといえるでしょう。

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