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=第1回= 土偶(どぐう)<縄文時代>

みなさん,土偶を見たことがありますか?本物を見たことがなく
ても,写真などで一度は見たことがあると思います。

土偶とは『人間をかたどった土製品の総称』を言います。

両脇を少しあけ,短い手と短い足の,ちょっと上からつぶしたよ
うな感じの女性像が多いみたいですね。

何故,土偶を作ったかについては,はっきりしたことが分かって
いません。つまり,定説はないのです(^^)/。

ですから,とりあえず,時代は『縄文時代』目的は『豊作を祈っ
たり,病気や災害などの魔よけ』として作られたと考えておけば
いいでしょう。

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=第2回= 埴輪(はにわ)<大和時代>

みなさん,埴輪はご存知ですか?多分,写真などで古墳と一緒に
見たことがあると思います。

埴輪とは『古墳の墳丘上や周囲にならべられた土製の造形物』の
ことを言います。

古墳の上には,主に,建物や人物,動物のものが,外側には,円
筒のものが置かれていました。

『動物埴輪』にはウマ・ウシ・シカ・イノシシ・魚・水鳥などが
あり,馬形埴輪には馬具をつけたものも多いようです。
『人物埴輪』は,座像より立像が多く,正座して頭をたれる武人
像やすわって琴をひく女人像などもみられます。中には,まわし
をつけて相撲をとる人物埴輪像もみつかっているそうです。

では,何故,埴輪を置いたかということですが『葬儀の列をあら
わす』という説『死者の魂をなぐさめるため』という説『首長権
の継承儀礼』とする説などがありますが,定説はありません。

ですから,埴輪は,古墳と一緒に覚えておきましょう。古墳の周
りにあるのが埴輪って感じでいいでしょう。時期は,4世紀ぐら
いからはじまり,6世紀に最も盛んになったと考えられています。
また,前方後円墳が作られなくなった7世紀ごろに姿を消ます。

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=第3回= 冠位十二階(かんいじゅうにかい)<飛鳥時代・603年>

冠位十二階といえば,聖徳太子が定めたことで有名ですね。では,いったいどんな制度なのでしょうか?

冠位十二階を作った目的は『身分の高低にかかわらず,才能のある人を役人に登用する』ということです。 

日本ではじめて作られたの冠位制度で,聖徳太子が高句麗・百済などの冠位制度を参照してつくりだしたといわれています。

具体的には、徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小の2つに分け,12階として,それぞれにあう冠をさずけました。冠には,色がついていて高い順に,紫・青・赤・黄・白・黒で表されました。また,大小の違いは色の濃淡で表現され,身分の差がひと目でわかるようになっていたのです。

当時の,氏族制度では,個人の才能を発揮する場面もかぎられ,その能力が問われることもありませんでした。しかし,この制度では冠は氏族にではなく,個人の実務能力を評価してあたえられたので,能力しだいでさらに冠位を上げることもできました。代表的な例として遣隋使で有名な小野妹子は,大礼から大徳まで冠位を4階もあげたそうです。

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=第4回= 十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)<飛鳥時代・604年>

一に曰く,和をもって貴しとなし,さからうことなきをむねとせよ。

ニに曰く,あつく三宝を敬え。

三に曰く,詔をうけたまわれば,必ずつつしめ。

みなさんは,上の資料を見たことがありますよね。そうです,有名な十七条憲法です。聖徳太子が作ったことでも有名ですね。

『十七条憲法』は『憲法十七条』とか『十七条の憲法』とかいろいろな表記がありますが,これはどれでもいいでしょう。日本初の成文の法令集です。
内容は,一言で言うと『役人の心得』が記されています。

聖徳太子は,前年に冠位十二階を制定したのは,前回勉強しましたね。つまり,これに応じた役人の服務要領をさだめたということです。そして,仏教や儒教の考え方も取り入れられており,影響を受けていることが分ります。

尚,十七条という条数は、陰の極数8と陽の極数9をたしたもので陰陽思想の影響といわれれいます。

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=第5回= 法隆寺(ほうりゅうじ)<飛鳥時代>

法隆寺と言えば『現存する世界最古の木造建築』として有名ですね。飛鳥文化の代表的な建物です。『聖徳太子』が建てたことでも知られています。

法隆寺は,奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳宗の大本山で,別名斑鳩寺などともいいます。国宝・重要文化財指定に指定されているものは,数百点にのぼると言われ,建築では『五重塔』『金堂』『夢殿』などが有名です。

彫刻では,金堂にある『釈迦三尊像−鞍作止利(くらつくりのとり)作』『四天王像−山口大口費(やまぐちのおおくちのあたえ)作』『救世(ぐぜ)観音像』『百済観音像』などが有名です。また,絵画では,玉虫厨子の須弥座に描かれている密陀(みつだ)絵が有名です。

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=第6回= 遣隋使(けんずいし)<飛鳥時代>

みなさんは『日出る処の天子,書を日没する処の天子にいたす。恙なきや』
という資料を見たことがあると思います。

これは,607年に聖徳太子が派遣した小野妹子が隋に持っていった国書です。
遣隋使とは,当時の『国家使節』です。中国の「隋書」には,600年に「姓は阿毎(あめ),字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)」という人物が文帝に使いを送ったという記述がありますが,日本側の史料にはありません。

普通,遣隋使といえば,607年の小野妹子の派遣をいいます。

この国書を見て隋の皇帝,煬帝(ようだい)は,憤慨したといわれています。
確かに,大国の隋に対して,対等の立場をとったわけですから当然といえます。しかし,煬帝は,裴世清(はいせいせい)を送使として派遣しました。これは,当時,高句麗を攻める準備中だった煬帝が,日本と手を結んでおいた方がよいと考えたからです。

また,裴世清が帰国するとき,日本から高向玄理(たかむこのくろまろ),南淵請安(みなみぶちのしょうあん),僧旻(そうみん)などの留学生や学問僧がいっしょに隋に渡りました。彼らは,隋の滅亡と唐の成立を見とどけて,日本に戻り,後の大化の改新に影響を与えました。

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=第7回= 飛鳥文化(あすかぶんか)<飛鳥時代>

飛鳥文化と言えば『聖徳太子のころの文化』のことです。7世紀の前半に現れた,日本で最初の『仏教文化』でもあります。

仏教が伝わったのは,538年でしたね。朝鮮半島の百済(くだら)から伝わりました。ですから,仏教は,まだ,この時代『新しい宗教』ということになります。

特徴は『世界性が高い』ということです。そんな昔に・・・と思うかもしれませんが,遠くギリシアのヘレニズム文化やインドのガンダーラ美術の影響を受けています。西方の文化が中国に伝わり,朝鮮半島を通って日本までやってきたというわけですね。例として,法隆寺のエンタシスと呼ばれる柱のふくらみがあります。これは,明らかにギリシア建設の影響を受けています。

主な寺院は『四天王寺』『法隆寺』『飛鳥寺』などです。また,仏教文化ですから,たくさんの仏像も作られました。有名なのは,飛鳥寺の『飛鳥大仏』法隆寺金堂の『釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)』『百済観音像(くだらかんのんぞう)』,中宮寺の『弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)』などです。
また,仏像を作った仏師として『鞍作鳥(くらつくりのとり)』が有名です。

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=第8回= 大化の改新(たいかのかいしん)<飛鳥時代・645年>

『虫殺し蘇我氏殺して大化の改新』って感じで,年号を覚えた人も多いでしょう。

大化の改新とは『7世紀半ばにおこなわれた中央集権的な国政改革』のことです。

当時の日本は皇位継承問題がおきていました。権力者の蘇我入鹿が古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)』をおしたのに対し,皇極女帝の子の『中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)』と『中臣鎌足(なかとみのかまたり)』らがクーデタを計画したのです。

そして,645年,飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で蘇我入鹿をたおしました。これが,一般的に大化の改新と呼ばれているものですが,このクーデターのことを『乙巳の変(いっしのへん)』と言います。この乙巳の変で改新政府を樹立し,以後,中央集権的な国政改革が行われていくことになるのです。

クーデターの主役である『中大兄皇子』は皇太子にとどまり,孝徳天皇が即位しました。左大臣には『阿倍倉梯内麻呂(あべのくらはしのうちのまろ)』右大臣には『蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)』が任命され,『中臣鎌足』は,内臣(うちつおみ)という地位に就き,改新政府が樹立されました。新政府は元号を大化としました。

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=第9回= 改新の詔(かいしんのみことのり)<飛鳥時代・646年>

前回勉強したように,645年におこった中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターが,大化の改新の始まりでしたね。そして,中国にならって初めて年号をたてて大化とし,都を難波(なにわ)に移しました。そして,翌年出されたのが『改新の詔』です。

改新の詔とは,『新政府が出した新しい政治の方針』のことです。そして,この詔は,4か条からなっています。

1.公地公民(こうちこうみん)

2.地方の行政区画を定め,中央集権的な政治の体制を作る。

3.班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)

4.新しい統一的な税制を施行する。

個々については,これから勉強していきます。改新の詔は『日本書紀』に記されていますが,その信憑性についてはさまざまな論議があり,非常に難しい問題になっています。このマガジンでは,日本書紀の記述に基づいて説明していくつもりです。

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=第10回= 公地公民(こうちこうみん)

前回勉強した「改新の詔」の第1条にあるのが,この「公地公民」です。
では,この公地公民とは,いったいどんな制度なのでしょうか?

公地の「公」は,「おおやけ」ですね。反対語は「私」です。
つまり,「土地や人民の私有は認めませんよ,みんな国のものですよ」というのが,公地公民の考え方なのです。

実際,王族の支配民である「名代(なしろ)・子代(こしろ)の部」や王族の直轄地である「屯倉(みやけ)」は廃止されました。

同じように豪族の私有民である「部曲(かきべ)」や私有地「田荘(たどころ)」も廃止され,そのかわりに「食封(じきふ)」が支給されることになりました。
食封とは,一定数の戸を指定し,そこからの租税の大部分を与える制度です。

要するに,これまで,王族や豪族が個別に支配してきた土地や人民を,すべて国家の支配にしたということですね。以後,中央集権国家の体制がしだいに形成されていくことになります。
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