《1周年記念特別企画》  光秀=天海ストーリー(1)
このストーリーは、掲示板に投稿された光慶さんの作品です。本能寺の変後、山崎の戦に敗れた光秀が、坂本を目指すものの比叡山に来たところで、すでに炎上。比叡山で、天海とすりかわるという大胆な推理ですが、非常にありうる設定になっています。もしかして、これが史実かも?と思わせる作品です。しかも、最後の最後には驚愕の事実が・・・。
誕 生 の 章
「殿、明朝には、羽柴軍も総攻撃をかけてきましょう。もはや、この城では持ちこたえる事できませぬ。なにとぞ、坂本に逃れて再起下され!!」
「勝兵衛、もう良いのじゃ。儂の謀は破れた。この上は、潔く戦って自害してこそ、武士の本望と言うもの・・・。」
「何を申されます!! 万が一、御自害あそばすにしても、殿が英知の限りを尽くして築城された坂本城においてなさるべきでござる。それに、殿の理想は、この戦乱の世を収める事ではございませぬか。そして、それが出来るのは、殿をおいて他にはないと信じたればこそ、我ら家臣一同、殿に全てを賭けてまいりました。どのような事がありましても、殿には生き延びて頂かなければなりませぬ!!」
「それは、判っておる。しかし、儂が落ち延びようとする事は、羽柴軍とて百も承知の事、今となっては、落ち延びる事こそ、至難の技と言うものじゃ・・・」
「全ては、この勝兵衛にお任せあれ。命に代えましても、必ずや殿を坂本まで逃してご覧にいれ申す」
「・・・判った。万事そなたに任せる」
ひそかに勝龍寺城を抜け出し、連合軍の包囲網を抜た光秀一行は、伏見に至った。
「殿、ここで少々お待ちを・・・」
しばらくすると、勝兵衛は風呂敷包みと旅傘を持って現れ、
「これ以降は鎧は目立ちまする。これにお着替え下され」
と言って、風呂敷包みを手渡した。中には、商人の装束が一式・・・。
光秀の脳裏に嫌な予感がよぎった。
「勝兵衛、これはどこより調達した」
「はっ。それがしの旧知の商人が近くに住んでおりましたゆえ、その者に借り申した」
もちろん、伏見に勝兵衛の旧知など居るはずもなく、商家に押し込んだのであるが、その事を言えば、光秀は嫌悪するかも知れない。それを気遣った勝兵衛の咄嗟の嘘である。
「・・・ならば良い」光秀は、その装束に着替え始めた。
「殿は、その姿で京の街から叡山を抜けて、坂本を目指して下され。それがしらは、囮として、大津方面から坂本を目指しまする」
「勝兵衛、死ぬなよ・・・」
分かれた勝兵衛は、小栗栖で光秀の影武者を刺殺し、探索の目を晦ませた。光秀は、予定通り京の街を抜け叡山に向かったが、急ぎすぎれば怪しまれるため、その速度は、極めて遅く、叡山に到着したのは15日の、日も傾く頃であった。
「遅かったか・・・」
そこで、光秀が目にしたものは、炎上する坂本の城であった・・・。
光秀は、自害する事も考えたが、「こうして叡山に上ったのも、神仏の導きによるものかも知れぬ」と考え直し、自らの愚策の犠牲になった者の供養をするため、叡山にて出家する事を決意した。
光秀は、かつて信長の命により、叡山の焼討ちに参戦したが、僧兵を討ちはしたものの、本当に修行している僧は、密かに逃がしていた。
そして、その後の叡山復興にも尽力をつくしていたので、叡山には光秀に好意を持つ知り合いが多く、今回も光秀を快く迎え入れてたくれた。
しかし、万が一にも匿っている事が知れれば、叡山とてただでは済まない。
相手は、叡山焼討ちの時に躍起になって、無差別に僧侶を惨殺した秀吉なのである。
ちょうど、その頃、叡山内に南海坊天海と名乗る修行僧が、死の淵にいた。
放浪していた頃の光秀と、旧知であった天海は、光秀を枕元に招くと、
「病床ゆえ、このままで失礼します。あなた様と私は、年恰好も非常に似ていますし、私の死後は、私の名前を名乗って、姿を隠しなさいませ・・・」
「何をおっしゃる・・・。お気を確かにお持ちなされ」
「いや。私の余命が、いくばくもない事は私自身が、一番良く判っております。この叡山と、叡山を庇護して下さった、あなた様にご恩返しが出来る事を私は嬉しく思います。また、この時にこの場所で、あなた様と再会できましたのも、御仏の御導きと言うものでございましょう」
「天海殿・・・。判り申した。ご好意、有難く頂戴いたします。」

その後、光秀は天海の身の回りの世話を行い、天海は自分の略歴を光秀に語った。
そして2週間後、光秀に看取られて、天海は他界し、遺体は密葬にされた。
ここに、「病気による、できもののため」と称して顔を覆面で隠した、光秀が扮する新生・南海坊天海が誕生した。

<誕生の章・完>
再 会 の 章
時は流れて、天下は秀吉の元に収束していた。

秀吉は、もはや光秀の生死などは、天下取りの障害にならないと考えたのか、旧織田領を平定した頃には、すでに探索する事を止めていて、多忙を極めた、光秀時代には考えられないような、自らの行動が元で命を落した家臣や家族の菩提を弔う平穏な日々が、天海に訪れていた。

そんなある日・・・

「どこの家のものじゃ!」
天海にそう問われて、近づいて来た僧侶は驚いて足を止めた。
「は? 何かございましたか?」
「隠さずとも良い。その程度の変装では誰も騙せぬぞ」
「・・・。さすがは天海殿、いや光秀殿。申される通り、それがしは徳川家の者にございます。家康様が、是非にお会い致したいとの事でございます」
「お断り申し上げる。私は、旧知の者を弔う天海と申す僧。もはや天下の事に関わり合うつもりはございませぬ、と家康殿にお伝え下され」
「・・・・」
生存の噂を聞いた時から、家康は自らの帷幄に招き入れるべく、光秀の事を探しまわっていたのだ。その後も、何度も家康からの使者が訪れたが、結果は同じであった。

天海は、茶の湯の指導をして頂きたいと、京の商人宅に招かれていた。
茶室に入って亭主を見た時に、天海は思わず声を上げた。
「こ、これは・・・。」
「光秀殿、お久しぶりでございますな」
亭主として座っていたのは、家康だったのである。
「その名は、すでに捨て申した。今は天海と申します。お間違えのなきように」
「もはや、世に出る気はござらぬ・・・、と言う事でござろうか?」
「左様、旧知の者の菩提を弔って生きるが、私の使命でござる」
「名前を捨てた以上、過去の事もすべて忘れてしまいませぬか? 光・・・いや、天海殿。記憶から消し去ってこそ、新しい道が開けると言うものではございますまいか?」
「記憶から消して・・・か。確かに悪くはない。しかしのう、良いも悪いも、すべてがそれがしの記憶じゃ。一生それを背負って生きていく事もまた必要なものでござる」
「ならば、ならばこそ、昔の理想を思い出して下され」
「それがしの夢は、天下泰平の世の中。そして、今は太閤の治世で世の中は治まっている。無理に乱を起こす事はあるまい」
「それは、それがしも考えておりまする。考えておればこそ、大人しく太閤に従っております。しかし、もう太閤も長くはございません」
秀吉が病気だと言う事は、聞いてはいたが、天海はそれほどとは思っていなかった。
「現状で、太閤がなくなれば、文官と武官が争うは必定。天下は再び乱れましょう。その時に、それがしのお力になって頂きたい」
「・・・・・」
その時、表に人の気配を感じた。
「失礼致します・・・」
家康は、立ち上ると客を招き入れた。客の顔を見た瞬間、天海は息を呑んだ。
「た、たま・・・」
「お、お父様・・・。生きて、生きておられたのでね・・・」
気丈なたまの目に、涙が浮かんでいた。
「少々、席を外しますかな」
そう言うと、家康は気を利かせて部屋の外へと出ていった。

しばらくの間は、お互いに無言で見つめあい、再会の喜びを噛締めていた。
「・・・苦労をかけたな」
「そのような事・・・」
「恙無く暮らしておったか?」
「はい。なぜ・・・、なぜ何も連絡してくださらなかったのですか?いままで、どのようにしていたのですか?」
「連絡を取れば、そなたにも迷惑がかかろう。儂は山崎の敗戦後、坂本に向かったが、すでに落城後であった。そこで過去を捨てて、叡山で出家し天海と名乗り、戦死した一族・家臣を弔って生きていく事にした」
「では、なぜ家康殿と??」
「たびたび招かれてはいたが、天海と名乗って以来、家康殿と会ったのは、今日が初めてじゃ」
しばらくは、今までの消息や現状、今回は家康殿に招かれただけで、再会があるとは知らなかった、などの話しが続いた。

「家康殿の元で、お働きになるのですね?」
「いや、それはせぬ。すでに出家した身なれば、世に出るを好まぬ」
「お父様は、嘘をついておられます」
「なに! 嘘とな?」
「そうです。心に嘘をついておられます。お父様は、武人であると同時に、大きな理想を持つ優れた治世家でもございました。そのお父様が故人を弔うだけで満足できるとは思いません。お聞きしますが、なぜ坂本城の落城を知った時に、ご自害なさらなかったのでございましょう。それは、心の中で、再起を果す決意をなさったからではございませぬか?」
「・・・・」
自分以上に、心の中を見抜いているたまの言葉に一瞬、絶句してしまった。
「いや、それは違う・・・。もう良い、儂が決めた事じゃ何も申すな」
「お父様が、それで良いとお思いならば、たまは何も申しません」
たまは少し怒ったようにそう言うと、黙ってしまった。
そこに家康が戻ってきて、茶を一服してそれぞれに分かれていった。

立派に育ったものだ。
娘の成長を喜びながらも、たまの言った「心の中で、再起を果す決意をなさったからではございませぬか?」と言う言葉が、叡山へ帰る途中の天海の頭の中で何度も繰り返されていた。

それから、数年が過ぎ慶長5年、関ヶ原の戦いに先だって、石田三成が家康に従軍した武将の妻女を人質に取ろうとした際に、夫である細川忠興の負担になる事を怖れたたまは、何の迷いも無く自害(キリシタンに自害は許されないので、家臣に斬ってもらう)する。

「ちりぬべき、時知りてこそ、世の中の
              花は花なれ、人も人なれ」

たまの辞世を伝え聞いた天海は、たまが最後まで自分の事を思い「再起を果さないのなら、自害すべきだったのではないか」と問いかけているように感ていた・・・。

<再会の章・完>
光 影 の 章
関ヶ原の合戦後の論功行賞により、徳川家の力はますます強くなり、家康が征夷大将軍に任命される事で、徳川家が天下を治める事を明確にようとしていた。
しかし、一方で大阪城には巻返しをはかろうとする豊臣家があり、天下は予断を許さない状況であった。

「大御所様、天海と申す僧が来ておりますが、いかがはからいましょうか?」
「なに、天海殿が・・・。すぐに通せ、丁重にだぞ!!」
「ははっ」
伝奏の者は、門番の「乞食坊主」との報告と、家康の態度のギャップに戸惑いながらも、天海を案内すべく、部屋を出ていった。

「家康殿には、ご機嫌麗しく・・・」
「天海殿、ようこそおいで下されました。皆の者、人払いじゃ」
家臣が下がったのを確認して、天海は話始めた。
「天下泰平の為に、それがしも微力ながら、お手伝いいたしたく、まかりこしました」
「ついにご決意いただけましたか・・・かたじけない」
「して、天海殿は現状をどのように分析しておりまするか?」
「まず、問題になるのは、豊臣家でござろう。今は、家康殿のご威光で、治まっておりますが、家康殿が亡くなるか、あるいは徳川不利と見れば、豊臣側に着く者も多数おりましょう。続いて、徳川家の継嗣問題でございますが、秀忠殿に将軍職を譲り、将軍職は徳川家が世襲する事を示したまでは、よろしゅうございましたが、秀康殿を差し置いたのは、後世に災いの種を残しましょう」
「う〜む。それがしの存念と一致いたしておりますな。しかれども、その対策がなかなか難しゅうござる。何かございませぬかの?」
「豊臣家に対しては、家康殿がご存命中に、他の大名同様に徳川家に臣従させるか、滅亡させねばなりますまい」
「じゃが、豊臣家は大名家ではないなどと言って、臣従を拒んでおりまするが・・・」
「豊臣家は関白・太閤の家、つまりは公家だと申すのであれば、幕府が公家を牛耳ればよろしい事ではございませぬか?更に申せば、天皇家とも姻戚関係を結ぶべきかと存じます」
「な、なんと・・・。光秀殿のお言葉も思えませぬ・・・」
家康は、驚きのあまり、光秀と呼んでいた。
「天下を治められのは、家康殿をおいて他には見当たりませぬ。もし徳川が滅びれば、再び乱世に戻り、多くの民が塗炭の苦しみを負う事になる。そのような事をそれがしは望まぬし、そうならぬ為には、どのような事でも献策致します。ただ、天皇家を滅ぼす事だけは、何があっても許す気はござらぬがの・・・」
「姻戚関係ならば、よろしいと?」
「左様でござる。過去の歴史を鑑みても、藤原氏・平氏などは天皇家との姻戚関係によりその力を強くしておりますれば、今更、なんの問題もございませぬ。」
「あい判った。では、次の継嗣の問題でござるが、秀忠ではまずかったともうされるか?」
「いや、そうは申さぬ。治世においては秀忠殿の才は、なかなかのものでございますればそれはそれでよろしいのでござる。しかれども、長子が家を継ぐことを明確にしておらねば、後世にお家騒動のもとになると言うもの」
「では、どのようにすれば良いと申されるか?」
「秀忠殿に次男を可愛がるように、お申しつけくだされ。そして、周囲の人間が次男こそが世継ぎと思った頃を見計って、長男にのみ世継ぎの資格があると明言して、長男に将軍職を譲れば、誰もが今後は長男が世襲するものと、認める事となりましょう」
「しかし、それでは秀忠の次男は苦渋を嘗める事になりはせぬか・・・?」
「天下泰平の為には、致し方ありますまい。それに、秀康殿の事を思えば、その程度の事は、些事にすぎませぬ」
「・・・あい判った」
家康との会談は、実に4時間にも及んでいた。

再三の説得工作にも関わらず、豊臣家は臣従の意向を示さなかった。
「いかがしたものかの?」
「もはや、開戦しかございますまい」
「うむ。口実はいかが致す? 下手をすれば豊臣に着くものの出てこよう」
「口実は、お任せあれ。豊臣に着きそうな大名は、江戸の警備と称して呼び出し、江戸城に軟禁なさるがよろしかろう」
大阪冬の陣・夏の陣を経て、豊臣家は滅亡する。
「遺恨など、もっておらぬはずじゃったが・・・」
炎上する大阪城に坂本城を重ね見てつぶやいていた天海の頬に、一族が滅亡した時には流さなかった涙が流れていた。

<光影の章・完>
終 焉 の 章
少々話しは遡り、大阪の陣の前年・・・。

「さて、天海殿。貴殿もいつまでの無宿坊主と言う訳にも、参りますまい。寺領を差し上げたいと思うておるが、どこか希望はござるか?」
「は、さすれば、日光山光明院の一帯を頂きとうございます」
「ほう、日光でござるか? 何か理由でもござるのか?」
「それがしの、昔の名前にちなんででございます」
「光明・・・か」
「更には、近くに明智平と申す所もございますれば、弔いにもなりましょう」
「あい判った。今後は光明院の一帯は、天海殿の寺領といたす」
「ありがたき幸せ・・・」
天海が日光を選んだ訳には、更に深い理由があったのであるが、その事には、家康さえも気がつかなかった。

大阪の陣の翌年、死を目前にした家康は、天海と藤堂高虎を枕もとに呼び、
「今後の事をよろしく頼む。秀忠、家光を補佐してやってくれ」
「久能山の我が廟所に、遺体を西に向けて安置せよ」
(西の外様大名の方を向けよ。我が守るとの意)
と言い残すと、天下が治まったのを見定めるかのように、息を引取った。

家康の遺体は、一旦は久能山に納められたものの、日光に東照宮を作り上げると、天海は強引に、日光に移す事を主張し、ありとあらゆる手段をとり始めた。
事を憂いた、将軍・家光は天海を呼んで問いただした。
「世は、天海殿の事を頼りにしておるし、天海殿と家康公の仲も十分に存じておる」
「は、ありがたきお言葉。それがしも家康公のご恩を、忘れた事はございませぬ」
「では、なぜ家康公の御遺言を無視してまで、無理に家康公の御神像(体)を日光に移そうといたすのじゃ?」
「・・・大恩ある、徳川家の為にございまする」
「なに? 徳川家の為と申すか・・・。されど、世にはその意義がわからぬぞ」
「さればお聞きいたしまする。もし、西国大名が関東に攻め寄せてきて、久能山を落され、御神像を敵に奪われましたなら、我軍の士気はいかがなりましょうや?」
「な、なんと、西国にそのような動きがあると申すか!?」
「いえ、今ではございませぬ。数代後・・・いやもっと先かも知れませぬが、そのような事態が起りました場合に、我軍がどうなるか? と申しております」
「うむ、士気は低下するであろう・・・」
「さすれば、敵は難なく関東に侵入してきましょう。せっかくの箱根の険も相模川も無意味な物となりまする」
「では、なぜ日光なのじゃ? そちの寺領じゃからか?」
「それもございまするが、そもそも、それがしが日光を賜りましたのは、日光が要害の地である事に着目致したがゆえでございまする。西国より攻め寄せたる敵が箱根を超え、江戸城さえ落城させた際には、日光の地に引き篭もり再起を果せましょう。その時に、御神像があれば、士気はさらに高まると言うものでございます」
「そこまで、お考えでござったか・・・。あい判った。この件は将軍家の内密に致すゆえ他言は無用じゃ。その上で、日光へ移すように衆議を決して頂きたいのじゃができるか?」
「御意にございまする。更に申せば、信頼できる能力の高き人物を、会津に配置して頂きとうございます」
「日光への後詰めにするのじゃな?」
「ご明察にございます」
こうして、家康の御神像は、日光へと移される事となった。

しばらくして、天海は家光に拝謁した。
「会津におく者は、お決まりになりましたかな?」
「我が異母弟で、出羽山形の保科正之に致したいと考えておる」
「うむ・・・。もはや、それがしが、お教え致す事はございませぬな。はっはっはっ」

その年の10月、天海は輪王寺の本堂にて片あぐらをかいたまま、静かに息を引取った。
その姿は、なんの未練も無いような、穏やかなものであったと言う・・・。

<終焉の章・完>
<<後日談>>
家光は自らの墓所を、敬愛する天海が作り、尊敬する家康が眠る日光と定めたと言う。

時は、幕末まで移り、江戸城の無血開城後に旧幕臣の一部が、日光に立て篭もり、家康の御神像と共に戦おうとした所、東照宮の破壊を恐れた僧が、御神像を持ち出したために、旧幕臣は日光で戦う事の意義を失って、会津まで撤退したと言う。
要害である事に気がついたから、日光で戦おうとしたのか、要害と気がつかなかったがために、会津まで引いたのか・・・。また、完全恭順にて保身をした慶喜と言い、戦国の世は、遠くなっていたのであろう・・・。

<<後日談・完>>
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