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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 166
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■■ 今回は「犬養毅」を勉強します!
■■

三重:犬養死すとも自由は死せず〜♪。
佳代:何、それ?
三重:犬養毅が残した有名な言葉よ。
佳代:えっ、三重、何ボケているの、それって、板垣退助でしょ。
三重:えっ、えっ、そうだっけ・・・(汗)
藤原:犬養死すともか・・・、さすが三重ちゃんだ。
三重:あっ!先生・・・、こ、こんばんは・・・(大汗)
藤原:今日は、新しい語録でも作るつもりかい?
三重:い、いえ、あの、その、ただ間違えただけです(-。-;)
藤原:それじゃあ、普通に、犬養毅でいいんだね。
三重:は、はい、お願いします。
藤原:じゃあ、やるよ。犬養毅も、江戸時代の生まれだ。
佳代:そうなんですか?それは、意外ですね。
藤原:そうだね。五・一五事件で暗殺されたのは知っているよね。
三重:ハイ、そのぐらいは。
藤原:昭和の出来事だからね。どうしても、江戸生まれとは思えないけど、
   よくよく考えてみれば、明治と大正で60年弱だから、江戸時代の末期
   に生まれた人は、この時期に生きていてもおかしくないよね。
三重:そうですね。明治、大正、昭和とあると、ものすごく長いような気が
   します。
藤原:うん。でも、江戸末期に生まれて、昭和のはじめまで活躍した人は、
   いっぱいいるよ。
佳代:そうですね。これまでもいました。
藤原:それじゃあ、簡単に、彼の人生を振り返ってみよう。
佳代:生まれはどこなのですか?
藤原:備中国(びっちゅうのくに)だ。
三重:備中というと、今の岡山県ですね。
藤原:そう、よく知っているね。
三重:ハイ。佳代と二人で、旧国名を覚えました。地理は得意ですから。
藤原:そうだったね。旧国名を覚えておくと、地理にも歴史にも役立つよ。
   がんばって覚えてね。
三重:大丈夫です。ほぼ覚えました。
藤原:よろしい。そして、彼は、明治になってから上京し、慶応義塾に入学
   した。
三重:慶応なんですか?小泉さんの先輩ですね。
藤原:うん。そして、郵便報知新聞に入社し、西南戦争のときは、記者とし
   て九州にいったんだ。
佳代:えっ、新聞記者として、西南戦争を取材したのですか?
藤原:そう。
佳代:それは初めて知りました。当時も取材なんてものがあったのですね。
藤原:そうだね。形は、随分違うと思うけどね。
佳代:その後はどうしたのですか?
藤原:うん、慶応を中退して、今度は、東海経済新報を発刊して、本格的な
   記者としてスタートしたのだけど、やがて、福沢諭吉の推薦で役人に
   なることになる。
三重:役人ですか・・・。
藤原:そうだね。しかし、大隈重信が追放されるという政変が起きたとき、
   彼も役人を辞めることになる。
佳代:それで、尾崎行雄と同じ道を歩くわけですね。
藤原:そのとおり。大隈重信が結成した立憲改進党に参加し、以後、藩閥政
   治を批判した。そして、第1回の衆議院選挙に当選した。
佳代:本当に尾崎行雄みたいですね。
藤原:うん、前回勉強した尾崎行雄と同じように、護憲運動の先頭に立って、
   やはり、憲政の神様と呼ばれることになる。
三重:すごいですね。神様が二人(^^)。
藤原:後に、もう一度護憲運動が起きる。そして、選挙で勝ち、加藤高明を
   首相とした内閣を作って、普通選挙法を成立させ、犬養は、引退する。
佳代:えっ、もう引退ですか?それじゃあ、何故、五・一五事件で殺された
   のですか?
藤原:それはね、引退したけど、復活したから。
三重:あっ、そうか。引退、引退っていって、何度も復活する人がいますよ
   ね。
藤原:そうだね。今でも、そういう人もいるだろう。復活した彼は、満州事
   変の責任を取って辞任した若槻礼次郎内閣の後をついで首相となる。
佳代:満州事変が起きた後なのですね。
藤原:そういうこと。しかし、彼も、軍部を抑えることができなかった。そ
   して、運命の五・一五事件が起きるのだ。
三重:そこで、犬養死すとも・・・じゃなくて、何か言ったのですね。
佳代:三重、「話せばわかる」って言ったのよ。
三重:あっ、思い出しました。「話せばわかる」ですね。
藤原:そう。でも、「問答無用」とばかり銃弾を打ち込んだ。即死ではなか
   ったが、力尽きて死んだ。77歳だった。
三重:ものすごい人生だったのですね。
藤原:そうだね。この事件により、加藤高明内閣から8年間続いてきた政党
   政治が終わり、軍部が力をつけていくことになるというわけだ。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。

□□
□□ 人物データファイル
□□

・人物名:犬養毅(いぬかいつよし)
・時 代:江戸〜昭和時代(1855〜1932年)
・性 別:男
・地 位:首相
・業 績:護憲運動の先頭に立つ
・その他:尾崎行雄とともに憲政の神様と呼ばれる
     五・一五事件で殺される


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 167
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■■
■■ 今回は「吉野作造」を勉強します!
■■

三重:吉野作造といえば民本主義、民本主義といえば吉野作造・・・。
佳代:三重、何ブツブツ言っているの?
三重:あのさ〜、吉野作造って、民本主義以外のことは、何も知らないなと
   思って。
佳代:そう言えばそうね。吉野作造は、民本主義を唱え、大正デモクラシー
   の理論的指導者であったことぐらいしか、聞いたことがないわ。
藤原:おう、佳代ちゃんでも知らないのかい?
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:吉野作造は、けっこう、面白い人物だよ。
三重:そうなんですか?それじゃあ、今日は、吉野作造をお願いします。
藤原:わかったよ。まず、何で、民主主義といわないで、民本主義と言った
   のだろう?
佳代:それは、確か、天皇に気兼ねしてということだと思います。
藤原:そのとおり。作造は、デモクラシーを民主主義と訳さず、民本主義と
   約した。これは、明治憲法で、主権は天皇にあったので、主権が国民
   にあるという印象を与える民主主義という言葉を使わなかったものと
   思われる。
三重:そうだったのですか?わたしは、てっきり、違うものだと思っていま
   した。
藤原:そうだね。違うといえば違うかもしれないけど、デモクラシーの訳語
   であることには違いない。作造は、天皇制は否定せず、政治の根本を
   国民にという考えで、民本主義という言葉を使った。
佳代:優秀な人だったのですか?
藤原:もちろん、メチャ優秀ってとこかな。何といっても、高校でも、東大
   でも主席という秀才だった。
三重:えっ、東大で一番ですか!
藤原:そう。もともと宮城県の出身だった作造は、仙台の高校を主席で卒業
   し、東京大学でも一番で卒業したといわれている。そして、驚くこと
   には、あの袁世凱の子供の家庭教師もしている。
佳代:えっ、袁世凱ですか!中国の大総統の!
藤原:そう。まだ、中華民国ができる前の清の時代のことだけどね。当時、
   軍部の有力者だった袁世凱の子供の家庭教師をしたり、中国の学校で
   教鞭をとったりもしていたんだ。
三重:それは、すごいですね。イメージが変わりました。
藤原:うん。そして、作造は、雑誌中央公論に、普通選挙と言論の自由に基
   づいた民意による政党政治の必要性を説いた。
佳代:う〜ん、中国に渡ったと思ったら、ヨーロッパの思想ですか?幅が広
   い人間だったのですね。
藤原:たぶんね。そして、この理論が、大正デモクラシーの運動に多大な影
   響を与えることになる。
三重:なるほど、民本主義といえば吉野作造だけじゃダメですね。
藤原:そうだね。試験対策だけだったら、それでもいいと思うけど。
佳代:他に、何か実績はないのですか?
藤原:うん、彼の実績としては、明治文化を研究したことがあげられる。
三重:明治の文化ですか?
藤原:そう。明治文化研究会を作って、明治文化に及ぼした西洋文化の影響
   などを研究したんだ。そして、明治文化全集24巻を完成させた。
佳代:それも、すごいですね。
藤原:そうだね。どちらにしても、彼の影響は、はかりしれなかったものと
   思われる。しかし、デモクラシーの流れは、断ち切られ、軍部が主導
   権を握っていく時代になる。
三重:それに対してどうしたのですか?
藤原:うん、作造は、議会政治を守ることや大陸侵略に対する批判をしたけ
   ど、残念なことに、持病が悪化し、1933年に死んだ。
佳代:本当に、政党政治が終わり、日本が国際的に孤立していった時期です
   ね。
藤原:そう。前年に五・一五事件があって、政党政治が頓挫し、国際連盟か
   ら脱退した年に死んだことになる。もし、生きていれば、違った展開
   もあったかもしれない。そういう意味では、運命的なものを感じるね。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
□□

・人物名:吉野作造(よしのさくぞう)
・時 代:明治〜昭和時代(1878〜1933年)
・性 別:男
・地 位:東京大学教授など
・業 績:民本主義を主張、大正デモクラシーの理論的指導者
・その他:明治文化の研究に力を入れる


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 168
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■■
■■ 今回は「原敬」を勉強します!
■■

三重:米騒動、原敬、米騒動、原敬・・・。
佳代:三重、何ブツブツ言っているの。
三重:あっ、佳代。順番を覚えているのよ。ややこしいから。
佳代:ああ、1918年の出来事ね。
三重:そうよ。米騒動の後に成立したのが原敬内閣。
藤原:おう、やってるね。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:第一次世界大戦中の出来事だね。
三重:そうなんです。でも、ものすごく、くっついているんで。
藤原:そうだね。まず、米騒動が起きて、寺内内閣が倒れ、原敬内閣が成立
   するんだね。その直後に第一次世界大戦が終わる。
佳代:本当に込み入っていますね。
藤原:うん。その辺の流れは問われることが多いから、しっかり把握してお
   こう。
三重:わかりました。それじゃあ、今日は、原敬をお願いします。
藤原:わかったよ。まず、彼は、東北地方の出身だ。
三重:東北ですか?
藤原:そう、今の岩手県だね。彼が生まれたのも江戸時代で、南部藩の家老
   の子だ。
佳代:家老の子なのですか?
藤原:うん、でも、9歳のときに父が病死し、戊辰戦争では、旧幕府側につ
   いたため、南部藩はひどい処分を受けることになる。
三重:それはたいへんでしたね。
藤原:そうだね。当時の悔しさを一生秘めていたみたいだ。実際、司法省法
   学校にいたとき、薩摩藩出身の校長をやめさせる運動の中心者になっ
   て退学処分を受けている。
佳代:なるほど、藩閥政治に反対していたのですね。
藤原:そうだろうね。その後は、郵便報知新聞の記者になり、フランスの新
   聞の翻訳をしたりしていた。
三重:えっ、原敬ってフランス語ができるのですか?
藤原:うん。前にフランス人の経営する神学校で学んだことがあったからね。
佳代:そうだったんですか?ちょっとイメージが違います。
藤原:やがて、外務省に入り、中国やフランスに勤務した。そして、あの陸
   奥宗光に力を認められたんだ。
三重:陸奥宗光ですか。
藤原:そう。でも、宗光が死ぬと、外務省を辞め、大阪の毎日新聞社に入る
   ことになる。
佳代:当時の人は、役所に入ったり辞めたりが多いですね。
藤原:そうだね。そして、社長にまでなったが、1900年に伊藤博文が立憲政
   友会を結成すると社長を辞めて、これに参加する。そして、衆議院議
   員に当選し、政治家としての道を歩くことになる。
三重:そして、総理大臣までのぼりつめることになるのですね。
藤原:そういうこと。最初の方で言ったように、米騒動の責任を取って総辞
   職した寺内内閣の後を受けて内閣を組織した。そして、その内閣は、
   陸軍、海軍、外務大臣以外は、すべて政友会の党員から選んだ本格的
   な政党内閣だった。
佳代:原敬は、平民宰相としても有名ですね。
藤原:そうだね。でも、彼は、けっして身分が低かったわけではない。南部
   藩の家老の子だからね。でも、南部藩が負けたため、平民に落とされ
   ていたということだ。ただ、薩長でもないし、公家でものなかったの
   で、国民からの人気は高かったらしいよ。
佳代:でも、最後は暗殺されます。
藤原:うん。機運の高まっていた普通選挙に反対して、資格を少し広げたに
   とどまり、増税などをしたことから人気が落ちていった。
三重:つまり、期待はずれだったということですか。
藤原:そういうこと。期待が大きかっただけにね。そして、最後は、19歳の
   鉄道員に東京駅で刺殺された。でも、本格的な政党内閣を作ったとい
   う意義は大きかったと思うよ。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。

□□
□□ 人物データファイル
□□

・人物名:原敬(はらたかし)
・時 代:江戸〜大正時代(1856〜1921年)
・性 別:男
・地 位:内閣総理大臣
・業 績:はじめての本格的な政党内閣を組織。
・その他:初の平民出身の総理大臣。


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 169
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■■ 今回は「湯川秀樹」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。田中さんって、すごくいいよね。
佳代:ああ、ノーベル賞を取った田中耕一さんね。
三重:そう。ノーベル賞のイメージが変わったわ。
佳代:本当ね。年も若いし。
藤原:おう、今日は、ノーベル賞の話かい?
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:田中さんは、本当に大人気だねぇ。
三重:ホントです。あのキャラクターは、最近にありません。
藤原:うん、それじゃあ、今日は、その田中さんよりも若くしてノーベル賞
   を取った人を勉強しようか?
三重:あっ、湯川秀樹ですね。お願いします。
藤原:それじゃあ、はじめよう。まず、湯川秀樹は、日本で最初のノーベル
   賞受賞者である。
佳代:もちろん知っています。しかも、戦後、すぐです。
藤原:そう、まだ日本が占領されていた、1949年のことだ。
三重:えっ、サンフランシスコ平和条約を結ぶ前ですか?
藤原:そうなんだ。日本が、サンフランシスコ平和条約を結んで独立を回復
   したのが、2年後の1951年。だから、敗戦に打ちひしがれていたころ
   なんだ。
佳代:すると、国民に大きな勇気を与えたんですね。
藤原:もちろんだ。大きな戦いに敗れ、明日をも知れぬ時代だったからね。
三重:湯川秀樹も、田中さんと同じ物理学賞でしたね。
佳代:何言っているの、三重、田中さんは、化学賞でしょ。
三重:あれっ、そうだっけ???
藤原:そうだね。物理学賞は、小柴さんだ。
三重:えっ、何が何だか・・・。まとめると、湯川博士と小柴博士が物理学
   賞で、田中さんが化学賞ということですね。
藤原:そういうこと。話を湯川秀樹に戻すよ。彼の家は、学者一家だった。
佳代:確か、父も兄弟も有名な学者だったのですよね。
藤原:うん。父は、地理学者。東洋史で有名な貝塚茂樹も兄弟だ。
三重:そうなんですか。それは、すごいですね。でも、兄弟で、何で苗字が
   違うのですか?
藤原:そうだね。もともとは、小川という名前だったんだ。だけど、結婚し
   て、湯川になったというわけ。貝塚さんも同じだよ。
三重:そうなんですか。ところで、湯川博士は、何をした人ですか?
藤原:うん、これは、難しい問題だけど、いわゆる「中間子理論」の研究と
   いうことかな。
三重:中間子ですか?
藤原:かなり難しいから、どうしても勉強したかったら、大学でやってね。
佳代:確か、原子の中の問題でしたね。
藤原:そう。その辺は、興味のある人は、インターネットなどで調べよう。
   それから、湯川博士には、もう1つの顔がある。
三重:もう1つの顔?
藤原:うん、世界平和の推進者という顔だ。
佳代:あっ、聞いたことがあります。核兵器反対などを唱えたのですね。
藤原:そう。世界平和をアピールする運動に積極的に参加した。また、世界
   連邦を作って、永久の平和を実現しようとする、世界連邦世界協会の
   会長にまでなった。
三重:戦争の悲惨さを知り尽くしていたんですね。
藤原:うん。最初に言ったように、占領下の時代に取ったノーベル賞だから、
   戦争の時代を実感していたはずだ。物理学者という顔だけでなく、世
   界平和を本当に祈願したという顔も忘れてはならないだろう。
佳代:わかりました。先生、今日は、ありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
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・人物名:湯川秀樹(ゆかわひでき)
・時 代:明治〜昭和時代(1907〜1981年)
・性 別:男
・地 位:物理学者
・業 績:中間子理論によりノーベル物理学賞を受賞
・その他:世界連邦世界協会の会長として平和運動を推進


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 170
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■■ 今回は「吉田茂」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。この前、吉田茂の孫って人が出ていたよ。
佳代:ああ、政治家ね。えーっと、誰だっけ?
藤原:麻生さんのことかい?
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:自民党の麻生政調会長のことだね。
三重:あっ、そうです。たぶん。
佳代:三重、何、おやじギャク言っているの。
三重:えっ、あっそうか、別にギャクのつもりじゃ・・・。
藤原:まあ、おやじギャクは、その辺にして、吉田茂を勉強しよう。
三重:ハイ、お願いします。
藤原:まず、吉田茂というと何を連想するかな。
三重:もちろん、バカヤローです。
藤原:おう、有名な「バカヤロー解散」だね。
三重:ハイ。性格がわかります。
佳代:わたしは、サンフランシスコ講和条約かな。
藤原:おう、それも大事だね。とりあえず、吉田茂の半生を見てみよう。ま
   ず、彼は、東京に生まれた。
三重:東京ということは、江戸時代じゃないということですね。
藤原:うん。明治に入っている。1878年生まれというから、西南戦争も終わ
   っている。
佳代:そうですね。西南戦争が、1877年ですから、翌年ですね。
藤原:そういうこと。彼は、旧土佐藩の武士の子として生まれたのだけど、
   3歳のときに、吉田家の養子になった。
三重:そうなんですか。
藤原:うん。そして、東京大学を卒業し、外務省に入った。
三重:今、話題の外務省ですね。
藤原:そうだね。今も、たいへんな事態になっているけど、この頃は、その
   比ではない。
佳代:そうですね。戦争戦争の時代ですから。
藤原:そうなんだ。そういう時こそ、外交は、大切になってくる。彼は、中
   国で勤めた後、イタリアやイギリスの大使にもなっている。でも、し
   ばしば軍部と対立して、外務省を辞めることになる。
三重:軍部相手に、バカヤローって言ったのですかね。
藤原:かもね。それだけ気骨のある人ということだろう。
佳代:その後は、どうなったのですか?
藤原:うん。彼は、もともとイギリスやアメリカとの協調を説いていた。そ
   して、太平洋戦争がはじまると、近衛文麿に近づいて戦争を終わらせ
   ようと努力した。
佳代:それは、すごいですね。当時、そんなことを言ったらたいへんなこと
   になったと思いますが。
藤原:そうだね。軍部には、にらまれていたようだ。しかし、戦争に負け、
   マッカーサーがやってきて、戦後処理するときに彼が必要になった。
三重:なるほど、そういうことですか。それで、戦後の大改革の中心にもな
   ったのですね。
藤原:そうだね。GHQの命令に従って民主化を進めた。あの時期に、きち
   んと仕事をしたことが、日本の奇跡的な復興につながる要因になった
   ことは間違いがないことだ。
佳代:そして、サンフランシスコ平和条約を結んで、日本は独立することに
   なるわけですね。
藤原:そう。この会議で平和条約に調印し、同時に、アメリカと日米安全保
   障条約を結んだ。現在でも賛否両論はあると思うけど、結果的には、
   正しい判断だったと思う。
佳代:ある意味では、瀕死の日本を救った救世主とも言えるわけですね。
藤原:そう思うよ。だから、彼が死んだとき、国葬が行われた。もちろん、
   戦後、国葬が行われたのは初めてで、以後もない。いろいろなエピソ
   ードを残した人だけど、その功績は、高く評価してもいいと思う。
佳代:わかりました。先生、今日は、ありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
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・人物名:吉田茂(よしだしげる)
・時 代:明治〜昭和時代(1878〜1967年)
・性 別:男
・地 位:内閣総理大臣
・業 績:サンフランシスコ平和条約を調印
・その他:戦後の民主化政策を実行


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