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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 156
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■■
■■ 今回は「北里柴三郎」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。北里柴三郎って、ゴッホと一緒に研究したんだよね。
佳代:ゴッホ?何言っているの、ゴッホじゃなくて、コッホよ。
三重:え!ゴッホじゃないの?
佳代:ゴッホは、画家でしょ。
藤原:ゴホン。
三重:あっ、先生、こんばんは。風邪でも引いたのですか?
藤原:いや。ちょっとむせただけだよ。三重ちゃんが、あまりボケたこと
   を言うから。
佳代:違うでしょ。先生、ゴッホって、言ったつもりじゃなかったのです
   か?
三重:あっ、そうか。寒〜。
藤原:まあ、それは、いいとして、今日は、北里柴三郎かい?
三重:ハイ。お願いします。
藤原:それじゃあ、簡単に経歴を見てみよう。柴三郎は、肥後の国、つま
   り、熊本県で生まれた。
佳代:江戸時代だったのですね。
藤原:そう。生まれたのは、ペリーが来る1年前だね。
三重:そうなんですか。すっかり、明治以降の人だと思っていました。
藤原:うん。そんな印象はあるかもしれないね。でも、実際は、江戸時代
   に生まれて、最初藩校で学び、後に、熊本医学校で学ぶことになる。
佳代:すると、後に東京に出てきたのですね。
藤原:そういうこと。彼は、熊本で、オランダ人医師のマンスフェルトの
   教えを受けていた。そして、マンスフェルトがやめると、熊本医学
   校を中退して、東京医学校に移ったんだ。
三重:それから、ドイツにいくわけですか?
藤原:そうだね。柴三郎は、東京医学校卒業後、内務省の衛生局に勤める
   ようになったんだけど、そのころ、長崎でコレラが流行っていたん
   だ。
三重:コレラですか?
藤原:そう。恐ろしい病気だよね。彼は、人の嫌がる調査に進んで参加し、
   日本で最初にコレラ菌を発見したんだ。
三重:度胸がある人ですねぇ。
藤原:そうだね。その辺の活躍が認められて、ドイツへの留学が命ぜられ、
   有名な細菌学者コッホのもとで研究するようになったんだ。
佳代:なるほど、そして、そこで、破傷風の治療法を発見したのですね。
藤原:うん。さすがに、コッホも驚いた。そして、その功績をたたえた。
三重:すごいですねぇ。
藤原:そして、帰国後、彼は、政府に伝染病研究所を設立するように申し
   出たのだけど、なかなか、政府は動いてくれなかった。
三重:えっ、どうしてですか?
藤原:そうだね。たぶん、金がなかったのだろう(笑)。当時は、富国強兵
   にお金を使っていたから。でも、サポーターが現れた。
三重:サポーター?
藤原:そう。研究所設立を援助してくれる人が現れたんだ。誰だと思う?
佳代:えーっと、確か、福沢諭吉だったような・・・。
藤原:正解。福沢諭吉の援助で、伝染病研究所を設立し、所長に収まった。
   そして、野口英世や志賀潔など、多くの若い医学者が集まった。
佳代:日本の医学にとって、すごく大きなことだったのですね。
藤原:そういうこと。しかも、この研究所は、ドイツのコッホ研究所やフ
   ランスのパスツール研究所とともに、世界三大研究所と言われるよ
   うになったんだ。
三重:本当にすごいです。日本も捨てたもんじゃなかったのですね。
藤原:そうだね。でも、あまりにも有名になったこの研究所を政府は、東
   大医学部の付属にしようとした。それを機に、柴三郎も所長をやめ
   ることにした。
三重:えっ、どうしてですか?
藤原:やはり、学問の自由と独立を望んだのだろうね。そして、自分で、
   北里研究所を設立することになる。
佳代:さすがですね。
藤原:そうだね。そして、慶應義塾大学に医学部ができると、それまでの
   諭吉の好意に応えるために、医学部長を引き受け、学生の指導に当
   たった。
佳代:助けてもらった恩も忘れないのですね。
藤原:うん。そして、それが、日本の医学界の発展に大きく貢献したこと
   は言うまでもないだろう。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
□□

・人物名:北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)
・時 代:江戸〜昭和時代(1852〜1931年)
・性 別:男
・地 位:日本医師会初代会長
・業 績:破傷風の治療法の発見
・その他:北里研究所を設立


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 157
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■■
■■ 今回は「野口英世」を勉強します!
■■

三重:佳代〜、大変よ。
佳代:どうしたの、三重。
三重:夏目漱石が・・・。
佳代:夏目漱石?
三重:そうよ。夏目漱石が、野口五郎・・・じゃなくて、野口英世になっち
   ゃうのよ。
佳代:ああ、千円札の話ね。
三重:あれ、知っていたの?
佳代:まあね、さっき、聞いたばかりだけど。
藤原:野口英世をやる日に、お札になることが決まるとは奇遇だね。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:千円札は、伊藤博文から夏目漱石になったわけだけど、あれから、も
   う20年近く経つんだね。
三重:そうみたいです。変わるのは、2004年かららしいですが。
藤原:それじゃあ、それを記念して、野口英世をやろう。
三重:お願いします。
藤原:まず、前回、北里柴三郎のところでも出てきたように、英世は医者だ。
三重:知っています。確か、福島県生まれでしたね。
藤原:おお、よく知っているね。福島県の貧しい農家の家に生まれた。そし
   て、清作と名づけられた。
佳代:確か、小さい頃、ひどいやけどを負ったということですが。
藤原:そう。有名な話だよね。いろりの火で、左手の指が、5本ともくっつ
   いてしまったんだ。
三重:それは、たいへんですね。わたしも、指を一本骨折したことがありま
   すが、ものすごく不便でした。
藤原:そうだね。でも、先生や友達の援助もあって、手術を受け、動くよう
   になった。そして、これが、医学を目指す大きな動機なったんだ。
佳代:やはり、医学に対する感謝ということでしょうか?
藤原:そうだね。その後、医学の研究に身をささげることができたのも、こ
   の体験が大きなものをしめていると思われる。
三重:それで、医者になったのですね。
藤原:うん。彼は、東京に出て、働きながら、難しい医師開業試験に合格し
   た。しかし、彼は、医者よりも、研究者を目指した。
佳代:ははぁ〜ん、それで、北里柴三郎の研究所に入るのですね。
藤原:そういうこと。そして、細菌学の研究などをしていた。英世と名前を
   変えたのもこの頃だ。そして、運命的な出会いがあった。
三重:運命的出会いですか?
藤原:そう。その後、英世が死ぬまで援助したという、アメリカのフレクス
   ナー博士と出会ったのだ。
三重:どんな人なのですか?
藤原:彼は、後に、世界最大の医学研究所、ロックフェラー医学研究所の所
   長を務めることになる人物だ。フィリピンに行く途中に日本に立ち寄
   り、英世を知ることになる。
佳代:それで、英世もアメリカへと渡るわけですね。
藤原:そういうこと。まずは、博士が勤めていたペンシルベニア大学で助手
   をした。更に、デンマークに飛んで、毒蛇の毒の研究に取り組んだ。
三重:えっ、えっ、毒蛇ですか・・・。
藤原:そう。そして、その研究が認められ、アメリカのロックフェラー医学
   研究所に入所することになる。そこでは、梅毒菌、狂犬病、小児麻痺
   などの研究で業績をあげることになる。
三重:えっ、梅毒もですか・・・(赤面)。
藤原:うん。すごい人だろ。当然、ノーベル賞候補にも何度も上げられた。
   しかし、第一次世界大戦のため、4年間受賞者を出さなかったため、
   受賞することはできなかった。
佳代:そうなんですか?すると、その中断がなければ、受賞していたかもし
   れないのですね。
藤原:そうだね。実績を考えると、受賞してもおかしくなかった。もし、し
   ていたら、湯川秀樹博士より、ずっと早く受賞していたことになる。
三重:それは、残念でした。幻の第1号というところですね。
藤原:そういうこと。そして、英世は、猛烈に恐ろしい病気、黄熱病に取り
   組むことになる。
佳代:確か、アフリカに行ったのですね。
藤原:そうだね。英世は、現在のガーナのアクラへ行った。しかし、ここで、
   彼自身が黄熱病にかかってしまい、それが原因で死ぬことになる。
三重:それは、残念でした。もう少し、生きて、がんばってほしかったです。
藤原:そうだね。でも、真っ向から取り組んでいったからこそ、大きな業績
   をあげられたともいえる。そういう意味では、最後の最後まで医学に
   ささげた人生といえるだろう。
佳代:わかりました。先生、今日は、ありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
□□

・人物名:野口英世(のぐちひでよ)
・時 代:明治〜昭和時代(1876〜1928年)
・性 別:男
・地 位:研究医
・業 績:梅毒菌の研究、黄熱病の研究など


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 158
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■■
■■ 今回は「坪内逍遥」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。坪内逍遥って、ヘンな名前ね。
佳代:そうかなぁ。結構、格好いいと思うけど。
三重:そうかなぁ〜。しょうようねぇ、いったい、どんな意味なんだろ。
藤原:それはね。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:逍遥って言うのはね、気ままに歩くとか、そんな意味だよ。
三重:えっ、気ままにですか!それはいいですね。大好きです \(^_^)/
藤原:うん。人間、気ままが、一番だからね。それじゃあ、今日は、その
   気ままな人を勉強しよう。
三重:お願いします。
藤原:まず、逍遥は、1859年に生まれた。
佳代:すると、井伊直弼が、安政の大獄といわれる粛清をしていたころで
   すね。
藤原:そう。江戸時代だね。美濃の国、つまり、今の岐阜県で生まれて、
   名古屋で育った。
三重:やはり、武士の子だったのですか?
藤原:うん。下級武士だけどね。そして、名古屋の英語学校を卒業して、
   東京に出て、現在の東京大学に入る。
三重:えっ、東大ですか!
藤原:そう。そこで、政治や経済を学んでいたのだけど、だんだんイギリ
   スの文学に傾斜するようになった。
佳代:そうですよね。坪内逍遥といえば、文学者ですし。
藤原:そうなんだ。そして、卒業後は、現在の早稲田大学の講師になった。
佳代:ああ、それでですね。坪内逍遥といえば、何となく、早稲田という
   印象があります。
藤原:そうだね。後に早稲田文学という文学雑誌を創設することになるか
   らね。ただ、その前に、有名な小説「当世書生気質」や、入試にも
   よく出る、評論「小説神髄」を発表した。
三重:それなら、私でも知っています。
藤原:うん、彼は、この中で、写実主義を主張している。
三重:写実主義?
藤原:つまり、物事をありのままに見つめようということだ。
佳代:それまでは、どうだったのですか?
藤原:君たちも知っているだろうけど、江戸時代の文学は、善を勧めて、
   悪を懲らしめるという勧善懲悪に基づいたものが主流だったんだ。
   しかし、それをあらためようという主張なんだ。
三重:なるほど、確かに、悪が勝つこともありますからね。
藤原:そうだね。そして、先ほど言った早稲田文学を創設したり、森鴎外
   と文学論争するなど、新しい文学への大きな影響を与えることにな
   る。そして、それだけでなく、演劇の改良にも力を注ぐことになる。
三重:えっ、演劇もですか?
藤原:うん、彼は、「わが邦の史劇」という本で、演劇の新しい方法を示
   した。また、豊臣氏の没落を描いた「桐一葉」という戯曲を書いた。
   そして、それが、新しい時代の歌舞伎を代表する作品となったんだ。
佳代:あっ、知ってます。これって、片桐且元の苦悩を描いたやつですね。
藤原:そう。戦国時代に詳しい人ならば、片桐且元を知らない人はいない
   だろう。豊臣家の重臣でありながら、徳川家との関係を疑われ、苦
   しむ武将だ。
三重:本当に、坪内逍遥って、すごい人なのですね。
藤原:うん。でも、まだまだあるよ。彼は、島村抱月と協力して、文芸協
   会を設立して、新しい演劇運動を起こした。それに、演劇研究所も
   設けて、俳優を養成しながら、シェークスピアやイプセンの作品を
   公演していった。
佳代:そうですね。逍遥といえば、シェークスピアの翻訳でも有名です。
藤原:そのとおり。翻訳は「シェークスピア全集」として完成し、それを
   記念として、早稲田大学に演劇博物館が建てられた。とにかく、日
   本の新しい文化に大きな貢献をした人であることは間違いないね。
佳代:わかりました。先生、今日は、ありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
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・人物名:坪内逍遥(つぼうちしょうよう)
・時 代:江戸〜昭和時代(1859〜1935年)
・性 別:男
・地 位:文学者
・業 績:「早稲田文学」の創刊、「文芸協会」の設立など
・著 書:「当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)」
     「小説神髄(しょうせつしんずい)」「シェークスピア全集」など


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 159
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■■
■■ 今回は「与謝野晶子」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。与謝野晶子の髪って、本当に乱れているの?
佳代:はぁ?
三重:だって、写真じゃ、乱れてないじゃない。
佳代:何いっているの、三重。みだれ髪って、歌集のタイトルよ。
三重:それは、知ってるけど・・・、つまり・・・。
藤原:つまり、何?
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:三重ちゃんは、本当に、髪が乱れていると思っていたわけ?
三重:い、いえ、そういうわけでは。ただ、今朝、わたしの髪が乱れていた
   ので、一瞬、そうかな・・・って思っただけで・・・。
藤原:このタイトルは、当時では、ちょっと刺激的だったんだろうね。青春
   の情熱的な恋愛感情などを思いのままよんだわけだから。
佳代:つまり、センセーショナルな歌集だったということですね。
藤原:うん。そう考えていいだろう。それじゃあ、今日は、与謝野晶子をや
   るよ。
三重:お願いします。
藤原:まず、晶子は、大阪の堺で生まれた。
佳代:堺の商人ですか?
藤原:そう。でも、和菓子屋さんだけどね。そして、子供の頃から、本が大
   好きで、むさぼるように読んだといわれている。
三重:生まれつきの文学少女だったんですね。
藤原:う〜ん、生まれつきかどうかは、わからないね、父親も、大変な読書
   家だったらしいから、その影響かもしれない。そして、後に夫となる
   与謝野鉄幹が発行した雑誌「明星」に歌を発表することになる。
三重:すごく、行動的な人だったんですね。
藤原:そうだね。親の反対を押し切り、東京に出て、鉄幹と結婚した。今だ
   ったら、たいしたことがないかもしれないけど、当時は、すごいこと
   だったようだ。
佳代:そうですね。何か、情熱が伝わってきます。
藤原:しかし、晶子については、日露戦争で戦っていた弟を心配して作った
   歌が有名だね。
佳代:ハイ、知っています。「君死にたまふことなかれ」です。
藤原:うん。高校入試にもよく出る歌だね。
三重:この歌も、自分の感情を素直に表現したのですね。
藤原:そう。でも、現在でも同じだけど、思ったことをすべて口にすると、
   大変なことになる場合がある。この場合もそうだった。
佳代:戦争批判ということですか?
藤原:それもあるけど、当時は、国のため、天皇のために死ぬことが名誉だ
   と考えられていた時代だったから、国民として、許されざる発言とと
   られたんだ。
三重:なるほど、わかるような気がします。
藤原:しかし、非難を受けた晶子は、真っ向から受けてたった。
三重:それは、すごいですねぇ。
藤原:その後は、社会問題にも目を向けるようになり、フランスに行って、
   ヨーロッパの考え方を学んできた。そして、婦人問題や、教育問題な
   どについて論じるようになり、評論家としても活躍するようになった
   んだ。
三重:さすがですね。やはり、女性は強い〜♪
藤原:もちろん、文学を捨てたわけじゃなく、短歌や詩の他にも、小説や童
   話などを意欲的に発表した。それに、源氏物語を現代語に翻訳したこ
   とでも有名だね。
佳代:そうですね。本当に情熱で、生きぬいたという感じを受ける人です。
藤原:うん。最終的には、11人の子供の母親として、苦しい生活を送りなが
   ら、最後まで女性文化の向上に力を尽くすことになる。まさに情熱の
   人といっていいだろう。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
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・人物名:与謝野晶子(よさのあきこ)
・時 代:明治〜昭和時代(1878〜1942年)
・性 別:女
・地 位:歌人
・著 書:「みだれ髪」(歌集)、「新新訳源氏物語」(訳本)
・その他:日露戦争で戦っていた弟のために「君死にたまふことなかれ」
     を書く。


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 160
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■■ 今回は「夏目漱石」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。夏目漱石って、松山で生まれたのよね。
佳代:う〜ん、それは、どうかな〜。確かに松山で教師をやったりして、ゆ
   かりは深いと思うけど、生まれは、違うと思うよ。
三重:えっ、違うの?千円札が廃止されるんで、松山の人が嘆いていたのを
   見たのよ。
藤原:漱石が生まれたのは江戸だよ。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:彼は、1867年生まれだ。
佳代:えっ!大政奉還の年ですか?
藤原:そう。ギリギリの江戸時代生まれというところだね。
三重:へぇ〜、そうなんですか。つまり、生まれたのは、江戸、今の東京と
   いうことですね。
藤原:そういうこと。そして、さっき佳代ちゃんが言っていたように、松山
   中学で教師をしたこともあったから、松山とは、縁が深い。
三重:そうだったのですか。てっきり松山生まれだと思っていました。
藤原:うん。そう思っている人も多いんじゃないかな?松山のイメージが強
   いからね。それじゃあ、今日は、夏目漱石を勉強しよう。
三重:お願いします。
藤原:まず、漱石の本名を知っているかな?
佳代:ハイ、金之助です。
藤原:よろしい。それから、彼は、何の教師だったの?
三重:それなら知っています。英語です。
藤原:そうだね。彼は、英文学を学んだんだ。そして、松山中学だけでなく、
   熊本の第五高等学校などで英語を教えた。
佳代:明治の初期ですね。
藤原:うん。このころは、英語が大切になっていた時代だからね。そして、
   彼は、文部省の命で、イギリスに留学することになる。
三重:ちょっと待ってください。漱石って小説家じゃないのですか?
藤原:もちろん、小説家だよ。でも、デビューするのは、帰国後のことだ。
佳代:何故、小説を書くようになったのですか?
藤原:そうだね。たぶん、俳句仲間の高浜虚子に勧められて雑誌ホトトギス
   に「吾輩は猫である」を発表し、評判がよかったからだろう。
佳代:高浜虚子って、正岡子規の門下生ですね。
藤原:そう。漱石は、松山時代に正岡子規と一緒に住んでいたこともあった。
   そのころに俳句を作ったりしているんだ。
三重:それで、小説家に転進したのですか?
藤原:そうだね。最初の方は、東大などで教師をしながら書いていたのだけ
   ど、後に、朝日新聞の専属作家になった。
佳代:新聞社の専属作家ですか?
藤原:そうだね。今と時代が違うから、そういう形になったのだろう。とこ
   ろで、三重ちゃんは、どんな作品を知っている?
三重:えーっと、「坊ちゃん」とか「草枕」とか。
藤原:そうだね。他にも、「三四郎」や「それから」、「門」なども有名だ
   ね。
佳代:いわゆる三部作ですね。
藤原:うん。そして、彼は、長編小説「明暗」を書いている途中で死んだ。
三重:途中ですか?それは、無念ですね。
藤原:そうだね。でも、彼は、日本の文学界に大きな足跡を残した。そして、
   芥川竜之介などの若い作家も育てた。そういう意味でも、明治の文豪
   として、大きな役割を果たしたといえるだろう。
佳代:わかりました。先生、今日は、ありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
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・人物名:夏目漱石(なつめそうせき)
・時 代:江戸〜大正時代(1867〜1916年)
・性 別:男
・地 位:小説家
・著 書:「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」「二百十日」
     「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「明暗」など


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