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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 151
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■■
■■ 今回は「板垣退助」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。日光に板垣退助の銅像があるって本当?
佳代:まさかぁ。退助は、土佐の人よ。
三重:土佐?そうかぁ、じゃあ、進の奴、うそをついたのね!
佳代:進君から聞いたの?
三重:そうよ。ときどき、おかしなこというからね、あいつ。
藤原:いや、うそじゃないよ。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:確かに、板垣退助の銅像は、日光にあるよ。天海上人の像とともに。
佳代:えっ、ホントですか!
藤原:そう。意外かな?
佳代:意外です。何故、退助と日光が関係あるのですか?
藤原:それはね。戊辰戦争に関係あるんだ。
三重:戊辰戦争ですか?
藤原:そう。退助は、戊辰戦争のとき、新政府軍の総督として、日光廟に
   立てこもっていた旧幕府軍の大鳥圭介を説得して、日光の社寺や杉
   並木を戦火から守ったんだ。
佳代:ああ、それでですか。ぜんぜん知りませんでした。
藤原:それじゃあ、今日は、板垣退助をやろう。
三重:お願いします。
藤原:さっき佳代ちゃんが言っていたように、退助は、土佐で生まれた。
三重:坂本竜馬と同じですね。
藤原:そうだね。でも、竜馬よりも身分は高かった。そして、土佐藩の武
   士を率いて活躍することになる。
佳代:退助というと、自由民権運動のイメージが強いので意外です。
藤原:そうかもしれないね。でも、彼の行動は、結構、過激だろ。
佳代:ハイ。
藤原:新政府では、参議として活躍するものの、西郷隆盛らとともに、征
   韓論に敗れ、国に帰ることになる。
佳代:その頃出したのが、国会開設の意見書ですね。
藤原:そう。自由民権運動の始まりだね。
三重:退助は、自由党を作りました。
藤原:うん。よく覚えているね。
三重:これだけは、得意なんです。一番早い(1881年)自由党ですから。
佳代:そうね。三重、それって、何回も言っているよ。
三重:えへへへ、なぜか、これだけは、すぐ覚えたので。
藤原:その退助も、暴漢に襲われたこともある。
佳代:知ってます。「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだと言われてい
   ます。
藤原:そうだね。本当は、「いてー」と叫んだらしいけど(笑)。そんな伝
   説が生まれるほど、自由民権運動の象徴的な存在だったということ
   だね。
三重:そうですね。
藤原:しかし、自由党が大きくなるにつれ、過激な行動が目立つようにな
   り、手におえなくなってきた。そして、解散することになる。
佳代:そうですね。いろいろな事件が起きました。
藤原:うん。もちろん、自由党員がからんでいたというだけで、必ずしも
   自由党員の行動ではなかったのだけど、嫌気が差したんだろうね。
佳代:そして、伊藤博文の内閣では、入閣もしていますね。
藤原:そうだね。内務大臣になった。そして、大隈重信と組んで、隈板内
   閣を作り、ここでも、内務大臣になった。
三重:わいはん内閣?へんな名前ですね。
佳代:大隈重信の「隈」と板垣退助の「板」をとってつけたのよ。
三重:あっ、そうか!
藤原:この内閣は、日本で最初の政党内閣だったけど、わずか4ヶ月でつ
   ぶれた。そして、退助は、引退することになったんだ。
佳代:わかりました。先生、今日は、ありがとうございました。

□□
□□ 人物データファイル
□□

・人物名:板垣退助(いたがきたいすけ)
・時 代:江戸〜明治時代(1837〜1919年)
・性 別:男
・地 位:自由党党首、内務大臣
・業 績:自由民権運動の中心人物。


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 152
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■■
■■ 今回は「大隈重信」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。大隈重信って早稲田大学の創始者でしょ。
佳代:そうよ。
三重:なのに、早稲田の学生が知らないって言っていたわよ。
佳代:まさか・・・、あんな有名な人を?
三重:銅像が建っているでしょ。それを見て、知らないって。テレビでやっ
   ていたよ。
佳代:うそでしょ。
藤原:いや、最近は、そういう学生が増えているみたいだよ。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:それを聞いたら大隈重信も嘆くだろうね。でも、普通、自分の学校の
   創始者なんて気にしないのかもしれないよ。
佳代:でも、日本史でも出てくる有名な人じゃないですか!
藤原:うん。たぶん、世界史を選択していたんだろう(笑)。福沢諭吉みたい
   にお札にもなっていないしね。
三重:そうですね。お札になっていれば、わからないということもないです
   ね。
佳代:でも、首相までやった人ですから、変ですね。
藤原:それは、そうだね。とにかく、今日は、大隈重信について勉強しよう。
三重:お願いします。
藤原:重信は、肥前の生まれだね。
佳代:今の佐賀県ですね。
藤原:そう。彼は、藩校の弘道館や長崎で、外国人から英語や法律を学び、
   知識を広げていたんだ。そして、明治の新政府が成立すると、英語力
   生かして外国の交渉にあたり、大久保利通に認められることになる。
佳代:それで、この時代の重要人物になるのですね。
藤原:そうだね。薩長が強い時代だったけど、新政府の新事業に深くかかわ
   って活躍した。
三重:例えば、どんなものにかかわったのですか?
藤原:うん、郵便事業や鉄道の建設などだ。
佳代:郵便といえば、今、民営化問題で騒がれていますが、前島密によって
   作られたのですよね。
藤原:そう。そして、重信は、前島密と協力して、通信設備を整えたんだ。
佳代:それは、知りませんでした。
藤原:また、西南戦争では、武器の輸送など、後方支援で活躍したし、三菱
   商会の岩崎弥太郎を援助して、深くつながるようにもなった。
佳代:つまり、政界、財界と深くつながっていたということですね。
藤原:そうだね。しかし、その強烈な個性は、時には、反発を招き、追放さ
   れたこともあった。
佳代:ハイ。確か、○○年の政変ってやつですね。
藤原:そう。明治14年の政変と呼ばれている。
三重:どうして追放されたのですか?
藤原:1つには、北海道の開拓使の財産を薩摩藩出身の商人に安く払い下げ
   ようとしたことに反対したことがあげられる。実際、この払い下げが
   中止された直後にクビになっている。
三重:何で、それでクビになるのですか?
藤原:うん。本当の追放の理由は、薩長勢力の実力者である伊藤博文と対立
   していたことなんだ。重信は、いわゆる煙たい存在だったわけ。そこ
   で、払い下げ事件で、国民が怒ったのは、重信が煽ったからだという
   理由をつけて追い出したということだ。
佳代:でも、重信は、翌年、立憲改進党を作ります。
藤原:そうだね。板垣退助が作った自由党についで、2番目に作られた政党
   だね。板垣退助が、フランス流の政治を目指したのに対し、重信は、
   イギリス流を目指した。早稲田大学の前身でもある東京専門学校を作
   ったのもこの頃だ。
三重:けっこう、不屈の人って感じですね。
藤原:そうだね。実際、爆弾で片足を失ったこともあった。
三重:えっ!そんなことがあったのですか!
藤原:そうだよ。この時代は、暗殺されたり、襲われたりというのはあたり
   まえの時代だ。本物の改革をしている時代だからね。
佳代:確か、片足を失っても、頭脳が壊れなければ大丈夫だと言ったのです
   ね。
藤原:うん、そのようなことを言ったらしい。実際、その後、隈板内閣を作
   って、総理大臣になっている。
三重:それは、すごいですねぇ。
藤原:しかし、それは、板垣退助のところでもやったとおり、わずか、4ヶ
   月で分裂し、おしまいになる。しかし、大正時代に入り、もう一度、
   内閣を組織することになるんだ。
佳代:ハイ。そして、第一次世界大戦中に、中国に、二十一か条の要求を出
   しました。
藤原:そうだね。だから、中国人には、大変、評判が悪い。どちらにしても、
   日本にとって、大事な時代に、大きな活躍をした人物であることは間
   違いないだろう。
佳代:わかりました。先生、今日は、ありがとうございました。

□□
□□ 人物データファイル
□□

・人物名:大隈重信(おおくましげのぶ)
・時 代:江戸〜大正時代(1838〜1922年)
・性 別:男
・地 位:内閣総理大臣
・業 績:立憲改進党の結成、中国に二十一か条の要求を出す
・その他:東京専門学校(現早稲田大学)を設立


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 153
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■■
■■ 今回は「伊藤博文」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。伊藤博文って、韓国で殺されたのよね。
佳代:違うよ。殺されたのは、中国。ハルビン駅で。
三重:あれっ?そうだっけ?
佳代:暗殺を実行したのは、韓国の青年だけど、場所は中国よ。
藤原:ぶっそうな話をしているねぇ。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:今日は、伊藤博文かい?
三重:ハイ、お願いします。
藤原:それでは、大久保利通の後、新政府の中心的存在だった伊藤博文につ
   いて勉強しよう。ところで、三重ちゃん、博文というと、どんなイメ
   ージがあるかな?
三重:そうですねぇ。日本で最初の内閣総理大臣ということです。
藤原:うん、そうだね。日本最初の内閣総理大臣として、永遠に日本史に残
   る人だ。でも、彼も、生まれは、貧しい農家だよ。
佳代:確か、足軽の家に養子に行ったのでしたね。
藤原:そうなんだ。長州の貧しい農家に生まれ、足軽の伊藤家に養子に行っ
   た。低い身分だったけど、ものすごく向上心の強い子供だったらしい。
佳代:やはり、吉田松蔭の松下村塾で学んだのですね。
藤原:うん。そして、イギリスに留学する。
三重:えっ、それは、すごいですね。それって、明治維新の前ですよね。
藤原:もちろん。1863年のこと。つまり、まだ、江戸時代だ。そして、長州
   藩が、外国の艦隊に砲撃した仕返しに、下関を砲撃するというニュー
   スをイギリスで聞いたんだ。
三重:それは、ビックリしたでしょうね。
藤原:うん、そして、急いで帰国し、戦いを避けるように提言をしたけど聞
   き入れられず、結局、敗れ、下関の砲台は外国に占領されることにな
   る。
佳代:それは、残念でした。でも、当時は、国際感覚のある人が少なかった
   のでしょうね。
藤原:もちろんだ。200年も 国を閉ざしていたわけだから。ごく一部の人以
   外は、正しい認識をもっていなかった時代だね。
佳代:そして、幕府が倒れ、新政府ができて、博文の活躍が始まります。
藤原:そうだね。彼は、財政や貨幣制度を調べるためにアメリカに渡ったり、
   岩倉使節団にも同行し、より、外国を知る機会を得る。
三重:やはり、初代総理大臣にふさわしい人だったのですね。
藤原:まあね。そして、政府の中心人物だった大久保利通が暗殺されると、
   大隈重信とともに、政府の中心になる。
佳代:しかし、重信は追い出されます。
藤原:そうだったね。この前も勉強したね。追い出したのが博文だ。特に、
   国会を開く時期についての意見が衝突していた。
佳代:そうですね。重信は、早く国会を開くことを主張していました。
藤原:博文は、時期尚早と考えていたみたいだね。重信が去り、最高責任者
   になって、今度は、憲法を調査するためにヨーロッパに飛んだ。
三重:忙しい人ですねぇ。
藤原:ホントだね。そして、君主権の強いドイツの憲法を勉強し、それが、
   大日本帝国憲法へとつながっていく。
佳代:当時の日本にあっていると考えたのですね。
藤原:そういうこと。
三重:博文は、日清戦争の講和条約でも全権大使を務めましたね。
藤原:おう、よく覚えていたね。
三重:ハイ。日本側が、伊藤博文と陸奥宗光。中国側が李鴻章です。
藤原:よろしい。日清戦争の講和条約、つまり下関条約でも博文は活躍した。
   そして、日露戦争後、韓国のソウルに統監府を置き、韓国に対する支
   配を固めていくんだ。
佳代:だから、韓国で、最も嫌いな日本人のナンバーワンになっているので
   すね。
藤原:そうだね。今、アンケートをとっても、たぶん1番になるだろうね。
三重:今でもそうなら、当時は大変だったでしょうね。
藤原:もちろんだね。だから、韓国の青年、安重根に殺されることになる。
   しかし、翌年、日本は、韓国を併合し、植民地支配をはじめることに
   なるんだ。
佳代:そういう過去があることは、知らなければなりませんね。
藤原:そのとおり。今年、日韓共催でワールドカップを行って、現在は、良
   好な関係を保っているけど、過去は過去として認識し、また、未来へ
   向かった日韓関係を築いてほしいね。隣同士の国だから。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。

□□
□□ 人物データファイル
□□

・人物名:伊藤博文(いとうひろぶみ)【ひろ「ふ」みではなくひろ「ぶ」み】
・時 代:江戸〜明治時代(1841〜1909年)
・性 別:男
・地 位:内閣総理大臣(初代)
・業 績:内閣制度、憲法制定に尽力
・その他:下関条約全権大使、韓国初代統監


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 154
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■■
■■ 今回は「陸奥宗光」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。陸奥宗光って、坂本龍馬の子分だったんだって。
佳代:そうよ。若い頃は、龍馬の海援隊にいたの。
三重:へぇ〜、そうだったの。ぜんぜん知らなかった。
藤原:意外かな?
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:陸奥宗光といえば、前回勉強した伊藤博文とともに、日清戦争で、全
   権として交渉にあたったことでも有名だね。
三重:ハイ、それは知っていたのです。また、条約改正でも活躍しました。
藤原:うん。イギリスとの間で、治外法権を取り除くことに成功した。最も
   有名な外務大臣の一人だね。
佳代:そうですね。
藤原:それじゃあ、今日は、宗光について勉強するよ。
三重:ハイ、お願いします。
藤原:まず、彼は、和歌山で生まれた。
佳代:和歌山ですか。
藤原:そう。和歌山といえば、御三家の1つである「紀伊」だね。
三重:ハイ。この時代は、長州とか薩摩とか、せいぜい土佐とかが中心の時
   代でしたね。
藤原:そうだね。だから、宗光は、異色の存在といえる。しかし、活躍はす
   ごかった。
三重:どんな仕事をしたのですか?
藤原:まず、彼は、外国事務局に入って、外交の仕事についた。そして、兵
   庫や神奈川の知事も務めることになる。
三重:知事ですか。
藤原:そう。そして、有名な地租改正について出した意見書が認められ、大
   蔵省に入ることになる。
三重:それは、すごいですねぇ。すごく頭がよかったのですか?
藤原:たぶんね。しかし、やはり、長州や薩摩中心の藩閥政治には反抗して、
   政府を辞めることになる。更に、西南戦争が起きると、宗光も兵を上
   げる計画を立てたとして、獄中に入ることになる。
三重:えっ、えっ、刑務所にまで入ったのですか!
藤原:そうだね。ああいう時代だから、何があってもおかしくないよね。
佳代:本当ですね。
藤原:出獄した宗光は、今度は、アメリカやヨーロッパに留学することにな
   る。帰国後は、農商務大臣になり、第1回の衆議院選挙に立候補して、
   当選することになる。
佳代:すごい人生ですね。今では考えられません。
藤原:そうだよね。そして、伊藤博文の外務大臣になり、例の治外法権を撤
   廃した条約、日英通商航海条約を結ぶことに成功したんだ。
三重:知ってます。この条約は、日清戦争の直前に結ばれました。
藤原:そうだったね。本当の直前だ。これにより、江戸時代に結んだ不平等
   条約の1つを解消することになる。
佳代:そして、日清戦争後の、下関条約での活躍、そして、三国干渉の屈辱
   などを味わうわけですね。
藤原:そういうこと。他にも、恐ろしいエピソードがある人だけど、とにか
   く、ものすごく優秀な人だったことは間違いないだろう。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
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・人物名:陸奥宗光(むつむねみつ)
・時 代:江戸〜明治時代(1844〜1897年)
・性 別:男
・地 位:外務大臣
・業 績:日英通商航海条約の調印に成功(治外法権の撤廃)
・その他:下関条約で、伊藤博文とともに全権として交渉にあたる。


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 155
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■■ 今回は「小村寿太郎」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。知ってる?わたしの組の、惣田ヨネちゃんが、小村寿太
   郎のことを、寿司太郎って読んだのよ。
佳代:えー、寿司太郎?確かに似ているけどね(笑)。
三重:ヨネちゃんは、寿司太郎が好きだからね。お弁当に持ってきたことも
   あるぐらいだから(笑)。
藤原:おう、今日は、おすしの話題かい?
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:寿太郎を寿司太郎と読んだんだって?
三重:ハイ。しかも、まじめな顔をして。
藤原:そうか、でも、過去にもいたよ。
三重:えっ、そうなんですか?
藤原:ちゃんと「じゅたろう」って読みにくいかもしれないね。
佳代:そうですね。「としたろう」じゃおかしいし。
藤原:それじゃあ、今日は、小村寿太郎をやろう。
三重:ハイ、お願いします。
藤原:まず、彼のあだ名を知っているかな?
三重:あだ名ですか?
藤原:そう。
佳代:えーっと、聞いたことがあります。たしか、ねずみです。
藤原:おう、よく知っていたね。
佳代:ハイ。本で読んだことがあります。
藤原:佳代ちゃんは、本当に勉強家だね。彼は、身長が、わずか、143 cm
   ぐらいしかなかった。
三重:えー、じゃあ、モー娘。の矢口ぐらいしかなかったのですか!
藤原:そうだね。そして、ちょろちょろ動くことでも有名だったから、ね
   ずみというあだ名がついたのだろうね。
佳代:そうですね。しかし、ものすごく頭がいい人でした。
藤原:そうなんだ。彼は、宮崎県の飫肥(おび)藩という小藩の出身だった
   けど、小さい頃から頭がよく、7歳で藩校に入り、16歳で現在の東
   京大学に入った。
三重:えー、それは、すごいですねぇ!
藤原:また、彼は第1回文部省海外留学生にも選ばれ、ハーバード大学で、
   法律の勉強もしている。そして、後に、あの陸奥宗光に認められる
   ことになり、政治の表舞台に登場することになるんだ。
佳代:そうですね。明治時代の有名な外務大臣といえば、やはり、陸奥宗
   光と小村寿太郎ということになります。
藤原:うん。そして、中学生で学ぶことだけでも、4つの大きな仕事をし
   ているね。
三重:ハイ、1つは、知っています。ポーツマス条約の調印です。
藤原:そうだね。後の3つは?
三重:えーっと、えーっと、佳代さんどうぞ(笑)
佳代:しょうがないわねぇ。まず、日英同盟の締結です。
藤原:そのとおり。これは、重要だったね。
佳代:ハイ。イギリスは、ロシアの南下に備えて、日本と同盟を結んでお
   く方が有利と考えて結びました。
藤原:そのとおり。当時の大国イギリスが日本などという小国を相手にす
   るような時代じゃないけど、大国ロシアが南下してくると困るから、
   日本と仲良くしておいた方がいいと判断したのだろうね。
佳代:そうですね。それから、三重が言ったように、ポーツマス条約の調
   印をした後、韓国を併合します。
藤原:うん。これも、彼が外務大臣のときのことだね。
佳代:最後に、条約改正の仕上げともいえる、関税の自主権を回復します。
藤原:そのとおり。まさに、日本が、世界へ向かって、はばたいていく様
   子がよくわかる事件ばかりだね。
佳代:ハイ。でも、ポーツマス条約では、賠償金が取れなかったというこ
   とで、日比谷で焼き打ち事件も起きました。
藤原:そうなんだ。日露戦争は、結果的に日本が勝ったように思われるけ
   ど、あのまま続けていれば、日本は、必ずといっていいほど、ロシ
   アに負けただろう。
佳代:そうですね。でも、そのことを国民は知らされていませんでした。
藤原:うん。だから、非国民扱いされたこともあったけど、結果的に、ポ
   ーツマスでの講和会議の成功が日本を救ったと考えていい。
三重:すごい人だったんですね。
藤原:そうだね。まあ、口が悪くて、余計なことばかり言うとか、悪い評
   判もあったけど、その業績は、まさに明治最大の外務大臣といって
   いいだろう。
佳代:わかりました。先生、今日は、ありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
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・人物名:小村寿太郎(こむらじゅたろう)
・時 代:江戸〜明治時代(1855〜1911年)
・性 別:男
・地 位:外務大臣
・業 績:日英同盟の締結(1902年)、ポーツマス条約調印(1905年)
     韓国の併合(1910年)、関税の自主権回復(1911年)


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