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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 146
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■■ 今回は「木戸孝允」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。桂小五郎って、木戸孝允よね。
佳代:そうよ。
三重:剣の達人だったんだって。
佳代:確かにね。でも、逃げるのもうまかったって話よ。
三重:えー、格好よく戦うんじゃなくて?
藤原:そうだよ。強かったことも確かだけど、ついたあだ名が「逃げの小五
   郎」だったんだ。
三重:あっ、先生、こんばんは。その話は、本当ですか?
藤原:そうみたいだね。確かに、彼は、あちこちで襲われているし、話によ
   ると、トイレの中にもぐりこんで、糞尿まみれになって逃げたことも
   あるということだ。
三重:ギェー、汚いー、ホントですか?
藤原:分からないけど、あの時代なら、そのぐらいのことがあってもおかし
   くないね。
佳代:そうですね。あれだけ大きく国を変えたのですから。
藤原:うん。命あってのことだからね。すこしぐらい汚いのは我慢できるだ
   ろう。それじゃあ、今日は、木戸孝允をやるよ。
三重:お願いします。
藤原:まず、彼の生まれはどこだっけ?
三重:ハイ、もちろん、長州藩です。
藤原:そうだね。今の山口県だ。彼は、医者の子として生まれた。
佳代:医者の子なのですか?
藤原:そうだよ。しかし、8歳のときに、桂家に養子にいくことになる。だ
   から、明治になるまでは、桂小五郎だ。
三重:ああ、そういうことですか。
藤原:うん。そして、吉田松蔭に学び、その後、江戸では、剣術や西洋兵学
   を学んだりした。
佳代:孝允も、ずっと、尊王攘夷を唱えていましたね。
藤原:そうだね。天皇を敬い、外国勢力を追い払うという尊王攘夷の中心で
   もあった。しかし、幕府は、この運動を弾圧するようになる。
佳代:そして、京都から追放されるのですね。
藤原:うん。孝允がということではなく、長州藩が追放される。しかし、彼
   は、新撰組に襲われたりしながらも京都に残って活動を続けたんだ。
佳代:そうなんですか。
藤原:でも、のちに、攘夷は不可能だと知ることになる。
佳代:ああ、下関で外国船に砲撃を加えたものの、簡単に仕返しされたから
   ですね。
藤原:そう。長州藩は、攘夷を実行した。しかし、そこで、外国の強さを実
   感することになる。
三重:それで、尊王攘夷運動から、尊王倒幕運動に変わっていくわけですね。
藤原:そのとおり。外国船を追っ払うのではなく、幕府を倒して新しい政治
   が必要だと考えるようになったんだ。
佳代:それで、薩長同盟が成立することになるのですね。
藤原:うん。長州藩を京都から追放した憎き薩摩と組んでまでも、幕府を倒
   そうと考えた。仲介したのが、坂本龍馬だったね。
三重:ハイ。それは大丈夫です。隠れ龍馬ファンですから(笑)
藤原:その後、いろいろあったけど、それは、他で勉強しているからいいだ
   ろう。とにかく、明治政府が成立すると、彼は、中心的な役割を握る
   ことになる。前回やった大久保利通とともに、版籍奉還とか、廃藩置
   県などの政策を進める。
佳代:孝允は、アメリカ、ヨーロッパにも行っていますね。
藤原:そう。維新の三傑といえば、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允だけど
   西郷隆盛だけが、日本に残っている。結果的に、敵対することになる
   わけだ。
三重:やはり、外国に視察に行った人たちは、日本が遅れていることを実感
   したということですか?
藤原:そういうこと。そこで、大久保、木戸は、国内の充実が大切と考え、
   征韓論を主張する西郷隆盛と対立することになった。そして、西郷は、
   敗れて帰る。
三重:ハイ。覚えています。
藤原:しかし、大久保は、翌年、台湾に出兵する。
三重:えっ、それは変ですね。
藤原:うん。木戸はこれに反対して政府を離れることになる。
佳代:この部分だけ考えると、大久保利通もメチャクチャですね。しかも、
   台湾出兵を指揮したのは、西郷隆盛の弟の従道です。
藤原:そうだね。その辺は、複雑な状況があったわけだけど、木戸は、当然、
   反対するよね。でも、説得されて、後に政府に戻ることになる。
佳代:やはり、政府には、必要な人だったということですね。
藤原:そう。でも、このころは、病気がちで、何と、西南戦争の最中に病死
   することになる。皮肉なものだね。
佳代:分かりました。先生、今日はありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
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・人物名:木戸孝允(きどたかよし・こういん)
・時 代:江戸〜明治時代(1833〜1877年)
・性 別:男
・地 位:参議
・業 績:明治政府初期の政策の中心人物


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 147
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■■
■■ 今回は「岩倉具視」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。持って来たよ。
佳代:ああ、昔の五百円札ね。
三重:そうよ。五百円が岩倉具視、百円が板垣退助、そして、千円が、伊
   藤博文、これから勉強する人たちがいっぱい。
藤原:あれ、三重ちゃんも、古い札を持っていたの?
三重:あっ、先生、こんばんは。五百円札だけ持っているんです。
藤原:そうか。
三重:先生は、全部持っているからいいですね。
藤原:そうだね。昔、使っていたのを取っておいただけだけど。ところで、
   今日は、岩倉具視かい?
三重:ハイ。お願いします。
藤原:それじゃあ、はじめよう。この時代の人だから、具視も、相当、激
   動の人生を歩いているよ。
佳代:血を見ずに済まされないということですか?
藤原:うん、そんなところだね。まず、彼は、公家の子として生まれる。
   その後、岩倉家の養子になり、孝明天皇の側に仕えることになった。
佳代:でも、追放されることになります。
藤原:そうだね。実は、彼は、公武合体派で、孝明天皇の妹の和宮と、14
   代将軍の家茂との結婚を積極的に進めて実現させたんだ。
三重:それで、何故、追放されたのですか?
藤原:そうだね。幕府と結んだということで、怒りをかったらしいんだ。
   そして、官位を返上し、謹慎生活を送ることになる。
佳代:しかし、さすがに、只者じゃなかったようですね。
藤原:うん。彼は、倒幕の動きに呼応して、大久保利通と連絡を取り、や
   がて、許されて京都に戻った彼は、薩摩、長州と結び、新しい政府
   を作ることになる。
佳代:そして、有名な岩倉使節団として、アメリカ、ヨーロッパを視察し
   ます。
藤原:そうだったね。本当の目的は、条約改正だったのだけど、相手にさ
   れなかった。まだ、時期尚早だったといえる。でも、実際に、欧米
   の繁栄を目の当たりにした。
三重:その辺は、大久保利通などと同じですね。
藤原:そうだね。西郷隆盛との考え方のずれも、この視察によるものとい
   える。
佳代:そういえば、この時期に、岩倉も襲われていますよね。
藤原:うん。死ぬことはなかったが、征韓論を主張する士族に襲われてい
   る。まあ、この時代の人は、みなそうだよ。
三重:本当に命がけですねぇ。
藤原:そのとおり。あれだけの改革は、命をかけなければ無理だよ。そし
   て、政府が憲法に基づく政治を行うことを決めると彼は反対した。
三重:えっ、どうしてですか?
藤原:あくまでも、天皇中心の政治をしたかったんだろうね。
佳代:そういえば、ドイツで、ビスマルクと会っていますよね。
藤原:うん。鉄血宰相と言われたビスマルクが、間接的に日本の政治に与
   えた影響は大きいね。岩倉が死んだあと、成立した大日本帝国憲法
   も、ドイツの憲法を見本にしている。
佳代:そうですね。鎖国をして、すっかり世界から取り残されてしまった
   日本ですが、急激に挽回するためには、ドイツ式がよかったのでし
   ょうね。
藤原:そういうこと。とにかく、維新において、具視の役割は大きかった。
   現在の日本の原型を作った一人といっていいだろう。
佳代:わかりました。先生、今日は、ありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
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・人物名:岩倉具視(いわくらともみ)
・時 代:江戸〜明治時代(1825〜1883年)
・性 別:男
・地 位:右大臣
・業 績:明治政府の中心人物として活躍。
・その他:大使として、欧米に使節団を率いて視察。


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 148
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■■ 今回は「榎本武揚(えのもとたけあき)」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。五稜郭って、星みたいな形をしているのね。
佳代:そうね。江戸時代末期に完成した、西洋式の城よ。
三重:五稜郭っていうから、五角形かと思っていたよ(笑)
藤原:五角形ねぇ・・・。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:今日は、榎本武揚でもやるつもりかい?
三重:ハイ、お願いします。
藤原:わかったよ。それじゃあ、やろう。
佳代:武揚は、戊辰戦争で、最後の最後まで戦った人ですね。
藤原:そうだね。幕府側の人間として、最後の最後まで戦った。それが、
   箱館戦争とも呼ばれる、五稜郭の戦いだ。
三重:なのに、何故、処刑されなかったのですか?
藤原:うん、それだけ、武揚が、すぐれた人物だったからだろうと思う。
   彼の実力を知っていた、新政府の黒田清隆の助命運動によって処刑
   をまぬがれたんだ。
佳代:あっ、黒田清隆って、伊藤博文の次に総理大臣になった人ですね。
藤原:そう、第2代の総理大臣だ。彼のおかげで、命が助かった武揚は、
   3年間の獄中生活のあと復帰し、新政府の役人になり、彼のもとで、
   北海道各地の調査などにあたっている。
三重:なるほど、よほど、評価されていたんですね。
藤原:そうだね。
佳代:武揚は、どんな人物だったのですか?
藤原:うん。彼は、旗本の子として、江戸で生まれた。そして、幕府の昌
   平坂学問所で学び、また、アメリカから帰国した有名な中浜万次郎
   の塾で学んだりしていていた。
三重:すると、結構、国際派ということですか?
藤原:そうだね、オランダに留学し、帰国後、幕府海軍を作ることになる。
佳代:そういえば、後に、ロシアと国境を決める条約にも参加していまし
   たね。
藤原:そう。1875年の樺太・千島交換条約だね。武揚が、国際派だってい
   うことは、はっきりわかるだろう。
三重:そうですね。
藤原:武揚が五稜郭を攻め落としたとき、もしかすると、北海道に共和国
   ができてもおかしくない状況になった。実際、武揚は、蝦夷島政府
   を宣言し、投票によって総裁に選ばれたのだからね。それに、他の
   幹部も選挙で選ばれた。これは、当時の日本としては、画期的なこ
   とだ。
佳代:確か、フランスやイギリスも、この政府を認める方向だったのです
   よね。
藤原:そう。だから、蝦夷共和国、あるいは、北海道共和国というのが生
   まれても不思議じゃない状況になっていたんだ。しかし、新政府は、
   大軍を送り、武揚は、降伏することになる。
三重:それでも、処刑もされず、新政府の役人にまでなったということは、
   すごいことですね。
藤原:そうだね。でも、あの時代は、能力のある人が必要な時代だったか
   ら、彼は生き延びた。もちろん、日本人の美意識からいうと、あま
   り誉められたものではないかもしれなが、戦国時代や、明治維新の
   ころは、実力がなければ生き残れない時代だから、生き残れたのだ
   ろう。
佳代:平和な時代だったら、どんなに才能があっても打ち首ですね。
藤原:そうだろうね。そういう意味でも、日本史にとって、重要な人物だ
   ったといえるだろう。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
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・人物名:榎本武揚(えのもとたけあき)
・時 代:江戸〜明治時代(1836〜1908年)
・性 別:男
・地 位:元幕臣、明治政府の海軍卿、逓信大臣、文部大臣
・業 績:樺太・千島交換条約に調印(1875年)


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 149
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■■ 今回は「津田梅子」を勉強します!
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三重:ねぇ、津田梅子って、津田塾大学を作った人でしょ。
佳代:そうよ。女子大の名門校ね。
三重:明治の人でしょ。
佳代:そうよ。確か、子供のころ、岩倉使節団としてアメリカに渡ったはず
   よ。
藤原:そうだね。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:津田梅子は、7歳のときに、女子留学生としてアメリカに行ったんだ。
三重:な、7歳ですか!小学生じゃないですか!
藤原:うん。岩倉使節団は知っているよね。
三重:もちろんです。何回もやりました。岩倉具視を中心に、大久保利通や
   木戸孝允、伊藤博文などが行きました。
藤原:そうだよね。その中に、混じって、5人の女子留学生がアメリカに渡
   ったんだ。もちろん、梅子は最年少だよ。
佳代:あの時代に、何故、女子留学生を送ろうって考えたのですか?
藤原:うん。黒田清隆が進言したらしい。
三重:あっ、この前出た人ですね。2代目の総理大臣。
藤原:そう。黒田清隆が、アメリカでは、女性の教育が盛んなのを見て進言
   したということだ。
佳代:知名度は落ちますが、いろいろなところに出てきますね、黒田清隆は。
藤原:そうだね。そして、サンフランシスコに到着した梅子は、アメリカ人
   の家庭に引き取られ育てられた。
三重:それじゃあ、英語もバッチリですね。
藤原:もちろんだよ。7歳でアメリカに渡って、11年間、アメリカで育った
   のだからね。逆に日本語を忘れてしまったという話も残っているよ。
三重:えっ、日本語をですか?
藤原:うん、日本で、忘れ物をして、近くにいた人力車の車夫に話そうとし
   たけど、日本語が出てこないので、知り合いのアメリカ人に通訳して
   もらったという話。
三重:えっ、えっ、アメリカ人に通訳?すると、そのアメリカ人は、日本語
   を話せたのですか?
藤原:そう、日本語の上手なアメリカ人に頼んで通訳してもらったというこ
   とだ。
佳代:相当、変な光景だったでしょうね。
藤原:そうだね。特に、この時代はね。そして、いったん、教師になった梅
   子は、再びアメリカに渡り、研究に打ち込むのだけど、後に、帰国し、
   また、教師を務めた後、女子大を開くことになる。
三重:それが、津田塾大学ですね。
藤原:そう。最初は、女子英学塾と言った。そして、英語教師を養成する傍
   ら、英学新報を発行して、英語教育の普及に努めた。
三重:すごいですね。まだ、明治の初期なのに。
藤原:そうだね。梅子の活躍は、まさに、時代が、変わったことを象徴する
   ようなものだったと言えるだろう。
佳代:わかりました。先生、今日は、ありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
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・人物名:津田梅子(つだうめこ)
・時 代:江戸〜明治時代(1864〜1929年)
・性 別:女
・業 績:女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立。
・その他:7歳でアメリカ留学。英語教育に情熱を傾ける。


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 150
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■■ 今回は「福沢諭吉」を勉強します!
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三重:ねぇ、佳代。福沢諭吉って、天は人の上に人を造らずっていってい
   るよね。
佳代:そうよ。有名な「学問のすすめ」の中で。
三重:ということは、諭吉も、差別を受けたのかなぁ〜?
佳代:う〜ん、どうかなぁ〜。確か、下級武士の生まれだったと思うけど。
藤原:受けていたみたいだよ。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:今日は、福沢諭吉かい?
三重:ハイ、お願いします。
藤原:それじゃあ聞くけど、諭吉は、どこの藩の出身?
佳代:えーと、確か、大分のほうだと思いましたが。
藤原:そう。中津藩、つまり、今の大分県の下級武士の子として生まれた。
三重:やはり、下級武士は、差別されていたのですか?
藤原:そうだね。坂本竜馬のところでやったように、身分制度は厳しかった。
   だから、すごく悔しい思いをしたらしい。
佳代:その思いが、あの大ベストセラー「学問のすすめ」に記されているの
   ですね。
藤原:そういうことだね。諭吉は、門閥制度は、親のかたきとさえいってい
   た。
三重:先生、門閥って何ですか?
藤原:門閥かい、家柄といえばわかりやすいかな?
三重:ああ、家柄ですか。
藤原:そう。実力に関係なく、家柄がものをいう世界は、安定した時代なら
   ば、それなりに、いい面もあるけど、世の中が大きく動くようなとき
   は、邪魔でしかない。
佳代:確かに、明治維新に活躍した人の多くは、下級武士です。
藤原:うん。もし、彼らに活躍のチャンスが与えられなかったら、今ごろの
   日本はどうなっていたかわからない。しかし、時代というものは、恐
   ろしいもので、きちんと動くものだね。
佳代:本当ですね。
藤原:諭吉は、ペリーが来航した翌年、蘭学を勉強するために長崎に留学し
   た。そして、有名な緒方洪庵の適塾に入り、本格的に蘭学を学ぶこと
   になる。
三重:えっ、ペリーがきた後も、オランダ語を学んだのですか?
藤原:そう。とりあえず、洋学といえば蘭学だったから。しかし、横浜見物
   に行った諭吉は驚いた。
三重:どんな風にですか?
藤原:つまり、横浜は、みんな英語だったんだ。だから、ぜんぜん読めない。
佳代:なるほど、それは、ショックだったでしょうね。
藤原:うん。そこで、彼は、考えた。これからは、英語の時代だと。
三重:すごいですねぇ。そんなことを考えたのですか?
藤原:そう。そして、諭吉は、咸臨丸に乗ることに成功し、アメリカに渡っ
   た。そして、辞書を持ち帰ったんだ。
三重:英語の辞書ですか?
藤原:もちろん。
佳代:つまり、日本の英語教育にものすごく大きな役割を果たしたというこ
   とですね。
藤原:そういうこと。塾での教育も英語に切り替え、やがて、慶応義塾と名
   を改める。
三重:それが、今でもある慶応大学の始まりですね。
藤原:そうだね。一時期は、幕府につかえ、何度も外国に行った諭吉だった
   けど、幕府が倒れてからは、教育に情熱を注ぐことになる。新政府の
   誘いも断ってね。
佳代:そして、「学問のすすめ」などの著書を残すのですね。
藤原:うん。本を書くことによって、西洋の思想を広めようとし、自由や平
   等、学問の大切さなどを説いた。この活動が、日本の近代化に大きく
   貢献したことは間違いないね。
佳代:わかりました。先生、今日は、ありがとうございました。

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・人物名:福沢諭吉(ふくざわゆきち)
・時 代:江戸〜明治時代(1834〜1901年)
・性 別:男
・業 績:慶應義塾大学の創始者
・著 書:「学問のすすめ」「西洋事情」「文明論之概略」


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