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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 136
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■■
■■ 今回は「杉田玄白」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代、解剖のことを昔は腑分けって言ったのね。
佳代:そうよ。
三重:何か、生々しい感じがするね。
佳代:そうね。ホントに切り分けられちゃうって感じかな。
藤原:今日は、解剖の話かい?
三重:あっ、先生、こんばんは。今日は、杉田玄白をやりたいんです。
藤原:わかったよ、それじゃあ、杉田玄白を勉強しよう。
三重:お願いします。
藤原:まず、玄白が生まれたのは、8代将軍の吉宗が政治を行っているころ
   だ。
佳代:やはり、江戸で生まれたのですか?
藤原:そう。彼は、若狭国、つまり現在の福井県の小浜藩の藩医の子として
   江戸で生まれた。
三重:あっ!若狭って若狭湾のあるところですね。
藤原:そうだよ。リアス式海岸でも有名な若狭湾だ。そして、彼は、少年時
   代を小浜で過ごした。
佳代:江戸で生まれたけど、少年時代は小浜で育ったということですね。
藤原:そうだね。そして、15歳になって、また江戸に出て医学の勉強をはじ
   めることになったというわけだ。
三重:それで、腑分けを見ることになるのですね。
藤原:まあ、実際に腑分けを見るのは、ずっと後になるけど、日本では、す
   でに京都の山脇東洋という医者が、日本で最初の腑分けをしていた。
三重:すると玄白が初めてということではないのですね。
藤原:そうだね。はじめて腑分けを行った山脇東洋は、それを本に著してい
   て、玄白は、それに興味を持っていた。もちろん、自分でも、いつか
   は、腑分けをしてみたいと思っていたみたいだ。
三重:でも、勝手に腑分けはできませんよね。
藤原:もちろんだよ。少なくとも人間の身体を切るわけだからね。
三重:どんな人が腑分けされたのですか?
藤原:まあ、主に、刑死した人だよ。いくら医学のためとはいえ、普通の人
   を切るわけにはいかないからね。
佳代:そして、ついに、見るチャンスがやってくるのですね。
藤原:そう。玄白は、たまたま手に入れたオランダ語の医学書「ターヘル・
   アナトミア」を読んでいた。言葉はわからなかったけど、解剖図を見
   て、中国の解剖図とまったく違うのに驚いていたんだ。
三重:なるほど、それで、なおさら自分の目で見たくなったのですね。
藤原:そのとおり。そして、江戸の千住で死体の腑分けがあり、町奉行の許
   可を得て見ることになったんだ。
佳代:確か、前野良沢も一緒に見たのですね。
藤原:うん。彼もまた「ターヘル・アナトミア」を持っていて、目の前で見
   た人体のしくみが、それにそっくりなのに驚いた。そして、二人は、
   この「ターヘル・アナトミア」を翻訳しようと決心したんだ。
三重:それが有名な「解体新書」ですか?
藤原:そのとおり。でも、当時は、オランダ語の辞書もなく、翻訳は、困難
   を極めた。しかし、不屈の精神によって完成させることになる。
三重:それは、すごいですね。辞書もなく、よく訳せましたね。
藤原:その辺の苦労話が、「蘭学事始」に記されている。わからない場合は、
   ただひたすら読んでいるうちにわかるときもあるらしい。とにかく、
   すごい話だよね。
佳代:そうですね。まるで暗号を解くようなものですね。
藤原:まさに、そんな感じだったろう。そして、解体新書は、医学はもちろ
   ん、蘭学発展の出発点にもなったんだ。
三重:蘭学って、オランダ語の学問っていう意味ですね。
藤原:そのとおり。徳川吉宗が、外国の実用書の輸入を認めてから、少しず
   つヨーロッパの学問が取り入れられるようになったのだけど、この杉
   田玄白と前野良沢の翻訳は、大きなインパクトを与えた。そして、そ
   の後の蘭学、もう少し意味を広げた洋学に大きな影響を与えたといえ
   る。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。

□□
□□ 人物データファイル
□□

・人物名:杉田玄白(すぎたげんぱく)
・時 代:江戸時代(1733〜1817年)
・性 別:男
・地 位:藩医(若狭国・小浜藩)
・著 書:「解体新書」「蘭学事始」
・その他:江戸千住の小塚原で腑分けを見る
     新しい医学用語「神経」「十二指腸」「軟骨」など


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 137
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■■
■■ 今回は「伊能忠敬」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。伊能忠敬って、日本地図を作った人でしょ。
佳代:そうよ。
三重:あんな時代にどうやって作ったのかなあ〜。
佳代:う〜ん、何でも、全国を歩いて作ったみたいよ。
三重:えっ!それじゃあ、日本を一周したってこと。
佳代:そうみたいね。
藤原:おお、今日は伊能忠敬の話かい?
三重:あっ、先生、いいところに来ました。
藤原:忠敬は、日本一周どころか、地球一周をしているよ。
佳代:えっ!世界一周までしているのですか!
藤原:いや、違うよ。忠敬が日本地図を作るために歩いた距離は、4万キロ
   以上、つまり、地球一周分歩いて作ったということ。
三重:えーー!それはすごいですね!そんなに歩いたのですか!どのぐらい
   かかったのですか!
藤原:そうだね。忠敬が、測量の旅をはじめたのが56歳のとき、そして、72
   歳で終わる。
三重:えーーー、ますますビックリです!56歳から地球1周分も歩いたので
   すかー!
藤原:うん。本当に頭が下がる思いだね。今と違って、道具も少ないから、
   地道に歩いて、こつこつと測っていったんだ。そして、その出来映え
   もすばらしかった。
佳代:確か、イギリスの人が驚いていたという話を聞いたことがあります。
藤原:そんな話もあったね。幕末に日本の海岸を測量しようとしたイギリス
   船に忠敬の地図を見せたら、あまりにも正確なのに驚いて、測量しな
   いで去っていたという話が残されている。
三重:う〜ん、江戸時代にもすごい人がいたんですねぇ。
藤原:そうだね。彼は、上総国(かずさのくに)、つまり、今の千葉県の農家
   の家に生まれた。
佳代:えっ、農家の出なのですか。それは意外でした。
藤原:うん、でも、小さいころから学問好きで、特に数学に興味を持ってい
   たらしい。
三重:数学ですか・・・。苦手です(笑)
藤原:そして、18歳のときに、酒を造っていた伊能家の養子になったんだけ
   ど、伊能家の商売は、あまりうまくいっていなかった。
三重:すると、忠敬が立て直したのですか?
藤原:そう、彼は、一生懸命働いて、商売を立て直した。
佳代:何をやってもすごい人みたいですね。
藤原:そうだね。そして、名主にもなり、村のためにもつくすことになる。
三重:名主って、村役人で一番えらい人ですよね。
藤原:そう。村のまとめ役でもある。特に、天明の大飢饉のときは、自分の
   お金で大量の米を買って、村人を救ったという話もある。
三重:う〜ん、それだけでもすごいですよね。
藤原:そうだね。そして、50歳になって、学問をするために江戸に出たんだ。
佳代:向上心が旺盛ですね。
藤原:でなくちゃ、あんな大事業はできないよ。
佳代:そうですね。
藤原:江戸では、天文学者の高橋至時(よしとき)ついて天文学を学んだ。
三重:天文学ですか?
藤原:そうだよ。そして、それが日本地図につながっていくんだ。
三重:えっ、どうして?天文学と地図に何か関係があるのですか?
藤原:測量の知識を学べたということだ。地図を作る上でも、望遠鏡なども
   使うしね。
佳代:そして、有名な、大日本沿海與地全図が完成するのですね。
藤原:そうだね。ただし、測量を終えた後、まとめる仕事をしている途中で
   病死することになる。しかし、弟子たちの手によって完成することに
   なるんだ。
三重:そうだったのですか、それは残念でしたね。
藤原:でも、その功績は、輝きを失うことはない。ものすごいものだと思う
   よ。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。

□□
□□ 人物データファイル
□□

・人物名:伊能忠敬(いのうただたか)
・時 代:江戸時代(1745〜1818年)
・性 別:男
・業 績:全国を測量し、日本最初の全図、大日本沿海與地全図(だいにほ
     んえんかいよちぜんず)を制作


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 138
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■■
■■ 今回は「高野長英」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。蛮社の獄ってあったよね。
佳代:ああ、あれね。鎖国を批判した高野長英とか、渡辺崋山がつかまった
   事件ね。
三重:蛮社って何?
佳代:う〜ん・・・、何だろ・・・。
三重:佳代でも知らないことがあるの。
佳代:当たり前でしょ。
藤原:何、もめているんだい。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:蛮社の意味かい?
三重:ハイ、何のことかわからなかったので。
藤原:蛮社っていうのは、渡辺崋山とか高野長英らの蘭学を研究していたグ
   ループの名前だよ。
三重:な〜んだ、グループの名前ですか、モーニング娘。と同じですね。
佳代:三重、何か違うんじゃない?
藤原:まあ、確かに、ちょっと違うかもしれないけど、要するにグループの
   名前だから違うとは言い切れないね。それで、今日は、蛮社の勉強を
   するの?
三重:いいえ、高野長英だけでいいです。
藤原:わかったよ。それじゃあ、長英をやろう。
三重:お願いします。
藤原:まず、彼は、水沢藩の武士の子として生まれた。
三重:あっ!水沢って、岩手県ですね。
藤原:そう。よく知っているね。
三重:ハイ、任せてください(^^)、地理なら得意です。
藤原:そうだったね。そして、小さいころ父が死んだため、医者だったおじ
   の養子になったんだ。
佳代:そういえば、長英って医者でしたね。
藤原:うん。蘭学者でもあったし医者でもあった。彼は、17歳のとき、江戸
   に出た。そして、長崎に行き、有名なシーボルトの鳴滝塾に入ること
   になる。
三重:シーボルトって、シーボルト事件のシーボルトですか?
藤原:そう。持ち出し禁止の日本地図を手に入れたのがばれて国外追放にな
   った、あのシーボルトだ。長英は、その事件の影響もあって、しばら
   く姿をくらますことになる。
佳代:結構大変な人生を送っていたのですね。
藤原:うん、そして、ほとぼりがさめたころ、江戸に現われ、医者をするか
   たわら蘭学の勉強に励むようになった。そして、渡辺崋山らと研究会
   を開いていた。このグループの名が蛮社だ。
佳代:なるほど、わかりました。そして、彼は、鎖国を批判した「戊戍夢物
   語(ぼじゅつゆめものがたり)」を書きます。
藤原:そうだったね。これは、漂流した日本人を送ってきたアメリカ船、モ
   リソン号を砲撃した事件をきっかけに書いたものだ。
三重:そういえば、モリソン号事件ってありましたね。
藤原:うん。確かに、海岸に近づく中国とオランダを除いた船を打ち払えっ
   ていう異国船打払令が出ていたのだけど、日本人を送り届けてきた船
   にまで砲撃を加えたということで、長英や渡辺崋山らが幕府の政策を
   批判したわけだ。
佳代:それで、とらえられたわけですね。
藤原:そう。それが、蛮社の獄。しかし、牢屋に入った長英は、脱獄に成功
   する。
三重:えっ!脱獄って、牢屋から逃げたのですか。
藤原:うん、長英は、牢屋番に金を渡して放火させ、火事の混乱の中逃げた。
三重:まるで映画みたいですねぇ。
藤原:そうだね。そして、あちこち逃げ回り、顔を焼いて人相を変えたりし
   て、5年後に江戸に戻ることになる。そして、沢三泊という名前で、
   医者を開業したんだ。
佳代:本当に長英ってサスペンスドラマみたいな人ですね。
藤原:でも、最終的には、幕府の役人に見つかり、自殺することになる。長
   英のドラマはおしまいになるけど、その後、ペリーの来日から明治維
   新までの壮大なドラマが始まるわけだ。
佳代:長英のドラマは、その予告編のようなものですね。
藤原:そうだね。時代を予感させる、時代が作った人物といえるかもしれな
   いね。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。

□□
□□ 人物データファイル
□□

・人物名:高野長英(たかのちょうえい)
・時 代:江戸時代(1804〜1850年)
・性 別:男
・地 位:医者、蘭学者
・著 書:戊戍夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)
・その他:蛮社の獄(1839年)で投獄される


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 139
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■■
■■ 今回は「水野忠邦」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。改革、改革っていっていた小泉さんも随分苦労している
   ようね。
佳代:そうね。でも、珍しいわね、三重が政治のことを言うなんて。
三重:そうなのよ。わたしもたまには(笑)。やっぱり昔も、改革って難しか
   ったのかなぁ〜?
佳代:もちろんよ。改革されちゃ困る人がたくさんいるわけだから。
藤原:おお、今日はまた高級なことを話しているねぇ。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:今日は、小泉純一郎でもやるつもりかい?
三重:いえいえ、そうじゃなくて、江戸時代に、同じように改革に苦労した
   水野忠邦をやりたいんです。
藤原:お、そういうことか。それじゃあ、今日は、水野忠邦をやろう。
三重:お願いします。
藤原:まず、彼は、唐津藩主として江戸で生まれた。
三重:あっ、唐津って九州ですね。
藤原:おお、よく知っているね。
佳代:唐津焼でも有名ですね。
藤原:うん、彼は、19歳で唐津藩主になったのだけど、不満があった。
三重:不満ですか?
藤原:そう。彼は、幕政に参加したいと考えていたんだ。
佳代:それがどうして不満なのですか?
藤原:実は、唐津藩は、長崎を警備する任務があった。だから、幕府の要職
   には付けないことになっていたんだ。
三重:なるほど、そういうことですか。でも、後に老中になっていますよね。
藤原:そのとおり。だから、彼は、国替えを希望したんだ。
佳代:そこまでして、幕政に参加したかったのですね。
藤原:そうだね。実際、唐津から浜松に国替えするとき、家臣から大反対さ
   れたんだ。
三重:どうしてですか?
藤原:うん、唐津藩は、6万石。移る予定の浜松藩も6万石だったのだけど、
   唐津藩は、実質、20万石ともいわれるほど豊かなところだった。それ
   に対して浜松は、裏も表もなく6万石。
佳代:なるほど、それは、反対しますよね。
藤原:でも、彼は、1度は老中になって天下の政治を料理したいといって、
   反対の声をおさえたんだ。
三重:う〜ん、すごいですねぇ。お金より名誉ってことですか?
藤原:まあ、名誉というよりも権力欲ってところかな。どちらにしても、相
   当、強い気持ちがあったことは確かだね。
佳代:そして、忠邦は、大坂城代や京都所司代などを歴任し、ついに念願の
   老中になります。
藤原:そうだね。最初は、まだ、例の11代将軍、徳川家斉が大御所として実
   権を持っていたので、思うような政治はできなかった。
三重:あっ、家斉って、子供が50人以上いたという、あの将軍ですね。
藤原:おお、三重ちゃんも覚えたのかな。
三重:ええ、前に雑談で覚えました。
藤原:その家斉が死んでから、忠邦は、いわゆる天保の改革をはじめること
   になる。まずは、それまで政治の中心にいた人をやめさせた。
佳代:抵抗勢力を排除したのですね。
藤原:そうだね。そして、倹約令を出す。
三重:倹約令って、享保の改革でも出ましたよね。
藤原:うん、寛政の改革でも、質素・倹約を命じている。江戸の三大改革は、
   倹約という点は共通しているね。しかも、忠邦のは徹底していた。
三重:どんな感じなのですか?
藤原:ぜいたく品はもちろんだけど、値段の高いお菓子や料理なども禁止し
   た。
三重:えっ、お菓子もですか!
藤原:そうだね。それに、歌舞伎や小説なども統制して、厳しく取り締まっ
   た。
三重:窮屈ですねぇ。
藤原:まったくだ。しかも、彼は、2年半で、180回も倹約令を出している。
佳代:180回もですか!
藤原:執念すら感じるね。
三重:ホントですね。
藤原:そして、物価を下げようとして株仲間を解散する。
三重:あっ、それは覚えています。株仲間って、商人の組合ですよね。
藤原:そう。商人や手工業者などの同業者組合だ。田沼意次が奨励したのは
   覚えているよね。
佳代:もちろんです。株仲間は、奨励・意次、解散・忠邦です。
藤原:よろしい。しかし、かえって品物が集まらなくなり、物価は下がらず、
   逆効果になってしまった。
佳代:改革が裏目に出たわけですね。
藤原:そういうこと。更に、彼は、人返しの法を出して、農民の江戸への出
   稼ぎを禁止し、江戸にいる農民を強制的に村に返させた。
三重:なるほど、だから人返しっていうんですね。何のことかと思っていま
   した。
藤原:うん、当時は、天保の大飢饉で農地が荒れていたので、立て直すため
   に行った。
佳代:いろいろな改革をしたのですね。
藤原:そうだね。でも、あまりうまくいかなかった。そして、彼が失脚する
   原因となる政策を実行する。
佳代:あ、知ってます。上知令ですね。
三重:じょうちれい?何、それ?
佳代:江戸や大坂周辺の大名や旗本の領地を幕府の直轄地にしようとしたの
   よ。
三重:えっ、そんなことできるの?
藤原:できるわけないよね(笑)。だから、猛反発にあい、実施できなかった。
   そして、彼はやめさせられることになる。やりすぎたのだ。
佳代:確かに、改革改革と叫んで強硬姿勢で臨んだけど失敗したという感じ
   がします。
藤原:そうだよね。改革は、それほど難しいもの。今の日本も、改革路線だ
   けど、非常に苦労しているよね。何とかがんばってほしいものだけど。
佳代:そうですよね。先生、今日はありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
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・人物名:水野忠邦(みずのただくに)
・時 代:江戸時代(1794〜1851年)
・性 別:男
・地 位:老中首座
・業 績:天保の改革を行う
     倹約令、株仲間の解散、人返しの法、風俗取締令
     上知令(じょうちれい・あげちれい)など


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 140
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■■
■■ 今回は「ペリー」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。お台場って、ペリーが来たから作られたんだって。
佳代:そうみたいね。台場っていうのは、大砲をすえつける砲台のこと。ペ
   リーの来航で、慌てて作ったみたいよ。
三重:へぇ〜、お台場ってデートスポットかと思った。
佳代:行ったことあるの?
三重:い、いや、ないわよ(赤面)。
藤原:三重ちゃん、何慌てているの?
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:顔が赤くなっているよ。もしかして、お台場でデートして、そのとき
   ペリーの話が出たんじゃないの(笑)
三重:ち、ちがいます・・・。お台場に行きたいなぁ〜と思って調べていた
   だけで・・・。
佳代:怪しいなぁ〜。
三重:ま、ま、とにかく勉強しましょ。今日は、ペリーです。
藤原:わかったよ。勉強第一でいくことにしよう(笑)
三重:お、お願いします。
藤原:それじゃあ、いくつか質問しよう。ペリーが生まれたところはどこ?
三重:もちろん、アメリカです。
藤原:そのとおり。ペリーは、アメリカのロードアイランド州で生まれた。
三重:えっ!ロードアイランド州ですか?確か、アメリカで一番小さい州じ
   ゃなかったですか?
藤原:おう、よく知っているねぇ。
三重:ハイ、地理は得意です・・\(^o^)\・・
佳代:そうだったの?ぜんぜん知らなかった。
三重:わ〜い、佳代に勝った、勝った。
藤原:そうだよね。そんなこと知っている人少ないよ。
佳代:でも、最初の13州に入っていて、独立宣言に加わっていたことは知っ
   ています。
三重:えっ、そうなの。そんなこと知らなかった。
藤原:うん、それも大したもんだね。とにかく、ペリーは、この合衆国東部
   の州で生まれたんだ。
佳代:親も軍人だったのですか?
藤原:そう、父も兄も軍人。しかも海軍ということで、海軍一家だったんだ。
三重:なるほど、だから、日本まで来たのですね。
藤原:うん、そして、40歳のころに、海軍の工場に移り、蒸気軍艦を作り、
   積極的に蒸気船を取り入れた。
佳代:そういえば、「太平の眠りを覚ます蒸気船」なんて歌がありましたね。
藤原:うん、「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった4はいで夜も眠
   れず」ってやつね。
三重:あっ、思い出しました。教科書に載っています。上喜撰って、高級な
   お茶のことですね。
藤原:そう、上喜撰と蒸気船がかけてある。ペリーの来航を歌に表したもの
   だよね。
佳代:ハイ、よくできた歌だと思います。
藤原:ま、それはおいといて、当時のアメリカは、太平洋を渡って、中国と
   の貿易を盛んにしようとしていた。そのため、寄港地として、日本を
   注目していた。
佳代:でも、日本は鎖国をしていました。
藤原:そうだよね。更に、異国船打払令も出ていたから、都合が悪かったわ
   けだ。また、日本近海に来て、鯨を取るためにも、寄港地がほしかっ
   た。
三重:えっ、鯨ですか?何で鯨を。今、日本が鯨を取ろうとすると、袋叩き
   にあうというのに。
藤原:そうだね。当時は、まだ電気もなかったので、ろうそくを使っていた。
   そのため、鯨の油を原料としていたんだ。
三重:へぇ〜、ろうそくですか?
藤原:うん、日本人は、鯨を食べたけど、アメリカ人の場合は、主に、ろう
   そくの原料だと思えばいい。だから、ろうそくが不要になった現在で
   は、捕鯨禁止を叫んでいるわけだ。
佳代:そうなんですか?勝手ですね。
藤原:まあ、何ともいえないよ。その辺は、別の機会に考えよう。そして、
   ペリーは、東インド艦隊の司令長官に任じられることになる。そして、
   日本にもやってくることになるんだ。
三重:ビックリしたでしょうね。
藤原:まあね。でも、ペリーが来ることはオランダなどの知らせでわかって
   いたんだ。
佳代:えっ、わかっていたのですか?
藤原:でもね、なかなか来ないので、うそだと思ってしまった。しかし、本
   当に来たんだ。
佳代:それって、かえって驚くんじゃないですか?
藤原:かもね、ほっとしたところに来たわけだから、ショックが大きかった
   かもしれないね。
三重:たぶんそうだと思います。わたしも経験があります(笑)
藤原:うん、その後については、これまでも勉強しているから、質問するよ。
   ペリーが来たとき、どうしたんだっけ?
三重:ハイ、とりあえず来年返事するってことで、追い返しました。
藤原:そうだよね。得意の先送りってやつだ。
佳代:今の政治家と同じですねぇ。
藤原:そうだね。政治家、役人、先送りは得意技みたいだね。そして、時間
   を稼ぎ、老中阿部正弘を中心に話し合いが持たれた。また、最初に話
   していた、台場を作ったりしたわけだ。
佳代:でも、ペリーは、年明け早々に、再来航しました。
藤原:そうだったね。1年間待ってくれると思ったのが、実際は、半年とい
   うことで、慌てたわけだ。
佳代:そうでしたね。6月に来て、来年といえば、早ければ、半年しかない
   のはわかっているはずなのに。
藤原:うん、そこで、阿部正弘は、条約を結ぶことを決意し、日米和親条約
   を結ぶことになる。ついに開国したわけだね。
佳代:そうですね。でも、ペリーが来たことは、大きな目で見ると、日本に
   とってプラスだったんじゃないかと思います。
藤原:そうだね。不思議なことに、日本は、外国からの圧力がないと、なか
   なか大きな改革ができない民族だからね。
三重:そうですね。ある自動車会社の社長みたいに。
藤原:うん。それに、前にも言っていたように、幕府と名のつくものは、み
   な、外国が原因になって滅んでいる。
三重:あっ、それ、前にやりました。鎌倉幕府が、元寇で、室町幕府が、ポ
   ルトガル人がもたらした鉄砲で、江戸時代が、ペリーの来航でって感
   じでしたよね。
藤原:そういうこと。その辺は面白い現象だね。
佳代:そうですね。先生、今日はありがとうございました。

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・人物名:ペリー(アメリカ人)
・時 代:1794〜1858年(日本では江戸時代)
・性 別:男
・地 位:軍人
・業 績:1853年浦賀に来航、開国のきっかけを作る
     1854年日米和親条約の締結に成功
・その他:著書「日本遠征記」


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