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◆ 特別企画 ◆

 激論バトル!本能寺の変!!


● 質問状が来た!

佳代:先生,この前の久住さんとのトークについて質問状が来ました。

藤原:森田丹波守さんだね。

佳代:何かむずかしいことが書いてあります。

藤原:うん,森田さんは,明智軍記というホームページを作っている人で,相当くわしい人みたいだね。まずは,その質問状を見てみよう。

佳代:ハイ。
● 森田丹波守さんからの質問状の抜粋 (>がついている文は,疑似トークで久住さんが述べた言葉です)

>久住:光秀からすれば,今の領地を返上してでも,この地域がほしいと思ったかもしれないね。

そうですか?普通の武将からすればそうかもしれませんが光秀は近江・丹波から離れたくなかったと言うほうに私は思います。この数年間手塩にかけて育撫した国を離れて都から遠い地へ。左遷ととったのではないでしょうか。それまでの信長の経緯からしても。

> 久住:光秀を西国に追いやって安土城の守りを手薄にするのは,まだ早すぎるような気がする。

別に光秀がいなくてもなくてもいいでしょう。早すぎるといわれますがだいたいどこから誰が攻めてくるというのです?そう思っていたから信長は兵も連れずに京に上ったわけですし。それに長秀も秀吉もすでに城にいないではないですか。丹羽の居城ははすでに若狭に移ってるし秀吉は姫路だし。光秀が山陰に行ってはいけない理由としては弱く思うのですが。

> 久住:本能寺の変の直前や直後には,秀吉,家康,柴田勝家,滝川一益など不審な行動を取った者が多すぎる。

確かに秀吉・家康は少々怪しいですね。毛利と和平交渉していた秀吉,伊賀路に前もって手勢をおいておいた家康。しかし他は...。
勝家があやしいのではなく寄騎の前田利家らでは。利家らは自領の保護を名目に自分の城にこもりましたが勝家は直ぐにでも近江路に押し出したかった。が兵が集まらないためやむなく北庄に留まったのでは...。それに織田軍が押していたとはいえ相手はあの「上杉軍団」。無防備に後ろを見せれば此方がやばいと思ったことは想像に難くありませんが。

長秀らは確かに兵がいましたが本能寺の変を聞いて兵が一度雲散霧消した。が信孝・長秀らが信澄を抹殺したため再び兵が集まってきた(秀吉が来たのもある)のであって光秀に対するには兵不足だっただけでしょう。

一益ですが
> 久住:本能寺の変の報を聞いてこの人が決めたのは「軍を二つに分け,半数で北条氏と決戦し,残り半数を率いて光秀を討つ」

そうなんですか?そんなの聞いた事有りませんが。兵の分散は最も忌むべきこと。しかも上野衆がほとんど恩義を感じていない信長のために京まで攻め上る事など無理だと分かっていたと思いますが。本能寺の変を聞いた
(6月7日または9日説有り)一益はそれを秘していた。が北条氏に変報が届き攻め込んでくると十八日には金窪で北条氏に対峙し勝利を収めたが、翌十九日に神流川で惨敗を喫して逃げるように伊勢に帰ったのであって光秀と戦うなど北条がいる限り無理でしょう。
● バトルの始まり

佳代:本当に詳しいですね。

藤原:うん,専門家って感じだね。

佳代:そして,この質問状を久住さんに送ったら,返答がありました。

藤原:こちらもかなり激しいものだったね。

佳代:ハイ,はっきり言ってハラハラしました。

藤原:双方,何回か返事を出し合って,また,久住さんの提案もあり,このやりとりを公開しようということになったんだね。

佳代:そうです。何かF1のバトルみたいに感じましたので,激論バトルと名づけました。

藤原:それはいいね。激しいやりとりの中で二人の高い知識がぶつかり合って何か新しい発見が生まれると思う よ。

佳代:そうですね。期待してます。でも,ちょっとわたしにはむずかしすぎるかな。

藤原:確かにね。でも,雰囲気だけでも十分勉強になるんじゃないかな。

佳代:ハイ,楽しみにしています。

● 選手紹介

 ・歴史好きの会社員久住さん

 友人のHPで破天荒概史を執筆していますので是非行ってみて下さい。歴史を根本的に考える楽しさが味わえます。考え方の勉強にもなります。また,トークにもありましたように,将来,小説を書くということで,その知識量は専門家にも劣らないと思います。最近は,教科書で習わない,歴史小話を執筆しています。

 ・森田丹波守さん

 HP明智家記を運営しています。HPを見てもらえば分かるように,ほとんど専門家といってもいいでしょう。高い知識と深い認識で,このバトルに臨みます。
● 久住さんからの返答-1

ご質問ありがとうございます。
自分の考えでは,歴史を扱う際,真実は常に闇の中です。どの方向から光を当てていくかで,見え方がまったく変わってしまうことも珍しくありません。だからできるだけさまざまな方向から眺めてみる必要がありますし,どの方向は間違いだ,この方向だけが正しい,という教科書のような立場には共感できません。ですから,どのような意見を持つのも自由なのですが,自由だからこそ,「自分はこの立場に基づいて,この方向から見ている」という自覚は必らず必要ですし,他人に対しても,なるべく立場の矛盾なく説明できるようにしたいと思っています。
佳代:強烈な返答ですね。

藤原:うん,でも言っていることは間違いなさそうだね。歴史を考える上で大切なことはたくさんあるけれども,基本的な考え方というものは本当に大切だと思うよ。

佳代:それに対して,森田さんは,こう述べています。
● 返答−1に対する森田丹波守さんからの返答

御説御尤もです。私も同様に考えて居ます。同じ資料を読んでも読む人間によって受取り方が異なるのは当然で各々の持つ意見は尊重すべきだと思います。前回質問させていただいたのは私の認識と久住さんの認識が余りにも異なっていたのでどういう理由でこう考えられたのかがお聞きしたかったわけです。そのうえで私が誤っているところは素直に承服し,御説を聞いても納得できない点は再度質問させて頂こうと思っています。また,こういう文を書くと感情的になって文調が攻撃的になるきらいがあるのですが,他意は無いのでご容赦ください。
佳代:やはり,森田さんも同じように考えていたようですね。

藤原:そうだね。また,分からないところは徹底して質問し,理由を聞いた上で納得できるものは承服し,聞いても分からないときは,何度でも質問するという姿勢はすばらしいね。

佳代:探究心が旺盛ですね。

藤原:もちろん,そうでなけりゃ,あんな立派なHPを作れるはずはないよ。読者の皆さんも是非参考にしてほしいと思う。

佳代:そうですね。本当にすごい。でもハラハラしますね。
● 久住さんからの返答−2

まず,このテーマに関する自分の立場を明らかにしておきます。

本能寺の変を扱うにあたっての私の立場は,「信長は光秀を最も信頼していた。」です。なぜその立場を取るのかという理由を提示しながら,回答していきます。

久住: 光秀からすれば,今の領地を返上してでも,この地域がほし いと思ったかもしれないね。
森田:そうですか?普通の武将からすればそうかもしれませんが光 秀は近江・丹波から離れたくなかったと言うほうに私は思います。この数年間手塩にかけて育撫した国を離れて都から遠い 地へ。左遷ととったのではないでしょうか。それまでの信長の経緯からしても。

*光秀が丹波に執着するかどうかについては,まず,この数字をみてください。

 山崎の戦の参加人数
  近江衆(中小土豪) 約三千
  室町幕府衆      約二千
  丹波衆         約二千

「数年間天塩にかけて育撫した国」にしては,少なくありませんか。丹波攻略の際には,光秀は律儀に城を落としていったようですし,(秀吉なら金でも景気よくばらまいてなびかせるところでしょうか)八上城主をさらしものにしたことも反発をかったでしょうし,丹波では土豪層の協力をあまり得られなかったのではないでしょうか。近江に関しては,軍事的に攻略した直後ということを考えても,先方隊に組み込まれて奮戦したり,落ち延びた斎藤利三をかくまおうとしたり,非常に光秀に協力的な印象を持っています。

*国替えの話が一般に流布したのは,江戸初期の「明智軍記」という軍記物らしいです。「江戸初期の軍記物」というだけで,「信用できん」と私は引いてしまうのですが,資料に用いる方も多いようです。軍記物を信用できないのはなぜかというと,例えば,宮本無三四(むさし)について調べるときに,吉川英治の「宮元武蔵」は参考にしないというのと同じことなのです。吉川英治については,弟子から,「先生,それは史実と違います」といわれて「面白ければいいじゃないか」と答えたという話がありますが,軍記物の作者の立場も同じだろうという気がします。ただし,信用できるものもたくさんあります。「太平記」など,このままでは闇に葬られてしまいかねない事実を少しでも後世に残そう,という立場で作られたように思われます。吉川英治は参考にしないが,司馬遼太郎なら参考にするというのは,理由の説明が難しいですが,書く側の意識の違いといったらいいのでしょうか。

佳代:すごい発言が出ましたよ。

藤原:本当だね。明智軍記が出てきたのには驚いたね。

佳代:もちろん,質問状の相手が明智軍記を研究している森田さんとは知りません。

藤原:それだけに面白くなってきたね。

佳代:そして,吉川英治は参考にしないが,司馬遼太郎なら参考にするというたとえが出ました。

藤原:これもかなり問題発言だね。でも,ものすごく分かりやすいたとえだ。

佳代:そうですね。よく分からないのですが,イメージはわいてきます。

藤原:読者に誤解のなきように一言言っておくけれども,久住さんは,軍記物についての考え方を述べているわけだ。それは,また後で出てくるけれども,大切な考え方なんだ。

佳代:といいますと。

藤原:うん,我々は,本を読んだり,テレビを見たりしてそれが正しいと信じてしまうことが多い。でも,書かれたものには書かれた背景がある。

佳代:背景ですか。

藤原:そう,たとえば佳代ちゃん,日記をつけているかな。

佳代:いいえ。

藤原:それじゃあ,文集などに文を書いたことがあるかな。

佳代:ハイ,あります。

藤原:そんなとき,自分の知られたくないことを書く?

佳代:いいえ,書きません。

藤原:そうだろ。だから,歴史書でも,書いている人にはいろいろ事情があるわけ。

佳代:ハイ。

藤原:たとえば,江戸時代にこのころの文を書くとしたら,徳川家に遠慮して書かなければならないという事情もあるわけだ。

佳代:なるほど,そういうことですね。

藤原:うん,一概には言えないけれども,書かれていることを頭から信用してはいけないということだよ。

佳代:分かりました。勉強になります。

藤原:それにしても,吉川英治は参考にしないが司馬遼太郎なら参考にするというたとえは,本当に分かりやすい。たとえとしては傑作だね。

佳代:そんな感じがします。

● 返答−2に対する森田丹波守さんからの返答
  

久住:このテーマに関する 自分の立場を明らかにしておきます。 本能寺の変を扱うにあたっての私の立場は 「信長は光秀を最も信頼していた。」です。
私も信用していたと思っています。しかし天正十年の段階ではどうだったか,と思っています。
久住:光秀が丹波に執着するかどうかについては,まず,この数字を みてください。
 山崎の戦の参加人数
  近江衆(中小土豪) 約三千
  室町幕府衆      約二千
  丹波衆         約二千
「数年間天塩にかけて育撫した国」にしては,少なくありませんか。
この数字からして太閤記を元にされているとおもうのですが,安土城番の秀満の兵約四千は含まれているのですか?
また当然斎藤利三の二千,明智光秀本体の五千も近江・丹波勢ではないのでしょうか。本能寺の変に向かった明智軍は一万三千。これはすべて丹波・近江の兵のはずですがこれを少ないと言われるのでしょうか。それに山崎の戦いでは丹波勢・旧幕臣勢・近江勢ともに逃げ去る者や裏切るものもほとんど無く半数近くが討死にしています。大義名分は敵にあり,軍勢も敵の方が多いとなると逃げたり裏切ったりしても不思議ではないではありませんか。そうしなかったのは光秀の数年来の領国経営の賜物ではないでしょうか。
久住:丹波攻略の際には,光秀は律儀に城を落としていったようですし, (秀吉なら金でも景気よくばらまいてなびかせるところでしょうか)
私が読んだところでは小さな城の城主にまで事細かく書状を送り帰服を促してそれでも帰服しない者の城を落としていったと読みましたが。丹波衆も光秀のその意図するところを察して「織田軍にしては情のある御仁」として帰服したのではないでしょうか。竹中重治が「織田家ではなく羽柴殿になら仕えても良い」と言った(らしいですね)ように丹波衆も「明智家なら仕えても良い」と思ったのでしょう。そうでなければあの山崎での最後までの主従一体が説明付きません。
久住:八上城主をさらしものにしたことも反発をかったでしょうし,丹波では土豪層の協力をあまり得られなかったのではないでしょうか。
波多野兄弟を晒した非は光秀に無いとは言いませんがより多くは違約した信長が負うべきでしょう。それに波多野兄弟は一度は光秀に従いながら黒井城攻めで一番卑怯な「戦場での裏切り」を行っているではないですか。その前科があるから晒した事にもそれほど反感はなく協力を得れなかったことはないと思います。
久住:国替えの話が一般に流布したのは,江戸初期の「明智軍記」 という軍記物らしいです。「江戸初期の軍記物」というだけで, 「信用できん」と私は引いてしまうのですが,資料に用いる方も多いようです。軍記物を信用できないのはなぜかというと,例えば,宮本無三四(むさし)について調べるときに,吉川英治の 「宮元武蔵」は参考にしないというのと同じことなのです。 吉川英治については,弟子から,「先生,それは史実と違います」 といわれて「面白ければいいじゃないか」と答えたという話が ありますが,軍記物の作者の立場も同じだろうという気がします。 ただし,信用できるものもたくさんあります。「太平記」など, このままでは闇に葬られてしまいかねない事実を少しでも 後世に残そう,という立場で作られたように思われます。吉川英治は参考にしないが,司馬遼太郎なら参考にする というのは,理由の説明が難しいですが,書く側の意識の違い といったらいいのでしょうか。
明智軍記は信用できずに太平記や太閤記を信用できるという区分けはどこにあるのでしょうか。たしかに明智軍記は一読して誤謬・事実誤認・あきらかな間違いが多々ありますがその中に他の資料が記していない貴重な事実があるかもしれません(あるとは言えませんが)。逆に太閤記や信長公記がその対象となる秀吉や信長の悪口といってはなんですが都合の悪い事をすべて書いてあるとは思えません。当然事実を曲げて,簡潔に言うと「嘘」を書いてあるところが多々あると思います。また事実よりも過大に評価しているところも。
太平記にしても当然面と向かって天皇の悪口は書けないから事実を婉曲して書いていると読みましたし。後世の私たちが過去の事柄を考えるとき頼れる物はこのような「公ではない,事実かどうか分からない記述も多いが貴重な事が書いてあるかもしれない書物」と「公であるが時の権力者に阿っている記述もあるかもしれない書物」からどこが正しくてどこに嘘が書いてあるかを見極める作業が必要だと思います。(但し正確性は後者が数段上)軍記物だから 「信用できん」と丸ごと拒絶する考え方はどうかと思います。その中にしかない事実があるかもしれないではないですか。(但しそれを見分けるのは大変な事でしょうけれども)
藤原:う〜ん。

佳代:先生,うなってますね。

藤原:いや〜,本当に感心するね。

佳代:二人ともすごい知識の持ち主ですね。

藤原:もちろんだ。でも,先生がうなっているのは,二人の軍記物に関する考え方だ。

佳代:といいますと。

藤原:久住さんの意見は,前に話したね。歴史を勉強する上で最も大切な態度だ。また,歴史に限らず学問すべてに言える大切な態度だ。

佳代:それは分かりました。

藤原:しかし,森田さんが書いている「その他の資料に記されていない貴重な事実があるかもしれない」という指摘には,本当に目が開かれる思いだ。先生も,少し軍記物については甘く見ていたね。本当にすばらしい見解だよ。

佳代:先生がそんなに感心するなんて珍しいですね。

藤原:そうだね。久々にうなってしまったよ。本当にこの企画をやってよかったね。

佳代:そうですね(^_^;σ

● 久住さんからの返答−3

久住: 光秀を西国に追いやって安土城の守りを手薄にするのは,まだ早すぎるような気がする。
森田: 別に光秀がいなくてもなくてもいいでしょう。早すぎるといわれ ますがだいたいどこから誰が攻めてくるというのです?そう思 っていたから信長は兵も連れずに京に上ったわけですし。それ に長秀も秀吉もすでに城にいないではないですか。丹羽の居城ははすでに若狭に移ってるし秀吉は姫路だし。光秀が山陰 に行ってはいけない理由としては弱く思うのですが。
<いなくてもいい>という立場は取っていませんので,いなくてもいい理由を教えていただけるとありがたいです。信長が光秀を嫌っていたというのは,光秀の坂本城と安土城の位置関係を見るだけでも否定できるように思います。逆に,琵琶湖周辺の城の配置を見て,「ああ,勝家は窓際か」という印象を持てるくらいなのですが,いかがでしょう。
<どこから誰が攻めてくるというのです?>には,秀吉が大坂城を作った時にも多くの人がそう思ったことでしょう。とだけこたえておきますか。「落とせない城」というイメージはかなり政治的に有効だと思いますし,そのイメージを作る役割を,佐和山城,長浜城,坂本城が担っていたと思います。あと,方面軍の拠点の城と,個人の領地の居城とはごっちゃにしない方がいいと思います。それから,本能寺の変当時の丹羽長秀の居城は近江佐和山城だと思いますが,若狭という資料がありましたか?
久住:本能寺の変の直前や直後には,秀吉,家康,柴田勝家, 滝川一益など不審な行動を取った者が多すぎる。
森田:確かに秀吉・家康は少々怪しいですね。毛利と和平交渉して いた秀吉,伊賀路に前もって手勢をおいておいた家康。しかし 他は...勝家があやしいのではなく寄騎の前田利家らでは。 利家らは自領の保護を名目に自分の城にこもりましたが勝家 は直ぐにでも近江路に押し出したかった。が兵が集まらないためやむなく北庄に留まったのでは...。それに織田軍が押していたとはいえ相手はあの「上杉軍団」。無防備に後ろを見せれば此方がやばいと思ったことは想像に難くありませんが。
実は,前田利家はキーマンだと思っています。勝家が最も頼りにしていたようですし。ただ,本当にやる気があれば,能登に前田を置いておけば上杉勢が近江に南下するのは不可能でしょうから,魚津城を落として意気の上がっていたところでもあり,南下して信孝と合流できれば勝家の思い通りに四国遠征軍も動かせ,光秀に勝てるという読みもできたでしょう。わたしとしては,上杉勢が反撃に出るまで勝家が何もしないでいたから,利家が愛想をつかしたように思います。
森田:長秀らは確かに兵がいましたが本能寺の変を聞いて兵が一度雲散霧消した。が信孝・長秀らが信澄を抹殺したため再び兵が集まってきた(秀吉が来たのもある)のであって光秀に対するに は兵不足だっただけでしょう。
一度雲散霧消したという話は確かにありますが,それでは山崎の戦に間に合わないでしょう。真っ先に光秀追討の声をあげるはずの大将が何もしないから,見切りをつけた兵は多かったかもしれませんが,軍単位や部隊単位の動きではなかったように思われます。信澄抹殺も安土城炎上と並んで,ミステリーなところです。
久住:一益ですが本能寺の変の報を聞いてこの人が決めたのは「軍を二つに分け,半数で北条氏と決戦し,残り半数を率いて光秀を討つ
森田:そうなんですか?そんなの聞いた事有りませんが。兵の分散は最も忌むべきこと。しかも上野衆がほとんど恩義を感じていない信長のために京まで攻め上る事など無理だと分かっていたと思いますが。本能寺の変を聞いた(6月7日または9日説有り)一益はそれを秘していた。が北条氏に変報が届き攻め込んでくると十八日には金窪で北条氏に対峙し勝利を収めたが,翌十九日に神流川で惨敗を喫して逃げるように伊勢に帰ったのであって光秀と戦うなど北条がいる限り無理でしょう。
話の出所が明らかでないので問題なのですが,手持ちの雑誌の記述だと,9日に本能寺の変を知った一益は,重臣たちが秘密にすべきだというのを抑えて上州勢に知らせ,人質まで返したので,感激した上州勢から,「光秀を討ちましょう」との声が上がったのに対し,「一戦しないわけにはいかない」と,厩橋,松井田両城に過半の兵を残して,6千の兵で出撃し,神流川で敗れた。戻ってみると,山崎の戦ですでに光秀が敗れた知らせが届いていたので,軍を解散し,上州勢と別れの杯を酌み交わして伊勢に去った。という話です。話の正誤は置いたとしても,神流川で戦ったこと自体が,光秀追討を放棄したという意思表示に思われます。

● 返答−3に対する森田丹波守さんからの返答

久住:<いなくてもいい>という立場は取っていませんので, いなくてもいい理由を教えていただけるとありがたいです。
逆にいなければならない必要性を説明いただきたいです。なぜいないといけないのですか?佐和山・長浜・坂本とおっしゃられますが佐和山の丹羽長秀は所領は若狭,自身は四国遠征。長浜の羽柴秀吉は所領は播磨,自身は中国遠征。なぜ光秀だけ近江・丹波に縛られるのですか?坂本城主で所領が出雲・石見,自身は山陰平定後九州遠征で不都合ですか?
久住:信長が光秀を嫌っていたというのは,光秀の坂本城と安土城の位置関係を見るだけでも否定できるように思います。逆に,琵琶湖周辺の城の配置を見て,「ああ,勝家は窓際か」という印象を持てるくらいなのですが,いかがでしょう。
そういう見方もできますね。これは気が付きませんでした。しかし私もはじめから信長が光秀を必要としていなかったとは思っていません。むしろ無くてはならない人物だったと思っています。坂本城を光秀が賜ったころというのは信長にとってまさに「必要不可欠な家臣」だった事に異論はありません。「城代」ではなく譜代宿老をも差し置いての家臣初の「城主」ですから。
久住:<どこから誰が攻めてくるというのです?>には,秀吉が大坂城を作った時にも多くの人がそう思ったことでしょう。とだけこたえておきますか。「落とせない城」というイメージはかなり政治的に有効だと思いますし,そのイメージを作る役割を,佐和山城,長浜城,坂本城が担っていたと思います。
御説は分かるのですが,天下平定後ならまだしも関東・奥羽・中国・四国・九州とまだ敵が多数いる時期に有能な武将と一軍団を遊ばせておくのはどうか,と思います。信長もつねづね「人間五十年」と言って来ていたのだからもう残された時間があまり無いことは十二分に自覚していたはず。早めに天下布武を完成させたくならなかったのではないでしょうか。また現実問題として今敵はいない。光秀軍以外では謀叛をする兵力事体も無い。だったら兵力を有効に活用しようとしても不思議では無いと思うのですが。四国征伐にしろ中国征伐にしろそんなに時間がかかるわけではないのですから,それが終われば秀吉か長秀を近江に戻していままで休んでいた光秀軍で九州征伐をしようという考え方もあったと思うのですが。
久住:あと,方面軍の拠点の城と,個人の領地の居城とは ごっちゃにしない方がいいと思います。 それから本能寺の変当時の丹羽長秀の居城は近江佐和山城だと思いますが,若狭という資料がありましたか?
これはご指摘のとうりです。此方の思い違いでした。
久住:実は,前田利家はキーマンだと思っています。勝家が最も 頼りにしていたようですし。ただ,本当にやる気があれば, 能登に前田を置いておけば上杉勢が近江に南下するのは 不可能でしょうから,魚津城を落として意気の上がっていた ところでもあり,南下して信孝と合流できれば勝家の思い通りに 四国遠征軍も動かせ,光秀に勝てるという読みもできたでしょう。 わたしとしては,上杉勢が反撃に出るまで勝家が何もしないで いたから,利家が愛想をつかしたように思います。
しかし寄騎武将無しで安土にこもった秀満軍を抜けたでしょうか。また松倉城で六月四日に「本能寺の変」を知り六月八日には魚津城を完全に撤退し,佐々成政が富山に帰ったのが六月十日,北庄に勝家が着いたのは六月十一,二日のことと思われます。そして六月十八日には近江長浜に柴田勢の先陣が到着していますから秀吉ほどではないにせよ取り立てて遅いとも言えないと思います。
久住:一度雲散霧消したという話は確かにありますが,それでは山崎の戦に間に合わないでしょう。真っ先に光秀追討の声をあげるはずの大将が何もしないから,見切りをつけた兵は多かったかもしれませんが,軍単位や部隊単位の動きではなかったように思われます。
私の知る限り北伊勢衆で信孝に心服していない物が多数いた。そして本能寺の変を聞いてその武将が率先して一旦散った。しかし伊勢に帰るには大和を横切るか海路で帰るかしなければいけない。が,筒井は光秀に付く気配を見せた。そこで帰るに帰れなかったところに信孝による信澄謀殺を聞き,また秀吉がきた事を知ってこれは秀吉側に勝機ありとして戻ってきた,とありました。

また仮に雲散霧消は大袈裟にしても山崎の合戦に参加したのは

信孝 四千
長秀 三千
津田残党 二千

とありますから一万四千いた四国遠征軍のうち五千が減っているわけです。これは信澄謀殺時にも双方へっているでしょうけどそれにしても四千以上はいなくなっているわけです。明智軍が一万三千でさらに近江衆も味方に入れたとあれば敵の半数以下の兵力で「織田軍最強」とも言われる明智軍に挑もうとしなかったのもけして不思議ではないとは思います。
久住:信澄抹殺も安土城炎上と並んで,ミステリーなところです。
たしかに。これもまた考え甲斐のあるものですね。
久住:話の出所が明らかでないので問題なのですが,手持ちの雑誌の記述だと,9日に本能寺の変を知った一益は,重臣たちが秘密にすべきだというのを抑えて上州勢に知らせ,人質まで返したので,感激した上州勢から,「光秀を討ちましょう」との声が上がったのに対し,「一戦しないわけにはいかない」と,厩橋,松井田両城に過半の兵を残して,6千の兵で出撃し,神流川で敗れた。戻ってみると,山崎の戦ですでに光秀が敗れた知らせが届いていたので,軍を解散し,上州勢と別れの杯を酌み交わして伊勢に去った。という話です。話の正誤は置いたとしても,神流川で戦ったこと自体が,光秀追討を放棄したという意思表示に思われます。
一益のことは全く詳しくないので思い込みだけかもしれません。上記の内容は私も読んだ事がありますが最後の「半分に分け」というのは知らなかったですね。一益に付いては自説が固まってないので質問を保留とさせていただきます。もう少し勉強して出直します。
佳代:先生,ますます白熱してきましたね。

藤原:そうだね。佳代ちゃんにはちょっと難しすぎるかな。

佳代:はい,でも,雰囲気はつかめます。

藤原:先生も同じだよ。雰囲気はつかめるけれども,ちょっと難しいね(^^)。でも,このお二人の議論は,資料に基づいているだけでなく,その時代の背景や状況,心理面などを含めて合理的な推理をしている。観戦していて面白いね。

佳代:本当ですね。難しいことは,少しずつ勉強することにして,考え方だけでも学びたいです。

藤原:本当だね。

佳代:それでは,ますます白熱するバトルの続きを見てみましょう。

● 久住さんからの返答−4

久住:光秀が丹波に執着するかどうかについては,まず,この数字を みてください。
 山崎の戦の参加人数
  近江衆(中小土豪) 約三千
  室町幕府衆      約二千
  丹波衆         約二千
「数年間天塩にかけて育撫した国」にしては,少なくありませんか。
森田:この数字からして太閤記を元にされているとおもうのですが,安土城番の秀満の兵約四千は含まれているのですか?また当然斎藤利三の二千,明智光秀本体の五千も近江・丹波勢ではないのでしょうか。本能寺の変に向かった明智軍は一万三千。これはすべて丹波・近江の兵のはずですがこれを少ないと言われるのでしょうか。それに山崎の戦いでは丹波勢・旧幕臣勢・近江勢ともに逃げ去る者や裏切るものもほとんど無く半数近くが討死にしています。大義名分は敵にあり,軍勢も敵の方が多いとなると逃げたり裏切ったりしても不思議ではないではありませんか。そうしなかったのは光秀の数年来の領国経営の賜物ではないでしょうか。
まず,なぜこの話を持ち出したか,という点から述べます。本能寺攻めの一万三千は中国増援の基幹部隊であり,これに寄騎の武将が加わった,三万程度の増援軍が編成中であったと考えています。当然光秀としては,近江と丹波から自らが動員可能な全力を出しているものと思われます。したがって,これに追加される兵力は,光秀の動員力の外からの支援であり,近江と丹波を比較すれば,光秀への敵対勢力の多い近江からよりも,丹波からのほうが支援を受けやすいのが自然ではないか,にもかかわらず,1.5倍の差がついているというのは,丹波における動員力の低さをあらわし,ひいては統治の難しさを示しているのではないか,という考えからです。しかし,「太閤記」を信用するのか?というのは,信用できない,という立場ですので,完全に矛盾しています。ですから信用できそうな数字が載っている資料が見つからない限り,この件は保留です。すみませんでした。(どこかにありませんかね?)
森田:私が読んだところでは小さな城の城主にまで事細かく書状を送り帰服を促してそれでも帰服しない者の城を落としていったと読みましたが。丹波衆も光秀のその意図するところを察して「織田軍にしては情のある御仁」として帰服したのではないでしょうか。竹中重治が「織田家ではなく羽柴殿になら仕えても良い」と言った(らしいですね)ように丹波衆も「明智家なら仕えても良い」と思ったのでしょう。そうでなければあの山崎での最後までの主従一体が説明付きません。
久住:八上城主をさらしものにしたことも反発をかったでしょうし,丹波では土豪層の協力をあまり得られなかったのではないでしょうか。
森田:波多野兄弟を晒した非は光秀に無いとは言いませんがより多くは違約した信長が負うべきでしょう。それに波多野兄弟は一度は光秀に従いながら黒井城攻めで一番卑怯な「戦場での裏切り」を行っているではないですか。その前科があるから晒した事にもそれほど反感はなく協力を得れなかったことはないと思います。
光秀が領民や土豪から帰服を受ける政治をしていたというのは,常に事実であったと思います。それに加えて,「信長への反感」という要素も考えると,近江よりも古い要素の残っていた丹波のほうが,光秀に好意的なのが普通ではないか,と思えてならないのです。
森田:明智軍記は信用できずに太平記や太閤記を信用できるという区分けはどこにあるのでしょうか。
「江戸初期の軍記物」は信用できないという考えの第一にあるのは,「家康が怪しいとは絶対に書けない」という,はじめからフィクションでなければならない制約が作る側にあった,という考えです。かといって,「秀吉だけ怪しい」というのも,かえって怪しいので,幕府としては怨恨説が流布するように仕向けたのではないかと思っているからもあります。
久住:<いなくてもいい>という立場は取っていませんので,いなくてもいい理由を教えていただけるとありがたいです。
森田:逆にいなければならない必要性を説明いただきたいです。なぜいないといけないのですか?
久住:<どこから誰が攻めてくるというのです?>には,秀吉が大坂城を作った時にも多くの人がそう思ったことでしょう。とだけこたえておきますか。「落とせない城」というイメージはかなり政治的に有効だと思いますし,そのイメージを作る役割を,佐和山城,長浜城,坂本城が担っていたと思います。
森田:御説は分かるのですが,天下平定後ならまだしも関東・奥羽・中国・四国・九州とまだ敵が多数いる時期に有能な武将と一軍団を遊ばせておくのはどうか,と思います。信長もつねづね「人間五十年」と言って来ていたのだからもう残された時間があまり無いことは十二分に自覚していたはず。早めに天下布武を完成させたくならなかったのではないでしょうか。また現実問題として今敵はいない。光秀軍以外では謀叛をする兵力事体も無い。だったら兵力を有効に活用しようとしても不思議では無いと思うのですが。四国征伐にしろ中国征伐にしろそんなに時間がかかるわけではないのですから,それが終われば秀吉か長秀を近江に戻していままで休んでいた光秀軍で九州征伐をしようという考え方もあったと思うのですが。
これも説明不足だったように思いますので,なぜこのように述べたか,を説明します。

まず,当時の織田軍は多正面作戦をしかけていました。多正面作戦を行なう上で最大のリスクは,一正面での崩壊が中心部への敵の浸透を招き,全正面が崩壊するというものです。(本能寺の変直後に似たような状況が起こりました)これを防ぐ方法として最も合理的なのが,最強の中央直轄軍を遊軍とし,内線の利を活かして(琵琶湖が重要な役割を持つわけです),ほころびかけた戦線をたてなおしたり,優位な戦線で決着をつけるのに用いる,という戦略であるように思います。

ですから,光秀軍が遊んでいたとは思いません。最重要の戦略予備であり,この役割を光秀に任せていることが,信長が光秀を信頼していた最大の証であろうと思っています。ですから,坂本城を光秀から取り上げるということを決めるのであれば,急を争うわけではない四国攻めなど中止するか,先に光秀に行かせるかして,まず光秀を戦略予備の役からはずしておく必要があると思います。(そうではなかったから本能寺の変が起こったのですが)信長としては,光秀軍基幹の戦力を率いて中国に親征するという考えは変わっていないわけですから,そのときに近江・丹波を召し上げるというのは(もしその気があったとしても)タイミングがおかしいのではないか,と考えています。

それから,安土城をすぐに攻めるものなどいない,というのは当然その通りです。わたしのいいたいことは,いよいよ安土城が攻められるという状況を想定しても,落としようがないように琵琶湖周辺の城を信長が配置していたのではないか,その配置自体が,周辺の強国への政治的圧力になっていたのではないかということです。安土城周辺に軍団長クラス(光秀以下5人)の居城を置いてあることで,琵琶湖全域を制圧しない限り安土城は落とせないという印象を持たせることがねらいだったのではないかと考えています。ですから,「あの武田を織田が滅ぼした」という衝撃で国中が浮き足立っているという最高の追い風に乗って,多正面作戦をしかけるというときに,1個軍団をわざわざ琵琶湖周辺に遊ばせておくという考えではありません。当時のタイミングで坂本城を光秀から取り上げるのは,信長の戦略構想と矛盾しすぎるのではないか,ということです。

もうひとついいますと,私が当時の丹羽長秀の居城の位置にこだわるのは,琵琶湖の制水権及び舟艇機動に関しての責任者が長秀だったと思われるからです(のちに秀吉が勝家を圧倒する重要な要因になったのが,長秀を秀吉が味方につけたことでした)。湖の制水権というのは,制海権と違って取ったり取られたりということがなく,陸上を制圧するか,大量の軍船をどこかから運んでこない限り,奪い取るのは至難の技です。

くどくなったようですのでまとめますと,

・光秀軍は戦線維持または決戦用の予備兵力として待機していたのであって,遊んでいたのではない。

・安土城の防衛構想からみて,周辺に有力武将の居城があることが重要だったのではないか。当時の状況では,安土周辺に戦力を置いておく必要は信長にはない。当時のタイミングで坂本城を光秀から取り上げるというのは矛盾がある。

ということです。
佳代:なるほど,琵琶湖が重要な役割をしていたのですね。

藤原:そうだね。久住さんのこの指摘は,本当に的を得ているように思われる。

佳代:制水権という言葉をはじめて聞きました。

藤原:うん,制海権というのは,よく使うけれども,制水権という言葉は,それほど使わないね。でも,今回の琵琶湖の制水権に関する指摘をうかがって,天下統一を左右するほど重要だということが分かった。

佳代:ホントですね。ぜんぜん気がつきませんでした。

藤原:先生もだよ。確かに,琵琶湖の水運を利用するという考えは賢いとは思っていたけれども,一度握ってしまったら取り返すのが難しいという指摘は,あたりまえのことなんだけれども,気づかなかった。

佳代:本当に面白くなってきました。それでは,続きをどうぞ・・・(^^)。

● 久住さんからの返答−4 続き

久住:実は,前田利家はキーマンだと思っています。勝家が最も頼りにしていたようですし。ただ,本当にやる気があれば,能登に前田を置いておけば上杉勢が近江に南下するのは不可能でしょうから,魚津城を落として意気の上がっていたところでもあり,南下して信孝と合流できれば勝家の思い通りに四国遠征軍も動かせ,光秀に勝てるという読みもできたでしょう。わたしとしては,上杉勢が反撃に出るまで勝家が何もしないでいたから,利家が愛想をつかしたように思います。
森田:しかし寄騎武将無しで安土にこもった秀満軍を抜けたでしょうか。また松倉城で六月四日に「本能寺の変」を知り六月八日には魚津城を完全に撤退し,佐々成政が富山に帰ったのが六月十日,北庄に勝家が着いたのは六月十一,二日のことと思われます。そして六月十八日には近江長浜に柴田勢の先陣が到着していますから秀吉ほどではないにせよ取り立てて遅いとも言えないと思います。
「寄騎武将無しで」という状況を招いたという点がおかしいと思っています。勝家がそれほど無能で統率力がなかったという解釈も成り立ちはしますが,7年もいっしょに戦ってきて,それはないんじゃないか,という気持ちをぬぐえません。
久住:一度雲散霧消したという話は確かにありますが,それでは山崎の戦に間に合わないでしょう。真っ先に光秀追討の声をあげるはずの大将が何もしないから,見切りをつけた兵は多かったかもしれませんが,軍単位や部隊単位の動きではなかったように思われます。
森田:私の知る限り北伊勢衆で信孝に心服していない物が多数いた。そして本能寺の変を聞いてその武将が率先して一旦散った。しかし伊勢に帰るには大和を横切るか海路で帰るかしなければいけない。が,筒井は光秀に付く気配を見せた。そこで帰るに帰れなかったところに信孝による信澄謀殺を聞き,また秀吉がきた事を知ってこれは秀吉側に勝機ありとして戻ってきた,とありました。

また仮に雲散霧消は大袈裟にしても山崎の合戦に参加したのは

信孝  四千
長秀  三千
津田残党   二千

とありますから一万四千いた四国遠征軍のうち五千が減っているわけです。これは信澄謀殺時にも双方へっているでしょうけどそれにしても四千以上はいなくなっているわけです。明智軍が一万三千でさらに近江衆も味方に入れたとあれば敵の半数以下の兵力で「織田軍最強」とも言われる明智軍に挑もうとしなかったのもけして不思議ではないとは思います。
同じいい方になりますが,大量の味方が散るまで,有効な手を打っていないという点がおかしいとまず思います。信孝にわからないのは当然だと思いますが,歴戦の武将長秀が兵の心理をわからないはずはない,それほど無能だったという解釈は,やはりおかしい気がします。
久住:信澄抹殺も安土城炎上と並んで,ミステリーなところです。
森田:たしかに。これもまた考え甲斐のあるものですね。
娘婿が怪しいというなら,細川にも脅迫の使者を送るべきでしょうし,人質を取ればすむものをだまし討ちにするとは,何かの口封じのような気がしてなりません。これについては結論が出ていないので何か御教示いただけるとありがたいです。
久住:話の出所が明らかでないので問題なのですが,手持ちの 雑誌の記述だと,9日に本能寺の変を知った一益は,重臣たち が秘密にすべきだというのを抑えて上州勢に知らせ,人質まで 返したので,感激した上州勢から,「光秀を討ちましょう」との声が 上がったのに対し,「一戦しないわけにはいかない」と,厩橋, 松井田両城に過半の兵を残して,6千の兵で出撃し,神流川で 敗れた。戻ってみると,山崎の戦ですでに光秀が敗れた知らせが 届いていたので,軍を解散し,上州勢と別れの杯を酌み交わして 伊勢に去った。 という話です。話の正誤は置いたとしても,神流川で戦ったこと 自体が,光秀追討を放棄したという意思表示に思われます。
森田:一益のことは全く詳しくないので思い込みだけかもしれません。上記の内容は私も読んだ事がありますが最後の「半分に分け」というのは知らなかったですね。一益に付いては自説が固まってないので質問を保留とさせていただきます。もう少し勉強して出直します。
一益の行動から思うのは,「上州での自立」を考えていたのではないか,ということです。この点についてはまだまだ考えが足りないので,同じく保留します。

● 返答−3に対する森田丹波守さんからの返答

度々申し訳ありません。が,今回の御返事でやっと「信長が光秀を最後まで必要にしていた」と言われる真意が理解できました。なるほど...。

あとは枝葉末節かも知れませんが,いま少し御質問を。
久住:まず,なぜこの話を持ち出したか,という点から述べます。本能寺攻めの一万三千は中国増援の基幹部隊であり,これに寄騎の武将が加わった,三万程度の増援軍が編成中であったと考えています。
はい。私もそう思います。
久住:当然光秀としては,近江と丹波から自らが動員可能な全力を出しているものと思われます。したがって,これに追加される兵力は,光秀の動員力の外からの支援であり,近江と丹波を比較すれば,光秀への敵対勢力の多い近江からよりも,丹波からのほうが支援を受けやすいのが自然ではないか,にもかかわらず,1.5倍の差がついているというのは,丹波における動員力の低さをあらわし,ひいては統治の難しさを示しているのではないか,という考えからです。
おっしゃる意味が良く理解できませんが。?
丹波の方が敵対勢力が少ないから兵を集めやすいという理屈は分かります。

しかし

> >  山崎の戦の参加人数
> >   近江衆(中小土豪) 約三千
> >   室町幕府衆      約二千
> >   丹波衆         約二千

この数字のうち近江衆は確かに近江侵攻後にかき集めた勢力もいるでしょうが(阿閉勢二千),しかし光秀旗下の柴田源左衛門勢一千も含まれているようですが?それに丹波衆というのは光秀直参の並河掃部,松田太郎左衛門らになっていて追加徴収の兵ではないと思われます。

そもそも丹波は光秀の中国増援軍を結成する前に信孝から四国遠征に従軍するようにとの徴兵令が出回っています。こちらにはほとんど参加していないようですが,丹波福知山は羽柴勢力下の播磨・但馬とも程近いですからそちらを無防備にするわけにもいかなかったでしょうし,丹波一国は光秀の領国ですから,光秀支配外の兵力と言うのは何千という規模でいたとは考えられませんが何かそれがあったことを示す資料をお持ちなのでしょうか?
久住:しかし,「太閤記」を信用するのか?というのは,信用できない,という立場ですので,完全に矛盾しています。ですから信用できそうな数字が載っている資料が見つからない限り,この件は保留です。すみませんでした。(どこかにありませんかね?)
うーん,私の見る資料にも「太閤記に依ると」と書いてあるか何も書いていないのがほとんどです。気をつけて探すようにはします。
久住:光秀が領民や土豪から帰服を受ける政治をしていたというのは,常に事実であったと思います。それに加えて,「信長への反感」という要素も考えると,近江よりも古い要素の残っていた丹波のほうが,光秀に好意的なのが普通ではないか,と思えてならないのです。
このへんは同じですね。軍記物の信憑性については「信用できないから使用しない」と言うのも一つの方法ではありますから,このへんは各人の資料収集のポリシーにも関わりますのでおいておきます。
久住:これも説明不足だったように思いますので, なぜこのように述べたか,を説明します。 まず,当時の織田軍は多正面作戦をしかけていました。多正面作戦を行なう上で最大のリスクは,一正面での崩壊が中心部への敵の浸透を招き,全正面が崩壊するというものです。(本能寺の変直後に似たような状況が起こりました)これを防ぐ方法として最も合理的なのが,最強の中央直轄軍を遊軍とし,内線の利を活かして(琵琶湖が重要な役割を持つわけです),ほころびかけた戦線をたてなおしたり,優位な戦線で決着をつけるのに用いる,という戦略であるように思います。ですから,光秀軍が遊んでいたとは思いません。最重要の戦略予備であり,この役割を光秀に任せていることが,信長が光秀を信頼していた最大の証であろうと思っています。
なるほど!そういう観点から信長の軍略をみると光秀軍は「遊兵」ではなくいわば「親衛隊」みたいなものだったと言うわけですね?各地に派遣される方面軍ではなくあくまで君主の直属軍ということですか。親衛隊長を任せるのだから信用していなかったはずが無い,と。よって国替えの件も後継者を任じていないからある訳が無いと。
久住:ですから,坂本城を光秀から取り上げるということを決めるのであれば,急を争うわけではない四国攻めなど中止するか,先に光秀に行かせるかして,まず光秀を戦略予備の役からはずしておく必要があると思います。(そうではなかったから本能寺の変が起こったのですが)信長としては,光秀軍基幹の戦力を率いて中国に親征するという考えは変わっていないわけですから,そのときに近江・丹波を召し上げるというのは(もしその気があったとしても)タイミングがおかしいのではないか,と考えています。
私もこの時点で召し上げるなどと言うのは言語道断だと思っています。それにその様子もありませんし。ただ,中国増援軍として毛利退治に赴き毛利征伐後,と言う時点で「石見・出雲」を光秀の領国にして,「近江・丹波」は召し上げということだったのではないか,と思っているわけです。森蘭丸の件もそういう意味で丸っきりの虚構ではないのではないかと。
久住:それから,安土城をすぐに攻めるものなどいない,というのは当然その通りです。わたしのいいたいことは,いよいよ安土城が攻められるという状況を想定しても,落としようがないように琵琶湖周辺の城を信長が配置していたのではないか,その配置自体が,周辺の強国への政治的圧力になっていたのではないかということです。安土城周辺に軍団長クラス(光秀以下5人)の居城を置いてあることで,琵琶湖全域を制圧しない限り安土城は落とせないという印象を持たせることがねらいだったのではないかと考えています。ですから,「あの武田を織田が滅ぼした」という衝撃で国中が浮き足立っているという最高の追い風に乗って,多正面作戦をしかけるというときに,1個軍団をわざわざ琵琶湖周辺に遊ばせておくという考えではありません。当時のタイミングで坂本城を光秀から取り上げるのは,信長の戦略構想と矛盾しすぎるのではないか,ということです。
なるほどなるほど。そういうことなら理解できます。確かに軍団長の城五つがありしかも一万以上の兵を瞬時に動員できる体制ならうかつには攻めようがありませんね。
久住:もうひとついいますと,私が当時の丹羽長秀の居城の位置にこだわるのは,琵琶湖の制水権及び舟艇機動に関しての責任者が長秀だったと思われるからです(のちに秀吉が勝家を圧倒する重要な要因になったのが,長秀を秀吉が味方につけたことでした)。湖の制水権というのは,制海権と違って取ったり取られたりということがなく,陸上を制圧するか,大量の軍船をどこかから運んでこない限り,奪い取るのは至難の技です。
そうですね。琵琶湖を制圧しない限り近江の制圧は不可能ですね。そう言えば琵琶湖水軍の責任者が丹羽長秀だと読んだような気もします。
久住:「寄騎武将無しで」という状況を招いたという点がおかしいと思っています。勝家がそれほど無能で統率力がなかったという解釈も成り立ちはしますが,7年もいっしょに戦ってきて,それはないんじゃないか,という気持ちをぬぐえません。
秀吉のように講和して帰国したわけでなく,また両国の北陸一帯は一向一揆の盛んだった地域でもありますし信長は宗徒の虐殺をしましたから信長横死の情報が伝わって織田家の支配を覆すのは今だ!と一揆の兆しが見えたため寄騎武将に領国を固めるように勝家が指示した,と最近読み直した本に書いてましたがその辺はどうですか?
久住:同じいい方になりますが,大量の味方が散るまで,有効な手を打っていないという点がおかしいとまず思います。信孝にわからないのは当然だと思いますが,歴戦の武将長秀が兵の心理をわからないはずはない,それほど無能だったという解釈は,やはりおかしい気がします。
既に半数が離散した(二日),しかも見方同士で争い信澄を殺した(五日)とすればすべき事は兵の収攬,味方の招集でありましょう。なにもしていないわけではなく,畿内の諸将に招集をかけています。とりあえず岸和田の蜂屋頼隆を味方にする事には成功していますし。筒井は「日和見」して動きませんでしたが。また味方を招集してもその返事が返ってくる頃にはまだ畿内では光秀が優位ですからみな即答はしなかったでしょう。再度催促する頃には秀吉がこちらに向かっていると言う情報が届いているでしょうから,あとはうつべき手が無くなったと言う事ではないでしょうか。兵の数も諸将の信望も戦の経験も有能な軍師のいる点も全て秀吉の方が上なのは分かっていたでしょうから。そして前哨戦として信澄を討ち,自分が大将として光秀をも討ちとって後継者として堂々と名乗りをあげようとしていた信孝が,秀吉軍がくればどうみても敵討軍の大将は秀吉になってしまうことにふくれて「猿ごときの下では戦はしとうない!」とごねるのを長秀が必死に説得してしぶしぶながらも山崎の合戦に間に合うように連れてきたというのが事実ではないでしょうか。
(おぼっちゃんですからね。)
久住:娘婿が怪しいというなら,細川にも脅迫の使者を送るべきでしょうし,人質を取ればすむものをだまし討ちにするとは,何かの口封じのような気がしてなりません。これについては結論が出ていないので何か御教示いただけるとありがたいです。
それは考え過ぎのような気がしますが。しかも細川や筒井とは違い信澄は同じ城にいたわけですから。手勢も少なく。それより「信孝が前々から信澄に嫉妬していてこれを機に亡き者にしようとした」とか,「信長・信忠亡き後の織田家後継者争いの対抗者を減らしておこうとして殺した」とか「信長横死で疑心暗鬼に陥ってしまった信孝が「殺らねば殺られる」と強迫観念に迫られて殺してしまった」とかいうほうが理解できます。(私は最後の説を採っています。)他の婿,例えば筒井家には「兵が不足しているから増援を欲しい」と書状を送っています。また脅迫する事により「それならば光秀についたほうが」と逆に相手側に追い込む事も考えれるわけで脅迫は逆効果だと思います。

ということで「光秀必要説」納得できました。
ということは怨恨説などはいる隙間もないですね。貴重なご意見の御教授,まことにありがとうございました。目が覚めた気がします。

● そして,終局へ・・・
佳代:いよいよ終局に近づいてきました。

藤原:それにしても,すごい議論だったね。

佳代:ハイ,本当にサイドバイサイドの大バトルでした。

藤原:すごく勉強になっただろ。

佳代:もう,なりすぎちゃって・・・(^^)。でも,歴史って,こんな風にして勉強するものだということがよく分かりました。

藤原:それでは,最後のお二方のやり取りを見てみよう。

佳代:ハイ,分かりました。

● 久住さんより森田さん宛ての手紙

・増援の数から近江と丹波における光秀の人気を見ようというのは,史料的な問題が大きいのですね。近江と光秀との特別な関係があるように思えたのですが,あらためて勉強してみます。

・勝家と長秀の動きに関しては,おっしゃる通りかと思うようになってきました。特に信孝の考えていたことは,その通り,と言いたくなるほど,彼のイメージにぴったり合っていました。

さまざまにご教示をいただきまして,大変感謝しております。ありがとうございました。さらに勉強を進めていきますので,何かの機会がありましたら,ご教示いただけると幸いです。

最後に,最近考えている推論を述べて,終わりたいと思います。
「室町幕府を滅ぼしたのは,明智光秀ではないか?」 さて,いかが思われるでしょうか。

● 森田さんより久住さん宛ての手紙

> さまざまにご教示をいただきまして,大変感謝しております ありがとうございました。さらに勉強を進めてい>きますので,何かの機会がありましたら,ご教示いただけると幸いです。

私なぞまだまだ浅学非才の身でして人に教えるなどというおこがましい事は...(^_^;)

今後も頑張って下さい。「本能寺の変における織田家臣総行動不審説」は説としてはとても面白いので是非とも発表して下さい。

> 最後に,最近考えている推論を述べて,終わりたいと思います。「室町幕府を滅ぼしたのは,明智光秀では>ないか?」 さて,いかが思われるでしょうか。

正確には光秀と藤孝でしょうね。この二人が義昭に見切りをつけたから室町幕府は消滅したとおもいます。
佳代:戦い済んで,本当にさわやかですね。

藤原:本当だね。最初はどうなるかと思ったけれども(^^)。

佳代:本当ですね。ハラハラの連続でした。でも,お二人とも,歴史を真剣に考えていて,納得するところは納得し,納得がいかないところはとことん議論するという姿勢は変わりませんでした。

藤原:そうだね,よく,議論のための議論というものがあるけれども,そういうものとは無縁だったね。きちんとした証拠を提出し,合理的な判断の材料を出し合いながら戦った。そして,相手をたたえることも忘れていない。

佳代:まさに,1000年代最後の名勝負でした。

藤原:本能寺の変の結論を出すのは簡単ではいと思うけれども,佳代ちゃんも,このバトルで,信長が光秀を本当に信頼していたという考えに自信を持つことが出来ただろう。

佳代:ハイ,自信が確信に変わりました。

藤原:あれ,どっかできいたことがあるぞ(^o^)。

佳代:エへへへへへ・・・(^_^)v。まあ,いいじゃないですか。久住さん,森田さん,本当にお疲れ様でした。
特別企画:激論バトル本能寺の変 (完)

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