「国光、明日は帰りは遅いの?」
夕食の際に母が微笑みながら尋ねてきた。
「いつも通りです」
そう答えると、母がさらにやわらかな微笑みを浮かべる。
「寄り道しないでね?」
「はい」
この人は、俺をいくつだと思っているのだか…。
だがそれはいつものことだ。
食事を再開しようと箸をとると、母が「そうだわ」と何か思いついたらしく瞳を輝かせる。
「ねえ、国光、あの子……越前くんも明日誘っていらっしゃいな」
「え?」
俺は心の動揺を悟られないように、しかし驚きだけは隠せずに、母を見た。
「だって……せっかくケーキ焼いてもみんなあんまり食べてくれないじゃないの。越前くんなら、豪快に食べてくれそうな気がするんだけど………だめ?」
胸の前で手を組み合わせて、母が俺を見る。
「………俺は構いませんが………」
「そう、じゃあ、明日ちゃんと連れてきてね」
「…わかりました」
自分の誕生日に誰かを家に呼ぶのは何年振りなのだろう。
しかも、家に連れてくるのがよりにもよって「あいつ」とは…。
「早いものね………国光も15になるのね」
「はい」
きっと母は、今までの15年を、振り返ってみているのだろう。俺の知らない時間も、この人は俺を見つめ続けてきてくれた。
「…ごちそうさまでした」
「あら、もういいの?」
「はい、充分頂きました」
俺は自分の使った食器を台所に持っていき、シンクに置いて水に浸す。
「部屋に戻ります」
「後で柿を持って行くわね」
「ありがとうございます」
階段を上がって自室のドアを開ける。
「………」
なぜか溜息が出た。
母を欺いたような気がして、心が痛い。
あの人はきっと俺のことを『後輩思いのいい息子』とでも思っているのだろう。そして、特に「あいつ」のことを気にかけているだけなのだ、と。
以前、「最近よく笑っている」と言われて、内心驚いたことがあった。
あの人は、かなり鋭い観察力を持っている。
「あいつ」とのことを気付かれてはならない、と思う。
母親なら当然、「息子」の将来にいろいろな夢を抱いているだろう。
その夢を壊してしまうのは、今はまだ、早すぎる。
「国光、入るわよ?」
ノックと共に母の声がした。
「どうぞ」
「柿、甘いわよ。味見しちゃった」
「ありがとうございます」
母の手から柿をトレーごと受け取ると、母がニッコリと微笑んだ。
「あと3年したら、もう結婚できちゃうのよね、国光」
「……法律的には、そうですね」
母が俺を覗き込んで、クスッと笑った。
「…何か?」
「ううん。あなたはどんな顔して恋人を口説くのかしら、と思って」
「………」
「じゃあね、ゆっくり食べてね」
「……はい」
母はまた微笑むと部屋から出ていった。
(恋人……)
俺は「あいつ」以外を相手にする気はない。俺にとって『恋人』と呼べるのは生涯でただ一人「あいつ」だけだ。
いつかは、この家を出て「あいつ」と共に生きていきたいと思う。
だが今は何もできない。
明日誕生日を迎えたところで、所詮はただのガキだ。何をするにも『保護者の承諾』がいる。
悔しい。
今の俺には、まだ何もできない。
「あと3年、か…」
成人するにはそれからさらに2年かかる。
それまでに、自分で自分のことを全てこなせるようにならないといけない。
親には頼らずに、一人でも生きてゆけるようにならなければ。
就寝の挨拶をして部屋に戻り、だがまだ眠る気になれずに机に向かう。
読みかけだった本を開いて読み始める。
だがどうしても本の内容に集中できずに「あいつ」のことを考えてしまう。
逢いたい。
どうしようもなく、逢いたいと思う。
春先の俺は、こんな風に誰かを渇望するなど考えたこともなかった。
任された『部長』という責務と、周りから切望されて勤めようと決心した『生徒会長』という役職。
重圧がないわけでもなかったが、それでもその重圧を良い方向に転換させることができていた。
だが決して誰かを心の拠り所にしたことなどなかった気がする。
「あいつ」と出逢って、「あいつ」を認めて、気が付けば誰よりも俺の心の奥に「あいつ」は住み着いていた。
そしていつの間にか、俺は「あいつ」のいない時間にも、「あいつ」のことを考えるようになっていた。
逢いたい。
今すぐ、触れ合いたい……
コツン。
窓ガラスに何かがぶつけられた?
俺は机のすぐ横の窓を開けて外を見た。
(………!?)
あいつが「降りてこい」というように手招きする。
俺は頷くと窓を閉めた。
時計は12時を回っている。
家族に気付かれないように、足音を忍ばせてそっと玄関から外に出た。
しっとりとした空気の中で、あいつが立っていた。
「どうした?こんな時間に」
こいつがここにいる理由など、本当は分かっているが訊いてみる。
「…別に。もう寝てた?」
「いや…。少し歩くか?」
「うん」
夜の住宅街では、声を潜めていても話し声というのは響くものだ。
俺は近くの公園に、こいつを連れていくことにする。
二人分の足音が道路に響く。
時折彼の足音が早まるのを聞いて、少し歩調を緩める。
何も喋らないまま、俺たちは公園に着いた。
俺は黙ってついてきた彼を振り返った。
「…まだまだ子どもだな」
「え?」
自分のことを言われたと思ったのか、一瞬ムッとしたように彼が俺を見る。
「まだ何もできない…俺一人の力では、何も」
さっきまで俺がずっと考えていたことを口にしてみる。
彼がクスッと笑った。
「何がしたいわけ?」
俺は彼の瞳を見つめた。
公園の電灯に照らされて淡く輝く瞳が、俺を引き込んでゆく。
「…ずっと、お前と一緒にいたい」
「!」
彼が驚いて目を見開く。
「だがまだ、やらねばならないことがたくさんある。法律的にも一人では生きてゆけない」
心の中の悔しさを隠したつもりが、彼には見透かされているような気がした。
「ねえ」
不意に、彼がいつのも生意気な口調で言う。
「…プロポーズしてんの?」
口調の割にやわらかな微笑みを浮かべて、彼が言う。
「プロポーズは自分の稼いだ金で指輪を買ってするものだろう?」
形式張っていると言われるかもしれないが、俺は決められたこともできないようなものは世間を黙らせることなどできないとも思っている。
だが彼は、自分が女性扱いされたと思ったのか、あからさまにムッとした顔をする。
「指輪なんかいらないっスよ」
「ケジメの問題だ」
「ふーん」
俺の言った意味がわかったのかは疑問だが、自分が女性扱いされたのではないことだけは分かってくれたようだ。
不意に、彼の瞳が、大人びた、それでいて挑発的な光を湛える。
「でもあんまりノンビリしてると、オレが先に、アンタにプロポーズするよ?」
まただ。
彼はいつも、俺の予想を上回る反応と言葉を返してくる。
俺がモタモタしていたら、自分から求愛すると言ったのだ。
こんなにも、遠回しで直接的な言葉はない。
「……まったくお前は……」
「え…」
彼への愛しさが膨れ上がった。
そっと彼を引き寄せて口づける。
素直に応えてくるのが堪らない。
それでも、なんとか俺の理性は保たれた。
そっと唇を離して彼を見つめる。
「プロポーズの予約だ」
その言葉を聞いて、彼が微笑む。
「キャンセルは受け付けないっスよ」
彼の一言一言が嬉しく思える。
俺はきっと、微笑んでいただろう。
「当然だ」
そっと身体を離すと、彼が瞳を揺らしながら見上げてきた。
「早くオトナになりたい…」
「……ああ」
もしかしたら、彼も、俺と同じように何もできない自分に苛立っていたのだろうか。
少しの間俺と彼は何も言わずに見つめ合った。
話したいことが、本当はもっとたくさんある。
だが、彼には飾り立てた言葉など通用しないと分かっている。
どんなたくさんの言葉より、彼が望んでいること、それは………
「あ、そうだ、大事なこと言うの忘れてた」
いきなり彼がそう言って微笑んだ。
「HAPPY BIRTHDAY」
綺麗な発音でさらりといわれ、俺は一瞬応えに詰まる。
「…ありがとう、リョーマ」
名前を呼んでやると、彼が嬉しそうに微笑んだ。
彼の身体を抱き締め、もう一度口づける。
彼の腕が俺の背中にまわされ、しっかりと抱き返してくれた。
本当に、このままさらっていきたい。
だが、本気で想うからこそ、今はまだ、無謀な行動をするわけには行かない。
それはきっと彼も分かっている。
「今日はもう遅い。送ってやる」
「いいっスよ、一人で帰れる」
彼は自分の口元に指で触れながら横を向いてしまう。
「心配だからじゃない。もう少し、一緒にいたいだけだ」
「え…」
彼が驚いたように顔を上げる。
「行くぞ」
「うん」
俺はそっと左手を彼に差し出した。彼が右手を伸ばしてくる。
しっかりと手を握り合って、俺たちは静かな夜の道を、二人で歩き始めた。
「明日…ああ、もう『今日』だが…部活の後で俺の家に来い」
「え?いいの?」
「ああ。できれば次の日の授業の用意もしてこい」
黙ってしまった彼を不審に思って横を見ると、夜道でも分かるほど、彼の頬が赤く染まっていた。
「都合が悪いのか?」
少し意地悪く聞いてみる。
「…泊まって、いいんスか?」
「お前さえ良ければ、だがな」
彼がギュッと俺の手を握りしめてきた。
「俺の誕生日くらいは、ずっと傍にいろ」
「………ういっス」
彼への愛しさが、俺の胸に満ちてくる。
誰にも渡さない。こんなにも愛せる存在を、手放したりしない。
「あと5年待っていろ」
「え…?」
「必ず、俺のものになってもらう」
「もうアンタのものでしょ。アンタは俺のだけどね」
何を今更、とでも言いたげな彼の瞳に見つめられた。
かなわない。
「…そうだったな」
俺は足を止めた。
「言い方を変えよう。二人でずっと一緒に生きてゆく約束を実行しよう」
彼は微笑んだ。
「了解」
俺も微笑んだ。
そしてまた歩き出した。
空には無数の星たちが煌めいている。
だが、どの星よりもひときわ美しく、強く輝く星を、俺はきっと手に入れたのだ。
「ねえ」
彼が俺を見上げる。
「ん?」
「生まれてきてくれて、ありがとう、くにみつ」
その言葉は、生涯最高のプレゼントになった。
END
2002.10.10
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