「こんなとこにいたんスか?部長」
誰もいないはずの視聴覚室のドアを開け、リョーマはそこに探していた男を見つけて声を掛けた。
「他の先輩たちが探してましたよ、部長」
「もう部長じゃないと言っているだろう」
大きな窓から外を眺めていたその男は、ゆっくりと振り返って小さく微笑んだ。
「いいじゃん、オレの中ではアンタは『青学テニス部、部長の手塚国光』なんだから」
階段状に並んでいる机の間を縫って、リョーマは手塚の横に立った。
「青学、か…」
「部長…?」
手塚が、再び視線をグラウンドに向けて呟く。
先程までリョーマと戦っていた、あの猛々しい雰囲気は、今の手塚からは感じられない。
全国大会が終わり、すぐにアメリカに飛んだリョーマは、U−17日本代表として日本での合宿のために一時帰国はしたものの、またアメリカへ戻り、武者修行の日々を送っていた。
だが、やり残したことがあり、再び日本に戻ってきたのだ。
それは、手塚との本気の試合。
父を倒したいという執念のような想いでテニスを続けていたリョーマを生まれ変わらせた、あの高架下のコートでの手塚との一戦以来、ずっと切望していた再試合。
それを叶えるために、手塚が、この青春学園で過ごす最後の日に、リョーマは戻ってきた。
そして実現した試合。
青学テニス部員としての最後の試合を、二人は、存分に楽しんだ。
試合と言うからには、勝者と敗者という結果に別れはしたが、その結果よりも、お互いが、今持てる力をすべて出し切って戦えたことに満足した。
二人の胸には、もう、何も思い残すことはなかった。
「こんなことを言うのはおかしいかもしれないが…」
手塚が、グラウンドを、いや、遠くに見えるテニスコートを見つめながら、穏やかな声で呟く。
「本当は、卒業など、したくはないんだ」
リョーマは小さく目を見開いた。
「本当に、このままずっと、このメンバーで、テニスをしていられたらと………考えそうになる」
「部長…」
「この先の未来に不安があるわけじゃない。先に進みたくないわけでもない。ただ、ここで過ごした時間があまりにも輝いていて、充実していて……楽しかったんだ」
手塚がゆっくりと息を吐き、そっと目を閉じる。
「この時間がずっと続いてくれたらと、叶わないことを願ってしまうほどに」
リョーマは、手塚の横顔を見つめながら瞳を揺らした。
こんなにも切なげな手塚の表情を、初めて見る気がした。
「………アンタの口からそんなセリフが聞けるとは思ってなかったよ」
吐息のように小さく、手塚が笑う。
そうして手塚がまた静かに目を開けて見つめるコートへ、リョーマも視線を流した。
「アンタはいつだって、冷静で、合理的で、理性的で……そんなふうに感情に流されるとこなんて、想像したことなかった」
リョーマの言葉に、手塚は短く沈黙した。
「俺自身、驚いている。自分がこんなにセンチメンタルになる時が来るなんてな」
手塚の言葉にリョーマはクスッと笑みを零した。
「ホント、似合わない言葉っスね。アンタがセンチメンタルなんて」
手塚もクッと笑う。
「はっきり言うな」
「アンタに今さらオベッカ使ったってしょーがないっしょ」
静かな教室の中に、クスクスと笑う二人の声が優しく流れる。
「………でも今のアンタ、結構いいよ」
「え?」
笑みを消して、手塚が意外そうにリョーマを見下ろした。
「ソーユー、ちょっと凹んでるアンタも、たまにはいいってこと」
「………」
複雑そうな表情で黙り込む手塚を、リョーマはちらっと見遣る。
「慰めてあげたくなるっていうか……さ」
「慰めてくれるのか?」
手塚が身体ごとリョーマの方を向き、真っ直ぐに見つめてくる。
リョーマはまたチラリと手塚を見上げ、俯き、そして手塚がしたように真っ直ぐ手塚に向かい合い、顔を上げた。
「………テニスでもする?」
頬が熱いのは、きっと傾いた陽の光が当たっているせい。
だが、手塚の穏やかな瞳にドキドキして声が微かに震えてしまう理由は、リョーマにはよくわからない。
「ああ……そうだな……」
優しい優しい手塚の微笑みと声に、リョーマの胸が熱くなる。
「今度は試合じゃなくて、ずっと、ラリーしません?」
「え…?」
「暗くなって、ボールが見えなくなるまで、ずっと、打ち合いしようよ」
「……越前…」
手塚の瞳が、眼鏡の奥で微かに揺らぐ。
「先輩たちは、みんなそれぞれの道へ進むんだろうけど、オレは、きっと、ずっと、アンタのあとを追っかけていくよ」
「……」
手塚がはっきりと、目を見開く。
「たまに抜かしちゃって、先に行くかもしれないけど」
「………」
「でも、その時は、ちょっとだけ、待っててあげてもいいっスよ?」
リョーマが手塚を真っ直ぐ見つめ、フッと微笑むと、手塚も穏やかに微笑んだ。
「待たなくていい」
「え?」
穏やかに、だがきっぱりとした声で、手塚は言う。
「お前が俺を追い抜くことはないし、万が一にも追い抜かれたとしたらその時は、俺は、全力でお前に追いつく。だからお前は、立ち止まったり、振り返ったりしなくていい」
「……」
「お前はそのまま、自分の道を、真っ直ぐ進め」
「………」
手塚の瞳が、いつものように強い光を宿す。
それが嬉しくもあり、同時に、わけもなく、切なさがリョーマの胸に込み上げた。
(部長とオレは、別々の道を、行くんだ)
それは至極当然なことであるはずなのに、手塚の小さな拒絶に、リョーマは微かにショックを受けた。
だが手塚は、ほんの少し表情が強ばってしまったリョーマを柔らかな瞳で見つめる。
「俺とお前の道は同じ道ではないかもしれないが、たぶん、行き先は同じところだ。同じ道なら、どちらかが先に行ったり、後ろについたりしなければならないだろう。だが、俺たちは、それぞれ自分の道を、ただひたすらに、たった一人で、走り続けるんだ」
一旦言葉を区切り、手塚はそっと、リョーマの肩に手を置いた。
「同じ場所へ、同じ早さで、隣に並んで、な」
リョーマはハッとして目を見開いた。
「部長……」
手塚が静かに頷く。
「俺の道は、常にお前の道と並行している。だから気を抜くな。立ち止まるな。振り返るな」
グッと、手塚の手に力が入る。
「俺はいつも、お前の隣にいる」
「……」
「いいな?」
呆けてしまったリョーマの瞳に、みるみる強い光が戻ってくる。
「………ういっス!」
「お前に伝えたいことはそれだけだ」
手塚が、ポンと軽くリョーマの肩を叩き、手を下ろす。
「じゃ、今度はオレからアンタに伝えたいこと、言うよ?」
「ん?」
「卒業オメデト、部長。三年間、お疲れ様っした!」
手塚が一瞬目を見開き、そしてふわりと微笑む。
「………ありがとう、越前」
「もうひとつ!」
「え……」
リョーマは手塚の左手を取り、そっと両手で握り込んだ。
「これからもずっと、よろしくお願いします!」
「……ああ、こちらこそ、よろしく頼む」
二人はそのまま、暫し見つめ合った。
もっと違う言葉で伝えたい想いが、それぞれの胸に込み上げてきた。
だが今は、このままでいい、と二人は思う。
「コートに行こう、部長」
「ああ」
二人は、それぞれの道を、全力で駆けてゆく。
同じ想いを胸に抱き、
並行する道を隣に並んで、
ただひたすらに、
ひたむきに、
同じ場所へ向かって。
そしてその場所に辿り着いた時、初めて自分の想いを、違う言葉で伝えようと二人はそれぞれ思う。
Separate Ways
彼らは、それぞれの道を、それぞれの想いを胸に、走り続ける。
いつか辿り着く、遥かな高みへ。
大切で、大事で、誰よりも特別になった存在とともに。
HAPPY-ENDLESS
※テニミュ四代目卒業公演にて、手塚部長の挨拶を聞き、発作的に書きたくなりました※