草食獣への手紙by吉岡生夫

目次 ダンディスト町野さんの置土産 そこはかとなき墓の歌 前田宏章さんの歌
句またがりの来歴 高瀬一誌の初期歌篇を読む 私の五句三十一音詩史
短冊短歌と応募原稿 葛やんの大阪 日本語と五句三十一音詩
岸上大作(忘れ得ぬ歌人たち) 贈答歌再発見〜辞世の場合〜 歌の未来図〜文語と口語〜
歌の未来図〜あるいは歌の円寂するとき〜 辞世あれこれ 字余りの鳥瞰図〜土屋文明『山谷集』〜
短歌の出前講座〜地方歌人クラブの試みとして〜 短歌の出前講座 短歌は恥ずかしいか
文語体と口語体

ダンディスト町野さんの置土産(「短歌人」平成15年5月号)
 『大伴家持論1』の著書がある町野修三さんが亡くなられた。『ダンディスト』は最初にして最後の歌集ということになる。意外であった。その『ダンディスト』も何時からの作晶が収録されているか明記されていない。「あとがき」は、二〇〇二年六月三〇日、発行日は八月一〇日、掉尾を飾る作晶を挙げる。

 すべり台に孫は遊ばせ爺ちゃんのうつらうつらの春のひだまり

 町野さんの孫さんであるかどうかも歌集からは読み取れない。であってもよいし、なくてもよい。ただ昨日があり、今日があり、明日がある。そのことを疑わないように歌集は終わっている。わずかに、

 抜ける毛のとめどあらねば緑なすスキーの帽子を被って眠る

あたりで足を止めるばかりである。「いまごろになって歌集を出す気になりました」「いままで通り詠み捨てのままでよいはずなのです。でも何故か一冊の歌集にまとめたくなりました」(あとがき)。そうだったのか。町野さんは身辺を整理するように歌集を編んだのだ。やはりダンディストである。

 春やはる春燗漫の花粉症目もとうるませオッチャンも行く
 忙しいことが自慢でよく喋るこのオバチャンらには逆らわず居る

 爺ちゃんが出てくるかと思うとオッチャンやオバチャンも出てくる。ダンディスト町野さんは大阪のオッチャンだったのだ。

 音響関係の仕事と誇るオイヤンは粗大ゴミの日にアンプを狙う

 そうかと思うとオイヤンも登場する。オイヤンとは誰か。〈自動車の古バッテリーが押さえいるテントの端がバタバタとする〉。青テントの住人すなわちホームレスなのだ。

 雑踏の中に毅然と老いは立つ風俗店の看板持ちて

 ダンディストの目に映った老人は何に対して毅然としているのか。おそらく孤独あるいは死。オイヤンの一連の中には行旅死も歌われていた。やはり「あとがき」に「高度に機能的な現代社会に働く一方で、木造の昔ながらの古家に棲むという、どこかに齟齬を感じながら生きてきた男」とある。そんなライフスタイルが育てた温もりである。
 ご本人は詠み捨てのつもりだったのかもわからないが、よくぞ纏めておいてくれたものだ。なかなかに読み捨てとはいかない。

 「取り急ぎ御礼まで」と簡潔な礼状されど急がぬものを

 「取り急ぎ」を連発している私には一番こたえた歌である。さはさりながら、である。同じ視線が自身に向かうと〈出でゆけば必ず帰ると妻や子は吾を恃みてまた見くびりて〉となる。つまるところ縦横無尽なのだ。

 漬物が歯にひっかかり人生についての思惟もこれまでとなる

 この歌の前に〈男とは人生とはと酔えば云う屋台のオヤジに笑われながら〉があってダンディスト町野さんの諧謔ないし韜晦が偲ばれるのだった。

 ゆくりなき身震いひとつ体温の流れるような朝のゆまり
 外出時の儀式のように確かめる鍵の内部でカギ掛かる音
 たわやすく紙に切られし中指に仁丹ほどの血の玉滲む
 按摩機の心こもらぬもみ具合さはさりながら口答えせず


そこはかとなき墓の歌(「鱧と水仙」第22号)
 いにしへの小竹田壮士(しのだをとこ)の妻問ひし菟原処女(うなひをとめ)の奥津城ぞこれ
                                              田辺福麻呂
 葦屋(あしのや)の菟原処女の奥津城を往き来と見れば栗のみし泣かゆ
                                              高橋連虫麻呂

 万葉集巻九。奥津城、詞書では墓となっているが私たちが想像する和型三段墓ないし石塔が林立する墓地でもない。阪神電鉄石屋川駅を下りてほどなくのところに処女塚とあるのが、それらしい。古墳である。場所は神戸市東灘区御影塚町、芦屋市ではない。また処女塚を挟むかたちで阪神電鉄西灘駅近くに西求女塚古墳跡、阪神電鉄住吉駅近くに東求女塚古墳跡がある。
どうやら菟原処女を争った二人の男に模しているらしい。

 さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か

 塚で思い出したのが上田秋成の『雨月物語』にある「浅茅が宿」である。ときは室町中期、商いで京に上った男は戦乱で帰郷できない。盗賊に遭い、病気をし、とこうするうちに七年の歳月が流れていた。ようやくの思いで再会した妻はさめざめと泣くが一夜明けるとそこは廃屋だった、という語である。右の歌は寝所の床下の塚に墓標代わりの板に認められていたものである。
ところで墓とは何か。平凡社の『国民百科事典』によると「霊魂信仰が支配的であった時代には、死体と死者の霊魂とは区別して考えられており、とくに日本では、死体はけがれたものとして打ち捨て、その申の霊だけを尊びまつるものであった。一部の上流社会では、埋葬場所に墓碑を建てることもあったが、庶民の問にまで流行するようになったのは、ほとんど近世に入ってからのことで、墓といえば石塔を指すまでになった」とある。インターネットに接続して日文研の和歌DBで検索してもはかばかしい結果を得られないのは、それもあるのだろう。
 いきなり時代は飛ぶが現代である。

 吹きとほる風のそよめき、線香は、ほむら立ち来も。卒塔婆のまへに
                                      釈遁空『海やまのあひだ』

 奥津城、塚とくれば卒塔婆へと連想が働くが、これは五輸の塔の形状に切り込みの入った板である。詞書に「左千夫翁五年忌」とある七首の中の作品。墓のそばに立てた卒塔婆に線香の
煙が棚引いているのであろう。

 今日よりは旅びとならずいとし子のなつ子が墓をここにし持てば
                                      窪田空穂『鳥聲集』
 シベリヤのチェレンホーボの丘の上捕虜番号を記せる墓標
                                      窪田章一郎『ちまたの響』
この世なる今日の逢いかな地深くとどまりいましぬたらちねの骨
                                      窪田章一郎『雪解の土』

 一首目は東京に墓を建てたことの感慨であろう。なつ子の死は大正五年〈生まれたる家をいだしてただひとりさみしき方にわが子をぞやる〉とも歌っている。二首目は「六月の氷雪」中の一首。詞書は「バイカル湖の西北チエレンホーボに弟の墓がある。たまたま新聞紙上に復員者の談語をよんで」。「捕虜番号」が非情である。三首目は「改葬」七首に含まれる。章一郎の母すなわち空穂の最初の妻の死は大正六年、なつ子の母でもある。そして信濃から上京した空穂が家庭を持ち、東京に墓を建て、戦争で家族を喪い、章一郎の代になって改葬するという一家族の歴史が見えてくるようでもある。

 北緯三五度東経二二九度相模湾沖きみが奥つ城      雨宮雅子『昼顔の譜』

 「海洋葬」七首の内の一首。自然葬というのは基を持たないのだろうか。アパート式納骨堂とは本質的に別のものだ。烏のように獣のように清々しくはあるが、周彫とりわけ家族の理解を始めとして越えなければならないハードルは高いのではないだろうか。

 博物館整理番号121、414なり殉死者頭蓋は           香川ヒサ『マテシス』

 生きて非情、死んで非情。まちがっても博物館では眠りたくないものだ。そういえば神戸で行なわれていたポンペイ展で噴火の犠牲者をプラスチックで型取りしたのを見たことがある。
これも残酷なものだ。
 次に、ちょっと視点を変えて墓の歌を覗いてみたい。すなわち墓碑刻である。

 うきこともうれしき折も過ぬればたたあけくれの夢計なる       尾形乾山

 歌の前に「放逸無惨八十一年一口呑却沙界大千」、歌の後に「霊海深省居士」とある。霊海は号、深省は名。乾山はもと窯名であった。呑却は丸呑み。沙界は恒河沙世界。無量無数のも
の。大千は三千大千世界だろう。それを一呑にして顧みれば、ということか。放逸無惨が実にカッコイイ。尾形光琳の弟。墓は東京都豊島区西巣鴨の善養寺にある。

 くるに似てかへるに似たりおきつ波立居は風のふくにまかせて    貞心尼

 『はちすの露』を読むと「くるに似てかへるに似たりおきつなみ」という貞心尼の上句に対して良寛は「あきらかりけりきみがことのは」と和したとある。貞心尼の死は良寛の死から四十年を経た一八七二年である。それまで胸に暖めていたのだろう。墓は新潟県柏崎市常磐台の洞雲寺。惜しむらくは墓碑刻とは知らずに写真に撮ってきたことである。
 右の二首は拙著『辞世の風景』(和泉書院)でも取り上げている。そこで次は写真も用意したが最後に外した歌を紹介する。

 我もまた身はなきものとおもひしがいまはのきははさびしかりけり    恋川春町

 墓は東京都新宿区新宿二丁目の成覚寺にある。だれかの歌が下敷きにあるのだろうがわからない。在原業平を思ったりしたのであるが、いずれにしろ歌がイマイチである。類似ということなら菅原遣真の〈東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな〉に対する源実朝の〈出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春をわするな〉、清水宗治の〈をしまるる時ちれはこそ蓬すはの花も花なれ色も色なれ〉に対する細川ガラシャの〈ちりぬへき時しりてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ〉が思われる。こちらには創作の影が見え隠れするのだがどうだろうか。

 朝によし昼になほよし晩によし飯前飯後その間もよし           小原庄助

 生前に建てる墓を寿蔵という。これにちなんで辞世を寿世と呼んだのは曲亭馬琴であった。さて小原庄助の墓は福島県自河市大工町の皇徳寺にある。羅漢山人の墓のそばの徳利に盃をか
ぶせた形の墓がそれだ。戒名は米汁呑了信士。今でいうアイデア墓の主は会津塗師久五郎。採用しなかったのは資料が不足していること、小原庄助に具体的なモデルはいなかっただろうと
いう二点からである。

 私が死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう       山崎方代『こおろぎ』
 ひとつの死はその死者の中に棲まひゐし幾人の死者をとはに死なしむ
                                           稲葉京子『天の椿』

 最初の墓とは何か、という問題にもどるのかも知れないが、寺の多くで無縁仏となるために公告されている墓を見ると、ある感慨に捉われる。とりわけ立派な墓の場合はそれが強い。常民の習いといえばそれまでだが、いったい誰が想像したことだろう。
 ただ歌謡としての御詠歌に耳を傾けるとき、十返舎一九は『金草軽』で「何人の作意なるや、風製至て拙なく手爾於葉は一向に調はず、仮名の違ひ自地の誤謬多く、誠に俗中の俗にして、論ずるに足ざるものなり」と鱒膠もないが、哀調を帯びた節回しと鈴の音が加わることによって、そこはかとなく漂う人の気配がなつかしいのである。


前田宏章さんの歌(「白珠」平成18年6月号)
 依頼を受けたのは『昔のむかし』の批評であるが、これがあまりにおもしろかったので第一歌集『喜劇の周辺』を読み、第二歌集『道化の眷属』を読んだ。そして「犬たちへの鎮魂歌」と副題のあるエッセイ集『ダンボール箱のかぐや姫』を読んだ。このうち『道化の眷属』は国立国会図書館で検索したがなかった。大阪府立図書館にもない。大阪市立中央図書館にもない。ようやく堺市立中央図書館で手にすることができたが勿体ない話である。
 この中で作者の素顔を最も語っているのは、言うまでもないが『ダンボール箱のかぐや姫』であろう。これにくらべると歌集は一筋縄ではいかない。『昔のむかし』から一例を挙げてみる。

 甘党の父の忌日に供えたるおはぎ二つを夫婦で食べる
 「よい人は早死にする」とある日言いし父は八十九となりたり
 七十の手習いを始めし老父 な、なんと百まで生きるおつもりか

 三人の父親で本物はどれか。クイズみたいなものである。しかし虫眼鏡で足跡を辿っても作者には行き着かない。『喜劇の周辺』にもどって「あとがき」を読むと小見出しは任意であること、そして「連作や題詠によるものではありません」と述べている。つまり虚実ないまぜ、同一の「われ」というシチュエーションでは読み解けない理由がそこにある。一作完結型の歌人であるらしいのだ。逆に言えば、これで読者としてのスタンスも決まる。

 東京弁で「馬鹿」といわれて腐る子に「アホかいなー」と励ましてやる

 『全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路』という本もあるぐらいでアホの地域の総本山の人間がバカの地域の総本山の人間からバカのレッテルを貼られる。腐らないわけがない。それに対して父親の「アホかいなー」には情愛が籠もっている。なんなら『大阪ことば事典』を開くとよい。「アホ」に対する独特のニュアンスが理解できるだろう。堆積された言葉の歴史が作品のリアリティなのであって、作者の実生活によって担保されるわけではない。
 もう少し前歌集に拘るが『道化の眷属』の「あとがき」に「第一歌集の文語体、歴史的仮名遣いから第二歌集では口語混じり、現代仮名遣いに変更」したとある。これに関連して「助動詞、助詞『なむ』の『む』を自動的に『ん』と表記するのには、いまなお抵抗」があると述べ、端的に「『ん』では、この床しい『む』への百年の恋が一挙に醒めるおもい」だと告白している。あと一つ、

 寒の入り生暖かく夭折の芸人の無軌道をなつかしむ

横山やすしの雲助事件に関連して「僕は彼の愚かしい一生が好きです。彼も、あの運ちゃんも瓦版屋も、どこか可笑しく、飾らぬ自己主張を持ち、生き生きとしていて、どうしても憎めない。僕の『道化の眷属』のメンバーなのです」というくだりである。この時点でいうならば私は作者の片思いであったろうと思う。それがそうでなくなるのは先に引用した「む」に対する愛着から自由になったときである。シンパシーから文字通りの同じ地平、サラブレッドの一群だった歌人は、いきなり短歌前衛に躍り出たのである。

 レンジにてチンして食べる 仏壇にチンして食べたは昔のむかし

 作者のいう「典雅な文語体」の対岸に立ったのである。同じ「チン」というオノマトペで対比される現代と、おそらく作者の少年時代の記憶、懐かしさと批評の混在する一首である。典雅な文語体を意識していえば卑俗な口語体ということになろうか。

 人前でのわれを支えてくれるものネクタイ、背広、パンツのゴムヒモ

 初句から四句までを「うんうん」「なるほど」「そのとおり」と同感しつつ読んできた読者も結句では度肝を抜かれるに違いない。しかし作者に下心があるわけではない。実感に即していうならばこうなる、それだけのことなのだ。拍手喝采の読者もいるが、眉を顰める読者も多いことだろう。理由は簡単である。和歌の流れを汲む短歌の世界では今以て雅語の伝統が生きている。「パンツ」も「ゴムヒモ」も俗語すなわち短歌版「放送禁止用語」なのだ。

 聖俗は分ちがたくて喉仏、その間近くに喉チンコある

 先にレンジのチンと仏壇のチンがあった。こんどは「喉仏」と「喉チンコ」である。「喉チンコ」を辞書で引くと「口蓋垂」とある。しかし「口蓋垂」では、この歌に限らず歌にならないだろう。硬いのである。歌は医学論文や公文書ではない。そこで俗称が登場する。日常生活はネクタイや背広、パンツのゴムヒモだけではない。身体の各部までもが聖俗分かちがたく存在するのであった。

 虫の知らせを時には信ずもともとは精虫という虫だった僕
 音もなく防犯カメラが目を向ける 回覧板を持ってきました
 わが家にも金色の空間ある不思議 僧のうしろに坐りて眺む
 「もういいよ」と死んだ母ちゃん言うまでは検査も手術も受けて立ったる

 『道化の眷属』の「あとがき」で述べていた「口語混じり、現代仮名遣い」は『昔のむかし』に至って、さらに開眼、雅語と俗語の敷居を取り払うことになった。これに笑いがミックスした世界である。一首目、「虫」で始まる身体感覚表現は多い。逆に「腹の虫」など「虫」で終わる言葉も多い。あの虫たちの正体はなんなのか。答の一つがここにある。二首目、昔の歌謡曲「隣組」の詞に「廻して頂戴回覧板/知らせられたり知らせたり」があるが、世の中も様変わりしたものである。三首目、仏壇には金仏壇と唐木仏壇があるが、この場合は金仏壇であろう。正式には漆塗り金仏壇、なにもない家だと思ってきたが、中尊寺の金色堂が隠れていた、そんな不思議であろう。四首目、結句「立ったる」の「たる」は『大阪ことば事典』によれば「動詞に付き、…してやるの意」。もとより「死んだ母ちゃん」が何か言うわけもない。啖呵は不退転の意思表示であろう。作者は昭和十六年生まれ、早稲田大学を出て読売新聞大阪本社に勤務、四十五歳のときに腎不全、以来人工透析の生活だったと「あとがき」にある。著者略歴の最後は平成十六年「黄泉の国へ旅立つ」、遺歌集は作者の意を体した夫人の手になるものだ。

 オスという挨拶をおぼえた少年がきょうはにかみて会釈してゆく
 このビルで一番親しみやすき貌 モップ片手の寡婦らしきひと
 ネクタイ姿の今日は買わずに帰ろうか揚げたてコロッケ匂う店先

 第一歌集が『喜劇の周辺』、第二歌集が『道化の眷属』と、どちらも笑いというものを強く意識した命名となっている。しかし鋭い切れ味のする前二歌集に比較すると『昔のむかし』は大阪弁のせいもあるだろうが概して温かい。その印象は『ダンボール箱のかぐや姫』の一節「平凡な犬たちとの心の会話を楽しみたい。平凡だからこそ、友達になれるというものだ。/この物語は、こうした凡庸犬たちへの僕の切ないラブ・コールでもある」に似ている。「犬」を「人」に置き換えてみるとよい。「凡庸犬」を「凡人」に置き換えてみるとよい。作者のラブ・コールは戦後の少年時代に端を発し、遠く時間と時代を同じくした人たちに及んでいるのだ。

高瀬一誌の初期歌篇を読む(「短歌人」平成18年11月号)
 『高瀬一誌全歌集』の『初期歌篇』には昭和二十五年から昭和五十六年までの作品が収録してある。年齢にして二十一歳から五十二歳、序数歌集の期間よりも長いだろう、異色の『初期歌篇』でもある。
 まず二十代の作品から見てみよう。

  途方もなく夢ある童話つづりたくこの夜心に組み立ててゐし

 昭和二十六年の合同歌集『飛天』に収録。作歌時は二十一か二であろう。旧かな、文語体。このまままの路線を歩んでいたら、そんな興味も津々の作品である。

  デスマスクとると指にてぬる油 女の貌だれにも渡さず

 昭和三十一年の「短歌人」に載る。四句が五音、後年の展開を予想させる作品でもある。そういう意味においても年譜による検証は必要ないだろう。愛の絶唱に数えたい。

  自殺出来ぬさびしき貌を円形の硝子に寄せて魚泳ぎぬ

 昭和三十二年の『新歌人会年刊歌集』に収録されている。きっちり定型、ちょっと地味な作品だが注意を惹く。まず作者の口から自殺という聞き慣れない言葉が出てくる。そして四句の接続助詞「て」によって一首の文脈に揺れが生じる。つまり初句から読むと「さびしき貌」は人でなければならない。しかし結句によって「魚」となる。おそらく飼われる金魚と、それを眺める作者が重なっているのだろう。なお「短歌人」昭和三十三年一月号をもって旧かなの時代が終わる。
 次に三十代の歌。

  死んでもまぶたを閉じぬ魚の眼かたく煮るとき遠き喝采

 昭和三十七年刊『十月会作品U』に収録。第一歌集のタイトルとなった「喝采」の初出である。これ以後も三十七年〈われに残る喝采あるや 獣の血洗うとき水ほとばしりいる〉、昭和四十年〈撃たれたる鳥の翼が両手のように空をきる あれが喝采かも知れず〉、昭和四十四年〈もっとたくさんのアドバルーンあげよ喝采のごとくあげて見よ〉と続く。
 ほかにも繰り返して登場する素材は多い。たとえば海・魚・蟹・鳥・エレベーター・気球・道化・ちんどん屋・サウナ・ヘリコプターなど、である。これらとの関係であるが偏愛というにはあたらない。作者に先行するイメージがあってのことでもない。むしろ言葉が、あるいは素材そのものが作者に啓示を与えることがあった。高瀬にとって歌とは、その折々の輝きの発露であったろう。

  石ければいつも音して夜のさびしきわが歩きかた

 三句欠落。すでに高瀬調である。そして結句の処理の仕方にも注目したい。一般的には「わが歩みおり」式になるところを客体化している。昭和三十七年〈魚のはらわたかきまわす男の手もっとも冬のかたちせり〉ほかバリエーションは多い。感傷の回避あるいは抒情の回避と呼んでおこう。

  無駄でもセスナがビラまきちらすときのきらきらを見よ

 どこで切ればいいのか。四・六・八・七、やはり三句欠落か。本来であれば二句は助詞「を」を伴うところであるが、それがない。短歌らしさに絡め取られることを警戒しているのだろう。そして結句、短歌的抒情からの身のかわし方は先の「わが歩きかた」と同じ、やはり〈林檎ばかり積む貨車すぎゆくことを感激とせよ〉ほかバリエーションが多い。客体化とは、すり替わりの一種でもある。
 ところで昭和四十四年に短歌人会から人里弘歌集『秋の柩』が刊行されている。人里弘は昭和二十八年「短歌人」入会。昭和三十七年「短歌人」編集委員。昭和四十三年、交通事故により急逝。遺歌集である。選歌を担当したのは高瀬一誌、巻末に「人里弘の作品」を書いている潟岡路人によると「作歌的にも交友的にも彼にもっとも近い高瀬一誌」とある。さらに読み進めると「おそらく彼は、短歌的な抒情、とくに定型意識と日常的な詠嘆の呪縛をもっともきらった歌人のひとりでもあったろう」また「したがって彼の場合は、伝統の内部にふかく潜行して、閉鎖的な個の世界をねばり強く追いつめていくような、求心的方法はとられなかった。そういう行き方に対して、拍手や同調とともに批判や反撥が入りまじったことは、作歌的基盤の相違がある以上当然すぎることであった」ともあって『初期歌篇』の高瀬一誌が一人でなかったことを教えてくれるのだ。

  いつまでも笑いころげる兵の骨見てきし魚の独白焼かれ       人里弘
  カレンダーに女が笑うことふと気づき午前二時なり          高瀬一誌

 もっとも識別しやすい「笑い」「笑う」で選んでみた。『秋の柩』三四七首中十九首、出現率五・五%。『初期歌篇』六五七首中二十九首、出現率四・四%。人里作品の「魚」も高瀬ワールドと重なる語彙である。反対に「兵」という言葉は一度も登場しない。
 作歌上の同行者を失った昭和四十四年以降が高瀬一誌にとっては完全な単独行となる。年齢で区切ると四十代、ちなみに『喝采』の収録作品の上限は昭和四十三年である。

  姉の死 くちづけを知らぬそのくちびるにレモンをのせよ

 「姉」を何歳で設定するかは読者の自由に委ねられているだろう。作中の「われ」も同様である。ドラマを仕上げるのは読者、作者は薄幸の生涯を閉じた「姉」もしくは清楚に身を処した「姉」のくちびるにレモンを乗せるだけである。愛のオマージュ、二十代の「デスマスク」の歌を想起させる。

  馬がみんな貨車より顔を突き出している春の夜にあう

 これまた二十代の歌で最初に取り上げた「夢ある童話」にありそうな一場面である。三句欠落、二十七音、そんなことにさえ気がつかない。基本的に抒情歌人だったのではないか、と思われるような一首である。ほかに馬で忘れられない作品に〈頭の差で勝ちし馬そのアタマ下げて来るのが遠く見ゆ〉がある。「頭」と「アタマ」を使い分けることによって二つの場面が効果的に描かれている。

  笑う蟹もいる いま炎なす火に投げこめば

 歌の長さはいろいろで掲出歌の場合は二十二音、最短に近い例である。一連は「笑う蟹もいる」「いま炎なす」「火に投げこめば」の三つのブロックに分けることができる。そして最初のブロックは気持「笑う・蟹もいる」で読むとリズムがとりやすい。

  ヘリコプターが吊り下げて来るはタコ焼き屋と見ゆメーデーどまんなか

 三十二音、ほぼ短歌である。しかしこれも「ヘリコプターが」「吊り下げて来るは」「タコ焼き屋と見ゆ」「メーデーどまんなか」と四つのブロックになる。たぶん高瀬的リズムの取り方であったろう、と思われる。

  にんげんの凱歌とは何 ほろびし父がつくりしタンカーマラッカ海峡こえしとき

 四十一音。最長に近い例。これも「にんげんの」「凱歌とは何」「ほろびし父がつくりしタンカー」「マラッカ海峡こえしとき」で無理に中五音を探す必要はないだろう。
 そんなことを考えながら『高瀬一誌全歌集』をパラパラしていたら『レセプション』の解説として私の「高瀬一誌の読み方」が載っている。恥ずかしながら読み返してみたが今の感想と変わるところはなかった。
くずやんの大阪〜葛西水湯雄歌集『のらりくらり』評〜(「白珠」平成20年1月号)
 歌集名を見ただけでクセのありそうなこと一目瞭然、いや臭うのだ。女は使うことさえ考えない。忌避するに違いない。まぎれもなく男の歌集名である。それでも正統があるなら異端、本流があるなら傍流、悲劇があるなら喜劇、いやそんな堅苦しいものでもない。前の歌集が『しどろもどろ』で今度が『のらりくらり』。いよいよもって年季の入った作中人物「くずやん」の世界を歩いてみた。

  この世にはまだまだ未練がありまして七十七歳恋をしてます

 著者略歴によると作者は大正十四年生まれ。歌集は平成九年から始まっていると思われるので七十二歳から八十二歳の作品ということになる。そこには自ずから想定の範囲内というものがある。ところが〈つねよりは長きキスして別れ来ぬきさらぎ半ば望の月の夜〉である。ちょっと違うぞ。怪訝に思っているところに掲出歌がくる。まさに青天の霹靂、高らかに歌い上げられた喜寿の恋である。

  忘れないために暗証番号を君の生年月日にしおく
  今更と思ふこころの片隅に満更でもなき結婚ばなし
  天国を信じる君と信じない僕が並びて名月仰ぐ

 恋歌の周辺から拾ってみた。一首目。生年月日は避けるというセオリーを逆手にとった暗証番号、しかも暗証番号という性格からして相手の了解はとっていないのだろう。二首目。作者は独身であるらしい。年も年だ。妻を亡くした男やもめであっても不思議でないが、そうではないらしい。三首目。「僕」と「君」が入れ替わっては歌にならないだろう。名月を仰ぐ二人の背中はメルヘンチックでさえある。隣には往年のマドンナ「みよちゃん」を配したい。

  わが店のありしところにビルが建ち空き室ありとビラ貼られを  り
  「くずやん」と声をかけ来しは若き日の無頼を共にせし「赤ま  むし」
  パチンコに夢中になつてゐた頃の僕にはまだまだ未来があつた

 作者の若い頃を知りたくなった。一首目から昔は商売をしていたことがわかる。その同じ場所を今も生活圏としているらしい。何をしていたのか。これより先に〈売り家の札貼られをり四十年不動産屋でありにし店に〉があって、私はそれと擬しているのであるが真偽のほどはわからない。二首目。「くずやん」「赤まむし」と呼び合う二人にとって昼は仕事の舞台、夜は遊びの舞台、それが大阪のキタであったに違いない。梅田にはJRAの場外馬券売り場もある。三首目。大阪で万博が開かれたのは昭和四十五年、作者は四十五歳だった。高度経済成長の終焉は四十八歳、バブル崩壊は六十六歳、パチンコに夢中になっていたのは働き盛りの昭和であったろう。

  天満宮までの往復五千余歩朝と夕べの食後に歩む
  デパートの開店を待つ人群れにまじりてゐたりトイレ借らむと
  銭湯の湯船ざんぶと出でつる男(を)その背の般若が睨みを利かす

 現在の作者の行動半径を探ってみた。一首目。健康のために歩いているのである。大阪天満宮まで片道二千五百歩、一日に二往復で一万歩、ちょうどよい距離である。少し足を伸ばして〈大阪城公園までの七千歩よたよたときて梅の花見る〉というのもある。二首目。散歩の途次であろうか。そのコースごとにインプットされているのであろう。落とすものは各人各様、作者も今や遅しと開店を待っているのだ。三首目。家に風呂があるのか、ないのか。ともあれ銭湯を利用する作者がいる。しかしスーパー銭湯ではない。来るのは周辺住民であろう、入れ墨のある方はご遠慮ください、では商売にならない。そうして後ろにも目のある御仁を見送るのであった。

  万馬券とりたる友のおごりにて中華料理のテーブル囲む
  袖丈の長きがいささか気になりぬバーゲンセールでもとめしコ  ート
  ラブストリー、スリラー、オカルト、サスペンス、今日はアダ  ルトビデオを借りる

 破天荒な面白さ、そしてどことなく漂う哀愁は「らしくない老後」によって演出される。一首目。年を重ねた無頼の仲間であろうか。但し、公営ギャンブルで登場するのは馬だけ、あとは宝くじである。二首目。いかにも借りてきた「くずやん」状態である。なおコートの連想だが〈名古屋より東は未知の旅にして車窓にけぶる七月の雨〉は喜寿の恋歌以後、上京とは縁がなかったらしい。四首目。レンタルビデオ店の常連客なのだろう。枯れない作者には〈四か月ぶりの散髪、三週間ぶりの入浴、今日大晦日〉の武勇伝を添えておこう。

  弔ひてくれるものなどまう誰も居らねば墓地を売り払ひけり

 墓を建てるつもりで墓地を買っていたのである。しかしそれを売って『のらりくらり』という生前の墓を建てた。寿蔵である。こちらは弔ってくれる人はいないが手にとってくれる人がいる。そして〈墓地売りし金のおよそは賭け事に使ひはたしてさばさばとをり〉、いかにも「らしい老後」だと「くずやん」のことを話すのだ。
岸上大作〜忘れ得ぬ歌人たち・関西編〜(「鱧と水仙」第30号)
かがまりてこんろに青き火をおこす母と二人の夢作るため   『意志表示』(角川文庫)

 播但線の福崎駅で降りるのは初めてではない。前回はJRの「駅からはじまるハイキングマップ」を手に「柳田國男のふるさとを歩く」を歩いた。さしずめ今回は「岸上大作のふるさとを歩く」である。地図で見ると柳田國男生家・鈴の森神社・神崎郡歴史民俗資料館と岸上大作生家・墓・田原小学校は、ほぼ半径五百メートルに収まるのであった。
 その円周を目指すには商店街を歩いて右に福崎小学校を確認し、交差点を左折、神崎橋を渡って二つ目の信号に立たなければならない。この国道三一二号線を右折、南下すると左に田原小学校が出てくる。この地には田原中学校と田原小学校が隣接して建っていたらしい。しかし昭和五十五年に田原中学校は統合のために取り壊された。その跡地に建てられたのが現在の田原小学校である。いずれにしても岸上大作の母校に変わりはない。
 今度は国道を北進すると右側に福崎保健所が見えてくる。高瀬隆和著『岸上大作の歌』(雁書館)に「岸上の死後、まさゑさんは、福崎保健所の用務員として定職を得、定年まで勤められた。高校時代に岸上が所属していた文学圏の木村真康氏の骨折りであったと記憶する」とある。母まさゑは夫と死別したとき二十九歳、長男大作が自殺したときは四十三歳だった。さらに北進すると岸上大作の生家とおぼしき二階建ての家が見えてくる。表札はない。番地も出ていない。空き家の趣きだが車が停めてある。やはり『岸上大作の歌』によれば「中国自動車道の福崎インターチェンジを下りて、三一二号線を北にほんの少し入った道路沿いの東側に、彼の生家はある」。また「生家の北側にある細い道を小川に沿って歩めば、山裾にある岸上大作のねむる墓地にいきあたる」ともある。試みるとそのとおり山の斜面を利用した共同墓地が見えてきた。岸上のふるさとである。足下に気をつけながら登ると正面に黒御影の「岸上大作之墓」。右側面が墓誌、さすがに「自殺」の文字はない。右の側面に「意志表示」の歌。背面に建立者の母親の名前、左に小さく「文高瀬隆和」と「書西村尚」が並ぶ。右に白御影であろうか、大作の墓とコントラストをなすように母まさゑの墓がある。建立者は大作の妹夫婦である。大作の墓の左側に父「故陸軍伍長岸上繁一之墓」。頂部の尖った、青御影であろうか、時代を感じさせる石質であった。父繁一、一九五二年没、三十五歳。岸上大作、一九六〇年没、二十歳。母まさゑ、一九九一年没、七十三歳。「親族たちから、『この親不孝者、この親不孝者』というののしりのことばとともに土をかけられながら、岸上家の墓地深く埋められたという」(思潮社『岸上大作全集』所収、冨士田元彦「六〇年に賭けた詩と死 大作私記」)のは昔日、寄り添うような墓三基であった。そしてそれは時代に翻弄された一家族の歴史また戦後史の断面をかいま見させる風景でもあった。手を合わせたあと国道にもどって北進、月見橋を渡って線路沿いに歩く。駅の手前の踏切を越えると福崎高校の正門である。事務室で入校証を出してもらって中庭の掲出歌の歌碑を撮影した。一九九四年建立。さらに第五十八回生卒業記念の歌碑〈初恋の君と初めて語らいしかの家なくて夏草繁りぬ〉が脇門を入った右側に建立されていた。
 九時三十七分着、岸上の旧跡を訪ねて十一時五十二分の電車で姫路にもどると十二時十七分、今度は神姫バスに乗って市之橋・文学館前下車。姫路文学館の文人展示室で岸上大作のブース、またビデオコーナーで「ある記憶―歌人岸上大作」(三分)と「意志表示―岸上大作の青春」(十五分)を見る。今より若い高瀬隆和氏が登場する。『岸上大作の歌』の述懐「時々、涙ぐまれるまさゑさんを前にただ言葉なくうな垂れていた」、同じく妹の「兄が自殺したと聞いたとき驚かなかった。とうとうやったかという思いであった」が頭を過ぎった。この妹夫婦は歌碑除幕式及び姫路文学館の開館記念式典にも参列している。
 文学館を出ると左側に国宝姫路城が美しい。再びバスで姫路駅に戻る。途中、左側にヤマトヤシキの看板が大きく見える。

 デパートの食堂給仕の職を得し妹今宵美し く見ゆ

 田原中学を卒業して一九五七年四月に「やまとやしき」百貨店に就職した妹を歌った一首である。ほかに〈就職しわれの学費は稼がむと十四の妹われをはげます〉という作品もある。神戸新聞の「商い続けて―ヤマトヤシキの百年」(二〇〇六年十二月二十日)によると「五七年。当時、播州一の高層建築となる地上八階(一部十二階)建てビルが完成する。地上四十三メートル。八階に『お城の見える大食堂』、屋上には姫路市消防局の見張り塔が設けられた」とある。分岐点をいうならば生に向かうベクトルと死に向かうベクトル、半世紀を経た播磨の空はどこまでも碧い。

短歌の出前講座〜地方歌人クラブの試みとして〜(「鱧と水仙」第33号)
少し古いが朝日新聞の「短歌時評」(四月二十七日)に田中槐が「文学地図の中の短歌」を書いている。「文学地図」を世界地図とするなら短歌は日本ぐらいか、とした上で『文藝』二〇〇九年夏号の穂村弘特集について「確実に短歌の領土拡大を狙えるひとりの、しかも文芸誌での単独特集である。歌壇内では、事件≠ノ近い」というものだ。こういう受け止め方もあるのだろう。ただ私の印象は少し違う。つまり短歌は小説や詩の地図には落とせないのではないか。大野晋の五七五七七は日本語とともに到来したという説あるいは東歌や防人の歌を思うとき、むしろ基層の違いを強く意識してしまうのだ。
 前月の三月七日と八日、神戸にある兵庫県公館(迎賓館)で第三回伝統文化体験フェアが開催された。主催は(財)兵庫県芸術文化協会、兵庫県歌人クラブは加盟団体として共催というかたちで参加した。ブースには「兵庫の歌会マップ」を掲示した。ホームページ「兵庫県歌人クラブ情報」でも公開しているが、第一回の参加を契機に誕生したものだ。今年のブースにはまた新顔が登場した。「結社には個性がある/人にも個性がある/個性の数だけ受け皿を用意したい/繁栄を支えるのは多様性という礎(いしずえ)/その礎に立って、/私たちは歌の未来図を描くのだ/兵庫の空に」である。七日の土曜日、私は香美町立香住区中央公民館にいた。第三回香美町の四季を詠う短歌・俳句祭に選者として出席したのである。そして講評に立った最後を右のキャッチコピーを広げて復唱することを忘れなかった。
 地図には縮尺がある。大縮尺から小縮尺に移行することによって神戸市が兵庫県になり、日本になり、世界のなかの日本になる。同じように歴史も長いスパンで振り返るとき大縮尺の近現代短歌では見えないものが見えてくる。グラフにするならば短歌一三〇〇年のチャートである。万葉時代の短歌、勅撰和歌集の時代、和歌と狂歌の並立時代、このようにして眺めるとき狂歌によって補正されるものの和歌というエコールの全盛とその裏返しとしての退潮があぶり出されてくるのである。
 短歌の出前講座は、場所と開催日の限定された伝統文化体験フェアを、北は日本海に面した但馬から南は瀬戸内海の淡路まで広げようという趣旨から生まれた。やはりこの三月、安藤直彦(眩)、伊藤佐重子(林間・ちぬの海)、尾崎まゆみ(玲瓏)、沢田英史(ポトナム)、吉岡生夫(短歌人・鱧と水仙)を発起人として呼びかけ、上田一成(ポトナム・ゑちうど)・落合けい子(塔・鱧と水仙)・小畑庸子(水甕)・中野昭子(ポトナム・鱧と水仙)・西海隆子(眩)・濱守・藤井幸子(水甕)の賛同を得た。十二人の講師は、また十二人の同志でもある。
 基層に入り込んでいく。あるいは短歌の裾野を広げるといってもよい。歌壇ジャーナリズムではなく、結社でもなく、地方を切り口として短歌の未来を探りたいのである。まずは出前講座を知ってもらう必要があろう。そしてその先にどのような展望が開けるのか。ともあれ私たちはオファーを待っている

短歌の出前講座
兵庫の歌会マップ

短歌の出前講座(「文藝家協會ニュース」平成21年10月)
 私は日本文藝家協会の会員であり、現代歌人協会の会員であり、現代歌人集会の会員であり、大阪歌人クラブの会員であり、また兵庫県歌人クラブの会員である。そして短歌の出前講座は兵庫県歌人クラブの有志によって始められた事業である。まだ日が浅いため実績には繋がっていない。
 ことの発端は(財)兵庫県芸術文化協会が主催する伝統文化体験フェアであった。(財)兵庫県芸術文化協会には兵庫県歌人クラブほか十四団体が加盟し、伝統文化体験フェアは三月に神戸の兵庫県公館(迎賓館)で二日間にわたって開催されている。ブースによる展示と体験講座が柱であり、集客力の乏しい短歌としては余得にあずかることの多いイベントである。
 第一回は平成十九年だった。体験講座の講師を務め、ブースには「兵庫の歌会マップ」を展示した。惜しむらくは兵庫県の全域をカバーしていないこと、また認知度の低さから参加してくれる結社も少ないことであった。今年は第三回、登録してくれる結社・グループは飛躍的に増えた。そこで「結社には個性がある/人にも個性がある/個性の数だけ受け皿を用意したい/繁栄を支えるのは多様性という礎(いしずえ)/その礎に立って、/私たちは歌の未来図を描くのだ/兵庫の空に」というキャッチ・コピーを加えた。
 それでも埋めることができないのは兵庫県の県域の広さである。南は瀬戸内海の淡路島から北は日本海に面した但馬地方までだから想像に難くないが、一例を挙げるなら県の面積の四分の一を占める但馬地域は、それだけで東京都の総面積に匹敵するらしい。
 短歌の出前講座は、場所と開催日の限定された伝統文化体験フェアを、県下全域に広げようとする趣旨から生まれた。背中を押すのは短歌千三百年の歴史であり、また五七五七七を日本語の起源と重ねる大野晋説でもある。同志は現在十二人、結社を越えた短歌おこし運動である。窓口の私は勝手に短歌王国兵庫の建設と呼んでいるが、必ずしも独りよがりではないだろう。
 講師は、その先駆けなのだ。

短歌の出前講座
兵庫の歌会マップ

短歌は恥ずかしいか(「鱧と水仙」第34号)
 聞き手、小高賢の岡井隆『私の戦後短歌史』(平成二十一年、角川書店)中「吉本隆明との論争前後」に「あの時代を経験した人はみんな知っている。例えば喫茶店で部屋を借りるでしょう。短歌会だというのは恥ずかしいのよ」(岡井)という箇所がある。「論争」は昭和三十二年である。もう一例、『現代短歌の全景 男たちのうた』(平成七年、河出書房新社)の座談会「明日の歌を考える 詩の型と言語」で小池光が「ぼくが学生だったときと違ってきたと思うのは、短歌をやることにコンプレックスがついてまわらなくなっきたんじゃないですか」と発言していることだ。小池は昭和二十二年生まれである。
 ところがこれは根が深いらしい。平成十八年六月十八日、現代歌人集会春季大会(アークホテル京都)で永田和宏と対談した岡井隆は今なお恥ずかしいという感想を覗かせていた。これに対して永田は今はそれほどでもないと返していたのが印象に残っている。さらに小池や永田よりずっと若い江戸雪が平成二十一年一月二十五日、豊中市立中央公民館で行った講演で恥ずかしいと云っていた。これには驚かされたものである。
 万葉集の時代、五七五七七の短歌は恥ずかしいものではなかっただろう。国風暗黒時代の後に訪れた和歌の時代も同様である。公家社会から武家社会に移ってもそれは変わらなかった。小川剛生の『武士はなぜ歌を詠むか――鎌倉将軍から戦国大名まで』(角川学芸出版)を読むとそれがよくわかる。近世に入って和歌と狂歌の並存時代はどうか。月洞軒に〈乗物の上下の者は歌人にてなかなる我にはぢをかかする〉(詞書「駕籠かき歌物語し侍りけるに」)があるが、これは五七五七七という様式に対する恥ずかしさとは別の次元の問題であろう。
 第二芸術論や政治の季節といった要因も考えられるが、もっと大きなスパンで捉えるならば『新体詩抄』(明治一五年)の「三十一文字や川柳等の如き鳴方にて能く鳴り尽すことの出来る思想は、線香烟火か流星位の思に過ぎざるべし」(木俣修『近代短歌の史的展開』)という批判から今以て自由になっていないのである。ことわっておかなければならないのは歌そのものが恥ずかしいのではない、恥ずかしいという感情は歌人の側にある。前回、歌の出前講座のことを書いたが、もしそうでなければジュニアの前に私たちは立つことができない。五七五七七は万葉の昔から現代まで少しも変わっていないのである。
 必要があって『近代短歌の鑑賞77』(新書館)を開くと四賀光子の解説に「光子は日常的家庭詠が少なく、人間的寂しさや悲しさを自然の風物に寄せて象徴的な感情表現として歌う、水穂の『日本的象徴』の主張を実践する。しかし、自分の負の部分をあからさまにしなかったことは、結果的に時代とともに生きる生身の人間味を欠くことになった」(草田照子)とあった。次の頁が「自分の負の部分をあからさま」に歌う柳原白蓮であってみればなおさら考えさせられた。グレシャムの法則に準えるならば「負は正を駆逐する」近現代短歌史なのだ。


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