花の降る国

 

 お盆で帰ってきた兄夫婦と子供たちは父の墓参りに行った。母といっしょである。私はというと一人残ってテレビを見ていた。いつも家にいるから墓へ行かないのではなかった。以前から行かない。主義というよりは性格なのだろう。こっぱずかしいのである。あんな石のかたまりに向かって拝んでも、そこに父がいるわけがない。だから行かない。仏壇も同じである。ただ仏壇の方はちょくちょくリンを鳴らすし、手も合わす。仏壇には酒が供えてあった。菓子類も供えてある。それをちょくちょくと失礼するのである。また位牌があり、写真も飾ってあるから黙って頂戴するのも気がひける。そこでおざなりにも正座もし、リンも鳴らすし、いただきますと声もかけることにもなる。それだけだ。
 ところが兄ときたらずいぶんとちがう。律儀なのだ。ひとつには早く家を出ているということもあるのだろう。高校を出ると東京の大学に入った。父が亡くなったのは四年後。兄が大学の四年だった。長男だったが、そのまま東京で就職そして結婚。出張で大阪にやってきたときなどは例外だが、それでも玄関をあけて家に入ってきたときは仏壇に手を合わせていた。盆と正月その他休暇がとれて帰ってきたときは近所に挨拶まわりをし必ず母といっしょに墓参りをする。コンピュータ関連の仕事をしている兄が石のかたまりに手を合わせて何を報告しているのか聞いたこともない。 結婚してからの習慣だろうと思ったりもするが、では独身のときは熱心でなかったかというとそうでもなような気がする。
 冠婚葬祭ができるようになれば一人前だというのが母の口癖である。なるほど四十三歳で寡婦となった母には父の兄弟姉妹いや兄と姉とのつきあいがあった。葬式前後から年忌法要と末っ子の父の家にやってくる小舅や小姑の相手も大変だったろう。法事そして甥や姪の結婚式から兄の結婚まで、さいきんでは葬式もまじるようになったが、母方との親戚づきあいを含めて義理を欠かさずにやってきたという自信と安堵がのぞく言葉であった。
 私はというと父の墓参りはしない。仏壇には用のない限り手を合わさない。それでも母はもちろん兄からも小言めいたことは一切ない。長年、親戚づきあいのパートナーを兄に代わって私が勤めてきたからだろう。線香の煙がたちのぼる墓に向かって手を合わせるのは死者のためではない。生きている人間を安心させるためなのだ。
 家の墓地はすぐ近くに買った。歩いて五分。駅の南側にある。墓の前を疎水が流れ、周囲には田圃が多い。北側と対照的に開発から取り残されているのも小さいとはいえ墓地があるせいもあるだろう。
 もう子供の足でも着いた頃にちがいない。幸ちゃん、福ちゃん、おじいちゃんにごあいさつするのよ。兄嫁が二人の子供をしゃがませているかもわからない。母はきのう供えたばかりの煙草と酒がなくなっているのに気がついて少し早すぎると腹をたてているかもわからない。父ではなく浮浪者が供物を頂戴するのである。この下におじいちゃんがいるの?福寿丸の幼い質問に兄はそうだよと返事をしているだろうか。
 テレビは野球中継とドラマの再放送をいったりきたりしている。手にリモコンがあるのがいけないのだろう。しきりとチャンネルを変えるのが私流の味方である。母からはおちつかないと言われる。だが今日はそれに輪をかけて頻繁で、グルメ番組と視聴者参加のバラエティー番組も加わって忙しい。単純に集中力を欠いているのか。あるいは兄たちの帰りを待っているだけで本当に見たいテレビがないからなのか。もしそうならみんなについていけばよかったと思わないこともなかった。しかし皮肉な私など一家団欒の墓参りの風景にはそぐわない異分子のはずだ。
 あれは七年前の七回忌だった。父方と母方の親戚を加えて総勢三十人ほどで墓参したときのことだから余計にタイミングも悪かった。幸寿丸が「おじさん、この墓の下におじいちゃんが眠ってるんだね」と尋ねた。私は、どう返事をしたらよいものかと迷った。だが下からのぞきこむ幸寿丸の顔を見ると「うん、そうだよ」と答えざるを得ない。
 しかしそのあとがいけなかった。
「みてみ。夏は涼しいて、冬は暖かいで。そやけど狭いし、暗いし、そやからときどき表に出てくるんや」
「幽霊か」
「うん」
「なんで冬には出てこんの。それに幽霊て、こわい顔してるで」
「冬は冬眠してるからな。恐い顔してるのは藪蚊に責められて難儀してるからや」
 前にいた兄嫁が白い目で私を見ていた。まわりで失笑がもれた。母方の伯父が「孝よ、自分の父親を幽霊にしたらあかんぞ」ととりなすように言う。これが酒席ならあとを「ただし幽霊でも、お母さんは喜ぶやろけどの」と続けるのだろうが、まだセレモニーの最中でもあり、父方の親戚への遠慮もあった。
 またうちの天の邪鬼が顔を出した。そう思ったのだろう。母は幸寿丸を呼び寄せるとその小さい手を握って私と隔離した。
 しかし母にとっての異分子は私ではなかった。寺のオジュッサンだった。もともと私たちは地元の人間ではなかった。父の檀那寺も遠方にあった。いや生前は檀那寺という意識もなかった。無宗教で毎日の生活には事欠かない。困ったのは死んでからだった。枕経をあげてもらうのに同じ宗派の寺をさがさなければならない。職業別電話帳で適当に選んだのが今のオジュッサンとの出会いだった。
 親戚といっても宗教は一様ではない。南無阿弥陀仏が家の宗教だといっても祖父の代までのことであって南無妙法蓮華経もいればアーメンもいるし、母方の親戚もそろった法要の席を見回すとコンコンサンもいるし、タスケタマエもいるといったぐあいだ。その人たちに向かって読経が終わったあとのオジュッサンの説教が長い。当然ながら反応はよくない。無宗教の人間には抹香臭いし、押しつけがましいし、うんざりするばかりだった。だいいち足がしびれてたまらない。他の宗教に熱心な親族は、それに加えて反論したいのを我慢しなければならないから精神衛生にはよくない。それはオジュッサンが帰ったあとの酒席の様子からもよくわかった。
 初七日、二・七日、三・七日、四・七日、五・七日、六・七日、四十九日と相変わらずだった。どうやらオジュッサンにはオジュッサンとしての使命感があるようなのだ。自分たちは葬式仏教としての役割に甘んじてはいけない。坊主は生きた信仰を伝えなければいけないし、寺はそのための拠点なのだという信念だった。だから説教のあともきまって寺へいらっしゃいと言う。「宗祖親鸞聖人の命日に行う報恩講、また五月の降誕会、春と秋の彼岸会、またお釈迦さまの誕生を祝う花祭といった年中行事のほかにも、毎月本堂で檀家の人々といっしょにお勤めをしています。そのあとで説法を行う月例説教という法座を設けていますから、奧さん、ぜひおいでください。もちろん、息子さんたちもね」誘われるたびにあいまいにうなづくだけだった。行けば相手の思う壷だ。正直なところ有難迷惑だった。俗界の親族を前にすると浮いているという印象を免れなかったが、私はそんなオジュッサンが嫌いではなかった。
 父が死んで初めて仏壇を買ったときのことだった。大卒の給料の一年分近い値段のする金ぴかの仏壇の中央に母は位牌と父の写真を並べて置いた。母にすれば精一杯の思いがこもったお披露目だったにちがいない。私たちは仏壇の前に正座したオジュッサンが読経に入るのを待っていた。しかしオジュッサンは母の方を向いて言った。
「なかなか立派な仏壇ですね」
「うちの人への供養やと思いまして」母親はオジュッサンの言葉に恐縮するように頭を下げた。「さいきんは仏壇があっても信仰のない家庭が多いものです。田代さんのお宅も今回の辛い経験を正しい信仰の契機としていただきたいと思います」私たちはまた始まったと警戒した。オジュッサンは縁なしメガネをかけた痩身の人だった。いつも洗い立てのような袈裟に身を包んでいた。
「浄土真宗の信仰の対象は阿弥陀仏です。ですから、みなさんも見ていただいたらおわかりいただけるように仏壇には阿弥陀如来の絵像がかけられています。ご本尊に手を合わすわけです。その右に親鸞聖人、左に蓮如上人の絵像がかけられています。宗祖と中興の祖ですね。お脇掛けと言います。正式に安置するものとしてはここまでなんですよ。ご先祖は入っておりません。なぜかというと死者は阿弥陀如来によって、すでに救済されているからです。奥さん。わかりますよ。ものたりないと思う気持ちは」そういうとオジュッサンハ写真立てを手にとった。「仏壇は故人をまつる場所ではありませんから、これは別の場所に飾っていただくことにしましょう」さらにオジュッサンは続けた。「位牌も同様で、こちらは中央を避けて下の方に置いていただきましょう。肝心なのは如来の大慈悲に対する感謝を忘れないことなのですから」
 おそらく正論なのだろう。だれねなにも言わない。南無妙法蓮華経にしてもアーメンにしてもコンコンサンにしてもタスケタマエにしても、よその宗教のことだから口出しをする立場にはなかった。意識的であるとないとにかかわらず宗教と縁のない親族にいたっては、そんなに四角四面に言わなくても、と心情的には母に加担する気持があっても、それだけでは、やはり異議申立てするには弱い。反論するバックボーンを持たない兄も黙っているよりほかになかった。その結果、ひとりのオジュッサンを相手に多くの親族を後に従えながら母は孤立無援を強いられたのだった。田舎のオジュッサンなら、こんなことはなかっただろう。母は職業別電話帳で見つけた都会のオジュッサンを、このとき、はっきりと拒否したにちがいない。
 もう一度、苦い思いを゜したのは墓を建てたときだった。建碑式を兼ねた一周忌だった。母はお性根入れと呼んでいたがオジュッサンに訂正されたのだった。その建碑式で読経してもらうために墓地まで案内したときのことだった。墓石のそばまでくるとオバュッサンは立ち止まった。母に向いて「ひとこと相談してほしかったですね」と言った。なんのことだろう。親類縁者も耳をそばだてた。「できあがってしまってからでは手遅れですが、私たちが拝むのはご先祖さまではありません。ご先祖さまというのは如来の本願によって浄土に往生されているからです。だから如来と一体だと思ってくださっても結構です。また墓石でもありません。六字名号なのです」と指さした。オジュッサンが問題にしたのは墓石の正面に刻む文字のことだった。なるほど周囲をみまわすと「南無阿弥陀仏」と刻んだ石が数基あった。やはり少数派だったが「倶会一処」というのもある。別の意味があるのだろう。意表をつかれた伯父が納得したのか、しないのか「ウーン」とうなった。それが私たちの気持を代弁するものだった。しかし母にとっては水を差された思いだったにちがいない。御影石でつくられた角石塔の正面にはくっきりと「田代家之墓」と刻まれていたからだ。
 幸いにも月忌法要にオジュッサンがやってくることはなかった。お布施が少ないからうちは軽んじられてんのやろか、と一応の愚痴はこぼすものの母も内心はよろこんでいるふうだった。説教が長くて理屈っぽいのと左ハンドルの愛車でやってくるオジュッサンのため近所に頭を下げて駐車場を確保しなければならないのも負担になっていたからである。気楽なのは私も同様だった。「息子さんも、お寺にいらっしゃい。仏前結婚式というのもあるし、成人式もやっています。定例説教には若い人も多く集まります。寺は死んでから用のあるものではないんですよ。そのあたりが一般に誤解されているんですね」という決まり文句を辟易する気持が次第に強くなっていたからだった。
 オジュッサンの代わりにやってくるのは役僧だった。多くは学生アルバイトか、大学を出ていても家の寺を継ぐために修行を兼ねて厄介になっている若い人だった。むろん中には年配の人もいた。共通しているのは自分の寺でないという気楽さもあってか、お経はあげるが説教はしない。してもほんの申訳程度である。そのかわり、お茶を飲む時間があると雑談をしていく。いきおい身内の話が多くなり、愚痴も出る。そこに登場するオジュッサンは私たちの知らない顔だった。オジュッサンは、たいがいなら教師とか公務員とかを兼職しているのにお寺だけで食っていること。それもこれも檀家が多いからであり、オジュッサン自身もライオンズクラブで活躍する市の名士であること。だがケチで食事を含めて待遇は劣悪だという話だった。私の実家などは、と学生アルバイトが言った。「田舎の夜逃げ寸前の寺ですよ。檀家といっても百軒を越えませんからね。オヤジは会社を定年になって畑をやってますけどね。オフクロは近所の工場にアルバイトに行ってます。兄弟ですか。男ばかり三人です。上の二人は京都の大学を出たけど田舎に就職口がなかったものですからね。大阪で働いています。ハイ。田舎が気になりますけどね。私らが帰らないと寺も終りでしょうね。それにくらべると、こちらの寺はちがいますよ。もともと都会では檀家も多い上に新興住宅がふえてますでしょう。お宅さんも、そうだけど地方の出身者が葬式をあげるときは田舎のお寺さんに厄介になることは、まずないでしょう。こういう言い方は不謹慎だけど結果論として都会のお寺は肥り田舎のお寺は痩せていくわけですよ。今日は少ないですけど忙しいときは一日に三十軒も四十軒もまわります。待遇ですか。もうご存じでしょう。バイクで走り回って帰るでしょう。重労働ですよ。それでも昼はラーメンかウドン一杯ですよ。金に汚いんですよ。役僧がですよ、お布施をごまかしてないか疑心暗鬼ですからね。田舎のオヤジやオフクロには聞かせられないスよ。熱心ですって。そらそうですよ。ただ奥さんがおっしゃってる仏壇や墓石のことなら坊主にとっては常識なんですけどね」そんな証言を裏付けるように役僧は頻繁に交替し、長続きしなかった。
 やっかいなのはお寺さんとの相性が悪いからといって朝日新聞を読売新聞に、明治牛乳を森永牛乳に、北村クリーニング店を西沢クリーニング店に、山口米穀店を小林米穀店に、小杉酒店を斎藤酒店に、といった按配で別のお寺さんに乗り換えるというふうにはいかないことだった。

 兄たちはまだ帰ってこない。駅の北側にでもまわったのだろうか。さいきんはスーパーのほかに百貨店も進出してきて幸寿丸や福寿丸の気を引くものも多い。母がつれていったのかもしれない。夕飯までには少し時間もある。先にビールでも飲むつもりで私は仏壇を見に行った。たしか近所からもらったマカダミアンナッツが供えてあったからだ。
 座布団にすわる。いつオジュッサンがきてもよいように準備は万端だ。経机には和讃箱がのっている。右にリンとバチ。視線を上に移していくと金仏壇の正面中央に金襴の打敷に飾られた前卓に蝋燭立と土香炉と花瓶の三具足、さらに上に移動すると須弥壇の前に、やはり金襴の打敷に飾られた上卓に火舎、火舎の後に蝋燭立と左右に華瓶と供笥がそれぞれ一対。最上壇の宮殿には柱が二本。中央に本尊、左右にお脇掛け、その前に仏飯器。天井からは金灯籠、瓔珞、菊輪灯が左右に各一対飾られている。観音開きの扉の内側には巻障子。上部の前狭間には蓮の花と孔雀の彫刻がほどこされていた。いたるところ金箔をはられた荘厳づくりの仏壇は光り輝いていた。まるで大伽藍のおもむきである。とりわけ精巧につくられた宮殿の欄干といい、仰ぎ見る一重屋根といい、今までどうして気づかなかったのだろうと思いながら合掌礼拝し、もういちど今度は中腰の姿勢で仏壇をのぞきこんだときに異変はおこった。
 たとえば水の中を上昇する感じ、とでもいうのだろうか。仏壇というトンネルに吸い寄せられて、体が縮小したのだろうか。仏具に触れた気配はまったくない。そのまま水面に浮上するように、苦しくはなかった。顔が出たと思ったら下から押し出されるようにして私は地面に残されていた。腹ばいだ。もう一度さっきと逆のケースがあっても不思議でないと思ってしばらくじっとしていたが何もおこらない。どうやら出口は失われたようだ。両手をついて起き上がった。
 林の中だ。
 私は目を疑った。
 金色の木がある。銀色の木がある。トルコ石でできたような木もある。水晶のような木もある。琥珀からなるような木もある。珊瑚と思える木もある。瑪瑙でできたような木もある。またよく見ると金の木に銀の果実をつけている木もある。銀でできた木にトルコ石の果実をつけている木もある。トルコ石でできた木に水晶の果実をつけている木もある。水晶でできた木に琥珀の果実をつけている木もある。琥珀でできた木に珊瑚の果実をつけている木もある。珊瑚でできた木に瑪瑙の果実をつけている木もある。瑪瑙でできた木に金の果実をつけた木もある。
 ここはどこだ。
 なぜ。
 そんなことがあるかどうかはわからない。いや信じられないことだ。しかし先程来のことを考えると仏壇の中に連れてこられたとしか思えない。そして信じなければいけないのは今の今まで自分の家にいたはずの私がTシャツとジーパンに裸足というスタイルで電車も走らない、バスも走らない、公衆電話もない、宝石と貴金属からなる世界に立っていることだった。
 私は私自身を励ますようにして歩き始めた。ほんとうは走りたいのだけれどもゴールがどこにあるのかわからなかった。もっと言えば最初に横たわっていたところを掘り返したかったが、それが無理なことは容易に想像がついた。成算があってのことではなかった。やむなく歩き始めたというわけだ。
 遠くに空を貫く黄金の山が見える。それ以外は平坦な林がつづくばかりだった。
 だれもいない。だれとも会わない。
 仏壇の外の世界との間に時差がないとすればそろそろ暗くなってもよさそうなのだが一向にその気配がない。太陽が見えない。歩いていく私の影もなかった。
 何時だろう。
 家には母も兄たちも帰ってきたことだろう。孝、と母は玄関をあけると私の名前を呼んだことだろう。テレビはつけっぱなしのままだ。靴があるから外には出ていない。おや、トイレかね。母はトイレをノックするだろう。いない。兄が孝は、と尋ねるだろう。部屋で寝てるんとちがうか。ちょっと起こしてきてくれるか。呑気なやつや。そんなやりとりのあとで兄が二階の私の部屋へ上がってくるだろう。ノックをする。反応がない。孝、寝てんのか。起きろよ。ドアをあける。六畳の部屋は無人のはずだ。いない。首をかしげながら押入をあけてみるだろう。ときどき人を驚かすことがあるからだ。やはり、いない。その頃から家に不吉な想像が走ることだろう。幸寿丸と福寿丸は兄嫁から離れないだろう。お盆どころではなくなりつつあるかもわからない。
 さらに歩いた。歩く以外に私のできることはなかったからである。おふくろたちは夕食をどうしたことだろう。兄が心当たりに電話をしたらと言っても母には思い当たるところとてないだろう。私が家族を驚かすことはあっても押入に隠れたことはないし、夕食の時間になって理由も言わずに姿をくらますことはなかったからだ。ましてテレビはつけっぱなし、靴もそろっているといった状況証拠を残したまま何時間も雲隠れするような悪趣味はなかった。あとは警察に届けるタイミング以外に相談する理由はないはずだった。それでも幸寿丸や福寿丸のために夕食の準備を進めていることだろう。私も腹がひもじくなっていた。宝石の木の果実からは芳香がただよい、風が吹くと高く澄んだ葉擦れの音を響かせた。試みに果実に触れてみたが固くはない。それでもちぎって食べる気にはならなかった。
 いつか私は空を貫いている黄金の山をめざして歩いていた。無意識の判断だが視野に抜きん出た唯一の対象を選んだわけだ。なるほど体力の消耗を考えると目的もなく林の中をさまようわけにはいかなかった。
 腕時計をしていないから時刻はわからない。それでも半日ぐらいは歩いただろう。体が疲れてきた。家にいたら真夜中のはずだ。ここで野宿するしかない。幸いというか暑くもないし、寒くもない。木の根本に座り込むと、たちまち睡魔が襲ってきた。

 目をつぶっていても目蓋を透して夜か朝かはわかるものだ。まぶしい明るさに元の自分の家のソファでテレビを見ていたのではないかと思いつつ目をあけるが事態には変化がなかった。失望感が広がっていった。
 体も重い。太陽も見えない。影もない。昨日つまり眠る前も太陽は上っていなかった。正確に言えば太陽を見なかった。同じように星を見なかった。月を見なかった。それでいて明るいことこのうえもない。太陽は沈まなかったというよりも太陽は存在しないということなのかもしれない。同じように星も存在しないし、月も存在しない。つまり夜もやってこないのだ。
 ようやくの思いで立ち上がると再び黄金の山をめざした。
 ほどなくして私の肩に赤いもの、黄色いもの、紫のもの、また白いものが舞い降りてきた。幻覚かと思ったが足元に落ちてくるのを見ると、まぎれもなく花だった。顔にもあたり、手にもあたるが痛くもない。地上に到達すると質感を回復し、量感を回復し、つもっていった。空は万華鏡だった。しかし光のいたずらでない証拠には地上を花の絨毯に変え、さらに刻刻と厚さを加えていった。やがて靴をはかない私の足は踝まで沈みながら花の雲の上を歩かねばならなかった。
 途中で川に出た。鳥がいた。白鳥、鶴、オシドリ。鴨、オウム。サギ、ホトトギス、孔雀。水面に続いた階段があった。川の底まで澄んでいる。手の平ですくって飲んだ。うまい。手の平ですくった。コップに三分の一ほどの水だろうか。うまい。もどかしいので今度は顔から水を迎えにいった。あれだけ降っていた花は、いつのまにかやみ、あれだけつもっていた花も、歩くのに難儀したのが嘘のように消えてなくなっていた。たらふく飲んだ。少し生き返ったような気分になって一息入れると水鏡に人の顔が映っていた。私と同じように水を飲んでいる。顔を上げると、しかし人頭鳥身の迦陵頻伽だった。
 本願の内容ですか。伯父の質問に答えてオジュッサンが言った。昔、法蔵という菩薩が一切の衆生を救わんとして四十八の誓いを立てたんですね。いちばん有名なのは「たとい、われ仏となるをえんとき、十方の衆生、到心に信楽して、わが国に生れんと欲して、乃至十念せん。もし、生れずんば、正覚を取らじ」ですね。もし人々が私の建てる極楽浄土に生れたいと願って私の名を称えたとしよう。たとえ一人でも、それがかなわないならば私は仏とならない、といった意味でしょうか。この「たといわれ仏となるをえんとき、何何ならば、何何でないならば、正覚を取らじ」というスタイルの四十八の誓い、すなわち本願を達成して法蔵菩薩は仏になるわけです。それがご本尊である阿弥陀仏というわけです。ほかにどんな誓いがあるかって。変わったところでは「たとい、われ仏となるをえんとき、国中の人・天、形式同じからず、好醜あらば、正覚を取らじ」というのもあります。そう、ブスやブオトコは救われますね。失礼。これは大無量寿経にのっています。お経というのはおもしろいですよ。作者がいないんです。顔を出さないんですね。すべて仏説○○経なんです。如是我聞。かくのごとくわれ聞けり、なんですね。そんなことないんだけど、いつ、どこで、だれによって制作されたかを教典は語っていません。禁欲的というか、そこが芸術との違いなんですね。しかしロマンですよ。お経が成立し、それが国を越え、時代を越えていくのは、そうは思いませんか。
 迦陵頻伽の飛び立つのを目で追いながら私は、しかしロマンではなく厳しい現実の中にいた。もしかして私は死んだ人間だろうかと自問もしてみた。生きて、この世に迷いこんできたと思っているのが錯覚で心臓麻痺か何かで突然死をしてるとすればどうだろう。向こうの世界には遺体がある。死という現実は動かせないから母の嘆きは深いだろうが謎の失踪という答の出ない不安や心配と同居するよりも心の整理はつきやすいかもしれないではないか。また私は体ごと、こちらにやってきたと思っているが、そうでないとすればどうなのか。肉体から遊離した魂にすぎないのか。いやいやと私は首を横に振った。どちらでもない。私は生きている。生きたまま何かの弾みでワープしてしまったのだ。なぜなら私は腹がすいて死にそうだし、足は棒のようだし、それに汗もかいている。尿意も我慢できなかった。うちの墓の近くに「倶会一処」 と刻んだ墓石があった。あれは今になって思うのだが一処すなわち倶に極楽で会うという意味だろう。ところが私は誰とも会っていない。理由は簡単だ。生と死。
 川に降りる階段はあるが川を渡るための橋がない。やむなく清流を歩いて渡った。しばらく蜻蛉が前後をとんでいた。水は膝から腰までしかなかった。足裏が踏んでゆく砂利は、もちろん金であり、銀であり、トルコ石であり、水晶であり、琥珀であり、珊瑚であり、瑪瑙だった。対岸にも林が続いていた。やがて林が尽きると視野をさえぎるものは何もない。ただ翳ることのない平原がゆるい勾配で続いているだけだった。空を貫く黄金の山まで行程にして一日だろうか。
 歩いた。野宿した。目がさめると花に埋もれそうになっていた。私の体内時計も狂いつつあるようだ。三日目。上半身を起こした。蓮、夾竹桃、ハイビスカス、ブーゲンビリア、睡蓮、その他、私の知らない無数の花の雨だった。実体のないものと思いながらも鷲掴みにすると口に運んだ。
 山と思っていたのは木ではないか。山の麓に立って、そう思った。まず木が一本も生えていない。しかも上は垂直に空の果てまで伸びている。ジャックと豆の木なら天辺を極めるのだろうが私はちがった。目的は地上を俯瞰すること。そのために都合のよい場所を求めてきたにすぎない。登り続けること、たぶん数時間、もはや時間の感覚を喪失しつつある中で恰好の展望台を見つけた。断崖である。足を外に垂らして腰かけた。風が心地よい。眼下は宝石と貴金属でつくりだされた世界の一大パノラマである。林の中では見つけることのできなかった宮殿や楼閣も散在していた。だが下りていく気力はなかった。
 ときおり雲がゆっくりと流れて視界を隠した。そして涙が視界を曇らせた。

  うつせみのわれの一生(ひとよ)は悠(はる)かなる宇宙の人の夢かもしれず
                                             落合けい子

 この春、見合いをした。七度目である。結果は私の意欲とは裏腹だった。あまり知られていない私立大学を留年、中退、就職、転職と私自身の怠惰と非協調性の結果とはいえ、父が死んでからの私はついていなかった。女性に近づくには臆病に過ぎた。二十代も後半になると母が奔走し、見合いを重ねてきたが三十三歳の今以て伴侶を得ていない。短歌は見合いの相手に教えてもらった。
 奇妙に忘れないのは楽天的な期待が暗転したからもあるだろう。解釈も甘美な人生鑑賞から悲鳴や苦痛を聞くように変化した。
 父が死んで初めての正月に伯父の家を訪問した。伯父夫婦、いとことその配偶者、子供たちで賑わっていた。一度も話題に父が登場することはなかった。その伯父の人生を思った。反対に四十三歳で寡婦となり、今また息子の一人を喪おうとしている母の人生を思った。夜逃げの将来しかない寺に生れた役僧の人生と地方の出身者を檀家に加えながら肥えつづけるオジュッサンの人生を思った。
 花が散りはじめた。
 すべては悠かなる人の夢の長短と夢見のよしあしに支配されているのだ。虚しい。顔を上げると落下する花のひとつひとつが止まって見えた。しかもよどみなく流れていた。
 彼岸と此岸。此岸と彼岸。
 私は今まで彼岸を歩いているものと考えていた。だが逆なのだ。私の彼岸は母の此岸であり、母の彼岸は私の此岸だった。
 立ち上がるのに迷いはなかった。ただこうしたときの例として履き物を後に揃えようとして苦笑した。裸足だったからだ。
 悠かなる人よ。私は呼びかけた。夢から覚めないでくれ。八度、九度、十度。なんなら百度、見合いを断られてもいい。だから今しばらくを眠っていてほしい。母のためにも。
 合掌礼拝すると私は輝く万華鏡の底へ自らを散華した。

                                                ―完―