1 「星野ドラゴンズ」
 
 神宮球場で中日ドラゴンズが、11年ぶりのセ・リーグ優勝を決
めたとき、星野監督は「今日は泣きません。涙は、日本一まで取っ
ておきます」と言ったが、これは、一足先にパ・リーグを制覇した
ダイエー・ホークスの王監督とは、対照的だった。
 王監督は、素直に目頭を潤ませ「こんなにうれしいことはない。
日本シリーズのことまでは、まだ考えていません。これから、少し
休んで、データなどを見て考えます」と初優勝の感激に浸るのが先
だった。
 こう見ると、日本一に掛ける意気込みは、星野監督の方が、一段
上かとも思われるが、過去の経験では、王監督の方が上だ。何しろ
、巨人の監督として、日本一の経験を持っている。対して、星野監
督は、前回のセ・リーグ優勝では、日本シリーズに敗れて、日本一
を逃している。
 それだけに、日本シリーズ制覇への意気込みは強いのだろうが、
実際は、むしろ、王監督の方がその気持ちは、内に秘めながらも強
烈だ、と思う。何しろ、優勝の翌年の成績不振から、長年親しんだ
巨人を追われるように退団した「世界のホームラン王」だ。人一倍
のプライドを、ずたずたにされながら、必ず、この貸しは返しても
らう、の一念で玄界灘を渡って、都落ちしたのだ。
 本来なら、このリベンジの対象は、長嶋巨人なのだが、代わりに
セ界の覇者として、星野ドラゴンズが出てくるのだ。王監督に取っ
ては、巨人の身代わりのようなものだろう。シリーズ開幕までは十
分、時間的な余裕もあり、敵情視察に総力を挙げて臨んでいる。リ
ベンジ作戦は、おさおさ怠りなく進んでいる。
 さてこうなると、星野監督の「取っておいた涙」が歓喜の涙にな
るのか。それとも悲痛の慟哭となるのか、決戦の十月が始まった。
2 「秋の気配」
 
今年は、暑い夏が長かったせいか、実りの秋は、あっという間に
終わりそうだ。気象庁の予報では、紅葉の盛りは十月中旬で、しか
も、一気に来て一気に終演となようだ。
 だが、夏が暑いと果物や稲の実りは良く、しかも味も良くなる。
だから、最近まで出回っていたブドウの実はいつにも増して甘みが
あったし、梨の糖度も高く形も良い。稲作も収量が増える、という
予想だ。
 今年の夏は、暑いだけでなく、雨も多かったから、干ばつの恐れ
も皆無だった。水不足を伴わない猛暑の夏だったのだ。こうして、
一気に秋風が吹く季節になり、紅葉が一気に始まり、終わるという
季節の劇的な移り変わりのメリハリは、全く我が国特有の四季の形
式である。砂漠には一年中続く乾燥しかなく、赤道下の国は、年中
暑い。温帯地方の欧州やアメリカでさえ、日本列島ほどの四季の変
化はやってこない。
 こうした気候風土は、住民の生活習慣や思考さえも枠付けしてし
まう。季節の変わり目に「衣替え」する衣の習慣、豊かな多種多様
な実りを基礎に発達してきた食の伝統、通気性は良いが暖房は簡素
は日本家屋の様式は、いずれもこの四季の変化を下敷きにして形作
られてきた。
 では、思考法はというと、熱し安く、冷めるやすいとか、応用は
上手いが、基礎的は思考が下手、というような自己評価や外国から
の分析もある。たしかに、季節の移ろいの激しさは、「万物は移ろ
うもの」とする伝統的な考え方をもたらした。「生成流転」「色即
是空、空即是色」の観念は、広く民衆の血や肉になってきた。
 それに台風が加われば、ますます、「流転」の考えは加速度を増
す。木と紙でできた木造の住居は、すぐに建て替えられる。台風に
流されても、復旧はたちまちなのだ。ただ、地震だけは、そうした
気楽な思考の視野の外れにある。地震には必ずといえるほど火災が
伴う。家屋は倒壊し、さらに火が襲えば、根こそぎ持って行かれて
しまう。なにしろコンクリートの堅固な建物さえ倒壊するのだ。
 だから、昔から、怖いものの筆頭は「地震」に決まっていた。そ
の地震は、トルコやギリシャを襲って。台湾までやってきている。
 長かった世紀末の夏に、ノストラダムスの大予言の「ハルマゲド
ン」は起きなかった。その予言の二番煎じをした「オウム」の教祖
も、これで権威を一段と下げた。だいたい、遙か未来を予測するこ
となど、人にはできないに決まっている。ただ、漠然とした現状へ
の不満が、未来への恐れに繋がっているだけだ。「悪い現状を打破
しなければ、未来は良くならない。それには、修行と祈りだ」と諭
すのは、遙か昔から、いわゆる宗教家の常套句だった。
 暑い夏に悲劇は起きず、ただ、近隣の地震が、気がかりだ。豊か
さの中で、一段の実りの秋を迎えて、世紀末日本列島は、まずは、
太平だといえるだろう。
 
3 「カリスマ」
 
 若者の町、東京・原宿で、人気を集めていた美容院の「美容師」
が、その名を名乗れる肝心の「美容師免許」を持たないインターン
だったことが、皮肉にも彼らが女性雑誌から奉られた「カリスマ美
容師」だったために、暴露され、厚生省が実態調査に乗り出すまで
の事態に発展した。
 この話を聞いて、すぐに頭に浮かんだのが「裸の王様」の童話だ
った。似非洋服屋が、見栄坊の王様に見えない着物を着せてしまう
話だ。王様は、似非洋服屋の「私の服は、見える人にしか見えませ
ん。見えるのは、それだけの立派な人物だけです」とかいう言葉に
乗せられて、精一杯の見栄を張り、誰にも見えない空気の服を着て、
行進し、目に曇りのない子供に、何にも着ていない、と見破られて
しまう話だ。
 そのカリスマ美容師が本当の「美容師」でないことが、露見した
後になっても、「腕さえ良ければ、免許を持って居なくても関係な
いじゃん」と言う子ギャルの感想が放送されたりしていたが、この
意見は、本質を突いている。そもそも「髪結い」に免許制を導入し
たのは、直接、客の肌や髪に触れるからという衛生上の理由が第一
だろうが、技術試験とやらがあるというから、「腕前」も試すらし
い。しかも、その試験は、今や流行遅れの技術が必須だというのだ
から、ここでも、かなりの形骸化が進んでいるという。
 運転免許の試験で、実際には滅多にやらない、後ろを向いての安
全確認や主流のオートマチック車ではいとも簡単な半クラッチを使
っての坂道発進が、絶対の必須科目に依然、居座っているのと同じ
ようなもので、融通の利かないお役所感覚が、改められずに蔓延っ
ているのだ。日本社会のお役所の固陋さと官僚主義の悪影響が及ん
でいるとしか思えない。
 だいたい、この無免許美容師は、業界が開いているコンテストで
は、優秀な成績を上げたらしい。コンテストでは、免許の確認はし
ていないが、この事態で「これからは、免許の提示を義務付ける」
と役員が語っていたのは、笑わせた。
 やはり、監督官庁が怖いのだ。自から優秀賞を与えた権威を脱ぎ
捨てて、役所の指導に従おうというのは、法治国家の構成員として、
全く殊勝な態度だが、果たして、一般客を扱う訳ではないコンテス
トに、免許は必要だろうか。むしろ免許などを持たない美容師の自
由な発想が求められているのではないだろうか。
 免許を持たずに客を取るのは、確かに違法だ。だが、医師免許が
必須とされる医者の世界にさえ無免許の偽医者が腕が良くて評判だ
という事態は起きている。
 利用者は、免許というお墨付きよりも、本当の「腕の良さ」がほ
しいのだ。この点、運転をしないのに無事故・無違反なら「ゴール
ド免許」を交付することになっているのによく似ている。秩序と統
治を第一に考える役人の発想の限界を見たようだ。
 
4  「冷や飯」
 
 小渕改造内閣は、東海村の臨界事故で、発足が遅れたが、5日に
も新しい閣僚の顔ぶれが決まり、即日発足することになりそうだ。
 この改造劇では、自民党総裁選で小渕対抗馬として健闘した加藤
・前幹事長派の処遇を巡って、首相が意地悪としているとの評判が、
加藤派を中心に流れている。加藤氏の出馬に反対した池田・元外務
大臣を政調会長に起用しようとする小渕首相の意向が、加藤氏に対
する遺恨晴らしだというのだ。
 たしかに、小渕首相は、旧田中角栄派から竹下派へと継承されて
きた、派閥単位の権謀術数を骨身に浸みるほど学んできた経歴を持
っている。政治は数だ。との基本的は発想は、根元を辿れば、田中
角栄に行き着く。だからこそ、与党議員数を増やそうと、自・自・
公連立政権樹立への決断も素早かった。
 穏やかな好々爺の面影に反し、内面には、若い頃から修業をして
きた政治運営の権謀術数を、秘めているのが、首相の素顔だといえ
る。だからこそ、一大対抗勢力にのし上がろうとする相手を、黙っ
て見過ごして居ることなど絶対にないのだ。地位を伺うものには、
容赦なく撃ち掛かり、弱体化を図るのは、権力者の本性のだから。
これは、発達した民主主義の現代先進国社会でも、戦国の世でも変
わらぬ、権力者の秘めたる本能なのである。
 だから、今回の改造内閣での加藤派議員の冷遇は、当然の政治の
論理なのだが、こうした、やり方があまりに酷くなると、政変に繋
がるのも、政治の基本的な道筋でもある。要は、「飴」と「鞭」の
使いかたの微妙なバランス感覚が必要なのだ。この使い分けが上手
い権力者は、健康で居さえすれば、長期政権が維持できる。これは
我が国に限らず、古今東西の政治の基本原理だ。
 人事の魔術師だった故佐藤栄作首相の政権が長期政権だった理由
もその辺りにある。それは、いわゆる「冷や飯」をどれだけ、相手
に食わせるかのさじ加減なのだ。
 「誰だって、腹が空けば、どんなものでも食べてしまいたくなる。
冷や飯でも、空腹なら旨いと思うだろうが、人は腹が満ちれば、次
はもっと旨いものを、と欲望は限りない。餌をやったり、やらなか
ったり、取り上げたりと、動物園の飼育係の呼吸だよ」
 人事の名人から聞いた言葉が思いだされる。それが、延々、脈々
と続いている我が国の政界は、やはり、動物園同様、檻の中を得体
の知れない珍獣、猛獣がうろついているらしいが、その実体はなか
なか、外には見えてこないようだ。
 
5 「技術」
 
 東海村で起きた放射能事故では、当初、従業員のミスを仄めかし
ていた会社側は、規則に違反した裏マニュアルが存在することが明
るみに出て、ただ、恐縮の姿勢だ。
 最初から、とりつくらずに、素直に事実を公表しておけば、悪評
は少しは緩和されただろうに、作業ミスを強調した管理職の態度は、
まったく、誉められたものではない。
 もし、本当に、そうした裏マニュアルがあることを知らないで、
おおいう態度をとったのだとしても、それ自体が管理能力の欠如能
ぶりをさらけ出しているだけだ。生命に一番、影響をもたらす核物
質の管理が、こうした無責任管理の下で行われていたのだから、そ
の脳天気基ぶりには、開いた口が塞がらない。国に届け出た手順を
簡素化してしまったのは、多分、「合理化」の努力と、現場の「創
意工夫」の産物に違いない。
 我が国の企業が発展してきた要因は、その生産現場での「創意工
夫」と徹底的に無駄を省いた「合理化」にもあるだろうから、これ
まで、日本経済を牽引してきた「長所」が、ここでは、全く逆の惨
劇を招いてしまったのである。
 それは、なぜかというと、核物質という危険物を扱っている、と
いう意識が希薄だったから、といえよう。場合によっては目に見え
ない放射線を放出する危険がある核物質を扱うのは、普通の製造業
における注意とは違った高度な注意が欠かせない。そのために、マ
ニュアルは、面倒でも慎重な手順を定めていたはずだ。
 それが、公然と無視され、その無視の手順が、さらに新たなマニ
ュアルにまとめられていたというのだから、これは、会社ぐるみの
「組織的な」犯罪というしかない。
 生産技術の進歩は、方向性を間違うと、とんでもないことになる。
これは、なにも、物だけではなく、人を扱う際にも同じことがいえ
るだろう。やみくもの合理化・リストラも目的や方向を誤ると、そ
の主体さえを危うくなるということなのだ。
 
6 「二千円札」
 
 「小渕さんは、なかなかのアイデアマンですね」
 「はあ、どうしてですか」
 「ほら、第二次内閣の発足記者会見で、二千円札の発行をぶちあ
げたでしょう。意表を突くアイデアだと思いませんか」
 新橋のガード下の焼鳥屋で、中年サラリーマンらしき二人の男の
会話である。
 「そうね、誰も予想していなかったものな。新聞だって、前日頃
に、デノミの予測をぶちあげた所はあったが、新札発行までは、予
想も突かなかったらしいよ」
 「だから、すばらしいんだ。あのおっさん、ヌーボーとした風貌
だが、あれで、いろいろ考えているんだな」
 「そうかな、良いアドバイザ−がいるんじゃないの。あの人の考
えじゃないよ」
 「まあ、それはいいや。でも、二千年のミレニアムに、二千円札
というのは、なかなかのアイデアじゃないかい」
 「確かに。意表を突いた。景気の刺激にもなるみたいだしね」
 「そこだよ。お札に関係する所の設備投資の需要が起きるし、ま
ず、千円札の重みが薄れるだろうから、インフレにもなる」
 「不良債権の処理には追い風になる。銀行救済にも繋がるって訳
だ」
 「まあ、そこまで考えているかどうか。でも、確実なのは、自販
機やATMや駅の切符販売機は、手直しが必要になる」
 「と、皆が考えたんだろうね、自販機やATMのメーカーの株が
上がった」
 「株式市場は、単純だからね。何か、材料が出る、深く考えもせ
ずに、反応する。直に、自販機などの需要に結びつくかというと、
そうでもないんじゃないかな。だって、今だって、五百円玉が使え
るようになっているのに、使わないでくれ、と書いてあるのが、あ
るんだぜ。買い手は、仕方なく、百円玉を用意してくる。現状では
千年札があれば、こと足りているんだ。銀行のATMだって、すぐ
二千円札対応にしなくても、大丈夫だろう」
 「とすると、気分だな。新しいことが始まるってのは、どんなこ
とでも、気持ちが明るくなるからね」
 「そう、」そこだよ。あのおじさん、なかなかやると思ったのは」
 「あれで、風貌に似合わず、なかなかの玉なんだな」
 と言って、二人はウズラのタマゴの串を、一気に平らげて、
 「親父さんお勘定」と席を立った。
 一万円を出して、受け取ったお釣りが、千円札四枚小銭が少々。
これが、二千円札が出回ったら、二枚になるわけである。
 確かにお札が軽くなる。
 
7 「SPEED」
 
 「スピード解散だって」
 テレビを見ていた洋子が、叫んだのを聞いた隆介は、
 「えっ、昨日、内閣改造したばかりで」
 と素っ頓狂な叫び声をあげて、リビングルームにやってきた。
 なにが起こるかわからない、生き馬の目を抜く今の世の中だから
そんなこともないわけではなさそうだが、新しい閣僚を選んだばか
りで、「解散」とは、いくら何でも
 ーー小渕さん、それはないだろうーー
 というのが、隆介の素直なきもちだ。
 だが、テレビに映っていたのは、若い娘四人の姿だった。
 「何だい、これは」
 怪訝な顔で、覗き込んだ父親に、生意気盛りの高校生、娘の洋子
は、
 「だから、スピードが解散するんだよ」
 とこともなげに言い放って、台所に行った。多分、自分だけ用に
買ってある清涼飲料水を取りに行ったのだ。この娘は、それを父親
はもちろん、同性である母親にも、絶対飲ませない。
 「なんだ、スピードって」
 「あんた、知らないの。だから、親父はださいんだよ。超人気の
グループじゃん。まだ、十七、八で何億円って稼いだんじゃん」
 「へえ、こいつらがか。内にもそれくらい稼ぐ娘がいる、といい
な」
 「馬鹿じゃないの。私のこと言ってるんだったら、無理だね。こ
んなにかわいくないじゃん。親に似たから」
 「洋子は、俺に似たんだぜ」
 「だから、将来、真っ暗なんだよ。でも、ママに似ても同じだか
な。期待はできないね」
 「人間はな、顔や姿じゃないんだ」
 「それは、そうじゃない人の慰めだよ。美人はそうは言わないと
思うな」
 「じゃないなんて言うんだ」
 「人柄だとか、性格だとかが、って言うんじゃない」
 「それはそうだ。おれもそう思う」
 「でも、現代じゃあ、もっと大事な物があるんだよ」
 「ほう、何だい、そりゃあ」
 「いま、見てるじゃん。スピード、何事にもスピードが大事なん
だってさ」
 これには、さしもの隆介も、
 ーーなるほどーー
 と頷いた。
 
8 「仕事」
 
 「良い仕事をしましたね」
 決勝タイムリーを打った選手が、ヒーロー・インタビューを受け
ていた。
 「いや、たまたまですよ。それより、チームが勝ててのがよかっ
た」
 大方の答えは、それだ。
 「仕事」などと言われると、確かに、野球をして、給料を得てい
るのだから、ゲームは「働き場所」で、プレーは「仕事」に違いな
いが、日本語の語感としては、どうも、すっきりしない。いつの頃
から、「仕事」は、飯を食うための金稼ぎの手段に落ちてしまった
のだろう。
 「仕事」と聞いて、私が思い浮かべるのは、輪島塗の逸品とか、
大工の働き姿とか、陶工の類で、スポーツ選手は、埒外である。サ
ラリーンですら、仕事とは思えない。工場労働者や事務員たちの給
料生活者が、しているのは「労働」であって、「仕事」ではないよ
うな気がする。
 この辺りは、すでにマルクスが、看破している。会社組織の労働
では、資本家が労働者の生み出した価値を「搾取」しているという
感覚は、あまりないだろうが、突き詰めて考えれば、会社員の労働
は、資本家の利益に貢献するためにのみ、意味があるといえる。だ
から、生産性が落ちれば、容赦ない解雇が待っているのだ。
 それに比べ、「仕事」をしている人たちは、自らの満足と目的の
ために働いている感じがする。腕を頼りに、自分が納得できる目標
に向かってだけ、労働を費やしているようだ。だから、辛さは感じ
られない。達成感だけを求めているからだ。ここでは、収入を得る
ことより、何かの作品や業績を形で残すことが、優先されている。
 「自分の納得できる物を残せればそれが最高の喜びです。それで
少しお金が入ってくれば、それで十分です」
 そう語るまでの心境に達したとき、初めて、人は解放されるのだ
ろう。その地点に早く行けるかどうかで、人生の意味には大きな違
いがある。
 だから、もし冒頭の質問が、巨額を稼ぐスター選手に向けられて
いたら、これはまさしく的外れだ。わずかに、決勝タイムリーを放
ったくらいでは、彼に期待された「仕事」とは言えないし、それほ
ど、力のある選手でないのなら、ますます「仕事」などとはおこが
ましい。せめて、良い働き、くらいだろう。
 最近の子供たちに人気の職業は、以前の「プロ野球選手」を抑え
て「大工」だそうだ。子供は、世間の動きに案外、敏感だ。子供た
ちもまた、「労働者」ではなく「仕事をする人」になりたいのだ。
 二十一世紀はそういう「仕事人間の時代」になるのかも知れない。
 
9 「秋の味覚」
 
 梨から始まって、ブドウ、サツマイモ、栗、さらには、松茸まで、
秋の盛り「食欲」をそそる食物は、バラエティーが、豊かだ。
 その内、今年食べた味覚で、一番旨かったのは、大型の種なし巨
峰だった。巨峰は、ブドウの王様だが、その中でも、この巨峰は、
粒が大きく、形も」ほぼ正確に球形で、しかも張りがすばらしく、
その上、種なしだった。東京のデパートに出たら、間違いなく、一
房七百円は下らない代物だ。
 それが、また、甘みといい、すっぱみといい、微妙なバランスで
口に広がり、「これほどのブドウが、できるようになったのか」と
感嘆した。今年、これだけの最高のブドウができたの、長く暑かっ
夏の気候の影響だ。実りの頃には、昼の高温と、夜間の冷気が大切
で、日較差が大きいほど、糖度が増す。甘みは、気温の格差から生
まれるのだ。
 これは、果物すべてに当てはまるから、今年の「秋の味覚」は、
大いに期待できそうだ。梨も甘かったし、柿も旨い物がたくさん出
回るに、違いない。そういえば、夏の盛りのスイカも旨かったよう
だ。稲もたわわに実っている。列島を暗く覆っている「不況風」を
よそに、自然は豊かな実りを見せている。
 こう見ると、なにも金稼ぎの経済が発展しなくても、人は豊かに
生きていける、と思われる。そんなに、あくせくしなくても、旨い
食い物は、実るのだ。
 ただし、これは、自然が営むこと。自然破壊と環境汚染が進めば、
どうなるか、わからない。工業製品を製造するために自然を破壊し、
その営為がそれほど経済的な利益をもたらさないのなら、破壊せず
においた自然が生み出す作物を大切にいただいて生きていった方が
いい。
 そういう感慨さえ、抱かせる今年の「秋の実り」だ。
 
10 「エビフリャイ」
 
 「今日は、どえりゃーエビフリャイ、食べたんだにゃも」
 と名古屋の人は言うらしい。と、これは、タモリの十八番だ。
 すると、今季のプロ野球は、「このどえりゃーエビフリャイ」と
「そんなこつあるんすかい、豚骨はうまかあよ」の対決で、盛り上
がりそうだ。なにも、毎年、東京や大阪のチーム同士の対決でなく
ても、日本一は、争えるのを、全国に示してほしいものだ。
 名古屋の名物といえば、ほかには、ソースカツ丼、きしめん、ウ
ナギのお櫃まぶし、ういろうーーといろいろあるが、これらに共通
しているのは、一筋縄ではいかないところだ。単純ではないのであ
る。大体が、異種類の物を混ぜて、加工している物ばかりだ。しか
も、意表を突いている。ウナギは、長焼きと決めている人には、細
かく切って、ご飯の間に挟んだりする食べ方は、異様だが、無駄な
く旨く、という趣旨からすれば、いかにも合理的な調理法だろう。
揚げたカツに甘辛いソースをかけて、カツ丼を名乗るとは、ずうず
うしいにも、ほどがある、と関東のカツ丼屋は、怒るに違いない。
だが、食べてみると、案外行けるのだ。
 博多の屋台で食べる豚骨ラーメンほど、異様な食物はない。ぎと
ぎと浮かんだ脂身を見ただけで、たじろぐ食漢もいるはずだ。見た
目では、どうしたって、太りそうなのだが、これが、案外、さっぱ
りとした食感なのだから、恐れ入る。鯨の刺身や馬のレバーなど、
あまり見られない珍しいメニューもある。病みつきになったら、抜
けられない珍味が勢揃いしているのだから、どんなに警察が規制し
ても屋台は不滅だろう。
 こういう、特色豊かな地方都市が、それなりの人口を抱えて、列
島に散在しているから、日本は面白い。広島が優勝したって、お好
み焼きだけでなく、牡蠣を始め豊富な魚介類が待っている。
 そういえば、秋から冬にかけて、玄界灘や日本海で揚がる博多の
魚介類も豊富だ。関東では「アラ」といえば、魚のくず肉だが、博
多の「アラ」は、高級魚で、鍋にすると、ほっぺたが落ちるほどの
美味だ。大相撲の九州場所では、力士はこれを食べるのを楽しみに
して、博多にやってくる。
 なにも、東京都、大阪だけが、日本ではないのだ。名古屋の「ど
えりゃーエビフリャイ」も「そんあこつ、とんこつラーメン」の対
決は、いつもの日本シリーズとは、ひと味違ったものになる予感が
する。
 
11 「不起訴」
 「どうですか、サッチーは」
 「はい、ああ、駄目でしたね」
 「なぜなんでしょうね」
 「軽いからじゃないですか」
 「軽いというと」
 「事件としてですよい」
 「公職選挙法違反ですがね」
 「汚職とは違いますからね」
 「地検としては、そう乗り気になれない」
 「そうは言いませんが。態勢の問題もある」
 「本気になれない」
 「ということにしおきましょうか」
 という会話が聞こえてきた。
 目つきの鋭い若い男と、好奇心が旺盛そうな小太りの男が話して
いた。
 「圧力はどうです」
 テーブルのコーヒーを一口啜りながら、小太りの男が聞いた。
 「あるような、ないような、それは、巧妙ですね」
 目つきの鋭い男の呟きに、小太りの男が頷いた。
 「それは、永田町ですか」
 「それ以上は言えません。でも、本当は解らない。私は、指示さ
れている立場ですからね」
 「ははん。もっと上」
 「日常的に報告は、上げています。検察は一体ですからね」
 「解りました。どうもありがとう」
 二人の男は立ち上がり、別々に勘定を支払って、入り口で、素知
らぬ顔をして、分かれた。
 翌日、新聞は、サッチーこと野村・阪神監督夫人の不起訴を伝えていた。
 
12 「タガ」
 警察官が、証拠写真をネタに、女性を脅したり、高校教師がテレ
クラで知り合った少女に「買春」したり、国家公務員が、電車で痴
漢をしたりと、この国の国民が備えていた誠実さと真面目さは、日
に日に薄れていっているようだ。東京のテレビ局キー局でも、住居
侵入して、女性の裸を撮影していた常習犯が、報道部員だったりし
て、メディアの権威も信頼も地に落ちてしまった。
 東海村の放射能事故といい、相次ぐ新幹線のトンネルでのコンク
リート片落下事故といい、安全神話も崩壊の危機に瀕している。
 一連の政界の汚職事件から、金融犯罪、さらにはいわゆる社会の
エリートによる破廉恥事件まで、この国は上から下まですっかり、
「タガがゆるんでしまった」状態に陥っている。
 その原因はどこにあるのだろうか。
 戦後半世紀に渡って続いた経済成長の「歪み」が、ここへ来て一
気に噴出している、とみる向きもある。だが、単なる歪みだけとい
えるだろうか。高度成長時代に有効だった制度が、ここへきて突然、
有害になったと言い切れるものではないだろう。確かに、制度はい
つかは、時代にマッチしなくなる。いわゆる「制度疲労」を起こす
から、常に改善と改革をしていかなければならないのだ。
 だが、これまで、世界中から羨望の目で見られてきた我が国の諸
々の制度が、突然、昨日不全になったというのは、早計過ぎる。
 それより問題なのは、制度を運営する人間の方だ。破廉恥罪で捕
まったエリートたちにも、原子力事故を起こしたウラン加工会社に
も、そういう事態に陥ってしまったあとでも、昔の日本にあった深
い反省の態度が見られない。原因と結果に対する「危機意識」が、
著しくかけている。
 江戸から続いた明治、大正、そして戦前の昭和に生きた指導的立
場の人たちには「恥」の文化があった。世間に申し訳できない不祥
事を起こせば、「腹を切って死ぬ」ほどの武士の魂があった。
 今は、それがない。
 なんでも、適当にやっておけばいいのだ。適当が幅を利かせれば、
結果が不適当になるということを、若い人は知らない。職人意識も
なくなっている。
 「適当に遊んで、適当にやってけば、いいんだよ」
 渋谷のセンター外の茶髪の少女の考えが、国中に充満し始めてい
る。
 
13 「小春日和」
 
 井上陽水の「小春おばさん」を聞くと、いつも、中学校の校舎の
日溜まりを思い出す。黒い学生服の襟の金ホックを外して、お昼休
みに過ごした校庭の日溜まりは、すっかり日の光が衰えた教室の空
間とは違った暖かさと明るさに満ちていた。
 太陽の光の直射を受けて、本を読むと、目が悪くなると注意され
ていながら、そんなとには、一向、かまわず、ポケットに入れて持
ち出した文庫本の小さな文字を必死に追っていた。
 秋のどんよりとした天気の合間に、やってくるポカポカ陽気を、
「小春日和」とは良く言ったものだ。農耕生活の中で生まれた気候
を表す熟語の中でも、一塩に文学的意識を感じさせる名前だろう。
 いま、そういう気候を迎えるほんの少し前にいる。一昨日までは
夏の残りがあるような暑さ続きの天気だったが、ようやく今日は、
爽やかな秋の気配がした。なにしろ、昨日は神奈川県の藤沢市では、
最高気温が三十度とまさに「湘南の夏」が居座っていたのだ。それ
が、今日は肌寒いほどだ。このように季節の変わり目がくっきりと
している年は珍しい。いつも、曖昧模糊と四季が移り変わっていく
のが、関東地方の気候だ。
 だが、緯度が高くなるほど、季節の変わり目ははっきりしている。
東北の春は、まさに突然とやってくる。まず、日の光が厚く、濃く
なり、一日の長さが伸び始めると、深く地表を覆っていた白い雪が
融け始め、その下で芽吹きを待っていた草花たちが目覚めて、一斉
に立ち上がる。まさに、地面一面が芽吹き、春の訪れを告げるのだ。
 そういう繰り返しで、季節は巡っている、ということを、正面か
ら告げられ、知らされる。北欧の人たちが、短い夏の陽光を一つも
逃すまいと、夏の間に大胆な姿で日光浴する理由が、少し解った。
 ついでに、スエーデンやデンマークやノルウェでポルノが、発達
した訳もこの辺りにあるようだ。冬の間、吹雪を雪に閉じこめられ
ていて、夜の楽しみといえば、セックスだったのだ。我が国でも、
北国では、今でも秋の出産が多いのは、冬の間の営みの成果なのだ。
 人は楽しみを拡大する。文明の発達で、使える道具が増えれば、
それを活用しようとする。ビデオでもインターネットでも、ポルノ
系が、普及の先導役を務めるのは、それが人の性の根底に根付いて
いるからなのだ。だから、いくら理性が取り締まっても、増殖と工
夫は、止まらない。
14 「栗と栗鼠」
 
 上の表題は、そのまま読み下すと、「くりとりす」だから、大声
で読んではいけない。処女と淑女の顰蹙を買うのは、間違いない。
 それより、栗の鼠と書いて「りす」と読ますのは、栗鼠がドング
リなどの木の実を、前歯と前足を使って、せわしなく食べる光景か
ら、思い浮かべたのだろうか。
 こういう造語は、なかなか面白い。日本人が作った和製漢字では、
山偏に上と下を会わせて、峠としたり、「します」のますを枡形で
書いたりとなかなか造形の妙があるが、これが英語だとどうも変だ。
 strikeを「ストライク」と読めば、野球用語だが、これを「スト
ライキ」と読むと、労働争議になる。barは、飲み屋では「バー」と
いうが、窃盗犯が使う破壊用具は「バール」なのだ。
 こうして、日本人は、同じ言葉を違う風に発言して、意味を分け
ている。英語を本来の意味では受け取らず、自分の都合のいいよう
に使っているわけだ。
 先日亡くなったソニーの盛田会長が、発案したと言われる「ウオ
ークマン」も和製英語だ。正確な英語ならせめて「ウオーキングマ
ン」とでもなるのだろうが、今では世界中が、当たり前のように使
っている。「ケイレツ」や「ダンゴウ」も今では、ちゃんと英語の
辞書に載っている。「
 それなのに、日本と言えば未だに「フジヤマ」と「サムライ」と
「ゲイシャ」というイメージがなくならない。また、分厚い眼鏡を
かけて、肩からカメラを吊している出っ歯の小男が、漫画の日本人
の典型だ。
 こうしたイメージが消えないのは、サミットなどに出席する政治
家が、まさにそういう漫画のイメージ通りの小男だったりするから
ということもある。実際、八十歳の宮沢大蔵大臣は、各国の首脳の
中で、一番小さい。橋本龍太郎・前首相も小さかった。体格で白人
種の首脳に引けを取らなかったのは、中曽根首相くらいだろう。
 実際、政治家には小柄な人が多い。これは、闘争的で活発な活動
には、小柄な方が都合がいいと言うことのほかに、大体、小柄な人
の方が、元気がいいのだ。ウドの大木の大柄な人は、小回りも利か
ない。梶山静六、山口敏夫といわゆる策士タイプは、皆小柄だ。
 そして小柄な割に、よく食べる。そしてあまり眠らない。小型車
と同じでエネリギー効率が良いのだ。
 あの栗鼠のどん栗を食べるときのせわしなさを見ていて、ふと、
そんなことを思った。
 
15 「上原の涙」
 
 巨人のルーキー上原投手が、ヤクルト戦でペタジーニに対してベ
ンチが命じた四球敬遠の後で見せた涙が、論議を呼んでいるという。
 松井と本塁打王を争う来日初年の外人投手に、これ以上本塁打数
を伸ばさせまいとする長嶋監督一流の配慮なのだろうが、このホー
ムランバターには、上原は絶対の自信を持っていたし、対戦成績も
それを裏付けていたから、データ上の確率論から言えば、この敬遠
は、シーズン最盛期ならば、まったく意味のない物だった。
 シーズン最後の個人タイトル争いの必要上からの策なのだ。
 だが、この日二本差の松井に追い上げの本塁打はなく、この安全
策そのものが無意味に終わった。それが、上原の試合後の「敬遠に
もやって良いものと・・・」と言葉を飲み込む光景をもたらしたの
だろう。
 この悔しさからあふれ出た涙に対して、プロ野球界の先輩からは
苦言が呈された。解説者の張本氏は「ベンチの指示は絶対だから、
それに対して、反抗するような態度は良くない。あの場面での敬遠
の必要性をコーチが言い含めて、しっかり教育しておかなければな
らない」と矛先を首脳陣に向けた。こういう、チームとしての組織
論を持ち出す評論家は多いが、ここで抜け落ちている視点は、果た
して、プロ野球を支えているファンは、こうした卑劣とも言える
「敗退行為」を見たくて、球場に足を運び、テレビで熱心に観戦し
ているのだろうか、ということだ。もし、あの敬遠が効を奏して、
万が一松井がホームラン王のタイトルを取ったとしても、本来のタ
イトルの意味があるのだろうか。第一、松井自信の達成感と満足感
は半減するだろう。ファンは、誰がタイトルを取るかと言うことよ
り、見てきた試合での華麗なホームランの方が、印象深いし、感激
もある。しかも、タイトルがこういう策によって奪取されたとした
ら、タイトルそのものの意味がない。
 こういう策は、まさに卑怯そのもので、太平洋戦争中に日本軍が
盛んに考えた相手の裏を付く、闇討ち行為と共通している。あのこ
ろは、なるべく効果的は卑怯な策を考えられる作戦参謀が優秀だと
されていた。そうした国家体制の結果は五十年前の悲惨は結末に繋
がった。
 プロ野球界には、まだ、そのころの亡霊が生きているらしい。あ
の最もファン指向だった長嶋監督がこのようは逃げの策を取ったこ
とにファンは失望している。
 同じ頃、アメリカではソーサとマクガイアが真っ向勝負の末に、
本塁打王争いに決着を付けた。互いに打ちあっての正々堂々とした
タイトル獲得だ。
 こういう日米の差の裏には社会が反映している。血縁、地縁を基
礎に、談合や癒着で、自分たちだけが甘い汁を吸おうとする、日本
独特の闇に隠れた暗い競争は、そろそろ、終わりにしないと、公開
制と公明さを基準とする国際評準に、大きく遅れを取ってしまう。
 ましてや、最も爽やかにフェアープレーを求められるスポーツで
は、勝負放棄は論外だ。
 
16 「手抜き」
 
 「日本もとうとう、ここまで来たかっていう感じですよ」
 「また何かあったんですか」
 例の新橋のガード下の焼鳥屋で、中年の紳士と若い男が話して
いる。
 「ほら、僕は、独身ですから、時々、風俗にも行くんですよ」
 「そうらしいな、俺は行ったことがないが」
 「最近行ったソープは酷かった」
 「何が?」
 年上の紳士は、たれの付いた焼き鳥を頬ばりながら、無表情に
聞いた。
 「サービスに決まっているじゃないですか」
 「ほお、どんな風に」
 「入って三日目だという、二十代後半の子に付いたんですがね。
何にもできない」
 「何にもって、やることはやるんだろう」
 「まあ、やることはやるんですが、それだけなんですよ」
 「じゃあ、良いじゃないか」
 「そうじゃないんです。ソープにはソープのサービスがあるのに、
しないんです」
 「なんか、聞いたところによると、阿波踊りとかマットプレート
かあるようだな」
 「よく、ご存じですね」
 「週刊誌にこと細かく載ってるじゃないか」
 「そう、そういうお決まり、コースがないんですよ。ただ、する
だけなんです」
 「はあ、洗ってもくれないのか」
 「普通は、スケベ椅子に座って、体を洗った後、風呂に入り、その
後、今のマットプレーなんかがあるんですが、そういうのを一切手抜
きして、やるだけなんですよ」
 「それじゃ、風呂には行った意味がないけど、若い君たちには、ま
どろっこしくなくて、良いんじゃないか。どうせ、目的は決まってい
るんだから、プロセス抜きで、一気に目標達成じゃないか」
 若い男は向きになって反論した。
 「そういうものじゃないでしょう。一応サービス産業なんだから、
一通りのことはしないと行けないんじゃないですか。ああいうのを、
ファーストフード感覚っていうんですけね。それとも、コンビニ感覚
かな。手っ取り早く済ませて、お金だけは、しっかり貰おうっていう
魂胆ですよ。心細やかなサービスなんて頭にないんです。今の風俗の
子たちには」
 「若い君でもそう思うかね。とうとう、そういう分野にも、手抜き
がに及んだか。せめてもの恥じらいやプロ意識がなくなったね。でも
誰も教えないのかね」
 「いや、先輩の女の子から教えて貰うらしいんですが、ろくに聞い
てないし、真面目にやろうとも思わないらしい。学級崩壊の児童生徒
と同じですね
 「面白いことを言うね。そういう教育の危機がここまで及んできた訳
か」
 「最後に落ちがあるんです。その子は前はコンビニの店員だったんだ
そうです。安月給で苦労して稼せいでいたのが、今はお客さんとセック
スして、自分も気持ちよくなって、一時間で数万円が手に入る。しかも、
責められるのが好きだそうですから、お客が奮闘して、彼女はして貰う
だけなんですから、これほど、結構な仕事はないでしょう」
 「コンビニの店員か。なるほど。うちじゃないだろうね」
 「そこまでは聞きませんせんでした。怖くなってしまって」
 二人はそこまでで。黙り込んだ。皿の焼き鳥ももうすっかり平らげた。
コップに少しだけ残っていた酒を一気に干して、席を立っていった。
 
17 「子育て」
 
 最近、東京都南部で頻発している赤ちゃん殴り魔は、依然、不
明だが、捜査のプロフィーリングの手法で、犯人像を推察すると
「子供が好きだが、子供からは好いてもらえないか、子供が欲し
出来なかった独身女性」といったところが、当たっているようだ。
 女性に取って、子供を持つことは、本能的な欲求だが、それが
満たされないと、女性の地位が高くなった現在でも、かなりのス
トレスになるという、本来、女性=ウーマンは、WOーMANと
綴るように「子宮で孕む」存在なのだ。雌雄の両性生殖が、地上
の高等生物の宿命なら、精子を受けて生殖を担う立場のメスは、
必ず、子供を保護し、育てる本能を持っている。それが、快楽を
もたらす構造になっているから、種は保存されてきたのだ。
 ところが、社会の進歩のスピードが、この生殖活動から、雄も
雌もはじき飛ばしてしまう恐れが出てきた。人間が作り出した化
学物質である環境ホルモン汚染で、生殖能力を失う生物が多くな
っているのは、生物の物質的側面からの危機だが、生殖能力はあ
りながら、諸々の社会的な条件で、その本能がかなえられない個
体が、多くなっている。これは集団で生活する猿の群でも同様で、
群からはじき出されたのか、あるいは居づらくなって自ら出てき
たのかは解らないが、最近も都会にはぐれは猿が現れて、人間社
会を騒がせている。この猿は、人の社会に迷い込んだお陰で、食
うには困らず、敵もいないから、一匹でも生きていけるのだが、
もう子供は作れない。都会に近い猿は集団で生きる必要がなくな
ってきている、と言えそうだ。だが、雌であるにしろ、雄である
にしろ、異性がいなければ、子供は作れず、子育ても出来ない。
 人の場合は、都会生活では、物理的には、異性はうじゃうじゃ
いるが、案外、知り合って交際する機会は少ない。都会では、壁
一つ隔てて暮らしながら、挨拶一つしないという関係で生活して
いる人がほとんどなのだ。この点が、何キロも離れていながら、
お隣りとあれば、深い付き合いが欠かせない田舎暮らしとは違う
ところだ。物理的な距離は近いのに、心の距離は遠いのだ。
 そういう人間関係は、人を傷つけて、自分の存在を知らせたい、
他人に認めて貰いたい、という歪んだ欲望が生まれる危険性を常
に孕んでいる。最近、通り魔の極悪事件が頻発しているのも、都
会生活者の心の闇がそれだけ深くなってきているからに相違ない。
 「子育ては、三つ叱って四つ誉め」
という秀逸な標語は、過去の話になっていくのかも知れない。
 今や、「子育てが出来ずに、人の子を殴り」
といい事態なのだから。
 
18 「サバイバル」@
 
 青息吐息の日産自動車に地球を半周して乗り込んできたフラン
ス・ルノー出身のゴーン氏が、五工場の閉鎖と二万人以上の人員
削減を盛り込んだ「サバイバル計画」を発表した。モータリゼー
ション化の一翼を担ってきた我が国第二位の日産自動車は、大幅
に我が身を削って、背負い込んだ積年の負債を返していかなけれ
ば行けないことになる。かつてはトヨタと市場を二分して、一時
はトップシェアを誇ったこともある大メーカーが、なぜ外国人に
病んだ体の切開手術をして貰わなければならない事態に陥ってし
まったのか。これは、自ら改革を怠り、安穏を貪ってきたことへ
の天罰でもあるが、では、トヨタとこうも差が開いたのか。
 実は私は、大学を卒業した昭和四十六年(一九七二年)に、前
職の新聞社とともに、日産自動車の採用試験も受けて、首尾良く
合格したことがある。当時は、夏頃までには、製造業などほとん
どの大会社の就職は終わり、最後が七月の国家公務員採用とマス
コミだった。ベトナム戦争反対に始まり、七十年安保闘争や大学
紛争の風吹き荒れた後だけに、マスコミへの就職は人気が高く、
私が受けた新聞社だけでも三千人近い受験者があり、そのうち、
記者として採用されたのは三十人ほどだったから、倍率は、百
倍を越えていた。
 そういう厳しい状況だったので、そのころは米国の三大メーカ
ーの軍門に下るかも知れないという心配もあった自動車会社も、
「滑り止め」のつもりで受けておいたのだった。結果は、新聞社
に受かり、希望が叶ったのだが、我が国の自動車メーカーも、通
産省の主導で再編を進め、攻め込まれ得るのではなく、逆に世界
に責めだしていくほどになった。この再編の先導役を果たしたの
が、日産自動車とプリンス自動車の合併だった。プリンスは今度
閉鎖が決まった村山工場が本拠地だった。
 幸いに二社から内定を受けた私は、直ちに、日産の人事部に行
き、就職辞退を気持ちを担当者に口頭で伝えた。その時応対した
担当者の答えが、今でも忘れられない。
 「君ねえ、そういうことでは、社会に出てから、通用しないよ」
 とこともなげに言われたのだ。私は、ただ平身低頭して、事情
を説明しやっと承諾して貰った。その人からすれば、たくさんの
応募者から苦労して人選して、人を採用したのに、今までの汗が
無に帰すという気持ちだろうが、それにしても、人を諭し、なじ
るような尊大で官僚的な態度は、今でも脳裏にこびりついている。
 ーー人を自分勝手となじっているこの人は、自分の身勝手を忘
れているーー
 そう感じて、いやな気分が抜けなかった。と同時に、「社会に
出てから通じない」と言った言葉の意味を考え続けてきた。
 その人が言いたかったのは、内定を受けていながら、断るとい
うのは信義にもとる、ということのようだった。だが、人は不安
になれば、誰でも受け皿や最終手段を用意するものだ。第一次策
が駄目なら第二、第三の対策を考えておく。それが安全というも
ので、我が身を守る本能的な対策だ。NASAのスペースシャト
ルもそうしたフェールセーフの安全思想で設計されている。だか
ら、今では、ほかにも採用試験を受けているのを隠すような人は
いないし、採用面接でもはっきりと質問する。
 ところが、時代は、終身雇用が定着して、日本経済が高度成長
を初めた頃だから、就職はすなわち「就社」という意味だった。
それだけ人選は厳しく、期待も大きかったし、採用する大会社に
は、殿様意識が強かった。家臣を取るという感覚なのだった。
 だが、そういう意識では、時代の変化を乗り切れない。相手が
ある関係では、相手の気持ちを推し量る能力こそ大切なのだ。相
手も同じ人間で、立場も、思いも、希望もあると考えないといけ
ない。そこが、人に信頼され、指示されるかどうかの分かれ目な
のだ。自分だけよかれと思っても、人が支持しないと、物事は成
功しない。ましてや、熾烈な競争に晒される商品販売では、消費
者の意向をいかに取り入れられるかが、勝負になる。
 若い大学生を、一瞬、たじろがせた横柄で居丈だけな姿勢が、
製品作りや販売活動の場で現れていなかったか。それが、顧客の
支持を失わせたのではないか。殿様経営、温室気分が染みついて
いなかったか。
 その点は、次回(明日)の論点にしておこう。
 
19 「サバイバル」A
 
 昨日に続き、日産自動車の「姿」について、体験談を報告する。
 同社が一時代を築いていた1970年代から80年代にかけて、
一世を風靡していたのは「スカイライン」だった、特にその最強
バージンで「スカイラインGT」は、車マニアのあこがれだった。
そては、そのレーシングタイプの「GTR」が、鈴鹿の日本グラ
ンプリ・レースで無敵だったこともあって、走り屋に、最も好ま
れていたからだ。
 私も、社会人になって、二代目の車として、ブルーバードのク
ーペタイプから乗り換えて、あこがれの車を手にした。これは、
なかなかの車だった。何しろハンドルがいやに重い、それに、ク
ラッチペダルも、踏み込むには相当の力がいり、女には操れない
男の車だった。キャッチコピーの「羊の皮をかむったオオカミ」
は、まさに、ぴったりとこの車の性格を言い得ていたのだ。なに
しろ、当時は最先端だった前進五段のクロスレシオの変速機は、
面白いように、シフトが決まり、排気量2000CCの直列六気
筒エンジンのパワーは十分だった、高速で五速のオーバードライ
ブに入れると、「キーン」とジェット機が飛んでいるときのよう
な音がして、空を飛んでいるような気分になったものだ。開通し
たばかりの東北自動車道では、ベンツと走り比べして、ぶっちぎ
りで勝ったこともある。その時の時速は優に200キロを超えて
いた。実家の近くの知り合いだった(開発者の)「桜井さんはな
かなかやる」と感心した。
 こうして、十分満足した「スカイライン」にも、不満があった。
それは、先ほどの「男臭さ」とは、裏腹の不満で、堅いハンドル
やペダル類は、まる一日掛かるような長距離ドライブでは、くた
びれ果てるのだ。夕方、帰路に就く頃には、足が棒のようになっ
てしまう。ガールフレンドとのドライブでは、最後の「決め」の
時に、体が疲れていたのでは話にならない。ドライブの目的は果
たたものの、デートの最終目的は果たせなくなる恐れがあった。
これでは、彼女も興ざめしたしてしまう。スピードで大いに煽っ
おいて、ずどんと、突き落としてしまうようなものだ。高ぶった
気持ちを、発散したいと期待している女性の不満は募る。
 という訳で、東京に異動になって、結婚したのを機に、新車に
乗り換えようと思い立ち、近くにあった日産プリンスの販売店に
行ってみた。ちょうど、そのころ新車が発売されて、その新車は、
もちろんオートマチックで、ステアリングもパワーアシストされ
ていて格段に操作性は向上しているはっずだった。
 ことらとしては、買う気満々だったのだ。だが、応対した販売
店の人は、そう熱心でないように見えた。確かに、ベテランらし
い人も含め三人がかりで、必要書類の説明などをしてくれたが、
「どうしても家の車を売ってやる」という気迫が、感じられなか
った。値引きもはじめに提示した額を譲ることは出来ないという
態度で、さらなる追加サービスなど、思いも寄らない、という感
じだった。
 私は失望して、やはり、新型の「コロナ」を発売していたトヨ
ペットの販売店に出かけた。こちらは、販売員は一人だったが、
入社したてのような若いセールスマンが付きっきりで応対してく
れ、お茶のサービスなどもあって、楽しみながら、車を見ること
が出来た。最後に、このセールスマンが、
 「お暇なときにお宅にお伺いしてよろしいでしょうか」
 と聞くので、承諾すると、早速電話があって、自宅にやってき
て、商談は成立した。廃車手続きも前の車が他府県だったのに、
遠い陸運事務所に出向いてやってくれた。
 と、もうころから、日産とトヨタの間には、顧客に対するサー
ビスの姿勢に差が出てきていたのだ。最先端でお客に接する人た
ちの態度が、徐々に全社の販売量の差になって、隆盛と凋落に繋
がっていったのだと思う。どんなに性能の良い車を技術者達が作
っても、売れないのでは、商売が成り立たない。日産は、そうい
う会社になっていった。
 本当は、名車「スカイライン」に乗り続けたかったのだが、や
むなく断念した私の体験は、愛用していた日産車から他車に乗り
換えた、かなり、多くのオールド・カー・マニアに共通している
のではないだろうか。
 そういう点は、かなり前からかなり多くの人が指摘していたの
だが、改革はなされなかったようだ。結局、巨人は内部の矛盾に
によって病み、外人の外科医に身を切られることになった。病原
菌は確実に、体をむしばんでいたのだ。
 
20 「グラウンド」@
 
 甲子園のグラウンドは、土と砂で出来ている。高校野球の球児
たちが、試合後、汗と泥に塗れた真っ黒な顔で、感動を呼ぶのも
グラウンドが土で出来ているお陰だ。破れたチームの選手たちは
グラウンドの砂を袋に入れて持ち帰る、熱戦と感動の思い出だ。
 だから、もし、甲子園が、東京ドームや名古屋ドームや福岡ド
ームのようなドーム球場になったら、日本列島の夏の感動シーン
が消えてしまうことになるだろう。ドームならずとも、横浜スタ
ジアム、西武球場、神宮球場だと、人工芝だから、外野手のユニ
フォームは、ほとんど汚れない。走塁と盗塁の際に、その恐れが
あるだけだ。こうして、土のグラウンドがだんだんと、消えてい
っている。
 ドーム球場に、早朝に入ると、一日中、時間の感覚が狂ってし
まう。昼頃になっても太陽は見えないし、夕方になっても、明る
さは変わらない。いつ太陽が天に上がり、沈んだかを、肌で実感
できないのだ。勿論、雨が降ろうが風が吹こうが、人工的なドー
ムの環境は、変わらず一定だから、肌で天気の動きを感じること
もない。
 甲子園はまったく違う。雨が降り始めたら、空を見上げながら
の試合になるし、日が落ちれば、ナイター照明が暗い夜空を赤々
と照らし出す。自然の変化が試合の一部になっているのだ。こう
した球場が、これまでは日本では普通だった。だから、ほとんど
の日本人は野球のグラウンドは「土と砂」で出来ていると思って
いるのだろうが、世界的にはむしろ、これは少数派なのだ。
 野球の母国、アメリカは勿論、ヨーロッパで野球が盛んなイタ
リアやオランダでは、サッカーのピッチ同様、グラウンドには青
々と芝生が茂っている。ベース周りを除き、内野にも外野よりは
背丈の低い芝生がきれいに刈リそろえられて敷かれいて、目にも
あざやかだ。
 「これでは、内野ゴロ守備が難しいでしょうね」
と聞くと、向こうの選手は、
 「いや、難しいゴロなんてそんなに来ないし、芝で打球の勢い
が殺がれるのから、むしろ守り易いんじゃないかな」
とこともなげだった。
 野球とは、「ベース・ボール」の松岡子規による訳語だが、ま
さに、その言葉どおり、広い空間の「野でやる球技」なのだ。だ
から、それが、狭い閉鎖空間で行われているのは、原義にそぐわ
ない。
 ドームと人工芝という「グラウンド」の変化によって、野球の
質にも技術にも大きな変化がおきた。その象徴が、今年のプロ野
球ペナントレースであり、その最後を飾る日本シリーズになると
思われる。まず、セ・パの覇者の中日、ダイエーの両チームこそ、
そういう時代を先取りした時代の申し子なのだから。
 
21 「グラウンド」A
 
 毎年正月に東京・国立競技場で行われるサッカーの全国高校選手
権大会決勝のテレビ中継を見ていて、選手が走り回っているグラウ
ンドが、厳冬のこの季節にしては、見事に鮮やかな緑の芝なのに、
目を引き付けられたファンは少なくないだろう。
 思わず、我が家の庭の、枯れて、色あせた芝生と見比べて、
 「どうして、この季節にあんなに綺麗な緑の芝が育てられるのだ
ろう。品種が違うのか、それとも養生方法の差なのだろうか」
 と疑問を抱いた人もいるはずだ。
 亜温帯の日本だが、本格的な芝生を年間を通じて維持するのには、
相当な苦労と努力がいる。暑く多雨の夏はよく丈が伸びるが、雪に
覆われるか、乾燥しやすい冬は成長がぴたりと止まる。日本列島中
のゴルフ場のコースキーパーは、一年中、良好なコース状態を保つ
ために、非常な苦心を強いられている。名門コースでは、芝状態が
悪い冬季は、一定期間を決めて、クローズして、メンテナンスして
いる。それほど、この国の芝事情は厳しい。
 だから、サッカーやラグビーなど、激しい走りと体のぶつかり合
いがある競技では、芝の球技場はほとんど使われなかった。本当は
芝の方がいいのだが、貴重な芝生の痛みが激しく、競技場管理者に
歓迎されなかったし、そもそも、芝の競技場があまり、できなかっ
た。今でも、公園では「芝生に立ち入り禁止」の看板がかかってい
る所がある。欧米では芝生は「立ち入るもの」と決まっている。こ
の差が日本の公園管理者がいかに芝養生に苦労しているかの証拠だ。
 そういう状態のなかで、目にも鮮やかな緑の芝生が、国立競技場
に現れたのだから、関係者は、みな目を見張った。一体、どうして
あのような見事な芝生が造れたのか。どこにその秘策があるのか。
誰もが不思議に思ったのだ。
 その秘密は、競技場裏の管理倉庫に隠されていた。そこには、緑
色の植物用染料が蓄えられている缶と噴霧作業車が、あったのだ。
あの「ミドリ」は、染料で染めた色だったのだ。
 なぜ、そこまで手をかけて、芝生に色を付けないと行けないのか。
 この疑問に、
 「やはり、見映えですね。くすんだ芝生より、綺麗な方がお客さ
んにも見えが良いでしょう。それにテレビの写りも良いですし」
 とは担当者は答えくれた。やはり、テレビの影響なのだ。
 確かに、見事な出来映えで、画面に映るとさらに美しい色が出る。
だが、どうもあまりに人工的な臭いがして、冬の時節とも季節感の
違和感がしてならなかったのは、そういう事情があったからだ、と
納得できた。
 こうして、グラウンドの芝を染めるのは、何も国立競技場の専売
特許ではない。ヨーロッパのサッカーの衛星放送を見ていて、一面
青々として、カラフルすぎるピッチは大体、染めてある、と見てい
いだろう。アメリカン・フットボールのフィールドは、染めるのは
当たり前になっている。染めるだけでなく、チームやスポンサーの
ロゴやマークを色とりどりに描いているフィールドもある。そもそ
も、芝生を染めることは、なんでも進取の気質があるアメリカ人が
始めたものだ。
 このように、はじめは単なる土と砂とでしかなかったスポーツの
競技フィールドは、ますます人工化している。それは、一つのテク
ノロジーとなって現代文明の一角をなすようになってきた。
 陸上競技のトラックにも各種の新素材が開発され、スピードが出
やすくなってきた。それらは、人類のスポーツ記録の限界をうち破
り、引き上げるのに大分、役立っている。選手が肉体的な限界に挑
戦すれば、それを手助けし、環境を整えるのが、側面援助のこうし
たエンジニア達だ。
 化学繊維メーカーの技術が、今日から始まるプロ野球ニッポン一
を決める日本シリーズの舞台、福岡ドームと名古屋ドームの人工芝
を作り上げた。
 そして、そういうグラウンドの変化で、競技のあり方も試合の進
め方も戦術も選手の意識も変わってきている。そういう変化が、ど
こにどう現れてきたのかは、次回の「随説」でお伝えしたい。
 
22 「グラウンド」B
 
 1999年プロ野球日本シリーズは、ダイエーが工藤、中日は
野口の左右エースの先発で始まった。工藤は予想通りだが、中日
は若い川上の登板も下馬評に上がっていたが、星野監督は、もつ
れた試合展開になっても安定した投球を見せてきた野口を起用し
た。それだけ、野口への信頼感が強いのだと言えよう。
 短期決戦のシリーズで両チームの監督の最初で最大の仕事は、
先発投手を決める仕事だ。「第一戦の勝敗で、シリーズの行方の
大方が決まる」というのは、森・元西武監督。不敗神話を築いて
きた名将が語るシリーズの要諦だ。
 それというのも、初戦を落とした場合、登板間隔を中四日で行
けば、初戦先発投手の次の登板は、第四戦となる。それまでの3
戦を落としていても、ここで踏みとどまれば、首の皮一枚で逆転
への足がかりを掴むこともできるからだ。実際、3連敗の後、4
連勝して、ニッポン1に輝いたケースもある。その詳しい経緯は、
スポーツ新聞などが詳細に伝えるので、ここでは、触れないが、
それほど、初戦は意味が重い、ということなのだ。
 今年も、やはり、その通りの試合展開になった。両エースの踏
ん張りでスコアボードはゼロ行進が続いた。緊迫した投手戦が、
中盤まで、繰り広げられ、試合のペースも速くなった。
 初戦はその緊張感に加え、互いに相手戦力の探り合いになるか
ら、打線は振るわない。もともと、それほど点が取れるゲームに
はなりにくいのだ。だから、ワンプレーの重みが増す。わずかな
守りや走塁の油断がミスに繋がり、そういう失敗をおかした方か
ら、勝利の女神は去っていく。投手で言えば、一球の失投が敗戦
に繋がることになる。
 これは、広いドーム球場では、さらに重みが増す。両翼110
メートルもある両球場では、なかなかホームランは出にくい。さ
らにグラウンドが、人工芝だから、外野への打球の球足が速く、
長打も外野手の好返球で阻止されやすい。要するに打者には不利
に出来ている。その上、マウンドが高いので、真っ向から勝負す
る本格派の速球投手には有利になる。近年、速球派が特に持ては
やされる所以だ。風の影響もないから、素直に球速が出る。
 こういう条件があると解って、両チームは、チームつくりの方
針を変えた。打線のチームから、少ない得点を投手力を主体にし
た守りで守りきる戦術を採用したのだ。特に中日は、数少ないチ
ャンスを、走りと細かい打線の攻撃で得点に結びつける戦い方で
小差ゲームを競り勝って来た。それが、人工芝ドームの戦い方だ
からだ。ダイエーも長打力がある点では、中日に勝るが、やはり、
豊富な投手力で、終盤までリードを守りきり、逃げ切る戦い方は
似ている。
 要するに、近代的は人工芝、ドーム球場では、守りの手堅さと
攻撃の多彩さが求められるのだ。これはまた、運動能力の優れた
選手が活躍の場を与えられということでもある。
 素早い判断力と的確なプレーに、さらに、一球を疎かにしない
細心さも必要だ。それだけ要求されるプレーの質が高くなったの
だ。速球と細かい制球力、細かい技と長打力。この相容れない要
素をバランス良く備えていなければ、人工芝のドーム戦う現代野
球では、良い選手とはいえない。一投一打のプレーの正確さとス
ピードが求められるのだ。それはまた、一つのプレーのミスが、
直ちにチームの敗戦に繋がることも意味している。
 ところで、シリーズ初戦は、ダイエーの工藤が、ベテランらし
い丁寧な頭脳的投球で、中日打線からシリーズ新記録の13三振
奪い、完封勝利した。中日・野口には、六回に秋山に投じた1球
が悔やまれるだろう。唯一の失投を見逃さなかった秋山の経験豊
富ないぶし銀の読みもすばらしい。秋山は
「第一打席でセンターフライに打ち取られた球が来ると思ったの
で、狙っていた」
とこともなげに言った。
 試合後、ヒーローのお立ち台に上がった二人は、シリーズでは
見慣れた西武から移籍した二人だった。
 若い頃から、人工芝の、広い西武球場で鍛えられてきた成果が、
ここでも生きていた、と感じたのは、以上のような理由からであ
る。    
 
23 「円高」
 
 今月上旬から始まった円高は、もう、定着してしまったようだ。
対ドル・レートは、105円台から106円前後に張り付いてしま
っている。多くのメーカーは、今年のレートを115円近辺に予想
して、収益計画を策定していたから、これは、相当の苦境だ。
 通貨価値は、その国の経済力を示す指標でもあり、為替レートは
その国の経済力の反映でもある。だが、円が高く、その価値を世界
金融市場で増しているのとは、裏腹に、日本経済は、未だ明るいさ
が不透明だ。堺谷・経済企画庁長官は、発表ごとに経済見通しを、
良い方に改めているが、国民の実感とはほど遠い。
 これからも、大企業の大リストラが、待ち受け、大型の企業統合
・合併、合従連衡の動きが急だ。といっても、ほとんどは2000年以
降の実施で、計画は定まったものの、実際の成果が、現れるのは、
二十一世紀に入ってからだ。
 こういう、青息吐息の経済状態なのに、順調な回復に水を差す、
円高が進むの、なぜなのだろうか。もし、もう一段の円高となり、
1ドル=100円に張り付いたままになれば、故福田・元首相の持
論だった「戦前の1ドル、1円」に向けて、デノミ論議が再燃する
かも知れない。
 国の経済は不調なのに、貨幣価値が上がるのは、理屈に合わない
話だ。これまでの経済学に反しているのだ。そのからくりは、宮沢
大蔵大臣にしても、自民党の首脳達も、そして、もちろん小渕首相
も、大体は気が付いている。でも、国民にはっきりと説明しようと
はしない。マスコミを通じて、国民が知らされるのは、その日に、
為替相場がどうだったか、という事実だけなのだ。だから皆、「今
日の相場は、いくらで、円高だった」とか、「いくら円安だった」
とかは、よく知っているが、なぜそうなかは、深く知ろうともしな
い。精々、経済専門通信社や、経済専門新聞や時には、一般紙やテ
レビニュースも、その理由を簡単に触れるが、ほとんどは、「日銀
の経済政策会合で低金利政策維持が決まったため円安に触れた」と
か、「アメリカの長期金利が上昇傾向にあるため円高になった」と
かの現象面の短期的な説明だけで、構造的な要因を分析した報道は
ほとんどない。しかも、ほとんどは、政府・大蔵省や日銀などの公
的なオーソリティーからの情報ばかりで、記者クラブの椅子に座っ
たままで、書いているのが一目瞭然だ。
 これは、国内外の資金移動を、デイリーで把握している公的機関
がないこともあるが、実際は、米国との二国間為替取引で決まって
為替相場の性格を十分に把握していない、という実体を表している。
 為替ディーラーでは、個々の取引での取引相場は、リアルタイム
で把握しているが、全体量となると、そう簡単には解らない。なに
しろ、日本中の金融機関が、為替取引をしているのだ。これに、企
業間の直接取引や投機的資金も入ってくるから、まさに、お金には
名前がないという性格を如実に示して、資金は自由に地球を回って
いる。
 と思われるのだが、どうも、そのハンドリングは、ニューヨーク
・ウオール街のビルの一室で行われているらしい。そこの住人であ
る巨額の資金運用者達が、取引利益の最大化を目して決定している
投資判断が、その日の世界的は相場に反映される仕組みができあが
っているのだ。この判断材料に、その国の経済の現状分析は組み入
れられてはいるが、最終目標は、「取引でいかに儲けるか」だから、
相場の動きによっては、過激な資金運用をする。ちょっとした切っ
掛けで、相場が乱高下するのは、彼らが積極的に買いに走るか、手
じまいに走るかによって、まるで鼠の集団移動のように、大量の投
機資金が瞬時に地球を駆け回るからだ。
 だから、最近の円高は、彼らの投資意向を反映している、とも言
える。彼らの利益に叶うのが、円高だということだ。
 なぜ、利益になるかというと、それは、米国政府の 意図であり、
その政策の向かうところだからだ。投資家も「国益」を無視できな
い。というより、国益に沿って、政府の指示が直接ないという自由
市場を装いながら、見事に国益に沿った行動をしながら、しかも、
彼らは儲けているのだ、ということだ。
 「円高」がなぜ、米国の利益になるかというと、巨額な米国国債
のドルでの価値が目減りして、返済が楽になるからだ。たとえば、
円安の頃、1ドル200円で買った1万ドルの国債は、200万円
の価値があったが、1ドル100円になれば100万円の価値しか
ない。この国債購入者が円建てでの償還を受けるならば、利子分を
加えても、投資資金の半分は失ったことになり、その損失分が発行
者の返済負担を軽くし、米国の利益になる、いうわけだ。
 国債の償還負担の軽減は、クリントン政権の安定にも繋がる。財
政の健全性を維持できるし、黒字の財政は国民の強い支持が期待で
きるのだ。
 要するに、日本人が汗水垂らして働き、懸命に作った性能の良い
製品を輸出して、やっと稼いだお金を、国債投資させて、ごっそり
環流させ、しかも、その返済は軽くする、という政策には、円高が
望ましい。そして、その間の為替相場の変動は、ウオール街の小鬼
たちが、上手く制御しておけば、安全だ。
 こういうことに、気が付いていながら我が国政府が、大した異議
を唱えられず、利息生活者のお年寄りの生活にしわ寄せする低金利
政策を維持し続けているのは、内需拡大による経済復興を迫る、米
国政府の顔色を伺っているからだ。大損失を出した銀行を潰さない
ため、巨額の公的資金と呼ばれる税金を投入し、優良債権だけ付け
て、アメリカの投資集団に安く売り払うという、立派な金融再建策
を急いでいるのも、アメリカが「資本主義の大本山」であり、「ご
本家」様だからだ。アメリカが言う「同盟国」とは経済の実体から
は、「属国」という意味に他ならない、ようだ。
 宗教でも、信者は本山に寄進を欠かさないし、分家の次男、三男
は、本家の親には頭が上がらない、というのは、人の世の常である。
 
24 「食べ放題」
 
 女房が、女友達二人と、東京・新宿に新開店した「高野フルーツ
パーラー」のレディース・ランチに行ってきて、
 「制限時間中に、全部食べようと思って、頑張ったら、気持ち悪
くなって、吐き気がした。もう、何にも食べたくない」
 と言うので、それなら、私は浅草で美味い物を食おうと、一人で
出かけた。
 大体、女房は、毎月一度は、この三人グループで美味い物の食べ
歩きをすることに決めていて、南青山に出店した「梅の木」や先日、
白昼の路上無差別通り魔事件が起きた東池袋のサンシャイン通りに
ある和食食べ放題のバイキングにも行って来て、そのたびに、
 「食べ過ぎて、もう何も入らないわ。動くのが苦しいよ」
などと、言っているから、あきれて口が塞がらない。
 それなら、行かなければいいのに、誘われると、いそいそと出か
けていく。一体、人の食欲とは不思議なもので、腹が減っていれば、
どんな物でも美味しく見えるが、いったん、満腹してしまうと、ど
んな好物を差し出しても、受け付けなくなる。それでも、また、腹
が減れば、美味い物を食べたくなって仕方なくなるのだ。
 飽食の時代に、食べ放題が盛んだが、これは、食べる前の飢餓状
態の時に、「どうぞ何でも取り放題ですよ」と誘っておいて、格安
な感じにし、本当はそれほど食べれないのに、考えてみればそれほ
ど安くない金額をもらってしまおう、という商法だ。人の食欲の本
質を見事に狙って成功しているのだ。
 だから、家計を預かる主婦たちは、「お買い得」ならぬ、「お食
い得」と出かける。そして、払ったお金を損せず、元を取ろうと、
頑張る、というわけで、いま、食べ放題に嵌った主婦は、この後、
後悔して、ダイエットに走り、エステティク・サロンが繁盛すると
いう循環になっている。
 これは、「風が吹けば桶屋が儲かる」の関係と同じだ。
 「食べ放題が流行れば、エステが儲かる」
 という構図だ。
 それだけ、先進国の現代人は、資源を無駄使いし、ゴミの山を築
いている。食事とは、外部から栄養を補給し、エネルギーと体を構
成する組織に変えるための補給活動だが、補給される物質はほとん
ど、生命のあったものだ。人は体内で作れない栄養素を体外から補
給しないと生きていけない因果な生物だ。なのに、地球の食物連鎖
の上で、人類が最も、恣意的な食生活をしている。不遜なのだ。
 もし、その貴重な食べ物を無駄にしたら、それは神への冒涜だ。
エスキモーも縄文人も、我々を生かしてくれる自然とほかの生き物
への尊敬の念を忘れなかった。現代人はその謙虚な気持ちも忘れよ
うをしているようだ。
 だから、食べ放題で、元を取ろうとせずとも、支払った金額に見
合うだけの質量を食べようとするのを、一概に非難は出来ない。む
しろ、食べ残して捨ててしまう方が問題だ。食べれないのに、山ほ
ど取って、そのまま残してしまうのが、最も不遜だ。
 ところが、食べ放題に行きながら、上品ぶって、大量に食べ残す
人が、最近は多いという。そんなことをするなら、来なければいい。
ほかの店で、自分の適量にあった食事で済ませばいいのだ。
 だが、食べきれないのを無理して、平らげようとするのはその次
に見苦しい。大半の人は、この類だろう。そして、程々に、スマー
トに済まそうと思えば、これは、金額に見合わない、ということに
なる。
 そもそも、時間を区切って、食べ放題へと誘うやりかたが、まや
かしなのだが、普通の人はそのからくりに気が付かない。
 安くて腹一杯食べた、という満足感を抱くより、どうも食べ過ぎ
た、と思う人が多いのは、当然だ。それが、自然の摂理なのだから。
 商法に乗せられて、買いに走るのは、主婦の愚かさとも言える。
プロ野球の優勝チームにちなんで、バーゲンをするのも、閉店だと
行って一ヶ月も大売り出しをするのも、倒産だといって、処分セー
ルをするのも、皆、商売なのだ。それでも、儲けているのだから、
通常の料金がいかに不合理なものかが、知れる。いろいろと、あの
手この手を考えて、客を誘うのは、程々にして貰いたい。
 新手を考えるより、通常の状態をよりよい物にしていく方が、本
当は大変なのだ。日々の繰り返しを、より良くしていくことの方が、
数倍難しい。まさに、「継続は力なり」だ。
 だから、私は、新手の食べ放題などに釣られずに、老舗の味を慈
しんで、浅草に出かけたのだった。
 
25 「浅草と秋葉原」
 
 というわけで、私は、浅草に出かけてみた。秋葉原で新しく出た
新型のデジタルカメラの価格を見たかったのと、秋葉原のヤマギワ
近くにある安いステーキ屋のステーキが無性に食べたくなったため
だ。
 平日の秋の日というのに、この町は、ひとで溢れていた。しかも、
外国人が多い。それほど、身綺麗とはいえない風袋の外国人がほと
んどだ。ジーンズとティーシャツのラフな格好をした外国人風が、
ビデオやラジカセを見て回っていた。
 姿だけを見れば、明らかに日本人の方が、全般にこざっぱりした
装いをしている。これは、人種が近い中国人や韓国人や台湾人をと
日本人を見分けるポイントでもある。
 電車の中などで、顔付きだけでは、判別出来なくても、着ている
ものや持っている鞄やバッグを見ると、区別が付く。語弊があるか
も知れないが、単純化して言うと、安っぽい感じの服や靴やベルト
や鞄を持っている人は、大体、近隣諸国のアジア人のことが多い。
 これは、単純に経済力の差なのだろうか。基本的にはそうかも知
れないが、どうも「国民性」というか、民族の性格のようなものが、
反映しているようにも思える。
 日本人は、電車の車内のような公共の場所で、あまり、大声は上
げないが、中国人は、辺り構わず、大声の議論をする。昼時の食堂
の行列で、男女二人が、激しい言い争いをはじめ、周りの人たちは
成り行きに注目したが、いざテーブルに就いて食事になると、二人
は仲良く同じ皿の料理をつ突いていた、という光景を見たことがあ
る。
 中国人にとって、他人は、まさに「よその人」なのだ。自分たち
を中心に地球は回っている、ということなのだろうか。外国に出て
も、堅固に自分たちの習慣と生活スタイルを守っているから、世界
中に中国人街が出来たのかもっしれない。その国に合わせるより、
その国に自分たちのコミュニティー自体を移植してしまう、結束力
と仲間意識はすさまじい。
 こういう人たちが交錯している秋葉原は、新宿歌舞伎町や百人町、
赤坂の一角と並んで、東京では、最もオリエンタルな「国際化」が
進んだ町のようだ。
 この喧騒を外れて、わずかに北に行った浅草でも、やはり萎れた
服装の男達が路上を占拠し、当てどなく行き来している風景は、見
られたが、お目当ての食い物屋は、百年の伝統を抱えて、変わらず
同じ場所にあった。浅草園芸ホールには、おなじみの寄席の定席が
かかり、真打ちの落語家が、舞台にあがっていた。ロック座やフラ
ンス座は、一階をパチンコ屋にしたり、改装工事をして、生き残り
を計っている。変化は徐々にではあるが、伝統がまだ、そこそこに
残っているのだ。
 伝法院通りを六区に向かう角にある、ハヤシライスで有名な洋食
屋「YOSIKAMI」も、見慣れた構えで、この辺りにしたら少々、高級
なメニューを展示していた。ボルームたっぷりの1480円のラン
チを午後五時まで食べさせるのがうれしい。
 ほかにも、すき焼きの「今半」、芋ようかんで有名な和菓子の「舟
和」、日本最古のバーと言われる「かみやバー」など、幾星霜を乗
り越えて、健在の老舗が変わりなく暖簾を掲げている。さらに、ド
ジョウ、スッポン、フグ、馬肉、鯉、ナマズなそ日本独特の「美味い
物」を食べたくなったら、浅草に行けばいい。必ず、専門店が見つか
る。この日は、「今半」で霜降り肉のすき焼きを堪能して帰宅した。
 時代の最先端を走る電子機器やパソコンが並び、あこがれの電化製
品を買いにきた外国人が溢れる町と、江戸時代からの老舗の店舗が並
び、下町の情緒が保たれている浅草と。異色の町が、近くに共存する
大都会、トウキョーは、世界でも、有数のユニークで面白い街だ。 
26 「個展」
 
 芸術の秋。
 画廊が集まっている東京・銀座では、そこそこのビルのフロアで、
画家達の個展がいま真っ盛りだ。裏通りをちょっと、歩けば、通り
に、「なにそれの個展」という看板が出ている。
 有名無名の作家達が、この一年の作品を集めて、展示している。
ヨーロッパ版画作品展とか、欧米の作家達の作品展もある。美術作
品を見たかったら、なにも、上野の森に行かなくても、入場料なし
で、多彩な作品が見られるのだ。朝早く出かけても、全部は見切れ
ないほど、多くの作品展が、開催中なのだ。
 私も、中学時代に担任だった美術の先生で、九州の田舎に引きこ
もってから、作家として創作活動に励んでいる、と聞いていた画家
の個展が、銀座の二カ所の画廊で開かれているという知らせを貰い、
出かけてみた。
 本当の狙いは、個展を見た後、路地裏の焼き鳥の名店「鳥銀」の
釜飯を食べたかったのだが、二十年以上前に教った、その先生のこ
とがどうしても、思い出せず、出会いに興味があったのだ。
 二カ所でやっているというのは、その先生が属している作家の会
の作品展と個展を同時に開催している、のだった。ということは、
この先生の地位が画壇でかなり上がってきたということのようだ。
 銀座四丁目の角の一等地のビルのなかにある美術サロンで開かれ
ている作家集団の作品展には、先生は小品一つと、大作に中ぐらい
の作品を四つ出品していた。いずれも静物だった。花瓶や果物を描
いていて、一見したところでは、印象派のルノアールやドガのよう
な色と筆使いで、絵の具と筆の跡がくっきりと残り、まさにペイン
チングといえる作品群だった。形よりいろ使いが、美しい。
 形は大胆に捕らえられているだけで、日本画のような精細さは微
塵もない。大まかに捕らえた形象に、色も鮮やかに、大胆に使った
いかにも油絵という感じの作品群だ。
 絵のことはよくわからないが、それなりに、作者の意図は分かる。
先生は、色使いを見て貰いたいのだと、理解し、それなりに鑑賞し、
堪能した。
 絵を見てから、ふと下の説明札を見ると、見えないような鉛筆が
きで、金額が記されている。展示されているどの作品にも、おなじ
ような札が付いている。その点が、入場料を取る上野の森の武術感
での展示会と違う。
 ーーああそうか、これは、小品なのだーー
 とその時気が付いた。それで、その後からは、作品と同時に、ど
うしても値札を見てしまう。それを重ねているうちに、いずれも、
数十万円台以上なのに気が付いた。絵画は「号いくら」といって、
画布の大きさで値が決まるとは聞いていたが、週刊誌くらいの大き
さのあまり名前を知らないような画家の作品に「20万円」とか「50
万円」とかの値段が付いているのを見て、これは、作者の「言い値」
なのだ、と気が付いた。
 だから、実際の取引は、交渉によるのだろう。それにしても、世
間の金銭感覚からすると絵はずいぶん高い。もともと、値段を付け
るのが、無理な商品だから、「値段なんて、あってないようなもの」
と言うことなのだろう。ある作家やある作品を好きになり、どうし
ても手に入れたいと思う人には、お金に糸目が付かない貴重な物に
なり、関心のない人には、何の価値もない、というのが芸術作品の
本質なのだから。
 とはいえ、個展では展示作品を買わなくてはならない、とうこと
ではないから、美術の秋に目の保養に出かけるのには、お金のかか
らないこういう展示会が良い。そのうち、大作家になる人の、若き
頃の秀作に出会えるかも知れないのだ。
 
27 「ATOK13」
 
 ジャストシステムの日本語ワープロ・ソフト「一太郎10」と
「花子10」が発売されたので、早速、勝(買)ってきて、イン
ストールした。パソコンには「一太郎9」「花子9」が入っていた
ので、バージョンアップだ。
 日本語入力ソフトの「ATOK12」も「ATOK13」に進化
し、「入力スピードと制度(精度)がアップした」、とPRしてい
る。
 これまでも、日本語変換の間違いやキー入力への追随性に、不満
があったので、このバージョンアップで、原稿書きがはかどる、と
大いに期待した。
 だが、率直に言って、期待には裏切られた。原因は不明だが、長
い文章を羽膣図毛(打ち続け)ていくと、突然、コンピューターが、
ハングアップしてしまう、という現象に、出会ったのだ。このマガ
ジンを売(打)っているとき、30時(字)×40行を1ページと
して5ページくらいの所で必ず、止まってしまう。そこまで売(打)
ってきた苦労が、一気に吹き飛んでしまう。
 白枠の警告が出て、一切の動作が止まってしまい、どのキーを押
しても、動かなくなってしまう。回復には、電源を切るリセットし
かなく、往生した。
 大作(対策)を考えた結果、頻繁に保存を繰り返すことで、損害
を回避することにした。同時に、一太郎が内蔵している文書自動保
存機能の保存間隔を「オプション」で短縮し、出来るだけ、「飛ば
ない」ように身長(慎重)に、操作をすることにした。
 それでも、三階(回)ほど、入力中に同じ現象に装具鬱(遭遇)
した。しかたなく、ジャストシステムのホームパージを差が(探)
して、メールアドレスに、この現象を感単位(簡単に)説明したメ
ールを送ったが、変身(返信)は今のところ着(来)ていない。勿
論、製品クレームのページがあり、そこにファックスと郵送用のフ
ォームが掲載されているのは、知っている。それを使わなかったの
は、やたらと専門的な記入項目が多く、ほとんどの一般ユーザーに
は不向きだ、と思ったからだ。
 会社が、顧客志向(指向)になっていれば、このようなフォーム
で、クレームを送らせるようにはしないはずだ。また、そのフォー
ムを使わない相談にも、紳士(真摯)に対尾鬱(対応)してくれる、
と思うが、そうではないのか、まだ、答えはない。
 この文章を書いている間も、先ほど、危うく、ハングアップしそ
うになって、上書き保存した。
 それにバージョンアップして以来、やたらと「メモリーが少なく
なって危険です。ほかのアプリケーションを止めてください」とい
う意味の警告分(文)がでる。これでも、我がマシンは、この機種
としては限度いっぱいのメモリーを搭載しているから、これ以上の
メモリー増設は無理だ。ほかのアプリケーションといっても、同時
起動しているのはInternet Explorer、Microsoft Money、Point
Castにメモ調(帳)程度で、しかも、開かず下のバーに格納した状
態で「一太郎」を使っていて、そうなるのだから、実用にならない。
 多分、メモリーの不足の限界だとは重(思)うが、ということは
「一太郎10」は、酷いメモリー大食いソフトになってしまったの
だろ過(か)。ノートパソコンでの使用は、無理なのだろうか。そ
うとすれば、ずいぶん市場は狭めれられてしまうことになる。
 全(前)バージョンでは、全く起きなかった現象だけに、がっか
りしている至大(次第)だ。
 (この文章は「一太郎」「ATOK13」の日本語変換機能を示
すために、最初の選択で出てきた文字をそのまま表示しています。
()内が出現を期待した文字です)
 
28 「学園祭」
 
 秋の学園祭が、今盛りだ。
 娘が通う私立中・高校一貫校の学園祭があったので、出かけてみ
た。私鉄沿線に広大な敷地を持つその学校は、幼稚園から大学まで
の一貫教育を、理念としている伝統校だが、保守的のように見えて、
進取の気質もある。
 まず、目に付いたのは、教室の各部屋をライブハウスに見立てた
バンドの演奏が、軒並みあったことだった。いずれも、ドラムスと
キーボードとエレキギターにボーカルを組み合わせた型どおりのイ
ンディーズ型だが、マイクやアンプやシンセサイザーの性能がいい
ので、みな、上手く聞こえる。日本製の高性能で安価なオーディ機
器のお陰もあるが、女子高校生とは思えないようなテクニシャンも
いて、いまや、高校生には音楽「音痴」は死語になったと感じた。
 何しろ、中学までは、ろくにメロディーも取れなかった娘も、小
学生の頃、エレクトーン教室に通ったことも役だって、臨時のキー
ボード要員にかり出される始末だから、中学高校生の平均的な音楽
のレベルは上がっているのだ。娘は本来、茶道クラブに属しており、
バンドとは関係ないのに、友達のたってのお願いに、仕方なく、手
伝うことになったらしい。
 だが、それよりも圧巻は、女子高生だけの「宝塚公演」だった。
本物の宝塚歌劇の演目をそのままに、歌って、踊る舞台を繰り広げ
るのだ。衣装も手作りながら、見事にカラフルに、きんきらきんの
本物そっくりだ。全部、レビュー部分で、ドラマ部分はないが、束
の間、宝塚劇場に出かけたような気分になった。何しろ、主役の男
役が登場すると、舞台を取り囲んだファンが大声を上げ、握手を求
めるのだから、そこまで、本物と同じだ。
 その演目が際だっていたのは、舞台のお陰もある。東京には池袋
の東京芸術劇場を筆頭に、六本木のサントリー・ホール、渋谷・ぶ
んかむらのオーチャード・ホールと設備が整った世界水準の音楽公
演施設が、目白押しだが、この学校の講堂もそれに匹敵するくらい
の音響設備と照明設備を持っている。もちろん、日比谷公会堂や昭
和女子大の人見記念講堂、共立女子大学講堂よりは、数段上の環境
だ。年に数回か、学内だけで外国の音楽家を呼んだコンサートも開
いているほどだ。
 その舞台を使っての女子高生による宝塚レビューの再演だから、
皆、力が入っている。夏休みに合宿でじっくり練習した成果を二日
間の舞台に結集しているのだ。クラブ活動として、学校から公認さ
れているのだ。
 最後は、本物と同じように、両手の金の鈴を振ってのフィナーレ
となり、部長でもある最高学年の三年生の「大幹部」が、背に大き
な羽の飾り物を背負って登場する。舞台を囲んだ「づかファン」か
ら、花束が贈られて、幕が下りた。
 聞けば、昨年は、もっと、本物らしく、しっとりとした情感もあ
ったという。昨年のメンバーからは、二人が宝塚音楽学校に進んだ、
と聞いた。東大合格以上の難関を突破したことになる。
 勉強ばかりしていなくても、女子高生には、こういう道もある、
ということか。
 来月21日からは、東大駒場祭がある。昨年は、息子達のクラス
が出店した焼鳥屋の安い焼き鳥が意外と美味かったのが、印象に残
っている。近くに住む妹は二日続きでこの焼き鳥を買い、夜食のお
かずにしたという。本物の焼鳥屋に卸す鳥問屋に出かけて、交渉し、
材料を安く仕入れたのだ、といっていた。ひ弱で、学力が落ちたと
いう、今時の大学生にも、なかなかの行動力があるのだ、と感心し
た。
 そういえば、東大も医学系の理科三類の学生で、高校時代に生物
を履修しなかった者が多くなり、教養部時代に高校の科目の「補習」
が必要になっているなど、学力の偏りが問題になっているという。
 それでも、
 「ほかの学校に比べれば、やはり、勉強は出来るのではないです
か」
 とは、知り合いの教員の弁。
 そう、勉強は出来なくても、美味い焼き鳥を安く食べさせるだけ
の知恵があれば、何とか、社会で生きていけるだろう。