10○「おでんや」

 
 「おお寒、親父さん、いつもの」 
 腰板が剥がれかけた一枚戸の引き戸を威勢良く開けて飛び込んできたのは、常連のヒヨシだった。浅草では一時代をつくった漫才芸人で、路地裏のしもたやにあるこの店には駆け出し時代から通っている。 
 店には、若い二人連れしかいなかった。ヒヨシが、店のカウンターに座ったとき、その二人は壁に掛かったテレビを見ていた。そこに写っていたのは、ヒヨシが忘れたくても忘れられない男だった。 
 画面一杯に大写しになったその男は、話をしながらしきりに右の頬をつねる。良く見ると頬はそげ落ちて、怪我をした跡のようだ。そして、話の合間にしばしば右片をしゃくり上げて首を捻る。それは、ヒヨシが、忘れられないその男の癖だ。 
 「ピート・ツヨシも、すっかり、のぼせ上がってるな。この街じゃ、一介の漫才師、芸人の一人に過ぎなかったのに。いまじゃ、いっぱしの文化人だ」 
 隣の若い男が、連れの女に知ったかぶりに囁いた。 
 「あんな、病人のような顔して、テレビに出ちゃ行けないよね。醜い顔してさ。わたしゃ吐きそうになるんだ。あの顔見ただけで」 
 女が応じた。

 ヒヨシは、突然入ってきた雑音を聞かないふりをして、静かに銚子を傾けて、啜る。 
 (あいつが、コンビを解消しようと言いだしたとき、おれは、反対しなかった。それが、あいつの生きかただと思ったからだ。俺の弟子もあいつに預けて、俺は身を引いた。それで、よかったんだ) 
 「親父、でーこを頼む」 
 「へえー」 
 この親父の自慢の大根も味が変わった。親父の味覚が変わったかららしい。 
 「旨いねー。このでーこ。ずっと変わらないね」
 親父は、気まずそうに、首を振り、 
 「いや、変わった。不味くなった。もう、昔の味は出せないよ」 
 寂しそうに、言った。外で風が鳴り、積もっていた雪が吹かれて流れていった。 
 
 11○「ストーカーの恋」 
 
 「お嬢さん、いま何しているの」 
 名前を名乗らぬ不審な電話が、掛かってくるようになったのは、ここ一週間ほど前からだ。その電話はいつも決まってその同じフレーズで始まる。 
 美智子は、最初は、 
 「何方ですか。間違いではないですか」 
 と返答していたのだが、相手が、 
 「小島美智子さんでしょう。あなたがいま、家に帰ってきたことを、僕は知っているんです。いまどんな姿なんですか」 
 と応答したために、この相手が、美智子を狙って掛けてきたことが分かった。それから、急に恐怖心がこみ上げてきた。 
 「もう、上着は脱いだでしょう。下着は何色ですか。シュミースを着ていますか。ブラジャーだけなんですか」 
 美智子が黙り込んだのに乗じて、相手は傘に掛かって聞いてきた。何時も同じパターンだった。始めは、美智子は黙って、電話を切っていたが、何度か同じ質問をされて、こちらから一方的に電話を切るのは失礼だという変な気になっていた。美智子も女の一人暮らしだから、夜中に狭い部屋に一人でいるのが寂しいこともある。そんなとき、顔が見えなくても自分を慕っている男が必死で電話しているのに答えるのは、ある種の快感をもたらした。ラジオのDJが、見えない聴取者に楽しげに応答するのとなにか、似ていないこともない、と考えて、佳子は、じっくり付き合ってみようと思ったのだ。そうしているうちに、相手は素性を現すかもしれない、という期待もあった。 
 そんな日々を送っているうちに、電話の会話が、どこか他の場所で佳子を見たものしか知らない内容になっているのに気がついた。それは、どこだったのか。今し方のような気がした。佳子は帰りがけに、駅近くのラーメン屋に入ることがある。女の客は少ないが、味がいいのだ。その店で、顔見知りになった店長に 
 「私猫が好き」 
 と話したばかりだった。今夜、電話の男は 
 「猫が好きなんだって」 
 と聞いてきた。 
 
 12○「醜い男」 
 
 画面では、右の頬が引きつった中年男が、手に真っ赤な血が付いた刃物を持ちながら、こちらを睨んでいた。男の顔には表情がない。ただ、小さな狡猾そうな目が、点のようになって、黒く光っている。
 その鬼気迫る画面を見て、敏子は、思わず、両手で目を押さえていた。 
 (こわい、これは、あの時の男の顔だわ) 
 敏子はあの夜の悪夢を思い出して、身を硬くした。その夜、敏子は夜道を家路を急いでいた。閑静な住宅地の一角にある二階建てのアパートが、敏子の住処である。あと、数十メートルの角を曲がったときに、突然、男が現れて、こちらを向いて、着ていたロングコートの裾を開けた。男は、下に何も着けていなかった。驚いて身を引いた敏子に、男は、
 「ほら、ほら」 
 と言いながら迫ってきて、右手に持っていた懐中電灯の光を、下半身の真ん中に当てた。黒い裾野を持つ、小さな尖塔が浮き出て、敏子の目を捕らえた。それは、紛れもない男の逸物だった。 
 敏子は、持っていたバッグを男の顔にぶつけて、ひるんだ隙に、逃げようと考えた。だが、男は意外と身軽で、振り回したバッグをダッギングで交わし、すぐに、目の前に立ち上がった。そのとき、懐中電灯の光が、男の顔を照らしだしたのだった。 
 それが、いま見ている画面の男の顔だった。男は、この映画で海外の映画祭の賞を取ったのだという。男はこの映画を監督し、主演していた。 
 (あの引きつった頬とずるがしそうな顔は、決して忘れない) 
 敏子は、映画の筋より男の顔しか記憶に残らなかった。映画館を出るとき、正夫が、 
 「どうだった」

 と聞いてきた。フィアンセの思いやりだ。 
 「怖かった」 
 敏子はそう答えた。正夫はその真意を知らない。
 
 13○「総会屋」
 
 「総会屋って、そんなに儲かるの」 妻の何げない問い掛けに、久雄はぎくりとなった。
 「あなたの会社を潰したくらいだから、いい商売なんでしょうね」
 和子はアイロンの手を休めずに、さらに続けたそう言った。
 確かに、久雄が二十五年間の人生を捧げた証券会社は、解散することになり、久雄も解雇が間近いのは間違いない。そのきっかけは、総会屋への利益供与事件だった、という見かたもあるが、久雄はそうは考えたくなかった。あくまで、業績が悪化したのが原因なのだ、と思ったほうが気が楽な気がする。
 自分が半生を掛けた会社が、汚辱に塗れて倒れたとは思いたくない。周囲の経済状況や営業不振が原因だと考えた方が、これからの再出発にも、意味があるのだ。それに、国が政策として採用した「金融ビッグバン」実現の捨て石になったのだ、と考えたほうが、分かりやすいのではないかと思う。
 それに、一匹の総会屋ごときに、俺たちの会社が潰されたと思うのでは、あまりに悲しすぎる。どうせ、殺されるのなら、やくざにではなく、普通の人にやられたい。しかも、納得いく理由で、愛人との愛憎の果てに、命を落としたほうが、ずっと、見栄えがするだろう。今の場合、愛する相手は、この国だということになる。国のために死ぬのは、戦時の兵隊の美徳だったが、経済大国の現在では、経済戦争で死んでいくのは、致し方ない犠牲と言えないことはない。
 「総会屋は、儲かるさ。だが、寄生虫だ。蛆虫と同じだ。金さえ儲かればというのは、僕は嫌いだ」
 妻が、むっとするのが見えた。その顔は、

 (お金がなければどうして行けばいいの。これまではお金儲けの仕事をしてきたんじゃないの)
 と言いたげだった。 
 
 14○「冷たい妻」 
 
 久雄が妻の久代と、夜の生活をしなくなって久しい。記憶にあるのは、いまは、中学三年になった娘を作った日のことまでだ。だから、もう、十五年も妻は夫に肌を許さない。そうなったのは、なぜか大体の想像は付く。久代は久雄を愛していないのだ。人は男も女も、相手を愛すれば、体を触れていたくなるものだ。一生一緒にいようと考えるのは、愛しはじめた証拠なのだ、と考えていた久雄は、
 「おれが嫌いになったのか」 と久代に問いただしたこともあったが、

 「そういう訳じゃないの。もう子供は出来たんだから、いいのよ」
 と素っ気なく答えただけだった。久代の考えでは、「性」は、子作りのためのもので、愛情の確認や互いのいつくしみのためのものではないらしい。それが、本心なら、久代には女性としての本能的な欲求が湧かないのかと、訝った。
 男は欲求の捌け口を妻だけでなく、他に求めることができる。世の中にはそのためのシステムが部厚く整っている。それは、権力が何度も繰り返して、取り締まっても、なくならない。売春婦は人類最古の職業だという意見もある。だが、女性向けにはそういう便利な制度はないのだ。
 久代は夫という男を相手にしないで、どう欲求を処理しているのだろうか。それが、二十年も連れ添った夫の抱く疑問になるとは、自分でも不思議だった。
 「したくないのか」 「なにを」 「だから、夫婦じゃないか」
 「ああ、あんたなんかに抱かれたくないわよ。触れるのも汚らわしい」
 どれで、会話は終わる。久代は完全にメスとしての欲望をなくしてしまったらしい。
 (だが、おれはまだ。現役だ) 久雄はそう心中で呟いて、原色の眩しい街に出ていく。
 
 15○「成人式」 
 
 前夜から雪になった。関東地方は、十四年ぶりの大雪ということで、交通機関がずたずたになり、テレビのニュースは、その情報ばかりをやっていた。だが、休日だったためか、この冬最初の大雪になった先週の木曜日よりは、影響は少なそうだった。
 朝子は、こんな大雪の日に、暗いうちから早起きするのは辛かったが、美容院には予約を入れてしまっていたし、こんな日が二十歳の祝いの日に重なったのは、何かの思い出になると考えて、何時もより早く起きて、午前五時には美容院に出掛けていった。
 そんな娘の祝いの日を、早起きで付き合ってバター・トーストとコーヒーの軽い朝食を用意した母の幸子は、朝子を見送った後の一時に、自分の成人式の日のことを思い出していた。
 二人で終えた食事の食器を温水機の湯で洗いながら、思い出したのは、同じように皿を洗う手の感触だった。あの頃は、まだ小型の温水機が出回り始めた頃で、外の冷え込んだ外気のためか、チョロチョロとしか出ないお湯の流れに細い手を当てて、洗っていたのはお揃いの柄の深皿だった。幸子が初めての男の独り暮らしの家を訪ずれ、男のリクエストに応じて、造った料理だった。
 男は、東京生まれの東京育ちで、幸子が生まれた東北地方に単身赴任していたエリートだった。ふとしたことから知り合いになった幸子は、ドライブに出掛けて、すっかり心を奪われ、何階かのデートを重ねて、この夜になったのだった。それで朝子が生まれた。
 母一人、娘一人の暮らしだったのに幸子が
 「今夜は帰らないかもしれない」

 と言ったとき、母は、
 「そうかい」

 としか言わなかった。

 朝子が美容院から帰って来て、あの時の自分と同じ台詞を言ったら同じ答をしようと決心して、皿を洗っていた。 
 
 16○「束の間の晴れ」 
 
  関東地方に大雪が降って、一日過ぎた翌日は、朝から太陽が輝く晴天となった。深く積もった雪の上を、眩しい光が乱舞して、何時もより明るい朝の風景だ。その雪は昼過ぎには、溶けはじめて、サラリーマンやOL達は、ぎこちない足取りで、外に出て、雪掻きをしたりして、その雪国の景色を楽しんだ。
 昨年来の景気の不調で、どの業界の人も冴えない顔つきだが、旅行会社に勤める寺島香は、朝からうきうきした気分だった。大手町の会社から、家のある国立まで、中央線の運転中止で帰れなくなった香は、昨晩、母に連絡して、ホテルに泊まる許しを得たのだった。社会人になっても、門限十時を言い渡されている香は、一度、自由に羽根を伸ばしてみたかった。大雪はその機会を与えてくれたのだった。
 昨夜、香が泊まったのは、会社の同僚で、この一ヵ月前から付き合いはじめた徹君の都内のマンションだった。これまでは、帰り際に軽く食事をしたり、映画を見たりの爽やかな付き合いだったが、香はそういう関係に早くも飽きてきていた。キムタクに似た徹君が、女子社員に持てる噂は聞いていた。なかでも、酷いショックだったのは、少ない女友達で、唯一の親友と思っていた洋子が、
 「徹君と一晩過ごした」 と聞いたときだった。香はその衝撃を和らげようと、その一夜の様子を根掘り葉掘り聞いてみた。洋子は、香りの本心を知らぬげに、詳細にその夜のできごとを話して聞かせたのだった。
 「徹君は、青が好きなのよ。ベッドのシーツもバスタオルも、みんな青。しかも、ペルシャン・ブルーっていうのかな、抜けるような青だわ。まるで海のなかで抱かれているみたいだった」
 香はそう聞かされて、想像だけを逞しくした。そして、昨夜その話の真意を確かめたのだった。だがその青は想像と違っていた。もっと薄い青空の色だった。今日の空のように。 
 
 17○「 センター試験 」 
 
 「僕は雪に取り憑かれているのかな。中学の入学試験の時も大雪だったしね」
 和夫はそう言って、雪が積もった寒い朝に、完全防寒の服装で出掛けていった。
 母の久代は、六年前に都内でも屈指の進学校に和夫が挑んだ日の事を思い出した。前の晩から雪が降りやまず、そのうえ地震があって、交通機関は早朝から混乱した。夫の康夫は一睡もせずにテレビの大雪情報をチェックして、翌日に備えていた。
 朝方になると雪は小降りになった。電車も通っているらしい。久代は暗いうちから起きてきて、弁当作りに取りかかった。ポットに熱いお茶を入れて持たせなければいけない。十分の用意をして、親子三人手を取りながら、白い路面をよりよち歩きで、その中学に向かった。
 試験は、大幅に開始時間を遅らせて始まった。雪で受験生が揃わなかったからだ。
 「こんなに遅くなるんだったら、あんなに神経質に準備しなくてもよかったなあ」
 康夫が校門の外で、立ちながら話しかけた。
 「でも、万全を期して来たんですから、いいんですよ」
 何事にも、慎重な久代が諌めた。

 「俺たちがどんなに気を揉んだって、最後は本人次第だよ」
 「それは、そうですけど、出来るだけのことは、してやりたいでしょう」
 久代はいつ正論を言う。

 だが、こんなにも、手取り足取りをどの家でもやっているのか、と康夫は訝った。
 「家なんか、やっているほうじゃないわよ。その余裕もないじゃない。精一杯しても一緒に来てやることくらいなんだから」
 久代はいつも不満だらけだ。

 和夫も久代がつねに康夫に不満を抱いているのは知っている。センター試験に付いていく親もあるのだろうか、と和夫は考えたが、正解は分からない。そんなことに、正解があるはずもないからだ。 
 
 18○「娘の休日」 
 
 昨晩、朝方まで起きてなにかをしていた娘の珠代は、康夫が起床したときには、もう家にいなかった。
 遅い朝食をとったあと、

 「珠代は、どうしたんだ」
 と妻の久代に聞いてみたが、

 「友達とどこかに行ったようですよ」
 とぶっきらぼうにしか答えない。

 「どこかって、どこだい」
 「知りませんよ。勝手に行くんだから」

 と久代は素っ気ない。
 「友達と一緒かい」

 「そうでしょ。一人じゃないわよ」
 ここ数日の雪で、外は冷え込んでいる。その中を凍った道を。出ていったんだから、約束しているのだろう。一人では、外には出て生きたくならない外界の様子なのだ。
 「どういう姿だった」

 「寒いから、防寒には注意しましたよ。それに、今日は、大雨で風も吹いて、天気は大荒れだっていうから」
 「雨具は持たせたのか」

 「勿論よ」

 そこで、会話は途切れた。
 康夫は、コーヒーカップを手にして、ソファーに移ったが、気持ちは落ちつかない。
 「今日は、天気が悪いから、早く帰るように言っておいたか」
 「いえ、でも五時半ごろには、帰るでしょう。そんなに遅くにはならないわよ」
 「五時半じゃ、遅いよ。もう暗くなっているじゃないか」
 「でも、もうすぐ、高校生ですよ。少しくらい遅くなっても仕方ないでしょう」
 「そうだな、もう高校生になるんだから」
 この寒い日にも、渋谷のセンター街には生足にルーズソックスを履いたミニスカート姿のコギャルが闊歩しているのだろうか。珠代は、そういう姿を嫌い、したことはない。
 (大丈夫。俺の子だから) 康夫はそう呟いて、最後の一滴を飲み干した。 
 
 19○「父と息子」 
 
 大学入試のセンター試験が終わったあと、長男の春男が、帰宅後、すっかり落ち込んでいるのに、気がついた母の久代は、
 「国語が出来なかったんでしょ。だから、言ったじゃない。しっかりやらなければ駄目だって」
 といつものように言葉厳しく詰ったが、春男は、口答えせずに黙っていた。
 久代が言うのももっともだ、と思っていたからだ。春男は、どちらかというと、理、数系が得意で、針路も理科系にしていた。中学の頃から、国語はあまり、できなかった。といっても、春男が通っている屈指の進学校の秀才連中と比べてで、普通の高校生のレベルでは、できないという位置ではない。むしろ、良くできるほうだということができた。
 だが、妹はその国語が得意で、通っている私立中学でも、しばしば作文を褒められたり、作品集に掲載されたりしていた。春男には、そういう経験はない。だから家の中では、
 「お兄ちゃんは、国語が苦手」 という定評が定まってしまった。これも、他の教科が人並み以上にできるので、比較の問題と考えて、気にしないようにしていたのだ。それを、いざ、正念場となって、期待ほどの点数が取れないと分かって、久代の愚痴に輪が掛かったのだ。その様子を自室で聞いていた、父の正夫が、
 「そんなに難しかったのか」 と言いながら顔を出したのに、春男はホッとした。
 「よし、明日、新聞に問題が載ったら、おれもやってみよう」
 正夫が大学入試を受けたのはもう三十年も前だ。春男は、出来るわけがない、と訝ったが、父の申し出は嬉しかった。
 正夫は、翌日、本当に問題に挑戦し、解答を春男に見せた。採点の結果は、春男とまったく同点だった。間違えた問題もほとんど同じ。春男の勉強部屋で二人は互いの顔を見合わせて、手を握り会った。 
 
 20○「大雪の日の死」 
 
 関東地方は、十五年振りの大雪になった。その朝、いつものようにバイクに乗って、家を出ていっ小室勲の後ろ姿を見送った妻の恵子は、雪が降りしきり中を、必死でエンジンを付加しながら、進んでいく勲の必死な有様見て、嫌な予感がした。
 勲は、大学時代に、少林寺拳法に熱中し、選手にもなっただけに、背の高い体に広い肩と太い腕を持った頑強な体力が自慢だった。卒業後に入った大手建設会社でも、仲間を集めて、部を作り、積極的に活動していた。職場結婚の恵子が、見初めたのも、そんなスポーツマン姿に引かれたからだ。
 勲を見送ったあと、家事を済ませて、舅の身の回りの世話を終えた恵子が、昼食も終えて、やっと束の間の「主婦の休憩」を始めた午後になっても、雪はさらに大降りになった。
 (これでは、バイクも動けないのでは) と勲の帰宅の心配が心を過った。郊外の一戸建てに移ってから、出勤や帰宅に時間が掛かるようになっが、勲は文句の一つも言わずに、長い通勤に耐えていた。それでも、中年にはいった最近は、仕事が片付けば、真っ直ぐに帰宅し、すっかり、マイホーム・パパに変身していた。だから、
 (今夜も、七時には帰るのだろうか。こんなに雪が降っても)
 と心配しはじめた午後五時半になって、玄関のチャイムが鳴った。夕飯の支度をしていた恵子は、すぐにエプロンで手を拭いながら、玄関にいった。上がり框で勲が胸を抑えて、呻いている姿があった。
 「苦しい、行きが出来ない」

 そう小声で、囁くのを聞いて、恵子は、勲を肩に担いで、寝室に運んだ。ベッドに横たえ、胸を開くと、少し、落ちついた。だが、息苦しさは、変わらないらしく、体全体を上下させて、呼吸している姿を見たのは、初めてだった。
 夜になって、勲は、

 「苦しい、苦しい」
 と言いながら、盛んに胸を掻きむしる。恵子は、居たたまれなくなって、救急車を呼んだ。救急車で救急病院に運ばれた勲は、だが、持ち前の精神力も手伝ったのか、症状は回復していた。休日の大雪とあって、担当医は研修中のインターンのような、若い医者だった。勲はあまり、苦しさを訴えなかった。事実、病院では、息苦しさは消え、寧ろ熱が心配だった。
 「軽い、風邪の初期症状ですね。薬を出しておきますから、家で安静にしてください。体を温めて、ゆっくり寝てください。この雪ですからね」
 と医者は言って、勲を家に帰した。

 勲は、帰宅後も、食欲がなく、医師のアドバイスに従って、すぐに、寝室に入り、薬を飲んで寝た。薬には、睡眠剤が入っていたのか、勲がすぐに寝入ったのを、恵子は知っている。夕食の片付けを終えて、様子を見に行ったとき、勲はいびきを上げて寝ていた。ただ、そんいびきのかきかたが何時もと違っていた。睡眠薬を飲んだとき、特有の深い眠りに落ちていたのだろう。大きい呼吸が、連続して、部屋の空気を揺るがすのを聞いて、恵子は、不安になった。
 (この人は、このまま、起きてこないのではないか)
 ふと、そんな悪感が走ったが、すぐに、必死にかき消していた。
 そんあ勲は、朝まで、昏睡したように眠っていたが、薬の効能が切れたのか、明け方になって、また、苦しみだした。今度の苦しみは尋常でない。
 「ゼーゼー」

 と喉をかすめる呼吸音が、徐々に消えていき、また、復活するのを繰り返す。そして、その周期が早まるのを感じて、恵子は二度目の救急車を呼んだ。勲の意識は既に朦朧としていた。体を抱え上げたときの体温は、焼けるほど熱かった。熱玉のようになった勲は、その熱に必死で抵抗を試みるように、体を捻っていたが、もう何を考えているのか分からない状態になっていた。
 昨日とは違う医師は、勲の様子を見て、思い病状を察したようだった。直ちに補助呼吸装置が取り付けられ、解熱剤や強心剤の注射が行われたが、勲の体は予想以上に消耗していて、それらの手助けは、状態の悪化を止める迄には働かなかった。
 診断装置のグラフに描かれた呼吸の線が、徐々に平坦になり、やがて、一本の線となって停止した、勲は呼吸を止めたのだ。体温は依然、高く解熱剤の効果もなかったようだ。心臓の鼓動は続いていたが、呼吸が停止したあと、その動きも緩慢になっていった。医師らは、心臓マッサージを繰り返したが、間もなく、鼓動のグラフも直線になり、停止した。勲は死んだのだ。
 救急処置室の前で、勲の出てるのを待っていた恵子は、勲の臨終を告げる医師の言葉が、信じられなかった。最初、
 「気の毒なことになりました」 と聞いたときは、何か、重大な事態が起きたのを感じたが、それがまさか、「死」だとは、咄嗟に理解出来なかった。何しろ、ここに入る数時間前までは、勲は生きていたのだ。病院に来た以上は事態は良くなる筈だった。それが「死」という結果になって帰ってくるとは、誰も予想しないだろう。何しろ、勲は昨日は元気にバイクで出ていって、少し具合が悪くなって、会社を早退して来ただけなのだ。あるいは、雪で早めの帰宅を会社が奨励したのに従っただけかも知れない。その辺の事情は、勲が帰宅後、倒れてしまい、口を利いていないのだから、分からない。
 だが、勲は死んだのだ。恵子の昨朝の不安は現実になった。人は何時でも死ぬ。それをしみじみと感じる余裕もなく、積もった雪を空っぽの心で、見つめていた。 
 
 
21○「家族パチンコ」 
 
 その家族が、やって来たとき、一郎はフィーバーの最中だった。パチンコの「CRワールド」で、地球のマークが三つ揃い、一回目のフィーバーが終わったあと、右上のチューリップに玉を入れて、数十回のリーチのあと、「ラッキー」マークが揃って二度目のフィーバーが始まったばかりだった。
 その家族は、初老の夫婦と、娘夫婦それに弟と思える若い男の五人ずれだった。そうだ、若夫婦は赤ん坊を抱いていたから、正確には六人かもしれない。
 その若い夫婦は一郎の後ろの台に座り、「ファーバー・パワフル」を打ちはじめた。老夫婦は一郎の左、若い息子が右に座って、打ちはじめたとき、一郎は嫌な感じがした。
 (このフィーバーは、あと一回で終わるだろう)
 という嫌な予感が走った。毎日のようにパチンコをして、半分プロのような生活をしている一郎には、この予感の出所がよく分かっていた。全てのギャンブルには、ビギナーズ・ラックがある。何も知らない素人ほど恐ろしいものはない。どうすれば、どうなるのか、まったく素のままの素人のほうが、ギャンブルに勝つ確率が高いのが、その謂われだ。
 果たして、一郎の台は、あと二回のフィーバーが終わると、鳴りを顰め、ただ、玉の消費が早くなった。代わりに、左側の老婦人の台が、次々と当たりを引き当て、みるみる、足元のドル箱が増えていった。だが、老婦人は、ことさら騒ぐでもなく、落ちついている。さすがに、箱が五箱になってからは、表情が緩んで、隣の一郎にも話しかけてくるようになった。
 「家族ですか」 話の途中での一郎の問い掛けに老婦人は、
 「そうですよ。これが団欒なんです」 と冷やかに答えて、口を歪めた。
 「だから、出さないと困るんです。親ですからね」
 老婦人はそう言って、後ろに目配せした。 
 
22○「父の買い物」 
 
 一郎の七十歳を越える年になった父親の次郎は、前々から、最近社会を賑わせている「パソコン」が、欲しくなっていた。時折帰ってくる一郎は、
 「パソコンなら、ワープロでも、なんでも、ソフトを変えれば自由になるよ」
 と話していたが、その会話の中で出てくる言葉がよく分からないままに、合槌を売っていたのが実情だ。
 だが、これまで使っていた三代目のワープロにやっと慣れたばかりだし、次郎が必要とする仕事の多くは、十分に賄っていた。それに、話しによれば、
 「パソコンは四ヵ月毎ぐらいに新製品が出る」
 と言うではないか。それなら、新製品が出なくなるまで、待ってもいいとも思っていたが、
 「だから、買いたいと思ったときが買い時。いつまで、待っていても埒が開かないんだ」
 と聞かされて、やってみようかという気になっていた。だが、年が年だから、複雑に見える操作には自信がない。人は不可解なものには警戒心抱くものだ。恐る恐るだが、パソコンというものに、触れてみたい気にはなっていた。だが、店に行って、触れて見る気はなかった。若い店員に馬鹿にされそうだったし、最初にどうやっていいのか分からないのでは、まずお話にならないと思ったからだ。
 そういう思いを抱いているときに、一郎が失職した。原因は多愛もない責任のなすりあいだったが、そういう形の紛争に巻き込まれたのに嫌気が指した一郎が進んで辞表を出したのだった。
 「おい、パソコンを買いたいんで、一緒に行ってくれないか」
 次郎の誘いに、一郎は喜んで従った。七十過ぎた老人のチャレンジ精神が、沈んでいた一郎の気持ちを、少し、爽やかにした。 
 
23○「箱根の雪」 
 
  電車が宮の下に入ったころから、先週、関東地方を襲った雪の跡が濃くなった。三姉妹は長姉が、急行の途中駅から乗り込んできてから、ずっと、お喋りを続けていたが、雪景色が濃くなったのは、光が変わったので分かったから、すぐに、箱根湯本に着くと思って、食べていた駄菓子を仕舞い込みはじめた。
 子育ても終わり、そろそろ、老年に指しかかった三姉妹が、箱根に二泊三日の湯治旅行を思い立ったのは、末妹が今年、定年退職したからだった。信州の行商人の娘として育った三人は、その共通の思い出である実家での暮らしをいろいろと話していて、その全てが、当時の苦しさの記憶を失って、楽しい思い出として輝きを増しているのを感じていた。時間は、苦しみを洗い流し、楽しい記憶だけを残すようだ。
 「姉さん、私たち、こんなに長生きできるなんて、若いころ思っていた」
 中の妹に聞かれた長姉は、

 「とても予想できなかったわよ。一日一日を生きていくのが精一杯で、幸子が生まれたときは、この子は育たないと思ったわ。母さんが、子育てしないから、私が背中におぶって育てたんだよ。十二歳で子育てしたんだ。私は」
 といつものように胸を張った。

 「姉さんはそういうけど、私は覚えていないわよ」
 末妹が、持ってきた干菓子を頬ばって、むっとなったので、皆笑った。
 電車は箱根湯本に到着し、三人は芦ノ湖に向かうバスを待つため、バス停にならんだ。
 「おお寒い。こんな冷え込み、珍しいわね」
 今年一番の寒波がやって来ていた。三人は、身を寄せ会って、寒さを堪えていた。頭には目の前と同じ白いものが目立つ。その髪の毛に静かに雪が降り積もりはじめた。 
 
24○「ボーダーライン」 
 
  大学入試のセンター試験が終わって、一週後の深夜に、民放テレビが予備校の集めたデータを元に、足切りのボーダーライン速報を行うというので、春男は、夜遅くまで起きていて、放送を見た。
 春男が一番気になったのは、難しかった国語と、難易度が開いていた地理・歴史の地理と日本史での、得点の差がどのくらいあるかだったが、そういうことには、触れないので、志望大学の足切り得点だけを見て、すぐに寝てしまった。
 その後、春男は夢のなかで、数字が乱舞する異様な夢を見た。白い数字と、黒い数字が交互に現れ、白い数字は上に舞い上がり、黒い数字は落ちていくのだ。春男のセンター試験の総合得点は、八百点満点で七百三十点だったから、最難関の「東大理三」でも足切りは楽々クリアーしている筈だった。
 だが、春男の夢では、七百五十点までが白かった。いくら目を凝らしても、七百三十点は、黒いのだ。そして、黒い文字は、暫く空中に乱舞したあと、落ちていく。たまに現れる七百五十は空中を優雅に舞ったあと、天上に消えるのだ。では七百四十点はどうかというと、黒と白に交互に色を変えながら、空間を舞い、やがて右側に姿を消した。落ちたのか上がったのかこれだけでは、分からない。
 昼頃、目を覚ました春男は、その夢が鮮明に頭の中に残っているのを感じて、不愉快になった。テレビの速報では、何処の大学でも受験できる点を取ったのに、あの夢では、落ちていた。
 (なんという嫌な夢だ)

 と反芻しながら、遅い朝食を食べていると、母の久代が、春男の同級生の母親の電話を受けていた。
 「あら、そうですか。そんなに皆さん苦戦したんですか」
 友人たちは得点が上がらなかったらしいだ。それほど、難しかったというのが、現実だ。
 (所詮、夢は夢) 春男は、気が楽になった。 
 
25○「息子の葬儀」 
 
 「あの腰を曲げて、とぼとぼと歩いている姿は別人のようですわね」
 隣で典子が富士子に呟いた。

 黒い喪服が並んだ葬儀会場の一番末席から最前列の喪主の席に背を伸ばして座っている先坂照次を見ての典子の率直な感想だ。
 確かに、街での照次の姿は、年金生活を送るリタイアした老人の中でも、老いぼれて見えた。現役のころには、国の役人として、分相応の出世もし、停年後も民間会社の役員に迎えられ、かくしゃくとして働いていた照次も、自慢の一人息子に家の主の座を譲った最近は、目に見えて、老いてきたのだった。
 それが、今日は寒波の中で盛大に執り行われた葬儀では、背筋を伸ばし、りんとしている。
 「やはり、自慢の息子さんを亡くしたショックは、お母さんの方が強いんですね」
 典子がまた囁いた。富士子はその言葉に釣られて、照次の横に、小さな体の背を丸めて座っている妻の照代を見た。近所での照代の評判は、あまり表に出てこないが、よく気がつき、働き者の姿だった。いつも張りきって、明るい表情で、買い物に行く自転車をこぐ照代の姿が、近所の人には記憶にあった。
 それが、この場所では、まったく逆の表情なのだ。
 「頼りにしていた息子さんを亡くして、これから、頑張らなくてはという気概でしょうね。それが、あの背筋を伸ばした姿ですよ。それに比べ、女はやはり、弱いんです。男に比べれば」
 富士子が小声で解説した。

 杖を頼りに街を歩いている照次は、顔色も冴えなかったのが、この場所では幾らか紅潮して、血色がいい。
 「皆様方には、ご多忙中にもかかわらず、ご出席を頂きまして・・・」
 喪主のお礼の挨拶は近親者が行うのが普通だが、照次が立って挨拶していた。木枯らしが、その声を会場中に運んでいった。 
 
26○「遅れて出した礼状」 
 
 母の富士子は、実家の兄嫁と妹二人が、孫の春男と和美に当てて届けてくれたお年玉を一郎に渡しながら、
 「遅くなったけど、春男と和美にはお礼をするように言っておいてね」
 と念を押した。

 一郎は、そのことを念頭に、春男と和美に、
 「お年玉のお礼をしなさい」

 と言ったが、二人は、不平を言って従う様子がない。
 「何時もはママが電話しているんだよ。それが、慣例なんだから、ママに頼んだらいいよ」
 春男はそういって、進まぬ気だ。

 「私は忙しいんだから、そんなのやっている暇がない」
 と言いながら、和美はテレビのアニメに釘付けになっている。
 妻の久代の方を見ると、そん会話には素知らぬ顔つきで、晩飯の料理を作るのに忙しそうだ。だが、去年は久代が電話したというのだから、話はしておかないといけない、と思って、一郎は話を向けた。だが、久代は、
 「いやですよ。あんたがちゃんとしていればいいけど、この状態じゃあ、話なんかしたくない」
 と言って、無碍に断ってきた。昨年、一郎が勝手に会社を辞めて未だに定職に付かないのを、詰っているのだ。
 一郎は、切羽詰まって、電話が出来ないのなら、礼状を出そうと考えて、富士子が、
 「和代の年賀状は良くできていた。その話をしたら、叔母さんたちが見てみたいと言っていた」
 と話していたのを思い出した。

 「おい、和美の年賀状、残っていないか」
 「あるわよ」

 久代が用意した和美の年賀状に春男と和美の名前を書いて、一郎は礼状を認めた。 

27○「子供が欲しい女」 
 
 コンビニは、十二時で閉めて、店の電気を消し、裏のロッカールームで、着替えをして、帰宅しようと、裏口を出たときに、佳子は

 (今日で、終わりね)
 と溜め息を付いた。

 三十五歳からこの店をやって来て、十年たった。その間には、余りにもいろいろなことがありすぎて、一気には思い出せないが、あっという間に四十五歳になってしまったことだけが、気になっていた。
 店を始めたのは、田舎からこの大都会に出てきて、必死で貯めたお金で、一国一城の主になってみたかったからだ。高校を中退して、この街に出てきて最初に就職したのは、秋葉原の電気屋の事務員だった。

 それから、スナックやバーのホステス、ピンクキャバレー、ファッションマッサージ、ホテトルなどと才能や資格を持たない若い女の典型的な転職の道を駆け抜けて、最後の金儲けは、やはり、ソープランドに落ちついた。そこで、三年勤めて、貯めた預金を元手に、コンビニのオウナーになったのだった。
 東京も外れのその街で、始めはコンビには繁盛したが、次々とライバル店が出店し、佳子の店は、改装もままならず、古びて、人気がなくなっていた。売上も落ちて、アルバイトを雇う余裕もなくなったきていたから、本部の「改装して、経営したいとい人がいますよ」という誘いに乗って、経営権を譲渡したのが、つい先日だった。その改装工事のために、今日で営業を終えなければならないのだ。
 佳子は、こうして、働きづめで働いてきた自分の振り返ってみて、一つを除けばまあまあではなかったか、という満足感に浸ることが出来た。その一つとは、人生の伴侶をついに得ることが出来なかったことだ。だが、そん結果となるだろう自分の子供は持てた。その宝物が待っているマンションに帰ると、娘が飛びだしてきて、抱きついた。ソープ嬢さん時代に、好きな客とのセックスで、避妊具をわざと外して出来た子供だから、この子は父を知らない。 
 
28○「大臣の辞任」 
 
 「こういう事態を招いたのは、私の不徳の致すところであり、深く責任を感じています」
 言葉に真実味が感じられなかった。思えば、この大蔵大臣は、ずっとこんな調子だった。国会での答弁でも、記者会見でも、自分の言葉を持っていなかった。官僚が作成した原稿を棒読みしてよしとしてきたのだ。その大臣がその官僚の不祥事の責任を取って辞めるというのだから、皮肉だ。
  「ここに至っては、自ら職を辞し、潔く身を引いて、後任に職を譲りたいと・・・」
 もう後は聞いても同じだと思って、多坂一太郎は、会見場を出てきた。大蔵省派遣の秘書官として、総理大臣にも仕えたことがあるが、そのときの経験を聞きに来た後輩から、この大臣の評判は聞いている。
 「ようするに、器じゃないんですよ。ひどいもんです。僕等が言うことがやっと理解できているだけですからね。自分の見解や意見なてないんですよ。それは、総理の言うことは良く聞いていますがね。ただ、派閥のトップというだけの人ですね」
 官舎に訪ねてきた後輩は、口を極めてそう詰った。
 「だが、この国は戦後かなりのあいだ、そういう大臣ばかりを頂いてきたんだ。俺たちがしっかりしていればいいんだ。俺たちさえ、どっしり構えていれば、この国は安泰なんだよ」
 国を担うという気概がなければ、こんな仕事はやっていられないんだ、と多坂は言いたかった。それが、先輩たちに教え込まれた高級官僚の気概と誇りだった。
 だが、その誇りが打ち砕かれるよう方向に、事態は進展していくような気がする。そういう気概こそが、この国を誤ったのだ、という批評さえ見える。
 (じゃ、お前たちが、やってみな)

 そう叫びたくなるのを必死で堪えて、多坂は自室に戻ってきた。
 
29○「夫の自殺」 
 
 「奥さんですか。旦那さんと連絡が取りたくて、官舎に連絡したのですが、おられないんですが、何処に行かれたのか分かりませんか」
 奥寺美佐子が、千葉の自宅で、東京地検特捜部となる若い男の電話を受けたのは、その日の朝だった。美佐子は、
 「心当たりに、当たってみます」

 と即座に答えたものの、その心当たりは、特になかった。夫の幸夫は、真面目一徹の人柄で、仕事が趣味のような男だったから、職場と自宅意外に立ち寄る場所は思いつかなかった。
 (とにかく、官舎に行ってみよう)

 と考えて、美佐子は、すぐに着替えをして、家を出た。渋谷区の高台にある大蔵省の官舎に着いたのは、もう午後になっていた。合鍵を使って、部屋に入ったが、単身赴任に特有の殺風景な部屋には、誰もいなかった。帰ってきた様子もない。新聞の朝刊が投げ入れ口に入れられたままになっていた。その寒々とした部屋で、美佐子は、不安になってきた。それは、おぞましい予感だった。
 (夫は東京地検から呼び出しを受けていたのだ。それは、いま世間を騒がせている汚職事件に関係しているに違いない。あの、生真面目な夫が、そういう呼び出しに耐えられるだろうか)
 そう考えると、答は

 「否」

 だった。では、どうするか。家にも帰らず、たった一人で、抱えた問題を解決できないとすれば、
 (それは、一人でいってしまうことだわ)
 と考えが及んで、美佐子は、外に飛びだした。そして、隈なく官舎を探し回って、廊下の下で首を釣っている夫を見つけた。119番で飛んできた救急隊員が、
 「奥さんですね。同行ねがいます」

 と言ったとき、美佐子は、黙って頷いた。 
 
30○「ルミナス・イリュージョン」 
 
 その岡に登るようになったのは、ある偶然がきっかけだった。
 栄子が、冬の寒い夜に、たった一人で、その岡に登ったのは、高雄と別れた悲しみのためだった。一人暮らしの狭いアパートで一日中泣き明かしたあと、夕方になって起きた栄子は、涸れ果てた涙のように、気分はかなり軽くなっていた。幾ら泣いても、時間は戻らないし、後ろを振り帰るより、明日のことを考えたほうが、身のためだと悟ったのだ。まだ。二十二歳なのだ。未来は、果てし無く広がっている。生きていさえすれば、あんな薄情な男とは違う、栄子にぴったりの最適の男が現れるに違いないのだ。
 そう納得すると、栄子は無性に外に出てみたくなった。こんな暗い部屋に何時までも閉じこもっているのが、いけないのだ。気分が底まで落ちたのは、そのせいだとさえ、考えて、栄子は、思い切って、自転車に乗り、この町の果てにある、岡に登ったのだった。さすがに、町では最高地点だけに、てっぺんに登ると、町が隈なく見渡せた。新興住宅地の深夜には、道を通る人も車も見えない。ただ、真っ暗な暗闇の中に僅かな街路灯が、光を発している。その街路灯も、午前二時を過ぎると消える。タイマーが設定された省エネルギー型なのだ。
 岡の上には、星が見えた。町の明かりが消えると、空の星が唯一の光の住処になり、暗闇に慣れた目には、僅かな光も感知できるようになった。栄子はベンチに座ってずっと、その星空を見上げていた。小一時間もすると、空が益々明るくなり、星たちはきらめきを増した。そして、時間が進むにつれ、満点の星たちは、軽やかなダンスを始めた。栄子は目を疑った。だが、それは、今目前に見えている事実だった。星たちは踊りはじめ、最後に、流れとなって、地上に降り注いだ。栄子はその星のシャワーの真下にいて、全身に星の光を浴びた。栄子は、落ちた星屑を手で掬った。そして、数個をポケットに入れて、部屋に持ち帰った。その星たちのの光を眺めながら、その夜のことを思い出すと、栄子はいまでも、泣きだしそうになる。
 
31○「幻想」 
 
 朝方の寝覚めの前のしどけない時に見たのは、自分自身の笑顔の残影だった。
 その顔は、だが、自然の笑いではない。頬引きつらせ、歪んだ表情の心地悪い笑い顔だった。そんな卑屈な笑顔は、鏡の中でも見たことはなかった。しかも、最も心地よい、寝覚めの前に、その映像が現れたので、気分は益々、暗くなった。
 外には、雪降っていて、朝の日の照り返しが、狭い窓から漏れていた。寝覚めの顔を窓側に向けると、残像は消えた。瞼の後ろから、おぞましい映像が消えたことで、気分は少し盛り返したが、寝床を出る気にはならない。
 暫し、寝覚めの後の、横臥を楽しもうと、頭を布団の中に入れて、再び、目の周辺を暗くしたのが、間違いだった。あの映像が、すぐに、再生されてきたのだ。今度は意識を集中して、画像を点検してみた。
 それは、動画だった。ピントがずれたぼけた映像が、ゆっくりと動いていた。背景には町が見えた。背の低いビルが並んだ見慣れた風景だ。背景には、灰色の空があった。暗く淀んでいる。その背景の前で、広角レンズのピントがずれた顔の動画が動いているのだ。
 そして、笑っている。確かに自分自身だ。だが、髪の毛が長く、歪んだ顔の輪郭は、今の自分でない。肌に皺があるのは、今の自分の年齢でもないのを伺わせる。脂汗が滲んだ肌は、中年男のものだ。あと、数年したら、こんな顔つきになるのだろうか。と考えて、この顔をどこかで見たことがあるのに気がついた。
 (そうだ、これは、あの男に、死相を見たときの顔だ)
 あの男、テレビ番組の構成作家をしていて、タレントや作家業も兼ねていたKの顔だった。うつつでテレビで俺が死相を見た男は、昨日自宅で焼死した。五十歳だった。夢の中見たためか、同じ顔を見たのに、俺は生きている。