『東京の十の物語』
 
◎その1「裏の女」
 
 田園都市線の××駅北口にある洋菓子喫茶店で朝子と待ち合わせた小泉が、注文したアメリカン・コーヒーを一口啜ろうとして、ふと目を外の街に向けると、鼠色の毛皮を軽快に着こなした若い女が、真っ先に目に飛び込んできた。
 なにげなしにその女の後ろ姿を追っていくと、女はくるりとこちら向きになり、今行った道をそのまま、戻り始めた。
 午後から降り始めた雨が徐々に激しくなり、雨滴がガラスを伝い始めたせいで、小泉が座った窓際の席からも、外の風景は崩れ掛かって、見づらくなっていた。
 だから、顔は見えない。しかし、小柄だがきりっと引き締まった肉体を動物の毛皮の中に包んでいる女が、灰色の塊となって、こちらへ近寄り始めたことは、意識の外にあっても、感覚で分かる。
 確かに意識しての知覚ではないから、その女が通り過ぎてしまった後、小泉の視線は褐色に濁った液体へと戻された。
 この店に彼がいる目的は、朝子を待つことである。
 朝子は大学のサークル活動で知り合った後輩である。卒業後、小泉は今の会社に入り、朝子は小さな出版社に入社した。小泉が入ったビール会社は、日本の経済成長に歩調を合わて成長し、会社の発展に連れて小泉も社内の階段を登り、収入も増えていった。営業や企画、広告のような派手な部署でなく、人事畑一筋に歩いてきたのは、彼がそれを望んだということではなく、あくまで会社という組織の論理に従ったまでのことだ。
 入社後十七年間に随分、他人の秘密も知った。組合活動からも除外される人事部の社員は、とかく異端視され、うさん臭い目で見られがちだが、それは同僚達が「人の秘密を知っている者だ」と恐れの気持ちを抱いているからだ。
 それほど大した秘密ではなくても、人間は他人に知られたくない小さな秘密を大なり小なり抱えて生きている。それが致し方ない理由で人事上の書類に残ることがある。例えば視力とか、既往症とか、最近では毛髪の多少まで、外見上は分からないまま世間を渡って行けることでも、本人の口からは絶対洩れないが、人事書類には明確に記されているものがある。
「あの目がパッチリして可愛いA子さんが、実は凄い近眼で、コンタクトを離せない」とか「ハンサムのB君は実は若禿げで」とか、お見合いの席でも明かせない“秘密”がそっくり手に入る。
 だが、小泉は知り得たことを口外したことは一度もない。「医者や弁護士と同じで、人事部員には守秘義務がある」。この考えを職業上の倫理として十七年間守ってきた。
 それほどまでに「堅い」小泉が朝子と今の関係になったのは、ものの弾みだったとしか言い様がない。
 守秘義務ということを突き詰めて考えてみようと思い付いた小泉は、その道の権威である某国立大学の医学部教授に、伝手を頼って教えを請いにいったことがある。その教授の研究室で原稿を受け取りに来た朝子とバッタリ再会したのである。
 医学専門書だけを出版している朝子の出版社は小さいが堅実な経営で、社員の待遇も良かった。学生時代はそれほど目立つほうではなかったのに、こざっぱりしたスーツに細身の体を包み、ネックレスとイヤリングを付け、化粧をした朝子はキャリアウーマンそのもので、日頃地味な仕事をしている小泉には、眩しかった。
 「いやあ、随分変わってしまって。綺麗になって、見違えたよ」
 「私も小泉さんだとは、全く驚きだわ。あなたはお変わりないようね。幾分、老けたかな」
 十八年ぶりの再開に話が弾んで、帰りに一緒に食事をして、それで済まずにアルコールを補給して。話も段々、学生時代の調子へとテンポが速まった。
 「へえ、四十も近いというのにまだ一人でいるの。随分遊んでいるんでしょ」
 「いや、なかなか良い縁がなくてね。お見合いもしたけど、フィーリングが合う人がいなくて、いい歳になってしまった。朝ちゃんは一人じゃないんだろ」
 「まあね、一人ではないけれど。でも私は外が好きなんだよね。掃除洗濯なんて真っ平。
こうやってさ、東京の町の、キラキラ輝いている夜景を見ながら、昔の友達と一緒に飲むなんてこと、最高じゃない。私はこういうほうが向いているんだわ」
 そんなことがあって、そんな気分になったときに、どちらからともなく、電話を掛け、、
六本木や原宿や渋谷や赤坂や…。そういう二人の男と女にピッタリの場所で合って、飲んで食べて。それだけの関係がここ一年ぐらい続いていた。
 小泉にとって、朝子はセックスの対象になる異性とは思われなかったし、朝子もそういう点では淡白そのものだった。「結婚した」のを仄めかした朝子の言葉は、小泉にとってそれほどの重みを持たなかった。小泉が朝子の後ろに夫の影を感じたことは一度もなかった。過去形で語った言葉の中に、「ひょっとして、別れたのかな」との意味を汲み取って、小泉は自ら納得していた。
         ×         ×         ×
 そんな朝子が、今日の午前中に電話を寄こして「会いたい」と言ってきた。しかも「あなたの家の近くの○○で」と店の名前まで指定してきた。今まで、日曜日に昼間から会ったことは一度もなかったし、お茶を飲んだ例しはない。
 「突然気でも変ったのかな」と不思議に思いながらも、小泉は寝起きの後の癖になっている熱いシャワーを浴びて、ゆっくりヒゲを剃り、そろそろ桜もほころび始めたこの季節に合わせたセーター姿で、約束の午後三時より一時間も早くから、この店に出掛けてきたのだった。
 出がけにポツポツと始まった雨足は次第に速まり、今はもう大降りである。三時を十五分ほど過ぎたのを腕時計で確かめた後、自動ドアーが開いた入り口のほうに目をやると、そこに、濡れた傘をたたみながら、先程の灰色の毛皮の女が入って来たところだった。
 「何だ、朝子じゃないか」
 その顔を見て、小泉は、小さな違和感に襲われながら、小作りながらも高く整った鼻、大きく見開いた瞳、肉感的な唇といった朝子の特徴を捕らえて、
 「おーい、ここだよ」
 と大声を上げた。
 朝子は驚いたように小泉の方を見、それからふと我に返ったように、こちらのほうへ歩み寄ってきた。
 「お待たせしました。遅れてすみません。失礼します」
 慎み深そうに、両足を揃えて前の席に座った。
 「珍しいね。休みの日の昼間から、会いたいなんて」
 「驚いたでしょ。でも、急に会いたくなったの。迷惑だったかしら」
 「反対だよ。いつも仕事帰りに酒を付き合うばかりじゃ、変化がない。こうやって、素面で真面目な話をするのも良いだろう」
 「その話なんですけど、とても恥ずかしいお話になってしまうの。話さないほうがいいかもね」
 瞳がいやに濡れ、頬が赤みを帯びているのが気になったが、小泉は先輩顔をして、
 「なんでも言ってみなさい。言いたいことがあるんなら」
 と胸を出した。
 「実は、私、昨晩、けんかをしちゃって。むしゃくしゃしたから、あなたに電話をしたの」
 「けんかって、誰と」
 「同居人よ。決まってるでしょ」
 きっぱりと、突き放すような言い方に、もともと口の重い小泉は、話しの接ぎ穂を失った。
 「御主人かね」
 「………」
 「いいえ、あいつが、良い思いばかりして楽しんでるんだから、私も楽しむの。その、相手をしてほしいの」
 「それで…」
 「そとへ出ましょ。あいつが浮気してるんだから私もするのよ」
 小泉は気迫に気圧されたまま。タクシーに押し込まれた。国道246号線沿いに点在する中世のお城のようなモーテルに車は横付けされ、朝子の後ろに付き従うように個室に入っていた。
                   
 雨はドシャ降りになってきた。
 朝子は直ぐに先ず毛皮を脱ぎ、小泉に凭れ掛かってきた。
 「ねえ、キスして」
 こう迫られたが、このときも変に違和感がして、小泉をたじろがせた。
 しかし、小泉も男盛りの年頃。ずっと悪しからず思っていた朝子が、こうして自らを開こうとしている。塞き止められていたものが、関を切って流れだす時がやってきたのだ。
 絡み付いてきた両腕を受け止め、自分の腕を朝子の背後に回して、ぽってりとぬめりを帯びた官能的な朝子の唇を吸った。朝子は舌を絡ませてきた。小泉はそれに応じ、口中に粘液が溢れた。
 「キスだけで感じちゃった。早く脱がせて」
 小泉は前開きのブラウスのホックを外しに掛かった。一つずつ上から、閉じていたものを外していくと、その下は直ぐ素肌だった。
 「ノーブラなのかねいつも」
 「今日は乳首が張って痛いの」
 ブラウスを脱がし、丸裸になった上半身を抱え、拝むようにしながら、小泉は朝子の乳房をゆっくり両手で撫で上げた。ふくよかで滑らかな乳房だった。
 「嘗めてちょうだい」
 唇を乳首に持っていき、円錘の下部から上部へと舌を這わせた。乳首に辿り着き、戻りつする度に、朝子は
「もっと強く。いいわ」
と鼻を鳴らした。
 もうすっかり高まってしまった朝子だったが、小泉はまだ冷めていた。
 「風呂に入ろう。そうしてからのほうが良い」
 「私、直ぐにもしたいわ。でも体を綺麗にしたほうが良いわね」
 朝子は直ぐにしたがったが、小泉には計画がある。
 (据膳食わぬは男の恥、とはいうが、直ぐに食べてしまっては味もそっけもない。据膳は自分流に味わい尽くさねば)
 三十代に鍛えた女性経験が美食の仕方を教えてくれていた。
 「先に入ってくれ。後から直ぐ行く」
 朝子は、下半身に残っていたスカートとパンスト、パンティーを自分で脱ぎ、真っ裸のまま、脱いだものを綺麗に畳んだ。
 「良い体をしているね。年の割りに締まっているし、プロポーションも崩れていない」 「そんなに見詰めないで。じっと見られると、ゾクゾクしてしまうわ」
 「快感でかね」
 「気持ちが悪い、と言うのは完全なウソかな」
 「君の裸を見ただけで、こんなになっちゃったよ」
 小泉は逆に下のほうから脱ぎ出し、ズボンを脱いだ後、怒張したペニスをパンツの中から引き出してみせた。
 「小泉さんのものって、意外と大きいわね」
 「それは君のせいだ」
 「触っても良いかしら」
 「条件を飲めばね」
 「ねえ、良いでしょ」
 「君のあそこも触らせてくれるかい」
 「いじめないでよ」
 朝子はそう言って、右手を小泉の下腹部へ伸ばした。
 「駄目だ、バスルームへ行こう」
 小泉はパンツを脱ぎ、セーター、ワイシャツに肌着を脱ぎ捨て、朝子と同じ生まれたままの姿になると、
 「さあ、どうぞ」
 とペニスを突き出し、朝子に握らせたまま、風呂に入った。
 湯船に二人して漬かりながら、小泉は朝子の性器を探った。湯の中で触る性器はいつも卑猥だ、と小泉は思う。空気中でもいかにも陰湿な構造だが、水中ではヌメヌメした生き物のような感じだ。「秘貝」とか「あわび」「赤貝」とかの形容は正鵠を射ている。
 朝子の性器は手触りが良かった。大きさも小泉好みの小さめで、指を触れた感触では中の構造も小作りのようだ。
 「これで、色もピンクだったらまさに理想通りだ」
 朝子は手での玩弄に飽きたのか、今にも口で頬張りたそうな目付きになっている。うっとりとしている。
 「さあ出て、よく洗おう。あそこを綺麗にしてから、ゆっくり味わい合おうね」
 スポンジに石鹸をたっぷり擦り付けて泡を大量に出し、
 「これでやり給え」
 と朝子に渡した。
 朝子は泡一杯のスポンジを両手で受け取ると、まず小泉のそそり立ったものに、泡を撫で付けた。そのあと、片足立ちになって、自分の下半身を泡塗れにした。
 「あとは、手でしましょうね」
 小泉の手をとって、自分のものに当てがい、自分の手は小泉のペニスへ。小泉がひだをまさぐり、クリトリスを指で刺激すると、朝子も先端から根元へと何度も上下動を繰り返す。
 「ああ、いいわー。気持ちが良いわー」
 「君も上手だね。こりゃ、かなりのベテランだ」
 「好きこそ物の上手なれ、って言うでしょ。好きなんだもの」
 ひとしきり、まさぐり合った後、小泉はいたわるように朝子の乳房から背中、それに手足を洗い、朝子も同じようにした。
 「足の指の先も綺麗にしたいけど、朝ちゃんが口でもっと綺麗にしてくれないかな」
 「いいわよ。上の口、それとも…」
 「両方で」
 朝子は先ず、上気した唇で、小泉の右足の親指から順に小さいほうへと一本ずつ頬張った。左足も丁寧に拭うように頬張った。
 小泉も朝子に同じ事をしてやった。
 「下の口では君だけができるんだ。してくれるかい」
 朝子は小泉の右足を両手で抱えると、その上にしゃがみ込む形で、やはりまず親指を自分の体内に押し込んだ。
 「男の人のその物より、短いから入れにくいわ。でもやっぱり感じちゃう」
 左足に移る頃には、「あー」の声のテンポは益々速まり、小指を入れ終ると、へなへなとへたり込んでしまうほどだった。
 もう一度、湯船に入る時には、小泉は朝子を両腕に抱えなければならなかった。右腕で頭を支え、左腕では両足を抱えて、湯に浸った小泉は閉じている朝子の瞼の上にキスをし、そのあと、唇を吸った。
 
 タオルで水分をお互いに十分拭い合ってから、小泉はベッドに倒れ、朝子が髪を拭くのを待った。朝子は完全に水分を拭い終えないまま、待ち兼ねたようにベッドに倒れ込んできた。
 「時間はたっぷりよ。したいだけしましょうね」
 まだ、日は高い。人が眠るまでには十分すぎる時間があった。
 朝子は小泉の上に乗し掛かって来た。小泉の閉じた瞼に口付けし、自慢の高い鼻を嘗め、
耳に息を吹き掛け、うなじにキスをした。
 「耳にキスをすると気持ち良いでしょ。女はそうよ。男だってそうよね」
 小泉には小さい頃、床屋で耳たぶを剃ってもらい、ゾクッとした幼児体験が思い出された。今でも、年若い女の理容師に顔を剃ってもらうと、顔に乗し掛かって来る乳房の重みや鼻息が堪らなくなって、“白昼夢”を見るときがある。
 朝子のキスは胸へ降りた。両乳首に溢れるほどの接触を繰り返して、腹部へ更に下る。臍の中を舌で抉りながら、既に両手は陰毛をまさぐっている。柔らかい手の感触が小泉には心地好かった。次はペニスだ。両手で包み込んでいる。口を持って来るに違いない。
 「男の人の物って不思議ね。あんなに軟らかくって可愛いのが、こんなに堅く逞しくなっちゃって」
 舌の湿った感触が、小泉の下半身を伝った。
 「おれも未だ捨てたもんじゃない。陰気な仕事が内気な性格にしているだけさ。こんなに雄々しいじゃないか」
 女はこうして男を強くすることもできる。そこが男女関係の不思議さでもあるのさ、と思いながらも、快感が先立った。
 朝子の唇は小泉の男を包み込んだ。喉の奥の方への上下運動を激しく繰り返すと、小泉の腰部を快感が突き抜けた。
 「まだ出してしまわないでよ。メインディッシュはまだなのよ」
 行ってしまいそうな小泉の表情を素早く見て取った朝子は、ペニスを離すと、摩擦で熱を持った唇を太腿から足首へと伝わせて行き、先程、バスで自らの中に包み込んで綺麗にした足の指を十本、丁寧に嘗め尽くした。
 「さあ、終わったわ。今度は私がしてもらう番ね」
 「有難う、朝子。さあ下になって」
 小泉は体を入れ替えて、上になると、朝子の足元へ顔を持っていき、足指の方から嘗め始めた。朝子の眼前にいきり立ったものを突き付け、朝子の泉を吸い尽くす積もりだった。 朝子の陰毛はやはり柔らかく、密だった。毛はビロードのように手触りがよく、小泉は何度も撫で回した後、性器の色を確かめるため、ベッドサイドのライトのスイッチを入れた。
 「やはり、ピンクだね。もうすっかり濡れて、てかてかに光っているよ。何人もの男の物を受け入れて来たんだろうけど、色だけは処女のようだ」
 そんないたぶるような言い方にも、朝子は素直に、
 「そんなに多くはないわ。したい人はそんなに多くはいないわよ」
 と虚ろに繰り返す。小泉は構わず追い討ちを掛けて、
 「でも、性能は開発済みだね。その証拠にこんなに液が溢れている。お尻のほうまで溢れ出しているよ」
 「もう入れて下さいってことよ。まだ入れて下さらないの。あなたのこんなに大きく固くなっているのに」
 「では、入れてあげようか。どういう体位が良いのかな」
 「最初は正常位。バックもいいわ。私が上になるやつもしたい」
 小泉は朝子を突き上げた。粘液で満ち溢れた壺の中への挿入は容易だった。ヌメヌメとした感触を先端から全体に感じて、すぐ行きそうになった。ここは踏ん張り所だ。
 「ああー、あー。良いわー。響くわー」
 朝子のよがり声が長く糸を引くように切れ目なく続いた。
 上になり、下になり、前になり、後ろになり、男と女が野獣のように貪り合い、与え合う恍惚の時が澱みつつ、粘り付きながら、流れて行った。
 「あーあーあーあーあー。あーーーーー」
 「うっうっうっうっうっ。うーーーーー」
 小泉の力が抜けた。朝子は虚空を彷徨って浮上した。
 「行ったよ」
 「…………」
 ぐったりとなった小泉は、朝子の額に手を当てて、玉のように光る汗を拭った。
 「良かったかい」
 朝子は黙ったまま、コックリ頷いた。
 小泉と朝子はこの日、初めて男女の関係を持った。余韻を楽しむ時間を小泉は朝子の乳房の上に頬を付けたままで過ごした。グッ、グッ、グッと朝子の心臓が脈を打つ音が、命を実感させる。小泉はいつもの寝癖で、右の耳を下にして朝子の上にうつ伏せになっていた。そうしながら、左手で朝子の右の乳頭をくるくると撫でて、弄んだ。
 時が過ぎ、日が落ちた。シャワールームで汗を流して汚れた体を洗い、二人はモテルの前で、さよならをした。
 
 めくるめく時が、二人をより近しい間柄にしたような気持ちになったのに、春から夏へと季節が移っても、朝子からの連絡はなかったし、小泉もなぜか会いたいと思うことはなかった。人の活動が、活発になっていくこの時期に、仕事を持つ二人は、それぞれに多忙だった。
 梅雨が明けて、東京を包み込むような蒸し暑さが覆い尽くした頃、エアコン疲れした小泉は、何とはなしに、電話機に手を伸ばして朝子の出版社にダイヤルした。
 「もしもし、お元気」
 「まあどうにか。あなたも…。随分御無沙汰でしたこと」
 「君こそ、あれから音沙汰なしだったね」
 「あれから…。そうね。忘れ掛けていたわ」
 「今晩当たり、どう」
 「そうね、ちょうど一段落付いた所だし、一杯やりましょうか」
 「じゃあ、例の赤坂のホテルで」
 朝子は全然変わっていなかった。
 都会の息吹を体一杯に呼吸しているという感じで、大きめの目と口、官能的な唇で良く喋った。
 「いそがしかったわ。冬が終わって春から夏への時期って、皆高揚するのね。小泉さんのことなんて考える暇もなくいそがしかったわ」
 「あれから、そうだね。だが、女はさすがに生き強い。俺のことはもうすっかり忘れた、
か? 僕は全て覚えているがね。忘れようにも忘れられないよ、あの日のことは」
 「あの日ってなにさ。勿体ぶって。何か私にいえないことがありそうね」
 会話は交わらない。だが、今までだって、こんな他愛のない会話を何度と無く、してきたのだ。そういう、サラッとしたところが、朝子と小泉の付き合いの基盤だったのではないか。
 だが、それにしても、あの日曜日、あれほどまでに、本性を露にした朝子が、今日はコロッと変身して、何事もなかったような顔をしている。
 「少なからぬ異性と付き合った」との自負もある小泉にとって、最近では最も身近な異性だと思っていた朝子が、全くあの日のことにそ知らぬ態度で居ることは、間違いなく謎だった。久し振りに、ホテルのスカイラウンジで合って、東京の夜景を肴に飲んだのが、頭の混乱に拍車を掛けたのだろうか。益々、女というものは度し難いものだ、との思いが募る。
 (朝子がまだ一度も小泉に体を許したことがないような態度を取るのはなぜなのだろうか)
 疑問が突き上げて、歯止めを失った。
 小泉は、ストレートに踏み込んでみた。 
 「この前、珍しく日曜日の昼間に電話してきたのはなぜだい」
 「えっ 日曜日に?」
 「そうだよ。ほら喫茶店であって、その後…」
 「………」
 朝子は漆黒の瞳を見開いて、小泉を凝視した。
 「君の素晴らしさを、知ったよ」
 スッと血の気を失った朝子の頬の筋肉が一瞬、引き締まり、そしてすぐ緩んだ。
 「お、ほほほほ。ああ、あの日、あの日ね。どうもお世話様でした。せっかくのお休みの日をお邪魔してしまって」
 「お世話様、か。僕には記念すべき日だったんだがね。君にとっては、通り過ぎた一日というわけか」
 「でも、何か誤解していらっしゃるようね」
 朝子は、二杯目のオールド・パーの水割りを一気に干し上げると、
 「今から、その誤解を解いてあげるわ。付いていらっしゃい」
 と突然、席を立った。
 小泉は、酒に酔って体が発散する朝子の甘酸っぱい熟れた女の体臭と、朝子が好んでいるニナ・リッチの薫香とがない混ぜになったような、微妙な香りを鼻にしながら、まるで、従僕のように朝子の後に従ってホテルを出た。
   ×      ×       ×
 タクシーが止まったのは、私鉄のターミナル近く。狭い路地の両側にもその奥にも原色の光が溢れ、毒々しくネオンが輝いていた。朝子は、躊躇することなく、目の前の門を入っていき、小泉はここでも、後に従った。
 「その日、こういう所に来たっていうわけでしょ。小泉さんが言っているのは…」
 「まあ、ここではないようだけど。君が今日と同じように連れてきてくれた」
 「今日と同じように、か。まあ、いいわ。それで、どうなったっていうの」
 「決まっているじゃないか。目的は一つしかない」
 「その目的とやらを果たしたって、いうわけね。そして、あなたは、それが忘れようにも忘れられないっていうわけ。じゃ、その日と同じようにしましょうよ」
 「誤解とか、何とか言っているけど、何を言いたいんだね。君は?」
 「だから、あなたに、分からせてあげるのよ」
 小泉の頭脳は混乱の度を深めた。あの日曜日、朝子が俺を誘い、俺は付いていった。朝子がむしろリードして、俺は男としての務めを果たした。あの時の朝子と同じ朝子がここにいるのに、会話が空を切っている。女というものはこうまでふてぶてしくなれるものか。「分からせてやる」だと。一体、何を分からせようと言うんだ。
 「同じ事をしましょ」
 朝子はきっぱりと、切り出した。一歩も後に引かぬ意思を語調が伝えていた。
 「そんなに構えることはない。心中しようって訳じゃないんだから。この前は、ごく自然に出来たじゃないか。一体、どうしたんだね」
 「そうでしたっけ。とにかく同じにして下さい。全く同じように」
 細かなところまで、詳細に記憶しているほど小泉は若くなかったが、朝子とは絶対ないと思っていたことが、据膳の形で差し出されたのだから、あの日のことは、それでも、かなり良く覚えている。フルコースの後で、満足感のあるものと、不満が残るものとがあることを小泉も良く知っている。ただ、男の体液を放出するだけが目的のものと、夢に描いていた女性を相手に思いを遂げるのとでは、心的満足感が全く違う。空しさの残滓と満たされた後の余韻では質が、百八十度違うのだ。
 あの日の、朝子との後では、嬉しさを越えた幸福感が心を満たした。絶対手に入らない、
というより、手に入れずにおいたほうが良い、と自ら言い聞かせ、納得していたものが、向こうの方から飛び込んできたのだ。しかも、内容が空疎でなかった。打てば響く、触れれば応ずる。指揮者になり、奏者になり、揺れて流れて、めくるめくような協奏曲が奏でられた。「朝子と俺はぴったりだ」との確信が、得られたのがあの日だったのだ。
 それを「同じように」してくれと言う。
 小泉は、もう一度してみる気になった。
 (丁寧に、念入りに、一つ一つをじっくり味わいながら、やってみよう。朝子が、あの日の一度ならず、同じ事を二度までも求めてきている。役者だって、たった一度の演技より二度目はうまくやるはずだ。少なくとも、一度目の失敗は、しなくて済むし、一度目で味わい尽くせなかったものも、二度目には、十分味わうことができる)
 熱い口付け、脱衣、入浴ーー。順を追って小泉は朝子を、あの日と同じに扱い、より以上の気分を込めて反応を確かめ、快感を追究していったーーつもりだった。 だが、朝子はあの日の朝子ではなかった。先ず抱き締めたときの応じ方が違った。あ。あの日は、倒れ掛かるように小泉の胸に飛び込んできたのに、今度は引き寄せなければならなかった。口付けをし、唇を合わせても舌を縺れ合わせようとすることもない、口中に粘液が溢れることなどさらにない。
 着衣を脱がせに掛かっても、ただ人形のように目を閉じて、小泉がするに任せるままである。小泉の男性自身を求めて、目を潤ませていたあの日の朝子とは、姿形はそのままでも、中にあるものが、全く異なっていた。
 「どうも変だ。なにかが違う。朝ちゃん、おかしいよ」
 「えっ」
 「君が違う人みたいだ。一体どうしたんだね。気分でも悪いのかな。嫌だったら、止めてもいいんだよ。もともと、君が誘ったんだから」
 「いいえ、そのまま続けて下さい。同じにして欲しいの」
 同じように風呂に入り、朝子の体の隅々まで、全く同じように洗い、刺激を与えてみたが、外形的には何の変わりもない。勿論、湯の中で最も鋭敏な部分も触ってみた。中の構造も調べたが、指が覚えていたのと違わなかった。
 ただ、同じ一つの動作に対するリアクションが明らかに違っていた。秘めた部分の花びらに触れたとき、あの日の朝子には身を捩らせて、迎え入れようとの意思を感じたが、今日の朝子は、ただされるままに身を委ねているだけである。心と心が通じ合う手応えがなかった。小泉は段々、空しくなってきた。
 ベッドに移った。朝子はされるままにしている。「上になれ」と言えば、素直に従うし、
フェラチオもクニリングスもごく機械的にではあるが、一通りのことはお互いにしてみた。
だが、確かな手応えがない。打って応じるものが全くなかった。
 小泉は、そうしたもやもやとしたものが。胸中に広がっていくのを知覚して、早く終えてしまいたくなった。
 「下になってくれ」
 激しい抽送運動で小泉は果てた。ただ下半身に温もりを感じるだけで、心は冷え切っていた。これでは、単なる射精行為だ。男女の交わりとはほど遠い。
 ぐったりとして、朝子の白く豊かで柔らかな乳房の上に顔を埋めて、小泉は安息を求めたかった。左の頬を下にして、右の乳房に耳を触れた姿勢で、小泉は朝子の熱い血のたぎりを初めて聞いた。
 「ああ、この娘も生きているんだ」
と実感して、ほっとした。
 が、次の瞬間、戦慄が走った。充血し切った血液が下半身から引いていくのとは逆に、その血が一気に頭上に駆け上がった。朝子を跳ね除けるようにして起き上がった小泉は、毛布に足を絡ませて転倒し、意識を失った。
                
 それから一週間ほどして、小泉の会社に朝子が訪ねてきた。髪を無造作に束ね上げて、ポニーテールで後ろに垂らし、洗い晒しのTシャツとGパン。平日なのに、休日のような砕けた装いに、小泉は思わず、
 「どうしたんだね」
と素っとんきょうな声をあげた。
 朝子が昼日中から、会社に訪ねてきたのが初めてなら、いつも会うときは、成熟したOLの寸分の空きも無いファッション姿しか知らなかったから、二重の意外性が、小泉を一瞬、茫然とさせた。
 「どうしたって。ほら、この前、はっきりさせてあげるなんてたんかを切っておいて、尻切れ蜻蛉で終わってしまったでしょ。だから、宿題をして終おうと思ったの」
 「だが、君も酷い人だ。意識を失っている僕を置き去りにしていなくなってしまうなんて。全く、非人情だ」
 「あら、そんなの誤解よ。私はちゃんとホテル代を払って、おばさんに、連れはもう少し休むそうですから、少し経ったら起こしてやって下さいって念入りに頼んでおいたのよ」
 「それは有難う。起きたときは、ちゃんと下着を着けていたし、毛布も掛けてあった。おばさんはするべきことをしてくれたよ。だが、もし死んでしまっていたらどうする。君は少なくとも傷害致死罪だ」
 「その方が良かったかもね。置いてくるんじゃなかった。一思いに首を絞めれば…」
 「そんなに恨まれる覚えは無いな。恩に思われこそすれ、恨まれる筋合いはない」
 「そうかしら。でも、私の秘密を知って驚いて突き飛ばしたんでしょ」
 「そうだ。そのことに就いては、ずっと考えてきたんだが、まだ答えが出ない。ただ分かっていることは、あの日の君と、この前の君とは、外見は全く同じでも、全然違う女だ、ということだけだ」
 「じゃあ、今、ここにいる私はどうなの」
 「分からない。しかし、どちらか、確かめる方法はある」
 そういうと、小泉は朝子の手を引いて部屋を出た。ここは部下が机を並べていて、小泉がそれを窓側を背にして監督する形で配置されているが、隣に小泉が自由に使える小部屋がある。とかく、秘密の多い部署だから、きちんと鍵もかかるようになっている。小泉は管理職の特権として、時折この部屋に閉じ籠もって、「自由な時間」を過ごすことがある。 ここを使うことにした。
 ドアーを閉め鍵を掛けると、そこにある応接ソファに差し向かいで座り、
 「上着を取り給え」 
と命じた。
 「こんな昼間からするの」
 朝子が、媚びた表情をして、上目を使う。
 「いや、今日の君がどっちの君なのか、確かめるだけだ」
 その言葉に、朝子は自分からセーターを脱ぎ、スリップも上半身だけ脱いで乳房を丸出しにした。さらにGパンのチャックに手を掛けようとしたが、小泉は
 「いや、それで良い」
と止めた。
 「いつ見ても良いおっぱいだ。眩しいよ。それじゃあ、失敬して」
 小泉は身を乗り出して、先ず右手で左の乳房を鷲掴みにし、右耳を擦り付けた。
 「そんなに密着されると興奮しちゃうわ」
 「勝手にしたまえ」
 余りの時間の長さに、朝子の本能が解き放たれ、想像力が上昇カーブを描いたのか、吐息が洩れ出した。
 「よし、これで良い」
 序でにと、小泉はみっちり左側の乳房を吸って愛撫を十分に施した。
 「今度はこっちだ」
 次いで、左手で右の乳房を掴み、左の耳を擦り寄せた。更に念入りに愛撫し、乳首を勃起させたあと、乳頭を人指し指と中指で挾み、親指の腹で擦り上げた。
 「ああ、そんなにして……。下の方もして欲しくなっちゃうじゃないの」
 「分かった。これでよし」
 小泉は突然、作業を止めた。
 「答は得られた。しかし、私もこの儘では収まりそうにない。答えを出すのは収まってからにしよう」
 朝子のポニーテールの尻尾を掴んで、両手で頭を引き付け、いきり立ったものを押し付けると、朝子は待っていましたとばかりに、口内一杯に獲物を頬張った。
 ×      ×      ×
 「それは、こう言うことだ」
 放出した後の虚脱感を滲ませながら、小泉は机上のタバコを取り出して火を付け、大きく息を吸い、吐き出した。
 「今日の朝子はあの日の朝子だ。この前のではない」
と言って、おもむろに、
 「なぜなら、今日、君の心臓は左にある」
 「当たり前じゃない。心臓は左にあるに決まってるじゃない」
 「そうだ。そこが不思議なところだ。私はこのなぞが解けずに苦労した。だが答えは簡単だったよ」
 「………」
 「つまりだ。朝子は二人いたのだ。私の知っていた朝子と知らなかった朝子と」
 「二人ねえ」
 「もう、ここまで来て、惚けることはない。君は、私の友人の朝子ではない。これだけは、はっきりしている。先ず、好色な所が違う。私は、その方が、嬉しいがね」
 「好色かあ…。確かにね。好きだものな」
 「それに、もう一つ、決定的な事がある。君の方が、僕には相性が良いらしいということは、あの時から、感じていたが、どうも、君は、朝子の肉体の秘密を知らないようだね」 
 「肉体の秘密? ああ知ってるわよ。不感症ってこと…。そうなんだ。あの人。かわいそうなんだよね。だから、私に……」
 「君に、どうしたっていうわけ」
 「頼んだのよ。あなたを、喜ばせて、くれないかって」
 小泉は、その言葉をきいて、ぐっと詰まった。
 (それほどまでに、俺の事を)
との思いが、込み上げて来て、目が潤みそうになった。それを、堪えて、
 「もう、君も、分かっているだろうが、本物の朝子は、心臓が、右にあった。セックスの余韻を、僕は、君の胸の上でも楽しんだが、朝子の上でも楽しんだ。君の上では、右耳で、朝子の時は、左耳で、心臓の鼓動を聞いたことを、思い出して、分かったのだ」
と、解説した。
 「そして、医学書を調べてみたら、内臓反転といって、臓器の位置が、普通の人と、左右逆になって生まれてくるひとが、極たまにいるらしい。あの朝子は、それではないのかね」
 「まあ、そんなとこかな。よくお分かりになりましたこと。さすがは、緻密で細心な小泉さんね。で、これからどうします」
 「どうしますって。それより、君は、朝子の何なんだね。顔も姿も瓜二つ。あそこの形も構造まで変わりはなかった。性能だけは違ったようだが」
 「もうそこまで言われたら、仕方がないわね。私の名前は、夕子。朝子のカガミなの。現実世界の向こう側に、全く対称の鏡の世界があるの。そこから来たカガミ、すなわち、反転映像よ。朝子が、あんまり、嬉しそうだったから、こっち側の世界に、飛び出してきて、ちょっと、あなたをからかってやったのよ。どう、朝子より良かったでしょ」
 「まあね。でも、君の言葉は、信じられない。あの感触と快感には、しっかりとした手応えがあったもの。やはり、事実だし、現実だよ。映像なんかじゃない」
 「どっちでも良いわ。それで、どうするの。これからも、私と付き合う、それとも、もう止めにする」
 夕子は小泉を問い詰めた。
 「勿論、付き合うさ。君の本性が分かるまで」
 二人は、もう一度、別れの口付けを、息が詰まるまで、念入りに交わして、小部屋を出た。口内の粘液が、全部、吸い取られてしまったような、濃密なキスだった。
                  
 夕子に謎を掛けられた小泉は、朝子と夕子の関係を考え続けたが、明確な答えは得られなかった。日曜日に、電話をして来たのが、夕子であるのには、違いない。
 では、「けんかをした同居人というのが、朝子というわけか」
 「そう言えば、あいつが浮気しているから、わたしも…とも言っていたな」
 「二人は、レズビアンなんだろうか」
 色々と思いは、巡るが、
 (こういうことは、いくら、考えても仕方がない。まず。行動すること)
と思い付いて、朝子の家を訪ねてみることに決めた。
 住所は分かっていたから、朝子のマンションは、すぐに訪ね当てられた。
 エレベーターで上がり、部屋のインターホンを押したが、反応がない。初めは遠慮勝ちに、間を置いて押していたのが、焦れったくなって、押し続けていたら、やっと、中から応答があった。
 「うるさいわね。いま、入浴中なんだから、だれが来たって、部屋には入れないわよ。終わりまで、待ってなさい」
と、突き放すような音調で朝子の声がした。
 「あの、小泉ですが」
 「あっそう。どちらの、こいずみさん」
 「大学の先輩の小泉ですよ」
 「知らないわね。そんな人。部屋を間違ってんじゃない」
 「いえ、OOO号ですよね。山田朝子さんのお宅ではないんですか」
 「違いますよ。うちは、朝田昼子です。山田さんなんて、知りませんよ。ここへ来て、もうかなりになりますけどね。前に住んでいた人も、違う名前でしたよ」
 (一体、どういうことなのだ。朝子はどこに、行ってしまったんだ)
 小泉は、何がなんだか、分からなくなった。
 夕子の家は、もともと知らない。これで、全く手掛かりが無くなった。
 
 朝子から連絡もないままに、二か月が過ぎた。
 朝子の出版社に電話を入れてみたが、「ふた月程前に、退社致しました」と、女性が告げた。
 小泉に、なんの変哲もない、普通のサラリーマンの日常が、戻った。
 そんな時、独身の憂さ晴らしに、千葉県U市に所要があった帰りの夕方、ふらっと、ストリップ小屋に、入ってみた。
 入り口に「双子の姉妹の本物レズ」の看板があったのには、気が付かなかった。
 舞台の踊り子は、お客を上げての、生板ショウの真っ最中で、禿げた中年のおやじと工員らしい青年が、じゃんけんをして青年が勝った。おやじは実に残念そうな素振りで引き下がった。ところが、青年の物が、お客の視線や明るいライトで物の役に立たず、ヤジれれて、引っ込むと「それ見ろ」とばかりに、おやじが、ニヤっとしたのには、笑った。
 出し物は、段々過激になり、アダルト・ビデオ女優が出たときが最高調。若いファンが、
プレゼントを贈ったりして、盛り上がる。アイドル顔の女優も女の全てを見せて、オナニーショーを演じ、小泉の下半身も硬くなった。
 だが、この後の出し物が、もっと小泉を興奮させた。
 レズショーの女役のネコが、夕子、これを責めまくる男役のタチが、どう見ても、朝子に違いなかった。瓜二つの双子が、女同士の性の饗宴を演じ、周りを囲んだ男達は固唾を飲んでシーンとなった。
 小泉は我が目を疑った。
 朝子が腰の前に、長い鼻のテングの面を括りつけ、回り舞台に横たわった裕子の最も敏感な部分にさし込み引き抜くと、夕子は、“あの日”のように、徐々に、絞り上げ糸をひくような、よがり声を上げ、小泉の指が今でもはっきりと記憶している締まりの良い構造の内部から、液体を溢れさせると、それをライトがここぞとばかりにテカリと照らし出した。
 次には、朝子も、金糸銀糸が縫い込まれたはんてんのような上着を脱いで、全裸になり、
激しい女体と女体のぶつかり会いが始まった。レズ特有の細かい指づかいでお互いの秘部をまさぐり合い、電動コケシを駆使しての責め合いが続いた。
 互いの息使いのリズムが徐々に速度を速め、「あああ、あー」「はあああ、あー」の声が、聴覚を経由して観客の股間を刺激した。
 延々と続く二人のショウは、舞台での演技ではなく本物だ、と小泉は思っていた。
 しかし、どの踊り子にも持ち時間は決まっている。
 最後は、両側にかなり大きいペニス状の張り型が突き出た小道具を、陰部に食わえこみ、
腰を密着させてのグラインド。そして、二人の脚を松葉を絡ませるように、差し合わせ会い、陰毛の覆った部分を、必死に擦り合わせ、愛液でネットリとした性器を存分に刺激し会うと、遂に、カタルシスが訪れた。
 全てが演技だとは、小泉には、とても、信じ難かった。
 自分が客席に居ることに、二人が気付かなかったとは、思えない。
 いや、小泉を、見付けたからこそ、演技に「気」が入っていたのでは、とさえ、思われた。
 どうであれ、とにかく、小泉は、大いに満足した気分だった。
 (三千五百円は、高くはなかった。あの二人が、俺の付き合った朝子や夕子だったにしろ、そうで、なかったにしろ)
 表が朝子か、裏が夕子か、それとも、その反対か。
 「人生、表も裏も、いろいろあって、面白いんじゃないかい。そこの兄さんよ)
 道をはさんだ対面の、トタン葺の映画館のスピーカーから、あの「寅さん」節の口上が、
流れてきて、ストリップの呼び込みの声と混じり合い、空に消えていった。
                                  
 それから、十八年が過ぎた。
 小泉は、同期入社の者と比較しても、順調に、階段を登り、人事部長に出世していた。 食品産業の中でも、ビール業界は、物が嗜好品だけに、新製品競争が激しく、圧倒的シェアを誇っていた小泉の会社は、「ドライ」で攻勢をかけた下位メーカーに、急迫され、一時的に、苦境にたたされた。
 これを挽回しようと、技術陣が腕によりを掛けて、開発したのが、「生搾り」という製品で、一気に、ガリバー型と言われた寡占状態を取り戻す戦略にでた。
 シーズンの夏に入る前の、春先、新製品売り込みの先陣を務める営業サイドから、「生搾り」に相応しいキャンペーン・ガールを募集し、セールスのイメージ・キャラクターにしよう、とのアイデアが出され、小泉もその選考委員に駆り出された。
 あれから、長い独身生活に終止符を打ち、上司の取り持ちで、見合い結婚した小泉は、男の子と女の子の二児の父となり、典型的なマイホームを築いていた。妻は名門女子大でお嬢さん育ちだったが、家事も育児もそつなくこなし、二人の子供もスクスクと成長、まずは恵まれたサラリーマン生活を送っていた。 若い女性は、部下にはいたが、はやりの不倫関係になるような機会もなく、ストリップ小屋を覗くような事もほとんどなかった。 だから、送られてきた応募書類や写真を、審査と称して眺めるのは、密かな楽しみを小泉に与えてくれた。ピチピチとした若い女が、惜しげもなく、超ミニやハイレグの水着やレオタード姿で写っている全身写真が、山を成していた。
 履歴書も付いていたが、基本は何と言っても、顔の美しさと容姿。写真の善し悪しで、第一次の審査は決まる。さすがに、一流広告会社と組んで、大キャンペーンを、展開しただけに、どこかで見たことのあるようなモデル、タレントの卵たちや、思わず見惚れてしまうほど美人の素人の女子大生から高校生まで、いずれも自信たっぷりの、女性たちから、主催側が驚くほどの応募があった。
 小泉もそれらを丁寧に、一人ずつチェックしていった。
 作業に取り掛かって、三日目。手にした顔写真に何気なく見覚えがあった小泉は、全身写真を見てみると、そこには、見飽きた水着姿ではなく、修道女姿で微笑む若い女性が写っていた。
 記憶の糸を手繰った小泉が、突き当たったのは、紛れもなく朝子の顔だった。
 急いで、履歴書をみると、本籍・長崎県、現住所・長崎市大浦町OOOーーとあり、年齢十七歳の女子高校生だった。
 小泉は、直ちに、その書類を、第二次の面接進出者の方の籠に入れた。
 小泉の心に疑念が生じた。
 (この娘は、一体、誰なんだ。朝子=夕子に瓜ふたつ。だが、若し、朝子=夕子だとしても、年齢が合わない。すると、どちらかの子供か、それとも、親類か)
 (とにかく、東京に上京してくるのだから、会うことは出来る。会えば解るだろう)
と、自ら、二次予選出場者確定への根回しを、して回った。人事部長には、その位の権限はあったから、美人度は人並み以上の修道女姿の女子高生の書類審査合格はすんなり決まった。
 小泉は、その日が、待ち遠しくなった。
 桜の蕾が膨らみ始めた頃の週末に、その二次審査は行われた。
 (審査が開始される前に、その娘を捜して、終了後に会うことにしよう)
と思いついた小泉は、早めに会場にいって、娘を探したが、見付からなかった。そこで、案内役をしていた若手の部下に、
 「×××番の子に渡してくれ」
と、メモを託し、審査室に入った。
 流れ作業のようになった面接も、終わりに近づいた頃、その娘の番になった。
 黒っぽいコーデュロイのワンピース姿で入ってきたその娘は、思っていたより小柄で、写真の印象とは違った。写真では身長がわからなかったが、履歴書に身長162センチとあったのを確認し、納得した。
 (なにしろ、今時の、モデル達は、皆、大女ばかりだから)
 デカ女に食傷気味だった他の審査員も、何かホッと一息付けた、という表情をした。
 こういう審査には、決まり切った質問がされ、最後に、上着を脱がせ、下に来ていた水着姿を採点して、手順は終わる。素っ気ないほど普通の競泳用のスイム・スーツのようなシンプルな水着姿に、小泉は、10点満点の10点を付けた。
    ×    ×    ×
 その娘は、メモで、小泉が指定した一階のパーラーで、待っていた。小泉が、入っていくと、立ち上がって、可愛らしく丁寧に頭を下げた。
 「どうも、突然でびっくりなさったでしょう。時間は宜しいですか」
 「はい。別に、何も、用事はありませんから」
 「わざわざ、残っていただいたのは」
と、小泉は、説明しかけたが、娘が、
 「はい。分かっております」
と遮った。
 「と言いますと」
との小泉の怪訝な顔に、娘は、
 「私の素性を、お知りになりたいんでしょう」
と、追い討ちをかけた。
 「そうです。あなたが、私の知り合いに余りにも似ているものだから」
 「その通りですの。御想像なさった通り。私は、母の言葉を頼りにして、こういう機会をずっと待っていました」
 「母上は、やはり……」
 「ええ、昔、あなたと……」
 「そうでしたか。朝子さんですか」
 「いいえ。それは、分かりません」
 「というと…」
 狐に抓まれたような顔をした小泉に、娘が語ったのはーーーー。
 
 ーー応募書類に書きましたように、私は長崎で生まれ、育ちました。生まれたのは、修道院の助産所です。母は妊娠してから、その修道院に入って修道尼になろうと、決意し、私を生み落とした後、神に仕える身になりました。こんなことは、カソリックでは許されませんが、母の窮状を見た院長様の特別の計らいで、神の許しを請い、私を私生児として、生み落としたのです。
 時折、面会にきた母の問わず語りの話を私なりにまとめてみますと、母には双子の妹がいて、瓜二つだったそうです。他人がみても区別が付かないほど似ていて、よく間違えられたと言っていました。
 この二人の生涯忘れられない思い出は、学生時代の真面目な先輩を、二人で、取り合った事だった、と聞きました。この事は、私には伯母さんに当る母の妹にも、人生の最大の出来事として、記憶されているのだ、とも言いました。
 私の、出生の疑問は、父がだれなのかというのはもち論ですが、今では、母も果たしてその人なのか、あるいは、伯母なのかという所にまで、いっています。伯母を見たことも、会ったこともありまっせん。母の話によれば、母が、修道院に入った頃、スペインに渡り、そこでやはり、尼僧院に入ったといいます。 母は、昨年、修道院で、亡くなりました。私はそこにお世話になりながら、母と同じ道に入るため、高校に通いながら、神の心を学んでいます。
 でも、母が、いつも語ってくれた先輩が、私の父ではないのか、という思いが、いつも離れず、母の形見となった日記を繰ってみて、あなたの名前を見付け、雑誌で見たキャンペー・ガールに応募すれば、お会いできるのではないか、と微かな期待を抱いて、思い切って、応募の手紙を出してみたのです。
 
 小泉は混乱した。
 (確かに、朝子とも夕子ともそういう関係を持ったが、まさか、あれで妊娠したとは……。しかし、一体どちらの子供なんだ)
 「でも。証拠はないよね」
とつい、口走ってしまった。
 「母もそう言っていました。でも、私にはどうでも良いことです。母が私の本当の母でも、そうでなくても。伯母が本当の母であっても。私は私なのですから。それより私は、父がだれなのかを知りたいのです。あなたなのか、それとも、他の男のなのか。母の言葉の端々で、母も伯母もかなり、乱れた男性関係があったらしい事は、分かっています。ですから、先ず、あなたを、調べたい」
 「調べる? どういうことです」
 「今晩、一緒に、付き合って下さい。母の時と同じように。あの赤坂のホテルで待っています」
 その晩、小泉は、娘とホテルのツイン・ルームにいた。
 「私のことは、えみと呼び捨てにしてください。その方が、安心できるから」
 と言った後、小泉に意気なり抱き着いてきた。小泉は驚きながらも、それに応じ、縺れあって、ベッドに倒れた。
 いつのまにか、互いの着ているものも脱ぎ捨て、五十男と甘酸っぱい十代の娘の裸体が、
ベッドに並んでいた。
 「私、こういうことは、初めて。男の人と一緒の部屋に二人でいるのも、寝たのも、勿論、裸になっているのも。でも、やっと、ここまで来たんだっていう感じね」
 「ということは、当然、バージンだって言うこと? 申し訳ないね。ひょっとすると、僕が、お父さんかもしれないのに」
 「なにを誤解しているの。私は母のように淫乱じゃないわよ。するのは、ここまで。さあ、早く」
というと、小泉の下半身に頭を向け、まだ、萎えているままのそこを握ってしごき始めた。
だが、小泉も。若くはない。思いどおりに、屹立しないと知った、えみは、ツンとした形のいい唇をそこにもっていき、くわえると、前後運動を始めた。
 だが、自分の後ろは、決して、小泉の口のほうには近付けないで、体を横にしたままだ。
処女の草息れのような匂いを嗅がされ、下半身を、可愛い唇で嘗められて、小泉は、久し振りの、身震いするような、快感に見舞われ、一気に放出した。
 すると、えみは、出された物を、口中に含みながら、バッグから、小形の試験管様のガラス器を取り出し、中へ吐き出した。
 「君、何してるんだ」
と、小泉が問い詰めると、
 「これ、私の一番生搾りよ。友達が検査センターにいるから、調べてもらうんだ」
 「何を?」
 「決まってるでしょ。血液型よ。詳しくね。あんたが、私の父親かどうか。それで、分かるでしょ。ええと、次は」
 「次はって」
 えみは、手帳を見せた。五人の男の名前が書いてあった。
 「ほら、試験管もあと、五本。予備の一本も入れてね。結果は、後で知らせるわ。該当したら、あとは、よろしく、面倒みてくださいね。じゃあ、帰って」
 
 小泉は、不安な日々を送った。
 えみは、キャンペーン・ガールに選ばれなかった。
 それから、七年、えみから連絡はなかった。
 ただ、山田詠美という若い女性が、黒人男性との奔放な性を描いた小説で、旋風を巻き起こし、最近では、いろいろな文学賞の選考委員までしているのを、週刊誌で読んで、あのえみと、似ているなと、ぼんやり、考えたりしている。
 (あの日は、バージンよ、なんて言っていたのに、まったく、女は解ったもんじゃない)
 白いもののチラホラ混じった髮の毛を梳しながら、小泉は、
 (人生、いろいろ、表もあれば、裏もあるから、面白い、か)
と、こころのなかで、呟いた。
                          (終り)