「青いトマト」
 
 オフィスの机上の電話が鳴ったのは、午後三時すぎだった。
 岩沢秀夫は、その時、パソコンに向かって、業務日報を入力していた。その週の営業活動の結果を、フォーマットに従って、入力していく。単調な作業に嫌気がさしていた時に、その電話は鳴った。岩沢は、ほっとした気分になって、受話器を取った。
 「はい。はい」
 無愛想に、電話口に出た岩沢の耳に飛び込んできたのは、吉野りかの声だった。
 「お元気ですか」
 いやに声が弾んでいる。
 「まあね」
 岩沢の素っ気ない応答にも、りかはさらに声を上擦らせながら、
 「ねえ、今夜は何処にいくの」
 と聞いてきた。
 りかは、岩沢と交わした週二回のデートの約束を忘れない。そういう点では、珍しく、真面目で律儀な女だった。
 「決めてないよ」
 「そう、じゃあ、私の方から提案するね」
 そう言って、りかは、
 「午後七時に、渋谷の『東急109』の前で。そのあと、いい所に連れていってあげるね」
 と早口にまくし立てた。
 「了解。ところで、雨はやんだかい」
 岩沢がそう聞いたのは、彼がこの四方を壁に閉ざされた作業室に入るときは、窓の外にこぬか雨が見えたからだ。
 「あら、ぴーかんよ、ぴーかん。抜けるような青空が広がっているわよ。あたしは、こういう青い空が好きね。西の山のほうへと雲が揺れていくわ」
 りかは快活に答えた。西の山とは丹沢の方だろう。りかは自分の部屋から電話しているらしい。岩沢は、りかが一人暮らしのマンションの一室に、いるのだろうと、想像した。たぶん、西向きの部屋なのだ。りかは、東京の西郊外の一人部屋で西日を見ながら、午後の紅茶をしているのだろうか。りかは「絵の勉強をしている」と言っていた。
 (あいつのことだから、熱いアフターヌーン・ティーを啜りながら、西の山の風景を見ているに違いない。描きかけの静物画が載せられている画架の近くで、遠くを見て、今夜のデートの戦略を巡らしているのに違いないのだ。そして、頭の中である計画が纏まり、こうして、電話してきたのだ)
 岩沢はそう気が付いて、急に優しく、
 「じゃあ、その時間にね」
 と言って、電話を切った。
 再び、コンピューターのディスプレーの前に座って、作業に掛かった。あと、二時間、この退屈な作業に耐えれば、りかのもとに飛んでいける。四月に十八歳になったばかりのりかは、岩沢より十七歳も年下だったが、今の岩沢には、かけがえのない宝物だった。岩沢は三十五歳の人生で、やっと巡り合ったこの宝石の原石に感動し、大事に磨き上げて、本物の宝石にし、一生自分のものにしておきたいと考えていた。
 だが、りかはまだ宝石と呼ぶには、まだまだ、磨きが足らなかった。どんな、素晴らしい石も、磨かなければ光らない。じっくり磨き上げて、誰にも認められる素晴らしい輝きを持つように、育てていくのが、自分の役割なのだと、岩沢は男としての自覚を強く感じていたのだ。
 
 岩沢がりかと出会ったのは、渋谷駅の東口からセンター街に渡るスクランブル交差点を歩いている時だった。りかは、岩沢と並んで交差点を渡りながら、
 「おじさん。遊ばない」
 と声を掛けたのだ。
 土曜日の昼過ぎだった。岩沢は、渋谷の映画館に洋画を見に行こうと、その道を歩いていた。たった、一人で映画に行くのは、岩沢の長い間の趣味だった。大体が、休みの土曜日か日曜日に、この道を通る。そういう、週末を、この十年位、繰り返していた。
 ここ二、三年、渋谷のこの道を通るたびに感じるのは、街の雰囲気が変わってきたことだった。五年くらい前までは、しっかりとしたスーツ姿をした男やファッション雑誌から抜けだだしたような若い女が腕を組んで歩いていたのが、最近はそういう人の姿は、殆ど見かけない。それに変わって、この街を闊歩しているのは、だぼだぼのズボンに破れたティーシャツを着て、顔中にピアスを着けた若い男やルーズソックスにタータンチェックのミニスカートを履いた女子高生風の女たちの姿だ。女はみな、日焼けサロンで焼いたような、浅黒い肌をしている。
 交差点で声を掛けてきたりかも、黒い肌をしていた。だが、着ている物は女子高生風ではない。黒いワンピース風のタンクトップを着て、小柄で小太りの体にはグッチのミニバッグが似合っていなかった。
 「遊ぶって、なにするの」
 歩きながら、岩沢は聞き返した。
 「きまっているじゃない。男と女なんだから」
 交差点を渡り終わるころにはそんな会話になっていた。
 「いいよ、でも、俺がいうことに従ってほしい」
 「なにさ。危ないことじゃないでしょうね」
 「いや、これから、俺は映画を見に行くんだが、付き合ってくれるかい」
 「なんだ、そんなことなら、簡単だ。それから、食事を奢ってくれる」
 「お安い御用だ」
 今時の若い女は、男に飯を奢って貰おうというとき、こうもあっけらかんと、誘うのか、という感慨に捕らわれたが、すぐに話は決まった。こうして、岩沢はりかを洋画館に連れていった。
 映画は「イングリシュ・ペーシェント」という、アカデミー賞を多数受賞した映画だった。りかは、売店で買ってやったポップコーンを齧りながら、コーラを飲み、ヒロインが恋人と一緒に死んでいった場面では、忙しい口の動きを休ませて、目を潤ませた。
 「よかったわ。あんな、男なら死んでもいいわ」
 映画を終えて、出てきた坂を下りながら、りかは岩佐にもたれ掛かりながら、囁いた。りかが、食べたかったのは、釜飯だった。意外と古風な要求に、岩沢は驚いたが。渋谷には有名な釜飯屋が多いのに気が付いて、頷いた。そういう店が、潰れずにやっていっているのは、意外にこういう若い女性が、入るからなのだろう。それに、かなり、若いカップルもいる。注文してから、一定の時間が掛かるのが、いいのかもしれない。その間、若い恋人たちは、待つという理由ができる。少なくとも、その間は、何をしようか考えなくてもいいのだ。とりとめのない会話をすることで、間をもたすことができる。そして、そのなにげない会話こそ、恋人たちには重要なのだ。互いを近付けることも出来るし、心を通わせることもできる。
 岩沢はりかと一緒に、注文の釜飯を待つ時間を、まさにそのようにして、過ごした。
 「君は何歳なの」
 「まだ、十八」
 「十八か。まだというか、もうというか」
 「まだよ。まだ、遊びたい盛りだし」
 「ふうん。なにしているの」
 「なんにも、してない」
 「ああやって、男に声を掛けるのが仕事なのかい」
 「そうね。お金がないときにね。食べなきゃ生きていけないじゃん。だから、最低、食事にはありつきたいんだ」
 「朝と昼はどうしてるんだ」
 「それは、ほら、前の夜に付き合った人におこずかいをもらうでしょ。それで 賄える」
 「住んでいるところの家賃は」
 「それも、だいたい、そうやって、稼ぐんだ」
 「男はそんなに、簡単に金をくれるのかい」
 「いいえ、簡単じゃないわよ。だから、やばいことをすることもある。でも、滅多にはしないわ」
 岩沢の追究に、りかはげんなりした表情をした。
 そのうちに、注文した品が運ばれてきた。すぐに、釜の蓋を取ったりかは、
 「わー、うまそう」
 と男のような歓声を上げた。やはり、十八の少女の仕種だった。
 釜飯で腹が膨れたあと、二人は、パルコの二階の喫茶店に行った。その店は、岩沢のお気に入りの店で、窓際に座ると、目の下を行く人々の姿を見ることができる。一日中、淡色の壁に囲まれたオフィッスで過ごしている者にとって、週末の一日でも、人の活発に動き回る姿を見るのは、息抜きになった。だから、岩沢は洋画を見た後、いつも、この喫茶店に来て窓際の席に腰を下ろし、ぼんやりと、街の風景を見るのが、習慣になっていた。
 「こうして、若い女の子と映画を見て、食事をして、コーヒーを飲むのは、久し振りだ。気持ちが若くなるよ」
 注文したカフェオレを啜りながら、岩沢はりかに言った。
 「だから、私達は、悪いことをしているわけじゃないんだよね。おじさんたちの心のケアをしてるんだから」
 りかは、知ったような口を利いた。そして、
 「でも、大体は、助平なんだ。こうやって、お茶を飲むのもそこそこに、ホテルへ行こうって、誘うんだから」
 と言って、岩沢の顔を見つめた。それは、そうしたいならそうしてもいい、という意思の現れか、あなたとは、そんなことをしたくない、という気持ちの表出なのか、岩沢は判断が付きかねた。ただ、あの交差点での出会いで考えていたより、りかは素直で快活な少女だったから、このままで別れてしまうのは惜しいが、肉体を求めて、その対価に金を支払うという行為はしたくない気分になっていた。岩沢もこの年で、一人暮らしだから、そういう店に行って、セックスの対価に金を払うということをしたことはあった。だが、短い時間でせかせかと事を終え、最後にお金を払うという行為が、性に会わなかった。彼は、自分自身、これでも、ロマンチストだと思っていた。男と女の関係には、体だけでない精神的な結びつきこそ大切だと、思っていたのだ。そういう点で、岩沢は古風な男だった。
 映画も食事もこのお茶代も岩沢が持っていたが、りかはそれを当然のように、受け取って、自然なデートになっていた。もし、ここで、りかが、他にも金銭を要求したら、直ちに、これは、いま流行の援助交際になるのだろう。岩沢はいつ、りかがそれを言いだすか、注目しながら、待っていた。
 「ねえ、わたし、今日は本当に楽しかった。なんだか、いつもより、自然でいられた。とても、気持ちが安らいだの。こんなことは、久し振りだわ。だから、このままにしたくない感じ。ねえ、もう一度会ってくれる。これが、私の携帯の番号。あなたの連絡先も教えて」
 りかはそう言って、メモを渡した。
 岩沢はそれを受け取って、自宅の電話番号も書いてある名刺を指しだした。
 この日、りかは、渋谷駅まで岩沢を送ってきて、改札口で、手を振った。
 「また、会いましょうね。絶対ね。連絡してね」
 「ああ」
 それが、最初のデートだった。
 
 「いい店と言うのはね。本当に変わった店なんだ」
 待ち合わせに、最初に会ったときと同じ黒いワンピースを来てきたりかは、まず、そう言った。
 「どういう風に」
 歩き始めたりかの後を追って、進んでいきながら、岩沢が聞いた。
 「まあ、行ってみれば分かるわ」
 りかは東急デパート本店に突き当たる歩道を、腰を振りながら歩いていく。
 人の群れが絶えない。この右手にあるセンター街からは、ワンパターンのスタイルをした女子高生たちが、はきだされてくる。
 りかは、東急デパートの左側を迂回し、住宅街に入っていった。緩い坂があり、その坂を登ってから、少し下ったところに、半地下の入口があった。りかは躊躇せずに、店の重たそうなドアーを開け、中に入った。岩沢も後に続いた。
 内部は暗かった。暫く、入口にたたずんで、目を慣らすと、中の様子が見えてきた。奥に壁に沿って長いカウンターがあり、棚にたくさんのボトルが、並んでいた。手前に、幾つか、テーブルと椅子が並んでいる。半分くらいは男女の客で埋まっていた。
 りかは、迷わずに、カウンターの方に進み、腰の高い椅子に腰掛けた。カウンターと棚の間の長い空間の脇から、長身の男が現れて、
 「いらっしゃい」
 と髭面を綻ばせて、愛想笑いをした。
 岩沢は、りかに手招きされて、りかの右横に腰掛けた。
 「ここは、バーなんだろう。未成年者が入ってもいいのかね」
 岩佐は、店に慣れた風のりかに、当て擦るような言い方で、詰った。
 「そうね。でも、未成年者お断り、とは書いてないわ」
 「酒を飲まなければいいということか」
 「そう、建前はね。でも、一々年齢を確かめる馬鹿はいないわ」
 りかのいうことは確かだった。こういう店で、一々、身分証明書を提示させて、年齢を確かめる所はない。
 「なんにしましょうか」
 バーテンが尋ねてきた。
 「何時ものように」
 りかはそう言った。バーテンは頷いて、岩沢の方を向いた。
 「おれは、ジンロック」
 「かしこまりました。それから、キープのトマト、出来てますよ」
 とりかの方を向いて付け加えた。
 「嬉しい。私には、初めての成果だわね。やっと、出来たか」
 りかは、瞬間、飛び上がるような喜びようを見せた。
 「一体何なんだ。そのトマトというのは」
 岩沢は、すぐに聞いてみた。
 「説明すれば長くなるかな。そうでもないか。いま、すぐに、わかるわよ」
 りかは、そう言って、グッチのミニバッグから、ポール・モールを取り出し、左手の長い人指し指と中指に挟んで、右手のビックの百円ライターで火を点けた。爪のマニュキアが、黒だった。
 バーテンが注文のドリンクを銀のサーバーに載せて持ってきた。岩沢にジンロックを置いたあと、りかには、長い脚の付いたグラスの上の逆三角形の中に、赤い液体に桃色のサクランボを添えた飲み物を出した。
 「はは、ブラディーマリーか。それは、強い酒だぞ。未成年者がそんなのを飲んでいいのかな」
 「いいのよ。アルコールは入っていないんだから。言ってしまえば、トマトジュースに毛が生えたようなものなの」
 「それが、十倍もするんだろう」
 払わされるに違いないお金のことを頭に浮かべて、岩沢は、毒のある言い方をした。
 「いいじゃない、こういうムードを味わうことが楽しいんだから。楽しくないの」
 楽しくないことはない。だが、これまでのりかとのデートで、こういう大人びた店に来ることはなかった。映画を見たり、遊園地に行ったり、デパートでウインドウショッピングしたりしたあと、食事をして、お茶を飲む、ということを繰り返してきたのだ。
 ところが、これまでに、入ったことのない店に岩沢を連れてきて、しかも、
 「いつものね」
 と言うところを見ると、顔見知りらしい。りかがこういう店に出入りすることが、できるのが、不思議だった。振る舞いかただけを見れば、もう少女ではなく、立派な成人した女ではないか。そして、この年代の女性は、大人になることに、恐れと嫌悪感を抱いているはずなのに。
 「はい、お望みのもの」
 バーテンが出してきたのは、小さな皿に載せた一個のトマトだった。赤く張りのある旨そうなトマトが一個、丸のママで白い皿に載っていた。
 「ああ、やっと出来たのね」
 りかはいとおしそうに、そのトマトを眺め回した。
 「切りましょうか。それとも、丸のママ行きますか」
 「行ってしまうのは、勿体ないわね。じっくり様子を観察してから、時間を掛けて、戴きたいわ」
 「畏まりました。では、このナイフで御自由にどうぞ」
 バーテンは、鋭い歯をもった薄手の果物ナイフを皿の横に置いた。
 「ふーーん、こいつが私の秀ちゃんか。すぐ、行ってしまうのは勿体ないな。写真を撮ろうかな」
 りかは、バッグから使い捨てカメラを取り出し、構図を作って、トマトの上からフラッシュを焚いた。
 一瞬店内が、明るくなった。その光に招かれるように、テーブルにいた客が四人ほど、寄ってきて、口々に、
 「おめでとう。満願だね。頑張った甲斐があったよ。りかちゃん、よかったね」
 と祝いの言葉を投げかけた。男なのに女言葉を使う二人と、いずれも太った体の派手な化粧をした女が二人。交互にりかに握手を求め、りかがそれに応じると、元のテーブルに戻っていった。
 岩沢は呆気に取られていた。なにが、何だか、意味が分からない。一体、なんのお祝いなんだろう。満願とはどういう意味なんだ。
 「ねえ、何がお目出たいんだい」
 椅子に戻ったりかに聞いた。
 「ああ、育て上がったからよ。ここまで、来るには大変だったの。子育ての苦労が少しは分かったわね。私もこれで、大人の女の仲間入りができるわ。おめでたいでしょ。もう、娘じゃないんだから。秀さんも、そのつもりで付き合ってよ」
 りかは、このとき初めて、岩沢を「秀さん」と名前をつづめて呼んだ。その呼びかたに、岩沢は彼の体内を想像もしていなかった甘い快感が走るのを感じた。
 「りかちゃん。おれ、嬉しいよ。これまでの岩沢さんでなくて、名前を呼んでくれて」
 「あら、本当だ。自然に出たのよ。これも、こいつのお陰かな」
 りかは、そう言って、皿の上に鎮座している赤い野菜を指さした。
 
 トマトの意味は、段々と分かってきた。バーテンとりかの会話で、分かったのだ。
 この店の名前は、「野菜屋」と言うのだという。原則として、ドリンクのほかは、食べ物はフレッシュ野菜か果物しか出さない。熱を使った料理や加工した食品は出さない。採れたての生野菜と果物だけなのだという。その野菜や果物は、どこから調達するのか。それ、半分は、この店の奥にある栽培室で育てている。即ち、出される野菜類は、直前に採ったものなのだ。半分は、産地から直送したものを、冷蔵庫で保管している。しかも、それも、二十四時間以上になったら、棄てる。あくまで新鮮さを追求しているのだという。
 店の裏の栽培室で栽培しているのは、トマトやレタス、人参や大根などだが、殆どはトマトだという。そのわけは、酒のつまみには冷えたトマトが一番人気があるためだ。
 「それに、トマトは、なんにでも使えますからね」
 とバーテンは付け加えた。それは、生で無くても、潰してジュースにもなるし、ピューレにもなる。最後はケチャップに加工して保存もできるのだという。
 「それで、面白いのは、マイ・トマトをキープできることよ」
 とりかは言った。
 バーやスナックにマイボトルを入れておくのは、今では我が国の隅々まで広がった商習慣だ。何処に飲みにいっても、ウイスキーやブランディーのボトルに名前の札を下げた棚が並んでいる。
 「それと同じように、トマトの株を自分だけのものにして、育てて貰うんですよ」
 バーテンが自慢げに、解説した。
 「株を買ってもらって、栄養をあげながら、育てていくんです。楽しいですよ」
 りかもその株を買ったのだろうか。
 「りかさんは、家の専属で、宣伝してもらってるんですが、彼女にも、もちろん、育ててもらう株を分けてあります」
 一体、どうやって育てるのか。岩沢は興味が湧いてきた。
 「どう、面白いでしょ。秀さんもやってみたら。こうやって、店に来るたびに、栄養を買ってあげるの。そして、育ったら、こうして、食べられるようになるってわけ。わたし、初めてなんだ。こうして、食べるの。これまでは、何もなしで、飲んでいただけだもの」
 りかは、初めて、ナイフで皿の上の赤い身を切り分け、その一片を口に入れた。
 「ああ、おいしい。ほどよく冷えて、果肉がみずみずしいわ」
 りかはトマトを頬張った口をもぐもぐさせた。
 「どうです、入会してみますか。もしよければ、栽培室をお見せしますよ。納得されたら、会員になっ下さい」
 バーテンが、岩沢を誘った。
 「面白そうだね。じゃあ、ちょっと、見せてもらおうか」
 「どうぞ、こちらへ」
 バーテンはカウンターの後ろに下がり、その奥にある部屋のドアーへと岩沢を誘った。
 ドアーを開くと、暗い空間が広がっていた。バーテンが壁のスイッチを入れた。一斉に、天井の照明が点いて、明るさが広がった。そこに、あったのは、天井までの高い棚と、その上に載った夥しい水耕栽培のトマトの苗の列だった。その多くには、たわわに実が付いていたが、まだ青い実や、まったく、実がない苗もあった。
 「これが、わが社、独特の室内水耕栽培の装置です。これには、数十件の特許も出願中です。どうです、見事でしょう」
 確かに壮観だった。二十畳程の部屋が、青い野菜の発する香りと成長するときに吐きだすガスで充満し、表の店内とはまったく異質の空間を形作っていた。
 「どうぞ、奥に入ってください」
 バーテンは、岩沢を栽培室に招き入れた。
 低く唸るモーターの音と水耕栽培の培養液が流れる静かな水音だけが聞こえた。
 部屋の中程には、青い小さな実を付けた苗ばかりが並んでいる一角があった。中には上の方に赤い実を付けだしたものもある。
 「ここが、やっと、初めて採集した苗木のコーナーです。りかさんのもここにありますよ」
 バーテンが指した場所を見ると、そこには、一本の苗だけが生えた白いプラスチック製の鉢があり、水で満たされている容器から、真っ直ぐに立ち上がっていた。鉢の脇に金属性のプレートが張ってあり、その上に名前と年月日が書いてあった。
 「会員の方に名前を書いて貰って、張るのです」
 とバーテンは説明した。たしかに、ボトルのキープと同じシステムだ。
 「どうです。こうやって、全く手が掛からず、新鮮なトマトを食べられる。画期的なシステムでしょう」
 「全く、手を掛けなくてもいいんですか」
 「そうです。お客さんは、苗を買うだけです。あとは、こうして、一角を確保して、成長を待てばいいんです。ああ、りかさんの横がちょうど空いていますね」
 バーテンは盛んに入会を勧めた。歩合でも入るのだろうか。
 「入会金は三千円、他に肥料代と手間賃が月に千円。それだけです。安いでしょう。それで、一つの苗から十個以上収穫できる。一個四百円くらいで、取り立てのトマトを食べられる。飲み屋の値段なら、トマト一個で、最低五百円はしますよ」
 そういう計算が成り立つのか。そうだとすれば、一個百円ずつは安いというわけだ。もっとも、飲み代は別だし、育ち上がるまで待たなければいけない。短気ではやっていられない。気長に成長を待つ気持ちが必要だ。その点では、岩沢には自信があった。なにしろ、りかとの関係も、もう二年以上になるのに、これといった波風もなく、たんたんと続いている。たしかに、一回のデートで幾らの、金銭絡みの関係かもしれないが、岩沢の意識のなかでは、いわゆる商売女を買っている感覚はない。大金持ちの助平親父が、妾を囲っているより、健康な関係だと考えていた。なにしろ、りかとは週二回のデートの約束だが、一回につき二万円を「援助」するだけで、りかは満足している。確実に週二回になれば、付きに十六万円の稼ぎになる計算だ。だが、岩沢の都合でキャンセルすることが多いから、平均すると月六回がいいところだ。すると、りかは岩沢から、月にほぼ十二万円の収入が保障されていることになる。これでは、いかに未成年の一人暮らしとはいえ、生活が成り立たないのだろう。
 (だから、りかは他の男とも付き合っている)
 と岩沢は思っていた。彼女にとって生活のためにそうすることは、仕方がないことだ、という気持ちもあって、そのことをりかに尋ねたことはない。
 「どうします。やってみますか」
 栽培室のドアーを閉めながら、髭のバーテンが聞いた。
 「そうだな、面白そうだ。りかがやっているのが分かったし、一緒に隣で育ててくれるなら、やってみようか」
 「そんなことは、お安い御用です。このプレートに名前を書いて頂いたら、直ちに、りかさんの隣に新しい苗を植えます」
 顔を綻ばせながら、調子良い言葉を連発した。
 岩沢は新鮮トマト栽培の契約書に署名、捺印し、契約金を払った。バーテンが会員証を持ってきて、契約は整った。
 「大体、週に一回くらい、様子を見に来てください。楽しいですよ、自分のトマトが育っていくのを見るのは。そうして、来ていただければ、うちの方も、商売になるというわけで」
 そうか、客に足を運ばせることも考えての、一石二鳥のアイデアというわけだ。
 「これから、二カ月くらいで、一気に大きくなります。三ヶ月目には食べられます」
 バーテンはそう言って、片目を瞑った。
 「秀さん、会員になってくれたの。嬉しいわ。面白いでしょう。なんにしろ、生きるものを育てるのは楽しいわよね。毎日、自分のものが成長していくのを実感できるなんて、都会にはなかなかないことよ」
 りかは、カウンターの椅子に座った岩沢の方に右手を置いて、黒い瞳で直視しながら、そう言った。
 「ああ、おれも、この店に、たまに来ることにするよ。これから、デートの待ち合わせは、この店にしよう」
 「いいわよ。そのほうが、ゆったりと出来るし。約束ね」
 もう、時刻は十一時を回っていた。そろそろ、引き上げなければならない。なにしろ、りかは一人暮らしだとはいえ、未成年なのだ。日が変わらないうちに帰さなければならない。
 二人は店を出た。渋谷駅に向かう細い路地で、岩沢は立ち止まり、現金を入れた茶封筒をりかに渡した。
 「ああ、ありがとう」
 りかは、それだけ、呟いて、中身も確かめずに、バッグに仕舞い込んだ。
 りかは緩く、右手を岩沢の左腕に入れている。この道を下って右に曲がれば、大山町のラブホテル街だ。二人は何回もこの辺りを歩いているが、その坂を登っていったことはない。坂の登り口に来ると、カップルが二、三組、ホテル街に消えていくのが見えた。
 「おれは、青いトマトが好きなんだ」
 坂を通り過ぎて、岩沢が囁いた。
 「わたしも、真っ赤なのより、青いくらいがいいな」
 りかが応じた。
 渋谷駅で、新玉川線に乗るりかを見送り、岩沢は山の手線外回りに乗った。乗客は酔った男女や派手な格好の若い女性が多かった。いまは、若い女も夜中まで酒を飲んでいる時代なのだ。
 (青いトマトは赤くなる)
 そんなことを考えながら、眼前を飛んでいく都会の夜景を見ていると、ネオンや照明には赤色ばかりが多いのに気が付いた。電車は目白駅に着いた。岩沢は降りて、女子大通りにでて、歩いて自宅のマンションに帰った。
 
 それから、六日経った。水曜日だった。いつものように、会社のパソコンに向かっていると、午後三過ぎに、りかが、電話してきた。
 「ねえ、あのトマト、どうなってるか、知りたくない」
 けだるい話し方だった。
 「知りたいねえ」
 岩沢は、即座に答えた。今日は、りかとは、約束の日ではないが、岩沢はりかの申し出は、原則として断らなかった。
 「じゃあ、何時もの時間に、何時もの場所で」
 りかはそう言って、電話を切った。
 「野菜屋」に行くと、店は込んでいなかった。先日のバーテンが、手持ち無沙汰に、カウンターの奥で、グラスを磨いていた。
 「やあ、いらっしゃい。先日はどうも」
 そう言って、バーに座った二人の前にコースターを置いた。
 「やっぱり、気になりますか」
 「ええ、そうですな」
 「だから、連れてきたのよ」
 三人の会話が、続いた。
 「どなたでも、そうですね。五日もすると、必ずといいっていいほど、いらしゃいます」
 そう言われると、ごく普通の、並みの人間でいいと思っている岩沢は、嬉しかった。自分も、普通の人間と変わらない、と感じられたからだ。
 「なんにしますか。それとも、先に、見てみますか」
 バーテンは営業に入った。
 「そうだね、僕は何時ものもの、ジンロックで」
 「わたしも、何時もの、分かってるでしょう」
 「その前に、見てこようか」
 岩沢が、立ち上がった。りかも後に続いて行く。それを見て、バーテンが、ドアー栽培室のドアの方に行き、扉を開けて、電気を付けた。岩沢はりかを先にやって、室内に入っていった。
 「この辺りだったねえ」
 記憶にあるマイ・トマトの苗木の場所を探して、行ってみると、苗木は、先日の二倍の長さになり、小さな実りの核を付けはじめていた。
 「ほら、もう、実が出てきた」
 りかは、驚きながら、その部分を指さし、岩沢を招いた。岩沢はその場所を覗き込んだ。
 「あれ、本当だ。早いな、もう、出てきたの」
 「そう、命の動きはこんなに早いのよ。私も、最初は驚いたもの。一日一日、確実に伸びていくのよ。自然の営みね」
 十八の小娘に説教されるているのを忘れて、岩沢は、いつかは大きな実を付けるであろう小さな固まりとりかの大きくなってきた胸の脹らみを交互に覗いていた。
 苗木の根元を見ると、途切れることなく、栄養液が流れこみ、毛根を洗っていた。土がないのが、いかにもこの場所の人工の作りを象徴していた。
 「都会のビルの奥でも、生命力のあるものは、こうして、力強く育つんだ」
 大都会の穴倉で育つ、この野菜を見ていると、現代社会というものの不思議さが、実感として、分かるような気がする。こうして、整然と並べられた苗木は、都会に住むわれわれ人間のようだ。狭い空間に、同じ形で並んで生きている。都会のマンションでは、壁ひとつ隔てて、多くの人が暮らしているが、その間のコミュニケーションは希薄だ。壁の向こうで、死んでしまっても、気が付くにまでは、時間がかかる。それなのに、われわれは整然と暮らしている。たとえば、夜中に、照明が落ちたマンションの部屋で、人が同じ形で寝ているのを想像すれば、いかにそれが、非人間的な光景なのかがわかる。ブロイラーの鳥籠を笑えないではないか。人は効率を求めて、鳥のそういう飼育法を開発し、自らもそういう檻に閉じ込めて、疑問を感じない。人工的に制御されたトマトの生育を見ていると、大きな不安と恐怖が湧いてきた。
 だが、育っていくものを見るのは楽しい。まして、自分の名前を冠した苗木なのだ。岩沢はペットを飼う趣味はなかったが、なんとなく、都会で犬や猫を飼う人たちの気持ちが分かるような気がした。
 岩沢の苗木の隣の、りかの苗木にはたわわに成熟したトマトが三個なっていた。
 「一つ上げるわ。他の一つはここで食べて、あと一個はうちに持っていく」
 りかの決断は速い。入口の棚に置いてあった断ち挟みを持ってきて、三個を切り取った。
 「さあ、あっちで、食べましょうね。瑞々しくておいしいわよ」
 りかは栽培室を出た。
 バーテンが、水洗いした丸ごとのトマトを、皿に載せて、二人の前に置いた。一つはビニールに入れて、包んであった。
 「こんなに赤いトマト。おいしそうでしょう」
 りかが置かれたトマトを指して、岩沢に同意を求めた。
 「赤いトマトは好きじゃないけど、確かに旨そうだね」
 りかは、ナイフで真っ二つにして、フォークで半分を、岩沢の口許に持っていった。
 「ほら、食べなさいよ。食わず嫌いなんだから」
 「いいよ、おれは、あんたが二つ食べればいいんだ」
 「じゃあ、なぜ、苗木をキープしたの。食べたくないのに。食べてあげなくちゃ可愛そうでしょ」
 りかはしつこく、口許に持ってくる。
 そう言われてみると、岩沢が苗木を買ったのには、確固とした理由はないのだ。りかにこの店に連れてこられ、勧められるままに、金を払ったのに過ぎない。トマトを育てて、なんにしようという意図はないのだ。まして、赤いトマトを食べようなどとは思っていない。なんとなく、育っていくのを見ているのが楽しい様な気がした。効用と言えば、そういう過程を見ることが、癒しになるかと考えただけだ。このシステムを考えついた人も、実りよりも、育てる過程を売ろうとしているのではないか。結果よりもプロセスなのだ。それが、楽しければいい。
 岩沢は、そう考えていたが、りかに話しても、仕方がないだろう。相手は、結果さえよければと考える若い娘なのだ。手立てはどうであれ、求めているものが得られれば、それでいい、というのが、この世代の若い女たちの考えかただ、と岩沢は、理解していた。だから、こうして、金づるを探して、援助交際をしたりする。
 だが、考えてみると、その方が、積極的で活力のある、行きかたとは言えないだろうか。とにもかくにも、持てるものを使って、彼女たちは勝負しているのかもしれない。ほかに、手段がないのだとしたら、命も掛けているのだ。岩沢が、与えられたものを素直に受容し、流れに棹差しもせずに、流されて生きているのとは対照的だ。
 (おれは、流れのままにりかを受入れ、今度はトマトを受け入れたんだ)
 会社での単調な仕事が、岩沢をこういう性格に変えてしまったのか、それとも、持ち前の性格なのか。多分、その両方なのだろう、と思える。りかを抱きもしないのに、毎回、数万円のこずかいをあげている自分と、トマトを人工的に育てながら、満足しようとしている自分は、根っこの所で繋がっている。それは、当然だ。同じ一つの人間なんだから。だが、それは、岩沢だけのことなのか。こんなに、キープ・トマトが沢山あるのは、それだけ、似たような人間がいるということなのだ。そのことが、岩沢が、他の人と変わらない、普通の現代人だという実感を持つ、確かな理由になっていた。
 とうとう、岩沢はりかが差し出す赤いトマトを食べずに、店を後にした。りかを送っていったあと、山の手線の電車で、流れる夜景を眺めながら、自分がりかのように口の周りを真っ赤にしながら、滴り落ちる赤いトマトにかぶりつく姿を想像しようとした。だが、最後までその光景は浮かんでこなかった。
 
 それから、二週間、岩沢は仕事が決算期の営業数字の締めに入ったため、連日の残業で、りかに会う余裕はなかった。やっと仕事が一段落した九月の末に、最後の仕事を仕上げて、ほっとしていたところに、電話が入った。午後四時過ぎで、そろそろ帰ろうかと考えていたところだった。
 「もしもし、岩沢さんですか」
 「はい」
 男の声がした。
 「私。警視庁渋谷署刑事係の保田というものですが」
 「はい」
 岩沢は、一瞬、考えてみたが、警察に世話になるようなことを最近した覚えがなかった。すっとんきょな声を上げて、電話に答えた。
 「いえ、すみませんが、岩沢さんは、吉野りかという女性を御存知ですよね」
 「はい」
 そうか、りかが何かしたようだ。岩沢は声を改めて、しっかりした口調で応答した。
 「その人が、今日の昼間、万引きをしましてね。まあ、大した額ではないんですが、未成年者ですから。だれか、保護者に迎えにきていただきたくて、本人に聞いたのですが」
 男はそこで、言い淀んだ。なにか、遠慮をしているときの人間の反応だ。
 「私の名前を言ったと」
 岩沢が先に察して言った。
 「そうなんです。親の名前とか連絡先は、口を噤んで言わないのですが、あなたの名前と連絡先だけは言いまして。連絡をしてほしいということだと思いますが」
 岩沢には全てが分かった。りかは、おれに救いを求めているのだ。そう思うと、矢も楯もたまらず、すぐにでも飛んでいきたくなった。
 「あと半時間で、仕事が終わりますが、そのあとでも宜しいでしょうか」
 すっ飛んで行きたい気持ちを抑えながら、謹厳実直なサラリーマンを装った気持ちで、控えめに言った。
 「よろしいでしょう。こちらとしては、とにかく、どなたかに迎えに来て戴ければありがたいんです。本人だけで、帰すわけには行きませんので。いえ、もう調べは全て終わりました。本人は反省していますし、盗んだ品物は返しましたからね。ちょっとお灸を据えているとこころです」
 「そうですか。ご迷惑をお掛けしました。以後、こういう事の意ないように気をつけます」
 岩沢はそういった後、それは、言いすぎだと気が付いた。こちらの立場は、週に二回相手の連絡を待って、会うだけなのだ。りかをしょっちゅう見張っているわけではないし、一緒に暮らしているわけでもない。保護者ではないのだ。だいたい、りかの両親がどうしているのかさえ、知らないではないか。
 「では、よろしく」
 と最後に言って、その警察官は電話を切った。
 岩沢は電話を切ったあと、柱の時計を見た。いま、午後四時四十分を少し、過ぎた。あと、十分で退社時間になる。それまでに、机の上を片付けておけば、五時きっかりに、会社を出られる。
 (それにしても、なぜ、りかは俺を指名したのだろう。この二週間、一度も電話を掛けてこなかった。なにをしていたのだろう。大体が、親とか兄弟はいないのだろうか。援助交際の相手を身柄引受人にするなんて、なんて、おかしな女なんだ)
 岩沢は銀座から渋谷に向かう地下鉄銀座線の狭い座席に座りながら、多くの疑問を問いかけていた。
 渋谷署は、南口から出て、青山方面に少し行った所の角地にあった。階段を上がって、受け付けに行き、保田刑事の名前を言った。
 部屋は二階だといわれ、二階に上がると、すぐ目の前に、「刑事課」と書かれた表札が出ている部屋があった。岩沢はドアを開け、そこにいた若い男に、名前を名乗り、来意を告げた。
 「保田さん。岩沢さんですよ」
 若い刑事は、あたりに構わず大声で保田を呼んだ。
 すると、向こう側の壁にならんだ、「取調室3」と書かれたコーナーから、禿頭をなでながら、小柄で小太りの男が現れ、岩沢の方に来て、
 「いやあ、御苦労さんです。お忙しいところをすみませんね」
 と相好を崩して話しかけた。目は確かに笑っていたが、本心からではない。笑顔の奥に包まれた猜疑心が、目の中にうかがえた。刑事という職業柄だろう。
 「いま、呼んできますからね。待っててください」
 保田は、先程出てきた部屋に戻り、りかと思われる若い女性を抱えて、戻ってきた。たしかに、りかだったが、長い髪の毛を前に垂らして、うなだれていたため、すぐには分からなかった。手にいつもの、ミニバッグを下げ、見覚えのある濃色のタンクトップのワンピースを着ているので、確認できた。
 「いま、二度とやらないとの確認書に署名してもらったところです。額が少ないし、初犯のようなので、検察庁には送りません。ですから、刑事処分を受けたということにもならない。ちょっと、しかり置いたということですね。ですが、もう一度やったら、事件にしますから、そのつもりで」
 保田は、先程とは打て変わって厳しい表情で、りかと岩沢に向かって、告げた。
 「では、お引き取り下さい」
 岩沢は、うなだれたままのりかの体を支えて、警察を出た。外はすでにどっぷりと暮れていた。
 「どっかで、飯でも食おうか。腹減ったろう」
 りかは、何も言わない。
 「いったい、何時間警察にいたんだ」
 そう問いかけると、やっと、
 「三時頃から、ずっと」
 「三時間くらいか。でも、辛かったろう」
 「そうね」
 とだけ、りかは短く答えた。
 「とにかく、腹になんかいれなきゃ、気分も滅入ってしまうよ、腹を一杯にすれば、また、気持ちも持ち直すさ」
 「はい」
 りかに何時ものような若さの勢いはない。
 岩沢は、渋谷駅のガード下に行き、角から煙を上げている焼き鳥屋に入った。煙と共に吐きだされてくる匂いに、誘われたのだ。
 奥の席に着いてから、店員に焼き鳥二人分とビールを注文し終えてから、岩沢は、
 「まあ、元気を出せや、人生には、ふとした気の迷いや、魔が差す言うことがあるよ。つい手が出てしまう、ということだって、おれにもなかったわけじゃない。ただ、そうしなかったのは、悪魔の誘いに神の声が優っていたというだけのことだ。たまには、悪魔の誘いの方が強いということだってあるよ」
 とりかを慰めたが、それには、なんの反応もしなかった。
 焼き鳥が二人分出てきて、ビールが置かれた。塩とたれの焼き鳥が、素晴らしい香気を鼻に送ってきた。
 「さあ、一杯、行きなさい。未成年だっていいんだよ」
 岩沢が注いだビールのコップを、りかは口まで持っていったが、飲まなかった。りかは、酒は飲まないのだ。いや、未成年だから飲まないことにしていた。そんなところが、今時の十八歳にしては、古風だった。そのことと、援助交際をすることの落差が、岩沢にもずっと、不思議だった。それに、こういう時に親を頼らず、岩沢を指名してきた理由も分からない。腹が満ちるタイミングを見て、そのことを聞いてみる積もりだったが、なかなかその機会は来なかった。りかが頑に、口を噤んで、詳しいことを話さず、場が和まなかったのだ。
 「嬉しかったよ。おれを呼んでくれて」
 そう言うと、りかは、
 「迷惑だと思ったけど、ずっと会わなかったし、ほかに、思い浮かべられる人がいなかったから」
 「友達はいないのかい」
 「そうね、きちんとした身元引受を出来る友達なんて、いないわ」
 「年が若いのか」
 「それもあるし、わたしは、そう深く付き合い方じゃないから」
 「大人の知り合いはいなかったのかい」
 「そう、岩沢さん以外には、いなかったの」
 そう言われると、嬉しくなる。こんなに若い、それだけ、美しさもあるのに、身元を引き受けてくれる大人もいないというのだ。
 「東京には人は一杯いるけど、本当の友達なんか、誰もいない」
 りかが突然そう呟いた。心の底から突き上げるような叫びだった。
 それまでの、滅入るような小さな声とはうって変わって大きな断固とした声だった。
 「こうして、君を迎えに来ても、僕は君のことを何も知らないんだ」
 その声に反応して、岩沢が口走っていた。それは、恋人に言うべき言葉で、行きずりで知り合った、割り切った交際相手に言うべき言葉ではないと、岩沢には分かっていたが、抑えきれずに、出てしまったのだ。
 (りかが万引きをしたのも、こういう拍子だったのかも知れない)
 と考えた瞬間、りかが、
 「だから、会いたかったから、やったんだよ」
 と呟いて、岩沢の目を見た。瞳が濡れて、暖かいものが溢れそうになっていた。岩沢はポケットのハンカチを取り出して、溢れだした涙を拭った。りかはその間も、じっと岩沢の目を見つめて離さなかった。
 
 そのあと、岩沢はりかのアパートに行った。玉川線を田園都市線に乗り換えて、多摩川を渡り、さらに行った長津田という駅で降りて、岡を登っていった途中に、木造二階建てのアパートはあった。りかはその二階の西向きの部屋に住んでいた。古びたドアの様子からは、建ってからかなり、時間が経っているように見える。
 中は、一部屋しかない。入口の脇に簡単な流しがあり、食事を作る事は出来る。トイレはあったが、風呂はなかった。西側に小さな窓が開いていた。たしかに、夕方には、ここから、西日が沈む様子が見えるかもしれない。だが、画架も絵具もなにもない。畳が敷かれた六畳位の広さの部屋が、ただ、あるだけだった。
 夜も、十時を過ぎていたので、周囲の環境は分からない。とにかく、都心からはそうとう遠くに来たようだ。ときおり、虫の鳴き声が聞こえた。キリギリスなのか、スズムシなのか。その声が、やや、興奮していた気持ちを落ちつかせた。
 「コーヒーでも、入れましょうか」
 「そうかい、済まない。いや、水でいいよ」
 切り詰めた生活振りを見て、岩沢はそう言った。
 「でも、折角、来てもらったのだから。いま、お湯を沸かしますから」
 りかは、甲斐甲斐しく立って、やかんに水を入れて、ガス焜炉に掛けた。
 「君が、どんな生活をしているか、そう興味はないんだが、いちおう、家まで送り届けるのが、引受人の責任だろうからね」
 岩沢が言い訳がましく言うと、りかは、
 「すみません。でも、いつかは、こうなると思っていたの。ほら、あなたが、トマトを育てはじめたころから」
 「そうか、そういえば、どうなったかな。おれのトマト」
 「そうね、もう二週間も行ってないでしょ。でも、大丈夫、私が面倒見ていたから」
 りかはあの「野菜屋」に行っていたらしい。
 「そうかい、悪かったね。順調に育っているかい」
 「そうね。かなり大きくなって、そろそろ、食べられそうなのもあるわよ」
 「赤いトマトか」
 「赤くなってきた」
 「おれは、好きじゃない」
 「どうして」
 岩沢はそのわけを知っていた。誰にも話してはいないが、訳は知っていた。そういうことを、話す時と場所がこれまでの人生ではなかった。
 お湯が湧いて、りかがインスタントコーヒーを入れてきた。午後のアフターヌーン・ティーなど飲んでいた様子はない。
 「おいしくないかも知れないけれど、どうぞ」
 りかは身体中が黒いのに手だけは白かった。そのうえ、すらっと伸びた五つの指が優雅だった。その白い指の動きを、岩沢は、いつか見たような気がした。
 コーヒーをゆっくりと啜っているうちに岩沢は眠くなった。りかも昼間の緊張感で神経が疲れていたのか、コーヒーを飲みおわると、
 「失礼します」
 と断ってから、畳の上に直接横になり、すぐに、いびきをかきだした。
 岩沢は、押入れを探して、掛け布団を取り出し、りかの体の上に掛けてやった。そして、自分も、毛布を探して、被り、りかの横に寝そべって、肩肘を突き、りかの寝顔をじっと見つめていた。
 外から絶え間なく、虫の音が聞こえた。
 (スズムシか、秋の虫。夏が終わり、束の間の実りの季節)
 体の中から声がした。肘をほぐして、仰向けになると、窓から月が見えた。満月だった。
 (月は満ち、月は欠ける。万物は流転し、止まることを知らぬ。全てのものは、成長し、老い、死んでいくのだ)
 岩沢はそう呟いてから、
 (人生は短い。精一杯生きよう。自らの気持ちの素直になって)
 と思いいたった。
 脇でりかが安らかな寝息をたてている。岩沢は、目を瞑り、子供の頃を回想した。このように、若い異性の側に二人きりで寝て、浮かんでくるのは、性的な甘美な思い出だ。それには、酸っぱい味が必ず、付着している。
 (だから、おれは、赤いトマトが、好きじゃない)
 また、同じ思いに至る。だが、その原因をなしているのは、確かに、「あのこと」に違いない。忘れかけていた思い出が、清烈な秋の夜の空気と虫の音に囲まれて、鋭敏さを増した神経を研ぎ澄ませて、「あの時」に導いていった。
 
 それは、暑い夏の日だった。岩沢は、家の前の畑で遊んでいた。それは、幼かった体には背の高くみえた苗木が並んだトマト畑だった。暑さを避けるのと、腹が空いたら手を伸ばして飢えを満たせばいいという一石二鳥で、よく、畑の畝に入り込んで遊んでいた。それが、なぜか官能的で楽しかった。
 高い苗木の下で、日の光を避けながら、横になっていた。藁を敷いた地面の上は、なぜか、ひんやりとして、背中が気持ち良かった。それまでに、熟したトマトを三つも食べたので、お腹は一杯だった。太陽は、頭の上に高く上がり、住民たちは昼食のために、家に引き上げていた。このあと、午後涼しくなるまで、農家の人たちは昼寝をする。岩沢も、ここで、眠ってしまいそうだった。家の中で寝るよりも、気持ちがいいのを岩沢は知っていた。
 まどろみ掛けたとき、ざわざわと人の動く音が聞こえた。近くの畝に誰かいるらしい。岩沢は体を硬くして、動かないままに、そちらの方に耳を澄ませた。
 男と女の声がした。
 「なあ、いいだろう。久し振りじゃないか」
 上擦った男の声が、女に懇願していた。
 「いやよ、こんなまっ昼間から。なにいってるのよ」
 「でも、暑いよ。こんなに暑くては、裸になりたくなるよな」
 「暑いことは暑いけど、それと、あれとは別よ。もっと暑くなるじゃないの。それに、誰かが見ているかもしれないし」
 その声で、女が岩沢の兄嫁だとわかった。岩沢は静かに起き上がり、じゃがんだ格好で、声のするほうを探った。
 「だれも見ているわけないじゃないか。旦那は農協の旅行にいったんだろう。親父たちは寝ているよ」
 「まあ、そうだけど。でも、確かに暑いわね」
 「よお、おれもう、我慢できないよ」
 その後、どさっと、ものが崩れるような大きな音がした。二人は倒れ込んだらしい。こちらには、気が付いていない。
 兄嫁の里子は、男の要求を口では拒んでいるが、まんざらでもないような、声の様子だ。里子が男とこんな事をしているとは、岩沢にはとても、考えられないことだった。兄の隆の元にこの春先に嫁いできたばかりだから、まだ、新婚だ。年は二十五歳だから、この地方では遅いほうだが、仲人の話では、病気の母親の看病で行き遅れたとのことだった。長い間看病したその母を昨年亡くし、ほっとした時に、この結婚話があり、とんとんと進んで、纏まったのだった。見合いに行った兄は、その日、興奮して家に帰ってきた。長い間、母親の世話を焼いてきたから、しっかりしている。家事はなんでもできるし、心根が優しい。それに、美人だし、スタイルもいい、といってすっかり気に入っていた。だから、問題はむしろ、兄が相手に気に入られたかどうかの方だった。兼業農家はこの辺では珍しくないが、夫が勤めにでれば、農業は老夫婦と嫁の肩にかかってくる。いまどき、喜んで農業を手伝う若い娘は、万里の砂の中に玉を探すより難しい、と皆思っていた。
 それが、里子は、隆との結婚を一つ返事で承諾した。年の行っていた父親が、速く娘を片づけようと考えて、積極的に賛成したのが、決め手になった。それに、岩沢家にはかなりの資産がある。菓子職人の父親は、妻の病気と自分のギャンブル好きで借金を抱えていた。仲人の、「里子を岩沢にやれば、その借金くらいはどうにかなるだろう」という甘言にも乗ったのだ。たしかに、娘の結婚では、事情を知った岩佐家から、かなりの援助があった。結納や結婚式の費用は殆ど、岩沢家が持った。それほど、望まれて嫁いできた里子だった。
 父の後妻の子である秀夫には、母を亡くすことの意味がまだよくわからなかったが、父と隆には身に応えていたらしい。最近同じ経験をした里子を同情を持って迎えたのは、そういう経験が背景にあったのもしれない。お互いに、母を亡くした気持ちを人前で、話すことはなかったが、気持ちは通い合っているように秀夫にはみえた。
 秀夫にとって嬉しかったのは、里子が秀夫には、女神のように輝いて見えたことだ。もともと、美人顔の里子が家に居るだけでその部屋に新しい照明が点いたような気がした。近くによると、ふろ上がりのときのような、甘い石鹸の匂いがいつもしていた。白い手は、看病の後も感じさせないほど、すらりとしていた。家族の食事は、後妻の秀夫の母が作っていたが、里子が嫁に来てからは、たまに、代わって炊事をすることもあった。そういうときは、里子は洋食をよく作った。コロッケやかつやハンバーグなどだったが、若い人向けだけに、秀夫にはおいしく感じられ、それも嬉しかった。
 兄と里子は仲が良く見えた。兄が家を出るときは、必ず、玄関に出て見送り、帰ってくる時には、迎えに出た。大歓迎で迎えられたために天狗になるようなこともなく、甲斐甲斐しく働いていた。
 その兄嫁が、兄ではない男と、この先の畑の中で、密会している。
 その事だけでもショックだったが、二人が、重なりあって、男と女の行為をしようとしているのを、見るのは辛かった。だが、そのころ十四歳で、思春期の好奇心で一杯だった秀夫は、その場から逃げようとせず、むしろ、近寄って行った。
 二人に気が付かれないように、秀夫は、足元の方に回り込み、後ろから様子を探った。
 「あら、いやだ。ああ、ああ」
 秀夫が二人の足元に来たとき、里子は、男にスカートを脱がされ、両足の根元を右手でまさぐられていた。
 「ほら、こんなに、溢れているじゃないか。隆はお前を満足させられないだろう。おれじゃなきゃだめだよな」
 男は兄嫁の両足の付け根を探りながら、言っていた。
 「だめよ、そんなにしちゃあ。ああ」
 里子はただ、うめき声を上げるだけだった。
 男はズボンとパンツを脱いだ。そして、里子に乗しかかり、前後に腰を動かしはじめた。
 秀夫は目を剥いた。初めて見る男女の営みの光景だった。あの清純な兄嫁が、強く男を拒むことなく、迎え入れ、歓喜の啜り声を上げていた。秀夫は頭に血がのぼった。だが、なにもすることも出来ずに、目の前の光景を凝視していた。
 男が腰を振るたびに、里子は
 「はあ、ああ」
 という声を上げて反応していた。それは、秀夫がいままでに聞いたことのない女の生の声のたけびだった。だが、しばらくしてそれも終わった。男は体を離したが、里子は股を開いたまま、じっと横になっていた。秀夫の目の先に兄嫁の秘部が拡大されて見えていた。そこは赤く膨れて、押しつぶされた真ん中の割れ目から、粘液が滴り落ちているのが見えた。暗い空洞の中から滲み出た粘液が、暗い藪のなかで明るい太陽の光に照らされて、きらりと、光った。男が立ち上がった。そのとき、里子が登り詰めたとき、白い手を伸ばして握ったため、茎が弱くなっていた苗木に体が触れたのか、やっとしがみついていた熟したトマトが、里子の熱くなったその部分の上に落ちて潰れた。男はすぐに、気が付いて、そのトマトに口を持っていって、一口で啜り込んで食べた。そのとき、里子は再び、
 「ああ」
 と切ない声を上げ、
 「もういいわね」
 と甘い声で男に囁いた。
 「ありがとう。よかったよ。元気でな」
 男は身支度を整えて、畑から出ていった。里子も、起き上がって、脱ぎ捨ててあった衣類を着けた。先程、淫乱に歓喜の声を上げていた時とは、見違うようなりんとした姿の若い女性の姿がそこにあった。
 彼らが体を離し、立ち上がる前に、足元を離れて、遠くに潜んでいた秀夫は、男が畑から出て、停めて置いたバイクで立ち去る音を聞いた。その音が行ってしまったあと、里子がトマトを採る作業に取りかかったのを知った。
 空は抜けるように青かった。その青一面の中に、筋雲が所々を白く刷毛で履いたようにある。秀夫は寝ころばって、それを見ていた。しばらくて、里子がトマトの採り入れを終えて、家に向かう足音がした。里子は、男と体を重ねていた辺りの苗木から熟したトマトを手早く採り入れたらしい。今夜の食卓にはかならず、あのトマトが丸のまま出るだろう、と秀夫は思った。
 その晩、食卓に出された完熟トマトを秀夫は食べなかった。
 「いつも一番に食らいつくのに、今日はどうしたの。体でも悪いんじゃないの」
 と母が訝ったが、秀夫は何も言わなかった。代わりに、御飯を一杯多くお代わりしてみせると、母は安心したようだ。
 すぐに、自分の部屋に引き上げて、横になった。染みの入った天井を見上げていると、だんだんと、一面が青くなり、刷毛ではいたような染みが白い筋雲に変わった。それ以上に空想を進めたくなかったが、視点は下に移り、赤いトマトを置いた白い女の体が浮かんできた。全裸の女の下腹部に、赤いトマトが一つ。体じゅうに潰されたトマトの赤い果肉や皮の破片が乗っていた。このトマトに陵辱された若い女の姿が、ずっと、脳裏に止まり、離れなくなった。そうして、その幻像を見ながら、秀夫は夢に入っていった。
 
 「あの像が、この頭に残っている限り、赤いトマトは食べられないんだ、おれは」
 岩沢は、りかに寄り添いながら、そんなことを考えていた。どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。外の虫の音は、すこし静かになった。りかが目を覚ましたらしい。衣擦れの音と共に、岩沢が目を開けると、目の前にりかの顔があった。
 「ねえ、キスしていい」
 「えっつ」
 「するわよ」
 嫌ともいいとも言う間もなく、りかが、細いが長く形のいい唇を当ててきた。甘美な接触感が身体中に広がった。岩沢は両手をりかの体に回して、強く引き寄せ口を密着させた。りかの唾液が口に入ってきた。むせびながら、それを呑み込み、舌を入れた。りかも舌を絡ませ返す。交互の唾液のやり取りが、さらに官能を昂らせた。しばらくそうしてから、体を離した、りかは、
 「今日は、もう帰れないでしょ。朝まで、こうしていたい。モーニング・コーヒーを、一緒に飲もうね」
 と囁きかけた。
 流しのやかんの湯は、もう冷めてしまったろう。モーニング・コーヒーを飲むのなら、もう一度、沸かし返さなければならない。その時まで、寝ないで、夜を明かすのだろうか。りかが自分から下着を脱ぎはじめた。豊かな胸とよく括れた腹と張り切れそうな腰とが、岩沢の面前に現れた。
 (まだ、青いと思っていたのに。これでは、完熟だ)
 岩沢の脳裏に、あの日の光景がまた、蘇ってきた。だが、やってみよう、と岩沢は決意した。まだ、青さを残しているような、りかの瑞々しいはち切れそうな肌が、それを助けてくれそうだった。
 
 それから三日後、りかが電話してきた。
 「ねえ、どうしたの。そんなに、滅入ることはないわよ。そんなに気にすることはないわよ。いつかは、治ると思うわよ」
 いきなりそう切りだしたのは、先日の夜のことを慰めているのだ。
 たしかに、岩沢はだめだった。りかは必死になって、岩沢のものを元気にしようと、頑張ったが無駄だった。そのためだけに多くの時間を費やし、結局、欲求不満のまま、朝を迎えたのだった。モーニングコーヒーがほろ苦かった。というより、むしろ味を感じなかった。そして、気まずいままに、駅前に出て、岩沢は一人で、家に帰ってきた。
 このことは予想していたが、現実となると、酷く落ち込んだ気持ちになった。多分、りかとは出来ないだろうと、考えながら、付き合ってきたが、やはり、そうだった。いや、りかと限らず、他の女性でも駄目になるだろう。そう考えるえると、暗澹たる気持ちになった。これでは、絶対、結婚なんかできない。これまでもそうだったように一生独身でいるしかないのか。だから、りかのような女とあきもせずに付き合って来れたのかも知れない。岩沢は自分の人生の一部が欠落してしまう感じがして、恐ろしかった。
 「だから、ねえ、落ち込んでばかりいないで、原因を突き止めなくちゃ。私だって責任を感じちゃうじゃない。絶対、治してあげるからさ。会おうよ」
 りかはそこまで、優しい。どうして、こんなにまで、人のことを気遣うのだ、と思いながら、夜、「野菜屋」で会う約束をした。
 午後八時すぎに、店に行くと、店の前の道路は、人の群れで一杯だった。人垣の向こうから煙が上がっている。岩沢はりかの手を引いて、その煙の方に走って行った。煙は「野菜屋」の玄関から噴き出していた。噴き出す煙の中から、一人、二人を人が運び出されてくる。運び出しているのは、普通の姿の一般の人だった。消防車や救急車はまだ、来ていないらしい。火が出てから、まだ、そう時間が立っていないようだ。
 岩沢は、普通の人たちが、こうして、客の救助をしていることに、感動した。確かに、店の中からは、叫ぶ声が聞こえる。男女の声が入り交じって、「たすけてー」とか「おねがいー」とか、大声を上げていた。岩沢は、上着をりかに預けて、若い男と一緒に、店に飛び込んだ。照明はまだ、点いていたが、煙が充満して、良く見えない。だが、声がする方向に見当を付け突入すると、突き当たりに人が固まって倒れていた。三、四人いるらしい。岩沢は、そのうちの一人を、抱き起こして、一緒に来た若い男とともに、肩に担いだ。男と女かは分からないが、重かった。顔を見ることは出来ないが、ぐったりしているところをみると、気絶しているらしい。
 「あっちだ」
 岩沢は、男に言って、入口に急いだ。外に出ると、路上は先程より混乱していた。消防車が到着し、防火服を着た消防士が活動を始めていた。岩沢らが、助けた人を担いでいるのを見た救急員が、飛んできて、その人を担架に載せた。着ているものを見ると、女性のようだった。
 岩沢は次の人を救助しようと、再び中に入ろうとしたが、消防士に止められた。
 「あとは、われわれに任せてください」
 先程は、懸命に救助していた人たちも、入るのを拒まれて、引き上げていった。岩沢は、遠巻きの野次馬の中にいたりかを探した。りかは、角の消火栓から噴き出す水を手に受けて、顔を洗っている所だった。
 「おい、捜したぞ。なにしてたんだ」
 「私も、助けに入ろうとして、中まで行ったんだけど、煙に吹かれてすぐに飛びだしてきたの」
 たしかに、顔が煤で汚れていた。
 「なんだよ、パンダみたいな顔して」
 「ええ、だって、秀さんのほうがすごいわよ。髪の毛まで真っ白。雪山の日本猿みたい」
 思わず、二人は目を合わせて、大声で笑った。
 「おれの背広はどうした」
 「ああ、そうだ、人に預けていたんだ。あの店に」
 りかは角のコンビニに行って、岩沢の服を取ってきた。
 「俺たちの出番は、もうなさそうだ。いつまでも、ここにいてもしかたがないよ、帰ろうか」
 「それより、この格好じゃ、みっともないわよ」
 「いや、車を拾おう。そして、俺の家で、シャワーを浴びればいい。風呂をわかしてもいいよ」
 岩沢は軽い気持ちで申し出た。
 「ええ、秀さんの家に行ってもいいの」
 りかは素直に嬉しそうに頬を弛め、瞳を輝かせた。
 表通りに出て、タクシーを拾った。
 運転手は二人の汚れた格好を見て、すぐに
 「お客さん、どうしたんですか。喧嘩でもしたんですか。なんなら、交番に行きましょうか」
 と申し出た。
 「いや、火事場で救助の手伝いをしたんだ。慣れないことをして、こんなになってしまった」
 岩沢が、手短に事情を説明した。
 「そうですか。なかなか、出来ることじゃないですよ。われわれなら、逃げることを考えますがね。やっぱり、自分の身のほうが可愛いですから。お嬢さんも、一緒に手伝ったんですか」
 「いえ、別々に・・・。私は知らなかった」
 そう言って、岩沢はりかを見た。
 「だって、わたし、トマト気になったから」
 りかは、理由を言った。
 (そうか、トマトがあったんだ。おれが、飛び込んだのもそのせいなのかもしれない。深層ではおれも、トマトが気になっていたんだな)
 岩沢はそう気が付いて、改めて、トマトはどうなったのか気になった。
 「どうなったんだろう」
 「あっちのほうから火が出ていたみたいだから、きっと、燃えちゃったでしょう」
 りかは冷静に言った。
 「せっかく、順調に育っていたのにもったいなかったね」
 「いいわよ。私のは、どうせ、店からただで預かっていたようなものだから。それに、熟したトマトを大分食べたしね。でも、秀ちゃんは、勿体ないことをしたわ。お金を払わされて、結局、一つも食べなかったでしょう」
 りかの口調は親密さを増していた。異常事態に遭遇して、共通の経験をしたあと、車の後部座席に身を寄せているためかもしれない。りかの言ったことは、それは、そうだった。岩沢のトマトは、青いままに終わったのだ。
 「でも、自分の物を育てる気持ちは味わったからな。あの間は楽しかった。都会ではなかなか、できないことだし」
 「そうね、その辺りが、あの店のアイデアだったんだ。今度は自宅でやってみたらいいじゃない」
 「そうだな。それには、気が付かなかった。家でやればいいんだ」
 「でも、その場所がなければだめだわ」
 「大丈夫」
 そんな会話を交わしている内に、車は夜の道を快調に走り、山手通りから目白通りに登る交差点に来ていた。あとは、真っ直ぐ、左に行けば、元首相の豪邸があった近くに岩沢のマンションがある。
 車を降りて、玄関に向かうと、りかは、
 「凄いな、秀ちゃんは、こんな豪華マンションに住んでるんだ」
 と感嘆した。
 エレベーターで十一階に上がった。ホールをでて、右に進む。一番西寄りの部屋が、岩沢の3LDKの部屋だった。かぎを捻ってドアーを開け、りかを先に部屋に入れた。
 りかは、入ると同時に、遠慮なく、内部を見回したあと、
 「すごいね、こんなに広い部屋に一人で住んでいるの」
 と尋ねてきた。
 「そうだね、ほかに、一緒に住んでくれる人がいないからね。いまのところは、一人だ」
 「ねえ、秀ちゃんは、家族はいないの」
 「田舎に、兄貴夫婦がいる。両親はもう死んでしまった。それだけだ」
 と言って、岩沢は下を向いた。兄嫁の里子はどうしているだろう。あのことを見たあと、岩沢は自分の胸の奥にその記憶を仕舞い込んだから、誰にも知られていない。あのあと、あの時の男と里子がまた、密会したかも知らない。だが、波風もなく、兄の家庭は営まれていたから、何もないのだろう。親が死んでから、里子は家庭の柱になって、なに不自由なく暮らしているはずだ。両親が死んで遺産相続することになったとき、岩沢は、親の死に際の面倒を見ていないのに、里子は、「秀さんにも半分を上げないと」と強く主張して、そうしてくれた。その金を元手にこのマンションを買ったのだった。
 「りかはどうなんだ」
 岩沢は気になっていたことを聞いた。
 「私は天涯孤独の身。私のこの体で生きていくしかないの」
 とりかは、まぜっかえした。それで、会話が途切れた。そうなったら、この部屋に着た本来の目的である、体の汚れを落とすことに集中するしかない。
 「シャワーにするかい、それとも風呂がいい」
 「そうね、もし、勝手を言わせて貰えば、お風呂がいいな。久し振りに家の風呂でゆったりしたいわ。いつも銭湯だから」
 そういえば、りかのアパートには、風呂は付いていなかった。
 「よし、二十分ほどかかるけど、それまで、あっちで、景色でも見ているか。夜景が見えるんだ」
 岩沢は突き当たりのドアーを開けて、リビングに招き入れた。南と西向きに雨戸と窓があり、東京の夜景が広がっていた。ベランダが南と東を取り巻いている。
 「あら、本当に素敵だな。あれが、サンシャインビル、あれが新宿のビルだ」
 りかはひとまわり見回してから、西の方に、目を固定した。
 「あっちの山は、丹沢と、それから、もっとむこうには、富士山が見えるでしょう」
 「ああ、いまは、夜だから、見えないが。東京が快晴だと、朝のうちに、富士山も見える」
 「いいなあ、こんなところに住んでいて。勿体ないよ。たった一人で」
 岩沢はりかを、一人掛けのロッイング・チェアーに導いて座らせた。
 「休みの日には、夕方、ここに座って、西の山を見ていると、夕日が輝きながら、山の陰に沈んでいくのが見える。とても、落ちつくんだ。おれは、会社では、狭い部屋に閉じこもって、青白いディスプレーばかり、見ているから、ここで、見る外の光景が、本当の救いなんだ。土曜も日曜もそこに座って、外を見ている。それで、精神のバランスをやっと、保っている。この部屋がなかったら、おれは、今頃発狂していただろうな」
 「嫌なことを言うわね。そんなことを考えるのは、一人暮らしをしているためだわ。だれか、一緒に暮らす人がいれば、そんなことは、考えないでしょう」
 椅子の後ろから話しかけた岩沢の呟きに、りかは椅子に座って前を向いたまま、静かに答えた。
 「いま、お茶をいれるよ。イギリス製の本場の葉で入れるから、待っていてね」
 岩沢は、キッチンに行って、ポットからヤカンにお湯を入れなおし、少し沸かしてから、ドリップで紅茶を入れた。カップもイギリス製のボーンチャイナだ。ミルクとレモンスライスを別の容器に入れて、皿に乗せ、リビングに引き返した。
 「いい香りだ。本当は、体を綺麗にしてから飲みたかったが、一息入れるのは早いほうがいい」
 サイドテーブルに紅茶セット一式を置いて、自分のカップを手に取り、一息啜ると、喉の奥に爽やかなアールグレーの香りが広がり、すぐに熱い液体が胃の奥に落ちるのを感じた。その瞬間が、重なる毎に、気持ちが落ちつく。
 「ねえ、こうして、おいしいお茶を飲みながら、夜景を眺めるなんて、私の生活では、考えられないことだわ。このまま、ずっとこうしていたい」
 りかは、いつも素直に自分の気持ちを言う。
 風呂場から、ピーピーとアラームが聞こえてきた。湯が満ち、適温になったことを知らせている。
 「風呂の用意が出来たらしい。入っておいで」
 「でも」
 「そうか、濡れた下着は、洗えばいいよ。あとで、僕がやっておく。なに、全部自動的にできる。見られるのがいやだというのなら、別だが。それから、バスローブは、脱衣室に置いておく。買ったままの新品があるから。もっとも男物だけど、いいだろう。下着が乾くまで、羽織って置けばいい。タオルは、脱衣室にあるのが新しいから、使ってくれ。何枚か重ねてあるから、御自由に。あと、風呂の温度は、中のノブで変えられる、温度に目盛りを会わせるだけでいい。そんなとこかな。分からないことがあったら、聞いてくれ」
 岩沢は詳しく説明してりかをバスルームに送った。自分は、りかが立って空いた、ロッキングチェアーに替わって座り、ゆっくりと残りのお茶を飲んだ。りかのカップはすでに空だった。ずっと南に東京タワーの暖色の照明が見えた。頂上で航空標識が点滅している。その規則的な点滅を見ていると、この静かな、時の流れが止まったような夜の空間でにも、狂うことなく時が進んでいくことが分かる。時は休むことなく流れているのだ。
 (おれももうすぐ、三十六だ。一人で生きるのが、長すぎたかもしれない)
 東京タワーのさらに向こうに、小さな点が次々と横に流れていく。羽田空港に離着陸するジェット機の飛跡だ。
 (あの中にも、いろんな人生が乗っているのだろうな)
 そんなことは今まで考えたことはなかった。ただ、美しい夜の光景として、蛍の光と同じようにしか見ていなかったのだ。だが、いまは、違う。生々しい人生の営みが行われている光景として、眼下に光の渦が広がっていた。火事があった「野菜屋」の辺りはどうなっているのかと渋谷の方に目を向けたとき、テレビのニュースの時間だと気が付いた。
 リモコンのスイッチを入れると、ローカルニュースの時間だった。
 ーー 今日午後十時すぎ、渋谷区のレストランで火災が発生し、従業員一人が焼死しましたーー。
 謹厳そうなアナウンサーが原稿を読んでいた。すぐに死んだ男の顔写真が出た。あのバーテンだった。
 ーー 渋谷警察署で火事の原因を調べていますが、この店では奥の倉庫で野菜を栽培しており、暖房用の設備の付近が焼けていることから、何らかの機械の異常か管理ミスで加熱して出火したものとみて、詳しく調査していますーー。
 あの栽培室から出火したらしい。そうとなれば、キープしたトマトの苗木は全滅だろう。岩沢の青いトマトも、りかの赤いトマトも。
 ーー なお、経営者と死んだバーテンの間では、店の経営を巡って、意見の違いがあったという話もあり、放火の疑いも、残されているため、同署は慎重に捜査していく方針ですーー。
 それで、このニュースは終わった。
 (経営路線の違いか。そうか、あのバーテンはエコロジストだったんだ。トマトを慈しんでいたからな。経営者はもっと儲かるやり方をしたかったんだろう)
 岩沢は勝手に想像したが、真相は分からない。そして、
 (ああやって、暗い空間で育ったトマトは果たして幸せなんだろうか。正常な育ちかたではないのではないか)
 と思い至った。だから、それほど、旨くなかったはずだ。所詮は、都会の人工的な空間で、管理されて育ったトマトなのだ。田舎のトマト畑のトマトとは違う。だから、この人工的な空間では、人も本来の本能を押さえ込まれて生きている。
 「トマトは本当は、自然に育ったやつで、熟れかかりが一番旨いんですよ。でもそれは、都会では無理だ」
 と死んだバーテンは言っていた。
 (だから、おれも、できなかったんだ)
 岩沢は自身の不能の原因が、雲を晴らすように、理解できた。
 (もっと、本性に従って生きていけばいい)
 そう思い当たったころ、りかが、姿を見せ、
 「いいお湯でした」
 とタオルで髪の毛を拭きながら、礼を言った。
 「じゃあ、俺が入るよ」
 岩沢は入れ替わりに風呂に入り、体の隅々を隈なく洗った。石鹸で身体中を泡立て、思い切り湯を流すと、気分までさっぱりした。ゆったりと湯船に浸かり、その後のりかとの行為の想像をした。
 (今夜、りかは泊まっていくだろう。下着が乾かなければ帰れないのだから。まさか、下着を付けずに町を歩くほどの覚悟はないだろう。ベッドルームにはキングサイズのベッドがある。設備に不満はないはずだ)
 今夜なら大丈夫だという、自信があった。その前に、岩沢は、女性をこの部屋に連れてきたときにしてみたいことがあった。
 風呂を出た岩沢は、りかが着たのと同じバスローブを着て、リビングに行った。下には何も付けていない。
 「ああ。のんびりした。いいお風呂だった」
 そう言いながら、りかの座っている背もたれの高いロッキングチエアーに近寄り、りかをそっと抱き上げた。
 「なに、そんな、突然・・・」
 りかは驚いて声を上げたが、構わず両手で横に抱き上げたまま、腰を下ろして、椅子に座った。抱かれたままでりかの顔は岩沢の目の前に来た。
 りかは岩沢の首に回した両手を引きつけて、目を瞑った。岩沢はゆっくりと、唇を寄せ、腰に回していた左手をりかの背中に移し、右腕と一緒に、力を込めた。
 
 (りかと一緒に、このベランダで、新しいトマトを育ててみよう)
 と岩沢は心に決めていた。
              (終わり)