「銀のリンゴ」  ニューヨーク五番街三十八番地が、「ティファニー」の所在地だ。角の信号を渡り、狭い入口を降りていくと、分厚いガラスのドアーが待っている。そのガラス扉を押し開けて、階段を四段ほど降りて、中にはいると、広い売り場が広がっている。天井のシャンデリアが、ガラスケースに並んだ金や銀やダイヤの商品を輝かせていた。  この街に住んで二年目の奈良麻美は、週に一回は必ず、この店にやって来て、ショーケースを覗くのが、習慣になっていた。最初は、店内を構わず回っていたのが、ここ一年、向かう売り場は決まっている。一番奥の、銀製の置物や飾り物のコーナーに直行するのだ。麻美はその売り場にいっても、商品を買ったことはない。ただ、飾られた銀の置物などを眺めている。そうして、一時間も、あかずに眺めている。  最近、麻美が気になっているのは、片手で掴めるくらいの大きさの、銀の置物だ。それは、果物の形をしている。麻美はそれをリンゴと思っているが、形から、ナシだと言われても、否定は出来ない。リンゴにもナシにも見えるその丸い果物の形をした銀の置物に魅せられて、麻美はもう、三ヵ月になっていた。  売り場の係員は、そのうちに麻美を覚えて、挨拶をするようになった。麻美も片言の英語で、話を交わすようになった。係員はかなりの年の老人の男だ。白髪まじりの髪の毛をきれいになで上げて、いつもさっぱりとした顔つきをしている。一流ホテルのマネージャーのような風貌だ。もう長い間、この店に勤めてきて、すでに、リタイアした後の年齢になっているような感じだ。  「マドモアゼル(お嬢さん)、よくお見かけしますね」  売り場のなかから、男が如才なく声を掛けたのは、つい、一月前だった。  「はい、この店が好きなんですよ」  麻美も笑顔で言い訳をした。  「お見掛けしたところ、この銀の置物がお好きなようですね」  こういう店の売り場の係員は、客を鋭く観察しているものだ。  「はい、とても、魅せられています」  「それは、お目が高い。これ、この世界にたった一つしかない、貴重な作品です」  (そうか、作品なんだ。商品とはいわないんだ)  麻美は改めて、この店の格式を意識した。  「使っている銀は純銀です。といっても、銀は百パーセント純粋には出来ませんから、まあ九十九パーセントの純銀ですがね。だから、重いですよ」  店員は、ガラスケースから、そのリンゴを取り出さないで、言った。  「扱いにも神経を使います。手で直接、触わられたりすると、必ず、跡が付く。体の脂肪は禁物ですから」  「じゃあ、手袋をして扱うんですか」  「そうですよ。持つときはかならず、手袋をしないといけない。あとは、静かに置いておくのだけです」  「飾っておくのね」  「そうです。できれば、ケースにいれて。ここにあるように」  「そうか、じゃあ、やっぱり、だめかな。私は触れていたいんだから。その銀色の冷たい光をこの手につかんでいたいと思ったのですが」  麻美は、落胆した表情になった。  「でもどうせ、手に届くものではないんだから、惜しくもないか」  諦めた言い方で、その場を離れようとすると、初老の店員は、  「いや、そうでもないですよ。お嬢さんにも、手に入れることはできる。このリンゴもそういう思いを、集めてできた物なのです。よかったら、お話ししましょうか」  麻美は頷いた。  「聞かせてください」  「では、こちらへ、ゆっくりお茶を飲みながら、お話ししましょう。幸い、今日は、まだ、それほどお客さんが来そうもない。ティーブレイクと行きましょうか」  店員は麻美を誘って、裏の部屋に招き入れた。そこは、小さな部屋になっており、お茶の道具と机と四脚の椅子があった。  その椅子の一つを進めた後、老店員は紅茶をいれにいった。  「どうぞ、お客さんと店員の休憩用のお茶は、同じなんです。そういうところが、家の店の良いところで。同じお茶を飲みながら、ご相談に応じたほうが、気心が通じるでしょう」  老店員は、一口啜り、  「では、あの銀のリンゴの生まれ育ちについて、お話をしましょう。ほんとうは、長い長いお話ですが、かいつまんでね」  老店員は語りはじめた。麻美は、カップを手に、注意深く、老人の英語に聞き耳を立てた。  「そもそも、あのリンゴの始まりは、イチゴでした」  と老人は言った。  「こんな小さなイチゴです」  と老人は右手の親指を見せた。美しく爪が整えられている指だった。  ーー 時代は、戦争の前のころですが、西部のある街に、鍛冶屋がありました。馬車馬の蹄鉄や車輪、鐙などを作って売っていた小さな鍛冶屋です。その店にある日、若い女性がやって来て、百ドル札を見せて、「これで、なにか、記念の銀製品を作ってください」と頼みました。鍛冶屋は、五十代の男で、子供が三人いました。長男は二十二歳で、店を手伝っていました。このころ、西部は若い男性が多くて、花嫁不足だったから、妙令齢の女性には、だれもがすぐに注目したのです。鍛冶屋と息子が、見たところ、その女性は東洋人のようでした。濡れた真っ黒の長い髪を白い帽子に包み、その先は三つ網にして、肩の後ろにまで伸びていました。それに、裾の広がったスカートを付けた淡色のワンピースを着た彼女は、清楚そのものでした。鍛冶屋の親父と息子は目を見張り、色々と話をしたそうです。  店のカウンターに席を取って、軽い飲み物を出しました。彼女は、おいしそうにその飲み物を飲みながら、少し、身の上話をしていきました。それによれば、彼女の名前はジャクリーヌ・エイコ・サトウといい、日本人の移民の二世だということでした。この街の東の果樹農園に一家が居て、そこで働いている、とうことでした。彼女は、一家が働いて、余った分を、銀行に預金するのではなく、もっと確実な貴金属に変えておこうと、話し合い、金か銀貨、ダイヤかと検討したのだそうです。その結果、金ではお金と同じで、盗まれやすい。ダイヤは加工が難しい。銀なら好みの物に加工して、記念品として持っていることができる。世界に一つしかないものを作っておこう、ということになり、彼女が買い物に街に来る機会に、貴金属店を探し、店に来た、ということだったのです。  親父と息子は、二つ返事で、彼女のオーダーを受けました。彼女の注文は、持ってきたお金の範囲内で、できる銀の宝飾品を作ってほしい、というものでした。ですが、彼女の持ってきたお金では、小さなものしか出来ないのが分かりました。小指の先ほどのブローチかペンダント位しか出来ないのです。彼女は、「ぜひ、果物の形をしたものが欲しい」と言って、譲りません。できれば、小さくてもいいから、イチゴの形をした作品にしてくれというのです。店の二人は、彼女の真剣さに打たれました。すこし、銀の量は足らないかも知れないので、サービスをすることを覚悟して、立派なイチゴの形の置物を作ろうと決めたのです。何しろ、馬の蹄鉄や金具ばかりを作ってきた親子ですから、銀の宝飾品というような繊細な手作業はしたことがありません。ですが、二人はユダヤ人でした。ユダヤ人は昔から、ダイヤや貴金属の取り引きに係わってきました。仲間に聞けば、どうにかなるだろうと軽く考えていたのです。それに、馬具の細かい飾りを自分たちの手で作っていたので、すこしは、腕に自信があったのでしょう。赤字になるかもしれないが、やってみゆおうと、二人は合意しました。そして、彼女の注文を受けたのです。  彼女はとても喜んで、「これで、わたしも家族に顔向けができる。この店を選んでよかったわ」と言って、帰っていきました。そのときの約束では、鍛冶屋の親子は、出来るだけ急ぐが、なにぶん、慣れていないないので、いつできるかは約束ができない。多分長くても半年もあれば、大丈夫だろう。それまでには、手付けに半額をいただく。完成したら残金を支払っていただく、という契約でした。エイコさんは、それに納得して、出来上がったらたら連絡してもらう住所を書いていきました。親子がそういう条件を出したのは、本当は、彼女の身元を知りかったからです。現金を持っているとはいえ、真面目に働いて得た金なのかどうか、確証はない。それに彼女は若すぎるし、美人だから、酒場とか、娼家で女を武器にした商売をしている者かもしれない。そうなると、流れ者の可能性もあるので、そういう者と加工に手間が掛かり、後渡しとなる継続的な商売をするのは危険だというのが、常識だったからです。  それに、二人は一目で彼女に魅せられた。漆黒の長い髪、小麦色の健康そうな肌、黒い瞳と小さな鼻、何者をも包み込むような明るい笑顔。なにしろ、若い女性がめったにみられない街だったので、そういう光輝くような存在に、目お奪われたのです。だから、絶対にもう一度会いたかった。それで、ほんとうは、本気で急げば一月でも出来るだろうという作業を半年と言って、その時間を稼ごうとしたのでしたーー。   そこまで、一気に話して、老店員は、ちょうど飲み頃になった紅茶を啜った。  「戦争前の話ですね」 麻美が間を伺って、聞いた。  その問い掛けに急いで口に入れたお茶を飲んだ老店員は、  「そうです。その地区に移民してきた日系人が、イチゴの栽培を始めたころです」  と丁寧に答えた。  「ええと、後を話しましょう」  老店員は、居住まいを正して、再び話を始めた。  ーー 鍛冶屋の二人は、ーーああ、そうだ、名前は親父が、ジェームズ・シュミット、息子はジョナサン・シュミットといいますがーーエイコが帰った後、さっそく、鍛冶屋の仕事が終わってから、銀の細工に取りかかることにしました。銀を溶かして、流し込むのが手順ですが、そのためには、鋳型が必要です。鋳型を作りには木型がいる。木型は、粘土で作った原型を模して作ります。小さなものでも、意外と手間が掛かるんですよ。まず、彼らは、その粘土の型作りをはじめた訳ですね。そういう手順は、大体、鉄の鋳造品を作るのと同じです。だから、まったく、やったことがないことではない。ただ、鉄とは溶けかたも膨張率が違うので、計算が狂うことは考えられる。その微妙なところは、銀細工を知っているユダヤ人の仲間に教えてもらいました。  そうして、二人は、昼間は鉄の仕事をして、夕方から夜は、銀製品をつくるという、特別の仕事に打ち込んだのです。料金の半額はもらっていましたが、銀の地金を買うだけで、そのお金はなくなってしましました。いろいろな工具類を揃えると、本格的な細工仕事に取りかかる前に、すでに、足を出してしまった状態でした。でも、二人は、そんなことは気に掛けませんでした。なにしろ、美しく可愛い日本人の娘に、二人はすっかり魅了されていたのです。それに、新し技術を習得する機会でもあります。毎日、やっていることが新鮮で、素晴らしいことに思えたのです。生き甲斐とはどれくらいお金を稼げるかではなく、どれだけ充実し、満足出来たかということだと、二人には分かってきました。  昼間の蹄鉄作りの仕事は、もう、すっかり、身に付いてしまっている型通りのものだったのですが、夜の作業は試行錯誤の連続で、やることが、全て新しい経験と発見でした。そうして、鍛冶屋の親子は、協力して、新しい技術に挑戦したわけです。その成果は、徐々に現れました。まず、適温で銀鉱を溶かすのが難作業でしたが、鉄の溶解炉に工夫をして、綺麗に溶かすようにしました。そのあとは、形取りや加工に進むのですが、そのかなりの部分で、鉄の細工の技術を援用出来ました。エイコが、鍛冶屋に目を付けたのは、間違いではなかったのです。  こうして、注文の品を作る技術が着々と身につくに従って、二人の意識は、注文したエイコの姿に戻っていきました。製作者に取っては、製品が完成に近付けば近付くほど、それを持つ人のイメージが大切になり、大きく浮かんでくるものなのです。三ヶ月程経ったころ、ジョナサンが、ジェームズに言いました。  「エイコがどんな人なのか、僕たちは何も知りませんね。どういう境遇で暮らしているのか、家族はいるのか。どんな仕事をしているのかさえ、よくは知りません。だいたい、この作品がどういう形で使われるのか、どこに飾られるのか、実用品として使われるのか、なにも知らないで、ただ、イチゴの型の置物の製品とだけ注文されてるんです。もうすこし、情報が必要ですね」  ジェームズもこの意見には頷きました。  「そうだね。そういう、肝心なことを知らなければ、そういう型の製品を作っていいのか、分からんものね。環境を知れば、自ずと、形も見えてくるだろう。おまえ、一度、エイコの家に行って、詳しく調べてこないか」  と提案したのでした。  それほど、彼らはこの作品に身も心も打ち込んでいたのですね。彼らの職人魂が、芸術に目覚めたとでも言いましょうか。なにか、損得抜きで、良い物を作ろうとしていたのです。  二人の話は纏まって、早速、翌日、ジェームズが、エイコの住むこの街東部の開拓農家に行ってみることになったのでした。その日、彼はうきうきしていました。突然、決まったことでしたが、彼の中では以前から暖めていた計画でした。彼はどうしても、エイコになるべく早く、もう一度会いたかったのです。彼の心は、夕方から始める新しい作業に完全に奪われており、それは、もとをただせば、エイコへの熱い思いに他なりませんでした。  馬の背中に乗って、丸一日の行程に、その開拓地はありました。もとは、広大な砂漠地帯だったのを、開拓移民が、血と汗と涙で広い農地に変えたのです。農地には、背の低い地を這うような植物が、広がっていました。ジェームズは、長旅を終えて、その農地の一角に湧き出ていた泉のほとりに、馬を止め、テンガロンハットに水を汲んで、飲みながら、休憩しました。その時、畑に入って、植えてある植物を見ると、それは、小さなイチゴでした。野イチゴよりは大きめだが、いま、私達が食べているものや、ショートケーキに乗っているのに比べ、ずっと、小さな小粒の赤いイチゴでした。  ジェームズは、その一つを摘んで口に入れてみました。微かな苦みとともないながら、甘酸っぱい味が口中に広がりました。いままでに食べたことのないような味でした。その味は、後を引きます。誰も見ていないのを幸いに、次から次へと、イチゴを取って、口に入れました。疲れていたのと、なにも食べていないせいか、いくらでも、食べられたのです。  自分の身の丈くらいの半径の畑になっているイチゴを全て食べ尽くすと、おなかが一杯になって、満腹しました。また、水を飲んでから、ジェームズは、木陰を見つけて、木を背中に座り込み、爽やかな風に吹かれて、言い気分になって、休んでいるうちに、いつの間にか、寝てしまったのです。睡魔は、体がゆったりとすると、すぐに襲ってきて、抗しきれなくなりました。昼下がりの木陰は、それほど、心地良かったのです。  その眠りの中で、ジェームズは、夢を見ました。それは、彼が結婚して、小さな子供と一緒に、イチゴ畑を耕している夢でした。子供は男の子で、母親とジェームズの間を走り回りながら、土をいじっていました。大きな籐の籠を腕に通して、腰をかがめながら、イチゴを収穫している女性は、黄色人種の顔をしていますが、着ている物は裾の長いドレスで、背丈も白人と変わりません。ジェームスは、近寄って、話しかけました。  「ことしのイチゴ、よくできた。粒も大きいし、味もいい。豊作だね」  「そうですね。やっと苦労が実ったかしら。ここまで来るのに三年かかりだったんですからね。やっと、満足のいるのものになりましたよ」  白い真珠のような歯に、日の光が反射して輝いていました。その顔を見ると、それは、あのジャクリーヌ・エイコだったのです。ジェームズは、エイコと結婚して、ストロベリー農家になり、一児を設けて、こうして、収穫作業に勤しんでいたのでした。一日中働いて、太陽が西の砂漠の水平線に沈むころ、一家三人は、馬車に収穫物を積んで、家路を辿っていきました。家は農場の遙か彼方東の隅にあるのです。そこまで、一直線に砂利道が伸びています。  二頭の馬が轢く幌馬車の後ろから、沈んでいく太陽が照らして、灰色の道に長い陰を作りました。落ちていく日の光に押されるように、疲れ切った家族三人を乗せた馬車は、ゆっくりと東に急ぎます。御者台の左にジェームズが座り、たずなを握っています。隣りの席では、エイコが子供を抱いて、馬車の動きに揺られながら、目を閉じています。疲れて体は眠りたいのに、激しい馬車の揺れが、眠りに落ちるのを妨げて、ただ、体を揺らしているのです。馬車は確実に進んでいき、いつの間にか、西の空から眺めると、小さな点になっていました。  その先の水平線が途切れる辺りに、小さな集落があります。その日系人の開拓移民ばかりが住む集落には五軒の家がありました。集落に入っていく導入路の一番奥の、一番新しいが、一番小さな家の柵の前で幌馬車は止まりました。男が降りて、柵の列が途切れた一角で、観音開きの門のようになったところのしんばり棒を上げ門を開きました。男は馬車に戻り、  「はーい」  と笞を当てると、馬車はゆっくりと動きはじめ、庭の奥にある家の玄関に進んで行きました。日は既に最後の光の残りを天井に吹き上げているだけで、夜の闇が支配するころになっていました。  女が、玄関のカギを開け、子供と一緒に家の中に入ると、明かりが点いて、部屋のなかが一斉に明るくなりました。といっても、微かな光で、この家がそう明るい照明を使っているわけではないのがよく、分かります。二人を降ろすと、男は再び、御者席にもどり、馬車を裏庭に進めました。そして、納屋の前に止めて、積み荷を下ろしました。背丈の半分くらいの籐の籠が十個。それが、今日の収穫です。男は馬を繋いでから、籠の中のイチゴの選別に掛かりました。そんころは、女もその納屋に来て、作業を手伝いはじめました。選別のために摘んだイチゴを口に入れてみました。素晴らしい取り立ての野性の香りが口一杯に広がりました。そのとき、後ろから、背を叩くものがいます。  「だめよ、いくら旨いからって、それ以上食べちゃあ。売り物なんだから」    はっと、驚いた瞬間、木陰で寝ていたジェームズは、飛び上がるように目を覚ましました。辺りはもう、暗くなっていました。日が暮れるまでに、エイコの家に到着するためには、急がないといけません。起きがけの眠い目を擦りながら、ジェームズは、馬に跨がり、出発しました。  (いい夢を見て、遅れてしまった。だが、あの夢で見た家を探せばいいんだから、あとは、そう難しくないな)  あの夢は現実に違いないと、彼は信じていました。それほど、夢は現実感に溢れていたのです。だから、そのとおりになるだろう、と彼は無邪気に考えたのです、二十代の若者のロマンというべきでしょうか。  暮れなずんだ砂利道を見つけて、馬を進めていくと、遙か彼方にぽつぽつと、集落の光が見えてきました。畑の東の隅に、肩を寄せあう形で、形成されたその集落を、街の人達は、「イエロー・ストロベリー・タウン」という隠語で読んでいました。  日本人を始めとするアジア人が北アメリカ大陸に大量移民した時代で、白人社会には、安い労賃と勤勉さで、職場を奪われる危機感が広がり、「黄禍論」が巻き起こっていました。英語で言うと、「イエロー・ペリル」論で、イエローとは、肌の色からアジア人を指す蔑称なのです。この人種差別論者は、ですが、アメリカの建国の歴史上の重要なポイントを意識的にか無意識でか、触れないで澄まそうとしていました。それは、北米大陸には、白人が植民する前に、先住民族がいたことです。それは、いうまでもなく、インディアンです。ヨーロッパから、やって来た白人たちは、この先住民族との熾烈な戦いを繰り広げながら、西部に進出したのでした。  ですから、西部に住む白人には、インディアンへの恐怖が、体の芯に刷り込まれています。インディアンは勿論、黄色人種です。彼らの容貌、風格は、新しく来た東洋人によく似ています。だから、白人には、その存在を見ただけで、恐ろしさが募るのです。そういう感情を下敷きに、大量の移民が怒濤のように押し寄せる幻想が重なり、過激な排除論に繋がったのでした。  そういう背景の中での、日本人の入植でしたから、彼らは、街の遙か彼方の荒涼とした畑の中で、身を寄せるようにして暮らしていたのでした。  道は一本道ですから、迷うことはありませんでした。月明かりを頼りに、集落に入っていったジェームズは、その光景が先程の夢の情景を、ぴったりと一致しているのに驚きました。夢は現実に近かったのです。その夢の中でと同じように、彼は集落の奥へと進んでいきました。一番奥に、目指すエイコの家があるはずです。夜の闇の中で彼の目に映る情景は、ただ、家の繋がりだけです。その家の棟の高さが、夢で見たよりも大分、低いのが違うようです。それにしっかり建てたと思える作りではないのです。いずれも、倒れそうなしもたやでした。屋根はトタンぶきで、塀はベニヤ板の打ちっぱなしの簡素な作りなのです。しっかりとした柱に木の骨組のアメリカンスタイルの家は、まったくないのでした。  ジェームズは、街の沈んだ様子に、少し、始めての家を訪ねるという興奮した感情を癒されました。彼自身、エイコの家が、もし夢で見たような広壮な作りだったら、おじけ付いて、訪問を躊躇していたかもしれません。ですが、これまでの集落を見たところ、夢の風景とは明らかに違っていました。やはり、夢は夢なのです、現実とは違うのです。そう考えながら、馬は行き止まりまで進みました。この角の家が、エイコの家のはずです。  ジェームズは、夢で見た柵があるのに気が付いて、その観音開きの入口の前に馬を止めて、降りました。門の先に、家に至る導入路が続いているのも夢で見た通りでした。  彼は、門に鍵の掛かっていないのを確かめて、広い門を開けました。そして、馬を引いて、中に入っていきました。  たどり着いた家は、やはり粗末なバラック建ての農家でした。裏には小さな物置があるのが分かりました。夢で見た大きな建物とは大違いです。ここに、エイコは父母と三人で住んでいるのだろうか、とジェームズは、思いました。それは、ちょうど三人から四人暮らしまでしか出来ないような広さと思えたからです。  玄関扉の前に立って、ジェームスはドアーをノックしました。隣に見える窓からは光が漏れているので、家人はいるはずです。  「はいはい、ちょっとお待ちください」  部屋の中から、女性の声がしました。母親のようです。そのとき、遠くで、狼の遠吠えがしました。  ドアーが開いて現れた人は、よく日焼けした赤ら顔の中年の女性でした。背は低く、ジェームズが、握手をしたときには、彼は少し身を屈ませなければなりませんでした。彼は来意を告げました。エイコという若い女性がこの家にいるか、と尋ねると、「私の娘です」と答えました。そのエイコさんが、待ちにきて銀の飾りものを作ってくれるように言い、それが、半分出来たので、さらに、詳しい仕上げの仕方を話し合いたくて、尋ねてきた、と彼が言うと、母親は、その労を労い、  「イチゴジャムを入れた紅茶を飲むか」  と聞きました。それで、彼は歓迎されていると知りました。  「この話は、エイコのアイデアなんです」  と母親は話しかけました。  「財産を、お金で置いては、インフレで目減りしてしまう。貴金属なら大丈夫だ。戦争の度々起きたヨーロッパの人たちは、みな、財産を貴金属で保全している。だから、私達もそうしたほうがいい、と言いだして譲らないので、私達は、あの子に全てを任せて、やってみることにしたんです」  この母親にとっては、あの時、エイコが持参したお金は、掛け買いのない財産なのだと、ジェームズは気を付けさせられました。  お茶を飲んで暫く経っても、家人は他に誰も現れません。彼は母親と話をしながら、部屋を見回して観察しました。応接椅子はありますが、籐で出来た骨組みに、シーツの古いのを縫い合わせて作ったクッションが敷いていてありました。中には綿ではなく藁が入っていたのが、感触で分かりました。部屋の続きには、キッチンとダイニングがありますが、食堂の椅子は木で作った素朴な感じです。淡色のテーブル掛けがかけてある食卓も多分、木目が現れている手作りなのでしょう。分厚い材木が、テールブル掛けの下に見えていました。  キッチンには、流しや焜炉が並んでいましたが、珍しいのは、大きなお釜を掛けた、土を固めた竈があったことです。こんな設備は彼はこれまで見たことがありませんでした。ただ、火が起こされ、上に乗った釜から蒸気が噴き出していたのと、後で、夕食を御馳走になったとき、米の飯をその釜のなかから、母親が取り出したのを見て、それが、調理用具だと分かったのです。  母親は暫く、街の様子などを、型通りに聞いたあと、エイコを迎えに奥に行きました。そんな話は、街に行ってきたエイコからも聞いていたはずですが、初体面の人とは、話の接ぎ穂としては最適な話題なのでした。彼女の英語は、まだ、完璧ではありませでしたが、会話には十分でした。文法的には間違いもありましたが、意は通じます。それに、真剣に彼の目を見据えて、話題を探っている姿に、彼は感銘を受けたのです。会話が楽しかったのは、母親の声が素晴らしかった、ということも、あります。明晰で明るい声が彼女の特長でした。小鳥のさえずりのような、メロディックな声が、彼の耳に心地よく聞こえました。それは、エイコに初めて会った半年前に、彼女に感銘した要因でもあるのです。母と娘は良く似ていました。瓜二つと行っていいくらい、姿も顔つきも、仕種も声も似ていたのでした。  そういう印象的な人と会った感銘を咀嚼しているとき、エイコがドアの向こうから姿を現しました。  「あら、先日は、無理なお願いをしまして、どうですか、できていますか」  最初に彼女が聞いてきたのは、まず、そのことでした。帽子を取った黒い髪は、肩の下まで流れて、艶やかなウエーブをつくっていまた。顔も前に会ったときより、日焼けして、健康な感じを強めていました。だが、肌の白さは、同じ黄色人種でもインディアンとは違う感じです。赤みを増した黄色い肌に、大作りの円らな黒い瞳がよく似合っていました。その上にはくっきりとした眉があり、広い額を顔の下半分とくっきりと仕分けしていました。  「いえ、作業は半分くらい終わりました。それで、最終的なデザインをどうするか、仕上げの仕方などについて、打合せをしたいのでお伺いしたのです」  ジェームズは、表向きの訪問理由を言ったが、そんなことは、どうでもよかったのだ。エイコと再会できただけで、彼の訪問の目的はほぼ、完全に果たされたのだ。  夕食を共にして、時間は、矢のように過ぎていった。  「もう遅いから、帰るのは無理よ。今夜は、家に泊まっていってくださいね」  食後、外に出た牧場の片隅で、ジェームスの側に身を寄せながら、エイコは言った。二人で食後の夜の散歩に行くのを、勧めたのはあの母親だった。食後の片付けをしないといけないので、と追い出したような格好で、二人っきりにしたのだった。  「今夜はお父さんがいないからちょうどいい。本当は、お客さんを泊める余裕なんかないけど、折角のお客さんを野宿させることはできないしね」  それは、経済的な余裕を指しているのか、たんなる、空間を言っているのか、図りかねたが、ジェームズには何方でもよかった。とにかく、彼女と一緒の家で一晩を過ごすことができる.それだけで、上々だった。彼は、父親が用事で出掛けている幸運に感謝した。彼の街ではなく、さらに北にあるこの地方最大の町に農機具を買いに出掛けたのだという。しかも、帰ってくるのは、二日後だと言うのだ。ジェームズは、なんらかの理由を考えて、その二日後まで居すわろうと考えていた。  エイコの温もりを感じて、右腕を彼女の肩に回すと、彼女は頭を寄せてきた。  遠くで、狼が吠えた。月の明るい夜だった。  その夜、ジェームズは、狭い客間に寝た。客間といっても、昼間はイチゴの選別に使われている仕事部屋だ。その部屋を片付けて、藁が入ったベッドを起き、その上に洗いたてのシーツを敷いただけの簡素な寝室だった。だが、清潔で新しいこのベッドで、彼は殆ど寝なかった。いつも寝ている油臭く、汚いベッドとは、余りに違っていたから、興奮が先立って、落ちつかなかったのだ。その間、彼は、ずっと、エイコのことを考えていた。つい、直前まで一緒に、月明かりの下で過ごしたときのエイコの愛くるしい仕種や話振りが鮮明に脳裏に蘇ってくる。その彼女は、つい壁を隔てた向こう側に寝ているはずだ。どんな姿で寝息を掻いているのだろう。それとも、彼女も興奮して寝られないでいるだろうか。  翌朝、朝食のときに、ジェームズは、イチゴ畑の農作業の手伝いを申し出た。昨日見ていて、とても楽しそうだったし、実は、木の下で寝込んだときに、そういう夢を見たのだ、と正直に打ち明けたのです。母親たちはすぐに賛成し、一緒に畑の作業をすることになりました。こうして、もう一日、エイコと一緒にいたい、という彼の狙いは果たされ、二人の感情はますます、近付いたのでした。  こうして、エイコの家の訪問を終えたジェームズは、半年後の再会を約束して家路に尽きました。そして、打ち合わせてきた通りのデザインの銀の置物の制作に打ち込み、その年の暮れには完成して、店のウインドーに飾られました。  「製品が出来たら、知らせてください。残りのお金が出来次第、取りに伺います」  というエイコの言葉を信じて、受け取りに来るのを待ったのでした。  だが、エイコはなかなか、現れません。年が開けて、春になっても、銀のイチゴの注文主は来ないのです。そろそろ、届けに行こうか、とシュルツ親子が話し合っていた初夏の晴れた日に、通りの向こうから、駆け足でやって来る白いドレス姿のエイコを見つけたのは、ジェームズでした。  「はーい、遅くなりましたけど、やって来ました」  店に飛び込んできたエイコは、開口一番、明るく言いました。  「仕事が忙しくて、時間が取れなかったんです」  そう謝りながら、エイコは、意外な話をしたのです。  ー この一年、私達は、夜も寝ないで仕事に励みました。その結果、素晴らしい収穫が出来て、お金もたまりました。昨年はイチゴは、豊作で高値にはならなかったけど、量が取れたので、大きな収入になったのです。それで、私達は次に、オレンジの栽培に踏み切ることにしたのです。幸い、なりころのオレンジ畑が手に入りました。わたしたちは、イチゴ畑を、買いにきた白人の運送業者に売って、その資金でオレンジ畑を手に入れたのです。運送業者はトラックのターミナルを作りたいのだそうです。ですから、今は私達は、転居し、オレンジ畑で、オレンジを育てています。今年の冬には、出荷が出来ると思います。だから、イチゴの置物は、要らなくなりました。もしよかったら、この店に置いておいてください。残金は払います。そして、今度は、オレンジの飾り物を作ってほしいのです。イチゴの銀を溶かしてもいいでしょう。それとも、新しいのがいいですか。とにかく、イチゴよりも大きなオレンジの置物をお願いしますー。  そう語ってから、エイコは出されたオレンジ・エードを一息で飲んだ。  「でも、折角、作ったイチゴを溶かしてしまうのは勿体ないでしょう」  ジャームズは、エイコに話しかけた。  「そうですね。それは、貴方たちにお任せしますわ。お金は何方にしても、お払いします。ここに残金と前金を用意してきました」  エイコは持ってきた分厚い札束をカウンターに置いた。  「いや、やはり、イチゴの銀を使いましょう。それなら、そんなにお金は掛からない。残金はいいですよ。前金だけで」  「ほんとうに、あり難いわ。でもこうしてお願いすると、私達も励みになりますわ。今度は少し大きな置物ができるでしょうから」  「そうね。僕たちも工夫の甲斐があります。銀細工の技術が習得できる。イチゴでは、細かい所に苦労しましたが、オレンジでは、大きな地金をどう加工していくか、工夫が必要でしょうね」  ジェームズはショウケースに飾ってあったイチゴの形の置物を、取り出してきて、エイコの目の前に置いた。  「本当に、良く出来たのに勿体ないわね。溶かしてしまうなんて。でも、仕方がないわ。新しくいい物を作るためだから」  エイコはイチゴを手に取って、いとおしそうに眺めていた。  「いいですよ。もし、そういうことでなかったら、今日、これをあなたに渡してしまったら、もうあなたにも会えなくなる。僕にはまた会える楽しみを残してくれるんですから」  エイコはそう言われて、はにかみ笑いを浮かべた。  「では、お願いします。デザインは、前と同じでお任せします」  そう言って、立ち上がりかけたとき、ジェームズは、手を握って、  「もし、よかったら、今晩は家に泊まっていてくださいよ。先日はお世話になったきりだから」  と提案した。  「いいえ、今日は他にも用事があるんです。すみませんが、出来ません。それに、戦争が始まりそうですからね。それでなくても、疑いの目で見られている私達日系人が、泊まっていったなんて話が、町に広がれば、お宅にもよくありませんよ」  「そうですか。では、無理はいいません。でも、ちょっと、付き合ってください。あなたに、上げたいものがある」  ジェームズは、そう言って、カウンターから、走り出て、エイコの手を掴み、街中に駆けだした。  ジェームズが、向かったのは、街の真ん中にある女性物の洋服屋だった。間口が狭い個人商店だったが、東部でファッションを学んできたという若い女主人の腕は確実で、その斬新なデザインが街の多くの若い女性たちの心を捕らえていた。  入口のドアーの脇に、入口と同じ幅のショーウインドウがつくってあって、その中に淡黄色のワンピースを着たマネキンが、飾ってあった。  「この人に、似合った服をオーダーしたいんですが」  ジェームズが、顔を赤らめながら、店の奥に居た女主人に、話しかけた。  「あら、シュルツさん。そうですか」  女主人は、ジェームとエイコを交互に見比べながら、自ら納得するように、頷いた。  「このお嬢さんね。どうかしらね」  エイコの全身を舐めるように見回しながら、女主人は頭を傾げていた。  「どうかしらって、この人に会ったドレスをお願いしたいんです」  ジェームズが、念を押した。  「よろしいですわ。ですが、東洋人の女の方は、われわれとは体型が違いますから。特別の紙型を作らないと行けないし、手間が掛かるんですよ」  女主人は、オーダーを断りたいようだった。  「いいでよ。お金は掛かっても。僕は、彼女に素敵なドレスをプレゼントしたいんです」  「お高くなりますよ」  女主人は、ジェームズが、予め請け負ったことを重ねて聞いていた。  「それに、私は東部では白人の女性の物しか作ったことがないんです。だから、自信もない。生活習慣が違うので、きちんとした物ができるかどうか」  女主人は、婉曲に断っているのだ。言葉遣いは丁寧だが、その真意は、やりたくないのだ、とここにきて、ジェームズも悟った。  「ああそうですか。あなたは客の注文を受けたくないと言うんですね。分かりました。もう、二度と頼みに来ませんよ」  初めて入った女物の洋服屋だから、居心地がいいわけは、なかった。ジェームズは、呆気に取られていたエイコの手を引いて、外に出た。  「悪かったわ。嫌な思いをさせて」  エイコは、頭を下げて、謝った。  「なにを、言ってるんだい。悪いのは、僕の方だよ。よく、調べもせずに、あんな店に連れていいって。すまない。でも、僕の気持ちは分かってください。本当に、貴方に素敵なドレスを着せたかったんだから」  ジェームは、エイコの手を固く握った。その手を力を入れて握り返したエイコは、  「貴方の気持ちだけで、本当に、うれしい。それだけで、十分ですわ。私達がこの国で生きて行くのは、このように難しいんです。だから、街に出てこないで、畑に閉じこもってしまう。小さなコミュニティーで、肩を寄せ会って生きていくしかないのですよ」  エイコは眼から熱い物がこぼれそうにあったのを堪えながら、それだけ言った。  「あの人は、貴方の姿を見て、注文を断ったけではないんですよ。彼女は僕をじっと見ていた。金髪で色白のあの人は、きっとドイツ系のアーリア人です。だから、ユダヤ人を、直観的に判断できる。僕のことを気に入らなかったんですよ。あなたが理由ではない」  ジェームズは、両の拳を握りしめて、肩を落とし、下を向いて、唇と噛みしめた。  「実を言うと、貴方たち日系人より、私達の方がずっと、差別は根深いんです。なまじ、姿、格好が彼らに似ているから、いけない。われわれはあなたたちのように、仲間で団結する民族ではない。だから、一人一人が、社会に入り込んで、戦いつづけるしかないんだが、これは、苦しいことです。強い意思と持続する精神力がなければ、出来ません。われわれは、そん戦いをもう、千年もやってきた。なのに、偏見はなくならない。悔しい思いだけなんです」  エイコはこの青年が、そうした民族的な葛藤の真っ最中に居ることを、この時初めて理解した。それは、自分の今の境遇と重なり、心が大きく、動かされた。本当は、ジェームズをこの胸に抱いて、二人きりで大声で泣きたかったが、服のオーダーを断わられたくらいで、そんなことをしたくなかった。泣くための力は、もっと大きなことに取っておきたかった。実際、農場ではこんなふうにして、泣きそうにしているような余裕はない、涙を出す暇があったら、体を動かして働かねばならない。  (そう、働いて、働いて、彼らを見返してやるんだ。それなら、われわれにも出来る) エイコはそう確信した。ジェームズの民族も、そう考えて、富を求めて努力した歴史を持っている。  (人は裏切るが、労働とお金は裏切らないよ)  母は、そういいながら、働いている。エイコもそうしようと、二世に生まれたこの国での生きかたを、このとき、得心したのだった。  そのことがあって、エイコは農場に帰っていき、ジェームズは、新しく注文されたオレンジを型取った銀の置物のデザインに勤しんだ。前のイチゴの置物には、本当は満足していなかった。イチゴの粒が少ない上に、落ち着きが悪かった。だから、鋳つぶすのに迷いはなかった。溶かした銀に新たな銀を加えて、やや大き目のオレンジを作るのが、ジェームズの計画だった。  日常の鉄製品作りも忙しく、月日は確実に過ぎていきました。そして、迎えた年の音瀬に、ジェームズは、あのドレスをどうしても、作ってエイコに贈りたくなったのです。クリスマスが近付いていました。  ジェームズは、不本意ながら、友人に注文を依頼し、その友人は妹のドレスを作るという口実を使って、エイコのサイズをいい、女主人は、疑いもなく、注文を受けたのでした。ドレスが出来上がったのは、十二月の二十日でした、ジェームズは、これを持って、イブの日に、エイコを訪ねることにしました。それは、彼だけが密かに考えた、彼だけのクリスマスの楽しみでした。  その夜、昼過ぎに家を出たジェームズは、こんどは、自家用車を運転して、エイコの家を目指しました。エイコの家は、イチゴ畑から北に移転していましたが、こんどの方が、ハイウエーに近く、車で行ったほうが便利なのです。  新型フォードでのドライブは、快適でした。最近出来たばかりのハイウエーを真っ直ぐに北上すると、最初のインターチェンジで降りて、昔からある幹線道路に入り、さらに数分進んだ所が、エイコ一家の新しい農場でした。道の側に掛けてある看板を探しながら、ゆっくりと走っていくと、「サトウ・オレンジ・ファーム」と書かれた看板が見えました。ジェームズは、そこでハンドルを切って、農場の中に向かいました。門から敷地内はずっとオレンジの木ばかりで、それぞれはたわわな実を付けています。緑の木々の間から溢れる鮮やかなオレンジ色が、運転に疲れた目を覚まさせます。  行き止まりに新しい家はありました。玄関脇には、小さなクリスマスツリーがしつらえられてあります。柊の小木に無数に取り付けられた小粒の電球が夜になると、美しく輝くに違いありません。  ジェームスが、その電飾を腰をかがめて眺めていると、人の気配を察したのか、ドアーが開いて、中から老女が姿を見せました。エイコの母です。始めてではないので、ジェームズは、軽く挨拶すると、  「ああ、いつも町ではエイコがお世話になっています。どうぞ、お入りなさい」  と家の中に招きました。  エイコは、キッチンで料理を作っているところで、忙しいのに、ジェームズが応接室に入るとさっそく姿を現して、  「よくいらっしゃいました。もしかすると、そんな予感もしたんですよ」  と持ち前の笑顔で笑いました。ジェームズは、それだけで、遙々訪ねてきた甲斐があると思いました。もちろん、ドレスのことは話していないので、エイコは知りません。車の後部座席に大切に乗せて、運んできたのです。もし、夜のイブのパーティーへの参加を許されるのなら、ジェームズはその席で、エイコにプレゼントし、驚かせる積もりでした。  もちろん、イブの日に遙々訪ねてきた男友達を、すぐ帰れとは言うわけがないという、目算もありました。そして、たしかに、エイコの両親は、すぐに、  「せっかくだから、一緒にパーティーをしてから、泊まっていらっしゃい」  と歓待したのです。  その夜は、ジェームズには、忘れられない夜になりました。苺畑の中にあった家とは違って、すっかりアメリカ風に仕立てられた二階建ての新しい家の居心地は素晴らしく、応接間のソファーも、藁の感触はしませんでした。それだけ、この一家は、働き続けて、豊かになっていたのです。エイコ一家が、アメリカンドリームの小さな果実を手にしはじめていた時でした。  先日は会うことができなかった父親は、日に焼けた精悍な顔をした小柄な親しみやすい人でした。握手した手が、無骨で分厚いのが、この人が打ち込んでいる仕事を物語っていました。敗れた藁帽子を被って、厳しい太陽が照りつける夏を過ごしてきたに違いありません。英語がそう自由でないこの父親に、ジェームズは、言葉では成しえない感情的な共感が湧いてくるのを、心地よく感じながら、パーティーの輪に加わっていたのです。  あとの家族は、やはり、先日は不在だった弟のハルオと小さな妹のサチコ。五人家族が、所定の食卓に付いて、ジェームズはエイコの席に座りました。エイコが、  「賄いがあるので、座っていられない」  と言って、勧めたのです。  食事はお祈りもなく始まりましたが、木の箸を指に乗せて、小さな黙祷をしたので、それが、キリスト教徒の食前の感謝の祈りと同じ儀式だと、わかりました。  食卓に乗っていたのは、ジェームズがあまり、見たことのない料理でした。赤い色をしたライスのような食べ物を味わってみて、意外と固いのに驚きまいた。もっと、驚いたのは、白い米を固めたケーキのような食べ物です。熱を加えると柔らかくなるのですが、冷めると固くなる不思議な食べ物でした。それを火で炙って、黒い液体に付けて、黒い草の紙で包んで食べるのです。まるで、家畜の飼料のようですが、食べてみると意外に淡白で、素直な食感なのです。  もちろん、クリスマス用の七面鳥の丸焼きやケーキもありました。それらは、ジェームスには、見慣れた食物でしたから、違和感なく味わいました。エイコの料理の腕が、たいしたものだということだけが、実感でした。  「日本の料理はお口に会わないでしょうね」  エイコが料理の感想を尋ねたとき、ジェームズは、  「いえ、僕は好きですよ。それに、七面鳥も素晴らしい」  と答えたのです。  「でも、あまりお食べにならないのね」  エイコが、詰るように言うと、ジェームズは、  「もう胸が一杯なんです」  と素直に言うしかありませんでした。それは、本当のことでした。もうここ数年のあいだ、まともな、イブの食事をした覚えがないのです。なにしろ、男五人の殺風景な家族とあって、クリスマスもイブもありません。親父はいつものように、飲んだくれて寝てしまい、男の子四人で、することもなく、過ごすのが、恒例なのでした。  (町にジングルベルの音が流れても、俺たちには関係ない)  と諦めきって迎える毎年のイブだったのです。  この一夜は、ジェームズに家庭の暖かさを教えてくれました。自分も早く結婚して、こういう素晴らしい家庭を持ちたいという気持ちが、湧き上げてきて、忘れられません。その相手は、もちろんエイコです。その夜、エイコが空けてくれた寝室に寝たジェームズは、明日の帰り際に、エイコと両親にプロポーズしようと、決心していましたーー。    「いいお話ですね」  麻美はすっかり、老店員の話に、引き込まれていた。先程、啜った紅茶の残りがすっかり、冷めてしまったようだ。  「おかわりをお持ちしましょう。私も、少し、口を休めたい」  「何時もこういう話をなさるのですか」  麻美が、不躾に聞くと、  「いや、気が向いた時だけですよ。それに、忙しい土、日曜日はそんな暇がありません。今日は日がよかった。私も気持ちがいいんです。だれかと、お話をしたい気分でしてね。それから、あなたが毎日のように、お出でになるのを見ていましたから、今日は良い機会だと。お疲れですか」  「いえ、わたしも時間はたっぷりあります。急ぐ用事はありません。よろしかったら、お話を最後まま伺いたいわ」  「そうですか。そう言ってくださればありがたい。あと、少々ですから、辛抱してくださいな」  老店員はいまにも、続きを話したいようだったが、麻美に新しいお茶が出されるのを、ゆっくり、待つ間に、トイレも済ませてきた。  「終わりまで聞いて頂いたかたは、まだ、あまりいません。こういう話を好かない人たちが、残念ながら、この店の主な顧客なんです。ですから、日本人であるあなたに関係したこの話を出来るのは、私の幸運ですよ」  どう見ても、白人のこの老人にそう言われたとき、初めて、麻美は、老人がユダヤ人なのだと気がついた。深く涼んだ鳶色の目と先端で曲がった鼻が、その特徴を示している。それに、薄化粧をしているが、深く顔面に刻まれた皺が、その苦悩の人生を現しているようだ。  「それでは、続きをお話ししましょうか」  麻美に新しい紅茶が運ばれたのを確かめてから、老人はそう言った。  ーー エイコが空けてくれたベッドで、心地よい眠りをむさぼったジェームズが、起きたのは、いつもより遅い、午前九時頃でした。客として泊まりながら、ちょっと、寝過ごしたと思ったジェームズが、着替えをおしているときに、部屋のドアーがノックされ、  「もう、お目覚めですか」 と女声がしました。耳に慣れているエイコの声です。ズボンを穿きながら、あわてて、ドアーの錠をはずすと、向こうからドアーとを開けたエイコが、チャーミングな笑顔で、 「ここに歯ブラシと歯磨き粉、それに、タオルとお持ちしました。朝食の用意は、できています。といっても、私たち日系人には、今日もいつもと同じ日ですので、変わったことはしておりませんが」 と爽やかに言って、籐の籠に入れてきた洗面用具を渡しました。清潔に整えられた品々が、この家の「仕舞」の良さを示しているようで、嬉しくなりました。 すっかり、朝の用意を調えて、食堂に行くと、家族は、もう食事を終えてしまったようです。食卓にあったのは、昨夜とは、打って変わって、簡素な食事でした。生卵と牛乳以外には、ジェームズには、見覚えのない食品ばかりでした。昨夜見た黒い紙のようなものも置いてあり、豆が腐ったような食品が、異臭を放っていました。 「ああ、今、食事が終わったばかりですので。後かたずけが間に合わなくて。あなたようのは、別に用意してありますから」 そう言ってもらうのは、有り難かった。あの黒い紙や腐った豆は、いくら、何でも食べられると辞任しているジェームズでも、すぐには、口に入れられない。 最初は、程良く冷ましたオニオンスープでした。熱くもなく、冷たくもなく、程良い温度の飲み物が、胃袋に入ると、気分がぐっと落ち着きました。体温ほどの液体は、一日の初めに体に入れる物としては、最適なのでしょう。次は、カリカリのベーコンとスクランブル・エッグにトースト、それとどこから仕入れたのか、ユダヤの堅い食パンが三個。いずれも、いつも、ジェームズが、家で食べる朝食とは大違いの絶品でした。昨夜もあんなに食べたのに、いくらでも入ったのです。あっという間に出された食事を平らげたのを見て、エイコは、 「あら、全部、たべてくださったの。嬉しいわ」 と喜び、最後に香り豊かなコーヒーをいれてくれました。 「こんな美味しい朝食は、初めてです。エイコさんは、本当に料理がうまい」 「私たちは、滅多にレストランなんかには行けませんもの。自分で作った物を使って、工夫するしかないんですから。自然に腕が上がってしまうわね」 「それが一番いい。ところで、皆さんは」  家人が見えないのに気が付いたジェームズが聞くと、エイコは、 「それぞれに、今日の仕事に出かけていきました。キリスト教徒には、特別な日かも知れませんが、私たちは、入信していませんし、年末は、やり残した仕事が山積していますからね」 と説明した後、はにかみながら、 「いただいたドレス、とてもよく似合いましたわ。あのお店で、作ってくれたんですか」 とジェームズの目をまっすぐに見据えて、聞きました。 「ええ。まあそうです。ちょっとばかり、知恵を使いましたが」 「そうでしょうね。この前の様子では、とても、無理だと思いましたから」 「彼女にとっては、喉から手が出る仕事でしょうからね。誰だって仕事はないより、ある方がいい。それなのに、偏見が先立つんです。体面を重んじるのが、大切なんです。だから、僕は、知人の白人女性に頼んで、オーダーしたんです。あなたのサイズに近い女声だったけど、あなた自身ではないから、あうかどうか、心配していたんです。体にあっていたのなら、本当に良かった」 「あんなにすてきな贈り物をしていただいて、なんて言っていいか。お返しを考えていたんですが、なにも思い浮かばなくて。でも、今朝の食事は、腕によりをかけてというか、精一杯心を込めて作ったつもりなんですよ」 テーブルを挟んで、まっすぐに対面したエイコの瞳が、ひときわ強く輝いて、ジェームズの顔を見つめました。 「いえいえ、私の方こそ、注文いただいた品物でなく、全く違った物を抱えて、厚かましくも、イブに押し掛けてしまって、迷惑掛けましたね」  ジェームズが、恐縮すると、エイコは、 「いえ、お願いした物は、じっくりと作ってください。そう急いているわけではありませんから。時間を掛けて良い物を完成してくだされば、嬉しいんです」 と言います。 熱いコーヒーも冷めかけてきました。ゆっくりと話していたのですが、この家には、もうこの二人しかいないようです。長居をして、大切な人とに迷惑と掛けては行かない、と考えて、ジェームズは、暇を述べました。エイコは、なぜか、強くは、引き留めませんでした。年の瀬ともなれば、人々は、それぞれに、忙しい用事を抱えています。他人の時間を、横取りするのは、非礼に当たると、皆、考えているのです。 帰り支度を整えて、玄関に出たジェームズをエイコは、ポーチまで出て見送りました。ジェームズの気持ちを受け入れて、もらったばかりのドレスに着替えてきたエイコは、新型フォードに乗り込んだジェームズが、最後の手を振ろうとして、後ろを振り返ると、右手を挙げて、手を振ってましたが、その笑顔が、たちまちに崩れて、二つの眼から一筋ずつの涙が、流れ出したのが、見えました。その二筋の流れを拭おうともせず、笑顔が泣き顔に変わるのを必死で食い止めてこらえていたエイコでしたが、車が巻き上げる土煙が、遠い農場の柵を越えたのを確かめると、家の中に駆け込んで、贈られたばかりのドレスの袖を濡らしたといいます。 店に帰ったジェームズは、暮れの繁忙期を、忙しさに押されるように、過ごしました。新年は三日ほど、店を閉めましたが、兄弟たちが着飾って、遊びに出かけたのを後目に、毎日、自室にこもって過ごしていました。自室といっても三人兄弟の共用でしたが、二人がいないので、久しぶりに、のんびり専用できたのです。頭に浮かんでくるのは、エイコの姿ばかりでした。あの軽やかだが意志のはっきりしている気質を素直に示しているような澄んだ声や話し方。てきぱきと家事をこなしている身ごしらえ、温かな気持ちがこもった会話のやりとり。すべてが夢のようでした。 新年を迎えて最初に見た夢は、マリアが幼子を抱きかかえたキリスト生誕の場面でしたが、マリアの顔はよく日焼けしたエイコの褐色の肌色でした。それより驚いたのは、抱かれている幼子が、自分の顔に酷似していたことでした。心地よい快感浸って、癒しの夢を見ていたのに、幼子の顔が洗われた瞬間、気分は最悪になりました。選りによって、自分がキリストになっているとは、とその夢の悪意に峻然としたのです。ですが、全体的な気分は、満ち足りていました。その悪寒にもまして、エイコのマリアの微笑みが、すべての不安と悪意を包み込んでしまっているのが、よく分かったからです。 もぅ一つ、頭を占めていたのは、エイコに頼まれた「オレンジの置物」をどうやって、作ろうかという問題でした。差し迫っている仕事上の問題は、むしろ、こちらだったといえるでしょう。イチゴを作って、銀の扱い方は、少しは、身に付きましたが、オレンジでは、大きさも違い、使う銀の段違いに違います。それに、デザインも問題です。見た目にすぐに、オレンジを分かる物なら、簡単にできそうですが、置物として作るとなると、話は違ってくるのです。置物、飾り物としての座り心地が、課題です。表面のつぶつぶを、どうやって象るか。大きな物だけに、銀が均等に流れてくれなくては、行けません。 それらの数々の難問は、一介の蹄鉄作りの鍛冶屋には手に余る課題だらけでした。あるいは、東部の宝飾職人なら、以上のような問題は、初歩的な問題だったかも知れませんが、鉄の扱いにはなれていても、銀の扱いには慣れていなかった西部の蹄鉄屋には、学ぶことばかりが多い注文品だったのです。 新しい年が始まって、ジェームズは、本格的に「銀のオレンジ」作りに取りかかりました。店も忙しくなり、猫の手も借りたいほどでしたが、兄弟たちは、ジェームズがそちらに専念するのを、温かい心で許してくれました。今では、現役を引退して、裏の仕事に回っている父親も、文句は言いませんでした。 あたまの中には、もう溢れるほどのデッサンがありました。それを、絞り込み、選択して、最後は、三点ほどが残るようになっていました。その中から、さらに一つの絞り込まなければなりません。ですが、このとき、ジェームズの心に、 (いや、一つにしなくてもいいだろう。二点ほど作ったって、いいではないか。そして、そのうちから、エイコに選んでもらう) それが、もっとも公平だと、ジェームズは思いました。なぜなら、最後に残ったデザインは、一つがいかにも無骨なただ丸いだけの重そうな置物のデザインと、一方は、蔕や枝まで付いた洗練されていながら繊細な芸術的なデザインだったからです。エイコガどちらを好むかは、大体の予想は付きましたが、自信はなかったのです。 熱い坩堝の前で、灼熱に耐えながらの根気のいる作業を続けて、納得のいく作品を仕上げるための集中した働きが、何日も必要になりました。血と汗と涙を集めなければ、良い作品など生まれるはずがないことを、ジェームズは、よく知っていました。その意味で、彼は、鍛冶屋というより、彫金芸術家に近かったと言えるでしょう。冬の寒さが、少しは、高温の苦痛を和らげてくれたものの、なかなか、納得の行く成果は得られないため、作っては、溶かし直し、作っては壊すという当てのない単純な作業を続けていくうち、それでも、一歩ずつ、進歩していくのが分かります。それは、体で感じる実感でした。体で覚えるのが、職人の伝習ですが、ジェームズは、自らの体に、失敗を覚え込ませ、反省を繰り返しながら、前に進むという、基本を忘れないで、実践していました。それは、父の教えでもあります。実直な蹄鉄職人として、生涯を通した酒飲みの親父は、そうしながら、素人から第一歩を踏み出して、着実に階段を上り、子沢山の男兄弟を、早世した妻に代わって男手一つで育て上げ、それでも仕事には納得しないままに、引退したのでした。 その父の血はこの体に流れ、教えは体にたたき込まれています。最後は、一睡もせずに働きずめに働いて、どうにか、頷ける作品が出来上がったのは、もう春の気配が感じられ始めた頃でした。二点のデザインの作品を三個ずつ、会わせて六作品を仕上げて、見事に磨き上げると、その夜は、倒れ込むようにベッドに入って、昼過ぎまで、熟睡しました。銀は、扱いやすそうで、意外と難しい金属でした。鋳込んだ後も冷え具合によって、微妙に完成度が変わってくるのです。それに仕上げが肝心でした。磨き上げに十分な注意を払わなければならないのが分かったのは、作業が終盤に入ってからでしたが、何事も、最後の関門が一番、気を使わなければならないと、分かったのは、収穫でした。 このように、日系人の若い女性の無理な注文は、西部で馬の靴ばかり作り続けてきた蹄鉄屋に貴重な数々の体験を強いて、その財産にしたのでした。 翌日、遅く起きてきた息子を、引退後、厨房を受け持つようになっていた父は、暖かいポテト料理といれたてのコーヒーで迎えてくれました。今までに、もう飽きるほど食べさせられ、「馬の食事」とあざけっていたジャガイモを煮込んだ亡母のも、この日のジェームズには、最上のご馳走に思えました。それに入れ立ての濃いコーヒーが、彼の眠りから覚めない神経を、一気に、覚醒させ、父のある言葉を思いださせたのです。 「親父、おれ行って来るよ」 その言葉だけで、老いた父は、すべてを理解しました。ゆっくり、曲がった腰をさらに曲げて、 「そうさ。それがいい」 と頷きました。 (出来上がった品物は一刻も早く、お客に届けること) というのが、この父が口を酸っぱくして、行っていた教えでした。お客は、一日も早い、出来上がりを待っている。それでなくても、仕事は遅れがちになることが多いのです。それに馬は、人のように待つことができない。靴を履けない人が、歩くのを難渋するように、蹄鉄のない馬は使い物にならないのです。地味だが、大切な役目を、この町の職人の誰もが担っていると言うことを、この父の言葉は、言っているのです。 ジェームズは、買ったばかりの店の車に、作品を載せて、エイコのオレンジ農園に向かって、出発しました。もう日は、西の空に向かって、落ち始めた春の午後でしたが、昼間に時間が、一日ずつ延びているこの季節には、夕方の訪れが遅くなってきているだけに、まだまだ、沢山やれることがあるように感じるものです。 助手席には、六個の作品を段ボール箱に入れて、大切に置きました。とても後部座席や、トランクに放り込んで奥気持ちにはなれません。右手を、ずっと、その箱の上に置いて、急ブレーキや急ハンドルを使わないように、気を付けながらも、アクセルは目いっぱいに踏み込んで、前の年に甘美な思い出を与えたくれた「サトウ・オレンジ・ファーム」目指して、失踪して行きました。 一度行ったことのある道だけに、全く迷うことなく、ジェームズは、距離を稼いで行きました。東へひたすらまっすぐに進んでいけば、あの農場に至るのです。ジェームズが、途中でスイッチを入れたカーラジオのニュースが、太平洋の対岸で始まった不穏な事態を伝えていました。中国大陸で日本の軍隊が勝手な行動を起こしている、とアナウンサーは絶叫していました。だが、今のジェームズには、それほど関心のある話ではありません。彼にとってもっとも緊急の用事は、あのエイコに自分の精魂込めて作った作品を届けることでしかないのです。 道に迷わず、農場の入り口にたどり着きました。日は西に落ちかけています。黄昏に向かうその短い時間が、ジェームズを異様な感覚に導きました。確かにそれは間違いなく前に来た農場なのですが、門を入ってから、屋敷への導入路を進むうちに、何かが違うという感覚に捕らえられたのです。その感じは、車を降りて、玄関ポーチに向かったとき、決定的になりました。明らかに違います。ジェームズは、そのときは全く知らぬ見知らぬ家の前に立っているのだという事態を実感していました。 その直感は、ジェームズが玄関ドアーの^前で、家の中に向けて、来意を告げ、その声に応じて、ドアーが開いたとき現実になりました。ドアーを開けて、姿を見せたのは、ジェームズが心から期待していたエイコではなく、背の低いラテン系の顔つきをした老女だったのです。 「こちらは佐藤さんのお宅でないんですか」 家の場所には自信があったジェームズですが、型どおりの挨拶をすると、老女は困惑した顔つきをいしながら、 「そうですが、もう、引っ越しましたよ」 と答えたのです。その言い方は、ややぶっきらぼうでしたが、完璧な英語でした。この国に移住してきて、もうかなりの時が過ぎていることを伺わせます。 「引っ越したんですか。それは驚いた。どちらの方に」 ジェームズが重ねて聞くと、老女は、 「ああ、あの人たちは、オレンジ作りが当たって大儲けしたんです。それで、さらに事業を広げようと、北の方に行きました。なんでも、リンゴ栽培を始めるんだそうですよ。あの人たちが、移った後に私たちが入ったわけですよ。でもね、あの黄色い肌の働き者たちは、抜け目がありませんよ。この家だって、売っていった訳ではないんです。借りているんですよ。それにオレンジ農場も彼らは手放さないんです。私たちは、農場に住んではいますが、収穫のいくらかは、差し出さなければならない。彼らは地主で、私たちは、小作人という関係でしてね」 老女は、一気に、自分の立場と人間関係を説明して、再び、困惑した表情に戻りました。それほど、人が悪くはなさそうです。むしろ、人好きのする性格のようです。それを感じたジェームズは、 「どちらに移ったのか、教えていただきませんか」 と頼んでみました。老女は、 「ああ、いいですよ。ちょっと待っていてください」 と言って、中に戻っていきました。ドアーが開け放したままになっていたので、空気が、部屋の中から戸外に流れ出しました。外気との温度差が広がったためです。空気の臭いが違っていました。イブの夜から翌日に掛けて、ジェームズが感じた爽やかな柑橘系の香りがなくなり、よどんだ芥子っぽい臭いになっていたのは、この家の住人の変化を物語っていたのです。 「はい、ここですよ」 老女は、住所を書いたメモを手渡してくれました。乱れのない綺麗な英文でした。老女は、見かけほどには、教養がない人ではないらしいのです。ジェームズは、暗くなった光の中で、その文字を読みました。その場所には、覚えがありました。 「ずっと、北へ、山の麓に行ったところです。人があまり住んでいない場所ですよ。深い森のなかの、野生の生物の天国ですが、あの人たちは、そこに広壮な屋敷を建てて、移転したのです。私は行ったことがありませんがね。家賃と小作料は、使用人が取りにくるだけですからね」 この老女には、そのことがいつでも気がかりのようでした。だが、ジェームズには、その場所を探して、行くことの方が、重要だったのです。覚えがあるというのは、幼い頃入っていたボーイスカウトのキャンプを、その場所の奥にある、山麓の渓谷の河原で張ったことがあったのです。それは、ジェームズには、少ない子供の頃の楽しい思い出の一つです。ほかの楽しみを許さなかった父が、なぜか、ボーイスカウトだけはやらせてくれて、ある夏の休みに、キャンプに出かけることを許してくれたのでした。そのため、その場所で過ごした二泊三日は、今でも思い出すほどにたのしい貴重な記憶として、脳に刻まれています。 日が傾いて、もういまにも光が落ちそうでしたが、ジェームズの心は決まっていました。 (あの場所なら、行ってみよう。親父も、頼まれた品物が出来たら、一刻も早く届けるのが、職人の務めだ、と言っていたし) 老女に丁重なお礼を言って、ジェームズは、再び、車に乗り込みました。その場所は、ここからは、北に約百キロ行った山脈の麓にあるはずです。確かに、人が住んでいる所は少ないでしょうが、人家がないわけでなはありません。ただ、一気に北上して、小さな町に行きつけは、そこを右折して、またひたすら東に向かう。それだけで、その場所にはたどり着けるはずです。気がかりは、日が落ちてきたことですが、あと二時間もあればいけるだろう、と計算して、ジェームズは、出発しました。 ただ、北へ目指して行けばいいのです。幹線道路から、ハイウエーに戻って、車はただ北を目指していきました。そう通行量があるわけではないので、運転は気楽です。カーラジをは、夜の歌番組に変わり、フランク・シナトラという名の若い歌手が、年に似合わぬ、しわがれた声で、ブルースを歌っています。夏の息吹が聞こえ始めたこの季節には、何となく、しっくりしています。 対向車のヘッドライトだけが、高速で行きすぎていくのを見ながら、約二時間走って、小さな町に着きました。高速道路を降りて、さらに北に進むと、光の固まりが見え始め、やがて、徐々に、大きくなって、民家の輪郭を表しました。道の両側には、商店街が続いていましたが、その半分くらいは、すでに、店を閉めていました。もう店じまいの時間なのです。人の姿もあまり見えません。ジェームズが時計を見ると、すでに午後八時を回っていました。 車は、大きな交差点に差し掛かりました。そこを右に曲がれば、エイコの移転先の山麓に通じた道になります。ジェームズは、考えました。 (こんな時間に、訪問するのは、非常識かも知れない。この町で、モーテルでも探して、一泊してから、明日訪ねた方がよいのではないか) 交差点の手前でブレーキを踏んで停車し、しばらく思案に耽っていた、ジェームズでしたが、すぐに、結論は出ました。 (出来上がった品物は、一刻も早く届けないといけない) それが、職人の性でもあるのです。 ジェームズは、再び、車をスタートさせると、躊躇なく、ハンドルを右に切りました。町を抜けると、走っている車は、なくなりました。ただ、一台、」ジェームズの新型フォードだけが、漆黒の闇を突き破っていきます。周りに光はありません。ヘッドライトの二条の光だけが、頼りです。道は、また、真っ直ぐでした。あの麓の町からは、ただ、一筋の登り道です。カーラジオが再び、ニュースを伝え始めました。先ほどの続報のようです。 「中国大陸では、日本軍が・・・」 エイコの祖国の軍隊が、うごめき始めていているようですが、それが、なにを意味するのかを、考える必要はありません。なにしろ、広大な太平洋を隔てた、遙か遠くの話なのです。もし、このニュースが、心の引っかかったとすれば、それは、エイコという日系女性を絡めてだけの話です。 (エイコの祖国の軍隊が、なにかしている) ちいう程度の関心でした。 道は真っ直ぐなので、心地よいエンジンを振動を感じながら、ハンドルに手を当てていればいいので、余裕があります。ジェムズは、窓を開けて、空を見ました。新月です。光が、わずかに、漏れてはいるもの、そのあまりにかすかな光量では、闇夜と思っていたのも、仕方がないことです。ただ、光がないぶん、しんとした気分で、空気が冷え込んでいるような気がします。高揚している気分が、冷やされて、落ち着いてくるような気がします。長い道のりを、そうして、気分でドライブできるのは、珍しいことです。そういう気分になれたのは、ジェームズには、幸運なことと思われました。 周囲が鬱蒼とした森の感じになってきて、時折、木々が触れあう音が聞こえてきます。風はないのに、木が揺れるのは、野生の動物の動きのためでしょうか。たまに、木々かr物が落ちる音もします。それが、あまりに大きく、家がつぶれるような音なので、はっとすることもありました。 森を抜けていくと、小さな光が行く手に見えてきました。明らかに、人の生活が発する光なのは、その色が暖色系ということから、分かります。車が進むにつれて、光の束は、大きくなって拡散し、いくつかに分かれて、家の輪郭を示し始めました。 道は行き止まりに行き着きました。車を止めて、柵に囲まれている敷地の端に立ててある看板を見ると、 「サトウ・アップル・ファーム」 という英語の文字が見えました。 その時を確認したジェームズは、ゆっくりと車を発射させ、開かれていた広い両開きの門をくぐって、敷地の中に乗り入れました。遠くに広壮なヴィクトリア風の邸宅が見えていましたが、そこまでの行くには、さらに、長い導入路を進んでいき必要があるようです。車道の両側には、樫の木が植えてあり、並木になっているようです。ヘッドライトが照らす先を追っていくと、並木裏には歩道があって、右手の歩道の先には、水面があるようです。ですが、わずかな光を頼りにしているだけなので、その広さまでは分かりません。ただ、水面に光が反射してくるので、そこが池か湖らしいと分かったのです。翌日、ジェームズは、その広大な水見に水鳥が浮かんでいる光景を、エイコと一緒に散歩に出かけて目にすることになりますが、このときは、この屋敷がそれほどまでに広いことは、まだ、知らなかったのです。 屋敷の入り口に入って、砂利敷きのロータリーを曲がり、玄関の階段の真ん前に車を止めたジェームズは、磯井で、車を降りて、階段を飛んで上がり、玄関のドアーの前に立って、ノックをしました。 薄暗かった内部が、一段と明るくなり、分厚いドアーが開いて、中から、若い東洋人の娘が姿を見せました。エイコが、出てくるのではないかという期待は、それほど、ありませんでした。前の家ならそういうこともあったでしょうが、これほどの広壮な邸宅では、あり得ないと言うことぐらい、ジェームズにも分かっていました。 ジェームズが来意を告げると、娘は、 「少し、お待ちください」 と言って引き返し、しばらくして、戻って来て、 「どうぞ、お入りください」 と内部に招き入れました。 入ったその場所は玄関ホールで下。まばゆいばかりのシャンデリアが、天井から、暗がりから出てきたばかりのジェームズの全身を照らしだしました。一日中、車に揺られてすっかり、疲れた全身や衣服が、ぼろ布のように見えました。 「こちらへどうそ」 娘に招き入れられた脇の部屋で、ジェームズは、堅い革の応接椅子に座って、始めて、落ち付きを取り戻しました。椅子の堅さが、怖う直していた筋肉には、適度な快感だったのです。その部屋は完璧に西洋風の作りで、アーリーヴィクトリア調の家具がしつらえられていました。サイドテーブルには、来客用のシガレットとラーターが置いてあります。たばこを趣味のないジェームズでしたが、なぜか、無性に吸いたくなって、一本手に取り、火を付けました。深く吸い込むと、気持ちがすーっと落ちていく気がしました。今まで、酒場で友達が吸うタバコを、そんなに旨いのか、かねがね思っていたのでしたが、確かに旨いのだということを、始めて、実感したのでした。 ジェームズが、タバコを一本吸い終えるころに、ホール側とは反対側のドアーが開いて、待ちわびていた、懐かしいエイコが姿を見せました。赤銅色に日焼けした顔つきや包み込むような笑顔に変わりはありませんが、話しぶりが、少し、優雅になったようです。言葉使いに粗さがなくなり、あくまでも優雅に、まろやかに流れるような英語が、聞いていて、心地よくなるように聞こえます。 「こちらに越されたとは、知らなかったので、驚きました」 「なにぶん、突然だったので、まだ、十分に挨拶もしてないんですよ。前より、ずっと山奥になったので、町へ出るのもおっくうで、なかなか、郵便も出せません」 それが、体の言い訳なのだ、分かっている。車という手段もあるのだし、郵便車は来ているのだろうから。 「でも、こんな山奥をわざわざ探して、訪ねていただいて、本当に嬉しいわ。大変だだったでしょう」 「いえ、なんてことはありません。それより、こんなに遅くなってしまったのをお詫びしなければいけない」 「いえ、いいんですよ。じっくり時間を掛けて、とお願いしたのは、こちらの方ですから」 久しぶりに再会したのに、会話は堅苦しさを抜けなかった。出された紅茶のカップを挟んで、向かい合っていた二人は、ただ、瞳を見つめ合ったまま、計算できない時間をやり過ごしていた。時間の流れがとまったような静寂が、二人を包み込んでいました。厚みのないボーン・チャイナの紅茶カップから立ち上る湯気が消えた頃、ジェームズは、椅子の側に置いてある、持ってきた「銀のオレンジ」の作品六点を取り出して、エイコに見せました。そのころには、やっと 、うち解けて雰囲気が二人の間に、生まれ始め、エイコは、向かい側の席を立ち、ジェームズの座っていた長椅子の横に腰掛けていたのです。  二人は、もう長い間一緒に暮らしている男女のように、隣り会わせに腰を下ろして、机の上に置いた置物を眺めていました。これはジェームズには意外な体験でした。なにも臆することなく、自然な感じで,女性と一つの部屋に一緒にいられるとは、想像もできなかったのです。何か身構えたり、肩肘張ったりしていないと、男ではないように思われる暮らしでは、選られなかった安らぎを感じて、mジェームズは、その森の中の邸宅の応接間に座っていました。 「六つも作っていただくなんて、申し訳ないわ。本当に、簡単なもので良かったのに」 エイコは、そう言いながらも、選ぶ楽しみを、作品と一緒に持ってきてくれたジェームズの思いやりに、素直な感謝の気持ちを伝えました。  「いえ、私にも自信がなかったから、依頼した方に選んでもらうのが、一番、楽なんですよ」  並んだ作品を一つ一つ手にとって、眺めた行ったエイコでしたが、その口振りとは、違って視線に熱意が感じられないのを、ジェームズは、敏感に感じていました。手に持って眺めてはいるものの、自分の物を選ぼうという意欲が感じられないのです。  一通り、手に取ってから、エイコは、  「皆。良くできていて、選ぶのが難しいわ。全部欲しいくらい。でも、もう少し、考えさせてくださいね。今夜は、泊まっていってくださるでしょう」  そのことに、異存があるわけはありません。 ジェームズは、二階のゲストルームに案内され、部屋に備え付けのバスルームで、一日のたびの疲れを癒した後、階下のダイニングルームで西洋式の夕食でもてなされました。老父母はもう寝室に入っていたということで、挨拶はできませんでしたが、先ほど玄関に出てきた若い女性のほかにも使用人らしい女性が三人もいて、ジェーズの食事の賄いをしてくれました。もちろん、エイコは、テーブルに座って、一緒に付き合ったのです。メイド以外は、二人きりの夕食でした。それなのに話したことはそう多くなかったことに。ジェームズは、部屋に帰ってから、気が付きました。ジェームズは、新しい家と農園のことを聞きませんでした、エイコも変化した生活のことには触れません。ただ、時折、見つめ合って、出てきた料理を黙々と食べただけでした。それだけで、十分、満足したことに、ジェームズは、また、新鮮な喜びを感じました。そういう幸福感を抱えて、真新しいシーツが敷かれた熱いベッドの中で、すぐに、眠りに落ちたのです。 翌朝の目覚めは快適でした。ベッドルームの南側は、ポーチに出られる窓になっていて、朝の光が差し込み始めたころ、目覚めたジェームズが、扉を開いて見ると、遠くから鳥の囀りが聞こえてきました。激しく木を叩く音もしました。キツツキが朝の一仕事をしていたのです。ポーチからは、この家の庭が見渡せました。庭と言っても、遙か彼方に鬱そうとした森を抱えた広大な敷地でした。昨夜、車で来るときにかすかにヘッドライトが映し出していた水面は、森の縁にまで広がる湖のような池だと分かりました。中程には、樹木が茂った中の島もあり、水鳥が、うかんで、水中から餌をついばんでいます。ガンやカモの一種でしょうか、小鳥を引きつれた母鳥が、先頭になって、列を作って泳いでいました。遙か彼方に整然と植林された一帯が見えました。そこが、エイコのファミリーが新たに乗り出したリンゴ栽培の農園らしいことは、ジェームズにも想像ができました。東方に聳える高山の裾に向かって、見渡す限りの林は、見事に整備された果樹園に違いありません。 ひとしきり、朝の陽光のなかで、家の状態を探っていたジェームズが、概観が掴めたのを確かめて、見繕いを始めた頃、ベッドサイドの電話機のベルが鳴りました。エイコの声がします。  「そろそろ。お目覚めじゃないかと思いました。朝食の用意ができていますので、降りてきてください」  単純な朝の挨拶だが、朝一番にこういう美声を聞くのは、心が躍る。鳥の囀りに優るとも劣らない、軽やかな音調だ。  ジェームズには、昨夜、寝に付く前に心に決めていたことがあった。  (今度こそ、はっきりと気持ちを言うんだ。今度こそ。品物を渡し、残金をもらったら、もう、会えなくなってしまうだろう。祖そ前に、しなくてはならないんだ)  何回も、心に浮かんでは、消えていった決意でした。  いつもの日本式の軽い朝食が出ました。今回は、特にジェームズ用に用意した物はないようです。ジェームズは、はじめて、黒い紙を黒い液体につけて、炊き立てのご飯に乗せて食べました。エイコがそうするのだと、手取り足取りで教えてくれたのです。それに、甘辛い日本式のスープとキュウリのピクルスと油で揚げた野菜の惣菜でした。朝食には十分の量です。満腹した後は、お決まりコーヒーかと思ったのが、薄い緑色のお茶でした。  「どうでした。日本風の食事は。私たちも、昔は朝から肉類を食べていたのですが、最近は軽い日本食ばかり、いただいているんですよ。いまは、厳しい肉体労働から解放されましたから」  エイコの一家は、この国で、豊かな階層への道を登り始めていた。家計が豊かになるとともに、人は肉体労働から解放される。ジェームズの一家が、その坩堝から抜け出せずにいるのとは、対照的だ。わずかな期間でも人の生活には、大きな差が出てくる。成功したものとそうでないものとの違いは、大きい。  「それに、年をとると、昔の慣れた食事が恋しくなるのでしょう」  老親たちの意向が反映しているということをエイコは、言いたいようでした。  食事が終わった後、エイコがジェームズを庭の散歩に誘いました。ジェームズには願ってもない誘いです。いよいよ、二人きりになって、真剣な告白をする絶好の機会が巡ってくるのです。だが、エイコにも何か話したいことがあるのに違いありません。それでなければ、誘いの言葉は掛けないでしょうから。ジェームズはそれが何なのか、想像もできませんでしたが、自分がすべきことだけが、頭を占めていて、相手の話を思ってみるような余裕はありませんでした。だからこそ、驚きも大きかったのです。  池に降りて行くスロープは緑一面の芝生になっていて、その先に白塗りのベンチが置いてありました。大人三人がゆったりと座れるほどの長椅子です。両側に手すりが付いていて、座る所を両側から囲んでいます。  長い裾を持つ明色のドレスを着たエイコは、その椅子にかしこまるように座り、  「昨晩、ずっと、考えて、やっと決心が付きましたの」  と話し始めました。  「僕もです。ずっと、考えていたのが、正しいのだと、心が決まりました」  エイコは、がジェームズのその言葉に、目を見張りながら、  「そうですの。あなたも。いろいろ考えましたが。やはり、こうするのがいいと思うんです」  「こうするというと。ああ、そうですね。僕もこうしたほうがいいと思っていました」 話は、かみ合ってたいるようでした。  「私、あなたのことをずっと考えていました」  いきなり嬉しい話だ。  「僕もそうでした」  「それで、気持ちが固まりました。昨日作品を見てから気持ちが決まったのです」  「ええ、僕もあなたに再会して、決心しました」  話は、順調に行っているようでした。  「思い切って、言いますわ」  「僕も、思い切って」  「では、あなたから」  「いえ、先に言ってください」  「じゃあ、一緒に言いましょうか」  子供の会話のような繰り返しがあってから、エイコが先に言うことになりました。  「あの、オレンジは素敵に出来ましたが、もう、オレンジは終わったのです。だから、今度は、銀のリンゴをお願いしたいんです」 意外な言葉でした。ジェームズは、自分の言うことを忘れて、  「何ですって、あれでは、まだ、終わりじゃないんですか」  「本当にすまないと思います。何回も無理なお願いをして。でも。あなたに置物作りをお願いしてから、家運が良くなって、ここまで来れました。だから、後、一回だけ。これが最後ですから無理なお願いを聞いてください」  ジェームズは、言葉を言えなくなっていました。本当は、男として、一世一代の告白をしなければいけないのに、言葉を失っていたのです。だが、よく考えてみれば、エイコの提案は、次の作品を頼んでいるんです。ということは、エイコに会うのは、これが最後ではなくなるといういうことです。それに銀製品作りの腕も上がってきている。銀のリンゴはもっといい物になるかもlしれない。  「もちろん、これまでの代金は、お支払いしますわ。それに、今度のお願いの料金を乗せて。あなたには、無理なお願いばかりですから、お好きなだけ差し上げるつもりです」 金銭的な心配にまで、エイコは細かい心配りを見せるのです。そうなれば、承諾する以外に道はありません。  「分かりました。じゃあ、また、オレンジの銀を溶かして、最高のリンゴを作ってみます。そして、その出来上がった時に」  ジェームズが、また言葉に詰まると、  「ええ、あなたの決意をお聞きしたいわ」 「でも」  「でも、そう、でも私には、もう分かっているんです。それは私の心の中にわき上がっているこのどうしようもない感情と同じだということを」  「それなら、あなたも」  「ええ、ずっと、あなたと会える日を待ち望んでいましたし、これからもそうでしょう」  「それなら、一緒に暮らした方がいいではないですか」  「そうですね。あなたにお願いした仕事をあなたが仕上げてくれたら。きっと、ふた親も喜んでくれるでしょう」  気持ちは通じ合っていたのです。ジェームズは、エイコに身を寄せて、肩を抱き寄せ、両腕で抱擁しました。エイコは、目をつむってジェームズに顔を向けました。エイコの細い唇にジェームズはそっと自らの唇を押し当て、しばらく、じっとしていました。  池で水鳥が、身震いして、飛び上がりました。向こうの森の中から、キーンとかん高い獣の鳴き声がしました。シカが異性を呼ぶ、愛の音色だということです。 ジェームズが,エイコの邸宅を出たのは、午後遅くなってからでした。新しい依頼の確認とオレンジのお着物の工賃の受領とアフターヌーンティーと、することは沢山、ありました。新しい注文は、以前と同様に、これといった希望があったわけではありません。ただ、 「同じ形でいいから、置物のほかに、アクセサリーを作っていただけないかしら。お守りにしたいのです」 とエイコはいいました。詳しく聞くと、キーホルダーに付けるような小物とネックレスの先に付けるペンダントを欲しいというのです。すなわち、大中小の三個を、同じデザインで、という注文でした。リンゴの形なら、それは簡単に作れるでしょう。難しいオレンジを、六個も作って、自信は付いています。ジェームズは、密かに、試作品も含めれば、十個くらいは作らないと行けない、とか考えていました。エイコに渡す三個と、試作品三個とそれに自分用に三個。残る一個は、予備のためです。 話は付いて、家路に付いたのは、もう夕方でした。今度は、来た時とは逆に、ひたすら 南を目指します。西に行ってあの町に出て、左折し、ハイウエーを一直線に南下して、また西に向かえばいいのです。 走り始めて、森を抜けるころ、スイッチを入れたカーラジオから、聞きなれたいアナウンサー声が聞こえました。また、大陸の悪化した情勢や南太平洋で始まった日本軍の大演習のニュースを甲高い声で伝えていました。根の前に落ちて行く太陽の最後の輝きを受けてきらきらときらめいている海の遙かなたでは、きな臭い物事が、蠢いているようでした。 ジェームズは、チューニングを変えました。音楽のほうが、気持ちの良いドライブには、似合います。いまは、一度崩れた高揚した気分が持ち直して、丁度程よい、均衡した気持ちで、憧れの人の元から、家に帰る途中なのです。あの思っていた一言は、言えずにしまったが、それでも、いいのです。新しい注文を得たことによって、再び会う機会が、残っているのです。最後の機会は、また、繰り延べられて、その瞬間を待っているだけです。それに期限もない。じっくりと、磨いた技を、注ぎ込んで、今度こそ、最高の作品を作ることができるでしょう。かすかに、自信も湧いてきました。 店に帰ったのは、夜遅くでしたが、疲れは感じませんでした。もう、頭の中は、どうやってリンゴをデザインしようかと、いうことで一杯です。いろいろは、アイデアを頭に浮かべながら、自然に深い眠りに落ちていきました。そして、夢を見たのです。それは、悪夢でしたーー。 ここまで、話して、老店員は、一息いれた。鷲鼻にハンカチを持っていって、一息に鼻をかんだ。そして、カップに残っていた紅茶の冷めた最後の一滴を啜るように飲み干すと、 「いかがですか」 と麻美に問い掛けた。 「お話にすっかり、引き込まれてしまいましたわ。本とに、お上手だから、他人事のようには思えません。はやく、先を伺いたいわ」 麻美のその言葉は真実だった。老店員がリンゴの飾り物に触れたときは、思わず、ハンドバッグに両手を持っていって、強く手前に引き寄せたりした。すぐにでも中にある小箱の感触を確かめみたいほどだった。 「もう話の大半は終わりましたよ。あと、もう少しで終わりですから。最後まで、聞いていただけますかね」 人懐っこい笑顔で、麻美の顔を見詰めながら、 「さあ、残りをお話しましょう」 と身構えた。 麻美は、これまでの話の中身を反芻しながら、老店員が話し始めるのを待っていた。 ーー 期限がないとはいえ、ジェームズの心は、焦りでいっぱいでした。なにより、心配だったのは、モデルになるべき、リンゴをエイコが持たせてくれなかったことでした。季節外れとは言え、保存ようの現物を見れば、イメージも膨らむのに、農園のリンゴが、ないのです。手に入れるには、リンゴが出回る秋口まで待つしかありません。ジェームズは、待つことにしました。実り豊かな年であれば、町にもエイコの農園で採れた産物が出回って来るでしょう。それを手に入れてもいいし、場合によっては、再度、農園を訪ねてもいいのです。 ジェームズは、作品作りの予定を大幅に、後ろに先延ばししました。楽しみは、取っておいたほうがいい。美味しいを、最後まで取っておく子供の心境でした。そうして、春が終わり、夏が過ぎて、果物の実りの季節がやってきました。夏の間は、家の仕事に精を出して、蹄鉄作りに打ち込んでいたジェームズは、一日も「銀のリンゴ」作りのことが、頭から離れたことはありませんでした。デザインも何枚も溜まりました。そして、徐々に、イメージが固まってきたころ、秋風が吹き始めたのです。 市場に行ってみると、「SATOU APPLE」と書かれたダンボールが山積みになっているのがわかりました。その荷物が、リンゴ置き場の大半を占めていることもありました。実りは豊かだったようです。それに、品質も良いということが、市場の係員の話から、よく分かりました。生食用として、味が良いし、形も大きく、人気があるという話でした。 ジェームズは、果物屋から形の良いのを買ってきて、一晩飽かずに眺めていました。これまでに食べてきたリンゴに比べ、粒が大きいのにまず、驚きました。この国には、これまでになかった品種のようです。一年目で、このような新品種を大量に生産できるのは、何か栽培技術の秘密があるのに違いありません。ですが、ジェームズがしなけければならないのは、リンゴ栽培ではなく、「銀のリンゴ」の置物作りなのです。 じっくり観察をして、ジェームズが書き溜めたデッサンに比べ、現物はやや大きいだけで形そのものには、大差がないのに自信が出ました。本来、リンゴにはリンゴの形があって、それが、他の果物との違いなのですから、それは、当然と言えば当然です。 これなら、エイコに会いに行く必要はなさそうです。本当は、理由を付けて、すぐにでも会いに行きたいのですが、そうすると、会えた時の感動が減るような気がします。それより、がんばって作品を仕上げてから、会ったほうが、喜びは大きいような気がしました。それに、好きなように作っていい、と相手は言っているのです。任せられた上は、工夫を重ねて、満足の行く作品を仕上げるのが、職人魂と言うものでしょう。 九月になってから、ジェームズは、リンゴ作りに集中し始めました。兄弟や親父は、この時も温かく見守っていてくれました。持ち帰ったオレンジの置物を溶かしてから、作っておいた型に流し込む作業が始まったのは、九月も末になっていました。木型作りから始めたにしては、順調な進み具合だった、といえるでしょう。作品は三種類。置物と飾り物が二種類。頼まれたのは、三個ですが、ジェームズは、自分の元に取り置くために、さらに三個ずつと、中型のアクセサリーだけはさらに一個多く、合わせて十個を仕上げるつもりでした。自分が持つ三個のレプリカに加え、さらに四個を追加したのは、仕上がり具合が満足行く物だけをエイコに届けたかったからです。すなわち、歩留まりを考えて、より多くを鋳込んだというわけです。 では、なぜ中型のアクセアサリーだけ一個多くしたのでしょうか。それは、初めて身に付ける小物を作ったということもありますが、漠然と、さらにそれを身に付けるべき、さらにもう一人の人物を、考えていたからかもしれません。それは、最愛の人との間に埋まれてくるだろう、分身かもしれないし、あるいは、ジェームズが、これから遭遇するかもしれない、もう一人の愛する異性かも知れない。もしエイコへの告白が、不調に終わった場合、新たに彼の心を占めるだろう人にのために、その一つを作ろうという気持ちがあったのかもしれません。ですが、突き詰めて言えば、それは、漠然とした不安のためでした。時代の風が、人々に勇気と決意を求め始めていたのですが、それは、不安と憂慮の裏返しだったのです。 ジェームズが熱意を込めて製作に打ち込んだ「銀のリンゴ」は、秋風が吹くころに鋳上がりました。季節の風と同様に世間の風も急速に冷たくなってきていました。太平洋での不穏な空気が、国民の気持ちに重くのしかかり、西海岸では、日本人排斥運動が動きを早めていきました。政府は、国内の日系人の動きを警戒し、隠密で動静を探っているようでした。国全体が、戦争へと傾き始めていたのです。ジェームズもその動きに無関心ではなかたのです。兄たちは、 「もし、戦争が始まったら、兵役に志願する」 と話し合っていました。ジェームズにはそれは、他人の話で、自分には関係ない、という気持ちでいました。ただ、エイコの母国と戦いが始まることだけは気がかりで、出来上がった作品を一日も早く届けたいという気持ちで一杯でした。ですが、まだ、仕上げがすんでいません。磨き上げてから、完全な仕上がり具合を見なければいけません。十個を仕上げるには、まだ、一月以上かかるに違いないのです。 ジェームズが、作品を納得行くものに仕上げたのは、その年も暮れのころでした。正確に言うと、十二月の二十四日でした。そして、 翌日、クリスマスのプレゼントの意味も込めて、エイコの農場に向かうつもりにしていたのです。 その日の朝、ジェームズが、車の用意をしていると、ラジオの臨時ニュースが流れました。 「ハワイの米軍艦を日本軍の飛行機が急襲した」 とアナウンサーは、絶叫していました。こうなったら、急がないと行けません。ジェームズは、車を急発進させ、北に向けて走り出しました。 エイコの農場は、世間の騒然とした状況とはまるで無関係のように、前と変わらずに森の奥に、どっしりと存在していました。ラジオはあるのですから、ニュースは伝わっているでしょう。まだ、昼なので、家人は仕事に出ているのかもしれません。あるいは、使用人がいるのですから、年老いた両親とエイコが、昼食を待っている時期かもしれません。ジェームズが、玄関に立って、ノックをすると、出てきたのは、顔をすすだらけにした先日のメードでした。ジェームズの顔を見ると、覚えていたのか、すぐに、中に招き入れ、 「荷作りの途中だったので、皆さん、こんな格好です。いまお呼びしますから」 と奥に入っていきました。確かに、部屋を見回すと、荷物が梱包されて、置かれていました。見たところ、引越しをするのに違いないようです。不思議に思いながら、応接間で待っていると、エイコが仕事着姿で、現れました。 「こんな姿で済みません。急に移転命令が出たんです。私たち、ここを出なければ行けないの」 その話によれば、これまでにも、いろいろと干渉してきた国の移民局が、先日、 「もし開戦したら、即刻、ここを立ち退くこと」 と通告してきたのだといいます。 「それで、どこに行くのですか」 ジェームズは、当然の疑問を尋ねました。 「お役人さんが、連れに来るというんです。私たちは、荷物をまとめて待っていないといけないのです」 (おかしな話だ) とジェームズは思いました。ヨーロッパで、同胞たちがヒットラーから、同じような命令を受けているという話は、伝わってきています。ですが、この自由と移民の国、アメリカで同じようなことが行われるだろうとは、考えられませんでした。 あわただしい中ですが、ジェームズは訪ねてきた目的を果たさなければなりません。ダンボール箱に入れて大切に運んできた作品を渡して、エイコに喜んでもらいたい一心で、はるばる車を飛ばしてきたのです。 「やっと、ご要望のものができました。遅くなり、こんな時に重なってしまって、申し訳ありません。見ていただけますか」 ジェームズが低調に言うと、エイコは、そっと肯いて、 「もちろんですわ。ずっと、待っていたんですから。すぐにでも、見せてくださいな」 と応じたのです。 丁寧に梱包してあるダンボールを開けて、小さな作品から順に取り出して、テーブルに載せました。もちろん、十個の中から、選んだ三品だけです。仕上がり具合に絶対の自信を持つ、最高の作品です。 「あらっ、すばらしいわ。本当に、良くできましたね。待っていた甲斐があったわ」 エイコは、素直に、作品の出来栄えに満足したようでした。こうして、「銀のリンゴ」は、エイコの豪邸の居間に飾られることになったのです。だが、それはその日一日のことでした。何しろ、一家は引越しの準備をしているのです。明日にも、出て行かなければならないという状況のなかで、それでも、一日だけでもその家のマントルピースの上に、誇らしげに鎮座した一番大きい置物は、幸せでした。中型のペンダント用の「リンゴ」は、ビロードの容器に入れられたままになりました。もちろん、その夜、エイコが、ジェームズの目の前で首から下げてみた後です。そして、一番小さい小物は、指輪の小箱のような容器に入れられたれたままになりました。それも、もちろん、ジェームズの目前で、エイコが、キーホルダーの先に付けてみた後でした。だから、最後まで人の目に触れていたのは、一晩を飾られたままで過ごした一番大きい置物だけでした。 代金を受け取ると、ジェームズは早々に、エイコの家を辞しました。伝えたいことは山ほどあったのに、荷作りに忙しそうな様子を見て、言い出せませんでした。ただ、 「移転先が決まったらまた連絡してください」 としか、言えないまま、後ろ髪を引かれる思いで、家路に就いたのです。今から思うと、これは不思議なことです。あれほど、瞼に思い浮かべた人との分かれがこんなにあっけないものだったとは、嘘のような感じですが、事実はそうだったのです。とうとう、気持ちを伝えられなかったという後悔より、 (これでよかったのだ) という慰めの気持ちの方が強かったのです。それは、やはり、時代のなせることでしょう。エイコに気持ちを打ち明けても彼女は,固辞するに違いありません。エイコにジェームズへの気持ちがあっても、そうするに違いないのです。この国の敵性国家の出身である彼女の父母は、ジェームズの申し出を断るに違いありません。それが彼に対する思いやりだと知っている人たちでしょうから。 一人の鍛冶屋職人としての注文主の注文を果たした満足感だけで、我慢するしかない、とジェームズは、思いました。エイコへの気持ちは、お互いのために心の奥底の自分だけの小箱に押し込めて置こう、と強く決心し、ジェームズは、素直に、帰り道を急いだのです。エイコにもこれは耐えなければならない試練でした。ジェームズが寄せる気持ちは、痛いほどわかります。エイコもそんなに無神経な女性ではありません。だからこそ、心の限りを尽くして、歓待してきたのです。ですが、則を超えることはありませんでした。注文主としての威厳と尊厳をもって、接し続け、その目的は達せられたのでした。 夜道を走る規則正しい車のエンジンを耳にしながら、ジェームズの頬に涙が伝ってきました。エイコの屋敷を辞す際に、いつものようにポーチに送りに出てきたエイコの頬を同じものが伝っていたのをジェームズは見ていました。そのときは、思いを抑えて、感情が昂ぶるの押しとどめたのですが、走り出して独りだけになると、周囲の暗闇の中に、たった一人で突き進んでいるような気がして、さみしさが込み上げてきたのです。それでも、ジェームズは涙を拭うことはしませんでした。思い切り出せるだけ出して、涙の源を枯らすくらいにしてしまいたかったのです。ただ真っ直ぐに、暗闇の中を、ヘッドライトだけを便りに進んでいくのは、本当は、ジェームズ自身のこれからの人生のような気もします。だからこそ、涙を流がれるままにしていたのかもしれませんでしたーー。 「二人はそのまま、二度と会えなかったんですか」 じっくりと耳を傾けて聞いていた麻美が、ふっとしたように,尋ねた。 「まあ、そういうことですな。最後の別れでした」 麻美は納得した。 「何故かは、言うまでもないでしょうね。あなたには。もうよーくご存知に違いないから」 老店員は、麻美の事情を十分に分かっているというような顔でそう言った。 「先を続けて下さいな」 麻美その推測を遮るように、きっぱちりと言うと、店員は、 「後少しで終わりですからね。お嬢さん。そろそろ、私も疲れてきましたし、いつまでもお話ばかりしているわけにはいきませんから」 老人は、一呼吸してから、また話を始めた。 ーー エイコ一家が、どこに引っ越したのかは、ずっと、分かりませんでした。ただ、翌年になって、町野日系人たちが、皆姿を消したという情報が、住民の間に駆け巡り、エイコ一家もそのことに関係があるのではないかと、推測できるだけでした。 翌年の夏に、ジェームズにも、兵役の徴集状が来ました。兄たちの中には、志願して、兵役に入るものもいましたから、特別に感慨はなかったのですが、兵隊に行けばいつかは前線に送られるかもしれない、という恐れは、付きまといます。事実、その恐れは現実になりました。補給部隊員として、まずは、インドシナ南部の基地に送られることになったのです。 家族から別れて、遠隔地に一人いる寂しさも当て、ジェームズは、エイコにも二度ほど手紙を書きました。一回目のは、兵役に出たことを知れせる挨拶程度の内容でしたが、返事は来ませんでした。変わって、転居先の住所を知らせるあとの入居者からの手紙が入っていました。本当は本人にしか開けられないはずの私信を誰かが開封したことが、これで知れました。ですが、二度目の手紙には、細やかな表現で、恋情を綴ったにも関わらず、そのままエイコに届けられたのか、エイコの自筆の返信が、前線に届けられてきたのです。その手紙でエイコ一家が砂漠の中の秘密の収容所に入れられて苦しい生活をしていることやせっかく作ってもらった「銀のリンゴ」を生活のために、手放さなければならなくなったこと、だが、ペンダントと小物は大切に取ってあること、などが分かりました。 ジェームズは、日本が降伏するころは、フィリッピの基地に転属になり、現地で親しい女性もできました。それはエイコに良く似た肌が浅黒く、黒々とした髪をした明るい性格の女性でした。その女性に、ジェームズは、身に付けていた自分用に作った「銀のリンゴ」のペンダントをあげました。帰国するときに別れの肩身として残してきたのです。 エイコからの手紙は二通目を最後に,もう、来なくなりました。身に付けていた小物類も位置の間にかなくなり、エイコとのつながりを記念するものは、母国の実家に残してきた置物のレプリカだけになっていました。 戦争が終わって、ジェームズは、兵役を除隊し、実家に帰りました。すでに家業の蹄鉄やは、戦争中に廃業し、父親は引退したままの生活を静かに送っていました。なにか、仕事をしなければならなくなったジェームズは、まず、金物屋の店を出し、それが、繁盛すると、次々に、店を増やして、銀製品の取り扱いも始め、そのころは有名は宝飾店のチェーン店の経営者になったのですーー。 「それが、このお店というわけではないんでしょう」 「そうね、こちらの店は、戦前ある老舗ですからね。違います。ジェームズの店が、倒産してから、こちらの店が買い取りましてね。ですから、今は、系列になっていますよ。というより、もう、吸収されてしまった」 老人の表情が、その時、少し曇った。 「ジェームズさんは、エイコさんを探し出せなかったんですか」 「そう。そのとおりですよ。ですから、ここにこうして、その銀のリンゴが飾ってあるのですよ」 「そうですか。そうなんですか。私の推測は当たっていたんだわ」 「推測と言うのは、どういうことです」 「やはり、このリンゴは、このリンゴの姉妹ではないかという私の憶測です」 麻美は、組んだ足の上に大事に抱えていたバッグから、小さな銀の小物を取り出した。 「このアクセサリーは母の肩身なんです。母は自分の若いころの話は、あまり、しなかったけれど、この飾り物は、肌身話さずに持っていて、亡くなる時にベッドで私に渡してくれたんです」 「ちょっと見せていただきませんか」 思いも掛けない話に、老店員はその銀の小物を手にして、確認してみたくなったのだ。 「耐火に、to eikoとイニシャルが彫ってありますね。お母さんの名前ですか」 「はい。でも、母は恵子と言うんです。kの字が抜けたのだと、思っていました」 「いや、確かにeikoですよ。抜けたのではない。そして、これを持っていた人はあなたのお母さんに間違いないんですね」 「それは、確かなことです。間違いなく、母ですわ。でも、父も早く亡くなって、長い間二人だけで肩を寄せ合うようにして、生きてきたのに、母は娘時代のことは、殆ど話してくれなかった」 「いや、苦労が忍ばれますね。でもこれを持っていたことと言い、あなたの面影から、eikoさんと無関係ではないと思っていました。だから、こんなに長い時間、お話してんですよ」 「面影と言うと、あなたは、お知り合い段ですか」 「ああ、そうでした。言い忘れましたが、私は、こういう者です」 労店員は、小さな名詞を手渡した。 「ジャームズ・スミス・ベンジャミン」という名前が書いてあった。 「やっぱり、そうでしたか。でもなぜ、私がそのエイコの縁者だと分かったんですか。こんな顔をしているのに」 「意や、分かりません。お顔を見ただけではね。でも毎日、店に通ってきて、熱心にこの置物を見ていらっしゃったでしょう。それで、確信が沸いたのです」 「でも私が、日系人とは思えないでしょう。こんな黒い顔だから」 「そうですね、お母さんが黒人と結婚されていたとは、驚きでしたが、私には忘れられない人ですから、肌の色が変わったって、分からなくなるはずはありません。エイコさんは、肌が白でも、黄色でも、茶色でも、黒でもエイコさんですからね。あなたは、そのエイコさんの娘だと言うことくらい、銀の小物を見せていただかなくても直感で分かりますよ。長年待っていたんですから。こうして、置物を飾っていたのも、そのためです」 「囮のようなものですね」 「いや、思い出を求めていたんです。それを囮だと言えば、そもそも、この置物は、囮のようなものだった。エイコの家を訪ねるための口実だったんですから」 「その役目をここでも果たしたと言うわけね」 「でもきっかけに過ぎませんよ。本当の証拠は、あなた自身にあるんですよ。物の形より、本質が私に語り掛けてくれたんです。だから、あんな長いお話をして、あなたも聴いてくださった」 「死んだ母が導いてくれたんですね。母さんが若いころ、どんな幸せだったか分かって、一つ安心できました。あなたのような人の愛を受けていたんですから」 「いまでも、忘れられない人です。その人は亡くなってしまたけれども、思い出の作品はこうして残り、人の出会いを助けてくれた」 「そうですね。人は死んでも、宝は残るんですから」 「本当に今日は、良かった。あなたとお会いできて。お金ができたら、こうした物も買えるようになりますよ。一生懸命がんばってね」 「ああ、そうですね。これ、絶対に買わなくては。母さんのためにも」 「では、また来てください。お待ちしてますよ」 ジェームズは、席を立った。目の前に置いてあった銀のリンゴを大切そうに、両手で持ちながら、後ろの控え室に入っていくと、そこには、他にもたくさんの似たような果物の置物が置いてあった。 (毎日、大勢の女性たちが、こうしてやってくる。小物を買うくらいしか予算がない小金もちのキャリアウーマンたちだ。その人たちがあこがれている本物の資産価値のある銀製品を展示しておこうというアイデアは当たりだったな。一つ一つの展示品にまつわる話題があれば、女性たちは関心を持つ。そして、それが、どんなに荒唐無稽でも、自分の身近なこことして、受け止めてしまう。こうなれば、しめたもの。新しい顧客として万全だ。それより、女性たちの痛んだ心のケアができる方が、意味があるかも知れない。我が店では、心の満足感も差しあげます、といわけだ) ジェームズは、一日の仕事を完璧に成し終えて、堅苦しいソムリエもどきの制服を脱ぎ捨てて、頭から熱いシャワーを浴びようと、浴室に向かった。 (終わり)