「秘教の縁(えにし)」梗概
江戸は神田・庵町の紅問屋「山形屋」前の路上を行きつ、戻りつする母子の二人連れが、意を決したように、店の暖簾を潜って中に入っていき、女将さんに面会を申し出た。夫を予想もしなかった「心中」で亡くした女主人の久乃は、落胆の中にあったが、この母の美代香の申し出には、重なる衝撃を受けた。美代香は、連れの男の子を亡き主人の子だと言って、認知を求めてきたのだった。即座に断った久乃に、美代香は、奉行所に申し出ると尻をまくって帰っていった。
「山形屋」主人の変死事件の捜査に当たっている町奉行所同心、飯山清衛門は「心中」説に疑問を持っていた。それは死亡推定時刻と現場の状況からだった。死体の腐敗具合から心中とされたが、腐敗は遺体の状況によって進行具合が変わる。捜査を進めていくと、不審な若者達が現場に出入りしていたことが分かった。それは「山形屋」の手代、権八の友達だったが、権八は賭場での喧嘩が原因で死んだ。しかし、友人の津島を追及すると、津島は犯行を認めた。津島は美代香とも懇ろな関係で、美代香が持っていた認知状と一緒に書かれた「遺書」を使って心中に見せかけたことを自白した。また、親子関係は、血液鑑定で「不存在」と鑑定された。町奉行は、権八に資金援助をしていた久乃を江戸所払い、国帰しとしたが、美代香はお咎めなしだった。
神田・相生町の剣道場主、小口新太郎は、一代で道場を作り上げ、しっかり者の妻と子宝にも恵まれ、順風満帆の人生を送っていたが、気掛かりは息子の新一郎の剣道の腕の上達ぶりだった。強い競争相手がいればいい、との舅の忠告で、相手を探したところ、最適の入門生が来た。それは深川で唄の師匠をしている津島美代香の子で小一郎といい、予想したようにめきめき腕を上げ、新一郎の良い稽古相手になった。道場経営に余裕が出来た新太郎は美代香を訪ね、唄の稽古を始めたが、二人はすぐに男女の関係になった。それを感じた新一郎と小一郎は、神田明神下のひみつの洞窟を探検して、さらに親しくなり、ある「計画」を練る。
山形の実家に帰され、無為に時を過ごしていた久乃に、酒田の廻船問屋の後妻の話しが舞い込んだ。久乃は、話を受けて嫁いだが、その店「島田屋」は想像以上の大店で手広く西国との商売をしていた。店に慣れた久乃は、主人にも信頼され、新しい暮らしに満足していたが、気になるのは七日ごとに蔵で開かれる秘密の集会だった。やっとその会に出席を許された久乃は、それが異教徒の礼拝集会であるのを知り、夫に誘われて入信する。
店の仕事に興味がわいた久乃は、夫にせがんで廻船に乗せてもらい、義理の息子の船頭、万次郎に伴われて出港した。日本海から瀬戸内海へ向かい浪花の港に蔵米を降ろして、帰りは長崎に寄港する航海は、実は長崎で信者用の聖書や儀式用品を調達するのが隠された本当の目的だった。航海中、万次郎から「私は養子で、実は異人の血が入っている」と打ち明けられた久乃は、長崎奉行所などで、生みの親を探したところ、出島のオランダ商館主の娘が母ではないかと突き止めた。その母は、当地に留学していた山形藩士と浮世絵師と付き合いがあり、父はそのどちらかと思われた。久乃は一世を風靡した浮世絵師、歌麿がその人だと知って、強く興味を抱いた。
新太郎が長く帰宅しないので捜索願いを出した妻の多重の依頼を受けた町奉行所の老役人、穂積は美代香の家を訪ねたが、小一郎に不在を告げられ、帰ろうとしたが、隣りがかつて非業の死を遂げた歌麿の家だったことに気が付き、錠をこじ開けて家の中に入り、室内の異様な光景を目にする。二階の美代香の家との境の壁は取り外せるように細工されていた。また一階には異教徒が儀式をした痕跡があった。手柄にはやった穂積は寺社奉行に連絡、長崎在勤中に異教徒審問のやり手として知られた同心の畠山が捜査に当たることになった。畠山は、永年の捜査情報の集積から割りだした異教徒達が儀式を行う寺に張り込み、新太郎と美代香の捜索を行い、ほかの信徒とともに二人を逮捕した。鎖国とキリシタン禁制から、かなり経っていた時代には、珍しい幕府の足元、江戸での大掛かりな狩り込みだった。
裁きのお白州で、畠山と穂積の審問を受けた久乃は犯行を認め、「私の半生を狂わせた美代香を許すことができなかった。その罪を悔い改め、汚れをそそいで、良心を取り戻してもらうために、耶蘇教に入信させ、魂を天国に導いた」と動機を語った。
剣道の稽古に明け暮れ、めきめき腕を上げた小一郎は女手一つで育ててくれた美代香の行方不明を世間に隠そうとしていたが、意外な結末に、「天涯孤独の身、これからは、剣道の腕一本で生きていこう」と心に誓う。江戸の町に、また一人、無頼の剣士が誕生した。