第一章 「ウオッカに薔薇の香り」  冬の町の気だるさが、そのまま、持ち込まれたような、沈んだ空気が、その部屋を支配していた。部屋の中には、五人の男が座っていた。みな、煙草を吸っている。  「仕方がないだろう。やられてしまったんだから。だが、今度は、こちらのお返しの番だ。しっかり頑張ってくれたまえ」  一番奥の窓側の席に座っていた高齢の男が、そういった瞬間、皆は立ち上がって、会議は散会した。  南向きの一枚ガラスの向こうに、皇居の森の緑が見える。南側から指す朝の日の光が、北側のこちらから見ると、眩しいほどに、強い。冬を終えて、日の光は一段と明るさを増していた。  その朝の眩しい陽光をだれもいない編集局の隅で眺めていた岩田隆は、夕刊番の同僚への引き継ぎを書きながら、泊まり番明けの今日は何をして過ごそうか、ぼんやりと考えていた。  (こんな、天気のいい日は、六本木に行って旨いランチを食おう)  疲れているときに浮かぶのは、やはり食いものことだ。泊まり番の朝は、決まって、社員食堂で納豆定食を食べる。本物の水戸納豆に卵と味噌汁、御飯と小さな煮物の皿が付いて、三百八十円だ。今は、それも終わっていた。  岩田がこの朝飯を食べるのは、長いモスクワ勤務から帰って来てからだ。五年も居たモスクワには、納豆はなかった、たまに、出張でやってくる同僚や友人が、持ってきてくれたのを食べるのが、せいぜいだった。茨城生まれで、朝の食卓に納豆を欠かしたことのなかった岩田には、これは最初は苦痛だったが、生来の順応性から、すぐに慣れた。だが、体に染みついた食癖は、簡単には変わらなかったらしく、帰国後社内で最初に食べた朝食はこの朝定食だったのだ。だが、この定食を頼む人は今は、少ない。日本がそれだけ、飽食になったのだろう。最近、食堂のおじさんに聞いたのだが、「朝は十食程出ればいい方なのだ」という。  そういえば、昔に比べ、大体泊まっている人が少なくなった。十年ほど前の社内には得体の知れない人間がうようよしていた。二段ベッドの宿直室も、毎晩満員だったのだ、今は三割方は空いている。それだけ、合理化が進み、人員が減ったのだ。新聞は斜陽産業だといわれて久しいが、確実に経営のスリム化は進んでいるのだ。  そんななかで、外信部の夜勤デスクは、夜通し眠らない、と今でも決まっている。この伝統は、どんなに機械化が進み、電子情報化が進んでも、まったく変わらない。地球の裏の出来事は、朝刊が終わった真夜中の午前二時すぎから明け方の間に起きることが多い。伝統的に日本の新聞のニュース源であるアメリカやヨーロッパは、そのころ昼間だから、人が活動している。だから、その活動の最中の我が国の夜中が、外電の集中期なのだ。  夜勤デスクは、入ってくる外電をチェックし、連絡してくる外国特派員に適切な指示を出さないと行けない。大袈裟に言えば、翌日の夕刊の国際ニュースは、編集局でただひとり、不寝番を続けるこの男の双肩に掛かっているのだ。地球の裏側で大事件が起きれば、彼は直ちに所定の場所に連絡し、新聞発行のための段取りを付けないと行けない。それは、だが、大変だが、楽しみでもあった.何しろ、まだ、この国の誰も知れないほやほやのニュースに、まず第一番に接することができるのだ。たとえ、半日位の猶予であっても、これは、何ものにも代えがたい新聞記者冥利の喜びだった。  岩田は、「ダイアナ事件では、新たな進展なし。中間まとめをロンドンから、入稿済み。モニター挟む」「国連総会は波乱なし。米国の出かたを探る、をワシントン電で予定」「タイの通貨危機、周辺諸国の不安、を経済面へ予定、バンコクから」  などと引き継ぎ簿を書き終え、机の隅のコーヒーメーカーに、アルバイトの大学生が入れておいてくれた入れたてのコーヒーを愛用のカップになみなみと注ぎ、一口飲んだころ、交代番デスクの飯島が顔を出した。背は低いが、丸々と太っている体格を、辛そうに運んでくる姿は、誰とも間違いようがない。その姿から、「ドン・ガバチョ」のニックネームを持つ元ワシントン特派員だ。  「いやあ、気持ちがいいね。こういう朝は最高だ。日本はやはり春先が一番だね。ワシントンにも、モスクワにもこういう気持ちのいい朝はない、そうだろう、岩田君」  飯島は、開口一番威勢のいい声を掛けてきた。  確かに、気持ちの良さそうな朝だった。それは、外界から遮断された編集局では、空気を感じられないが、大きな一枚ガラスの遠くに見える皇居の緑が、視覚にその季節の芳しさを訴えていた。  (こんな日は、ビルの中にいることはない、外に出るのが一番)  春の陽気に誘われて、夜勤明けの最大の楽しみである昼の散歩をしてみよう、と岩田は今日一日の行動予定を頭に描いていた。  「いい季節ですよ。モスクワでは、まだ雪に閉ざされている。朝は、遅くまで寝ているのが一番でした」  岩田が眠そうな目を擦ると、飯島は、  「その習い性となって、辛いだろう」  細い目をさらに細めて、笑顔で言った。それは、岩田にかこつけて、自分のことを言っているのだ。海外では、殿様暮らしが出来た。家事をする女性から運転手、コックまでやとっているから、特派員は皆、日本へは帰りたがらない。プール付きの家に庭師が整えた庭園を眺めながら住むことなど、日本では考えられない。辛い朝晩の通勤に耐えなければ行けないのだ。電車が終わる夜勤の社員は送りのタクシーやハイヤーが出るが、外信部の勤務シフトには関係ない。それに朝昼は電車通勤が原則なのだ。それで、飯島も重い体を通勤電車に揺られて、多摩ニュータウンから出てくる。辛いのは自分なのだ。  「もう、いいよな。こういう勤務は。はやく、出してくれないかな」  飯島の関心は四月に行われる定期異動に移っていった。  「まだ、ワシントンから帰って、二年でしょう。早いんじゃないですか」  飯島は過去の例から言うと、次はロンドン特派員が順当で、本人もそれを期待している。入社年度は岩田の二年先輩だが、年は一つしか違わない。岩田は国内の外国放送受信通信社で一年間働いてから、新聞社に入ったからだ。だから、浪人した岩田と大学を卒業した年は同じだ。岩田が受験した新聞社や通信社をすべて落ちたためだ。第一、その年は試験日が、全国紙は三大紙と通信社が同じ日でしかも、国家公務員試験日と同じ日だった。翌日、経済紙ともう一つの通信社の試験があって、マスコミ志望の学生の多くは掛け持ちしたが、岩田は受けなかった。もう昔日の話だが、一九七〇年代の新聞社は、超一流の人気就職先だったのだ。  (今となっては夢のような話だ)  と頭の片隅に浮かべながら、飯島の返事を待っていた。  「いや、君だって、期待しているだろう。君の希望は知っているよ。おれと同じだ」  岩田は誰にも次の希望を話したことはない。ただ、部長から言われた希望調査には、「ロンドン支局」と書いておいた。それを、飯島が知っているといういうことは、島崎部長と飯島の親しい関係を裏付けている。  「飯島先輩に先を越されるでしょうね」  岩田が諦め顔で、そう言ったとき、目の前の電話のブザーが鳴った。  電話口に出たのは、島崎部長だった。  「おお、岩田君か、ちょうどよかった。局長室に来てくれ」  「ええ、私ですか。はい」  そう答えてから、怪訝な表情で、飯島を見ると、  「さあ、引き継ぎしよう。これを読むだけだけどね」  と言って、岩田が立ち上がった後の椅子に腰掛けた。  「部長がお呼びなんで」  そう言って、ハンガーから背広を掴んで、袖を通しかけたとき、飯島が、こちらを向いて、  「いい話だよ。行き先は違うかもしれないが」  と片目を瞑った。それは、彼が何かを知っている、という合図のようだった。  編集局の片隅の角部屋が編集局長室になっていて、入口には黒いドアーがある。岩田はそのドアーをノックして、中からの返答を待たずに、ドアーを開いて、部屋に入っていった。  山田編集局長は、白髪で細面の学者肌の男だ。南向きのガラス窓に向い、北側の壁の隅に斜めに置かれた机に向かって、パイプを燻らせていた。  その目の前の、南側のガラス窓に直角に置かれた長椅子二つに四人の男が神妙な顔つきで座っていた。窓際に一脚だけ置かれた一人据わりの席が空いていた。  四人の中に、島崎の顔があった。  「よう、こちらに座って」  島崎は、その一人椅子に岩田を手招きした。腰掛けてから、残りの顔を見ると、編集局次長の中里と保田、それにもうひとり、編集局では見かけぬ男がいたが、岩田は見覚えがあった。  モスクワ支局時代に、会社主宰のエルミタージュ美術館展を東京で開くことになり、その担当者として、事業部からやってきた鳥海信二だった。いまは、本社の事業部第一部長のはずだった。  「早速、用件だが、岩田君、君には、今度の異動で事業部に行ってもらうことになった。異動日は明後日。異論はないだろう」  島崎が口を開いた。予想もしない異動の通告だった。ショックと驚きで、唖然としている岩田に向かって、島崎は、  「異論はあっても、受け入れられない。人事権は会社にあるのだからね。命令なんだから」  拒否や考慮は許されないということのようだ。  だが、なぜなのだ、外信部から事業部に異動した例を岩田は聞いたことがなかった。編集局から出ていくのは例がないではないが、記者ということで採用された社員が、畑違いの部署に出るのは、管理職として社内の階段を登る場合がほとんだった。そういえば、肩書が上がるのだろうか。およそ、新聞記者的でない、俗物的な懸念が頭を過った。  「肩書は、部長代理だから、昇格だよ。もっとも、仕事は、違う」  保田編集局次長が口を挟んだ、この男は、人事担当の次長なのだ。  「仕事は違うというのは」  岩田が聞き返した。一番重要な点である。記者の仕事ではない、という意味なら、説明してもらわなくても分かりきっている。イベントを企画運営して社名を高め、社会に貢献するというのが、事業部の事業目的なのだ。先頃まで企業で流行していたメセナやフィランソロピーを、新聞社は公共的企業として、伝統的に実施してきており、歴史もある。高校野球やラグビー大会などのスポーツイベントも沢山扱っているのが、事業部だった。その場所で元外信部記者に何をやらせようというのだ。  「いや、急で申し訳ないが、ぜひ君にお願いしたい。本人の了承を得たということで、以後の話をするが、それでいいかね」  保田が念を押した。嫌でも応でもない、もう決まったことのようになった。岩田の希望など、もうとっくに意識の外に置かれていた。  「これから先は、僕が話すよ」  奥の面積の広い机の後ろから、話の行く末を見ていた山田が、立ち上がって、こちらにやってきた。右手のパイプを、離さない。  「これから、あとは、少し長い話になるが、皆で聞いてほしい。そして、聞いたことは他言は無用だ。ここにいる六人だけにとどめておいてほしい」  もったいつけて、そう言ったが、その種の箝口令が守られた試しはない。どんなに秘密を要する社外秘も半日もすれば、社員衆知のことになっているのが、この社の特質だった。特に組合の地獄耳には定評があり、役員会での発言はだれが、何を言ったかまで詳細に、組合幹部は知っていた。だから、山田の箝口令が守られる保障は全く無さそうだった。  「今回の問題では、絶対に秘密が漏れないでいる必要がある。すこしでも、漏れれば、計画は無に帰すからだ。役人会の発言とは違うんだ」  皆の考えを見すこすように、山田は重ねて釘を刺した。皆、神妙な顔付きになった。島崎も詳細は知らされていないらしい。部員の異動に理由は要らないというのが、彼の持論だったから、この場合もその原則に忠実に従って、岩田に白羽の矢を立てたのだろう。  「自分もそうして、異動させられてきたから、おれもそうする」  というのが、部長になったときの宣言だった。  「実は、ワシントンに亡命ロシア人のアレクセー・エリーノフという科学者がいる。レニングラード大学で生理学博士を取った遺伝学の大家だ。その男が、ふとしたことでわが社の特派員に接触してきた。ニューヨークで開かれた製薬会社のパーティーで、河村君が出会ったんだが。向こうは、河村君の知り合いに日本の新聞記者だと聞いて、近寄ってきた。話が弾んで、その夜、二人はバーで遅くまで飲んだ。それで、すっかり意気投合し、度々、会うようになったんだ。その男は、始めのころは、身分や経歴、職業をハッキリ言わなかったんだが、打ち解けてきたのか、つい先日、意外な告白をした」  そこで山田は息を継いだ。  「英語があまり、旨くないので、河村君もアメリカ人ではないと、気が付いていたが、彼は、ロシア生まれで、つい一年ほど前に、CIAのプロジェクトに乗って亡命した。妻と三人の子供の家族はまだ、ロシアにいるという。かれは、その家族を呼び寄せたいというんだ。ところが、ロシア政府がそれを許さない。何度も申請したのだが、許可が降りないのだそうだ。それは、考えてみれば、当然だ。亡命者の家族の渡航を許したら、国家が成り立たなくなるからね。しかも、かつては仮想敵国だった国の情報機関の手引きで亡命したのだから、無理もない。というより、ロシア政府は、彼を本国に送還するように、陰で画策しているらしい。解体されたKGBにはかつてのような力はないから、CIAが守っている彼に手を出せないが、彼は今の状態に不満を持っているのだという。それは、彼が提供した情報を、CIAは、仕舞いこんでしまい、家族を呼び寄せるのに役立てていない、というんだね。その情報を交換条件にして、彼は家族を救いたいという。それには、彼がその情報をCIA以外には他言していないということを、ロシアの政府に伝えなければ行けない。これからも秘密を守りつづけるのを条件に家族を呼び寄せたいのだ、という」  「ははん、それでその重大な情報というのは、何ですか」  岩田が、率直に聞いた。  「それは、河村君も聞いていない。だが、国家の存立を脅かすような重大な秘密だそうだ。それが、本当かどうかは、CIAに当たれば分かるだろうが、一筋縄では行かないよ。CIA自体が守秘しているんだから、言うはずがない。ロシア内部の重大な秘密ということだけが確かなんだ」  「軍事機密なら、もうそう重要じゃないですよ。冷戦時代とは打って変わって、いまや、圧倒的に米軍が優っているのだから、ロシア軍の秘密が漏れたからって、世界情勢は変わらない」  軍事が専門と自他ともに認める中里次長が、解説した。  「もっと重大な秘密なんだろう。CIAが亡命を手助けしたうえに、公表を差し控えている情報なんだから。世界秩序を変えるくらいの価値がなければおかしいよ」  山田は河村特派員を信頼していた。出身大学が同じで河村は後輩に当たる。入社試験では彼も試験官として、河村の採用を強く進言したという経緯もある。入社のときの身元保証人にもなっている。それほど、山田は河村を買っていた。確かに河村は優秀な記者だった。社会部時代には、ロッキード事件の取材班に選抜され、いわゆる「灰色高官」全員の名前をスクープした。敏腕記者といってよかった。岩田の五年ほど後輩だ。  「河村君は、アレクセーから、彼の意向の伝達を懇願された。知り合いには頼めない。いろいろと迷惑が掛かるかもしれないし、それほど、知人がいるわけでもない。CIAには、もちろん頼めない。秘密を封印したまま、彼を生殺しにしておくつもりなのだ。それで、彼は、利害関係がなく、怪しまれない第三国の人物に頼むことを考えついた。そのとき、出会ったのがわが社の河村君だった、というわけだ」  「それで、そのことと今度の異動とどういう関係があるんですか」  岩田は息せき切って聞いた。  「まあ、あせるな。河村君はいまでも、ワシントン特派員だ。彼が表立って動く事は、対外的にも出来ない。それで、この仕事は、他の誰かがやるしかないと判断した。島崎君に検討してもらい、アメリカの大学に留学経験があり、向こうに知人も多いという元モスクワ特派員の君が最適と推薦された」  聞いていた他の四人が、揃って、頷いた。  「それで、なぜ、事業部なんですか」  「そこで、われわれはこれでも、鈍い頭を搾ったんだ。来年、わが社はエルミタージュ美術館展の第二回展を全国で開催する。そのために、向こうで数回の打合せが必要だ。渡航に都合がいいのだよ。これは、一回目を担当した鳥海君が引き続き中心になって担当する。岩田君は名目的なその補佐役だ。といっても、主な任務は、いま言った通り、アレクセーとの接触と、できれば家族の渡航の手当て。それから、本当は、これが一番重要なんだが、彼が持っている秘密を探ることだ。無事、彼が家族と再会し、一緒に暮らせるようになれば、それまでに解明した全てを記事にする。これは、国際的なスクープになるはずだ。なにしろ、あの米国の情報機関が、秘密にしていることだ。それに、人権擁護の面からも、読者の共感を得られること間違いなしだろう」    二日後、岩田は編集局の一階下の階にある事業部に出勤した。といっても、小さな机を壁際にもらっただけである。電話器が乗っていたが、ほかには何もない。部員たちも、異物が混入したのを憚るように、あまり、話もしてこない。手持ち無沙汰に、新聞を読んでいると、鳥海が部長席から、手で呼んできた。まったく、不作法な男だ。社内での自分の地位だけを生き甲斐に生きて来ているような面妖な感じが付きまとっている。それを支えに、少ない予算から、大企画を考えだし、成功に導いたのだから、会社はそういう男を評価する。これは、仕事が出来るということなのだ。新聞社では記者しか考えていなかった岩田には、こういう男が新聞社にいること自体に違和感があった。しかし、彼は呼んでいた。無視することも、初参ではできない。すごすごと、彼の机のところに行った。その場所は、岩田の机とは天と地ほどに、良い位置にあった。新緑が増した皇居の緑が、常に眼前にあって、景色が素晴らしい。  (こんな場所に机を置いていたら、家にいるのが馬鹿らしくなるだろう)  岩田は鳥海の仕事への取り組みの情熱の理由の一端を見た感じがした。  「岩田さん、先日はどうも。早速ですが、すぐにでも動かれますか。美術展の方は、私に任せていただいて、結構です。一切気になさらなくていいんです。あなたの都合で動いていただいて、結構です。ですが、一応の予定だけはお知らせしておきます。これが、スクデュールです」  鳥海はコピーした日程表を手渡した。  「予定している展覧会は来年四月から開催の計画です。まだ、一年ほど余裕があるということですね。最初の取りかかりは、ゴールデンウイーク中に、モスクワで行う、あちら側との打合せですが、これは、私が出席することになっています。まあ、顔合わせ程度でしょうから。そのあと、九月に向こうで、出品作の検討をします。これも、大体決まっています。一回目のを除いたなかから、相手側がいいというものを出してくるだけですから。もちろんこちら側も、国立博物館や顧問の大学の先生が行って、要望を言います。われわれは付添いだけですから、何の心配もいりません。これに行っていただきましょうか。そのころになれば、あの件の目処も付くでしょうからね」  そう聞かれても、いまは、何とも言えない。岩田の計画では、まず、ワシントンに行って、河村に話を聞かなければならない。それに、できればアレクセー本人にも会いたい。そして、彼が秘密の内容を黙秘したら、次は奥の手を使って、学生時代の友人で、政府機関にいる者たちから情報を得ることも考えていた。もちろん、CIAにも知人はいた。だから、手始めは米国行きなのだ。  そのことを、気配りが行き届いている鳥海も承知していた。だから、「そのころになれば・・・・・・・」と前置きしたのだ。  「明後日にも、アメリカに立ちます。善は急げですからね」  フットワークが軽いのは、記者としての習性だ。とにかく、直接会って話を聞かないと、なにも、分からない。河村特派員の詳細な内部レポートは手元にあるが、本人に会わないと臨場感は伝わってこない。実感がないのだ。  (マンハッタンのイタ飯屋で、飯でも食いながら話を聞くのが先決だ)  そう考えて、岩田は、自分の机に戻り、海外出張許可願いを認めた。  電話ではよく話していたが、久しぶりに会う河村種一は、精悍さを増していた。つり上がった目が、ますます、鋭くなり、瞳が野心的に燃えていた。眼光が鋭くなっていたのに、黒かった頭髪には白い物が混じりはじめていた。だが、中肉中背のがっちりした体格に変わりはない。  「旨い中華料理屋がありますから」  とイタ飯でなく、チャイナタウンの中国料理の店に案内された。その店の二階の個室なら、誰にも聞かれることなく、秘密の話もしやすかった。  「いや、僕もこんなことに出会ったのは始めてですよ。でも、彼は嘘は言っていない。これは、東京に送ったレポートにも、書いておきましたが、彼は真剣です。僕の記者としての直感からしても、彼は相当重大な秘密を知っています。というより、彼自身が係わってその秘密を作ったといったほうがいいかもしれない。そう彼は母国に国家的な秘密を残して、亡命したのですよ。それは、彼の地位が物語っています。国立遺伝学研究所の副所長までした学者です。しかも、その研究所の所長は、党の官僚で何も知らない。彼が実質的な中心人物だったんです。所長はモスクワにいて、研究所にはめったに顔を出さないらしい。彼が全てを仕切っていたんですから」  そこまで、言ってから、河村は出てきたチンゲンサイと豚肉の炒めものを、一気にほうばった。  「すると、その研究が秘密の内容なのかな」  岩田も料理に箸を伸ばしながら、質問した。  「うん、そうとも思えるし、そうでないかもしれない。彼の研究は、遺伝子工学で、ハエやトンボの細胞から遺伝子を取り出して、加工したりしていたらしい。その分野から、重大な国家秘密が生まれるとは思えませんからね。もっと、重大なことを研究していたのかな」  「本人はそれ以上のことは言わないのかね」  「僕には言いません。ただ、その秘密は漏らさないから、家族を返すように、国と交渉してくれと言うだけです」  大体の様子は分かった。河村の話は、レポートの中身と大体同じだった。新聞記者は、知ったことはできるだけ何でも記事にするように訓練されているから、彼は知っていること、聞いたことの、ほぼすべてをレポートに吐き出していた。  「それで、アレクセーには会えるのかね」  「いや、簡単には会えません。なにしろCIAの厳重な監視下にあるのですから。僕が会えたのこそ奇跡です。会うのは殆ど不可能に近いですが。チャンスがないわけではない」  河村の鋭い目が、きらりと光った。敏腕記者が特種を追い、迫ったときの目だ。  「チャンスとは」  「公の席です。あるいは、ごく秘密の場所です。どっちがいいですか」  「決まっているじゃないか」  「そうですか。彼には電話で連絡するのも難しい。全部盗聴されていますからね。ですが、連絡手段は確保してあります。その連絡手段を使い、秘密に会えるようにしましょう」  「さすがだ。わが社のホープだけのことはある」  「ただし、少し、体は使いますよ。変装しないといけないし」  河村は、 「そのための手段は全て用意する。それには、ある程度時間が掛かる、向こうの都合も聞かないといけない。その連絡は、電話ではできない。もっとも、原始的な手段を使うので」  と言い、はにかみながら、  「後は任せてくれ」  と言って笑った。  岩田は、ニューヨークの常宿としているコンチネンタルホテルに戻って、河村からの連絡を待った。それまではすることがないから、映画を見たりして過ごした。二日間で「スターウオーズ」のリメイク版を三つとも見てしまい、夜、部屋で本を読んでいるときに、電話が鳴った。  「あした、朝、迎えに伺います。驚かないでくださいよ」  それだけ言って、河村は電話を切った。  翌朝、岩田がルームサービスの朝食を食べ終わったとき、タイミング良く河村がフロントから電話してきた。  「裏の駐車場で待っています」  ということだった。  岩田は、背広に着替えて階下に降りていき、裏口から中庭の駐車場に出た。出ていった反対側に車の出入口がある。その側に、大型のバンが止まっていて、河村が後ろに立っていた。バンはアルミウム製で、波板の上に「Fedex」と赤い文字が大きく書いてあった。アメリカでは大きな運送会社の名前だ。  「驚いたでしょう。こいつで行くんです」  河村は屈託のない笑顔で、笑いかけてきた。  「ここから、乗ってください」  後ろの観音開きの大きな扉を開けると、内部は空だった。奥に棚があって、衣類が掛かっていた。河村は中に入って、壁の隅のスイッチを捻って、天井の小さな蛍光灯を点けた。  「じゃあ、出てくれ」  インターホンで、運転席にそう言うと、車はゆっくり、発車した。  「運転手は、支局のアルバイトのジム・タイラーがかって出てくれました。信頼できる男だから、安心してください。これから、約二時間のドライブです。アレクセーは、郊外の政府管理地区に住んでいます。地区への出入りは自由ですが、家の敷地の周りは、警備が厳重です。ですが、こういう運送会社や郵便車の出入りのチェックは甘い。だから、あっちに入れてある会社の作業着に着替えて、届けものに行こうというわけですよ。後で、着替えてください」  河村はそう言って、奥の棚を指差した。  大掛かりは仕掛けに驚いていた岩田は、車に揺られながら、単純な疑問を抱いていた。  「ところで、これで乗り付けるにしても、相手が驚かないかね。連絡はしてあるのかい」  「その点は抜かりはありません。今日、こういうふうにして、訪問することは、伝えてあります」  河村は自信満々だった。それが、彼の人生観のようだ。冷静に準備して、いざとなったら、大胆に実行する。そういうやり方で、彼は数々のスクープをものにしてきたのだろう。実に大掛かりな仕掛けには、仰天したが、インタビューの基本的な段取りは取っているのだろうか。それが、岩田の疑問だった。  「どうやって、伝えたんだい。電話は盗聴されている。簡単には会えない。連絡は難しいだろう」  「でも、あの家に行く人は大勢います。いくらか渡せば、メモくらいは伝えてもらえますよ」  河村は、詳しくは、話さなかったが、岩田には大体の想像は付いた。個人の小さなアパートと違い、屋敷には多くのメンテナンスの手間が掛かる。そのための作業をする人は、大手を振って出入りできる。そこが、こういう邸宅に住む大金持ちや有名人の落とし穴なのだ。彼らは、出入りする家政婦や庭師を人間だと意識していない。たんなる作業者か働く機械くらいにしか考えていないのだ。人の意思を持った対等な人格者とは認めていないから、安心している。そこに付け入る隙がある。有名人に近付くには、周囲で肉体労働をする人に変装するのが一番効果的なのだ。読者は知らないが、実際そういうやりかたで、スクープされたスキャンダルは多いのだ。河村はその常套手段を使って、出入りの家政婦でも使って連絡を取り合ったのだろう。  「そろそろ、着替えましょうか」  走り出して一時間位して、河村が言ったので、棚の繋ぎに着替えて、用意は整った。車はハイウエーを降りて、減速した。住宅地に入ったらしい。それから、十五分して、車は停止した。外で、やり取りが聞こえる。ゲートの警備員と運転手が、言葉を交わしている。  「アレクセーの家か、今日は荷物が多いな」  「そうですか。うちは初めてでしょう」  「ああ、御苦労さん」  警備員は荷物を確かめることもなく、ゲートを開いた。警備は手薄で、一人しかいないらしい。一人ではいちいち、荷台を開けさせて、荷物を調べている余裕はないだろう。ゲートを開けるくらいが関の山だ。  「ほら、簡単でしょう。でも、不審者は徹底チェックされますから。警戒するに越したことはない。繋ぎに着替えて正解です。ベトナム人の作業員くらいには見えるでしょう」  車は左に曲がり、すぐに止まった。  「付きましたよ」  「じゃあ、この段ボール箱を持って下さい。河村は座っていたときに尻に敷いていた紙を広げて、空箱を作り、荷物に仕上げた。二つほど作り、二人で持ち上げた。  「さあ、行きましょう」  荷台を開けて、地面に降りた。昼の陽光が一斉に降り注ぎ、暗いなかで慣れていた目が一瞬白んだが、すぐに慣れた。  「こっちです」  河村に導かれて、裏口に進んだ。街路の向こうに歩哨が立っていたが、ちらりとこちらを見ただけで、疑いの目を向ける様子はない。  開いていた裏口から中に入った。荷下ろしの時間は、自ずと限られている。長くてもせいぜい、十分くらいだ。その間に用件をすまさないといかない。  「でもね、歩哨たちはそれほど、厳格ではない。それに、この敷地には、他にも家がある。いざとなったら車を発車させて、一回りしてから、戻ってくるように、ジムと打ち合わせました。時間はそう気にしなくていいですよ」  河村は、そこまで、慎重に計画を練っていた。  真っ直ぐに客間に行くと、そこで初老の男が待っていた。ソファーに座って新聞を読んでいたのが、足音を聞いて立ち上がり、  「やあ、お待ちしていました。うまく、入れましたね。いつものように」  と笑いながら、河村に言い、手を差し延べた。河村は、手を握り返してから、  「こちらは、お話ししておいた岩田さんです。あなたのエンジェルになれると思いますよ」  と紹介した。岩田も手を差し出して握手した。背が低く、やや猫背だ。いつか、学校の教科書で見たアインシュタインを思わせるような風貌だ。典型的な学者顔というのだろう、と岩田は内心で思った。  勧められて、長椅子に座ると、アレクセーは、白髪の混じった薄い髪の毛をしきりに掻き上げながら、  「これをロシアの政府に渡していただきたい。できれば、エミチャン大統領に直接手渡して戴きたい。それが、私の願いを叶えるための針の穴を通る最良の手段です。それから、それが駄目なら、こちらをエフゲイネフ科学文部大臣に渡して戴きたい。これは、第二の予備的手段です」  アレクーは、予てから用意していたのだろう封印された封書を二通、岩田に手渡した。こちらが、何かを聞く暇もない。  「それで、用件は終わりだ。うまく彼らに会って、成功するのを祈っている」  老人は、背を丸めて、向かい側の二人を見据えた。質問を待つ姿勢だ。  「一つお聞きしたいのですが、その交渉の核である秘密とはどんな内容なのか、お話していただけないでしょうか」  岩田が真面目な表情で、真っ直ぐに聞いた。  「それは、言えないよ。それを言ったら、交渉は出来ない。君達はそれを知る必要なない。自分で調べて見るのは妨げないが。それと、私の家族が無事、私の元に来ることが出来た暁には、全てを明らかにしてもいい。それは、君達が望んでいる世紀のスクープになるはずだ」  「それから、確かめておきますが、私は今の二人に会って、直接、封書を手渡すだけでいいんですね。家族の行く方を調べ、無事かどうかを確かめたりはしなくてもいいんですね」  岩田は確かめて見た。  「いい。そんなことをしたら、家族にも貴方にも身の危険がでてくる。それに、家族はモスクワにはいない。もっと南のいまではウクライナ共和国になった保養地に隔離されている。簡単には会えないんだ。この場所は古くからの避寒地ではあるが、今では海軍の軍港だから、警備はきつい」  時間が経った。アレクセーは、腰を上げようとしていた。二人も立ち上がり、別れの握手をしようとした。  「最後に、一つだけ。その秘密は、もちろん貴方の研究に関係しているのですね」  河村が、鋭く尋ねた。  「ああ、そうだよ。私が生涯掛けた研究の成果に関係している。いまは、こうして、ここに、押し込められて、研究手段を取り上げられているが、本当は、忘れられない。研究を続けたい気持ちは変わらない」  アレクセーは、声を顰めて、耳元で囁いた。明らかに、盗聴を警戒しているのだ。  先程、運び込んだ空箱を乗り越えて外に出た。そして、荷台に滑り込んで、扉を閉めた。大型トラックは、エンジン音を上げて、発車した。    ワシントンに戻り、ホテルに入った岩田は、預かってきた封書二通を、開いてみたい誘惑に何度もかられた。だが、いずれも、封筒は厚いアラビアゴムで厳重に封印が行われていたので、開封は断念せざるを得なかった。しかたなく、トランクの一番奥に仕舞い込んでみたが、その教えられない秘密を持ってモスクワに行かなければならないか、と思うとじくじたる思いを振り切れなかった。  ベッドに寝そべって天井も見つめながら、いろいろ考えを巡らしてみたが、ただ、メッセンジャーとして、モスクワに行き、政府の高官に渡りを付けて中身を知らない文書を手渡すだけでは、あまりに芸がない気がした。これでは、単なる使い走り、メッセンジャー・ボーイに過ぎない。その意味で、小包運送会社の運送員に変装したのは、秀逸だったな。河村のアイデアはパロディーとしても、なかなかのものだ。そう考えついて、苦笑いした。  とはいえ、渡された秘密への探究心は衰えなかった。自分が知らない秘密を届けるのは、やはり、納得が行かない。こうなれば、あらゆる手段で探ってやろう、と決心して、ベッドサイドの電話機を取り上げた。ダイヤルしたのは、米国留学時代に寮で同室だったリチャード・アマコストだ。今は、おあつらえむけにCIAの科学セクションにいる。医学部を出て、政府機関に就職したのは変わり種だが、もともと、探偵小説や007映画が趣味だった。彼は自らの好みのままに、職業を選んだのだ。なにしろ、明るい奴だった。寮のクリスマス・パーティーでは、丸い巨体を生かして、いつもサンタ・クロースを買って出ていた。そのときの口癖は、  「おれは、五歳の時からサンタクロースをやって来た。年季が入っているんだ」 なのだった。  最初の電話ですぐに、アマコストは捕まった。長い間、会わなかったが、彼は岩田を忘れてはいなかった。それどころか、モスクワ特派員時代に書いた記事を覚えていて、  「英語の要約だが、エミチャン大統領との単独会見記事は、参考になったよ」  と言ったのだ。だから、会見の約束は、すぐに取れた。学生時代を回想しながら、CIAの知っているアレクセーの秘密を聞き出せるかもしれない。彼が、科学セクションにいるのは、幸運だったといえるだろう。  その日の昼に、ポトマック川の河畔にあるベンチで待ち合わせることにした。政府職員が良く行くレストランでは返って目立つだろう、という配慮からの場所選びだった。散歩をしている途中に、知人に会うことは多いから、だれも、疑問には思わない。それに、ワゴン売りのホット・ドッグにコーヒーなら、この町の昼食の定番だ。公園に行く前に、二人分のランチボックスを買っていくから、と約束して、電話を切った。  アマコストは、その容貌とは裏腹に、繊細で用心深い男だ。それに、時間に厳しい。待ち合わせ時間に遅れたことはない。クリスマス・イブに世界中の子供たちが待っているサンタクロースは、時間に正確でないと勤まらないのだ。  岩田が、指定された三十五番のベンチに座って、葉桜になった桜を眺めていると、ふいに、背中を押す男がいた。サングラスを掛けているので、すぐには分からなかったが、  「おい、久し振りだな」  と手を差し出したので、アマコストだと知れた。  「突然、何用だね。こんな所で、餓鬼の頃の思い出話をしようというのかい。いやに、急いでいるようだが」  「すっかり、お見通しだね。そのとおり、君の担当している職務に関係していることではないか、と思ってね。これから、聞くことは国家機密に触れるのは間違いないのだから」  「そうか、では、心して聞こう」  アマコストは、岩田の隣に座って、質問を待った。川風が心地よい。流れの中に水鳥が数羽浮かんで、餌を探している。  「ロシアから亡命したアレクセーという男を知っているだろう」  岩田はできるだけさりげなく聞いた。  「ああ、知っているよ」  アマコストも端的に答えた。  「彼は、なぜ亡命したんだい」  「理由は、分からんが、モスクワのわれわれのエージェントに接触し、政治亡命を申し出た。公式的には、それまでに勤めていた政府系の研究機関を解雇され、研究が続けられない、というとことだった。われわれは、彼の研究が国防上有益であると判断して、亡命を手伝った」  アマコストは、高級公務員の公式の顔付きである、唇を噛んだ硬い表情のまま、即答した。  「国防上有益な研究というのは何なんだ」  「君も知っているだろうが、彼は遺伝学者だ。だが、従事していた研究は、イルカの軍事利用に付いての研究だ。今ではウクライナ共和国になったが、旧ソ連の黒海沿岸の軍事都市、オデッセーに、秘密の軍事研究所がある。そこでは、冷戦時代から、イルカの軍事利用が研究されてきた。彼は最後はその研究所の副所長だった」  「国立遺伝学研究所でハエやトンボの研究をしていたのではないのか」  岩田は河村から聞いたとおりの話をしてみた。  「いや、それは、表向きの話だ。たしかに、研究所の名前はそういう名だが、実体は軍の研究所だ」  「それで、イルカの軍事研究というのは」  「イルカを訓練して、不発魚雷の探索に役立てようというんだ。私は良くわからないが、イルカは、海底の砂の中に埋まっている異物を感知する特殊な能力を持っているらしい。それに、訓練すれば、言うことを聞く知的な能力もある。だが、それはきれいごとの理由だな。イルカに武器を乗せて置けば、攻撃手段にもなる。潜水艦攻撃では有効だろう。君の国が我が国に対して行った特攻作戦をイルカにやらせるのが究極の目的だろうよ」  岩田は、自閉症児の治療にも役立つというイルカの人懐っこい姿を思い浮かべて、人間という動物は、あんなに愛嬌のある動物も、戦いに役立てようと研究する業の深い存在だと、辟易した。  「だが、冷戦の終結で、その研究も縮小された。ほとんど予算も付かなくなり、彼は御祓箱にされた、というわけだ」  「それが、亡命の理由か。では、なぜ、米国が引き受けたんだ」  「それは、研究の成果を手に入れたかったからだろう。我が国も研究していないわけじゃないが、歴史が浅い。最近やっと、フロリダで、イルカの訓練を行う準備が整った程度だから」  「彼の研究は、その準備には役立ったのかい」  「いや、殆ど、役立たずだった、と聞いている。そもそも、黒海のイルカと大西洋のイルカでは、種類が違う。大きさも違うんだ。だから、餌付けのやりかたからして、違うらしい。餌そのものが違うから、そうなるのだそうだ」  「じゃあ、彼の亡命は、君らには、労あって益なし、ということか」  「いまのところはな。彼は実際、我が国民の税金に寄生している。これといって、役立つ研究もなく、こちらにきてから新しい成果を上げたわけでもない」  「じゃあ、なぜ、匿っているんだ」  「われわれの官僚組織の論理がそうさせている。一度、決めたことを変えるのは、そう簡単ではない」  自由と民主主義の総本山、アメリカの官僚組織にも前例主義がはびこっているらしい。  「とすると、彼が家族を呼び寄せたいと願っているのを叶えないのはなぜなんだ」  「それは、理由がないということだろう。家族の側にその意思があり、行動を起こせば、事態が動く可能性もあるが、そういう動きがない。大体、家族が居るのかどうかさえ、確認されていない。彼がそう主張しているだけなんだ。海外渡航の申請がロシア政府に出されているかどうかは、われわれは、確認していない、ということだ」  「じゃあ、ハッキリ言って、彼は君達にもお荷物なんだね」  岩田は話を総括しようと、断定的に聞いてみた。  「そういう面が強いが、それは、われわれレベルの判断だ。もっと、上の判断は違うかもしれない」  「というと」  「長官から次官クラスは、アレクセーの処遇に付いて、今後のわが国の遺伝子工学の発展のために有用な人材、と判断しているようだ。そういう決済書類を見たことがある」  「ということは、遺伝子学者としての彼に期待しているということか」  「まあ、そうだね。だが、彼は何も研究していないんだ」  「税金の無駄使いだな」  「そう、我が国の納税者が、なにもしない亡命学者を、養っていると知ったら、容赦しないだろう。だからこそ、秘密は厳重に守られないと行けない」  アレクセーが、国家管理の一定の地区に押し込められ、厳重な警備が行われている理由と、彼が希望を叶えるために、アメリカのではなく、一見して分かる日本の新聞記者に接触してきた理由が理解できた。  大体の事は、分かった。時間が来ていた。ランチタイムはもう終わりそうだった。  「ありがとう。これは、僕の手土産だ」  美しい西陣織のハンカチーフをアマコストに渡した。実用品ではなく、壁に掛ける装飾品だ。彼はそういう小物の美術品に凝っていた。それも、細かい物事に関心がある彼の性格らしかった。  「ありがとう。大した役に立たなくて済まない」  「いや、大いに参考になった」  二人は握手して、別れようとした。別れ際に、アマコストは、  「ああそうだ、彼のことでいえば、家畜の遺伝子操作も研究していたのは、間違いないよ。ハエやトンボだけじゃない。イギリスで羊のクローンが作られたとき、彼に聞いたんだ。彼は、自分はとっくにあんなものは、作ったことがある。しかも、猿でやったんだ、と言っていた。イギリスで成功した博士は、彼の英国留学時代の大学の後輩だそうだ。それで、対抗意識もあるのだろう。だが、確固たる証拠や論文があるわけではないから、またわが身の保身のために、大法螺を吹いたんだ、と聞き流したがね。いやに、自信たっぷりだったのが、印象的だった」  と言って、手を振った。    その最後の言葉が岩田の意識を捕らえて、離さなかった。政府職員のアマコストが、全てを正直に話してくれたとは思えないが、岩田の長いジャーナリストとしての経験からは、あらゆるインタビューの内容には、最低でも六割の真実があるはずだった。しかも、相手が打ち解けるに従って、真実に近付いてくる。だから、相手の別れ際の最後の一言は、最も重要なのだ。  アマコストの話からおぼろ気に浮かんできたのは、アレクセーが間違いなく、ロシアではかなり、枢要な遺伝学者だったということと、相当長い間、軍事研究に携わっていたということだ。その価値を認めて、アメリカ政府は彼の亡命を手助けしたが、その対価はまだ得ていないらしい。だが、一端、受け入れてしまった以上、送り返すこともできず、血税を使って養っている。その理由は、彼が遺伝学者であり、その面で役にたつという期待があるというのが、高級レベルの判断のようだ。  岩田はトランクの奥に押し込んだ二通の封書の中身をわずかに覗いたような気がした。だが、家族を呼び寄せるための重要な取引材料だろう、と考えられるその中身とは、何なのか。それが、解明されなければ、岩田のモスクワ行きも、もやもやを抱えたまま、欲求不満の不愉快な旅になりそうだった。だが、そう時間の猶予があるわけではない。  鳥海は、モスクワには「九月の出展作品の打合せには行ってもらいます」と言っていたが、それまでは待てない。それが、最終日程になるにしても、それまでに、現地の様子を探っておきたい。そして、出来れば、大統領らに会って、アレクセーの封書を直接、手渡したかった。  その前に、アレクセーが、専門に研究していたという遺伝子工学に付いての知識を仕入れておいたほうがいいだろう。岩田はそう考えて、米国国立衛生研究所の教授になっている日本人の旧友に、思い当たった。高校の同級生で、一番勉強が出来た秀才だった。岩田も出来ないほうではなかったが、数学では天才肌の彼には、まったく歯がたたなかった。岩田が問題の意味を考えている最中に、彼は解答に取りかかっているのだ。「数学は直感の学問である」という我が国の高名な数学者の言葉を真実味を帯びて、感じたのはそういう時だった。いくら努力しても彼には叶わない、と岩田は彼を崇拝していた。  その彼、谷口専太郎が、今年のクリスマスに、グリーティングカードを送ってきて、「こちらにお出での節は、ぜひお寄り下さい」書いてきたのが思いだされた。その住所と連絡先を岩田はいつも持ち歩くシステム手帳に転記しておいた。  (どうせ、他に予定はない。封書を受け取れば、今回の渡米の目的は果たしたことになる。今後の方が、難題が多いだろう。なにしろ、ロシアの高官に渡りを付けないといけないのだから。だが、そのときのためにも、知識は仕入れておいたほうがいい)  岩田は、谷口の連絡先に電話を入れて、研究所に尋ねていった。その場所はボストンにあった。飛行機で行くしかない。幸いワシントンとはシャトルがある。岩田は早朝の飛行機に飛び乗り、昼過ぎに、深い森に囲まれた研究所に着いた。  谷口は高校時代と変わらない柔和な表情に、すこし学者の威厳を湛えていた。だが、静かな話しぶりや、相手の言うことをじっくり聞いてから、自分の意見を述べる落ちついた態度は変わらない。こういう人物こそ、学者になる、と思うとおりの人柄だった。  「実は、遺伝子工学について、最新の研究状況について、ご教授願おうかと思いましてね」  岩田の願いを谷口はじっくり聞いてから、  「どういう目的かは知りませんが、私が知っていることなら、なんでも聞いてください」  と鷹揚な構えを見せた。  「最先端は、クローン技術でしょうね。これは、体細胞から遺伝子を抽出して、他の母体の卵子に移植し、子供を得る技術です。最近では、イギリスで羊の体細胞を移植して誕生したドリーという子羊が有名です。この技術を使うと、母と全く同じ個体が、いくらでも作れる。だから、特定の免疫や体質を生み出す個体を大量生産できる。薬の生産工場として使えるわけです。また、食肉生産で特定の優良な品質の肉を持つ品種を生殖に寄らずに大量生産することもできるようになる。多くの可能性を秘めた二十一世紀の技術ですね」  「品種改良が簡単にできるわけだ」  「そう、掛け合わせなくても、最適な遺伝子を抽出して発生させれば、個性の現出の管理も可能です。思いどおりの品種を作り、われわれの意のままに、生命を操れると言うわけです」  「凄い技術だが、恐ろしい面がある」  「そうです、生命の根幹に係わることですから、倫理的に道徳的に社会がどう受け入れるかが、この技術の未来を決めるでしょうね」  「でも、歯止めがなければ、どこまでも、進んでいくでしょうな」  「究極は、人類のクローンを作ることでしょうね。われわれの体細胞から抽出した遺伝子で、まったく同じ形態と性質を持った個体が出来る。いま問題の臓器移植のドナーの問題も一気に解決する。まったく、拒絶反応を起こさない臓器が、クローンから手に入るわけですからね。自動車のパーツを代えるように、悪い臓器を取り替えればいい。理論的には一つのクローンがあれば、本人は二倍の人生を生きられるわけだから、不老長寿が現実になる」  「まったく同じ人間ができるわけか。すると、そのクローンは、意思がないのですか」  「そこが、大問題ですね。もし、脳を持っていれば、意思は生まれる。痛いや冷たいという感覚だけでなく喜怒哀楽の感情も持つでしょう。辛い楽しい、苦しい嬉しいも分かるわけです。また思考も出来るだろうから、彼は生きて行きたいと思うでしょうな。他人の犠牲になりたくはない、臓器を取られて死にたくはない、と考えるでしょうね」  「でも、もう一体、クローンがあれば、彼も助かる」  「理論的にはそうなります。際限もなく命の貸し借りが繋がり、最終的に命の意味が消失するかもしれない」  「生命はそう重大なことではなくなるというんですか」  「そう。命がたった一つという考えは消えるでしょう。幾らでも、パーツはあるんですから。人は人生を辞めたいときに辞められるようになるんですよ。いま、車をそうしているように」  「でも、脳が死んだらお終いでしょう」  「人格が脳に宿っているとしたら、その人の人生は脳の死で終わるが、顔つきや体格で区別がつかないもう一体の自分は残ることもできる。人生の記憶や人格は違うが、見たところは死んだ人と同じ個体が残ることもありうるわけです」  「まったく想像も出来ない恐ろしい事態ですね」  岩田は気分が悪くなってきた。谷口は部屋の隅のコーヒーメーカーから、コーヒーを注いできて、岩田に勧めた。岩田は暖かいコーヒーを、一気に流し込んで、滅入っていた気分が、幾分落ちついた。  「最後に、お聞きしますが、その技術は、人間にも適用できる段階なんですか」  「できるでしょうね。だが、だれもやらないでしょう。人の創造は神のみが行えることです。神の摂理に従わなければならない。人はその領域まで、まだ、至っていない。将来は分かりませんが」  谷口は、最後にアマコストと同じフレーズを口にした。  (そうか、将来は分からないのか)  岩田はその言葉を反芻した。そして、谷口が  「できるでしょうね」  と断言したのが、納得できた。今はすでに、出来る段階に達しているのに、倫理と道徳と宗教とが歯止めを掛けているのだ。ということは、そういう歯止めを超える理由と意思と力と動機があれば、彼らはやるということだ。ヒットラーたちがその限界を、屁理屈と空元気で踏み越えて、ユダヤ人の大量虐殺に手を染め、オッペンハイマーらが、国家の圧力と戦争終結へと意図から原爆開発に盲進したとおなじように、何らかのせっぱつまた理由で、その禁断の木の実に手を伸ばす輩が出ないという保証はない。とくに、情報と言論が閉鎖された独裁国家や専制国家のもとでは、無原則に命令が全てなのだから、権力者がそうすると決めたら、研究者はやるに違いない。  その恐れがある独裁国家は現在でも、地上に多数存在している。  (自由化前のソ連もそうだった)  と気が付いて、岩田の体に戦慄が走った。  谷口は、  「我が家に泊まっていってくれ。ゆっくり旧交を暖めあおう」  と提案したが、岩田は辞退した。話の内容が、あまりに現実離れしていたのに、恐ろしい現実感があって、いたたまれなかったからだ。谷口の家に泊まったら、多分、岩田はさらに落ち込んでしまうだろう。すぐにでも、ワシントンに引き返して、荷物を取りまとめ、モスクワに向かわなければならない、と気が焦った。そうしなければ、いても立ってもいられない。岩田の気持ちは切迫していた。  まず、エミチャン大統領を、この目でしっかり、見てみないといけない。それが、岩田が、この際、まず最初にすべきことだ、と思われた。    モスクワは、新緑の季節を迎えようとしていた。上空から眺めたモスクワの市街は、所々に、斑点のように緑が浮き出ていた。これから、一番素晴らしい季節がやって来る予感で満ちていた。  岩田はインツーリスト・ホテルに旅装を解いて、すぐに、モスクワ支局に電話した。出きたのは、後輩の谷岡俊介だ。岩田が東京に戻るのと入替えに、モスクワ支局に赴任した。たしか、河村と同期のはずだが、河村とは対照的にもの静かな男だった。足で稼ぐより、机の上で仕事をするタイプの記者だ。そのかわり、克明に切り抜きをしている。本も良く読む。彼の新聞記者としての上がりは、絶対に論説委員に違いないと、岩田は確信していた。それだけに、むしろ、足で歩くタイプの岩田とはそりが会わない。引き継ぎのとき、岩田は、この地で培ってきた人脈を彼にバトンタッチしようという気になって、彼を誘ったことがある。だが、彼はにべもなく断った。  「大丈夫です。僕は僕なりのやり方がありますから、岩田さんの友達は岩田さんが大事にしてください」  と言い放ったのだ。  それで、岩田は人脈を引き継ぐのは止めた。その中には、政府職員の女性もいたが、もちろん、彼女を引き合わせる積もりはなかったが。  「おっや、驚いた。岩田さんは、神出鬼没ですね。事業部に異動になったと思ったら、モスクワですか」  谷岡は本人はそのつもりではないのだろうが、言葉に刺がある。言葉のはしはしから、冷たい性格が滲み出てくるような話しかたをするのだ。谷岡は明らかに、岩田を揶揄していた。  「すまんね、突然現れて。これも、仕事の一環でね。来年の美術展の下見だよ」  岩田は嘘を言った。だが、他に言うべき理由がない。それに、あながち嘘とばかりは言えないだろう。事実、トレチャコフ美術館とプーシキン造形美術博物館にも足を運んでみる積もりだった。  「それで、御用は」  「いや、来ているのを、田岡君に言っておいてほしいのと、後でそちらに顔を出しますからと」  「そうですか。支局長は用事で出ています。お伝えします。お待ちしていますよ」  谷岡は、そういう点は如才ない。今の三十代の青年の特徴だ。だが、心はこもっていない。常套句を言っただけなのだ。そう、マニュアルに書いてある、とでもいうのだろう。  岩田が支局に行って聞きたかったのは、田岡の意見だった。毎日、ロシアの首脳を観察している彼に聞けば、岩田の疑問は氷解するだろう。それに、支局には写真のスクラップもある。それを比較してみるのだ。大写しになっている写真なら、なにかの、ヒントを掴めるかもしれない。そして、そのあとは、人脈を辿って、政府の情報を取る。そこで、確信が得られたら、あとは、直当たりだ。  岩田は昼過ぎまでホテルで休んでから、一年ぶりのモスクワの市街に出た。プーシキン通りの裏に、旨いピロシキを食わせる小さなレストランがあったが、そこで、軽食を取ってから、トレチャコフ美術館などに回ってみる積もりだった。と言って、岩田は美術には疎かった。ただ、エカテリーヌ女帝が、多くのフランドルの画家達の陰影のある油絵を集めていたのは、知っていた。サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館にはレンブラントらの夥しいコレクションがあるはずだった。  (モスクワの美術館には、どんなものがあるか、見てみよう)  と思い立ったのだ。  一つだけで十分な大きさのピロシキを腹に詰め込んで、美術館に回ったころは、もう、午後五時を過ぎていた。午後六時過ぎは、支局では一息入れる時間だ。東京へ夕刊の原稿を送り終えた時間なのだ。支局員はこれから、夕食に出る自由時間になる。  田岡に、ワシントンで買ってきたベストセラーの本を渡してから、岩田は、奥の応接室で、田岡と話をしていた。読書家の彼には、洋書の新刊書がなによりのおみやげなのだ。  「一年いないと町の様子もすっかり変わるね。あれほど賑わっていたマクドナルドに閑古鳥が啼いていた」  「ああ、自由化で他にも似たようなファースト・フードの店が出来たし、ロシア人は案外味覚にうるさいんだ。味に飽きたこともあるだろう」  「そうか、やはり、生活習慣、特に食物の好みはそう簡単には変わらないな。一番、しつこいかもしれない。俺なんて、毎朝のように社員食堂で納豆定食を食べているよ」  「懐かしいな。ところで、用事はなんだ」  田岡も時間には厳格だ。同僚とはいえ、不意の来訪者に割いている時間はあまりない。  「大統領の身に何か、変わりはないかと思ってね」  「ええ、それは、どういう意味だい。これといって、ないだろう」  「ほら、一時、心臓が悪くて、公式の席に姿を見せなくなったろう。あれから、復帰したわけだが、特に変わったことはないかい」  「手術はアメリカの医師の執刀で成功した。そのあと、長く療養していたが、少し、体が弱くなったような感じはあるが、そう変わらないだろう」  「アルコール中毒のほうはどうだい」  「ああ、病気になってから控えているようだが、飲んではいるようだ。止めるわけにはいかんだろう。止めろというのは、死ねと同じことだと、彼は側近に漏らしたそうだ。寝酒や食中酒は欠かさないようだな」  「顔つきなんかには変わりはないかい」  「頬が弛んで、動作がゆったりとするようになったのは、分かる。でも、もともと彼はそう俊敏なほうではなかったろう。大病をした老人はあんなもんだろうね」  田岡の言うことは間違いなさそうだった。一番身近にいて、毎日観測しているのだから、言うことに違いはない。用事で出掛ける田岡に、スクラップを見せてくれるように頼んで、会議室で見はじめた。若い谷岡も、大使館での約束があるからと、出ていった。そのお陰で、岩田はじっくりと、写真を見ることができた。  エミチャン大統領の五年前の写真は確かに精悍で、若々しく、精力的に見えた。最近の要人と会見したときの写真は、一気に年老いて見える。だが、顔の染みや目の表情に変わりはない。あきらかに、彼は同一人物に見える。岩田は、手術前と手術後の写真を正確に比較してみた。大した変わりはない。手術後は少し、痩せたようだが、顔つきは変わっていない。  (俺の推理を裏付ける証拠はなさそうだ)  と落胆したが、それは、予想の内だった。  岩田は支局長席の上の古い型の電話を手にして、覚えていた電話番号を回した。それは、個人の住宅で、こちらが盗聴されていなければ、通信の秘密は守られる。それに、最近は、その盗聴もマスコミ関係では行われなくなっている。  「もしもし、たかしです。ああ、久し振りだね。本当に元気かい」  相手は女性だった。驚きの声を上げていた。少しの間、再会の喜びを語りあったあと、  「これから会いたい」  と申し出た。相手はすぐに承諾した。  「すぐにでも会いたい」  と応じた。  それはそうだった。モスクワ空港ビルの柱の陰に隠れて、静かに手を振っていたオルガの姿が、岩田の目に焼きついて、離れない。あれは、一年前の今頃だった、と岩田は思っていた。  「おどろいたわ、あなたが来ているなんて」  オルガは、独り暮らしの狭いアパートのソファーに腰掛けながら、隣に座った岩田の耳元で囁いた。そして、  「今夜は、帰らなくてもいいんでしょう」  と確かめた。彼女はこの一年間、この再会を待っていたのだと岩田は確信した。ほかに、男は出来なかったのだろう。多分、その前の一年間にあったことを、思い出の中に押し込んで、仕事に打ち込んでいたのだ。こうして、日本人の男が、親しくしていることは、誰にも分からなかったはずだ。それほど、秘密保持にはお互いに、気を使った。それだけに、会うたびに二人の感情は燃え上がった。秘密であればあるほど、恋は燃え上がる。禁断であるほど、恋は切ない。共有する時間がかけがいのないものとなるのだ。  ウオッカを煽ってから、一緒にシャワーを浴び、ベッドに寝ころんだ。仰向けに寝た岩田の唇を上からオルガの横に形良く広がった大きめの唇が覆った。それからは、一年間の不在を責めるようなオルガの攻勢が続き、岩田は必死で持ちこたえて、オルガの希望どおりに登り詰めて果てた。  「やっぱりあなたが最高よ。この地球に、ほかにこれほど肌が会う人はいないわ。ああ、最高だったわ。あとで、もう一度ね」  旅で疲れている岩田の気持ちに構わず、おそろしい事を言った。  「その前に聞きたいことがある」  「なんでも聞いて。知っていることは話すわ」  「ほら、君のボスだがね。変わりはないかね」  「ああ、何の変わりもね。相変わらず、昼間からウオッカを飲む癖は治らないけど、量は以前の半分くらいに減ったわね」  「そいつは、いい兆候だ」  「医者に厳しく言われているのよ。それに、私達も気を付けている。出す酒を薄めたり、いろいろ工夫しているわ」  「ほかに、変わったことはないかい。食べ物の好みが変わったとか」  「大体、昼間は食べないからね。ただ、トイレに行く回数は減ったみたい。それに、簡単に人に会わなくなった。それと、前に会ったことのある人を忘れることが多くなった感じ。あなたの事なんか絶対に忘れているわよ」  「でも、俺は忘れない。握手をした感じさえ、鮮明に思い出せるよ」  「じゃあ、会って握手をしてみれば。どう変わったか、変わらないか、分かるでしょう」  「会わせてくれるかね」  「ああ、簡単よ。理由さえハッキリしていれば、断れないでしょ」  「理由は、この前の美術展の成功のお礼と、次の展覧会のお願いだ」  「いいでしょ、明日予定に入れておくわ。その前に、する事をしないとね。朝まで頑張ってね」  岩田はその夜、一睡もできなかった。疲れ果てた体を引きずって、起き抜けで元気に出勤していったオルガの後から、アパートを出てホテルに帰り、ベッドに倒れ込んだ。起こされたのは、オルガからの会見予定を知らせる電話だった。  「明日は、午後四時すぎが空いているわ。私が会見希望を文書にしておいたから、多分許可がでるでしょう、なにしろ、私が入れたスケデュールは絶対だから。今夜は、外で食事をしましょうね」  「ああ、例のレストランを予約しておくよ」  そのレストランは、日本料理屋なのだ。オルガは、ウラジオストック生まれとあって、魚が好きだ。特に天麩羅と寿司には目がない。だが、高い日本料理屋には国家公務員の安給料では簡単に行けない。それで、度々、岩田がその店に連れてきて、関係が深まった。ロシア人の客はあまりいないから、密会にも最適だったのだ。  オルガは喜んでその店にやって来て、上手に箸を使って、二人分の料理を殆ど一人で平らげた。三十代後半の小柄な体格の女性だが、胃袋は青年のままだった。金髪がウエーブをかけたように自然に波打っていて、時折、横目で岩田を見ながら、掻き上げる仕種が、官能的だった。顔の作りは全てが大作りだった。大きな瞳と尖った鼻、それに広がると、蝦の天麩羅でも一口で飲み込む口。だが、配置のバランスがいいために、醜くはない。美人ではないが、男好きのする顔だった。  オルガはその夜、アパートには帰らず、岩田のホテルに泊まった。激闘が続いたが、朝までは無理だった。岩田の体力が持たなかったのだ。そして、オルガは欲求不満のまま眠った。前夜、一睡もせずに出掛けていったのだから、疲れていたのだろう。    翌日、岩田はクレムリンの大統領執務室の応接室で、会見を待っていた。オルガがやって来て、ウインクして去っていった。それは、「今夜は、頑張ってね」というサインのように岩田には見えた。  人の背の五、六倍はあるようは高い天井の広い会見室で、大統領は待っていた。与えられた時間は、十分しかないから急がないと行けない。  「ようこそ」  と差し延べた大統領の手の感触が記憶とは違っていた。挨拶もそこそこに、アレクセーの封書を渡した。早速、開封して、中身を読んだ大統領は、  「そうですか。趣旨は理解しました。それより、あなたが秘密の真実に迫ったはずだと、これには書いてある、どうですか」  と問い返してきた。岩田は全ての疑問を質そうと思った。  「わたしは、あなたが、影武者じゃないかと疑っている。あるいは、アレクセーが作ったクローンで、本当の大統領ではない」  「はは、あのイラクのフセインのようにですか。でも、クローンは、私の年ではできませんよ」  「それなら、影武者だ。その秘密を漏らさないのを条件に、アレクセーは、家族を救おうとしている」  「その証拠は何処にあります。憶測だけでしょう」  「いや、あなたは、いま、封書を手にしたでしょう。この封筒は私が戴く。以前にお会いしたとき、あなたは、私に記念の煙草を手渡してくれた。覚えていますか」  大統領は頭を傾げて、記憶を否定した。  「あなたは、知らないだろうが、あの箱は、そのまま、取ってあります。指紋を比べれば、全て明らかになりますよ」  「それがどうなんだね。指紋が違い、私が影武者であっても、事態はなにも変わらない。君がスクープをしても、世界情勢に変化はない。現代は、本物でなくコピーが世の中を動かしている時代だ。大量複製の時代なんだ。デジタル時代がそれに拍車を掛けている。複製だろうと、そのように見えればいいんだよ。イメージで十分なんだ。わがロシアには、面白い諺がある。『大きな熊でも小さな熊でも、熊は熊だ』というのだ」  「ロシアン・アネクドートか。まるで、ロシアの特産品のマトルーシュカ人形(入れ子細工人形)だ」  「そう、私は大きい殻の中に入っていた中子かもしれない。入れ子細工は、君の国の工芸だ。それを、我が国の職人が、取り込んで、ああいう形に仕上げたんだ。この国はそういう伝統を持っている。職人も学者もいい腕をしている」  エミチャン大統領の入れ子が、喋っていた。威厳も素振りも、本物と変わらない。  「ロシアには誇るべき産物が沢山あります。その中で一番の私の好物が何だかわかりますか」  「貴方が本物なら、それは、ウオッカでしょうな」  「ですから私も飲めるように一生懸命努力したのですよ。でも、完璧にはいかなかった。ですが、すこし香料を加えると口当たりがいいのです、いかがですか」  「戴きましょう」  記者には、勧められたことに逆らう習性はない。  大統領は自ら、壁際にしつらえられたサイドボードから、酒瓶とグラスを取り出して、注ぎ、岩田に手渡した。  グラスを手に、一口啜ると、微かな薔薇の香りがした。  「これは、上品な香りだ」  「その香りに助けられて、どうにか、飲めるんですよ」  「イギリスの薔薇の香りだ」  「それで、私が何処の生まれか、を判断しても無駄ですよ。私はロシアで生まれ育ったのですから」  「でも、推測は出来る。遺伝子操作技術はイギリスが一番進んでいるんだから。そして、アレクセーは、イギリスに留学していたことがある」  大統領の赤ら顔が、引きつった。  そして、  「でも、君は書けないだろう」  と断言してから、サイドテーブルのベルを押して、インターホンでオルガを呼びだし、  「あれを頼む」  と命じた。  オルガは、小さなガラス瓶を手に入ってきた。白い濁った液体が入っていた。  「一昨晩、あなたが私にくれた物」  「これで、君のクローンを作ることもできるんです。われわれは、いまは、その技術を持っているんですよ」  大統領は、赤ら顔を歪めて、岩田を射すくめた。  結局、岩田は、書かなかった。  アレクセーの家族が、ロシアからアメリカに出国できたか、どうかは、分かっていない。  第二章 「シャンペンにモスキート」 モスクワから帰った岩田は、事の顛末を編集幹部に報告したが、クレムリン宮殿での最後の場面は、言わなかった。「疑惑はあるが、確証がない」ということで、事を収めようと思ったのだ。河村からの報告を受けていた山田編集局長らは、岩田の報告に満足しなかったが、この件を任せてあるのは岩田なのだから、本人が記事を書きたくないといえば、それ以上は、なにもできない。それが、新聞社の常識だ。  帰国後の岩田は、この報告が終わってから、三階の事業部で、手持ちぶさたに、時を過ごしていたが、あれだけの時間と経費を掛けて、空振りに終わらせるのには、じくじたる思いを抱いて過ごしていた。いったん係わった事件を、放棄するのは、岩田の新聞記者としての主義に合わなかったし、会社に迷惑を掛けてしまったという、古い会社人間としての後悔もあった。  (どこかで、この借りは返さなければならない)  と思いながらも、有効な手立ては、思いつかなかった。  アレクセーの家族が、無事、ロシアから出国して、アメリカでも、どこでも、自由に行動できる場所に出てくれば、例え、確証がなくても、彼の証言だけで、権力者の秘密を暴くスクープを、仕立て上げることはできる。だが、いまは、その条件が満たされていないのだ。ロシアのエミチャン大統領が、アレクセーの私信をどう扱うか。その一点に、家族の帰趨と特種の成否が掛かっていた。大統領とは、秘密の約束をし、その信義を裏切ってはいない。「書かない」とは言わなかったが、彼は「君は書かないだろう」と言い、実際書いていないのだから、信義は守らているわけだ。  あとは、大統領の決断を待つしかない状態に、事態は行っている。こういうときは、望んだ方向に結論が出るように、ただ、待つしかない。それは、いつまでのことになるか、分からないが、ただ、待つしかないのだ。そして、忘れそうになったころに、記憶を喚起するような行動を取るしかない。手紙でも面会でも、そのときまで、控えておいたほうが良さそうだ。  岩田は以上の判断をして、黙りを決め込むことにした。すると、彼はすることが無くなった。九月にモスクワを再訪問する予定は、鳥海から聞いていたが、それまで、四カ月以上の時間がある。七、八月の夏休みは、今年は、大胆に取れそうだ、とほくそえんだ。だが、そういう、長い休暇をしたことがないので、どうしていいのかのほうが、問題だった。それに、まだ、夏は先なのだ。  岩田は、その間、暇になると好きな映画を見ていた。有楽町の新聞社の跡地に出来た映画ビルは、座席もゆったりして、気持ちがいい。そこで、やっているアメリカ映画のロードショウを、岩田は何度も見に行った。そこで、気が付いたのは、近年のハリウッド映画の、テクノロジーの驚くべき進歩だった。人間の頭の中のイメージを、具体化して、映像化する技術は、想像もできない奇想天外な映像を、スクリーンに投射していた。  バットマンが、高層ビルから、飛び下りて着地する映像には切れ目がなかった。これを実写で撮ったとしたら、途方もないカメラが必要だろう。また、恐竜が画面狭しと歩き回る場面も、人形を使ったらあれほどリアルに撮れないに違いない。いずれも、コンピューター技術がもたらした成果なのだ。  岩田はそうした、めくるめく場面を繰り返し見ているうちに、その場面はどのようにして作られたかに、関心が行った。家に帰ってもシーンが浮かんで来て、撮影の仕方が気になって、考えているうちに、朝まで過ごしたこともある。  岩田の心に、持ち前の探究心がわき上がってきた。  (それを調べるには、現地に行くしかないだろう)  思い立ったら行動は早い。  翌日、岩田は海外出超届けを認めて、鳥海に提出した。  突然、届けを出された鳥海は、  「ええ、なんですか。また、行くんですか。でも、うちの仕事はもうありませんよ。ええ、目的は」  とぼやきながら、書類に目を通した。  「美術展ディスプレー方法の視察ですか。行き先はロサンゼルス」  一応それだけ確認してから、机の向こうに立っている岩田のほうに顔を上げた。  「はい、ハリウッドです。あちらの映画関係者に会いたいと思いましてね」  「ディスプレー法の視察といったって、わが社の美術展は、展示の仕方も伝統的に決まっているしね。今までではいけませんか」  この男は、飽くまで慇懃無礼である。  「いけないという訳ではないですが。いまは、コンピューター技術の進歩で、美術のディスプレー方法も、革新的な変化に見舞われているんです。ただ、作品を置いて、その前に文字での解説を付ければいいというわけではない。ビデオ・ディスプレーを使ったり、画面に流れる画像とテロップで解説するとか、いろいろと新しい試みができるようになったんです」  「そういうことはわかります。でも、基本的に展示方法は、博物館や美術館などの会場側に任せているんですよ。それは、彼らのメインの仕事ですから」  鳥海の反論は、論理的だった。たしかに、新聞社は展覧会の企画は立てるが、中身をどうするかは、専門家に任すケースが多いのだ。それを展示の仕方まで介入しようというのは、やりすぎの感も免れない。  「いや、将来のためですよ。そうなる事態に備えて、勉強しておかないと」  そう反論した岩田に、鳥海は決定的な事をいって、届けを葬った。  「いいんです。貴方にはそんなことまで、期待していません。いずれ、上に帰る方ですからね。ただ、個人的に、勉強したいというなら、有給休暇ということで、行っていただいても結構ですが」  それは、社用での出張でなく、個人的に休暇を取っていくのは構わないと、言うことだ。仕事での出張なら、交通費や滞在費の他に所定の日当まで出る。日当を使えば、小遣いくらいにはなる。それで、お土産を買ったり、飲食費も賄える。岩田は海外に行くとき、そういう形しか知らなかった。  それが、有給休暇を使う個人的な旅行となれば、交通費も宿泊費も飲食代も自分持ちで、その上、貯めて来た休暇もなくなるのだ。条件はまったく悪かった。  だが、あの衝撃的なシーンの秘密を知りたいという意欲は、消えない。  (よし、思い切って、自腹でいこう。そして、うまく行ったら、学芸面に原稿を書けば、宿泊代くらいはでるだろう)  と結論した。  一日、考えた結果、その翌日に、岩田は有給休暇届けを出した。渡航の予定が、この三日後になっていたが、鳥海は承認の判を押して、人事部に提出した。これほど、日が迫っていたのにかかわらず、認めてられるのは、新聞社らしかった。いつでも緊急に、飛びだしていかなければならない事態は、起きる。だから、外に出ることには、新聞社はいつも寛大なのだ。    岩田はロサンゼルス空港に着いてから、ヘルツのレンタカーを借りて、ハリウッドに向かった。着いたのが夕方だったので、まずは、泊まる場所を確保しようと、ホテルかモテルを探してみる積もりだった。この前、ロスに来たのは、ロス暴動取材の応援に来たときだった。そのときは、リトル・トーキョーにある、日系のホテル・チェーンの都ホテルに宿を取って、快適だった、だがその時は、潤沢な出張旅費を持っていた。今回は、すべて自前の旅だ。なるべく、安く上げたいと、レンタカーまで借りたのだ。車があるからには、高いシティーホテルより、安くて便利なモーテルがいいと考えて、サンセット通り辺りを捜し回ったが、良さそうな所は見つからなかった。しかたなく、岩田は車を当てどもなく走らせて、間もなくパロマー天文台に登る坂道が始まる公園辺りにまで、走っていた。その入口付近に、大きな看板を掲げたモテルがあるのに、気が付いた。看板の鉄骨が錆ているのが、気になったが、ヴァカンシーという掲示が出ていたのを頼りに、車を駐車場に入れて、フロントを訪れた。カウンターには人は居なかった。嫌に雑然としたフロアに、ノートが置いてあり、宿泊者の自由な記入があった。その中に、日本語で書かれた文章を見つけた。若い大学生がヒッチハイクをしながら、この宿に泊まったようだった。  岩田はそのノートを見て、このモテルに親近感を覚えながら、カウンターのベルを押した。すぐに、出てきたのはラテン系の顔つきをした中年の男だった。岩田が部屋はあるかと聞くと、どんな部屋がいいかと聞き返した。なるべく安くて、バス付きの部屋を希望すると、男は無愛想に、壁のキー掛けから、一本キーを選んで、手渡した。そして、その部屋は、二階の真ん中だ、とだけ言って、レシートを示した。前払いの要求だ。岩田は書かれていた金額に宿泊予定の三日分だけ掛けて、「スリーデー」と指を三本示して、金を払った。男は金を領収し、裏に引っ込んだ。なんとも、事務的な光景だ。無愛想と横柄とがぶつかりあうような人間関係が、この地でこれから、岩田がしようとすることの姿を暗示しているようだった。  酷い部屋だった。荷物を解いたときは、大して気がつかなかった。シャワーも風呂もそれなりに揃っていたし、ベッドは綺麗に整えられていた。一見したところ、日本の駅前のビジネスホテルなみの設備の数は揃っていた。エアコンもついている。  岩田は、一安心して、ベッドの上に横たわって、これからの予定を練った。とにかくハリウッドの映画関係者に当たって、特殊効果を行うプロダクションを紹介してもらうことだ。それは、いまの内にやっておこうと、映画会社の広報に電話を掛けはじめ、幾つかに当たるうちに、だいたいの見当が付いてきた。それは、この町の東の新しい工業地区にあるようだった。岩田はその制作会社に会見のアポイントメントをとった。電話口に出た女性は愛想が良かった。岩田が新聞社の名前を名乗りと、相手は「よく知っている」と言い、さらに、「たまに、読んでいる」とまで、言った。そういえば、彼の新聞社は、衛星経由で国際版を現地印刷しているのだった。  事前の準備は、夕方には終わった。晩飯はチャイニーズ・シアター近くの中華料理店で取ることにして、徒歩でモーテルを出たときには、その夜の地獄は想像していなかった。  ビルの影に潜むように店を構えているその中華料理屋の料理は旨かった。インディカ米を使ったチャーハンが絶品で、日本で食べるのと違い、粘りのない米の特質が上手に生かされていたし、なにより、具の大きいのが気に入った。貝や蝦やチャーシューが、大きいのに味はそう淡白ではなかったのだ。  満腹して、モテルに帰り、風呂に入るかシャワーを浴びるかして、寝る用意を始めたとき、最初の異変が起きた。風呂に入ろうと、蛇口をひねったが、お湯が出ない。幾らこじ開けてもちょろちょろと出てくるのは、冷たい水だけで、しかも、細い流れにしかならないのだ。岩田は仕方なく、シャワーを使うことにした。こちらはコックを捻ると、最初は赤い水が出た。菅が錆びていたのだ。だが、さらに大きく開くと、水量が増え、温水が出てきた。水温もそう低くない。「これなら、使えそうだ」と考えて、岩田はシャーの下で、疲れた体を癒そうとした。だが、その水量が続いたのは、一応、体全体を流した時までで、後が続かない。か細い水流を頼りに体を洗っていると、突然、水量が増した。どうも、他の部屋で使うときに、水量が減るらしい。これでは文句の言いようがない。他の客も同じ迷惑をしているのだろうから。  岩田は不快な思いをしながら、体を拭いて、着替えをして、ベッドに入った。タオルや石鹸などは、きちんと用意されている。そういう備品類はしっかりしているので、見たところは、立派な部屋なのだが、機能が整っていないのだ。  決定的なのは、エアコンの音だった。周囲が車の音などで騒がしく、テレビを見ている間には、そう気にならなかったが、いざ、寝静まる頃になってから、この静かに続く低音が、耳に付いて、なかなか眠れない。「しゅーしゅー、ふーふー」というモーターとファンの通奏音を絶え間なく発している。日本のように、時折止まったり、まったく、気にならない程度の音ではないのだ。多分、古いエアコンを使っているのだ。エアコンは、見た目では性能は分からない。動きだして始めて、動作音や冷暖房の能率が分かる。形ではなく働きこそが、大切な機械なのだ。それが、いざ働くときになって、この態では、動いている意味が半減だ。だが、スイッチを切ってしまうと、密閉された部屋は、蒸風呂になる。岩田は最低レベルに落として、効率は落ちても音量を抑えようとしたが、それも効果がなかった。音は殆ど変わらないのに、効率だけがガタンと落ちて、室温が上がりはじめたのだ。  そのため、岩田は、時差惚けで疲れていたのに、その夜、殆ど一睡もしなかった。夜食で栄養を取ったので、体力は、持ったのだ。  不快な朝を迎えたが、約束は守らなければならない。特殊撮影をする制作会社には午前中に訪ねていく約束をしたので、早めに車でモーテルを出た。違うモーテルを探すことに決めていたが、三日分は払い込んであるので、帰ってから交渉をしようと考えて、車を進めた。途中、ファミリー・レストランで軽い朝食を取った。典型的なアメリカンスタイルのコーヒーとホットドッグのメニューは、岩田には有りがたかった。その程度しか、胃袋は受け付けないのだ。だが、その量の多さはさすがで、半分食べるのがやっとだった。  ここでも、アメリカの現代文明は、見栄えで押していた。量はどっさり、見た目は良く、がこの近代国家のあらゆる面での、思考法なのだ。  岩田が訪問しようとしている「コンピューター・グラフィック・マニュファクチュア」(CGM)社は、ロッキー山脈に向かって東にいったロス郊外にあった。ハイウエーを降りて、導入路を行くと、広大な敷地に、白い建物が一棟だけ建っているのが、見えた。入口の脇の盛土の上に社名を彫り込んだ大きな石碑が、あったので、すぐに、そこだと分かった。  受け付けにアジア系の若い女性がいたので、案内を請うと、  「三階のCGディレクター、ダニエル・タナカが、ご説明することになっています」  と言われた。  エレベーターで三階に上がり、個室の表札を見ていくと、一番奥に「ディレクター・イン・チーフ」と書かれたドアーが見つかった。岩田はノックして、応答をまった。  「どうぞ、お入り下さい」  直ちに声がして、ドアーが開いた。  岩田の目の前に現れたのは、小太りの小柄な東洋人だった。  「初めまして」  と型通りの挨拶を交わしたあと、タナカは、岩田を自分の隣の椅子に招いて、  「どんな、お話をすればいいでしょう」  と丁寧な日本語で聞いた。  「いや、驚きました。日系の方ですか。助かったな」  英語を使わなくていいのは、さすがに、岩田もほっとした。人並み以上の英語を話せるものの、やはり、日本語のほうが、すんなりと会話ができるのは、否定できない。  「いや、僕は三世です。ですから、日本語は余り出来ません。挨拶程度なんです」  岩田の期待は、早速外れた。英語に頼らなければならない。  「実は、私は、ハリウッド製の映画が最近、すっかり、変わったので驚いて、その秘密を探ろうと思いましてね」  とズバリと聞いた。  「ああ、かなり、コンピューターで作るようになりましたからね。この部門は、驚くべきスピードで、進歩しています。一年、いや、半年前には考えられなかったことが、今では出来るようになった。また、半年後は、想像も付かない画像が作れるようになるでしょう。そのうち、全てが、コンピューターで、制作される日が来ると思いますよ」  田中は自信に満ちていた。  「そこで、基本的な事から聞きたいのですが」  「時間が許すかぎり、どうぞ。約一時間の約束ですね」  「はい。あの、バットマンの映画もこちらで、制作されたと聞いていますが、摩天楼を飛行して、地上に落ちる場面で、カメラがまったく途切れずに、バットマンを追っていますね。あれは、どうやるんですか」  「それは、一言では説明できませんね。複雑な過程を経て、あの場面は作られたのです。ただ。基本的には、モーフィングという技術を使っています。これは、静止画を動画に動かすやり方です。簡単に言えば、アニメを実写に置き換えた、と言うことでしょうか」  「駒撮りをするんですか」  「そうです。でも、フィルムは使いません。銀板フィルムを使わないので、現像の必要のないし、いくらでも修正が効くのです。そこが、ディジタル処理の素晴らしいところです」  「たとえば、ある画像を動かすとしたらどうするのですか」  「それには、ソフトがあるんですが、そのソフトは、次の画面の座標を指定すると、自動的に前より少し画が動いた画像を作ります。それを自動的に繰り返す事もできる。単純な動きなら、数駒自動的に作ることも出来るんです」  「アニメのセルをコンピューター内で描くわけだ」  「そうです。でも、元の画像は、写真ですから、画とは違う。画質が詳細なだけ、情報量は多いから、メモリーと記憶デスクの容量が必要です。CPUも速くないと行けない。そうしたバックアップ部品の機能が最近、急速に良くなった。だから、映画でも見劣りしない画質を作れるようになったんです」  「すると、コンピューターは、映画でも、アニメと同じように、画像情報を扱っているわけですね。ただ、量が違う」  岩田は念を押した。  「そう言ってもいいでしょうね。映画も基本的には絵なんですから」  「すると、その絵は、実写を使うんですか」  「そうですね。実写で撮れるものは、撮ります。コンピューター上だけで、描く物もある。それを旨く合成するのが、腕の振るいどころというわけですよ」  田中の説明は親切だったから、この方面の知識は余りない岩田にもよく飲み込めた。  「すると、俳優の画面は、実写なんだ」  「それだけとは、限りません。例えば、ケネディー大統領が、最近の劇映画に出てきて、主人公の男優と握手する場面がありますね。それは、演技した男優の実写を加工して、古いニュースフィルムに取り込むのです。その場合、新しいフィルムは確かに実写ではありますが、基本的な動作をしているだけで、組み合わせるときは、ディジタル化して処理するので、映画フィルム上の演技のような感じはしませんよ。だから、それは、本人でなくてもいいんです。顔つきとイメージを損なわないように、いくらでも加工できる。極端なことをいえば、顔写真くらいがあれば、どうにでもなります。胴体から下は違う人が演技して、スターの顔を乗せることだってできる。こうなると、二十一世紀の俳優は、イメージだけを売り物にするようになるかもしれない。顔さえ、その人のものなら、動きは誰がやっても、あるいは、コンピューターにやらせてもできるんですよ」  「凄いですね。俳優に演技が求められなくなる。二十一世紀の映画には、演技がなくてもいいと」  「まあ、極端に言えばそうです。実際、実在しないキャラクターを主人公にしたディズニーのアニメもできています。電脳空間だけで生きているキャラクターは、もう、たくさんいますよ。ということは、生身の俳優も、コンピューターに取り込まれると、ディジタル情報に過ぎなくなる、ということです。取り込まれた瞬間、現実世界を越えるんです。こちらの世界は寿命も喜怒哀楽もない、二進法の世界ですから、感情なんてない。感情は生きていることの証ですから、生命ではないが、生きているように見える。見えるだけだから、実体はないし、死もないということです」  「そうか、記録の中では人は死なないんだ。これは、クローンの場合と同じだ。生命体でその影を保存できるのが、クローンなら、コンピューターは、機械的・電気的に人の影を保持できるのか」  「たしかに、そうですね。例えば岩田さんが、姿と声をコンピュターに入れておけば、死んだあとも、原稿を読んだり、歌を歌ったりすることができますよ。遺族のかたは、時々、それを呼び出して、会話もできる。そういうソフトが既に出ています。ディジタル・ワールドでは、人の命は不滅です」  田中は、その仕事がら、全面的なコンピューター崇拝者のようだ。  「ところで、例えば、ある俳優が死んだりしていた場合、新しい映画に登場させるときは、古い画像を使うだけですか」  「それが、また、いろいろあるんです。複雑な動きは、古いフィルムをコンピューターの中で加工するだけでは、無理です。だから、その時は取り直す。新しいフィルムを使うんですね」  「でも本人は、死んでいるんですよ」  「それが、今の世界には、実に多様な人がいるんですよ。これも、複写文明の成せることかもしれないが。世界中に、そっくりさんはいるんです。我が国でも、日本でも、テレビでは『そっくりショウ』が視聴率を稼いでいるでしょう。だれでも、この世に一人や二人似た人がいるといいますからね」  「ああ、そっくりさんを使うのですか」  「そういうこともあるようです。うちに送られてくるフィルムをみると、本物と分からない位の人が多い。また、メイクアップの材料や道具もいまでは、いろいろとあり、化粧術は、コンピューターと同じ以上の、急激な進化をしているようですよ」  「あなたが見ても、わからないのなら、完璧だ」  「そのまま、使っても構わないくらいのが多いんです。でも、もっと、本物らしく、という厳しい要求があって、本物以上に本物らしくなってしまう。こうなると、なにが本物か分かりませんね。それより危機感を持っているのは、スタントマンたちです。ハリウッドにじゃ約千五百人のスタントマンがいると言われていますが、その半数以上が失業の危機にあるんです」  「そうか、危険な撮影はもう必要なわけだ、むしろ、彼ら以上に衝撃的な映像を作れるわけだから。スタントマンは、失業しても、そっくりさんは生き残るという傾向ですか」  会話が弾んだ。タナカは、こういう話を、はるばる日本から訪ねてきた初老の記者に話しているのが楽しそうだった。  「それで、私もハリウッドに来て、始めて知ったんですが、そういうそっくりさんばかりを集めているプロダクションまであるんですよ。世界中の有名人のそっくりさんが、登録してあって、メンバーだけで興業を打っている。ラスベガスのカジノやホテルでは、そういうショウの需要がある。それで、ツアーを組んで、国中を回っている。大元締めは、そんなわけで、裏社会のボスだという噂ですがね」  「面白い話ですね。そのプロダクションは、ハリウッドにあるんですか」  「そうです。なんでも、ロデオドライブのビルに事務所があって、大変な稼ぎだとか、地元の新聞が書いていたのを、読みました。興味があるのなら、コピーしましょうか」  タナカは、どこまでも親切だった。机の引き出しからスクラップを取り出し、コピーを取りにいった。  そろそろ、約束の時間も過ぎていた。コピーを受け取ったら、引き上げようと、タナカが戻るのを待って、立ち上がった。  タナカは、愛想よくコピーを手渡し、岩田の差し出した手を握って、揺すり、 「なにか、あったら、いつでも来てください。なんでも、お手伝いします」  と髭面を綻ばせた。こういう仕事をしている人間が、良く持っている特有の人なつこさだ。  岩田は、車に戻って、新聞記事のコピーを読んだ。最後に住所が書いてあった。有名ブチックが、軒を並べる高級ショッピング街、ロデオドライブの外れの場所のようだった。小さな三階建てのビルの中にその事務所はあった。  岩田が中に入っていくと、向かいの窓際の席に、痩せた黒人の男が座っているのが見えた。男は岩田が入っていったのにも気が付かず、電話で盛んに話をしている。相当の早口で、しかもしゃべりかたは、エディー・マーフィーそっくりだった。よく見れば、顔やスタイルも似ている。  岩田が立って待っていると、男は電話を切って、こちらを向いた。  「やー、応募ですか。でも、あんたは誰に似てるの」  と突然、高い声で偽エディーは言った。  「いや、応募じゃないんです。映画作りのの話を取材している日本の記者です。CGM社で紹介されたので」  「ああ、あの電気屋たちかい。ハリウッドでは、だれでも、すぐ、友達になる。よろしく」  偽エディーは、如才なく手を差し出した。岩田は、固く握り返した。  「こちらは、そっくりさんだけのプロダクションと聞きましたが」  「そうですよ。おれは、ご覧の通り、エディー・マーフィー。ほかにも、スターは全てそろっています」  「あなたが、経営者ですか」  「いや、俺はGM(ゼネラル・マネージャー)といったところかな。実務の運営を任されてる。オーナーは、他にいる。アメリカじゃないがね」  偽エディーは、軽口に見えて、肝心の所は、うまく暈していた。  「どのくらいの人が登録されているんですか」  岩田は肝心の点を確かめた。  「人数で言うと、五百人くらいかな。世界中から引き合いがあるんで、最低そのくらいの人はいないとね。でも、うちは厳選しているからね。顔が似ているだけじゃなくて、体付きも声もある程度、似ていないといけない。だから、タレントには自信があるよ」  壁際の棚に、アルファベット順にファイルが並んでいた。偽エディーは、その中の一冊を取り出して、岩田に見せた。表紙には「D」の字が見えた。  「これが、登録タレントのプロフィール登録紙です。これはダスティン・ホフマン。それと、次がダニエル・カーン。デニス・ホッパーもいますよ」  岩田は冊子を受け取って、自分で捲ってみた。  「おや、デビー・クロケットまで。死んだ人までいるんですね。歴史上の人物だ」  「そう、映画はどんな人物でも、必要とするんです。本人の似顔絵や写真が残っているかぎり、そっくりタレントの需要はある。でも、そういう稀少な人物は、滅多にお呼びがありませんがね」  「そういえば、一番、仕事が多いのは、だれです」  「トップは、クリントン大統領だね。これは、ダントツだ。だから、五人もいる。次が、ヒラリー夫人。それから、イギリスのダイアナ皇太子妃。エリザベ女王も結構、人気だな。最近は、SF映画でも大統領が出てくる場面があるから、ロシアのエミチャン大統領も人気がある」  岩田は言われて、持っていた「D」のファイルのダイアナの項目を捲ってみたが、ダイアナのそっくりさんは入っていなかった。  「ああ、いま言った人気者は、別のファイルになっています。われわれにしてみれば、稼ぎ手だから、良く使うんですよ。それに芸能関係だけの需要じゃないんです。なんの目的なのか、申込みの時には分からない引き合いもある。政治的なイベントでの仕事もあるようです。それは、我々は関知しません。ギャラさえもらえれば趣旨は詮索しません。うちのタレントも秘密は厳重に守ります。そういう有名人は、こちらのファイルですよ」  岩田は、ダイアナを見てみたくなった。ファイルを開くと、そこには、五人のそっくりさんが登録されていた。皆、よく似ている。大きな瞳と、上目遣い、ふっくらとした頬と横に開いた唇。僅かな部品の差はあるが、全体的な雰囲気は、ダイアナ妃そっくりだった。  「ほんとうに、世間にはよく似た人がいるんですね」  「そうです。考えてみれば、部品は同じですからね。鼻は鼻、目は目だ。その部品が少しずつ形が違い、配置の僅かな差が、個人個人の顔を作るんです。組み合わせだから、場合によっては、似るんです、こう見えても、僕は大学で数学を専攻したが、数学的には、計算できる変位ですよ」  そのとき、ドアーが開いて、長髪で顔の長い白人の男が入ってきた。偽エディーは、今度は、真っ直ぐ、入ってきた男を見て、  「やあ、ボブ、久し振りだな。元気だったかい」  と言って立ち上がった。  「ああ、こちらは、日本の記者の岩田さん。こいつは、ボブ・ディラン」  と紹介したが、その瞬間、偽ボブ・ディランは、敵意を持った目つきに変わり、  「おれは、ジャップは大嫌いだ。これだけは、最初に言っておく。いいか、おれは、ジャップが、嫌いなんだ」  と言って、外を向いた。岩田は呆気にとられて、椅子に座り込んだ。  「すまないね。奴は、ああやっては、初体面の人に自分を印象付けようとするんです。この前は、有名な映画監督に、ユダヤ人は嫌いだとやったし、黒人のスタッフに黒は嫌だ、と言っていた。そういうやり方で、役を取ったことがあるから、習い性となっている。それに、本人に似せて、反体制ぶっているんです」  確かに汚い敗れたジーパンとジーンズのジャケットの服装は、六〇年代から七〇年代にかけての反体制フォークシンガーそのものだった。  「おい、ところで、ジーンは、見つかったのかい」  偽エディーが、偽ボブにしんみりと聞いた。  「いや、依然として、行方は分からない。家にも行ってみたが、普段のままだ。荷物を片付けたような、様子もない。帰ってくれば、すぐにも、生活を始められる感じだ。だから、自分の意思で出ていったようには思えない。書き置きもなかったしな。まったく、どうしたんだってんだ。五年も一緒にやって来たんだぜ。それが、おれが、興業から帰ってきたら、姿がないんだから」  「警察には届けたのか」  偽エディーが聞いた。  「いや、届けたって、何の役にも立たないだろう。まともに家出人の捜索なんかしてくれない、なんていったって、ロスでは、年間千人近くの家出人が出るんだ。一人ぐらい、ダイアナ妃のそっくり女がいなくなったって、だれも、気にしないさ」  岩田はそれを聞いて、とっさに、ダイアナのそっくりさんの場所も捲っていた。  プロフィールには当然、本名が出ている。ジーンという名前のそっくりさんの履歴と写真は、一番目に挟んであった。一番目ということは、一番似ていて、需要もあるということだろうと、岩田は想像した。たしかに、良く似ていた。このまま、写真グラフに出しても、だれも、気が付かないだろう。慎重は百八十五センチとある。本物と同じ背格好だ。  「ほんとうに、あいつのスケデュールは、入っていなかったのか」  偽ボブが、偽エデイーに詰め寄った。  「うちの仕事は、先月のドイツのテレビが最後だ。あとは、来週、パリのクラブの仕事が予定に入っているが、これは、事情によっては、キャンセルだな」  「ジーンももちろん、予定を知っているんだろ」  「もちろんさ。彼女は仕事に穴を開けたことはないから、あんたが帰ってこないあいだに、勝手に出掛けたんじゃないか。ギャラは現地で直接本人払い、となっているし」  「パリへ行ったのかな。どう思う、そこの日本人」  先程、あれほど、罵ったのに、偽ボブは、人なつこい笑顔を見せて、聞いてきた。  「私は、よく、わからないが。これほど、ダイアナ妃に似ている人だから、探す気さえあれば、すぐに、捕まるんじゃないですか」  岩田は、愛人か夫か分からないが、この男への揶揄の意味を込めてそう答えた。  「そうか、探す気か。そうだな、やる気だな。愛する者を探そうという意欲が大事だ。さすがにサムライだ。気持ちさえ入れれば、カミカゼが吹くか」  偽ボブが、日本を一面でしか理解していないのが、この言葉で知れた。反体制のフォーク・ゼネレーション世代に典型的な知識の偏りと薄さと自己過信だ。  岩田は他のダイアナ妃のそっくりさんが、四人いるのを、そのファイルで確認した。この四人も一見、似ていたが、ジーンには、叶わない。居なくなったジーンは、それほどまでに、そっくりだった。  岩田は、ふと思いついて、エミチャン大統領のファールを見た。そこには、一人だけ登録されていたが、全く似ていなかった。目のつり上がり具合いが、やっと、似ていると思えないこともないが、への字の唇、たるんだ頬など本人の特徴は、平らな唇、張りのある頬などの偽物の顔では、見えて来ない。  岩田はそろそろ、引き上げようと思って、最後に取っておいた質問をした。  「ところで、こういう仕事を考えだしたオーナー。あなたのボスはどんな人ですか」  偽エディーは、先程、その質問を巧みに交わしていたが、こんどは、すこし、気持ちが通じるようになっていたためか、  「ああ、ドイツ生まれのアメリカ人だ。と本人はいっているんだ。おれは、ロシア生まれのユダヤ人で、ドイツ国籍を持っていると睨んでいるが、本人は出自を明かさない。家はサンタモニカにあるが、年中世界中を飛び回っているから、めったに、家にはいないよ。今月は、一週間前に電話してきただけだ。これから、ヨーロッパに行くと行っていたが、どこの国とは言わなかった。言っても仕方ないだろう、いろんな国に行くんだから。神出鬼没の人だよ」  「なんて言うんですか」  「俺たちの間じゃあ、ジーン・ハックマンと言っている。彼自身、ハックマンのそっくりなんだ」  「ジーン。それじゃ同じじゃないか」  偽ボブが、こちらを向いた。  「名前が同じなんて、どこにでもいるよ。それに、男と女じゃ、同じでも区別は付く」  「旅券偽造以外はな」  偽エディーが、目を瞑って、言い放った。  それは、二人のジーンの何らかの関係を知っている目つきだった。だが、偽ボブは、気が付かない。  「十年前に行った東京はよかった。アジア特有の雑然とした雰囲気に、一定の秩序もあった。だが、いまの東京は嫌いだよ。高層ビルが湾岸に建って、大きな吊り橋までできたって言うじゃないか。これじゃ、ニューヨークやロスといった西洋文明の国と同じだ。世界が、アメリカと同じになっていくのなんて、耐えられるか。世界中が、どこへ行っても同じ風景なんて、詰まらないじゃないか。君達が持っていたアジア的混沌は、何処に行ったんだ。アメリカの真似ばかりしている日本人は嫌いだ」  このボブ・ディランの偽物は、自分が物真似のタレントなのを忘れたかのように、  「嫌いだ(アイ・ヘイト)の文句を連発していた。その連射を避けるために、岩田は、事務所を辞去した。    東京に戻ってからも、仕事はなかった。だが、僅か数日のアメリカでの体験は、これまでになく、岩田を興奮させた。ハリウッド映画の現実と未来を見たような気がしたのだ。現実に生きている物真似タレントにプロダクションがあり、世界的な活動をしている。それには、表に出せない仕事もあるらしい。偽エディーは、世界中から引き合いがあるといっていた。だが、彼らの仕事も、コンピューター制作の進歩で、陰りが見えてきているらしい。こちらは完全に虚構の世界だ。扱っているキャラクターに生命はない。人のイマジメーションが、彼らに生命らしきものを与えているのに過ぎない。  エミチャン大統領の秘密の一端を知っているという懐疑を抱えながら、岩田は、ますます、乖離していく現実と虚構、リアルとイメージの扱いに、人間社会は、これから、どう対処していくのだろうかという重大なテーマに突き当たっている自分を感じていた。  マスメディアも活字の時代は、現実より概念が重視された。文章の力で、書かれた事の中身は、事実だと認識されていたのだ。それが、テレビが発達してからは、画面に映るのはイメージなのに、見ているのは出ている人間の真実と誤認して、現実は虚構の中身となった。あとは、転がるように、事実は虚構に飲み込まれ。いまは、虚構が事実の仮面を被って、大手を振って歩いている。ニュース報道でさえ、やらせや作りは当たり前になっている。また、カメラの前に立つ現実の人間たちが、意識的にか、無意識的にか、演技をするようになっている。街頭インタビューほど、その人の嘘を見せるものはない。人間はテレビ・カメラの前では、絶対に、本心をさらけ出さない。まして、スタジオで制作されるバラエティーや公開番組では、素人さえ演技をする。それが、現代の最先端を行くテレビの現実だ。  その影響は、新聞にも徐々に浸透してきていた。ビジュアル紙面とか言って、カラー写真を多用し、扱う大きさも驚くほど、大きくなっている。スポーツ新聞の一面には、記事より大きい見出しと写真が載っている。すべてが、イメージ先行の時代なのだ。記事は読まれなくなった。というより、読みたい読者は多いのだろうが、そういう読者に応えなくなっている。誇大にイメージを強調し、中身より、見栄えが重んじられる時代の風景だ。写真雑誌が、あまり、感心できない取材方法で、隠し撮りしても、見たい読者がいれば、商売は成り立つ。見たいのは映像であって、真実ではない。映像が真実ならばそれが、一番だが、真実めかしていれば、それで、いいのだ。ここでも、虚構が現実を越える。写真雑誌の多くの読者は、真実など求めていない、真実らしい虚構で十分なのだ。  (だから、最近の新聞記事もは、事実の割合が小さくなった。昔は八割くらいは真実が含まれていたが、今は六割くらいかな)  という実感が岩田にはある。それでも、読者の検閲の目は厳しくなっているから、しょっちゅう、訂正やお詫びが載る。新聞は、読者の信頼を確実に失っているようにみえるのだ。昔は、新聞が書いたことは真実と受け取られたが、今は違う。新聞の書いている記事に、読者は常に疑いを持っている。それは、テレビの影響もある。読者や視聴者は、(それは、いずれも、同じ層の違う表現だが)テレビが真実を写しているような振りをして、嘘を流すことを知った人たちは、新聞も同じではないかと考えているのだ。事実、そうなのだから、この鋭利な感覚は当たっていた。  (次の世紀には、偽物が本物になり、本物は偽物に扱われて、なにが本物なのか、わからなくなるに違いない。その入口に、われわれは立っている)  と岩田のジャーナリストの直感が叫んでいた。 夏休みが近い七月の始めに、岩田が事業部に出社すると、机の上に外国郵便物が届いていた。女の補助員さんが煎れてくれた朝一番のお茶を啜りながら、その封筒を開けると、二通の手紙が入っていた。大封筒の差出人はワシントン支局とあったが、中から出てきたのは、河村特派員の日本語の手紙とアレクセーのタイプで打った英文レターだった。いずれも、そう長いものではない。  岩田は、椅子の背もたれに持たれて、まず、河村の手紙から読みはじめた。  ーー 拝啓、すっかり、暑くなりましたが、その後、お元気にご活躍のことと、存じます。また、先日は、西海岸で楽しい休暇を過ごされたとか、ご同慶のいたりですーー。  こう書き出されていたが、それを読んだ岩田は、  (なんで、あいつが、俺の休暇の行き先まで知っているんだ)  と気味が悪くなった。だが、考え直してみると、河村は岩田の不在中に電話で用件を連絡したのかもしれない。まず、第一報を入れてから、後は書面でというのは、良くある連絡方法だ。とくに、新聞記者は、事件の一報を電話で簡略にデスクに連絡してから、行数などの指示を受け記事執筆に取りかかる。河村もその習性から、岩田に連絡したが、不在のため、直ちに、手紙を書いたのかもしれない。そうなると、部内の連絡の不徹底にしか過ぎないのだ。  事実、手紙の本文は、そう急を要する用件ではないことを語っていた。  ーー 例のアレクセーの家族の亡命は、事態が好転しつつあります。この程、アレクセーから、手紙が来て、その事を知らせてきましたので、手紙のコピーを同封します。読んでみれば、分かりますが、ロシア政府が家族の出国許可をまもなく出す見込みです。しかし、直接、アメリカに渡るわけには行かないようで、ロシア政府は治安が安定しているヨーロッパの先進国での、引き渡しを望んでいます。この要請に対し、アレクセーは、ロンドンでの再会を望んでいます。若いころ、夫人と知り合った思い出の地ですし、土地勘もあるためのようです。それに、アメリカとは多数の航空便があるので、渡航にも便利と踏んだようです。時期は、八月の始めから中頃を双方とも希望しています。ヨーロッパは、バカンスに入り、人が居なくなるのと、旅行客が増えるので、疑いを持たれる危険が少ないというのが、理由です。  日程が決まり次第、詳しく知らせてくれるように、アレクセーには、頼んでありますが、彼はあまり、乗り気ではありません。第三者に知らせれば知らせるほど、危険が高まるというのが、彼の危惧です。ですが、岩田さんは橋渡しをした恩人ですから、会ってお礼をしたいという気持ちはあるようです。できれば、ロンドンに行っていただいて、アレクセーの家族が無事到着次第、一緒にお会いしたいという意向のようです。ですから、八月始めから、ロンドンに滞在しておられるのが肝心と思います、アレクセーには、ロンドン支局の電話番号とテレックス番号、インターネット・アドレスを知らせておきました。  以上、用件まで、ご健勝にお過ごし下さい。             敬具  ーー。  岩田は続けて添付されたアレクセーの英文タイプのレターに目を通した。お茶が飲みごろになっていた。  ーー 親愛なるタカシ・イワタ様  先日は無理なお願いを叶えてくださいまして、有り難うございました。その後、ロシア大統領官房室から手紙があり、私の希望どおり、家族の出国が許される見込みとなりました。これは、秘密機関のルートではなく、正式な外交ルートを通じて、私のところに連絡がありました。時期については、当方はいつでもいいのですが、先方は八月を望んでいます。場所はロンドンになりそうです。私が若いころ滞在した場所ですので、異存はありません。  これで、長い間の願いが叶えられそうです。ここまで、来れたのも、あなたさまの尽力のお陰です。ついては、できれば、ロンドンで、家族にも会っていただき、宿題になっている私の知っている秘密をお話ししたいと思います。妻のライザ、長男のベリエフ、長女のカテリーヌともども、再会をお待ちしていますーー。  岩田はこの文面で始めて、アレクセーの家族の名前を知った。それに、彼が約束した世紀の特種を彼自ら語ると言っている。これは、ロンドンに行かない手はない。この二通の手紙を見せれば、さすがの鳥海も社用主張を認めないわけには行かないだろう。もし、彼がうんと言わなくても、編集局に持ち込めば、あっちの経費で賄えるに違いない。そこいらが、融通無碍というか、いい加減なのが、役所や大会社と違う小資本の新聞社の良いところだ。  善は急げと、岩田は鳥海の席に行って、手紙を見せ、海外出張の許可を求めたが、今度は、鳥海は簡単に首を縦に振った。  「この件なら、最優先です。そう言われていますから。岩田さん、光が見えてきましたね。苦労の甲斐があった。世紀のスクープを期待していますよ。それに、この件は、秘密の特命事項だから、編集経費で請求するのは不味いんです。目的や内容を申告しないと行けないでしょう。ところが、こちらでは、幾らでも名目が付く。今度も、来年の美術館展のための打合せとでもしておきましょう。大丈夫、任せてください」  と胸を叩いた。この男は、万事にそつなく、如才ないのだ。前回とは違い、相好を崩して、岩田の海外出張許可願いの申請書を受け取り、判を押した。  岩田の八月のイギリス行きは、これで、決まったが、出発までには、まだ、かなり時間がある。それまでに、まず、すべきことは、この手紙に返信を書くことだ。河村には、社内回線を使って、パソコンでメールを送ればいい。そのほうが、早く手紙の礼を言うことができる。社内の人間で、後輩なのだから失礼には当たらないだろう。だが、アレクセーには、正規のレターを出したほうが、安全だ。CIAは、チェックするかもしれないが、単純なお礼と、ロンドンでの再会を承諾した、という内容だから、見られても問題はない。 岩田はそう考えて、早速、令状を書きはじめた。電子メールをパソコンに打ち込むにしても、まず、紙に原稿を書いてしまうのが、この世代の宿命だ。直接打ち込んで、手直ししたほうが、速いし、パソコンを使う意味もあるのだが、そうはいかない。パソコンの訂正、挿入といった得意の機能を、なかなか、理解しないのが、団塊の世代以上の、ベビーブーム世代の親父の特性なのだ。    七月は、イギリス行きのための準備の期間と、岩田は考えていたが、それが公用と決まったので、夏休みを取ることに決めた。岩田の夏休みの権利は二週間もあるが、こんなに長く取る人はいない。部内の取り決めでは、約一週間程度になっているようだった。  一階の会社系列の旅行会社に出掛けて、棚に置いてあったパンフレットを、見ていると、「英国皇太子妃、ダイアナさんと行くパリ、ロンドン、アムステルダムの旅」というツアーの募集が目に入った。  その三都市の風景を背景にあしらった上に、ダイアナ妃の笑顔が載っていた。岩田は、じっくりと、その写真を覗き込んでみた。ロスのそっくりさんプロダクションで見たプロフィールの写真の記憶と、無意識に照合していたのだ。だが、それが、本物なのか、偽物なのかは、判然としない。もともと、似ている者を比較しようとしても、イメージだけでは、無理なのだ。  岩田に、遊び心が芽生えた。そのツアーの日程を見ると、七月二十二日成田発の六泊八日、となっている。帰国するのは七月末だ。岩田は八月一日にはロンドンに行って、アレクセーからの連絡を待って、待機する積もりだったから、日程的にはちょうどいい。  (夏休みと英国出張をつなげて仕舞えばいい。そして、帰国の航空券は、業者に売れば、小遣い稼ぎにもなる)  と悪知恵が浮かんだ。旅行代金はシーズン中であり、二十万円そこそこの額だった。岩田は、カウンターに行って、そのツアーの空きがあるかを確認してから、大人一人を申し込んだ。    成田を英国航空機で出発して、シベリア経由の大圏航路で、ロンドンに向かう夜の北極の上空には、オーロラが浮かんでいた。上空から見るオーロラは、円形や楕円形にあるいは、輪郭を波のように打たせながら、光の饗宴を見せていた。その下に、満月の薄い光に照らされた白い氷の平原が続いていた。まどろみから少し、覚醒した眼でその光景を眺めた岩田は、  (地球という惑星は、なんという美しい星なのだ)  という感慨に浸っていた。いつも、シベリア上空で感じる、同じ感動だ。その感動は、いつも、  (それに比べ、この地上で人間がやっていることといったら)  という感嘆を伴って、胸に湧いてくる。  岩田はそういう人間の所業を追って、もう、三十年になるのだ。人に対する興味は枯れていないが、若いころより、泉は枯れてきたのは、実感できた。とくに、日本であの閉ざされた居心地のいい空間にいると、外部への関心は、純粋に抽出されたエキスを通してしか、抱けない。無機質の活字を通して、現実と向き合うのは、岩田の性には、会っていなかった。だから、こうして、いろいろ理由を付けて、外に出掛けるのが、唯一の楽しみだった。そういう意味では、毎日、編集局のデスクに座って過ごすより、今の地位のほうが、ストレスを感じないで済むかもしれない。そうい意味で、今回の人事は岩田個人が思うほど、悪いのではないのかもしれない、と旅に出ている心の余裕もあってか、考えることができた。  ロンドンに着いたのはその日の午後だった。地球の自転を人間が作った音速並みの乗り物が超えたのだ。ツアーの参加者は、十一人だった。年寄りの夫婦が多く、その次は、若い女性だった。それだけで六人になり。あとは、学生風の男の三人連れと岩田と同じ年頃の男性。それで、全てだ。この十一人が約一週間、同じ宿に泊まって同じ釜の飯を食うことになるわけだった。  ロンドンのホテルに直行した客たちは、現地ツーリストの係員の指図で、決まった部屋に入り、夜食までの時間が自由時間になった。岩田はその時間に、八月からの滞在場所の確保に努めた。郊外に広い屋敷を借りているロンドン支局長の三矢亜紀男に、無理を言って泊めて貰うことも出来たが、それは、最後の手段だった。宿泊費も貰っているのだから、その金でホテルに泊まるのが、社用出張の場合のルールだ。それに、会社の経費で借りているとはいえ、個人の住宅なのだから、プライバシーもある。さらに、お礼もしなければならないから、気を使った上に、かえって高くつく場合が多いのだ。そして、三矢は誰よりも、個人の生活を見せることを嫌う男なのは、岩田はよく知っていた。  ロビーのコンセルジュに相談すれば、いいことだ。彼らは詳細な旅行情報を知っていて、どんな難題でも、客の要望に添って手配してくれる。期日と予算と、朝飯付きか、バスかシャワーか、シングルかダブルか、コンチネンタルスタイルか、B&B(簡単な英国式朝食と寝室だけ)とか、最適な宿を紹介してくれるだろう。  岩田は、白髪がはげ上がった信頼できそうな風貌のコンセルジュに依頼し、部屋に帰って寝た。結果の連絡は部屋にくれるように、頼んでおいた。岩田の要望は、八月の始めから長期滞在できる、ケンジントン宮殿近くの家庭的な朝飯付きの宿だった。こうなると、大体の想像はできる。祖先がスコットランドから出てきた老夫婦が営む四階建ての屋根裏部屋付きのB&Bが想像できた。    ツアーは、予想したとおり、呑気な旅行だった。岩田はこういう気楽な旅をしたことがなかったので、旅程が続くに連れて、気が楽になってきた。ガイドの指図のままに、着いて歩けばいいのだから、なにも考えることはない。たまに挟まれた自由行動の時間だけが、なにをしようか、頭を悩ますことだった。若い女性たちは、初めて来たヨーロッパが、楽しいらしく、「わいわい。キャーキャー」言いながら、一際目立つ行動をしていた。そのうちに、岩田は、大学の同級生で、今は「しがないOLをしている」と本人達が言う若い女性の三人組と仲良くなった。向こうの方も、中年男性が一人で海外旅行ツアーに参加しているのに、興味を覚えたらしく、なにかと、気を使って、話しかけてきたのだ。彼女たちは、いま流行の年上の男性とのアバンチュールを、開放された海外で求めていたのかもしれない。  その中の一人に、「王室マニア」と自称する江利子という名前の女性がいた。彼女は、英国王室に特に関心があり、なかでも、ダイアナ妃のことには、特別詳しかった。  ショッピングの時間を付き合った岩田に、彼女は、  「このデパートのオーナーになったアラブ系の富豪の息子とダイアナさんは、いま、付き合ってるらしいの。今度は、うまくいきそうだ、という話だわ。秋頃には、結婚するんじゃないかしら」  とホット情報を打ち明けた。  岩田はその方面には関心がなかったから、空返事をしていたが、アラブの富豪はイスラム教徒だろうから、英国国教徒の妻を娶ることが出来るのだろうか、と考えた。それに、もし、結婚して子供ができたら、その子は、ダイアナが生んだ二人の皇太子の兄弟になるではないか。英国皇室史上初めての異常事態を、エリザベス女王は、耐えられるのだろうか、との思いが頭を過った。だが、それは、その時だけの話で、すぐに、忘れていた。  旅は順調に進み、七月末に予定どおり、岩田はアムステルダムで一行と別れて、一人でフェリーに乗り、ロンドンに向かった。 岩田が泊まっていたホテルに、アレクセーが、電話してきたのは、八月三日だった。連絡先のロンドン支局に、問い合わせて、番号を教えて、もらったのだという。  もどかしく英語の会話を交わした結果、アレクセーが近くのB級ホテルに宿泊したことを知った。東欧や南欧の旅行者が多く泊まるギリシャ人が経営している中級ホテルだということを、岩田はガイドブックを読んで知った。だが、本に載っているくらいだから、悪いホテルではないはずだ。  アレクセーの声に、落ちつきがないのが気になった。彼は焦っているようだった。  「出来るだけ早く会いたい。そして、出来るだけ早く、ここを出て、アメリカに向かいたい」  とアレクセーは、申し出た。岩田もこれには、同感だった。なるべく早く、アレクセーの家族に会って、アレクセーからの取材を済ましてしまいたかった。あとは、彼らがどうしようと、こちらの知ったことではない。  「では、明日にでも、そちらに伺います。時間は午前十時ですね」  と言って、話は付いた。そのあと、岩田は持っていくべき、テープレコーダーやカメラを取り出して点検し、サイドテーブルの上においた。こちらは話を聞く立場だから、これだけあれば、仕事はできる。ノートとペンは常に持っているから改めて点検する必要はない。あとは、明日、約束の時間どおりに、彼らの泊まっているホテルに出向き、家族に紹介されて、アレクセーのインタビューを取ればいいのだ。  (全てが、これで終わりになる)  と思うと、岩田は体から力が抜けていくような気がした。明日一日、頑張れば、その翌日は、世紀のスクープが世界中を駆け巡り、岩田は一瞬かもしれないが、マスコミ界のスターの気分を味わえる。それが、ジャーナリストとしての最高の快感であるのに違いはない。  (ゆっくり寝ておこう)  とその日、岩田は町に出ることもなく、早めに床に就いた。   翌日、岩田は、アレクセー一家の宿泊しているホテルに向かった。電話で聞いたホテルの名は、「ノートン」と言ったが、公園の脇の狭い道路添いに並んだ中級ホテルの真ん中にそのホテルはあった。この付近では、かなりの大きさのホテルだった。岩田は、フロントでアレクセーの部屋の位置を確かめた。浅黒い顔をした中東系の人種の中年の男は、黒々とした顎髭を蠢かせて、  「それは、三階です」  と明瞭に答えてくれ、エレベーターホールの方角を指差した。  それは、古いタイプのエレベーターだった。金色の鉄格子の扉が開くと、静かに止まったエレベーターには誰も乗っていなかった。岩田は乗り込んで、三階のボタンを押した。重い重しを下げたような緩慢な動きでエレベーターは動きはじめた。ゆっくりと二階を過ぎ、三階に止まった。扉は自動では開かない。「オープン」と英語で書かれた飛びだしているボタンを押すと、ドアーはゆっくりと開いた。そのドアーの前に、白いエプロンをしたメードが立っていた。メードは、岩田が乗っていたのに驚いたように、顔を俯かせた。その動作がななにか異様に見えたので、岩田は、少し驚いて、顔を覗き込んだ。浅黒い顔つきの三十絡みの女の顔だった。あきらかに、イギリス人ではない。それは、人種的にと言う意味で、国籍は英国籍かもしれないが、白人だが、イングランド系やスコットランドの白人系ではない。岩田の目では、東欧系の顔つきだった。ただ、背が低く、動作に隙がないのが、気になった。それに、両手をシーツの中に隠しているのが、普通ではない。客室清掃のメードは、そういう姿でシーツを持つことはないのではないか、という違和感が岩田の心にわき上がってきた。  それは確かに、一瞬のことだったが、岩田がそのメードと擦れ違ったのは、エレベーターホールだけで、そのメードは、岩田が乗ってきたエレベーターに代わりに乗りこんで、下に降りていった。岩田は何故か、そのエレベーターの行き先を見ていた。壁の上の停止階示す針は、地下一階に真っ直ぐに進み、止まった。メードは、地下に直行したのだ。  岩田はそれを確認してから、廊下を進んで、アレクセーの泊まっている部屋の前に立った。ドアーの扉をノックしたが、応答はなかった、岩田は再びノックしたが、依然として反応はない。岩田は暫く考えたあと、思い切って、ドアーのノブを回した。鍵は掛かっていなかった。ノブは素直に回り、岩田はドアーを開けて、室内に入っていった。  岩田が最初に見たのは、床に落ちた水滴の跡だった。入口付近のサイドテーブルの上に、氷の入ったアイスボックスと、詮が抜かれたシャンペンのボトルが置いてあった。岩田は、その瓶を持ち上げてみたが、中身は残っていないようだった。  岩田は奥の部屋に向かった。今いるのは入口で、アレクセー達がいるとしたら、さらにもう一枚のドアーの奥にある部屋だと思えわれたのだ。そちらは、方角からして、道に臨む窓際の部屋の筈だった。岩田は、その部屋のドアーのノブを回して、部屋に入っていった。  部屋に踏み込んだ瞬間、岩田は驚いて、その場の光景に自然と目を背けた。灰色のカーペットの上に、四人が倒れていた。部屋のこちら側に、男と女の子供が二人、うつ伏せになっていた。その向こうには、見覚えのあるアレクセーの姿があった。ベッドの脇に体をベッドにもたれ掛かるように倒れ、その右手の先には、ベッドの上に仰向けに倒れている老年の女性の姿があった。アレクセーの妻のライザに違いない。先程、床に倒れていたのは、息子のベリエフと娘のカテリーヌだろう。  岩田はその現場を見て、全てを悟ったが、最初にしたのは、アレクセーの右腕を取って、脈を見ることだった。脈はなかった。次に岩田は、アレクセーの左胸に耳を当てて、鼓動を探った。心臓は停止していた。岩田は残りの三人にも同じ確認をしたが、脈が残っている者はいなかった。四人とも死んでいたのだ。落ちついて現場の状況を観察すると、皆の手の近くにシャンパンのグラスが、落ちているのが分かった。中が空になったものも幾らか残っている者があった。特に、アレクセーが、右手に握っていたグラスは倒れかかっていたものの、かなりの分量の液体が残っており、死因の分析には重要な証拠になりそうだった。  現場の状況は、この部屋で重大な犯罪が行われたことを示していた。すぐにでも、フロントに連絡をして、警察に通報して貰わなければならない。一般人なら、人が四人も倒れている様子を見ただけで、すぐにでも、大声を上げて、部屋を飛びだしている所だが、岩田は冷静だった。それは、多くのニュース現場の潜ってきたジャーナリストの平常心からだった。岩田はまず、持参したカメラで、現場の状況を詳細に写真に撮った。  岩田はその作業が落ちついてから、さらに、部屋の状況を探った。ベッド脇のテーブルの上に置いてあるホテルの利用案内の下に、一枚の写真があるのを見つけた。それは、明るく微笑んだ若い女性の写真だった。岩田はそれを見た瞬間、それが、誰だか、すぐに理解した。写真が写しだしていたのは、この国の元の皇太子妃の笑顔だったのだ。短く整えられた豊かな金髪の下に、愛くるしい大きな瞳と大きめの鼻が並んだ丸顔は、紛れもなく、美しい前プリンセスの姿だった。  岩田は、この国の正教会で執り行われた世紀の結婚式での彼女の初々しい姿を思い出し、ひとしきり、感慨に耽ったが、そんなことを長い間している場合ではない。キャビネ版の写真を、胸の裏ポケットの仕舞ってから、フロントの電話番号を押して、事態を知らせた。あのアラブ人は、確認のためにすぐにも、ボーイを送ってくるだろう。スコットランドヤード(ロンドン警視庁)に連絡するような軽薄な男でなさそうだ。殺人事件が自分のホテルで起きたとあっては、世間の評判が落ちる。出来れば、表に出したくないだろうが、四人が死んだと知れば、考えを変えるはずだ。それまで、少し、時間がいるだけだろう。  岩田はその時間に、ロンドン支局長の三矢に事の次第を報告しておこうと考えて、電話した。電話口に出た三矢は、岩田の話に、それほど興味を示さなかった。ロンドン特派員は市井の殺人事件などには、あまり、興味がないのだろう。ただ、その事件に知り合いの人が係わっているということは、事態が違った。しかも、その知人は自分が勤める新聞社の同僚で、知り合いとなれば、当然話は違うのだ。そのことに気がついたのか、三矢は、それでも、  「すぐに、そちらに伺いますから。待って居てください」  とだけ短く言って、電話を切った。この点では、流石に新聞記者だけのことはある。まずは、現場に行っみないことには、と思ったのだ。  アラブ人が派遣したボーイが現場を確認してから、次にはそのアラブ人がやって来て、現場の惨状を見て、  「これは、不味い。すぐにも警察に通報しよう」  と言い残して、出ていった。その間、岩田は、ずっと部屋の隅の一人掛けの椅子に座って、死んだ四人の事を考えていた。  アレクセーは、間違いなく、ここで、家族と再会した。そして、岩田にそのことを報告しようとこの部屋で待機していたのだ。その僅かな間に事件は起きた。死亡時刻は解剖してみないと確定出来ないが、服装や姿からして今朝だとみていいだろう。岩田との会見の約束を待つあいだに、彼らは死んだのだ。そのことに間違いはなさそうだった。  では死因はなにか。四人の側に落ちていたグラスにはシャンペンが入っていたらしい。そのグラスの中身の液体を飲んで、彼らが死んだということも間違いがなさそうだった。彼らが、自分たちの意思で、死を選んだとは考えられない。なにしろ、彼らは、新しい生活への希望に燃えて、ロシアを出てきたのだ。念願の家族との再会をした直後に、心中するということは、論理的にも考えられない。  ということは、彼らは殺されたのだ。岩田の直感はその点でも正しいだろう。誰かが毒を入れたシャンパンを、知らずに煽って、すぐに死んだのだ。その意味では、入れられた毒は即効性の猛毒だ。飲めば直ちに死を招く猛毒の筈だ。しかも、それはシャンペンに溶けなければならない。粉末を溶かしたか、液体を垂らしたのか。いずれにせよ、犯人は、あのシャンペングラスか、ボトルに毒を入れていたのだ。こういうことは、全て、優秀なスコットランドヤードの殺人係の刑事が解明するだろう。  すると、犯人は、部屋に毒入りのシャンペンを持ち込んだ者だ、ということになる。  岩田は、アラブ人のフロント係に聞いた。  「だれか、この部屋を訪ねた者はいなかったかね」  「それは、貴方が最初ですよ。昨日は知りませんがね。少なくとも、今日はあなただけですよ」  と言って、疑い深い目を岩田に向けた。確かに、岩田は第一発見者だから、最初に疑われるべき立場にあった。アラブ人は、そのことを意識して、  「警察が来るまで、何処にも行かないで下さい」  と念を押したのだった。  小一時間ほどしてから、トレンチコート姿の、背の高い男が姿を見せた。あとから、数人の係員が続いて部屋に入り、持ってきたジュラルミンのバッグから、道具を取り出して、作業を始めた。  「私はロンドン警視庁殺人課のマクファーソンといいますが、あなたが第一発見者ですか」  その刑事は、岩田に向かった聞いた。正統のクイーンズイングリッシュを話す栗色の髪を綺麗になで上げた紳士だった。  「ええ。そうですよ」  「その時の状況を話して下さい」  岩田は要領よく、その状況を説明した。  「そうですか。よく、分かりました。あなたが部屋に入った時には、四人は、倒れて死んでいたということですね。ところで、あなたは何のためにここに来たのですか」  この質問に正確に答えるわけには行かない。言ってしまえば、一級品のニュースを逃すことになる。  「取材ですよ」  とだけ短く答えた。  「何の取材ですか」  マクファーソンは、畳みかけたが、  「それは、言えません。取材上の秘密です」  岩田がそう言ったため、それ以上は追求しなかった。この国は言論の自由の発祥の国なのだ。  「いいでしょう。ですが、貴方には本署に同行いただきます。もっと、詳しい話をお聞きしないといけない」  最初の紳士的な態度と違って、刑事は高圧的になってきた。岩田には、後ろめたいことは何もないから、捜査には積極的に協力する積もりだった。岩田にも、この事件を解決したいという気持ちが強かったのだ。  そのとき、グラスを見ていた鑑識係が、マクファーソン刑事を呼んだ。  「これ、何でしょうね」  鑑識係が持っているグラスには、小さな虫が付いていた。それは、アレクセーが、握っていたグラスだった。残された液体の上に、その小さな異物は浮いていた。見ると足が長く、蚊のようでもある。あるいは、小型のハエかもしれない。とにかく、昆虫類には間違いない。  他のグラスを調べていた係員も、それぞれのグラスに虫の死骸のようなものが、付いているのを発見していた。  「現場の状況を調べおわったら、そいつらを分析室に送ってくれ。それから、シャンパンのボトルもな。毒物を調べなきゃならん」  刑事はてきぱきと指示を出すと、  「だいたい、状況は分かった。それでは本署に引き上げましょうか」  と岩田を誘った。岩田は、言葉に従って、刑事の後を追って部屋を出た。道路には、暗色の公用車が横付けされていた。刑事は岩田を中に誘い、後部座席に乗り込んだ二人を乗せると、車は猛スピードで、テームズ川方向に向かって走りだした。   「どうです。そろそろ、本当のことを話してもらいましょうか」  マクファーソン刑事が、また言った。窓の外にテームズ川の悠々とした流れが見える。スコットランドヤード三階の調べ室だ。  「私は、アレクセー一家と会うために、あの時間にあの部屋に行ったんですよ」  もう何回も繰り返した説明を、岩田はまた繰り返した。  「なんのために会うのかね。遙か極東の国のあなたとアレクセー一家は、どういう関係なんだ」  刑事はしつこく聞く。  「それと、この事件とはあまり、関係ないでしょう。現場で四人が殺された。そこに私が行って、第一発見者になった。それだけが、事実ですよ」  「殺されたというが、どうしてそうだと分かるんだ。君はなにか、証拠でも持っているのかね」  「どうみても、あれは、殺さたんですよ。自殺であるはずがない。やっと、自由になれたんだから」  「自由になれたのか。というと、彼らは亡命者かね」  「まあ、その一種です。念願の国外脱出が出来て、家族で再会を祝っていたんですよ」  「アレクセーが、元ロシアの科学者で、アメリカに亡命したことは、分かっている。とすると、彼が家族を呼び寄せて、再会できたというわけだな」  「そうです」  「それなのに、なぜ、死んだんだ」  「そこですよ問題は。私は、わけあって、アレクセー一家の話を記事にするつもりで、会見の約束をしていたんです。その当日に、殺された」  岩田は全てを話したわけではないが、彼があの現場に行った理由の一端を説明した。そこに、隠したことはあるが、嘘はなかった。  そこまで、言ったとき、若い捜査官が調べ室に入ってきて、マクファーソンに書類を渡した。マクファーソンは、素早く書類に目を通してから、  「死因は、青酸カリの服用による呼吸不全だ。四人とも致死量の薬物を飲んでいた。それから、四人の側にあったシャンペングラスからも、毒物が検出された。テーブルの上に残っていたシャンペンボトルからも、同じ薬物反応が出たよ」  「毒殺か。殺人に間違いなさそうだな」  「そういうわけだ。だから、だれが、薬を入れたかだ。薬を入れたシャンペンを、誰が持ってきたかだ。その人物が犯人という訳だよ。心当たりはないかね」  「それより、死亡推定時刻は何時だね」  「さすがの新聞記者さんだ。よく気が付いたね。ええと、午前八時半から九時半ころとあるな」  「私が行く直前だ」  「とすると、あなたが部屋に入る直前に四人は、薬を飲んだことになる。さらに、その薬はその前に部屋に持ってこられたということだな」  「今朝か」  「多分そうだろう。前夜と言うことも考えられない訳ではないが、その可能性は低い。前夜に飲まれては、君に発見させるまで時間がありすぎる」  刑事はやっと、岩田を第一発見者としてみてくれるようになったようだ。  「シャンペンボトルを持ち込んだ人物を見た目撃者はいないのかね]  岩田は刑事を詰る口調で聞いてみた。  「その捜査は、もちろん鋭意やっているが、今のところ、あの部屋に入った不審者は見つかっていない。フロントはもちろん、シャンペンの注文なんかなかった、と言っている。だから、あなたの証言が貴重なんだ。もう少し、今朝の様子をもう少ししっかり思い出してくれ。それから、きみは現場から重要な証拠を持ち出したりしていないだろうね」  刑事は懇願するような目になった。岩田には最後の質問が気になった。それは、一般的な質問なのだろうが、岩田には心辺りがあるだけに、その言葉は刺のように、突き刺さった。だが岩田は、ベッドの脇のテーブルからこの国の前皇太子妃のポートレイトを失敬したことは、一切黙秘した。  「それから、グラスに付いていた蚊のような虫の死骸だが、あれに付いては君はどう思う」  刑事はまた、青い目に縋るような陰を宿して、聞いた。この男は岩田を犯人とする疑いは、棄てたが、だからといって真犯人を突き止めたという訳ではないのだ。  「分かりませんが、犯人からのメッセージではありませんか。あの部屋にそのような虫がいた感じはありませんからね。犯人が、わざと残したのでしょう。真犯人の重要な手掛かりだと思いますよ」  「同感だ。ということは、犯人は、自分の本当の姿を知ってもらいたがっている、ということだな。われわれが、突き止めるのを待っている。そして、突き止められなければ、さらなる犯行で、ヒントを与えようとする。そういう類の犯人だろう。こういう犯人には、被害者への個人的は恨みや憎しみといった人間関係は関係ない。自分を誇示したいんだ。あるいは、ある特定の主義主張を示したいという動機がある事が多い。そうなると。ことは、複雑になる。単純な殺人事件とは言えないからね」  岩田はマクファーソン刑事の犯罪学の「講義」を聞いて、納得した。  「すると、犯人像は簡単には、割り出せないでしょうね。団体や組織の犯行だとしたら、実行者はどう言う人間でもいいわけだから。背が高いかろうが低かろうが、男だろうが女だろうが、職業だって、なんでもいいんですよ。ということは、犯行において自由だということです。ああいうホテルなら、そこに相応しい人間であればいいんです。似合っていればいい」  「そういう人物に、あなたは心当たりはありませんか」  刑事は改めて、居ずまいを正して、真面目に聞いた。岩田にある光景と人の姿が浮かび上がった。  「ああ、そうか、あのメードだ」  マクファーソンは、岩田の着目に頷いて、早速、似顔絵を作るよう、部下に指示した。  第三章 「路上で散ったプリンセス」  「大変な事件に巻き込まれましたね。四人も殺されたなんて、ロンドンでも最近は珍しい」  ロンドン警視庁に、身柄の引き取りに来た三矢亜紀男・ロンドン支局長は、留置場から出てきた岩田の顔をしげしげと見つめて、言った。  「どうも、迷惑を掛けて済まないな。他に、特に知り合いもいないので、迷惑だとは、思ったが、君を指名させてもらったんだ」  「いや、結構ですよ。このくらいはた安いことでして。事情は良くわかりませんが、岩さんがやってないことだけは確かです」  「それは、当たり前だ。地球の裏側まで来て、そんな事件を起こすわけがない。これでも、俺は海外生活は長いんだ。海外で事件に巻き込まれる面倒くらい、身に染みてわかっているさ」  三矢は、乗ってきた私用車に岩田を導き、自らハンドルを握って、シチーの外に連なる住宅街に車を走らせた。シチーを囲むグリーンベルトの外には、昔のままの田園地帯が広がり、高級住宅地になっている。三矢の自宅は、その一角にあるのだ。自宅といっても、社宅である。会社が借り上げ、歴代の支局長住宅として、使用してきた。  岩田も一度だけ、その住宅に行ったことがある。モスクワからの出張の際に、欧州の他の特派員とともに、御苦労さん会が開かれたのだ。総勢七人が一堂に会しても十分な広さを持った応接間があったのを、岩田も覚えていた。メードや運転手、コックも雇い、下級貴族並みの生活が出来るのだ。  「さあ、着きました。今日は家内が夕食に腕を振るいました。日本式の風呂にでも入って、ゆっくり寛いで下さい。どうせ、出国許可が出るまでにはかなり、時間がかかるでしょうから、長逗留になりますよ」  三矢は、岩田の滞在を短期とは見ていないらしい。  三矢が「家内」といった女性を、岩田はよく知っていた。日本のアメリカ大使館に勤めていた日系二世の美人だった。彼女は広報担当のセクションにいたから、大使館での記者会見では、度々、出会って挨拶をした。彼女は、各社の記者の名前を良く覚えていた、必ず、相手をファーストネームで呼んでいた。会話のとき「ユー」と言われず名前で呼ばれるのは、その人の個性を認めている証拠だから、親しみを感じて、彼女のファンになる者が多かった。だから、交際相手には事欠かないはずだったが、この金的を射止めたのが、同僚の三矢だと知って、岩田は納得することが出来た。英国紳士然とした風貌だけでなく、その操る英語は洗練されたキングスイングリッシュだったから、アメリカの西海岸で育った彼女には、あこがれだったにちがいない。三矢は、彼女の期待通りにロンドン支局長になり、いまや、幸せの絶頂にいるのだ。二人居るはずの女の子供達は進学年齢になったため、日本に帰した、という話までは、岩田も聞いていた。だから、今は夫婦だけでロンドンでの仕事と暮らしを楽しんでいた。  「エイコが言うんですが、岩田さんは、エイコの憧れの人だったそうですよ」  応接間に落ち付いてから、三矢はそう言って、にやりと笑った。その妻のエイコさんが、歓迎の挨拶に現れてから、お茶を用意にキッチンに戻っている間のことだ。岩田にはそう言われることについての、ほろ苦い思い出があった。  もう二十年も前の事になるが、そのころ、日本は、前代未聞の総理大臣の犯罪で、震撼していた。アメリカの航空機産業から、巨額な賄賂が時の総理大臣に渡され、日本の航空会社の新機種導入への働きかけをしたのではないかとの疑惑が噴出し、政界を揺るがしていた。  その第一報は、小さな外電の記事だった。米国証券取引委員会が、航空機製造会社の経営に疑問を持ち、調査に乗り出したという、短い記事が送信されてきて、岩田の新聞社は、べた記事で掲載したが、多くの新聞社は無視していた。だが、この短い記事は、大きな事件のほんの先触れに過ぎなかった。米国証券委員会は、航空機製造会社の幹部の摘発に乗りだし、連邦捜査局も一体になっての疑惑摘発になった。その捜査の過程で、我が国の総理大臣への贈収賄が露顕したのだった。  まだ、二十代だった岩田は、外信部の記者として、この報道に係わった。ワシントン特派員の河村種一も社会部からこの取材に参加していた。外信部の記者としての役割は、米国側からの情報をとることだ。それは、すなわち、アメリカ大使館員との接触ということを意味している。そうして、足しげく、赤坂の米国大使館に通ううちに、広報課員のエイコとは、自然と親しくなったのだ。  エイコは、もちろん、政府の機密を取り扱う立場には居なかったが、人を良く知っていた。英国の西海岸の大学を出てすぐに、国務省にはいり、希望どおりに母の国、日本に赴任したエイコは、仕事に燃えていた。日本語もなに不自由なく話せたし、英語も完璧だったから、親密な日米関係を重視しはじめた米国政府にとっては、大切な若い人材だったのだ。  岩田が、なにかと世話になったお礼に、とエイコを食事に誘ったとき、エイコは、期待どおりに素直に誘いに応じた。それは、銀座の裏通りにある小さな天麩羅屋だったが、狭いカウンターの目の前で、手だれの職人が注文に応じて揚げる魚介類や野菜を食べながら、二人の距離が急速に近くなったのを、岩田は感じたのだった。岩田もエイコもそのころは、独身だった。白人との混血の二世の子女特有の匂い立つような肌の白さと、くっきりとした輪郭の顔つきは、フランス人形のようで、岩田は創造の神の類稀な技をこの若い女性に見たような気がしたものだった。それほど、エイコは輝いていたのだ。  エイコは、日本人の記者に会うのは慣れていたが、こうして、食事に誘ってくれたのは、岩田が初めてだったらしい。  「こういう所には、余り来たことがない」  と呟いたエイコに、  「そうでもないだろう。君のファンは大勢いるじゃないか」  と岩田が反論したとき、エイコは、  「でも、表面的なお付き合いで、個人的な交際ではないから」  と言ったのだ。  それで、岩田は、エイコの私生活はそう芳醇ではないと理解した。若い二世の女性は、母の国で孤独感に苛まれていたのだ。その日以来、岩田はエイコの世話を見るようになった。生活で不自由がある時は、エイコもなんでも、岩田に頼るようになっていった。そうなるまで、時間は掛からなかった。だが、男と女の関係とは違っていた。岩田はエイコに頼まれて、エイコの部屋でスキヤキ会を二人だけで催したこともあったが、飲んで食べて、話をしただけで、何も起きなかった。  若い女性が自室に男を招いただけで、アメリカでは、女性が暗黙に関係するのを認めたということになるのだろうが、二人はそうはならなかった。ただ、米国と日本の比較文化論や生活慣習の違いを活発に話し合ったりして、お腹を満腹させ、満足して、岩田は帰途に付く。そういう関係だった。  その自宅セミナーでエイコは、日本社会の仕組みと人間関係を大いに岩田先生から学んだ。それは、エイコの昼間の仕事に大いに役立ったのだった。そして、岩田は、米国大使館の人間関係について知識を得て、その後の取材に有益だった。  そのエイコが、後輩の三矢と結婚すると知って、岩田は、少し寂しい気持ちになった。これは、岩田はエイコにとって恒常的な性的関係になる対象ではないが、三矢はそうした女が男としてみる対象だった、ということを意味しているのだ。三矢とエイコが、どういう場所で知り合ったかはしらないが、外信部の記者と大使館の広報担当の接触の機会は多いから、どこかと詮索してみることはあまり、意味がない。それより、岩田には、男としての魅力がないのだろうかということが、気になった。その長い間抱いていた疑問を、いま、三矢は解決してくれた。  「岩田は憧れの人だった」  とエイコは言っていた、という。憧れから恋が生まれることはあるだろうが、恋から憧れは生まれない。恋が先行してしまえば、憧れなど吹き飛んでしまうだろう。そうして、岩田はエイコには、憧れの対象に止まり、恋を感じた三矢と一緒になったというわけだ。  あのころから、二十年を経て会うエイコは、だが、変わっていなかった。白い肌の色は青磁のような透明感をもった感じに変わっていたが、くっきりとした顔の輪郭や大きな目や鼻の造作に変わりようはないのだ。ただ、物腰が落ちつき、声の音調もメゾソプラノからアルトに変わっていた。長い裾のスカートを着たエイコは、すっかり、イギリスの古い家庭の主婦に変身していたのだった。  「岩田さんも、大変な事件に巻き込まれてしまいましたね。とても、慎重なお人柄だと思っていましたから、あのようなホテルに行かれていたなんて信じられませんでした」  ウエッジウッドの紅茶セットに紅茶を注ぎながら、エイコが言った。いつもながら、率直で直線的なもの言いだった。  「仕事だったんですよ」  岩田はそれだけを、短く言った。それを聞いて、三矢は、露骨に嫌な表情をした。自分の守備範囲を侵されたうえ、事情を知らされていないとあっては、それも当然だろう。だが、彼は何の取材かは、聞かなかった。それは、彼のプライドだったし、個性でもあった。三矢は他人の仕事に露骨に干渉するタイプの男ではない。分を弁え、自分の領域でプレーする思弁的な男だった。そういう、落ちつきにエイコは、年齢以上の男を感じて、一緒になったのかもしれない。だが、エイコは、年をとっても、好奇心一杯の性格を失っていなかった。それが、彼女の個性だった。  「もし宜しければ、どんなお仕事か伺いたいわね」  話の持っていきかたが如才ない。こうして、この夫婦は微妙な連係プレーで、うまくやって来たのだろう。  「もし、成就すれば世紀のスクープだったんですがね。取材相手が死んでしまっては、証拠がないですから、どうしようか、迷っているんです」  そう言ってから、岩田は殺人現場に至った経緯をかいつまんで説明した。  「そうか、編集局長直命の仕事だったのか」  三矢は、やはり、自ら進んで介入しなくてよかったとでもいうように、安堵の息を漏らしていたが、エイコの関心は、違う方角だった。  「それは、ロンドン警視庁は、日本の警察以上に優秀な捜査陣を抱えていますから、捜査に抜かりはないでしょうけど、私の直感では、あなたが部屋に行く前に会った東欧系のメードが怪しいわね」  エイコは、即座にそう言った。  「確かにね。だから、その人の人相書きを作ったんですが、僕には、もっとほかに気掛かりな事があるんです」  「なんですか」  「ベッドサイドの机に載っていたダイアナ妃のポートレイトとシャンパングラスにあった虫の死骸です。その関係が未だに分からない」  「いいところに目を付けていますね。探偵小説では、そういう細かい点が事件解決の鍵になりますよね」  自ら、シャーロック・ホームズの本拠地に住むことを望んだエイコは、実は熱烈なミステリーファンなのだとこの時、分かった。    エイコが、自信を持って断言した優秀なロンドン警視庁の捜査は、だが、遅々として、進まなかった。岩田が証言したメードの割り出しに手間取り、このため、岩田は三矢の家に居候するようになってから、三回、スコットランドヤードに呼び出された。その間、禁足令は解かれなかったから、岩田はロンドン区域から外には出ることができなかった。マクファーソン刑事は、地道な地取り捜査と聞き込みに力を入れ、目撃者の発見に全力を注いだが、その努力は無駄だった。東欧系の女性のメードの顔をした人物を見た人は岩田以外には現れなかったのだ。ただ、科学的分析で毒物の内容とか指紋が明らかになった。  毒はやはり、青酸系の薬品が使われていた。しかも、工場で使う工業用のものではなく、精製度が高い試薬のようだと判明した。指紋は、シャンペンボトルからも、グラスからも検出されなかった。グラスにはそれぞれの被害者の指紋はあったが、それ以外の人の指紋はなかったのだ。ボトルには一切の指紋が発見されなかったが、布で拭き取ったような筋が残っていた。明らかに犯行後、綺麗に拭いたのだ。アレクセーの持ちものや衣服から金品は奪われていなかった。クレジットカードも財布に入っていた。これで、マクファーソン刑事は、物取り目的の殺人ではないと判断した。  となると、動機は何か。残るは怨恨か、謀殺か。そうなると、捜査は一挙に困難さを増す。物取りの犯行なら、目撃者を探せば大体当たりが付くが、怨恨や謀殺では、被害者の人間関係を中心に慎重な捜査が要求されるのだ。マクファーソン刑事は、捜査会議で、捜査方針の転換を主張し、認められた。盗まれている物がない以上、行きずりの物取りの線は棄てなければならない。  となると、姿を眩ましたメードは、アレクセーの人間関係に深く係わっているか、あるいは、全く関係なく、ただ、殺しのために送り込まれたプロだということになる。そのためにこそ、唯一の目撃者である岩田の再三にわたる聴取が必要だったのだ。  「どうです。その女性の動作は機敏でしたか、目つきはどうでした、手には何か持っていませんでしたか」  マクファーソンは、呼び出した岩田に矢継ぎ早に聞いた。  「そう思えば、異様な雰囲気が漂っていたように思います。猫背で俊敏そうでした。目つきは鋭く、精悍でした。いま思うと、ホテルのメードの感じはなかったですね。あのときは、制服に騙されたが、制服を外した姿を想像すると、あの種の下働きの仕事に耐えられるタイプではないような気がする。それから、私が会ったときは両手にシーツを抱えていたので手は見えませんでしたね」  岩田はあの朝の光景を克明に思い出しながら、必死で、答えた。  「多くの人間に会ってきたジャーナリストのあなたが言うことだから、間違いないでしょうね。やはり、メードに変装していたんだ。だれかが送った殺し屋ですね。それもかなりのやり手だ。女の殺し屋は、珍しくはないが、使った薬物が特殊な薬品だから、リストは絞られます。あの世界にそう多くの住人はいない」  刑事が言った「あの世界」とは、想像するにおぞましい、プロの殺し屋の世界を指していることが、すぐに理解できた。  「となると、私は危うい世界に接触したことになりますね」  「そうですね。するとあなたの身辺保護にも気を使わないといけなくなった。もう、彼らはあなたが唯一の目撃者だと分かっているでしょう。計画にはない出会いだったのでしょうから。あなたの命を狙って来ることは容易に想像できます。ただ、あなたがどこにいるかは、まだ知らないでしょう。むしろ彼らは知りたがっている。すると、この署に呼び出すのは控えたほうがいいかもしれない。今日は、念のため尾行を付けます。あなたを付けている者がいないかどうか、確かめましょう。護衛の役目もあるし」  「いよいよ、窮屈になりますな。いつまで禁足令を解かないつもりですか」  岩田には身辺保護対象になれば、さらに行動が制約されるので、その事のほうが重要な関心事だった。  「しばらくは、落ちついていてください。相手の尻尾を掴むまで、あなたは大切な囮でもあるんです」  刑事は、岩田の希望を打ち砕いた。犯人達の尻尾が掴めるまで、解放する積もりはないというのだ。ロンドン警視庁も安易な手立てを選んだものだ。アレクセーの人間関係を洗い出すには膨大な時間と人員が掛かるだろう。外堀から攻めるには場合には、それも仕方がない。また、グループの犯行だとしても、ファイルの検索や公安部門との連係が欠かせない。それも時間と人員を食うだろう。だが、岩田の尾行は簡単だ。彼らには日常茶飯事のルーチーンワークの延長にしか過ぎない。餌を泳がせて、食らいつくのを待つ。これほど、合理的で省エネの捜査はない。しかも、相手がその気なら確実で安全な方法だ。だが、餌にされるほうは堪らない。魚がいつ掛かるか分からない不安を抱えながら、釣り人がタイミング良く吊りあげてくれる確証もなく、彷徨わなければならない。利口な魚なら餌をだけ食って逃げる算段をするだろう。この作戦には優秀な釣り人の腕が不可欠だ。その心配を予想してか、マクファーソン刑事は、  「伝統あるスコットランドヤードにお任せください」  と胸を張った。岩田はその言葉を信じるしかない、と諦めて、帰宅の支度に掛かった。  三矢の私用車のレンジローバーを借りて、ロンドン警視庁に出向いた岩田の帰路、シチーを出てから、西の郊外へと続く自動車専用道路に入ってから、バックミラーに映るベンツのフロントマスクが、変わらないのに気が付いた。インターチェンジに入ってから、ずっと追走してくるのだ。その後ろを、黒いホンダのアコードが追っていた。それは、マクファーソンが言った「優秀なロンドン警視庁」の覆面パトカーに違いない。  「ばかなやつらだ。あれでは一見して警察の車両だと分かるではないか」  岩田はその車を見て、言葉を吐きだした。運転の仕方が、一目で追跡をしている車だとわかるやり方なのだ。岩田は頻繁に車線変更を繰り返して、追走車を振り払おうとしたが、ベンツはぴたりと付いてきた。そしてその後を、また、アコードが、真っ直ぐに追ってきたのだ。これでは、三台が集団で走っているようなものだ。なにも知らない第三者から見たら、三台は仲間だと思うだろう。尾行はこうではいけない。追っている者に気が付かれたらお終いなのだ。  「なにが伝統あるロンドン警視庁だ」  岩田は憤りながらも、二台の車を従えたまま、郊外のインターチェンジを降りて、狭い路地に意図的に入っていった。そして、頻繁に左折や右折を繰り返して、二台をやっと振り払い、後ろから、なにも付けてこないことを確かめたあと、スピードを上げて、三矢の自宅にたどり着いたのだった。    八月の末になっても、捜査は進展しなかった。ロンドン警視庁は、二十五日に、岩田の禁足令を解除した。晴れて、岩田は自由の身となったのだ。そうなれば、一刻も早く、日本に帰らなければならない。もう一ヵ月近くも、会社に顔を出していないのだ。それに、肝心の世紀のスクープも手つかずのままだった。もっとも、この記事は諦めるしかないだろうという気持ちに傾きかけてきた。肝心の証人が亡くなってしまったのだ。証言としての掲載もできない。  二十五日に禁足令が解禁されてから、岩田はすぐにでも、ロンドンを発つことが出来たのに、ぐずぐずしていたのは、三矢の家の居心地が良すぎたからだ。エイコの料理は何を食べても旨かったし、何をおいても、エイコ自身が魅力的だった。日中は夫の三矢は、シチー内の支局に出勤してしまうから、昼間家内に居るのは、お手伝いの使用人数人と、エイコと岩田ということになる。使用人達はそれぞれの仕事に忙しく、二人のプライバシーは、完璧に守られていた。だから、外出も許されていない昼間の岩田は、エイコとの会話くらいしか、することがなかった。新聞を読んだり、テレビを見たりして、暇を潰していたが、それにも限りがある。午後になれば、完全に時間を持て余すようになり、自然と応接間で、エイコと過ごす時間が多くなった。エイコも遠来の知人を退屈させないように気配りを見せていた。夫の三矢にも、そう言われているらしい。  そういう親しい空間にいるというだけでなく、二人はもともと、古い知り合いだったから、心理的な障壁はなかった。何でも、素直に、心置きなく言い合い、話し合うことができた。それには、エイコと岩田の相反する性格も反映していた。エイコの陽と岩田の陰が、うまくかみ合って、二人は見事に心理的一体感をもたらしていたのだ。  「今朝、おかしな電話があったのよ。ロンドン警視庁の刑事とか名乗って、家にイエタという日本人がいないかっていうの。いつも電話してくるマクファーソン刑事とは違う声だったから、素直に、そういう名前の人はいません、と答えたんだけど、誰か日本人の客が泊まっていないかってしつこいの。不審だったから、一切射ません、と白を切って、電話を終えたの」  「やつらは、段々近付いてきているらしいな。日本人を手当たり次第、当たっているとしか思えないな。私が日本人ということまでは、彼らも突き止めたらしい」  「そうなると、もう、ここにはいられないわね」  「ちょうど、禁足も解けたし、さよならするのに、良い時機かも知れないよ。世話になったけど」  岩田はしんみりとしてきた。それは、エイコも同じようだった。エイコは、  「寂しいわね」  と言って、じっと、岩田の瞳を見据えた。  その目には、うっすらと涙が滲みはじめていた。  岩田は、思わず、倒れかかってきたエイコの体を抱きしめた。エイコは、岩田の胸の中で、ひとしきり、啜り泣いたあと、毅然として、  「お別れの思い出に、私を抱いて」  と訴えた。それは、これまでのエイコの行動からは想像もできない言葉だった。大体、泣き崩れることなど、岩田は予想していなかった。エイコはもっと、毅然とした独立心旺盛な現代女性だという考えが岩田の頭にはこびりついていたが、考えてみれば、エイコももう四十の坂を越えていた。若いころにはとても言えなかった言葉を言ったのは、それだけ、人間が成熟した証拠だとも思えた。  そして、岩田とエイコは、そのあと、始めてお互いの体を確かめあった。人生の素晴らしい時間は、そう滅多にあるものではないが、この日の二人は、その滅多に味わえない果実の甘味を貪り尽くしたのだった。  日が落ちても、ベッドを出ない二人は、快感の余韻を抱えながら、抱き合ったままでいたが、壁の時計が六時を指したのを見たエイコが、意を決して起き上がった。そろそろ、夕食の準備に掛からないと行けない時間だ。材料は既に全て冷蔵庫などに用意してあるが、メードに指示して下ごしらえをし、最後の味付けはこの家の女主人であるにエイコが、するのが、しきたりだった。キッチンではすでに、メードが指示を待って、エイコが降りてくるのを待ち受けているに違いない。彼女たちは、女主人が男の客人と一緒に二階の寝室に上がり、半日出てこないのを、十分に知っている、だが、口が割けてもそれを口外する事はない。それが、貴族社会で鍛えられた使用人達の職業倫理だった。だから、夫も妻の不倫を知らずにいることができた。  (不貞の絶えない貴族には都合のいい慣習だ)  と岩田は思っていたが、それが、自分に関係してくるとは、この日まで思いもしなかった。こういう慣習は、厳格に守られているときには、関係者には都合がいいが、守るのは使用人といっても人間だから、必ず、秘密は漏れる。そこが、犬や猿や猫とは違う人間の凄いところだ。奴隷も話はできるのだ。だから、人類の歴史は、記録されていく。アメリカの黒人奴隷が、話すことができなかったら、公民権運動も起きなかったし、アメリカ社会の発展もなかったことだろう。人は話をする事ができると言うことだけで、既に平等に作られているのだ。  (だから、この秘密も必ず、いつかはばれる)  と岩田は覚悟していた。そのとき、どうすればいいかは、分からない。三矢の考え次第だ。離婚が最悪だとしても、このままの状態が続くのが最良だとは限らない。エイコの気持ちに変化は起きないだろうか。それより、岩田自身の心境に変わりはないかと、自省してみたが、これといった変化は自覚しなかった.これなら、今後も、二人とは、変わりなく付き合っていけそうだ。そこが、青年時代と熟年時代の分別の差のように考えられた。もし、若い日にエイコとこういう関係になっていたら、頭に血が昇って、三矢をあやめていたかもしれない。だが、今は平然と事態を楽しむことができた。  エイコは、自分がベッドを離れて、岩田が寂しくなるといけないと思ったのか、部屋を出がけに、テレビのリモコンスイッチで電源を入れ、リモコンをベッドの脇に置いていった。テレビの画面は日本製のアニメをやっていた。日本では五、六年前に流行ったやつだ。岩田には興味がなかったので、BBCのニュースチャンネルに回した。ニュースキャスターは若い女性だった。だが、その表情は落ち着きを失っていた、岩田は驚いて、画面を注視した。  「昨夜パリで交通事故に会い、重体だったプリンセス・ダイアナが、収容先のパリ市内の病院で亡くなりました。死因は重度の内蔵の損傷で、事故による胸部圧迫が原因ということです・・・・」  岩田は思わず、起き上がって、テレビのボリュームを上げた。キャスターに続いて画面に出たのは、ダイアナ妃の生前の顔写真だった。金髪をショートカットしてカールしたボリューム感のある髪形の下で、人懐っこい上目遣いの大きな瞳が、こちらを見据えていた。唇が薄く、横に広い。  その顔写真を岩田は、背広の胸の内ポケットに入れていた。アレクセーのホテルの部屋に置いてあったのだ。岩田は立ち上がり、クローゼットの扉を開いて、吊るしてあったスーツから、写真を取り出した。その写真には、いまテレビの画面で見た女性の笑顔が写し取られていた。  なぜ、アレクセーの殺人現場にこの写真が置いてあったのかは、長い間、岩田の頭を占めている疑問だった。それに、グラスの虫の死骸。マクファーソン刑事らはそちらには関心を示さず、専ら人間関係を当たっていた。もっとも、写真の件は、岩田は秘密にしていた。だが、虫の件は刑事らも知っている。四人のグラスに例外なく付着していた虫を、無視しているのは何故なんだ、と岩田は頭の中で語呂会わせをしながら、不審を抱いていたのだ。  「今日未明、付きまとうパパラッチと言われるカメラマンに追跡され、新しい友人のアラブ人の富豪の息子とともに、彼の自宅に向かっていたダイアナ妃は、不慮の事故に遭遇し、三十六歳の短い命を閉じました・・・・・・」  BBCの女性キャスターはニュースを続けていた。  「パパラッチに追われたのか」  岩田は朝遅く起きて、現地の新聞を読んだだけだっから、ダイアナ妃の事故はこのニュースで始めて知った。だから、その事故の状況を知るのもこれが、始めてだった。エイコもそうに違いない。それほど、二人は最後の別れの儀式に熱中していたのだ。  「パパラッチ」という単語を聞いたのはこれが始めてではなかった。確かイタリア語で、うるさく付きまとうレポーターやカメラマンを指す隠語だ。ヨーロッパを中心に数多いゴシップ誌にスキャンダラスな写真を売って生活しているフリーのカメラマンは、有名人に付きまとって、ここ一発のシャッターチャンスを狙っている。そういう、うるさく付きまとうハエやアブのような輩を皮肉って言いはじめたのが、語源だと聞いていた。  ダイアナ妃は、夫の皇太子との不仲説以来、多くの恋人との関係が取り沙汰され、ゴシップ誌の格好の標的になっていた。いまや、それは、低級な芸能ゴシップ誌だけでなく、シチーで隆盛を誇るこの国伝統のタブロイド新聞の絶好の売りネタにもなっていた。スタンド売りが主流のタブロイド紙ではダイアナ関係が載っていると実売りが数十万部も違ってくるという。これらタブロイド紙の営業成績は、ダイアナの報道に掛かっていたのだ。そのため、これらに写真を高く売れるカメラマンたちの取材にも行き過ぎが多発した。昨晩も、こうした付きまといカメラマンたちが、車に群がっていた情景が容易に想像できた。  「まったく、新聞発祥の地のこの国のジャーナリズムも地に落ちたものだ」  と有識者は眉を顰めていたが、マスコミ産業にも市場原理は貫徹していて、そういうモラリストは、商売では、負ける。高級紙が次々と経営危機に陥り、巨大なマスコミ資本家の傘下に下っているという事実を直視すると、きれいごとは言っていれないのが、現実なのだ。  そういう思いの連想のなかから、岩田の頭に、一つのヒントが、明るく浮かび上がってきた。  「パパラッチとは、うるさい虫たちだったんだ」  そう考えが及んで、シャンパングラスの中にへばり付いていた虫の死骸の映像が出現した。そして、あの写真。どうしても、付合が多すぎる。ダイアナ妃の事故死とアレクセー一家の謀殺には、何の関係もなさそうだが、なにか、一本の細い糸が、二つの間を結んでいるように見える。この発想は突飛だが、追究してみる価値があるかもしれない。殺人事件の捜査は膠着状態だ。僅かでもいいから、突破口を開かないと、事態は動かないのではないか。  岩田は一筋の関連性の萌芽を見たような気がした。こうなれば、ぜひともパリに行かないと行けない。岩田は決心した。そして、階下に降りていって、エイコに、  「明日、ロンドンを発ちます」  と告げた。それを聞いて、エイコは何かを決断したようだった。  「いま、ニュースで、ダイアナ妃が亡くなったと言っていたけど、あなたは、それに興味を持ったんじゃないでしょうね」  さすがに、エイコの直感は鋭い。  「ええ、いや、そんなことはありませんよ」  岩田はしどろもどろになった。  「もし、そういうことで、パリに行かれるのなら、私にも考えがありますので」  「えっ、何ですかそれは」  「これは、私の直感ですけど、あなたはこちらの事件と、ダイアナ妃の事故に関連があると考えているんじゃないですか」  岩田はエイコの女の直感にたじたじになった。こうなれば、仕方がない、素直に話すしかない。  「その通りですよ。ちょっとした手掛かりを握っていましてね。これは、誰にも話していないんですが、ピンときたのです」  エイコは、我が意を得たという表情になった。  「そう言ってくだされば、私も言わなくちゃね。私もダイアナ妃のちょっとした秘密を知っているの。だから、ね」  岩田はその言葉で、エイコの意思を知った。岩田が頷くと、エイコは、旅行会社のインターネット予約システムに明日朝のロンドン西駅発パリ行き特急の一等席を二席予約した。最近出来たドーバートンネルを通っていけば、午後にはパリに着ける。  「でも、三矢にことわらなくてもいいのかい」  「本当はね。でも、あなたと一緒に、といえば、駄目とはいわないわよ」  エイコは、そう言いながら、両手を岩田の首に回して、唇を会わせたあと、  「これで、さよならしなくてもすむわ」  と言いながら、潤んだ瞳で岩田の顔を見つめた。    パリに着いたのは午後三時を回りかけた頃だった。小型のボストンバッグを引いて、軽装の二人は、よく手入れがされた仕立てのいい服装から、アジア人のお金持ちのバカンスと見られても仕方がない感じだった。だが、八月も末のこの時機に、パリに人はあまり多くいない。南に避暑に出掛けたパリッ子たちは、そろそろ、長い休みに飽きて、町に戻りかけていたが、まだ、春から夏に掛けての人口を取り戻してはいなかった。  閑散としたパリ中央駅の大きなホールの隅に、黄色い看板を掲げた旅行社向けの観光案内所があるが、二人はそちらは見向きもせずに、真っ直ぐに屋外のタクシー乗り場に向かっていった。泊まるところは既に決めてあった。それは、パリ随一の格式と伝統を誇るあの、ホテル「リッツ」だ。そこに泊まらないと、現場を踏んだことにはならない、と二人は感じていた。たとえ、どんなに高くても、これは、しなければならないことだった。  それに、岩田にはその位の出費をしてもいいという覚悟が別の視点からも言えた。なにしろ、あのエイコと一緒なのだ。エイコも、  「部屋を別にして」  とは、言わなかった。もう覚悟はできているのだ。というより、もし、別にしたらそのほうが彼女の意に添わないことに違いない。彼女も夜を離れずに過ごしたいのに違いなかった。  ホテル「リッツ」に泊まるといっても、ダイアナ妃と恋の相手のアレファイトが泊まっていたスイートルームという訳にはいかない。一泊数十万円の部屋を取れるわけもなかった。どのホテルもそうだが、より廉価な庶民向きの部屋もある。そして、そういう部屋は必ず空きがあるものなのだ。これは、世界中を歩いてきた岩田にもエイコにも確信があった。  果たして、直接交渉したフロントマンは、  「ええ結構ですよ。お二人でお泊まりですね」  と確認して、相応の部屋を用意してくれた。旅装を解いて早速、ベッドに横たわった岩田に英子も寄ってきて、夕方まで眠ることにした。外を出歩くにしてもまずは、当てがない。それより、刻々と伝えられるテレビのニュースで情報収拾したほうが手っとり早い。そして、なにより、晴れて二人きりで過ごせる空間を得て、解放された気持ちで、心置きなく、エイコと肌を会わせていたかったのだ。そして、エイコも岩田と肌を会わせていることを望んでいた。熱いシャワーを浴びてから、真新しいホテルのガウンに着替えて、ベッドに並んだ二人は、ひとしきり、接吻を交わしたあと、来ているものを全て脱ぎ捨て、シーツの中にもぐり込んで、互いの肌を密着したまま、抱いていた疑問を確かめあった。  「ねえ、あなたの握っている証拠って何なの」  エイコが、右の人指し指で岩田の裸の胸に円を描きながら、聞いた。  「そうだね、君には隠しても仕方がない。あの殺人現場に、写真が置いてあった。ダイアナ妃殿下のポートレイトだった」  「そうか、だからあなたはピンと来たのね。でも、どういう関係があるのかしら。たまたま、誰かが持っていたんじゃないの」  「いや、そういう感じじゃなかった。故意に置かれていた感じだった。第一発見者が気が付いてくれるのを、予想した置きかただったんだ。誰でも気が付くようにベッドサイドのテーブルの上に置いてあったんだから」  「犯人が故意に置いたというわけね」  「そうだ。何かのヒントなんだろう。そこに、この事件の底知れぬ恐ろしさがある」  「それだけ」  「ああ」  岩田はグラスの付いていた虫の死骸のことは言わなかった。それからパパラッチへの連想はいかにも突飛でさすがのエイコにも笑われそうな気がしたのだ。  「ところで、君の方は」  今度は岩田がエイコの形の崩れていない乳房の先を弄びながら尋ねた。  「話せば長くなるけど、いいかしら」  「ああ、夕方まで時間はたっぷりある」  「私、国務省に入りたてにホワイトハウスにいたころ、国賓としてアメリカを訪れた英国皇太子夫妻の歓迎晩餐会の裏方をしたことがあるんだけど、そのとき、私は、絶対、秘密にしておかなければならない光景を見てしまったの。そのあと、それに気付いた英国と米国の情報機関が、口外しないように圧力を掛けてきた。それで、一切、死ぬまで言わないと約束されたのよ。たしかに、公務員には在職中に知りえた秘密を口外してはいけないという守秘義務があるから、脅されなくても言わないのにね」  「それを、いま、あなたは言おうとしている」  「だって、こういう所で、こういう人が相手なのよ。いいじゃない」  「三矢にも話したことはないのか」  「当たり前よ。それに、あの人は、話しても聞いてくれないでしょうね。興味がないだろうし」  「国家秘密に関心を抱かないジャーナリストはいないよ」  「そうね。でも、なにも聞かないから、言わないだけよ」  岩田は、それ以上、三矢夫婦の関係を詮索することはないと、気が付いて、口を閉じ、エイコの話に耳を傾けることに決めた。窓から見える夏の終わりのパリの空は、傾きかけた日の光を受けて、そろそろ、赤みを帯びはじめていた。  「私は見てしまったのよ。あれは、本当にショッキングな体験だったわ。私は女性ということもあって、ダイアナさんのアテンダントの手助けをしていたのだけど、ダイアナさんは、二人いたの」  岩田は驚いて、エイコの乳首をまさぐっていた手を離して、飛び上がりそうになった。  「なに、ふたりって」  すっとんきょな声を出した岩田に向かって、口の前に右手を当てて、静かにというサインをしたエイコは、  「だから、国家秘密だと言ったじゃない。だれも知らないが、国家権力のトップにある人だけが知っていること、それが、国家機密よ。毎日大統領に接していた私たちだって、知らされていないこと。まして、報道記者なんて知るわけがない」  そう言われて岩田はむっとしたが、エイコの言い方に刺はなかった。事実を淡々と口にしたにすぎない。  「確かに、それこそ国家機密だ」  「その機密をあの日私は覗いてしまったのよ」  「どういう状況だったのだい」  「そうね、それこそが、肝心なところね。リアリティーと言う意味で。ホワイトハウスのゲストルームの裏に別室があるの。そこは、ゲストの夫人が化粧を直したり、着替えをしたりするのに使われているのだけれど。私は晩餐会が無事に進んでいるので、ちょっと、その部屋で一休みしようと、部屋に入ろうとしたの。ドアーに鍵はないから、誰もいないはずのその部屋に忍び込んだら、人がいたのよ」  「それが、ダイアナさんだったら、いてもおかしくないだろう。化粧をするための部屋なら」  「ところがね、ダイアナさんは、その時、晩餐会のテーブルに付いているはずなのよ。それに、本人だったらお付きの人が大勢いるでしょう。部屋で会ったのは、彼女一人だったんだから」  「同じ時間に違う場所に同じ人がいたというわけだ。超常現象だな。これは」  「でも、私は見たんだから。部屋のなかで驚いて私を見たもう一人のダイアナ妃を」 「似た人を見間違えたんじゃないのか」  「それにしたって、なんで、似た人がいたの。そっくりさんがいたというの」  「そうかもしれない。だから、英米の情報機関が、あなたに圧力を掛けてきた」  「ということは、私は影武者を見たのかしら。影武者がいるんだわ」  エイコは初めて抱えていた疑問に答えのきっかけを得た気持ちになった。  「そうかもしれない。あり得ないことではないからね。そうだとすれば、今回の事故も理解できる。僕があの事件の第一発見者に選ばれ、今回の事故との関連を伺わせる物証が残されていた、ということの関連性が、うすぼんやりだが、浮かんでくる」  「なにかの組織が動いているんだわ。私怖いわ」  エイコは、そう言いながら、体を岩田にさらに密着させた。柔らかい女性の肌の感触が、温もりとともに伝わってきて、岩田の男の象徴に血流が増した。  「だが、それに気が付きはじめたのは、いまのとろころ、君と僕だけだ。ロンドン警視庁は、昨日まで僕に尾行を付けていたが、さすがにこのパリまでは、追って来れないだろう。彼らは組織的な犯行ではないかとまでは、気が付いたが、その先には進んでいないようだ。どんな組織なのかも分かっていないだろう。僕たちのほうが少し先に行っている」  「もっと先に行くためには、どうしたらいいの」  エイコの持ち前の好奇心に火が付いたようだ。  「現場に行って見るのが肝心だ。それに、病院と警察とできれば、現場にいたパパラッチらとも会ってみたいな」  「あなたの出張は大丈夫」  「ああ、もう、連絡は取らないさ。三矢がうまく言っておいてくれるだろう。しばらく、姿を眩ます。それで、会社が首だと言えばそれでもいい。こうして、君と一緒にいられるだけでも僕は満足だ。一緒に事件を解明しようとは言わないが、ずっと一緒にいたいという気持ちだけは確かだ」  岩田はエイコの顔を引き寄せた。エイコが上になって、岩田を見下ろす姿勢になった。  「私に妻を辞めろと言ってよ。三矢と別れてくれ、となぜ言ってくれないの」  エイコが、詰るように言う。  「それはできない。まして、三矢はああいう男だ。彼を裏切る訳には行かない」  「もう十分裏切ったじゃない。こうして、私と一緒にパリまで来たのはどういうこと」  「仕方がなかった。そうしたかったんだから、もう自分の素直な気持ちに従って行動するしかなかったんだ。それが、周囲にどういう影響を与えるかなんて、考えていられなかった」  「そう、それでいいのよ。人間なんだから。私も同じ気持ちで、ここに来たの。だから、その気持ちに素直に従うことが、人間として生きているという実感じゃないかしら」  「そうだ。だから、こうしている」  エイコが体を降ろしてきて、肌が密着した。夏の日がエッフェル塔の遙か先の西の空を赤く染めて、落ちていく。    翌日、岩田はエイコと連れ立って、パリ市第四区にある医科大学付属病院に、出掛けた。ダイアナ妃を最後に救急治療した外科医に面会を求め、死因を聞くためである。だが、すでに、この頃には英国の前皇太子妃死去のニュースは、世界中を駆け巡っていたから、最後を見取った医師に会うのは、至難の技かとも思われた。ところが、面会を求めた岩田らに対して、受け付け嬢は、  「いますぐいらっしゃって下さいということです。ドクトール・ガリマールは、いま、手が空いているといっています」  と要望を受け入れたのだった。  そのドクトール・ガリマールは、黒人だった。多分旧フランス領のアフリカから来たのだ。  「お忙しいところを済みません」  と詫びた二人に、小柄なガリマールは、漆黒の相好を崩して、  「いえ、日本の記者と言われたので、応じたのです。外国の方ですし、この国のジャーナリズムとは違い、歪んだとりかたはされないでしょうから」  と歓待してくれた。  診察室で患者が座る椅子を勧められて座った岩田の質問を、エイコが通訳した。エイコは、フランス語も堪能だった。  「ダイアナさんは、こちらに運ばれたとき、どんな状態だったんですか」  「酷く胸を打っていて、腹部から出血もしていましたが、意識はありました。脳波は生きていたんです。ですが、呼吸も脈も弱く、緊急治療を要する状態でした。我々は直ちに、人工呼吸器と人工心臓を取り付け、傷んでいた胸部を切開して内蔵を助ける手術に取りかかったんですが」  「手術をしたんですか」  「着手はしたのですが、出血が酷く、途中で諦めました。というより、諦めさせられた」  「諦めさせられた、というのは」  「手術中に異常に脈拍が増えて、出血が酷くなったんです。止めどなく血が流れだして、止めようがなかった」  「そういうことは、よくあるんですか」  「ないこともないですが、珍しいですね。ちゃんと鎮静剤も打ちますからね」  「で、途中で諦めたのですか」  「そうです、もう助けようがないと判断して、切開した部分を閉じまいた」  「それで、死亡が確認されたわけだ」  「そうです、心臓が、間もなく止まりましたからね」  岩田は首を傾げながら、さらに聞いた。  「すると、あなたがたの処置ミスということも考えられますね」  「と言いますと」  「なぜ、出血が止まらず、返って酷くなったかということですよ。なにか、事情があったんではないですか」  「あなたは、私達の処理が不味くて、死亡したといいたいのですか。それは、言いがかりですよ。われわれは最善の処置をしたんです」  「でも、なぜ、出血が酷くなったのか。原因はなんですか」  「そういうことは、ないわけではないんです。止血が十分でなかったと言うんでしょうが。どうしようもない状態というのはあるんです」  「でも、助かると考えて、手術に踏み切ったんでしょう。それで、なぜ、容体が変わったんですか」  「そこのところが、私にも謎なんです。考えられるのは、手術前の処置に何か問題があったとしか、思えない。せめて状態が悪化しないような処置をするのが当然なんですがね」  「というと、手術前に何かがあって、たとえば、血圧を上げる薬と使ったとか、そういうことが行われたということも、考えられますね」  「可能性としてはね。でも、うちの病院ではそう杜撰な管理はしていないはずですから」  「どこの病院も公式見解はそうです。でも、実体は違うということが多い。案外簡単に立ち入り禁止の場所にも入れるものですよ」  岩田は聞くべきことは聞いたと考えて、礼を言って、病院を辞去した。  帰りがけに、寄ったカフェのテラスで、エイコが疑問を問いただしてきた。  「ねえ、どういうことなの。あなたが聞いたことは重要なの」  「それは、そうだ。あの医者は半分は嘘を言ったが、半分は本当の事を言っていた。公式発表は、肺の出血多量が、死因となっていたが、その理由は手術前の異常な事態が招いたというんだから、事故が直接の原因ではないと認めたようなものだろうな」  「じゃあ、事故死じゃないんだ」  「おれは、そう見た。事故はきっかけに過ぎない。あるいは、本当は事故死が良かったんだろうが、死ななかったんで、止めを指したということかな」  「すると、病院にいる誰かが、細工をしたというわけなの」  「いいところを突いてきた。まあ、そんなところだろう」  「だれかしら」  「それを、探さなきゃならない。その不審な人物を突き止めれば、世紀のスクープだ」  「でも、雲を掴むような話だわ。病院で聞き込みをするにしても、絶望的だ。大勢の人が出入りしているんだから」  「いや、別の方向から当たればいい」  「どっちの方向」  「あっちさ」  岩田が指した指先の向こうには、日本製の大型バイクに跨がったカメラマンの姿があった。かれらも、ダイアナ妃の死亡に纏わる次のニュースを狙って、向かいのカフェにカワサキのバイクを止めて、一服しているところだった。  「いまから、あっちの方角からのアプローチをしてみる。君のコネがあったら、当たってくれ」  岩田は立ち上がった、エイコを誘わないまま、一人で向かいのカフェに向かっていった。エイコはその姿を、椅子に座ったまま眺めていた。  岩田は真っ直ぐに、バイクの持ち主らしい大きな望遠レンズを付けた一眼レフカメラをテーブルに置いている若者の方に向かっていった。彼は、仲間だろうか、やや年上の男と話しながら、コーヒーを飲んでいた。岩田は、その席に到着し、何かを話しかけていた。  (フランス語なら私がいなくてはいけないのではないだろうか)  とエイコは、考えていた。だが、岩田の話は通じたらしい。若者は立ち上がり、店を出ていこうとしていた。岩田が後に付いて店を出た。連れの男は席に付いたままだ。若い男は道路まで来ると、岩田に向かって後部座席を指差した。岩田がバイクに跨がると、若者は素早く運転席に載るとエンジンを掛け、猛スピードで走りだした。  英子は二人が席を立って、店を出ようとするのを見て、岩田の意図を察して、あわてて席を立った。そして、二人のバイクが出発するのとほぼ同時に、走ってきたタクシーを捕まえた。  バイクは狭いパリの町の路地裏を巧みにくぐり抜けていく。それを追うタクシーの運転手も年季が入っていた。勝手知ったる脇道だとばかりに、家の軒下すれすれをかすめて、バイクの後を追った。こんな時にフランス車の前輪駆動の小回り性能が役に立つのだ。  エイコが乗ったプジョーは、カワサキのバイクの後を、付かず離れずして、追走していった。何度も、右左折を繰り返したあと、バイクが止まったのは、長く続く坂道の途中にある三階建てのアパートの前だった。バイクから男二人が降りて、歩道の脇の板扉を開けて、建物の中に入っていくのを確認してから、エイコは、タクシーを降りて、ゆっくりと近寄り、中の様子を見た。だが、中には入らなかった。ここで、中に入って誰かに気が付かれるより、道端で岩田が出てくるのを待っていたほうが、為になると思ったのだ。なにか、異常が発生したら、すぐに駆けつける積もりで、壁に肩を持たれかけて、シャネルのポーチから、ポールモールを一本取り出し、ジッポのライターで火を付けた。このライターはエイコのお気に入りだった。金属部分を手製の赤いレザーで覆ってある。エイコの手作りの作品だった。  日が差して天気がいい。落ちついてから空を見上げると、坂の上に大きな白い尖塔が見えた。観光客がその岡の上に群がっていた。それを見たエイコはこの場所が有名なサンクレール寺院の近くなのだと分かった。モンマルトルの一角なのだ。  男たちの姿が、門扉の中に消えてから、十分ぐらいしたころ、歩道に落ちた煙草の吸殻は、二本になっていた。これで最後にしようと三本目に火を付けようとしたとき、階上で何かが弾けるような音がして、男達が争う声が聞こえた。エイコは、三本目に火を付けないまま、路上に落ちた煙草を無視して、目の前の扉を押し開け、建物の中に入って、音のした方を目指して進んでいった。中に入るとすぐは、ホールになっていて、その先に階段があった。エイコは、階段を駆け上がり、二階に出た。その付近には何の異常もなかった。さらに三階を目指して階段に足を掛けたとき、上のほうから岩田が駆け降りてきた。  「どうしたの」  エイコが叫ぶと、岩田が目を向いて答えた。  「二人とも死んだ」  「どうして」  「互いに頭を銃で打ち合って。一瞬のことだった」  「とにかく、あなたは、ここにいてはまずい。早く逃げましょう」  エイコは、岩田の手を引いて、上がってきた階段を引き返した。二段ごとに階段を飛びながら、一階に降りた。そして路上に出ると、一目散に坂を下りていった。坂道の途中で青い線を横腹に描いて、屋根の上に緊急灯を置いたパリ警察のパトロールカーが、サイレンを鳴らして登っていった。近くの住民が、緊急通報したのだろうか。  暫く坂を駆け降りていくと、息が上がった。もう走れないという状態になったころ、坂道は終わり、広い道路と交差している場所に出た。エイコはその場所で左右を見て、左側にこぎれいなレストランがあるのを見つけた。  「あそこに入りましょう。そして、話を聞きたいわ」  エイコの後に岩田も付いて、その店に入っていった。  白いテーブルクロスが眩しい、窓際の席に付くと、二人は、まず、熱いカフェオレを注文した。まず一息着きたかったのだ。それに重い物は入らない。軽くサンドイッチでも頼めば十分なのだ。  「どうしたというの」  エイコは、カフェオレがテーブルに置かれるとすぐに、一口啜り、岩田の目を見て尋ねた。  「いや、驚いた。あの若い男は、いわゆるフリーのカメラマンなんだ。それは、わかったろう。彼に話をしたら、親方がいるからそいつに会えば、詳しいことが分かるだろうと、言うんだ。私が知りたかったのは、どう言う筋から注文があるのかと言うことだから、その親方に聞けば分かると思って、そいつのバイクに乗せてもらって、親方の家に向かったのだ」  そこまではエイコも知っている、命懸けの追走をしたのだから。それにしても、タクシーの運転手はいい年なのに、腕は確かだったので助かった、とエイコは改めて安堵の溜め息を漏らした。  「それは、私も分かったわ」  そういうと、岩田はやっと気が付いたのか、  「そうだ、君は付けてきたんだな。有り難う。よくやってくれた」  と改めて礼を述べた。  「ところで、そのあと、どうなったの」  エイコが知りたいのは、その後のことだ。礼をしてもらいたかったわけではない。  「親方という男の部屋に行って、話をしていた」  「どんな人だった」  「東ヨーロッパのなまりの強いフランス語を話す男だった。俺はフランス語は良く分からんが、語尾の子音を発音するので、フランス人ではないとすぐに分かった。それで、生まれを聞いたら、ボスニアだ言っていた」  「あの若者もそうなのかしら」  「いや、彼は、ギリシャ人だ。自分で言っていた。だが、ボスニアもギリシャも近いよ」  「それに、ダイアナさんはエーゲ海でバカンスを楽しんでいたんだから、彼らの母国に近いのね」  「土地勘はあるんだろう。その親方は、だが口が固かった。彼らの仕事の性質から、注文主は絶対言えない、と言う。それが、職業倫理だというんだ。それで仕方なく、私は、スクープ写真は一枚いくらくらいなのかと、聞いてみた」  「面白いわね」  エイコはそう言って、半分くらいになったカップの液体をまた一口飲んだ。いつの間にか、ハエが一匹、まとわりついている。パリでも夏のこうした暖かな窓辺には良くハエが出てくるのだ。  エイコはそれには気を使わず、  「幾らくらいだったの」  と重ねて聞いた。  「それは、ピンからキリまであるんだという。絶対的なスクープ写真なら、一千万円を越える値が付くが、数万円の場合が多いようだ」  「ほら、ダイアナさんが、ドディ・アレファイトと一緒にヨットでキスをしている写真は、いくらくらいしたのかしら」  「億の値がついたろうね」  「いい商売だわね」  「そりゃ、一発勝負だから、ギャンブルだな」  「多少の迷惑なんか目に入らずに、一生懸命になるわけだ。それで、親方はどうしたの」  「意外なことを言った。親方はもう長い間、配下のパパラッチが撮ってきた写真を見てきたが、以前と最近ではダイアナさんの表情が変わった、というんだね」  「どういう風に」  「明るくなったという。それで、親方は昔の写真と詳細に比べてみた。そうしたら、目の開きかたや鼻の形が微妙に違うんだということが、わかったという。それも、最近突然に、変わったらしい」  「それは、いつごろからなの」  「今年に入ってからだという。一年前は暗い瞳の表情だった。あの上目遣いの探るような、非難するような表情が消えて、明るくなった。背筋を曲げて歩いていたのが、まっすぐにして自信をもって歩いているように見えるようになったという」  エイコは岩田のその言葉に、反応した。  「今の私と同じだわ。恋をしたのよ。女は恋すると変わるものよ」  「親方もそう言っていた。だが、それにしても、急変だったので、皆驚いたようだ。人間そのものが、変わったとさえ思えたのだという。多くの配下たちは、恋をしたという判断で、追跡を続け、今度の事態を招いたわけだ。だが、親方は、違う見かたををしていた。そして、生まれ故郷の同じある男を思い出した。そいつは、各地を移動して歩く、サーカスの見せ物小屋でそっくりさん人形を展示して歩いている興業師だ。ジプシーの一団に付いて、ヨーロッパ中を旅して歩いている。そいつの蝋人形は、精巧に出来ていて、本物そっくりだという評判なんだ。彼に写真を見てもらえば、違いを見分けられると考えて、親方は、その友達に会いに行った。ところが、友達が持っていたダイアナ妃の蝋人形が、カザフスタンでの興業中に紛失したというんだ。女王やチャールズ皇太子らの英国王室は目玉なので、彼は途方にくれて、方々捜し回ったが、見つからなかったというので、落胆していた。彼に写真を見てもらうと、最近の写真が彼の蝋人形とそっくりだと、言った。だから、彼の人形は最新の姿を模していたわけだ。そして、彼は面白いことも言った。彼の人形はもう三年前に制作したもので、本物の暗い表情をなるべく消すようにして、作ったものだった。だから、その興業師は、本物が俺の人形に似てきたんだ、と不思議がっていたという」  「おもしろい話ね。それで、盗まれた人形はどうなったの」  「カスピ海に浮いていた。しかも、完全に解体されて。それでも、興業師は愛着があるので、目下、修理をしているという」  「なにがあったのかしら」  「親方はこういう話からある、推理をした。それを、話しはじめたとき、あの若い男が飛び込んできて、親方の頭を狙って拳銃を打った。親方は、念の為に用意していたのか、机の引き出しから咄嗟に、拳銃を取り出して、応射した。若い男は逃げようとしてドアーに向かったが、寸前に背後から後頭部に弾を浴びた。二人とも即死だろう。現場は血の海だった」  「あのとき聞いた銃声がそれね」  サンドイッチが出てきた。血の海という表現を聞いたにも係わらず、エイコは、そのひときれを手にして、口にほうばった。  「それで、私はやばいと思い、逃げだしてきたと言うわけだ」  岩田も話しおわって、気が軽くなったのか、食欲が湧いてきた。冷めたカフェオレでサンドイッチを流しこんだ。  「で、結局、親方の黒幕は分からなかったというわけね」  エイコは、遠くを見ながら言った。  「そうだ。だが、彼らの多くは東欧からきている。しかも、殆どが、ベルリンの壁が崩れてから、旧東ドイツ経由で、やって来ている。東ドイツになにかがあるような気がする。ちょっと、気になることもあるんだ」  「それは、今度の事件の解明に関係しているの」  「今のところ、分からないが、私の勘では、間違いなく繋がっている。ある男に会えば、それが分かるはずだ。ロンドンでの四人殺しと今度の元妃殿下の事故は全く関係がないようだが、二つだけ、つながりを暗示させるものがある」  「写真と虫ね」  「それが、僕には気になってならない」  「その疑問を解明したいのね。私も付き合うわ」  「旦那に言わなくていいのか」  「いいの。あなたとなら許すわよ」  岩田とエイコは、昼下がりのモンマルトルを下町に向かって歩いていった。夏の日差しが、路上に二人の小さな陰を作った。  ダイアナ元妃の遺体は、ロンドン郊外のバルモラル城に避暑に行っていたチャールズ皇太子が引き取ることになり、殿下は専用機でパリに到着した。木製の柩に入れられた妃殿下の遺体を皇太子は確認しなかったらしい。ただ、柩を乗せた専用機はロンドンに直行し、セントジェームス宮殿に安置された。宮殿前の広場は市民が捧げた夥しい花束で埋まった。  この報道をパリで読んだ岩田にはある疑念が、生じていた。  (遺体を確認にきた筈なのに、随分簡単に運んでいってしまったのものだな)  と違和感を感じたのが第一で、「遺体を確認しなかったらしい」という推測がなぜ書かれたかが気になった。だが、別れた女房の遺体を引き取りに行った元夫の感情がその一文に現れているという気がして、これは、欠かせない一行という気がした。多分事実なのだろう。  岩田が次に考えたのは、パパラッチの親方が言った、蝋人形の紛失事件だった。それに考えが及んで、昨日の発砲事件の記事を探したが、何故か記事は載っていなかった。警察が事件を隠したのに違いない。路上を急いでいたパトロールカーは、この目で見ているから、警察が察知したのは間違いないが、なぜ、公表しないのか。その方が気になった。  医師が言った「手術の際の異常事態」も引っ掛かる。なにか、巨大な陰謀がこの事故の周辺にあるように思えてきた。  こういうときは、情報を整理しないと行けない。重要な情報と棄てるべき情報を取捨選択して、道筋を付けるのが大事だ。だが、岩田の頭の中には、モスクワ、ロンドン、ロサンゼルスという場所とともに、あるイメージが醸成されつつあった。そのキーワードは、「フェイク」という単語だった。  真実と虚偽の見分けが難しい現代では、本物と偽物の見分けも付けがたいことが多い。沢山のコピー商品が氾濫し、CDやビデオなどの複製品そのものが商品として、流通している時代には、本物が何かさえ、明確でないのだ。  なにか、巨大な偽物が事件の陰を形成しているような予感があった。その陰の姿を求めて、岩田は深い闇の中に彷徨い込んでしまったようだった。    翌日、事件は一気に進展した。ダイアナ元妃とアレファイトの乗った車を運転していた初老の運転手は、事故で死んでいたが、彼が事故直前に多量に飲酒していたことが証言から明らかになり、解剖所見と一致したのだ。解剖では、血液中から、高濃度の飲酒を示す高いアルコール値が検出されていた。このことから、事故原因は、当初言われていたパパラッチの付きまといによるものではなく、運転手の飲酒運転によるものという疑いが深まったのだった。  「全く新しい事態になったようだね」  ホテル「リッツ」のダブルベッドの上で、それを報道するテレビを見ながら、横に寝ているエイコに、岩田が話しかけた。  「酒飲み運転ね。でも、こんなのは、どうにでもなるわよ」  エイコの反応は素っ気ない。  「どうにでもなるって、どういうこと」  「どうせ、当局の発表なんでしょう。いくらでも操作出来るじゃないの」  エイコの判断は冷めていた。  「そうか、嘘の発表をしたのか」  「そうかもしれないということ。大体、本当に酒を飲んでいたのかなんて誰にも分からないわ」  「でも、解剖所見がそうだって言っているよ」 岩田は合理的理由を説明した。  「たとえそうでも、それだって、本当かどうか、分からないじゃないの」  エイコはあくまでも、疑い深かった。女の直感なのだろうか、いつもは、淡白なエイコが、この一件では強硬だった。  「すると、警察は嘘の発表をしたのか」  「いや、警察も騙されているんじゃないかな。問題は、ネタ元だわ」  「すると、解剖した医師かい」  「いや、それもない」  「じゃあ、どういうわけで、素面の男の遺体からアルコールが検出されたんだ」  「それを、これから探りましょう」  エイコは、ベッドから、跳ね起きると、素早く着替えをして、岩田に、  「さあ出掛けるわよ。あなたも着替えて」  と命令口調で言った。岩田は素直に命令に従って、外出着に着替え、部屋を出た。  二人が向かったのは、パリ市の救急センターだった。事故の後、被害者を病院に運んだファースト・エイドのセクションがある。そこで、救急隊員から、事故後の様子を取材しようというのが、エイコの意図だった。  サンドニ島にあるその救急ステーションで、二人が面会した隊員は二人だった。一人は年長の背の高い男で、  「ピエール・シャピロです」と名乗って、主にこの男が話をした。もう一人は若い小柄の男で、当時は救急車両を運転していたのだという。  「あなたがたが到着したとき、車はどんな様子だったんですか」  岩田が質問した。  「右側の壁に激突したあと、反転して、後ろ向きになっていて、運転手とその後ろに乗っていた男の二人は既に死んでいました。助手席の男とその後ろの女性には息がありましたから、直ちに救出し、病院に搬送したのです」  ピエールが答えた。  「すると、二人を運んだというわけですね」  「いや、、まず、最初の車が息のあった二人を運び、続いてやって来た同僚が、息の無かった二人を念のために運んだのです」  「すると、救急車は二台行ったのですか」  「二台どころではないですよ。少なくとも三台は出動したはずです」  「では、あなたがたは女性を運んだんですね」  「そうです」  「息はあったと言いますが、意識もあったんですか」  「もちろんです。私にかまわないで、他の人を助けてあげて、とさえ言ったのです」  「では、助かる様子だったんですか」  「それは、もちろんです。頭を天井にぶつけたらしく、血が出ていましたが、他には、異常はなかったんですから。病院に入ってから、容体が急変したのだと思います。そういうことは、重大事故ではよくあることですから」  「ほかに、なにか言いませんでしたか」  「そういえば、気になるのは、ダイアナ妃を、車から助け出すとき、あの女は、と呟いていたことです。そのあと、道の先のほうを気にしながら、われわれの車に乗ったのです」  「おかしいですね。そんな話は初めて聞いた」  「そりゃあ、誰にも話していませんから。誰も聞きに来なかったし」  「警察も来ないんですか」  「書類にして報告はしますが、そんな会話までは書きませんよ。人が来なければ、話もしませんしね」  やはり、取材は足で稼ぐのが、基本だ。  「分かりました。それで、運転手は本当に死んでいたのですか」  「それは、まちがいありません。我々は、脈も取りますし息もしっかり確認します。でも、死亡認定は出来ないので、病院に運ぶのです」  「酒を飲んでいた様子でしたか」  「私が見たときはそんな様子はなかったです。匂いもしなかった。ところが、後から搬送した同僚は、酒臭い匂いがしていたというのです。でも、解剖すればすぐに分かることですよ」  「その結果は、泥酔状態をうかがわせるアルコールが、検出されたのですよ」  「私には分かりませんが、搬送中は臭っていたと言いますから」  ピエールは、なんの疑いも抱いていないようだった。岩田は気になっていたことを、再び聞いた。  「あの女、というのは、どういう意味だったのでしょうね」  「分かりませんが、私も周囲を見てみたのですが、それらしい人は見かけまえせんでしたよ」  「パパラッチは」  「ああ、何人かはいましたが、そんなに大勢ではありません。引き上げたあとだったんでしょうか」  大体のことは、わかった。収穫は、元妃の最後の一言を詳細に聞いたことだった。それと、運転手が最初はアルコール臭くなかったのに、搬送中に臭いだした、ということを聞き出したことだ。「あの女」とはだれなのか、なぜ、急に酒臭い臭いがしだしたのか、気になることが多いが、事件の真相に迫る手掛かりになるという予感がした。  ここは、原点に返って、ロンドンからのヒントを関連付けて考えてみる必要がありそうだ。ロンドンでは、四人が死んで、写真と虫が残されていた。パリでは元英国皇太子妃とその新しい恋人と若い運転手が、交通事故で死に、その車を追っていたパパラッチと元締めの親方が、相手を打ち合って死んだ。岩田の周囲で、僅か半月の間に、九人もの死者が出たことになる。  その間には、今のところ、何の関連性もなさそうだ。ただ、気になるのは、それぞれの現場近くに岩田がいたということだ。ロンドンでは岩田がインタビューに行く相手だったし、パパラッチの場合は、話を聞いている最中だった。ただ、元皇太子妃の事故だけは、ロンドンの三矢の自宅に足止めされている時に起きたのだが、アレクセー一家が殺された部屋には、元妃殿下のポートレートが残されており、岩田にこの事件への強い関心を抱かせ、エイコとともに、パリに来る動機になった。  岩田は市警察に向かった。なんといっても、気になるのは、自動車事故原因捜査の進展状況だったが、もう一つ、パパラッチの相互殺人事件が新聞にも載っていないことが、引っ掛かっていた。アパートで二人が銃を撃ち合って死んだのだから、かなりの重大事件だ。それが、一行も報道されていない、ということが理解できなかった。  パリ警察は、十八世紀に建設された古い堅固な建物のなかにある。石造りの階段を上がって、受付で用件を言うと、亜麻色の長い髪を頭上に束ねている髪形が美しい受付の若い女性は、内線電話で広報係を呼び出した。二人は受け付け横の応接室に通され、広報係の来るのを待った。  普通の建物の二階分もある高い天井の部屋で、壁には歴代のパリ警察のトップの肖像が掲げられていた。尖った鼻のいかつい男が、上の方から、見下ろしていた。  間もなくやってきた禿頭に僅かに残った数本の髪の毛を横になでつけている中年の男は、  「パリ市警察の広報担当、ポール・ヴィルヌーブです。宜しく」  と手を差し延べた。岩田とエイコは、簡単な自己紹介をし、来訪の理由を述べた。  「英国皇太子妃の捜査は、順調に進んでいます。運転手の解剖所見などから、飲酒運転の疑いが濃厚ですが、われわれは、車を押収して、詳しい検査をしているところです。幾つかの捜査すべき点が見つかりましたが、結論を出すのにそう時間は掛からないでしょうね」  ポールは、楽観的な見通しを述べた。恰幅の良い腹の出た体から発せられるフランス語は軽やかだった。岩田はフランス語は論理性と芸術性を兼ね備えた言語だと、改めて思い知らされた。落ちついた体躯から発せられる低音のフランス語ほど、人の感情を着き動かすものはない、と実感した。  「その新しい発見とはなんですか」  エイコが興味深そうに尋ねた。  「車に多少の細工がされていたのと型番が付け替えられていたことです。それに、最近修理に出されたばかりでした」  「何の修理ですか」  エイコが突っ込んだ。  「下回りの改良ですね。サスペンションです。通常より硬くしたんです。それから、型番のエンブレムが付け替えられていた。一ランク上の車の型番に替えられていたんです。まあ、ホテルの見栄でしょうが。客商売ではよくあるやり方です。お客の満足を考えてのことでしょうね」  「他になにか異常は」  「いまのところ見つかっていません。ハンドルも正常でしたよ。マスコミはハンドルが切れなくなったのでは、という憶測記事を書いているようですが」  岩田が日本の新聞記者だとわかっていながらの、皮肉を込めた発言だ。  「それと、もう一つ、モンマルトルの近くのアパートで、なにか事件が起きたという報告はありませんかね」  岩田がポールの悪意を振り払うように聞いた。  「ここ数日は、なにもありませんよ。受付の電話を受けてから、事件発生報告を調べてみましたが、平穏そのものです。何時もなら盗みの一つもあっておかしくない地区ですが、八月の今の時機は、どの店も休業ですから。みな、バカンスに行って、下町には閑古鳥が泣いています。こんな時に働いているのはしがない公務員のわれわれと、海外からの観光客を狙っている高級ブティックやデパートくらいのものですよ」  ポールは、そう言って、大きく溜め息を付いた。こんなに熱いのに、得体の知れないアジア人の応接に付き合わされたのが、やり切れないようだ。  岩田はその様子を見て、早々に辞去することにした。  疑問は、更に深まった。激しい銃声がした町中のアパートでの撃ち合いが、事件として届けられていないのには、唖然とした。そして、事故車が修理直後だったのは新しい収穫だった。  岩田の頭のなかに、ある構図が描かれはじめた。それは、死んだダイアナ元妃殿下は、本物ではない、という突飛な推測だ。エイコがホワイトハウスで見た目撃談が事実とすれば、妃殿下には影武者がいることになる。その影武者が死んだのか。お棺に入れられたのは、誰なのか。あるいは蝋人形かもしれない。  そうだとすれば、本物のダイアナ元妃は、生きている。では、どこにいるのか。その居場所を突き止め、存在を確認できれば、これは、世紀のスクープだ。だが、何処を目指すべきかの目処は、まるでなかった。  第四章 「ビールとパンとニンニクと」  パリのモンマルトルでの殺人事件が、公にならないのを不審に思った岩田とエイコは、事件の現場を再訪してみることにした。ムーランルージュの赤い風車を見あてにあのアパートを探してみた。なにしろ、あの日はバイクをタクシーで追ってきたのだから、二人で歩いていくのとは風景が違った。石畳の坂道の途中には、沢山の店があり、野菜や肉や魚を売っていた。小さいカフェーも多く、平日の昼さがりなのに、働き盛りの男たちが、屯しているのが見えた。フランスの失業率は依然としてハイレベルで、都会には職を求める人たちが殺到しているのが分かる。  そのアパートに来たのは、そう遠い昔の事ではないから、記憶は鮮やかだった。途中のブラッセリーで、フランスパンのサンドイッチを取ってから、坂を登り詰めて行くと、見慣れたあのアパートがあった。入口の板扉は前と同様に開いていた。岩田は率先して、中に入り、奥の階段を登っていった。エイコが後に続いた。  暗い階段を登って、二階の奥が確か、あのパパラッチの親方の部屋のはずだった。入口の前に立ってドアーのノブを回すと、意外にもノブは素直に回った。鍵は掛かっていなかった。岩田は木製の扉を開いて、中に入っていった。先日、あの親方と会ったのは、一番奥の応接間だ。そこに行くまでに玄関の脇のキッチンや小さな控えの間があったが、岩田が覗くと、いずれも空室だった。といっても、全体が暗いからよくは分からない。ただ、人がいないのだけは、体の感覚で分かった。部屋にも家具はないようだった。そいういえば、この前来たときはその控えの間は暗室として使われていたようだった。  岩田はさらに奥に進んで、あの親方と会い、若い男と親方が撃ち合いになって倒れた狭い応接間に来た。ドアーがあったが、開いていたので、真っ直ぐに中に進んだ岩田とエイコは、唖然として、立ちすくんだ。部屋の様子がすっかり変わっていたのだ。変わっていたというより、もぬけの殻になって、空き部屋の広い空間が広がっていたのだ。この部屋がこんなに広かったのかと、思うほどに空漠とした空間が目の前にあった。  「あれっ、どうしたのかしら」  エイコが、暗い部屋のなかに恐怖の声を響かせ、岩田の腕にしがみついてきた。確かに、人が居ない他人の家に忍び込んだときの恐ろしさは格別だった。もしかして、どこからか、ふいと人が現れるかもしれないという恐れが、常に付きまとい、他人の家に忍び込んだという後ろめたさと罪悪感が、その恐怖を倍増した。  岩田は壁の電灯のスイッチをひねったが、天井の電気はつかなかった。しかたなく、岩田はエイコの手を引いて、そろそろと窓際に移動した。厚いカーテンの隙間から少し昼の明かりが漏れて来ていたので、それを頼りに窓際に進み、カーテンを引き開けようとしたのだった。二人が部屋の真ん中あたりまで進んだとき、廊下に足音がした。  岩田とエイコは、その音を聞いて思わず、立ちすくんだ。足音は、ゆっくりとこちらへ向かっていた。岩田はとっさに身を隠すべき場所を探したが、なにしろ、家具類は一切ないので、そういう場所はなかった。しかたなく、二人は、ドアーから最も遠い部屋のコーナーに身をかがめて、うずくまった。  そういえば、確かにおかしなことだった。この、パリの町のアパートで玄関のドアーに鍵がかかっていないことなど滅多にないだろう。それが、いとも簡単に忍び込めたのだ。これは、なにかの罠に違いない。不審な訪問者を陥れるための蟻地獄なのかもしれない。そう考えると恐怖感はさらに強まったが、エイコには、話さなかった。両手を岩田の右腕に当てて身を縮めている姿を思えば、さらに恐ろしい事態を想像させることはできない。  足音は部屋に近付いてきた。それとともに、明るい光の渦が天井を照らし始めた。その光は揺らめきながら徐々に明るくなり、光の輪を広げていった。見たところ電灯の光ではない。揺らめきが激しいところを見ると、手燭蝋の光のようだ。  光はしばらく揺らめきながら拡大したあと、停止した。部屋の入口に、蝋燭を手にした老年の男が立っていた。岩田はじっくりとその男の顔を見た。その顔はこれまでの人生で会ったどの人の顔よりも醜かった。鼻はねじまがり、瞼は不揃いに垂れていた。頬は火傷の跡のケロイドのように爛れ、耳は潰れそうだった。背格好は岩田より低い。あるいは女性としては長身のエイコよりもずっと、小さいかもしれないようだった。  その姿を見て、エイコはまた、  「ああっ」  とうめき声を上げた。女いうものは、こういう緊急のシチュエーションでも、本能を抑えられない代物らしい。  その声を聞き咎めた醜悪な小さな怪物は、こちらの方に蝋燭の光を向けた。光が部屋を回って、二人のほうに向かい、部屋の隅が照らされた。うずくまっている二人の男女が黄色い光に照らされて浮かび上がった。男は、ずかずかと歩み寄って、二人の姿をじっと見詰めた。それは、長い時間のようだった。身を縮めながら寄り添っている二人を確認すると、男は、蝋燭の光を後ろに下げ、  「どうしたんだね。お二人」  と美しいバリトンで声を掛けた。それは、地獄でオペラを聞くような感覚だった。暗く閉じこもった部屋に、その美声は軽やかに響いて拡散した。  「いえ、ちょっと。こちらに用事がありましてね」  岩田がせめてのも気力を絞って、答えた。使い慣れないフランス語だったので、ぎこちなかったが、話は通じたらしい。  「誰もいない部屋に何の用事だね」  男は、続いて聞いてきた。  「話せば長くなりますが。もうだれもいないのですか」  「いないな。長い間、人はいない。もう、二年の空室のままだ」  男はきっぱりと言った。  「二年もですか。ところで、あなたは」  岩田は何回か会話をして、気が休まったので、男の素性が聞きたくなった。  「おれは、管理人だ。持ち主からこのアパートの管理を任されている」  それで、全てが納得できた。もう二年も借り手がないのだから、電気も切ってあるのだろう。蝋燭を持っているのも頷ける。そして、たまにこうして見回りをしているのだ。  「あんたたち、空き部屋荒らしかね。最近は、そういう仲間が多くて、随分と、被害にあった。部屋に作り付けの家具を盗むんだ。だが、見たところ、そうでもなだそうだな。東洋人のようだし。ベトナムかね」  「いや、日本人です」  「それなら、そういう悪さはしまい。なんの用事だ。他人の家に無断で入り込んで」  管理人は、その容貌とは裏腹に、物事の道理が分かる人のようだった。まったく、人は外見では分からない。  「実は、この部屋で先日、発砲事件があったはずなんですが。二人が撃ち合って死んだ」  「ちゃちな盗みやかっぱらいはよくあるが、撃ち合いなんて物騒なことは、起きるわけがない。そんなことがあったら、ますます、借り手がなくなるよ、へんなことを言わないでくれ」  管理人は醜い顔を歪めて、岩田の言葉を非難した。  「そうですか。なにもなかったんですか。狐につままれたようだ」  岩田が日本語で嘆いたのは、管理人も意味がわからなかったろう。  「ところで、この部屋には簡単に出入りできるようですね」  「いや、厳重に鍵を掛けているから。そう簡単には入り込めないよ。あんたたちは、たまたま、わしが見回りに来たので、鍵を開けておいたから、入れただけだよ」  それは、納得できなかった。そうだとすれば、岩田とエイコが見た二人の男の撃ち合いは、幻覚だということになってしまう。なにかの手立てであの時、二人の男はこの部屋に入り込んでいた。しかも、沢山の家具や設備を運び込んでいたのだ。一体なんのために。考えられるのは、一時的にこの部屋を事務所のように装っていたということだ。なんのためなのか。岩田は考えを巡らしたが、確固とした結論には至らなかった。  「よく見回りはするんですか」  「それは、そうだ。それがわしの仕事だからね。でも、実は、昨日やっと退院できて、今日が仕事始めなんだよ」  管理人は、得体の知れない皮膚病で一ヵ月程、市立病院に入院していたのだという。  「ああ、あの病院ですね」  「知っているのか。皮膚が爛れて溶ける難病だったが、手術でなんとか、ここまでで収まった。本当は命が危なかったんだ」  「それは、よかった。快気祝いですな」  岩田とエイコは、塵を払って立ち上がった。そのとき、尻の下に敷かれていた紙が落ちた。何だか分からないが、この部屋で起きたことの思い出と、なにかの役に立つのではないかと思いついて岩田は、その紙を手に取って、さっとコートのポケットにしまった。  「なんの用事だか、詳しく聞かない。知りたくもないからな。もし知ってしまったら、さらに詳しく話を聞かなきゃならない。そんなことは、真っ平だ。とにかく、二度と無断で、他人の家に入り込むのだけは、止めてくれ。見たところ、いい年のようだし、二人でいたかったら、この町には安いホテルもあるんだよ」  管理人は常識的な判断をしたらしい。東洋人は若く見えるのだろうか。逢引の為に忍び込んだと判断したようだ。エイコを連れてきたことが役立った。それに、これが、日本だったら、いい年をして、と謗られるところだが、異国でよかった。この年でも若く見られ、そういうことをするかもしれない、と見られたのも助かった。  岩田とエイコは、醜い管理人に丁重な詫びを述べて、建物を後にした。  モンマルトルの坂道を降りていく途中、岩田は、ポケットの紙片が気になって何度か触れてみたが、それを持ってきたことは話さなかった。ただ、ホテルに帰ってから、じっくりと見てみるつもりだった。いまとなっては、あの部屋で何があったかを探るための貴重な物証になるかもしれないのだ。   ホテル「リッツ」の部屋に戻って、シャワーを浴びたあと、ベッドの上に寝そべっていた岩田は、エイコがシャワーを浴びるお湯の音を聞きながら、コートのポケットに押し込んでおいた紙片のことが気になっていた。できれば、すぐにでも見てみたかったのだが、エイコの目が憚られて、しまったままにしてある。瞬間的な動作だったとはいえ、他人の家の物を手にして持ち帰ったことが、後ろめたかったのだ。  岩田は、ベッドを出て、クローゼットに向かい、中に掛けてあったコートのポケットからマガジンサイズの大きさの紙片を取り出した。内側に巻かれているのを丁寧に伸ばすとそこに現れたのは、抜けるような青い空を背景にそそり立っている巨大な建築物の写真だった。背景にあるのは、茶色の岩石が何重にも積み重ねられた三角形の建造物だった。一目で誰にも分かる、エジプトのピラミッドだ。  下のほうに根を生やしたようなどっしりとした大地が広がり、そこから巨大な三角錐が、そそり立っていた。その頂点の上三分の一を真っ青な空が占めている。明らかに乾期のエジプトの空である。  岩田はそれだけを直観的に捕らえてから、詳細に写真を見ていった。ピラミッド底部には人の姿があった。米粒ほどの大きさで、白い着物を着た数人の人間が映っていた。だが、彼らは素手ではないようだ。何か黒い物を抱えている。岩田はそれが何かが知りたくなった。写真という物は、あからさまに全てを写しているのかもしれないが、見る者の関心は、やはり、人や動物になる。だから、風景写真は人に笑いをもたらさないが、人や動物の写真を見ると人の心は和むのだ。だから、良い写真を撮るには、絶対に人物を入れなくては行けない、と岩田は教えられてきた。だから、自然に人に目が行く。どんなに小さくても、写真を見るときは、生き物が視点を奪うのだ。  岩田はエイコがシャワーを終えるのを待っていた。エイコが小さな虫眼鏡を携帯していたことを思い出したのだ。折り畳み式の収納ができる小型のタイプで、ミステリーが好きな彼女のお遊びが、そういう類の道具を携帯させている。  エイコは、濡れた髪のまま、豊かな胸にホテルのロゴが入ったバスローブを巻きつけて、壁際の物書き机の前に座っている岩田の所にやって来た。ラベンダーの薫りがした。多分、シャンプー剤に入れられていたのだろう。その燻薫が、岩田の官能を刺激したが、興奮が高まるのを抑えるように、  「どう思う、この写真」  と手にしていたプリントをエイコに見せた。  「ええっ、なんなの。ああ、エジプトのピラミッドか。どうしたのこれ」  エイコは、濡れた頭に小型のバスローブを巻きつけた顔で、写真を見た。  「あの部屋にあったんだ。倒れたとき隅に落ちていた」  「それを、持ってきたの。貴方も、油断できないわね」  エイコは、手にとって、子細に眺めていた。  「なんの変哲もない写真だけど、絵はがきなんかに使う観光写真とは違うわね。写している角度が違うと言うのか、視点が違う感じがするわ」  「君もそう思うかい。それにしても見事な。青い空じゃないか。こういう青はそう滅多に見られる物じゃないよ」  「確かにね。でも、その赤い煉瓦のような石組の前に見える白い着衣の人たちに、この撮影者の視点があるような気がする。写したかったのはその白い衣服の人たちよ」  エイコは、じっと目を凝らしながら、眺めていた写真を、岩田の手に戻しながら、そう言った。  「そうだろう。私もそう思った。それで、良く見てみたら、手に何かを持っているようなんだ。何だか、わかるかい」  岩田は写真をエイコに、また、戻しながら、尋ねた。  「ええ、よく見えないわ。そうだ、虫眼鏡を使おう」  エイコは、体を反転させて、自分の荷物が置いてあるクローゼットに行き、バッグから携帯型の虫眼鏡を持ってきた。そのとき、バスローブを外して、下着に着替えるのを忘れなかった。だが、岩田は写真を見ていたから、エイコが下着に着替えたことは知らない。エイコが、素早くパンティーを吐き、上にペチコートを羽織ったのは、虫眼鏡を使ってゆっくりと、写真を点検するためだった。なにも、岩田の脇に密着して、下着の効果を試す積もりではない。だが、セクシーな姿に変身したエイコを岩田の男が放っておくわけがない。戻ってきたエイコの肢体を見て、岩田は、自分の膝のうえにエイコを座らせ、後ろから豊かな腰を抱き抱えながら、机の上に置いた写真の上に、虫眼鏡を持っていって、顔を寄せながら、レンズの中を注視した。  エイコの濡れた髪を避けながら、見詰めた虫眼鏡のレンズの中に、白い衣服を全身に纏い、頭に黒い輪を掛けた髭面の男が浮かび上がった。虫眼鏡をさらに下に降ろしていくと男は、腕に黒い金属性の物体を掲げているのが見えてきた。  「これは、なんだろうな」  目と鼻の先にエイコの顔を感じながら、聞いた。  「なにかの道具ね。機械類かしら。でも、手に抱えているのを見ると、手で使う物だわ。他の人はどうなの」  岩田はもう一人の横に並んだ男に虫眼鏡を持っていった。今度は背の低い男だったが、やはり、同じような黒い物体を抱えていた。  「同じものね。どうも武器のような感じだわ。機関銃じゃないの」  「なに、物騒なことをいうな。だが、そうかもしれない。だが、これだけじゃわかならないよ」  同じ武器を抱えた男が五人写っていた。他に人はいない。写真が伝えている情報は、青い空と赤茶けた石の建造物とそれを守るように周辺に散っている男たちと、前面の砂漠だけだった。他には何もない。なかで、意味を持っていそうなのは、男たちとその持ち物であるように、思われる。写真はほかに何も示していない。裏返してみたが、裏面は真っ白だった。手掛かりは映像だけなのだ。  写真を置いて、ベッドにならんだエイコは、  「エジプトか、いいな、あこがれだわ。一度は、行ってみたいなあ」  と岩田の上に被さりながら、呟いた。  (そうか、エギプトか。どうせ、ここまで、来たんだ。エイコとは、もう二度とチャンスはないかもしれない。それに、この高いホテルには、長居は無用だ)  岩田に閃きがあった。  「よし、エジプト、行こう」  エイコが、キスを浴びせはじめる前に、岩田は叫んだ。驚いて、体を離したエイコは、  「行きましょう」  と間髪を入れずに応じていた。    岩田がエジプト行きを言いだしたのは、突然ではあったが、偶然ではない。写真を見たとき、岩田の頭に浮かんだのは、ダイアナ妃の新しい恋人のことだった。その出自は、エジプトにある。父は巨万の富を持つ資産家だが、その資産を得た出発点は、カイロの猥雑な下町の路地裏だと言われている。彼らは間違いなくイスラム教徒で、それが、元妃との結婚の最大の障壁だという観察もあった。  そういう背景を知っていたから、ピラミッドが映っているその写真を見たとき、岩田には、ピンと来るものがあったのだ。  (一体どんな場所で彼らは育って、巨額な富を築いたのか)  岩田には知りたいことが山ほどあった。それを解明するためにも、カイロに行くべきだと思ったのだ。  また、あの部屋で死んだはずのパパラッチの若い男は、生まれがギリシャだと言っていた。エジプトは、地中海を隔てて、ギリシャの目と鼻の先にある。パリからカイロへの直行便はあるが、便数は少ない。その点、アテネからは、頻繁に飛行機が出ている、さらに、飛行機でなくても海路を行く方法もある。ダイアナ妃がアリファイトとバカンスを過ごした海もギリシャの沿岸だ。  (よし、ギリシャ経由でカイロに向かおう)  岩田は心に決めてから、エイコの唇を貪った。今夜が最後のこの高級ホテルでの滞在となるのだから、心置きなく、愛を交わしたかった。  ギリシャの夏は灼熱の太陽が焼いていた。  白い漆喰作りの民家が、禿げた岩山に張りついている光景は、この地方特有の光景だが、この季節にはその白さが、一際激しく目を射るのだ。だが、海の色は抜き通るような深い青に沈んでいた。  (こんな青は、絵の具では出ない)  眼下に広がる地中海を見下ろしながら、岩田は感動していた。しかし、こうした光景がなぜ出来上がったのかを考えると、感心してばかりはいられない。この風景をもたらしたのは、人間の絶え間ない自然開発の結果なのだ。  なにしろ、緑がない。かつては、深い森に囲まれていたこの土地が、岩石ばかりの荒涼たる光景になったのは、人が木を切ったためである。燃料としてばかりでなく、住宅や船や様々な建築材としても伐採されたが、最大の需要は、金属を精練するための熱源として使われたのだという。人は現代になって二酸化炭素の削減問題に取り組むようになったが、エネルギーの多量消費による自然破壊の結末が、この緑のない土地の光景なのだから、環境問題はいまに始まった話ではない。  地中海では、古代から漁業も盛んだった。ヨーロッパ南部の港町には、必ず漁港があり漁師がいた。それが、フランス南部やスペインなど以外に見られなくなったのは、もちろん、魚が減ったからだ。ギリシャにもイタリアにも魚介料理があるが、その材料は昔のようには潤沢でなくなった。魚が採れなくなったのだ。  それは、何故か。陸から川を経て、海に流れ込む栄養分が減少したためだ。その栄養分は、森が養う。木が切られ、森が消滅したため、豊かな養分を育むゆりかごがなくなって、栄養は生成されなくなり、それを養分として生きてきた海の生物も減少したのだ。  我が国でも、牡蠣の名産地である広島や松島では、森の開発が問題になっている。牡蠣は森から流れ出る養分によって養われている。豊かな森が、芳醇な牡蠣を育んでいるのだ。  森が消えて、海は死んだのだ。その自然破壊の結果が、眼下に広がった荒涼とした風景なのだ。  (そういえば、対岸の光景も荒涼としている)  と岩田は、気が付いた。  確かに、今のエジプトには、遺跡のレリーフに描かれているような豊かな実りをもたらす田園風景はない。そのころ、ナイルの沿岸には広大な緑の田畑が広がっていたと推測されるが、今はただ、無色の砂漠が果てしなく続いているだけだ。これも、人間の開発行為の結果なのだろうか。地球全体の環境の変化が一番大きな要因だろうが、人の行為が全く無関係とは言えないようだ。灌漑をしなくても豊かな実りが生まれた大地でいまは、必死の水探しが行われ、どうにか細々とした農業生産が行われているに過ぎないのだ。  生産力の減退は、人々に貧しさをもたらす。あの国の民の貧しさは、人が働かないから、労働意欲がないからではなく、国土の荒廃がもたらしたものだ。その貧困を放置してきた政府に対して、人々は諦めの気持ちでしか、接してこなかった。それは、人の手ではどうしようもないような巨大な大自然の力の偉大さに、人の力は無力であることを、肌で知っている人たちの諦感なのだ。  (だが、いつまでも、我慢してはいないだろう)  岩田は、歴史を学べば、すぐにでも分かる推論を反芻した。抑圧された民衆は、いつまでも黙っていない。それが、人間の習性だ。理性が反抗を押さえ込んでも、感情が許さない。人の歴史はしばしば、激烈な感情によって変えられてきたのだ。その最底部には、宗教も絡んでくる。イスラムの教えに不正義を我慢しろ、という条項はない。不正は正すべきで、正義は行われるべきだ、というのがマホメッドの教えだ。  (西側を向いてばかりいるムバラク政権には、腐敗も、不正もないとはいえない。だが、いまは、この国が生きるためにはその選択しかないのかもしれない)  岩田は、柄になく政治的な観測までしてみてから、隣の席のエイコを見た。年に似合わずあどけない顔つきで、少女のまどろみのように、快眠のなかにいた。  エアバスは、高度を下げて、着陸態勢に入った。乾いた空気を切り裂いて、激しくランディングし、急制動を掛けて、着地した。アテネの町は、雲一つない快晴だった。  ホテルに旅装を解いたあと、二人が向かったのは、下町にあるレストランだった。朝から何も口に入れていなかったので、無性に腹が空いていた。「タベルナ」と書かれた看板を店先に掲げている料理屋は、路地裏に密集していた。いずれも、日本で言えば定食屋の風情で、すでに、多くの客で賑わっていた。腕時計を見たら、短針が一時を指していた。イタリア人もそうだが、地中海沿いのラテン系の民族は、良く食べ、良く喋る。喋っては食べ、食べては喋るのを繰り返して、ゆっくりと、昼食を楽しむのが習慣だ。日本人やアングロサクソンのサラリーマンたちが、数十分で簡単な食事で済ませるのとは対照的だ。そうやって、彼らは人生を、生きることを楽しんでいる。人間の根源的な欲求に最も素直に従って生きているのだ。食べて、寝て、セックスして、彼らは生きている。「人生に金など、どれほどの価値があるのか。十分な自由と十分な食事と、十分な時間があれば、人生は満ち足りている」といったのは、確かギリシャの快楽主義者の哲人だった。  暗い店内に入っていくと、奥に長いカウンターがあり、その前のスペースに、食卓が五つ並んでいた。室内は、夥しい花の鉢で飾られ、甘い花の薫りが漂っていた。海外生活の長いエイコも、こういうごてごてした飾りのレストランは、初めてらしく、  「これじゃあ、まるで熱帯植物園だわ」  と驚きの声を挙げていた。これが、ラテンの風景なのだ。  ウエーターの持ってきたメニューを見ると、肉料理が多い。確かに魚介類のメニューもあるが、圧倒的に牛や羊の料理が多いのが目についた。なかでも、羊の肉を使ったメニューが並んでいるのが、特徴だ。岩田はエイコと話し合って、軽めの羊肉料理を頼むと、立って待っていたギリシャ彫刻のように彫りの深い整った顔つきをした若いウエーターは、引き下がった。  店内を見回すと、客は殆どが女連れの男たちだった。もう一時を大分過ぎているのに、彼らは、ぴくりとも動こうとしない。むしろ、時間など気にせず、午後の時間をずっと、この店で過ごしていそうな感じだ。  しばらくすると、先程のハンサムなウエーターが、大きな皿を抱えて戻ってきた。見ただけでも、その量の多さが分かった。大食漢の大人の男でも、食べきれないくらいの分量だ。  二人は大皿料理を二品とサラダを頼んだのだが、一皿だけで十分だったと後悔した。二人とも昼間から酒を飲む習慣はないから、アルコールは頼まなかったが、他の客たちは、ワインのボトルを置いて、盛んに喉を潤していた。これだけの量を胃のなかに落とし込むには、ワインは必需なのだ、とこの時分かった。代わりにミネラルウオーターを盛んに煽りながら、肉料理の山を崩していくと、案外と食事は捗り、二皿目も半分ほど平らげた時、二人が店に入ってきたときから、カウンターの隅で様子を見ていた若い長身の男が、近寄ってきて、  「観光でしょうね。記念に写真は如何ですか」  と下手だが使い慣れた英語で聞いてきた。流石に観光が主産業の国だけはある。こんな所にも、観光客目当てのカメラマンがいるのだ。そういえば、観光が大産業になっている国には、かならず、記念写真を撮るのをなりわいとする写真屋がいる。彼らは、名所旧跡に一日中陣取っていて、観光客を狙う。そういう、根なし草の稼業だけでなく、近年は、観光ガイドや旅行社と契約して、観光コースに記念写真の撮影を組み入れてもらい、安定収入を図っている者も多くなっている。  「観光立国にはカメラマンが多い。これが、岩田の法則だ」  目を瞑りながら、エイコに言うと、  「当たり前のことだわ」  と軽くあしらわれた。  それより、寄ってきた若いカメラマンの申し入れをどうするかを考えないといけない。岩田は、了承して、  「いいけど、その代わり、少し聞きたいことがある」  と言うと、若い男は、一端躊躇の表情を見せたが、折角掴んだ客を逃がすことはないと、判断したのか、にっこりと頷いた。  若いカメラマンは、一端引き返して、ストロボ付きの日本製一眼レフカメラを手にして、戻ってきた。あとは、お決まりのように、ポーズをさせたり、自由に任せたりしながら、数枚の写真を撮った。  「はい、終わりました。こちらにお届け先を書いておいてください。滞在先のホテルに今日中にはお届けします」  と料金が書かれた用紙を差し出した。それは、請求書と領収書と控えが三枚綴りになった専門用紙で、彼の名前が書いてあった。それには、ソクラテス・デモスクラテス・アオシナスとあった。風体に似ず、凄い名前だ。岩田は、連絡先を書き入れたあと、エイコに 「彼は偉人だ」  と呟いたが、エイコは、無視し、詳しくは聞かなかった。  カメラマンは、所定の用事が済んだあと、  「ところで、あなたの用件は」  と言って、空いていた椅子に座った。  「いや、こういう商売は、こちらでは多いのかなと思ってね。いや、知り合いに、ギリシャ出身のカメラマンがいるんだ」  若者は即座に返答した。  「そりゃあ、この国には大した産業がないですから、写真屋はいい商売ですよ。だが、誰でもができる仕事じゃない。一種の接客業ですから、愛想が良くないといけないし、センスも必要だ。それに、現像や焼き付けの技術に設備もいる。第一、このカメラ、お客さんの国の製品だけど、値が張るんですよ。でも、性能は値段以上だ。だから、皆、日本製を使っている。そうしないと、成り立たないんです。だから、我々の仕事はそう低い位置にはないでしょうね」  「皆がうらやましがるような仕事なんだね」  「それほどでもないですが、そう簡単にできる商売ではないのは確かです。もし、貧乏人がなりたかったら親方に付いて修業して、せっせと小金を貯めて、機械を買うだけの物が溜まったら、やっと、独立できる。辛い時もあるんです」  「じゃあ、大体皆知り合いかい」  「ええ、殆ど、同業者は知っていますよ」  「こういう仕事だけではなく、有名人の追いかけをしたりするフリーの仕事をする奴もいるんじゃないか」  「確かに、いますよ。でも、やつらのやっているのは危険な仕事だ。それは、一発いいのが撮れれば、大金が舞い込みますが、運もありますから、生活は安定しませんよ。それに比べれば、俺たちはずっと楽で、安定している」  「そういう一発勝負に出た知り合いがいるかい」  「います。彼らにはそれなりの事情もある。でも共通しているのは、何かの理由で金が必要だということです。博打をするやつには、必然性と蓋然性があるんですよ。いずれも訳があってやっているんです。中には好きでやっているやつも少しはいるでしょうが」  流石に若者とはいえ、哲学の国の国民だ。岩田は頷いた。  「君の知り合いで、そういう、なんというか、いわゆるパパラッチになった人はいるかい」  エイコが質問が核心に入ったと思って、休めていたフォークを握って、羊肉に突き刺した。かといって、口に運ぶ訳ではない。肉の上で遊ばせている。  「ああ、いますよ。先日はダイアナ元妃殿下の追いかけをして、こっちに来ましたよ。僕も、好奇心から海岸に行ってみたら、やつは、こんなに大きい望遠レンズを付けたカメラで沖合を狙っていた。すこし、話もしましたよ」  「どんな、話だった」  「なにか、大きなスクープを狙っているんだと、言っていました。世界が驚くような衝撃的なニュースだというんです。あとで、知ったんですが、それが、あのアラブ人との船上デートの写真だったんです。でも、僕にはもっと大きな仕事だと思っていた」  「でも、あれでも、かなり稼げたでしょうね」  「ええ、高く売れたでしょう。でも、彼は、今後の仕事は金だけじゃない。世界が転覆する話だ、と意気込んでいましたから、あの程度ではないという気がしていたんですが」   若者は納得いかない顔つきをした。  「いや、ありがとう。助かりました」  岩田は礼を言って、写真代に色を付けた金額を渡した。  「ねえ、何が分かったの」  聞いていたエイコが確かめるように聞いた。分かっているのに確認したいのは、女の習性なのだろうか。  「だから、この国には優秀なやる気のある写真家が沢山いるということだよ。それと、熱血漢もいるということだ。間違いなく、パリで死んだ若い男は、こういう場所から生まれたのだ。彼の言っていたことは嘘ではなかった、ということだろう。その彼らが、大きな嘘を付いている。それは、なにかの巨大な意思が働いているからだろう。彼らの死の背後には、未だ、明らかにされない秘密の意思があるのだ。それを突き止めるために、ここまで来たんだ、そして、少しく収穫もあったということだろう」  「何だか、難しい言い方ね。まるで哲学者みたい」  そういえば、この国は哲学の国でもあるのだ。あくせく働くのが、無意味に見えてくる、ギリシャの午後をそうして過ごしていると、明日にも訪れる予定の対岸のアフリカの国への期待が、二人の中でいやでも膨らんだのだった。    日が西に沈むころ、岩田とエイコは、郊外にある小高い丘に立っていた。眼下に雑然とした町並みが続くアテネの町が広がっていた。空を見上げれば、煤けた大理石の大きな石柱が黄金色の空に先端を突き刺していた。もっとも、頂上に大きく横に広がるレリーフ入りの梁を乗せた柱もあって、夕暮れの色彩に染め上がった空を背景にして、一段とくっきりと、見るものの目を刺していた。  この時間になっても、丘の上にはかなりの数の観光客が、あちらこちらに、思い思いに、散らばって、記念写真を撮ったりしていた。  「観光地は、どこにいっても同じよね。特に日本人は、すぐに分かるわ。団体でガイドに案内されて、カメラを肩に掛け、群がって歩いているもの」  エイコが、石柱が切り取った空間の内部に入りながら、遠くにいる東洋人の集団を見つけて言った。  「それより、最近は、持っている物と着ている物で分かる。このごろは、韓国や台湾人の観光客も多いから、顔つきや体つきだけでは見分けが付かないが、明らかに服装が違う。日本人は、世界中のどこの国の人よりも、良いデザインの高級品を身に着けている」  「それと、ビデオカメラでしょう。これは、必需品」  では、何も持っていない岩田とエイコは、何者と見えるのだろう。確かに仕立てのいい洋服と、装飾品を見れば、観光客相手の商売人は、即座に日本人と見破るに違いない。では、それだけが、日本人としての特徴なのだろうか。外見だけで、見破られる民族は、いまでは、そう居ない。ターバンを巻いたインド人は、今では少数派なのだ。中国人だってたまにしか人民服やチャイナドレスは着ない。それは、日本人が和服を特別の場合にしか着ないのと同じことだ。だが、日本人は洋服を着ていても、日本人と分かるという。  岩田もエイコも、たまには、それは、なぜか、と考えてみたことがある。岩田は日本に生活の本拠を持つ日本人として、中々、実感がわく理由が見当たらなかったが、エイコには、明快な答えが出ていた。それは、群れること、だった。  「どこにいても、日本人はすぐにわかるわよ。仕立てのいい服を着て、隅のほうで、固まっている眼鏡を掛けたモンゴロイドがいたら、間違いなく日本人ね」  エイコが、そう言うときの声には、しかし、非難の色合いはない。むしろ、懐かしむような、いとおしむような口調なのだ。それが岩田には胸に染みた。なぜなら、岩田はそうエイコが表現する日本人像とは対極の人格だったからだ。それをエイコは分かっていて、典型的な日本人を懐かしむのだ。それが、海外で暮らす人間の独特のバランス感覚なのだ。  日の傾きが急激に増して、整然と並ぶ石柱をサイドライトのように赤く照らした。それは、時間を越えた空漠の空間だった。こういう場所ならば、人は心を無にできるにちがいない。空間そのものが、非圧迫的で四方に開放されているから、人の心は自由を得て、解き放されるのだ。抑圧され、閉じ込められていた情念が、張り詰めたゴム風船が一気に爆発するように解放され、四方に飛び散る。こういう異次元空間では人は思わぬことを言う。  「隆さん、私、ずっと、こうしていたいわ」  丘の外れの岩の上に並んで腰を下ろしていたエイコが、顔を肩に寄せてきてから、呟いたのを確かに岩田は左の耳で聞いた。だが、なにも答えず、暮れていく町の光景を見る振りをしていた。  「できれば、死ぬまで」  エイコが、続いて囁いた。それは、毅然としてロンドンの家を守る有能なハウスワイフの人を寄せつけない威厳ぶりと打って変わったエイコだった。  岩田はそれでも、知らぬふりをして、眼下の風景を見つめていた。どのくらいの時間が過ぎたのかはわからない。時計を見ることさえもが、無駄なことだと分かっているから、体はただ太陽の動きで、時間の存在を探っているのだ。それでよかった。  「もし、生きていくのが辛いのなら、そうしてもいい。でも、今の生活で満ち足りているではないか」  そう言ってから、岩田は優しくエイコに両手を差し出して立ち上がった。エイコは、その手を頼りに腰を上げた。日はすっかり、姿を隠し、茜色の空間を、暗い闇が襲おうとしていた。その僅かに光の残影を含んだ闇の始めを二人はしっかりと、ゆっくりとした歩調で石畳を踏んで歩いて行った。  欧州での夏の日は、北方では長いが、地中海地方では、短い。ただ、昼の暑さが、そのまま、持ち越されたように、暖かい夜が続く。湿度が低いため、凌ぎやすい夜だ。  これが、対岸のアフリカに行くと、全く、変わってくる。汗がじっとりとするような、蒸し暑い夜を過ごさなければならない。カイロでは、それに、汚れた空気と騒音が加わる。それほどの変化を感じて、エギプトを訪れる人達は、皆、アフリカの入口に来ている、と実感するのだ。  岩田とエイコが、泊まったのは、ヨーロッパ風の一流ホテルだったが、部屋に荷を解くと、すぐに入り組んだ下町の一角を目指して、街の中に飛びだしていった。六十年代に生産されたベンツは、外板が腐食して、穴を開けていたが、エンジンは快調だった。髭面の運転手は、  「整備したばかりですから、よく走りますよ」  と抑揚の違う英語で愛想を言い、動作音のかしましいエアコンのスイッチを入れた。客を乗せたときだけ、エアコンを入れるようにしているらしい。  このポンコツ車は確かに良く走った。五叉路の交差点では、五方から来た車がぶつかり合うくらいに近寄りながら、盛んに相手より先を急ごうと、激しくクラクションを鳴らしていたが、このベンツは、悠然と混雑を抜けていった。他の車が譲るのだ。  「ほら、言ったでしょう。ベンツのお蔭ですよ」  運転手は、胸をそらした。この街では、ポンこつベンツでさえ、やはり、高級車なのだ。  「アリファイトの生まれた家を知っているかい」  岩田が、陽気な運転手と打ち解けた頃合を見て、聞いた。  「ああ。よく、知ってますよ。先日も行ったばかりだから。それにしても、あの家は人気がある」  「ええ。だれか訪ねていったのかい」  「ヨーロッパ人ですがね。東洋人はお客さんが初めてですよ」  「よかったら、どんな客なのか、教えてくれないか」  「男女の二人組だが、愛想が悪かったね。なにしろ、何も話さないんだから。こっちが話しかけても、全く無口で、反応がないんだから、困ったよ」  この運転手は、話し好きらしい。岩田は適当に応答していたが、エイコが気がついたように聞いた。  「それで、女はどんな人だったの」  「ああ、背の低いまあ、言ってみれば不細工な女性でした。この街に来ながら、顔を隠さずにいたから、私は繁々と見てやりましたがね。髪の毛は黒かったな。あれは、東欧系の顔つきだね」  そう言われて、エイコは、思わずハンカチを取り出し、顔の下半分を隠した。  岩田はその話を聞いて、ピンと来るものがあった。小柄で男のように敏捷で、黒い髪の東欧系の女、といったら、岩田にはあの女しかいない。だが、黙っていた。  三階程度の土作りの家並が肩を寄り添うように軒を並べた狭い路地を進むと、歩道の上にまで覆いかぶさるように掲げられた満艦飾の洗濯物が黒い影を落とす石畳の感触が変わった。更に奥の家に行くには、石畳が切れた土埃の舞う一角に進んでいかなければならない、と覚悟した時に、案内してきた運転手が、  「ここですよ」  と車を止めた。  「ですが、いま住んでいるのは、全くの他人ですよ。でも、長い住民が多いから、なにか、知っているかもしれないが」  岩田は運転手に導かれて、開け放たれていた入口から暗い内部に入っていった。中は全く暗い。目を慣らすのに暫く時間が必要だった。  入口のドアーの前に立ち、来意を告げると、木製のドアーが開いて、白髪で皺だらけの老人が顔を出した。岩田の英語の挨拶を運転手が、通訳した。アラブ語だ。  来訪の目的が分かると、老人は、岩田を手招きして、家に招き入れた。外見とは打って変わった綺麗に整えられた部屋がその先にあった。アラブ人の家に特徴的なモザイク模様のタイルが敷きつめられた床に、四脚のテーブルが置かれ、その上にはお茶のセットが置いてあった。  「まあ、ここで、ゆっくりとお茶でも飲んで話をしましょう」  と老人はアラブ語で言った、と運転手は言った。  突然の訪問者を驚くこともなく、平然と迎えた老人は、  「ああ、アリファイトは、良く知っているよ。頭のよく回る男だった。ここに住んでいたころには、貿易商のようなことをしていたが、あまり金回りはよくなかったよ。ただ、息子のことになると別で、目に入れても痛くないようなかわいがりようだったな」  「一家は、何人でしたか」  「女房と息子の三人家族さ。ここいらじゃ珍しい小人数だ。子供が一人というのも珍らしいが、それだけにかわいがりようも異常だった」  老人は旨そうに小さな銅カップの茶を啜り、岩田たちにもお代わりを勧めた。  「生活はどうでした」  「なにも変わらない。ただ、いつか、ここを抜け出して、金持ちになる、というのが口癖だった」  「本当にそうなりましたね」  「ああ、あれは、まともじゃないやり方をしたんだろう、とわしは睨んでいるよ」  「まともじゃないというのは」  「アラーの神の法に背く事をしたんだろう。そうでなきゃ、あんなに金持ちになるわけがない」  「どんなことです」  「それは、わしの口からは言えない。わしもまだ命が惜しいからね」  老人は口ごもった。誰かに口止めされているのかもしれない。いや、確かに老人は、その愛想の良さとは裏腹に、何かに怯えているようだった。  数日前に訪ねてきたという二人組が絡んでいるのかもしれない。  「あれの母親の親戚にサウジの大金持ちがいてね。その関係で、なにかいい仕事をつかんだらしいな」  それでも、気がいい老人は、そこまで、話してくれた。  埃っぽいアフリカの入口の町の裏街でつつましい暮らしをしていた家族が、一気に世界の大金持ちに登っていくのには、なにか、衝撃的な出来事がないわけがない。岩田はそれが、知りたかったのだが、極一端がほの見えたような気がした。  (なにか、危うい仕事を引き受けたのに違いない)  それが、表の仕事ではないのは明らかだった。世界を相手のビジネスで裏世界の仕事といったら、限られている。麻薬と売春と兵器ビジネスだ。そのいずれかに、アルファイドは、係わったのに違いない。  なかでも、一番、一発勝負が出来るのは、最後の兵器ビジネスだ。顔と信用があれば、一度の仕事で億単位の金が動く。それに比べ、麻薬は危険が多く、売春は小銭稼ぎに過ぎない。それらの仕事はマフィアややくざがやるが、兵器ビジネスはエリートの仕事だ。だから、それだけ、実入りがいいとも言える。  岩田は確信した。貿易商をしていたというから、人脈もあるだろう。小金も溜めていたに違いない。それにサウジに金持ちの親戚があるという。そちらの人脈と組んで、なにか、大きな仕事をして、大金を稼いだのだろう。それが、資産の背景だ。容易に、そういう想像ができたが、確証はない。その証拠さえあれば、事件の背景に迫れるかもしれない。だが、それは、何処にあるのか、当てはなかった。  話も聞き終えたので、老人に別れを告げて、ホテルに帰る道すがら、黒く焼けただれた建物の並んだ一角を通り過ぎた。  「酷いものね、すっかり、消失してしまっているわ」  惨状を見ながら、エイコが言った。  「ああ。あれね。過激派が爆破したんですよ。我が国には問題が多すぎる。現政権に不満を持つ活動家は、ますます、過激な行動をとるようになっています。今のうちは国内だけですんでいますが、そのうち外国に出ていくかもしれない。怖い世の中です」  運転手はそう言って、肩を竦めた。  ホテルに帰ってから、部屋のベッドに横になっていると、すっかり、軽装に着替えてきたエイコが、  「もう、用事は済んだわね。明日は、どこに行くの。このまま帰るのは惜しいでしょう」  確かにそうだった。初めてやって来たアフリカ大陸だし、この国には歴史的な遺産が溢れている。そういう遺跡を訪ねてみない手はない。  「そうだね、ピラミッドはここからも見えるから、すこし、奥地に行ってみようか」  「奥地って、ルクソールの神殿とか、アスワンとかね」  「日帰りできるのはどこかな」  「そんなに急ぐことはないじゃない」  「いや、君のことを考えている。こんな所まで、連れてきてしまって、三矢に申し訳ない」  「そんなこと、忘れていたわ。なぜ、こういう時にそんなことを言いだすの。せっかく、忘れていたのに」  「だが、やはり、何時までも君を連れて遊び回っている訳には行かないよ。あす,ルクソールにでも行って、すぐに、ロンドンに帰ろう」  岩田は、マクファーソン刑事の捜査の進展具合を知りたかった。アレクセー一家の悲劇が、この調査行の始まりだから、もう一度、原点に帰って、事件の関連を見つめ直して見たかったのだ。    カイロからルクソールに向かう観光バスは、珍しく新型だった。乗客たちはバスに乗り込んでから、初めて、この日一日行動を共にする人達の顔触れを知った。突然、旅行社に申し込んだオプショナル・ツアーだから、出発時にならなければ、メンバーは分からない。バスの中にばらばらに座った人数を数えると、二十人くらいはいるようだった。  右手にギザのプラミッドを遠望しながら、一路南を目指して、進んでいく。バスがカイロの市街地を外れたころ、最前部の席に座っていた男が立ち上がり、マイクを握って、英語で話しはじめた。浅黒い顔つきをしたやせ型の青年だ。  「本日は、ルクソール観光のツアーに参加頂きまして、有り難うございます。私はガイドのハッサンと申します。これから、向かいますのは、皆様も良く御存知の王家の谷にある式祭宮殿を中心とする遺跡です。現地に着きましたら、直ちに徒歩で観光を致しますが、それまでは、ただ、走っていくだけですので、長い旅でお疲れの方は、どうぞ、ゆっくりと休んでください」  バスが走っている間は、ガイドも仕事をしないらしい。確かに良くエアコンが聞いた車内は眠るのには快適な環境だった。  「最後に、皆様に了解して頂きますが、このバスは途中で、現地の住民を乗せることもあります。政府の運行許可条件となっておりますので、了承してください。その際は、ご迷惑をかけるかもしれませんが、宜しく」  人の良さそうなガイドは、それだけ言って、席に着いた。  どの国に行っても交通機関の運行形態は、国の事情を現している。エスカレーターの乗りかた一つにも、国民性が現れるのだ。整然と左側に一列に並び、急ぐ人の通路を右側に空けておくのは、先進国のマナーになっているようだが、全く一糸乱れぬ行列を造るドイツに比べ、ロンドン、パリ、ニューヨークという順に列は乱れている。東京では列さえ出来ないことが多い。さらに大阪では、右側に一列になるという話を、関西出身の同僚が話していたのを聞いたことがある。  だから、観光バスが、通常の乗客を乗せなければ行けない、という規則があったとしても、国情によっておかしくはないのだ。公共交通機関の整備が遅れ、手段が限られる国では、それも、住民の利便を考えた運用の知恵なのだろう。  そして、その通りに、バスはとある集落の外れで、三人の現地人を乗せた。みな一様に白い布を頭から被った特有の民族衣装を着ていたため、姿は分からない。ただ背の高さだけが推測できる。一人だけ飛び抜けて背の高い人がいた。あと二人は並の高さだ。顔をベールで覆っているため、性別も不明だ。手も服の中に入れて、隠しているため、露出部分がないので、判断がつかないのだ。最後部の座席に並んで座った三人の様子を、観察してみた岩田は、いずれも腹の当たりが異様に膨れているのが気になった。  (妊婦なのだろうか。検診で医者にでも行くのかな)  と初めは考えたが、それも当たっていないような気がして、悪い胸騒ぎがした。後部座席に座ったまま、何も言葉を交わしているような様子がないのだ。むしろ、張り詰めた感じが身体中に漂っていた。彼らが醸しだす緊張感が、車内に伝わったのか、心地よく目を閉じていた乗客の多くが目を覚ました。窓側の席で、岩田の方に顔を埋めて、快眠を貪っていたエイコもその一人だった。  「ね、どうしたのよ。あの人達、こういう中では、浮いてみえるわね」  その通りだった。確かに、先進国の観光客が多い、こういうバスに、民族衣装を着た現地人が乗り合わせるのは、ちょっとした、異常事態なのだ。それほど、観光ツアーのバスと外部の環境は隔絶されているということなのだろう。その土地を訪れながら、多くの観光はこのように行われ、観光客たちは、それで、その土地を見てきたという誤解をおかしいとも思わない。それは、受入先の国の人に取っては、受け入れがたいことなのではないのか。ただ、観光客が落とすお金を当てにしているという事情に頼って、彼らは誇りを抑えているのだとしか思えない。そうした観光を反省もなく世界中でしているのが、わが、日本民族なのではないか、という後ろめたさを、岩田はこの時も感じていた。  頭からスッポリと身体中を覆った砂漠の隊商姿の乗客たちは、ただ、目の当たりだけを外界に晒していた。その目には、鋭い光があった。だが、そこから、放射されれる敵意を感じ取った乗客は一人もいなかった。多くの観光客は、異端の人達にある程度、日常の安定を破られたと感じながらも、時間が経つにつれ、意識の向く先を変え、もとの状態に戻って、最後尾の席に対する関心を払わなくなっていた。彼らと観光客の間には、見えないベールが降りたのだった。  バスは快調に旅程を稼ぎ、予定どおりにルクソールの広大なバス駐車場に到着した。  「降りてから少し歩いて貰いますよ、しっかり、歩いてくださいよ」  ハッサンが若いのに枯れた声で、呼びかけていた。乗客たちはその呼びかけに素直に応じて、並んで歩きはじめた。最後尾の三人は最後にバスを降りてから、列の後ろに付いて歩きはじめた。どこか、他の場所に行くのかと皆考えていたから、これは、予想外の行動だったが、だれも咎める人はいなかった。そんな些細な事より、これから向かう遺跡に心がはやっていたからだ。三人は影のように団体に付いていた。  一団がはるか先に、広い階段状の石組の上に聳える多数の石柱が並んだ神殿を望む入口に到着したときも、影は寄り添ってきていた。観光客らは歓声を挙げて、互いにポーズを作って記念写真を撮ったり、遠景をすっぽりとフィルムに焼き付ける作業に忙しく、他人に関心を持つ暇もなく動き回っていた。  岩田は広縁の藁の帽子を被り、純白のワンピースを着たエイコを、神殿を背景に写真に収めてから、場所を変わり、今度はエイコがカメラを構えたりしていた。数枚撮りおわったとき、ハッサンがやって来て、  「シャッターを押しましょうか」  と如才なく申し出た。二人を夫婦と見て、二人が一緒の写真を撮ってやろうという親切心からだ。この国の人達は、そういう思いやりの深さを持っている。  ハッサンにカメラを渡し、岩田がエイコと手を繋いで、ポーズを取ったころには、一団は勝手に、神殿正面に向かって進みはじめていた。一様に写真を撮る作業を終えて、この日の目的である遺跡を目指して移動が始まっていたのだ。  だが、岩田たちはその群れの移動に遅れた。ハッサンがシャッターを押しても、フィルムが巻き取られず、写真が撮れなかったのだ。フィルム切れだった。岩田は持ってきた替えのフィルムを入れなおし、シャッターの作動を確かめてから、ハッサンに再びカメラを渡した。そのとき、一段は向こう側の階段を昇りはじめ、その後ろを三つの白い影が追っていくのが見えた。  「さあ、急がないと」  ハッサンに促され、岩田とエイコは急ぎ足で、追いかけた。ハッサンも、一足先に急いでいた。一団は階段を昇り終わり、他の観光客で賑わう舞台状の台地に出ていた。  その時だった。後ろから来た白衣の三人が、台地の中央に走り込んで、白衣をかなぐり捨てた。岩田から遠目に、手に黒光りする金属性の物体を持っているのが見えた。その瞬間、構えたその黒いものが火を噴いた。三人は、右に回転しながら、機銃の先を水平に向け、銃弾の嵐を三百六十度の周囲に撒き散らした。  悲鳴と叫び声が上がり、台地の上にいた人達が、膝を折って次々と地面に崩れ落ちていった。鮮血が飛び散っているのが見えた。岩田は咄嗟にエイコの体を抱えて、階段の隅の身を隠せる空間にうずくまった。そこには、ハッサンも駆け込んできて、三人は互いに体を抱えながら、惨事の終わるのをじっと、待っていた。  機関銃の乱射は、数分で終わった。銃声を聞きつけた警備員たちが、神殿の方から犯人達に応射したため、弾を撃ち尽くして丸腰になった犯人たちは、簡単に仕留められて、台地の中央部に、身を重ねたのだ。  激しい乱射の跡の静寂が、不気味だった。 「終わったようだ」  岩田の声で、身をかがめていたエイコとハッサンも目を上げた。  「一体何だあったんだ。いったい何があったんだ」  ハッサンは、全く同じフレーズを繰り返しながら頭を抱えて、号泣した。エイコは、青ざめた顔つきで、茫然としていた。様子を見て立ち上がろうとしたとき、エイコは立ち上がることができなかった。腰が抜けていたのだ。目の前で大量殺戮が行われたのだ。これまでの人生でこういうことにあったのはなかったに違いない。それは、岩田も同様だった。ただ、岩田は百戦錬磨の現場主義者の記者だった。  「おい、行くぞ」  岩田は二人に声を掛けて立ち上がった。  そして、階段を駆け上がって、倒れている犯人たちの所に行った。顔を見ると、皆若い。岩田は、彼らの持ち物を探った。二人は何も持っていなかった。最後に体を探ってみた長身の男は、首から鎖を掛けていて、その先に革の袋を下げていた。岩田はその袋をもぎ取って、ポケットに入れた。そのとき、上から声がした。  「おい、近寄るな。やつらに触れては駄目だ」  警官の制服を着ている男が叫んでいた。岩田はその場所を離れて、エイコが身を隠している場所に戻った。途中で何人か同じバスに乗り合わせていた客たちが死んでいるのを見た。殆ど全員が倒れているようだった。助かったのは、一団に遅れていた岩田とエイコとハッサンだけらしい。まさに、一瞬の行動と位置の差が生死を分けたのだ。あのとき、フィルムが終わっていなければ、どうなっていたか分からない。命を救ってくれたカメラを強く抱きしめて、背景に写っているかもしれない犯人達の姿に想像を巡らしていた。  修羅場は、間もなく立入禁止になり、岩田とエイコは、ハッサンとともに、バスに引き返した。運転手は三人が乗り込むと、さっそくドアーを締め切りにして、エアコンを入れてくれた。これで、すこしは落ちつくことが出来る。一体何人が殺されたのだろう。あの舞台にいた人達はひとたまりなかったろうから、相当な数になるはずだ。酷い惨劇だ。なんのために、どうして、彼らは罪もない観光客を襲ったのか。色々なことが頭を巡って、収拾が付かなくなった。  とにかく、こんな場所からは早く逃げ出したかった。  「おい、早く帰ろう」  岩田はハッサンに命じた。  「でも、そうもいかないでしょう。生き残ったわれわれには事件を証言する義務がある」  「そんなことは、後でいいんだ。どうせ、そろそろ、救援部隊が来るころだ。あとは、専門家の彼らに任せておけばいい」  ハッサン、そう深く係わりになりたい気持ちはないらしいが、ガイドとしての立場が彼を思い止まらせた。  「分かりました、お二人は、町まで送ります。そこで、タクシーでも拾って頂けますか。バスも帰すわけには行かないので」  それが、ぎりぎりの配慮だろう。岩田は同意し、エイコとともに、ルクソールの町まで送ってもらい、タクシーでカイロに向かった。    古いイギリス製のロンドンタクシー型の車の中で、岩田は暫く眠っていた。後部座席の背の高いこの形の車は、外見よりもずっと、後部座席が心地よいのだ。運転席よりも、客を乗せることに配慮した作りなのだ。その脇でエイコは、事件の興奮を抱えたまま、落ちつかずにいた。その苛立ちを癒したのは、運転手の細かい心遣いだった。何処にでも、プロフェッショナルはいるものだ。運転手は四十代の初めと思われる歳恰好の小柄なエジプト人だった。  「大変な事件が起きたようですが、これが、エジプトだとは思わないで下さいね。殆どのエジプト人は、真面目に一生懸命働いているんです。それが、この国の人達の紀元前から続く営々とした営みなんですよ」  「じゃあ、あの犯人たちは、エジプト人じゃないのかしら」  「いや、そうとも言えません。この体制に不満を持っている人は沢山いる。真面目に働いても報われないと考えている人はいるんです。特に、イスラムの教えに忠実な者ほど、矛盾を直視している。西欧の物質主義と資本主義を嫌悪しているんです」  「その裏には、西欧人による植民地化という長い歴史があるわね。圧政と抑圧の歴史が」  「でも、イギリスは、悪いことばかりを残したわけじゃない。近代的な政治システムと統治法を残していった。イギリス人は統治する事には、どこででも、長けていたんです、特に、経済的な権益を守ることに関しては、遣り手でアイデアマンなんですよ」  運転手の話は尽きることがなく、飽きさせなかった。  左手にギザのピラミッドが見えはじめたときには、こんな話をした。  「お客さん、あのピラミッドを、どうやって造ったと思います」  そう聞かれて、エイコは、即答できなかったが、思いついて、  「やはり、人が造ったんでしょう」  と当たっていそうだが、間の抜けた答えをした。  「確かにその通りです。あれは、全部人間が造ったんです。少しは牛や馬の厄介になったかもしれませんが、大きな岩をあの最頂部にまで運び上げたのは、人間です。私達の遠い先祖になりますがね」  「どうやって造ったのかしら」  エイコが言いよどんだとき、突然、岩田が起き上がって、  「いろんな説があるが、有力なのは、坂を造って、コロを使って運んだという説だね。石はナイル川の上流から船で運んできた。それを船着場から、下に丸太を敷いて、運び上げた。そして、石が高くなるに連れて、坂も高くしていったんだよ」  岩田は寝たふりをして、遣り取りを聞いていたのだ。  「それには、随分大勢の人が要ったでしょうね」  エイコが聞いた。  「そうです。でも、失業対策でもあったし、食うに困らなかったから、いい仕事だったんです。そういう謂われは、ヒエログラム(象形文字)に綴られて銘板に残っています。労働者にはパンとビールとニンニクが毎日支給されていた。ビールは石を運搬中の景気付けにも使ったんです。ニンニクは精力剤だし、力を出すために、効いたんですね」  運転手はなかなかの歴史通らしい。  目を覚ましてから、ポケットを探っていた岩田は、右手で、現場に倒れた犯人の男から奪った布袋を取り出した。両手を広げた位の大きさの柔らかい羊の革で作られた袋だった。  岩田は止めがねを外して、中身を取り出した。キャビネサイズの写真が三枚と象形文字が刻まれた木製の印象のような形の小物、それに、ニンニクと思われる枯れた球根が三個。それで、全てだった。  岩田は老眼鏡を取り出して写真を眺めた。青い空を背景にした三角形の巨大な建造物が見えた。その映像には記憶があった。横から覗いたエイコが、驚きの声を上げた。  「ねえ、これ、パパラッチの事務所にあったのと同じじゃないの」  「そうだよ。ほら、下のほうに写っている白衣の人物まで同じだ。あの犯人たちの恰好をしている」  「この写真は、私達に何かを暗示しようとしたのね。それに間違いないわ。全く同じ写真だから、同じネガから焼いたものよ」  岩田は二枚目の写真を見た。鼻が高い西洋人が全身大で写っていた。背景は石造りの立派な建物だ。その玄関らしい。男は撮られたのを意識せずに、リラックスした風情で、立っていた。遠くから隠し撮りしたものであるのは、荒い粒子からも明らかだ。髪に白いものが混じっているが、しっかりとした仕立てのスーツを着ているのが、エリートビジネスマンらしさを現していた。  「まるで映画俳優のようだわ。この男」  エイコは、一見して忘れようのない整った顔つきをした男をそう表現した。  最後の一枚を見たとき、二人は驚いて、思わず顔を見合わせた。そこに写っていたのは、紛れもなく、それを見ている二人の姿だったからだ。  道に面したカフェーに並んで、飲み物を飲もうとしている女が見えた。それは、パリの一角で、若いパパラッチを見張っていたときのエイコの姿だった。それに対面してこちらを向いているのが、疲れ切った表情の岩田だった。あのカフェの向かい側から、隠し取りした写真だ。  「驚いたね。まったく。やつらは俺たちを狙っていたんだ。標的は俺たちだったんだよ」  運転手に聞こえないように、岩田が日本語でエイコに言った。  「こうなるとそうかもね。ああ、恐ろしい。でも失敗したのを知ったら、追ってくるんじゃないの」  エイコは、それに気がついて、突然、恐怖が湧いてきた。  「いや、大丈夫だ。見たところ、犯人たちはあの三人しかいない。ゲリラなんだ。追っては来ないよ。それより、どうして、やつらは俺たちを狙い損ねたのかな」  「それは、顔つきや体つきを判断できなかったのよ。写真に写っているのは、フォーマルな恰好だし、今は、こういう軽装でしょう。それに、サングラスだって掛けていたから」  「そういえば、やつらがバスに乗り込んできたあと、鋭い眼光で車内を見回していたな。あれは、標的を確認していたんだ。あの時は、俺たちを分かったはずだ」  「でも、私達だって、こっちの人達の判別は簡単ではないじゃない。まして、ああいう異常事態では、彼らも平常心を失っているだろうから、冷静な判別はできないわね」  岩田もエイコのこの説明に納得がいった。  ニンニクがあったことも、先程の運転手の話から納得が行った。バスを降りるとき、隠し持っていたかもしれないビールを飲み干していたのかもしれない。そして、ニンニクをひと齧りしてから、あの凶行に及んだのかもしれない。  あと残るのは、判別できない象形文字が周囲に刻まれている印鑑状の小物だった。  「これは、一体なんだろうね」  岩田が示したのを手にしながら、エイコは思考を巡らしていたが、よいアイデアは浮かばなかった。しかたなく、エイコは、前の席の運転手に聞いた。  右手を出して、その物を受け取った運転手は、  「ああ、これは、お守りですよ。私には読めませんが、なにかお願い事が書いてあるんでしょう。象形文字が分かる人なら、内容が読めますね」  と簡単に答えた。  「どうせ、犯行がうまくいくようにとの祈りだろうよ。アラー神よ、我が身をお守りくださいだ」  そう言いながら、岩田は、ロンドンに行ったら、大英博物館を訪ねて、その文字を解読してもらう、という計画を考えはじめていた。  「われわれの先祖は、辛い労働に耐えながらも、死体の保存の技術も発達させました。ミイラは素晴らしい化学の成果ですよ」  運転手の祖国自慢は止まらなかった。  「ミイラか。時間を越えて、姿を保存しようという発想は、不老不死の願いから来たんだろうか」  岩田はそう呟くと、エイコは、それを聞いていなかったように、  「死だって自然の行いなんだから、ありのままに迎えればいいのにね、なんで、人間はそうやって、もがくのかしら」  とさらりと言った。  西日が遠くに過ぎていくピラミッドの群れを斜めに照らしていた。遠ざかっていくその景色は、砂漠の中の光のページェントを繰り広げていた。はるか遠い地平線にはただ、砂漠だけが広がり、その面前で三つの巨大な石の建造物が、空間をえぐっている。あくまで幾何学的な風景が、時間と空間を越えて存在してきたこの場所の永遠性を、強力に物語っている。それに比べれば、人の生命や存在は、霞むほどに小さい、とだれでもが、実感する風景だった。    カイロのホテルに帰着してから、暖かいシャワーを浴びて、旅の疲れをとった岩田とエイコは、明日のロンドン行きの便を予約してから、夕食までの時間、部屋で寛いでいたが、やはり、気になったのは事件のことだった。エイコが付けた部屋のテレビは、エジプト国営放送が、惨劇のニュースを伝えていた。  現地からの生中継のあと、被害の模様を纏めた表が写された。死者で一番多かったのは、スイス人で、五十人以上が犠牲になったらしい。日本人は、五組の男女計十人が犠牲になっていた。いずれも新婚夫婦で、若い命を異国の砂漠に散らしたのだ。だが、ニュースは日本人には大して触れない。それより、最大の犠牲者を出したスイス人や次に多かったドイツ人の報道に時間を割いていた。犠牲者たちが直前に撮ったらしい記念写真が映し出された。先程、通ってきたピラミッドの前に並んで撮影した集合写真だった。大半が、現職をリタイアした高齢の夫婦だった。  次にテレビは、犠牲者の中から、高い地位にある人や有名人のポートレート写真を一枚ずつ写しはじめた。その三枚目を見た時、岩田はエイコと一緒に、目を見張った。  先程、タクシーの車内で見た犯人の遺品の写真の一枚に写っていた西洋人の男の顔がそこにあったのだ。  「あら、想像ししていた通りだわ。確かに一度見たら忘れられない男前だ」  岩田は説明を聞いたが、エジプト語は理解できない。エイコも同じだ。エイコは、素早くチャンネルを切替え、二か国語放送のサブチャンネルにした。  暫く待つと、まったく同じ写真が、出てきた。英語のコメントでは、この男は、スイス銀行協会の副会長で、スイス・クレジット・ゼネラル銀行社長、ウルブリヒト・マンデルという人物と判明した。  「やつらは少なくとも標的の一人は、仕留めたというわけだな」  岩田の冷めた言い方が、エイコには、むしろ、安らぎに聞こえた。少なくとも、狙われた内、二人は、こうして生きて、呼吸をしている。犯人は三人を狙い、一人しか仕留められなかった。そして、かれらの損失は三人なのだから、割りが会わない犯行だった。  だが、政府や捜査機関はそのことを知らない。「無差別テロには、断固とした対処をする」と表明して大統領は、急遽、現地に向かった、とニュースは続いて伝えている。  だが、実際は、あの写真の三人を狙い、多くの犠牲者を出したのだ。それだけの対価が、俺たちを殺すことにあるのだろうか。岩田にはそれが、大きな疑問だった。エイコも、  「なぜ、私たちが狙われたのかしら。誰が狙ったのかしら」  と繰り返し、呟いていた。  「とにかく、我々がこの国に来て、あそこに行くと知っていたものだ。俺たちは尾行されていたのかもしれない」  新たな恐怖が襲ってきた。エイコは、窓際に行って、外の様子を見た。不審な人は見えなかったが、窓から離れながら、カーテンを引いて、戻り、  「早く、イギリスに戻りましょう」  と哀願した。  だが 岩田は、考え直していた。このニュースを見たからには、ぜひともスイスに行ってマンデルとやらの人物像を探らなければならない。犯人の革袋に入れてあった写真は、岩田とエイコの写真と一緒だったのだ。なにかの因縁を感じないわけにはいかなかった。見ず知らずの人物と自分たちの写真が、死んだ射撃犯が死の間際まで肌身離さずにいた袋の中にあったのだ。どうしても、マンデルの人物像を探り必要があった。  「真っ直ぐに、ロンドンに行かずに、スイスに回っていこう」  岩田がそう言うと、エイコは、いつの間に着替えたのか、優雅な光沢の柔らかい絹のナイト・ウエアに身を包んだ体を、サイド・チェアーに坐っていた岩田の膝の上に乗せながら、  「そうね。あのテレビを見てから、私もそうしないといけないと思ったわ。これで、ロンドン帰りは、少しは遅くできるわ」  と言いながら、唇を寄せてきた。  ゲランの乾いた干し草のような香りが、エイコの全身から臭いたち、岩田の下半身を刺激した。  「じゃあ、オーケーだね。チケットの変更をしないといけないな」  「そんなこと、あとでもいいじゃないの。コンピューターがあっという間に処理してくれるわよ。でも、私の欲求は今しか、だめなのよ」  岩田はエイコを抱え上げて、ベッドに向かった。程よく肉の着いた完熟した女の肉体が、心地よく腕に重みを乗せた。  「ねえ、これが最後だと思ったから、こんなに積極的になったのに、予定が変わったのだから、あとに残しておきましょうか」  エイコは、自分で誘っておきながら、いざとなったら、焦らした。それが、さらに、岩田を元気付かせた。そういう結果まで、計算ずくの言葉ではないのだろうが、別れの予感の切なさが加わって、岩田は今にも爆発しそうになるのを、必死で堪えながら、エイコの全身を隈なく愛撫していった。  香水の香りは下半身に行くほどに鼻を突いた。エイコは最も微妙な秘密の部分に、香水を付けたらしい。そうすれば、体が燃え上がるに従って、香りが広がる。香りの広がり具合が、エイコの興奮を示すとともに、それは、岩田の愛撫の成果をも現すことになる。香りの広がりが、岩田のエイコへの愛の指標になるというわけだ。  エイコは、その奥の洞窟に香りの元を蓄えるようにしたらしい。指で中を探ると、中からほとばしり出た液は、外に出て、すぐに蒸発し、体を包み込むように、拡散していった。  その香りに刺激されて、岩田の意識は、飛んでいった。それは、他愛もないが、こういう場面と全く関係ないというわけではなかった。  (ダイアナ元妃殿下は、皇太子に抱かれていたときと、アリファイトの息子と逢引しているときでは、違う香水を付けていたのだろうか、それとも、愛用の香水は変えなかったのだろうか)  という疑問だった。その変化だけは、どんな凄腕のパパラッチも表現できない。それは、かつて、元妃の影武者に会ったことのあるというエイコの香りの記憶に、謎を解明する鍵があるという、着想に結びついていった。  第五章 「ワインにはチョコレート」  レマン湖には、秋の気配がしていた。スイス国鉄のローザンヌの駅から、湖へと続く大通りには、もう夏の賑わいはない。九月になると、一気に夏は行き、秋の装いが深まり、夏のあいだ避暑客や観光客が薄着や水着で闊歩していた町は、今は閑散としていた。  岩田は、駅前のタクシー乗り場で、スイス・クレジット・ゼネラル銀行のローンザンヌ本社の場所を言った。タクシーは駅前のロータリーを抜けて、右方向にターンした。先には長いゆるやかな坂が続き、徐々に高度を増していく。湖岸の繁華街から、少しずつなだらかに延びた丘陵には、頂上まで高級住宅地が広がっていた。その、住宅地に入り込むと道は突然細くなったが、向こうからは車は来ない。右側の歩道の脇に、赤で矢印を記した標識が立っていた。丘を登るだけの一方通行路なのだ。このまま行けば、世界の富豪が豪華な夏の別荘を構える、住宅街に入り込むはずだ。そのような場所に、銀行があるわけがないと、思っていると、運転手は、急坂になる直前に左に曲がるのを二回繰り返した末に、下り坂の途中で、車を止め、  「ここです」  とハッキリしたドイツ語を方言でいった。  目の前にあるのは、石造りだが何の変哲もない普通のアパートメントだった。高さは五階ほどある。この町には、この種の建物は、無数にあるから、玄関入口に掲げられた小さな看板を見なければ、この中に、銀行があるとはだれも気がつかないだろう。確かに、降り立った歩道に面した礎石の上に、金文字で書かれた標識が掲げてあり、訪ねてきた場所であることがかろうじて分かった。  「大きな銀行だとは、思っていなかったが、これが、世間に有名なスイスの銀行だよ」  岩田は後から下りてきたエイコの手を取りながら、言った。  「へえ、こういう場所に、あるの。私は東京でもワシントンでもロンドンでも、メーンストリートにある、大きなビルのしか知らないから、興味があるな。どんなになっているのかしら」  「想像は出来るが、僕も初めてだ。とにかく、入ってみよう」  岩田が前に立って、分厚い金属性のドアーを開けた。体全体を預けなければ動かない重いドアーだった。中に入ると、目の前には、高級そうなペルシャ絨毯を敷きつめた長い廊下が現れた。突き当たりに受付らしい褐色に塗られた木製のカウンターがあり、白髪に白いカイゼル髭を生やした老人が、守衛の制服を着て座っていた。二人が近寄っていくと、厳めしい顔つきを崩さないまま、  「なにか、御用かね」  と聞いてきた。最初に語りかける常套句になっているらしい。  「はい、銀行に」  「銀行は上です。ここは、このビル全体の受付ですから。あの階段を上がれば、また、扉があります。そこを、入れば、美しい受付嬢がお待ちしていますよ」  老人は、頬を崩して、案内した。先程の城の衛兵のような硬い表情が一変し、破れるような笑顔だった。長い戦争体験から、永世中立国となり、金融サービス業に勤しんでいるこの国の国民性を見るような変化だった。  紅い絨毯に変わった階段を真っすぐに登ると、確かに曇り硝子が全面に入ったドアーがあった。硝子の途中に眼の高さに、また、金色の文字で銀行の名前があった。  思い切り押して、そのドアーを開けると、左側に今度は、マホガニー製の高級そうなデスクに、目にも鮮やかな金髪の若い女性が座っていた。  「支配人にお会いしたい」  岩田が端的に告げると、受付嬢は、真っ直ぐに目を見て、  「アポイントメントは取っておられますか」  と聞いてきた。もちろん取ってはいない。ただ、ベルンにある広報部に、  「日本のジャーナリストだが、テロで死んだウルブリヒト・マンデル氏のことで、取材をしたい」  と申し込んだところ、  「ローザンヌの本社に兄がいますが、いかがですか」  と紹介されたのだ。藁をも掴みたい思いの岩田はその申し出を承諾し、  「一両日中に伺います」  と答えたのだった。それは、カイロからの国際電話だった。  受付嬢は、電話を取らずに、中に入って行って、用件を取り次いだらしい。戻ってくると、  「こちらでお待ちください」  と言って、廊下の一番突き当たりの部屋に案内した。  ロココ調の家具が並べられた豪華な造りの応接室だった。壁には、大きな裸婦が鮮やかな色彩で描かれた背景の前に立っている絵が掲げられていた。  「あえは、クリムトの作品だわね。十九世紀の世紀末にウイーンで一世を風靡したアール・ヌーボーの画家よ」  部屋には塑像もあったが、それは、レプリカのようだった。それより、曲線を多用した椅子やテーブルが異色だった。  「たぶん、これは、ヨセフ・ホフマンの家具ね。本物だったら凄いわ。模倣だって相当のものよ」  エイコは、驚いてばかりいた。岩田はエイコに美術とインテリアの教養があるのを初めて知った。  一時間ほど待たされているあいだに、先程の受付嬢が、コーヒーセットにチョコレート菓子を乗せて運んできて、サーブした。  生クリームを乗せた所謂ウインナコーヒーだったが、それは日本独特の呼びかただ。そして、分厚いチョコレートに包まれたザッハトルテ。いずれも、オーストリアから、伝わったお茶の時間の飲み物と食べ物だ。  「お金を預けに来たわけでもないのに、凄いおもてなしね。これなら、たじろぐことはなかったわね」  「いや、そうも、言っていられない。こんなんでだまされちゃあだめだ。これからが勝負だよ。しっかり眼を開けておいてくれ」  「私、眠くなってきたわ」  満腹感と満足感とで心地よい睡魔が襲いはじめたとき、右手のドアーが開いて、初老の紳士が、入ってきた。その顔を見たとき、岩田とエイコは、思わず顔を見合わせた。  死んだ、ウルブリヒト・マンデルと見間違えようのないような瓜二つの顔つきだったのだ。体つきも、こちらの方が少し小柄で痩せていたが、後ろから見れば分からないほど、体型が似ていた。確かに兄弟らしい。  紳士は、岩田とエイコの座っていた応接椅子の目の前に置かれていた独り掛けの椅子の前まで進み出て、立ち上がった二人に、右手を差し延べ、  「私がジョセフ・マンデルです。よろしく」  と挨拶した。握手した右手は、湿っていて、滑らかだった。筋肉労働をしたことのない人の手だ。  挨拶が終わって、席に着いてからは、お互いに相手の素性を探り合うぎこちない会話が続いた。それを打ち破ったのは、エイコが、  「このチョコレート、とても素敵でした」  と褒め言葉を発した後だった。  「そうですか。喜んでいただいて、嬉しいです。私のアイデアなんです。こうして、お客様に、チョコレート菓子をお出しするのは」  ジョセフ・マンデルは、幾らか気分が良さそうに、相好を崩した。  「ところで、時間もありませんので、ご用件をお伺いしましょうか」  薄々は、気がついている筈なのに、勿体つけたのは、慎重な銀行家の習性なのだろう。  「実は、この度は、大変な事件に巻き込まれて、同情申し上げます」  岩田が、口を切った。  「ああ、弟の件ですね。本当に驚きました。あんなことになるとは。楽しみにしていたエジプト旅行だったのに。たった一人の弟だったのに」  「そういえば、よく似ていらっしゃるわ」  エイコの言葉に、ジョセフは、  「そうなんです。実は、僕等は双子なんです。私のほうが先に生まれたので兄となっていますが、年齢は同じです。ですが、やはり、生まれてからの環境が影響するのか、私はこの通り兄らしくなり、弟は弟的な性格に育ちました」  「それはどういうことですか」  エイコがさらに聞いた。  「ああ、世間で言われているとおり、私は慎重でおっとりした長男の性格、弟は冒険的で挑戦的な性格に育ったようです」  「それでも、お二人とも銀行家になったんですね」  「いや、これは、家業です。私の親父たちは、ハンガリー生まれのユダヤ人ですが、戦争前から金融業を初めまして、作った資産を持って、ナチスの手を逃れて、スイスに移住したのです。以来、我が家は銀行業を生業にしていました」  「すると、こちらが本家ということですか」  「そういうことですね。弟は、より、革新的ですが、配当も多い、新しい分野の投資活動をしています。うちの銀行の子会社を、ウイーンに設立してありまして、そちらの経営を任せていました」  「すると、スイスの銀行家といっても、ウイーンが本拠地ですか」  「そうです。個人の国籍はこちらですが、仕事の多くは、あちらでしていました。両国は国境があってもないくらい、密接な間柄ですから、それでも何の支障もありませんよ」  そこで、一端会話が途切れた。二人はコーヒーの代わりをした。  「それで。ちょっと立ち入った話かもしれませんが、弟さんはどんな仕事をしていたか、教えて頂けませんか」  「大体は把握しております。こちらは親会社ですから、子会社の経営にも目を光らせなければなりません。そうですね、言ってみれば、世界中を相手に、手広く投資に応じていた、とでもいえるのでしょかね。とにかく、高成長(ハイリターン)が見込まれるプロジェクトには、積極的に高い危険(ハイリスク)を省みずに、融資していました。ですから、うまく行った時は、収益も高い。大体は、うまく行っていたようですね」  「どんな事業が多いのですか」  「石油や天然ガスの開発、ハイテク産業、それから、これは、あまり公にはしたくないのですが、先端軍需産業の秘密兵器開発などですかね。おや、随分しゃべってしまった。ほんとうは、スイスの銀行家は、こんなにお喋りではありません。遙々、弟のお悔みに来て頂いたのとチョコレートを褒められたのと、それから、あなたがたが東洋人だからですかね。ユダヤ人はもともとは、アジア人です。そういう血が言わせたのかもしれない。この、アーリア人種の世界では、こんなにお喋りではないですよ」  ジョセフはそう言ってから、白いものが少し、混った顎髭を震わせて笑った。  「すると、かなり、危険な融資先もあったというわけですね」  「危険というのは経済的にですか」  「いえ、生命を狙われるような危険性です」  「いや、それはないでしょう。その点は慎重でしたから。ですが、私が知らない範囲で、お付き合いはあったかもしれない。子会社の運営は、任せていましたから。私は上がってる営業成績の数字で把握しているだけですから、どうやって、稼ぎだしたかは分からない。ただ、軍事産業との付き合いでは、危険な関係もあったのではないかと思います」  きっかけを掴んだと感じた、岩田は詳しく、突っ込んだ。  「その軍事産業というのは、いわゆる黒い商人、通常兵器を扱う兵器商人も含んでいるんですかね」  「我々の商売では、そう直接的な言い方はしません。だから、兵器商人が含まれているかどうかは、直接交渉にあたる営業社員か、弟しか知りません。あるいは、彼らも知らないかもしれない。相手がそういう類の商人だとしても、表向きは普通の貿易商ですからね。しかも、われわれは、アラブの商人とも取り引きがあるのです。われわれの仕事に、宗教は関係ありません。アラブのいかがわしい商人でも、確実に金利付きで返済してくれるとみれば、融資に応じます。それが、われわれのやり方なんです。政治や宗教とは距離を置いている。だから、われわれは世界中の投資家から信頼されているんです」  最後は、演説口調になった。  「分かりました。それで、近頃、弟さんが、トラブルに巻き込まれているような節はなかったですか」  「いや、私はわかりません。再三申し上げているように、ウイーンの会社に行けば、詳しいことは分かるかもしれないが。私は多忙で、弟の今回の悲劇の原因を解明する時間がありません。そうだ、丁度いい、あなたがたにその仕事をお願いしたいものだ。私も、今回の事件には、不思議なことが沢山ある。単なるテロとは思えませんよ。誰かを狙っていたのかもしれない。何か手掛かりはないですか」  そう聞かれた岩田は、犯人の遺体から取り出した写真の件を話してみる気になった。面前にいるのは、被害者の肉親だ。しかも、犯人が持っていた写真は、弟の顔を写しているのだ。  「実は、これは、現地の捜査当局にも秘密ですが、我々もあの現場で事件に遭遇して、いち早く射殺された犯人の元に駆けつけました。倒れていた犯人の一人が持っていた革袋にこれが入っていました」  岩田が差し出した写真を見たジョセフ・マンデルは、  「ううん」  と唸ったまま、絶句した。そして、間を置いてから、  「確かに弟です。なぜ、犯人が持っていたんです。やはり、狙われたのでしょうか」  「そうだと思いますよ。私たちの写真も一緒でした」  「そうですか。弟とあなたがたの写真を犯人は持っていたんですか」  「そうです。われわれも狙われていた。だが、奇蹟的に助かりました。運命ですよ。たまたまです。だから、弟さんの死は、他人ごとのような気がしないのです。われわれの代わりに多くの人の命が奪われた。弟さんもその一人でした。われわれがいま、こうしていられるのは、弟さんたちの犠牲のお蔭です」  岩田は熱っぽくなっていた。今にも目から熱いものがあふれそうになった。ジョセフも感極まって、手を指しだして、岩田の両手を握った。  「弟の死の真実を解明してください。私は、知りうるかぎりのことをお話しました。詳しいことは、ウイーンに行けば分かります。どうですか、あちらに行って頂いて、調査していただけませんか。叱るべき手配と費用は用意いたしますが」  この提案は、渡りに船だった。どうせ、ウイーンには、行かざるを得ない。これら一連の事件を解明するには、ウルブリヒトの人間関係を調べなければならないのは、当然だ。その中心は仕事の関係だろう。それには、事情を知った職員にあたる必要があった。全てを把握しているだろう、秘書にコンタクトできればそれが、最良だ。それを、いま、ジョセフが手配すると言っている。しかも、旅費などの費用も持とうというのだ。これ以上の条件はない。ウイーンでは、最高級のザッハ・ホテルに滞在して、調査を続けられるかもしれない。  「われわれも、ウイーンには行かねばならないと思っていました。御要望は分かりました。お申し出をありがたく、承ります」  「そうですか、そうとなれば、さっそく、手配しましょう」  ジョセフは、奥の黒檀の重厚な机の上のクラシックな電話機を取り、出てきた秘書に、ウイーン行きの列車の手配と、連絡先のメモ、滞在先のホテルの手配、小切手の用意などを頼んだ。  「すこし、お待ちください。まもなく、ご用意出来ますから」  ジョセフは慇懃に言うと、岩田とエイコの関係に探りを入れたり、一度訪問したことがあるという、中国や日本の話題を持ちだし、時間を潰した。  十五分ほどして、金髪の秘書が指示されたものを用意して、持ってきた。  「さあ、これで、存分に調べて下さい。小切手は、ヨーロッパ中の銀行で換金できるようになっています。では、お元気で」  岩田とエイコは、ウイーンまでの特急の一等車の指定券と、ホテルの宿泊予約番号に小切手帳を渡され、美術館の一部屋のような応接室を出て、階段を下り、街に出た。  「ああ、驚いたわね。軍資金と宿泊地が、簡単に手に入るなんて、これでは、なかなか、ロンドンに帰れないわ」  エイコが呟いた。岩田は、わざと、  「帰るつもりがあるのかい」  と意地悪に聞いた。  「それは、あるわよ。主婦ですから。でも、理由があれば、いいのよ。その理由が、公明正大のものなら、三矢も納得するから。しかも、一緒にいた人があなたなんだから、疑問の余地はないわ。有無を言わさないわよ。そうでしょ」  「君は、強い女だ」  「いや、本当は、女を忘れかけていたの。主婦でなくちゃと諦めていたのに、女を目覚めさせたのは、あなたが現れてからよ。隠しておいた私の女が目覚めたんだわ。素晴らしいわね。今度の部屋も一緒でしょう」  岩田は、ジョセフが渡してくれた予約券を見た。そこには、一部屋の番号しか書かれていなかった。しかも、番号からは、上部の階なのが予想された。かなり、高い部屋のようだ。  「新婚旅行でも泊まれなかった部屋に、あなたと泊まったなんて、口が裂けても言えないわね」  「そうだ、そのことは、公言してはいけない。あくまで、君は人妻で、おれは、その夫の友人だ。ホテルの部屋は別だったということで通すんだよ」  「でも、私は嘘が下手だから。いつか、分かるわ。そうなったら、あなた、どうしよう」  「そんな弱気な言葉を、ほかならぬあなたから聞くとは思わなかった。聡明な君のことだ。うまくマネージできるだろう」  「やはり、嘘は言えないから、事実を話すわ。あとは、あの人がどう考えるかの問題ね。許すのか、許さないのか、愛情の問題ということよ。そうでしょ」  「強い女の理屈だな。だが、そのくらい、強くならなきゃ、自由には、生きれない。君の生きかたの問題だ」  「あなたはどうなの。わたしのこと、どう思っているの。たんなる、旅の道ずれで、ホテルでのセックスの相手・・・」  「本当の真実を言うと、そうかもしれない。でも、嫌いなら、できないよ。君とのセックスは、相性がいいんだ。だから、僕は溺れてしまう。ウイーンだって、期待で一杯だ」  長い石畳の坂を下りおえて、いつの間にか、レマン湖の縁に出ていた。西の空が赤くなって日が落ちていく所だった。夏の最後の光を一杯に放射して、太陽は輝やきを失い、暗闇が訪れようとしていた。  ローザンヌの駅は、湖を離れて、山の方に向かって行った突き当たりにある。そこに、午後六時十二分発のウイーン行き特急列車が入ってくるまで、まだ、十五分の余裕があった。だが、十分の余裕を持って、プラット・ホームに出た岩田とエイコを追いかけるように、小柄な東欧系の女が、駅に駆け込んだ。そして、二人の姿を見つけると、気がつかれないように、離れた場所で、列車を待った。藍色と空色の二色に塗分けられた機関車に引かれた特急列車が入線してきた。岩田らがその中程の一等席に乗り込むと、女も、同じ乗車口から、乗り込んで、岩田らの隣のボックスに乗り込んだ。そして、列車が走りだすと、大きな帽子で顔を覆って寝る振りをしていたが、その耳にはイヤホンが差し込まれ、その先は岩田らがいるボックスとを隔てる壁に押しつけられていた。  スイス国鉄の豪華な特急列車が、チューリッヒに向かって疾走を始めてしばらくすると、乗客たちは、それぞれに自分の居場所を確保し、車内が落ちついてきた。岩田とエイコは、オーダーを取りにきた食堂車のウエイターにスイス風ディナーを頼んでいた。その時刻は午後八時過ぎに指定していたから、二人がコンパートメントを出て、後部の食堂車に向かったのは、ちょうど、午後八時くらいだったろう。  列車はよく揺れた。山岳地帯を縫うように走っているから、カーブが多い。その車中でバランスを取りながら歩くのは至難だったが、人間の順応力は素晴らしい。一時間も乗っていると、この揺れのリズムにも慣れて、器用に歩き回れるようになっていた。  白いテーブルクロスに、きらびやかな食器類がしつらえられているダイニングカーで、岩田とエイコに供されたのは、チーズ・フォンデュのディナーだった。食事が運ばれてくる前に、黒服のソムリエの格好をした若い男が、席までやって来て、  「ワインが予約されておりますね。どれが宜しいか、お選びください」  と聞いてきた。ワインを予約した覚えは、なかったから、岩田は、  「いや、われわれは、予約していません」  と即答した。だが、ギャルソンは、  「岩田様とお連れのレディーにと、予約が入っております。ジョセフ・マンデル様からです」  これで岩田は納得した。あの男の心遣いなのだ。いや、あの金髪の秘書の仕業なのかもしれない。どこまでも心の奥に手が届く、心配りではないか。そう納得して、銘柄の選定に掛かった。だが、ワインに詳しいわけではないから、何を選んでいいかまったく分からない。エイコに助け船を求めた。いっぱしのグルメでもある彼女なら、ワイン選びの役を果たせると思ったのだ。  「そうね、私はドイツワインがいいわね。このリースリング種の白ワインなんていかが」  手にしたワインリストから、素早く選ぶと、立っていた男に指差した。  「ええ、それは、素晴らしい出来です。しかも、当たり年の九十五年ものを用意してございます。お目が高いですね」  と男はエイコを褒めた。それには、岩田も誇らしげになった。  出てきた料理は、典型的なスイスのフォンデュ料理だった。溶けたチーズの鍋に、パンや肉を刺して入れ、チーズでくるむだけの簡単な料理だ。だが、暖かいまますぐに口に入れると、素材の味がチーズに包み込まれて口中に広がり、複雑な味わいがある。しかも、これが、ワインに素晴らしく会うのだ。  疲れもあって食事は進んだ。選定したワインが旨かったこともあった。出された食材を半分くらい平らげたとき、栄子が広皿の脇に茶色の固まりが残っているのに気が付いた。  「これ何かしら。見たところはチョコレートの固まりみたいだけど」  言われた岩田もその方を見てみたが、同じように思える。  「聞いてみるのが一番だろう」  エイコは、先程の若いギャルソンを呼んで、聞いた。  「はい、それを、フォンデュに入れたいと仰るお客様もいますので。スイス独特の食べかたですね」  男に分からぬことはなさそうだ。そんな風習があったのかと、訝ったが、確信を持った答に納得した。  「そういえば、チョコも温めれば、溶けるからチーズと相性がいいのかもね」  エイコは、またすぐに納得して、即座に茶色い固まりをチーズ鍋にぶち込んでいた。  固まりは徐々に溶け、入っていたチーズと混じり待って、色合いを濃くした。  その溶け合った粘りの強い溶液を、残っていたパン切れを刺しいれてくるみ取り、口にいれたエイコは、  「これは、本当に予想外の味だわ。確かにねっとりとはしてるけど、菓子好きには堪らない。いい、デザートよ」  と賞賛の声を上げた。岩田も付き合ってみたが、そう好きな味とはいえなかった。それより、芳醇なワインを楽しんでいたかった。それも、もう、ボトルが二本空になりそうだったから、もう十分堪能したと言えそうだ。  「そろそろ、引き上げようか」  エイコがチョコレートを食べ終えた頃を見計らって、岩田は席を立った。来たときより足がふらついた。列車の揺れが激しくなったわけではない。エイコも中央の通路で、一歩足を踏みだす度に、体を左右に揺らし、最後には踏みとどまれずに、岩田にしがみついて進まなければならないほどだった。  二人は這うようにして、やっとの思いで、一等車のコンパートメントにたどり着いた。その後ろに、食堂車の片隅で静かに食事を取っていた、壁一つ隣りの席の背の低い女が、付いてきているのを二人は知らなかった。  女が、食堂車で、何かと黒服の男に指示していたのも、二人は知らない。なにしろ、美味なワインと食事と、他愛もない会話に集中していたから、誰の注意も引かない空気のような存在の女に、気を配る余地はなかった。  岩田とエイコが、崩れ込むように、コンパートメントに落ちつくと、女も、出ていった前の場所に身を落ちつかせ、置いてあった小型のイヤホンを耳に入れた。  それから、岩田とエイコは、眠ってしまい、エイコがトイレに起きたのは、夜も更けてからだった。列車は快調に距離を稼ぎ、山岳部を縫って、東に向かっていた。エイコが、トイレに向かっているとき、殆どの乗客が、眠っていた。天井の小さな常備灯だけが、明かりを放つ狭い廊下を歩いていくと、二両先にあるはずの、トイレは果てしなく遠く感じられた。しかも、エイコには、何かに追われているような感覚が付きまとっていた。遠くで誰か見張っているような気がして、エイコは、歩くスピードを早めたが、それでも、影が追ってきている感じがした。  そういう悪感を抱きながら、空いていたトイレに入って、少し吐いた。あのディナーを終えてから、すぐに眠くなったしまったのは、今までに覚えのない経験だった。旨いワインを飲んでから、その余韻を味あわずにすぐに倒れ込むように寝入ってしまったのは、初めてだった。しかも、気分が悪かった。飲んでいたときにはあれほど、爽快だったのに、寝てからは最悪だった。悪い夢も見た。それは、この列車から、誰かに突き落とされて、丘を転がり落ちていく、岩田とエイコらしき男女の姿だった。そのとき、二人はしっかりと抱きあい、しかも全裸だった。下半身はしっかりと繋がり、快感の絶頂の中で、悲劇が夢の中で演じられていた。それは、おぞましいが不快ではない夢だった。そして、快感の極みと死の刹那の恐怖感から上げた叫び声に突かれて、エイコははっと目覚めたのだった。下腹部から尿意が突き上げていた。いまにも、漏れそうな状態なのだ。岩田はどうなのだろうと、疑う暇もなく、コンパートメントを走り出た。微かに、後を追う影を感じていたが、それより、早急にしなければならないことで、頭の中は一杯だった。  溜まっていたものを吐きだして、やっとすっきりとして、スカートをたくし上げたとき、窓の外が明るくなった。僅かに開いていた窓から、外を見ると、駅が近付いてきていた。列車はスピードを緩めて、徐行態勢になったが、停車はしないらしい。駅を通過するとき、駅名の表示が見えた。それは、「インスブルック」と読めた。ウイーンまでは丁度中間くらいまで、来たのだ。  (もうすこし、眠れるわ)  そう考えながら、トイレのドアーを開けたとき、小さな影が横に過ったのを感じたエイコは、誰かが付けていたのを知った。  エイコは、身構えながら、影が行った先を目指して、進んだ。影は、確かに列車の連結部の脇の乗降口の後ろに隠れて、身を屈め、次の襲撃のチャンスを狙っていた。天井灯が暗いので、顔は良く見えないが、低く身構えた姿勢からは、熟練した襲撃者の体臭が匂っていた。だが、エイコも、武道の心得はある。大学では、合気道を習い、全国大会にも進んだ経歴がある。激しい攻撃を、柔軟にかわして、関節を攻めるのが、この武道の特徴だから、今のような硬派の攻撃態勢には、最適の術だということができる。エイコは、自然体で神経だけは集中させて、相手の次の動きに備えていた。  相手は、エイコの自然体の構えを見て、直ちに、全身をあずけて突進してきた。その勢いに押されて、エイコは、後ろに退いたが、体は接触しなかった。相手は直ちに、身を翻して、両手を真上に上げて、頭部を狙って打ち下ろしてきた。エイコは辛うじて頭への直撃を交わしたが、僅かに外れて右肩に当たった。強烈な一撃だった。相手は、手に金属製の攻撃具を付けているらしい。エイコは、痛みと衝撃で、ガックリと膝を落とした。その後ろから、相手は、更に背中に体当たりして来た。エイコは、昇降口の階段の方に、突き飛ばされ、ドアーにしこたま頭を打ちつけ、気絶しそうになった。  だが、気力を振り絞って、次の相手の攻撃に備えようと振り向いたとき、相手の顔が見えた。天井灯の僅かな光を背後から受けて、浮かび上がったのは、東欧系の顔つきをした女の顔だった。あまりの力の強さに、女とは思っていなかったエイコは、この時初めて、  (相手は女なのだ)  と意識した。それなら、攻め所は分かる。男なら下腹部を狙えば効果が高いが、女の場合は違う。むしろ、胸を目掛けた攻撃のほうが、効果が大きいのだ。エイコは最後の力を振り絞って立ち上がり、相手が突き出してきた右腕を捕らえ、後ろ手にねじ上げた。そのあと、関節技のひねりを加えて、上に持ち上げると、相手は、痛みに悲鳴を上げた。だが、左手はまだ自由だ。左の肘を回して、エイコの横腹を狙ってきた。エイコはす早く体を捻って、逃れた瞬間、右手で胸に一撃を加えた。だが、返ってきたのは、激しい金属音と右の拳の激痛だった。女は、金属性の防具で胸を覆っているらしい。  また、攻守が入れ代わった。静かな車内に格闘技の衝撃音が響いたが、絶叫はない。二人とも、格闘技では、プロの域に達しているからだろうか。だが、再三の攻防で息が上がってきていた。吐息は激しい。こういう場合は、いかに冷静かが勝敗を分ける。  エイコは、クールだった。相手が甘く見ていた相手に意外に手こずったので、焦っているのが、よく分かった。こうなると、相手は、必殺技を仕掛けてくるに違いない。それは、エイコの体を倒して、自分のコントール下に置き、動かないようにして、息の根を止めようとすることに違いない。  果たして、相手はまた、体当たりしてきて、エイコの足を掬った。エイコは、もんどり打って、昇降口の階段に倒れた。相手は体に乗しかかってきて足を絡ませ、エイコの動きを止めると、両手を首に掛けて、絞めはじめた。このままだと、エイコは、確実に窒素死するだろう。相手はじわじわと力を入れて、首を締め上げてきた。そして、エイコの息の根が止まりかけてたとき、エイコは、精一杯延ばした右手で、壁際の小さな窓をこじ開け、中にあったコックをひねった。  その瞬間、閉じていたドアーが、シューという空気が弾ける音とともに、一気に開いた。エイコは、思い切って、両足をはね上げ、相手の体を足に乗せると、首に掛かっていた手を外して、腕を掴み、思い切って、後ろに投げ上げた。柔道のいわゆる、「巴投げ」の大技だ。襲撃者は空中を飛んで、暗黒の車外に飛び出して行った。  エイコは、しばらく、その先を見ていたが、夜の闇のなかでは、その場所は定かには分からない。ただ、僅かに水の流れる音がした。川でも流れているのだろうか。遙に高い山脈の峰々とその上を覆う濃紺の空が見えたが、人家らしいものはなかった。  エイコは、立ち上がって、乱れた着衣を直し、痛んだ体の節々に、暫く、涼風を浴びていたが、痛みがすこし薄れたのを感じて、壁際の小窓のなかのコックを元の位置に戻すと、開いていたドアーは、静かに閉じた。  エイコは、最初に女が身をかがめていた所にあった小型のバッグを持ち上げ、先程まで不快感を癒していた、トイレに入って洗面室で顔を荒い、乱れた髪を簡単に手で整えてから、コンパートメントの方に引き返した。  車内は、何事もなかったように静まり返っていたが、エイコの頭は、襲撃者が誰だったのか、なぜ、襲ったのか、そして、投げ出されてどうなったかの疑問で一杯だった。その数々の疑念を抱えて、エイコは岩田の眠る席に戻った。だが、岩田は眠っていなかった。エイコが、乱れた姿で、戻ってきたのを、見逃さず、  「なにが、あったんだ」  と聞いた。  エイコは、持ってきたバッグを椅子に投げ出すと、  「この中に秘密が詰まっているはずよ」  とぶっきら棒に答えて、岩田に口付けした。  岩田はさっそく、バッグを開けた。黒い皮革製のブランド物のバッグで、金属製の止め金を開くと、中から出てきたのは、小さなワインのミニボトル瓶と、小型の注射器にマイクと発信器、イヤホンなどだった。それ以外の手帳やメモ類、化粧用品などはなかった。明らかに、個人用に使うバッグではなく、特殊な用途に限られた用品ばかりだ。  「これは、スパイの道具入れだな。それとも、暗殺者か」  「そのとおりよ、あいつは私の命を狙っていたんだから」  「なにが、あったんだ」  岩田は同じ問いを繰り返した。  エイコは、このあと、今少し前に起きた襲撃について、詳しく説明した。  腕や脛に付いた青い痣が段々と、黒みを増して、痛みも強くなってきたのを知らされて岩田はエイコの話を実感した。確かに夢のなかでのできごとではないのだ。確かにエイコは狙われたのだ。ということは、岩田が狙われていたということでもある。なぜなら、二人は殆ど一体で行動しているのだから。そう考えてきて、岩田は、事態は切迫し、見えない相手は、もう目前に迫っているということを、思わずにはいられなくなった。  「ウイーンに着いたら、すぐに警察に行こう。そして、車内であったことを全て話そう」  岩田はそうエイコに、提案した。  「でも、今話さなくていいの」  「それは、危険だ。他に仲間もいるかもしれない。いまここで、大事になれば、彼らが何をするかわからない。エジプトでのテロを考えれば、彼らは非常に危険なのだ。ここは、静観を決め込んで、あちらに着いてから、警察に相談したほうがいい。もう、オーストリアに入っているだろうから、その女が落ちた場所は、国境内だ。警察が調べるよ」  話は着いたが、女が投げ飛ばされるときに見せた無表情がエイコの脳裏を離れなかった。それは、本当の冷酷な殺人者が持つ独特の冷たさを湛えた氷の微笑だった。そして、それは、エイコにはデジャビの体験だった。いつか、どこかで、見たことがあるという感じが残ったのだ。  列車がウイーン中央駅に着いた時、シュテファン教会の鐘が、午前五時を告げた。まだ、日は上がっていないが、教会の鐘は、この教会が街の中央部に完成して以来、正確に毎時ごとに、街に時を告げてきた。街は静寂の真ん中にあった。パリやロンドンでは一日中街の騒音が途絶えることはないが、この街は昼間から静寂が支配している。夜ともなれば、格別だ。コトリとコインが落ちる音さえもが、間違いなく響きわたると思えるほどに、街は静かさに支配されている。その環境が、どうして、もたらされたのか。それは、数々の音楽の名作の誕生を育んだ街の、一つの性格なのだろう。  その静寂の中へ、ただ、「ポー」と一声、闇をつんざく警笛を突き刺して、列車は、終着駅に着いた。だからといって、耳うるさいアナウンスなどない。ただ、ブレーキの音を軋ませて、止まった列車から、乗客たちは、全てを察して、降り支度を始める。岩田もエイコも同じだった。ただ、抱えているのは、重大な問題だった。人一人の命が狙われ、その狙った者は転落して、間違いなく瀕死の状態にあるのだ。本来なら、車掌に連絡して、緊急停車させるべきだったのだろうが、二人はそれをしなかった。ロンドンとパリとルクソールで遭遇した奇怪な事件との関係を考えてのことである。しかし、事故について、頬被りはできないだろう。狙撃者とはいえ、一人の人間が転落して、生死の境を彷徨っているのかもしれないのだ。警察が仕事を始めたら、早速、届け出なければならない。そして、捜索を依頼することになるだろう。それは、狙撃者の身元を掴むことにも役立つ。二人はそう決めて、駅舎を出て、構内にあるカフェテリアで時間を潰すことにした。  「その女は、小柄で東欧系の顔つきをしていたんだね」  岩田が聞いた。  「暗くて、よくは分からないけど、ちらと見たところでは、浅黒い肌で、黒い髪だった。そして顔つきは彫りが深かった。ほら、魔法使いの魔女のような感じよ」  「魔女といっても、人それぞれのイメージがある」  「でも、大体は共通したものがあるでしょう。猫背で、陰険で。そのとおりの感じ」  「君は襲われたんだから、良いイメージになるわけがないわね」  「・・・・・・」  「それより、そのバッグ。もう一度、中身を良く調べてみよう」  岩田はエイコが、手にしていた狙撃者のバッグを取り上げた。列車のなかでも、簡単に中身を調べてみたが、バッグそのものは、調べなかったのだ。取り上げて、まず、外観を見ると、イタリア製のブランド品であることを示す金色の金具が目についた。だが、どうも、感じが違う。  「ねえ、このマーク、なにかおかしいんじゃないか」  岩田の問い掛けに、渡されたバッグを手にしたエイコは、じっくりと観察して、  「確かに、なにか、ちゃちな感じがするわね。出来はどうなの」  エイコは、止め金を外して、中身を出し、バッグの内部を観察した。  内部を探っていくうちに、図体の割りに、中の底が浅いのに気がついた。エイコは、バッグ全体を押して、形を歪めてみた。すると、底敷きが膨らんで、低部に空間があるのがわかった。底敷きを取り外すと、確かに、そこにかなりの空間があって、紙が丁寧に詰められていた。  エイコは、その書類を取り出した。  「ねえ、これ、いろんな国の言葉で書かれているけど、なんなのかしら」  古ぼけた書類の山を一束渡された岩田は、丁寧に中身を開いてみた。  一番古い、書類は紙ではなく、動物のなめし革に羽根ペンで書かれているようだった。象形文字が並んでいた。その下に楔形の文字がほぼ同じ分量だけ並んでいた。そして、一番下にはギリシャ文字らしい一群の文章があった。  「これじゃあ、全くわからん」  岩田には読解不能の文字だった。エイコも同じだ。英語とフランス語とスペイン語ができるエイコでも、これにはお手上げだった。  次の束を捲ると、写真帳が出てきた。これも手垢が着いた古びたものだが、そう厚くはなく、十数枚の写真が入っていた。始めのほうには、家族の写真があった。東欧風の民族衣装を来た人々が並んで微笑んでいた。そのなかに一人だけ少女の姿があった。次は、戦いのシーンだった。瓦礫の山のなかを疲れ果てた姿で歩いていく人達が写っていた。ヨーロッパのどこかの戦場らしい。背後の崩れた建物がそれを伺わせた。そこには、すこし、成長した先程の少女が立っている写真があった。そして、やや、鮮明な同じ場所の風景だ。これは、カラーだった。人々が拳を突き上げて、叫んでいるような写真もあった。その一人が、成人した先程の少女の写真だった。  最後の方になった。岩田はそのページを捲って、はっとした。そこに見えたのは、あのアレクセーの家族の並んだ不鮮明な写真だったのだ。岩田は胸騒ぎを覚えて、次の頁を捲った。やはり、想像した写真が出てきた。微笑んでいるダイアナ元妃の見慣れた表情があった。  「おい、これを見てご覧。次は何だと思う。想像できるだろう」  「ああ。多分あの二人ね。撃ち合って死んだパパラッチ」  岩田が次を見ると、だが、違っていた。そこにあったのは、ピラミッドとルクーソール神殿を遠景に、民族衣装の兵士が並んだ、あの写真だった。  「こうなると、次を見るのが恐ろしくなる」  「でも、持ち主は、転落したのよ。もう、危険はないでしょう」  こうなると、エイコの方が決断力がある。それに、好奇心が上回った。  岩田が次のページを捲った。最後のページだった.  四つの顔写真が並んでいた。その二つはすぐに誰だか分かった。他でもない、それを眺めている本人たちの顔写真だったのだ。もう一つは、あのウルブリヒト・マンデルだ。あるいはジョセフかも知れないが、本人に会ったばかりの二人は、それが、ジョセフではないと確信した。鼻の形が微妙に違うのだ。  最後の一枚が、だが、誰だか分からなかった。アラブ風の顔つきだが、中東に住む人種とは違う、どちらかというと、東洋人系の顔つきだ。男なのに耳にイヤリングをしているのが異様だ。しかも、かなり大きめで、金色の輝きが、カラー写真では、目を引いた。頭にターバンを巻いているところからすると、イスラムの世界に生きている者に違いない。だが、だれかは、岩田にもエイコにも分からなかった。  「これで終わりだ。最後が分からない」  「誰かしらね、次のターゲットかしら。でも、この四人のうち、殺害に成功したのは、一人だけよ」  「しかし、そのために多くの犠牲者が出た」  「やったのは、この人かしら」  「いや、死んだ男たちには間違いない。だが、なにかの関係があるのも間違いない。さあ、時間が来た、警察に行こう」  岩田は、書類の束と写真帳を自分のバッグに仕舞い込み、他の物は戻したあと、エスプレッソの最後の一滴を飲み干して、立ち上がった。エイコは、ついてきたクッキーの残りをハンカチに包んで、持って出た。    ウイーンの警察署は、シュテファン教会を囲む中心部の地域から、少し離れたゴチック形式の市庁舎の隣の石造りの建物の中にあった。古めかしい階段を上がって、分厚いドアーを開けると、中には受付はなく、二人が戸惑っていると、奥のカウンターの中に座っていた中年の女性が、  「どんな用件ですか。盗難なら、こちらで受け付けていますが」  と声を掛けてきた。日本人の盗難事件が多いのだろう。  「いえ、ちょった事件に巻き込まれたんです。なんというか、列車事故というか」  「列車事故なら、交通事故係ですが」  「それが、ある人に襲われて、正当防衛で応戦したのですが、その犯人が列車から転落したんです」  「強盗事件ですか。それとも、行方不明者の捜索かな」  女性は迷っていた。ここでも、官僚主義のセクト主義がばっこしているらしい。  「そんなことより、もっと重大な背景があるんです、しかるべき立場の人に会いたい」  岩田がやや高圧的な態度を取った。そして、海外用の横文字の名刺を取り出し、日本のジャーナリストだと名乗ると、相手の態度が一変した。名刺は英語、フランス語、ドイツ語と漢字で印刷してある。  「それを早く言ってくれればいいのに。副所長がスポークスマンになっています」  女性は電話で、何処かに連絡し、二階へ上がるように指示した。  「オットー・シュッツです」  と名乗った副署長は、腹が突き出た恰幅のいい三十絡みの男だった。額が半分くらいは禿げ上がっている。少しドイツ語を学んだ人なら、すぐに分かる南ドイツ方言の訛りの強い発音で、  「遙々、日本から、いらっしゃて、どうしました。もっとも、最近はこの街にはあなたの国の方々が大勢目立ちますがね」  岩田は挨拶もそこそこに、事情をかいつまんで話した。だが、手中にしたバッグなどの遺留品については、黙っておいた。  「そうすると、その転落した人物を捜索しないといけませんな。インスブルックに近い山中と言われましたね。あの辺りは谷が深いので、捜索は難しいかも知れないが、一応手配しましょう。ヘリコプターで探すという手もありますからね。それから、不審なけが人や死体を発見した情報がないか、当たってみます。まだ、早い時間ですので、届けは出ていないかもしれないが。出ればすぐにコンピューターに入ります。その点は、我が国は最先端を行っていますから。問題は、落ちた場所ですね。深い谷なら、簡単には見つからない。鉄橋だって沢山ありますからね」  副所長は話好きのようだ。  「ところで、念のために正式な届けを出しておいてください。そして、供述調書を取らせてください。あなたのドイツ語なら大丈夫。これで、役所はいろいろと手続きが面倒でしてね」  やはり、スポークスマンとしては最適な性格のようだ。慇懃だが要点は外さない。  副所長は電話を取り、何かを指示した。間もなく、係員が携帯パソコンを抱えてやって来て、隅の事務机の前に座った。  「あの場所でお願いします。時刻や状況をいろいろとたづねますが、正確に答えてください。そして、その行方不明者を心当たりがあれば、それも」  当事者である、エイコが先ず、供述に応じた。その間、副所長は最大限の配慮で、岩田と話をしていた。岩田が先程の事情説明で、エギプトから、ロンドンに戻る途中で、ウィーンに来たことを話したのに興味を持ったのか、シュッツ副所長は、  「あの乱射事件では、我が国の国民も被害に会いました。そうですか、あの事件に遭遇されたのですか」  と嘆息をつきながら、  「その襲撃者も、関係があるんですかね」  と疑問の核心を突いてきた。岩田が、  「そうだと考えるのが、自然でしょうね」  と応じると、  「この街はそういう輩で苦しみました。いまは、落ちつきましたが、東の国境を越えてくる東欧からの移民には、そういう類の犯罪者が混じっているのが多いんです。かれらは、テロリストだけではない、麻薬の流通や中には兵器の運び人もいる。この街はそういう犯罪者の通過していく街なんですよ」  「ですが、朝の静寂には、驚きました。ことりとの音もしない」  「それが、身をひそめるにはいいのです。静寂の中では、静寂だけが意味を持つ。静かにしているだけで、いいんですから」  岩田はこの論理には頷けるものがあった。大都会で黙っているのは、むしろ自己主張になる。だが、この街では、命懸けの逃走の疲れを静かに癒せるのだ。この街で命の息吹を取り戻して、難民や移住者は、次の新天地に移っていく。それは、物資も同じだ。巧みに隠蔽工作を施された密輸品は、この街で荷ほどきされ、内容を確認されて、さらに巧妙な細工を施すか、もしくは、覆いを取りさって、西欧社会に出ていくのだ。  話をしているうちに、エイコの供述が終わり、岩田の番になったが、エイコが、概要を話していたので、岩田の供述はそう時間が掛からなかった。あくまで、襲撃事件の被害者は、エイコなのだ。  「これで、終わりです。われわれも全力で捜索しますが、あなたがたはどうされます。結果を待ちますか」  「いえ、ホテルが決まっていますので、必要だったら、連絡してください」  岩田はそう言って、ジョセフ・マンデルが取ってくれたホテルの名前を言った。    警察を出たときにはすでに、時計の針は十一時を過ぎていた。簡単とは言いながら、慣れないドイツ語での供述には意外と時間が掛かったのだ。とにかく、ホテルにチェックインしてから、午後には、スイス・クレジット・ゼネラル銀行の子会社の投資顧問会社を訪ねなければならない。ウルブリヒト・マンデルの秘書が待っている。    シュテファン教会の尖塔の上を、鳥が舞っていた。大きな群れが、大空の下で、何回も旋回を繰り返し、頭上に黒い集団が来たときは、太陽の光が遮られて、一瞬曇る。それより、酷いのは、飛行の途中でまき散らす、糞だった。岩田も、空から舞ってきた汚物を背中に受けて、憤慨した。なぜかエイコの上には落ちてこず、岩田の被害をエイコが笑ったので、更に怒りは強くなった。  「どういうつもりかね。この美しい街で、こんな悪行が続いていたとは」  「自然保護なんて言っても、こういう状況になると、考え直さないといけなくなるわね。歴史的な建造物は、鳥のためにあるわけじゃないから、鳥たちには罪はない。それより、動物保護を標榜して、無差別の繁殖を許した、人間の問題だわ」  「地球上の多くの問題は、殆どが人間の問題だな。戦争、紛争、環境汚染、犯罪。みな、人が世界を支配しようとする野望から発している。自然に生きれば問題はもっと減る。自然を操作しようとして、人は問題を抱える」  「じゃあ、自然体が一番いいの」  「そうかもしれない」  「それなら、私たちは大丈夫ね。自然体でこうなってるんだから」  これには、岩田は答えなかった。エイコとの関係も、同じように考えたかったが、そうはいかないような気がしていた。  「僕が言いたいのは、欲望は果てしない、ということだ。金持ちは幾ら金を稼いでも、安心しないし、貧乏人は僅かで満足していても、その状態を脱すると欲望は肥大化する。そして、いつかその欲望のために人は悪事を働き、破滅する」  「ウルブリヒト・マンデルもそういう人なのかしら」  エイコが、言ったとき、ジョセフに教えられた投資銀行の看板が掛かった建物の前に付いていた。  銀行のオフィスは想像していたより遙に小さかった。重厚な石造りの建物の、五階の一角に三部屋だけ借りて、事務所にしている。最初に受付があったが、人はいなかった。そこで、呼び出しベルを押して、待っていると、背の低い女性が出てきて、来意を聞いた。すでに連絡がされていたらしく、二人はすぐに奥の広い部屋に案内された。ジョセフの部屋と良く似ていたが、クリムトの作品などはない。部屋の壁一面が、本棚と書類棚になっていって、ぎっしりと投資関係の資料や金融、銀行という文字が見える分厚い本が並んでいた。この本棚は、奥の机の後ろにも回っていて、壁の二つの壁面を占めていた。入口のドアーのある側と、街の喧騒を遮断する二重硝子の窓側が、開放されていた。  その真ん中にある応接椅子に座って、案内を請うたウルブリフイトの秘書、マリア・マクルーハンの現れるのを待っていた二人は、先程の秘書が出してきたチョコレート菓子と濃いコーヒーの味に舌鼓を打っていた。  「これ、ローザンヌで食べたのより、チョコレートが上品ね。それに使っている量も多い。真っ黒だけど甘いのね」  「これが、有名なザッハ・ホテルのシェフが考えたトルテだよ」  「そう、それに、このコーヒーに会う」  「何しろウイーンは、コーヒーの街だ。十九世紀の末には、トルコから入ってきたコーヒーの飲食習慣が広まり色々な飲み方が工夫された。コーヒーの味覚が、この菓子を生み、菓子の発達が、コーヒーの飲み方を多彩にした」  そんな話をしながら、持てなしの物が平らげられたころ、長身の老人が入ってきて、挨拶をした。  「私がウルビリヒト様の秘書をしているマクルーハンです」  名乗られて岩田は、完全に予想を狂わされた。名前が「マリア」ということから、妙齢の美女を予想していたのだ。美しいウエーブの金髪が顔を囲んだ丸顔の小太りの女性というのが、予想していた秘書の人物像だった。それが、イギリスの貴族の執事のような老人が現れては、これからの作業に多大な困難が生じたような気がした。女性ならばフランクに何でも話してくれるかもしれないが、このような老練な従者とあっては、口が固いに違いない。それが、事実ではなくても、インタビュアーは、常にそういう幻想に苛まれる。確かに事実は、当たりがいい愛想のいい人物の方が、真実を巧みに覆い隠す術を心得ているものだ。むしろ、話しやすいと思う人物は警戒したほうがいいのだ。職業的に秘密保持を心がけている人は、いざとなると助けになる。不正義と不実には組しないのがこういう人達の特徴なのだ。事実は事実として寸分とも違わずにしておきたい、という本質的な欲求を彼らは持っている。だから、それだけ、証言は信用できるのだ。真実は真実、間違いは間違いと指摘してもらったほうが、より真実に近付ける、そして、言えないことは言えないと言って貰ったほうが、いい加減な答をされるより、真相への道は近い。老執事は、取っつきにくいが信頼できる男のような風采をしていた。  「ここにお伺いしたのは、亡くなったウルブリヒトさんの死の真実を解明したいからです」  岩田はマリアの心を捕らえようというわけではなく、自然にこの最初の質問の言葉を発した。こういう人に対するには、装ってはいけない。自然体が一番だ。  「死の真実と言いますと。ご主人はテロに巻き込まれて亡くなったのではないのですか。それなら、不慮の事故です。真実なんてあるわけがない」  「そうです。ですが、いくつもおかしな点があるのです。それで、いくつかお話をお聞きしようと参上したわけです」  岩田は簡略に、犯人像や遺留品などについて説明した。だが、列車で起きた事件については話さなかった。  「そうですか。わたしも、これについては、腑に落ちない事が多くて、自分で調べてみようと思っていたところなのです。あなたがたは、ダイアナ元英国妃の事故の真相を追って、エジプトまでいらっしゃたのですか、ご苦労なことですな」  「さっそく本題に入りますが。ウルブリヒトさんには、こういう形で命を狙われるような理由がありますか」  マリア老人は考え込んだ。そして、  「そのことより、ご主人がなぜ、突然、エジプトの行かれたのか、その経緯をお話ししたほうがいいでしょう」  と言って、話しはじめた。  「ウルブリヒト様が、エジプトへ行くことになったのは、全く突然のことでございます。それは、丁度、パリでダイアナ様が亡くなられた二日後かとも思いますが、この私を呼んで、エジプトに行くことになった、と突然仰ったのです。そのための準備をしてほしい、とおっしゃられ、チケットや宿泊所の手配を命じられました。こういうことは、めったにないのですが、わたしの仕事の範囲内ですから、アテネ回りのカイロまでの航空券を用意しました。宿は、カイロのホテルに二泊分、予約しましたところ、それでよいということになったのです。こうしてウルブリヒト様は、慌ただしく旅立たれました。私の知るかぎりでは、そういうことです」  「まったく突然の旅立ちだったんですね。なにか、きっかけは思い当たりませんか。なんの用事で行くことになったのか」  岩田が質問した。  「はい。私はハッキリとは分かりません。ご自分で判断して行動しておられましたから。私はあくまで、そのお手伝いをしているだけですから」  「そうでもないでしょ。お兄さんは、すべてあなたが承知している、と言われたんですよ。心当たりくらいはあるでしょう」  「そういわれましても」  「あなたがたの仕事が、秘密を旨として営まれているのは理解しています。そのことで、スイスやこの国の銀行は世界から信用されて来たのですからね。ですが、ことはご主人の死に係わる事なんですよ。知っていることはできるだけ、お話しください」  「はい、実は、私をお呼びになる前に、ウルブリヒト様は、非常に危険な状態にありました。精神の錯乱状態というか、気持ちを乱されていた。その原因は、事業の危機です、私はそう想像しています」  「どのようなことですか」  「はい、あなたも御存知かもしれませんが、この国はこの前の戦争では中立を守り、スイスとともに戦争当時国の資産の避難場所になったのです。あのナチスさえ、巨額の資産を隠す場所として、こちらの銀行を頼りにしました。ナチスは侵略した国々の中央銀行やユダヤ人から奪った金品を密かに、こちらに移送して、保全していました。これは、第二次世界大戦の隠された秘話です」  「そんな話を聞いたことはある」  「連合軍の勝利後は、ソ連やアメリカがそれらの資産を接収し、管理下に置きましたが、それは極一部で、多くの資産は、闇から闇へと転々としていき、その転売に絡んだ銀行家は、大きな利益を上げて、その後の経営の資金に利用したのです。マンデル一族もその一員です」  「ははー。元の資金はナチスの金塊というわけですか」  「金塊とは限りません。あらゆる貴金属ですよ。その一部はまだ、スイスやこの国の中央銀行の地下に眠っている。いま、本来の所有国から返還要求が出されはじめましたが、それに全て応じる量はないでしょうが」  「一部が流用されたからですね」  「そう。民間に流出したからです。そして、そのことを知ったユダヤ人や東欧諸国は表立ってでなくても、色々と言ってくるようになりました。資産を返さないのなら、それなりの利便を計れというのです」  「金融裏市場があるわけだ」  「そう、特にEUが本格的なものになると、そういう交渉はできなくなるから、ここ数年特にうるさいのです。ウルブリヒト様の仕事は、そのような資金を有効に投資することですから、沢山の企業や事業者と付き合いがある。それは、ヨーロッパだけでなく世界的な規模ですよ」  老執事はここで、胸を張った。  「ですが、それだけにいかがわしい依頼や中には強迫じみた話も来る。そういう話は、利益も大きいのが常です。だから、そういう話に乗ることもある。ですから、そういう筋からの呼び出しではなかったかと思います」  「まあ、急なエジプト行きですからね。相手に思い当たる節はないですか」  岩田は核心を尋ねた。  「あります。実を言うと。エジプト行きには思い当たる節があるんです」  「そうですか。どのような」  「はい、最近取り組んでいた最大のビジネスは、ボルネオ島での天然ガス採掘プロジェクトへの融資でしたが、これは、エジプト人やアラブ人資産家との共同融資なんです。いずれもイスラム教の世界だが、ご主人はそれに食い込み、健闘していたんです」  話は思わぬ方向に進もうとしているらしい。  「これはあなたがたの祖国とも密接な関係のある事業ですよ。なにしろ採掘される予定のガスの九〇%は、あなたがの国、日本へ輸出されるんですから」  意表を突く展開になってきた。  「アラブ人やエジプト人と組んで、日本に売る天然ガスを開拓するというわけですか」  「そうです。そして、そのことでトラブルが起きていたらしい。それは、出資の条件を巡ってです。なかでもエジプト人が、吝嗇で、うちの資金を出させて、その利益は多くするという話を持ち出していた。ですが、断れない事情があったらしい。その詳しい内容については、私は関知していません。ですが、エジプト人はその条件が飲めなければ、協調融資から離脱すると言いだしたり、それまでに出した資金の利用について、公言すると言いだしたりして、てこずっていたようなんです。そういう状況のなかで、あのエジプト行きが出てきたので、私は交渉に行くのだと思いました」  「そのエジプト人とは何という人ですか」  「そこまでは、顧客情報の守秘義務から言えませんが、独り言として聞いてもらえば、カイロの貧民窟から一代で希代の資産家にのし上がった人物と言えば想像がつくでしょう」  岩田とエイコには、この言葉で十分だった。二人で訪ねた洗濯物が空を隠していた狭い路地が思い出されたのだ。  「すこし、なにかが繋がってきた感じがするな」  岩田が言うとエイコも頷いた。  「そのエジプト人とは長い付き合いですか」  「いや、最近のことでしょう。だが、彼のほうは、意外な人物と人脈がある。彼の資産がどうして築かれたかも、だいたい分かります。うちの融資がどういう方面に流れているか、分かりますから」  「どういう方面ですか」  「軍事産業と兵器産業と先端技術に彼らは注目しているようですね。稼ぎは兵器産業からが、大きい」  「そんなに詳しく分かるんですか」  「皆、コンピューターに入っています。その流れを辿れば全て分かる。これも、私の仕事の一部です。資金の流れと活用ぶりをチェックするのは、重要な仕事です」  執事は胸を反らせて、残っていたコーヒーを飲み干した。  (あのアルファイト親子は、汚い仕事で稼いだ資金で何をもくろんでいたのか)  岩田は大きな疑問を抱いた。  「他に死因を推定するようなものは残っていませんでしたか」  エイコがそれが気掛かりだったように、思いきって尋ねた。  「この部屋に残っていたものをいろいろチェックしてみましたが、ご主人が出掛ける前に贈られてきたチョコレート菓子の中にこんな絵が入っていました。それで、わたしもあなたがたにお会いして、びっくりしたんです」  マリア老人は、封筒に入れていた写真を取り出し、応接机の上に置いた。それは見覚えのある写真だった。あのアレクセーとダイアナさん、そして、岩田とエイコのツーショットの並んで飲み物を飲んでいる写真が入っていた。あのパパラッチを張り込んでパリのカフェーに座っていたときのものだということがすぐに分かった。  「これは、つい先程、出てきたものです。ですからあなたがたとこうしてお話ししているのが、信じられない」  「また、俺たちの写真だ。すると、ウルブリヒトは、俺たちを探していたということになるのかな。エジプト行きは、俺たちを探しての旅だったのか」  岩田はそう想像してみたが、確信はない。だが、ここにこうして写真があるのとみれば、何かのターゲットにされていたのは確かなようだ。  エイコは、机の上の写真を手にしてじっくりと眺めていたが、こちらの写真は、列車のなかでの襲撃犯人が持っていたものより、ずっと鮮明だった。構図も違う。あれは素人の写真だが、こちらは明らかにプロの作品だった。  「そのエジプト人投資家の連絡先は何処ですか」  「それも、秘密保持の観点からは教えられませんが、どうです。何処かでメモを拾うといいこともありうることですわね。例えば、著名人のパーティーで、手帳を拾ったら、そんな名前があったということもね。もうお名前は想像できたでしょうから。あるいは、天然ガスの開発プロジェクトの背景に、姿を見せない資金源があるということになれば、消費者であるあなたの国の読者もおおいに関心を持つでしょう。そのためにその人物を突き止めたから、会見を申し込んだとしても、不自然じゃあないでしょうな」  「ですが、その情報がどこから出たかは疑うでしょう」  「大丈夫、そういう細かいことを気にしていたら、大規模プロジェクトに巨額資金を借金して投資するようギャンブルはできない。そういう細かいことに配慮するのはわれわれの習性です。そう気にされなくても大丈夫」  と言ってから、マリア老人は、主の居ない机に向かって、すらすらと、住所を書いた。そして、本当に、その紙片を、床に落としてから、  「なにか、落ちていました。あなたのではないですか」  と言って、岩田に手渡したのだった。  エイコは最後の写真を手にしていた。それは襲撃犯人の女が持っていた名前の知れないアラブ風の男と同じようだったが、ずっと鮮明だった。  「これは、だれですか」  エイコの問いに、マリア老人は、  「それが、ボルネオの王様ですよ。フルナイという王国のね。天然ガスを産出する国です」  と即座に答えた。  エイコが列車で襲われたことはマリア老人には話していない。エジプトでウルブリヒトとともに岩田とエイコが、狙われていたのはハッキリしている。ということは、このフルネイの王様も命を狙われていると言うことか、と気が付いて、岩田は落ちついていられなくなった。    午後の太陽がシュテファン教会の尖塔を回って、落ちはじめたころ、岩田とエイコは、朝方訪れた警察署を再訪した。朝、応対してくれたオットー・シュッツ副署長は、浮かぬ顔をして、机の上のファックス用紙に目を通していた。分厚い丸形の眼鏡を上げて二人を確認した副署長は、鬱陶しそうな表情をしながら、事務机の前の椅子を指して、二人を招いた。身を硬くして、座った二人に、副署長は、  「大変残念なことになりました。そして、やっかいなことにも」  と囁くように呟いた。  「遺体が見つかりましたか」  エイコがやはり、小声で聞いた。  「そうです。鉄橋の下の深い谷底に転落していました。空からの捜索で発見し、空中からレスキュー隊員が下りて、遺体を収容しました。女性でした。ですが、遺体をこちらへ収容後、詳しく調べたところ、大変なことが分かったのです」  副署長は、先程二人が入ってきたときの苦虫を噛みつぶしたような、苦渋に満ちた顔をして、言葉を押し出した。  「なんですか」  岩田の問いも歯切れが悪い。  「あの女。大変な大物だった」  「大物というと」  「国際手配のテロリストです。名前はオクタビア・プリムスといい、パレスチナのイスラエルの占領地生まれ。モサドのスパイの訓練を受けて、一時はイスラエルのために働いていたと言われるが、実体はダブルスパイをしていたのが分かってから、地下に潜り、度々名前を変えては、各国で起きたテロ事件に係わった疑いがある。なかでも有力な容疑は、ラビン首相の暗殺事件です。そのとき元首相の回りに集まった群衆の中に、この女の姿が移っているビデオ映像があるそうです。インターポールの重要国際手配容疑リストに載り、各国警察が行く方を追っていた。そういう人物でした」  「それは、確かに大物だ。だが、その証拠はあるのですか」  岩田は疑い深いジャーナリストの習性を発揮して、質問した。  「人相、血液型、体格、年齢などから、間違いないと判断されます。それに、パスポートが、偽造だった。パスポートの名義は、旧東ドイツの国籍で、アンエット・フォルスバーグとなっていて、出入国記録も正確でした。ですが、すべて、偽造なのが、分かったところです」  「どんな所に行っていますか」  エイコが質問した。  「七月にはイギリス、八月はフランス、九月になってから、ドイツ経由でイタリアに行き、ギリシャを経て、エジプト、そして,スイス経由で我が国に入国している」  「私たちの足取りと殆ど同じだわ」  エイコが嘆息した。  「これが、旅券に記された記録ですが、本当かどうかは、分かりませんよ。全体が偽造なんですから」  そう副署長は言ったが、岩田もエイコも今年七月以降の移動記録は正確ではないかという気持ちになっていた。それは、彼らの後を追った記録なのだ。間違いなく、この女は二人を付けていたのだ。そして、その間に一つの事故と撃ち合いとテロ事件が起きた。その場所に、この女も岩田やケイコとともに一緒に居た。正確には、パリのパパラッチ同士の撃ち合い事件の現場を除いてだが。 シュッツ副署長は、もう一枚の書類に目を落としながら、更に憂鬱そうな顔をした。  「だが、ロンドンにいたのは、事実らしい。ここにロンドン警視庁からの手配要請書がある。警察専用のコンピューター通信網を通じて、届いたものですが、どうです、この写真を見て下さい。あの女と同じでしょう」  岩田は手渡された白黒画面の写真を見た。画質が悪いのでハッキリとは分からないが、確かに先程見たパスポートの女の顔だった。  「何の事件の手配ですか」  岩田には確かな心当たりがあったが、敢えて確認するように聞いた。  「ロシアの亡命科学者一家四人が毒殺された事件だそうです。その重要容疑者になっていた」  岩田は副署長が持っていた書類を奪って、読んでみた。コンピューターからプリント・アウトした綺麗な紙面だった。  手配の容疑は簡潔に記してあった。岩田が承知しているのと同じだ。  ーー ルームサービス係を装って、部屋に入り、乾杯用のシャンペンに毒物を入れて殺害した疑いが強いが、この毒物は容疑者特有の薬物であることから、手配容疑者が犯人であると断定したーー  と書かれていた、最後にロンドン警視庁殺人課捜査係、マクファーソン刑事の署名が添えられていた。  岩田には懐かしい名前だ。エイコにもその書類を見せると、  「あら、あの石部金吉刑事も、やったわね」  と岩田の耳元で囁いた。  「こんな大物と格闘して、勝ったのだから、あんたは凄い」  岩田が言うと、エイコは、  「昼間に食べたチョコレートとワインのお蔭ね。あの日は二回もおいしいワインとチョコレートに出会った。それに、チーズフォンデュも最高だった。食事が良かったんで力が出たのよ。遭難したとき、チョコレート一つで命を永らえたという例が多いのは、それだけのパワーがあるということよ」  「それに比べて、相手はろくな物を食べていなかった」  「どうして知っているの」  「俺たちが食堂車を出るとき、見たんだ。それに、相手は、俺たちの盗聴で神経をすり減らしていた。夜も殆ど寝ていない。状況が君に、有利だったこともあるが、今相手の素顔を聞いて、恐ろしくなったろう」  「だから、私が助かったのは、ワインとチョコレートのお蔭だと言ったでしょう」  わざと、二人の囁きを無視していたシュッツ副署長は、  「問題は、背景です。彼女が独断で、あなた方を襲うという理由はない。なぜ、あなた方はこのような大物テロリストに襲われ、しかも、撃退できたのか。この点に付いて、じっくりと伺わないといけませんな」  「はい」  「ヨーロッパは統合に向かっています。国際社会の安全を脅かすテロリストの取締りには、各国が協力して当たらないといけない。それには・・・、背景組織の解明し壊滅させるためには、情報の相互伝達と緊密な連携捜査が欠かせない。どうです、協力して頂けますか」  副署長は、丁重に促した。エイコは、黙って頷いた。  その説明には当然、岩田の付添いが必要だった。ロンドンでの事件の経緯やパリ以降の行動を詳しく説明した二人の話を、係員が調書にまとめた。最後には、得体の知れないアジア人の王族の件にまで、話が及んだとき、立ち会っていたシュッツ副署長の表情が険しくなった。  「ターゲットは、まだ、あるということですな」  「ですが、犯人は死んだんでしょう」  岩田が言うと、  「組織の一部が欠けただけでしょう。実行者は他にもいくらでもいる。だから、背景を解明しないといけない。あなた方の話では、正体が掴めないが、ヒントはあります。エジプトの事件の犯人が持っていた印鑑やマリアという老執事の話などから、まだ、確かめるべきことが多い。どうです、それらをあなた方は、自分たちの手で解明しようとしているんではないですか」  図星だった。これから、ロンドンに戻り、マクファーソン刑事に会って、アレクセーの事件の進展具合を尋ねたり、大英博物館のエジプト研究者にあって、象形文字の意味の解明をしないとけない。それに、もっと重要なのは、三矢のもとにエイコを返さないといけない。そこまで考えて、岩田は、  (いや、返さないと言わなければいけないの方かな)  と胸中で、自問した。  第六章 「日本酒は熱燗と炙ったイカでいい」  ロンドンは雨だった。ヒースロー空港の濡れた滑走路に、バージン航空のジャンボジェットが滑り込んだとき、降客ロビーの出入口に、抜けるように背の高いトレンチ・コート姿のいかつい男と、濃紺の制服を着た二人の警官が、立っていた。  到着のアナウンスを聞いても、エイコは席を立たずにいた。頭を右に傾げて乗せた男の体臭が、心地よかった。あと、数時間でこの嗅ぎ慣れた乾いた臭いとお別れだと思うと、急にいとおしくなって、離れがたかった。  「さあ、着いたぞ」  岩田がエイコ頭を真っ直ぐに戻し、立ち上がり掛けたとき、エイコは、  (なんと、冷たい言い方だろう)  と突然、怒りがこみ上げてきた。そして、岩田が歩きはじめる先に、通路に出て、降りる客たちの列に割り込んだ。岩田が後に続いた。列が進むときに、時折、岩田の膝がエイコの尻に当たる。その温もりにも、あと僅かでもう二度と触れられないようになるのかと思うと、別れる辛さがこみ上げてきた。  キャビンを出てから、プラットフォームに進むに従って、別れの時が段々と、迫ってきて、一緒にいる時間が削られてくるのを思うと、出来ればロンドンに戻らなければよかった、という気持ちが強まった。  出国検査を経て、ロビーに出たときには、その気持ちはますま強くなり、エイコは、あと数時間後に必ず来るであろう、別れの時に、言うべき言葉を選んでいた。  本当なら、  「ずっと、一緒にいたいから」  とでも言って、決意を示したいのだが、それでは、余りに幼すぎる。それより、  「また、かならず、お会いしましょうね」  と言うほうが、人妻らしいだろうか。だが、それでは、気持ちの反対だ。  すがりついて、  「私を置いていかないで」  と言ってみたいような気もした。でも、余りにも芝居掛かっている。  それより、大人の女らしく、  「これっきりにしないでね」  とでも言うほうがいいかも知れない。それほど、気持ちは動いていた。というより、体で感じた快感の名残を追って、その再現を体が願っているというのが、生理的には正解だ。エイコの体の中で、女が疼き、残されるときの悲痛を察知して、叫び声を上げていたのだ。  「いや、お待ちしていました」  マクファーソン刑事が、いきなり声を掛けてきたのは、エイコが短時間の官能を味わいおえて、シティー行きのリムジンバス乗り場を探しているときだった。だが、その声が自分に向けられたのではないことが、男の視線で分かった。後ろにいた岩田の目を見ていたのだ。  「おや、驚いたな。どうしました。事件ですか」  岩田が応じると、刑事は  「いえ、あなたがたをお迎えに来たんです。ウィーン警察から、連絡がありましてね。この便に乗ったのを知りました」  「それは、ご丁寧に。容疑者の護送ですか。手錠はいりませんか」  「それでは」  厳格な女王陛下の警察官であるマクファーソン刑事は、ジョークにも笑顔一つ見せず、先を案内した。正面玄関の車寄せに、目立たないに、黒い小型車が止めてあり、既に運転席には、男が乗っていた。岩田とエイコを後ろの席に乗せると、刑事は助手席に回って、出発を命じた。空港の敷地を抜けて、高速道路に差しかかったとき、刑事はやっと、笑顔を見せ、  「エジプト旅行は惨々でしたね」  と声を掛けた。それには事情は全て知っているという響きがあった。  「本当に、ひどい目に会いました」  エイコは素直にそう答えたが、岩田が割って入り、  「いや、それより、エイコには、列車の旅のほうがショックだったろう」  と言葉を挟んだ。  「でも、エイコさんのお蔭で。こちらの事件には片がつきそうですよ。助かりました」  助手席から、振り向きながら、珍しく、刑事が礼を述べた。初めて見せた寛いだ表情だった。  「それで、迎えに来てくれたのですか」  エイコが、先程のロビーでの驚きの答を求めるように聞いた。  「それもありますが。あなたがたは、警備対象者になったんです。ヨーロッパの刑事警察の捜査連絡網での連絡から、要保護者として、われわれが今日から、我が国滞在中は警備を担当しますので」  「ええっつ、VIP待遇ですね。これじゃあ、エイコと密会できない」  「なにを言ってるの。こうして、公明正大に会っているっていうのに」  「いや、この国に帰ってきたからには、これまでのようには、行かないさ。なんていったって、俺たちはお互いに既婚者だ。モラルは守らなくてはいけない」  岩田のこれまでの行動を考えれば、裏腹の意見だった。エイコは、思わず、吹き出しそうになりながら、刑事のいるのを考えて、  「そうね、おなごりおしいわ」  と思慮深げに答えた。刑事はその会話を聞いていたのだろう、  「いや、まだ、少し、一緒にいてもらいます。これから、本庁に向かい、お話を伺い、確かめたいことが、ありますので。御足労願います」  「ほら、やはり、すぐには別れられない宿命なのよ、私たちは」  エイコが楽しげに言うと、岩田は、  「調べは長びきますか」  と冷静に聞いた。  「なんとも言えませんが、そう短いとは言えないでしょうな」  刑事の答に、エイコは、安心したように、岩田の体に身を寄せ、コートの中に顔を沈めた。男の臭いがした。それも日本人の男の、魚臭い体臭だった。西洋人の男は、もっと肉臭い。この体臭が忘れられなくて、私はこの男に抱かれたのかも知れない、と自分の意思とは違う所に今度の旅の言い訳を求めてみたが、それは、言い訳に過ぎないのがすぐに分かった。夫の三矢もれっきとした日本男子ではないか。だが、夫はこういう臭いがしない。極端に潔癖症の夫には体臭がないのだ。無味無臭の食品は衛生的で腹痛は起こさないかもしれないが、味わいはない。いろんな味付けがあるほど、料理は旨い。エイコは、美味を知って、美食家になりはじめていた。しかもその求める味は、胡椒やワインの食感ではない。醤油と味噌と酒の味だった。生まれた頃の味覚が覚醒して懐かしい味を思い出し、今や渇きを伴って、その味覚を求めるようになっていた。    ウエストミンスター寺院の前を通って、スコットランドヤードと呼ばれるロンドン警視庁の古びた建物に着いたとき、午後三時を告げる寺院の鐘が鳴った。  久しぶりの訪問だ。マクファーソン刑事は、二人を導いて、五階の応接室に行き、秘書にお茶と菓子を注文した。イギリスの刑事は普通はこんなことはしない。秘書といっても、れっきとした国家公務員である女性警官もそういう命令を受けることはない。だが、この秘書は持てなしの心に溢れていた。ケンブリッジ大学で、日本語を学んだ彼女は、日本人にも大いに関心があった。それに、岩田とエイコには初対面ではない。快く返事をして、  「ハロッズの食料品売り場で仕入れた手作りクッキーとダージリン紅茶です」  といって、熱く湯気がたなびく紅茶を三人分サーバーに入れて、持ってきた。  一口啜ると、心が落ちついた。エイコはイギリスに帰ってきたという気持ちが深まって、魂が沈んでいく気がした。  「ところで、あの事件では、変なことが沢山ありました。目撃者はあなた一人でしたし、しかも、ハッキリしなかった。部屋から指紋も検出されず、ただ、シャンペン・グラスに小さな虫が落ちていただけでしたから。部屋は密室で、人が出入りした様子もなかった。初めは難事件だと思いましたよ」  「でも、よく突き止めましたね」  岩田が感心すると、刑事は、  「さすがに情報時代ですね。もう足で稼ぐような捜査は、時代遅れになりそうですよ。あなたがたに警備の意味を含めて、尾行を付けたが、簡単に巻かれて、国外にいかれるし、体を使う捜査は効率が悪い」  「では、どうやって、突き止めたんです」  「まあ。手口と特徴ですね。そして、貴重だったのは、岩田さんの目撃情報。モンタージュが正確でした。よく、特徴を捕らえていた。東欧系の顔だちの小柄な女は、そうリストに登録されていない。以上三点で決まりでしたよ。それで、われわれは早速、国際手配し、ウィーン警察が、遺体を見つけたというわけです」  「出入国記録ですか、調べたのは」  「そうです。七月の入国者と七、八月の出国者を徹底的に洗った。そして、パスポートを照合して、あの女の顔写真を見つけたんです」  「よく絞りこみができましたね。凄い数でしょう」  「いや、大体の見当を付けてからです。あまり、手の内は明かしたくないが、有力な捜査協力者のあなたですから、明かしますが、ほら、殺害現場から、指紋が出なかったといったでしょう。それは、本当に出なかったんです。おかしいじゃないですか、あなたの目撃のようにホテルのメードが、不審者だとしても、メードがサーブするとき、手袋をしていてはおかしいでしょう。かならず素手でボトルやグラスに触れたりするでしょう。それなのに、指紋がない。拭ったあともないのです。他の人の指紋があるのにですよ」  「本当に変なことだった」  「そこで、わたしたちは、素直に考えてみたのです。いいですか、指紋はないんです。だから、その犯人は指紋を持っていない。指紋がない者が犯人だということです」  「ははん、発想の転換だな」  岩田は頷いた。  「そういう人がたまにはいる。鑑識で詳しく調べると、指紋の上に指紋のない平らなものが触れた跡が発見されました。でも、犯罪者のリストには、それらしい女はいなかった。それで、次に考えたのは手口です。解剖結果は青酸系の毒物による毒殺でしたが、グラスに虫が落ちていたのもそれを裏付けていた。ところが、さらに再度の詳しい死体検案をしたところ、死体のいずれもから、小さな注射の跡が見つかったのです。これは、どういう意味か。普通の殺人犯なら、こんな手の込んだことはしません。青酸毒だけ十分だと思うでしょう。これは、いわゆる駄目押しなんですね。プロの手口です。私たちは保存してあった死体の心臓を再解剖しました。すると、心臓の筋肉に弛緩があるのがわかった。心臓マヒの兆候です。しかも子供までもこの症状を呈していた。これは、どういうことかというと、筋肉弛緩剤が使われたということです。多量のカリウムを投与すると、そういう症状が出る。犯人は、注射器でカリウム溶液を注射したんです。こういう手口を使うのは、手慣れた殺人者です。同じ手口のテロ行為は、イスラエルの元ラビン首相の暗殺で、使われた疑いが大きい。その犯人は地下に潜ったが名前は割れている。モサドの元工作員ですから、資料はあるんです」  「綿密な捜査だ。さすが、世界有数のスコットランド・ヤードのことはある」  「それで、われわれは、インターポールを通じて手配したと言うわけです」  刑事はそこまで、話し終わって、一息ついたが、紅茶を一杯啜ると、  「ですが、それで終わりじゃない。これが、始まりなんです。この女テロリストとアレクセー一家の関係が分からない。なぜ、殺害したのか。個人的な関係があったとは思えない。プロのテロリストとしての犯行なんです。裏に組織がある。それを解明しないと、捜査は終わらない。それで、あなたにお聞きしたいんです。なんの用事で、アレクセーに会いにいかれたのか、そして、突然、我が国の元皇太子妃殿下のあの悲しむべき事故のあと、突然、パリにいかれたのか。その辺の事情を、お聞きしたいということです。このことは、上層部を通じて、M5にも伝わったようで、彼らも強い関心を持っているんです」  「M5って、007の情報部か」  「そう、私は知りませんが、国家の機密を担うセクションです。いわゆる・・・・」  「女王陛下のスパイ、ですね」  「わたしは反対したんですが、上層部の判断で、その件に付いては、特別に彼らの臨席が許されました。すでに係官が待機しています。あなたがたの事情を配慮して、場所はこの場所で結構ですが、臨席をさせますので」  有無を言わせない断定的な言い方だった。刑事は車の中で見せた柔和な表情を失って、忠実な公僕の顔つきになっていた。  仕立てのいいバーバリーの上下を着たクールカットの男が、部屋に招き入れられ、二人の座っている長椅子の後ろに高い背のついた椅子を持ってきて、座ろうとする前に、  「ジャームズ・モーガンです」  と名乗って、手を差し出した。岩田とエイコは、握手したが、情報部員のイメージとは遠い優男ぶりは、握った手の柔らかさからも感じられた。肉体労働をしたことのない手だった。あのマッチョの007は、もういないのだろうか。華やかだった英国情報部も最近は、人材難らしい。そういえば、つい最近、新聞に情報部員募集の広告が載っていたのを、岩田は思い出した。  「われわれが、注目しているのは、あなたがアレクセーに会う用件は何だったのか、ということです。アレクセーは、CIAの監視下にあったということは知っています。それは、彼が著名な生物学者だからです。海豚を使った研究では、彼の右に出る研究者はいない。軍事的にも重要な人物です。西側の軍事筋には、有名な人物ですからね。その人が家族共々ロンドンであんな目にあった。これはイギリス公安当局の大失態だということです。しかも、犯人は警察の力で突き止められた。衰退著しい情報機関としても、これは看過できないのです。ですから、どうにかして、失地を回復したい。われわれは、そう願っています。どうか、西側陣営の一員として、協力してください」  モーガンは、外見に似合わず、雄弁で言葉に迫力があった。  (こういう男をガバメント・マンというのだろう。着痩せするタイプなのだ。あの細身に見えるスーツを脱げば、筋骨隆々とした引き締まった筋肉質の体が現れるに違いない)  とエイコは、思っていた。それは、岩田の中年太りが始まった柔らかい肉体とは正反対にあるものだろう。  「いいでしょう」  その岩田が明言したのには、驚いた。新聞記者として、守秘義務を主張しないのだろうか。  「どうせ、書けないんだから、それに、あの後、次々と事件が起きて、われわれも狙われている。そもそも、発端は、俺がアレクセーの亡命を手引きしたことからだ。私にも大いに責任がある。だから、自分の手で犯人を探し、事件を解明しようと、エイコと一緒に旅をしていた。そして、まだ核心には迫れないが、おおよその見当は付いてきた。なにか、大きな組織的犯罪が行われたんだということは、分かる。もう、個人の力では手に負えない段階になったようだ。その隠れた黒い組織とは、あなたがたに戦っていただこうか」  岩田が意を決したように言った。エイコもそれに頷いた。  「だが、最後に個人的な調べを二点ほど、残している。これをしないと、私の調査は終了したとはいえない」  「なんだね、それは」  マクファーソン刑事が脇から聞いた。  「ああ、一つは、ロンドン郊外北西百二十キロにある、ダイアナ妃の墓に詣でたい。そして、できれば、柩を開けて、彼女の尊顔を拝したい」  この言葉に、モーガンの頬が引きつった。今にも口を挟みそうだったが、岩田は続けた。  「もう一つは、死んだマンデルの老秘書が教えてくれたある人物を訪ねたい。それだけだ」  「その人物はどこにいるんだね」  モーガンが落ち着きを取り戻しながら、質問した。  「これは、どこですかな」  岩田はマリア老人が書いてくれたメモを見せた。  「オランダだね。アムステルダムとある」  「その住所に、事件の鍵を握る重要人物がいるはずだ」  「もうすこし、詳しく話してくれないか」  刑事が、粘った。  「いや、私もどういう人物かはしらないが、何かがあるのは確かだ」  「何だね」  「一連の事件の黒幕であり、危険な人物だ。彼は次のターゲットを狙って、新たな刺客を用意しているはずだ」  「それは、危険だな。君が一人で行くのは危険だ。われわれががガードしないといけない」  モーガンが呟いた。  「力が低下したんじゃなかったのかね」  岩田がまぜっ帰すと、  「いや、まだ、ボディーガードくらいはできる」  と真面目に答えた。これには、刑事もエイコも爆笑した。  「そうか、それはあり難いが、第一の条件は君の力で叶えてくれるかね」  「いや、無理だろう。元妃の遺体は実家のオルソープ家が厳重に管理している。来年の夏以降には、墓を一般人にも開放するそうだが。それも有料で、墓がある池の中の島には行けない。もうだれも、顔を見るのは不可能だ」  「そこを、何とかしないと、話は終わらない。君達は極秘の行動が得意だろう。潜入するという手もあるんだよ」  モーガンは、考え込んだ。そして、意を決したように、  「分かった、上司と相談してみるよ。ちょっと待ってくれないか」  と言い残して、部屋を出ていった。電話で裁可を仰ぐためだ。そこが、政府職員の宿命ということでもある。  モーガンは、間もなく帰ってきて、  「墓を見ることは出来ないが、われわれが知っている情報を明かそう。それは、きっと、君が知りたがっていることのはずだ」  と言いながら、椅子の裏を回って、岩田とエイコが並んで座っているソファーの正面に腰掛けて、話を始めた。  「これは、最高度の国家秘密ですから、部屋を閉鎖してください」  と刑事に命じたあと、  「実は、ダイアナ元妃殿下は、生きています。あの交通事故で、亡くなったのは、クローンなのです。ですが、そのクローンも、どこかに消えた。政府は、いま、必死で行方を探しているところです。私もそのプロジェクトの一員です。というより、その責任者だと言っていい。ここまで、お話して、興味をお持ちになったでしょう。ですが、口外して欲しくはない。勿論、報道するのは、論外です。あくまで、あなたが、元妃殿下の墓を見たいと、おっしゃるから、ここまで、明かしたのです」  「すると、墓には遺体はないのか」  「そうです。ですから、墓は公開しません。未来永劫、世間に明かされることはないでしょう。この点については、女王も皇太子も、実家のオルソープ家も、了解しています。もっとも、気を付けなければならないのは、遺児たちですが、まだ幼いので、どうにか納得させた。それから、元妃の弟が疑いを抱いているが、これも、取引で口をつぐませたというのが、実体です」  「よく、納得したものだな。それにしても、なぜ、あんなに急いで特別機で遺体を引き取ったか、やっと訳が分かった。すべて、仕組まれていたのか。では、最初に運ばれたパリの病院や事故捜査に当たる警察は、どうしたんだ」  「あなたに、あやうく、邪魔されそうになりましたが、全て、われわれの計画どおりに、行きましたよ。病院は二度にわたり、運転手の飲酒運転という検査結果を発表し、過失事故という方向に導いてくれた。もちろん、解剖なんてしていません。救急病院の医師も納得しています。病院に収容された後、あの女は脱走した。そうだ、ダミーの女が、現場で『あの女』と言ったのは、女テロリストのことですよ。警察は、事故車両の不審な点を公表したが、あれは勇み足だった。連絡の不徹底だった。だから、それ以後は沈黙しています。唯一の誤算は、ボディーガードが生き残ってしまったことだが、これも、厳重な箝口令を敷いて、沈黙を守らせている。彼は有利な条件で説得に応じ、今では故郷に帰って、好きなラグビー三昧の日々を送っている。一生、沈黙を守るという条件で、年金が払われることになったからです。といっても、彼が何を知っているかというと、何もない。唯一、事故現場へのルートを死んだ運転手に指示したことくらいですな。われわれが頼んだのです。ですから、あくまで念のためです。女王陛下の秘密工作員は、石橋を踏んでも渡らないほど、慎重なのです」  「事件の構造は朧気ながら、分かったが、なぜ、そんな事をしたんだ。その理由はなんなんだ」  岩田は興奮していた。聞いた話が全て事実だとすると、世紀のスクープだ。もし、記事にすることができたら、そのニュースは世界を震撼させることだろう。世界の天地が逆転するほどの、衝撃的な内容だ。だが、納得できる理由がなければならない。衝動的に起きた事故でないとすれば、なぜそのような、事故が仕組まれたかを知らねばならない。  「理由は複合的です。沢山の事情があって、われわれのこの作戦にゴーのサインが出た。そして、最もいいタイミングで、事故は起き、すべてがうまく行ったというわけですな」  「そうか、とすると、それはダイアナ妃本人の意向もあるということですな」  岩田のジャーナリストとしての直観は鈍っていなかった。  「見事ですな。そうです。これだけの作戦は本人の同意がなければ簡単にはできませんから。むしろ、元妃殿下の強い意向に基づいて実行されたのです。元妃殿下は、世間から逃れたかった、本当の自由を手に入れたかったんです」  「そして、女王陛下や政府もそれを応援したのですか。確かに、もし、元妃殿下が異教徒と結婚して、子供が生まれたら、それは、英国国教会には、耐えられないことでしょうからね」  「女王陛下も耐えられない。女王は二人の王子の母が、奔放な男性遍歴を繰り返すことだけでも、我慢が出来なかったのに、あまり、苦情は言われなかった。だが、これが再婚となれば、話は別です。しかも相手が悪すぎた。かつて大英帝国が植民地にしていたエジプト出身で、しかもイスラム教徒。それに、得体の知らないお金持ちで、英国王室御用足のデパートや伝統のあるホテルまでその金に明かせて、買収した人の子弟だというんですから。これには、どんなに寛容なわが国民も王室も堪忍袋の緒が切れた。またそういう人物を相手にしたのは、元妃殿下の王室に対する、当てつけでもあるんです。王室はそう見ていた。ところが、これが、元妃の底知れない賢さでもあるんですが、元妃殿下はこうなるのを予想していた節がある。どうにかして、王室の束縛から逃れたかった元妃殿下は、新しい交際相手を婚約者に仕立てることで、これまでのしがらみを切り捨て、本当の自由を手に入れる手段にしたのです」  「それは、君の考えか」  「いや、客観的にみてそうだったといえるでしょう。なぜって、元妃は、今でも生きていて、どこかで、自由を得ているからです。マスコミにも追いかけられずに、気儘な生活を送れる理想的な後半生を彼女は手に入れた。間違いなく、彼女はこの地球上に生きているんですから」  「どこだね」  「知りません。あなたが知りたいのなら、自分で探せばいいでしょう」  事故の背景はこれで、大体、理解できた。あの事故は仕組まれていたのだ。たぶん、イギリスのスパイ達が王室と政府の密命を受けて仕組んだのだ。突然の運転手指名とそれまでに使っていた車と違う車での移動は、彼らの作為だったのだ。そういえば、車は直前に修理に出されていた。そこで、何らかの工作が行われた疑いが濃い。そして、酔った運転手にあの道を走らせ、事故を起こした。そこまでは理解できた。しかし、なお疑問は残る。現場で重傷を負っていた元妃が、ダミーだったとして、一緒に乗っていたアリファイトの息子は気がつかなかったのか。事故がどうして、そう都合よくあの場所で起きたかだ。人為的に起こせるのだろうか。  「婚約者の息子はこのことを知っていたのか」  岩田はその点を尋ねた。  「もちろんですよ。了解済みです」  「だって、死んだんだろう。死ぬのを知っていたのか」  「死んじゃいません。あれもダミーです。なんていっても現場を見た人はいないんですから。死が確認されたのは、救急隊員によってですが、彼らも公務員ですよ。お分かりになりますね」  「でも、パパラッチが、見ていた」  「彼らは金が目的です。それに、われわれの工作員も含まれている」  「そういうことか」  岩田はやや腑に落ちるた思いがしたが、二人もダミーを用意したのかと考えると、彼らがこの作戦に掛けた決意の程がしのばれた。  「そこまで、話して頂いて、私は墓を暴くのはやめにしようという気になった。だが、新たな興味も湧いた。二人ものダミーをどうして用意できたのか。二人はいまどこでどうしているのか、という関心だ。それに付いては、いかがかね」  「ダミーを用意したのは、われわれではない。もっと高度の判断で、だれかが用意したんだ。それと、二人がどこにいるかは、知らないと言ったでしょう」  話は大体終わった。幾つかの疑問は残っているが、秘密は明かされたのだ。最後に、こちらから、借りを返さないといけない。  「私がアレクセーの事件のあと、パリに行ったのは、アレクセーの現場に元妃の写真が残されていたからですよ。何かの糸口になると思ったんです。そして、次には、パリのパパラッチの親方の事務所で、ピラミッドの写真を見つけた。それに誘われて、エジプトに行き、あのテロ事件に遭遇したというわけです。その犯人らが身につけていたものの中に、私たちとあの事件で犠牲になった金融関係者と象形文字が書かれた小さな筒状の小物があった。こうして、これらの事件は繋がってい。そして、最初の事件と元妃の事故は、どうやら、ダミーということで関連している」  「ははん、そうか。二つの事件の裏に、クローンの問題があるというわけだね」  刑事が声を上げた。  「だが、元妃の事故は、彼らが仕組み、アレクセーは、あのテロリストの女がやたったんだ。二つの犯人に関連性はない」  「だから、裏に何かがあるんです。それを解明しないと、真相は分からない」  「それを、君はやるつもりなんだろう」  モーガンの声が引きつって聞こえた。  「まあね。ですが、あなた方の協力はいりません。あなた方の役目は終わったんです」  「いや、そうはいかん。全体に関連性があり、裏に何かがあるとしたら、解明するのがわれわれだ」  「いいでしょう。ですが、一つお願いがあります」  岩田は、モーガンの、耳元で、何事か呟いた。モーガンの顔色が紅潮したが、最後は頷いた。  「では、そういう条件で。私は、これから、大英博物館に行って、あの象形文字を解読してもらわないといけない。この辺で失礼したい」  この申し出を刑事も納得した。話はほとんど終わっていたし、彼らに二人を引き止める理由はなかった。ただ、最後に岩田が頼んだことで、モーガンには、もう一度会わなければいけないだろう。  「何を言っていたの。ひそひそと」  背の高いロンドンタクシーの後部座席でエイコが、聞いた。  「君へのプレゼントさ。楽しみにしていてくれたまえ」  石畳をタイヤが噛む音がして、タクシーが止まった。車を降りた岩田は正門から、受け付けにいき、事情を話すと、裏の研究室棟に案内された。  [オリエント文明研究室エジプト係]  の看板が掲げられた部屋で、岩田が会ったのは、面長の顔に長い顎髭を生やし、度の強い眼鏡を掛けた中年の男だった。  「考古学博士のジョナサン・エドワードです」  と名乗った、その男は、岩田が持っていった象形文字が掘られた小物を見せると、  「ああ、これは、印章ですね」  と即座に言った。  「ほら、筒状になっているでしょう。その側面に文字が刻まれている。この面を粘土板に押しつけて転がすと、文字が転写される。そしてその文書を認証したり、公的な布告に根拠を与えていたのです。主にファラオ(王家)が使っていたんですが、後の時代には広く一般的な公務に使われるようになりました」  「なんて、書いてあるんでしょう」  エイコが聞いた。  「そうですね。では、インクを付けて、印刷してみましょう」  エドワードは、柔らかい布を下地にして、印鑑にインディゴのインクを付けてから、静かに転がした。濃いインクの色が、布に転写されて、細かい陰影が浮かび上がった。  それを五回ほど繰り返すと、徐々に鮮明な印字となって、五枚の横長の文字列が、残った。エドワードは、分厚い眼鏡に天眼鏡のような大きな丸いレンズの付いた用具を当てて、文字列を見ていった。  「分かりました。これは、太陽と鷹と葦船と人と魚と豆とビールとニンニクを現す象形文字が並んでいますね」  「そうですか」  岩田とエイコは覗き込んだが、小さくて良くわからない。天眼鏡をかりて、見てみたが、それでも、判読は難しい。やはり、専門家にはかなわないのだ。  「意味は、まあ、王の物は民に、民の物は民に、とでもいうことでしょうかね」  これは、期待外れの回答だった。もっと、犯行の背景に迫れる内容かと期待していたのだ。読まない文字や分からないことには、その持っていること以上の意味内容を期待しがちだが、分かってみれば、大したことがないということになりがちだ。これもその一つであるらしい。ただ、あのテロリストがこれを持っていたのには、意味がありそうだ。古代遺跡の埋蔵物を発掘して、持ち帰った旧帝国主義の国々を批判しているとも読めるし、貧富の格差が激しいあの国の現状と政治を非難しているとも思える。宝物の多くを略奪して持ちかえった総本山のようなこの国のその宝物を一堂に展示しているこの博物館で、死んだテロリストが持っていた遺品を解読してもらっているのが、因縁じみていた。  「それから、これは、おかしいのですが、最後に、『アラーの神に誓って』とあるんです。象形文字でこう書いてあるのは珍しい。古代エジプトは、太陽神を中心した多神教ですからね」  博士は、首を傾げていた。  「ですが、最近は紛い物が多いですから」  それは、百も承知のことである。一介のテロリストが、考古学的に価値のある作品を持っているはずがない。  それ以上は、分からないと知って、二人は巨大な石造りの建物を後にした。  岩田にはこれで、さしあたって次の目標は、なくなった。だが、エイコには、帰らなければならない家がある。それなのに、帰ろうとする様子が感じられない。  「そろそろ、帰らなければならないだろう」  最後にと立ち寄ったヴィクトリア駅近くのパブで、岩田がそう言うとエイコは、  「そうね、そろそろね。でも、私、この一連の事件を最後まで見届けたいわ。だから、本当は、帰りたくない」  「でも、三矢に電話ぐらいしたらどうだい」  「いや、電話したら、彼は帰って来いと言うに決まっているわ。それに、怖いのよ。こんなに長く家を空けて、叱られるに決まっているでしょう」  「そういえば、俺もずっと連絡をしていない。本社はかんかんだろうな」  「いいわよ。連絡すれば、必ず帰ってこいというに決まっているのは、あなたも私も同じね。あなたは、帰りたくないんでしょう。それなら、連絡なんてしないほうがいいわ」  「そうしたいが、それでは、おれは首になる。事件の追跡を諦めるか、首になるかの選択だな」  「私は、別れるか、戻るかの選択だわ」  エイコは、久し振りに飲んだ強いスコッチの影響か顔が赤らんでいた。岩田も体の芯がほてってきていた。  「私、帰りたくないわ」  「おれも、帰りたくない」  そう言ったあと、  「それなら、決まった」  と一緒に叫んでいた。  「君がそう言うと思って、手を打っておいた」  「ああ、モーガンへの耳打ちね」  「そう、彼は申し出を受け入れたよ」  「なんて」  「君は死んだことになる」  「ええ」  「あの列車から、転落して死んだんだ。ウイーンの警察が、死亡確認書を出すんだ」  「じゃあ、私はどうなるの」  「岩田エイコだ」  岩田はさりげなく言った。  「そのパスポートを明日モーガンが持ってくる。そして、俺と一緒にアムステルダムに行く。危険な仕事だ。命の保証はない。それでもいいかい」  答が分かっているのに、岩田は聞いた。  エイコはただ頷いて、グラスの中の琥珀色の液体を見つめた。パブに女の客は珍しい。昔は女性禁制だったこともある。だが、エイコは、男たちの間で浮いてはいなかった、男たちはその存在を受け入れ、店の雰囲気にしっりと馴染んでいたのだ。  「今晩は、近くのB&B(朝食付きの安宿)にでも泊まろうか」  「あなたの良いようにして。でも、ベッドは一つでいいわ」  エイコは、満足そうに頷いて、岩田の目を真っ直ぐに見据えた。  ヴィクトリア駅の西沿いに軒を連ねているB&Bは、格安な料金と家族的サービスで、庶民の最適な宿になっている。もとは、ロンドンに出てきたお上りさん用の安宿だったが、近年外国人客が多くなって、部屋もサービスも格段に向上した、売り物は、それぞれの家で手作りしたパンやケーキが付いた朝の食事だ。イギリス伝統の熱い紅茶と手作りパンだけで、人々は十分に支払った宿泊代金の元を取ったと、考えるだろう。それほどに、こういう宿の朝食は心地よい。  岩田とエイコは、前夜の愛の饗宴の疲れから、ぐっすりと眠り、バスルームで一緒にシャワーをひと浴びして、目を覚醒させ、外出着に着替えて、一階の食堂に降りていった。  これほどに、激しく愛を交わしたのは、ただ恐れからだった。一端は、エイコを三矢の元へ帰そうと決意した岩田だったが、事情が急変して、身分を隠して一緒にオランダに行くことになってから、その不安は切実なものになった。  (もしかして、アムステルダムで俺の一生は終わりになるかもしれない)  という恐れだ。その時は当然、エイコも一緒のはずだ。エイコにもその感覚はあった。岩田と一緒になれれば死んでもいい、という気持ちはこの旅行の間中あったが、それは、空想上のことで、それほど現実感はなかった。それが、身分まで隠して、夫に秘密にして、秘密調査官のような任務を果たすことを強いられたことで、死の不安が現実感を伴って迫ってきた。だから、二人は互いの温もりを貪る必要があったのだった。  そういう、高まりを一時的に抑えるのに、朝の暖かいミルクティーと手作りパンの朝食は役立った。出された殆どの食事を平らげた時、岩田が立って、電話をした。  「モーガンさん。できましたか」  相手はモーガンだ。  「できているよ。旅券を紛失したときに発行される仮旅券だが、ちゃんと日本政府の証印もある。正規のものだ。名前は変えている。君の新しい名前は、宝田峰緒だ。たまたま手元にあったそういう名の人の旅券を使ったからだ。エイコさんは、その妻で幸緒といい名になっている。この国で行方不明になって、変死体で見つかった死んだ夫婦の名前だ。この旅券は、ヴィクトリア駅の脇にある長距離バスのターミナルに届けさせる。ユーロトラックのオランダ行き15番ポストの待合室に、十時だ。男の二人組が行く。君はそのコンビを見ても驚いてはいけない。すでに顔見知りの人物だからね。特徴はそうだな、映画の『ホーム・アローン』の間抜けな泥棒二人組と言ったらいいのか、あるいは、『ツインズ』のシュワルツェネッガーと小太りの兄の二人組かな。とにかくノッポと太ったチビの二人組だ。同じ革のジャンパーと薄汚れたジーンズを履いているから、すぐ分かる。なるべく多くの話はしないで、旅券だけを受け取ってくれ。彼らが君達の護衛役も兼ねているが、あまり、意識しないでいい。同じバスの乗っていくが、無視していいよ。エイコさんには言わないでくれ」  それだけを早口で言うと、すぐに電話を切った。岩田は、ただ聞いてきた。だが、段取りは理解した。今、午前九時半だ。十時までには、十分に時間はある。  部屋に戻った二人は、チェックアウトの準備をして、快適だった旅館を後にした。ヴィクトリア駅の脇のバスターミナルは、すぐに分かった。列車の古い駅舎と違って、近代的な建物だ。その中のカウンターに行って、十一時十五分発のハーグ行きを予約した。ハーグからは、近郊電車でアムステルダムに向かうのだ。  待合室のコーヒーショップでコーヒーを飲んでいると、十時少し前に、小太りの男が岩田の前に来て、  「モーガンの命令で来た。これが、あんたたちの旅券だよ」  と小型の紙袋を渡した。その顔には確かに、見覚えがあった。忘れもしない、パリであったパパラッチの親方ではないか。確かに髪形が変わっているし、眼鏡も掛けていなかったが、眼鏡を外し、黒々とした髪の毛を取り除けば、あの時の親方の顔だ。  「驚いた顔をしないでくれ。あんたとは、二度目だということは認めるよ。理由は自分で考えな。ではこれを」  といって、小型のスイッチボックスを手渡して、その場を離れて、座席予約の列に並んだ。チョックインのカウンターだ。渡された黒いプラスチックの物体には、赤いボタンが付いていて、「エマージェンシー」の文字が見えた。緊急用の連絡スイッチのようだ。そのとき、壁の後ろから長身の男が出てきて、親方の後ろに影のように寄り添った。あの時のバイクの青年だった。今は顎髭を伸ばし放題にしているが、背恰好や足の長さから、カフェで会ったカメラを肩にした若いカメラマンに違いない。  二人は、コンビだったのだ。いや、パリの時もコンビには違いないが、敵対する二人組だと思っていた。事実二人はモンマルトルの事務所で、拳銃を撃ち合って死んだはずだ。それが、こうして、元気な姿を見せている。  岩田の頭のなかを、推理の論理が巡りはじめた。手にした紙コップのコーヒーを一口啜るごとに、論理の輪が繋がりはじめた。エイコは、そんなことも知らずに、うまそうに黒い液体を啜っていた。  それは、こういうことだろう。彼ら二人は英国情報部員だったのだ。あの元妃の事故が政府機関によって仕組まれたものだとしたら、彼らもあの事故の仕掛けに係わっていたのだろう。モーガンは「パパラッチにも、われわれの仲間がいた」と認めている。あのデカ、チビコンビもその一員だったのだ。そういう相手に、岩田は接触して、真相を知ろうとした。新聞記者に事実を知られたら、大事だ。彼らはそのための対策もしっかり、立てていたのだ。「石橋を叩いても渡らないのが、われわれですよ」とモーガンは、胸を張って言っていた。二重の安全装置を仕組んでいたのだ。そして、われわれをあの事務所に導いて、一芝居打った。それも、拳銃の撃ち合いという過激な方法で。ほうほうの体で逃げだしたわれわれを見て、彼らは喝采したに違いない。  (やつらはただものではない。まんまと一杯食わされた)  間抜けそうな二人組に見える彼らは、腕利きの情報工作員なのだろう。  これで、その後にあの事務所を訪れたときにもぬけの殻だったのが理解できる。作戦を終えて、撤収したのだ。だが、あの空き家に落ちていたピラミッドを背景にしたテロリストの写真は何だろうか。その疑問は、以上の推論が正しかったとしても、なお解けない。  彼らが次の目標をあのルクソールでのテロ行為に置いていたとは考えられない。女王陛下の工作員があのような大量虐殺に手を染めることは考えられないからだ。それでは、阻止に動いていたのか、というとそれも確証がない。阻止に動いて失敗するということも彼らの腕からは考えられないのだ。ただ、情報を探っていたということは、おおいに考えられる。そのための接触があのテロリストの背後にある何者かとあの場所で行われたと考えるのは自然だ。あの狭い部屋で、陰謀が交錯したのは間違いないだろう。  こうして、写真は少しずつ、関連性を示しはじめた。ダイアナ元妃の写真がアレクセーの部屋にあったのは、事故死の真実を示唆したし、テロリストの写真はあの惨事を予見していた。そこには、ある意思の存在が感じられる。偶然ではないのだ。なにかの黒い意思が、一連の事件を貫いている。その真相は、アムステルダムで、氷解するだろう。  恐れを抱えながら、大きな期待感を持って岩田は、長距離バスの客となった。エイコは、バスがドーバーに着くころには、岩田の肩を枕に、心地よさそうないびきをかいていた。岩田は長い時間を、バスターミナルのスタンドで買った新聞を読んだりして過ごした。大きな写真が目立つタブロイド紙を二紙買ったが、岩田の目を引いたのは、スイスで行われたエジプトのテロの犠牲者の合同葬儀をとベルギー国境で頻発している少女の蒸発事件だった。あのテロでスイス人は五十人以上が犠牲になった。柩が並べられている写真が、痛々しく、その現場に居合わせて、九死に一生を得た岩田には実感を持って感じられた。その記事の下には、「エジプトの捜査当局は、反対生運動の活動家の計画的犯行と見て、組織の解明に当たっている」という短い記事があった。現政権は、この事件を反体制過激派の仕業とみているようだ。  ベルギーの少女たちの失踪事件は、奇怪な事件だ。多くは、国道沿いで客を待つプロの女性たちだったが、普通の家庭の少女たちもいるらしい。姿を消したまま、行く方が、分からなくなった少女は、ここ二年で二十人以上に上っているというのだ。何かの組織の計画的な犯行なのは間違いないようだ。  アムステルダムは、曇天の日が多い。一日中、灰色の雲が垂れ込めて、憂鬱な空気が街を覆っている。東京駅が見習ったという中央駅の駅舎が、赤い煉瓦で作られたのも、そういうこの街の気分に大いに関係がある。灰色の雲の下でも赤は、死なない。一点の明るさを発して、幾分か、人々の情感を刺激するのだ。旅人が街に歩きはじめる駅舎にあの沈み込むような赤を使ったのは正解だった。  駅前のバスターミナルで降りた岩田たちは、マリア老人が書いてくれたメモの住所を頼りに、その場所を探さなければならなかった。だが、住所は正確だった。タクシーの運転手にそのメモを示すと、運転手はすぐに車を発車させた。すぐ後ろを、デカ、チビコンビを乗せたタクシーが、付けてきた。  タクシーは沢山の橋を上り下りして、北に向かい、狭い運河に掛かった小さな橋の前の交差路で止まった。降り立つと、標識が立っていて、左の道を示していた。下に、「アンネ・フランクの家」という横文字が書いている。あの「アンネの日記」の著者がナチスの迫害を逃れて隠れ住んだ家が、今は公開されているのだ。だが、メモの住所はその道の反対側の道を行ったところにあるようだ。運転手が、その方向を指差してから、英語で  「サンキュウー」  と言って、帰っていた。  岩田はエイコの手を取って、そちらの道に歩きだした。エイコの手は冷たかった。それが、岩田のポケットの中で徐々に暖かくなっていくのが、心地よかった。  十分程歩くと、メモの住所の所に来た。間口は狭いが、階段の奥には部厚い一枚板の扉があって、腰の辺りに金色の把手が輝いていた。岩田がノブを回すと、扉は簡単に中に開いた。だが、その奥に今度は、鉄の柵扉が控えていた。鉄格子を透かして、中庭が見通せた。中央部に石造りの噴水を配したローマ庭園風の庭が広がっている。その両側は、庭を囲むように三階造りの部屋になっているようだ。  鉄柵の脇にインターホンが付いていた。岩田はそのボタンを押した。年寄りの男の声がした。  「ウィーンの銀行から所要があって参りました」  このくらいの嘘は方便だ、岩田が英語で言うと、  「ちょいとお待ちを。いま開けましたから」  という英語の返事があって、鉄の扉が自動的に開いた。岩田はエイコの手を握ったまま、中に踏み入った。左右に回廊が長く続いている。どっちに行こうかと迷っていると、天井の監視カメラが回転し、どこからか、  「右手の事務室に」  と先程の声が、聞こえた。  右手に照明が明るい部屋があった。中を覗くと禿げ上がった中年男が顔を出し、  「ご主人様は、応接室に通されるようにと、言っておられます。こちらへ」  と案内に立った。  階段が奥にあり、それを昇ると二階に出た。中庭を左に見ながら、廊下を一番奥に進んでいく。建物の最奥部に向かっていくと、突き当たりに高い木製の扉があり、男が押し開くと、広い部屋が見えた。ロココ風の家具が並んでいて、高い壁には何枚もの油絵が掛かっていた。いずれも暗い色調の絵だ。岩田は、レンブラントらフランドル派の画家の絵だとすぐに理解した。だてに、事業部で絵画展覧会の企画を担当しているわけではない。このくらいの素養はあるのだ。    屋敷の外の道では、デカ、チビコンビの二人が、無線機を片手に、どこかに連絡を取っていた。  「鳩の番いが、小屋に入りました。小屋には鍵が掛かっていて、入れません。鳩の様子が掴めません。小屋の前で待機します」  小太りの男がそういうと、交信相手から何かの指示があったようだ。男は  「了解」  と言って、無線機をポケットに入れ、ノッポの男を促して、建物の裏に回るために、歩きだした。二人が行き着いた通りを見下ろす場所に、その応接室があった。この家の主の登場を待っている岩田とエイコは、部屋中に溢れているロココ調の家具や美術品を見ているだけで、時間が潰れた。美術館の一室で、ゆっくりと鑑賞している気分なのだ。だが、飲み物や菓子の接待はない。ただ、応接椅子に座って、部屋の中を眺めているだけだ。そろそろ、部屋の鑑賞にも飽きたころ、奥の小さなドアーが開いて、鼻髭を丁寧に口の下で両側分けた丸顔の男が、現れた。仕立ての良さそうな体にぴったりとした背広に身を包んでいたが、身長が異常に低かった。中学生くらいの背の高さだが、年齢は六十代の高齢に見える。  「やあ、やって来ましたね。君達。たどり着いたんですな。この家に」  老人は、握手ももどかしそうに、一人椅子に座りがけに、言った。  「君達のことは、報告を受けていましたよ。変な東洋人のカップルが、うろついているというんですよ。予期せぬ闖入者現る、というところですな。部下たちは、とうとう始末できずに、あなた方は、ここに来てしまった」  「始末か。始末されそうにはなったよ。運が良かった。この連れの女性は、その点しぶといのでね」  岩田が落ちついた声でいった。  「折角だから、君達を歓迎しよう」  小柄な男は、手を叩いて、控えの間からメードを呼んだ。そして、なにかを言いつけると、  「そうだ、まだ、名前を名乗っていなかったね。といっても、マリア執事が書いたメモには名前もあるはずだが」  「ええ。銀行の取引口座には、ムハネド・アリファイトとありましたが」  「それでいいよ。アルと皆は呼んでくれる。タカラダくん、いや、イワタさん」  「それなら、話は早い。時間はないのだから、核心をお聞きしますよ」  そのとき、先程のメードが、ワゴンに乗せて飲食物を運んできた。  「なにが、お好みかな。ワイン、スコッチ、シャンパン、ウオッカ、テキーラ、ラム。、それとも、カクテルかな。ああ、あなたがたは日本人だ。日本酒もありますよ」  「いいんだ。まず、私の質問に答えてくれ」  「まあ、そう急がずに。一杯飲んでから、ゆっくりと話をしましょう。そちらのご婦人は、いかがですか、何をお望みか」  エイコは、既に決めていたように、言った。  「酒は『越の寒梅』で、肴は炙ったイカでいいわ」  自信満々に、世界中の酒を並べていたアルの顔が曇った。豪華な美術品と不足のない飲み物や食べ物に溢れているだろう、彼の暮らしの中に、いまエイコが、上げた物は、間違いなくないのだ。だが、アルは、赤ら顔に脂汗を浮かべながら、  「いま、ここには、ないが、ご用意いたしましょう。ちょっと、時間を下さい」  と愛想よく答えたのだ。  そのあとは、気まずい沈黙が支配したが、それは、岩田らが主導権を握った証拠だった。  「さあ、教えて貰いましょうか。アレクセー一家をなぜ、殺し、ダイアナ元妃をどこに匿っているのか。なぜ、マンデルらをテロで殺害し、罪を反体制運動家になすり付けようとしたのか」  アルは、考え込んでから、  「どうして、私がそれらの事件に関係している、といえるのです。証拠はあるのですか」  「ああ、あるよ。押しも押されもしない確固とした証拠がある」  岩田はきっぱりと言った。それにエイコは驚いた。それほどまでに言い切るほどの証拠を、彼が握っているとは思えないのだ。 その勢いに押されたのか、アルは、  「アレスセーは、吝嗇だった。それが、彼を死に追いやった。元妃殿下は生きているのは確かだが、どこにいるかはいらない。私らは少し、お手伝いさせて貰っただけでね。マンデルは、仕事の上のトラブルだった。それだけだね、君が聞きたいのは」  「まあな」  「君が握っているという証拠がどんな物かは知らないが、ここまでやって来たのは、確信があってのことだろう。だから、知りたいことは何でも教えてやろう。ただし、ここだけの話だ。公にしてはいけない。その約束は守れるか」  今度は、岩田が決断を迫られた。こういう場合、普通の対応の仕方は、  「話の中身による。話を聞かなくては判断できない」  という常套句を返すことである。だが、今の場合、それを言ったら話は止まってしまうのが明らかだ。岩田は頭のなかで、素早く計算していた、そして、  「いいでしょう。ここだけの話にします」  と約束した。  「君は、日本の新聞記者だというではないか。そんな約束をしていいのかね」  それは、きつい言い方だった。岩田が今決断したことの中身は、重要なのは事実だが、岩田の心は、記事にすることより、事実を知りたいという欲望のほうが、強く占めていたのだ。こんなことは、これまでになかった。人に会うのは、常に記事にするのが前提になっていた。書くという建前を前提にして、多くの重要人物に会い、相手もそれを承知して発言する。そういうことの繰り返しをして、この年齢になっていた。こちらは、相手が自分自身の個人を認めて、会ってくれているという幻想を抱くが、多くは、新聞社に会っているという気持ちなのだ。だから、名刺を楯に人に会っても、本当の事を言っているのか、聞いているのかという、欲求不満が付きまとった。個人と個人の真実の心の交流ではない、人との付き合いが多かった。  だが、今や、書くという束縛から解き放たれてしまえば、真実は語られるという条件が示されたのだ。しかも、この組織犯罪の首謀者がそういっている。いままでの岩田なら、そのような条件は即座に跳ねのけていたはずだ。だが、今は違う。モーガンが、偽造パスポートを持たせてくれたのも、心理的背景になっているのかもしれない。岩田は、もう、記者としての自分に別れを告げる気になっていた。エイコという掛けがいのない理解者がいることは、幸せだった。これ以上の条件はないではないか。  「いいですよ。書かないという約束は守ります。その代わり、本当の事を言ってください」  海千山千を経験してきたとみられるこのアラブ人が、そういう意気に感じるかどうかは分からない。だが、彼もそういう条件を出して来たからには、話したいのだ、という感触もあった。この男もなにか、魂の浄化といったようなものを求めているのかもしれない。  「私は、貧困のなかからはい上がってきました。それが、私の人生だった。あの貧困の場所にだけは戻らないように、あらゆることをしてきました。本当にあらゆることを」  彼のなまった英語が、淀んで聞き取りにくい。  「金さえあれば、世の中の殆どのことは思いのままになる、というのが、私の人生訓でした。だが、アラーの教えは、そういう事を言ってはいなかった。ここ数日、私はモスクに籠もって、コーランを唱えていました。それで、やっと分かったのです」  そういえば、この建物の屋上は、丸屋根になっていた。あれが、モスクに使われているに違いない。  「あなたがたも行かれたと思うが、カイロの裏街の狭い路地が、私の子供のころの遊び場でした。学校にもろくに行かずに、今でもあの地区の子供たちがしているように、靴磨きや屑広いで家計を助けていました」  アルは、一代記を語りはじめた。この広い屋敷に家族はいないのだろうか。孤独な老人の繰り言のように聞こえる。  「アレクセー一家を謀殺した犯人は、ロンドン警視庁の捜査とウィーン警察の協力で解明されました。だが、あの女テロリストには、動機がない。もともと、殺し屋に動機があるわけがないが、雇われたのだとしたら、誰が雇ったかが、問題です。それが、朧気に分かったのは、私たちがウィーンに向かう列車の中で襲われたためですよ。その目的に関連したことが、理由に違いないと、私は考えました。マンデルが襲われたこととの関連性がある。全てがあの襲撃で繋がったんです。銀行で聞くと、その輪の中心にあなたが浮上したと言うわけです」  岩田は、物証は示さなかったが、状況証拠を並べてみた。  「マリア老人も、主人があんな目に会って、守秘義務を忘れたのだろう。そう、わしはマンデル兄弟に恨まれていた。いや、むしろ彼らのやり方に反感を抱いていた。金融家と顧客との優良な関係を維持するのは難しいものです。まして,アラブ的な商売の仕方は、ユダヤ人の悪どい功利的利益追求主義とは相いれない。やつらは、同じイスラムの投資家に、対立感情を募らさせて、有利な融資を仕上げるというやり方までするんですからな」  アリファイトは、苦々しげに呟いた。  「あの、フルネイの王族ですかね、あなたの、新しいライバルは」  「まあ、そんなところだ。だが、和解したよ。彼らもわれわれの領域には踏み込まない、と約束した、いや、踏み込めないと判断したんだろう。だから、もう敵ではないのだ」  「マンデルをテロのターゲットにしたとき、われわれ二人も標的になっていたんでしょう」  「それは、知らん。あの女が請け負っていたことだ。あいつは、本当のプロだった。手口は鮮やかで、確実な仕事をした、それで、われわれは、契約したんだ。アレクセエー一家の処置は見事だったんだが」  先程、メードが用意していったオランダ製のビールを口に運びながら、アリは、窓際に行き、回想を始めた。  「アレクセーがなぜ、殺されたかって。それは、彼が信義を重んじなかったからだよ。われわれの事業は彼の研究が発端だったが、彼はより多くの分け前を求めてきた。そのための強迫の材料にしたのが、われわれの秘密を世界に公表するということだった。君を通じて、秘密を流そうとしていたんだよ」  「秘密というのは、有名人のダミーを製造するという君らの事業のことかね」  「そうだね。私がカイロの貧民窟から、抜け出すことが出来たのは、貿易業を始めてからだ。あらゆる物の流通を扱った。その中には、兵器もある。アラブ、イスラエルの反目が終わらない中東では、この商売は儲かった。それに、ソ連の崩壊で多量のソ連製の武器が裏市場に出回って、旧ソ連の紛争地域やボスニアなどの東欧の内戦地域、さらに、カンボジアやミャンマーからまで、世界中から引き合いが来て、儲かった。武器を流すだけで、巨額な金が入ってくる。これほど、われわれのアラブ人の商売に向いている仕事はないと思ったよ。そうして商売が広がるにつれ、各国の政治家や指導者との付き合いが広がった。資金も必要になって、スイスの銀行との付き合いもできた。マンデルは、最大の出資者になっていた」  アリは、また、グラスから一口、ビールを啜った。  「そういう取引関係から、アレクセーの研究を知るのには、そう時間は掛からなかったよ。彼はカスピ海沿岸地区の軍の研究所で海豚を使った潜水艦攻撃の研究をしていた。訓練した優秀な海豚を沢山飼育するためと才能が一定の海豚を多数確保するために、クローン海豚の研究もしていたのだ。軍事活動には統一された資質が重要だ。命令をもとに一糸乱れぬ行動を取らせるには、性質が同じクローン海豚が最適だというのが、彼の結論だった」  「哺乳類のクローンなら、人にも応用もできるだろうな」  岩田が口を挟んだ。  「それだよ。それは、だれも考えるが、倫理面から、実行に移す者はいなかった。だがね、この世界にはそれを切望している人が存在している」  「不妊症の夫婦とか、死にたくない富豪とかだな」  「それと、死を恐れる独裁政治家だ」  「そういう体制は崩壊しつつあるよ」  「だが、われわれにそういう兵器を入手出来ないかと相談してくる革命家や独裁者はいるんだ」  「北朝鮮や中国のカリスマ的な独裁者か、それとも、チャウセスクのような輩かな」  「いいことを言ったね。そうだ、あのチャウセスク夫婦の悲劇を見てから、その相談が増えたんだよ」  「そして、希望を叶えてやったというわけか」  「それには、アレクセーの研究は不可欠だった。イギリスに留学して、最先端の遺伝子操作技術も身につけていたし、彼は軍事研究の縮小で立場も危うかった。話に応じて、クローン造りに取りかかってくれた」  「私が会ったロシアのエミチャン大統領もそれかね」  「いや、違うな。研究を始めて、すぐに分かったんだが、年寄りのクローンは作れないんだよ」  「そうか、クローンは、コピーとはいえ、誕生には違いないからね。新生児でしか作れないというのか」  「細胞分裂のスピードをコントロールできないかぎり、年寄りは無理なんだ」 「じゃあ、計画倒れじゃないか。アレクセーの研究は生かされなかったわけだ」  「だが、われわれは、既に注文を受けていた」  「どこからだね」  「確かにロシアもある。だが、価格が安くて、採算に会わない。そのとき、驚くべき申し出が、英国からもたらされた。ダイアナ皇太子妃殿下のダミーを調達してくれという話だ。あの国は、人形が好きなんだな。ロンドンの蝋人形館に行くと、あの国の人達が、いかに精巧な人形を好むかが良くわかる。条件は最高だった。私はそれが機密の仕事なのに付け入って見た。ロンドンでの営業の許可と、有名百貨店への経営参加、ホテルの買収などが条件だった。保守党政権は承諾したよ。元妃殿下の行状に頭を抱えていた王室の意向があったんだろう」  「それで、ダミーを作ったのか」  「ああ、だが、既にダミーは一人いた。それが、余りに似ていないので、より良く似たクローンを、というのが要望だったんだ。だが、年の行ったクローンは、作れない」  「どうした」  「古典的手法だよ。ハリウッドに助けを求めた」  「そっくりさんか」  「それもあるが、必要だったのは、精巧なメーキャップ技術だ」  その一言で、岩田は納得した。あのハリウッドの「そっくりさんプロダクション」の経営者が、度々、欧州に出張していたことや、資金がどこからか供給されて、経営が維持されていたかが理解できた。  「わたしがホワイト・ハウスで出くわしたダイアナの影武者があまり似ていなかったのは、その古いダミーのためなのか」  エイコが頷いていた。  「いいダミーが出来たかね」  「それは、完璧に近かった。アメリカで集めたそっくり娘に整形手術を施し、最高のメーキャップ術で仕上げたんだからね」  「いつごろ完成したんだね」  「今年の春だね。家の息子と浮名を流しはじめたころからだ」  「ドティは知っていたのか」  「息子は知らない。だが、あれでよかったんだ。あいつは跡継ぎにしたくなかった。人の上に立ち、人を使いこなせる器ではない」  「だが、一緒に死ぬとは思わなかったろう」  「あの事故は予想外だった。わたしはダミーは、提供したが、それどう使おうと、それは、依頼者の勝手なんだからね」  そこまで、話し終えたとき、メードが、エイコが無理な注文をした日本酒とスルメ皿に載せて持ってきた。  「ヤオハンでやっと手に入れたんです」  メードは調達の苦労を言ったが、アリも岩田も無視した。ただ、エイコだけが、  「嬉しいわ。無理な注文ではないでしょう」  と言って、熱くお燗されているはずの徳利を手にしたが、すぐに手放して、  「だめだ。こんな温くては。熱くなくちゃ。それに、この干物、乾燥しすぎで食べられたものじゃない」  折角の買い出しも意味がなかった。  「やはり、日本でしかあの懐かしい味は味わえないのかな」  「その通りです。どんなに似せても、偽物は本物には叶わない。それが、本物と偽物の差ですよ」  アリがまた嘆息した。  「ところが、息子は本物の価値が分からない。有頂天で、偽物と地中海でバカンスを楽しみ、パリでデート中に死んだというわけですな」  アリは窓から外を暫く見ていたが、ビールのグラスが空になったのも見て、部屋の方に視線を移した。  「あなたは、秘密を守るために凶暴な殺し屋を使って、亡命者の一家を殺害し、資産を守るために古代遺跡で観光客を巻き添えにして、殺戮したというわけですか」  「いや、計画と実行は、やつらがやったんだ。ルクソールで死んだ襲撃犯は、彼らの仲間だろう」  「そう、表向きはね。だが、その一人は小さな印章を持っていた。象形文字が掘られた小型の印章だ。これだが、見覚えがないかね」  「・・・・・・」  「それから、これは、カイロの君が育った家の近くで、土産者屋の手下の子供たちが観光客に売り付けている土産物だ。どこか違うだろう」  「・・・・・・」 「私はこれを大英博物館で解読してもらった。書いてある意味は、王の物は民に、民のものは民に、ということだという。だが、これは、古代王朝の印章にしてはおかしいじゃないか。王の物は王に、民の物も王に、というのが、その頃の体制だろう、だれかが、古代の遺物をもじって作ったものだと分かったんだ。それに、最後のアラー・アクバル、という文はイスラムのものだ。そういう言葉を標榜して活動しているのは、君が若いころ属していた反体制運動組織しかないよ。君は昔の仲間を使って、個人的な懸案の処理をしたんだろう。アラブの大義とか、正義の実現というきれいごとを言うなよ。自分のビジネスのために、かつての仲間を利用しただけじゃないか。そしてまんまと、捜査当局の目を眩ましたとほくそえんでいるだろうが、私の目は、誤魔化せない。だからこそ、こうして、のこのこと、丸腰で君の所にやって来たんだ。おれには、そういう卑怯な奴が許せない。お前のためだと言いながら、自分の私腹を肥やす奴、人間の誠実さを利用する奴、そういう奴は、許せない。マンデルは確かに、ナチスがユダヤ人や征服した国から奪った金を元手にして、財を成したのかもしれない。それなら、あんたも死の商人として裏の仕事で資産を作ったんだろう。同じ穴のムジナじゃないか」  岩田には、パリの無人になったパパラッチの事務所に落ちていた写真も、罠だという気持ちがあった。わざと落として、危険人物になった岩田らをエジプトに向かわせたのだ。それも、アリの小賢しい計画に違いない。  「パリの空き家で、罠を仕組んだな」  と岩田が迫ると、アリは、否定しなかった。  「さあ、そこまでわかったんなら、もういいだろう。そろそろ、今日の決着を付けようじゃないか。君の推測通り、アレクセーの一家殺しもマンデルへのテロも私が計画したのさ。だがな、誓って言うが、元妃の事故は、俺は知らない。それに、フルネイの王様とは話が付いたんだ。テロリストが、写真を持っていたとしても、危険はないだろう、それより、君達の方が問題だ」  アリファイトは、隅の机の引き出しから、黒光りするピストルを取り出した。そして、右手でおもむろに、引き上げると、照準を定めた。  岩田は、瞬間的に、右手をスーツのポケットに入れた。コートを脱いだとき、中の物をそこに移しておいたのだ。岩田は感触を頼りに、盛り上がっている部分を押した。  アリは、拳銃を手に、二人に向かって迫って来ていた。  「さあ、決着をつけよう。君達は、このままでは帰れないよ。全てを知ってしまったんだからね。いま話したことが明るみに出ると、私は破滅してしまう。国家と交わした秘密を守れなかったんだから。多くの悪事が暴かれるだろう。これでは、イスラムの戦いに汚点を残すことになる。ユダヤとその資本主義に対するジハード(聖戦)には、一点の曇りも許されない。この街では、年間に百人を越す、水死体が運河に浮かぶ。白人、黒人、東洋人、アラブ人と様々だ。世界に開かれた国際都市だからね。世界中の人々が自由に出入りし、勝手に動き回っている。それに、麻薬や覚醒剤の取引もおおっぴらに行われている。犯罪もおおっぴらさ。東洋人の男女が、この世界の果てに逃れてきて、拳銃心中したとしても、だれも驚かないだろうよ」  アリは、拳銃の照準を岩田に当てて、引き金を引こうとした。  「ばーん」  激しい爆裂音がして、弾丸が空を過る風切り音が、岩田とエイコの間を抜けていった。二人はかばい会うように、床に身を伏せた。二発目の爆裂音が、起きたとき、床の向こうで、  「うっ」  といううめき声が上がり、続いて、  「どさっ」  と、物が倒れる音がした。  「どかどか」 と革靴の足音が響いて、人の声がした。  「おい大丈夫か」  倒れていた岩田を抱き上げたのは、背の高い男の方だった。  岩田は、起き上がって、床に男が倒れているのを見た。後頭部から血を流し、即死の状態だった。  「間一髪でしたね。だが、狙いは正確だった」  背の低い小太りのほうが、長い銃身にサイレンサー(減音器)を付けたライフルを手にして、微笑んだ。さすがに、女王陛下のスパイの銃の腕前は、確かなようだ。  「これで、首謀者は御用ですが、われわれはまだ、仕事があるんで、失礼します。では、気をつけて」  岩田は出ていった二人の男の後を付けていった。一階の中庭には、多数の制服姿の男たちが、勢ぞろいしていた。そして、隊列を組んで、庭を取り囲むそれぞれの部屋に踏み入っていった。  しばらくすると、彼らはカラフルに着飾っているのに、暗い表情の女たちを伴って、庭に出てきた。そして、一人ずつ抱えるように、建物の外に連れ出していた。  岩田はエイコの手を取って、一階に降り、先程入ってきた正面玄関に出た。外の道路は、警察の護送車で混雑していた。後ろの荷台の方に、女たちは連れられて行き、荷台が満杯になると、トラックは出て行っていた。  「おい、この家、売春宿だったんだ」  岩田の声に、エイコは、  「違うわね。そういう類の家だったらもう少し、洒落た内装になっているわよ。それに、連れられて行った女たち、みな普段着で汚い服を着ていたじゃない」  「じゃあ、何なんだ」  「監禁されていたみたいね。ちょっと、戻ったほうがいいわよ」  エイコに促されて、岩田は二階に戻り、一部屋ずつ、ドアーを開けていった。まだ、係員が踏み込んでいない部屋が角にあった。岩田が入ると、女が二人、悲鳴を上げて、隅に身を寄せ、うずくまった。  エイコは、その部屋に踏み込んだ時に、懐かしい気持ちになった。部屋全体に漂っていた香りが、遠い記憶を思い出させたのだ。  それは、ホワイト・ハウスの晩餐会で英国皇太子妃の控室で嗅いだ上品な薔薇の香りだった。身を竦めていた女二人は、危害が加えられないと知って、顔を上げた。  その顔を見て岩田とエイコは、驚きを隠しようがなかった。女ではなかったのだ。背恰好から女と早合点したが、それは、子供だった。しかも瓜二つの。  「あら、あなたたち双子なの」  「おい、どこかで見たような顔だな」  岩田がそう呻いたとき、エイコは、  「ヴィルヘルム皇太子じゃないの。しかも、二人も」  と叫んでいた。  二人はおびえていた。岩田は、このままでは、二人は警察に連行されると考えた。逃走するしか、ないだろう。幸い、先程の応接室には、警官も踏み込んでいないらしい。子供二人を促して、付いてくるように言い、岩田は、廊下を走って、応接室に入って、鍵を閉めた。そして、バルコニーに出て、シーツを結んで作った綱を垂らして、地上に降りた。  四人は道路を疾走して、アンネの家の裏側の道に出た。その家の二階には、隠し部屋があって、アンネ一家の隠れ家に使われていたのだ。狭い部屋だが、台所からトイレまで一通りそろっていて、最低限の生活はできた。  その家を見上げながら、少年の一人は、  「僕たちは、双子なんだ。でも、両親はいない。蒸発したんだ。叔母さんの家に引き取られて育てられたんだけど、叔母さんも借金がかさんで、ぼくたちを売ったんだ」  と訴えた。  「どこにも帰るところはないんだ。だから、食事が出来て、いい服を着れて、暖かいベッドに入れたあの家は、良かった」  もう一人が、言った。  「でもね、なにか悪いことに利用されそうだったんだぞ。あんな所にいたら、いつかは殺される」  「そうかな。助かったのかな」  岩田は、この子供たちをどうすればいいのか、考えあぐねていた。  「あの芳しい香りを、感じられるのなら。しばらくは私たちが、面倒を見ましょうか」  「だが、俺には職がない」  「そんなこと、どうにでもなるわ。それより、大切なものを得たじゃない」  二人の瓜二つの子供を、真ん中に挟んで、エイコは、岩田に寄り添った。    東シナ海に浮かぶ、ボルネオ島の一角を占めているフルネイは、ブルキン国王の世襲支配の王国だ。その北西六十キロに浮かぶ、無人島に巨大な要塞が作られはじめたのは、三年程前だった。今は、城壁は完成し、波が打ち寄せる岩場の上に高く聳えている。もちろん、一般の人は入れない。時折、ヘリコプターが飛んできて、城の中にあるヘリポートに舞い降りる。海からの客もある。建築中は、大きなクレーン船や鉄の輸送船が頻繁に出入りしていた。  この九月、そのヘリポートに大型ヘリが飛んできて、着陸した。積んできたのは、ダンボール箱だった。城の中から、白衣の作業員が走り出て、大きな箱を抱えて、建物に運び込んだ。箱の一つの粘着テープが剥がれていて、中から、赤い薔薇の花が五、六本、地上に落ちた。  燦々と降り注ぐ太陽の下の陽光を受けて、輝くような花は、一気に精気を失い、萎れそうになった。それをまき散らして、ヘリコプターは離陸した。  「おい、はるばるイギリスから運んできたんだ。千本もあるんだぞ。大切に扱えよ」  作業を見ていた背の高いアラブ人風の男が叫んだ。テロリストが最後の標的にした写真の男のに似ている。  「私の愛しい薔薇の君に、やっとお望みの薔薇千本が届いたんだから」              (終わり)