『 鴛 鴦 の 契 り 』                   一    秋葉亮一は妻を愛していた。 妻、米子とは再婚である。亮一は四十六歳、米子は三十二歳。年が十四も違う嫁を娶ったことは、亮一の自慢の一つであった。米子は若く、美しかった。  Y市から車で三十分も奥羽山塊の方向に入ったその村には、十五戸程の農家が山裾に肩を寄せるように集まっていた。  米子が嫁入りした時、村の者たちは、その豪華な花嫁姿に目を見張った。米子は花嫁姿の豪華さに負けぬ美貌であった。  「こりゃ、どう見ても村一番のおなごだっぺ。よく秋葉さんとこへ、あん、めんこい娘が御座ったもんだ」 と村の衆は噂した。  「むかさり、むかさりだー」  村の古老が、村道を叫んで歩き、村の衆は家から飛び出して、馬に乗った花嫁を見た。村で、十年ぶりの嫁入りだった。  三月十六日の朝、Y市Y警察署の当直係長、丸藤一太・警部補は、その村の老駐在から、緊急連絡を受けた。  [今朝六時十五分ごろ、秋葉亮一の家から、嫁の米子が、裏の椎茸栽培ハウスで、倒れているとの通報があり、救急車の手配をしたが、既に息絶えており、変死事件と見て、本署に通報、連絡します。念の為、鑑識作業が必要と思われます] との内容だった。  丸藤警部補は、直ちに、殺人、強盗などの強行犯を担当する捜査一課と鑑識課員を現場に急行させる一方、自らも、覆面パトロールカーに乗り、捜査指揮のため、現場に向かった。  現場は、よく保存されており、平和な村落では、滅多にない変死事件に対する老駐在の並々ならぬ緊張ぶりと意気ごみを感じさせた。   ビニールハウスは、縦が十五メートル、横五メートル程の物が二棟縦に並んでおり、米子と思われる死体は、住家に近い手前のハウスの入り口近くに、横たわっていた。  掛かっていた布を取って見ると、顔は赤みがかっており、目は閉じ、髮も乱れていなかった。ただ、苦しそうな表情を残していて、手足は全身を丸め、身体をこごめる形で、体全体が防衛姿勢を取っていたのが、印象的だった。  丸藤警部補は、かがみこんで、死体の全身を調べた。硬直した右手を開いて見ると、透明な紙のような物を掴んでいるのが分かり、ピンセットで抓み上げ、鑑識課員に渡した。勿論、指紋の有無とその物が何なのかを科学的に調べるためである。貴重な物証になる可能性がある。  ひとしきり、死体を調べ終わり、横を向いてみると、丁度、右手を伸ばした辺りのビニールに穴が開いていた。半径十センチ程の大きさで、引き毟り取ったような形で、破れていた。右手には、その破片らしいビニール片が握られていた。  (断末魔の苦しみの中で、米子が毟り取ったのだろう) と、丸藤は解釈した。  ビニールハウスの内部は、椎茸を生やす丸太が、整然と並び、手前と中央部と奥のほうの三箇所に、暖を取るための石油ストーブ、それに、練炭を入れる大形の七輪が、五つ程、ばらばらな場所に置いてあった。いずれも、促成栽培のため、ハウス内の温度を上げるための設備である。  死体は、司法解剖することにした。いずれ、死因はそれではっきりする。  (それより、第一発見者の調書だ) と気付いて、丸藤は、部下が老人から、発見時の模様を聞く所に、立ち会った。  その老人は、この家の爺さんで、調書には、秋葉平次とあった。  秋葉平次は、こう言った。  「わしは、歳が歳だで、朝目覚めるのが、うちではいつも一番早い。今朝も、まだ暗いうちに、起きて、小便に行っただ。柱時計が鳴ってからだから、五時ごろだったかな。  いつもは、わしが、小便に行く頃になると、その物音で、米子が起きてくるんだが、今日に限って、用を済ませて、部屋に戻っても、台所に人が来る様子もなかった。  おかしいと思い、息子夫婦の部屋を開けて見ると、亮一だけ一人で、鼾をかいていた。揺さぶり起こして、『米子はどうした』と聞くと、亮一は寝ぼけながら、『知らねえ』と言った。いつもは、夫婦一緒に起きるのに、知らねえ訳はないとも、思ったが、早起きして、椎茸の暖房でも、調べに行ったのかも知れねえ、と外へ出て、家の周りや、裏の畑を見て回った後、ビニールハウスにいってみたら、米子が、倒れていたんだ。  びっくりして、抱き上げ、『米子、米子』と必死に呼んだが、ぐったりして、答えがなかった。もう、体もだいぶ冷たかったようだな。だが、少し温もりもあったみたいだ」  そう、爺さんは語った。  一緒に寝ていた夫の亮一の話も、聞かねばならない、と丸藤は思ったが、部下が、当然、調書を取っているだろうから、後で、纏まったものを読むことにして、死体の検視を済ませ、暑に引きあげた。 死体の状況から、練炭の七輪か石油ストーブによる「一酸化中毒死」の可能性が強かったが、それが、事故によるものか、あるいは、自殺、他殺によるものかは、まだ、不明だった。 丸藤警部補は、念のために、Y大学医学部で、司法解剖することにし、遺体を搬送させ、解剖に、自ら立ち会った。執刀した法医学の教授の所見は、 ーー 体全体に赤みが強く、血液の精密検査の結果からも、一酸化炭素による中毒が、死因と思われる。死亡推定時刻は、十六日午前三時から、一時間の間ーー。 というものだった。 丸藤は、署に帰って、部下が作成した夫の秋葉亮一の調書を読んだ。 「わたしは、事件の日の前日。三月十五日には、村の農協の会合があり、十時すぎに帰宅しました。すぐに風呂に入って、寝ましたが、米子は、わたしが、寝るとすぐにわたしの隣の布団に入ってきて、寝ました。それは、いつもと変わらない日常的なことです。そして、翌日の朝の六時半ころ、父の平次に『米子が、ビニール・ハウスで倒れている』といって、起こされ、行ってみると、そのとおりだった。抱き起こして、揺すってみたが、起きなかった。顔は紅潮しており、綺麗だった。こういう事故で、最愛の妻を失ってしまった。悔しいし、とても、残念だ」  調書は、簡潔にそれだけを記していた。  丸藤警部補は、読みおわって、調書を机の上に置くと、しばし考え込んだ。  (これらを、総合的に考えれば、事故死として、処理するのが、妥当だろう)  警部補はそう、判断し。報告書の作成に取りかかった。               二    それから、二ヵ月。Y市には、人々が待ちに待った春が訪れていた。冬のあいだ、人々と町を白一色に塗り込めていた雪が、すっかり溶け、その下から草や木々が長い眠りから寝覚め、空気が軽やかさを増していた。  そう、空気が軽くなって、人々の気持ちも、明るくなった。町行く人たちは、厚いコートを脱ぎ捨て、華やかな色彩の春の装いで、行き交いはじめた。  本当に、ホッとするように、みちのくは春になる。誰もの心が、期待に胸を膨らませて、町を歩き始めるのだ。長い眠りから人々と自然が目覚めるのが、五月だ。  連休が明けてから一週間が過ぎたその月の十三日、Y警察署の応接室で、丸藤警部補は、東北郵政局Y郵政監察局の監察官の訪問を受けていた。  最初にそのことを部下から告げられたとき、丸藤警部補は、いかつい男性の姿を思い浮かべたが、部屋に入って目にしたのは、若い細身の女性だった。  丸藤が入っていくと、その女性は長椅子から立ち上がって名刺を差し出し、  「田島と申します」  と名を名乗った。名刺には、「東北郵政監察局郵政監察官,田島紀子」という名が書いてあった。  来客の向かい側に座って、丸藤は、春の陽気が増してきた昨今の季節の変化をしばし、話題にしたあと、  「ところで、どの様なご用件ですか」  と本題に切り込んだ。  田島は、持ってきた、大きな革鞄から書類を取り出し、机の上に置いた。  「実は、三月に死亡した秋葉米子さんですが、夫の亮一さんが、昨年の秋頃から、多額の簡易生命保険を掛けているのです。これが、その書類です、われわれが、支払い請求を受けた順番にその日付けと額を記しています。まだ、請求が出ていないものも三件ほどありますが、全部で八件が支払われています」  田島は、書類を丸藤に渡して見せた。  その書類には、次のような項目が記されていた。    契約日       契約保険金額    支払日      支払い額 一  十月十日       百万円       三月三十日   九十万円    二  十月二十日      二百五十万円    四月一日   二百二十万円 三  十二月二日      三百五十万円    四月十五日  三百二十万円 四  十二月十五日     三百五十万円    四月十五日  三百二十万円 五  十二月二十五日    四百万円      四月二十五日 三百八十万円 六  一月七日       三百万円      五月六日   二百八十万円 七  一月九日       三百五十万円    五月七日   三百二十万円 八  一月十日 三百五十万円 五月八日 三百二十万円 九 二月三日 四百万円 十 二月五日 三百五十万円 十一 二月五日 四百万円  「支払いを終えたのは、どのくらいになりますか」  丸藤警部は、田島に聞いた。  「この表から計算すると、二千二百五十万円になりますね」  「なぜ、こんなに多額な保険が掛けられていたのだ」  丸藤の質問に、田島は、簡易保険のパンフレットを示しながら、  「郵便局の保険は、一般の生命保険会社の生命保険との違いを簡便性に置いています。そして、高率の保障と、簡単な支払いも売り物です。ですから、掛けるときも、複雑な手続きをとらなくてもいいようになっているのです」  丸藤は、納得できなかった。  「でも、本人の同意は必要でしょう。そんなに多額の保険を掛けるのだから、どの人に掛けるかの確認は、するのでしょう。それに、民間の生命保険の場合は、医者の検査も受けないといけないのではないですか」  田島が説明した。  「たしかに、簡易保険もそれが、建前にはなっているのですが、実際は、書類だけで済ましてしまうことが多いのです。せいぜい、本人を連れていって、この人です、と示すくらいでいい、そういう簡便性が売り物なのです。この業界も競走が激しいですからね」  田島の説明は、一応、納得できるものだった。  それより、問題は、それだけの、多額の保険が短期間に、秋葉米子に掛けられ、しかも、受取人が夫の亮一になっている点だった。  丸藤警部補は、そこに、あの変死に事件の匂いを嗅いだ。  Y警察署は、捜査一課と二課の合同の捜査会議を開き、激論の末、秋葉米子の変死事件の再捜査を決めた。                  三  再捜査の、最初の仕事は、まず、夫の秋葉亮一からの再事情聴取だった。  それに平行して、秋葉家の資産の再調査が行われた。そして、近所の人からの地取り捜査と、アリバイ捜査にも着手した。  銀行や農協などでの資産調査では、秋葉家の資産状況が洗い出された。取り引きのあるY市西部農協に捜査に行った捜査員は、貴重な土産を持ち帰った。  若い佐藤仁作巡査が、その農協の捜査を担当した。  農協に秋葉家の口座は二つあった。一つは、秋葉亮一の名義で、共済掛け金口座が一つに、ローンが一つ。もう一つは父の平次の共済掛け金口座だった。  秋葉亮一の共済掛け金口座には、残高が一千二百万円ほどあった。ローンには、八百万円の残金があった。ローンの全額は三千万円だったが、そのうち二千二百万円が、五月十日までに返済されていた。  秋葉平次の口座には、五百万円が残されていた。  佐藤巡査は、農協の融資担当者に、質問をしていた。  「この融資の目的は何なのでしょうか」  「農業近代化資金という名目ですが、それは、書類上の名目ですから、実際には何に使われたかは、こちらは、関知していません。資金の返済能力があると、融資の際に認定され、確実に期限までに返済されていれば、問題ないわけですから」  「その近代化の中身は、何ですか」  「この融資の際の審議書類によれば、椎茸栽培の為のビニール・ハウスの建築と、暖房装置などの設備費など、となっていますね」  融資の担当者は、そう説明した。  五月十日に返済された二千二百万円は、支払われた米子の保険金の総額に、極めて近似していた。  ところで、月々の返済はどうだったのだろうか。  佐参巡査はその点も質した。  「三千万円を十年返済ですから、年間に三百万です。利息は、年五%で融資していますから、その分を足すと、三百十五万円。それを月に直すと、二十六万二千五百円の返済ですね。農家にとっては、それほどきつい額ではないでしょう」  佐藤巡査はしかし、  (きついかきつくないかは、それぞれの農家の収入によるのではないか)  そう想像した。  「秋葉さんくらいの農家では、年収はどのくらいですかね」  「そうですね。椎茸栽培は、最近、こういう寒いところでも盛んになってきましたが、光熱費や暖房費がかなり掛かりますから、収入が一千万円を越えても、経費が五、六百万円掛かるとして、純利益は、四、五百万円でしょうか」  さすがに、日頃から、農家を相手にお金を扱っている担当者だけに、澱みない答えが返ってきた。  「すると、やはり、ローンを返すと、きすきすの生活になりますね」  「そうです、でも、大体は米も作っているから、その分は、収入に上乗せされますからね」  食料管理会計による米の生産で、東北の農家は、どうにかやっていけるという構図がここでも、明らかだった。秋葉家の米収入は、六百万円くらいにはなるだろうというのが、農協の見積りだった。  佐藤巡査は、こうした聞き込みの成果を、丸藤警部補に、残らず報告した。  丸藤警部補は、その報告を聞いて、  (ローンの返済額と支払われた保険金の総額が大体一致しているのは、偶然とは思えない。農家としては、普通の暮らしをしていたようだが、そんなにローンの返却を急いだのには何か訳があるのだろうか。そこいら辺りに、この事件の真相がありそうだ)  と直感した。    捜査の手順として、そうした背景の捜査と同時に、一応、もう一度話を聞くということで、秋葉平次と亮一からの事情聴取が行われた。  高齢の平次からの聴取は、捜査員が秋葉家に出向いて、行った。  担当したのは、丸藤警部補自身だった。  「爺さん、先日はえらいことだったが、そろそろ落ちついたようだな。元気かね」  警部補は気安く、爺さんに声を掛けた。  「冬の間は、持病の腰痛が出て、往生したが、やっと暖かくなってきて、大分、楽になったわ。米子が亡くなってから、孫の康子が、家事をしてくれているが、なかなか、米子のようには行かないわ。喰うものも家事も、やはり、米子がいないとな」  平次爺さんは、まだ、米子が忘れられないらしい。  「その米子の死んだ日のことだが、爺さんが、最初に死んでいるのを見つけたんだっけな」  「そうだよ、わしゃ、いつも、うちで一番早く、朝起きるんだ。といっても、それは、椎茸栽培の見回りをする日の米子を除いてだが。それは、婆さんが亡くなってから、ずっと、続いている習慣なんだず。だから、あの日も、いの一番に起きて、小便に行ったんだ。そのころになると、いつもは、米子も朝飯の用意に起きてくるんだが、その日は、姿を見せないので、不思議に思っていただ。それで、亮一と一緒に寝ている夫婦の部屋に行ってみると、米子の姿が見えない。寝ぼけ眼の亮一を起こして、一緒に探したら、ビニール・ハウスで死んでいたんだず」  「なんだ、米子は、あの日、見回りの当番だったのか」  「そうだと思うずら」  「ビニール・ハウスの見回りは、夫婦でやっていたのかい」  「そうだっぺよ。亮一と二人で、番を決めてやっていたんだず」  「それは、初耳だ。あの時、亮一は、自分だけでやっていて、あの日は、寝坊してしまった、と言っていたと思うがな」  「それは、何かの聞き違いだんべ。椎茸栽培は、俺は反対したのに、夫婦で始めたんだ。だから、二人で、やっていたんだず」  「あれだけの設備を作るのには、大分金も掛かったろうな」  「それも、亮一が、算段してきただ。わしゃ、一切、知らないよ。二人でやっていたことだから」  「知らないと言ったって、一緒に生活しているんだから、相談くらいはあったのではないかい」  「相談はされたが、わしゃ、反対したずら。米作りだけでも、手一杯なのに、新しい栽培に手を広げるのは無理だず。人手の面でも金の面でも、うちには、無理だと言ったんだず」  「じゃあ、若夫婦で、勝手に始めたようなものか」  「いや、初めは米子も乗り気じゃなかったんだ。それを亮一が説得したず」  なんとなく、椎茸栽培に乗り出す頃の、三人の気持ちが見えてきた。  丸藤警部補は、違った角度から、質問してみた。  「それなら、何故、お宅の若旦那は、椎茸栽培に乗り気だったんだ」  爺さんは、その問いに、黙り込んだ。タバコに火を付けて、一服してから、  「それは、金が欲しかったんだろう」 とだけ、きっぱり言った。  警部補は、当然、   「どうして。そんなに金が必要だったんだ」  と問い詰めた。  爺さんは、黙りこくった。  そして、  「それは、本人に聞いてくれっちぇ」  そういって、席を立ち、奥の部屋に引っ込んで、出てこなくなった。  もうこれ以上、聴取は出来ない、と警部補は、感じた。残された疑問は、爺さんの言葉どおりに、まさに、亮一本人に問いただせばいいことである。                 四  隣人や村の人々への聞き込みも再度行われた。  そのなかで、秋葉家の斜向いの農家から、注目すべき証言が寄せられた。その家の嫁は、米子と婦人クラブの付き合いで親交があり、三月初めの会合で会った際に、米子の愚痴を聞かされていた。  飯村敏子というその女性は、捜査員の聞き込みに、こう語っていた。  ーー 婦人クラブは、農村の近代化のために、農協の婦人部が提唱して、各地区に結成された婦人だけの親睦団体ですが、わたしも米子さんも、この地区では、発足当初からの会員で、年も近かったので、すぐ、友達になりました。それで、自然と、いろいろと家庭の問題や悩み事なども話す仲になったのです。米子さんは、いつもとても快活で、話好き、それに、美人だったから、会では、いつも溌剌と役目をこなしていました。それに、嫁に来たときも、噂されてたように、十四歳も年齢の違う人の所へ、自分は初婚ですが、後妻で入ったのですから、夫の亮一さんにも、大事にされているものと思っていました。  ところが、米子さんは、わたしに、こう愚痴をこぼすのです。  「夫婦って、やはりあまり、年が離れているのは、良くないのかしらね。わたしにはあの人の気持ちが分からない。最初は、わたしが幼いから世間が分からないからと遠慮していたんですが、最近はやはりおかしいのではと思うようになったの」  そう言うのです。  わたしは、なんのことを言っているのか、それだけでは、わからないから、から返事をしていたのですが、突然、  「わたし、別れたほうがいいかもしれない。このまま、結婚生活を続けていると、わたしに、悪いことが起こるような気がする。実家に帰ったほうがいいかもしれない」  と言いだしたのです。わたしは、夫婦の関係の事ですから、あまり、詳しくは聞いてみるのも、失礼だと思い、それ以上は話しませんでした。でもそのあと、ああいう事件が起きたので、何かの虫の知らせかと、その後、思うようになり、気になっていましたーー。  それは、夫婦の間に、何かが起きていたことを伺わせるに足る証言だった。    秋葉亮一に対する再度の事情聴取は、本人を警察に呼んで行われた。  調べには、丸藤警部補が当たった。  「久しぶりだが、元気のようで何よりだ」  調べ室に入った亮一に、警部補はそう声を掛けたが、亮一は無愛想に、首を振っただけだった。  「あんたに、来てもらったのは、奥さんの死んだ件で新しい事実が出てきたからだ。あんた、奥さんが死ぬ前に、短い間に、相当多額の生命保険を掛けているじゃないか。なぜなのか、それを説明してくれないか」  「そんなこと、なぜ、いまさら、説明する必要があるんだ。もう、保険金は受け取ってしまったよ。関係ないだろう」  亮一の態度は、頑なだった。  こういうかたちで、尋問を始めたら、参考人の口はますます固くなることが、目に見えていた。丸藤警部補は、その点を、反省して、世間話をする方向へ、向かった。  「ところで、あんたも、働き者の奥さんがいなくなって、大変だろう。同情するよ」  そんな態度の急変にも、亮一は、変わらず、  「そうだが、仕方がない。なってしまっものは、仕方がないだろう。覚悟の上のことだよ」  それだけを、端的に言って、黙り込んだ。  「奥さんとは、仲が良かったんだろう」  警部補は、そう水を向けた。  「それは、そうだ。十四歳も年上のわしの所へ、後妻で入ってくれたんだから。わしも感謝していたよ。それに、器量良しで働き者だった。わしには、申し分のない嫁だったよ」  「前から、疑問に思っていたんだが、そんな米子さんは、なぜ、あんたのところに来たんだね。ほかにも、一杯話があっただろうが」  「それは、拍子ではないかな。たまたま、米子が嫁に行きたいと思っていたところへ、わしからの話があった。それで、とんとん拍子に話が進んだんだ」  「米子さんの実家も農家だったね」  「そうだ。前から顔は知っていた。でも、隣の村だから、話はしたことはない。米子は、五人姉妹の末子だから、とても、大事に育てられた。姉さんたちが猫可愛がりしてね。だから、わがままなところもあった」  「そうか、それは、初耳だ。わがままだと、相手が大変だろう」  「そこが、また、年上のわしには、可愛らしく思えた。それに、働き者ということでは、満足していたしな。米子は、わしには過ぎた嫁だった」  「とは言うが、夫婦に喧嘩はつきものだ。夫婦喧嘩くらいはしただろう」  「一度もないな。それほど、仲は良かったんだよ。他人には分からないが。わしたちはわしが、歳をとっていることもあって、結婚したときに約束したんだ。わしの死に水をとるまで、頼むよ、とわしが言ったら、あなたが逝ったら、わたしもすぐ、後を追う、という。あの世まで添い遂げると言うんだ。それで、わしのいつか、逃げられるのではという恐れは、なくなった」  「そういえば、前の奥さんは、どうしたんだっけ」  「病気で死んだ。畑仕事中に、突然、息が苦しくなり、急死したんだ」  警部補は、その事件もよく知っていた。  十一年前、派出所勤務から、希望の本署捜査一課に異動した直後に起きた変死事件だった。その事件は、「炎天下の農作業中の急性呼吸不全」との検視結果が出され、変死事件で片付けられていた。  「だが、夫婦仲は、良くなかったのではないか」  警部補は、追及した。  「そんなことはないよ。喧嘩ひとつしたことはない。それは、だれに聞いてもらっても大丈夫だ」  初日の調べは、そう進展しなかった。  丸藤警部補は、翌日、保険金の件をさらに、追及することに決めて、その日は、亮一を家に帰した。  丸藤警部補は、失念していた十一年前の事件を精査してみる気になった、そこに、今回の事件を解く鍵が潜んでいるかの知れないという予感があった。 資料室に行って、捜査ファイルを繰った。その事件は、「一九八五年Y市M村での農婦変死事件」という題名で、厚さ五センチ位の綴りに纏められていた。  最初に、  事件発生日時: 一九八五年七月十日午後三時二十三分頃  とあった。  以下、  事件発生場所: Y市M村字Mの一四の一三番地の畑上  事件の被害者: 秋葉照子 昭和二十三年四月五日生まれ  事件の概要: 被害者は先の場所で農作業中、突然、胸の苦しみを訴え畑に倒れた。一緒に作業中の夫、秋葉亮一(昭和二十年九月九日生まれ)が介抱、Y市消防本部から救急車を要請したが、救急車が、現場到着時には既に、呼吸も脈拍も停止していた。同日午後、Y大学医学部で司法解剖した結果、「急性心不全」と診断された。  事件の背景と犯罪性: 夫婦仲は良好。家庭的にも、これといった問題はない。本人に自殺の危険性は認められず。ただ、日頃から、顔色が悪く、脆弱だった。春の健康診断では、「やや高血圧気味なので、食塩の摂取に気をつけるよう」との指導が行われている。犯罪や自殺の可能性は否定できる。単純な病死と判断される。  死因: 前述通り、「急性心不全」による心臓停止。    その、報告書類のあとに、秋葉亮一とその父母、平次、みねの聴取書類が添付されていた。  丸藤警部補は、その全てに、素早く目を通したが、いずれも  「農作業中、突然倒れて、そのまま、息を引き取った」という供述で一致していた。  そのあと、現場で採取された証拠物を見た。  証拠物目録には、「衣類、農機具、靴、眼鏡」などとならんで「常用の薬、注射器」の記述が見られた。  (日頃から、病弱だったので、栄養剤の注射でもしていたのだろうか)  警部補は、「注射器」の記述に、違和感を感じたが、そう解釈して、納得した。  (記録を見るかぎり、問題はなさそうだ)  そう、一度は、考えた警部補だったが、これらの書類のなかに、重大な記録が欠落していることに気が付くのは、そう時間は掛からなかった。  (これには、照子への生命保険の調査記録がない)  この事件の初動捜査は、救急車の救急員の報告によって、すでに、予断が行われて、病死の方向に傾いていた。それが、突然死へ捜査を向かわせ、保険の捜査は行われなかったのだ。  「それを、調べないといけない」  丸藤警部補は、電話を取り、田島紀子の電話番号を回した。そして、次は、民間の生命保険調査機関のY市支部の電話番号を探していた。  そのどちらかで、多額の保険金が支払われていたら、これは、事件になる。再捜査も必要になるだろう。  東北郵政監察局Y監察事務所の田島紀子は、十一年前の秋葉照子に掛けられた簡易保険の書類を、持参して、電話をしてから、三時間後に、Y警察署に姿を見せた。  「御苦労さまです。突然ですみませんね。いつもお世話になってばかりで」  丸藤警部補は、脇の椅子を勧め、湯茶室にいって、自ら、お茶を入れてきて、田島の前においた。  警部補は、いつも、田島に会うたびに、なぜか、胸の高まりを覚える。この、いつも清潔そうな、アイロンの掛かったブラウスを付けた三十すぎの女性は、何ごとをするにつけても、狂いがない。そのプロ精神には、脱帽の思いがした。身長は百六十センチくらいで、女性では中くらいの高さだが、足がすらっとしているので、実際の身長よりも、幾分、高く見える。それに、良く張った胸と、小作りの顔と。それらは、警部補が考える理想の女性像に近かった。  「ここに、全ての資料をお持ちしました。必要ならコピーしてください。あなたの感は、さすがにいつも、鋭いわね。想像したとおり、保険が掛かっていたわよ」  紀子は、そう言って、警部補の顔を覗き込んだ。  丸藤は、資料を手にとって繰った。そこには、予想以上の保険の契約と支払いの明細があった。  その書類には、次のような項目が記されていた。    契約日       契約保険金額    支払日      支払い額 一  四月十一日      二百万円     九月三十日   百九十万円 二  五月二十日      三百五十万円   十月一日    三百二十万円 三  六月二日       三百五十万円   十月十五日   三百二十万円 四  六月十五日      二百五十万円   十一月十五日  二百二十万円 五  七月五日       四百五十万円   十一月二十五日 三百八十万円 六  七月七日       三百万円     十一月六日   二百八十万円    「千六百十万円の支払いを受けたというわけか」  「そうですね、掛け金は、全部で二十万円くらいですから、言ってみれば、ぼろ儲けしたというわけですね」  紀子の言い方は、いつも、真っ直ぐ、核心を突いている。  「ありがとう。本当に、参考になった」  警部補は感謝の言葉を述べた。 「いえ、いつでも、御用があれば、言ってください。それから、これは、お節介かも知れませんが。生命保険は、郵便局だけではないことを、忘れていないでしょうね」  「それは、わかっている。これから、ファクスが、入るよ」  田島は、颯爽として帰っていった。丸藤は、Y市の生命保険調査事務所からのファックスを待った。それは、翌日の午前中に送られてきた。    お訪ねの件について、当事務所が調査した結果をお送りします。    保険会社      契約日     保険金額     支払日 一   A社      三月十日    千五百万円     八月七日 二   B社      四月二日    一千万円      八月八日 三   C社      四月四日    八百万円      八月八日                     以上です。    「やはり、あった。捜査は、振り出しに戻った」  丸藤警部補は、田島から受け取った書類とファッスを手に、捜査一課長席にいき、そこにいた飯田一郎課長を伴って、Y警察署署長室に向かった。               五  Y警察署長は、安田徹といった。Y県の県庁所在地であるY市の警察署長は、伝統的に、本庁の部長級を務めた、たたきあげの警察官の最後の花道ということになっている。安田署長もその通りの道を歩んできて、この警察署の署長に就任していた。署長になっての二年が過ぎ、署内の様子も掌握して、丁度、仕事に弾みが付いた時だった。本庁では、刑事課長も務めたことがある。事件には慣れているプロだった。  その署長に丸藤警部補が報告した。  「M村の農婦の変死事件ですが、死んだあと、夫が多額の保険金を受け取っているのが、確認されました。これが、その支払い明細書です。夫の秋葉亮一という男は、前の女房にも、多額の保険を掛けていて、その死亡後、やはり、相当額の保険金を受け取っている。どうも、仕組まれた保険金殺人の匂いがします」  「丸藤君の意見は、初動捜査で、決定した結論を、覆すものですが、わたしは、理のあるものだと思います」  飯田課長が付け加えた。  「その疑いが強いというだけでは、どうにもならない。保険金殺人なら、その動機と手段、方法を解明し、さらに、被疑者の自白も取らないといけないだろう」  さすがに、長い間、捜査畑を歩んできた署長だけはある。そう言って、丸藤警部補の方に顔を向けた。  「それが、その捜査は相当、困難だと見ていいと思います。どうやって、殺して、事故に見せかけたのかが、最大の問題です。動機は、保険金目当てと見ていいと思いますが、どういう使途なのかは分からない。ここは、原点に帰って、現場から出直すしかないでしょうね」  「いずれにせよ、一筋縄では行きそうにないな。本庁の応援を得たほうがいいのではない。化学の知識に明るい捜査員と鑑識の協力も必要だ」  安田署長は、明確にそう判断を下した。  「こちらは、丸藤君が専従でやってくれ。あと、捜査一、二課は、総掛かりだな。いずれにせよ、そう時間を掛ける訳には行かない。保険金はすでに使ってしまったかもわからないしね」  「とにかく、あの家を捜索しないといけませんね。捜索令状をお願いします」  丸藤警部補が、飯田課長に頼んだ。  「書類を作ってくれたまえ。家宅捜索なら、容疑事実だけでも大丈夫だ。限りなく黒に近い灰色なのだから」    丸藤警部補は、刑事部屋に戻って、書類を書く作業に没頭した。そして、課長の決済を経て、署長名でY地方裁判所刑事部に、捜索令状を請求した。  令状は、翌日早朝に出された。  そして、その翌日、十分な準備をしたうえで、秋葉亮一の自宅が、家宅捜索された。この捜索には、Y警察署の刑事二十人と本庁刑事部捜査一課の刑事五人、それに鑑識課員が十人動員された、大掛かりなものとなった。  秋場亮一の家は、Y市の西郊外、奥羽山脈がその裾を広げた谷間に入っていく入口に形成された集落の丁度、中心に位置していた。  市道に面して、長い石垣の塀があり、その中央部にやはり、石造りの門構えが、庭への入口を示していた。その門を入ると、左側に母屋がある。広い庭を挟んで、母屋の反対側に二階建ての小屋があり、一階は農機具置場に使っており、耕運機とトラックが鎮座していた。二階は、物置になっているはずだった。  ところが、その物置の隅に、板塀で仕切られた部屋があった。それを見つけたのは、本庁から派遣された刑事だった。  「丸藤さん、物置の二階に部屋があり、化学の実験に使うような器具が並んでいますよ」  そう報告された丸藤が、行ってみると、そのとおりに、学校の化学室のような感じに部屋がしつらえていた。真ん中に広い机が置いてあり、その上に試験管とフラスコやビーカー、メス・シリンダーなどが、無造作に並べてあり、脇の壁に寄り掛かるように置かれたキャビネットの中には、シールの張られた薬品類が、多数並べられていた。  母屋で捜索していた係員が、召集され、この部屋の捜索に、投入された。  そのうちに、鑑識課員が、  「棚の上のガラス瓶に面白いものが、詰まっていました」 と言って、持ってきた瓶には、黒い砂糖の塊のようなものが、詰め込まれていた。  「これは、なんだい」  質問した警部補に、その鑑識課員は、手にした天眼鏡を渡した。  丸藤警部補は、それを手にして、ガラス瓶から白手袋をした左手に、中の粉のような物質を出して、眺めてみた。黒い粉のように見えた物質は、黒蟻の死骸だった。しかもそれらは、みな、すりつぶされていて、手と足と頭がばらばらになっていた。  「なんで、こんな物があるのだ」  丸藤警部補は、鑑識課員に質問した。  「分かりません。謎ですね」  そう言って、その係員は、手にしたガラスビンを、押収物を入れておくダンボール箱の隅に入れた。薬品類は、硫酸、塩酸、硝酸、水酸化ナトリウム、炭酸カルシウムなど、学校の化学室にある薬品がほとんど揃っていた。  その光景から、捜査員らは、  (何かの物質を合成したいたに違いない)  との心証を得た。  そして、その物質は、米子を、死に導いた物質でなければならないはずだった。    その米子が、生前使っていた納戸では、別の係員が、道具箱を開けていた。  縫いバリや断ち鋏などの裁縫道具、縫い物をするときに使う鯨尺などがあった。台所では、料理道具の捜索まで行われた。それほど、徹底的に、家の中が洗いざらい捜索され、床の上は、棚や引き出しから出された品物で足の踏み場もないほどだった。  物置きの捜索から、母屋の捜索に移っていた丸藤警部補は、米子の慰留物を一々、調べて見て、ある重大な事実に、気が付いた。  「おい、この鋏、おれには、使えないぞ」  そう叫んだ警部補を、皆が、見詰めた。  「ほら、指が入らない」  それは、左利き用の鋏だった。包丁も左利き用だった。  家人のなかで、捜索に立ち会っていたのは、娘の康子だった。その康子が、そろそろ昼食時刻になって、冷蔵庫を開けて、料理を始めようとしたときにも、丸藤警部補は、ある、事実に気が付いた。この家の冷蔵庫は、流しの横に置かれていたが、その扉は、両面開きだったのだ。康子が流しの方から料理材料を取り出そうとしたときは、右開きだったが、その前に、お茶を入れようと、こちらのダイニングから開けたときは、扉は、左に開いた。  「この冷蔵庫は、両側から開くの」  警部補の質問に康子は、  「そう。母さんがこのほうが、使いやすいといって買ったの」  と答えた。  すなわち、米子は、左利きだったのだ。だから、両面開きの冷蔵庫が便利だ、と思ったのだ。  (しかし、死体の検分書では、右手で、ビニールの破片を掴んでいた、とあったようだが)  警部補は、新たな難問を突きつけられたことに気が付いた。  (蟻の死骸と、左利きと。何が何だか分からない。こんな難問は、金田一耕助でもシャーロック・ホームズでも、簡単には解けそうもない)  丸一日掛かりだった秋葉家の捜索を終え、トラック二台の押収物を得た。あとは、その分析をじっくり時間を掛けて行い、この謎を解くことが、仕事だ。それには、そう、時間を掛けてはいられない。  警部補はそう決意して見たものの、どこに突破口があるのか、それは、見当も付かなかった。             六  丸藤警部補は、Y市の南方にあるY大学を訪ねた。そこの工学部化学科で、一酸化炭素の合成法を学ぶためである。  応対した助教授は、山田三郎といった。  警部補は、ここへ出向く前に、既に、訪問の趣旨は説明してあったから、山田助教授は、実験装置を用意していてくれた。  「一番簡単なのは、炭素を不完全燃焼させることですね。ですから、こちらのフラスコで炭を燃やし、ガラス管で、こちらのビーカーに導いて、二酸化炭素を水酸化カルシウムに吸着させる。すると、純度は落ちますが、一酸化炭素の濃厚になった気体が生成されます」  山田助教授は、最初にそう言って、机の上の装置を見せた。  「これをやると、致死量を作るには、どのくらいの時間が掛かりますか」  「これだと、四時間くらいはかかるし、窒素などの他のガスも混じるから、そう効率的ではないですね」  (こういう装置は、秋葉の家で押収した実験用具や薬品で簡単に作れそうだが、時間が掛かりすぎる)  警部補は、心中、そう呟いた。  「他には、方法はありますか」  「あります。ただし、これには、特殊な薬品が必要です」  「どの様な、薬品ですか」  「まあ、許可があれば、薬局でも買えますが、これですよ」  山田助教授は、ラベルの張られた薬品の瓶を示して見せた。  ラベルには、蟻酸と書いてあった。  「この薬品に、濃硫酸を反応させると、濃度の濃い一酸化炭素が、発生します」  「蟻という字ですが、あの昆虫の蟻なのですか」  「そうです。十九世紀の末に、蟻の体内から抽出された有機酸です。ですから、蟻が体内で生成しているものですが、現在では、化学的に合成されています」  「なんに使うのですか」  「そうですね。化学繊維の合成や、化学物質の生成に使いますね」  警部補は、蟻という字に捕らわれて、一端思考が停止した。天井を見ながら、秋葉家の捜索の日の光景を思い浮かべていた。  (そうか。あの物置小屋の二階の部屋の棚にあった黒い物質、あれは、蟻の死骸だったぞ)  丸藤警部補は確信を得た。  (秋葉亮一は、あの部屋で、一酸化炭素を生成していたのだ。たっとひとりで。妻を計画殺人し、保険金を詐取するために)  これで、いい。あとは、署に帰って、多数の押収品の山のなかなら、「蟻酸」と書いたシールが張られた薬品瓶と、硫酸を探し出せばいい。  警部補は、貴重な知識を仕入れて、Y大学の研究室を辞した。    Y警察署に帰ってから、警部補は、部下に手伝わせて、押収物の中から、「蟻酸」と書かれた薬品の瓶を探した。多数の薬品の中から、それを探すのは、根気のいる作業だったが、ラベルが剥がされているものや、汚れて見えなくなっているものもあり、作業は困難を究めた。  作業は、夜の十一時過ぎまで、続けられた。しかし、「蟻酸」と書かれた瓶は見つからなかった。ただし、薬品名が不明の瓶が、十二本あった。  「この中になければ、捜査は、また、一歩から出直しだな」  そう呟きながら、警部補は、山田助教授の家の電話を回していた。  事情を手短に説明し、薬品名が不明の薬剤の中身を分析してもらうことの了承を得た。  (明日にでも、さっそく、持参しよう。このなかから、蟻酸が出てくれば、いいのだが)  丸藤警部補は、祈るような気持ちを胸にして、家路についた。  事件解明の鍵のすべては、それらの薬品の分析結果に掛かっていた。  翌日、丸藤警部補は、不明の薬品の瓶十二本を入れた段ボール箱を車に積んで、Y大学工学部化学科を再訪問した。  山田助教授は、すでに、待っていたが、段ボール箱を見て,薬品の数量の多さに驚いたようだった。  「これだけを調べるには、一日では、無理ですね。五日間くらい、時間を戴かないと」  「そうですか。すぐには、無理ですか。分かりました。では、お預けしますので、よろしくお願いします」  警部補は、そう言って、失意の内に、車を帰して、Y警察署に戻ってきた。  結果が出るまでの五日間は、長い。  そんなことを考えていると、押収物を仕分けしていた捜査員がやって来て、  「面白いものを見つけましたよ」  と、何冊かのノートを持ってやってきた。  中を開けると、そこには、びっしりと、化学式がかかれた筆跡があった。明らかに、それは、ある薬品の化学反応を表す式だった。  「それは、学者の鑑定をたのもう」  捜査員は、さら一枚の免許状を見せた。  それは、「ボイラー技師」の免許状だった。  (そうか、秋葉亮一は、ガスには詳しかったのだ。ますます、容疑は、固まってきたようだな  こうして、捜査は、外堀が徐々に埋まってきた。  (これで、化学式が「蟻酸」を示していて、押収した薬品類の中に、一つでも「蟻酸」があれば、事件は一気に解決へ向かうだろう。その報告を待って、秋葉亮一の殺人と詐欺の逮捕状を取り、一気に自供に追い込める)  警部補の胸に、自信がわき上がってきた。    五日後に、Y大学での、鑑定結果がでた。それは、予想通りの結果だった。  瓶十二本の内、三本が蟻酸だった。  丸藤警部補は、ノート三冊も持参し、助教授の教示を依頼した。それには、すぐに回答が返ってきた。  「そうです。これは、蟻酸に濃硫酸を反応させた時の化学式ですね。これで、発生させるべき一酸化炭素の必要量に対する薬品の量が、計算できる。随分、書き込みがあるが、そうとう勉強したようですね」  たしかに、克明なノートだった。それには、炭素の不完全燃焼の場合の一酸化炭素の発生量の計算式も書かれていた。    状況証拠は、十分に揃った。  丸藤警部補は、飯田課長にそれらの事実を報告、課長を伴って、署長室に向かい、安田署長に、  「殺人と詐欺容疑で秋葉亮一の逮捕状を請求します」 と告げた。安田署長に異論はなかった。  「御苦労さん。やっと、ここまで、こぎ着けたな。あとは、自白だ」  署長は、そう激励し、部下のこれまでの労苦を労った。                  七  秋葉亮一を、Y警察署の刑事二人が、逮捕に訪れたとき、亮一は、覚悟をしていたように、  「はい、分かりました」 と素直に、同意した。 そして、  「ちょっと待って下さい。いま、用意をしますから」  そう言って、一旦、自室に戻り、農作業のために着ていた作業着を背広とネクタイ、ワイシャツ姿に着替えた。そして、机の引き出しに入れておいた紙袋を取り出して、脇に抱え、刑事らの前に姿を表した。  「お願いします」  亮一は、両手に手錠を掛けられ、刑事らに両脇を抱えられて、覆面パトロール・カーに乗せられた。  父の平次と娘の康子が、門の所まで出てきて、この息子であり父である人が連行されて行くのを見送った。妻であり母である米子が逝き、そして、今度は、父を取られて、一家四人は半分になってしまった。その感傷が、二人を襲っているのかとも思われたが、父の平次は、毅然として、康子に言った。  「なに、すぐ、帰ってくるべえよ。逮捕状には、妻の殺害容疑とあったが、亮一は、米子を殺していないず。これは、わしが、確信していることだず。絶対に、やってちゃいねえだよ」  康子も、その祖父の言葉を信じたかった。だが、彼女にはその確証はなく、祖父の確信が何ゆえなのかも、推測できなかった。    連行されてきた亮一を、丸藤警部補は、すぐには調べなかった。  (十分に検討した証拠を、確信を持って、突きつけなければ、この男は、口を割らない)  以前の、参考人として事情を聞いた時の、経験から、そう判断できた。  調べ室で、型通りの人定質問をして、容疑事実を伝えただけで、その日の調べは、打ち切り、留置所に引き取らせた。  これには、まず、警察に泊まってもらい、心を落ちつけて貰うという目的もあったが、日頃過ごしたことのない、鉄格子の中での生活を、経験させ、自白へ向けての心理的圧力を掛けるという意味が大きかった。  「まあ。今晩は、ゆっくり寝て、明日から、じっくり付き合ってもらうからな」  警部補は、そう宣言して、亮一を調べ室から出した。  翌日、朝七時から、調べが始まった。  調べ室の窓側に丸藤警部補が座り、その反対側に小さな机を介して、亮一が座らされた。警部補の脇には、若い刑事が立っていた。亮一の後ろにも小さい机があり、そこで書記役の刑事が、供述の速記をする体勢を取っていた。  「まず、聞きますが、あなたは、容疑の事実を認めますか」  警部補は丁重な口ぶりで聞いた。  亮一は、即座に、  「わたしは、やっていません」  と答えた。その声は、確信に満ち、張りがあった。  「そう言うだろうとは、思っていたが、本当にやっていないかね」  警部補は念を押した。  「はい、覚えがありません」  「では、聞くが、米子に多額の保険金を掛けて、死亡後、その相当額を受け取っているのは、間違いないね」  「それは、間違いないです」  「なぜ、そんなに多額の保険を掛けたんだね」  「それは、私らの勝手でしょう。いくら、保険を掛けようが」  亮一は、一般論で反論した。  「そんなことを言っているんじゃない。あんたが、奥さんにあんなに多額の保険を掛けたのは何故なんだと聞いているんだ。どういうわけか、分かりやすく説明してもらいたい」  「それは、米子がそうしてくれと、言ったからですよ」  「なんで、そんなことを言ったんだね」  「うちは、椎茸栽培の事業を始めるために、多額の借金をしたんです。ですから、『もし、わたしが、亡くなってしまったら、その保険金で借金を帰してくれ』と米子は、言っていました」  警部補はその発言を記録するように、書記に指示した。  「なぜ、奥さんで貴方ではないのだ」  「わたしは、持病があって、そう多額の保険には入れないのです。腎臓が弱いのですよ」  「奥さんには、持病は無かったんだね」  「まったく、健康でした。ですから、最高の保障を受ける事が出来た」  「そして、そのとおりに奥さんは、死んで、保険金を残した。これを、世間ではおかしいと思うのだよ。あなたはそうは、思わないかね」  「たまたま、そうなっただけでしょう。事故死したんですから」  亮一の言葉に、淀みはなかった。まるで、用意していたような返事が帰って来た。  「そうか。事故死か。われわれも最初はそういうことにして、処理した。見事に騙されたね。何が事故死だ。妻を殺しておいて、ぬけぬけとよく、そんなことが言えるな」  警部補の声が、荒くなった。  「ここに、あんたの家から押収したノートがある。これはどういう意味だね。説明してみたまえ」  警部補は、手にしたノートを、亮一の前に突きつけた。  亮一は、そのノートを一瞥してから、  「ああ、それは、農協の講習会で学んだボイラー技師試験用のノートですよ」  「ほら、このページの化学式だが、これは、どういう反応なのだ」  丸藤警部補は、「蟻酸」と「濃硫酸」の反応式が書かれたページを捲って見せた。  「それは、一酸化炭素の発生を示す式ですね」  「そうだろう。あんたは、そうやって一酸化炭素がつくれることを知っていた。そうだな」  「そうです」  書記がこの自供を記録した。  「そこで、次に聞きたいのは、物置の二階の部屋だが、あれは、なにに使っていたのだ」  「化学の実験ですよ。椎茸栽培には、深い化学の知識がいるのです。暖房の具合や一酸化炭素などのガスの制御が、微妙に複雑なんです。だから、その実験をしていた」  「とすると、有毒ガスも生成していたのか」  「そういう時もありましたね。わたしは、ガスマスクをしていたから大丈夫だが、籠のなかの鳥が死んだこともあった」  「一酸化炭素ガスを作ったことは、あるのか」  「そういうこともありました」  警部補は、亮一の供述が余りにも、素直なのに驚いたが、調べの手応えは、はっきりと、感じていた。警部補は、あと一歩だと思った。  「そうやって作ったガスを、米子に嗅がせたのだろう」  亮一の表情が、一変した。これまでは、聞かれることに素直に応えていたが、その質問には、姿勢を正して、目を閉じながら、深く考え込んだうえで、  「いえ。そんなことは、していません」  と、ハッキリと答えた。  「あの日の朝、お前は、米子と一緒に、ビニール・ハウスに行き、用意していたビニール袋に作っておいた一酸化炭素をいれて、米子に嗅がせ、中毒死させたのだ。そうだろう」  警部補の声は、さらに高くなった。脇に立っていた若い刑事が、その声に応じて、  「全て、分かっているんだ。隠していても、分かっているんだよ。吐いて、すっきりしたほうが、あんたのためにも、仏様のためにもなるのではないかな」  と、机に両手を突っ張らせて、まくし立てた。  亮一は、その気迫にも、たじろぐことなく、  「やっていないものは、やっていません」  そう、言い張った。  「そういう態度を取っていては、奥さんも浮かばれまいよ。まったく、鬼の夫だな、お前は」  若い刑事が、吐き捨てた。  「わたしは、妻を愛しています。ほんとうに、愛しています。結婚したときに、死ぬときは一緒に、と誓ったほどです。妻を殺したなんてことは、絶対にありません。わたしたちは、オシドリのように、生きていこうと、誓いあっていたのですから」  亮一は否認を続けた。  しかし、丸藤警部補らは納得しなかった。豊富な証拠物と証言があった。  三日間の調べの間、亮一の否認は変わらなかったが、警察は、書類を揃えて、検察庁に送検した。  Y地方検察庁での調べは、警察の調書に沿って、同じ質問がなされた。検事の問い掛けに、亮一は否認を続けたが、検事は、  「もう全て、証拠が揃っているんだ。君だけがいつまでも否認を続けていると、裁判では不利になるよ。君が認めなくても、われわれは、起訴するつもりだ」  と言って、譲らなかった。  検事の強気の態度の背景には、マスコミの過剰な報道もあった。「多額の保険金掛け妻殺す」という見出しで、新聞各紙は、この事件を大々的に報道した。それは、一たんは事故で処理された事件が、郵政監察管によって、掘り返され、犯人が突き止められて、逮捕されるという劇的な展開が、世論の注目を集めたということ以上に、この地方では滅多にない計画殺人が、読者の関心を引いていたからだ。  秋葉亮一は、殺人罪と(保険金)詐欺容疑で、起訴された。  弁護士には、Y市では、数少ない刑事専門の敏腕女性弁護士、有田佳子が、進んで買って出て、就任した。有名弁護士が担当することは、この事件の特殊性をますます、際出たさせた。                    八  有田佳子が、この裁判の弁護を買って出たのには、訳があった。  それは、各種の報道機関によって、この事件の猟奇性と特殊性が、異常に拡大されて世間に伝わっていったことへの、危惧の念が、彼女を捕らえたことがあったが、それ以上に、彼女が重く見たのは、被疑者で被告人の秋葉亮一が、自白をしていないという一点だった。報道では、それほど、表に出ていないが、秋葉は警察でも、検察でも、取り調べでは、犯行を否認していた。即ち、自白の調書は、不存在だった。  その点が、有田には、この事件を逆転無罪に持ち込めるのでは、という最大の手掛かりだった。  以上は、あくまでも、仕事という観点から見た、有田の事件弁護への動機だった。  だが、彼女には、他の理由もあった。それは、決して、表には出さない理由だった。  実は、有田は、この事件の被害者である秋葉米子と同じ村で生まれた。米子の家と、有田の家は、隣り同士だった。隣り同士と言っても、この東北地方の寒村では、歩いても一キロは、離れている。  米子の家は、中規模の農家だった。有田の家は、元地主で、広い水田で大規模稲作農業を営んでいた。だから、家の経済的な格差はあったが、有田は、米子と、幼い時によく遊んだ。米子は、有田の二歳年上で、いつも遊びを教えてくれた。縄跳びや石蹴り、陣地取りなどの外遊びやおはじき、お手玉、着せ替え遊びなど家の中でする遊びを一緒にしたことを、懐かしく思い出した。  米子は、それらが、みな上手だった。  それ以上に、有田が、米子に驚いたのは、家に行くと、いつも料理や洗濯などの家事を器用にこなしていたことだった。  (小学生なのに、よくあんなに家事が上手にできる)  有田佳子は、米子を憧憬の目で見るようになった。  幼いころの米子の記憶は、そういう甲斐甲斐しい姿ばかりだった。  (しかし、その裏に何か暗い影があったような気がする)  幼いころを思い出しながら、米子の背後にいつも黒い雲が掛かっているようなイメージが浮かぶのは、何故だろう、と有田佳子は考えてみた。  それで、思い当たったのは、もう一つの影だった。  (そうだ、米ちゃんには、お姉さんが、二人いたんだ)  有田佳子はそう思い当たった。  米子には、腹違いの姉が二人、いた。すなわち、米子は、後妻のたった一人の子だったのだ。  有田佳子が覚えているその姉たちの印象は、少ない。思い出そうとしても、薄くぼやけた顔付きの中に、米子の顔が浮かんでくるだけだ。  (ということは、その姉さんたちも、米子に似ていたということなのかもしれない)  そう、考えると、一体、そのお姉さんたちは、いまどうしているのだろう、と疑問が湧いた。  だが、第一回公判を前に、しなければならないことは、いっぱいあった。まず、亮一に接見して、公判の対策を練らないといけなかった。    有田佳子は、秋葉亮一と、Y拘置所で接見した。  亮一は、意気軒昂だった。長い拘置にも全く気持ちや体力の衰えは見えず、話す声も落ちついていた。  「まだ、犯行を否認しますか」  有田は、率直に尋ねた。  「勿論です。やっていないものは、やっていない」  亮一は、きっぱりと言った。  「では、だれが、真犯人なのです」  「それは、分かりません。わしに言えるのは、わしは、妻を殺していないと言うことだけですよ」  亮一は同じ言葉を繰り返した。  「残念ながら、反論する材料は、こちらにはない。でも、やっていないものは、やっていないのです」  「そう言い張るだけでは、裁判では、説得できない。やっていないなら、それ相応の反証を示さないといけない」  有田がそう言うと、亮一は、黙り込んで、貝になった。  それ以上は、接見でも聞けない。ただ、弁護士としては、依頼人の主張にそって、裁判を進行していくだけである。それにしても、補強材料がないのは、不利だった。  有田佳子は、米子のすぐ上のお姉さんの記憶を、もう一度、辿って見た。その姉が米子に一番、似ていたからだ。 (確か、N市の実業家に嫁に行っていたはずだ)  そう思い当たった。  そして、その家を訪ねて見ること決めた。    N市は、Y市から南へ六十キロ。江戸の昔は、越後から移封された雄藩の英明な君主が、殖産興業政策を取り、絹織物で栄えた町だ。  米子の上の姉の嫁ぎ先の家は、その町の中心部から、西へまた、二十キロほど行った山間部にあった。  農家の造りのその家には、老夫婦が、二人で暮らしていた。  「峰子さんのことで、お伺いしたいのですが」  峰子とは、米子の姉の名前である。有田佳子は老父にまず、そう尋ねた。  「峰子は、去年家を出てから、帰ってこねえだよ」  老父は、そっけなく、そう答えた。  「峰子さんの御主人は、いらっしゃらないのですか」  「俺の息子は、町で水商売をしてたが、景気が悪くて、店を潰し、二年前に死んだんだず」  老父の表情が曇った。  「では、三人暮らしなのですか」  「んだ、息子が死んでからも、峰子は、この家でよく働いてくれたが、突然、いなくなってしまった」  「峰子さんは、農作業の手伝いをしていたのですか」  「いいや、うちは、見てのように、小さな規模の農家だっぺ。わしたち二人で十分だず。峰子は、N市に働きに出ていただず」  「そうですか。ちなみに、どんな仕事をしていたのですか」  「それは、詳しいことは知らねえずら。ああ、んだ、働いている所のマッチがあったなあ」  老父は、奥の間で聞き耳を立てていた老妻に、向かって  「おーい。峰子の勤め先のマッチを持ってきてくれや」  と命令した。  老妻が、持ってきたマッチには、店の名前と所在地、電話番号が書いてあった。  有田佳子は、そのマッチを受け取ると、  「では、そちらのほうに行って、聞いてみます、わたしが、峰子さんの行き先を探しますよ。安心してください」  と丁重に礼を言って、辞去した。老夫婦は、  「宜しくお願いしますだ。弁護士さんが来てくれるとは、天から助けが降って来たようなもんだ」 と喜んで、見送った。  有田佳子は、所在地の店を訪ねた。それは、小さな喫茶店で、N市の中心部、藩政時代の藩主一族を祀った神社の近くにあった。  入口の自動ドアーを開けて、店に入っていくと、正面にカウンターがあり、中で、若い男が一人で、グラスを拭いていた。  佳子が、その前の椅子に座ると、その男が、銀の盆を手に近付いてきて、  「何にしましょうか」  とオーダーを聞いた。  「アイス・コーヒーをお願いします」  注文してから、店内を見回した。広さは、十畳くらいで、椅子が十脚程、テーブルは六卓しかなく、小じんまりとしている店だった。客は、他に男と女の二人がいて、ドアーの近くの席で、盛んに映画の話をしていた。  男の他に店員は、いなかった。その男が、アイス・コーヒーを持ってきて、テーブルに置いたのを、見計らって、有田佳子は、声を掛けた。  「こちらに、桜井峰子さんはいらっしゃらないですか」  「ああ。ママは、いま出ています。今日は、休むかもしれない、という電話が先程、ありましたよ」  「ちょっとその方のことで、うかがいたいのですが、いいですか」  男が怪訝な表情になった。  「ああ。心配しなくても結構です。わたしはこういうものです」 と言って、名刺を差し出した。それを手に取った男は、  「ああ。弁護士さんですか。それで、どのような用件ですか」  身を乗り出してきて、そう聞いた。  「じつは、ある事件の裁判の調査で、ママさんの最近の様子を伺いたいのです。なにか、変わったことはありませんか」  「僕も最近、来たばかりなので、あまり詳しくは分かりません。ただ。前に勉めていた人が辞めたのは、ママが豹変したからというのが理由だっようです」  「豹変したというのは」  「それが、全くの別人のように変わってしまったのだそうです」  「姿、形が変わってしまったのですか」  「いえ、それは、あまり、変わっていない。仕種や、仕事の要領が違ってきたということです」  「例えば」  「例えば、コーヒーのいれかたとか、トーストの作り方でしょう」  「仕事の要領ね」  「そうですね。グラスやカップの起きかたや、包丁などの置く位置も変わった、と言っていました。そうだ、それは、冷蔵庫を買い換えた頃からだとか言っていたな」  「すると、人柄は変わらないが、仕事のやり方が変わったと」  「いえ、人柄は、とても、良くなって。以前は、口うるさく、厳しかったが。優しく思いやりがあるようになったようですね。わたしは、後の方しか知りませんが。ある時遊びに来た、先輩が、ママは、随分優しくなったな、と言っていました」   「これを見てください」  有田佳子は、そういって、米子の写真を見せた。  「ああ、これは、ママですよ。随分、若いころのようだな」  「ありがとう。結構です」  有田佳子は、礼を言って、こう付け加えた。  「そのうち、また、伺います、とママに伝えてください。その節は連絡しますから。よろしくお願いします」  男は、  「分かりました。伝えておきます」 と言って、カウンターに戻った。  有田佳子には、秋葉亮一に確認しないといけないことが、増えた。                  九  有田佳子は、翌日、Y拘置所に秋葉亮一を訪ねた。接見室に入る際に、他の面会人が来ていないか、接見名簿を確認した。そこには、予想外の名前があった。その人は、前日の午後に、秋葉亮一に面会していた。面会時間は、十五分だった。  面会室に出てきた亮一は、依然として意気軒昂だった。  「今度は、なんだい、弁護士の先生」  亮一が、ぶっきらぼうに、そう言ったのが、第一声だった。  「わたしは、あなたの弁護をするために、真実を知っておきたいのです。ですから、本当のことを言ってほしいの。あなたは、やっていないと一貫して主張しているけれども、それは変わりありませんね」  「当たり前です。わしは、妻なんか殺していない」  「わかりました。では、あなたの家の椎茸栽培のハウスで死んでいたのは、奥さんではないのですか」  亮一は、考え込んだ。  「それが。分からない。わしは、死体を確認したが、それは、米子そのままだった」  「平次さんも確認していますね」  「そうだ。爺さんも米子と確認した」  「それでも、奥さんを殺していないと言うのですね」  有田の質問は、同じで、堂々巡りを始めていた。  「あなたに、いくら、やったか、やらなかったかを聞いてもしかたがない。質問を変えましょう。あなたは、奥さんにお姉さんがいることは知っていますね」  「知っているよ。でも、ほとんど行き来はない。結婚式のときに会っただけだ。米子は、後妻に入っただけに、家にばかりいて、姉の家には行こうとしなかった。実家にもはあまり帰ったことがないほどだから」  「では、余り御存じないのですね」  「そうだ。ただ、姉妹だけに顔も姿も良く似ていたのだけは、覚えている」  有田佳子は納得したが、亮一が、まだ全てを打ち明けていないことは分かっていた。事件の核心部分を知っているのに、話していない。それは、変わらない不遜な態度から明らかだった。  「もうそろそろ、否認ゲームは終わりにして、あなたの知っていることの全てを話してくれませんか」  佳子は、亮一の目を真っ直ぐに見据えて、真剣な表情で、語りかけた。  「あなたが、そうやって、ただ、否認するだけでは、裁判では、通用しません。まずこのことから、話して下さい。昨日、接見に来た人は、だれですか。この田島紀子という人ですが」  亮一は考え込んだ。  「その人は、生命保険の調査員です」  「何の用事だったのですか」  「わたしを心配しての、慰問のようなものです」  「そんなことを、まだ言っている。真実を言ってもらわなければ弁護は出来ないですよ」  長い沈黙の時間が流れた。  亮一はまた、考え込んだ。そして、決意した。  「彼女は、実は、わたしが妻を殺した、と言いにきたのです」  「なんですって」  「ですから、米子を殺したのは、彼女だというのです」  「それで、あなたは、なんと言ったですか」  「それが、本当なら、警察に自首して、全てを話してくれるように言いました」  その時まで、田島という女性が、警察に出頭したという情報は、有田佳子の元には届いていなかった。  有田佳子は警察に向かった。    Y警察署で、有田弁護士は、丸藤警部補に面会した。  「わたしは、秋葉亮一の弁護をしているものですが、今日、亮一に接見したら、新しい事実が、明らかになりました」  佳子は、手短かに、その日の接見の模様を警部補に説明した。  「そうですか。田島さんは、わたしも、よく知っていますが、顔を出してはいませんよ。亮一は、まだ、否認しているのですか。そして、田島が面会に行った。なんだか、狐に摘まれたような気がしますね」  「いえ、わたしは、亮一の言うことに嘘はないと思います。ただ。全部を話してくれてはいない。彼は、何かを知っているのに、黙秘しているのです。そういう気がしてならない」  「そうですか。捜査は、十分慎重に行ったつもりですが」  「そこで、わたしは、独自に調べてみたのですが。ちょっと、気にかかることが、あるのです」  有田佳子は、そういって、米子の実家や、姉の行方を探した経緯を、警部補に話した。  「興味深い話ですね。それで、その姉さんとやらには、お会いになるのでしょう」  「連絡を取って、明日にでも、また、行ってみるつもりです。何かありましたら、連絡しますよ」  「そうですか、お願いします」  自信の捜査をして、送検したつもりだった警部補だが、有田弁護士の話には、興味を持ったようだった。    翌日、有田弁護士は、桜井峰子の勤めている喫茶店に電話した。電話に出たのは、幸い本人だった。  「そういうわけで、今日これから、お会いしたいのですが」  「そうですか。何時ころになりますかね」  「そうですね。ゆっくりお話をお伺いしたいから、お仕事が終わってからではいかがでしょう」  「では、五時半過ぎに、店でお待ちしています」  そう言った峰子の言葉が、予定していたことを、確認するような口調だったのが、気にかかった。  有田弁護士は、丸藤警部補に連絡した。警部補も、新しい事態の進展に、念のためと同行する意向を申し出た。そして、署の車で、送ってくれることになった。  警察の車は、午後四時半に、弁護士会館に迎えにきた。  運転席には、若い刑事が座っていた。有田弁護士は、丸藤警部補に促されて、後部座席に並んで座った。  「折角ですから、わたしの推理を申し上げましょうか」  弁護士の申し出に、警部補は、関心を抱いたようだった。 「是非とも、お聞きしたいですね。われわれの捜査を覆す明快な推理を」  警部補はそういったが、その語調に揶揄や侮蔑の色合いはなかった。  有田佳子は、これまでの調書の閲覧や接見の感触、独自の調査の結果に基づいて、描いた事件の推理を語った。    ーー わたしは、あのビニール・ハウスで死んだのは、米子ではないと、思います。だれか、米子に良く似た身代わりが、死んだのです。ですから、米子は生きている。その米子が生きている証拠は、亮一が逮捕されるときに、大事に持っていった紙袋の中にありました。この紙袋は、押収されて、証拠物になっていますが、あなたがた捜査機関は、米子が死んだという先入観を持っていたので、大して、重視していませんでしたが、わたしは、克明に調べてみました。そうしたら、N市から出された手紙がありました。それには、「寒さが厳しき折、いかがお過ごしでしょうか」からはじまって、最後に「お体を十分に労ってお過ごし下さい」と書いた差し出し人不明の手紙もあった。そういう手紙が五通もある。そのいずれも「鴛鴦の契りは、永遠に」という言葉が出てくるんです。これは、死ぬまでオシドリのように夫婦仲良く、という意味でしょう。手紙を出した日付けは、いずれも、あの事件の後です。差し出し人の名前も住所もないが、消印はありました。それは、N郵便局の印でした。  では、だれが、米子の身代わりになり、真の犯人は、誰なのか。それが、分からなければ、事件の解決にはならない。わたしには、真犯人は、まだ、分かりません。ただ、身代わりになった人は、想像が付く。それが、これから、向かおうとしている所でハッキリするでしょうーー。  警部補は、神妙に聞いていた。  「紙袋は、押収したが、あの中には、あまりに意味不明の書類が多くて、その手紙には気が付かなかったな」  そう言って頭を掻いた。                     十    車は、順調に行路を稼ぎ、待ち合わせ時間の十五分前に、到着した。  二人は、即座に店に向かったが、玄関は閉まっていて、人影がなかった。不審に思った有田と警部補は、裏口に回って、様子を見た。中から、鼻を刺激する異臭が、漏れてきた。二人はハンカチで口を塞いで、裏口のドアーをこじ開けて、家の中に入った。照明が消えており、警部補は、壁のスイッチを探して、点灯した。全ての扉を開け放って、中の空気を入れ換えた。  そして、店の中に進むと、女性が二人、床に倒れていた。一人は、米子に似た女性、もう一人は、  「なんだ、これは、田島紀子だよ」  と丸藤警部補が確認した。  二人は、互いに向き合って、抱き合うように、床に倒れていた。  警部補は、直ちに、二人の脈を取り、呼吸を調べた。  「まだ、大丈夫だ。脈はある。助かるぞ」  そう言って、無線で救急車の手配を依頼した。  救急車が到着するまでの間に、二人は、現場を調べた。  二人が倒れていた床の横の席には、コーヒー・カップが二つ残され、中のコーヒーは、空になっていた。その米子似の女性の側のカップの把手が左を向いているのが確認された。流しの俎の上には、きりかけのパンが残されており、その左にパンを切ったあとのナイフが置いてあった。  遺書らしいものは何もなかった。流し台の下のガス栓が、開けられており、ホースが外されていた。ガスは、既に止まっていたが、かなりの量がすでに、放出されたのが想像できた。  救急隊員が到着して、二人に救急用具を付け、搬送した。人口呼吸と酸素吸入とで、幾分、顔に生気が戻ったが、依然として、意識はなかった。  「あとは、二人が意識を取り戻してからに、しよう」  現場の混乱が、一段落したのを見計らって、警部補が、有田佳子に声を掛けた。  「そうですね、一応、病院に行ってみますか」  「そうだな。それから、あとのことは、考えよう」  二人は、同意して、救急病院に向かった。  「何故、自殺なんか、図ったのかしら」  「まだ、そうとは、断定できないが、現場の状況からすると、自殺だな。なぜって、それは、あなたに、真相を突き止められたからだろう」  「あと、少し遅かったら、取り返しの付かないことになっていたわね」  病院に着いて、二人は、二人の回復を待ったが、主治医は、  「一応、命は取り止めましたが、今日中に面会するのは、無理でしょう。明日か、大事を取って、明後日には大丈夫だと思います」  と言った。  警部補と弁護士は、仕方なく、病院を辞した。  「今日は、家で、よく事件の構図を考え直してみます」  有田佳子は、警部補にそう言った。  警部補も 「わたしも、第一歩から、見直してみましょう。あなたの意見は、参考になりました」  警察の車で送っていった有田の家の前で、別れ際にそう言った。    有田佳子は、その夜、ゆっくりと風呂に入って、気分をリラックスさせて、ソファーに横たわり、取って置きのワインを嘗めながら、考えた。  独り暮らしの気軽さが、こういう時には、貴重だ。これが、結婚でもしていたら、こんなに自由な時間は持てない。  夕食は、冷蔵庫に入れてあったレトルト食品を電子レンジで戻して食べた。それで十分空腹は満たされた。  ーー まず、考えないといけないのは、田島紀子という女がなにをしていたかという役割だろう。それに、桜井峰子になりすました米子との関係だわ。この二人が、以前から顔見知りだとすれば、事件の構図は、全く違うものになる。  最初に、わたしが、考えたのは、米子が峰子を殺して、峰子になりすましたという図柄だった。でも、ここに紀子を加えると、二人が共犯で、峰子を殺したという図になる。これらは、あくまで、亮一は真犯人でないという前提でのことだ。それは、勿論、亮一の弁護人という立場から、亮一の無罪の主張を信じた上での、推論だ。でも、高額の保険を掛けたことを亮一が知らなかったわけはない。知っていたから、保険金を降ろしたのだろう。この三人の関係が全ての謎を解く鍵だーー。  そう思い当たって、二人の聴取の日が待ち遠しくなった。 田島紀子と秋葉米子の二人の回復までには、医師の予想よりも時間が掛かり、一週間ほどして、事情聴取に耐ええるだけに体力が回復した。  有田弁護士と丸藤警部補は、また、Y警察署の車で、救急病院に出向いた。  桜井峰子という名前で入院している秋葉米子に会うために、有田弁護士は、秋葉亮一が、持っていた手紙を持参した。そして、快気祝いの花束と。  花束を渡した有田に向かい、米子は、深々と頭を下げて、お礼を言った。  「お礼なんていいのよ。それより、あなたには、本当のことを言ってほしいの。あなたは秋葉米子さんなんでしょ」  いきなり、ズバリと、核心を突かれて、米子は、一端黙り込んだが、  「そうです。そこまで、分かってしまったら、いつまでも隠しておいても仕方がないですね」  そう言って、訴えるように、有田の目を見据えた。  「何故、どうして、こういうことのなったのですか」  有田は、聞いた。  米子は、静かに、語り始めた。  「この替え玉殺人を思い立ったのは、夫の亮一が、事業を拡大して、その割りには、収入が増えず、借金ばかりが積もって、どうにも立ちいかなくなったからです。わたしは、小さいころから姉とは、仲が悪く、いつも苛められていました。姉は早々と結婚して家を出てしまい、わたしは、ずっと家に残って、老親の世話をしてきました。実業家に嫁いで、派手な生活をしている姉は、最初は羽振りが良かったのですが、夫が死んでからは、事業も傾き、そのころ結婚したわたしに、しばしば、借金の無心に来るようになりました。わたしは、夫に内緒で金をつくり、貸してやっていましたが、姉は借りるばかりで、返してくれないのです。わたしは、うちの家計を任されていましたから、どうにか工面して、やり繰りしていたのですが、夫の夢の実現には、どうしても資金が必要になり、姉に貸したお金を返してくれるように、言ったのですが、『もう、全部使ってしまった。子供のころから、可愛いがってきたのだから、そう厳しく言わなくてもいいでしょう』といって返してくれないのです。わたしは、死ぬまで一緒に手を携えてと誓った夫の夢の実現には、このわたしの命を引き換えにするしかないと考えました。それで、郵便局で保険の係をしていた高校の友達の田島紀子さんに相談しました。田島さんは、すぐにやって来て、いろいろと保険の事を教えてくれました。話しをするうち、田島さんも、家を新築したばかりで、多額のローンを抱えていることを知りました。そして、『夫を愛しているのなら、なぜ、命を捨てるようなことを考えるのか、一緒に添い遂げるのが、妻としての務めだろう』と諭すのです。そんな話をするうち、わたしが姉にお金を貸したのに返してもらえないことや、小さいころから、姉のお陰で苦労してきたことなども話したのでした。そうしたら、田島さんが『長い間、保険の仕事をしてきて、考えていることがある。うまくやれば、絶対大丈夫。あなたのような境遇の人を待っていた』と言って、この恐ろしい計画の粗筋を話したのです」  そこまで言って、米子は、口籠もった。その時のことを、脳裏に浮かべたのだろうか、恐ろしい計画の悪魔の囁きが、あった時の事を。  「それで、その計画に乗ったというわけですね」  「そうです。田島は、払われる保険金は折半するという条件を出して来ました。わたしは同意しました」  「それで、二人で殺した。一酸化炭素ガスは、どうやって作ったのですか」  「それは、車の排気ガスです。姉を呼び出して、三人で車の中で話し会ったのですが、話し合いが付かない時は、睡眠薬入りのコーヒーを飲ませて眠らせ、ホースで排気ガスを引き込んだ車中に放置するという計画で、その通りにしたのです。あの朝、車から、二人で姉を運び出し、ビニール・ハウスに放置しました」  「死体が、右手に握っていたビニールは、すると、ハウスのではないのですね」  「そうでしょう、車のシートのものだと思います」  「放置したあと、あなたは、峰子と入れ代わった」  「峰子さんは、そのころ、N市の喫茶店でママさんをしていたので、怪しまれないためには、峰子さんの身代わりにならざるをえなかった。わたしは、峰子さんに変身し、喫茶店に務めました」  「ところが、従業員が疑った」  「そうです。わたしは、利き手が左で、料理や家事はみな左手でします。でも、箸と鉛筆は右で持つように訓練していたので、分からないと思ったのですが、コーヒーを煎れる時や包丁を握った時の様子が、峰子さんとは違うと、感付いた従業員がいたので、辞めて貰いました。でもお客さんは、誰も気が付かなかった」  「たしかに、お宅の家事の道具や冷蔵庫を、見たときに、おかしいと思っていた」  丸藤警部補が嘆息しながら、そう言った。  「すると、夫の亮一さんは、このことを知っていたのですか」  有田弁護士は、一番知りたいことを聞いた。  「知っていたのではないかと思います。わたしは、一切、話してはいませんが、うすうす、気が付いていながら、死体の検視のときに、妻と認めたのではないでしょうか。わたしは、夫がきっとそうしてくれると信じていました。それは、言わなくても、心で分かっていました。夫は、そうするだろうという確信もありました」  「だが、まさか、その夫が逮捕されるとは、思わなかった?」  警部補が聞いた。  「そうです。計画は完璧だったし、実際に、事故死ということで、落着しそうになったのですから・・・・。それを、田島さんが裏切った」  「なぜです」  「計画では、ほとぼりが覚めて、保険金が入ったら、わたしが夫に真実を話して、受け取った保険金の半額を、田島さんに渡す予定だったのですが、夫が、渡してくれなかった。それに、田島さんは、自分が扱った保険契約に不信を持たれ、郵政監察局が調査に乗り出して、自分もその調査のために、駆り出されて、自分の立場を守るためにも、そうせざるを得なくなったのです」  「分け前をけちって、仲間割れから、発覚するのは、良くあることだ」  丸藤警部補はそう呟いたが、米子は、  「そうじゃありません。夫は、正義感から断ったのです。前の妻の時は、病弱なので念のために掛けておいた多額の保険金が入ったから、わたしが疑われるかも知れないが、このような不正が世の中に通るはずがない、と言っていましたから。分け前を断れば、こうなることは、予想していたのです」  「それで、無実の罪を被った」  米子の頬に、冷たいものが伝った。それを、気つかう様子もなく、ただ、激しく、すすり上げて、  「本当に、夫には、申し訳ないことをしました。死んでお詫びしたかったのに、死にきれずに、こんな醜い姿をさらしている。わたしは、悪い妻です」  あとに、激しい嗚咽が続いた。  「田島紀子を道連れに死のうと思ったのだね」  警部補は、構わず、追い打ちを掛けた。  「そうです。あの人さえ、いなければ、わたしは、こんな恐ろしいことをしなかった。だから、あの人を、店に呼び出した。あの人も、半分、死ぬ覚悟をしているようでした。そして、睡眠薬を入れたコーヒーで眠らせ、一緒にガス自殺を計ったのです」  「最後に、聞きたいのですが。あなたは、亮一さんに手紙を書いていますね。何度か」  「はい。あの人には、わたしが生きていることを、知っていて欲しかった。死ぬ時まで離れずにいようという約束を、わたしは忘れていない、ということを知っていて貰いたかったから」  そう言って、溢れ出る涙を、着物の袖で、拭った。    別室に入院していた田島紀子の病状は、重かった。米子が睡眠薬を飲ませていたので、その薬の効果で、ぐっすりと眠ったいたため、回復に時間が掛かった。意識が回復するまで、さらに、二日が必要だった。  丸藤警部補と有田弁護士は、回復を待って、事情を聴取した。  「秋葉米子が言ったことは、間違いないかね」  「はい、私が米子さんにアイデアを提供したことは、認めます。でも、車に誘いこんで、廃棄ガスを嗅がせたのは、米子さんです。そのあと、遺体を運ぶのを手伝ったのは、行きがかり上、そうせざるを得なかったからです。わたしは、実行行為はしていません」  田島紀子は、共謀を認めたが、実行行為は、否定した。だが、日本の刑法では、共謀共同正犯が立証されれば、罪の重さは、変わらない。  田島紀子は、自白をしてから、  「あまりにも、住宅ローンの返済が重かったから、出来心でやってしまった。私達もバブルの頃に、家なんか建てなければ、よかったんだわ」 と言って、泣きじゃくった。  そして、亮一と接見したのは、「自分のために無実の罪に陥れられている亮一に、申し分けないと思ったからです」と語った。  楽をして金を儲けようという、ひところの日本の浮かれ時代の犠牲者が、ここにも一人いた。    秋葉亮一は、Y拘置所から釈放された。その日のうちに、亮一は、米子が留置されているY警察署に面会に行った。  自分が逮捕されたときに、持って出た紙袋を持参した亮一は、米子に、面会室のガラス越しに、紙袋の中の手紙を見せた。  「これは、お前が、姿を隠してしまってから送ってきた手紙だ。わたしは返事を書いたが、住所が不明だったから、送れなかった。ここにそれを持ってきた」   亮一の示した一枚の手紙に、ふとい文字で書いてあったのは、  「共に墓に入るまで、鴛鶯の契りを忘れない」 というただ一行だった。   (終わり)