「鼠の遺産」  山道を登り切ると、急に展望が開けた。  武州と信州とを隔てるその峠に茶屋はない。  一時、武州秩父郷の商人が、峠の一隅に粗末な小屋を建てて、旅人に茶を供していたが、それも、今はない。麓から水や茶菓子を運び上げる人夫の手間賃が高くて、とても、商売にならなかったからだ。  だが、人馬の通過は絶えない。遠く江戸の方から信州に入る物資、信州から江戸へと運び込まれる産物を積んだ牛、馬車や人の往来が結構多いのだ。  山崎総次郎と常の二人連れが、その峠に差しかかった時は、日はまさに西に落ちようとしていた。秋の日は釣瓶落としだが、春の日の行くのも速い。  秩父の町を出たのは、昼前だったのに、女連れの足の遅さもあって、山道に手間取り、峠にたどり着いたころには、日は西の峰々の間に、一気に落ちていった。  「日が暮れてしまったが、休むところがないぞ。今夜中にどうしても、村に着かなくてはな」  編み傘を被り、脇に両刀をたばさんだ総次郎が常に声を掛けた。  「はい、あなた。私がお荷物になってしまいましたわね。足のまめが潰れてしまって、痛くてなりません」  常は消え入りそうな声で、ぼそぼそと、答えてから、総次郎の胸に倒れ込んだ。  「これでは、とても、先には進めぬ。すこし、休んでいこうか」  常の爪先を眺めて、総次郎は、そう決断した。  総次郎は、道端に大きな切り株があるのを見つけ、その場所へ常を導いて、腰を下ろした。切り株を半分ずつに分けて座っていると、お尻がぶつかって、互いの体の温もりが伝わってくる。総次郎は常の豊かな臀部の張りを、大島紬の着物の布を間に置いて感じて、右の腕を常の腰に回して、引き寄せた。  「段々、暗くなっていきますね」  常はまめが潰れたという右足の足袋を脱いで、赤く腫れ上がり、血が滲み出た指先に持参の軟膏を塗り付けた。  「ああ痛い。しみるわ」  常はしかめ面をして、声を上げた。  「どれどれ、俺がみてやろう」  総次郎は常の足元にしゃがみ込んで、患部に手を伸ばした。  そして、口を持っていって、患部の滲んだ血を吸いだした。  「まあ、あなた、そんなにまで、してもらうと。でも、ほんとにいいわ。ずっと、痛みが薄くなる。でも、こんなことをしているのを誰かが見ていたらどうしよう」  常は痛みをこらえながら、世間の目を憚った。  「今時、峠を通る人はいないよ」  ここで休んでいるのは二人だけだった。  昼間はあれほど人馬で賑わっていた峠も、わずか、ここ半時ばかりで、すっかり往来が途絶えた。他の人馬は、二人を追い越して進み、足の遅い二人はとうとう最後に取り残されたのだった。  周囲は暗くなってきたとはいえ、天空は晴れていた。日中は抜けるような晴れだった。それが、夜にも続いていたが、気温は急激に下りだした。初春の夜の寒さは、峠では体に応えそうだった。  「さあ、足が落ちついたら、すぐに、立とう。今夜中に着かなくてはな」  常は処置を終えた足に足袋を履きなおし、草履の鼻緒に通してから、  「あいよ、お前さん。合点した」  と気合を入れて立ち上がった。  西の空に宵の明星が光っていた。天空の星の数が増したが、地上は闇の中に落ちた。灯りを持たない二人は、暗闇の中を、両目を頼りに、下り道を行くしかない。  道を下りおえたのは、朝の日が登りはじめ、暖気が寄せて来る頃だった。二人は夜っぴて歩きつめに歩いて、その村にたどり着いた。村の家々からは朝食の飯を焚く竈の煙が立ちのぼっていた。  二人が立ち止まったのは、畦道沿いに長い土塀を巡らした大きな屋敷の中央部にある大きな構えの門の前だった。門には扉はない。二人は、構わず、中に進み、庭に張り出した玄関口に立って、  「頼もう、頼もう」  と二度唱和した。  中から、若い男が現れて、二人を迎えた。  「おや、総次郎さんとお常さん、お早いお着きで、さあさあ、中へ」  と招き入れ、足を洗うための盥を用意させた。  客間に招き入れられた二人は、お茶を一口、啜ったあと、粥に漬物、味噌汁の朝食を供され、一息ついた。  「書面では、伺いましたが、この度は、大変なことになりましたな」  二人が、落ちついた様子を見て、若者が聞いた。その構えは堂々として、一家の主人の風格だった。  「はい、いつかこの日が来るのは予想をしておりましたが、とうとう。覚悟はしていたのですが」  総次郎が、首をうなだれて、やっと、そう言った。  「だが、次郎吉さんも、あそこまで有名を馳せたんだし、思い残すことはないでしょうな」  それは、一見、冷たい言い方のように、響いたが、音調が落ちついていたので、二人の胸に響いた。  「そうです。やりたいことは、やりましたからね。思い残すことはないと思います」  下を向いていた常が、初めて口を開いて言った。  秩父地方の山中に身を寄せるようにして、数個の集落が点在しているが、二人が息せき切って訪ねた日野沢郷重木の村落は、なかでも、もっとも、人里離れた急峻な場所にある。急坂の両側は天にも届くほどのコンニャク畑で、その斜面の中腹にある広壮な屋敷がいま、二人が落ちついた中庭蘭渓の家だった。  中庭家はこの地区の名主を代々務めてきた素封家である。その村史によると、  ーー 日野沢重木に禊教教師、中庭保道という者があった。文化二年の生まれにて、幼名を西次郎と称し、蘭渓と号す。代々中日野沢の名主を勤め、幼にして江戸に出で、和漢の学並びに医学を修め、名主の傍ら医を業とし、なお塾を設けて近郷の者に学問を教授した。また、書画に妙を得、蘭渓の名は近郷に知られた・・・・・・。  とある。  その蘭渓は、この時、二十歳。父の早逝で家督を継いで一年後のことだった。  「それで、どうだったのだ。その時の様子は」  「はい、親方はあの晩、越後屋で仕事をしました。手下は私らを含めて五人でした。裏の蔵に忍び込み、中に入って、千両箱を運び出したまでは良かったんですが、その千両箱が意外と重くて、一人では運べない。二人でやっとの重さでした。ですから、狙っていた分は諦めて、時間内に出来るだけを運ぼうと、方針を変更したんです」  「ははん、そこらのことは、私にはよく分からん」  「まあ、聞いてください。それで、一応、十五箱程は運び出して、荷車に乗せました。それで、仕事は終わりですが、罠があったんです」  「罠というと」  「やつらは、町奉行と吊るんで、俺たちを罠に掛けたんです」  「うん」  「どうも箱が重すぎると思ったんですが、鉛を入れて、わざと重くしてあったんですよ。でも、親方は箱運びはしませんから、そんなことはわからない。数が少ないと言って、残してきたのを運び出しに戻っていった。わしらは自分の仕事が、第一ですから、一応、止めるのは止めたんですが、運び出した千両箱を荷車に積むのに忙しく、積み終えたら、すぐに、走りだしたんです」  「それで、次郎吉は」  「戻っていったまま、出てこなかった、と言うわけです」  「だが、それで捕まったという訳じゃないだろう」  蘭渓の問いに、今度は常が身を乗り出した。  「ところが、翌日になって、とうとう、鼠が捕まった、という噂が、江戸の町に流れたというわけでして」  「だれか、それを確認したのか」  「いや、だれもしてません。ただ、親方が姿を見せないのは事実です。一昨日、一日待っても帰ってこなかった。それで、ひょっとして江戸を逃れて、こちらに来ていないかと、昨日思い付いて、総次郎さんと一緒に、駆けつけたというわけです」  そこまで聞いて、蘭渓は頷いた。  「そうか、だが、来ていないよ。今のところはね。だが、これから、姿を見せないとも限らない。ここは、一日、こちらで様子を見てはどうだね」  蘭渓はそう提案して、二人の労を労った。  (思えば、あの鼠とは、切っても切れない腐れ縁で結ばれているものだ)  と蘭渓は、改めて、因縁の強さに感じいっていた。幼名、吉蔵と言った新井忠次郎は、蘭渓の幼友達だ。山向こうの吉田郷大字石間漆木部落の小さな農家に生まれた吉蔵は、体は小さいが身のこなしは素早く、子供たちが競った兎狩りでは、いつでも、一番の捕獲数だった。木に登っても、一番早く頂上に行き、他の友達を、見下げていた。  そういう吉蔵は、だが、親しい友達が、いなかった。遊びのなにをやらせても、一番になってしまうので、他の友達は遊ぶのを嫌がり始めたからだ。そのとき、こちらの村の蘭渓が、ひょんなことから、知り合いになった。最初は、身のこなしが俊敏な吉蔵に、柿泥棒の手助けをしてもらったのだが、蘭渓は、体を動かすより、頭を使うほうが得意の学者型だったから、吉蔵の運動能力に魅せられて、よく、一緒に遊ぶようになった。なにしろ、川へ行けば、魚を手掴みにして捕まえ、鳥も隙を見て、直接、捕まえた。蘭渓は、それを見ているだけで楽しかった。  吉蔵も、向こうの村にはいない学問が出来る蘭渓に、幼いながらの敬意を払い、二人の関係は、凸と凹がかみ合うように、良好に続いたのだった。  時には、中庭家の庭にある土蔵に籠もって、村の娘と悪さもした。  ーー ずいずい、ずっころばし、ごまみそずい、茶壺に終われて、どっぴんしゃん、ぬけたら、どんどこしょ、俵の鼠が米食って、ちゅー、ちちゅーちゅー。  雨の日は、暗い土蔵で、幼い性の興奮を共有したこともあった。  (あの幼い日の楽しい思い出を、大切にしたい)  という気持ちは蘭渓の心のなかで、人一倍強かった。  その吉蔵が、子沢山故の口減らしのために、出奔してから、蘭渓は、その行く末を気にしていたが、十年を過ぎたころになって、江戸の町を騒がす怪盗、鼠小僧次郎吉の噂が、奥深い秩父の山間地にも、伝わってきた。なかには、奉行書が出した人相書きを持って、訪れる知人も居た。その人相書きを見てから、蘭渓に  「ひょっとしたら」  の気持ちが芽生えた。小さな顔の輪郭に、米粒のような両の目と、細い鼻、とがった口が描かれていたその画は、吉蔵の顔の特徴をよく捕らえていたからだ。  そう考えていた天保元年に、村は未曾有の飢饉に見舞われた。もともと、稲作を中心にできる土地ではなく、農民たちはその代わりにコンニャクを栽培し、稗や粟で糊口を凌いでいたから、米作の不作では、そう打撃を受けなかったが、この年はその雑穀さえも枯渇し、農民たちは山野の野草や木の根を煮て飢えを凌いだのだった。  年貢米も作れない状態のなかでも、代官の取り立ては厳しく、農民たちは憤怒を募らせていた。年貢を納められずに、自殺したり、夜逃げをする者が続出した。年貢納付のまとめ役である名主の中庭家は、農民と代官の間に挟まって、苦悩した。年貢は物納が建前だが、産物が採れないのでは、出しようがない。代官所と掛け合った結果、代わりの物産か金納も許すという特例が出された。だが、そうなっても、もともと、金などないのだ。  蘭渓は進退極まって、自分の屋敷の処分なども申し出たが、自由に土地を処分することが出来るわけでもない。農民を土地に縛りつけておくのが幕府の政策なのだ。だが、年貢を免除するわけでもない。  そのとき、江戸から、荷物が届いた。送り主は、「鼠」とだけあった。乾物と海産物の荷を装った荷物の下には、小判が百枚、入っていた。  蘭渓は、そのとき、初めて、あの世間を騒がす怪盗が、吉蔵の今の姿であると確信したのだった。  飢饉が過ぎた翌年、その吉蔵は、お忍びで蘭渓の家を訪ねてきた。旅の行商人の姿に身をやつし、子分五人を連れての里帰りだった。村人たちは、本人の言う、  「江戸で商売に成功した」  という言葉を真に受けて、歓待したが、蘭渓だけは、本当の姿を知っていた。だが、それを表に出すことはなかった。派手な伊達者の装いで、屋敷を訪れた吉蔵に、  「その節は、有り難う。あの金で助かったよ」  と、礼を言っただけである。  それで、全てが通じた。吉蔵は、目でその意味を理解したことを伝え、蘭渓も納得したのだった。この里帰りで、同行した中に、いま、目の前に総次郎とお常もいたのを、蘭渓は忘れていない。だからこそ、二人は、いきなり、話を始めたのだった。それに、誰かからは分からないが、書状が届いていた。それには、  ーー 鼠小僧次郎吉親分は、行方を眩ましました。立ち寄りのことあれば、ご寛恕をーー  とあった。  だから、蘭渓は、この事態を予想していた。    鼠小僧は江戸では、義賊と呼ばれていた。幕府財政が逼迫し、庶民の懐具合いも、緊縮を余儀なくされるなかで、重い公課が生活を苦しめていた。一方で高利貸しや豪商らは、進む貨幣経済に支えられて、益々資産を増やし、豪奢な生活を営んでいた。  庶民の彼ら、金持ち層への羨望と妬みは、ますます募り、武士階級も思うように増えない家録とますます高騰する物価に家計は圧迫され、社会の階層間の軋轢が、増していた。  そういう社会状況のもとで、夜盗や追い剥ぎがばっこし、夜道の一人歩きは、危険極まりないとされ、日が落ちた後の江戸の町は、寂しい往来があるだけの閑散としたあり様を呈していたのだ。  その人っ子ひとりいない夜闇に乗じて、豪商の蔵を狙う怪盗が、現れた。その怪盗は、人家の屋根を伝い、足音も聞こえぬ忍び足で、屋敷に忍び込み、蔵を破って千両箱を持ち去る。地上に足跡は残さない。屋根から屋根へと伝い歩き、瓦の音さえさせずに、見事に、お宝を持ち去るのだ。  そういう被害が続いたあと、暮らしの貧しい長屋暮らしの家々に、小額ずつの金銭が投げ入れられるようになった。住人が、和紙の包みを開いてみると、鼠の絵柄が描かれた上に、「鼠の恩返し」との文字が見えた。  住人たちで、鼠やノミの被害に会わない者はいなかったから、これは、そうかと納得の行く話だったのである。  鼠は、大切な米を食った。米でなくとも、人間の大切な食料を奪う悪者だった。だから、このころ、庶民の家では猫を飼う家もあったが、それは、かなりの資産のある家のことで、最下層の職人や手間賃稼ぎの仕事に勤しむ長屋の人には、縁のない対策だった。だから、かれらは殺鼠剤の「ねこいらず」などを使って、鼠殺しをするしかなかった。それでも、鼠は撲滅できない。それに、鼠は愛くるしい面もあり、何でも稼いでくる姿から、商売繁盛の象徴として、祀られることもあった。嫌われる面と愛される面との両面を持った面白い動物だった。  「鼠が金を運んできた」  という話は、またたく間に、江戸の市中に広がった。そして、その金はどこから来たかが、詮索された。その結果、豪商から盗まれた金が、資金源ではないか、との推測が広まり、定着した。「鼠」と書いて金を投げ込む怪盗は、庶民の金を搾り取って羽振りがいい暮らしをしている金持ちから盗んだ金を、配っているのだ、ということになったのである。  庶民には、その真偽は明らかでないが、こうして、江戸末期の義賊、鼠小僧の神話が生まれたのである。  その鼠小僧、新井忠次郎は、実は、追っ手をうまく逃れて、板橋宿に隠れていた。千両箱を取りに戻ったところ、蔵の中に不審な人影を見つけて、罠にかかったと察知したのだ。鼠は、それで、また、表に引き返し、屋根伝いに裏手に逃れ、人の居ない江戸の夜を、走りに走って、北の外れの板橋宿に明け方に着いたのだ。ここまで来れば一安心と、馴染みの「山城屋」に入った鼠は、二階の一部屋に案内され、翌日の昼過ぎまで、こんこんと眠った。そして、遅い朝昼兼用の食事をしたあと、考えたのは、これから、どうしようか、ということだった。  仲間は、上手くやっただろう。それにしても、最初の荷出しで、捕まえずに、二度目の侵入を待っていたのは、明らかに、俺を狙っていた、と役人たちが仕掛けた「鼠取り」の巧妙さが、憎かった。その上を俺は行ったのだ、という誇りより、そこまでして、俺様だけを捕まえたいのか、と恐ろしくなったのだ。  確かに、町奉行所の狙いは、鼠一匹に絞られていた。仲間を一網打尽にするより、首領を一人捕まえるほうが効果的だ、と考えていたのだ。今の時勢で、罪人一人を抱えるだけでも、幕府の出費はバカにならない。それに、獄舎はもう満員なのだ。首領の意向が色濃い組織はトップを捕まえるのが、最も効果的だ、と考えても無理はない。  (ここまで、来たからには、思い切って遠くに逃げようか)  とも考えたが、懐には先立つ物がない。盗んだ千両箱から、幾らかでも取っておけば、どうにでもなったのに、とほぞを噛んだ。  こうなれば、知り合いを頼って、仲間に連絡を取るしかない、と考え直し、中仙道から浅草橋に向けて、取って帰した。その地には井上正鉄という最近知り合った易者が住んでいる。館林藩の下級武士の家の出ながら、諸国を放浪し、医術や観相術を学んだつかみどころのない男だが、人生の裏街道を行く男同士の意気が通じて、なぜか、鼠と気が会ったのだ。  井上の家は、四軒長屋の外れにあった。鼠がその家の引き戸を開けて、入ろうとしたとき、井上は、まだ、寝ていた。もう四つになっているのに、この男は、起きるのが遅い。そういう、自堕落な生活を、もう長い間、送ってきた。寝起きが遅いのは、鼠も同様である。なにしろ、夜の稼業だ。仕事を終えて、昼過ぎまで寝なければ、体が持たないのだ。  「御面なさいよ。正さん。ちょっと、厄介になるよ」  鼠が奥に声を掛けると、襖の向こうで、人が立ち上がる気配がした。それから、暫く、上がり框で様子を伺っていると、襖が開いて、口と顎の髭を伸ばした正鉄が姿を見せた。  「どうなさったね。突然に。まあ、あがらっしゃい」  「招きに応じて、座敷に上がった鼠は、  「いや、いつもの事ですがね。追手を逃れて、こちらへ足が向いてしまった」  「いつものことって、家にははじめてじゃあないかい」  「そうでした。ちょっと、ほとぼりを覚まさせてもらおうかと」  「それはいいが。追手は迫ってはいないのかい」  「それは、もう、大丈夫です。ただ、真っ直ぐ、仲間に会いに行くのは危ないんで」  「それなら、いいでしょう。無事になるまで、いなさいな」  鼠はその言葉に一息ついた。  「なにも、ないが」  と言いながら、出してくれたほうじ茶が旨かった。  そもそも、この井上という変わった男と知り合ったのは、賭場だった。深川の忠太郎親分のお開帳で、隣に座ったのが、この髭もじゃの客だった。二人は、そこそこに負けて、すごすごと座敷を引き上げたが、帰り道で一緒になり、神田の藪蕎麦で、残念会を、二人だけでやったのだ。そのとき、井上は、「館林藩の素浪人」と名乗ったが、鼠は、「上野の芝居小屋で下働きをしています」と表の稼業を言ったのだった。  いずれも、正業ではない。諸国から人々が流れ込む江戸の町でも、根無し草の一群に間違いのないと知れる職業だ。  こうして、最初の出会いでは、何ということもなく別れたが、次の出会いが、二人の仲を近くした。今度は、浅草の専太郎親分のばったまきの賭場だったが、この時は、二人とも大勝した。そして、引き上げようとしたとき、若い者といさかいになった。例によって、「勝ち逃げか」と揶揄する客がいた。それには、愛想よく、「いえ、以前に十分負けまして」と交わしていたのだが、帰り口で、接客係の若い者に、「お早いお帰りで」と言われたのが癇に触った。「早くて悪かったな」と売り言葉には買い言葉の応酬となり、若い者に加勢した手下らに取り囲まれた殴られて、怪我をした。  その様子を見ていた井上が、間を取りなし、額から血を流している様子を見て、「家で、治療しよう」とこの家に連れてきた。井上は、医術の心得があるらしく、丁寧に薬を調合したうえ、傷口を塞ぎ、完璧な治療を施してくれた。それ以来、鼠は、井上に頭が上がらない。なにか、お礼をと考えたが、特に、思い浮かばず、粗末な生活の様子を見て、盗んだ小判十両を持って、翌日訪れたのが、親交の始まりだった。  以来、鼠は折りにふれて、井上の長屋を覗いて、家計の状態を探った。なにしろ、井上は稼ぎがないのだ。それに比べ、鼠には、時折、大金が入る。その翌日は大変だが、どうにか、凌げば、また、機会は来る。それに、今では義賊とさえ言われるほどに、庶民に知られるようになった。配って歩く金の一部を回したと思えばいいのだ。だが、こちらでは、顔を知られているのが、違っていた。  (一人くらい、顔も名前も知りながら、金を渡す相手がいてもいいだろう)  と鼠は考えたのだ。  その井上は、ここ暫く家にいなかった。鼠が金を渡すと、  「暫く、お伊勢様に参拝している」  とお伊勢参りに出掛けていた。だが、その「しばらく」は長かった。それから、一年ほど、この家に帰らず、鼠の足も疎遠になっていた。帰ってきたとき、井上は、観相術という占い術を会得していた。それから、この術を生かして、内藤新宿の鳴子坂でぜい竹を鳴らして、大道占いで稼ぎはじめた。だが、それほど稼ぎはなく、この間も、鼠は金銭を工面してやっていたのだ。  そのうち、医術の幅を広げようと、浅草橋の指圧師、浅井仙庵について、指圧を学んだ。そのころが、鼠の活躍の最盛期で、師匠へのお礼もやや過分のものになったが、心配はいらなかった。  井上は指圧をものにしながら、その最中に独自の感通術を編み出した。いまや、その独創の医術を学ぼうと、弟子の申込みが相次ぎ、そろそろ、鼠の援助も要らなくなりつつあったのが、この時だったのだ。  だからか、井上の態度は落ちついていた。経済的な余裕が、人を変えたのだ。息なり駆け込んだ、鼠にたいして、鷹揚な対応をしたのは、その現れだろう。    上野の隠れ家に無事、帰り着いた鼠の子分たちは、丸一日、親分の帰りを待っていたが、姿が見えないので不安になった。これまでも、親分一人が遅くなることはあったが、明け方までには必ず、帰ってきていたから、これは、異常事態だった。翌日、昼過ぎに、紅一点のお常が、女歌舞伎の旅役者の姿に変装し、鳥追いの編み傘に黄八丈の絣の着物を着て、町中を探索してみた。  「鼠小僧が捕まった」  との噂話が聞こえてきたが、その姿を見た者は一人もいなかった。ただ、根も葉もない噂話だけが、春風に乗って流れていたのだ。  こうなれば、親分は、逃げ延びたのに違いない。しかも親分のことだから、危ない江戸にはいないだろう。とすると、いつも言っていたように、生まれ故郷の奥秩父に違いない。親分は、  「俺が最後に逃げ込むのは、山里の実家だよ」  と常々、言っていた。  「それなら、無事を確かめに行かねばならないだろう。お宝をどうするのか、指示を仰がねばなるまい」  と衆議が一致して、若い山崎総次郎と恋仲のお常が、その役を果たすことになったのだ。山崎は侍姿に変装し、お常はその連れ合いの格好をした。だが、山崎は江戸は佃島の建具職人の息子、お常はその島の周辺に夜毎、出没する夜鷹が、実の稼業だった。鳥追い姿が、しっくりしていたのは、そのせいもある。  二人は中庭蘭渓宅に、二日逗留したが、鼠の姿は現れなかった。いつまでの世話になっているわけにはいかない、と三日目には江戸に取って帰した。来た道と同じ峠を越えていく。  昼頃には、峠に着いた。お天とうさまが、頭の真上に来ていた。遠くから鶯の鳴き声がした。下界は薄く霞が掛かり、雲の上を進んでいく気配だ。もう、小一時も歩いたから、じっとりと汗ばんできた。峠に着いたら、一休みしようと、頑張ってきたので、見慣れた大石の前に立ったときは、大きく息をついた。  「ここで、休んでいきましょう。蘭渓さんが、くれた握り飯をいただきましょうか」  総次郎が、呼びかけ、お常も従った。  行くときに足のまめを治療するために座り込んだと同じ場所に、腰を降ろして、風呂敷包みの弁当を広げた。竹の経木に包んだお握りが四つ顔を出した。  面前を行き交う人馬の数は、そう多くない。皆、頂上のこの辺りで一休みしていく。おもむろに、煙草入れから刻みを出して、一服付ける馬丁がいれば、座り込んで、無駄話をしている籠掻きもいた。いずれも、峠を抜ける爽やかな風の涼気を楽しんでいた。  二人が、握り飯を食べおわり、岩の裂け目から湧きだしている湧き水を汲んできて、流し込んだあと、立ち上がろうとしたときに、秩父の方向から、登ってくる荷駄が見えた。  背の低い馬の背を、跨がるように交差した綱の両端に黒い箱が二つ吊り下がっていて、重そうだ。良く見ると、後ろに同じ格好の荷駄が、一頭付いてきていた。会わせて四つの箱を、背は低いが、力がありそうな、二頭の馬が運んできた。  「あれは、千両箱だな」  先に歩き始めた総次郎が、後ろを向いて、常に話しかけた。  「この辺りは、お金の行き来も多いんでしょうね。物や人の往来がこれだけあるのだから、珍しくはないんでしょう」  「それは、そうだが、何処かで見たような千両箱だな」  「千両箱なんて、みな同じ形ですよ。そんなこと、よくわかっているじゃあありませんか」  二人の裏稼業からすれば、千両箱も見て驚くのは、確かにおかしい。だが、二人が見るのは、殆ど、夜だ、朝方には、上野のアジトの倉庫に入ってしまうから、昼日中の明るみで、見たことはそうないのだ。  「だが、ごくこのごろ、見たような気がする」  総次郎は、記憶の近いのを主張した。  「なら、確かめたみなさいな。あの、馬丁に聞いてみなさいな。どこからどこに運ぶくらい、教えてくれるでしょうな」  馬丁は、手拭いで頭から頬かむりしていて、顔が見えない。背格好は小さいほうだ。  「もしもし」  総次郎が、そちらの方に寄っていくと、馬丁が、こちらに顔を向けた。  目を会わせて、二人は驚いて、飛び上がらんばかりだった。  「ああ、驚いた。親方、どうしたんですか」  総次郎がまず、気を取り直して、声を上げた。  「いや、総次、びっくりしたな。こんな所で、出くわすとは」  頬かむりを外さず、鼠の親分が言った。  二頭の馬を、隅の松の木に繋いで、親分は二人の所にやって来て、座り込んだ。  「こうして、お前たちに会ったのも、神様のお導きだ。話しておかなきゃならないことがあるんだ」  頬かむりを外して、話しだしたのは、意外な決意だった。  「あのあと、おれは、追手に追われて、板橋宿まで、逃げた。このときは、田舎へ帰ろうかと考えていたんだが、思いなおした。田舎に帰るには、それなりの土産が必要だ。その土産は、お前たちが持って逃げてしまった。だが、アジトに帰るのは危ない。そこで、予てから知り合いの井上正鉄という感通師の家に隠れることにした。こいつのことは、あんたたちは知らないだろうが、おれの最近の友達だ。そこに籠もって、考えたのは、おれもそろそろ潮時だ、ということだ。もう十分、お蔵は開けたし、江戸の民にも振る舞った。それそろ、引き時だと、考えたのさ」  これには、二人も驚いて、  「ええ、親分、稼業を辞めなさるんで」  「そうよ。そう決めたんだ。もう危ない橋は渡りたくねえ。十分、稼いだんだからな。それに、おれはこのごろ、癪がでて、止まらない。息を吸うのが苦しいんだ。悪い病気が、体の芯に入ってしまったのかもしれない。根気が続かなくなったんだ。これじゃ、おめえたちにも、迷惑を掛けるばかりだし、そろそろ、引き頃だと思ったのさ」  「それで、その荷は」  「ああ。これは、井上に頼んで、隠れ家から、持ち出してもらったんだ。おれの分け前さ。今度の一件だけじゃなくて、長い間の御苦労賃も含めて、幾らか多く貰ったよ。お前たちのは、隠れ蔵に置いてあるから、心配いらない。それから、今度の一件の分配は、仲間だけにした。世間様にはご勘弁願って、今回だけは、仲間うちで、分けることにしたんだ。最後にするんだからね」  「そうですかい。親分がそう仰るなら、仕方ありません。この鼠仲間は、解散ですかい」  総次郎が、尋ねた。  「そうなるだろうな、わがまま言ってすまねえ。他の連中は、快く受け入れてくれたが」  「そうですかい、なら、私らも、気持ち良く、親分の決めたことには従いましょう」  隣のお常も、頷いた。  「ですが、追手は親分を逃しやしませんよ」  「そうさ、それで、俺は急いでいる。夜中とはいえ、隠れ家から千両箱が、運び出されたのは、いまごろは、もう知れているだろう。関八州取締役配下の十手持ちが、この道を追っているさ」  「行くのは、中庭さん宅ですか」  「そうだな。最後に、蘭渓に会っておきたい。伝えておきたいことがあるんだ。おれのわがままを聞いてくれ」  「わかりました」  総次郎は鼠の両手を取って、しっかりと握り、顔を歪めて、下を向いた。お常も感極まった表情で、今にも泣きだしそうに、総次郎の肩に崩れ落ちた。  「そうそう、長居もできない。遅れれば遅れるほど、追手が追いつく。そろそろ、行くよ。馬が二頭では、追手の足にはかなわないからな」  親分は立ち上がり、馬のたずなを引いて歩きはじめた。  総次郎とお常も立ち上がり、反対の方向に、降りていった。二人が、十手を持った四人の男に出くわしたのは、峠を下った麓だった。秩父の町が、もうすぐそこに来ていた辻道を、一目でそれと分かる風体の男たちが、街道の人たちを押し退けて、峠に登って行ったのだ。  二人はその男の集団を、旅籠の屋根の下に影をひそめて見送った。  (親分は、もう峠を下ったろうか)  二人は目を見合わせた。  時間的には、もう、日野沢郷の村はずれには、着いているはずだ。追手は間に合わないだろう。峠を登るのは、馬でも辛いが、下りは倍の速さで行ける。   峠を下って、中庭家の庭に二頭の馬を引き入れた鼠の親分は、突然の来訪に驚く蘭渓に客間に招じ入れられて相対し、  「お久し振りでございますな」  と型通りの挨拶をしたあと、  「そう、時間がござらん。追手が来る前に」  と言って、話を初めた。  「実は、私は江戸で油商人をして、この飢饉に乗じて大儲けをしましたので、そろそろ、危ない仕事から足を洗おうと思うようになりました」  この前に会ったとき、鼠は江戸に出て、成功した商人だと自称していた。だから、この線にそっての説明だ。だが、蘭渓にはそれが嘘だと分かっている。  「そういう気持ちになって、思い出すのは、どうしても、自分が生まれ育った古里です。貴方も御存知のように、我が家は貧乏人の子沢山で、いまは、父母とも亡くなり、家屋敷も処分して、なくなってしまいましたが、子供の頃、兎や魚を採ったり、貴方と遊んだことは懐かしくて忘れられない。この里が私を育ててくれたのに、これといって、何の恩返しも出来ずに、ここまで来てしまった」  「そうですかい。みんなそんなもんですよ。自分の暮らしで忙しいんですから」  「いや、それじゃあ、いけない。おれは、もう、江戸では十分稼いだんだから、恩返しをしたくなった」  「それで、あの荷を運んで来られたのかい」  「そうです。千両箱が、四箱。生荷で申し訳ないが、受け取っていただきたい」  鼠は、小さな目を真っ直ぐに向けて、申し出た。蘭渓には、あの千両箱が、どういういわれのものなのか、大体の想像はついた。目の前に座っている幼名、新井吉蔵は、いまは、江戸の町では、鼠小僧と呼ばれている怪盗なのだ。どこかの、大店の蔵から盗み出したのに違いない。だが、鼠は、  「追手に追われている」  と言う。ぐずぐずしている余裕はなさそうだ、と即座に判断して、  「よし、分かった、事情はあるだろうが、ここは、暫く、あの荷をあずかろうぜ」  と合点し、家作人らに言いつけて、裏の土蔵に運び込み、厳重に囲いをして、二重鍵を掛けた。馬は、山の上の畑に連れていき、手綱を放つと広い草原を駆けていき、遠くの森の中に消えた。  そうした、段取りを全て終えたころ、門口に追ってきた十手持ちが姿を現した。  「すまないが、こちらに、男が逃げ込んでこなかったかい」  応対に出た蘭渓に、先頭の恰幅のいい男が、聞いた。名乗ったところでは、「神田の源次という地回り」だという。見たところ、なかなかの偉丈夫だ。蘭渓は、鼠の意向どおりに、 「いま、江戸から、人が着いたが、その人のことかい」  ととぼけて聞いた。  「江戸からの客人なら、それに違いねえ。その男を出してくれないか」  と源次親分は迫った。  鼠はすでに、心を決めている。あの荷駄を渡してしまえば、自分は素直にお縄を頂戴する積もりでいるのだ。  「では、ちょいと、こちらでお待ちを」  蘭渓は、親分たちを座敷に招き入れて、茶を出した。そして、裏の茶の間に入って、 「吉ちゃん、来たよ。行くのかい」  と聞いた。鼠は素直にただ、頷いた。  「そうか、じゃあ、お別れだな。もう会えないだろうなあ。なにか、言いたいことはあるかい。あの金をどうしたいとか」  蘭渓は、感極まって、聞いた。  「あの、千両箱の金は、皆のために使ってくれ。この村で必死で生きている名もない人たちのためになるように、役立ててくれ。それだけだ」  鼠はそう言って、立ち上がり、表の客間に出ていった。  「どうも、お騒がせしました」  頭を垂れて、両手を出した鼠に、源次親分は縄を掛けた。そして、  「持って出た千両箱はどうした」  と型通りの質問をした。  「ああ、あれですかい。逃げるのに邪魔になったので、崖の上から川に棄てました。馬は、逃がしてやりました」  鼠はすらすらと、自白した。追手に取っては、金は問題ではない。重い千両箱を取り戻して運ぶ帰るより、目標はこの怪盗の逮捕なのだから、怪盗一人を捕まえれば十分の手柄だった。千両箱は、この男の盗みの証拠には違いないが、いまさら、そんな証拠より、この男を捕らえるほうが先決だ。  源氏親分に促され、鼠も立ち上がった。先程、馬と荷駄とともに入ってきた門を、縄に括られた姿で出ていったのを、外まで出て見送った蘭渓は、  (江戸の町を騒がせた怪盗のこと、死罪は免れないだろう)  と推察し、両手を会わせて、深々と頭をさげた。  罪人の搬送は、籠で行くのが普通だが、この時は、まだお裁きの出る前だから、今で言う被疑者である。鼠は後ろ手に縄を掛けられたまま、徒歩で江戸への道を引き返した。途中、何人もの人に会う。だが、鼠は昂然としていた。遠くで見とがめた人たちは、速くから道端に身を引いて、鼠の行く道を開けた。それは、単にお縄を掛けた男がやってくるというためだけではなく、この男自身が発散する目に見えない熱戦の放射によって、そうせざるを得ない感じだった。体は、小さいがこの旅のときの鼠は、二倍も大きく見えた。  鼠小僧次郎吉が、小塚ッ原の刑場で磔刑に処せられたのは、天保三年(一八三二年)八月十九日のことである。  鼠は、南町奉行の筒井和泉守政憲の詮議をうけ、その容疑の全てを認めた。なかには、思い当たらぬ咎もあったが、鼠は数え上げられた罪科の一つも否認しなかった。その後、小伝馬町の牢屋で七日程過ごしたあと、朝から晴れ上がった快晴の夏の日に、野次馬が詰めかけた処刑場で、執行吏に竹槍で胸を十文字に突き刺されて、果てた。夏の太陽の照り返しが酷かったが、その死に顔は爽やかだった。二十七歳の人生を、疾風のように駆けて、露と消えたのだった。  山崎総次郎とお常は、この親分の処刑を、小塚ッ原に見に行った。世話になった親分の最期の姿を、瞼に焼き付けておきたかったのだ。その朝、前夜一睡も出来なかった眠い目を擦りながら、早めに家を出た。上野の隠れ家は、とっくに暴かれてしまったので、泊まっていたのは、浅草橋の小さな旅籠だった。連れ立って宿を出た二人は、手を携えて、道を急ぎ、刑場に来た。到着したのは、五つ時だった。ぽつりぽつりと人が集まっていたが、二人は天を突く形でしつえられていた十字の白木が、一番良く見える最前列に陣取って、処刑の開始を待っていた。  二人がこの場所に来たのは、真近で別れをしようというだけではない。刑を終えたあと、遺体を引き取り、弔いをするためでもあった。獄門でないかぎり、死刑執行後の遺体は直ちに関係者に引き渡される。鼠の罪は重大だが、罪を素直に認めたのと、江戸の庶民の「世論」も配慮してか、筒井和泉守は、刑罰の中で一番重い「市中引き回しのうえ、磔、斬首」の刑は課さなかった。  鼠の子分たちは、処刑が終えたら、遺体を引き取り、上野の隠れ家近くの寺で内輪の葬儀を行う予定だった。そのあとは、ずっと、帰りたがっていた古里の山に埋葬する。それが、一番の供養と考えていた。  「義理の兄弟」ともいうべき井上正鉄も、刑場に来ていた。感通術を編み出してからの正鉄は、それまでの肥満体から、痩身に変わり、眼光鋭い尖った顔つきに、頬と顎髭を伸ばして、異光を放っていた。  「義賊とは言われながら、人の死は哀れなものよ。やつも、こういう世の中に生まれなかったら、この若さで命を断つこともなかろうに」  竹を斜めに編んだ菱垣の後ろで、正鉄は黙祷した。その口は、訳の分からぬ呪文を唱えていた。  「とほかみえみため」  と何度ともなく繰り返すその唱文は、意味は不明だが、正鉄の低音に乗ると、聞く人の腹に応えた。その声は、刑場の儀式の低い通奏低音となって、残酷な刑執行の間中、刑場に響いていた。  一陣の温風が舞って、鼠の断末魔の声を天空に運んでいき、怪盗は磔台のうえで、息絶えた。刑吏は、胸に突き刺した竹槍を引き抜き、地面に置いて、遺体の収容に掛かっていた。白木の刑台を掘り倒して横にし、廃材で作った担架に遺体を乗せた。  そのとき、二人の若者が、走り出て、その粗末な担架を担ぎ、場外に運び出した。  正鉄の唱文の声が一段と速くなり、音量も増した。上空を大きな黒い鳥が舞っていた。    それから五年後。浪速の地で、陽明学者で大阪町奉行所与力、大塩平八郎が、反乱を起こして鎮圧されたのは、天保八年の春先だった。この数年は、全国的な飢饉が続き、庄屋、問屋の打ち壊しも、相次いだ。幕府の権威は薄れ、世の中は騒然とした情勢だった。  幕府は、米商人の米の買い占めを禁止するお触れを出したり、蔵米を払い下げたりして、米不足の解消に努めたが、米不足は深刻で、米相場は高騰を続けた。庶民を食料不足と激しい物価騰貴の二重苦が襲っていた。  その七月、日野沢村重木の中庭蘭渓谷の屋敷を、痩身の人品卑しからぬ旅人が訪れた。十数人の従者を連れていた。なかには、三歳くらいの赤子もいた。一見して、追手を逃れる旅人の装いだ。全員の目に、何かものに取りつかれたような必死の光があった。  迎えに出た蘭渓に対して、先頭に出た男は、  「井上正鉄と言う者ですが、故あってこちらに宿を願いたい。そのことについては、詳しく説明申し上げる」  と申し述べた。蘭渓が訝っていると、一団の中から、二人の男女が進み出て、蘭渓の手を握り、  「お懐かしうございます。お元気でしたか」  と頭を下げた。蘭渓は、二人の顔をしげしげと見つめた。記憶の跡を辿ると、その面影は、あの朝のことに繋がった。  「そうか、総次郎さんと、お常さんと言われたな。さあさあ、こちらへ、お上がりなさい」  旅の一団は、招き入れられ、畳の上に上がって、旅装を解いた。  改めての挨拶の席で、井上は、ことの経緯を語った。  「この従者たちは、私が開いた禊教の信者たちです。また、私は、江戸の浅草橋の長屋に住んでいるころ、鼠の親分と昵懇になり、親しくお付き合いさせて戴きました。その関係から、いつかことがあったら、かならず、国を尋ねてくれ。竹馬の友の、中庭蘭渓という男が、庄屋をしている。役に立ってくれるはずだ、と聞いていました」  「そうですか。鼠とお知り合いですか」  「あいつは、気がいい男でしたが、逃げおおせずに、捕まってしまった。逃げきれずと言うより、逃げずにね。それが、こちらのお宅だという話も聞きました」  「そうです。奴は、自分から捕まりにきたようなものです。覚悟の上の所業でした。そういう点では、幼いころと同じで、潔かった。あいつは、何事をするにつけても、敏捷でしたからね。素早く人生を生きて、素早く死んでいったんです」  「わしもそうしたいが、なかなか、思うように任せぬ。私は鼠が死んだあと、無性に虚しくなって、下谷池之端の下館藩邸に住むお婆から、神道の教えを聞いて悟りを得た。お婆に会ったその夜に夢を見て、務めを知らされたのです。それから、京都に登り、神紙伯の白川王家から、『唯一神道初伝』を授かりました」  「宗主家の御墨付を得たということですね」  「そうです。それから、布教に取りかかったのですが、昨今の世間の様子から、お上の取締りが厳しく、こうして、追われる身になってしまったというわけです」  ここまで話して、井上は、出された粗茶を飲み干した。蘭渓は続けて聞いた。  「大阪では幕府の与力までが、反乱を起こすご時世ですからね。幕府も不穏な輩の検索には必死になっているでしょう」  「そうです。ですから、大した思想背景がない宗教でも、弾圧するのです。とにかく衆を纏めたり、集団をつくるのを厳しく制限して掛かっている。うちの宗教なんて、宗徒も少ないのに、寺社奉行の配下の岡引が付け狙う。それで、江戸から出てくることにしたんです。追手が追いかけて来るのはまだ、先でしょうが、狙われて居るのは間違いないのですよ」  「すると、長逗留はまずい訳ですね。禊教は、どういう教えですか」  蘭渓は、およそのことは、聞いていた。江戸の噂は、峠を越えてくる人馬が伝えてくる。しかも、それは、意外と早く、一日前の出来事は、既に翌日には、耳に入るほどだったのだ。  「いえ、大した教えはありません。わたしは、元々、医術を納めた経験から、庶民の病気の治療に関心があり、その原点から始めて、宗教の創始にまで至った。だから、あくまで、身体の健康を維持し、精神を清廉に保つための方法を教えるものです。日常生活では、粗食、少食、祖服を実践し、体の均衡を保ために、独特の呼吸法を編み出しました。なるべく大きく息を吸い、いったん止めて、ゆっくり吐きだす。言ってみれば、それだけですが、これは、実践して会得しないといけない。この『調息法』を鍛練するために、信徒たちは、集まって『行』をする。その集会が、岡っ引きたちの目を引いて、付け回されるようになったのでしょう」  「ははん、今の夜の中では、集会を開くだけでも、慎重にしないと、いらぬ嫌疑を受けますからね」  「そう、それに、江戸では適当な場所がない。外に声が漏れずに行をする場所がないのです。ですから、できれば、こちらで静かに修業をさせていただければと」  井上は、そう言って深々と、頭を下げた。  蘭渓は、それを聞いて、やや、厄介な話が持ち込まれたと、考えた。できれば、お上の嫌疑を受けるような事態は、招きたくない。今夜一夜の宿を提供するのは、やぶさかではないが、長居をされては、村人の迷惑になる。できれば、早く、出ていってほしい。  とはいえ、そのような表情はおくびにも出さず、鼠の旧友というその異様な教祖と信徒の一団を、家人を上げて歓待した。旅人にはそうすることが、この地区の庄屋の慣いにもなっていた。悪人であろうと、善人であろうと、旅の人は、豊かな情報を持っていた。その情報が、山間の民が生き抜いていくためには貴重だった。  中庭家に一泊した井上ら禊教の信徒らは、事実粗食だった。朝食は、粥に梅干しひとつ、それに食後に粗茶を茶碗に入れて濯いで飲んだ。そのあと、昼までが、個人的な修養の時間。洗濯をしたり、縫い物をしたりして過ごした。そして、昼は、握り飯を一つとお茶。とにかく、お茶を良く飲んだ。そして、午後から夕方日が暮れるまで、声を上げての「行」を行う。この行も、教祖の井上が唱える「とほかみえみため」という唱名を、ただ繰り返すだけの単純なものである。そうしているうちに、信徒の一部は、忘我の境地を迎え、恍惚としてくる。それが、心身の病の癒しになるというのだ。  この唱名の声は、集団となって大きくなり、外に響いた。そこで、村人は、蘭渓の家に不思議な宗教集団が泊まっていることを知った。そして、二日目には、早くも、長い病の家族をかかえる村の連中は、藁をもかむ思いで、祈祷を願いに、次々とやって来た。  正鉄はそのことを予想していたかのようだった。今で言う広告を狙って、大声を外に響かせていた感もある。次々と訪れる病癒しを願う村人の応対をしているうちに、蘭渓は天災と人災に困窮する人々の救いを求める真実の声を聞いていた。とにかく何かの救いがなければ、生きていけない、と人々は叫んでいた。  (救いか)  と考えて、蘭渓は、正鉄に相談した。それは、正鉄のカリスマ的呪術を、救いを求める村人の前で披露してもらい、悪疫を振り払おうという考えだった。  正鉄は、喜んで、応諾した。そういう行は、ここ長い間、していなかった。場合によっては、命を落としかねない、激しい行だったから、やる時は、覚悟がいった。  だが、正鉄は、やる気になっていた。村人の願いを聞き入れて、呪いを払うという以外にも、信者を増やし、布教をしたいという気持ちがあったし、もっと、現世的な目的もあった。それは、鼠が運び込んだと聞いている、千両箱のおこぼれをできれば、手に入れたいという野望だった。井上正鉄は、貧乏教団の教祖の常として、金に窮していたのだ。  その画期的な行は、その七日後に、中庭家の分家、徳兵衛の屋敷にある蔵で行われることになった。徳兵衛の家は、蘭渓家から、奥に登った行き止まりにあり、人がいくことは少ない。遠く村落から離れた一軒屋だったので、祈祷には最適だった。  村民のうち、治療を願う者たちが、蔵に呼ばれ、しつらえられた畳の上に座った。向かいの祭壇に向かって、選ばれた信徒と正鉄が一団高い畳のうえに、鎮座した。その日から丸二日ずつ、間に一日の休憩日を置いて、三回行われた正鉄の祈祷を、「村史」は、こう記している。  ーー 正鉄は、天照皇太神に祈願をこめ、自然石に自らノミを振るって三種の祓いを唱えつつ刻まれた。祈願は実に猛烈なるものにて、幾度か瀕死の状態になり、ある一夜のごときは、深更に及んで施すに術なく、介抱の弟子も既に絶望なりと悲嘆にくれたが、夜明けになって、漸く蘇生したということを蘭渓の近親者が語り伝えている。徳兵衛屋敷で祈願したのは、遠く人里と離れた一軒屋で、人目に触れぬため、わざわざ、ここを選んだのだろう。蘭渓は、名主で医者であったから、来訪者も多く、この祈願が秘密を要する一大祈願だったことが伺えるーー。  とにかく、正鉄が、この時、意識不明となるほどの壮絶な祈願をおこなったことは、確かだ。それほど、彼は、この地の布教に掛けていた。この祈願で、熱病病みの夫婦と流行病の天然痘に掛かっていた子供二人が、快方に向かった。また、ここ三年ほど寝たきりの老婆が、立ち上がるという奇跡も起きた。霊験はあらたかだったのだ。  この祈祷会のありさまは、直ちに、村中に伝わった。翌日からは、教えを求めて村人が、門前に列をなすようになった。  そのため、行を行うのに、母屋の客間では手狭になった。正鉄の相談を受けた蘭渓は、あの大祈願で使われた土蔵が、いいのではと考えついた。幸いというか、無念にもと言うか、蘭渓の屋敷の土蔵二つのうち、一つは空いていた。飢饉で上納米もできない状態だったうえに、不断から貯蔵してある種籾まで食用に供してしまったため、蔵はからっぽだったのだ。  それに蔵は、厚い壁でできていて、思い扉を閉めれば、防音は完璧だった。信徒らは、心置きなく大きな声で祈りの言葉を唱和することができる。さらに、夏の日差しを避けて、蔵のなかは涼しかったから、しのぎやすいのだ。  信徒らの蔵での行は、こうして、絶好の環境を得て、日毎に安定してきた。そして、その効能の宣伝も効いて、禊教は、またたく間に、村に広がっていった。多くの村民が信徒に加わったのだ。  これには、中庭蘭渓の役割も大きかった。村の庄屋と言えば、村落共同体の一つの頂点にある立場だから、布教の拠点としては、もっとも効果的だった。それに、蘭渓は、医師で開明的な思想の持ち主でもあたったから、新しい宗教、思想にも寛大でありえたのだ。こうして、井上の新興宗教は、蘭渓というよき理解者をえて、この家の点から村の面へと広まっていった。それは、わずか、二ヵ月間のことだったのである。  「禊教祖井上正鉄年譜」には、  ーー 天保十年七月、家族及び門人を連れて日野沢村に隠住す。九月、官疑をおそれて、越後に旅すーー  、とある。  秋風の吹く、九月になって、彼らは幕府の追手を逃れるように、村を出ていった。そのとき、正鉄の懐には、小判百両が入っていた。  ある日、蘭渓も参加した行の席で、正鉄は、トランス状態になり、  「蔵の奥に鼠の姿が見える。白い鼠だ。鼠が、小判を運んでいる。米粒でなく、小判だ」  と叫び始め、歌を歌いだした。それは、  ーー ずいずい、ずっころばし、ごまみそずい、茶壺におわれて、どっぴんしゃん、ぬけたらどんどこしょ、俵の鼠が米食ってちゅう、ちゅう、ちゅう、ちゅうーー  という童謡だった。  これを聞いて、蘭渓は、子供の頃を思いだした。鼠が小さいころ、雨の日に村の女子を蔵に誘い込んで遊んだ、禁断の快楽を思い出したのだ。正鉄は、鼠のことを歌っていた。  そのうえ、正鉄が拝んでいる壁の向こうには、隠しておいた鼠の遺産の千両箱が置いてある。正鉄は、それを知っていて、気を失った振りをして、呪文を唱えているのが、蘭渓には、よく分かった。  あくまで、蘭渓は、一緒に座っている農民とは違って、時代の知識人だった。異教の教えの紛いものの部分と、それが及ぼす影響について、厳しい知性の量りに掛けて、観察していた。村人にとっての救いになれば、布教も許したが、それが幅を効かせて、大手を振られてはたまらない。それは、幕府の考えと同じ線だった。大塩平八郎の乱にあって、治安維持に神経質になっていた幕府は、異色と見定めた宗教運動は、徹底的に弾圧する方針を取るようになっていた。禊教は、その対象になっていたのだ。  行が終わってから、蘭渓は、正鉄の部屋を尋ね、紫の袱紗に包んだ小判百枚をそっと、差し出した。正鉄はとくに確かめもせずに受け取り、  「ご迷惑を掛けますが、おいおい、御無沙汰いたしましょう」  と一言だけ言ったのだった。  その会話があって二日後に、正鉄の一行は、道の両側を隈なく埋めた村人の信者の列に送られて、越後に旅立っていった。これから、長い逃避行になるだろう、一行にとって、鼠の置き土産は、日々を凌いで行くための大きな支えになるはずだった。  越後へと逃れた井上正鉄の一行は、その後二年間に渡って、追手を逃れた。これには、懐のお宝が大いに益があったに違いない。正鉄は、持ち前のカリスマ性と人を説得する弁舌で、行く先々の村人の心を捕らえ、村落社会の懐深くに入り込んでいった。当時の村落社会は、幕府が推進した支配のピラミッド構造によって、身分的な階層で統制が取れていたから、正鉄は、村落社会を束ねる庄屋階層に狙いを定めて布教を続けた。いわゆる「庄屋付き合い」といって、彼の行くところ、庄屋層の手堅い支持者が組織されたのだ。  こうして、越後にも根を降ろしかけた禊教だったが、運命の時は、天保十二年の秋にやって来た。寺社奉行の稲葉丹後守の与力同心が、やって来て、妻・男也とともに、正鉄を逮捕したのだ。  江戸に移送された正鉄は、稲葉の厳しい取り調べを受けた。異端の教えを農民に広めて、世情を混乱させ、危険な祈祷で生命を脅かしたというのが、嫌疑の中身だったが、本当の狙いは、衆を頼んで集まる農民たちを恐れたのである。それほど、全国に農民の打ち壊し騒ぎが、頻発していた。  調べはしゅん烈を窮めたが、正鉄は嫌疑を認めなかった。その代わり、取り調べに当たった与力らにいくらかずつの袖の下を渡した。財政窮乏で昇給がないうえ物価急騰で生活が苦しかった役人たちは、驚くほど、簡単に賄賂を受け取り、調べをおろそかにした。その結果、正鉄は、嫌疑不十分とされ、まもなく、釈放された。  釈放されたが、正鉄にはもう、金はなかった。自らの身を守るために、鼠の贈り物は、遣いはたした。あとは、信者のお布施に頼るしかないが、信者は秩父と越後の山間地にいる。お布施を集めにいくだけでも面倒だった。  付き従ってきた数人の信者も、離れていった。一緒に捕らえられた高弟の三浦隼人は、拷問で獄死し、ほかの信徒も江戸所払いになったのだ。山崎総次郎とお常の二人は、正鉄が逮捕される時まで、逃避行に従っていたが、小さな子供がいることもあって、江戸までは追ってこなかった。二人は越後から、土地勘のある秩父に戻ったのかもしれなかった。  しかたなく、正鉄は、かつて、住んでいた浅草橋の長屋に戻った。ここに帰ると、  (おれは、ここから、始めて、ここに戻ってきたのだ)  という感慨がわき起こり、四年間の布教と流浪の日々が、走馬燈のように頭の中を巡っては消えた。  正鉄は、もう一度、最初から、やり直そうという気になった。庶民の苦悩や苦痛を救う町の医者、宗教家として、出直そうと考えたのだ。  だが、事情が反転した。なおやまぬ民衆の蜂起に、徹底取締りを開始した寺社奉行は、大規模な人事異動を行い、検索態勢を整備して、異端取締りを始めた。また、古い役所の体質を改善する見直し作業の結果、多くの腐敗が見つかった。正鉄の袖の下事件も、摘発され、新しく代わった与力と同心が、長屋を訪れて、正鉄を再逮捕した。  今度は、もう資金もないし、賄賂を渡すこともできない。いや、賄賂を渡したこと自体が容疑に加えられていたから、重罪は覚悟しなければならなかった。  天保十四年、お白州で、正鉄は三宅島配流の判決を受けた。  島流しに、期限はない。奉行の都合と島役人を通しての上申書をもとに、帰国の恩赦が行われるのを待つだけだ。だが、正鉄にとっては、島は苦痛の地ではなかった。全国の信者の固い連帯で、必要な物資や金には不自由しなかった。伯州藩主の松平宗秀は、ひそかに十人扶持を送りつづけたし、島に夜、漁船や荷船に託して、蚕種、漁具、土木工事のための粘土などの数々の物品が運ばれてきた。なかには船を仕立てて、密航してくる者までいた。その信者たちは、船での島抜けも提案したが、正鉄は首を振らなかった。むしろ、この島に流されたのを好機に、禊教の教義を深めていったのだ。  三宅島での正鉄の活動には目ざましいものがあった。流島の翌年には、島に流行した天然痘患者に薬を与え、感通術を施して、全快させたあと、熱病の夫婦を直し、産婆の技術を島の婦人に教えて、始めて島に産婆を誕生させた。翌年には、島が干ばつに見舞われたが、正鉄は二十五日間にわたり、村の神社に参籠して雨乞い祈願し、大雨をもたらした。これで、正鉄の祈祷の威力と人徳が島中に宣伝された。こうした功績を認められ、翌年の弘化三年には、流人頭になり、年始回りでの紋付羽織の着用を許された。この地位を背景に、上州から蚕種を取り寄せ、養蚕事業を指導し、一大産業に発展させた。飲料水の確保のために貯水池の築造もしている。  この六年間は、正鉄にとっては、教義を深め、自らのものとするのに、最適な日々だった。島は外界と隔絶され、孤立していた。ある意味で重なる山塊に囲まれ、陸の孤島でもあった秩父の地勢と似ていたのだ。こうした土地に恵まれない秘境が、異能者の活力をかき立てるのかもしれない。こうした風土こそ、正鉄にとっては、最高の実戦のフィールドだったのだ。  幕府権力によって、流刑された異教の教祖は、その幕府も及ばぬ離島のインフラ整備と殖産興業、医療・福祉の功績を残し、嘉永二年(一八四九年)、咎がとけぬまま、五十九歳の生涯を閉じた。鼠が小塚ッ原で処刑されてから、十七年後のことだった。  いずれも、塗炭の苦しみに喘ぐ、民衆の側に立って、幕府に歯向かった反逆の一生だった。鼠は疾風のように、江戸の町の暗闇を駆け抜け、正鉄は嵐のような祈祷と唱文の声を信徒の脳裏に焼き付けて、死んだ。だが、その遺産は、関東の西の山中の農民たちに引き継がれていた。    井上正鉄の秩父滞在は、越後に落ち延びていくまでの僅か、二ヵ月間に過ぎなかったが、その影響力は、長く残った。それは、中庭蘭渓という類稀な多才な知識人が、その媒介者になっていたことが大きかった。  粗衣、粗食、簡素、倹約を重んじる禁欲主義が、痩せた風土に似合っていたのかもしれない。禊教は、秩父に根を降ろし、広く根を広げていったのだ。  その最大で、一番熱心な布教者は、蘭渓だった。二ヵ月のあいだ、正鉄が力を込めて蒔いた種は、最良の栽培者、蘭渓によって、大輪の花を付けたのだった。その姿を、「日野沢村史」は、感動的に記している。  ーー 彼は先ず、地元重木部落から始め、その姻戚関係に当たる金沢村加増、群馬県多野群坂原村法久部落に対して、熱心に教義を説き、多数の信者を得た。重木の中庭一家、加増の若林一族、法久の新井一門は古くから婚姻により血のつながりを持ち、現在でも深い親戚関係を保っている。蘭渓の一族の村上泰治も、年少にして禊教教師となり、群馬方面に活動していた。  このような信仰に生きる団体に対して、幕府は幾度か弾圧を加え、教祖正鉄はついに流刑に処せられたが、信者の結束は固く、いささかの衰退も示さなかった。既にこの時に於いて、後日この一団が自由党に加盟すべき反発的な精神的要素が醸成されつつあったと見るべきである。  江戸幕府の倒壊によって、維新政府が樹立され、神道の権威が大きく浮かび上がって来るに及んで、村の禊教は、最も活発な活動を展開し、寺院に対して激しい攻撃をかけ、下日野沢に於けるその勢力を一掃するに至ったーー。  飢饉の時代に、庄屋とはいえ、それほど裕福とはいえない蘭渓が、布教の軍資金としたのは、蔵に納められていた鼠の遺産だった。生活費としては手を付けなかったので、千両箱四箱は、ほぼ、手付かずで、ほこりをかぶっていた。蘭渓は、正鉄の教えを広めることにこそ、この金を使うべきだと思っていた。いわれからして、それが、一番の使い道だという信念があったのだ。    明治維新がなって、幕藩体制が倒れてから、十余年。明治は、抑圧された農民たちも期待をもって開けたのだが、その期待は裏切られつつあった。維新政府は富国強兵と欧化政策を取り、近代化を推進したが、その政策は、農民に益をもたらすものではなかった。むしろ、国民皆兵制で働き盛りの男手を奪われるうえ、重税とデフレ政策で、資産が減少し、借金が積み重なったのである。  秩父の農民の疲弊は著しく、主産品の繭の値段の急落が追い打ちを掛けて、新たに徴集されはじめた学校費の納入が出来ない家庭が続出した。  こうした、背景を受けて、自由民権運動が、全国的に燃え上がったが、蘭渓を中心とす日野沢村重木の農民たちも、この運動には無関心ではいなかった。山向こうの群馬県で結成された、「上毛自由党」の運動は、瞬く間に、山を越えて、秩父に及んだ。明治十五年十一月九日、六十五歳の盲目の老人となっていた中庭蘭渓は、井上正鉄が、自宅を訪ねてきたときと同じような、瑞々しい感激に浸っていた。  (あの日から、およそ半世紀、やっと、鼠の願いは果たされるのか)  その思いを秘めながら、蘭渓は、この自由と民権を求める運動の主体、自由党への入党届けを認めたのだった。  これを手始めに、蘭渓門下の禊教の信者たちが相次いで、自由党に入党した。老名主を頂点とした禊教信者の農民たちは、このあとに続く、明治十七年十一月の秩父困民党の一斉蜂起の中核になった。  高利貸しの圧迫を、結束した蜂起によって排除しようとした革命運動は、一時的に新政府の群権力を奪い取るほどの高揚を見せた。そのかげには、鼠の遺産と正鉄の教えがあったのだ。  秩父の困窮民達は、鼠小僧に導かれるように、しかし、世闇に紛れるのではなく、正々堂々と要求を掲げて悪徳高利貸しを襲い、大塩平八郎の乱のひそみにならうように、綿密な計画の基に、整然と反乱を起こし、短期間ながら、群役所の権力を奪った。  その後、困民党軍は、政府軍の反撃に会い、十国峠を越えて、信州佐久に落ち延びていく。その峠には一つの惨劇が待っていた。山崎総吉という若い党員が、捕虜にしていた巡査を処刑したのだ。事件終息後、総吉は、捕らえられ、死刑の判決を受けて、絞首刑を執行された。この総吉こそ、井上正鉄が中庭蘭渓の屋敷を音連れた際に、鼠の子分、山崎総次郎とお常が抱いていた赤子の後の姿である。この子には、鼠小僧の落とし子との風説が絶えなかった。もしそれが、事実なら、父の辿った人生そのままに、この、息子も、体制に歯向かったまま、若い命を処刑場に散らしたことになる。    鼠小僧の生誕の地、吉田町大字石間漆木部落の岡の上に建てられた墓は、  「義人鼠小僧次郎吉の碑」  となっている。  そこには、単なる夜盗ではなく、時の権力に逆らい、翻弄した庶民の代表を敬する建立者の気持ちが込められているのが、受け取れるが、いま持って、誰が建てたのかは、不明だ。             (終わり)