「ネットワーク」    一 依頼人     ウィリアム・ゴードンは、ヘドソン川東岸のアパートを出て、ウェストサイドの古いビルに借りている事務所に、向かった。事務所には、昔の私立探偵のように、美人の秘書などいない。そんな人間を雇う人件費は、なかったし、総ては留守番電話とファックスが、一九六〇年代の市立探偵の秘書の役目に取って代わっていた。  事務所に入ると、夫の浮気調査の依頼にきた中年の女性が待っていた。長身で細身のスタイルのいい体をもてあますように、待合室代わりの部屋の外の長椅子に座っていたが、ゴードンの姿を見ると、すっと立ち上がり、ドアを開けて、ゆっくりとした足取りで、一緒に事務所に入ってきて、  「私の名は、ジョン・ベネット・シュルツ。ゴードンさん、最近、帰りが遅くて、言動がおかしい夫の素行を調べていただきたいの」 といきなり、話し掛けた。  ゴードンは、  「ゆっくり、話を伺いましょう。いま、いろいろと事件を抱えていますが、そのお顔からすると、お断りするわけにはいかないようですな」  と落ち着いて言った。そう言わざるを得ないほど、ジョン・ベネットの表情は、切迫していた。  だが、ゴードンも、神経が苛ついていた。なぜなら、彼は前夜、一睡もしないでニューワーク市・ソーホー地区の自分のアパートメントの書斎で、パソコンの青白い画面を眺めていたのだ。 彼は、もともと、強い近視で、牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡を、掛けていた。すっかり薄くなった髪の毛を、逆方向に攻めあげた禿頭が、鼻に掛けた眼鏡の上部を占めていて、映画スターのトム・クルーズに似て、面長の顔は、一見、大学教授のように見えた。 もう、四十代をとっくに過ぎているように、見えるが、年齢はまだ、四十五歳だった。 深々とした、ロッキング・チェアに、凭れて、打ち込んでいたのは、インターネットの上に構築した自らのWWW(ワールド・ワイド・ウェブ)に、書いておいたEーmail宛に送られてきたメールを読む作業である。 彼のWWW、「ゴードンズ・フェイズ」は、主に珍しい写真を集めて、アクセスするメンバーに、公開していたが、中には、幾つかのぺージがあって、その一つに、変死体や殺人、強姦で殺された死体の現場写真ばかりを集めた「クライム」というページがあった。 彼は、毎日、各フォーラムに送られてきたメールを、夜の七時から読みはじめる。「シナリー(風景)」「パーソン・アンド・ファミリー(人と家族)」「アーチテクチャー(建築物)」「ペインティング(絵画)」「ヌード(裸体)」と見てきて、「クライム(犯罪)」に来たのは、午後九時半を回っていた。 最初のメールは、J.J.ハミルトンという名前で 「1990年に、ワシントン州ハミルトンで、起きた連続少女殺人事件の現場写真が手に入ったが、買わないか」 と言ってきていた。 ゴードンは、 「現物を見ないと答えられない。コピーでいいから、郵送で送ってくれるように」 との返事を送った。 次は、ジャネット・ジャクソンという女性名で、  「妹が自殺したときの写真があるが、私達家族は自殺とは、考えていない。鑑定してもらえないか」  との趣旨だった。  ウィリアム・ゴードンは、これには  「鮮明な写真を、何枚か、送ってくれるように。その後で、お答えしたい」  と丁重な返事を書き送った。 ゴードンの本職は、私立探偵だ。すでに、人手不足のニューワーク市警察が、迷宮入りにした事件のいくつかを、依頼者に頼まれて、解決してきた。彼の捜査の手法は、徹底的に、現場にこだわり、物証から犯人へと迫るやり方だった。そこで得た物をもとに、犯人像を想定する。いわゆる、プロファイリングの手法は、FBI(米国連邦捜査局)で開発されたが、彼も元捜査官として、その手法は熟知していた。 次のメールは、マリリン・チェンバースという人で、  「もうすぐ、夫が帰ってくるが、私はあいつを殺したい。首尾良くやれたら、その写真を送る」  という内容で、午後八時に発信されていた。 ゴードンは、これを読んで、すぐに  「そんなことは、やめろ。冷静になって、よく考えろ。絶対に、そんなことをしてはいけない。絶対に、冷静になれ(カーム・ダウン)。あなたは、殺人者になる。ガス室送りになるぞ」  と打ち込んで、MARYLYN@AIDS.COMに送信した。 彼は、興奮していた。こんなことは、今までになかった。殺人予告のEーmailを受け取ることなど、予想したこともない。止めたくても、相手は、この地球のどこにいるのかも、解らない。ただ、Eーmailのメール名の、最後に国を表すアルファベットが、ないから、アメリカ国内からの発信であることは、間違いなさそうだった。インター・ネット上では、それ以上のことは、解らない。 最後に、  「妻が不倫をしているのが、解ったから、殺してやりたいが、どういう方法がいいか、考えている。完全犯罪は可能か」  というジム・ジョンソン名のメールがあったが、ゴードンは、もう、これには返事を書く気力を失っていた。 ーー世の中には、これほど、配偶者を抹殺したがっている夫婦が、多いのか。それも相手に言わずに、インターネットのメールに送ってくるというのだから・・・。メールが、すべて、真実を語っているとは、限らないが、そう嘘ばかりではないだろう。警察に通報したくても、相手はどこにいるのか、解らないのだから、しようがないーー。 翌朝の午前六時になって、彼はやっと、ディスプレイの前を離れて、バス・ルームに行き、熱いシャワーを浴びた。ナイト・キャップに、ジン・フィズッをあおった後、ベッド・ルームに入り、もう三月も中頃になり、寒さがぶり返した夜の寒気を、厚い毛布で防ぎながら、短い眠りを貪った。 今朝は、さわやかな目覚めだった。高窓から斜めに差し込んだ朝の光を浴びて、午前八時ちょうどに、タイマーで、スウィッチが入ったベッド・サイドの目覚ましラジオが、マライヤ・キャリーの「フォー・エバー」を掛けはじめたころ、彼はやっと、ベッドから起き上がり、朝食の準備をはじめた。彼のブレック・ファーストは、もう、ここ一年、カリカリのベーコン・エッグとフレンチ・トースト、たっぷりとミルクを入れたカフェ・オレに決まっている。それに、気が向いた時は、カマンベール・チーズを付けるが、その日は、チーズを食べる気がしなかった。 トーストを食べながら、「ニューワーク・タイムス」を読んだ。彼は一面は見出ししか、見ない。すぐに、ページをめくって、市内ニュース面(シティー・エディション)に眼を凝らした。「五番街のブティックに強盗」というのが、トップ記事で、市議会の行政記事、聖イグナチス教会でのボランティア・バザールの様子などの記事が、目立つ程度で、これといった「金になる」ような事件は、載っていなかった。 ウィリアム・ゴードンは、思い付いて昨日一日、すっかり忘れていた留守番電話の録音を聞きながら、ファックスの着信記録を見た。留守番電話には、二件の録音が入っていた。  一つは、いま、付き合っているエミー・ブレアからで、  「明日の晩、久しぶりにお会いしたいわ。私は、五時にはオフ・タイムになるから、いつもの場所で会いましょうね。そして、そのあとも、いつものように。アイ・ウァント・ユー」  と入っていた。  (そういえば、もう、一週間が経った。エミーも、渇いているだろう)。  ゴードンは、彼女の欲情を理解した。   二つ目は、調査の依頼だった。  「夫の浮気調査をして欲しい」  という女性からのもので、  「明日の午後一時に、事務所にお伺いする」  と一方的に言っていた。 ファックスには、三件入っていた。一件は、前の女房からの離婚慰謝料の残額の請求書。二件目は、四番街のワルサー銃砲店からの拳銃の修理が終わったとの知らせと、請求書だった。 三件目がゴードンを、驚かせた。  「遂に、あいつを殺った。予告通りにな。名探偵さん。そのうちに」  となっていた。発信元の記載はなかった。 昼までに、雑事を片づけて、昼飯は、ピザ・ハットのテイク・アウトで、サラミ・ソーセージとオニオン入りのピザとエスプレッソ・コーヒーで済ませた。その後、ワルサー銃砲店に行き、修理が終わったPK34を受け取り、三八口径の弾丸の箱を半ダース買って、全部で六百五十ドル支払った。 「これで、今月の昼飯は当分、ピザ・ハットだな。こう依頼がなくては、食べていけない」。  拳銃の銃倉の回転を確かめて、フォルダーに差し込みながら、ゴードンは、嘆息した。 そして、事務所に出てきたのだった。  「ジョン・ベネット・シュルツ」と名乗った依頼人の女性は、身に付けているものも、かなり高価なブランド品で、話しっぷりには、インテリジェンスを感じさせる独特な雰囲気があった。ゴードンは、もし彼女がデブのブス女だったら、早々とお引きとり願っていたが、本当はそれ程、仕事がない現在の状態からは、美人のこの依頼はゴードンには貴重だった。  ジョン・ベネットは、形の良い両足を、ゆったりとして着心地が良さそうなベージュのツーピースのスカートから、斜めにそろえて組み、薄汚れた事務所のソファーに深々と腰掛けて、話を始めた。 ーー 私と夫のミリアンは、五年前に、セントラル・パークのロック集会で再会したの。ローリング・ストーンズのエイズ救済コンサートで、彼がたまたま、私達の隣りにきて、話しを交わしたの。彼は、肩まで伸びた長髪で裸のままの素肌に革のジャケットを着ていたわ。長身で亜麻色の髪の毛がかっこよかったから、私は一目で気に入って、一緒に踊ったりして、盛り上がったの。コンサートが終わって、私は女友達と別れて、一人で家に帰ったのだけれど、地下鉄でまた、彼と出くわして、彼のアパートに誘われたの。アパートでは、ドラッグをやって、ハイになって、自然にセックスもした。翌朝になって、目が覚めると、彼に、『君は最高だった。セックスの相性が、僕とぴったりだ。いっしょに暮らさないか』と誘われて、もうその日から同棲したの。どうせ、私は両親も離婚して、一人暮らしをしていたから、私のアパートから、ほんの少しの荷物を移すだけで、よかった。彼はミュージシャンで、夜が仕事だから、広間は家に居て、最初の頃は、朝、目覚めると.朝食も採らずにセックスばかりしていた。彼は薬を飲むとすごく強くて、長く持つの。私も薬のおかげで、最高の気持ちを何度も味わえた。  そんな生活が、一年半くらい、続いたかしら。私のあそこはすごく感じるようになってしまって彼を求めるのに、彼は関心がなくなってしまったの。それから、三年半は、精神的な結び付きが、強くなって、セックスはしなかった。でも、男はそんなに我慢できるものではないでしょう。でも、彼は私を求めなくなって、それに、家にいる時間も短くなって、私は彼がおかしいと感じたの。決定的だったのは、彼が久しぶりにセックスした時に、私のアナルを求めたときね。『おまえのは狭すぎる』といって途中で止めてしまったの。これは、だれかと比べていると思った。でも、私は彼を愛していたから、追及しなかった。それは、一週間くらい前のことね。そして、もう、一週間も家に帰ってこないのーー。  ジョン・ベネットは、淡々と私的なことまで詳しく、話した。だから、彼女が話し終わってから、  「それで、ミスター・シュルツさんの写真は持っていますか」  とゴードンは、事務的に尋ねた。  「ええ、ここに顔写真を持ってきましたよ。全身写真が必要でしょうか」  「いや、これでいいでしょう。全身写真が必要になるかもしれないんで、用意はしておいてください」 ゴードンは、顔写真を受け取った。典型的なロック・ミュージシャンの顔つきだった。長髪が後ろにまっすぐに伸びて、頬とあごに薄い無精髭を生やしていた。すこし面長で、目は丸く、光を放っていた。  「どこか、心当たりはありませんか」  「ロック・バンドの仲間には、みんなに当たってみましたが、だれも会っていないということです。彼らも探してくれています」  「立ち回り先の心当たりはないのです」  「いつも行っていたバーやクラブも心当たりは、当たってみましたが、どこにも手掛かりはありませんでした」  「分かりました。写真を手掛かりに、できるだけのことはやってみます」  ミセス・シュルツは、すべてを話してすっきりした精神分析の患者のように、さっぱりした表情で、細身の体を弾ませて、軽やかな足取りで、暗い事務所を出ていった。  ゴードンは、 (こんな手掛かりのない浮気調査は、うんざりだ。たとえ、運良く見つかっても、謝礼はわずかだし)  と心の中で呟いて、聞き書きした依頼書類と写真をファイルに放りこんだ。  その日は、あとの依頼はなく、午後五時きっかりに、エミー・ブレアと待ち合わせ場所の五番街のカフェ・バーに行き、近くのステーキ・ハウスで夕食をとった後、ブレアとともに、ソーホー地区の彼のアパートに戻った。 市街をドライブ中、ブレアは、食事中に飲んだウオッカ入りのカクテルで、すっかり気分が高揚したのか、 「私の素敵な探偵さん、一週間ぶりのご無沙汰ね。お変わりないか、調べるわ」  と言って抱きつき、唇にキスをした後、右手を彼の下半身に持っていき、ズボンのファスナーを開けようとしたが、ゴードンが、 「そいつは、後からの楽しみに」  と拒んだので、 「それもそうね。楽しみは残しておかなくちゃ」  と素直に手を引っ込めた。  車の中で、すっかり、高ぶっていたから、  アパートに着くとすぐにも、二人は激しく愛しあった。そそくさと、服を脱ぎ捨てて、一緒にバス・ルームで体を洗いあった後、シャワーで互いの性器を刺激した。興奮した体を、ベッド・ルームに運び、まるで、獣のように、互いの体を貪りあった。  「君の行くときの声ときたら、まるでライオンの咆哮のようだよ。元気だな」  「あなたも、その年にしては、元気一杯ね。私は三回も行かされたわ」  互いの健闘を讃えあって、二人は後戯の愛撫を互いの身体中に繰り返した。  「さて、これからは、ザイバー・セックスの時間だ」  午後七時半を過ぎて、ゴードンは、パジャマを着て書斎に入っていった。ブランデー・グラスを持ったネグリジェ姿のブレアも従った。  ゴードンは、Eーmailを一覧した後、ニューズ・ビューワーを起動して、ニューズを読んだ。  その中の、「ペンシルヴァニア州ノーフォークで殺人遺体」という項目が、ゴードンの目を引いた。  記事の概要はこうだった。  ーー 一九九*年十一月二九日午後十時頃、ペンシルヴァニア州ノーフォークのウニオン川で、若い女性の骨盤だけが見つかった。郡警察が調べたところ、この骨盤は背骨の下かあ大腿骨までの白骨で、背部に鋸で切ったような一直線の切り込みが入っていた。骨の形状や大きさから年齢三五歳くらい、身長一七〇センチくらい、体重六〇くらいで、死後一ヶ月ほど経過していた。なお、骨の切断面から、骨の扱いに慣れた者の仕業と見られるーー。  記載者は、ゲーリー・クライストとなっていた。  ゴードンは、先程、読んだEーmailに同じ名前があり、  「ついに、やったぜ探偵さん」  とだけ、簡潔に書かれていたのを思い出した。その時は、何気なく読み飛ばしてしまったが、そういえば、昼間、事務所のファックスに同じ文句が書かれていたのが、あったのを、ゴードンは、思い出した。    二 張り込み  ゴードンは、西二十四丁目のオープン・カフェの反対側になるこの街の中級ホテルのウィンザー・ホテルのラウンジの大きなガラス窓越しに、カフェの様子を観察していた。  昨夜、調査に行ったソーホーのエスニック・パブで、彼は、ミリアン・シュルツについての有力情報を聞き込んだ。そのパブは、ロックミュージャンの溜まり場で、壁には「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」の写真が張ってあり、長髪で髭面に黒い革ジャンパーを着た男たちが屯していた。彼らが手にしている飲み物は、一様に琥珀色で、長いタンブラー・グラスの表面に白い泡が浮かんでいた。  (黄色い色の液体を入れたグラスを持った男たちが、うろうろしているとは、間違って病院の検尿室に来てしまったかな)  とゴードンは、口に出さない独り言を言いながら、彼らに付き合って、ギネス・ビールの黒を飲んでいた。  バーテンに、写真を見せると、褐色の肌をしているのに、耳のピアスと女言葉が、身に着いているその男は、  「ああ、それは、ジミーじゃないか。毎晩ここに姿を見せるよ。そろそろ、来る頃だわよ。先生」  と言って、しなを作って、請け負った。  ゴードンは入口を横目で見ながら、その男の来るのを待っていた。すると、時刻が十一時を回ったころ、長身で長髪の顔だちの整った男が、女連れで姿を現した。ゴードンが座っているカウンターから見ると、一番奥のコーナーに真っ直ぐに行って座った。ゴードンは、直ちに、ガラスの仕切りで仕切られた彼らの隣りの席に行った。たまたま、そこには、客が居なかったので、隣りの席の男女の話し声は、良く聞こえてきた。  「おい、そんなに、急ぐことはないだろう。おれは嘘は言わないよ。約束は必ず守る。おれは、男だぞ」  ミリアン・シュルツは、女の斜め横に座り、両手を肩の高さに広げて、胸を張りながら、そう言った。  「もう何回も同じことを聞いているわ。いつまで待てばいいの。いつになったらかたを付けてくれるのよ」  女は、拗ねたような言い方で、男を詰っていた。  「そう焦ることはない。まあ、飲めや」  男は、女の前に置いてある背の高いグラスを持って、女の前に突きつけた。  「あたしは、こんな人夫の飲み物なんか欲しくないよ。たまには、カクテルでも、作ってくれないかな」  「この店には、ビールしかない。それがおれには気に入っているのだ」  「あたしも、そういうあんたの依怙地な所が気に入ったんだな」  話を聞いていると、女はそれほど育ちがいい方ではなさそうだ。シュルツ夫人に見られるインテリジェンスのかけらもない。顔は雀斑だらけで、画家のようなベレー帽を脱いだ髪の色は赤毛だった。だが、スタイルは抜群で、長い足と良く締まった腰が、バランスよく括れた腹と形の良い胸を支えていた。 (スーパー・モデルにもなれそうだ)  ゴードンは、感嘆した。だから、顔の作りよりも、そのスタイルで、男たちは、魅せられてしまう。おつむの中身や、氏素性は関係ない。ミリアンも、女をそういう風に考える種類の男なのだろうう。  (だから、あんなに素晴らしい女房がありながら、浮気をしている)  ゴードンは、確信して、二人の様子を見ていた。そのうち、四人組の男の客がやって来て、おカマのバーテンに、  「お一人なら、譲って貰えますか」  とボックス席を追い出されたために、二人の会話を聞くことでできなくなった。だが、二人は、客が込んできたからか、立ち上がって、レジに行き、支払いをして出ていこうとしていた。  ゴードンは、彼らの後を追って、店を出た。  二人は、道に出ると、そこで客待ちしていたタクシーを拾って、走りだした。ゴードンも急いで、タクシーに乗り込み、後を追った。二人の乗ったタクシーは、しばらくして、ウエストサイドのアパートに着き、二人は肩を寄せ会って、階段を上がってドアーを開けて中に入っていった。  ゴードンは、二人の後を追っていったが、ドアーには鍵が掛けられ、その先には進めなかった。ゴードンは、番地を確かめて、引き返した。  翌朝、ゴードンは、望遠レンズ付のニコン一眼レフカメラやソニーのポータブル・レコーダーなど七つ道具を手に、昨夜のアパートの前の路上に車を止めて、張り込んだ。  ミリアンは、一時すぎに姿を現した。昨夜とは打って変わって、ダークスーツを着て、ネクタイを締め、髪も完全になで上げて、髭も剃っていた。一見したところでは、大会社に勤める一流ビジネスマンの姿をしていた。ゴードンは、危うく見違える所だったが、歩きかたが、両足を引きずるような独特の歩きかただったので、気が付いた。  女はいなかった。  (このアパートは、女のものなのだろうか。それとも、ミリアンが借りているのか)  ゴードンは、それが気になったが、ミリアンは、歩いて大通りの方に向かっている。追跡を始めたゴードンの頭からは、先程の疑問は消えていた。ミリアンは北上する路線の方に出て、タクシーを拾った。ゴードンは、車を向こう側の車線に導き、タクシーの後を追った。タクシーとゴードンの車の間に、一台のアコードが入って来たが、そのほうが、追跡を感付かれないで済む。  タクシーは、直進し、今、ゴードンが座っているホテルの目の前に停車し、男は下車した。そして,ゴードンが、慌てて止まったパーキング・ロットの目の前を通って、道路を横断し、あのオープン・カフェに入っていったのだ。  ゴードンが、カメラのレンズを見ながら、男を観察していると、ミリアンは、歩道沿いの席に腰掛けて、新聞を読んでいた。そのうち,空いていたミリアンの向かい側の席を目指して、白いワンピース姿の白人の女が歩いてきて、軽く会釈して座った。  ゴードンは、二人がファインダーの枠に収まるようにカメラの距離を調節し、ピントを合わせて、シャッターを押した。シャッターが、連写モードになっていたためか、  「カシャッ、カシャッ」  と連続して、シャターが降り、フィルムが巻かれる音がした。  (これでよし。完璧に顔が撮れているだろう。動かぬ証拠に使えるぞ)  ゴードンは、心中喜んで、さらに次のシャッターチャンスを狙っていた。  レンズから覗く二人は、楽しそうに談笑していた。女の顔からは、白い歯が溢れ、その顔は、美しかった。  (まるで、映画の中の王女様だ)  ゴードンは、オードリー・ヘップバーンに似た長身だが、華奢な体付きの女の姿をファインダー越しに見て、映画のカメラマンの気持ちになっていた。  すると、二人は突然、身を寄せ会って、頭に両手を回し、唇を合わせた。そのあと、男が女の肩に手を回して、暫く、話をしていたが、女が頷くと、男はポケットから、携帯電話を取り出し、何処かに電話をした。それから、再び、女の肩を抱き、笑い顔を交わしあったあと、一緒に席を立って、出ていった。  ゴードンは、二人の姿が建物の中に消えたため、カメラでの追跡を諦めて、脇の椅子に長いレンズを付けた重いカメラを置いて、テーブルの上のカフェオレを飲んだ。  液体を一口だけ、流し込んでから、再び、道路の向かいに目を向けると、先程の男と女が、店から出てきて、横断歩道の向こう側に立っていた。女の右手が男の左腕に差し入れられ、頭を寄せて、親しげに身を凭れかけていた。  信号が青の変わると、二人は歩きだした。こちらへ向かって歩いていた。道路を渡り終わると、二人は、正面の回転ドアーから、ロビーに入ってきて、真っ直ぐ、フロントの受付に向かった。ゴードンは、慌てて席を立って、二人のいるカウンターに向かった。二人がフロントの係に、何かを話しかけると、係員は、頷いて、後ろを向き、壁の箱に並べられているキー・ボックスから、キーを一個、取り出し、二人に渡した。ゴードンは、その瞬間を見逃さなかった。キーを取りだしたボックスには「1601」の文字が書かれていた。  (十六階だ)  ゴードンは、心中頷いたが、あるいは、と考えて、エレベーターホールに向かった二人の後を追った。ホールに他に客が三人いて,エレべーターが来るのを待っていた。下りの矢印が、一階に到着して、ドアーが開いた。三人が先ず乗り込み、二人の男女は、腕を組んだまま、その後に続いた。ゴードンは、急いで間に合ったという素振りをして、下を向きながら、最後に箱に乗り込んだ。  エレベーターは、旧式で、重い箱をやっとの思いで引き上げるように、ゆっくりと上昇していった。途中、十階で最初の三人が降りた。残る三人になって、ゴードンは、二人をじっくりと観察した。  男は、昨夜、パブで会った革ジャンパーの男に違いなかった。すっかり、身支度を整えているが、顔つきは、昨夜の男だ。だが、女は、赤毛で雀斑だらけ昨夜の女とは違うようだった。ただ、体付きは似ていた。身長とスタイルは、昨夜の女のように、すらりとして、振るいつきたくなるような素晴らしいプロポーションをしていた。かすかに、香水の香りがする。ゴードンはその甘い香りが、「ニナリッチ」だとは、知らなかった。  エレベーターは、十六階に到着した。ゆっくりと開いたドアーから、二人はフロアーに出ていった、ゴードンも、あとから、外に出た。  二人は、廊下を真っ直ぐに進み、突き当たりの部屋の前で止まり、中に入っていった。ゴードンは、反対側に行く振りをして、一度、立ち止まり、引き返して、二人の後を付け、二人が部屋に入るのを確認してから、部屋の前に行き、ドアーに書かれた「1601」の金文字を確かめた。だが、いつまでもここにいても仕方がない。いずれにせよ、中には入れないのだから、外で待つしかないのだが、ドアーの目の前で待っているような、間抜けなやりかたでは、探偵は勤まらない。  ゴードンは、一階に降りて、ロビーの長椅子に腰を降ろして、出てくる客たちを見張ることにした。斜めに、ちょうどエレベーターホールが、見渡せる一角に、ロココ調のゴボブラン織りの布を被せた長椅子があった。ゴードンは、そこに腰を降ろして、見張ることにしたのだった。だが、二人が降りてくるという保証はない。宿泊したら、一夜をここで過ごさなければならないかと思うとゴードンは、気が狂いそうだった。  だが、それは、杞憂に終わった。それから、長い時間だったが、三時間ほどして、二人は入っていった時と同じ正装で、姿を現し、フロントにキーを返して、今度は、入ってきた時と反対側の、自動ドアーを通って、外に消えた。ゴードンは、急いで、フロントに行き、 「いま、出ていたカップルは、チェックアウトですか」  と係員に聞いた。謹厳実直そうな初老のフロントマンは、  「どういうことをお聞きですか」  と聞き返してきた。  ゴードンは、私立探偵の身分証明書を見せて、  「私は、こういう者だが、いま出ていったた二人は、チェックアウトしたのか」  と聞き返した。それに対し、ベテランのその係は、  「当方では、原則として、泊まりのお客様をお受けしています。今のお客様は、本日、予約されましたので、明日までお泊まりになると思います」  と事務的に答えた。  「そんな、建前を聞いているのではない。こちらのホテルだって、昼間の休憩客は受け付けているだろう。それは、どこのホテルでもやっていることだ、客室の回転率を上げたいからね。今頃は、ルームサービスが、ベッドメーキングに入り、次の客の受入れの用意を整えているだろうな」  ゴードンは、率直に、言った。  「そこまで、申されるなら、お答えします。お二人連れは、チェックアウトされました。ジム・マクハティー様は、いつもお泊まりには、なりませんので」  係員は口を滑らせた。  「そのマクハティーというのは、常連客かね」  「あ、はい、そうです]  「では、聞くが、彼はいつも、ああして、女を連れ込むのか」  「あなたは、お口が悪い。ですが、私の知るが限りでは、そうですね」  「いつも、あの女なのか」  「それは、分かりません。私どもは、一々、お連れの方を観察しているわけでは、ございませんから」  「また、そういうことを言う。君達が、それとない素振りで、細かく客を観察しているのは、公然の秘密だよ。それが、仕事のようなものではないか」  ゴードンは、さらに砕けた様子で、迫った。  「なかなかの、言い方ですな、ところで、あなたの質問への答えは、ノーです」  「いつも違う女なのか」  「いえ、最近は、あの方が多いようです」  そこまで聞けば十分だった。  ゴードンは、再び、エレベーターホールに行って、やって来たエレベーターに乗り込み、十五階で降りた。その階のルーム係の部屋の隅に、清掃室がある。ゴードンは、迷わず、その部屋に入っていって、山積みになったビニール袋の中に分け入り、袋の端を一つ一つ確認していった。だが、それほど時間は掛からなかった。彼の目指していた「1601」と書かれた袋は、一番最初に手にした足元の袋だったからだ。ゴードンは袋の口をナイフで切り裂き、中身を床にぶちまけた。そして、狙ったものを探して、ごみの山を詳しく見て行った。    三 報告書  ゴードンは、その後、一週間の尾行を続けた。ミリアン・シュルツの行動は、正確で、連れの女も変化がなかった。ゴードンは、その結果、ミセス・シュルツが、依頼した「夫の浮気」調査に確信を得た。  ゴードンは、一晩掛かって、報告書を纏め、パソコンのワープロソフトを使って、文書にし、プリンターから打ち出して、製本した。  (これで、一仕事終わった。明日にでも、ジョン・ベネットに連絡しよう)  と内心囁いて、ベッドに入った。その夜は、その仕事に掛かりきりだったので、通信はしなかった。WWWのホームページを開いているからといって、毎日、インターネットに入るわけではない。  眠りに入る短い時間を前に、ゴードンが、考えたのは、  (これで、シュルツ夫妻は、決定的なことになるだろう)  と言うことだった。依頼を、ただ忠実に果たしただけの私立探偵には、その調査結果を依頼人がどう使おうと、文句は言えないが、一番身近で件数の多い素行調査や身元調査は、その資料が調査対象者のその後の人生を決めることになるだけに、正確さと慎重さを要求されるのだ。  今度の調査では、夫の浮気が、確認された、写真も証拠物も完全に揃っている。その意味では、妻の予感は的中していたことになる。そういう結果を期待していない妻は、報告を受けて、時折、取り乱す者もいた。そういう場合、ゴードンは、どうしていいか分からなくなる。なぜなら、彼には妻帯した経験がないのだ。そういう時、彼は、要点だけを簡潔に述べて、資料を渡し、残りの成功手数料を貰って、早々に、退散することに決めていた。だから、報告は、事務所では絶対しない。相手の家か、何処かの待ち合わせ場所で依頼者に会ことにしていた。  (あすは、その場所決めなくては行けない)  ゴードンは、そう心に決めてから、眠りに付いた。    翌朝、ゴードンは、起きがけの午前九時に依頼書に書かれたミセス・シュルツの電話番号にダイヤルした。それは、番号の並びから携帯電話と思われた。  「もしもい、ジョン・ベネット・シュルツさんですか」  「はい、そうです」  相手は、溌剌とした声で応対した。  「ウィリアム・ゴードンです。ご依頼の調査が終わりましたので、報告をしたいと思いまして」  「そうですか。御苦労さまでした。それでは、今日は仕事が終わるのが、午後十一時過ぎになりますが、よろしいでしょうか」  「結構ですよ。どこかで、外でお会いしたいですね」  「では、ラジオ・シティーの地下にあるカフェでいかがでしょうか。名前は」  ミセス・シュルツは場所と電話番号を言った。ゴードンは、了解して、電話を切った。  これで、一つ、今日の仕事のスケジュールが、埋まった。といっても、他に予定はなかった。  ふと、窓の外を見ると、そこには雲一つない五月晴れの空が広がっていた。空気も冷えて、りんとしており、気持ちが引き締まった。テレビを付けると天気予報が、  「今日は一日、晴れ、爽やかな晴れが続くでしょう。絶好の行楽日和になりそうです」  と若い女性のキャスターが笑顔で言っていた。  「こんな日は、他に仕事がないからといって、家に閉じこもっていてはいけない。何処かに出掛けることだ」  と一人呟いて、エミー・ブレアのアパートに電話した。  エミーは、まだ寝ていたらしい。何回もの呼び出し音の後、眠そうな声で、  「はいはい、どちら」  と応答した。  「忘れられない、あなたの天使だよ」  「ああ、ゴードン、何事なの。こんなに早く。今日は嵐になるのかな」  「あいにくですが、一日中晴れるようだよ」  「そう、やっぱりね。私の休日は、いつも好天だ」  「今日は、なにかするのかい」  「なにをって。決まっているじゃない。私が、家事大好き人間で、いい奥さんになるタイプだってこと、あなたは、知らないの」  「それは、自称だろう。私は、証拠を知らない」  「探偵さんは疑い深いからね。知らないのなら知ろうとすればいいのにね」  「知りたくても、教えてくれない。良い妻の条件は、ベッドの上だけではないということかね」  「そちらの方は、十分御存じなわけね」  「お陰さまで。そちらに付いては、保証付きだ」  「ありがとう。ところで、用件は」  「そうだ、今日休みなら、あまりに天気がいいから、何処かへ出かけないか、と思ってね」  「出かけるって、あなたと」  「そう、おれとだ」  「そういうお誘いは初めてだわね。いつもは、暗くなってから、薄暗い店の片隅で、ひそひそと人目を忍んで会うだけだったから。これで、私達も明るい日の光に晒されるのだわね」  「それほど、大袈裟なことではないよ。ただ、ちょっと、ドライブにでも、と思いついただけだ」  「いいわね。裸の付き合いばかりでなく、重装備で身を守ってお会いするのも。本当の乗り物に乗って行くのも、楽しそうだわ」  「では、決まった。昼過ぎには迎えにいくよ」  「了解。それまでに、せいぜい、体に磨きを掛けて、待っているわ。驚かないでよ」  ブレアは、そういって、キスの音を送った後、電話を切った。ゴードンは額の汗を拭きながら、受話器を置き、  「まったく、あいつには、押しまくられる。どこまでも、セクシーなんだ」  と呟きながら、キッチンに行って、電子レンジにレトルトのグラタンを入れた。    ゴードンが、ブレアを愛車のトヨタの4WDに乗せて向かったのは、ブラックリン橋を渡って川向かいのベッドタウン、ロズリンの町だった。橋を渡るとき見えたニューワーク湾の景色は、透明な空気を縫って遠くまで見ることができた。大型の白い客船が沖合に停泊していて、ゆっくりと港に向かって進んでいた。車の窓を開け放しにしてあるため,冷えた春風が、いやおうなく、吹きつけたが、頬が冷たくなるほど吹かれても不快ではなかった。  「ああ、気持ちがいい。大都会のコンクリートの部屋暮らしには、やはり、豊かな外気が必要なんだわ」  エミーは、笑い声を上げながら、感嘆していた。  目的地までは、約六十キロある。住民のほとんどは、ニューワーク市のオフィスに通うビジネスマンだから、週日の昼間は閑散としている。通勤用に地下鉄に直接乗り入れている電車の路線もある。多くの通勤客は、電車で通っているが、車で行く人もかなりいるから、上りの反対車線は渋滞していた。だが、逆行する下り車線は空いていた。トヨタの4WDはパワーアシストされたディーゼル・エンジンの回転をあげて、橋を渡りきり、直線路を東へ駆けていった。  片側三車線の道路は、一直線に伸びていて、その直線路で距離を稼ぐに従って、両側の景色が変わってきた。それまでは、家々が密集し、コンヴィニエンス・ストアやファミリーレストランが、軒を連ねていたが、その一角を過ぎると、両側には民家が目立ちはじめ、さらに進むと、閑散とした林の中に入っていった。  林は、延々と続いていた。時折、小動物が、道を横切ることがあり、ゴードンは、ひやりとして、ハンドルを切ったり、ブレーキを掛けたが、エミーは、平然として、  「急ブレーキは止めたほうがいいわよ。返って危険だから。急ハンドルを切るのも危ないわ」  と忠告した。  「じゃあ、どうすればいいのだい」  ゴードンは、むっとして、問い詰めた。  「そのまま行くのよ」  「そんなことをしたら、ひき殺してしまう」  「仕方ないわ」  気まずい会話が、続いた。  だが、確かに、エミーの言うことは、安全運転技術の理に叶っていた。自動車教習所では、教官は高速走行では、急激な操作をしてはいけない、と教える。むしろ、なにもしないで、ひき殺してしまったほうが、安全なのだ。だが、人間はそう、分かっていても、できないものなのだ。生物が動いていても、なにも、感じずにいることは、できない。かならず、そこに目をやり、危ないとなれば、避けるのが人の本性というものだろう。  「そういうやり方は、人の性に反しているよ」  ゴードンは優しく言った。エミーは、それにはなにも答えなかった。  車は、林を抜けて、再び、町に出た。今度は、一軒ずつの敷地が広く、なだらかな緑のスロープの奥にいろいろなスタイルの高級住宅が並んでいた。  その邸宅地区の中程の一角に、ゴードンは、車を止めた。後ろのシートに置いてある書類鞄のなかから、ジョン・ベネット・シュルツの調査依頼書類を取り出し、その依頼人欄にかかれた住所の番地を見た。車の止まっている脇の歩道上にある標識は、その住所を示していた。ただ、末尾の番号が、二番だけ違う。それは、あと二軒先にシュルツ家があることを意味していた。  ゴードンは、オートマチック・ギアーのレバーを「D」レンジにいれ、静かにアクセルペダルを踏んで、車をゆっくりと進めていった。その道沿いの、広壮な住宅地は一区画が五百メーターもあったから、二軒先は一キロも先だ。ゴードンは、アクセルを踏んで、スピードを上げた。  道は、上り坂になって、車は喘ぎながら、急な坂道を上がって行き、坂の終点の頂上に出た。すると、急に展望が開けて、遙か遠くに続く丘陵が見えた。林が切れた右側には、大きな湖があった。水面で、水鳥が数羽、羽を休めていた。道から湖へは、所々、林が切れている所から、直接出ることもできる。それほど、道と湖は接近していた。  その道沿いに、大きな建設機械のような車両が止まっていて、長い鉄製のダクトから、なにかを吹き出していた。吹き出された先には、大きな屑の山ができていて、その山を作業員が、崩しながら、道沿い草地に蒔いていた。  さらに進むと、左の小高い山の上に、アーリー・アメリカン調の白い館が見えてきた。ゴードンは道沿いに続いていた鉄製の柵が大きく左に折れて、奥の門の方に入っていっているのを確認しながら、車のハンドルを左に切って、車を門の前に導いていった。  電気仕掛けで動くらしい鉄の門の前には、車が停車できるだけの空間ができていた。ゴードンはその場所に停車して、運転席から降りた。門の前から内部を覗くと、家までは、歩いて百メートルほどと計算できた。家の二階から小さな光が漏れていて、だれかが、中に居そうだっった。ゴードンはその光に導かれて、人影を探したが、見つからなかった。  「ねえ、どうするの。この家に行くの」  車の窓から、身を乗り出して、エミーが、聞いてきた。  「いや、様子を見に来ただけだ。家には入らない」  「なら、もういいでしょ。こんな静かな所にいつまでもいても仕方がない。何処か、楽しいところに行って、サンドイッチを食べましょう」  ゴードンは、車に戻り、来た道を引き返した。通り過ぎて来た林の奥に、湖に臨む公園がある。その近くには車でキャンプができる場所もあるはずだ。ゴードンは、車を林の中に乗り入れて、奥を目指した。すると、視界が開けたところに、何台かの車が止まっていて、湖に面した場所に白いぺンキ塗りのベンチがあった。二人は、そこに座って、買ってきたクラブハウス・サンドイッチと魔法瓶に入れてきた熱いコーヒーの昼食を取った。  「ねえ、ここに何しに来たの」  エミーが、パンを一切れ口にしれながら、聞いた。  「いや、夫の浮気調査の依頼人の家を見てみよう、と思ってね。今日夕方に、報告するんだが、それまで、予定がなかったから」  「ああ、そういうこと。それで、たまたま、私が、家にいたというわけ」  「いや、君が休みなのは知っているよ。予定の計画だ」  「こんなにどたばたして、予定の行動だって。これでも、あなたには最大の計画なのね」  「すまなかった。説明しないで」  エミーは、ゴードンの話を聞いて、一応は納得したらしい。二切れ目を口に入れて、  「あの家、凄いわね。かなりの豪邸だわ。驚いた。ところで、その浮気の疑いのあるご主人は何をしている人。どこかの大会社の経営者、それとも、いかさま師」  「ロック・ミュージシャンのようだ」  「依頼人は仕事をしているの」   「しているようだ。航空会社に勤めていると言っていた」  「そう。でも、あの家に住むだけの収入はあるということね」  「わからん。おれの頼まれた仕事は、資産調査じゃない。夫の素行調査だ」  テーブルの上の食べ物は、すっかりかたずいて、塵になっていた。湖の上の鳥たちが、何に驚いたのか、一斉に飛び立った。左岸を見ると、道沿いに置かれていた建設機械から、噴出する粉塵の量が、突然、増えたようだった。  「そろそろ、帰ろう」  ゴードンが、きっかけを作って、二人は、車に戻り、市内へ引き返した。途中、エミーは、ほとんど寝ていた。ゴードンは、エミーを自宅に送り届けたあと、自分の事務所に寄って、報告書類のコピーを取ったあと、その一式を書類袋に入れて、封印し、ジョン・ベネット・シュルツとの待ち合わせ場所のラジオ・シティーの地下のカフェに向かった。    「やはり、そうでしたか。私の考えていたとおりですね。よく、分かりました」  ゴードンが、手渡した書類袋から取り出した調査報告書を一覧したあと、ミセス・シュルツは、目を伏せて、呟いた。  「そうです。ご主人には、特定の女性がいます。殆ど、毎日、夕方には会っています。その場所で会ってから、ホテルに入り、夜は、酒を飲みに出ています」  「この、マリリン・シェフィールドという女性が、いま、付き合っている相手ですか」  「そうです。その中に写真が入っています。オープン・カフェで会っているところを、望遠レンズで撮影したのですが、今のところ、その女性が一番、親しいようです」  ミセス・シュルツは、封筒から、写真を取り出して、眺めた。それは、35ミリフィルムに撮影した映像をキャビネ判に引き延ばしたもので、夫と女性の顔が拡大されて、ハッキリと写っていた。  「この女性ですか」  ミセス・シュルツは、遠くを眺めるような表情になり、何事かを思い出しているようだった。  「思い当たる節があるのですか」  ゴードンは、事務的に聞いた。彼女は、質問を無視した。  「ですが、夜、会っている女性は、決まっていないようです。ここ一週間でも、五人はいましたから。ここに一番頻繁に会っている女性の写真もありますが。でも、それらの女性は、除外していいのではないですか」  ゴードンは、その女性の写真も渡したが、そう言ってから、反省した。  (余計なことを言ってしまった)  とすぐに、考えて、言葉を止めた。  「除外していい」  とは、お節介も甚だしい。そんなことは、この依頼者が考えることである。  「一応、これで、ご依頼の用件は満たしていると思いますが」  ゴードンは極めて事務的に言った。  「はい、結構です」  ミセス・シュルツは、頷いて了承し、調査の残金に当たる金額を、小切手帳に書き入れて、サインをして渡した。  ビジネスが、片付いて一安心し、テーブルの上のシンガポール・スリングの残りを、一気に喉に流し込んだゴードンは、気持ちの張りがゆるんで、  「あなたは、素晴らしい家をお持ちですね」  と口を滑らせた。  「どうして、それを御存知ですの」  ミセス・シュルツは、潤んだ瞳で彼の顔を見つめて、不思議そうに聞いた。  「いえ。ちょっとあの近くに行ったものですから」  「そうですか。でも、私には、それが、怖いのです」  彼女の顔に、恐れの表情が走るのを、ゴードンは、見逃さなかった。それは、家に帰ってからしなければならないだろう夫との切ない会話に対する、女性の本能的な感覚から来た恐怖心だと、ゴードンは、気付いていた。  四 失 踪  一つの仕事が終わったが、その後、一週間ほど、ゴードンはまた、仕事がなくなった。たまに、エミー・ブレアと会って、一夜を過ごすのが、日課の一部となっていた。エミーは、ドライブに行って以来 また、気持ちがゴードンの方に近寄ってきたようで、気が向くと、ゴードンのアパートに来て、食事を作ったりした。  一夜を過ごした翌朝には、エミーは、ゴードンお好みのフレンチ・トーストとカリカリのベーコン・エッグを二人分作り、熱いカフェ・オレを煎れた。  ゴードンがこの朝食を好んで食べるようになったのは、エミーと知り合ってからだった。  「これは、私のおばあちゃんゆずりのわが家の伝統のブレック・ファーストよ」  と言う彼女は、この料理が実に上手だった。  「一流ホテルのコックだって、これほどには作れない。セントラル・パークの南のプラザ・ホテルのコック長だって、こんなに、上手くはできないわ」  ゴードンのために、料理をする度に、彼女は、自慢した。  ゴードンは、そんな彼女が、ますます、愛らしく思われた。  朝食のあと、彼女は  「さあ、一気に、やってしまうからね」  と腕をまくって、掃除と洗濯に取りかかる。ゴードンは、何日分かの洗濯物を、洗濯機の中に、そのまま放っておくのが癖になっていて、下着が山ほど溜まっていた。エミーは、  「そういうだらしなさが、嫌い」 と言いながら、  「でも、私は綺麗好きだから、掃除も洗濯も大好きよ」  と家事に励んでくれた。ゴードンには、好都合な女友達だった。ただ一つ、前夜に、大いなる「奉仕」をさせられる以外には・・・。  そうして、一週間をまったくプライベートな喜びの追究で過ごしたゴードンは、それでも、一応、毎日、事務所には通っていた。ミセス・シュルツの調査の手数料で、懐は暖かだったから、経済的な不安は、薄れていた。    その電話が鳴ったのは、ゴードンが、煎れたてのコーヒーをカップにいれて、最初の一口の口を付けた時だった。それは、知り合いの保険会社の人事部の男からで、  「うちの社員の素行調査を依頼したい」  という内容だった。  その会社は、この町のあるメンヒッタン島の最南端にあるウェール街に四十五階建てのビルを構えるこの国有数の保険会社で、人事部はそのビルの三十階にあるはずだった。ゴードンは、何度か訪ねたことのあるそのフロアーを頭に描きながら、  「こちらから伺いましょうか」  と申し向けたが、相手の男は、  「いや、内密の話なので、外部で」  と断ってきた。  ウェール街にには、ビジネスの話しをするいくつかの秘密の場所があるが、  「そういう場所よりも、普通の雰囲気の店で」  と言うので、ゴードンは座って話せるコーヒー・ハウスを提案し、男も同意した。  ウェール街に通うビジネスマンの格好で、その店に出向いたゴードンを、男は待っていて、ゴードンが席に着くやいなや、さっそく、用件を切りだした。  「うちの会社の公認会計士なんですが、どうも、不正を働いているらしいのです。社内の監査で相当額の使途不明金が見つかり、金の流れを調べたところ、その会計士が、自分の銀行口座に振り込んでいたのが判明したのです」  男は、深刻そうな表情で話しはじめ、テーブル上のエスプレッソ・コーヒーを一口啜った。髪を七三に分けて、綺麗になでつけ、寸分の隙もない、スーツを着こなした典型的なエリートサラリーマンの様子をしていた。ゴードンはそういうタイプの男には、基本的に嫌悪感があったが、仕事の上の付き合いだけに、ある程度の妥協は仕方がない。第一、この男の仕事は、手数料の率がよかった。  「背任、横領ですな」  「そうです。まだ、調査中ですが、いずれ、会社としても明確な措置を取ると思います」  「それで、私に何をしろと]  「個人的な事情を調べていただきたいのです。なぜ、そのような犯行に及んだのか。なにか、事情があるはずですが、会社では、無遅刻無欠勤の真面目な勤務ぶりでしたから、上層部は、とても信じられないといっている。なにか、個人的な理由があるのではないか、と思っています。今後の、再発防止の参考にもなると思いますので。同情すべき面があれば、会社としても、告発するかどうか考える、ということですね」  「ところで、額はどれくらいですか」  「今の所、判明しているのは、ここ五年間で、総額二百万ドル位のようですね。会社にとっては、そう大した額ではないが、犯罪の可能性は高いのです」  「分かりました」  「では、これが、その男の資料ですので」  男は、持ってきた書類を袋のまま、ゴードンに渡した。そして、  「では、宜しく。十日ぐらいでできますね」  と言って、席を立ち、請求書を掴んで、店を出ていった。  ゴードンは、受け取った書類を脇に抱えて店を出た。事務所に帰ってから、じっくりと旨い自家製のコーヒーを飲みながら、読む積もりだった。  事務所で、紙袋から取り出した書類は、顔写真付きの履歴書と、これまでの会社での職務経歴書だった。出身大学、家族、住所などが簡単明瞭に記されていた。  (この書類から、何を探りだせというのだ)  最初にゴードンの気持ちに兆したのは、その疑問だった。だが、探偵の仕事の基本は、まず、現場に行き、人に会って、情報を得ることである。書類を一覧したゴードンは、  (あした、この住所を訪ねてみよう)  と決意していた。履歴書や経歴書を見ると、一点の濁りもない完璧な経歴だったから、ますます、そういう社内犯罪に走った男の動機と人間性に興味を覚えたからだ。  (あすは日曜日、男は家族と過ごすだろう。その様子だけでも分かれば、参考になる)  ゴードンは、コーヒーカップの最後の一滴を喉に流し込むと、壁際の仮眠用ベッドに横になって、午後の睡眠を貪った。    翌朝、ゴードンが、男の家に行こうと、ドアーを開けて部屋を出ようとした時に、電話が鳴った。  「一体何なんだ。この瀬戸際に」  との文句をかみ殺して、受話器を取った相手は、顔見知りの市警本部刑事課の刑事、ロジャー・ジャクソンだった。彼は、ゴードンが、市警に勤めていたころの同僚で、映画俳優のエディー・マーフィーに似たジョーク好きの黒人だった。  「いやー、優雅な名探偵さんは、もうお目覚めかな」  その言葉に、ゴードンは、サイドボードの上の時計を見た。午前十一時にあと十五分の時刻だった。  「いい時間だろう。一般人が仕事をする日ではないだろう」  「そうだ、今日は日曜日だ。われわれは、貧乏暇なしだよ」  「おれにも暇はない。はやいとこ、用件を言ってくれ」   「そうだな、忙しい探偵さんの時間を大切にしなちゃね。実は、昨日、ユナイテッド航空会社から、社員の捜索願いが出された。客室乗務員で、名前は、ジョン・ベネット・シュルツと言う。聞いたことがあるだろう」  「ある」  「この女性が、無断欠勤を続けていて、家に電話しているが、誰も出ない。なにかの事件に巻き込まれた恐れもあるので、探してくれというわけだ」  「そうか。探したのか」  「探した。家に行ってね。豪壮な邸宅だったよ」  「夫がいたろう」  「いたよ。話を聞いたが、彼も妻が帰ってこないので、心配していたそうだ。彼はロッカーなので、公演に出ていて、すれ違いが多い。昨日帰ってきて、妻が帰らないのを、ハウスキーパーの女から聞いて、心配していたそうだ」  「一週間も気が付かなかったのか」  「そうだ。だが、一週間ってどうして分かるんだ」  「どうしてって。それなら、なぜおれに電話してきたんだ。惚けるんじゃない」  ゴードンは、なぜ、ジャクソンが電話してきたか、おおよその推測はついている。彼は、シュルツの家を捜索して、夫の行動調査報告書を見つけたのだろう。  「さすがに、スマートなできる探偵さんは、見通しが効く。そうだよ、彼女は、夫の素行調査を、あんたに依頼していたんだった。そこで、すこし、話を聞きたいと思ってね」  「いいだろう。だが、今日はこれから用事がある。夕方には片がつくが、それからでいいかね」  「いいだろう。では、例のところで。午後六時に」  「いいだろう」  ジャクソンは、それだけ約束して、電話を切った。ゴードンは、地下の駐車場に降りて、愛車の4WDに乗り込み、キーを回した。    向かったのは、保険会社の公認会計士、テリー・シェルドンの自宅である。その家は、持って来た書類の履歴書によれば、この町の郊外、マイフェア地区の高級住宅地にあるはずだった。そこまでは、市東郊外のヘドソン川沿いに走る高速道路を北上し、最初のインターチェンジを降りて、東に四十キロほど行く。九○年代に開発された最新の住宅地だった。  シェルドンは、その家に二年前に移り住んだ。それは、一男一女の二人目の女の子が生まれてから半年後のことだったのを書類は示していた。妻は、専業主婦のようで、職業の欄には、ただ、「無職」とだけあった。同居人は、まだいる。それは、八十一歳の女性で、ジェシカ・シェルドンという名前から、テリーの母親と思われる。  すなわち、この家は、祖母と、夫妻と二人の子供の五人家族だということだ。ゴードンは、テリーの年齢を見た、五十二歳とある。妻のメアリーは、四十五歳で七つ違いだ。テリーは、東部の名門校、アーノルド大学の経営学部を卒業して、最初は、銀行に入ったが、そこで公認会計士の免許を獲得して、今の保険会社に転職した。それは、この国では、給料の増加を意味している。現在の会社の在職は、十五年になり、会計監査部門の責任者を任せられていた。  子供は、長女がキャンディスといい高校二年生、弟の長男はロバートという名で中学一年生だ。  (まずは、典型的な、中産階級というところだな)  初めて、書類を見たときにゴードンは、そう思った。その模範的な家庭の主人が、会社の金を横領し、着服している。それもかなりの額だ。  (何が背景にあるのだろうか)  ゴードンは、幸せな家族生活を手中にしているに違いないテリー・シェルドンの心の内を想像して、その完璧な理解はできないだろう、と思いながら、愛車のアクセルを踏んでいた。  シェルドン邸は、小さな山の麓に広がる草原の一角にあった。導入路から徐々にゆるやかな坂を蛇行しながら上っていくと、なだらかになった中腹にどっしりとしたヴィクトリア調の三階建ての豪邸が聳えていた。  右に折れると、左のガレージに三台の車が見えた。一台は、リンカーン・コンチネンタル、そして、ポルシェのスポーツカー、さらに、フォードの4WDが並んでいた。  (こいつは、豪勢な暮らしだな)  ゴードンは一人ごちながら、車を降りて、玄関に向かった。玄関の中部には、明かりが点いていたが、何度、ノックしても人が出てこないので、ゴードンは、裏庭の方に歩いていった。山側にある裏庭に人の話し声がした。ゴードンが、白い柵の外から庭の方を覗くと、そこには、書類で見た顔つきの大男が立っていて、バーバキュー焜炉の前で焼き肉を焼いていた。側の白い椅子には、子供が二人座って、飲み物を飲んでいた。ゴードンが、ひとしきり、その幸せそうな家族の風景を眺めていると、家の中から母親と見られる金髪の女性が、出てきて、  「だれも、いませんでしたよ。また、あなたの空耳でしょう。それとも、お婆ちゃんがまた、間違って、玄関のベルを悪戯したのかしら」  と不満そうな顔をして、男に言った。  「でも、ノックもしていたような気がしたが」  「でも、だれもいませんよ。まったく、いやになってしまう」  妻はそう言って、二人の子供の方に行き、椅子に座って、焼けたばかりの肉を頬張った。  ゴードンは、その様子を見て、姿を出すのをためらっていたが、折角ここまで来たのだから、と考えて、柵の外から、  「こんにちは、どうも」  と男に声を掛けた。男とテーブルに座っていた三人が一斉にこちらを振り向いた。  「はい、どなたですか」  男が寄ってきて、聞いた。ゴードンは、ここで嘘を言ってもしかたがないと思って、素直に名前と素性を名乗った。  「私立探偵さんが、何の御用ですかな」  テリー・シェルドンは、ゴードンの職業を聞いて、身構えながら問い返した。それまでの、楽しそうな表情が一瞬にして変わり、険しくなった。  「それは、もう、言わなくてもいいでしょう。差し支えなかったら、二人だけで話したいのですが」  ゴードンは、暗に人払いを求めた。  「では、こちらで」  テリーは、ゴードンを先導して、家の奥に入っていき、家の西側の小部屋に案内した。そこは、書斎らしく、壁一面に書棚があり、天井まで、本がぎっしり詰まっていた。  大きなオークの机の前に応接椅子があり、二人は対面して、そこに腰掛けた。  「さあ、伺いましょうか。どんなご用件ですか」  「はい、実は、あなたのお勤めの会社から、調査を依頼されました。その趣旨は、あなたの個人的な生活がどうなっているかを調べてほしい、ということです」  「会社が、私を調べようとしているわけだ」   「そうです。なんでも、あなたは、会社の金を相当額横領しているという疑惑が掛かっているという。心当たりはありますか」  「それは、あなたの依頼された用件とは違うだろう。私の私生活には、問題はないよ」   「そう見えました。立派な家に住み、家族サービスも事欠かない。二人のお子さんにも何の問題なさそうだ。そう見受けましたが」  「そうだよ、私は夫として、父としての義務は立派に果たしている。長年苦労して、ここまで来たのだ。だれにも後ろ指を指されることはない」  ゴードンは、その毅然とした勢いに押された。  「ですが、会社は、疑っている。そのことは、知っていましたか」  テリーは、下を向いて、静かに考えたあと、  「知っている。会社は、私を解雇するつもりのようだ。そうなったら・・・」  と言って、言葉を詰まらせた。  「そうなったら、この生活はできなくなる、ということですね」  ゴードンが、確認するように重ねた。  「私は謂われのないことで、会社から追放されるのだ。これまで、どれだけあの会社の為に尽くしてきたか知れないのに。私は悔しいが、なにもできない」  「戦えばいいではないですか」  「それは私の性分に会わない。争いは嫌いだ」  「でも、それ以外に、生き残る道はないでしょう。身に覚えがないのなら、戦うしかないんですよ」  テリーは、また、口を噤んで考え込んだ。長い沈黙が流れた。  「わかりました、私の方は、家庭的に問題は見られない、と報告ておきます。そして、あなたは、覚えがないといっていると」  「結構でしょう。見てのとおり、個人生活に何の問題もないのですから」  ゴードンは、調査協力への礼を言って、シェルドン邸を辞した。庭では、まだ、母と子供の談笑が続いており、テリーは、その輪の中に戻っていった。  帰りの車の中で、ゴードンは、考えた。  (もし本当に多額横領をしていたのなら、あの豪勢な暮らしぶりが、その最大の証拠だ。公認会計士とはいえ、サラリーマンではそう収入があるわけがない。だが、暮らしの中身を見ると、いかにも幸せそうで、なんの問題もなさそうだ。動機が家庭にあるとは考えられない。何が、彼を社内犯罪に駆り立てたのか。それとも、彼を陥れるための社内の陰謀なのだろうか)  それらに、結論を出すには、まだ時間が足りなかったし、判断材料も少なかった。    ゴードンは、その日の夕方、市警のロジャー・ジャクソン刑事と待ち合わせ場所のダウンのショット・バーで会った。  「いやあ、久し振り。元気のようだな」  ジャクソンは、いつものように気楽に、声を掛けてきた。  「お前もな。こちとらは、貧乏暇なしだ」  「われわれと違って、気楽な商売だろう。まあ一杯行けよ」 刑事は、カウンターに座っていた。グラスに琥珀色の液体を満たしたタンブラーを手にしている。そのタンブラーを一端、置いて、予備のグラスに、手にしたサントリーの生ビールを注いで、ゴードンに勧めた。  「すまんな、丁度、喉がからからだった。ありがたい」  ゴードンは最初の一杯を一気に喉の流し込んで、一息付いた。  「ところで、用件はシュルツのことか」  「そうだ。あそこのご婦人が姿をくらまして、捜索願いが出たんだが、どうもおかしい。それで、今日、家を徹底的に捜索した」  「ほう、忙しい市警としては、異例の意気込みだな」  「そうだ。本当は、単純な行く方不明者の捜索などしている余裕はないんだが、今回は、特別だ」  「どうしてだ」  「いなくなったジョン・ベネットは、市警幹部の親戚なんだよ」  「だれだね」  「あの鬼署長のマクナリーだ」  「ああ、おれたちの教育係か」  「そうだ。あのころはな。でも、今は、出世して、市警本部の刑事部長と来ている」  「それは、うかつだった。おれが、調査したときは、気が付かなかった」  「奴さんの姪っこということだ。妹の子供らしい」  「それで。捜索の結果はどうなんだ」  「それより、あんたが、夫の調査を依頼されて、浮気の証拠は掴めたのか」  「それは、報告書に書いたとおりだ。読んだだろう」  「そうだな。写真付きで詳しかった。真面目な仕事だ」  「ありがとう。ところで、今日の捜索の結果はどうなんだ」  ゴードンは、焦らされているような感じがした。  「念のため、観察医にも、調べてもらったんだが、決定的な証拠は出なかった。ただ、夫婦の寝室のダブルベッドで、血痕が見つかった」  「血痕か」  「そうだ。ベッドの横の布に斜めの線状にルミノール反応があった。それから、床に髪の毛が数本、落ちていた」  「女のか」  「いま、血液型を鑑定しているが、長さからして間違いないだろう。それと、メードが興味深い証言をした」  「なんだ」  「彼女は、部屋の清掃と洗濯と料理に雇われているんだが、地下にあった大型のフリーザーが、無くなっているというんだな」  「大型のフリーザーって」  「ほら、あの家は街からは遠い。それで、食肉類を買いだめして保存しておく。料理をするとき、そこから肉を取り出して、解凍して使うんだが、それが、無くなったと言っている」  「いつからだ」  「五日位前からだ」  ジャクソンは、そこまで話して、また一本、メード・イン・ジャパンの純生ビールを追加注文した。  「この日本製のビールは、実に旨い」  「日本人は、また、ドイツ人のおはこを脅かしている」  二人は、新しい一本を分け合って、グラスに注ぎ、一気に飲み干した。  「そなると、これは、犯罪だな」  ゴードンは、私見を述べた。  「おれも、そう思う。なにしろ、彼女の勤務は真面目で、無断欠勤したことは一度もない。それどころか、無遅刻無欠勤だ。それほど、勤勉な人が、こんなに長い間、何の連絡もせずにいるわけがない」  「最後の姿は、いつだ」  「それも、五日くらい前に、ドイツまでのフライトを終えて、仕事が終わり、同僚の女性がタクシーで自宅に送っていったのが最後だ」  「では、家には帰っていたわけだな。ロッカーの夫はどうなんだ」  「公演があった、家にはいなかったと言っている」   「でも、家に帰ったあとで、姿が見えなくなったとしてら、夫しか怪しいものはいない。それに、彼らの夫婦仲も良くないだろう」  「それは、あんたの報告書のためかもしれない」  「おれは、真面目に仕事をしただけだ」  ゴードンは、そう言われてむっとなった。  「でも、あれで、夫婦喧嘩をしたのかもしれない」  ジャクソンは、しつこかった。  「とすると、おれにも、この不可解な事件に頭を突っ込む資格があると言うわけか」  ジャクソンは、静かに頷いた。  「わかったよ、そうしよう。ところで、これからどうするのだ」  「近くの聞き込みをするのが、基本だろう。明日にでも、徹底的にやってみる」  「では、おれも、つきあうか」  「そうだな、許すとしよう」  二人は、目を合わせて、グラスをぶつけて高く指し上げ、飲み干し、さらに、サントリーというラベルが、付いたビールを追加注文した。    五 肉 片  シュルツ邸付近の聞き込み捜査は、近くの群警察の保安官らも動員して行われたが、都市部での捜査とは違って、地域が広いので、そう効率的ではなかった。  ゴードンは、エミー・ブレアと一緒に先日、この付近を訪れた時に走っていった湖の見える道路を愛車で進んでいった。周囲は、先日と変わらず、閑散な光景だった。進んでいくうち、道路右側の湖沿いに大型機械が依然として、鎮座しているのが目に入った。  (あの、建設機械、まだ、道を塞いでいる。いつまで、作業するのだろう)  そう考えながら、車を徐行させていくと、道路で作業していた日焼けした作業員が、寄ってきて、  「今日は、随分、車が通るが、なにかあったのかい」  と窓に顔を寄せて聞いてきた。  「ああ、ちょっとした事件があり、捜査が行われることになった」  「そうか、それで、車が多いんだ」  真っ黒の顔を作業員は、煙草の脂が浮かんだ黄色い歯を見せながら、頷いて、笑った。  「ところで、どんな事件だね」  「あの岡の上の屋敷の奥さんが居なくなってね」  この男も、なにかを知っているかもしれない、という期待を込めて、ゴードンは聞いた。  「そうかい、それで、それは、いつごろだい」  「五日前からだ」  「とすると、あのことがあった翌日からか」  男は怪訝な表情をした。ゴードンはそれを見逃さなかった。  「あのことって、なんだい」  「実は、その日は、酷い吹雪で、おれたちは、作業を休みたかったんだが、日程が詰まっていたんで、夜間作業をしていた。すると、あそこにある破砕機が動きだしたんだ」  「ああ、あれかい」  ゴードンが、車の先に見える大型機械を指差すと、男は頷いた。  「そんな夜に、あの機械を動かすとは知らなかったから、おかしいとは思ったが、管轄が違うからね」  「夜中って、何時ころだね」  「三時すぎだな」  「どのくらいの間、動いていた」  「それは、分からん、吹雪が酷かったので、通りかかったときに、気が付いただけだから。ずっと、見張っていたわけじゃない。おれたちは道路工事の作業を急いでいたんだ」  男は、それだけ言って、ゴードンに、前へ進むように、と合図を送った。  これは、有力な情報だった。直接犯行に結び付くことはないかも知れないが、通常はあり得ない異常な事態が、その夜起きていたことは間違いない。  捜査員たちは、夫のミリアンとメードから、詳細な事情聴取を進めていたが、はかばかしい成果は得られなかった。  ミリアンは、  「おれはここ一週間、興行に出ていて、家にはいなかったから、事情は知らない。ずっとバンドのメンバーと一緒だったから、アリバイはあるよ」  と主張した。  メードの中年の太った黒人女は、  「私は週三回、掃除などに通っているだけで、そのためのキーを預かっていますが、奥さんも旦那さまも、居ないことが多いので何の不思議も感じないでいました。ただ、大型フリーザーが無くなったていたのが、不思議でしたが」  と証言していた。  ジャクソン刑事は、観察医の所見から、夫婦の寝室で、何らかの犯行が行われたのは、間違いない、と確信していた。ただ、被害者の遺体がない。凶器も発見されていない。一人の夫持ちのキャリアウーマンがいなくなったということだけだ、あるいは、突然、仕事が嫌になって、長旅に出たということも、ありえないことではない。だから、失踪事件ではないかもしれないが、長年の経験からジャクソンの直観は、殺人事件を予知したのだ。  「おれは、事件は起きたのだと思う。あの寝室で、ミセス・シュルツは、殺されたのだ。だが、遺体がない。遺体はどこにいったのだ」  そう呟きながら、ジャクソンは、やって来たゴードンを見つめた。  「なにを、ぶつぶつ、呟いているんだい。優秀な刑事さん」  「遺体がないんだ」  「そうか、被害者が見つからないのか」  「そうだ、ミセス・シュルツはどこにいったのだ」  「これは、遺体なき殺人事件ですかな。優秀な刑事さん」  それは、ほぼ、間違いないように思われた。  その糸口は、  (そうだ。あの作業車にある)  ゴードンは、ここに来て、いま聞いたばかりの道路作業員の話が、新鮮に蘇ってきた。  「切れる刑事さん。いま、そこで面白い話を聞いたよ。参考になるかもしれないよ」  ジャクソン刑事は、身を乗り出してきた。ゴードンは、湖の脇の道路沿いに置いてある大型粉砕機が、夜中に動いていたことを見た、という道路工事作業員の話を聞かせた。聞きおわって、ジャクソンは、  「おれにも、引っ掛かるものがある。犯罪からみの予感がある。その機械の周辺を徹底捜索だ。それから、湖に粉砕機の排出口が向いていたのなら、水中も探さないといけないな」  と言って、家の中に行き、係員に指示をした。  水中の捜索は、専門のダイバーが必要なので、準備に時間がかかった。ダイバーが来るまでに、ゴードンとジャクソンは、機械の周辺を克明に調べて回った。  その木材粉砕機は高さが三メーター以上、図体は大型のブルドーザーなみの大きさがあった。車体の横に木材を入れる吸い込み口があり、そこから入った木材は、内部の硬鉄鋼製カッターで、粉々に砕かれ、反対側の排出口から、強力な扇風機に吹かれて粉になって、外の出ていく構造になっていた。二人が、現場に行ったとき、機械は運転していなかった。  二人が、機械の周囲の地面を舐めるように観察していると、湖の方に入っていた若い捜査員の叫び声がした。  「おーい。何か浮いているぞ」  二人は、その声のしたほうに走っていった。すでに、他の捜査員らも、そちらに走り寄っていた。  若い捜査員が、指で指し示した方向を見ると、確かに、白い物が水面に浮いている。それは、一見、水死体のようだったので、捜査院らの間に緊張が走った。  「おーい、あそこに繋いであるボートを持ってきて、上げてこいよ」  ジャクソンが、岸で見つめている捜査員らに、てきぱきと指示した。捜査員らは、左岸の岩の側に上げてある手漕ぎのボートの方に行き、裏返してあったのをひっくり返して、皆で持ち上げ、湖面に持っていって、水面に漕ぎだした。  沖合のそう遠くない場所にその異物は浮いていた。波が寄せるたびに、上下に動いたが、遠目でもそれは間違いなく人間のものと思われた。人の衣服のように見えたのだ。  ボートを漕ぎ出した捜査員達は、十分もしないうちに、その異物の場所に漕ぎ付き、船内に収容して、岸に戻りはじめた。  風もないでいて、気温も暖かだったから、その作業は困難ではなかった。むしろ、異物を上げてからの、捜査のほうが難しそうだった。  二人は、ボートが付く方に行って、捜査員らが上がってくるのを待った。ポリバケツに異物を入れて、船の捜査員らがこちらにやって来た。  砂浜の上で調べることはできない。一端、草地に持っていって、なかの異物を広げてみた。それは、女物の衣類だった。上着は濃紺のベルベットのジャケット、下は灰色の無地のタイトスカートだった。一部に裂けた部分があった。それは、ジャケットの背中の部分で、右の袖も付け根が切れていた。さらにもう一枚、白いブラウスに下着が二枚、シュミーズとパンティーが見つかった。シュミーズは純絹製の高級品で、パンティーには、ガードルが付いていたが、パンティーストッキングは履いていなかった。白いブラウスは無傷で、それが、他の衣類を包み込んでいたので、遠目からは全てが白く見えたのだ。  「これは、ミセス・シュルツの着ていた物だろうか」  ゴードンの呟きに、ジャクソンは、  「多分、そうだろう」  と答えた。ジャクソンは、衣類の分類を終えると、ポケットの内部を調べ始めた。  上着の外ポケットからは、何も見つからなかった。内ポケットも空だった。ブラウスの胸のポケットからは、皺しわになったレシートのような紙片が見つかった。そこには、発行した会社のロゴマークがあり、署名欄にボールペンでミリアン・シュルツの名前が記されていた。  「ほら、貴重な証拠が見つかったよ。旦那の名前だ。これは、レンタル屋のクレジット・カードの領収書だな。何を借りたか、調べればいい」  「これは、凄い。お手柄だな。これで、間違いなく、この服はミセス・シュルツの物だ、と考えていいようだな」  二人は、顔を見合わせて、有力な物的証拠の発見を喜んだ。  そのころ、到着したダイバーらが、水中に潜りはじめた。粉砕機のある辺りから徐々に、水中に入っていく。その間も、地上に異物がないか注意深く、観察していく。根気のいる仕事だ。ダイバーは五人いた。彼らは、横に並んで、ゆっくり、水中に姿を消した。  空気の泡が、何回か水面を騒がせたが、しばらくすると、一人のダイバーが、浮上してきて、右手を掲げて、見守っていた皆に合図した。彼が、上がってくるほうに駆けつけると、そのダイバーは、ゴム手袋の右手を広げて、中に握っているものを見せた。  それは、大きな石の付いている指輪だった。ゴードンには、その指輪に見覚えがあった。ジョン・ベネット・シュルツが、ゴードンの事務所に夫の浮気調査の依頼に訪れたとき、すらりとした両脚を揃えて話をしている最中に、指を組んだ右手の薬指に光っていたものと同じだった。  「おい、これは、彼女のものだぜ]  ゴードンは、ジャクソンに囁いた。  「本当か、間違いないか。これで、ますます、彼女が犯罪にあった、という確信が強まったな」  ゴードンは頷いた。  指輪を見ているうちに、他のダイバーが一度目の潜水を終えて、陸に上がってきた。彼らは一斉に水に入り、一斉に上がってる。それが、水中捜索の原則だった。そうすることによって、見落としを避けることができる。そして、一定の場所までを決めて、そこまで行って、引き上げてくるのだ。  「どうだった」  ジャクソンがダイバーたちに聞いた。  「それが、あそこから、二十メーターくらいにわたって、木材の粉が堆積していて、足を踏み込むと凄い煙が上がる。煙幕を張られているようで、視界が届かなくなる。とても、なにかを見つけられる環境じゃあ、ありませんよ」  ダイバーたちは、口々に、水中の状況の悪いことを訴えた。  ジャクソンは、右手を顎に当てて考えていた。そして、はっと、アイデアが閃いたのか、頭を上げて、  「そうだ、その堆積物を集めてくれ」  とダイバーたちに命令した。  ダイバーたちは、暫く、休息したあと、ジャクソンの指示を実行するため、吸引器を手にして、再び、水中に戻った。彼らのうちの一人は、水中カメラも持っていて、作業の様子を克明に記録するはずだ。その写真を見れば、陸地にいる捜査員も、現場の状況も知ることができる。  吸引器の袋に集めた泥の中から、何が見つかるか。それは、作業が終わってからのお楽しみだが、ジャクソンには、ある予感があった。夜間に不審な人物があの粉砕機を動かしていた、というゴードンの聞き込みを基礎にした推論だったが、まだ、ゴードンには、話していない。それは、確実な物証が出てきてからにしよう、と考えていた。あるいは、すでに、彼も同じ推論をしているかもしれない。いや、絶対に、同じ考えの道筋を辿っているに違いない。だから、この水中捜査で絶対的な証拠が見つかるかどうかが、大きな鍵を握っていたのだ。  ダイバーたちは、ワンクールを終えて、また、陸に上がってきた。彼らの持っている吸引器の袋から、ポリボックスに、中の物を全て出して回収する。汚泥が流れ出てきたが、手でかき回すと、固形物もあった。小さな瓶や罐、紙片やプラスチック類が多いが、金属や生物の骨の感触のする塊もあった。これからは、汚泥を洗い流して、中の固形物を選別する作業を急がなければならない。捜査員と鑑識課員らが総動員されて、その作業に掛かった。  泥を流すと、本当に多種多様な物が出てきた。人の生活にはこんなに物が使われているのか、と感嘆するほど、いろいろな人工の物質が出てきた。  それらを、仕分けして、分類していく。金属、紙、ポリ類と分けていくのだが、その作業を続けているうち、木屑が食い込んだ不思議なチップが、多数見つかった。  最初は、それらは、ハムかソーセージの破片かと考えていたが、硬さからそうでもないらしい。どうも、冷凍肉の破片に近かった。  「これは、牛ですかね、豚ですかね、それともマトンか、チキンかな」  どの作業員も、肉片のようなチップを見つけていた。確かに、それは、固く、冷凍された食肉に似ていたが、大きさは均等で、こびりついた木材のチップと同じ形に揃っていた。  報告を受けたジャクソンは、屋敷の中で室内を調べていた観察医をこの作業場に呼んだ。  「どうです、この破片は、何だと思います」  ジャクソンは、観察医のアーノルド・ブッシュに尋ねた。ブッシュは、年齢五十二歳、小柄な体で禿頭、厚い近視の眼鏡を掛けた一見、風采の上がらない男だったが、腕は確かだった。これまでも、数々の難事件を科学的な視点から解明してきた。科学的視点といういうのは、疑いのない科学的合理的な証拠をもとに、犯罪を追及するから、説得力があり、反論のしようのない、絶対的なものなので、犯罪捜査には強力な武器になる。ジャクソンは、ブッシュに全幅の信頼を置いていた。それは、常日頃から、  「先生は、世界一の観察医だ」  と公言して憚らないことからも伺えた。  ブッシュは、破片を手に取り、ルーぺを当てて、  「肉だな。しかも、人の肉片だ」  と断言した。  「男か女か、詳しいことは、持って帰って、詳しく調べないといけないが、これだけ出てくれば、多くのことが推測できる。血液型も、DNAもわかるから、これが、誰だか断定できるだろう」  と、観察医は頼もしいことを言った。  ジャクソンには、しかし、その破片が一定の形をしていることが、気掛かりだった。全てに、斜めの線が細かい溝のように走っていた。それは、工場で作られた機械の部品ように一定だった。  「この疵、どう思う」  ジャクソンは、一緒に見ていたゴードンに聞いた。  「そうだな、切り刻むときに付いた疵だろうな。カッターのような金属機械で付いた疵だろう。あんたの予想と同じだよ」  そう言って、ゴードンは、道の脇に動きを止めてうずくまっている大きな木材破砕機の方に目配せした。  根気のいる作業だったが、日が西の山に落ちることには、一応のかたが付いた形になった。暗くなってからやらねばならないほどの作業はなかったから、集めた証拠物を車に積み込んで、その日の現場検証は、終了した。  あとは、研究室での、細かい分析作業になる。それは、法医学的には、ブッシュ医師が完璧な仕事をしてくれるし、衣類や宝石類の持ち主の確定は、証人からの事情聴取で行える。  (いずれにせよ、夫のミリアンとメードは署に呼ばないと行けない)  ジャクソンは、その手配を部下に命じて、現場を引き上げた。  「明日にでも、全て、解決するよ。大きな収穫だった」  帰りの車の中で、ジャクソンは、運転席のゴードンに話しかけた。ゴードンが、帰りの車に誘ったのを、ジャクソンが気軽に同意して、同乗したのだった。  「参考人は、あす呼ぶのか」  「そういうことで、手配した。犯人は夫だよ。夫が、妻を殺して、遺体をあの機械で細断して湖に捨てたんだ」  「そういうことだろうが、まだ、証拠が足りないのではないか」  「確かにな、夫はアリバイを主張するだろう。それに、どうやって、人一人の体を木材のように粉砕できるように加工したのか、何のための犯行なのか、分からないことがまだ多いな」  「そうだ。収集した肉片が人のものであるという確証はまだ、ない。あるいは、豚の肉片かもしれない。あの機械で、ああいう形に切れるのかどうかもわからない。家政婦が言っていた、なくなった冷凍庫も見つからなかった」  「確かにな、だが、医学的な証拠が揃えば、夫も自白するだろう。心配はいらないよ」  ジャクソンは、この日の成果に満足したためか、自信満々だった。    その自信は、翌日の夫、ミリアン・シュルツからの任意の事情聴取で、完全に打ち砕かれた。  「奥さんがいなくなって、あなたは、心配ではないかね」  調べ室で、ジャクソンは、丁重に切り出した。  「心配っていったって、一週間くらい家を空けることはしょっちゅうだからね。別に変わったこととは思わないよ」  「でも、なにも連絡がないのは初めてだろう」  「そうだな。相手からはな。会わないでいるのは、いつもは、おれの方からなんだが、こんどは、やつの方からだから。心配しているよ」  「心配しているか。それなら、なにか、手掛かりはないのかい」  「そんなもの、あるわけがない。あいつは、一人でやっていけるんだ。どこに、いても、大丈夫さ。あの位の女なら」  「勤め先の航空会社では、ずっと、真面目に勤めて来たので、無断欠勤は信じられない、と言っているぞ。それで、心配して捜索願いを出した。あんたは、夫なのに、そう心配していたとは思えないね」  ジャクソンは、やや厭味を込めて追及した。  「だから、それが、おれたち夫婦の普通の状態なんだ。よその奴がなんと言おうと、それが、おれたちだったんだ」  「だから、心配していないということはないだろう。家に帰ったら、いなかったんだから」  「でも、いつかは帰ってくると思っていた」  「こういうことは、これまでにあったのかね」  「あったよ。あいつは、知らないだろうが、おれは知っていた。あいつは、たまに、男と会っていた」  「そうか、それなら、夫婦で不倫をしていたというわけだな。いい夫婦だよ。浮気をしていたのは、あんただけじゃないのか」  「おれか、おれはミュージシャンだから、女に不自由したことはない。だが、不倫とは違う。ああやって、仕事が終われば、必ず、家に帰ってくるんだからな。これが、おれたちのやり方なんだ」  ジャクソンは、屋敷の捜索で押収したゴードンの撮影した写真を机の上に放り出して、置いた。  「ここに写っているのは、あんただな」  ミリアンは、キャビネ版の写真を手にして、覗き込んでから、  「その通りだ」  「一緒にいるのは誰だね」  ジャクソンは、並んで写っている女の顔を指して、聞いた。  「ああ、これは、マリリンだ。おれの、追いかけだよ」  「追いかけ」  「熱狂的なファンだ。付き合ってやっているんだ。あ、そうだ、こいつとは、毎日会っているよ。女房が居なくなった夜も、こいつと会っていたから、アリバイにはなるな」  「よし、では、マリリンの連絡先を教えろ」  ジャクソンが渡したボールペンで、ミリアンは素直に、電話番号を書いた。  「あんたが、どう否定しようと、おれたちは、あんたが、女房をやったと考えている。そうだろう」  ミリアンが、平然と書き終えたのを見ていたジャクソンは、いきなり、核心に切り込んだ。  「何を言うんだ。なんで、おれが女房を殺さなければならないんだ。いま言ったように、おれにはアリバイがある。そのころは、この女とホテルに泊まっていて、夜は一歩も、外には出ていないよ」  ジャクソンは、その言葉を聞いて、納得しなかった。  (大体、こちらは、犯行時間のことは、一言も言っていないのに、なぜ、夜だと分かったんだ)  「おれが、やったんだというのなら、明白な証拠を見せて貰おうじゃないか。ぐーの音も出ない、しっかりとした証拠をな。それまでは、おれは、何も喋らない。おれは、貝になる」  ミリアンは、そう言い放ったあと、押し黙った。  「ああ、そうしているがいい。ただし、ここで、見てもらいたいものがある」  そう言って、ジャクソンは、部屋を出ていき、湖で見つけた衣類や指輪を入れた段ボール箱を運んできた。  「これらは奥さんのものだと思うが、どうだ」  ミリアンに一件ずつ取り出して見せていった。そのいずれに付いても、ミリアンは、  「間違いなく、ジョン・ベネのものだ」  と認めた。  「全部、奥さんの着ていたものと持っていたものだ、と言うんだな」  「間違いないよ。おれは、その洋服を着ていたあいつを、何度も抱いたんだし、忘れやしない。指輪も、あいつが一番気に入って付けていたオパールの指輪さ。裏にイニシャルが彫ってあるだろう」  ジャクソンは、裏を見た。そこには、「M to J」という刻印があった。  「おれといあいつのイニシャルだ。おれが、結婚記念日に買ってやったんだ。これと同じだろう」  ミリアンは、指輪を外して、机の上に置いた。それは、すこし大きめだが、形が同じオパールの指輪だった。裏をみると、「J to M」の刻印が見えた。  「どこにあったんだ。あいつは、死んだのか」   今度は、ミリアンが聞いてきた。  「おまえの家の近くの湖で見つかったんだ。おまえが、殺して、沈めた湖だよ」  「なにを、言ってるんだ。もし、やったとしたら、おれじゃあねえ。おれには、分かる。やったのは、あいつだ」  「あいつというのは、だれだ。詳しく話を聞こうじゃないか」  ジャクソンは、腰を据えて、この男に付き合う気持ちになってきた。  六 自白せず1  「女房は、男と付き合っていたんだ」  ミリアンは、話を始めた。  「どういう男だ」  ジャクソンが、追い打ちを掛ける。  「歯医者だよ。あいつは、歯の嬌声をしたい、と言って歯医者に通っていた。それで、できてしまったんだ」  「なんていう名前だ」  「市内のオフィス街で開業している高い歯医者だ。テレビでも宣伝しているくらいだから、有名だよ」  「だから、なんていう歯医者だ、と聞いているんだ」  「ユニバーサル・デンティストのジェイコブソンとかいう医者だ。年は四十からみのいい男だぜ」  ミリアンは、その男の名前を自慢そうに言って胸を反らせた。  「どうして、そうだといえるんだ」  「留守番電話にそいつの声が入っていたんだ。女房と密会の打合せだ。女房が消し忘れていたのを偶然、聞いてしまった」  「なんと言っていた」  「時間と場所しか言わないよ。だが、おれには、ピンと来た」  「診察の予約の確認ではないのか」  「だいたい、夜中の十時にやっている歯医者なんてあるかい。しかも、ホテルの一室で」  「なるほどな」  「他には、証拠はあるか」  「その夜、女房を抱いたとき、妙な臭いがした。男物のオーデコロンの香りだ。女房は、その夜、興奮して帰ってきて、すぐに、シャワールームに行ったが、用心していたおれは、女房が脱ぎ捨てた着物を調べたんだ。そうしたら、残り香があったんだ」  「なるほどな、それで、浮気だと信じたのか」   「そうだ。そんなことは、これまでにはなかった。だから、すぐに分かったよ。あいつはあれでも、それまで、貞淑な妻だったんだ」  「あんたが、浮気をしているから、対抗してやったのではないのか」  「逆だね。あいつが、そういうことをするなら、とおれは思った。それで、家に帰るのが嫌になってきた。あいつが、先に不倫をしたんだ。これでも、おれたちは、それまで、仲のいい夫婦だったんだ」  確かに、その外見や風体から想像するよりも、二人は強く結ばれていたのかもしれない。それが、崩れたのは、すると、ごく最近の話なのだ。  「ところで、あんたの浮気の相手だが、マリリンとやらは、あんたが書いた電話番号には出てこないぜ」  「あいつは、しょっちゅう、動いているから、家にはあまりいない。だから、捕まらないんだろう」  「そうじゃない。電話自体が使われていないんだ。どういうことだ、これは。われわれに嘘を教えたのか」  「おかしいな、昨日までは通じたぜ。しかし、これは、携帯電話だ。電源を切っているんじゃないか」  「いや、使用されていません、という応答だ」  「じゃあ、連絡のしようがないな。おれは、電話番号しか知らないんだから」  「これで、お前のアリバイを証明してくれる人が、一人消えたな」  「ホテルで調べてくれ。宿泊者の記録があるだろう」  「やったよ、確かに、あんたとマリリンの署名があった。だが、だからといって、アリバイにはならないぞ。チェックインしたあと、出掛けることはいくらでもできるんだから。それに、あんたはジム・マクハティーという偽名でホテルを予約しているが、宿泊ではなく、休憩になっているぜ」  「だから,マリリンがいれば、一晩中、部屋にいたことを証言してくれるのにな」  「いや、それも、あんたと特別な関係ならば、証拠能力は減る。他に、五、六日前の夜のアリバイを証明する者はないんだろう」  「いま、考えているところだ。とにかく、おれは、やっていない。毎晩、おれは、マリリンと泊まっていたんだ。やりっぱなしで、腰が抜けるほどだったんだから」  「そうかい、それは、よかったな。だが、いずれにせよ、あんたのアリバイを証明するものはなにもない、というわけだ。今日は、泊まってもらうしかなさそうだな」  「弁護士を呼んでくれ」  「分かったよ」  調べは、そこで、中断した。  ジャクソンは、刑事課の部屋に戻って、休憩した。そろそろ、鑑識の報告が上がってきてもいい頃だった。湖で見つかった衣類は、ミリアンが、  「全て、ジョン・ベネのものだ」  と、認めたから、それで、間違いないだろうが、ジャクソンが、注目していたのは、ブラウスのポケット入っていたクレジット・カードの使用控えだった。そこには、ミリアンの自筆の署名が入っていたが、千切れてよれよれになっていたので、内容の判読が難しかった。ジャクソンはその分析を鑑識に依頼していた。  「読めましたよ。蛍光解析機で見てみました。これが、その文面です」  鑑識課員が、持ってきた鑑識検査結果報告書は、あの皺くちゃの伝票が、あるレンタル会社のもので、品目は、「チェーンソー」であることが分かった、と言っていた。  「チェーンソーというのは、なんだい」  ジャクソンは、即座に、尋ねた。鑑識課員は、  「ほら、木材を切るときに使う自動鋸切りですよ。材木の伐採のとき、作業員が使っているでしょう。うるさい音がするやつですよ」  「ははあ、手持ちの自動鋸ね」  ジャクソンは納得したが、  (また、木材か)  と考え付いて、唖然とした。  (そうか、そういうことか)  彼は、ある推理に突き当たった。だが、それを、実証するには、まだ、見つかっていないものがある。  それは、黒人女性のハウスキーパーが、言っていたことだ。彼女は、  「地下にあった食肉を入れる大型フリーザーが、無くなってしまった」  と証言していたのだ。  ジャクソンは、  (そのフリーザーを探さないといけない。それが、事件解決の最後の山だ)  と思いついたのだ。  それには、もう一度、家の回りを捜索してみないと行けない。多分、庭の一角に埋められているのだろう。あるいは、あの湖の中か。湖は、ほとんど捜索済みだから、裏庭の何処かに埋めてある可能性が高い。  (あしたは、ミリアンにその場所を吐かせてやろう。それが、一番手取り早い)  そう考えて、ジャクソンは、長い一日の仕事を切り上げて、帰る支度を始めた。    観察医のアーノルド・ブッシュ医師は、持ち帰った肉片の血液型やDNA鑑定を行った。また、肉片の顕微鏡写真も撮り、詳細に比較検査した。  その結果、血液型は、B型のRh+、DNA鑑定では、シュルツの家の寝室から発見された女物の毛髪と比べたところ、九五%以上の確率で一致した。ベッドの脇に付いていた血液も同じ型だった。  ブッシュ医師が一番驚いたのは、肉片の形が殆ど同じだったうえ、表面に刻まれた細かい溝の様子が、全部同じパターンだったことだ。ブッシュ医師は、この顕微鏡写真を拡大して、比較したが、見たところ、固形物が、鋭利な金属で削り取られたときの形と似ていた。  すでに、この肉片は人のものだという確信を持っていたブッシュ医師は、組織の検査で、そのことを確認した。  以上のことから、ブッシュ医師は、  「肉片は、ミセス・シュルツのものと、推量される。殺害されたあと、冷凍され、切断されたうえ、細かく裁断されたものと考えられる」  との報告書を纏め、市警察に提出した。  その報告書を受けたジャクソン刑事は、  (これで、科学的にも遺体の身元が判明したわけだ。あとは、手段を確定することだ)  と判断した。  ーー ミセス・シュルツは、自宅寝室のベッドの脇で頭を鈍器で殴られ、その場に転倒した。そのとき、ベッドの横の布地に血痕が付いた。そして、遺体を切断されたあと、冷凍され、最後は、木材粉砕機に入れられて、細断され、湖に捨てられたーー。  以上が、ジャクソン描いた事件の構図だった。  このなかで、凶器の鈍器と冷凍機が、まだ見つかっていなかった。遺体を切断したのは、レンタル会社のレシートで判明した「チェーンソー」だろう。それには、ミリアンの署名があり、借りた日時も、犯行推定日の一日前だった。  (凶器は、硬い石か金属だ。たぶん、冷凍機と一緒に隠されているに違いない)  ジャクソンは、自信を持って、そう推理した。  (それらは、土の中に埋まっている。あの家の裏庭だ)  そう確信したが、シュルツ家の敷地は広大だ。係員を総動員して捜索しても、見つかる確率は小さい。それよりも、  (ミリアンを追及して吐かせた方が早い)  ジャクソンは、腕をぶして、翌日、署に出ていった。    七 白骨死体  ニューワーク市の東岸を南下して、大西洋に流れ込むヘドソン川の源流は、市の遙か北方のエンタリオ湖である。川はその湖を出たあと、広葉樹の原生林を縫って、一気に南下し、多くの支流からの水を集めて、ソーン郡のメリーウッドという町で、一気に川幅を拡大し、大河になる。  その白骨死体が、見つかったのは、川が一気に広がる淵のあたりの川岸だった。鱒釣りをしていた親子が、釣り糸を流木に引っかけて、下流に流れだしたのを追っていって、流木が流れ着いた所で、糸を上げると、その場所の朽ちた木の葉や流木が集まっている淀みに、白い布に覆われた物体があるのを見つけて、陸に引き上げて調べてみると、布の中から、人骨が現れたのだ。  通報で駆けつけた保安官と群警察が、調べてみると、それは、確かに人の骨で、腰骨のようだった。保安官は、観察医に骨の鑑定を依頼した。  依頼された観察医は、メリーランド大学医学部教授で、骨の専門家のサミュエル・ボーンだった。  発見された骨は、骨盤と背骨の一部、それに、両大腿骨の上部で、それらは、骨盤に一体化して付いていた。頭も胸も上肢も下肢もなかったい。これだけの骨で、身元を調べるのは至難の技と思われたが、ボーン教授は、違った。  身長や、年齢や性別や、生活歴までもが、彼にかかると、これだけの骨だけで推定できる。  まず、身長だが、これは、大腿骨の長さを計り、ある計算式にいれて、計算する。その結果は、一メートル七十センチ前後だった。また、骨盤の大きさや形から性別は女性と見られた。さらに年齢は、恥骨の形態と骨の消耗度を調べた結果、二十五歳から三十歳前半と推定された。また、子供は生んだことがないらしい。  骨盤の上の腰骨の部分には、正確な一直線の切り込みがあった。鋭利な切断器具を使って、行った作業のあとのようだった。  以上の情報をもとに、群警察は、膨大な行方不明者のデータベースから、該当者を検索した。  その結果、ヒットしたのは、たった一人だった。ぞれは、メリーウッドの町で、歯科医を営むジョージ・フォードの妻のエリザベスという女性だった。  エリザベスは、約一週間前に消息がなくなり、夫のジョージが地元の警察に、捜索願いを出していた。  その結果を連絡されたメリーウッドの町の保安官、ハリソン・ウオードは、フォード歯科医院を訪ねた。フォード医師は、歯科医だけに骨の加工や研磨には慣れている。白骨死体に残っていた腰骨の切れ込みは、骨の扱いに慣れたものの仕業と思われたから、ウオード医師は、最有力の容疑者だった。  その医院に、患者はいなかったが、奥の診察室で、一人、書類を読んでいた歯科医は、保安官が入っていくと、こちらを振り向いて、診察椅子に座らせようとした。  保安官が、事情を話して、患者ではないとわかると、応接室に案内した。古い形のビロード製の長椅子に座って、歯科医に対面して、  「捜索願が出されている奥さんが居なくなったのは、なぜだか、心当たりはないのですか」  ウオード保安官は、丁重に、尋ねた。  「実は、夫婦中が悪くて、別れ話が出ていたんです。あの日は、そのことで言い争いになって、つかみ合いの喧嘩をしたんです。妻が出ていったのは、そのすぐ後です」  この歯科医院に、患者がいなかったのが、保安官には当然と思われた。痩せて長身のフォード医師は、眼光が鋭く、窪んだ眼かの中の灰色の目が、怪しい光を放っていた。頬もこけている。これでは、人気は出ないだろう。ウオード保安官は、その異様な顔貌にいくらか恐れを抱きながら、さらに聞いた。  「こうして、お訪ねしたのは、奥さんらしい白骨が川で見つかったためです。なにか、心当たりはありませんか」  「なに、骨が見つかった。妻のものに間違いないのかね」  「ほぼ、間違いありません」  その瞬間、医師の目が曇った。さっと青ざめた顔つきのまま、保安官を見つめて、  「それを報せに来てくれたのか」  と言って、手を握った。それは、意外な情報に接しての自然な反応のようだった。  「いや、捜査です。あなたは、容疑者として疑われている」  「なぜだね。私が殺したというのか。大体、骨が妻のものだとしても、殺人とは限らないだろう。事故死したのかもしれないし、あるいは、自殺かもしれない」  「ですが、骨に人為的な加工の跡があるのです。殺しでないとしても、死体損壊罪には当たりますよ」  保安官の確信に満ちた話しぶりに、フォード医師は、  「それなら、僕が確認に行こう。骨はどこにあるのだ」  と言いだした。  「いや、それは、結構です。今、川をさらって、他の骨を探しています。それが、終わってからで結構です。ところで、失礼ですが、こちらの医院は患者が少ないですな」  「ああ、この家は、住むためのもので診療は重視していない。私が、ここで診察するのは、週に一日だけだ。あとは、市内でやっている」  「市内って。ニューワークですか」  「そうだ。彼方のオフィス街に診療所を持っている。その方が儲かるんだ。医師と言っても、食っていかなければならない。人助けばかりしていられないよ」  医師の話は、砕けた感じになってきた。その雰囲気に乗じて、保安官は、  「夫婦喧嘩の原因はなんだったんですか」  と聞いた。  「それは、一概には言えないが、突き詰めて言えば、お互いに、飽きてきたということだな。あんなに好きになって一緒になったのに、最近は、互いのすることが、なんでも、勘に触って気になって、嫌だった。それに、あいつに男ができていたようだし」  「浮気ですか」  「そうだろう。あいつが、原因を作って、勝手に出ていったようなもんだよ」  「子供はいないのですか」  「わしはこの年だから、再婚だよ。前の女房との間に二人いるが、一緒には住んでいない。二人とも独立して、市内に住んでいる」  「子供さんと奥さんの仲はどうでした」  「普通だね。皆、大人だから、なつくとかなつかないとかいうことはない。なにしろ、長女とは年もそう違わないから、話は合ったようだ。家内は、よく市内の娘のアパートに泊まりに行っていた」   「お嬢さんのアパートですか」  「そうだよ。私より、仲がよかった。年齢が近いからね」  「すみませんが、そのご家族の写真と、お嬢さんと息子さんの住所を教えて下さい。それと、市内の診療所の場所も」  「お安い御用だ。ちょっと待っていてくれ」  フォード医師は、奥の住居部分に行って、アルバムを持ってきた。  仲のいい家族の写真が沢山あった。キャンプにでも行ったときに撮ったのだろうか、保安官は、ティーシャツ姿の四人が並んでこちらを向いて笑っている写真を選んで、  「これをお借りします」  と借用した。  フォード医師は、子供二人の住所と診療所の場所を書いたメモを渡し、  「残りの骨が見つかったら知らせて下さい」  と依頼した。  その口調は、悲しみに沈んでいるように聞こえた。  (この夫が、犯人なのか。そうだとしたら、相当な食わせ者だ)  ウオード保安官は、そう思いながら、帰りの道を急いだ。    ジャクソン刑事が、歯型の鑑定を依頼していた結果が、届いた。ジョン・ベネットは、ニューワーク市内のビジネス街にあるユニバーサル・デンティストで歯科矯正を受けていた。そのとき採取した歯形を、湖から見つかった顎の骨の断片と照合する作業を鑑識と監察医に依頼してあったのだった。  鑑定結果は、「骨の歯は、歯科医の提出した資料の歯形と一致する」という内容だった。  ジャクソンは、その報告書類を見ながら、夫のミリアンが、  「妻は歯科医と付き合っていた」   と主張したことを思い出していた。確か、名前は、「ジェイコブソン」とかいった。  ジャクソンは、診察書類に記された担当医の署名を見た。そこにあったのは、ジョージ・フォードという名前のサインだった。  (やつが言っているのとは違うではないか)  ジャクソン刑事は、その日の調べで、ミリアンに聞くことが、また一つ増えた、と思った。    八 家 族  ウイリアム・ゴードンが、その朝目覚めたときに、エミー・ブレアは、既に起きていて、食堂の食卓の上には、ブレアが腕によりを掛けた料理が乗っていた。ブレアは、この部屋に置いたままにしてあるエプロンをして、洗濯機での洗濯に精を出していた。  「あら、お早う。早いじゃない」  エミーは、いつも陽気だ。  「また、今日も、随分、頑張ったじゃないか」  食卓にならんだ料理の山を見て、ゴードンは感嘆の声を上げた。  「軽いものよ、これくらい。さあ、召し上がれ」  エミーは、両手を拭いながら、食堂にやってきて、ゴードンのコーヒーカップに、コーヒーメーカーから、暖めてあった黒い液体を注いだあと、暖めたミルクを混ぜて、手早くカフェオレを作って、ゴードンの前に差し出した。  「おう、新聞はどうした」  「ラックに入っているわよ」  確かにマガジンラックに、ニューワーク・タイムスの朝刊が差し入れてあった。ゴードンは、日頃、そんなことはしない。長椅子の片隅に放りだしてあるのが、常態なのだ。  ゴードンは、分厚い新聞のページを繰った。何時ものように、市内版を見ていったが、大して目につく記事は乗っていなかった。  ゴードンは、エミーが入れたカフェオレを一口、啜ってから、ハムとサラミのトーストサンドを頬張りはじめた。口に入れながら、新聞を繰っていった。次に見たのは、社会面である。その二番手の記事がゴードンの目を引いた。  その記事は、「一家四人が射殺される。夫が姿消す」という記事で、「この町の郊外、マイフェア地区の高級住宅地にあるテリー・シェルドン宅で、一家四人が射殺体で見つかった」という内容だった。夫のテリーと殺された四人の顔写真と屋敷の写真が大きく掲載されていた。  ゴードンは、その顔には見覚えがあった。夫の写真の下の女の顔は母のジェシカという説明が付いている。その下にあるのは妻のメアリーだ。そして、長女のキャンディスと長男のロバート。祖母以下の四人が、家の中で射殺体で見つかったというのだ。  ゴードンは、記事を読んだ。  ーー 一家は、この家に二年前に移り住んだ。近所付き合いはいい方で、発見したのも、数日間、家の出入りがないのに不審を抱いた隣りの家の主婦だった。メアリーは、専業主婦だったのに、ずっと姿が見えないというのが、この主婦の不審の原因だった。隣りの主婦が家を訪ねたが、応答がない。異変を察して警察に連絡し、鍵を破壊して内部に入って、死体を発見した。八十一歳になる母のジェシカだけは、三階の自室で、他の三人はリビング・ルームに川の字に並べられて死んでいた。四人とも、頭部を銃で一撃され、即死の状態だった。警察は、テリーの書斎から有力な手掛かりを押収したらしい。それには、テリーが、家族を皆殺しにして、闘争するという意味のことを書いた便箋で、警察は全力で、夫の行方を追っているという。なお、テリーは、五十二歳。妻のメアリーは、四十五歳。テリーは、東部の名門校、アーノルド大学の経営学部を卒業後、アニックス銀行に入社し、公認会計士の免許を取得。今のアフラック保険会社に転職。現在の会社の在職は、十五年になり、会計監査部門の責任者を任せられていた。子供は、長女のキャンディスが高校二年生、弟の長男、ロバートは中学一年生だったーー。  ゴードンは記事を読みおえて、深い悔悟の気持ちに襲われた。  (あのとき、テリーは、「自分に考えがある」と言っていた。その答えがこれなのか)  こんな惨事を起こすような男には思われなかった。冷静沈着でクールなビジネスマン・エリートという印象が強かったから、その面影と、このような残忍な事件との結びつきが想像外だった。しかも、男は逃げたのだ。  (これが、一家心中というのなら、理解できないこともない)  だが、テリーは姿をくらましたという。犯行を告白する書類を書き残して。  新聞記事は、動機の部分に触れていなかった。たぶん、警察は、その部分を隠して、発表したのだろう。テリーは、もっと、詳しく書いているに違いない。あれだけ、几帳面な男だ。やってきた仕事の習性からしても、もっと詳しい、動機を告白した文章が残されているはずだ。  ゴードンはそう確信していた。それは、彼が、会社に頼まれて調査したことに絡んでいるに違いない。テリーは、遣い込みが露顕して、会社を追われていた。そうなれば、やっと獲得した家族の幸せが、瓦解する。そのことを悲嘆しての犯行、とみてもよさそうだ。  だが、なぜ、逃げたのか。それだけが、ゴードンには、理解できない行動だった。警察は全力を上げて、追跡している、という。  記事をよく読むと、事件があったのは、三日くらい前のようだ。隣人は、二日間、不思議に思いながら、家を訪ねなかった。その空白の前日に犯行が行われてと考えていいようだ。  (すると、もう、かなり、遠くに逃げただろう)  ゴードンは、あの謹厳実直なテリーが、映画の「逃亡者」のような生活に耐えられる、とは考えられなかった。家族の幸せのために、自分の半生を犠牲にしてきたような男が、その家族を皆殺しにしたのだ。そして、逃げている。とても、逃げおおせるわけがない。すぐにも捕まるに違いない。逃げる意思と能力はないとは言えないが、逃げおおせるとは思えない。それが、ゴードンのこの事件を新聞を読んでの感想だった。  ゴードンはコーヒーカップのカフェオレを飲み干して、サイドテーブルに置いてある携帯電話を手にして、市警本部の電話番号を押した。  「もしもし、刑事課のジャクソン刑事をお願いします」  ジャクソンはすぐに出た。  「おい、優雅な探偵さん。いま、お目覚めかね。しがない市警の公務員は、貧乏ひまなしだぜ」  「すまんな、いつも、忙しいところを」  「いやいや、先日は、お世話になった。あの事件も、今日で終わりになるさ。あんたの有力情報のお陰でね」  「そうか。ミリアンは、自供したか」  「いや、強情に、犯行を否定している、。でも、今日で終わりだろう。今日中にフリーザーとチェーンソーの埋め場所を自白させるさ」  ジャクソンは、意気込んでいた。  「それは、おめでとう。ところで、今朝の新聞に乗っていた一家四人の惨殺事件だが、あの容疑者の夫は見つかったかね」  ゴードンは、自分の用件を切りだした。  「ああ、あれか。あれには、市警本部は絡んでいない。所轄が担当している、なにしろ、逃げた夫の仕業に違いないのだから。そいつの後を追えばいいだけのことだからな。死んだ人数は多いけど」  「それで、まだ、見つかっていないんだな」   「捕まったという報告はないから、そうだろう。だが、すぐに、捕まるよ。相手は、こういう事件に慣れていないインテリだ。やったことは残忍だが、計画的ではない。発作的な犯行だろうから、逃走のことまで、考えていやしないさ。捕まるのは、時間の問題だ。なぜ、そんなことまで、気にかけるんだ」  ジャクソンは訝っていた。  「いや、おれの仕事で、この男と会ったばかりなんだ。とても、こんな事件を起こす人物とは思えなかったから」  ゴードンは素直に疑問に答えた。  「はー、そうか。ベテラン探偵さんが、そういうのなら、裏に何かがあるかもしれない。だが、それは、夫を捕まえれば、全て分かることだ。他に犯人がいるなんてことではないだろう」  口ぶりが警戒的になってきた。  「そうかも、しれないぜ。そうなったら、忙しくなるな」  「よしてくれよ、それでなくても、これから、ミリアンを絞り上げなければならないんだからね」  「おれも、すこし、気にかかるから、こんどは、テリーの事件を調べてみるよ。金にはならないが、警察には手助けにはなるかもしれない。おれの調査が、一因になっているのかも知れないんだ。また連絡するよ」  ゴードンは微かに、事件への関心の理由を匂わしてから、電話を切ろうとした。  「そうだな、では」  ジャクソンは、その匂いかしを無視して言った。彼には、これから控えているミリアンの調べのほうが、重大事だった。    ゴードンは、朝食を終えて、この町の北の郊外、マイフェア地区の高級住宅地に向かった。前に訪ねたことのあるテリー・シェルドン宅には、高速道路が空いていたため、三十分ほどで、到着した。  家の周囲には、まだ、警察の非常線が引かれていたが、ゴードンが、私立探偵の身分証明書を見せると、すぐに、中に入れてくれた。  一階にある広い応接間には、白いチョークで、三つの人体の輪郭が描かれてあった。それぞれの頭部に名前が書いてあり、背の低い真ん中の上には、メアリー。向かって右側にはキャンディス、左側にはロバートの文字がある。いずれも、そこに倒れていた人物を現していた。  家の中では、数人の男が、依然として、現場検証を続けていた。そのなかのロング・コートを着た男に、近寄っていって、ゴードンは、  「死体はどんな様子だったんですか」  と質問した。  「どなたですか」  と訝った男に、ゴードンが、証明書を見せると、  「はあ。頭に銃弾を浴びて、流れた血で身体中が真っ赤に染まっていました。その血まみれの死体を、綺麗に並べてあったんです。下には絨毯が敷かれていましたが、それも血を吸って赤い人体模様が付いていましたよ」  「みな、ここで殺されたのですかね」  「いや、違うでしょう。この家で撃たれたのは間違いないですが。ここではない。殺してから運んできて、並べたのです」   「お婆さんは何処で死んでいましたか」  「三階の自分の部屋ですね。ベッドの上で胸を撃たれて死んでいましたが、死に顔は笑っていました。あの死体だけが笑顔だった」  「とすると、ここにあったのは、どんな表情ですか」  「苦痛で顔が歪んでいました。三人ともそうです」  「やはりね。弾は何発撃たれたのですか」  「真ん中の奥さんが頭に二発。腰から背中にかけて一発です。彼女は、キッチンで家事をしている最中に後ろから撃たれたらしい。台所の流しで抜けていった弾が見つかりました」  「あとの二人は」  「こちら側の女性は、体の右側から一発、それから、右上の頭部を一発撃たれ、脳を貫通していました、ただ、弾は見つかっていない。体内に止まったのかもしれません。撃たれた場所は、ここです」  「そっちの人は」  「こちらは、長男ですね。彼は、前から撃たれていました。胸を直撃されたのが死因です。左の胸を撃たれ、心臓を直撃された。それから頭にも一発銃痕がありました。こめかみを狙われていたが、それは、床に倒れてからのようです。彼に腕に酷い疵があり、争ったあと、撃たれたようです。場所は、玄関のホールですね」  係員は詳細に説明してくれた。ゴードンは、そのときの現場の惨状を想像して、気分が悪くなりそうだったが、あと、一つ重要な質問を忘れることはなかった。  「それで、凶器は見つかったのですか」  「それは、書斎の机の上に、きちんと置いてありました。犯行を告白する書類と一緒にね。銃からは夫の指紋も検出されました」  「すると、やはり、夫のテリーの犯行ですかね」  「そうでしょう。凶器も見つかり、犯行を認める文章まで書いているのですから」  「行方は、まだ、わかりませんか」  「いまのところ、見つかっていないですね。でも、時間の問題でしょう」  部屋の隅のキャビネットの中に、家族四人で撮影した幸せそうな写真が飾ってあった。みな、笑顔でこのような惨事が見舞うとは予想もしていない。新聞に載った顔写真と似ているところもあったが、違う感じの顔もあった。ゴードンは、妻、メアリーの顔にどこか、他の場所で見覚えがあるような感じがした。ゴードンは、それを考えながら、その場を辞した。  これで、現場の状況は大体、分かった。どう見ても、この状況では、テリーがやったとしか、言いようがないだろう。  だが、ゴードンには引っ掛かるものがある。あの日見た庭でバーベキューを楽しむ和気あいあいとした典型的な幸福な中流家族の風景が目に焼きついていて、離れない。  (一体、あの風景は何だったのだろうか。あれは、偽善なのか。それとも、夢だったのか。メアリーには、どこかで会ったような気がするが)  彼は、自問しながら、家族の真実を追ってみようと決意した。  ゴードンは、最初に不審を抱いて、通報したという隣家を訪ねた。隣家といっても、一軒の敷地が広いこの辺りでは、遙か遠くに離れている。ゴードンは、愛車に乗って、移動した。その時考えたのは、テリーはやはり、車で逃げているのか、という疑問だった。それなら、そろそろ、見つかってもいい。ガレージをみると、そこには、三台の車とも置いたままなっていた。どうも、自家用車で逃げたのではないらしい。すると、歩いてだろうか。だが、ここから、徒歩で逃げるのは、不可能のように思われる。なにしろ、深い森に囲まれて、幹線道路まではかなりの距離がある。車がなければ、著しく行動が狭められるのがこの国の交通事情なのだ。  だが、歩いて行けないこともない。なにしろ、事件が起きてからもう数日経過しているから、痕跡は薄れているだろうが、歩いている人を見た人がいるかもしれない。それが、名乗り出てこないということは、テリーが徒歩で逃走したのではないという証拠なのかもしれない。すると、あるいは、車を盗んだのか、あるいは、レンタカーを借りたのか。  車は隣りの家の入口に着いた、ゴードンは、車から降りて、玄関のベルを押した。すぐに中から応答があり、中年の女性が顔を出した。  身分を明かし、用件を言ったゴードンを家の中に招き入れたその家の主婦は、  「本当に驚きました。こんなにのんびりした住宅地であんな恐ろしい事が起きるなんて」  と事件の感想を述べたあと、  「警察は当てにできませんからね」  とゴードンの登場の理由を勝手に解釈して、頷いた。  「そうです。ですから、私のようなものの出番があるのでして」  ゴードンはその思いこみに乗じて言った。  「どうですか、あの一家に、変わったことはありませんでしたか」  「そうねえ。警察にも聞かれましたが、その時は、そんなにお付き合いがあるわけではないので、よくわからないと答えたのですが、私立探偵さんなら、家族を御存知なのかもしれないし」  「あのご主人が会社を辞めようとしていたことですか」  「ああ、そうなんですか。それでですかね、奥さんが最近めっきり老け込んでしまったのが気掛かりでした。そういう事情があったのですか」  「悩み事があったんですね」  「でも、最近は収まっていたんだそうです。こちらに越してきたのは、お嬢ちゃんがなんでも、難しい精神病に掛かってしまったのが理由だという話は聞いたことがありますが」  「精神病ですか」  「人格的な病だとか言っていましたが」  「どういう症状なのですかね」  「突然、人格が変わって、幼児のような言葉使いになったり、猛烈に怒ったり、商売女のようになったり、大変だったのだそうです」  ゴードンは、そういう人格異常の話を本で読んだことがあった。連続殺人犯の男の中に数千の人格が認められた、という話でその男は「多重人格」と診断されていた。  「それは、多重人格というのでは、ないですかね」  「そうですか。それで、お隣りりは、随分悩まされて、特殊な治療を受けた結果、症状が緩和されて、学校にも通えるようになったんです、と奥さんは喜んでいたのに」  幸せそうに見える家族の中に、重い問題を抱えていることもあるのだということを、ゴードンは噛みしめていた。  「隣りの奥さんはその病気の原因らしいことは、言っていましたか」  ゴードンは突っ込んで聞いた。  「幼児の頃に性的な迫害を受けるとか、精神的に耐えられない経験をすると、その恐怖から逃れようとするために新しい人格をつくろうとするのが、遠い原因だそうです。なにか、それらしい経験があったのですかね」  「いえ、そのことは、話しませんでした。ただ、主人と母の仲が良くないので、間に挟まれて、悩んでいる、というようなことは、聞いたように思えます」  隣人のプライバシーに係わる事だけに、主婦の口からでる言葉は、そう滑らかではない。  「そうですか。ご主人は、会社をお辞めになることになっていたんですか」  と一人で呟いたあと、  「そうすると、家のローンを払えませんよね。それで皆殺しにしまったのかしらね。でも、家族を殺すことはないのに。しして、自分は姿をくらまして」  「そこが、どうも、不自然でしたが、お話しを伺って、なにか、もっと深い隠された理由があるような気がしてきました。ところで、お子さんとの関係は良かったんでしょう」  「いえ、それが、奥さんは、息子が悪くて困る、と愚痴を言っていましたよ。殆ど学校にも行かず、車で遊び回っている。部屋に入ると、おかしな匂いがするので、調べてみると、麻薬やヘロインを入れた袋が見つかった、というのです。そのときは、内々に処分して、済ませたのですが、家に帰らないことも多いようだったから、外でもやっているのではないか。警察の厄介にでもなったら大変だから、と口を酸っぱくして注意しているということでした」  それでも、女はお喋りだけに、それだけの事を教えてくれた。  「そうですか。いろいろと、問題は抱えていたのですね」  「それは、そうですよ。今の世の中は、外から健全にみえるものでも、いろいろと難問を抱えているんですよ。まともに何ごともなく生きていくのは、容易ではないんですよ」  主婦が、分かったような言葉を口にしたのをしおに、ゴードンは礼を言って、その家を出た。  (あの模範的な中流家庭にも、すこし聞いただけで、あれだけの問題がある。この複雑な現代社会で、事件の背景は、複雑なんだ)  ゴードンは、一家皆殺しというセンセーショナルな事件の真犯人は、逃げている夫ではない、という直観を得た。これだけの問題を抱え、ローンに浸かった一家の主人が、なぜ、その家族を否定し、抹殺して逃走しているのか。その理由が腑に落ちないのだ。    九 神 父  ニューワーク市の衛星都市でベッドタウンのメリーウッドで、歯科医を営むジョージ・フォードの妻、エリザベスの白骨死体事件を調べている保安官、ハリソン・ウオードは、夫のジョージが、  「夫婦喧嘩をした」  と言っていたのが、気になっていた。この小さな町では、人々は、互いの個人的な生活をかなり詳しく知っている。都会の壁の隣りの住民のことを何も知らずに生活している状況とは、全く違うのだ。だから、ウオード保安官も、この歯科医についてのある程度の情報は得ていた。  この町に歯医者は三つあるが、フォード歯科医院は、そのなかで、最も流行っていなかった。その理由で最大のものは、歯科医院の最良のお客で収入もいい小児医療を受け付けていなかったのと、即断即決の手荒い療法のお陰だった。住民たちは、「あそこの歯医者に行くと、必ず一本は歯を抜かれる」と噂していた。たしかに、彼の治療はせっかちだった。医師に必要な忍耐というものを欠いていて、言葉遣いもつっけんどんだったから、患者たちは、恐れて二度と足を運ぼうとしなかった。そうして、医院は徐々に寂れていったが、フォード医師は、この医院を畳むことはなはく、患者がないままに、町の一角に存続を続けていた。  そのうえ、ウオード保安官は、  「ニューワーク市内のビジネス街に診療所を開いている」  という初耳の情報を聞き込んだのである。ということは、医院の経営は悪くないということだろう。それは、町での評判とは違っていた。  (あんなに閑散としているのに、よく、経営を拡大できたものだ)  と保安官は、感心したが、事務所に帰ってから、エリザベスが、この町に来てからまだ、二年くらいしかたっていないことを思い出した。  町の名士が結婚するとなれば、住民たちは盛大にお祝いを開いたが、そういえば、エリザベスという女性が、あの医院の女主人になったことを知っていた住民は少なかった。それ以上に、前の女房を亡くして以来、独り暮らしのはずだったフォード医師が、妻帯しているのを知ったのは、この事件が起きたためだ、ともいって良かった。  エリザベスは、約一週間前に消息がなくなり、夫のジョージが地元の警察に、捜索願いを出していたのも、あとから、分かったのである。ウオード保安官には寝耳に水の話だった。だから、彼はこの医師に余り良い印象は持っていなかった。彼が、身命を掛けてその安全を守るべき他の善良な住民たちとは、一風変わって見えたからである。  フォード歯科医院は、メリーウッドの町のなかにあったが、その住人たちの影は薄かった。それも、  「この家は、住むためのもので診療は重視していない。私が、ここで診察するのは、週に一日だけだ。あとは、市内でやっている。あちらのオフィス街に診療所を持っている。その方が儲かるんだ。医師といっても、食っていけなければいけない。人助けばかり、していられないよ」  と言った医師の言葉で納得が行った。  だが、ここに住所を持ち、ここで暮らしているのは間違いない。しかも、ウオード保安官より長く。  ハリソン・ウオードは、保安官事務所の住民情報ファイルをいれたキャビネットから、「医院」の項目が纏められたファイル・フォルダーを持ち出し、フォード歯科医院のファイルを探した。  それは、三軒しかない歯科医院の一番下に埋もれていた。  ーー フォード歯科医院院長、ジョージ・フォード、一九四八年四月二十一日、ニューワーク市西四六番街二三番地生まれ。九一年五月、本町西三丁目六八番地で歯科医院を開業。妻は、メイシー・ゴールドバーグ、四四年六月七日、メキサス州ニューアーリンズ生まれ。七五年、フォードと結婚、一女を生む。八五年十二月七日死去。死因は、急性心不全。  これが、一枚目のファイルの内容だった。  ファイルは、さらに二枚あった。二枚目は、二人目の妻のことを記録していた。  ーー 八六年一月七日、タラ・ジョーンズと再婚。タラは、六五年七月六日、カルフィルニア州ロットアンゼルス生まれ。最初の夫との間に一男一女を設けたが、離婚し、ニューワーク市で保険事務所に勤務中、知り合い結婚。九一年九月二十五日死去。死因は心臓麻痺。以前から心臓に持病があったが、この日朝、寝室のベッドで死んでいるのをフォードが見つけた。  最後に、今度の白骨死体の本人、エリザベスのファイルがあった。  ーー エリザベス・マクガイヤー、六七年八月八日、マイアミ生まれ。九十一年十月結婚。ニューワーク市でモデルをしていたとき、医院に歯科治療に訪れ、知り合った。  記述はそれしかなかった。前任の老保安官は、こういう身柄調査に、それほど意欲を感じていなかったらしい。  フォード歯科医は、ここの記録にあるだけで、三人の妻を迎えていた。それも、前の妻が亡くなると、一月も経たないうちに再婚していた。その点にウオード保安官は、違和感を覚えた。  以上の情報が、捜査にどれくらい役立つかは分からない。ただ、群警察の殺人課から、専門の調査官が、派遣されることになっていたから、彼らに何かを聞かれても、すぐに答えられるように準備はしておきたかった。それが、地域住民と密着した保安官の職務だ、と彼は認識していた。そして、厄介な事件の捜査は、専門家に任せて、彼の本来の仕事である住民の治安維持の職務に専念したかった。  だが、フォード医師が、三人も妻を代えてていることが、彼の仕事の好調さを示しているように思えて、聞き込んできた住民の評判との落差が、納得行かなかった。どうも、  (彼は、この町で、何もしないでいるのに、市内に行って何かをしている)  という感じが拭えないのだ。  しかも、彼の聞き込みでは、三人の妻のことを詳しく語る人はいなかった。そもそも、彼が妻を一緒に居るところを見た人があまり、いない。それほど、フォード医師は、生活の影を消して暮らしていた。  (だが、結婚したからには、教会で式はしているだろう。そして、そのためにこの町を選んだのかもしれない)  保安官は、そう思い至った。なぜなら、この町のカソリックの聖マリア教会は、若い人の結婚式の場所として、人気があったからだ。教会は、町外れにある、町に水道を供給するためのダムの建設で生まれた人造湖のほとりにあった。広い敷地の中に、白いチャペルがあり、湖へと続く緑の芝生の絨毯との色彩のコントラストが素晴らしく、しばしば、「ナショナル・ジオグラフィック誌」のグラビア写真に取り上げられていた。チャペルの内部に入ると、正面が大きなガラス張りになっていて、そのガラス窓を通して、湖が迫ってくる大きなパノラマが見えた。  そういう風景の中で、自然に囲まれながら上げる結婚式が、エコロジー世代の関心を集めていたのだった。そういう点に着目したのは、今の神父の手腕だろう。田舎町のカソリック教会を全国レベルの有名な教会に押し上げたのだから。  ウオード保安官は職務上、よく、教会に立ち寄っていたから、その神父、ロバート・デ・コスタとは、顔見知りになっていた。もし、フォードが、結婚式を上げていたら、この教会に間違いない。そして、デ・コスタ神父は、その式に立会い、何かを知っている可能性がある。保安官は、それほど期待はしていないが、  (まあ、世間話でもして、なにか、収穫があるかもしれない)  と考えて、神父に会ってみたいと思ったのだ。  それに、群警察の専門家たちが、やって来るまでは、時間があった。彼らは、解剖結果で事件への疑いを抱いて、捜査を始めることにしたのだ。いまのところ、事件を疑わせる材料はそれしかないだろう。夫を疑うには、それだけでは、不十分なことは明らかだ。すこしでも、彼らの捜査の助けになれば、任務は果たしていることになる。  保身の気持ちはなかったが、果たすべき職務は果たすのが、保守的な彼の行動の指針だった。保安官は、暗い事務所から、明るい陽光に照らされた戸外に出て、目の前に駐車してある青と白のツートンカラーのパトロール・カーに乗って、町を出ていった。    デ・コスタ神父は、神父館の彼の事務室で書類を読んでいた。ウオード保安官が、遠慮なく開け放たれた部屋の入口から、入っていくと、足音に気付いた神父が顔を上げ、レンズが半分しかない老眼鏡を額に持っていって、こちらを眺め、  「やあ、保安官、こんにちは。今日は何の用事ですか」  と気軽に声を掛けてきた。  事務机から立ち上がって、目の前の長椅子を勧めた神父は、反対側の一人掛けの背の高い椅子に座って、  「町の様子は、いかがですかな」  と優しく聞いてきた。その表情は、何事をも包み込むような温和さを持っていて、見る人を優しくさせた。体が大きかったから、そのことも、彼を包容力のある頼り甲斐のある人物に見せていたのだ。  「いや、そのことで、ちょっと知恵をお借りしようと伺ったのです」  「なんでしょうかね」  「もう御存知かも知れませんが、フォード歯科医院の奥さんが、白骨死体で見つかったのです」  「そうですか、そんな恐ろしいことが、あったのですか。私は新聞も読みませんし、テレビも見ないので、世の中に疎くて仕方ありませんよ」  「そうですね。でも、あの歯医者は御存知でしょう」   「まあ大体。私が知らない町の人がいたら、それは、不法滞在者でしょう。生まれてから死ぬまで、教会は全ての人達の人生に深く係わっていますからね」  メリーウッドは、カソリックの町だった。もともと、アイルランド系の移民が主体で始まったベッドタウンだったが、来るものは拒まない広い心を持った住民の開放的な気質と広く信者を受け入れるこの教会の方針のお陰で、最近はラテン系の国からの移民の子孫で、経済的に成功した人やインテリ層の家族が増えていた。  「死んだあの歯科医の妻は、彼にとっては、三人目の妻でした。そのことは、知っていますか」  保安官はやや、事務的に素っ気なく聞いた。  「よく、知っていますよ。三人とも、ここで結婚をし、夫婦の永遠の愛を誓いあったのですから、それに、ジョージは、もっと前から良く知っている」  「そんなに前からですか」  保安官には、神父の言葉は意外だった。  「そう、子供のころからね。彼は、私が前にいた市内の教会の管区で生まれ育ったのです。だから、彼の洗礼も私がやった。名付け親にはならなかったが」  「そうですか。そんなに、親しいのですか」  保安官はそう言ったが、そのジョージに妻殺しの容疑が掛かっていることは、さすがに、明かせなかった。  「彼が、この町で開業したのも、私がこちらに来ていたからかもしれない。歯医者になってからも、よく訪ねてきて、そろそろ開業したいと言っていたので、この町ではどうだと、聞いたことがありました」  「それなら、ちょうどいい。前の二人の奥さんですが。どんな方でした」  保安官の関心は、そちらにある。  「最初に結婚したメイシーは、南部生まれの陽気な女性でした。ジョージと結婚したのはまだ、二十台の前半でしたから、初々しかったのを覚えています。それは美しいブロンドの長髪の色白の女性で、私はそのあまりの美しさに、式の段取りを忘れて見つめてしまったを覚えています。ですが、あまり家庭的な性格ではなかった。だから、内気なジョージとは会わなかったのかもしれない。たしか、娘を一人生んだはずです」  「では、あまり、仲が良くはなかったのですか」  「いや、普通でしょう。だが、結婚間際に一人娘を生んだあとは、なかなか子供ができなかった。しかも、持病もあった。喘息の持病が結婚してから悪化して、家に閉じこもりがちになり、僅か九年くらいで、死んでしまった。そのときのジョージの悲しみようは、尋常でなかった。もうすぐクリスマスの近い十二月の雪の日だったと思いますが、しんしんと降り続く雪の中で柩にすがりついて、小さな娘を抱えて泣いていたのを覚えています」  「そうですか。そんなに愛していたんだ。でも、それなら、なぜ、すぐに、二番目のタラと再婚したのですか。年が開けた一月にはもう一緒になっている」  神父は考え込んだ。  「そうですか。そんなに早かったですかね。ただ、式はその年の春の終わり頃だったと思いますよ。タラも若く、快活な女性でしたが、すでに一度目の結婚に破れていて、子供を二人、前夫のもとに置いてきた、とか言っていましたね。再婚同士の二人でしたから、互いにいたわりあうような感じがありました。式は二人きりで、幼い娘と友達が四、五人参加しただけだったですね。彼の男友達は、少年時代からのもので、私もよく知っていたから、家族のような雰囲気の親しい感じの式でしたよ」  「そうですか。家族のようなね」  「そうです。われわれの人間関係の基礎は、結局は家族にある。どんなに、大きくなっても、最後は、家族に帰って来るのです」  「そのタラも五年くらいで亡くなった」  「あれは、本当に急でした。なんでも、プールで泳いできた日の翌日に、死んでしまった。まだ、二十代だったでしょう。普段から顔色は良くなかったので、医師には掛かっていたようですが。幼いころ、心臓手術をしていて、体には注意していたようですが、結婚してからは体調も良かったと聞いていた。それが、突然でしたから、ジョージも驚いていた。私に、おれは女房運が悪いのだろうか、と嘆いたてたのを忘れませんよ」  神父は想像以上に詳細に、信者の情報を持っていた。いままでに聞いたのは、そのほんの一部に違いない。信者のプライベートな情報なら教会に限る、と保安官は、改めて確認した気分だった。  「いずれも突然死ですが、これは、不幸と言うべきなのか。それとも、男には、幸運かもしれませんな」  「そんな、不謹慎なことを言ってはいけません。人の生命は地球よりも重い。が、実のところ、私でもうらやましい」  謹厳実直そうな神父だが、この時は、片目を閉じて、保安官に目配せして言った。  「でも、この時も、タラが亡くなった九月の一か月後には、エリザベスと再婚している。愛しているのならそんなに簡単に次の結婚に踏み切れるものでしょうか」  保安官にはその事だけが気になっていた。  「そこは、私も、なんとも言えませんがね。ですが、エリザベスとの結婚式は前にもまして、簡素でしたよ。まったく二人きりで、立会人の私と三人だけで、紅葉を始めた湖の回りの木々を眺めていたのを覚えています。あれは、心にしみ入る印象的な式でした」  「そのときの花嫁が、白骨死体で見つかるなんて、想像もしなかったでしょう」  保安官の言葉は、あくまでも、乾いていた。  「まだ、若いのに、残念なことですね。今度は、事件なのですから、一日も早く犯人を見つけてほしい。お願いしますよ、保安官」  神父は慈しみの表情を露わにして、言った。  「それは、全力を尽くしています。そのために、こうして、伺ったのですから」  神父は、天を見上げて、遠くを見つめるように回想した。  「ジョージは、子供のころから、内気な子でした。両親はアイルランドから移民してきて、市立病院の清掃作業員をした後、晩年になってウエストサイドの自宅近くにドラッグストアを開業した。ジョージは、両親が働きずめに働いて貯めた金で店を開いてから、やっとできた子供だったので、随分、可愛がられて育てられた。一人っ子でしたしね。なんでも、欲しいものは手に入っていたはずです。なにしろ、本が好きな子だった。教会には日曜礼拝に欠かさず通ってきていた。小学校高学年になってから、彼は、教会の儀式の手伝いをするアルバイトを始めた。そのころから、私は彼をよく知るようになったが、本当にナイーブな感受性の豊かな少年だった。それに、良く本を読んでいた。教会付属の図書館から、借りていって読んでいた」  保安官は、思い出したように聞いた。  「ところで、告白はないですか」  「告白って、ジョージのですか。それは、言えません。言わないのがルールだということは、あなたも知らないわけでは、ないでしょう」  「これは、失礼したしました。そうでしたね]  この気まずい問い掛けをしおに、神父は、  「他に予定がありますので、御用事がなければ、これで。また、なにかあったら、いつでも、お寄りください」  と言って、立ち上がった。  「参考になりました。ありがとう」  保安官は、礼を述べて、部屋を出ていった。  神父は、保安官を見送った足で、教会のチャペルに入っていき、その地階の暗い資料室のドアーを開けた。壁のスイッチを入れると、一斉に天井の裸の蛍光灯が点灯し、室内が明るくなった。壁際に棚があり、膨大な量の書類が載っていた。神父は、一番奥の棚から、分厚い牛革のカバーがしてある大型の書類を持ち出した。  脇の書見台に置いてから、本の扉を掴んだ神父は、八五年十二月のページを開いた。そこには、沢山の項目と名前と数字が並んでいた。神父が、右手の人差し指で探っていった寄付者の欄にジョージ・フォードの名前があり、行事の項目に妻メーシーの葬儀とあった。そして金額欄には、五万ドルとの記入が見えた。一枚捲った八六年一月のぺージには、やはり、ジョージ・フォードの名前が見えた。それは、妻、タラ・ジョーンスとの結婚という記載のあとにある七万ドルの金額を寄付した男の名前を示していた。九一年十月には、同じ名前で、タラの葬儀の際に十万ドルの寄付をしたことを示す、記載があった。  神父は、その書類を棚に返したあと、一番新しい記録簿を取り出して、書見台に置いてから、まだ記入されていない、今月の部分を開いた。  そして、  「寄付者、ジョージ・フォード。項目、妻エリザベスの葬儀」  と書き込んだあと、金額欄は空欄のままにして、扉を閉じた。    十 自白せず2    ジャクソン刑事は、ミリアン・シュルツを厳しく追及していた。  「ここにあるクレジットカードの使用控えだが、あなたのサインに違いないな」  ジャクソンが、調べ室の机の上に置いた汚れた紙片を手にしたミリアンは、じっくりと観察したあと、  「そうです。私のサインです」  と認めた。  「レンタルショップで、チャーンソーを借りたときに、発行されたものだな」  「そうです」  「チェーンソーなんて、なにに使ったんだね」  「庭の木の枝降ろしですよ。私は、毎年、枝降ろしは、自分でやっているのです」  「毎年、自分でね。毎年、借りるのですか」  「いや、去年までは、鋸でした。枝もそれほど太くなかったし、私も体力があったから」  ミリアンは、理路整然と説明した。ジャクソンは、踏み込んだ。  「それで、その借りたチェーンソーは、いまはどうしたんだ」  「返しましたよ」  「なに、返したと。嘘をいうなよ。何時返したんだ」  「女房が失踪しているのが分かった日の数日前です。間違いないですよ。その店に聞いてください」  「こちらは、その調べはすでにしてある。店に聞いたときは、ないといっていた」  「なにかの、間違いでしょう。私は返しましたから」  ジャクソン、部下の若い刑事に目配せして、係員を呼び、再調査を命じた。  「いちおう、君の言うことを信用して、もう一度調べるからな。それで、返していなかったら、今度こそ、どこに隠したか話してもらうぞ」  ジャクソンの脅しかかった言い方にも、ミリアンは、泰然としていた。  「ところで、次の質問をする。あんたの家の地下にあった大型のフリーザーだが、あれは何処へやった」  「なんだって、フリーザーだって。そんなものが、なんの関係があるんだ。大体、それが無くなったのをどうして知っているんだ」  声が、震えていた。ジャクソンは、今度は、良い感触だ、と内心ほくそえんだ。  「どこにやったんだ」  「そんなこと、どうだっていいだろう、おれの勝手だろう」  「いや、違う。事件に使われた可能性が高い。犯罪に係わっているかも知れないのだ。あんたの犯罪にな」  「なにを言っているんだ。何に使うというんだ。ええ、それを言えよ」  「あんたが、奥さんを殺したあとチェーンソーで死体を解体してから、フリーザーに入れて、冷凍したんだ。そうじゃないのか」  ジャクソンは、一気に核心に踏み込んだ。ミリアンの表情が変わった。顔中を真っ赤にして、  「なにを、たわけたことを想像しているんだ。まったく、滑稽だね。驚いてしまうよ。開いた口が塞がらない。あんたたちの想像力は、たいしたものだ。売れない推理作家だった、そこまでは、考えないだろう。おれが、女房を解体して、冷凍したって。それからどうしたというんだ。ええ、教えてくれよ」  と尻を捲くった。ジャクソンは怯まなかった。  「冷凍したあと、木材粉砕機で砕いて、湖に捨てたんだ」  「はあ、それで、チェーンソーやフリーザーの行方をしつこく聞いているんだな。だが、いずれも、おれは女房に使ってはいない。残念だが、あんたたちの仮説は、全くの見当違いだ。捜査は、第一歩からやり直しだな。その粉砕機とやらで、人の体が砕けるのかね。チェーンソーで解体ができるのかね」  ジャクソンは、その点については、確信がなかった。確かに、あくまで、仮説に立っての推論なのだ。  「そんなことを聞いているんじゃない。家政婦は大型のフリーザーが無くなっていると言っているんだ。どうしたんだ」  「ああ、あれは、食肉を入れておくために買ったんだが、必要がなくなった。おれたちは夫婦二人暮らしでは、そんなに肉を食わない。冷蔵庫の冷凍庫で十分なんだ。だから、あれは、友達にくれてやった」  「友達か。なんていう名前だ。どこに住んでいる」  「名前は、テリー・シェルドンという。家は町の郊外、マイフェア地区の高級住宅地にあるはずだ。彼は、家族でやるバーべキュー用の食肉を保管しておく大型冷凍庫を欲しがっていた。それで、譲ってやったんだ」  「そうか、それも、調べるぞ。もし無かったらどうする」  「無いわけがない。おれは、嘘は言わん。あんたにも、毛ほどの嘘も言っていない。女房を殺して、切り刻むなんて恐ろしいことをおれがやるもんか。だいたい、なぜそんなことをしなくてはいけないんだ」  ミリアンは饒舌になってきた。  「なぜか。それは、女房がうっとおしくなってきたからだろう」  「なぜだ。おれは、あいつには感謝はしても、憎んではいないよ。いまの生活ができるのは女房のお陰なんだからな」  「だが、お前は、他の女性と付き合っていた。浮気をしていたんだ。マリリン以外にも」  「どこに証拠がある」  ジャクソンは、持ってきていた紙袋から写真を取り出してミリアンの目の前に叩きつけた。  「これは、どう言うことだね」  ジャクソンの刺のある詰問に、写真を手に取ったミリアンは、  「何時撮ったんだ。こんなもの」  「奥さんはあんたの行動に不審を抱いていた。それで、私立探偵に依頼して、あんたの行動を探らせていた。あんたは、それを知らずに、こうして可愛いお姉ちゃんと楽しい時を過ごしていたと言うわけだ」  「ええっ、女房が頼んだのか。信じられんね。あの女房がか。だが、確かに、おれはその女と付き合っていたよ。だが深入りはしなかった。仕事柄、女はいっぱいいるよ。それが、おれたちの仕事の宿命だ。人気商売だからな。ある程度仕方がない。それは、女房も認めていたんだがな」  「だが、なにか、違いを感じたんだろう。そうじゃないのか。あんたは、この女と毎日のように会っていたんだろう」  「まあな、すこしのめり込んでいたところはあった」  「どういう女だ」  「アネット・フォードと言って、売れないモデルだ。本人はいつか、エルの表紙に載るとでも思っているだろうが無理だな。あの雀斑顔ではな。ただ、気持ちは本当にいい女だ。スタイルも並み以上だが、問題はやる気だな。あれだけ意思が弱くては、競争が激しいモデルの世界じゃ生きてはいけないよ」  「なぜ、そんな女と付き合っているんだ」  「だから、気持ちがいいからだよ。女房にはない心遣いがあるんでね。それに、若い」  「勝手なことをほざくもんだ。それで、女房を殺したのか」  「何度言えばいいんだ、おれは、やってはいない。誰かがやったんだ。言っておくが、おれは、被害者なんだぞ。妻を殺されたい夫だってことを忘れるなよ。そう思うからこそ、こうして、調べに応じて、捜査に協力しているんじゃないか」  「マリリンとこの女と女房と大勢、女がいて、幸せだな」  「なんてことを言うんだ。あんたらには、関係ないだろう」  ミリアンは、必死の抵抗を試みた。確かに、若い女は付き合っていて、楽しかった、だからといって 妻を殺すほどの仲ではないのだ。  ジャクソンは、耳打ちされて、また、調べ室を出ていった。  若い捜査員が耳打ちした。  「チェーンソーは、返されていました。われわれが、最初に聞いた時には、返却されていないと言っていたのですが、あのときは、事情が分からないアルバイトの店員が、よく調べないで答えた、というんです。念のために、コンピューターの記録を調べてみたら、ミリアンの言った日に返却された記録がありました」  「そうか。じゃあ、あいつは嘘は言っていないんだ。その物は、そのレンタル屋にあるのか」  「いえ、再度貸し出されて、ないそうです」  ジャクソンには、こうなったら、徹底的に調べよう、という気になっていた。  「その借り手を一年分、逆上って調べてくれ」  と指示した。  もう一件、フリーザーの行く先はどうなっているのだろうか。ジャクソンはその調査を指示した捜査員の所へ行って、様子を聞いた。  「おかしいですね。家の電話に誰も出ません。番号は間違いないでしょうね」  「間違いはないだろう。念のため、地元の警察に聞いてみようか」  「そうしましょう」  係員は、所轄署に電話して、調査を依頼しようとして、すぐに、返事を得た。  「警部、このテリー・シェルドン一家は、皆殺しにされて、夫が逃走中だそうです」  ジェクソンは、その事件が新聞に大きく載っていたのを思い出した。最近稀な惨劇だったから、刑事という仕事柄、関心を寄せていたのだ。  「そうか、では、家に行って、問題のフリーザーがあるかどうか、調べてきてくれ。多分、あるだろうと思うが。こうなったら君の報告を待って、ミリアンは、帰すことになるだろう」  直ちに、シェルイドン邸に直行した部下捜査員の報告は、  「同型のフリーザーが、あった」  というものだった。  ジャクソン刑事は、強い疲労感を感じていた。こうなれば、捜査は本当に、第一歩からやり直しだ。ミリアンのほかに犯人がいるとしたら、それは、どんな奴なのか。今頃、どこかで、ほくそ笑んでいるに違いない。ジャクソン刑事は、もう一度、事件を考えなおしてみようと、思った。  確かにミリアンが、抗弁した  「粉砕機でほんとう砕かれてのか」  という主張には、道理があった。アーノルド・ブッシュ博士の解剖所見では、湖から発見された肉片は、「人の物と推量される」とはなっていたが、あの粉砕機で砕かれたとは、言っていない。ただ、断面に同じ形の筋が入っていることから、粉砕機のようなものの可能性がある、とは言っていた。  (そうか、では、試してみる必要があるな)  ジャクソンは、牛か豚の肉片を冷凍して、あの粉砕機にいれて、実地検証することを考えた。ジャクソンは、署長のジム・マクナリーと相談して、署員と鑑識課員らにブッシュ博士にも参加してもらい、現地で木材粉砕機での冷凍肉の粉砕の実験を行うことにした。  その日、まるまる一頭分の豚の冷凍肉が用意され、チェーンソーで切断したあと、木材粉砕機械に順に投入された。細かくなって排出された肉片を採取し、前に湖から採集した肉片と比較する。  豚一頭分の冷凍肉のチェーンソーでの解体には予想以上の時間がかかった。冷凍が完全でない部分の肉が崩れて、グニャグニャになったのを切断するのに手間がかかったためだ。だが、切断した肉塊の粉砕は、僅か五分程で終わった。見ていた参加者らは、  「まったく、凄い機械だぜ。あっと言う間だな。これじゃ、ひとたまりもない」  とその威力に驚いていた。  採集した肉片は、ブッシュ博士が詳細に検査した。顕微鏡で見た肉片の断面は、完全に人肉の標本と一致した。これで、このミセス・シュルツの遺体が、あの木材粉砕機で裁断されたものと、確認された。  (やはり、間違いなかった。これで、全ての手口が解明された。だが、だれがやったのか。チェーンソーでの解体は、あれほどまで手間がかかるのだから、違うかもしれない。もっと鋭利な切断具を使ったのかもしれない。それに人一人を冷凍するには、いずれせよ、相当強力な冷凍力をもつ冷凍機が必要だな)  ジャクソンは、これまでの推理の道筋を修正しなけれならない、という気になっていた。    捜査の壁に突き当たったジャクソン刑事は、その夜、ウエストサイドのアパートで、眠れずに考えごとをしていた。死体を解体処分した道具が見つからないうえ、犯意不在とアリバイを主張されて、夫のミリアンを釈放せざるを得なかったのは、誤算だった。捜査は振り出しに戻ったと言わざるを得なかった。  (こうなったからには、原点に戻って、アリバイ崩しから、始めよう)  と考えて、アリバイの根拠となっているマリリン・シェフィールドとの密会をもう一度洗いなおそうと思った。それに、もう一人、得体の知れないアネット・フォードという女にもミリアンは、会っている。ゴードンの調査によれば、昼から夕方にかけてはマリリンと西二十四丁目の中級ホテル、ウインザーにジム・マクハティーという偽名で部屋を予約して入り、情事に明け暮れている、という。夜は、エスニック・パブで怪しい男や女に混じって、酒を飲んでいる。それが、事件当時の彼の行動のいつものパターンだった、という。  アリバイを主張したとき、ミリアンは、マリリンらの連絡電話番号を教えたが、電話は通じなかったのだ。だから、正確には彼のアリバイは、立証されたわけではない。それよりも、ジェクソンが描いた事件の構図に、遺体の状況があまりにも、当てはまったので,仮説の上に立って、ミリアンの自供を焦ったことが間違いだったのだ。  (捜査に焦りは禁物だ。あくまでも、地道に基本に従わねば)  ジャクソンは深く反省した。そして、その女たちの尾行をしていた友人のゴードンの協力が不可欠だ、と考えて、ソーホー地区のコンドミニアムにあるゴードンの自宅に電話した。    ゴードンは、その日は、仕事を終えてから、午後五時きっかりに、エミー・ブレアと待ち合わせ場所の五番街のカフェ・バーに行き、近くのステーキ・ハウスで夕食をとった後、ブレアとともに、ソーホー地区の彼のアパートに戻った。これが、何時ものパターンだった。 市街をドライブ中、ブレアは、食事中に飲んだウオッカ入りのカクテルで、すっかり気分が高揚したのか、この夜も、 「私の素敵な探偵さん、一週間ぶりのご無沙汰ね。お変わりないか、調べるわ」  と言って、彼に抱きつき、唇にキスをした後、右手を彼の下半身に持っていき、ズボンのファスナーを開けようとしたが、ゴードンが、 「そいつは、後からの楽しみに」 といつものように、拒んだので、 「それもそうね。楽しみは残しておかなくちゃ」  と約束したように、手を引っ込めた。  アパートで、二人は激しく愛しあった。いっしょにバス・ルームで体を洗いあった後、興奮した体を、ベッド・ルームに運び、まるで、獣のように、互いの体を貪りあった。終えたあと、長く掛かった愛情交換での互いの健闘を称えあって、二人は後戯の愛撫を身体中に繰り返したが、  「さて、これからは、サイバー・セックスの時間だ」  と午後七時半を過ぎてから、ゴードンはパジャマを着て書斎に入った。ブランデー・グラスを持ったネグリジェ姿のブレアも従った。  ゴードンは、Eーmailを一覧した後、ニューズ・ビューワーを起動して、ニューズを読んでいた。  その時、サイドテーブルの上の電話が鳴った。  パソコンの脇のコードレス電話の受話器を取ったゴードンの耳に聞こえてきたのは、ジャクソンの声だった。  「やあ、元気か」  「こんな夜にどうした」  「いや、すまんな。実はミセス・シュルツの事件に手間取っていてね。お知恵を拝借しようと」  「君にしては珍しい。おれに頼みごとか。あの夫は自供しないのか」  「そうなんだ。ミリアンは、やってないと言い張っている。ただ、遺体の処分の仕方の見当は付いたんだ。犯人が分からない。そこで、君が調べた女の事だが、それが、アリバイの拠り所になっている。こちらとしても確認しないといけないのだが、連絡がつかない。そこで」  「そこで、居場所を教えろだろう。だが、おれにも、それは分からん。ただ、現れる場所は分かる。彼女たちの行動は、毎日決まっているんだ。おれの仕事は、女の住所まで調べる必要はないから、報告書には書かなかった。写真があれば、多くの場合、依頼者は納得するんだ。彼女たちに会いたければ、その場所に行けばいい」  「そうか。ではやってみるよ。どこなんだい」  「ちょっと待てよ。そういえば、おれも一緒に行こう。実は、マイフェア地区の高級住宅地で起きた一家四人殺しの現場に行ってきたんだが、ちょっと、気になることに気が付いた。それから、夜に会っていた女の方は、アパートまで付けたから、行けば分かる。とにかく、ウインザーホテルの目の前のカフェレストランで待ち合わせよう」  ゴードンはそう提案した。ジャクソンはこの申し出は嬉しかった。  (ゴードンと一緒なら、仕事も捗るだろう。ただ、彼が現役のころ、おれが、彼にたいして、犯してしまった行為を忘れていてくれたままでいればだが)  ジャクソンは、電話を切ったあと、そう祈りながら、シャワールームに入っていって、体にこびりついている一日の汚れと疲れを洗い流した。    十一 銃 撃    その女は、時刻通りにウインザーホテルの前のカフェレストランにやって来た。ゴードンの観察によれば、ミリアンと付き合っていたころは、午後五時過ぎに現れて、男を探す。大抵は、男の方が先に来ているから、女は男を見つけると、その男が座っているテーブルに行って品を作って挨拶をするのが、いつものやり方だった。  今日は、ゴードンは、ジャクソンと一緒に店全体が見通せるバー・カウンターに腰掛けて、コーヒーを飲んでいた。  「女は、必ず、現れるのか。間違いなく」  時刻が五時に近付いて、ジャクソンが、不安にかられて、聞いた。  「おれが尾行していたときには、女は時間が正確だった。ミリアンは、ルーズだから、女が、待っている事が多かったな。だから、おれは恋人と判断したんだが、他の男とも付き合っているとしたら、プロかも知れないな」  二人は、話しているふうを装いながら、入口を見張るのを忘れなかった。午後五時をすこし回ったころ、見慣れた顔つきの長身の女が現れた。女は店の中を見回して、知っている人が見つからなかったのか、道路沿いに並べられたパラソルの下のベンチ席に腰掛けて、脚を組んだ。すらりとした足が、道路を通る車から、誘うように見えるだろう。信号が赤になると、停車した車の中から、こちらを見ない運転手はいなかった。  「よし、行こう。今がチャンスだ」  ゴードンが声を掛け、高い椅子から降りて、真っ直ぐに女の席の方に踏み出した。ジャクソンは急いで、後に付いていった。  「お嬢さん、ちょっと失礼します」  ゴードンが女の横に立って、声を掛けると、シャネルの黒ビニール製のショルダー・バッグから取り出したマールボロに火を付けようとしていた女は、驚いて横を振り返り、ゴードンを仰ぎ見た。そのときの女のうなじが、真っ直ぐに伸び、えもいえぬ芳しさを漂わせたのを、中年男のゴードンは見逃さなかった。  「お話ししたいことがあるのですが、よろしいですか」  ゴードンの不意の頼みにも、女は動じず、  「どうぞ。あなたが、マイケルソンさん」  と席を勧めて、名前を聞いた。多分、今日の待ち合わせの男なんだろう。  「いえ、違います。実は、ミリアン・シュルツさんの奥さんの事件で、お話しをと。あの事件は御存知ですね。私はこういう者です」  ゴードンが渡した名刺を手にした女の表情が険しくなった。  「ええ。知っています。ミリアンさんとは親しくしていますから」  「そのミリアンさんとあなたは親しく付き合っていたんですね」  いつの間にか、ゴードンの横の椅子に座っていたジャクソンが、突然聞いた。女は驚いて、ジャクソンの顔を見た。  「いや、失礼しました、私はこういう者です」  ジャクソンは、警察バッジを見せ、名を名乗った。  「ああ。刑事さんね。そう、私は、マリリン・シェフィールドといいます。ミリアンとは、そう一年くらいの付き合いね」  「そうすると、かなり親しいでしょうね」  「そうね、いま一番、気に入っている人かもね。話が会うし、相性がいいのよ」  「それで、いつも、この時間にここで待ち合わせしている」  ゴードンが確認した。  「大体ね。他の友達がいなければ、いつも会っていたわ」  「そのあとは、あのホテルに行く」  ゴードンが、道の反対側のホテルの入口を指さした。  「あなた、よく、知っているじゃないの。そうよ、だいたいはそうよ」  「そこで、聞きたいのだが、先週もミリアンに会ったかね」  ジャクソンが、ぶっきらぼうに聞いた。  「月曜日は、ちょっ待ってね、いま、手帳を見るから」  マリリンは、バッグから分厚いシステム手帳を取り出した。  「ああ。会っているわ。あの日は、なぜか興奮していて、五回もしたんだ。大きいハートのマークが五つ書いてあるでしょ」  「それは、どういう意味だね」  ジャクソンが、手帳を覗き込みながら聞いた。  「ハートは、セックスした回数よ。大きさは、良かったかどうかの評価よ」  「その日は、良かったんだ」  「そう、だから、その週は毎日あって、セックスしていた。いい薬も入ったのよ。あ刑事さんにやばいこと言ったかな」  「いや、管轄が違うから、聞かなかったことにするが、薬はそんなに効いたのか」  「タイから入った最高級品だからね。高かったけど、手に入れた価値はあったよ」  「いつも。この時間に会って、すぐにホテルに行っていたんだな」  「そう、夜、九時頃まで、頑張って、私は次の仕事に行った。ミリアンは、いつものように飲みに行っていたわ」  「次の仕事って、なんだい」  「高級ホテルの泊まりの客を相手にする仕事よ。大体が、成り金の年寄りだし、嫌な仕事だけど。だから、ミリアンに会って、前日の汚れを落としてからにしていたんだ」  「そういう暮らしは、もう長いのか」  ゴードンが、聞いたが、その声の力は弱々しいかった。  「もちろん、それだけではないわ。私はこれでも、モデルなんだから。仕事がないときには、そういう仕事もするということにしておくわ」  「では、あのホテルには泊まらないのか」  「あまりね。でも先週は泊まったこともあったわ。これを見ると、月曜から木曜までは朝まで一緒に居た。金曜日は、仕事にいくので泊まらなかった」  ゴードンが、その前の一ヵ月間、ミリアンを尾行したときは、泊まりはなかった。殆どが休憩で、ホテルのフロントは、「公式には宿泊しか受け付けていません」と言っていたものの、そういう時間帯の利用客も拒んではいなかったのだ。二人の仲は急接近していたようだ。  「ところで、あなたの存在が、シュルツ夫妻の間で、深刻に話されていたことは知っていましたか」  ゴードンは、かしこまって聞いた。  「薄々はね。でも、私には家庭に波風を立たせたい、という気持ちは全くありませんから。私は、彼が好きだったし、毎日でも会って、体に触れていたかった。でも、奥さんはそうではないらしい。夜も彼の求めに応じないときが多く、彼は不満を抱いていたのよ」  「そんな話を、彼はしていたのか」  ジャクソンが確かめた。  「そうね。たまにね。それより、彼にはお金が必要だったから、奥さんの稼ぎを捨てることができなかったのよ。大した金額じゃあないのに」  「困っていたのかね」  「だって、売れないバンドマンでしょ。バンドを維持するだけでも、大変なのよ。もう一段、メジャーになろうと、ツアーもしたし、CDも出したんだけど、その費用がかなり掛かると言っていたわ」  「でも、人気はあるんだろう」  「そう、一部の熱狂的なファンがいたから、止めるにも止められない。でも、それほど、売れているわけじゃない。その中途半端なところが、いけないのね。ふんぎりが付かなくてね」  マリリンは、その年齢の割りにはいいところを見ていた。やはり、仕事がら、人を見る目は肥えているのだ。  「それで、彼には、妻を殺した、という嫌疑が掛かっているんだが、どう思うね」  ジャクソンが、最後の質問をした。  「そんな大それたことができる人じゃないわね。外見は革ジャンパーで意気がっているけど、ミュージシャンには、小心物が多いのよ。だから、あんなに音楽に打ち込めるのよ。しかも、経済的な援助を受けていた妻をなくすことは損じゃない」  マリリンの言うことには、筋が通っていた。この女性と会わずに、無断で写真を撮り、密かに尾行した記録だけで、依頼の仕事を済ましてしまったゴードンには、悔悟の気持ちが出てきた。  確かに、二人は逢瀬を続けていたが、それは、家庭を怖そうというものではなかったのかもしれない。ミリアンは、妻では満たされぬ欲求を、この若い女性に求めていたし、マリリンも、満たされない日常生活の不安を相性の合う二人の関係のなかで、満たそうとしていたのかもしれないのだ。  (そういう関係が、あってもいいのではないか)  とゴードンは考えていた。大体が、エミーとゴードンのずるずると続いている関係も、そういう面がある。現代社会の数限りないストレスを解消するための一方法として、男女のそういう関係が見直されてもいい。それは、旧来の道徳や社会の仕組みと相いれないかもしれないが、人々が潜在意識で欲求しているものなのだ。結婚という形態が、唯一、公認された男女間の関係だと考えるのでは、視野が狭い。人間関係は、もっと、広く可能性に満ちていると考えたほうが、心豊かに大きな人間でいられるような気がした。  「それで、あなたのことを、すこし伺いたいのですが、テリー・シェルドン夫人のメアリーさんとは、どういうご関係ですか」  ゴードンが、不意打ちをする質問をした。マリリンは、落ちついて、ゴードンの目を見つめると、  「私のすぐ上の姉ですわ。可愛そうなことをしました」  とだけ、言って目をそむけた。  「その点について、詳しく話を伺いたいのですが」  ゴードンが、そう言うと、  「私は、そろそろ出ないと行けません。こちらに電話してください。お会いする時間と場所を話し合いましょう」  マリリンは、今、入口を入ってきた男性を見つけて、にっこりと微笑むと、ゴードンにあわてて名刺を渡して、立ち上がり、去っていった。  「さあ、今度は、、ウエストサイドのアパートに行こう」  ゴードンもジャクソンに声を掛けて立ち上がった。  ゴードンが、ミリアンが酒場で会っていた雀斑顔の女を追ってそのアパートに来たのは、夜も遅くなってからだったが、まだ日のあるうちにやって来たそのアパートを間違えることはなかった。番地を覚えていたゴードンは、間違いなくその家の階段を上がって、呼び鈴を押して、中に人がいるのを確かめた。  中から人が争う声がした。男と女の声だった。その言い争いがしばらく続いた後、激しく物のぶつかり合う音がし、食器戸棚から食器が落ちたのだろうか、金属的な高い連続音がして、すぐに静かになった。女がかなきり声をあげた。男の声がそれに対して激しく反抗し、また家具がぶつかり会う音と男女の罵りあう大声がして、静かになった。  その間、ゴードンとジャクソンは、入口の扉を開けようと、体当たりしたり、ドアーノブを力一杯回そうとしたりしたが、頑丈な錠は開かなかった。ジャクソンが、胸に斜めに渡した革ベルトのホルダーから、コルト24口径を取り出して、右手に持った。扉の鍵穴をねらって、二発発射した。錠は簡単に破壊された。二人は、ドアーを蹴破って、中に入ろうとして、脚をかがめて弾みをつけた。  その時、ドアーの内側から、太った男が飛びだしてきた。ジャクソンは、逃走を始めた男の後を追った。男は、階段を飛び下りて、玄関ホールを一目散に突っ切ると、玄関の観音開きの扉に体当たりして、道路に飛びだした。ジャクソンの動きも素早かった。男が、道路に飛びだしたとき、階段を飛び下りて後を追ったジャクソンは、男の背後、五メーター程の所に迫っていた。  「止まれ。止まらないと撃つぞ」  ジャクソンは警告を発した。男は、その警告を聞いて、一端立ち止まり、後ろを振り返りざまに、狙いを付けて、一発発射した。弾丸が、歩道の脇の鉄柵の脇に隠れたジャクソンの頭の横を擦り抜けた。ジャクソンも応酬した。相手が撃った弾が、行き過ぎた後、今度は、ジャクソンのコルトが、火を吹いた。ジャクソンは、しっかりと体を止めて身構えていたから、射撃は膝射の姿勢で、正確だった。ジャクソンが狙った通りに、弾は、男の右足のくるぶしに命中した。  男は、その弾を受けて、  「うっ]  と呻きながらも、逃げ足を緩めず、びっこになりながら、向かいの四つ角の所まで走っていって、流れてくる車の波をかき分けて、道路の向こう側に渡った。ジャクソンも後を追ったが、車道の信号が青に変わって、車の流れが速くなり、それに妨げられて、道路を渡るのに手間取った。ジャクソンは、その間も男の影を追っていたが、男は、地下鉄の入口から、中に消えた。  ジャクソンも追った。だが、暗い照明と迷路のような通路を行くうちに、男の影を見失った。通路のコンクリートの上に、血痕が点々と落ちていた。その後を追っていくと、徐々に血痕は薄れていき、再び、地上に出る階段のあたりで消えていた。ジャクソンは急いで、地上に出る階段を駆け上がったが、路上に男の影はなかった。  男は、身長が高く、痩身だった。ちらりと顔を見たところ、肌は浅黒く、顔の回りの不精髭が伸びていた。頭に黒い革の帽子を被っていた。着ていたものは、茶色の革のジャンパーに、ブルージーンズだった。それ以外の印象はない。  ジャクソンは、引き返した。アパートの近くに戻ると、人だかりがしていた。遠くでパトカーと救急車のサイレンの音がけたたましく鳴っていた。その音は、段々と、近づいて来ていた。ジャクソンは、そのけたたましさの中を、建物を取り囲んでいる住民たちの環をかいくぐって、部屋に入っていった。  「やられた。この女は、間違いなく、おれたちが探していた女だが、死んでしまったよ」  ゴードンが、部屋に入ってきたジャクソンを見つけて、声を掛けた。  「そうか、これが、酒場の女か。雀斑だらけの顔といい、間違いないわけだ」  「そうだ。頭に二発入れられた。男が逃げる間際に撃ち込んだんだ。即死だろう」  女は、床に仰向けに倒れていた。額と左の側頭部に穴が空いて出血した痕があった。それは、紛れもなく、銃弾を受けた痕だった。  「この女、なんて言うんだ」  「いま、調べていたが、机の上のIDカードには、アネット・フォードとある。年齢は一九七五年生まれの二十二歳だ。出生地はニュー・エンクラントのソーン群メリーウッドだ」  「可愛そうに、独り暮らしなのかな」  「そうだろう。男が居たような雰囲気はない。ただ、薬の匂いがした」  「麻薬か」  「そう、それだ。火を付けて吸引していたのだろう。独特な匂いがして、すぐに分かったよ。やつらは、ここで、薬をやっている所だったんだ」  「他には、なにか、気が付いたか」  「おれには捜査権はないから、それほど、徹底的には調べられないよ。あとは、お任せだ」  パトカーと救急車が到着したのだろう、うるさいサイレンの音が止まって、係官がこちらの向かってくる足音が聞こえた。警官は、部屋に入って、ジャクソンを見つけると、すぐさま敬礼し、  「ご苦労さまです」  と言った。殺人事件だから、刑事が来ていてもおかしくないと、思っているようだった。  「救急車は必要なかったな。帰ってもらっていいよ。それから、本署の鑑識の出動を要請してくれ。殺人課の刑事にも知らせて」  警官は、ジャクソンの指示を直立不動で聞いていたので、その指示に不審は抱かなかった。  「さあ、これから、徹底して、部屋の捜索を行う。探偵さんはどうする」  「まあ、ここにいても何の役にも立たないだろう。返って、足手まといになるだろう。引き上げることにするよ」  ゴードンは、退去することにした。家宅捜索で収集した証拠から、身元も職業も最近の行動も、全て明らかになるだろう。あとは、その成果を待てばいいのだ。それにゴードンはこういう現場が苦手だった。先程、賊が部屋から飛びだしてきたとき、ゴードンも腰に付けた銃に手を当てたが、抜くことはできなかった、そのとき、ジャクソンは、素早くフォルダーの銃を抜いて、賊を追う体勢になっていた。  (あの時と同じだ)  ゴードンは、五年前の事件の記憶を見ていた。その事件で、ゴードンが、一瞬、銃を抜くのを憚り、遅れたために若い警官が死んだのだった。それが、ゴードンが、警官を辞めた理由の核を作っていたのだ。だから、なるべく、凄惨な現場にはいたくない。そういう状況は、自分に会っていない、と彼は思っていた。なのに、探偵などいう因果な商売を彼は続けていた。それが、心を痛く傷つけていた。ジャクソンは、その若い警官の相棒だった。ゴードンは、そのことで署内の資格委員会に諮問された。そのとき、最も激しくゴードンの警官としての不適格性を糾弾したのが、同期のジャクソンだった。このことは、ゴードンの心に、深い疵として残っていた。  ただ、ゴードンは、ジャクソンが戻ってくるまでに、気になる物は調べておいた。実をいうと、ゴードンが、この部屋に入ったとき、窓際のアップル・コンピューターのモニターに電源が入っていた。そこには、名前と数字が並んだ表が写っていた。  ゴードンが、マウスを動かして画面をスクロールすると、先頭の画面が出た。そこには、その文書の項目の名前があった。それは、  「保険契約明細」  という表題だった。画面をスクローるして行き、名前の部分を見て、ゴードンは知っている名前が並んでいるのを発見した。  「ミリアン・シュルツ」「ジョン・ベネット・シュルツ」「テリー・シェルドン」「メアリー・シェルドン」などの知っている名前のほか、「ジョージ・フォード」とか「エリザベス・フォード」などの名前があった。  ゴードンは、パソコンにフロッピーディスクが挿入されているのを確かめて、その画面のファイルをコピーした。そして、フロッピーを引き抜いて、自分のコートのポケットに忍び込ませた。そのことは、ジャクソンにも話さなかった。ゴードンの職業的な予知本能が、そこにビジネスと犯罪の証拠の手掛かりを見つけていた。要するに探偵にとって、儲かる仕事の手掛かりがありそうに感じたのだ。  (それに、おれが絡んでいる二つの事件の関係者の名前が並んでいるとは)  それは、予想外の発見だった。事件解決の手掛かりが、その小さなプラスチックの板に込められていると考えたのは、自然なことだろう。  十二 解 析    事務所に帰ったゴードンは、事務室の机上のマッキントッシュを起動した。画面はすぐに明るくなったが、コンピューターが必要なファイルを読み込み、使えるように起動するには、時間がかかった。ゴードンは、最初の一連の作業を行うようにする命令を入れてから、キッチンに行って、コーヒー・メーカーのなかで暖まっていたブルーマウンテン・コーヒーをカップに入れて、一口啜った。  事務室に戻る頃には、マックは仕事の用意を終えていた。ゴードンは、コンピューターの前の椅子に座って、マウスを握り、コートに入れてきたアネット・フォードのフロッピーのコピーを差し込み、ファイルの中身を見た。そこには「項目」「契約者」「掛け金」「期間」「保険金」などの名前が並んでいた。ゴードンは、表計算ソフトを起動した。ソフトは、起動後、自動的にデータ・ファイルを読みにいき、ゴードンが、あのアパートのコンピューターの画面で見たのと同じ画面が、まもなく現れた。  表の画面のタイトルは、「契約一覧」になっていた。ゴードンは マウスを手前に引いて、画面を下にスクロールしていった。最後は、合計という項目で終わっていた。ゴードンは再び、画面を先頭に戻して、細かい項目を見ていった。最初にあるのは、名前だった。ゴードンはまず先頭の「ジョージ・フォード」の部分で、スクロールを止め、そのなかの数字を一つ一つ確認した。名前の脇に数字が並んでいた。最初は、保険金額だった。彼は三つの生命保険に加入していた。一つは死亡時に百万ドル支払われるもので、既に掛け金は一括払いされていた。その額は、年間一万ドルとなっている。他に、同じタイプの保険が二件あった。そのいずれもが保険期間中だった。  ジョージの名の下には、エリザベスの名前があった。こちらは、額が多く、事故による死亡時は三倍保障の特約が付いている。掛け金は年間二万五千ドルだが、死亡時には三百万ドルが払われることになっていた。だが、その支払いはまだ行われていなかった。  支払い済の記号が、契約項目の一番後ろに付いているのに気が付いたのは、タラ・ジョーンズ・フォードの欄を見ていた時だった。タラの名前は、エリザベスの下にあった。彼女は、エリザベスと同じタイプの保険に入っていた。そして、その保険金は、彼女が死亡した後の一九九一年十月十日に支払った、との記録が見えた。さらに彼女は、もう一件の死亡保険にも入っていた。それは、八六年一月八日の加入で、十年間の契約だった。満期の九六年一月七日には、満期金の二万ドルが支払われていた。  ゴードンはさらに下にもう一人の名前があるのを見つけた。名前はメイシー・ゴールドバーグ・フォードで、八五年十二月十日に保険金、二百万ドルの支払いが行われていた。  (一体、この女たちは、なんなんだろう。保険金が払われているから、三人は既に亡くなっているのは間違いない。その総額だけで八百二万ドルに上る)  ゴードンはその多額ぶりにびっくりしていた。しかも、受け取り人はすべて、冒頭のジョージなのだから、彼は、三人の保険だけで相当な資産を得たことになる。ゴードンは、死んだ三人とジョージの関係は知らなかったが、ジョージが、同じファースト・ネームを持つ三人の死で、大金持ちになったことだけは確かなようだった。  最初の画面はそこまでだった。ゴードンは、次の画面へとスクロールした。そこにも、さらに、フォードを名字に持つ女名前が記されていた。  それは、「アネット・フォード」だった。  (あれっ、これは、彼女だ)  それは、その日にゴードンが、その目で一生の最期を見た女の名前だったから、次の内容に興味が湧いた。  彼女には、九一年に総額三百万ドルの生存と死亡の混合した保険が掛けられていた。すなわち、生きていれば、六十歳位で掛け金のいくらかが帰ってくるが、その間に死亡した時は、その保険金が支払われる保障となっているミックス型のタイプだ。さらに、九六年にも、死亡時二百万ドルの死亡保険が追加されていた。  今、彼女が死ねば、五百万ドルが、受取人の物となる。しかも、その受取人は、やはり、ジョージだったのだ。  (一体、このフォードという奴は何者だ)  ゴードンのその疑問には、すぐに回答が見つかった。最後の欄に掛けた人の詳細を記した項目があり、職業と生年月日などが、書かれていたのだ。  職業は歯科医、年齢四十八歳。住所はソーン郡メリーランドだった。  (アネットの死で、この男はさらに、五百万ドルをえるのか)  ゴードンは、茫然とした。このデータだけでも、全部で一千八百万ドル近い多額な保険金を手にすることになる計算だ。しがない私立探偵が一生、身を粉にして働いても見ることができない雲の上の金額だ。それは、逆に言うと、人の命はそれだけ重い、ということの実証なのかも、知れなかった。人四人の死亡で得る保険金がそれだけある、ということなのだから。  (だが、いずれにせよ、異常だ。何かがある)  ゴードンの直観は、この裏に暗い陰の部分を予感して、神経を昂らせた。  ここを見おわって、「フォード家」の記録は終わっていた。アネットが、このデータをどこから手に入れたかは分からないが、彼女がデータを加工し、表の最初に持っていった形跡があった。だから、フォード一家の記録が最初に現れたのだろうが、データの中身まで細工したことは考えられなかった。どこかの、保険会社のデータを横取りして手に入れたのに違いない。  ゴードンは、いったん、コンピューターの画面から目を離して、机の上のカップから、コーヒーを二口啜って、休息した。そして,ゆったりとした気持ちで、考えてみると、彼は大変な犯罪の証拠を見ているのではないかの、という気持ちになってきた。これだけ巨額の保険金が動いた隠しようのない電子記録なのだ。  一息ついたゴードンは、次の作業に掛かった。  画面をさらにスクロールしていくと、次は、ミリアン・シュルツとジョン・ベネット・シュルツの項目が現れたのである。ゴードンは画面を凝視して、中身を読んでいった。  ミリアン・シュルツは、自分には一銭の生命保険も掛けていなかったが、妻のジョン・ベネには、総額三百万ドルを越す、死亡保険を掛けているのが、分かったのだ。しかも、それを掛けたのはごく最近だ。契約は今年の一月から始まって、五月、八月にも追加契約をしている。いずれも、掛け金が計三万ドルの死亡保険で、事故死の場合は、三倍に相当する額が払われることになっている。三件で三百万ドルだから、事故死亡時には、九百万ドルが支給されるのだ。  (まったく、あいつは、食わせ者だ)  ゴードンは、ミリアンヘの不審をさらに深くした。  目下の所は、ミセス・シュルツの失踪は、遺体が見つかっていない死体なき殺人事件の様相を強くしているが、たとえ、死体がなくても公的機関が殺人と断定すれば、事故死と判断されて、保険金は支払われるだろう。その意味では、ミリアンは、妻の死を一刻も早く、殺人事件と認めて貰いたいと思っているはずだ。ということは、彼は、自分は容疑者ではないが、事件は殺しと見て欲しい、と思っているはずなのだ。そこに、大いなる矛盾があるが、矛盾を解消する唯一の道は、妻の死が単なる事故死か、殺しであっても誰か真犯人がほかにいるのが都合がいい。都合がいいというより、そういう形にしようとしてのではないか、という疑問がゴードンの頭を過った。  最後に、ゴードンは、テリー・シェルドンの名前に突き当たった。テリーは自分には、僅か十万ドルの生存、死亡の混合保険を掛けていただけだったが、妻と子供たちには多額の保険を掛けているのがわかった。  それは、妻のメアリーに百万ドルの養老保険、息子のロバートには学資保険と障害保険を総額百万ドル、娘のキャンディスもロバートと同額の保険が掛けられていた。祖母のジェシカは、五十万ドルの養老保険に入ってていた。だが、当然ながら、いずれも、支払いはされていない。さらに、掛けたのはテリーだったが、受取人が、メアリーの保険は祖母のジェシカであり、ジェシカと子供二人の受取人は、テリーとメアリーの折半になっていた。  そういう掛けかたは、異常とは言えない。相続税対策や各家の資産対策で、いろいろな掛けかたがあるだろう。とは思ったが、子供たちの何方もが、受け取り人になっていないのが、ゴードンには、不思議に思えた。  (普通は、年齢の上の者から亡くなるのだから、若い者を受取人にするのではないか)  という常識的な考えがあったからだ。  ただ、保険が掛けられた一家四人は、皆死んでしまったのだから、相続するのは、逃走している夫だけなのだ。だが、逃走しているかり、金を受け取ることはできない。それとも、書類さえ整えば、支払いがされるのだろうか。そういう事務的なことには、ゴードンは、まったく疎かった。テリーは、この国最大のアフラック保険会社の公認会計士をしていたのだから、その点は抜かりがないだろう。  (たぶん、書類さえ整っていれば、払われるのだろう。それが、こういう契約の本質だ)  ゴードンは、そう信じていたが、そのことは、ユニオン銀行のキャリアウーマンであるエミーが、熟知しているに違いない。  ゴードンは、携帯電話の短縮ダイヤルの一番を押して、電話した。エミー・ブレアは、電話口の向こうで、当座預金を入金にきたユニバーサル・デンティストの財務係の女性事務員に応対していたが、ゴードンの電話に、  「今日はあの日でしょう。あとでね。ダーリン」  とだけ言って、そっけなく、電話を切った。    十二 新証言    「チェーンソー」をレンタルしたことを示すクレジット・カードの使用控えから探したレンタル会社の調べとフリーザーの譲渡先、テリー・シェルドン邸での捜索から、ミリアンの供述が真実であることが、裏付けられたうえ、アリバイも曖昧ながら、成立したことから、ジャクソンの捜査は、袋小路に迷い込んだ。  ミリアンが犯人だと確信していたジャクソンの挫折感は強く、苛々が募ったが、いつまでも、思い悩んでいても、仕方がない。  (迷宮に迷い込んだとき、捜査の鉄則は、原点に戻ることだ)  と気が付いたジャクソンは、たった一人、自らの足で現場に戻り、地道な聞き込み捜査をすることにした。  足を棒にしての地道な捜査から、新証言を得たのは、邸宅地を過ぎた北の町外れにある食肉加工工場でだった。  隣人からの再度の聴取で目新しい話を聞けなかったジャクソンは、署に帰るには時間が余っていたので、町の北にあるファースト・フードのレストランで休憩を取ろうと、捜査用車を走らせていたが、目指すレストランの手前に銀色のアルミニウムのパネルで作ったコンテナーの荷台が目を引くトラックが数台並んでいるのを見つけた。  それは、明らかに冷凍車だったが、冷凍した肉片が頭から離れないジャクソンは、なにかに誘導されるように、その車が並んでいる敷地内に入っていき、そこが食肉加工工場であることを知ったのだった。  そして、ジャクソンは、車を降りて、事務所に向かい、応対したブルネットのショートヘアーに笑顔を絶やさない受付嬢に、工場の責任者への面会を申し込んでいた。  「私が、副工場長のマイクル・クリプトンです」  と名乗った若い男は、ジャクソンの  「事件前後になにか変わったことはなかったですか」  との恒常的で、退屈な質問に、意外にも、  「ええ、確かにありましたよ」  と答えたのだった。  「実は、そのころ夜中に、家の工場の食肉切断機械が、誰かに使われた形跡があるのです」  「それはどう言うことですか」  「その機械は、吊るした枝肉を横にして、小さく切断して、販売用の肉の塊に切り分ける機械です。大きな円盤状のスチールのカッターが回転して、肉を切るのです。その機械は、仕事が終わる午後六時には、担当の職人がスイッチを切って、歯を綺麗にしてから、カバーを掛けて帰ることになっています。それが・・・・・・」  「それが」  「朝出てきて、仕事に掛かろうとしたときに見てみると、カッターの歯に油や小さな肉片の汚れが付いたままになっていて、床が汚れていたことがあった。係員は驚いて、仲間に、誰か動かしたのか、聞いてみたが、だれも触っていなかった。その機械は、その係員が専属で操作することになっていたから、直ちに、こちらにも、報告がありました」  「その付いていた肉片はどうしました」  「もちろん、すぐに、清掃して消毒し、処分しました。われわれの仕事は、なんいって衛生が第一ですから」  副工場長は、そう言って胸を張った。処分されては検査のしようもない、というこちらの事情など、知っているわけはないのだ。  「それでは、やはり、肉を切ったのでしょうかね」  ジャクソンは、基本的なことを、この専門家から聞いておきたかった。  「それ以外に考えられませんね。紙や布も切れないことはないが、そういう破片は残っていなかった。やはり、肉が切られたのでしょう」  「なぜ、無断で、そんなことをしたのでしょう。だれか、心当たりはありますか」  「肉を切ったのだから、肉屋かもしれない。あるいは、家畜泥棒が盗んだ肉を解体したのかもしれません。とにかく、肉の扱いに慣れた者だとは言えるでしょうな。だからと言って、心当たりがあるわけではないですが」  ジャクソンは納得した。そして、  「でも、その機械は、簡単に扱えるのですか」  と聞いた。この質問には、クリプトン副工場長がむっとなった。  「確かに、ご質問の意図は分かりますが、電源を入れてスイッチを入れれば、機械は疑いもなく動きますよ」  即座に言った答えには、抑揚がなく、不機嫌ぶりを示していた。  「夜は、警備員はいないのですか」  ジャクソンは、さらに続けて、工場の管理体制に付いての質問を続けた。  「われわれのような零細企業にガードマンを雇うような余裕はありません。情けない話ですが、簡単な鍵を壊せば、誰でも侵入できるでしょうな。そう高価な機械があるわけではないので、衛生面だけには十分な注意を払ってますが、警備はそう厳重ではありません」  副工場長は、そこまで言ってから、  「もういいだろう」  という顔をして、沈黙した。ジャクソンは、捜査への協力に礼を述べて、辞去しようとしたが、最後に、  「あのコンテナー車は、どこが管理しているのですか」  と聞いた。  「あれは、運輸部です」  その一言を記憶して、ジャクソンは、その部のある事務棟に向かった。  運輸部は、別棟のプレバブハウスにあり、ドアーを開けたすぐそこは広い運転手用の控室になっていた。ジャクソンは構わず中に入っていき、部屋の隅でトランプに興じていた男たちの後ろから、ゲームを見ていた。やっていたのは、賭ポーカーだった。小銭を掛ける安いギャンブルだが、男たちは、それでも相当興奮し、大声を上げながら、手慣れた手付きでカードを扱っていた。  「まったく、こう景気が悪くちゃあ、小銭もばかにならないよな」  ゲームに勝った男が、嬉しそうに、チップをかき集めていた。  「なんか、いい仕事はないかね。ここだけでは、食っていけないよな」  上がられた男の一人が叫んだ。  「ジェームズの奴に頼めばいいんじゃないか」  「奴の仕事は、率はいいが、やばい。それに、きついんだ。この前、横流しのやばい仕事があったらしいが、おれはやらなかったぜ」  もう一人の気弱そうな目をした小柄な男が、そう言ったあと、反省するように、首を竦めた。  「だが、受けた奴がいるぜ。おれは、知っている」  そう言いかけた中年の男が、言いかけて、口を噤んだ。後ろに、見知らぬ男が立っているのに気が付いたからだった。  その後ろに立っていたのは、今、入って来たばかりのジャクソンだった。  「ちょっと、来てくれ」  ジャクソンは、その男に小声でいった。男は、  「何だよ。いやだよ」  と拒否したが、ジャクソンが、警察のバッジを見せると、付いてきた。  男とジャクソンは、建物の外に出て、話をした。  「あちらで聞いて来たんだが、あんたは、主任のアンディー・メリルかい」  「そうだ。運転手の出勤管理をしている」  「そこで、聞きたいんだが、あんたの管理している冷凍車に、最近、変わった動きはなかったかい」  「えっ,なんで、そんなことを聞くんだ。驚くぜ」  アンディーは、本当に驚いたようだった、それは、なにかがあったという証拠でもある。  「なにがあったんだ」  ジャクソンは、性急に聞いた。  「実は、おれたちは、ここの仕事だけでは食えないので、たまに、外の仕事も請け負う。あるいは、この会社にもいろんな奴がいるから、そいつらの悪業に加担させられることもあるんだ。仕方がなくやっているんだよ。食うためにな」  とアンディーは言い訳した。  「横流しをしているのか」  「そう、おおっぴらには言えないが、本当にすこしだ。小使いにしかならないが」  ジャクソンは、この会社の無防備ぶりが気になっていたが、やはり、こういう備えの足りない会社は出入りの作業員からも狙われていた。  「それで、最近、変わったことはなかったか」  「いや、一晩だけ車を貸してくれという話があって、貸したよ」  「相手はだれだ」  「それが、変わっているんだ。携帯電話に連絡があったんだが、おれたちの仲介人の弁護士のジャームズから聞いた、と言って一晩だけ車を貸してくれ、と言う申し出だった」  「貸したのか」  「貸したよ。だって、車のナンバーを教えるだけで良かったんだ。運転席にキーを置いていてくれればいいというんだ。夜の間だけ使って、朝には帰すというんだ。こんなに、条件のいい話はない。朝になって運転席を見てみると、きちんと、金が置いてあった」  ジャクソンにはそれで、十分だった。ミセス・シュルツが、失踪した週のある日に、この食肉加工工場の肉切りカッターが何者かに不正使用され、冷凍車もだれかに予約されていたのだ。ジャクソンは、その日にちを確かめて、工場を出た。いずれの日も、ミセス・シュルツが、いなくなった週の特定の一日だったが、それは、道路作業員が木材粉砕機の稼働を目撃した日とは、三日ほどずれがあった。最後に、ジャクソンは、  「車はどのくらい走っていたかい」  と聞いた。  「それが、一番肝心だから、注意して見ていたんだが、約五十キロだった。大したことがなかったんで、ほっとしたよ」  (約五十キロか)  それはシュルツ家とこの工場を往復する距離だった。ジャクソンは捜査の展望が開いた気がした。手段・方法が当初、考えたのとは違ってきたが、たどり着いた最後の手段は変わらない。ただ、誰が、やったのかは、依然として、謎だった。ミリアン以外の犯人がいるのは、間違いないが、それが分からない。  シュルツ夫妻の人間関係に付いてのミリアンの証言を、思い出してみると、まだ、当たらずにいて、話を聞いていない関係者がいたことを、ジャクソンは、考えていた。  確か、ミリアンは、  「女房も不倫していた」  と言っていた。相手は、  「掛かりつけの歯科矯正医だ」  とも言っていた。  (たしか、ウェール街のビジネス街に開業しているユニバーサルデンティストのジェイコブソン、とか言っていた。だが、歯型の鑑定書にあったサインは、ジョージ・フォードだった。この食い違いをまだ、解明していなかった)  とジャクソンは気が付いた。  十三 歯科医院   ジャクソン刑事は、ニューワーク市のあるメンヘッテン島の最南部にあるビジネス街、ウェール街の高層ビルにあるユニバーサル・デンティストを訪ねた。この高層ビルには、銀行や保険会社、証券会社のオフィスが多数入居しており、一階ロビーの掲示板で、歯科医院のある階を見ていったジャクソン刑事は、それが、二十五階と書いてあるのを確認して、中層階行きの高速エレベーターに乗った。  ユニバーサル・デンティストの診療所は、この階の南の隅の五部屋を占めていた。フィイス街の小さな診療所を予想していたジャクソン刑事は、その意外な大きさに、驚いたが、受け付けで、小柄でキュートな金髪の受け付け嬢に案内を乞うと、受付嬢は、  「ジェイコブソン先生は、お辞めになりました」  と瞬時に答えた。  「では、ジョージ・フォード先生を」  と言うと、  「すこし、お待ち下さい」  と言って、インターフォンの受話器を取った。  「お会いになるそうです。中に入ってお待ち下さい」  受付嬢は、丁重に言い、先頭に立って、待合室に案内した。  待合室は、南側に大きなうす青色のガラスのウインドーが張られて、遠くに海が見えた。近くには、貨物船が停泊している埠頭があり、港を先に辿っていくと、小さな島があり、その島には、右手にトーチを掲げた大きな女神の像が見えた。  ジャクソンは、部屋に並べられている長椅子には座らず、窓際に立って、その素晴らしい風景を見つめていた。明るい外の風景を見ていると、急に心が安らいできて、煙草を吸いたくなった。だが、彼は禁煙を続けていたから、煙草を持っていない。仕事で緊張しているときに吸いたくなるのが、普通の愛煙家なのだろうが、ジャクソンは、逆だった。むしろ、仕事の打ち込んでいるときは、煙草を忘れることができた。ふと、安堵感が兆したときに吸いたくなることが、これまでも、度々あった。そういう時には、紙巻き煙草ではなくパイプを吸うことに、ジャクソンは決めていた。その用具は、家に置いてある。原則的に、仕事中にそういう気持ちになることは殆どなかったから、それでいいのだった。  だが、今は違う。こういう、この町の雄大な風景を見ていると、ジャクソンは、多くの人々の悲しみや苦しみや喜びや嬉しさを大きな体に包み込んで、ダイナミックに動いているこの町の警官をしていることに、魂が揺さぶられて胸が熱くなることがある。このとき、ジャクソンはそういう感慨に囚われていた。  ジャクソンが,数分間の感慨に浸って、室内に目をやると、片隅に、牛革のジャケットを着てジーンズを穿いた、この町には不似合いな格好をした中年の男が座っているのに気が付いた。後ろ姿だけなので、よくは分からないが、口髭も伸ばしているらしいのが、時おり、横を向く顔を見ていて分かった。その口から、旨そうに紫煙が香って、上に昇る。男は、シガレットを吸っているのだ。そして、煙を吹き上げては、手にしたカーボーイハットで煽るのだ。  漂ってくる香りと煙に我慢ができなくなったジャクソンは、男の方に近付いていって、話しかけた。  「虫歯ですか。随分、待たせますね」  ジャクソンが、愛想よく話を向けると、男は、  「いや、診察ではないんです。歯は至って丈夫でしてね」  とぶっきら棒に答えた。  「すみませんが、一本戴けませんか」  「はー。ああ、煙草ね。いいですよ」  男は、胸のポケットから、赤いポール・モールの箱を取り出して、中から一本取り出し、ジャクソンに渡した。ジャクソンは、早速、口に含んで男が火を点けてくれたジッポのライターの炎に先を持っていった。すぐに、火が付いた。ジャクソンは、最初の一服を吸い込んだ。実に旨い一服だった。  「ああー、旨い。落ちつきました」  ジャクソンが素直に礼を述べると、男は、  「やはり、治療前は、落ちつきませんか」  と聞いてきた。  「いえ、私も、治療ではないのです」  ジャクソンが、そう答えると、男は、ジャクソンの全身を見回してから、  「ご同業のようですな」  と言い、  「私は、メリーウッドの保安官でハドソン・ウオードと言います、ある殺人事件の捜査で、ここの経営者に会いにきたのです」  と続けた。ジャクソンは、  「さすがに、お目が高い。私も、ある殺人容疑事件の捜査で人に会いに来ました」 と言って、名を名乗った。  「ところで、その相手は」  「ジョージ・フォードという歯医者ですよ」  「私も」  そのとき、あの金髪の受付嬢が、  「ウオード様、どうぞ」  とその中年カーボーイに、別室の会見室への入室を案内した。    その部屋は、廊下を隔てて反対側にある個室で、保安官が入っていくと、長身のやせ型の男が待っていて、  「どうも、お待たせしました」  と握手を求めてきた。保安官も形式的に男の手を握り返した。  男は深い背もたれの付いた一人掛けの椅子に座っていたが、右足に大きなギブスをした足が不自由そうだった。ウオード保安官は、  「おや、どうされたのですか、その足は」  とまずは、男の異状について、紋切り型の問を発してみた。歯科医は、  「いや、日曜大工をしていて、屋根から落ちましてね」  と平然として答えた。  保安官は町のフォード歯科医院の建物を思い出してみたが、そう手入れが行き届いている様子はなく、この男が嘘を付いているのは明らかだった。日曜大工の痕跡もないのだ。  「ところで、失踪された奥さんですが、身元不明の白骨死体の特徴が、一致しましたよ。ほぼ、間違いなさそうですが。まだ、心当たりがありませんか」  保安官は、男の嘘を問い詰めなかった。ここで、そのことで時間を費やしている暇はない。  「心当たりとはどう言うことですか。私は、妻が失踪したという届けは出しましたが、殺されていたかどうかについては、何とも言っていませんよ」  「ですから、心当たりがないか、聞いているのです。殺されるような事情がなかったどうか。あるいは、事故に会ったのかもしれないが、遺体の状況からはとてもそうは思えないのです」  「なにしろ、妻は、失踪してから、なんの連絡もしてこないのですから。この前は夫婦仲が良くないと言ったが、それだけで失踪したとは思えない。なぜ、いなくなったのか、どこに行っていたのか、それを捜査してもらいたくて、届けを出したんですよ」  フォード医師は、不満そうに、保安官を見た。  「喧嘩をしていたのは、間違いないんでしょう。だから、私達はあなたを最初に疑った。いまでも、疑いは晴れていない。むしろ、深まっています」  「でも、証拠がないのだろう」  「残念ながら、そうです。ただ、あなたはエリザベスが、三人目の妻で、これまでに二人の妻を亡くしている。多いとは思いませんか」  「そうは、思わない。むしろ、同情されるべきだろうな。こんなに不幸な男はいない。世の中に、次々と配偶者を変える男は多いだろうが、それは、離婚でだ。私の場合は、みな、死に別れなのだから。その度に辛い思いを味わってきた」  ジョージは、下を向いて、表情を曇らせた。  「でも、それが、われわれには、気にかかるのです」  保安官は冷静に追及した。  「でも、みな、病気で死んだのだ。なにもおかしなところはない。不幸が次々と襲ったのだ」  医師は右足を摩りながら言った。  「それについては、同情しますが、腑に落ちない点が多いのですよ。普通に暮らした家庭の主婦が、突然失踪して、白骨死体で見つかった。しかも、頭や胴体に手足は見つかっていないのです。腰から下の部分だけしか見つかっていない。多分、死体を切断したのでしょう。ですが、その骨があなたの奥さんであることは、九〇%は確実だ。奥さんは殺されたんです。これは、間違いない。何か争いごととか、お金の問題とか、殺されるような理由はなかったのですかね」  「私は、なにも、ないと思いますよ。家のことも良くやってくれていた。ただ、細かいことで意見が会わなくて、よく喧嘩をしていたが」  「あなたとですか」  「そうです。そういう時は、いつも、妻が逃げていた」  フォード医師は意外なことを告白した。  「逃げていったというと、どこにですか」  「娘のアパートです。でも、一晩もすると、必ず、帰ってきていましたがね」  「ああ、先日聞いた、娘さんの所ですね」  「ええ、この市内で独り暮らしをしています。二人は血の繋がりはないのに、仲がよくて、話が合ったようです」  保安官は、事件捜査で最初にフォード歯科医院を訪れた時に聞いた娘のことを思い出した。  「ここの近くに住んでいて、あなたは会ったりしないのですか」  「そう、滅多にね。すでに、成人しているし、出ていった娘ですから、そう干渉したくはない。それに、私を嫌っていますから」  「娘に嫌われるとは、父親としては悲しいですね」  「たしかに、でも、私も仕事が忙しいですから、なかなか、会う時間も持てない。大きくなれば、そんなものですよ」  子供のいないウオード保安官には、身に染みては、分からない話だった。  「そんなことを聞いているより、早く、犯人を探してくださいよ。私も、いろいろと忙しい。他に話がなければ、これで」  歯科医は立ち上がり掛けた。そのとき、ギブスをした右足が、長椅子の足に引っ掛かり、躓いて、前に倒れかかった。保安官がそれを見て、支えようと手を伸ばしたが、遅かった。歯科医は、倒れようとした体を支えようとして、両手を伸ばしたが、右手が床に着いたときには、すでに体が落ちて、したたかに胸を打って、悶絶した。  保安官は驚いて、床の上にうつ伏せになった歯科医を抱き起こし、仰向けにさせて、屈した膝の上に歯科医の頭を乗せて、揺すったが意識は戻らなかった。保安官は、動転して部屋を飛びだし、診察室の方に飛んでいって、中に居た数人の女性の助手たちに助けを求めた。  彼女たちはすぐに、応接室に駆けつけて、フォード歯科医を抱き起こし、診察室に運んで、ベッドの上に寝かせた。だれかが、救急車を呼んだ。歯科医院には、内科や外科の救急医療の設備はない。とにかく、酸素吸入をして、薄れがちな呼吸を助け、安静にして様子を見るしかなかった。  その間、保安官は、この職員たちに処置を任せて、彼らの仕事の邪魔にならないようにしていたが、いつまでも、ここにいても意味がない、と考えて、先程の、待合室に戻った。  そこでは、さっき、挨拶した刑事が、次の面会の順番を待っていた。  「お目当ての先生には、お目にかかれそうにもありませんよ」  保安官は、同情の気持ち込めて、この同業者に話しかけた。  「一体、どうしたんです」  「倒れてしまった。私との話が終わった途端に、立ち上がろうとして、躓いて」  「それで、今は」  「あちらの、診察室で寝ていますよ」  「では、会うのは無理かな」  「そうでしょうね。出直したらどうです」  「でも、なぜ、そんなことになったのですか」   ジャクソンは、屈強な体付きをしている保安官を見た。  「いや、私はなにも手出しはしていませんよ。転んだのです。右足にギブスをしていましてね。なんでも、日用大工で屋根から落ちた、と言っていた。私は信じませんが」  「そうではないのですか」  「そんなことではないでしょう。もっと、重大な事故に会ったのだと思いますよ。たとえば、撃たれたとか」  「撃たれたんですか」  「そう、銃でね」  話は、そこで止まった。  「しかたない、では、出直しますか」  ジャクソンは、今日の面会を諦めてそう言った。  「そうですな。私は、これから、回るところがあるので、失礼します」  「そうですか。でも、私は署に出ますので、そちらの方なら車で送りますよ」  「どうも、有り難う。私が行こうとしているのは、ここですが」  保安官は、小さなメモをジャクソンに見せた。ジャクソンは、それを見て、驚いた。  「おい、これは、アネット・フォードのアパートの番地じゃないか」  「アネット・フォードというと、あの歯科医の娘の名前だ」  「そうだよ。殺されたんだ」  「なに、殺された」  「そう、銃撃されてね」  「銃撃か」  「そういえば、フォード医師は、足に怪我をしていたが、あれは、銃によるものではないかな」  保安官は、頭をフルに回転して考えていた。  二人は、駐車場から車を出して、五番街を北上した。  「殺されてしまったのなら、行ってもしかたがないだろう。現場はどうなっているんだ」  助手席に座った保安官が聞いた。  「そのまま、保存してあるが、そろそろ、解除しないといけない。殺しだけでなく、薬物の捜査があるので、死体の搬出後はそのままになっているはずだ。だが、もう片がついたころだろう」  「それなら、その話を含め、ちょっと、話し合いをしたほうがいいかもしれないな。こちらの事件とあんたの事件の接点がないことはなさそうだから」  保安官は情報のすり合わせをしたいようだった。  「よし、分かった。なにかが、どこかで,繋がっているかもしれない。そろそろ、昼飯時だから、食事でもしながら話をしようか」  ジャクソンは、車をブロードウエーのイタリア料理のレストランの前に止め、保安官を降ろして、一緒に、店の中に入っていった。   十四 大 金  ウィリアム・ゴードンは、エミー・ブレアとの「一戦」を終えて、ベッドに寝ながら、旨そうに葉巻を吸っていた。禁煙家のゴードンだが、この夜は、無性に煙草を吸いたくなり、ベッドサイドのテーブルの引き出しに「万一の時」にと、仕舞っておいたハバナ・葉巻を取り出したのだった。事のあとの気だるさのなかで、エミーは、腹這いになって、頭だけをゴードンの方に向け、右手で彼女の最良のセックス・パートナーのすこし膨れだした腹の上をなぞっていた。  「ねえ、何を考えているの」  「うん」  「いくら考えたって、下手な考え休みににたりでしょう」  「そうかな。おれも、あんな大金を手にしてみたいと思ってね」  「なんだ、お金のことを考えてたの。馬鹿らしい。お金なんて、あるところには、幾らでもあるわ。その代わり、無いところには、全然、無いけどね」  「天下の回りものだからな。しかし、人の世は金次第だ、という考えもある。そのために、人殺しをする奴もいる」  エミーは、ゴードンの腹の上から、指を離して、裸のままの全身を凭れかけてきた。ゴードンの胸を豊かな二つの乳房が圧迫して、苦しい。  「この胸毛で擦られると、気持ちがいいのよ。いつものデザートね」  ゴードンは、伸しかかってきたエミーの背中に両手を回し、腕に力を入れて、エミーの体を引き寄せ、自分の胸に密着させた。  「そのユニバーサル・デンティストという歯科医院は、なぜ、そんなに金を持っているんだ」  「さあ、私達はお金の出所までは聞かないからね。でも、医者って、あんなに儲かるものとは思わなかったわ。今日は、三百万ドルの入金があったけど、先月も、同じ位入っていたわ。毎月その位ずつ、口座に入るんだからね。どういう商売をしているのかしら。あんたも、あれくらい稼げれば、いつまでも、こんなことしてなくてもいいのにね」  「なんだ、こんなことって」  「私のような女といつまでも、腐れ縁でいなくて済むってこと」  「なに、いやなのか、こうしているのが」  「そうじゃないわよ。あたしも、幾らかおこぼれに預かって、さっぱりした関係になれるってことよ。どこか、暖かいところで、のんびり暮らすこともできるじゃない」  「夢のような話だな。その歯医者をやっているのはは、なんていう奴だい」  「代表は、ジョージ・フォードとか言うんじゃないかな。たしか、そう書いてあったわ。伝票を見たかぎりでは、そうだとおもうな」  「なに、その名前は、おれも、見たことがある。そうか、すこし、謎が見えてきたぞ」  「なによ、それっ」  「ちょっと、聞きたいんだが、保険というのは、受取人が出向かなくても受け取れるのかな」  ゴードンの問に、エミーは、乗り掛かっていた豊満な肉体を離してから、  「できると思うわよ。保険会社は書類さえそろっていれば、払うわよ。その前に、一応、調査はするでしょうけど、それは、余程怪しい場合ね。警察の証明書とか死亡診断書があれば、大体すんなり、払うと思うわ」  「その支払いは現金か」  「そうとも限らないでしょう。口座振込だって大丈夫。指定の口座に入金できるのよ」  「便利な時代だ」  「そんなの普通よ。私なんか、そんな仕事ばかりだから、大金も数字の行列にしか、見えないもの」  ゴードンは、エミーがのしかかってきた時に、サイドテーブルの灰皿に置いておいた葉巻を再び、口に含んで、大きく一服した。  「なにか、役にたったかな。探偵さん」  エミーがゴードンの顔を覗き込んで聞いた。  「そうだ、大金だな。やはり、金目当てなのか。その歯医者がなにをしたかは知らないが、まっとうに稼いだ大金ではないだろうな」  ゴードンは、そのジョージ・フォードという名前があった、アネット・フォードのフロッピー・ディスクに、ミリアン・シュルツやテリー・シェルイドンの名前もあり、その保険が列挙されていたことが、気になった。  (このアネット・フォードは、なにをしていたのだろう。そして、ジョージ・フォードとの関係は)  ゴードンにはまだ、調べなければいけないことが、沢山残っていた。  エミーが、一戦を終えて、萎えたゴードンの下半身を丁寧に口で愛撫したので、その部分は、再び、勢いを増した。エミーは、それを確かめてから、自分の潤った下半身の部分を、当てがって、上から沈む込むように、腰を落とした。ゴードンのその部分が内部に入ったのを、感触で知って、エミーは、  「ウウー」  と声を漏らし、目を瞑って、天を仰いだ。ゴードンは、ただ、静かに横たわっていたが、エミーは、緩慢な腰使いで円を描くように下半身を動かして、一番、感じる部分を見つけて、  「ここが、いいわ」  と歓喜の溜め息をもらした。ゴードンはエミーのしたいようにさせておいた。  エミーの内部から愛液が漏れてきて、ゴードンの陰毛を濡らした。エミーの腰使いに合わせて、ゴードンにも、快感が突き上がってきた。ゴードンもハーモニーを奏でようと、下半身の動きを合わせ始めたとき、ベッドサイドの電話が鳴った。  「おい。お楽しみかな」  電話の相手は、やはり、ジョクソン刑事だった。  「すっかりお見通しのようだな」  ゴードンは、応対の仕方は心得ていた。  「面白い事がわかったぞ」  「なんだい」  「あのあんたが、ミリアンの女だと言っていたアネットだが。そう、あの射殺された女だ。彼女は、ジョン・ベネットが通っていた矯正歯科医の娘だよ。これで、二つの事件が繋がったろう」  「二つの事件って]  「ああ、そうか、二つじゃないな。三つだな。実は、メリーウッドで見つかった女の白骨死体事件があるんだが、その被害者が、あの歯医者の妻らしいんだ。あっちの保安官と、歯医者で一緒になってね。詳しい話を聞いたんだが、そういうことだ。だから、その事件とミセス・シュルツの変死と、アネットの射殺は、密接な関連がある」  「どういう関連だろうな」  「今のところは、同じ人物が絡んでいるということぐらいしか、分からんが」  「フォード歯科医が、ミセス・シュルツが通っていた歯医者だっていうことだけだろう」  「この町に、歯医者は多い。だが、この歯医者が撮っていた歯形の写真が、身元不明の被害者確定の決め手になったんだよ。しかも、その歯医者の娘が、夫のミリアンと交渉を持っていたんだ。これが、偶然と思えるか」   ジャクソンの声は弾んでいた。  電話の話が始まってから、ゴードンの下半身は、すっかり元気をなくし、一度入り込んだ心地のいい環境から抜け出して、縮こまっていた。エミーは、舌打ちしながら、体を離し、ゴードンの脇に横になって、目を閉じていた。   「だが、そこまでしか、分からんのだろう。どうしようもないな」  ゴードンはアネットの家で手に入れたフロッピーのことは、話さなかった。ここはジャクソンの捜査の進行ぶりを確かめてから話をしてもいい、と思っていた。  「おれは、ミリアンもフォード医師を知っているのではないか、と思う。ミリアンは、歯医者が妻の浮気の相手だ、と言っていたんだ。そこまで、知っているんだから、名前も知っているのだろうに、違う名前を教えた。そこが、臭い」  「そうだな。会ったこともあるかもしれないな。その歯医者に会ってきたんだろう。その話をしなかったのか」  「ところが、奴は、怪我をして、意識を失ってしまった。詳しい話はできないが、会わなかったんだ」  ジャクソンは、いかにも、残念そうな口調だった。  「怪我をしたって、どうして」  「足を躓かせて、床で胸を打った」  「なんで、足が躓いたんだ。どこも悪いところはないんだろう」  「ところが、先に会っていた保安官の話では、右足にギブスをしていたんだそうだ。それで、歩行が困難だったんだ」  「右足か。なんで怪我をしたんだろうね」  「大工仕事だと、言っていたらしい」  「おかしくはないか」  「これも、保安官の話だが、奴の家は荒れ放題で、こまめに手入れをしているようには思えない、と言うんだな」  「なんか、おかしいんじゃないか」  「だから、電話したんだよ。お楽しみの所を申し訳ない、とは思ったがな」  エミーは、痺れを切らして、下着を付けて、キッチンの方に行った。喉が乾いたらしい。  「実は、申し訳なかったんだが、アネットのアパートから、ちょっと、失敬したものがあるんだ」  「またやったな。そういうことをされると迷惑だ、といつも言っているだろう」  ジャクソンは詰ったが、その言葉には刺がなかった。むしろ、ゴードンの次の言葉を待っているようだった。  「パソコンのフロッピーを一枚、貰ってきたんだ。そうしたら、面白いデータが入っていた」  「そうか。なんだよ」  「シュルツ夫婦と、フォード一家と、それから、一家四人惨殺事件のシェルドン一家の掛けている保険の一覧表だ」  「なんだい。それ」  「おれにも、分からん。アネットが、そういう情報をコンピューターに入れて、見ていたということだ」  「なんの積もりだろうな」  「いずれも生命保険だから、人の生と死が絡んでいる。死ねば手に入る、という金の情報だから」  「アネットがそれを計算していたということかな」  「そう見ていいだろう。自分で目的があってか、誰かの指示かは不明だがね」  「なんか、幾つもの事件が絡んでいるようだな。ところで、そちらの絡み合いは終わったかな。水を差してしまって、悪かった」  「いや、何時ものことだよ。お楽しみは、またの機会に、ということだ」  ゴードンは、達成感がないままのエミーとの行為を、本心から悔いていた。  「全く、迷惑なジャクソンの電話だ」  と罵りながらも、ミリアンとフォード医師と、それに、テリーとアネットとの関係をもっとよく、調べないといけない、と考えていた。    十五 水族館 ウィリアム・ゴードンは、マリリン・シェフィールドと新港埠頭に最近オープンした水族館に来ていた。ゴードンが、マリリンのくれた電話番号に電話し、会いたいと言った時、マリリンが、  「探偵さんとなら、水族館に行きたいわ」  とねだったのだった。  マリリンは、何時もとは違う淡いパウテルカラーのグリーンのミニスカートに、NBAのマークが入ったティー・シャツ姿というラフな格好で、待ち合わせ場所の正面ゲートに現れたが、長身に小柄なめりはりの聞いた顔が乗った姿は、さすがにモデルだけに、他の人とは違って見えたので、ゴードンは、すぐに分かった。  「水族館とはまた、面白いところにしたね」  それが、ゴードンの最初の挨拶だった。  「私、水族館は大好きなの。悲しいことや嬉しいことのあったとき、いつも私は、姉と二人で動物園の水族館に行って、魚を見ていたわ。青い水の中を、ゆったりと泳いでいる魚たちを見ていると、心が空っぽになって、気持ちが安らぐの」  マリリンは、町で見たときより、ずっと、素直で可愛い女性に見えた。  「今日は何を見たいんだね」  「なにをって、決まってないわよ。ただ、あなたのような人と、一緒に来てみたかっただけ」  「どうして]  「あたしのことを疑っている人が、私をどう思い、何を言うか気になるしね」  われわれは、チケット売り場で、二人分の入場券を買い、中に入っていった。  最初の水槽は、淡水魚のコーナーだった。アユやサケが渓流をイメージしたジオラマの中を泳いでいた。  「サケは、思白いのよ。川で生まれてから海に出るでしょう。それから、五年間くらい大洋を回流して、生まれた川に戻ってくる。それが、サケの遡上ね。絶対、生まれた川を間違わないで上ってくるのよ。そして、産卵してすぐに、死んでしまう。それが、サケの一生ね。それだけが、生まれてきた意味なんだから」  「単純で、ハッキリしている」  「人間も、そういう風に単純な人生なら、悩み事は少なくなるわ」  「そうかな。それなりにしんどいよ」  次の展示室には、大きな海水魚の回遊水槽があった。目の前に大きなガラスのウインドウがあり、その中の流れのある水中をイワシやサンマやタイやアジが流れていた。底にはタコやカレイやヒラメがいた。イソギンチャクやヒトデも動いていた。  「これは、海の中を再現しているんだな」  「そう、でも、人工的な空間だから、入れられた魚の寿命は短いのよ。一年も生きられない」  「じゃあ、この魚たちは、すぐに死んでしまうのか」  「海の魚は、海の中にいるのが、一番なのよ。生物はそれぞれに住む場所というのがあるんだと、思うわ。彼らがこに居るのは、本当は間違っているのよ」  ゴードンはマリリンの説明に、一々頷いていた。だから、それに託して、聞いてみたかった。  「あなたの住む場所は、快適ですか」  「そうね、今はね。でも、姉に比べれば、ということかもしれない」  「お姉さんは、快適ではなかったんですか」  「だって、あんな目に会ってしまたったのよ。幸せとは言えないでしょう」  「ですが、僕が、見かけたときは、幸せそうだった」  「見かけたって、どこで」  「実は、皆さんが元気なときに、お宅に伺ったことがあるんです。みなさんで、庭に出て、バーベキューをしていた。楽しそうでした」  マリリンは、そのことを聞いて、すこし、考え込んだ。  「それは、ここの魚だって、餌をやるときには、飼育係に群がるでしょう。だからといって、幸せとは言えないでしょう」  「そうだな。魚にも本来の住む場所がある」  「姉も住む場所を求めて、必死に努力したんでしょうけど、最後まで、行けなかった。私と過ごした子供ころが、一番、良かったのかもしれない」  「子供のころから、仲が良かったのですか」  「それは、とても。年は違っていたけど、双子のようによく似ていたから。やることはすべて、一緒でした。高校まで同じ学校だったし、あたし、姉のお下がりを着ていたんです。それが、苦ではなく、むしろ誇りだった。姉は私より、勉強もできたし、美人だった。ハイスクールでは、ミスにも選ばれたんですから」  ゴードンはテリー・シェルドンの家の応接間で見たメアリーの顔を思い出していた。  水族館の次の展示は、湖の生き物のコーナーだった。部屋の真ん中に、大きな湖の模型が置かれていて、その丸い水槽が横から見れるようになっていた。  中には、マスやバスなどの魚がゆっくりと泳いでいた。  「このブラック・バスはげて物食いで何でも食べる。汚水から流れこんだビニールまで、口にして死ぬときがあるんです。でも、それだけ繁殖力は旺盛で、どんな環境にも適応してしまう。日本の東京の近くに箱根という山塊があって、その奥にアシという湖があるんですが、そこにも、アメリカから持ち込まれたブラックバスが大量に繁殖しています。いまでは、ルアー釣りのゲームとして持て囃されていますよ」  マリリンの魚の知識は、本物だった。 ゴードンはそれをきっかけに、質問した。  「日本に居たことがあるんですか」  「ええ、父の勤務の都合でね。父は職業軍人で、情報関係の仕事をしていた。ザマという東京の近くの基地に本部があって、そこで、電波の傍聴をしていたんです」  「そうですか。じゃあ、家族皆一緒に、日本にいたのですか」  ゴードンは意外な事を聞いた気がした。  「だから、私たちは、基地のなかの学校に行ったのです」  「いつごろですか。ベトナム戦争は終わっていたのでしょう」  「そう、だから、軍関係者はみな、元気がなかった。でも、若い私達には、関係なかったですが」  「お姉さんも、当然、一緒に行ったんですよね」  「そう、それで、テリーと出会ったんですよ」  「えっ、テリーは何をしていたんですか」  「保険会社の駐在員で、大使館のダンス・パーティーで知り合ったのです。最初は私を誘ったのに、お姉さんにとられてしまった。だから、私が、橋渡ししたようなもの ですわ」  次のコーナーは、様々な水棲生物の生態が展示されている部屋だった。珊瑚と一緒に生きるクマノミという寄生生活を送る魚がいた。  「私、この魚のような生活をしている」  マリリンが、寂しそうに呟いた。そして、  「ミリアンと出会ったのも、東京だったんです」  と呟いて、ゴードンの瞳を見た。  ゴードンはその視線を外しながら、聞いた。  「ミリアンは、何をしていたんです」  「海兵隊員でした。沖縄に駐留していた海兵隊の特殊部隊に配属されたばかりのころでした。休暇で横須賀に上陸して、六本木に遊びに来ていたときに、私たちは知り合ったんです」   「そうですか。じゃあ、昔からの知り合いだったんですね」  「いや、出会ったときの話をしただけです。ディスコで踊っていたときに、ぺアを組んで、朝まで遊んだだけですよ」  「たったそれだけのことですか」  「そう。それが、一ヵ月ほど前に、この町で再会したんです」  「そういうことは、この町では、しょっちゅうある。この町はそういう町ですよ」  「私は、こういう商売をしていて、相手はミュージシャンになっていた。あのころは、私はハイティーンでミリアンは駆けだし水兵だった。すっかり関係が変わっていたわ」  「でも、付き合ったんだろう」  「嫌だったけど、仕方がなかったわ。ミリアンは、昔が忘れられなくて、しつこかった。私が、もうすっかり変わってしまっていたのに、彼は気が付かないようだったのね」  「それなのに、なんで、付き合っていたんだい」  「それは、姉に言われたからよ。夫のためにもそうしてくれって」  マリリンは、さりげなく、言ったが、ゴードンには、重大な証言だった。  (ということは、ミリアンとメアリーとテリーが、いずれも知り合いということではないか。全てが相互に関係しているのだ)  ゴードンは、そう気が付いて、  「じゃあ、テリーは、ミリアンを知っていたのか」  と聞いていた。  「もちろん、そう、お友達だったのよ」  マリリンの返答は、またも、素っ気なかった。    十六 家宅捜索    ハリソン・ウオード保安官は、郡警察の係官とともに、ジョージ・フォードの自宅兼歯科医院を家宅捜索した。その一番の目的は、エリザベス・フォードの殺害と遺体処理の物的証拠を得ることだったが、最近になって経営を拡大したフォード医師の資産の調査も、視野に入れていた。その羽振りのよさが、何ゆえなのか事件解明の背景にある、と考えられたからだ。  もちろん、フォード医師を殺人・遺体損壊および遺棄犯人とするには、多大な困難があった。最大の証拠は本人の自白を取ることで、その供述に基ずいて物的な証拠を集めるのが、最も効率的だが、医師は不測の怪我で、緊急入院してしまった。今のところ、当人に事情を聞くことは置いておいて、その時のための物証を得るほうが先だ、という判断があった。本人が不在だということも、家宅捜索の着手を容易にするはずだった。  中型のトラックを従えて、フォード医師宅を訪れた捜査陣は、一階の診察室、二階の事務室、三階の自宅と裏の納屋などを徹底的に捜索した。主に、書類が押収されたが、エリザベスの白骨死事件の捜査が主目的の保安官は、腰骨に刻まれていた細い溝を加工したと見られる道具の発見に焦点を絞っていた。  だから、保安官は、母屋の捜索は、郡警察に任せて裏の納屋の捜索に神経を集中した。納屋には、簡単な家屋の修理道具や農作業機具が収まっていた。フォード医師は、右足の怪我を、  「家の屋根を修理していて、傷つけた」  と言っていたが、屋根にそういう手入れをした痕跡が、あまり見られないのに比べ、一応の道具類が揃っているのは、医師には最低限、その意思だけはあった、と伺わせるに十分だった。ただ、梯子はあったものの、短く、そのままでは、高い屋根に届かないのでは、と思われた。また、鋸やハンマー、こてや槌が壁に掛けられていたが、いずれも、錆びついた古い昔の道具で、最近使ったような形跡は見られなかった。  保安官は、鋸の類を重点的に探していた。壁には糸鋸が数種類掛けられていた。また、木材を切る長い鋸も何種類があった。保安官は、それらを全て段ボール箱に詰め込んだ。だが、それらはいずれも、木や金属を切断するときに使う、かなり大雑把な道具類で、保安官は、それらの道具では骨の細かい加工は無理だ、という気がしていた。  納屋の最奥部には、使い古しの古い診察台が放って置かれていた。どっしりとした鉄の骨組みに塗られた黒い塗料が剥げ、椅子に張られた革も破れて穴が開いていた。診察台に取り付けられた治療具やそれに繋がった回転ワイヤーも錆びついていて、使えようもなかった。保安官は、その診察椅子を押収するのは諦めた。簡単には運び出せないくらいの重量があったし、これほど古い機械は、すでに使用できない、と考えたからだ。ただ、モーターに繋がった治療器具が、どういう形で、どういう風に動くのかは、目で確認することができた。モーターの回転をワイヤーで長く伸びた腕の先端に伝え、その先に付けた各種の治療具で歯や骨を加工できるのは、明らかだった。  細かい道具を念の為に押収したあと、保安官は、二階への階段を上がっていった。そこには、一階と打って変わって、買ったばかりのような真新しい大工道具や工具が整然と並べられていた。梯子もスチール製の折り畳み式の長いもので、壁には手に持つところが赤いビニール樹脂で覆われた銀色に光る新品の道具が並んでいた。奥に棚があり、その上には青いプラスチックのバケツなどの容器が幾つか置いてあった。  保安官は工具箱を幾つかを開いてみたが、それらは、いずれも、電動モーターで動く最新式の工具だった。棚の右隅には、持ち手の部分が黄色く塗られた小型のチェーンソーがあった。普通の木材を切り倒すチェーンソーは、ガソリン・エンジンで動き、駆動音も大きかったが、そこにあったものは、それに比べてひとまわり小型で、後部から電源コードがでていることから、電動式のようだった。  保安官は、それらの工具も全部押収した。いちいち、その一つ一つを稼働状態にして、白骨死体の溝の形が切れるかどうか、試してみるつもりだった。それは、また郡警察の方針でもあり、保安官はその方針に忠実に押収作業を続けていたのだった。  家宅捜索は、まる一日がかりだった。それほど、徹底的に内部が調べられ、多くの書類や物が押収された。その量は、トラック一台では足りずに、何回か警察署とを往復して、証拠物が搬出されていった。  保安官が担当していた納屋からも、多量の物品が運び出されたが、細かい物が少なかったので仕事は順調に捗り、日が落ちるころには殆どの作業が終わっていた。    最後の荷物を運び出して、納屋の外に出ようとしたときに、保安官の携帯無線機が、急報を告げた。  「聖マリア教会からの緊急通報です。チャペルの地下に、不審な男の死体があるのが見つかりました。現場に急行してください」  その声は、聞き慣れた通信司令室のベテラン女性、マリッサのよく通る声だった。  「なんだって、教会に死体があるって」  保安官は、また、厄介な事件が起きた、と唇を噛みながら、  「オーケー、マリッサ、了解した」  と無線機のマイクに向かって言っていた。  保安官は、道路際に止めておいたパトロールカーに乗って、エンジンスターターのキーを回した。おんぼろだが、良く働く89年型ポンティアックは、ブルルンと、あまり、円滑でない回転を始めた。保安官は、泥で汚れたアクセルペダルを踏み込んだ。  聖マリア教会に、人影はなかった。ただ、奥のチャペルには、信者と思われる数人の男が屯していて、到着した保安官を出迎えた。  「どうしたんだ」  人の群れに近付いて、保安官は、誰に聞くともなく聞いた。そこにいた男たちは、みな顔見知りだったから、とくに誰をということなく、質問することができた。  「はい、この地下の告悔室の入口の部屋に男の死体があるんです。おれたちが、今日の祭礼の用意で、小物を探しに部屋に行って見つけたんです」  「そうか。それで、死体はどうした」  「そのまま置いてありますよ。なにはともあれと、緊急通報したんです」  「行ってみよう」  保安官は、案内されて室内に入っていった。チャペルには、その日の集会の準備がすっかり整い、人々が集まっていた。  「今日は何の集まりなんですか」  「在郷軍人会のチャリティーです。海外の戦いで負傷して帰国してからも、心身に重大な損傷を受けている人が、この国には大勢います。それらの人達にすこしでも役立てばと、毎月開いているんですよ」  先導している小柄な老人が説明した。  階段を降りていくと、右手に沢山の小部屋が並んでいる部屋があった。それぞれの小部屋には、人一人が入れる扉が付いていて、その中は、小さな空間だった。そこで、信者たちは、それぞれの生活の中で起きた悩み事や罪悪や後悔を告白、懺悔し、心の重荷を解き放つ。そこは、まさに人の生の悪魔と神の癒しの共存する空間だった。  死体があったのは、その小部屋が並んだ空間に入る入口から、さらに奥に行った倉庫のような場所だった。中には、儀式で使う様々な用具が収められていて、天井の上まで、荷物が積み上げられていた。その中央部の床の上に、男の死体があった。  死体は、うつ伏せに倒れ、首の横に貫通した銃撃の後が見えた。後頭部の右下の頸部に穴が開いていて、血が吹き出ていたが、すでに傷口は固まって黒く変色し、死後の時間の経過を伺わせた。  背中にも一発、撃たれた痕が見えた。男は茶色の牛革のジャケットを着ていたが、銃撃を受けた部分に、火山のクレーターのように窪んだ痕跡があり、その真ん中に穴があいていた。  「二発撃たれているな」  保安官は、遺体を引き上げて、顔を見た。このあたりでは、見かけない顔だった。ただ、丸顔に長く伸ばした口髭が特徴で、太い眉毛も印象的だった。目は閉じているから生前の印象は、違うだろうが、何処かで見たことのあるような気がした。  男は、手には何も持っていなかった。両手は、開かれていて、何かを掴もうとしてるようだったが、ただ、断末魔に開かれただけかも知らない。  保安官は、衣類を探った。ジャエットの外ポケットからは、ビニール袋に入れられた白い粉末が見つかった。五袋分あり、外見では覚醒剤がヘロインのようにみえたが、鑑識の検査に回せば全て分かるだろう、と考えて手袋をした手で扱ったあと、自分のジャンパーのポケットに仕舞った。  (後ろから、二発撃たれたのが死因だろう。自殺ではない、事故死でもない。他殺だ)  と結論して、保安官は、また厄介な仕事を背負いこんでしまった、と嘆息した。  ジャクソン刑事は、市警本部の刑事部屋で、ジョージ・フォードからの聴取をどう進めていくべきか、考えていた。彼は体に怪我をして、緊急入院してしまった。いまのところ、面会はできるが、事件の事情聴取をするとなると、ある程度の纏まった時間ときちんとした施設が必要になる。病院で行うより、やはり、警察に呼んで話を聞いたほうがいい。ウオード保安官によれば、フォード医師は、右足に怪我をしているという。アネット・フォードが、襲われて射殺された時、ジャクソンは犯人を追跡して、背後から射撃し、そのうちの一発が右足に命中していたはずだった。  ジャクソンは、まだ、フォード医師とは面識がないが、会ってみればその男がその襲撃犯かどうかの、見分けはつく。あのとき、男の背格好は背が高く、痩身だった。顔は黒く見えたため、黒人かとも思えたが、顔の色はいくらでも変えられる。いまは、黒くする化粧品もあるのだ。要は、会って見ての全体の感覚が、真実を語るのだ。  とにかく、フォード医師には、会ってみなければならない。ミセス・シュルツの事件では、彼は歯形の鑑定をしていて、それがあの死体なき殺人事件の被害者確定の有力証拠になていた。それに、銃撃の被害者のアネットは、フォードの娘らしい。しかも、そのアネットは、ミリアンと性的な関係があったと思われる。そういう二つの事件の人間関係の環の中心に、フォード医師はいるのだった。  そういえば、ウオード保安官は、医師の妻のエリザベスの失踪事件を追っているという。彼女のものと思われる白骨死体が見つかって、保安官は、医師がやったのではないかと、強い疑いを抱いている。  「近く、家を徹底捜索して、動かぬ証拠を見つけますよ」  と保安官は、言っていた。ジャクソンも、  「成果を期待しています。こちらに関係がある証拠が見つかったら、知らせてください」  と頼んでおいた。  そのように、考えていると、フォード医師からの聴取は、必然と思われた。そのためには、容体を聞かなければならない、と考えて机の上の電話機を握って、ダイヤルしようとしていたとき、日課になっている発生事件連絡の回覧報告書が回ってきた。  その最初のページにあったのが、メリーウッドで起きた身元不明の射殺体発見の記事だった。その記事には、死体の顔写真から複製したとみられる目を瞑った顔写真が掲載されていた。ジャクソンはその顔を見て、はっとなって、電話機を置いてその情報連絡ペーパーを手に取った。  その顔写真は、間違いなく、ミリアン・シュルツだった。  ジャクソンは、記事を読んでみた。そこには、あのウオード保安官が、初動捜査の担当者だ、と書いてあった。  (そうか、メリーウッドは、彼の担当地域だ)  そう呟きながら、記事を読んでいくと、  「所持品などに身元を示すものは見つからなかった。身元解明を急いでいる」  との記述が載っていた。  ジャクソンは、再び、電話機を手にして、メーン群警察経由で、ウオード保安官事務所を呼び出した。  「もしもし、先日はどうも」  ジャクソンが、礼を言うと、保安官は、  「ああ、どうも、先日は、大変なことでした」  と応じたが、ジャクソンは、  「大変なことになっているのは、そちらのようですな」  と持ち前の軽口で会話を和ませた。  「そうです。変な事件続きで、身が持ちません。困ったものです」  と保安官は、答えたが、その口ぶりはこの忙しいときに、早く用事を言ってほしいという感じだった。  「あの射殺体の身元ですが、こちらに手掛かりがあるのですが」  「えっ、そうですか。それは、ぜひ伺いたい」  「われわれが捜査している殺人事件の被害者の夫です。資料は山ほどありますから、主なものをファックスで送信しますよ。それでも、足りなかったら、また、言ってください。いくらでも、協力します」  「ありがとうございます。助かります」  「ところで、その男が死んでいたのが、教会のチャペルというのは、変わっていますね」  「そうなんです。風光明媚な所にある、人気の教会なんですが、こんな事件が起きる、とは思ってもみなかったですよ。本当に平和な場所ですから」  「カソリックの教会ですか」  「そうです。アイルランド系の福音派の教会です」  「遺体は後ろから撃たれているんですな」  「はい、後ろから二発」  「ということは、狙って撃ったんですね。しかも、撃ったのは、被害者より弱い人だ。面と向かっては、できない人間だということですよ。ところで、銃は見つかりましたか」  「いえ、まだ」  「犯人が持って逃げたか、近くに捨てたか、どちらかでしょうね」  「それは、きちんと探してみましたが、今のところ、見つかっていないのです」  「ミリアンは、ああ、これが被害者の名前ですが、彼は恨みを買うタイプの人間とは、思えません。ただ、態度は横柄ですが、人なつっこいところがあって、それが彼の人気だったようです」  「人気というと、そういう商売ですか」  「いちおう、ロック・ミュージシャンと言うことのようですが、それで、食っていたわけではないようですね。そう、儲かる仕事ではない、と言っていました」  「そんな音楽関係者のような感じには、見えなかったが、そうですか」  「ですが、私は、彼はなにか、裏稼業を持っていたような気がしているんです。そちらの関係が、今度の事件の背景にあるのではないかと、見ています」  同じ職業ということと、なんとなく気が合ったのか、ジャクソンは、保安官と電話で長い間、話してかなりの情報を提供した。  「私の方は、でも、解決は近いと思います」  保安官は自信を見せた。  「そうですか。根拠がありそうですな」  「ええ。有力なね」  保安官は言いそびっていたが、ジャクソンは十分に協力した、と思っていたから、さらに、突っ込んで尋ねた。  「何ですか」  「神父が、行く方をくらましたのです」  保安官は、良く聞こえる声で、ハッキリと言った。  「もう、手配はしたんですか」  「いえ、容疑者ではありませんから」  「公開手配ではなく、周辺の捜査機関への手配ですよ」  「ええ、それは、やっています」  「うちのほうには、まだ、来ていないようだが」  「そこに書いておきましたが、善良で住民からの人気もある神父ですから、そう大掛かりな追跡は憚られるんですよ」  「でも、重要参考人なら、積極的に追わなければ行けない」  ジャクソンには、そこが田舎の保安官と町の刑事との違いだ、という気持ちがあったが、それは、悟られないように言った。  「手配はしましたがね。なにか、のっぴきならない用事ができて、どこかに行っているのかもしれない。そのうち帰ってくるかも知れないですから、あまり、大袈裟にするのはどうかと思ったのです」  保安官はすまなそうに、弁明した。  「手配が来次第、こちらでも、鋭意、協力させて戴きます。神父はどんな姿で、出ていったんですか」  「聖服は置いてありましたから、普通のスーツではないかと思います。それほど、特徴があるとは思えません」  衣服に手掛かりはなさそうだった。  「車は」  「何時もは、フォードのワゴンに乗っていたようですね。ナンバーは・・・」  ジャクソン刑事は保安官が言った番号を控えた。  「これらのことは、皆、手配書に書いておきましたが」  「そうですね」  「立ち回り先は、どうです」  「神父は、若いころ、市内の教会に勤めていましたから、その教会くらいですね。もともと、孤児だったのを教会に引き取られて育ち、ずっと独身なので家族はいないんです。ただ、信者は多いから、立ち回り先がないかというと、そうではない。むしろ多数あるでしょうね」  「どこの教会ですか」  「ウエストサイドの聖ヨハネ教会です。あそこが、アイルランド福音派の総元締めになっていますから」  「では、そちらの方を調べてみましょう」  ジャクソンは、そう言って電話を切ったが、教会に出掛けて調べる積もりはなかった。それより、ジョージ・フォード医師の聴取が先だった。  (手配が来たら、だれか若い刑事に行かせよう)  と高を括っていたのだった。  十七 追 跡  最初は、うすぼんやりとした女の顔の輪郭が見えた。それまでは、深い闇の中に沈潜していた長い時間があったような気がする。さらにその前の記憶を辿れば、激しい痛みが残っている。そのあと、突然、視界が消えて、暗い闇の中に閉じ込められた。  「ねえ、どうなの、大丈夫」  うっすらと開けた目の前に、女の顔が見えてきた。ゴードンは、頭を揺すって、その中に詰まっている脳細胞の働きを回復しようとしたが、鈍痛が頭全体を覆っていて、頭を振ると痛みが増したので、すぐにやめにした。  「どう、私が誰だか分かる」  女が、目の前に来て聞く。その声は、聞き間違いがないくらい聞き覚えた女声だった。  「エミー。おれはどうしたんだ」  ゴードンは、やっとの思いで、言葉を吐きだした。  「やられたのよ」  「なに」  ゴードンは、記憶の先をたどって見た。エミーが、頭の湿布を替えてくれて、すこしすっきりしたので、考えてみる余裕が出てきた。仰向けに寝て、右手で頭を探ってみると、後頭部を中心に、何重も包帯が蒔かれているのがわかった。そのために、呼吸が苦しいのだ。  ゴードンは、一台の車を追跡していた。前を行くBMWには、ミリアン・シュルツと彼のバンド仲間の男が乗っていた。ブランズイック橋の付け根で、連れの男は降りていった。ミリアンは、そのあと、一人で橋を渡り、そのまま、真っ直ぐ進んで、市境を越え、田園地帯を縫って走っていった。ゴードンは、愛車のトヨタの4WDで追跡を続けた。もうかなりの時間が経っていたし、この付近では、セダンやトラックが多く、レジャー用車両はあまり、お目にかからなかったから、もしかしたら、ミリアンは後ろからずっと、付いて来るいかつい形をしたRV車に気が付いていたかもしれない。  だが、BMWは、一度も停まることなく、一直線に道を辿っていた。そろそろ日が暮れるころで、西の山塊に太陽が落ちていこうとしていた。赤く変色した太陽の光が、フロントウインドーに反射して、眩しかったが、空から注ぐ赤い光の繚乱は、なぜか、気持ちを落ちつかせた。  一時間程、走ると、道は小さな田舎町に入っていった。その町に、ゴードンは来たことがない。道の両側にちらほら建物が現れたと思うと、進むに連れてその数が増え、軒を並べるように建てこんできた。幹線道路が、何本かの交差路と交わる所に信号があったが、幹線道路が優先のためか、信号で停まることもなく、二台の車は連れ添うように、真っ直ぐに進んでいった。町の中心部にはかなり大きなビルがあり、ショッピングセンターのような建物には、大勢の人々が出入りしていた。その人の波を横目に、中心部の信号を左に曲がって、二台の車は進んでいった。  それから二キロ程行くと、今度は町並みがまばらになって、両側の視界が開けてきた。郊外に出たのである。こうして、ずっと随伴するように走って来たのは、この二台しかなかったから、もう、ミリアンはしっかりと、後ろから追っているゴードンの存在を認識していたはずだ。町を抜けるとBMWはスイードを上げ、それにつられてゴードンも、アクセルを踏んだ。BMWは、さらにスピードを上げる。それを追って、ゴードンも一気にアクセルを踏み込み、まるで、カーチェイスの格好になった。  道は湖の岸辺に沿って湾曲しながら、伸びていた。対向車はほとんどなく、周囲が暗くなったために点灯したヘッドライトが照らす白線をたよりに、加速した二台はペアーになって疾走していく。だが、この二台からは、さらにすこし離れて、グリーンのトランザムが追跡しているのを、前の二台は気が付かなかった。  湖沿いの平坦路が切れて、峠に向けて上りにかかる辺りで、BMWは右に曲がり、広場のような場所に入って、その最深部に泊まった。ゴードンは、一台も停まっていないこの駐車場の入口の端に車を止めて、ミリアンの行動を探った。所詮この二台しかいないのだから、近くに寄って停車してもよかったが、そうしないのは、本能のようなものだった。道路脇には、トランザムがヘッドライトを消して、停車した。  ミリアンは、車を停めるとすぐに降りて、後ろのトランクを開け、布袋を一個肩に掛けると、ゆっくりと歩きだした。ゴードンも暗闇に紛れて外に出て、後を追った。手には、小型の電灯を持っていたが、点灯はしていない。  ミリアンが歩いていく先には、建物が二棟建っていた。その一棟の屋根には、暮れなずんだ暗い空に向かって十字架が聳えていた。この建物の奥は湖の湖面に面している。手前を右に行った奥には、神父の住居である住宅が建っていた。  ミリアンは、立ち止まらずに、十字架の建っている建物の方に向かったが、正面玄関ではなく裏手に向かい、半地下になっている裏の入口の小さな扉を開けて、中に入って行った。ゴードンは、その入口まで小走りに走っていき、ドアー前で立ち止まって、中の様子を探った。  内部は真っ暗だった。目では何も見えない。手探りしないと、前に何があるかも分からない状態で、やっと手に触れたドアーを開いて、中に入った。  すでに、ミリアンの姿は、何処にも見えない。左手で壁を探って、さらに中に進んでいった。行き止まりのあたりに来たとき、内部から、男の声で、ひそひそ話が聞こえてきた。  「これだけか」  「しかたがないだろう」  「つぎは、もっと、たのむ」  「それより、あんたは、おかしなことをしていないか」  「なんだい」  「ごまかしているだろう」  それは、聞きなれたミリアンの声と太く押しの強い中年男の声だった。  ゴードンは、囁きが小さかったので、もっとよく聞こえるようにと、身を乗り出そうとした。そのとき、向こうに通じるドアーにぶつかって、ドアーが、大きな音を立てて開いた。  「おい、だれか、いるのか」  「ああ、いるよ」  男の問い掛けに、ミリアンが、答えた。  「どういうことだ」  「追跡された」  「よし」  男がそう答えたのまでは、覚えている。そのあと、危険を感じたゴードンは、携帯電話の短縮ダイヤルを押した。そして、意識が無くなった。  「まったく、あんたは、私が居なかったら、あのとき殺されていたわよ」  「エミー。やはり、あんたが助けてくれたのか」  「どうにかね。でも、あんたの拳銃は奪われてしまったわ。あんたは、頭を一撃されて、床に倒れていた。私は、暗闇の中を援護射撃したけど、相手は、あんたが持っていた拳銃を奪って、私に撃ってきたの。そのうち、一人が呻き声を上げて倒れた。私は次の反撃に備えていたけど、それだけで静かになった。私は、必死であんたを抱き起こして、救出したのよ」  ゴードンは、やっと、状況が理解できた。  「それで、車はどうした」  「置いたままにしてあるわよ。取りに行かないとね」  「それならいい。どうせ、あそこには、もう一度行かないといけない」  「今度は、私を連れていきなさいよ」  「そう言わなくても、付いて来るじゃないか」  「だから、助かったんでしょ」  エミーは、そう言いながら、ベッドの側に来て、ゴードンの額に包帯の上から心を込めて接吻した。  そのあと、エミーは、「ニューワークタイムス」を持ってきて、市内版を開き、  「ほら、教会に身元不明の射殺体って、載っているわ。これは、ミリアンでしょう。あんたが追っていた男でしょう」  ゴードンは、載っていた顔写真を見た。確かに、それは、ミリアンだった。  「あいつが撃たれたのか」  「私の弾が当たったのは、ミリアンなのかしら」  「おれの拳銃はどうした」  「取られてしまったわよ。取られなくても、現場に置いたままになているかね。ミリアンが誰の拳銃で撃たれたかは、分からないけど、私の弾が当たったか、あなたの拳銃で撃たれた、という可能性もあるわ」  「おれは、撃っていないぜ。撃つ余裕がなかった」  「私は、あなたを援護するために撃ったわ。でも、それが、当たったかどうかは、分からない」  二人は疑心暗鬼に陥った。現場には何人いたのだろう。  「あそこに、あなたとミリアンしかいなかったとしたら、ミリアンを撃ったのは、私の弾ね。それで、間違いない」  「いや、男の声がしていた。二人が話しあっていたのを、確かに聞いた。だから、ミリアンの他に男がいたんだ。その男が、ミリアンを撃ったのではないか。調べてみよう」  ゴードンはベッドから、起き上がり掛けたが、エミーがたしなめた。  「その疵では、無理よ。早く治るように寝ていなくちゃ。私も付きあってあげるわ」  そう言って、上着を脱いで、ゴードンの横に滑り込んできた。 ジョージ・フォード歯科医院の家宅捜索で、押収した証拠物資料は郡警察本部に運ばれて、検討された。ウオード保安官にとっての、最大の関心事は、エリザベスのものと思われる骨盤の骨に付いていた線状の溝の傷痕が、押収した道具類で付けられるかどうかという一点にあった。  そのため、保安官は、鑑識課の部屋に閉じこもって、一つ一つの道具を手にして、骨に当てていった。だが、手に持って作業を行う小型の道具類には、同じ溝を付けられる道具は見当たらなかった。保安官は、電動式のチェンーソーが最も可能性が高い、と考えていた。エンジンを使う大型と違い、回転刃も細く、小さかったから、細かい作業もできるのだ。回転ステーに切り刃をセットしてモーター部分を持って、机上においた骨に当ててみると、ぴたりと収まった。溝の幅はちょうど刃の幅で、刃を当てたまま降ろしていくと、約二センチほど沈んだあと、しっかりと落ちついた。  (これで、この道具を使えば、この溝を付けられることが証明された)  保安官は、疑惑を再確認した。  だが、この道具で骨に溝を付けられることは証拠づけられても、同じ道具が他にあればこの道具ではない、と言い張ることはできる。凶器は分かっても、犯行に使われたとは、限らないのだ。その確定のためには、現場に道具を使った犯行の痕跡がなければならない。  その点、郡警察の調べは、怠りなかった。群警察は、保安官が引き上げたあと、その夜に、歯科医院の全ての部屋でルミノール反応検査を実施していた。この薬品は、感度がよく、血液が付いていたところは、どんなに洗い流しても青い蛍光を発するのだ。一見して何も付いていないように見える所も、この薬品は血液があった所なら反応するから、言い逃れはできない。  その結果は、壮絶なものだった。まず、診察室では、床や壁や診察台の上に反応が認められた。三階の居室や風呂場でも反応があった。特に夫婦の寝室では、夥しい反応があり、天井にも二筋の血が飛び散った痕跡が認められた。  さらに、寝室から、階下に降りる階段にも筋状の蛍光が見つかった。一階からは、診察室の裏の出入口を通って裏庭に出る階段でも、青い光がちらついた。  それらの現場の写真が、現像され、焼かれてできて来た。保安官は鑑識の部屋に行って、その何枚もの写真を検討した。  あの家で、夥しい血が流され、出血した死体が、階段を通って、屋外に搬出されたことは、確かなようだった。  保安官は、寝室の天井に付いた二筋の血痕に注目した。郡警察の専門家の判断を聞くと、鋭利な物体で人の頭を殴りつけたために、頭から噴出した血が、凶器に付いて天井まで飛び散ったのではないか、ということだった。二筋あるのは、頭への殴打が三回行われたことを現している。最初の一振りでは、血は飛散しないからだ。二度目と三度目の時に、凶器に付いた血が飛んだのである。凶器を振り降ろした辺りの床に上には、大量の出血痕と見られる反応があった。それを、実験的に計算したところ、その総量は人全体の血液の三分の一くらいに当たることが判明した。夥しい出血だったのだ。  もはや、その寝室が犯行場所なのは明らかだった。  屋外の血液反応は、そう鋭敏ではないが、あることはあった。裏庭の納屋の前まで青い筋が続いていて、最後の所に、塊があるような反応を見せて、終わっていた。遺体は、そこまで運ばれて、解体されたのだろうか。納屋には、電源があるからあのチェーンソーを使うことができる。  失踪後の「夫婦中が悪くて、別れ話が出ていたんです。あの日は、その事で言い争いになって、掴み合いの喧嘩をした。妻が出ていったのは、その後です」というフォード医師の証言は信用できない、と保安官は思った。  これで、エリザベスの死に、医師が絡んでいることは間違いないが、それ以前に死んだ前妻のメイシー・ゴールドバーグとタラ・ジョーンズの死には、不審はないだろうか。その手掛かりも欲しくて、保安官は、資料分析をしている係官に面会した。  「なにか、面白いものは出てきましたか」  大雑把な聞きかたで尋ねた保安官に、係官は、  「出てきましたよ。彼は、相当な企業家ですな。なにを、していたのか、大金を動かしています。その金銭出納簿がコンピューターに入っていました。入金も多いが、出金も多い。とにかく、大金を動かしている。だが、その用途は不明ですがね」  係官は、画面を出して、説明してくれた。  「ほら、これは、暗号名だと思いますが、ロパスという人から、先月は二十五日に二百五十万ドル入金し、セルパという人に即日、支払っている。そういう取引が月に二回ずつ正確に行われているでしょう。ここには五年分のデータしか入っていませんがね」  「なるほど」  「それから、それに、関係しているかどうか、知りませんが、沢山のインターネットのEーmailのファイルが残っていました。いま、それを分析している所です」  係員は、そのメールの画面を写し出した。  「ペンシルヴァニア州ノーフォークで殺人遺体」という項目で、記事の概要はこうだった。  ーー 一九九*年十一月二九日午後十時頃、ペンシルヴァニア州ノーフォークのウニオン川で、若い女性の骨盤だけが見つかった。郡警察が調べたところ、この骨盤は背骨の下かあ大腿骨までの白骨で、背部に鋸で切ったような一直線の切り込みが入っていた。骨の形状や大きさから年齢三五歳くらい、身長一七〇センチくらい、体重六〇くらいで、死後一ヶ月ほど経過していた。なお、骨の切断面から、骨の扱いに慣れた者の仕業と見られるーー。記載者は、ゲーリー・クライストとなっていた。  「この事件と同じじゃないか」  保安官は呻いて、その画面をプリントしてもらうことにした。    ウオード保安官に、他にもすることが沢山あった。聖マリア教会での射殺死体の検死結果をメリーランド大学に問い合わせなければならないし、銃痕の鑑定結果も知りたかった。死体の側には銃は残っていなかったが、死体に銃弾は残っていたから、その弾の分析で、撃たれた銃の種類は判明する。ジャクソン刑事の話では、男はミリアン・シュルツというロック・ミュージシャンのようだが、その男のプロフィールも知りたかった。刑事は、資料を送ると言っていた。もう着いている頃だろう、と思いながら、保安官は、次の仕事の段取りを考えていた。  まず、銃弾の鑑定結果を知ろうと、地下の銃器分析室に行った。係員は、遺体に残っていた二発の銃弾を分析していた。弾を写真に撮り、資料の写真と照合して、銃の種類を判定するのだ。  「いま、念のため、似たのを集めて分析する最後の作業中ですので、すぐに、分かりますよ」  と係官は、その部屋で待つように言った。  係員は、写真のネガを顕微鏡に入れては出して、次々と入れ換えて、見ていっていた。保安官は、十数分の間、その作業を見ていたが、最後には、三種類に絞られたらしく、その三種類を何度も入れ換えて、確認してから、一枚だけを残して、係員は立ち上がって、こちらにやってきた。  「二発とも同じ銃から発射されています。銃の種類はこれですよ」  係員が見せた銃痕の写真には、  「ワルサーPK34、三八口径」  との説明が付いていた。  保安官は、その銃を知っていた。いわゆる政府支給品(ガバーメント・イッシュー)のドイツ製の極めて精巧な銃だった。使っている人は、主に警官や軍関係者などいわゆる、体制側の警備関係者のプロが多かった。  保安官は、その結果をメモして、上の階に戻り書類配送部に行って、ジャクソンからの書類を探して受け取ったあと、外に出て駐車場に停めておいたパトロールカーに乗り込み、メリーウッド大学に向かった。  大学は、町の郊外にある。今日は、その医学部の法医学教室に行く予定だが、できれば、白骨死体の骨の鑑定をした骨の専門家、サミュエル・ボーン教授にも面会して、骨の切断手段について、詳しい話を聞くつもりだった。  ウオード保安官は、これまで、一件も殺人事件が起きていなかったあのめりーウッドの町で、一度に二件の殺人事件を抱え込むことになるなどとは、まるで予想もしていなかった。まったく、  「百年の平静を一気に破られた」  気分だった。  保安官は、まだ、五十二歳で壮年の働き盛りだったものの、本心は薄給の名誉職を楽しみたかったかったので、選挙に立候補したのだった。重大事件の捜査をしようとは、夢にも思っていなかったのだ。だから、できれば群警察か市警察かFBIに捜査を譲りたかった。それには、これらの事件が重大事犯であることを証拠つけるものが必要だった。そのこともあって、彼は郡警察本部に出向いたのだった。  だが、群警察の判断は、初期捜査は保安官中心に行い、必要があれば本部が援護する、という方針だった。白骨死体事件は、もう大体、真犯人の見当は付いている。あとは、証拠固めだけだし、射殺体事件は、起きたばかりで、被害者の名前が確定できた段階だったから、本部は事態の行く末の様子を見ていたのだ。  だから、保安官は、できれば射殺体事件では、もっと複雑な様相を期待していた。そううすれば、  (おれは、足抜けできる)  と考えていた。その期待を抱きながら、監察医を訪問しようとしていたのだ。    警察が司法解剖を依頼している監察医は、マイク・ホワイトと言う名前だった。保安官は会ったことがなかった。名前からすると、白人のようだったが、実際は本物の黒人だった。「本物の」といったのは、その肌の色が、本当の真黒色で、その肌は滑らかに黒光りしていたからだ。そういう黒人はめったに、この国にはいなくなった。かならず、幾らかの白や黄色が混じり込んで、その先祖の持つ真黒色の肌を曇らせていた。  「先生、解剖結果はいかがでしょうか」  「死因ですか。それは、頸の銃弾が致命傷です。背中にも一発撃たれていたが、そちらは心臓などの急所をずれていました。頸の方は頸動脈が破れて、出血が多量だった」  保安官は医師の英語が、英国人のように綺麗なクイーンズ・イングリッシュの発音だったので、驚いた。そして、彼はイギリスから来たのだろう、と気が付いた。多分、アフリカの旧植民地からの移民の子なのだ。  「でも、その多量の出血のあとが、遺体にはないのです」  医師は続けた。  「と言いますと」  「多分、死後、拭うかなにか、したのでしょうね。傷口は綺麗でした。遺体の内蔵には毒物の反応はありませんでした。ただ、麻薬か覚醒剤などの薬物は常用していたようです。残った尿から薬物使用の反応が出ました。また、消化器に少量の睡眠薬の残留物が見つかりました。被害者は当時、薬を飲んでいて、意識が明瞭でなかったと思われます。半分寝たような状態でしょう」  「すると、足腰もおぼつかないようですかな」  「いや、それは、そうでもないでしょうね。車なら運転もできる状態です。ただし、ほろ酔い運転ですが」  「ほかに、なにか、気が付いたころはありますか」  「不思議なんですが、ペニスに入れ墨がありました。図形が、二つ彫られていました。といっても稚拙な彫りで、子供のころに入れたのが、そのまま大きくなったような感じです」  「どんな図形ですか」  「ポラロイド写真を撮っておきましたから、どうぞ」  保安官は出された数枚の写真を手に取った。それは、男の陰茎の拡大写真で、亀頭部に三角形を二つ逆に重ね合わせたような図形が紫色の線で描かれているのが写っていた。  「それが、一つと、その根元に丸が描かれているでしょう」  そう言われて、保安官は、次の写真を見た。それには、陰茎の根元の部分が写っていた。たしかに、そこには小さな丸い円が描かれ、その中に、線が二本入っている図形が見えた。  「どういう意味なんでしょうかね]  保安官はまったく、想像がつかなかったので、思わず聞いていた。  「その三角の図形には、見覚えがあります。ユダヤ教では天地を現す。雨土のこの世界を示す形です。さらには、われわれが、存在する世界全体、引いては宇宙を暗示する形ですね」  「でも、なぜ、ロッカーのミリアンが、そんな図形を彫っていたのだろう」  「多分、幼いころの手術でしょうが、きっと、成育に関係していますよ。どんな宗教的な環境で育ったか、どれを調べてみれば、分かります。割礼の儀式の時に入れたのかもしれないし」  「割礼ですか」  保安官はその言葉を聞いたことはあったが、具体的にどんなことをする儀式なのかは知らなかった。ただ、おぞましい儀式だという記憶は持っていた。それは、書物によるものだった。アフリカの土人たちやアラブの部族にそういう習慣が残っている、という話を読んだことがあった。この目の前にいる黒人の監査医には、身近なことなのだろうか。  「そうです。男は包茎の皮を切除して、剥き出しにする、女はクリトリスを切除して、性的感覚を鈍くする手術です。まったく、男性本位の性的な関係を維持するための野蛮な儀式ですよ」  確かに、医師は詳しかった。  「それで、彼はその手術を受けていたんですか」  「いや、その痕跡は認められせんでした。写真でご覧のように、彼は仮性包茎です。包皮切除の手術を受けてはいないようです」  「とすると、この入れ墨はなんでしょうね」  「入れ墨を入れる人間の心理は、秘めた表現欲とでもいうのでしょうか。だから、性格的には内向的だが、爆発するような激情を心の中に抱えている人が多い。自分を見せたいという欲望が強い人が多いんですよ」  「彼は、ロック・ミージシャンだった」  「それなら、頷ける。彼らには入れ墨は文化のようなものだから」  「でも、こんな形は珍しいでしょう」  「そうですね。たしかに。あと、考えられるのは、何かへの忠誠を示すために入れることです。一種の団結マークですね。所属する集団への帰属と忠誠を示すのです。ほら、ナチスの幹部が入れていた逆さ卍の入れ墨がその例です。宗教的にはこの方が多いでしょう。なにしろ、一生消えないんだから、結束には有力だ」  「すると、彼は、幼いころなにかの結社に入っていた、ということですね」  「そうです、多分、十代の成人式のころに、入れたものでしょう。ただ、図形からは、宗教的な儀式と思われますが」  ホワイト医師の知識は広大だった。白人社会で生まれ、育ってきた保安官には、そういう黒人に会ったのは始めてだったので、圧倒される感じがした。最後はこの年下の医師に畏敬の念も覚えて、さらに聞いた。  「この図形に、思い当たる節はありませんか」  「ないということでもないですが。あまりに、デリケートでして、考えられない」  「なんですか、お願いします」  医師は、考え込んだあと、  「そうですね。これは、確かなことではないですが、私はイギリスで、この図形に似たマークを見たことがあります。それは、七〇年代に私がオクウスフォード大学の医学部で医学生だったころですが、北アイルランドの独立運動が盛り上がって、闘争が絶えず、多くの死者がでましたが、その中にこのマークを付けた遺体があった。アイルランドのカソリック教徒でしたが、それが、私の頭の中にあるこの図形の記憶ですね」  「アイルランドの過激派の印ですか」  「今は、収まっていますが、その頃は酷かった。多くの血が流されました。激しいテロ闘争でしたから」  「ミリアンは、過激派だったのだろうか」  保安官は思わず、声を上げたが、医師はそれには、答えず、  「詳しい結果は文書で」  と言って、席を立った。  保安官は、部屋を出て、ボーン教授の研究室に向かった。それは、解剖学教室とは違う建物の中にある。芝生の美しいな中庭を横断して連絡通路があり、各棟を結んでいた。その廊下を通って、二つの棟を横切った最後の棟にに、研究室の入っている基礎医学研究棟はあった。  ボーン教授は、夥しい骨の標本に囲まれた研究室の窓際の隅の机に向かって書き物をしていた。  「先日の、白骨死体の件ですが、あれは、殺しに間違いないですよね」  いきなり、部屋に入ってきて、問いかけた保安官を見上げて、金縁の眼鏡を下にずらした教授は、  「間違いないですよ。腰骨に入った溝は自然にできる物ではない。動物が齧ったって、できるわけじゃない。人の仕業に間違いないですな」  「なにか、道具を使ったんでしょうね」  「そうです。骨を加工できる刃物が付いた器具ですね」  さすがに、骨の専門家だけに、言うことが頼もしい。  「たとえば、木材を切るチェーンソーはどうですか」  「あの疵からすると、大袈裟過ぎるかもしれない。私は、糸鋸のようなものが、一番適当だと思うが」  「でも、それでは、作業が捗らないでしょう。小型の電動式チェーンソーなら大丈夫ではないですか」  保安官は、自分の仮説に近付けたかった。  「そうですね。可能性はあるでしょう」  「実は、容疑者の家から押収したチェーンソーを、溝に合わせて見たのですが、ピッタリ、会いました」  「それなら、そうかもしれない。歯形まで会いましたか」  「会いました」  「それなら、間違いない。歯形さえ会えば、殆ど確実ですよ」  ここでの会話で、歯形というのは、骨に刻まれた刃物の跡の形のことだ。  保安官は、その証言を得て、満足した。これで、ジョージ・フォードの犯行は、確実になった。あとは、書類を纏めて裁判所に逮捕状を請求すれば、逮捕できる。そろそろ、体の方も、快方に向かうだろうから、あとは、時間の問題だ、と自信を持った。    十八 悪 夢  「止まれ、止まらないと撃つぞ」  とウイリアム・ゴードンは、叫んだ。相手は、袋小路に逃げ込んでいたが、銃を持っているのは確実だった。逃げていく男は、その時、突然立ち止まり、こちらに向き直ろうとした。両手の間に、金属性の色がするなにかが、光った。  ゴードンは、咄嗟に、右手の拳銃を構えて、引き金を引いた。  発射音と、硝煙が、後に残った。  「パーン」と耳をつんざくような音を聞いた瞬間、ゴードンは  「はっ」  と、我に返って、目が覚めた。体中が汗でびっしょりだった。  隣りに寝ていたエミーは、すやすやと寝息を立てて眠っていた。  ゴードンは、全身の痛みを堪えながら、腕を梃子にしてベッドから起き上がり、隅のテーブルの引き出しから、ポールモールを一本取り出して、火を付けた。煙草の薫香が、鼻を刺激して、まどろんでいた頭の中がすっきりするような気がした。  ゴードンは窓際に行って、外界を見た。まだ薄暗いヘドソン河に人影はない。ただ、そろそろ、北へ帰るガンや鴨類が、静かに羽を休めている。川沿いの桜並木は緑の蕾を付けつつあった。季節は確実に変わった行っていた。  朝起きが早い小鳥たちが、群れになって、川面すれすれに、早朝のエキササイズの飛行を繰り返していた。東の空が徐々に、明るくなり、ゴードンが、シガレットを一本吸い終わるころには、水鳥達も目覚めて、動きはじめた。  煙草を吸いながら、直前に見た悪夢の記憶を辿っていた。  (あの夢を何度見たことだろう。また、見てしまった)  最初の感想はそれだった。仕事や人生や将来の危機や不安に遭遇するたびに、「この夢」が、意識の最深部から姿を覗かせる。こういう体験は度々ではない。いつも、危機的な場面で、現れる夢だった。  (今回は、この疵だ。それに、状況が似ていた)  ゴードンは、反芻する。  (また、撃たなかった)  「あの時の経験」が、それ以来、人に向かって、引き金を引かせなくなったのだ、と彼は思った。  夢の中で、躊躇なく、弾を発射できるのは、現実世界でできないことの代償行為なのだ。「あれ」以来、壊れたままになっていた愛銃のPK34をワルサー銃砲店で修理し、全部で六百五十ドルも支払ったのは、なんのためだったのか。それは、  (もう、そろそろ、握ることができるだろう)  と考えたためだったのに、確かに、持っていることと、手に取ることはできたが、その機能を発揮させることは、まだできないでいた。これでは、宝の持ち腐れ、というものだ。ゴードンは、銃のコレクターではないのだ。私立探偵なのである。それを使わねばならない場面で、使ってこそイクラの仕事をしているのだ。  (あれは、その場面だった)  確かに、ミセス・シュルツからの依頼は、報告書を渡して、既にすんでいる。その意味では、ミリアンを依然、追跡調査しているのは、仕事の外と考えることもできたが、何ごとも、慎重で丁寧な仕事を心がけているゴードンの意識の中では、終わっていなかった。そもそも、ミセス・シュルツの事件は、彼の報告書がきっかけになったのかも知れないのだ。それに、ミリアンが付き合っていた高級コールガールのマリリンがテリー・シェルドンの射殺された妻、メアリーの妹だ、ということも、気掛かりの理由だった。テリー・シェルドンの身元調査は、継続中だったし、金になる仕事だったので、手放したくなかった。アフラック保険会社は、調査業務の契約継続を望んでいた。ゴードンには、クライアントの期待に背かない成果を上げてきたという自信があったし、会社側もそう評価していたのだ。それに、家族惨殺は警察も捜査していたが、会社としては、独自の捜査の結果も得たいらしかった。クビが決まっていたとはいえ、元社員の不祥事は、できれば、隠密にしておきたかったのだ。公的捜査の反証を得るという目的もあって、ゴードンを、上手く使う必要があった。  だから、ミリアンの追跡は、ゴードンの営業活動の一環であった。ボランティアではないのだから、それだけ、気力を入れなければならないのに、あの時は緩んでいた。それが、危機一髪の事態に直面して、ああいう無様な結果になったのだ、と反省した。  エミー・ブレアが、言うように、  「私が、付いていなかったら、今頃、命はなかったわよ」  というのは、真実なのだ。  エミーにあれほどの射撃の腕前があるとは、知らなかったが、人が修羅場では思わぬ能力を発揮することがある、ということをゴードンも信じていたから、これもそういうことではないか、と納得したのだった。だが、  (あの時、一発でも、撃っていれば、事態は変わっていた)  そういう反省から逃れられない。同じことを、市警察官を辞める前にも、思ったことがあるのを、彼は忘れていなかった。記憶の奥底に留めておきたかったが、完全に蓋をすることができないでいた。それは、彼の人生の一大汚点とも言えたし、いまでは、むしろ最大の美点といえるかもしれなかった。  とにかく、「あれ」以来、彼は力や銃器たよりの権力の行使より、知恵を使った事件の解決により強い関心と興味を抱くようになったのだ。だから、インターネットにも「クライム」のホームぺージを開設して、「クール」な事件解決手法を模索しているのだった。  本当は、銃からはなるべく身を離していたかった。それが、理想だったが、この町では、そういう理想は通用しない。そのことが、よく分かったから、銃を修理したのだ。理想より現実は重いのだ。  ゴードンが、いまだに独身でいるのも、そのことに関係していた。いま、彼がやっている危険な仕事に、妻子は無用だ、と彼は考えていた。エミーとの関係が良好で、これといって現状に不満がないのも、これ以上に踏み切れない理由のひとつだった。彼女は、本当に、甲斐甲斐しく、家事をしてくれたし、上手い料理もしてくれた。セックスは、これ以上ないように相性が良かった。ゴードンは今のようは理想的な状態が、いつまでも、続けばいいと、心から思っていたのだ。それは、エミーも、同じはずだと、彼は、勝手に考えていた。  「あーあ、よく寝たわね」  外はもうすっかり、明るくなって、道路の喧騒が増してきた。朝の陽光は、この日も鮮やかで、その暖気が徐々に気温を上げていた。エミーは、起きるとさっそく、コーヒーメーカーで新しいコーヒーを入れはじめ、冷蔵庫からサラダ用の新鮮な野菜を取り出して、朝の食事の準備を始めた。  ゴードンは、テレビのスイッチを入れて、ニュースを見始めた。新聞はアパートの一階玄関の郵便受けに取りにいかなければ読めない。ゴードンは、それが面倒だったし、エミーの作り始めた料理とコーヒーの香りの心地好さから、逃れたくなかったので、じっとしていた。  「ねえ、今朝は、よく眠れなかったの」  「いや」  「でも、起きるの早かったじゃないの」  「うん」  「それに、煙草も吸ったんでしょ。禁煙じゃなかったの」  「久しぶりに、旨かった」  「なにか、考えごとをしていたんでしょう」  エミーは、あくまでも、優しい心遣いをみせる女なのだ。  「そうだ。なぜ、撃たなかったのかを考えていた」  「そのほうが良かったでしょう。あなたに、ガンは似合わないのよ。スタローンやシュワルツェネッガーとは違うわよ。あなたは、むしろ、コロンボ・タイプよ。私は、そのほうがいいの。安心できるでしょう」  「でも、情けない。あんたがあの時、居なかったらと思うと、ぞっとするよ」  「有り難う。お役に立てて嬉しいわ。これからも、よろしくね」  エミーは、今朝も多種類の卵料理を、食卓一杯に並べながら、そう言った。  「さあ、食べましょう。探偵さん。いつも、同じ料理では嫌ですか」  ゴードンはソファーから立ち上がって、食卓に行った。  「いえ、それが、一番です」  そのとき、テレビが朝の最後のニュースをやりはじめた。  ーー 先月上旬、マイフェア地区の高級住宅地で起きた死体なき殺人事件を捜査している市警察本部の捜査班は、殺されたと見られる元ユナイテッド航空客室乗務員、ジョン・ベネット・シュルツさんの夫で、ロックミュージシャンのミリアン・シュルツ容疑者の逮捕状を取り、行く方を追っていましたが、一昨日ソーン郡メリーウッドの聖マリア教会で発見された射殺死体が、同容疑者のものと判明したため、被疑者死亡のまま、地区検察官に送検しました。これで、付近住民を恐怖に陥れたの死体なき、バラバラ殺人の猟奇的事件は、全面解決しましたーー。  僅か、数秒の短いニュースだったが、ゴードンは、  (そんなことはない)  と確信を持って、言えた。  朝食を食べながら、ゴードンは、  「さあ、今日は忙しくなるぞ。一緒に付き合うかい」  とエミーに聞いた。  「ええ、もちろんよ。探偵さん。私は今日は、一日一緒にいることに、前から決めていましたから」  その日は、彼女の三十三歳の誕生日だったのだが、ゴードンは気が付いていなかった。  十九 誕生日  朝食を終えてから、ゴードンは、市警察本部に電話した。テレビでやっていたニュースに関して、ジャクソン刑事に話したいことがあったのだ。  電話はすぐに繋がった、この快活な黒人刑事は、外出する直前だった。  「おい、シュルツの事件は、おしまいかい」  いきなり尋ねたゴードンに、ジャクソンは、  「いや、そんなことはない。ただ、有力容疑者だった夫が死んでしまったから、その方の捜査は、一応の形を付けておこうということだ。事件には、まだ解決していない問題が、一杯あるよ」  ジャクソンの答えは明快だった。  「じゃあ、テレビのニュースは、間違いか」  「そうでもない。大体は当たっている。ああいう方向で措置をすることは事実だよ」  ゴードンはそれを聞いて、自分の身に起きたことを、言うべきか迷ったが、まさに、それを言うために電話したのだ、と気持を持ち直して、  「実は、ミリアンが射殺された現場に、おれもいたんだ」  と告白した。  「ええっつ、何だって。どうして、いたんだ」  「考えがあって、尾行していた。どうも、彼の行動に理解できない部分があるので、行動を追ってみよう、と考えたんだ」  「なら、射殺されたときは、目撃したのか」  「いや、現場のチャペルの床に倒れていた」  「どうしたんだ」  「おれも、撃たれそうになったんだ。そのまえに、殴られて、気を失っていた」  「だれが、やったんだ」  「わからん。なにしろ、真っ暗闇の中でのことだから」  「ああ。夜なんだったな。なにも、見なかったのか」  「そうだ。話し声を聞いただけだ。男二人が話していた」  「それなら、手掛かりにはなる。この件は地元で所轄のハリソン・ウオードという保安官が担当している。彼に話してやってくれないか。電話より、どこかで会うのがいいだろう」  ジャクソンが、そう提案した。  「それは、いいが、おれは怪我をしている。ひどくやられて、ずっと寝ていたんだ。だから、そう遠くまでは出向けないよ」  「いいさ、彼が出てくるよ。だが、よく助かったな。相手は銃を持っていたんだろう、相手というのは、ミリアンをやった奴のことだが」  「それは、わからん」  「でも、ミリアンは射殺体で見つかったんだ」  「おれの持っていた銃がなくなっていた。それを使われたのかもしれない」  「銃の鑑定結果は出ているだろうから、その点はすぐに分かる。奪われたのか」  ジャクソンは悪い思い出を思い出させそうだ、と考慮して慎重に尋ねた。  「そうらしい。不味いことになったよ」  「だが、命があって、よかった。よく、相手は止めを指さなかったものだな」  ジャクソンの口調が、諧謔調になった。  「彼女が助けてくれた」  「ああ。そうか。一緒だったのか。いつも、一緒でうらやましいよ。ところで、エミーは、何している」  「家にいるだろう。家事でもしているんじゃないか。好きだから」  ゴードンはここでは、嘘を付いた。エミーは、目の前にいた。  「じゃあ、彼女が助けてくれたんだな」  「そう、彼女が銃で援護してくれた、それで、助かったんだ」  「保安官には連絡をしておくよ。そうだ、おれは、これから、聖ヨハネ教会に行くのだが、出てこないか。それとも、あそこには、やはり、まだ行きたくないか」  「ゴードンは考えた。その教会は、彼には忘れられない場所だった、しかも、ジャクソンと一緒では、彼の閉じられた記憶の鍵を無理やりこじ開けることになってしまうだろう。彼は躊躇した。  「いや、遠慮しておくよ。それより、保安官に連絡して、会う日を決めておいてくれ。いくらでも、協力するから」  「わかった。言っておく。本当に良かったら、出てこいよ、家でくすぶっていてもしゆがないだろう。あんたらしくないぜ、探偵さん」  ジャクソンの快活ぶりは、何時ものことだが、怪我をして滅入っていたゴードンには何よりの励ましになった。おいしい朝食を作ってくれる愛人とこの楽観主義の友人と。二人の理解と思いやりに触れて、ゴードンは、人生はまんざらでもないと、しみじみ、実感していた。  (あと、この心の中の重い塊が、どうにかなれば)  今日、ジャクソンと一緒に、あの教会を訪れることが、塊を処理するきっかけになることも考えられたが、踏み切ることはできなかった。その時期には、まだ来ていない、という気持ちが強い。だが、いつかは、そうしなければいけないだろう。今後の残された人生を積極的に生きていくためには、それは、必要な通過儀式に違いない。    ジャクソン刑事から、連絡を受けた、ウオード保安官は、  (目撃者がいるならば、解決への大きな手掛かりになる)  と判断して、ゴードンに会う予定を決めた。ゴードンは、ジャクソンに電話して、彼と会う心積もりだったが、ジャクソンに出掛ける予定があったので、時間が空いた。エミーには、  「今日は忙しくなるぞ」  とハッパを掛けたが、その予定がなくなったのだ。エミーは、  「今日は二人で過ごしたいわ」  とせがんでいた。いつもと様子が違うので、ゴードンにも、気になっていた。  「今日は何の日かわかる」  朝食の跡片づけをしながら、エミーが、さりげなく聞いた。  「ええー、なんだっけ」  ゴードンは、真面目に考えた。そちらに意識が行っていなかったので、最初は、漠然とした考えしか浮かんでこなかったが、エミーの甲斐甲斐しい働きぶりと健気な表情を見ていて、やっと、思いついた。  「そうか、今日は、あんたの、誕生日だったな」  と気が付いた。  「でも、女は、三十過ぎたら、お祝いはしないだろう」  「そうかしら。だけど、お祝いをしてもらうのは、いつでも、嬉しいものよ」  エミーは、控えめに、反論した。  「そうか、そんな日に、むさ苦しい中年男の看病では、御愁傷様だね」  ゴードンはわざと、偽悪的に呟いた。  「でも、いいの、こうしているのが、一番楽しいから」  その言葉が、ゴードンの胸を刺した。  「そうか、では、今日は午後からは、ツファニーで買い物をして、夜は市内のレストランで食事をしようじゃないか」  「でも、その保安官と会うんでしょう」  「そうだ、それが終わってからでいい」  こうして、エミーの三十何回目かの誕生日の予定が決まった。  まずは、買い物をして、その後、保安官に会い、夜は二人きりで食事をする。一日、ずっと、一緒に過ごすのだ。    ジャクソン刑事は、ダークグレーの公用車で、町を北上していった。一方通行の広い六車線道路をまっすぐに行くと、最後には広大なセントラル・パークに行き止まるが、その二つ手前の交差点を右折し、ワンブロック南へ戻ったところに、市内最大の礼拝堂を持つ、聖ヨハネ寺院はあるはずだった。  ゴードンがエミーと行こうとしているツファニー百貨店は、寺院の前を通り過ぎて、次の角のワンブロックを占めていた。    二十 大司教  ジャクソン刑事は、聖ヨハネ教会に行って、ウオード保安官から依頼されたロバート・デ・コスタ神父の行方を探る仕事を、本当は、そう重視していなかった。だから、若い刑事に任せようと思っていたのだが、この教会のサプリアン大司教には、久しぶりに会ってみたくなっていた。そこへ、ゴードンからミリアンの射殺事件との関連を聞かされて、その後、姿をくらましたデ・コスタ神父を探すのを名目に、探りを入れてみよう、との気持ちになったのだ。  神父は、いないかもしれない。また、たとえ匿われていても、あの広大な境内のどこにいるのかは、分からないだろう。一人で、探すのはそう簡単ではない、と考えられる。だが、ジャクソンは、大司教に会ってみたい気になっていた。  それは、幼いころの思い出といまの仕事に就いてから最大の忘れられない出来事に、この教会と大司教が重要な位置を占めていたからだ。  ジャクソンは、この町の最北部にあるアフリカ系住民の居住区、ヘーレムで育った。父親は、配管工で一生を終えた職人だったが、収入はそれほど多くなく、二男二女の生活は苦しかった。次男のジャクソンは、幼いころからスポーツが得意で、バスケットの選手にもなっていたので、それほど勉強をしなくても、高校に進学できたが、地区の子供たちの多くは、その前に何らかの仕事に付いていた。  そういうどん底の子供たちを、教会の日曜学校で世話をしていたのが、若いころのセプリアン神父だった。子供たちは、考えられるあらゆる悪事を働いた。ドラッグストアでの万引きは日常茶飯事、車からの盗みやひったくり、そして、大人ーーと言ってもハイティーンの青年ーーの麻薬売買の使い走りまで、儲けになることは何でもやった。そのくせ、安息日の日曜日に、教会で開かれる子供向けの教室には、欠かさず出掛けたのは、神父の人間的な魅力のためだった。  ジャクソンが、十二歳になった年の春まで、神父はその教室の主宰者をしていたが、そのあと、本部からの指示で英国に留学し、その後は交流はなくなった。  だが、その十五年後、ジャクソンは、すこし曲折を経て、市内の黒人系のカレッジを卒業して、市警の警察官になっていた。すでに三年の経験を経ていたが、依然として、パトロールカー乗務の外勤警察官だった。相棒は、一年先輩のウイリアム・ゴードンだった。ゴードンは白人だったが、ジャクソンが相棒になってすぐに、とても、気が合うことが分かった。彼には人種的な偏見がなく、仕事も誠実で積極的だった。一緒に仕事をしているうちに、ジャクソンは、彼のなかに自らの理想の警官像を思い描くようになっていた。ゴードンは清廉潔癖で、そのころの警官に当たり前のようになっていた賄賂やお手盛りや恐喝のような悪事は一切しなかった。腐敗とは一切、無縁だったので、「お固い警官(ハード・コップ)」とのニックネームまで、付けられていたほどだった。  そのくせ、彼は銃を使ったことがない。ジャクソンとの乗務で、彼が手荒い真似をしたのは、  「あの時、たった一度きりだった」  とジャクソンは考えている。その場所が、この聖ヨハネ教会の敷地内だったのだ。しかも、彼は撃たなかった。強盗犯人を追い詰めて、この教会の境内に入り、もう一人の若い警官と三人で、犯人を取り囲んだ。犯人は、礼拝堂裏の狭い路地に追い詰められて、追っていった若い警官が、つまずいて転んだところを、後ろから抱えて、ジャクソンの方に迫ってきた。ジャクソンンは、後ずさりしながら、人質を放すように説得を続けていた。だが、興奮した犯人は、今にも、捕らえた警官の頭に発砲しそうだった。ジャクソンは、後退を続けていた。それは、犯人の後ろ側に回っていたゴードンが、後ろに姿を現すのを待っているためだった。若い警官は油断させるための囮だった。彼を犯人の手元に置いて、行動を制約し、後ろからねらうのが、手法だったのだ。だが、計画通り、後ろに現れたゴードンは、銃を構えたのに、なかなか、撃たなかった。その時、撃っていれば、後ろの気配に気付いた犯人が、とっさに、右手の引き金を引くこともなかったろう。だが、現実は、犯人は、引き金を引き、若く将来のある警官が、殺された。  ゴードンは、警察の査問委員会に掛けられたが、査問委員の、  「なぜ、撃たなかったのか」  との必然的な質問には、短く、  「後ろからは、撃てない」  とだけしか、答弁しなかった。そして、警官を辞めたのだった。  ジャクソンは、裏の駐車場に公用車を入れて、歩いて、神父らの居住区のある一角に向かった。その敷地の一番奥にある中世風の館が、大司教の公邸だった。そこに、大司教は、二人の秘書と共に住んでいる。他に、料理人や家政婦など使用人もいるが、皆、通いなので、寝泊まりしているのは、修行中の三十代と二十代の二人の男性神父だけのはずだ。  広い玄関で大司教との面会の希望を告げると、その年上の方の秘書が中に取り次ぎ、奥の待合室に通された。そこは、大きな丸テーブルが中央に置かれた十畳ほど部屋で、壁には、ダ・ビンチが描いた「最後の晩餐」の模写絵が描かれていた。丸いテーブルの回りを、数脚の椅子が取り囲んでいた。ジャクソンはその一脚に腰を降ろして、部屋の奥の出窓から差し込む、昼の光を受けて浮かび上がった壁の絵の陰影を眺めていた。  弟子たちに囲まれ、中央に座ったキリストが、その絵の世界の中心だった。あらゆる事物が彼の中に収斂し、彼のためにその世界があった。それなのに、彼の表情は決して明るくはない。それは、すぐにも訪れる死への恐怖なのだろうか。それとも、その場にいることへの嫌悪感なのだろうか。この絵を、よく言われるように、全てを天命に任せ、人々の犠牲になることの歓びを現すキリストの姿とは、ジャクソンには、とても、見えなかった。それを「主の苦悩」として見ることを教えるのか、それとも、「主の歓び」として、教えるのかによって、教えられる子供たちのその後の人生感に大きな違いが出てくるだろう、とジャクソンは、おぼろ気に考えていた。そして、  (おれにとっては、それは、後者だった)  と思い至って、これから会おうとしているセプリアン大司教が神父時代にヘーレムで開いていた日曜学校を思い出したのだった。  窓の外を見ると、沢山の花で埋まった庭園があった。ジャクソンは、窓際に行って、外を見た。狭い芝生の庭の先に赤い紫陽花が咲いていた。たった一株の木から多くの枝が別れて、そのそれぞれに沢山の赤やピンクの花が付いていた。  (紫陽花は、青がいいのに)  そう思ったとき、先程の神父が現れて、  「こちらへどうぞ」  と先導した。広く暗い廊下を真っ直ぐに進んでいくと、突き当たりに大きな両開きの扉が見えてきた。神父はその左側の扉を開け、  「どうぞ、中へ」  と促した。ジャクソンは、指差されるまままに、部屋に入っていくと、応接椅子の一番奥の一人掛けの席に座っていたセプリアン大司教が、立ち上がり、右手を出して握手を求め、  「元気かい。久し振りだな」  と言った。ジャクソンは、固く手を握り返して、  「神父、お元気そうで、なによりです」  と応じた。  「こういう所に来ると、命を洗われるようなすがすがしい気持ちになります」  ジャクソンが話し掛けると、大司教は、  「そんなに、俗世間は汚れていますか」  と考え深げに問い返した。  「そうです。とくに、私のような仕事をしていると、世間の汚れが心身に応えます」  「あなたが、そう言われるのだから、そうなんでしょうね。ですから、われわれは、しっかりしないといけない」  吊り鎖の付いた金縁眼鏡の下の両目が大きく見開かれ、輝いていた。  「ですから、毎日、色々な人が出入りするでしょうね」  ジャクソンは、徐々に核心に近付こうした。  「それは、もう、私だけでは把握できないほどの人がやって来ます」  「ところで、大司教は、メリーウッドの聖マリア教会のデ・コスタ神父を御存知ですか」  ジャクソンは、唐突にこの日の用件の核心を聞いたが、大司教は間を置かずに、  「ええ、よく知っていますよ。月に一回は、ここで修業をしています。最近は、先週の始めに三日間ほど、滞在しました」  「そうですか。彼が、行方不明になっているんです。そのことは知っていますか」  「いえ、教会のことは、それぞれの管轄神父に任せていますから。それに、聖マリア教会には、デ・コスタ神父しかいませんからね、だれからの連絡もありませんよ。ところで、なぜいなくなったのですか。なにか、事件でも起きたのですか」  それは、当然の質問だった。現に目の前にいるのは、昔は教え子だったとはいえ、現在は、現職の刑事なのだ。  「はい、チャペルで射殺死体が発見されました。その後、神父の姿が見えなくなっているんです」  「それで、こちらにいないかということですか」  「そうです。立ち回りそうな所を調べるのが、われわれの仕事ですから」  「今のところ、私は会っていないし、来ているという報告も受けていません。境内は広いですが、人はあまりいないので、誰かが泊まっていたりすれば、すぐに分かるはずですが」  大司教はきっぱりと言った。  これで、ジャクソンのここに来た目的は、果たされたことになる。  ジャクソンが立ち上がりかかると、大司教は止め、  「そう、焦ることもないじゃないですか。折角、見えたのだから、ゆっくりしていらっしゃい。昼食を用意させてありますから。教会の食事など、お気に召さないかも知れませんが、食堂から運ぶように言ってありますので」   ジャクソンには思いがけない申し出だった。子供のころから、教会の賄い食は沢山食べたが、おいしかったという記憶はない。ただ、神父たちが専用の食堂で食べる食事は、スープやパンが旨そうだった、という感じがしていた。ジャクソンは、大司教の申し出を、喜んで受けることにした。すると、気持ちが和んできて、世間話をしたくなった。  「先程、庭の紫陽花が綺麗に咲いているのを見ましたが、あの花は変わっていますね」  「そうですか。どのように」  「私達がよく見かけるのは、青や紫の花ですが、あれは、ピンクや赤が多いですね、特別の品種なのですか」  「いや、でも、咲き始めたときは、青が多かったように思えたが、途中で変わることがあるのでしょうかね。あれは、そうだ、管区の神父たちと信者の有志の労働奉仕で植えたのですが、植え変えたという話は聞いていませんよ。土が変わったのでしょうかね」  「土が変わったというと」  「いや、土の中の成分に変化があると、植物の姿形や色が変わことがあるでしょう。環境で人が変わるように」  大司教の話は、どこまでも教訓的だった。、ジャクソンは頷いてはいたが、どうも、納得できない気がしていた。  ジャクソンは、ゆっくりと話し込み、食事も御馳走になって、昼過ぎに教会を出た。駐車場で、車に乗り込んで、発車しようとしたとき、庭園の奥で、黒い人影が動いたのに気が付いた。その人影は、紫陽花の花塊の後ろで、左右上下に、見え隠れして、揺れていた。    十一 民 族  ツファニーで、小さなダイヤモンド入りペンダントを誂えたエミー・ブレアは、すっかり有頂天になって、ゴードンの右手に腕を組んで、五番街を南へ歩いていっていた。今日のゴードンの次の予定は、そこから二番目の角のカフェ・ヂンキーズで、ウオード保安官とかいう男に会うことになっていた。そんな男との面会は、エミーにはどうでもよかったが、ゴードンと『今日一日は、一緒に過ごそう』と約束していたから、その通りにしたかった。  (愛する探偵の仕事に、ちょっとお付き合いしよう)  という気になっていたのだ。それにその「田舎の保安官(アーバン・シェリフ)」には、興味があった。  (あのクリント・イーストウッドのダーティー・ハリーみたいにかっこいいのかしら)  と漠然と考えていたのだ。  二人は、カフェの入口近くのよく客の出入りが見渡せる場所に席を取って、カフェオレを頼んだ。午前中一杯のショッピングで、足が疲れていたので、ゆっくり足を伸ばせるのは嬉しかった。そろそろ、昼食の時間だったが、腹は空いていなかった。エミーの豊かな手料理の朝食のお陰だった。  漠然と外を見ていたゴードンが、その職業的な直感で、いま、金縁の枠がありる透明なガラス・ドアーを開けて入ってい男が、その保安官であることに気が付いた。店内を見回した男に、手を上げて合図を送ると、男は、こちらにやって来て、  「ハリソン・ウオードです。ウイリアム・ゴードンさんですか」  と話しかけた。  「そうです、初めまして」  ゴードンとエミーは、手を差し出して握手をした。  「どうぞ、こちらへ」  空いていた席を勧められて、そこに座った保安官は、  「ご足労を掛けます。早速ですが、ミリアンが撃たれたとき、現場にいられたと言うことですが」  と聞いてきた。  「ええ。ジャクソンに話した通りです」  「そうですか。大体の話は聞きました。男が二人いたそうですね」  「はい、それは、間違いありません。二人の声がしました。何やら秘密めいて、ひそひそ声で話をしていました」  「それを聞いた後、突然、頭を撃たれたのですね」  「はい、それで、気を失いました」  「私が現場に到着したときは、ミリアンが撃たれて死んでいただけだった」  「このエミーが、私の後を付けていてくれて、助かったのです。援護射撃してくれた」  「すると、射撃の腕前は、確かなようですな。あの暗闇で撃てるのですから。そして、その後、お二人で逃げだしたわけですか」  エミーが抗議するように嘴を入れた。  「だって、この人が頭から血を流して、気を失っていたのですから」  ゴードンが、気になっていたことを聞いた。  「ミリアンが撃たれた銃は鑑定が出ましたか」  「でました。ワルサーPK34、三八口径です」  「私の持っていた銃と同じだ」  「持っていたというと」  「現場でなくしたのです」  「その話を素直に信じればだが」  「私は、殴られて倒れていたんですよ」  「それを証明するものは、このお嬢さんしかいなわけですがね」  保安官は、慎重に言葉を選んでいたが、疑いの目は忘れなかった。  「ところで、ミリアンの遺体はどうなりました」  「警察で預かってもらっています。身寄りがなくて、引き受け人が現れないし」  「いや、そうではなくて、解剖の結果を聞いているんです」  ゴードンは念を押した。  「二発撃たれていて、頸に入った弾が致命傷だったようです。背中にも一発入っていました」  「どちらも、同じ銃ですか」  「そうです。あなたの銃ですね」  ゴードンは度々言われて、滅入ってきた。  「それで、銃は見つかりましたか」  「それが、ない。あなたのいう、もうひとりの男が、持っていったのだ、と思います」  「私も、そう思います。低音で話す中年の男です。体つきは、がっちりしている感じがした」  「それが、デ・コンタシス神父だ」  「神父ですか」  「はい、事件のあとすぐに、姿をくらました。あなたのいう体付きや声の特徴からほぼ、間違いないでしょう。だから、彼を追っている」  「追っているって、当てはあるんですか」  「市内では有力な当てが、一つあります。それは、ジャクソン刑事に捜査をお願いした」  保安官は、その日にジャクソンが、聖ヨハネ教会を訪ねているのは、知らなかった。  そこまで、話して保安官は、頼んだコークの残っていた半分を一気に飲み干した。  「その当てはどうして、わかったのですか」  「これは、有力な手掛かりなので、あまり、言いたくはありませんが、元警官だったあなただから、特別に話しますが、神父は聖ヨハネ教会で若いころ修業していた。それと、ミリアンの遺体に特殊な図形が彫られていたのです。それは、アイルランドのカソリック信者の結社が、よく使う図形なのです。聖ヨハネ教会は、アイルランド系移民が建てたこの街のカソリック教徒の大本山ですからね。そこに、教会とミリアンの接点がある」  ゴードンはそれを聞いて、抱えていた疑問が氷解した気がした。  「そうか、彼がロックミュージシャンだということ、ビール好き、付き合っていた化粧気のない赤毛の女達、麻薬の影・・・・・・。彼はアイルランド系だったんだ」  「そうです。この事件の陰には、そういう民族的な背景が底流にある気がします。あなたが、追っている妻殺し事件も、同じ根かも知れない」  「そうか、それには、きっと、お金も絡んでいますよ。しかも大金が。アネットも当然彼らの仲間だったのだろうが、彼女は金の流れを掴んでいた」  「アネットというのは」  「ほら、ミリアンと付き合っていた女で、赤毛のアネット・フォードですよ。部屋で射殺された」  「アネット・フォードというと、ジョーシ・フォードの死に別れた先妻との子供ではないですか」  「ああ、そうです。歯科医のフォードの子供です」  「そうだったのか」  今度は、保安官が、嘆息する番だった。  保安官は詳しい白骨死体事件の話をした。ゴードンはアネットの話をした。そうして、三つの事件の人脈が繋がって来た。  「裏には、アイルランド系移民の裏の生活が深く係わっているような気がしますよ」  保安官が言った。  「うん、そのような感じが強いですね」  二人の考えが一致した。  そのとき、道路の方を見ると、青と白のパトロールカーが、路端に停車して、ジャクソン刑事が、降りてくるのが目に入った。  二人とも彼を知っていたから、  「あれ、何をしているんだろう」  と同時に声をあげた。  「あのマーフィーちゃん、降りてきて、こっちにくるわよ」  エミーは驚いて、すっんきょうな声を出した。  ジェクソンは、まっすぐ信号を渡って、こちらに向かってきたが、店には入らず、隣りのフラワーショップに入っていった。  三人は彼の行く方を目で追った。だが、花屋は並んで隣りにあるために、ジャクソンの姿は、間もなく、見えなくなった。  「出てきたら、声を掛けよう」  ゴードンが言って、注意を逸らさないように、エミーに言いつけた。  ジャクソンはしばらくすると、花の小鉢を手にして、前に歩いていった道を戻ってきた。エミーが、歩道に走り出て、ジャックソンに合図を送ると、顔を笑みで一杯にして、近寄ってきて、  「お嬢さん、花をどうぞ」  と前に突き出した。  「あら、珍しいわね。刑事さんが花を買うなんて。余程、今日の爽やかな天気が気に入ったのね。明るい日差しに、心地よい風、ちょっと汗ばむくらいの適度な気温。今日は最高の春の休日だわ」  二人は笑いながら、店に戻ってきて、ゴードンと保安官の脇に腰かけた。  「よい話はありましたか」  ジャクソンは、橋渡しした二人を交互に見つめながら、声を掛けた。  「いやー、とても参考になりましたよ」  保安官が礼を言うと、ゴードンも、  「ミセス・シュルツの変死も、アネットの射殺も、解決の糸口がほぐれ始めた感じだ」  と言って、片目を閉じた。  「ほう、そうすると私もありがたい。聞かせてくださいませんか」  二人は、いま検討したばかりの内容を話した。  「そうですか。今、聖ヨハネ教会のサプリアン大司教に会ってきましたが、お尋ねの神父はいないとのことでしたが・・・・・・」  「が・・・・・・」  「帰りがけに、不審な人影を見ました。それは、紫陽花の花の影で動いていた」  「それで、その花を買ったんですか」  保安官が聞いた。  「いや、そんな気分になったまでです。でも、紫陽花はやはり、青が良い。赤は、不気味だ。教会の紫陽花は赤ばかりだった。だから、青を見たくなってね」  ジャクソンの呟きに、ゴードンは、  「それは、土がアルカリ性だからだ。普通の土は弱酸性が多いから、青になる」  「とすると、神父館の庭の土壌はアルカリ性なのかな」  「いや、酸性のはずです。この辺りの土は昔から酸性に決まっているわ。私、小学生の頃、土にリトマス試験紙を付けて、酸性度を調べる実験をしたことがあるもの。そのとき、先生は、町の土壌は、肥料をやってなければ、多くは酸性を示します、と言っていたわ」 エミーが体験を語った。  「じゃあ、肥料がやってあるんだろう」  ゴードンが言った。  「花を赤くするためにか」  ジャクソンは、疑問を呈した。  そして、同時に首を振りながら、  「じゃあ、土壌の性質が変わる何かが埋まっているんだ」  ど言って、四人は顔を見合わせた。    二十一 自白せず3  「思わぬ」胸の強打で入院していたジョージ・フォード医師は、快方に向かっていたが、病院から退院するのは、なるべく遅いほうがいい、と思い出した。怪我をした日には、あのウオードとかいう保安官の他に、市警察のジャクソンとかいう刑事も、面会に来ていたのだ。二人の警官が同じ日に訪ねてくるだけで、異常な事態だった。いつか、来ることは予想していたが、その日とは思わなかった。  右足の怪我は、もう殆ど治っていて、すぐにでも、ギブスを外すところまで行っていた。だが、医師は、そんなに早く外そうとも考えていなかった。  冷徹に人生を計算して生きてきても、いざ、恐れていたことが現実になってこようとすると、気持ちは揺らいだ。病院のベッドの上で、何度も恐ろしい夢を見て、うなされた。  断頭台の上に立った医師を大勢の群衆が取り囲んでいた。目隠しはされているが、その台の上には、大きなギロチンが据えられていて、犠牲者を待ち構えているのは、間違いがなかった。執行吏が、医師の頸を下の穴に導いて差し入れ、止め具を止めた。群衆から歓声が巻き起こった。「執行」という大きな声が、聞こえた。ギロチンの上部に吊られていた刃の止め具が解かれて、その鋭く研磨された刃が、一気に地上に向かって降りていく。  「うううっつ」  医師は、その瞬間、全身を包んだ不快感を抱えて、目を覚ました。  外には、灰色の雲が立て込めた春霞の光景が広がっていた。    ジャクソン刑事は、ウオード保安官の依頼を受けて、フォード医師の逮捕状を請求した。地方の刑事事件の書類手続きは、その地区の属する地方裁判所の管轄内なら、代理請求が、司法手続代位行為として認められている。  容疑は、妻のエリザベス殺害、同死体損壊、同遺棄容疑だった。ジャクソン刑事の管轄である娘のアネット射殺事件も容疑が濃厚だったが、傍証固めが不十分と見て見送った。それは、医師を逮捕してからの調べの中で、追及するつもりだった。  エリザベス殺害に付いては、家の家宅捜索で多量の証拠を得ていた。鑑識や監察医の鑑定結果も、医師の犯行を裏付けるのに十分だった。あとは、医師の身柄を確保して、それらを突きつけて、自白させるだけだった。ジャクソン刑事は、ゴードンから、フォード医師の不審な生命保険金のやり取りの証拠も得ていたから、追及する資料は十二分にあると踏んでいた。  ジャクソン刑事とウオード保安官は、同僚の助けも得て、フォード医師の入院している病院の担当医に、逮捕が可能かどうかの、打診をしてから、許可を得て、逮捕状を執行した。  フォード医師は、覚悟をしていたのか、係員の指示に素直に従い、身の回りの品を持って、差し回しの捜査用車に乗って、市警察本部に連行されてきた。右足のギブスは、外されていて、すでに負傷は治っていたらしかった。だが、胸と胴体には包帯がぐるぐる巻きにされていて、一見したところは、痛々しい感じがした。それは、詰めかけた報道陣のカメラを意識した計算か、とも思われたが、事実、かなり重症だったのかもしれない。いずれにせよ、医師は警察の聴取に耐えられるだけの体に回復しているのは、そのしっかりとした足取りから、明らかだった。  警察に到着後、直ちに、地下一階の調べ室に入れられた医師は、ジャクソン刑事から簡単な身元確認の質問を受けたあと、ウオード保安官による、妻殺しの調べに応じた。  「奥さんのエリザベスが、失踪したとの届けを、あなたは出していますが、ソーン郡メリーウッドの川で見つかった白骨死体が、奥さんのものに、間違いがないという鑑定が出ています。これをどう思いますか」  保安官が最初に質問をした。  「その話は先日も聞きましたね。何か事故に会ったか、誰かに殺されて捨てられたか、どちらでしょう。自殺とは考えられません。遺書もないし」  医師は、平然と滑らかに以前、医院で会ったときと同じ考えを述べた。  「そう考えるのは、当然ですね。ところで、あなたは、その殺人の容疑で逮捕されたのですが、犯行は認めますか」  保安官は構わず、先日と同じ質問を淡々と続けていく。  「いえ、私はやっていません。妻は、失踪して、死体で・・・、いや、白骨で見つかったんです」  「そうしたのは、あなたでは、ないのですか」  「そんなことはない」  「では、なぜ、奥さんはいなくなったのですか」  「それは、分かりません。御存知かもしれないが、私は週の殆どを、市内の医院で過ごしている。家に帰るのは遅いのです。それでも、いつも妻は起きて待っていてくれた。それが、あの日に限って、家には明かりが付いておらず、人の気配がなかった。出掛けるというメモもなかったが、妻はいなくなっていた。だから、心当たりは、まったくない」  「だが、常識的に考えて、家出をする人が、何の痕跡も残さない、と言うことはないんですよ。なにか、理由があっての決断が、そういう行動を取らせるんですから。夫が異変に気が付かないということはないでしょう」  「でも、ないんだから、しかたがない。実際そうなんだから」  医師はむきになって、反論した。  「まあ、いいでしょう。ところで、お宅を捜索したところ、面白い物をいろいろ見つけましたよ。あなたは、日曜大工をしますか」  「しますよ。それで、屋根から落ちて、足に怪我をしたんです」  「ああ、あの右足ね。すっかり治ったようですね」  「軽い怪我でしたから」  「その日用大工で使う道具類が沢山ありまじた」  「私は、職業柄、道具には凝る方なんです。必要な物を集めているうちに、あんなに多くなってしまった。一度しか使わないものばかりです」  「二階に行くと、整然と電動工具類が並んでいた」  「私は几帳面なんです。なんでも、きちんとしておきたい。これは、性分です」  「われわれは、その幾つかを押収しました。そして、調べてみました」  「ええっ、なにを」  「白骨死体には、腰の部分に細い溝が刻まれていたんです。知っていましたか」  「知っているわけがない」  医師の表情が強張った。  「これが、その写真ですが、見ますか」  保安官は、一枚の写真を手にしていた。  「いや、見たくない」  「だが、ぜひ見て頂きたい。これです」  保安官は、医師の目の前に机に、引き延ばした骨の写真を放り投げて、置いた。医師は、遠目からその写真を見ていた。  「ほら、ここに、溝が刻まれているでしょう。その溝に、お宅の納屋で見つかった電動チェーンソーの刃がぴったりと一致したんですよ」  医師は、下を向いて、すこし、考えていたが、  「だからといって、家にあった工具とは限らないだろう」  と大声で答えた。  「そうです。他にも沢山、同じ製品が売られていますからね。でも、骨に付く歯形は皆違う。そのことは、歯科医で、骨の扱いになれたあなたは十分、ご存じでしょう」  「であるにしても、私がやったという証拠にはならない。私は、週日は家にいないんだから。誰かがその道具を使ったんではないですか」  「たしかに、そう言うこともできる。だから、あなたは、やっていないというのなら、では、誰がやったんですか。それを教えて貰いたい」  保安官は語気を荒らげて追及した。  「でも、やっていないんだから、そう言うしかないでしょう。私はやっていないんだ」  フォード医師も大声で応じた。  二人の間に凍ったような沈黙の時間が流れていった。  「では、次の質問をする。ここにあるのは、あなたの家の内部を特殊な液で、検査した映像だが、何だと思うかね」  「なんでしょうね」  「青く光っているのが、血液の痕だよ。夥しい量だろう」  保安官は、寝室の写真を見せた。  「天井にまで、血が飛び散っていた。なぜ付いたんだと思うかね」  「・・・・・・」  「われわれは、ここで、奥さんは殺されたと、考えている。酷いものじゃないか」  歯科医は顔を背けた。  「ここで、殴られたんだ。そして、犯人はこの光の通りに、死体を運んでいって、庭で処理した。そうだろう」  「・・・・・・」  「どうだ、思い出したかね」  「私は知らない」  医師は頑に否定した。そして、沈黙した。 調べは、膠着状態に陥った。保安官は、そこで、部屋を出ていって、ジャクソンと交代した。  「私はあなたに会うのは、これが、始めてだが、ずっと前から知っていたような気がするよ。私に会ったのは、これが初めてかな」 ジャクソン、静かに、聞いた。  「そうだろう」  「私はそうじゃあないと思う。あなたは右足を怪我していたが、なんで怪我をしたんだい」  「屋根から足を踏み外したんだ」  「そう言っていたね。だが、あんたが入院していた医師は、擦り傷ではないと言っている。打撲でもない。鋭利な物で切られたような裂傷だと言うんだ」  「落ちたときに、木に当たって切れたんだ」  「そうかな」  「ところで、あなたにはアネットという娘がいるね」  「ああ、でも、もう独立して、市内で暮らしている」  「その子が、死んだのは知らないのか」  「いや、聞いたよ。なんでも、賊に入られて、撃たれたそうだな」  「娘なのに、それだけか」  「事件が捜査中だからといって、遺体も引き取らせてもらえない。葬式をしてやりたいのに、これでは、できないじゃないか」  医師は、先程のうなだれた姿勢とは変わって、憤慨する口調になっていた。  「それは、しかるべく取り図ろう。だが、あんたが、ここにいては準備もできないな。そのためにも、早く本当のことを言うべきだな」  ジャクソンは、効果的に言葉を使った。  「言っているよ。あんたたちが信じないだけだ」  歯科医は、言い張った。その日、それ以上の自白はなさそうだった。ジャクソン刑事は保安官と相談して、初日の調べは、そこで打ち切ることにした。一日泊まれば、気持ちも変わるだろう、という期待と、初日の調べでは、核心を突く自供は得られない、という経験則に基いていた。    翌日、朝一番の調べはジャクソン刑事が行ったが、フォード医師は、前日とは一転して、妻を殺したことを自供した。  「よく考えて見ましたが、エリザベスは私が殺しました」  とハッキリとした口調で認めたのだ。  ジャクソン刑事は、驚いて、調べを保安官と交代した。  「そうか。やっと認めたか。きのうの夜、よく考えたんだな」  「はい、昨夜、リズとアネットが、夢枕に立って、いつまでも言い張っていないで、罪を認めて、私達の所に来て、と言ったのです。もう、私も耐えられない状態でしたから、救われました。彼女たちの勧めに従って、素直になることに決めました」  医師は、すっかり焦燥していた。うなだれながら、そう言うのが精一杯だったが、保安官は、一気に詳細な自供を取るつもりだった。  「それで、どうやって殺したんだね」  医師の気持ちが落ちついてから、そう質問した。  「寝室で、殴り殺したんです」  「そして、死体を切断もしたのか」  「しました」  「なんで殴ったんだ」  「バットのような棒です」  「それが、見つかっていないんだ。どこに捨てたんだ」  「庭で衣類などと一緒に、焼き捨てました」  「何回くらい殴ったんだ」  「それは、もう何度もです。ぐったりして、抵抗できなくなるまで殴りました」  医師の自供は、異常に滑らかだった。  「それは、間違いないか。何度もなのか。二、三度ではないのか」  「いえ、何度も殴りました。それは、何度も」  保安官は、ジャクソンと話し合いに部屋を出た。  ジャクソンは、やり取りを隣りの部屋で、聞いていた。  「困ったことになったようだ」  隣室に入ってきた保安官に、ジャクソンは、慰めの言葉を掛けた。  「仕方がない。あとは、あとのこととして、調べを続けますよ」  そう言って、保安官は調べ室に戻った。  「それで、遺体は、どうやって処理したんだ」  「あの電動チェーンソーを使って、切断しました」  「それから」  「ヴァンに乗せて運んで、川に捨てたのです」  「それは、下半身だろう。見つかった下半身だけだな」  「いや、一緒ですよ」  「そうではないだろう。上半身は、いくら川さらいをしても、発見できなかった。どこに、やったんだ」  「分かりません。川に捨てたんですよ」  「もう嘘をつくのは止めにしたらどうだ。短い間にしても妻だったんだから、遺体を見つけて、丁重に祀ってやろうという気にはならないのかね」  「うううっつ」  医師は、下を向いて、嗚咽しはじめた。  「そうしてやりたかった。でも、できなかった。だから、その代わりにと」  「その代わりに」  「花の下に埋めてやたったんだ。おれは、悪魔に心を売ってはいない。妻も娘も愛しているよ」  嗚咽は激しくなった。  「やはり、どこかに埋葬してあるんだな。それは、どこだね」  保安官は、間を置かずに聞いた。  「彼女にとっては、最良の所だ。神の御許にあるのだから」  保安官とジャクソンは、その一言で全てを理解した。  「手伝ったのはだれだ」  「しかるべき立場の人だ。丁重に彼女は天に召されたんだ」  「しかるべきとは、そうい祭祀を司る人という意味か」  「そうだ」  「では、神父はどこにいる」  「教会にいないのか」  「いない」  「早く探してくれ。酷いことが起きる」  フォード医師は、そこまで一気に話して、机につっぷして、息を荒らげ、鳴咽した。  「酷いことというと」  「世界が胆を潰すような出来事だ。多くの人々が生命の危険に晒される」  そこまで聞いて、ジャクソンと保安官は相談した。  「奴が、妻を殺した犯人ではないことはハッキリした。鑑識の結果では、凶器は三回しか振り降ろされていない。天井に着いた血痕が、そのことを証明している。『何回も』ではないのだ。ただ遺棄を手伝った可能性はある。しかも、共犯がいるらしい。それは、失踪した神父だな。釈放して泳がせたほうがよさそうだ」  「そうだな。殺した奴がだれかは、大体の見当は付いた、奴はまだ全てを話していない。新犯人を知っている可能性が高い。だが、奴には証拠がない。解放すれば、多分彼は神父の所に行く。そのとき、一気に一網打尽にできる。もちろん尾行は付けよう」  話し合いは付いた。フォード歯科医は、警察に一泊しただけで、釈放された。    二十二 密 会  「神父、あなたがこちらに来てから、すでに一週間が過ぎましたが、あとはどうするおつもりですか」  神父館の大司教の食堂で、夕食をとりながらサプリアン大司教が、厳かに聞いた。  食堂のテーブルは長方形で、その両端に向かいあうようにして、二人は、食卓に付いていた。テーブルは約六メーターもの長さで、ある程度、大きな声を上げなければ、相手に聞こえない。  「計画は、進んでおります。着実に」  下を向いて、ナイフとフォークを使いながら、すこし顔を上げて、ロバート・デ・コスタ神父が答えた。  「そのことは私は知らない。私に関心があるのは、こういう状態が、いつまで、続くのかと言うことだけだよ」  「ですから、あと、数日です。明日には、”ブツ”が全部揃います。船の用意も、あとは、最後の仕上げだけですから」  「数日というのは、幅がある。あと、四、五日と考えていいかね」  「いいでしょう。五日もあれば、すべて終わります」  「信じているからね、神父。教会は、こういう 世俗の出来事には、なるべく係わりたくないのだ」  大司教は、そう言って、牽制した。  だが、神父は知っていた。この大司教が、その言葉とは裏腹に、最も積極的に、その世俗的なことどもに係わって来た人であるということを、神父は全て知っていた。だから、この会話は、あからさまに建前なのである。  (この男は、信者の前では正義を説き、寝室では札束を数えている)  神父はそう思っていた。だらこそ、神父はこういう深みに嵌まることになったのだ。  (この男に従って生きてきたばかりに)  神父は天涯孤独の身を、この教会に救われて育てられ、今の地位を獲得した。その人生の全てに係わってきたのが、そのころは教会付属の養育院の若い神父だった大司教だった。いわば、育ての父だったのだ。  その大司教が、  「この仕事をやって来れないか」  といま、神父が中心になってやっている「任務」を任せるようになったのは、今の聖マリア教会の主任神父として、赴任することが決まった日の夜だった。  神父は、この同じ食堂に呼ばれて二人だけで夕食を取った。  「君も、これで、一人立ちだな。やっと、自分の館を持つことになるわけだ。頑張ってくれ」  と労ったあと、  「これからは。教会経営の責任も担うことになる。教義はもう完璧だ。教会の宗教活動という点では、私は君に太鼓判を押せる。だが、経営となると不安が一杯だ。君は一度もそういうことをしたことがないだろう」  神父は、ただ、頷いて聞いていた。  「一つの教会を運営するのは、大変なことなのだ。それに、われわれの教会は、祖国アイルランドとのつながりが深い。祖父母の実家はみな、彼方にあるのだからね」  「それは、そうです。よくわかっていますよ」  「われわれは信義を重んじる。恩は忘れないが、恨みも忘れない。そういう民族だ」  「そうです。それは、暗い冬のあの国の天候が関係している」  「そうだ。われわれは、恩讐の民族だ。英国との独立への長い戦いが、いまでも続いている」  「はい、それが、胸に応えています」  「きみが、そう言うくらいだから、祖国の人達の苦渋はいかばかりか。わかるだろう。彼らが困窮の時にある時、われわれは、どうすべきか。見捨てておけるかね」  「これまでも、色々と、救いの手を差し延べて来ました。移民の受入れや生活相談、仕送りなどで」  「そうだ。救いの心は無限でなくてはならない。神の愛は無限だ。限りなくあまねく、代償を求めない」  「私は、そう思って生きています」  「同胞への援助を、君も続けていって欲しい」  神父は納得した。それは、当然の気持ちだったし、ずっとそういう気持ちで生きてきたのだ。  神父が頷くと、大司教は、  「これは、極秘だが、われわれは、祖国の独立を求めて戦っている過激派からの援助要請も慎重に検討してきた。そして、彼らの救いを求める声に応えることにした。だが、これは、極秘だ。公式の決定でも、活動でもない。だが、やることにした。祖国の苦渋を見捨ててはおけない。そこで、君にその仕事をやってほしいと思っているのだが」  「分かりました」  神父はそう言わざるをえなかった。大司教がそうまで言うのは、神父を信頼している証しだった。多分、大司教は、一人でその仕事を扱ってきたのだろう。それを、これからは、神父に任せよう、というのだ。  「君が、ここを離れるのも、都合がいい。この町でこの仕事をするのは、危険が大きすぎるからな」  その言葉を最後に、二人での晩餐は終わった。大司教は、このあと、執務室に神父を連れていって、関連書類を渡した。連絡すべき祖国の秘密エージェントの電話番号やインターネットのアドレスやこの国で活動している、接触すべき工作員の名簿などが書かれた秘密文書が入っていた。  神父は工作員の名簿を見て、少なからぬ感慨に捕らわれた。それらには実名の他に暗号名と短い履歴が書き込まれ、いつ撮ったのか分からないが、顔写真も添付されていた。その何枚かの顔に、神父は見覚えがあったのだ。  いずれも、この大都会の吹き溜まり、アイルランド系の移民の低所得者層が住むウエストサイドの管区で日曜教室の教師をしていたときに、見かけた少年たちだった。  そのなかで、一番記憶に残っていたのは、ジョージ・フォードという痩せぎすの長身の少年とテリー・シェルドンという名の太った丸顔の眼鏡を掛けた聡明そうな少年だった。いずれも、頭の回転が速く、勉強ができたが、その根性は救いようがないくらいにねじまがっていた。それだけ、扱いに手こずっただけに、神父は忘れようがなかったのだ。  彼らは、何度も警察の厄介になっていたが、その度に、神父は警察に出向いて、もらい下げや穏便な取り計らいを求めて、駆けずり回った。そういう努力のはてに、署から身柄を解放させてやっても、彼らは、礼の言葉一つも言わないで、街の中に逃げ込んで、家にも帰らないのだ。そして、数日すると、路上強盗や万引きの被害が山積するのだった。  彼らの悪行で、神父がいまだに許せないのは、路上のホットドッグ売りの老人たちを連続的に襲って、金品を強奪した事件だった。老人たちは用心のために、互いに助け合う防衛仲間を組んでいて、なるべく一人だけで活動しないよう用心していたが、少年たちの知恵の方が上だった。ホットドッグ売りは、その商売の性質上、並んで店を開くのでは、効率が悪い。どうしても離れて営業するようになる。少年らはその時を狙って、徒党を組み、一人が食い逃げをする。老人が、その少年を追いかけ、かなり遠くまで行ったころ、仲間の少年が、不在の屋台から売上金を入れた金庫を盗む、という手口だった。初めは二人が組んでやっていた犯行だったが、老人たちが二人一組で防犯体制をとるようになってからは、少年たちは三人組になった。二人が同時に食い逃げをして、おびき寄せ、残りの一人が、すばやく、金を盗むのだった。  その食い逃げをする少年が、ジョージ・フォードだった。金を盗んでいたのが、テリー・シェルドンだった。そして、あとで新たに加わったのが、ミリアン・シュルツだった。  ジョージは、そつなく足も速かったが、ミリアンは要領が悪かった。追いかけられたミリアンが、赤信号を突っ切らずに止まったため、捕まりそうになって、もみあいになった。その場所は、彼がワンブロックを回って、もとに戻る所だった。だから、仲間の二人も近くにいた。ミリアンは、もみ合って、老人に組み伏せられそうになった。そのとき、二人が走り出て、老人の手足を持って、体を車道上に投げつけた。空いていた車線をバスが走ってきた。路上にうずくまっている人の姿を見つけて、バスの運転手は急グレーキを掛けたが、間に合わなかった。バスは老人の上を過ぎてから、やっと停止した。老人は直ちに、救急病院に運ばれたが、助からなかった。  少年三人は、刑事裁判に掛けられたが、神父が奔走して、身柄引受人になり、保護監察の保護士まで引き受けて、彼らは釈放された。  この事件の後、三人は立ち直り、徐々に、父母の生活レベルが向上したこともあって、市外の別々の住宅地に移り住んだ。彼らが高校に進むころには、互いの消息もわからなくなっていた。  だが、それを大司教はしっかり掴んでいて、この職務の秘密要員として確保していたのだ。信者の家系まで書類として保存している教会ならでは、できることだろう。それは、故郷を同じくする者の親密な関係が、形作っている人々の「ネットワーク」から、作り上げたが暗闇の組織だった。その存在は、神父もまったく、知らなかった訳ではないが、自分がそういう「危険な仕事」の元締めに指名されるとは思っていなかった。それは、あくまでも、大司教の絶大な権威の元でだけ、可能な危険な職務と思われたからだ。    二十三 武 器  ウイリアム・ゴードンは、四番街のワルサー銃砲店に出掛けて、なくしたPK34を新たに購入しようと、カウンター越しに店員と話をしていた。ショーケースの上には、警察仕様の銃が何種類か、並べられていた。ゴードンはそれを一つ一つ手にとって、握りの感触と、発射時の反動の感覚を見ていた。ケースの中には、他にも多数のピストルが展示されていたが、既に取り出してある拳銃以外には購入予定の候補はなかったから、ゴードンは、その中から一つを絞り込めばよかったのだ。  ゴードンは、やはり、同じPK34を買うことにして、最後の確認のために、両手で銃握を掴んで、屋外の歩道に向けて照準を合わせていた。  右目だけで、ターゲットを狙っていたゴードンは、道路沿いのショーウインドウの外を歩いていく人達の頭を照準で追っていた。最初は、ブロンドの若い女が、右から左に歩いていく姿を追って、姿が消えたあと、初めの右側に戻して、次の照準を定めた。  次は、中年の男だった。太った丸顔にロイド眼鏡を掛け、口髭を八の字様に伸ばしていた。髪が長髪だった。その顔を見たとき、ゴードンの脳裏を、デジャブ(既視)感覚が走った。どこかで、見たことのあるという感覚だ。ただし、髪の長さは違う。  (あれ、どこで会ったのかな)  ゴードンは、持っていた銃を下げてから、暫く、考えた。  髭を取り、眼鏡の形を変えて、髪を短髪にしたら。  (そうだ、あれは、テリーだ)  ゴードンは気が付いた。そして、銃を置いて、店外に走り出た。  テリーは、気が付いていない。ゴードンは、尾行を始めた。テリーは、堂々と、この国の最大の都市の繁華街の目抜き通りを、歩いていった。  (あの一家四人殺しで、全国手配されている男が、白昼堂々と、大通りを歩いている)  ゴードンはそのことが信じられなかった。  テリーは、ワンブロックほど歩くと、その先のアイリッシュ・バーに入っていった。テリーも後に従って、店内に入った。店に客は余りいなかった。店は、鰻の寝床の様に奥行きがあり、一番奥でドアーが一枚、その先を塞いでいた。  テリーは、顔見知りなのか、軽く店員に会釈すると、まっすぐに奥に進んでいき、そのドアーを開けて、中に入っていった。ゴードンも後に付いていこうとしたが、店員が見張っていたので、やめにした。中に入る口実がなかったのだ。その代わり、カウンターの中にいた店員に向かって、  「今、入っていった客は、なんていうんだ」  と唐突に聞いた。  「えっ。ああ、マクシミリアンですか。オーナーの友達ですよ」  店員は素直に答えた。  「よく、来るのか」  「最近はそうです。もともとは、支店の客だったんですが」  「支店って」  「ああ、ソーホーのエスニック・パブですよ」  ゴードンは名前を聞いた。その名前には、聞き覚えがあった。ミリアン・シュルツの浮気調査をしていたときに、ミリアンが雀斑顔の赤毛の女、と密会していた場所だった。その女は、いまとなっては、アネット・フォードという名前だと分かっている。 (テリーも、あの店の客だったのか。ミリアンと、知り合いなのかもしれない)  ゴードンは、そう考えて、この追跡は諦められないと決意した。とにかく、店の回りを注意深く見張って、男の出てくるのを待つことにしたのだった。  三十分も待っただろうか、店の客は徐々に増えて、客席は一杯になった。店員たちの動きが忙しくなり、店内は騒がしくなってきた。  ゴードンは時計を見た。午後五時半をすこし回っていた。ドアーの奥に耳を凝らしていると、争うような男の声がした。そして、大声とともに、銃声が五発した。最初に音を聞いたのは、ゴードンだった。それは、ドアーの向こう側に神経を集中していたからだ。  ゴードンは、ドアーを突き破って中に飛び込んだ。奥にはさらにもう一枚のドアーがあり、そのドアーは、開いていた。  ゴードンは、まっすぐに部屋の中に飛び込んだ。奥に大きな机と高い背もたれの付いた椅子があり、その黒い皮で覆われた椅子の上で、初老の男が胸を押さえて、息絶えていた。  店からの緊急通報を受けて、現場に急行したジャクソン刑事は、店の中で見覚えのある男がカウンターに座って、手帳にメモを取っているのを見つけた。  「おや、また、あんたかい、最初の通報者は。通報者欄に名前があったんで、そうじゃないかとは思っていたよ」  「そうだよ。よく会うものだ。あんたとおれは生まれついての腐れ縁のようだな」  「さて,仏さんはどこかな。拝見してから、あんたから話しを聞かないといけない」  「待っているよ」  ジャクソン刑事は、現場の部屋に入っていった。  死んだ男は、この店のオーナーで、ニコラス・ホーンといい、町のアイルランド系商人の裏社会の「ドン」とも恐れられている人物だった。表向きは、レストランの経営者ということになっているが、その仕事の範囲は手広く、ウイスキーなど洋酒の輸入販売、食品の加工販売に加え、コカインやヘロインなどの麻薬の密輸にも手を染めているという評判だった。さらに、それらで稼いだ資金を元手にして、武器売買にも手を伸ばし、アジアや中近東の反政府組織と取り引きをしているという噂があった。  ニコラス・ホーンは、私室の重厚な革張り椅子の上で、胸に三発の弾丸を受けていたが、それは、致命傷ではなく、頭に入った一発が、彼を死に至らせていた。胸を撃たれて、反撃しようとしたのだろうか、机の右の下の引出しが開いていて、その中にあった拳銃を取り出そうとした右手も撃たれて、開かれた引出し上に乗せられたままになっていた。  それで、計五発を打ち込まれていたのだと、分かった。  ジャクソン刑事は、机の上に置いてあった書類を手に取った。それは、品物の納品書と請求書、領収書が一緒に綴られた書類で、横書きの品目欄に、十一品目が記入されていた。だが、何れも見慣れない名前で、ジャクソン刑事には意味が分からなかった。ただ、最初の五品目は、金額があまりに多額だったのが気になった。  一番上の項目は、「セルパ1」とあり、二十万ドルだった。その後に2から5まで同じ項目があった。金額は、十五万ドルから二十五万ドルの間に散らばっていた。結局、この総計は約百万ドルに上った。ほかの六品目には、ただアルファベットで、eからjまでの記号が書かれていて、それらは五万ドルから十万ドルの間の金額で、その合計は、三十五万ドルだった。   ジャクソン刑事は、その書類の束を手にして、部屋を出ていき、ゴードンに見せた。  「これは、何だと思う」   渡された書類を手にして、ゴードンは、  「物の取り引き伝票には違いないが、暗号ばかりだな。それにしても相当、多額な取り引きだ。表にできない闇の取り引きだよ。だが、薬ではなさそうだ。奴等は、書類なんて作らないからな。ブツと現金の交換が基本だから。一つの単価が高いから、これは相当特殊な品物だろう」  ジャクソンも同じ意見だった。   「これは、背景に大掛かりな犯罪が潜んでいそうだな。ところで、あんたは何で、ここに来ていたんだ」  ジャクソンが、思い付いたように聞いた。  「ああ、それか。実は、あの一家四人殺しの容疑者のテリーらしき男を追ってきたんだ。その男が、この店に入ったんで張っていたら、そっちで、銃声が聞こえた。午後五時半過ぎだった」   「そうか、それなら、その男がやったんだろう。逃げたのはどっちだ」   「あっちしかないだろう。店の中は通っていないんだから、裏口から逃げたんだろうな」  「追わなかったのか」   「追わなかった」  ゴードンは、目をそむけながら言った。  ジャクソンには、その気持ちが良く分かった。  (まだ、心の傷を癒していない)  ジャクソンは、そう納得して、話の方向を変えた。   「よし、では、テリーを手配しよう」  「それがいいが。多分、効果はないだろうな」  「なぜだ」  「彼は、容貌を変えている。どこかで整形手術を受けたのだろう。以前の写真では分からないよ」   「そうか、では、あんたの記憶を基に、修正すれば、良いだろう」  「それはそうだが、それには時間がかかる。部屋に、ほかに手掛かりはないのか。スケジュール帳とか、日記とかの手掛かりはないのか」  「いま、調べているよ」  ゴードンは、手にした書類を子細に見ていった。一番最後の一枚が目に留まった。  ーー 五月二十日、北埠頭で引渡し。金は受領済み。現品のみーー  「おい、今日は十七日だな」  「そうだ」  「あと、二日、間にある。それとも、二十日に一日中張り込むことになるのかな」  ゴードンは、その部分を指しながら、片目を瞑って、ジャクソンに言った。   「それまでに、見通しを付けてやるよ。フォード歯科医には、尾行を付けてある。奴等は、必ず連絡を取る。糸口はあるはずだ」  ゴードンは、笑顔で刑事を見た。   「君も同じことを考えていたのか」  「奴等は同じ穴の狢なんだ。アネットのコンピューターにこの名前があった時から、おかしいとは思っていた。この伝票を見て、ピンと来たよ。何十万ドルという金額は、あの時見て以来だからな」   「確かに、シンジケートが存在するようだ。事件はその構成員の周辺で起きている。誰かが操っている。首魁がいるはずだ」   「いずれ、明るみに出るさ」   ジャクソンは、右手の親指を突き上げて、ゴードンに押し付けた。ゴードンもそれに応じて、右手の親指を同じ形にして、応じた。  フォード歯科医宅から押収した資料の分析をしていた群警察本部の鑑識係は、パソコンのハードディスクに入っていたファイルの解析をほぼ終了していた。一番、手間取ったのは、暗号で封印されたメールの解読だった。そのファイルは、ハードディスクの区画の一つを満杯にするほど多量だったが、キーワードと暗証番号で二重にロックされていたため、開くのに手間取ったのだ。  メールの多くは、私信だった。フォード医師は、頻繁にパソコン通信をしていたらしく、殆ど毎日のように、交信記録が、残っていた。その一つが、ゴードンが、受けた「ペンシルヴァニア州ノーフォークで殺人遺体」という項目の、ゲーリー・クライスト名を名乗る交信だった。  だが、係官が注目したのは、宛先が「ベルファースト」となっている解読が難かしい夥し数の通信文だった。その幾つかは、  ーー ご依頼の熊を三頭と、キリン二頭を海豚に乗せて、送った。定石は一箱ーー とか、  ーー 馬の件は、後日に。他の馬を探してくれ。この馬では大きすぎるーー  などいう記述で、まるで、動物貿易商の交信のようだった。  その他、  ーー ロパスからセルパヘ、遠藤豆二十五個を送るーー  とか、  ーー セルパに依頼したが、入手まで一週間かかるとかーー  という発信記録もあった。  最新の交信は、  ーー 二十日にオデッセーが、北へ行く。セルパ五、アルノ六。介添人はテリー・Sーー  という発信だった。  「これらの暗号文は、物の取引のやり取りですよ。フォード医師は、ベルファストの何かの組織と連絡し会って、物品を調達して送っていたのです。そのための記録を残していた。記憶と証拠保持のためでしょう」  係官は、そう推測していた。  「電話と違って、簡単に記録が残せるうえに、秘密の保持もできる。インターネットは、便利は、国際通信の道具なんだ」  係員は、そう話しあって、日進月歩の通信技術の進歩に、捜査技術も革新を余儀なくされる現状を実感していた。  それは、保安官が考えていたウオード歯科医の裏の仕事と密接な繋がりがあるに違いない。そもそも「多額の金のやり取りの記録があった」と聞いてから、保安官は、歯科医が表の仕事以外に、なにか秘密の仕事をしていたのでは、という疑いを抱いていた。町の一等地の中心部であのような立派なクリニックを経営しているのも、自宅の粗末な様子と比べ、格差が際立ちすぎていた。どこかに、余裕の資金が無ければ、できない経営ぶりだったのだ。  フォード医師には、ジャクソン刑事の意向で、二十四時間の尾行が付けられている。保安官も、その一員に加えてもらったほうが、捜査の進展に役立ちそうだった。保安官は、市警察の捜査員が見張っているフォード歯科医の自宅前に行って事情を話し、途中から張り込みに加わった。  二十四 発 掘  釈放されたフォード歯科医は、しかし、自宅には帰らなかった、市内のユニバーサル・デンティストに引きこもってしまったのだ。ここにも、経営者である彼の個室があったから、暮らしには困らなかった。それに、使っている歯科衛生士の女性もいたから、身の回りの世話をしてもらえる。だが、医院は休業となっていた。入口の扉は閉じられていたが、その前の路上には、四六時中、見張りの警察車両が停まっていた。  院長の個室には、電話もあれば、ファックスも設置されていた。それにパソコンもあったから、院長が外部と連絡を取るのは簡単だった。その電話のベルが鳴ったのは、夕方から個室のベッドで休んでいて、目が覚めた時だった。歯科医は、その時、何時もの癖で柱時計を見た。午後十時だった。  「はい」  「私だ。御苦労さんだったな。容疑は晴れたのかな」  「どうにか」  「計画は、予定どおり進んでいるか」  「そのはずですが」  「良かった。テリーは、行ったのか」  「準備はできていると思います。確認しますか」  「そうしてくれ。決行日はあすだぞ」  「分かっています」  「もう時間がないんだ」  「できたら、あなたに会いたい。これが最後なんだから、顔を合わせて、成功を祈ろうではないですか]  「そうだな。最後なのだし、思い残すことはない」  「それに、私は、あれをきちんと葬ってやりたい」  「そういう気持ちは大切だ。われわれは、そういう信仰心を失ってはならない。私も気になっていた。あの場所に行っては祈っている。それに、花が変わってきている。気がつかれてはまずい」  「移したほうがいいでしょうか」  「そうしたいが、時間がない」  「今から、やってみましょうか」  「だが、君は見張られているだろう」  「もういいんですよ。あれが終われば、全て終わりです。私はもう、疲れました。実を言うと、警察に捕まって、留置所に入れられていたときが、一番安心できたんです。もう終わりにしたいんです」  「そんな弱気なことを言うなよ。われわれは、あくまで、誰にも知られることなく、ひっそりと生きていけばいいんだ。これで、終わりなんだから」  「これまで、何回もそう言われて、続けてきたんです。本当に終わりにしたい」  歯科医の言葉がか弱くなった。  「気を弱くするな。いいよ、出てこいよ。一人で閉じこもっているから、弱気になるんだ。出てこいよ」  「でも、尾行が付いています」  「場合によっては力ずくで、方を付ければいいんだ。弱気になることはない。堂々と、出てこいよ」  相手は低音で太い声の押しが効いた話しかたをする男だった。  「行きます。一人でこんな風にしているのは耐えられない」  フォード医師は、電話を切るとすぐに、着替えをした。黒いズボンに、黒革のジャンパーを羽織り、黒いスニーカーという黒ずくめの姿で、裏口から路上に走り出た。  その姿を、裏口に張り込んだ刑事が見つけたのは当然だった。刑事から無線で緊急通報を受けた表の車のなかの同僚が一人、駆けつけてきた。二人は、歯科医の後を付けた。  先を行く歯科医は、刑事が二人後を付けてくるのは知っていた。ワンブロック程、行くと、その数は二倍になった。市警察本部の刑事部屋にいたジャクソン刑事にも、無線の会話は聞こえていた。ジャクソンは、咄嗟に立ち上がると、上着を羽織って、公用車に乗り込んだ。行き先は、大体見当が付いている。  (今夜は、遅くなるだろう)  と覚悟して、刑事は、車の中からウオード保安官の携帯電話に電話した。保安官は、歯科医の自宅に張り込んでいたが、ジャクソンの連絡に、  「至急そちらに向かう」  と連絡してきた。夜ではあるが、そこからは飛ばしても三十分はかかる。だが、その位時間では事態は動かないだろう。  (今夜は、遅くなるだろうから)  警察無線が、医師の居場所を刻々と、伝えてくる。今、北へ二ブロック進んで、ツファニー百貨店の辺りだ。あとすこし進めば、聖ヨハネ教会に出る。  (彼はそこに行くだろう)  ジャクソンは、そう確信していた。    この街は夜も眠らない。もうすぐ、日が変わるというのに、通りは照明に照らされて、昼間のように明るい。人の流れは、昼間と変わらず、規則的な間隔で流れていっていた。  だが、この時刻に、すこし脇道に逸れたビルの狭間では、その時刻にしかできない恒常的な犯罪が繰り返されていた。照明灯も疎らな路上を、一人歩きするのは、いつでも危険なのだ。  フォード医師は、街の照明の届かない一角に来て、革ジャンパーのポケットに入れたピストルを握りしめた。明るい目抜通りを抜けて、あとワンブロック進めば、その先には暗い空間が広がっている。その暗闇の中央部に、彼が目指している壮大な建物があるはずだった。  その天井に届くばかりの尖塔を持つ礼拝堂に入る前に、しておきたいことがあったので、右に曲がって、教会の敷地の裏口に回った。その先には、駐車場がある。歯科医は、その敷地を真っ直ぐに進んで、神父館の方角を目指して歩いていった。  彼が、右に曲がったとき、追ってきた二人の男も、彼の後に付いて暗闇のなかに消えていった。暗色の車が二台、正面道路に停車し、男が一人ずつ降りて、正面入口へと消えた。礼拝堂の中には、何人かの信者がいた。この堂は午前零時には入口が閉まるから、彼らももうすぐ、出ていくだろう。二人の男は、堂内の両側の端を走って、正面の祭壇までいき、後ろを振り替えって、立ち止まった。堂内をぐるっと見回して、目標がいないと分かると、お互いに顔を合わせて、近付いていった。  「ジャクソン刑事、ここではないようですな」  若い男が、年上の黒人に声を掛けた。  「そのようだ。ここでなくてよかった。私はここでは、苦い思い出がある」  「裏ですね」  「行こう」  男たちは、祭壇の後ろの出口から外に飛びだした。  神父館の庭には、門も塀もない。フォード歯科医は、立ち止まることなく直進し、玄関を入って行った。そのあとを追っていた二人の刑事は、門の前で立ち止まって、中に入るべきかどうか、迷っていた。そこへ、ジャクソン刑事らが追いついた。  「奴はどうした」  「入っていきました」  「では、ここで待とう。彼は、出てくるさ。おれは、裏の庭に回る。君達は、四方に別れて張っていてくれ」  刑事たちは、四散していった。  ジャクソン刑事は、この前に来たときに、駐車場から遠望した裏庭の植え込みの裏に隠れて、建物内部の様子を伺っていた。紫陽花の木を間にして、向こう側には応接室がある。その部屋の照明は灯っていたから、木の間から、向こうの部屋の中の様子が手に取るよう観察できた。以前に中から外を眺めたときの経験から、そのことは実感で分かっていた。  しばらく、植え込みの中に身を隠していると、部屋に二人の男が入ってくるのが見えた。二つの頭が、窓の上に見えたが、すぐに、窓際にある応接椅子に座ったのだろうか、頭は消えた。  ジャクソン刑事は、壁際に歩み寄って、身をかがめて中の話し声を追っていたが、その後、無線で若い刑事を呼び出した。  「もしもし、盗聴装置を持って来てくれ」  表の路上に集まってきた覆面車には、小型の盗聴機械が積んである。  しばらく、内部の音に注意を払っていると、時折、男の泣く声が聞こえた。それを、もう一人の男が宥めている、そちらの声には聞き覚えがあった。ほかならぬ、セプリアン大司教の声である。  程無く、若い刑事が盗聴装置を持ってきた。ジャクソン刑事は、自ら、そのセンサーを壁の奥に取り付け、ヘッド・ホンを耳に当てた。見違えるように良く聞こえるようになった。  「大司教、もう限界ですよ。フォードが泣きごとを言いにきました。もう耐えられないと言うのです。仲間を抜けたいから、妻の霊を弔わせてくれ、と言って譲りません。一応、宥めて私の部屋に待たせてあるますが、決意は固いようです」  「わしは、全てを君に任せてあるのだから、好きなようにすればいいではないか」  「そうも、行きませんよ。これは、あなたの了解と指導でやって来たことなんですから」  「だが、わしは、責任は取らないよ。わしは、あくまで、教会の宗教的な指導者、権威であり、信者の心の支えだ、君らの汚い活動とは、いっさい。関係ない。それが、私の公式の立場だ」  「いまさら、そんな建前を言ってもしかたないでしょう。すでに多くの犠牲を出して来たんです。多くの人命を失った。それもこれも、計画のためではないですか。祖国を助ける郷土愛が、われわれをかき立てたからです。だから、血を流すのも厭わないできた。そういう、自己犠牲を説いたのは、あなたでしょう」  「救いは、行われる。神にそのお力はある。君が私の代理として、その救いの行いをすればいいのだ」  「彼はもう覚悟を決めています。全てを公にするつもりでもいるようです。自分の命はどうなっても、償いをしたい、と私に言っています。そうなったら、あなたも私もお終いですよ」  二人の会話は延々と続いていた。  「すくなくとも、私には関係がないことだ。それは、分かっているだろう。君達が考えて、やったことなんだよ」  「そうです。ですが、あなたも、全てを知っていたではないですか」  「私は、同郷の人たちの苦悩を救ってやりたい。そうしてくれるように、と願っただけだ。その手段、方法に付いてまで、指示したわけではない。これ以上、私に無用の話をしないでくれたまえ。お願いだ」  「いいでしょう。あなたは何も知らなかった。そうしておけば、教会の権威と伝統を守れますからね。分かりました。ですが、この館の庭で処理したことには、あなたも立ち会っていた。それを、忘れないで下さい。彼は、それをきちんとしたいといっている。弔ってやりたいと。これから、私と彼は、その作業に取りかかります。いいですね」  「内密にやってくれ。外に分からないようにな」  「いや、それは、無理でしょう。彼には尾行が付いている。今頃、この周りは、警官で一杯になっていますよ」  「それでも、彼はやるというのか」  「そうです。計画は明日、いや、もう今日で全てが終わる。だからこそ、今にも、かたを付けてさっぱりしたいのでしょう」  大司教は、会話を中断した。部屋を出ていく足音が聞こえた。そのあと、すこしして、もう一人の男が、部屋を出ていった。ドアーが閉まる音がした。  ジャクソン刑事は、壁際を離れて、植え込みの裏に隠れた。彼には、確信があった。  (程なくして、フォード歯科医と神父は、この近くに姿を現すだろう。それが、今の会話の内容なのだ。待てばいいだのだ)  彼はそう考えていた。  その通りになった。上から下まで黒ずくめの衣装を着た背の高いやせ型の男と中肉中背の聖職者用ケープをまとった男が、つるはしとシャベルを手にして、出てきた。そして、刑事の目の前の紫陽花の幹の根元を掘りはじめたのだった。  向こうの部屋の電灯は消えていなかったから、薄明かりは差していたが、それでも、手元は暗い。だが、背の高い男は、手元を狂わせずに、正確に狙ったものに向かって、掘り進めていっていた。初めはつるはしで土をほぐしてから、シャベルで、掬いだす。二人は手分けして、その動作を単純に繰り返していた。  作業は三十分以上、続いた。穴は相当掘り進み、目的物へ近寄っていっていた。そして、 「あった」  という声と共に、何かを土の中から外に運び出す作業が始まった。その物体は、そう重い物ではなく、しかも小片に別れているらしい。彼らは、何度も同じ動作を繰り返し、細かい破片を拾い集めているようだった。  一応の堀り起こし作業を終えると、穴に入っていた長身の男が、外に出た。そして、建物の脇の水場に行って、汚れた体を洗った。その間、聖職者姿の男は、穴の前に祭壇様の机を設置して、祭礼の準備をしていた。向こうに行っていた男が戻ってきて、その横に並んだ。低い祈りの言葉が囁かれ、張り詰めた春の宵の静寂を揺るがした。  祈りが終わると、二人の男は、地上に積んでおいた拾得物を、焼き物の壺の中に入れて、口を封じ、祭礼用の道具を撤去しはじめた。これで、彼らの作業は終わったようだった。  全ての一連の作業が終わり、二人がその場を去ろうとした瞬間、植え込みの陰で全ての様子を見守っていたジャクソン刑事とその同僚が、闇の中に走り出た。その姿を見付けた二人は、驚いて、駆けだした。  「待て。待たないと撃つぞ」  ジェクソン刑事は、逃げていった背の高い男を追いながら、叫んだ。  男は、その声も無視して、必死で神父館の建物の脇をすり抜け、聖堂の中に走り込んだ。駆けつけた若い同僚たちは、聖職者姿の男の影を追っていった。その男は、正面の聖堂の方には行かず、逆に神父館の中に入っていっていたから、拘束されるのは時間の問題だった。  「パーンン」   ジャクソン刑事は、耳の脇を弾丸が飛んでいく音を聞いて、咄嗟に地面に伏せた。男が逃げていた先には、聖堂に入る入口がある。弾はその方角から飛んできていた。  ジャクソン刑事は、そちらの方に目を凝らして、胸の革ベルトのホルダーから、拳銃を抜き出して、伏射の姿勢を取って構えた。そに時、また銃弾が一発、頭の上をすり抜けていった。  こうなれば、飛んでくる方向を狙って、撃つしかない、と判断したジャクソン刑事は、両手で銃を掴んで、両肘を地面につけて狙いを定め、発射音と発射光のする方向の一点を狙って引き金を引いた。  銃は連射式ではない。回転式だが、銃身が長いために狙いは正確だ。自動式に次の弾が込められた段階で、彼は二発目の引き金を引いた。それでも、相手には当たらなかったらしい。まだ、銃撃音はおさまらない。相手は連射式に撃ってきていた。ところが、弾が飛んでくる気配がない。音だけが聞こえるのだ。刑事は射撃の間隙を見計らって、目標にすこしづつ、近付いていった。  すると、出入口まで二十メートル程に迫ったとき、人がうめき声を上げるのが聞こえた。そして、どさっと何かが崩れる音がした。激しかった銃撃音が、止んで、静寂が訪れた。この時刻では、堂内にもう人はいない。刑事は、出入口に忍び足で近寄り、先程から、狙いを定めていた場所に来た。入口の大扉を開けて中に入ろうとした時、足元にある物体に躓いて、転びそうになった。刑事は、腰をかがめて、その物体を探った。人間だった。顔を探ると、頭から、生暖かい液体が流れだして、手に粘りついてきた。  「血だ」  フォード歯科医は、狙撃されて死んだのだ。だが、撃ったその銃はジャクソン刑事のものではない。  (だれか、第三者が居た)  彼はそう直観して、外に走り出て、不審な影を探したが、そこにあったのは、広大な暗闇と静寂だけだった。    二十五 逃 走  聖職服の男を追っていった若い刑事らは、男が神父館の二階に逃げ込むのを確認した。男は、真っ直ぐに奥の部屋に逃げ込んで、内部から鍵を掛けたが、刑事らは、ドアーに体当たりして、こじ開けようとした。それでも、開かないため、錠にピストルを打ち込んで壊して、ドアーを蹴破り、内部に入っていった。聖職服の男は、すでに、観念していたのか、落ちついた表情で刑事らを迎え、  「どうしました」  と言った。そのとき、横の壁際に寄りかかかって、壁を数度叩いたのを、後ろから駆け込んだ刑事が、見逃がさなかった。  「おい、隣りの部屋だ」  その刑事は、部屋を駆けだして、壁の向こうの部屋のドアーに突進した。だが、ここも、鍵が掛かっていた。刑事、また銃弾でドアーを破って、破壊した。そして、ドアーを蹴破って、中に突入した。奥に人影があった。その影は、いまにも、窓から地上に向けて飛び降りようとしていた。刑事は窓に駆け寄った。男は、飛び降り真っ直ぐに駐車場に向かって走りだした。刑事も下に飛び降り、男を追跡した。その間は百メートル位離れていた。男は、停めておいたジープに飛び乗って、エンジンを掛け、すぐに発進した。刑事は無線で状況を報告した。  「男が車で逃走した。追跡を頼む」  その無線を、教会に向かって、北上していたウオード保安官の無線が捕らえた。車は、いまにも、右折を始める所だったが、保安官は途中で右折を止めて、教会の裏から表道路に出る交差点まで進み、車の方向を変えて、ジープが姿を現すのを待った。  ジープは、前照灯を付けずフォグランプだけを点灯して、暗闇を縫って猛スピードでやって来た。保安官は一端やり過ごしてから、アクセルを目一杯、踏み込んで、後を追った。二台の車は、接近したまま南へ向かっていった。その行き止まりには、港の埠頭がある。そこまで、道は一直線に続いていた。    聖職服の神父を拘束した刑事は、ジャクソン刑事を探した。携帯無線で、ジャクソン刑事は、銃撃戦の援軍を求めていたが、しばらくすると、それも止み、無音の状態が続いていた。  「もしもし、ジャクソン刑事、応答ありますか」  無線の呼びかけに、応答があった。  「おれだ。そっちの方はうまくいったか」  「はい、神父を拘束しましたが、不審な男が一人、逃走しています」  「それは、追っているか」  「はい、追いっています」  そのとき、追跡していた刑事が、割り込んできた。  「男は車で逃走しました。手配ずみです」  「よーし、それなら、神父を連れて、大司教の個室に来てくれ、おれはそこにいる」  ジャクソン刑事は、弾んだ声で命令した。狙っていた獲物を獲得して、安堵した時の刑事の声だった。  若い刑事らは、神父館の二階の個室から、捕らえた神父を、別棟の大司教の個室に連行してきた。  ジャクソン刑事は、窓際の大きな両袖机に向かって背もたれの付いた椅子に座っている老齢の男の前で、ピストルを手に立っていた。  「こちらに、お連れしろ。そして、逮捕状を見せてから、本署に護送する」  ジャクソンは、上着の裏ポケットから、書類を取り出し、神父に見せた。  「あなたは、聖マリア教会のロバート・デ・コスタ神父ですね」  「はい」  「共謀殺人罪と死体遺棄罪容疑で逮捕します」  ジャクソンが目配せすると、神父の腕を掴んでいた刑事が、両手に手錠を掛けた。  「それから、大司教。あなたは、殺人の現行犯です。いま、そこに、隠した銃も証拠として押収します。まだ、硝煙が出ていますよ」  大司教は、机の引き出しから、小型の拳銃を取り出して、ジャクソン刑事に渡した。  「二人を、署に送ってくれ」  ジャクソン刑事は、二人の刑事にそう言い残して、部屋を出た。そして、照明器具を手にして、聖堂の入口に戻った。すでに、遠くから、救急車のサイレンの音が聞こえていたが、その音は徐々に大きくなり、教会の近くで停まった。  「やっと、来たか。間に合えばいいが」  ジャクソン刑事は、先程、熱いものを感じた扉の前に行って、照明を照らした。男が一人倒れていた。下向きになっていた顔を、上げると、その顔は間違いなく、フォード歯科医だった。  目を閉じて、息もない。顔面は蒼白で、血の気が失せていたが、左のこめかみに銃弾を受けた痕があり、その部分から、夥しく出血していた。血は顔の半面を伝い、頬から下に降りて、上半身を赤く染めていた。顔の下に血の海ができていて、暗い照明の下では、黒く淀んでみえた。  明るい照明灯を手にした消防署のレスキュウー隊員が、駆け寄ってきて、この惨状を照らし出した。彼らは、手早く酸素マスクを装着し、しばらく人工呼吸をした後、点滴液の入った袋を支柱に取り付けて、ビニール管の先の針を腕に繋いだ。  (どうせ、助からないだろう)  ジャクソン刑事は、そう見ていたが、レスキュー隊員らは、あくまでも、最良の処置をするのを義務付けられているのだろう一定の処置を終えると、手早く、救急車に運び込んだ。  (一連の事件の容疑者は、こうして次々と死んでいく。われわれに残されたのは、教会の幹部二人と、車で逃げた男だけになった)  だが、彼らが全てを知っているだろう、という期待はあった。大物二人の調べで、事件は解決するのではないか、という儚い期待を抱きながら、ジャクソン刑事は、薄暗い現場に佇んでいた。    教会から走り出た不審なジープを追跡していったウオード保安官は、何度も、追い越しを掛けようと、試みたが、相手も強者だった。その度に、幅寄せしたり車線変更したりして、追跡を交わしていた。それに、ジープの4WDは、駆動力があったから、スリップし易い倉庫地帯の未舗装路の泥濘では、明らかに、差が付いた。差が付くと、その間隙を突いて、ジープは倉庫地帯を、左右に掛けていく。保安官の車は付いていくのが精一杯になり、エンジンは音を上げはじめた。いくらアクセルを踏んでも、エンジンが回転を上げなくなり、遠くにジープが左に曲がるのを見た地点で、ついに、蒸気を噴き出してストップしてしまった。  保安官は、逃走車を見失ったのだった。  車をとめてから、保安官は、残っていたバッテリーの電気を頼りに、警察無線で現在地を告げ、応援を要請した。無線室のオペレーターは、女性だった。  「直ちに、応援を送る。現場付近をパトロール中の無線車は、全車埠頭に向かえ」  と指示していたが、応答するパトカーはなかなか見つからないようだった。  逃走したジープには、恰幅のいいクールカットのビジネスマン風の男が乗っていた。金縁の眼鏡を掛けている。顎に薄い髭が残っていたが、その剃り痕がこの男の几帳面な性格を物語っているようだった。あまりにも、深く髭を剃ったために、細かい出血の痕があったのだ。助手席に、長髪のかつらが転がっていた。  車は、倉庫街を抜けて、漁船が多く停泊している一角に出た。その一角は、鱈漁を行う沖引きトロール漁船が停泊している埠頭地帯だった。漁船はいずれも、かなり年季が入った中古品が多かった。そのなかでも、一番、古そうな疵と錆だらけの船が、一隻、腐りかけた杭が並んだ桟橋の先に停まっていた。  男は、ジープを埠頭の付け根の陸地に乗り捨て、桟橋を歩いていった。船には照明が点いていなかったが、男はまっすぐに、操舵室に入り、エンジンの鍵を差し込んだ。そして、後ろの甲板に出て、そこに積み重ねてある、積み荷を確認し始めた。いずれも真新しい梱包で、木の箱の一隅には、「ロケット砲ランチャー一基、装弾五十発」などと黒いインキで記されていた。  男は、積み荷の数を確認する積もりだった。着ていたスキージャケットのような防寒具のポケットから、書類を取り出して、一箱ずつ、数えはじめた。一つずつ書類を照らし合わせて、チェックしていくのだ。  その作業を終え次第、船は出航する。もし、積み荷に落ちがあれば、出航を見合わせることもあるだろう。なぜなら、その航海は、彼には、最初で最後になるに違いなかったからだ。  ゴードンはその晩、何時ものように、エミーとのディナーを終えてから、シャワーを浴び、書斎に入ってから、パソコンに向かった。それは、最近、頻繁になった「ゴードン・フェイズ」へのアクセスを確認するとともに、メールを読み、必要な返信を書き込む作業をするためだ。  エミーは、ゴードンが、その作業に打ち込む頃には、食事の後かたずけを終え、シャワーかバスに入ったあと、ナイト・ウエア姿で、ジン・フィズを啜るのが習慣になっていた。今晩のナイト・ウエアは、淡いピンクのペチコートだった。すその短いペチコートから、すらりと伸びた足を組んで、エミーは、ゴードンの作業机の側にあるベルベットのソファーに横たわっていた。  「どう、探偵さん。楽しい」  「何が楽しいものか、むしろ、最近は苦痛だよ。評判がいいのも善し悪しだ」  「ところで、逃げた男は、どうしたの」  「何処かに行った」  「どこに、行ったのかしら」  「大体の見当は付いている。港だな」  「なにか証拠があるの」  「書類があった」  「どこの港」  「それは、分からんが。南の埠頭だろうと思う」  そうゴードンが、答えた時、ゴードン宛に送られて来た一通のメールが目に入った。  ーー 探偵さん、御苦労さん。おれたちは、故郷へ帰る。昔の仲間が呼んでいるから。沢山、お土産を持ってね。明日朝には、町を、いや、この国を出て、懐かしい国に帰るんだ。おれたちの「オデッセー」で。さようならーー  発信人は、ゲーリー・クライストとなっていた。いつも見慣れた名前だ。  ゴードンは、「明日朝」という所が気になった。  (明日朝ということは、今晩には、出航の準備が終わらなければならないな。ということは、もう、この時間には、乗員たちは乗り込んでいるはずだ)  ゴードンは、立ち上がり、脇に居るエミーに言った。  「おれは、出掛ける。あんたはどうする」  「あなたが行くのに、なんで私が一人で待っていられるの」  エミーも立ち上がった。  「外は寒いぞ、厚着をしていけよ」  「私は、一枚しか着ていないの。すぐにも、着替えられるわよ」  エミーは、クローゼットに入っていった、ゴードンは、部屋の隅の洋服掛けから外出着を取って来たあと、机の引き出しから、拳銃を取り出して、ホルダーに差し込んだ。  「さあ、いいわよ」  エミーは、バックスキンの革のハーフジャケットにナイキのマークがはいった黒い野球帽を被り、黒縁のサングラスを掛けて現れ、ゴードンを後ろにして、部屋を出た。  二十六 聖職者    「神父、では、お話していただきましょうか。あなたが、これまでの一連の事件の全容を知っているのは、分かっていますから」  市警察本部の調べ室で、ジャクソン刑事は、デ・コスタ神父に丁重に接していた。神父は、答えなかった。  「まずお聞きしたいのは、ジョージ・フォード歯科医師とあなたとの関係ですが、どういう、お知り合いですか」  「私の教え子です」  座り心地のあまり良くない木の椅子に背を伸ばして腰掛けていた神父は、刑事の目を見つめながら、正確に答えた。  「教え子というのは」  「私が若いころ開いていた日曜教室の生徒でした」  「すると、かなり昔の話ですね」  「そう、もう二十年以上になりますね」  「小学生のころですか」  「そうです。彼らは悪餓鬼で、街ではしょっちゅう悪行を働いていた。私たちは、どうにか、彼らをまっとうに立ち直らせようと、努力していたのです」  「すると、子供のころの彼をよく知っているわけだ」  「まあ、でも、それほど、深く接していたわけではないですから。それに、小学校を終えてからは、会っていません」  ジャクソンはそこで、神父にコーヒーを勧めた。神父は頷いて、机に置かれたカップから一口飲んだ。  「そこで、本題に入りますが、今晩あなたは、フォード医師が人の遺体を発掘するのを手伝っていた。あれはだれの遺体ですか」  「フォード歯科医の妻です」  「なぜ、あそこに埋めてあったのですか」  「弔いのためです」  「それをなぜ、掘り出そうとしていたのですか」  「さらに、丁重に葬るためです」  「妻というのは、エリザベスという名の人ですね」  「そう聞いています」  「その人は、下半身が白骨死体で、見つかっている。そのことは知っていますか」  「聞いていました」  「とすると、あなたがたが掘っていたのは、上半身なのですか」  「そうです。頭蓋骨とら腰までの骨です」  ジャクソン刑事はそこでまた、一息入れた。神父はさらにもう一杯のコーヒーを飲んだ。  「では、その経緯を、順に追って話して頂きましょうか」  神父はさらに一杯、コーヒーを飲んだ。  「われわれの教会は、イギリスから迫害され続けているアイルランドのカソリックです。まず、そのことから、お話ししなければならない。人は迫害されると結束するものです。そうされればされるほど、結束力は強くなる。そして、それが、続けばいつかは、爆発して、反撃に出る。われわれは、もう父祖の代から、戦いつづけているのです」  「そうですな」  「だが、最近の戦況は苦しい。和平が先行し、すっかり英国政府に屈して、手なずけられてしまった。人々の抵抗の声は強権力に抑圧され、沈黙してしまった。だが、われわれは、忘れてはいない。反撃はまた、必ず始まるのです。そのために、われわれは、準備を怠るわけには行かないのです」  「そうですか」  「そうです。その後方支援のために、われわれは、この国に生きている。私は、そう教えられて、来ました。その教えは、この町の貧民街で育った彼らにも徹底しているのです。この国はわれわれの生活を支えてくれたが、精神を変えはしなかった。それは、われわれが、迫害され続けてきたからです」  「すると、教会はどういう役割を果たしたのです」  「救いです。支えでした。あらゆる苦難から信徒を救う。もし、それが、祖国のことだったら、命を掛けても助ける。そういう役割です。だから、私はこの仕事を引き受けた」  神父は最後のコーヒーを啜った。ジャクソン刑事は、若い刑事に目配せして、新しいコーヒーを入れさせた。  「仕事というのは」  「祖国の戦士たちのために、武器を調達して、届ける仕事です」  神父の供述に淀みはなかった。信念を持っている人の口調だった。  「一人でやったていんですか」  刑事は、無知を装って、聞いた。  「一人でできる仕事ではない。私は組織を使っていました。人のネット・ワークを作って、この仕事を進めることにしていた」  「死んだ歯科医や教会で銃殺されたミリアン・シュルツも仲間ですか」  「そうです。優秀な先鋭的な活動家だった。二人とも惜しいことをした」  「本心でそう言っているのですか。歯科医の娘はどうなんです」  「アネットですか。彼女は、反逆者です。われわれを脅していた。吝嗇な性悪女です」  「ミリアンの妻の、ジョン・ベネットはどうなんです」  「われわれのために死んでくれた。ある意味では殉教者ですな」  「まったく、勝手な論理ですね。これだけ、多くの死人を出しておいて」  「いずれも、悔いと懺悔の気持ちがありますよ。だが、崇高な目的のためには、仕方がない面もあった。冥福を祈っています」  「あなたがたは、いつもそう言って、人の命を弄ぶ。それが、私には許せないんだ。何が崇高な目的ですか。さあ、詳しく話をしてもらましょう」  ジャクソン刑事は、気色ばんできた。  「なぜ、死体を上下に分断したのだね」  「テストですよ。試したんです。完全犯罪が可能かどうか、試験をしたのです」  「なにを狙っていたんだね」  「私たちにとって、巨額な資金が掛かる大型の武器調達の要求に、どうやって応えるかが、重要な問題でした。国の友人たちには、そう経済的な余裕はない。だからといって,一機数百万ドルも掛かるミサイルなどを、われわれの細腕だけで買えるはずもない。表立って支出できる金ではないですから、どうしても、裏で金を作るしかないのです。だが、手段は限られている。この国でアングラマネーを稼げる裏の稼業はイタリア系のマフィアが支配している。われわれの入り込む余地はない。ですが、手を染めていた。おそるおそるですが。その仕事をやってくれたのが、フォードとシュルツだった。だが、取締りが強化されて、なかなか儲からない。それで悩んで、何度も話しあった。暗い雰囲気でした。そのとき、フォードが、自分の個人的体験を話したんです。『二人も妻を失ったが、その度に、多額の保険金が手に入った。それで、医院を大きくできた』というのです。私も彼が教会に、その度に寄付をしてくれたので、保険金の効用に付いては、すこしは知っていましたが」  「恐ろしい話だ。それが二人が自分の妻を殺した動機なのか」  「いや、二人は自分の妻は殺していませんよ」  「その保険の知恵は、歯科医の体験からきただけなのか」  「いや、テリー・シェルドンという男が、彼らの仲間にいた。これも私の日曜学校時代の生徒だった」  「ああ、私立探偵が調べていた男だ」  「私立探偵ですか」  「ああ、私の友人だ」  「神父館にミリアンを追ってきた男だな」  「そうだ。あなたに殴られて、気絶した」  「私ではない。それが、テリーだ」  神父は、コーヒーが好きらしい。また、啜ってから、  「今何時ですか」  と時刻を聞いた。ジャクソン刑事は、  「もうすぐ朝になるよ。午前四時だ」  と時計を示して、教えた。深夜や未明の取り調べは、人権を配慮してなるべく避けるように通達が出ている。神父はそのことを示唆しようとしたのか、と思ったが、そうではないらしい。何かを気にしているのだ。それは、仲間の仕事のためだと、ジャクソン刑事には分かっていた。  「港のことを気にしているのか。捜査陣が検索を始めているよ。見つかるのは、時間の問題だよ」  「いや、大丈夫だ。われわれには神のご加護があるのだから」  神父は神への心からの心酔で、自信に溢れて言った。ジャクソンは、それには、意を止めず、  「ところで、だれが、エリザベスをやったんだね」  と直裁に聞いた。  「ミリアンがやった。もっとも解体はフォードも手伝った。泣きながらだ」  神父の答えは、簡潔だった。  「なんども聞くが、何のためだ」  「だから、テストだよ。解体の仕方を見たんだ」  「それと、保険金も欲しかったんだろう」  「たしかに、それが、目的だったから。彼らは必死だった、私も必死だった」  「では、ミリアンが、撲殺したんだな。凶器はどうした」  「川に捨てたと言っていた。下半身と一緒にね。だが、歯科医は、悲しんでいた。だから、顔や胴体は捨てられずに、紫陽花の下に埋めた」  「なぜ、掘り出したんだ」  「フォードは、自分の犯行を悔いていた。『きちんと葬りたい』と私に言ってきた。だから、そうしようと」  「花の色が変わってきて、発覚を恐れたんじゃないのか。死体は埋葬すると最初は酸性だが、三、四カ月するとアルカリ性に変わる。紫陽花は酸性の土壌では青い花になるが、アルカリ性では赤くなる。それで、不審を抱かれるのを恐れたんだろう」  神父の表情が変わった。きりりと口許を結んで、  「そうではないだろう。私は信者の信仰の深さを疑ったりはしない。あくまで、死者の霊を丁重に弔うためだ。それに遺体は殆ど白骨だったから」  「白骨だったというのか。では、どこで、肉を処理したんだ」  「テリーの知り合いだ。裏世界の実力者でニコラス・ホーンという男がいる。闇で武器の取引もしている男だ。その男は、表ではレストランと食肉加工業をしている。その男に頼んだんだろう」  ジャクソンは、その工場を知っていた。ジョン・ベネットの死体処理に疑問を抱いたジャクソンが、付近に聞き込みに行った時、新しいヒントを得たのがその工場だった。徐々に、事件が繋がってきた。  「では、ミリアンの女房は誰がやったんだ」  「それは、フォードとテリーだよ。彼らは、互いに嘱託して、妻を殺すことにした。アリバイ作りにも有利だし、互いの関係が分からなければ、捜査を混乱させることができるからな。それに、ジョン・ベネットは、ミリアンが不在がちで、欲求不満だった。それで掛かりつけの歯科医のフォードと不倫の仲になった。ミリアンが興業で家を空けている時は、フォードを自宅に呼んで会う瀬を重ねていた。そんなある日に、フォードが殺して、テリーと二人で、解体した。完全犯罪を狙ったんだが、君の捜査で、肉片を発見された」  「冷凍して、分解し、木材粉砕機で粉々にして、湖に捨てたんだな」  「家にあった大型フリーザーで冷凍した。そして、冷凍車で食肉工場に運んで、解体したあと、粉砕機で処理したと言っていた」  「そうか、チェーンソーでは、うまく解体できなかったのか。それで、食肉工場を使ったんだな。ウオード保安官は、白骨死体の溝はチェーンソーで付けられたんだ、と言っていた。そうか、溝があったということは、その部分で分断できなかった、ということだったんだ。それで、さらに鋭利で完全な切断を、食肉工場でおこなったのか」  「だから、試験だと言ったろう。歯科医は、妻の死体をそういう試験に提供したんだ。そこまでの自己犠牲を払ったんだ」  神父は昂然として、天井を見上げて、目頭の熱いものに堪えていた。  「ジョン・ベネットのためには涙を流さないのか」  「彼女は不倫をしていた。夫を愛していなかった。プロテスタントだった。それに、加えて、自己中心的で吝嗇だった」  「それは、夫に愛人がいると分かったからではないのか。ミリアンには、マリリンとかいう女もいたらしい」  「テリーの妻のメアリーの妹だ。あれは、セミ・プロだよ。半分はテリーの差し金だ。妻から心を離れさすために、せめてもの仲間の思いやりなんだろう」  「ということは、ジョン・ベネットは、最初から狙っていたのか」  「テリーの調査では、彼女が一番高額の保険に入っていた。それに、夫婦仲が良くない。ミリアンは別れたがっていた。全ての条件がぴったり合っただったんだろう」  「ミリアン家の大型フリーザーをテリーの家に移動したのは、なぜだ」  「本当は、死体が大きすぎて入らなかったので、使わなかったんだが、あんたがたが、不審を抱くのは想像できたから、捜査を攪乱するためだろう。冷凍車で冷凍したと分かれば、食肉工場が怪しまれる。そうなれば、次の完全犯罪ができなくなる。彼らは、そこまで、その時は考えていたんだろう」  「あんたの言い方は全て、『だろう』だな。すべてを、彼らの責任にしようとしている。逃げようとしている。私は『だろう』を『だ』と受け取っておくよ」  これで、二件の妻殺しの一応の解明はできたようだ。  だが、テリーの一家殺人と、アネットとミリアン殺しは、謎のままだ。テリーのニコラス・ホーンの殺しの動機も不明だった。    「テリーの家族が、四人皆殺しにされた惨劇を知っているだろう。あれは、だれがやったんだ」  神父は、その問には即答しなかった。すこし、考え込んだ後、  「テリーは、家族の事で悩んでいた。彼の家族は、一見、幸福そうだったが、実は多くの問題を抱えていた、そのうえ、彼は、会社で疑われていた。近く、クビになる恐れも強かった。そういう色々な、要因が重なったのだろう」  「具体的には、どういう問題だったんだ」  「子供たちは、多くの問題を抱えていて、その治療に金が掛かった。息子は薬をやっていたし、娘は人格的な障害が出る精神症に掛かっていた。それに、祖母の痴呆症や徘徊癖で、妻のメアリーもノーローズだった。テリーには、家に帰っても心を落ちつける場所がなかったし、彼自信も酷い抑鬱症だった。彼は、真面目な市民生活に憧れていたんだ。だから、子供の頃の生活から抜け出そうとして、必死で努力してきた。そして、人並みの幸せな家庭を獲得していたんだ。だが、その裏には、多くの問題を抱えていた。そうなって、やはり、子供のころからの本性は隠せなかったというわけだな」  「子供のころの本性とは」  「悪餓鬼で、小さな犯罪を繰り返していたのだから。しかも、そのころから、彼は知能犯だった」  「知能犯なら、狂暴な殺しはしないだろう」  「彼も変わったんだよ。現状の難題から逃れようとして、もがいていたんだ。苦しみから逃れようとね。そのため、現状の全てを否定したくなるのは、よくあることではないかね。すべてを無にして、やり直したくなることが、あるのではないかね」  「愛していた家族を皆殺しにすることが、やり直すことなのかね」  「私は、彼が一人で全てをやったとは、思っていない。親しくしていたミリアンが手伝ったのかもしれない」  「ミリアンは、何と言っていた」  「その話はしていない。彼は、金の事で、私の所に来た。『分け前を寄越せ』と言うんだ。もともと、費用は払っていたが、この仕事は、半面、奉仕なんだ。だから、給料は払わない。報酬も出ない。あくまで、お礼としての僅かな金を渡していた。それを、『成功報酬として、割合で寄越せ』と言ってきた。特に、『妻を失うという犠牲を払ったんだから、その保険金は半分寄越せ』と言ってきた。テリーは、家族全員を失いながら、そんな要求はしなかった。そのことを話していたら、『おれは降りる、全てを公にしてやる』と言いだした。それで、話し合っているときに、あの探偵が現れた。ミリアンが驚いて、探偵を襲撃した。暗闇だった。私も、驚いて燭ろうを手にそちらに行ったら、拳銃が落ちていた。私はそれを拾って、狙っていた。もちろん、探偵をだ。そして、引き金を引いた。同時にどこからか、銃撃音がした。私の弾は、もみ合っているうちのどちらかに当たった、と思ったが、他にも誰かがこちらを狙っている、と分かったので、すぐに逃げだしたのだ」  「よくわかった。その最後の、どちらかに、という部分を除いてだが。あなたは、ミリアンを狙って撃ったのではないのか」  「違う。探偵を狙っていた」  そのとき、調べ室に係員が入ってきて、ジャクソン刑事に耳打ちした。  「フォード医師からも、ミリアンと同じ入れ墨が見つかったそうだ。男の逸物のうえに、彫った図形だ。図形の側には数字が彫ってあった。一だ。ミリアンは、二だった。すると、テリーは、三なのかな」  そう聞いた刑事に、神父は、  「彼らは、そんなことまでしていたのか。忠誠心を高めるためだな。そこまで、われわれの組織に尽くそうとしていたんだ」  「いや、子供のころに入れた入れ墨のようだ。むしろ、意気がって、入れた若気のいたりだろう」  「そうかもしれない。あの頃の、彼らは、そんなことでも平気でしそうだった」  「アネットを撃ったのはだれだ」  「テリーだ。アネットは、パソコンを使って、金の計算管理をしていたが、その金の出所は知らなかった。だが、彼女はそれを調べていた。そして、一部を解明した。いずれも高額の保険金が絡んでいると知って、テリーを脅してきた。彼女は、薬の売人もしていた。モデルになるには、金が掛かると、いろんな金儲けの仕事をしていたんだ。そして、金に目が眩んで、われわれを脅してきた。そのことで、話し合っているうちに、彼女はパソコンに打ち込んだデータを見せて、『こんなに不正請求した金がある。シュルツ夫人を殺して、保険金を受け取っただろう。私の義母を殺して得た保険金もある』と言って、金をせびった。その全てをテリーが、扱っていたから、彼も事情をよく知っていた。最後に『保険会社に言ってやるから』と絶叫され、(このままでは、組織のことも暴かれる)と思って、撃ったのだ」  「それとも、会社に知らされて、退職金や年金がふいになるのが、怖かったんじゃないのか」  「あるいは、そうかもしれないが、彼はそうは言っていなかった」  「逃げたとき、おれの撃った弾が、右足に当たったと思うが」  「そうだ。そして、そして、怪我をして、教会に逃げ込んできた。手厚い手当てを受けたから、もう治っただろう」  「ミリアンとテリーは、親しいのか」  「そうだ。子供のころの知り合いだけではなく、彼らは若いころ日本にいた。マリリンとメアリーの姉妹もそのころ、日本にいて、そこで彼らは知り合った。フォードよりもそれだけ親しかった。だから、アネットを撃つのにも躊躇しなかったんだ。互いの友情と結束のためにね」  「友情か。悪しき友情だな。餓鬼のころからの、腐れ縁だ」  「だが、彼らは助け合っていた。最後まで。アウシュビッツのユダヤ人のように、結束し、助け合っていたんだ」  ジャクソンには、納得できない理由だった。被差別意識というのなら、ジャクソンのルーツであるアフリカ系市民は、さらに過酷な状況を耐えてきたのだ。その市民権獲得運動の中で、暴力事件は頻発したが、仲間を故意に犯罪の犠牲者に仕立てあげることは、なかったはずだ。あるいは、あったのかも知れないが、こうあからさまに、人の命を金に代えようとする目論見はなかったはずだ。ジャクソン刑事は、暗澹たる気持ちになっていた。もし、これが、緊張感のある取調べ室でなかったら、確実に、吐いていたろう。  そろそろ、時間が迫っていた。  一緒に逮捕されたセプリアン大司教は、その地位への配慮から、市警察の署長室に入れられ、署長自らの調べを受けていた。この署長は、アイルランド系で、パトロール警官からのたたき上げだったが、その地位は、専ら人事関係への如才なさから手に入れたものだった。捜査官としての手腕は、知れていたのだ。綺麗にアイロン掛けされた制服を着て、僅かな毛髪をなで上げた禿頭の署長は、これ以上にない笑い顔で、  「この度は、大変なことに巻き込んでしまいまして、ご同情申し上げます。うちの署員には、礼儀を弁えない乱暴者もおりまして、失礼なことをしたとすれば、ここで、お詫び申し上げます」  とへつらいながら、詫びを言った。大司教は、昂然として、これには答えなかった。  「ところで、現行犯での逮捕容疑は、銃の使用による殺人となっていますが、これは、間違いでしょうね」  「その通りだ。私は確かに護身のために銃は常備している。暴漢が襲う場合に備えているのだ。昨夜は、賊が侵入して、私が職権で管理している教会を破壊する恐れがあった。なにしろ、銃撃戦が始まったのだ。特に神聖なる聖堂を汚そうとして、内部に侵入しようとしている賊がいた。私は、事態の鎮静を狙って、銃器で制圧したのだ」  「すると、正当防衛ということですな。そうですね」  「あるいは、緊急避難だ。私には、教会施設の管理権があり、それが、侵害されたのだから」  大司教は胸を張って、主張した。署長はその迫力に押された。  「よーく、分かりました。それでは、これで、結構です。こちらの方は、そういうことで、処理させて頂きます。お帰りください、御苦労を掛けました、それから、このことは、あくまで、内密に願います。大司教がこのような罪で逮捕されたとあっては、人聞きが悪いですからね」  「分かった」  大司教は、連れられてきたときとは違う署長の公用車で、丁重に聖ヨハネ教会に、送遇されていった。    「さあ、これで、全て、解決した。神父には、以上の四事件の共同謀議の容疑で、再逮捕を請求する。あと数日、ここに泊まってもらうことになる。おれは、埠頭に急行するぞ」  ジャクソン刑事は、そう部下に言い残して、署を出ていった。    二十七 爆 発 テリー・シェルドンは、老朽化した鱈トロール漁船「オデッセー号」の甲板上で、積み荷の確認作業を続けていた。移動式ロケットランチャーが六機、携帯形ロケット砲が二十機、十機関銃三十機などの重武装に加えて、小型機関銃や地雷、散弾銃などが梱包されて、前後の甲板に満杯に積まれていた。もともと貨物船ではないから、荷物を積むようにはできていない。船腹部の捕った魚を入れておく船倉には、これらの武器に使う火薬や信管などの消耗品が、満載になっていた。  本当は、ジョージ・フォードも、この船に乗り込んで、たった一度しか訪れたことがない、故国に帰るはずだった。それが、あの教会での追跡劇で、だめになってしまったらしい。テリーは、それでも、フォードが無事追手を逃れて、ここにたどり着くことを信じていた。そのために、出航は、ぎりぎり一杯、引き延ばしておきたかった。だから、点検作業はゆっくりと慎重に行っていた。  計画では、夜闇に紛れて出航し、三日後に、大西洋の真ん中の遭遇地点で、故国の組織が派遣した引受船と合流し積み荷を乗せ替えて、この船を捨て、北アイルランドに向かう予定だった。その合流地点での遭遇には、絶対遅れてはならない。ここでの出航の遅れは、後の計画にまで影響し、作戦をメチャメチャニする危険性もあるのだ。  だから、テリーは慎重と同時に、急いでもいた。とにかく、この作業を綿密に進め、ぎりぎりまでフォードを待って、出航するつもりだった。  とにかく、あらゆる犠牲を払ってきたのだ。最愛の家族を、皆殺しにするのは、忍びなかったが、ミリアンに、  「おれも、最愛の妻を犠牲にした」  と言われて、苦渋の決心をしたのだった。あのときは、狂人だった。だが、今でも、狂人なのかもしれない。とにかく、テリーは、逃れたかった。あらゆる、現世のしがらみを切り刻んで、新しい天地に逃げて行きたかったのだ。だが、ニコラス・ホーンを殺したのは、故意だった。彼は、武器商人としての裏稼業で、大いに助けになったが、彼の価値観は、祖国の解放などにはなく、ただ、儲けになるから、手を差し伸べただけだった。  (おれたちが、最愛の家族まで犠牲にして、やっと、作った金を、少ないといったり、もっと出せと要求した。ハイエナのような奴だ)  テリーは、憎しみを抱いて、あのレストランに行き、ホーンが、狡猾な目つきで代金をつり上げた時、最後には、やってやろうと決意していたテリーは、思い切り、身体中に銃弾をお見舞いして、腹黒い「黒い商人」に別れを告げたのだった。テリーは、  (おれも、最後に一つだけ、良いことをしたかも知れない)  と逃げる間は、晴れがましい気持ちになっていたのだ。  その船を係留している桟橋の陸地側には、大きな木の杭が立っていた。その杭の影で、ウオード保安官は、薄明かりに浮かんだ漁船の様子を探っていた。その船には、いまは大きな集魚灯が灯っていて、甲板上の動きは、手に取るように見えていた。男が、せわしなく、なにかの作業を続けていた。保安官は右手を懐の中に入れ、万が一に備えて、拳銃を握っていた。向こうが発砲してきたら、すぐにでも応戦する構えである。  男が動いて、船首の操舵室に入っていった。そのすきを見て、保安官は、桟橋を走って、船の横腹に走り寄った。船の陰になっていて、身を隠すには絶好の場所だった。陰に走り込んで、身をかがめて、ふと後ろを振り向くと、埠頭にヘッドライトを消した車が走ってくるのが見えた。その車は。ディーゼル・エンジン特有の排気音を残して、エンジンを止めた後、二つの影が降りてくるのが、シルエットで見えた。一人は長身の男の影で、もう一つは、胸の脹らみや体の全体的なまるみから女のように見えた。  保安官は、  (余計な闖入者がきた。やっかいなことにならなければいいが)  と舌打ちした。  船の中では、テリーが、再び甲板に出てきて、もやっていたロープを外しはじめた。最初にモーター音がして錨を上げてから、船の横腹に何本か繋がっているロープを、一本ずつ外していた。その作業は船の後ろから始めて、前部に移っていったが、保安官は、テリーが前に行って、こちらに背中を向けた時、すかさず体を持ち上げて、船の中に乗り込んだ。ドサッと物が落ちる鈍い音がしたが、ロープを放り投げる作業を続けているテリーには、気が付かないようだった。  テリーは、もやい綱を全て外しおわると、後ろの甲板に来て、埠頭の様子を探った。桟橋の端に、人影が見えた。  (やっと間に合ったか)  と思って、暫くその動きを見ていたが、その人影は、一つではなかった。背格好からすると、一つはフォードのようにもみえるが、もう一つの人影が見慣れないものだった。テリーはディジタル式腕時計のピンポイント照明のボタンを押し、時刻を見た。出港予定時刻を過ぎていた。テリーは、急いで、操舵室に戻り、エンジンスタートのキーを回した。船腹に埋め込まれているディーゼル・エンジンが唸りはじめ、規則的な心地よいリズムを刻みはじめた。テリーは、速度バーを全力前進の位置にシフトした。そして、エンジンの回転を上げはじめた。  そのとき、倉庫街のほうから、けたたましいサイレンの音がして、屋根に赤や青のランプを回転させた車両が、五、六台走り込んできた。明らかに、警察のパトロールカーだ。パトカーは、桟橋の後ろに横一線にならんで、停まった。その真ん中の車から、  「その漁船、止まりなさい。こちらは市警察である。出港を禁止する。止まりなさい」  という大音響のアナウンスが始まった。  パトロールカーの前照灯に照らされる中で、ゴードンとエミーは、目配せをした。そして、全力疾走を始め、動きだした漁船に、ぎりぎりの所で飛び乗った。桟橋の突端でやっと間に合ったゴードンが、後ろで手だけを差し出したエミーを抱え上げての寸前での乗船だった。  操舵室のテリーは、エンジンを全開のポジションにしたが、パワーがないうえに満杯の積み荷で、スピードは上がらなかった。だが、ゆっくりと船は港の出口に向かっていた。もう桟橋からは、だれも乗り込むことはできない。出ていく船を後ろからパトカーの十数個のヘッドライトの光が浩々と照らしていて、演劇のフィナーレの場面さながらだった。  船は、劇で俳優が最後に舞台の袖に引き込むように、狭い防波堤防の間を通って、外海へ出ていこうとしていた。  そのとき、操舵室に忍び寄っていたウオード保安官が、テリーの背後から襲いかかった。テリーは驚いて、とっさに向き直り、両手を斜に構えて防御姿勢をとり、保安官の一撃を辛うじて、防いだ。そして、舵の後ろに身をかがめて、腰の拳銃を探った。拳銃はすぐに手にできた。すぐに構えて、天井に向けて一発撃った。保安官は、銃を使うつもりがなかった。テリーを素手で捕らえて、手錠を掛けるつもりだった。だが、こうなれば、そうは言っていられない。保安官は、操舵室を飛びだして、操舵室の外壁の下に身を隠して、相手の銃撃が止む瞬間を図って、手だけで狙いを付けて、室内に発射した。  二人の銃撃戦は、操舵室を中心にして、位置を入れ換えながら、数分続いた。射撃の腕前は保安官の方が確かだった。だが、持っていた銃の威力は、テリーの方が上だった。狭い空間では、照準の確かさより、銃器の性能のほうが重要だ。テリーが一発撃つごとに保安官は、後退を強いられた。徐々に、追い詰められて、甲板の積み荷の後ろに逃げ込んだ。テリーはそれを追って、積み荷の横に進んできた。保安官は、その時を見計らって、低い姿勢から、引き金を引いた。  だが、弾はでなかった。保安官のボルトアクション銃は、弾が切れたのだ、テリーは、保安官の目前に進んでいって、目の前に立ち、上からこめかみに向けて、銃の筒先を突きつけた。そして、引き金を引こうとした。覚悟を決めた保安官は、目を瞑った。  「パーン」  と一発、銃声が轟いた。  「ドサッ]  とものが倒れ落ちる音がした。  保安官は目を開けた。目の前に、テリーの巨体が倒れ、頭から血を流していた。  船尾から男が、歩いてきた。後ろから金髪の女が付いてくる。  「探偵さん、ありがとう」  ゴードンに手を添えられて、立ち上がった保安官は、精悍な顔にもう笑みを見せていた。そして、  「いいか、この船が堤防を出たら、爆破する。その前に、海に飛び込んで逃げてくれ」  保安官は、そう言って、操舵室に入っていった。  ゴードンとエミーは、着ているものをでき るだけ脱いで、身を軽くし、手を携えて海中にジャンプした。船は、堤防を越えて、外海へと向かっていった。保安官は、ギアを前進に固定し、速度を最高速に入れた。そして、船倉に走り込み、補充燃料が入っているドラム管から、ガソリンを取りだした。ポリバケツに一杯にした後、床の上にまき散らした。そして、バケツのなかのガソリンに浸した細紐を部屋の外まで、敷いていって、室外に出した。  船は堤防から、ますます、遠ざかっていた。すでに、埠頭は米粒のようになっていた。保安官は、ズボンのポケットから、ジッポのライターを取り出し、キューバ産の葉巻煙草を口に咥えて、火を点けた。船は、どんどん、沖へと進んでいった。  急いで吸い込んだ葉巻の長さが、半分ほどになったとき、保安官は、ピストルも携帯無線機も手錠も海に捨てて軽装になり、甲板に引き出しておいた導火線に火を点けた。火が伝って行くのを確認すると、思い切り、空中にジャンプして、海に飛び込んだ。  海の水は意外に冷たくなかった。というより、冷たさを感じる余裕がなかった。全力で、全身を動かして、保安官は、いま船で来た方向に、海中を引き返していた。とにかく、一刻も早く、船から遠ざかることである。このひとかきひとかきが、安全への逃避だった。漁船は全速力で遠ざかっていく。保安官も、全力で船から遠くに去ろうと、もがいていた。  数分後、漆黒に明るさを帯びてき始めた天と地を焦がすような閃光が、遠くの海上から立ち上がった。それは、暗い闇をつんざいて、天上に向かい、上空で一気に花開いて、丸くなって広がった。そのあとを、耳をつんざくような轟音が追ってきた。第一の閃光に続いて、第二、第三の光の塊が、暗黒の空に上っていき、周囲を焦がした。爆発音は間断無く続き、何回も大爆発と小爆発が、交互に繰り返されて、海を揺るがした。  明るい光に助けられて、陸を目指すのは容易だった。ゴードンとエミーは、既に助け合って、桟橋にたどり着き、いまにも、陸に上がろうとしていた。桟橋には、大勢の武装警官が配備に付いていた。その先頭に、ジャクソン刑事がいた。桟橋に上がった二人は、近くにいた警官に助けられて、刑事のいる場所にやって来た。  「やあ、君達もいたのか。助かってよかったな」  刑事は、ここでも、軽口を言った。  「なにを、言ってるんだ、こっちは、命懸けだ。今頃、のこのこ姿を見せやがって」  「ところで、君たちは、何をしていたんだ」  「船を見つけて、出航を阻止したんだぞ。見ていれば分かるだろう」  「阻止したのか。でも、船はあんなに遠くに行ってから、爆発した。見てみろ」  三人は、遙か彼方の光が上がる場所を並んで、眺めていた。  「悪かった。正確には、保安官が出航を阻止するのを助けた」  「ええっ、助けたというのは」  「保安官が、テリーに撃たれそうだったのを、援護射撃で助けたんだ」  ゴードンは誇らしげに答えていた。  「君が、銃を撃って、警官を助けたのか」  「そうだ、おれは、撃つことができた」  ジャクソン刑事は、感慨深げに、ゴードンの手を握って言った。  「おめでとう」  最後に小さな爆音が響いてから、光は上がらなくなった。船は沈み始めたのである。多量の殺戮兵器とテリーを体内に抱えながら、船は海底に落ちていったのだ。    その年の五月某日、アイルランドでは、反乱軍と英国政府との間で和平協定が成立し、IRA(アイルランド共和軍)は、活動を停止した。だが、武装解除の方法を巡って対立は解消されず、九七年春からテロ活動が再開された。いまだに、完全和平の道筋は見えていない。    二十八 電 話  漁船が爆発した日の夕方、英国の首都、ロンドンのダウニング街十二番地、首相官邸の二階寝室の電話が鳴った。電話に出たのは、新しくこの家の主人となった労働党党首夫人のシェルリだった。  「はいはい、あら、エミーさん。主人にですか。いま、代わりますね」  ネグリジェ姿の夫人から、電話器を受け取ったトニー・ブレア首相は、いかにも楽しげにその姪からの電話に出た。  「元気かい。今度の活躍ぶりは、Mに聞いたよ。あまり、無理をせずに、やってくれたまえ。愛しい、エミーちゃん」  「私の愛しい探偵さんが、がんばってくれたのよ。私は、彼に付いていくだけ。それに、彼はまだ、私がエージェントだと気が付いていないの。世間知らずの可愛いOLだとしか、思っていないわ」  「それにしても、さすがにわが国の情報機関員養成所で、射撃で一番の成績を取ったことがある優秀なエミーちゃんだ。私は安心しているよ」  「ああ、その前に選挙での圧勝と首相就任おめでとうございます」  「そんなことは、いい。これは、時代の流れにすぎない。それより、課題は山積しているんだ。頭が痛い」  「私がすこしでも、お役にたてれば、何でもしますわ。公にできないことで、特別任務があれば、言ってくださいね」  「愛しい君にそう言われると千人力だ。強い味方を得た気分だ。今度は、君らの活躍でわれわれの警官と治安維持軍の多数の人命が救われた。すこし休んでくれたまえ。私の最初の仕事として、君に、一ヵ月の休暇を許す。Mに言っておくよ」  「有り難う。伯父様。電話をしてよかったわ。ではまたね」    エミーは、その週のゴードンとのデートで、  「二人きりで、遠くに行って休みまたいわ」  と提案した。ゴードンの答えはこうだった。  「そんなことをしている暇はない。どんな小さな調査でも、引き受けてやっていかなければ、食っていけないんだ。浮気調査でも、身元調査でも、断る訳にはいかない。休暇なんて夢の話だよ」  エミーはさらに、ねだるように  「でも、私、長い休暇が取れたのよ」  と続けた。だが、ゴードンは  「それは、良かった。では、一人で行ってこいよ。ジャマイカでも、ケイマン島でも」 と素っ気ない。  「一人じゃ、つまらないわよ。南の海に行って、綺麗な魚を見ましょうよ」  「おれは仕事をしなくちゃならない。それに、射撃の練習だ」  「あれ、あなた、撃てるようになったの。あんなに、だめだったのに」  「撃つ必要がある時は、躊躇なく撃てなくてはいけないと気が付いたのだ。その時のために、君もやっておいたほうがいいぞ」 (この人は、誰のお陰で命拾いしたのか、もう、すっかり、忘れている)  エミーは、ダブルベッドの横に並んで寝ているゴードンの裸の体の上に乗り掛かって、その下半身の一部を両手で握って、刺激した。ゴードンはそうされて、下から突き上げてくる快感が心地良く、なるべく長続きをさせたかったが、その部分は勝手に反応して膨張した。  「こちらのピストルは、天下一品なのにね。私は、毎日、こっちの的になって過ごすことにするわ」  エミーは、そう呟いて、ゆっくりと腰を沈めていった。          (終わり)