『ラスト・コンサート』 1 四十八歳の誕生日を迎えた日に、藤一郎は入院した。 医師の診断は、ガンだった。 藤一郎は、この膵臓ガンでは日本一という名声を持つ医者に、初めて診てもらったとき、 「先生、私にはすべてを隠さずに話してください。ガンならガンと・・・。どのくらい持つのか。どこが、どう悪く、どういう処置が必要で、どう対処するつもりか。すべて、お話し願いたい」 と宣言した。 そのあまりの迫力に、医師は、 「その通りにしましょう」 と約束した。 藤一郎にとって、この入院がどういう意味を持つのか、彼は、実を言うと、一晩、寝ずに考えた。そして、考えが、右左へと行き来するうちに、達したのが、この結論だった。 ーー所詮、俺はそう長くは生きられない。それが、半年なのか、一年なのか、あるいはもっと短いのか。いずれにせよ、長くないのは、確実だ。この世に生まれて、最後の生きざまをどうするか。俺は俺の人生の最後を、自分の生きたいように生きたい。  昔、藤一郎は、黒沢明監督の「生きる」という映画を見て、感動した覚えがある。ガンと宣告された役場の職員が、最後の仕事に公園作りに、全力を傾けていく話だった。 「俺もあの主人公と同じだ」  そう思って、藤一郎は、まず、自分が、この人生で一番したかったことは何なのかを考えてみた。  (子供のころから、おれは、おれの一生は平凡でいいと考えていた。平凡に大学を出て、平凡に会社に入り、サラリーマンで一生を終える。それで、いいと考えていた。だが、青年期になって、なりたいと思ったのは、音楽家だった。できれば、ヴァイオリニストと思って、レッスンにも通ったが、長続きしなかった)  だから、藤一郎が、成りたいと思ったのは、そのとおりになったサラリーマンともう一つはヴァイオリニストなのだった。  人生で成ろうと思ったものが、たった二つしかないのは、別に、珍しいことではないだろう。藤一郎はそう、大きな夢を持つ性格ではなかった。  藤一郎は、ガンの宣言を受けて、そう長く生きられないと悟って、ヴァイオリニストになることを決めた。  だが、ヴァイオリニストになるのは、そう簡単ではない。長い修行の年月と厳しい訓練が必要なことは、分かっている。だから、厳密な意味では、藤一郎が成りたいと思ったのは、ヴァイオリニストではなく、ヴァイオリンを弾く人、すなわち。ヴァイオリンの演奏家だった。  (プロになるなんて、とても無理だろう。せめて、アマチュアのなかで、上手なほうになれればいい)  それには、どのくらいの時間が必要だろうか。藤一郎は、計算してみた。  ーー 初歩から始めるにしても、まともに、演奏できるようになるには、半年はかかるだろう。それも、毎日、欠かさずに練習してだ。そして、後、半年で、総仕上げをする。そうすれば、なんとか、人前で見せられるものになるかもしれない。だが、それまで、体力が持つだろうかーー。  藤一郎は、その点に、思い至って、暗澹たる気持ちになった。  問題は、どのくらい持つかである。それは、医師に聞いてみなければ分からない。  藤一郎は、そう決心した翌週の診察で、医師にこの点を質した。  医師は言った。  「もう、末期に近いですか、一年もてば、良しとしなければならないでしょう。その間、人生でやりのこしたことをするのもいいでしょう」  その言葉は、冷静で、疑問を差し挟む余地のないもののように思われた。  藤一郎は、決心した。  見舞いにやって来た妻の良子に、包み隠さず、気持ちを話したあと、医師の診察結果を告げた。  「あと一年の命だそうだ」  良子は、藤一郎の長い話の後、この夫の「死刑宣言」を聞かされて、ハンカチを涙で濡らした。  「わたし、当たってみますわ。良い先生が居ればいいですけど。そういえば、ご近所に芸大のヴァイオリン科を出て、安く教えてくれる先生が居るらしいから、聞いてみようかしら」  「この期に及んで、お礼の額は問題ないだろう。高くても良いんだ。早く、上手に教えてくれる人ならば」  「分かりました。探してみます」  そう言って、良子はまた、涙ぐんだ。  その涙を見て、藤一郎の脳裏に、子供の頃の、鮮烈な思い出が蘇ってきた。  (あれは、夏の日の暑い午後だった。その年は、いつにも増して、残暑が厳しく、八月の蝉の音が激しい、昼下がりに、私は、川遊びで疲れ切り、ぐったりとした身体を引きずりながら、家路を急いでいた。昭和三十年の夏。おれは、小学校一年生だった)  藤一郎の頭に、その日の光景が、鮮明に蘇ってきた。今は、新春と言っても、外気は冷たく冬の気候なのに、夏の思い出が、彼の頭を熱くさせた。  (私の生まれた家は、水遊びをしていた小川から、坂を登った丘の上にあった。私は、坂道を登って、家路を辿っていた。坂の途中に、洒落た洋館が建ったのは、二年ほど前だったが、土地の人たちは、その家は、東京から引っ越してきた外交官の家で、家主は、退職してから、この、遠くに富士山を望み、近くには、相模川が流れる土地を気に入り、引退後住居を定めたのだと、言っていた。  私が、その家の脇を通りかかると、家の中から家人の討論する声が聞こえて来た。 「早く、こちらに来て、あなたの、勉強の成果をお父さまに、ご披露なさいな」  「分かりましたわよ。そう急かさないでください。こちらも準備があるんですから」 「まったく、この子は、モスクワくんだりまで行って、高いお金を掛けたんですからね。まず最初に、成果を披露するのは、そのお金を出してくれたお父様でしょう」  「わかっておりますわ。では、これから、さっそく、演奏します」  「お父さま。始まりますよ」  母親と、父親が席に着いて、その家庭音楽会が始まるところだった。  私は、そのちょうど、開始の時に、道を通りかかったのだった。  美しいヴァイオリンの音が、流れはじめた。それは、甘美なメロディーで、明るく流れるような美しい旋律と澄みきった音の響きを持った心地よい、楽曲だった。  私は立ち止まって、その音楽に聞き入った。  独奏のヴァイオリンは、流れるように、音を奏でていき、時折、外の木々で鳴くセミの音と混じり合って、熱く太陽が照らす夏の空に和音の絵画を描いていった。  演奏は、三十分程続いた。静かな静寂のあと、拍手の音が聞こえた。それは、父と母の四つの手が、生み出した疎らは拍手だったが、私には、この上もなく、温かい響きののリズムを奏でる手による音楽のお返しのように聞こえた。  「素晴らしいわ。こんなに上達したなんて。本当に、あなたを留学させてよかった」 「どうも、有り難う。わたし、有名な演奏家になれるかしら」  「大丈夫よ、絶対に。あなたは、素晴らしい演奏家になるわ」  母が、娘を褒めそやしていた。  私は、自分の母が、いつも、「子育ては、一つ叱って三つ褒め」と言っているのを思い出して、なるほどと納得した。  それが、初めての、ヴァイオリンの本格的な演奏との接触だった。  私は、その夏の終わりに、両親にせがんで、念願のヴァイオリンを手に入れた。それは、国産のスズキ製の子供用の楽器だった。母は、電車で一駅の隣町にヴァイオリンの教師がいるのを見つけてきて、私を週一回通わせた。  しかし、この教師が、良くなかった。子供の私に、理屈も分からないままに、ただ、指の位置を教え、左手を捩じったり、右手での弦の操作を無理やり教え込もうとしたが、それは、私には苦痛以外の何ものでもなかった。あの、美しい音色は、このような苦痛から生まれるのだろうか、と暗澹たる思いに捕らわれた。  私は、二ヵ月程、通って、辞めた。いつまで経っても、曲を弾けなかったし、単調な和音の繰り返しでは、満足できなかったからだ。  母は辞めてしまった私に、何も言わなかった。  「厭なことを無理して続けることはない」  そういうのが、両親の考えだったし、息子に嫌がることを強要するようなことは、決してなかったのだ。  私の小さなヴァイオリンは、棚のなかに仕舞われて役割を果たすことがなくなった。それでも、高校、大学へと進む間に、時折、取り出しては、弾いてみることがあったがそれは、和音止まりで、曲を弾くまでには遠かった。  あの洋館の少女は、その一年後、コンクールで新人賞に輝き、颯爽と音楽界に登場した。容姿も顔つきも美しく、新聞は「楽壇に清烈な美人ヴァイオリニスト登場」と伝えていた。  その顔写真を見て、私は「あの美しい音色を奏でていたのは、この人だったのか」と納得した。あの音の記憶は、このような音楽を奏でる人の、一定のイメージを私に与えたが、実際、その人は、このイメージ通りの人だった。  わたしは、成人してから、この人のコンサートに行った。上野の国立音楽会館で開かれたその演奏会には、今は妻となった良子との最初のデートの機会だった。  前端貞子というその女性ヴァイオリニストの演奏会は、「チャイコフスキーのヴァイオリン・コンチェルト ニ長調 作品35とメンデルスゾーンのヴァイオリン・コンチェルト ホ短調 作品64」の二作品だけが、演奏されるミニ・コンサートだった。  私が、子供のときに道端で聞いた楽曲は、すでに、レコードで、メンデルスゾーンのこの作品だと分かっていたが、改めて、その本人の演奏を聞いて、この人の演奏の素晴らしさが、納得できた。  私にとって、ヴァイオリンとは、そういう意味のあるものだったのだ) 良子は、翌々日に、看病のためにやって来た病院で、  「先生が見つかりましたけれど、病院の許可がいるのではないですか」  そう聞いた。それは、私も思い浮かばなかった。病室は個室だったから、そんなことまで、気が回らなかった。良子は早速、看護婦さんに相談した。担当の看護婦は、  「そのくらいなら大丈夫でしょう」  そう請け負ってくれたが、念のために、婦長と事務長の許可を得ることになった。  少し経って、看護婦は、書類を持ってきた。  「これに、その練習の日時と、先生の名前を記入して、許可申請してください」 と言った。  私は、良子にそれを渡して、記入を頼んだ。  「先生は、芸大出の方で、吉野りかさんといいます。それで、練習は毎週、金曜日があいていると言っていましたけど、それでいいすか」  「私の方は、このとおりだから、いつでもいいんだ。それは、お前も分かっているではないか」  私は、妻の気の聞かない、言い方を詰った。  「そうです、だから、決めてきました。金曜日の夕方、午後五時から一時間ですよ」  「なんだ、決めてきたのか、それならそうと、最初か、言えばいいじゃないか」  「だって、あなたは、何でも自分で納得が行くようにしたい人でしょう」  「こんなになって、そんなことはないよ。死ぬまでもう、そう時間がないのだからね」  良子は、私のその言葉に、返す言葉がなかった。 病院からの許可はすぐに出た。ただし、「ほかの入院患者や治療に差し支えないように」との但し書き付きだった。だが、許可が出たことに変わりはない。 それで、私のレッスンとその日程は決まった。 2 私のヴァイオリンの先生、吉野りかは、翌週からやって来た。彼女は、私に会うなり 「私のレッスンは、みな、厳しいといいます。お見受けするところ、御病気のようですが、それでも、手加減はしませんから、そのお積もりでいてください」 そう宣言した。 私は、 「見たところ、御病気のようですが」 という言い方はあるまいと思った 病院に来ていて、それは当然のことだ。しかし、彼女がそう言ったのは、せめてもの、新しい生徒への思いやりだったかもしれない。そういう言い方をすることによって彼女は、通常の時と同じ様に、すなわち健康な人と同じやり方で、私に教える、と宣言したのだった。 私には、そういう言い方は、うれしかった。これで、病気を意識することなく、私は練習に専念できる。ただ、ひたすら、ガンによって、決められてしまった命を考えることなく、このことに、打ち込めるだろう。そう考えて、彼女のこの申し出が、爽やかに感じられた。  「それで、ヴァイオリンは、持っていらっしゃるのですか」  彼女は、おだやかに聞いた。  「いえ、それも、先生にご相談してからが、良いと思いまして」  「そうですか。それでは、私が選んできましょう。どのくらいの、ご予算がありますか」  聞けば、ヴァイオリンには、ピンからキリまで、あるらしい。そういえば、名器といわれるストラディバリウスは、家が一軒、買えるような 値段だというではないか。  「どのくらいのものがいいのでしょう」  私は聞いた。  「そうですね、大人用なら五万円くらいからありますよ。でも、それでは、すこし、寂しいですね。やはり、新品なら十円台のものがいいでしょうね」  「そうですね、新品でなくてもいいですか」  「それは、そのほうが、いいかもしれません。少し、使い込んであるほうが、音色も安定しているし、ヴァイオリンは、そのほうが、使いやすいのです」  「いずれにせよ、お任せします。十万円でも二十万円でも、わたしに適当なものを選んで下さい」  わたし、良子に言って、二十万円、持ってこさせた。    吉野りかは、翌週、購入したヴァイオリンを手にして、わたしの病室にやって来た。挨拶をするのもそこそこに、彼女は、そのヴァイオリンを見せて、  「いい出物がありました。神田の下倉楽器で、ちょうど、出たばかりの中古が手に入りました。ドイツ製で、マイスターの作品です。これが、十五万円というのは、安かったでしょう」  彼女は、鼻高々にそう言った。  わたしは、そのヴァイオリンを、ケースから取り出して、手に取ってみた。  滑らかなニス塗の肌が、手に心地良かった。裏返してみると、尻の部分に、焼き印が押してあった。確かに、ドイツ語だった。  「それで、どのような人が使っていたのでしょうか」  わたしは、率直な疑問をぶつけた。  「なんでも、店員さんの話では、音大の生徒さんが使っていたもののようです。だがそん生徒さんは、なにか、事情があって、ヴァイオリンを、やめてしまったのだそうです」  「もっと。良いものに買い換えたのではないのですか」  「そうは。言っていませんでしたね。その学生は芸大も辞めたのだそうです」  わたしは、ケースの裏を見た。そこに、微かな書き込みがあるに気が付いたからだそこには、小さく黒い文字で、「S.M」と書かれていた。  (前の持ち主の名前の、イニシャルなのだろうか)  そう思ったが、吉野りかには、何も言わなかった。  「さあ、これで、レッスンの用意は整ったわけです。今日は、まず、構えからから、練習します」  こうして、わたしの、病院でのヴァイオリン・レッスンが、始まったのだった。              3  町田しおりは、五歳からヴァイオリンのレッスンを受けてきた。家の近くに、「鈴木メソッド」によるヴァイオリンの教室があり、教育熱心だった父母は、しおりに情操教育を施すため、この教室への入室手続きを取った。  幼いしおりには、それが、どういう意味を持っているのか分からなかったが、真新しい楽器を買ってもらい、それを弦で弾いてみると、とても美しい音色がしたので、しおりは、ヴァイオリンが好きになった。  しおりは、五歳の時は、母に連れられて、週に二回の教室に通った。レッスンは、楽しかった。同じ年頃の幼児が、十人ほど、一緒に練習していた。最初は、おずおずとして年上の子供たちに対して、遠慮がちだったしおりは、通いはじめて、半年程、経ったころには、すっかり、教室にも馴染んで、楽しく、レッスンを受けていた。  秋になって、練習の成果を発表する会が、持たれることになり、しおりも、やさしい練習曲の「きらきら星」を練習して、発表した。  小学校に入ると、教室の半部以上の友達が、塾通いなどで、教室を辞めていったが、しおりは、  「塾で勉強するより、こっちの方がいい」  そう言い張って、ヴァイオリンを続けた。  それも、学校の成績が、良いほうだったから、両親も、それを許したのだった。それに、しおりは、幼稚園から女子大学付属に行っていたから、小学校も無試験で進学できた。その学園は、しおりが、小学校に入った年に、「大学まで、無試験進学できる」という方針を決めていた。だから、勉強は「落第をしない程度に、しておけばいい」のだった。  そういう恵まれた環境のなかで、しおりは、ヴァイオリンを、楽しんで、練習した。楽しみはますます、追求したくなる。何事も、好きになるほど、早い上達の道はない。しおりは、小学校を卒業するころには、多くの、音楽コンクールで入賞し、トロフィーや表彰状をたくさん、貰った。  母の康子は、  「しおりさん、あなたは、演奏家になるの」  時々、そんな話もしたが、しおりは、いつも、  「それは、無理ね、それほど、上手ではないわ。演奏家になるには、それだけのセンスと努力が必要だわ。わたしには、センスもそんな大変な苦労をするつもりはないの」 そう言って、取り合わなかった。  でも、先生に付いてのレッスンは、続けていた。そして、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲に挑戦した。  可憐な少女にとっての、小学校はそうして、日々、淡々と過ごしたが、しおりが、中学になるときの春、彼女は、身体の不調を訴えて、寝込んでしまった。  病院の医者は、  「循環器系の不調のようですが、精密検査をしてみます」  そういって、しおりの血液検査をした。  結果は、一週間後に分かった。それは、  「軽い貧血症状」ということだった。  医師は、  「薬で治療できます」  そういって、鉄剤が入った治療薬を投薬した。  しおりは、中学一年生の間、その薬を飲みつづけた。体育の時間に、長距離走が、あったが、そういう過激な運動にはとても耐えられず、いつも見学していた。  (わたしは、どこか、身体の欠陥があるの)  そういう気持ちが、心の底にこびりついて、時折、顔を覗かせた。  それ、しおりに将来の不安を抱かせた。  (わたしは、そんなに、長生き出来ないかもしれない。せいぜい、三十歳まで、生きられればいいわ。こんなに、身体が悪いんですもの)  しおりは、中学時代をそういう気持ちに、捕らわれながら、過ごした。  だが、医師は、いつも、  「この分なら、体調はいいでしょう。決して、わるくはなりませんよ」  そういうだけで、それが、また、しおりを悩ませた。  (先生は、そういって、私を慰めているんだわ。お医者さんは、本当のことを言ってくれない、と言うじゃない。きっと、わたしの酷い病気の秘密を、いつまでも、言ってくれないに違いない)  しおりの疑心暗鬼は、募った。  高校に進学するころに、公園に犬を連れて、散歩に行った帰り道に、犬が急に駆けだしたのを止めようとして、首輪を引っ張ったとき、転倒し左足の膝小僧を擦りむいて、かなり大きな怪我をした。  しおりは、家に飛んで帰り、母の康子に泣きついた。康子は、その傷を見て、仰天した。真っ青になって、薬箱を出した康子は、二種類の薬を大量に傷口に塗り付けて、包帯でぐるぐる巻きにする、応急手当てをしたあと、医者に連れていった。  しおりの出血は、なかなか止まらなかった。分厚く巻かれた包帯から、じわじわと血がしみ出てきて、しおりは、気を失いそうになった。  応急室の医師は、傷口を見て、止血剤を大量に投与し、様子を見た。だが、それでも出血は止まらず、しおりの意識も失われそうになった、輸血が行われた。  血液の瓶三本が消費されて、どうにか、出血が抑えられたが、当然、しおりは、入院することになった。  病室のベッドの上で、しおりは、混濁した意識のなかで夢を見ていた。  ーー わたしは、大きなコンサートハールのステージに立っている。もう、聴衆は満席になっていて、わたしの演奏の始まるのを、固唾を飲んで見守っている。わたしは、ステージの中央で、ヴァイオリンを肩に当てた、脇でピアノが鳴りはじめた。わたしはピアノの音に合わせて、身体で調子を取り、最初の音節を目で追った。  身体を揺すって、最初の音に挑む。それは、軽やかに、始まった。豊かな情感を胸にわたしは、楽譜を追っていった。  うっとりとするような、音の流れ。高く低く、長く短く、妙なる調べが、わたしの右と左の指の動きのなかから、生まれ、会場を潤した。  甘いメンデルスゾーンの競奏曲、しっかりとした構成のチャイコフスキーの楽曲。みんなわたしの好きな曲だ。  身体を目一杯に使って、わたしの演奏は続いた。額から吹き出していた汗が、首や胸にまで、回ってきて、わたしは、身体の芯から熱を発しているのを感じた。  うっとりとして、気持ちが良くなった。わたしはいつも、この瞬間に、想像する。  (これは、男の人とのセックスよりも、心地よい)  恍惚として、登り詰め、絶頂に達したとき、わたしは、我が分からなくなる。それは忘我の境地だ。神が乗り移って、わたしを操っている。そんあ経験は、滅多に出来るものではないが、わたしにはこの時が、その瞬間だ。  大音量の中で、わたしは、それを味わった。クライマックス。登り詰めて、わたしは脱力した。心地よい疲れ。身体の中に溜まった物を、全て放出して、カタルシスを感じるリラクタントな時。わたしは、それが、心地よい。  静かにヴァイオリンを肩から降ろして、右手に持ち、聴衆に向かって、頭を下げた。 激しい拍手と、歓声がわき起こった。わたしは、もう一度、頭を下げて、ふかぶかとその歓声に応える。静かに、二度、三度。そして、幕が降りるのを合図に、楽屋に引き込んだ。それでも、観衆の拍手は止まない。アンコールを求める拍手が続く。  わたしは、再び、ステージに姿を見せるが、アンコールには応えない。  聴衆は不満のブーイングなどしない。わたしのアンコールの拒絶にも、不満を漏らすことなく、席を立ち、三々五々、帰っていったーー。    しおりは、そういう夢のなかを漂って、病室に戻ってきた。外は、もう暗くなっていた。意識が、戻って、しおりは、自分が演奏会場ではなく、暗い病院のベッドの中に居ることを感じて、再び、急激に落ち込んだ。  (わたしは、何をしたのだろう。どうして、ここにいるのだろう)  ここまでの経過を、戻ってきた意識の中で、回想してみた。  (わたしは、タロを散歩させていた。そしたら、急にタロが駆けだしたので、綱を引いた。そしたら、倒れてしまって、膝を地面に擦って出血した。家に泣いて帰ったら、母が真っ青になって、応急処置をしてくれた。でも、血が止まらなくて、病院に来て、処置を受けたが、それでも止まらず・・・)  そのあと、意識が無くなって、分からなくなった。  (でも、意識の無いなかで、わたしは、夢を見たんだわ。演奏会でヴァイオリンを演奏していて、気持ちが良くなった。段々と、気持ち良さの度合いが強くなって、わたしは、男の人とセックスより気持ちがいいと、感じた、わたし、まだ処女なのに、どうしてあんなこと、感じられたんだろう)  そこまで、思い出して、しおりは顔を赤らめた。    輸血で、容体は好転した。出血も収まり、しおりは、翌日退院できた。 母の康子は、この事件以来、以上に神経質に、しおりに注意するようになった。  「怪我は絶対にしないように気をつけるのですよ。血を出さないように。転んだりしないように。危ない遊びをしてはいけないわ。乱暴人とは、付き合ってはいけません。学校からは、真っ直ぐ帰るんですよ」  注意は際限なく続いた。  そして、しおりは、毎日、決まった時間に、錠剤を飲むことを要請された。それは、赤い丸い薬で、飲むと胃を傷めるような気がして、しおりは、厭だった。だが、毎食後飲むように言われて、素直なしおりは、それに従った。  しおりは、まったく、体力に自信が無くなった。  (わたしは、三十歳まで生きられるかしら)  気が弱くなった。いくら、薬を飲んでも、しおりの顔色はいつも白く、病的だった。夏になると、友達が、カラフルな水着姿で、プールや海に行くのを、しおりは、羨ましそうに見ていた。  「夏の熱い日差しの中に出るのは、あなたの身体に良くないわ」  母の康子には、外出を止められていた。  酷暑のなか、部屋に閉じこもって、エアコンを効かせていても、暑い。仕方なく、冷たいものを飲みたくなって、しおりは、冷蔵庫のカルピスの瓶を取り出して、長いファッション・グラスに入れ、水で薄めようとした。何時もは、飲み物は、厚みのある愛用のカップで飲むのだが、この日は、それにアイス・コーヒーが、入っていて、使えなかった。水入れをファッション・グラスに向けたとき、手が滑ってグラスの縁に落ちた。グラスは、縁が欠け、しおりの左手の人指し指と親指を切った。  じわりじわりと、血がにじんできて、指の先を紅く染めた。しおりは、急いで、バンド・エードを取ってきて、指に巻いたが、血は、止まらなかった。  しおりは、焦った。次ぎに。包帯を厚く巻いてみたが、それでも血はしみ出てきた。母の康子は、用事で出掛けていて、夕方まで帰らない。父も仕事で会社に行っていた。家にはしおりしかいなかったから、しおりは、厚く包帯をしたまま、失血で、徐々に、気分が悪くなるのを、ベッドに横たわって、耐えていた。それでも、日が落ちるころになって、最悪の気分になり、意識も徐々に薄らいできた。そして、分からなくなった。  康子が、帰宅して、二階のしおりの部屋に直行したのは、いつもの彼女の習慣に従ったまでだが、いつも、元気なしおりの姿を見て、安心するのに、この日は違った。  ベッドの上で蒼白になって、意識を失っているしおりを見つけ、康子は、直ちに、救急車を呼んだ。  救急車は、十五分程して、到着した。しおりは、何時もの病院に緊急入院した。   4  しおりが、救急治療を受けて、症状が回復し、病室で寝入っているときに、母の康子は、主治医に診察室に呼ばれた。  「お嬢さんですが、どうも、だんだん、症状が悪化しているようですね。そこで、薬を変えて、今度は、錠剤を溶かして、注射するものにします。その前に、ここでは、輸血で、回復を待ちますが、やはり、血液の凝固因子がないのですから、それを外から補給する手しかないでしょう。いまは、良い薬が出来ていますよ」  主治医はそういった。  康子は、その言葉に従うしかなかった。  「そうですか。入院せずに、家で自分で注射できるのでしたら、それに越したことはないですね。そういう便利な薬があるのなら、ぜひお願いします」  そういって、病室に帰ってきた。  何時ものように、入院は短かった。二日ほど、入院して、しおりは家に戻ってきた。 退院の時に、医師が言った血液製剤をひと月分受け取って、看護婦から注射の仕方の指導を受けた。  (毎日、一度の注射がしおりの命を、永らえてくれる)  家人はそう信じていた。しおりも、そう信じた。  そして、その、薬剤を使用しながら、しおりは高校を無事、卒業した。  大学は、音楽大学を選んだ。なにより、命の拠り所だったヴァイオリンをもっと学びたかった。新しい薬剤のお陰で、しおりの活動範囲は広がっていたし、身体も軽快に鳴っているような気がした。  (とても、演奏家にはなれないけれど、ヴァイオリンがなかったら、わたしは、生きていなかったかもしれない。生活の張りあいだし、わたしの生きる意味でもあったのだから)  そう考えて、しおりは、音楽大学を選んだ。  学生生活は楽しかった。友人もたくさん出来た。それに少し、化粧のしかたやお洒落も覚えた。ファッションにも興味が出てきた。おいしいケーキやお茶をする場所も決まって、しおりの学生生活は、充実していた。  大学での、ヴァイオリンの練習は、厳しかった。だが、着実に技術が上達しているという手応えがあったから、充実していた。難しい曲を一曲ずつマスターしてみると、また新しい曲に、挑戦する意欲が、湧いてきた。  そして、徐々に、レパートリーが、増えていった。学友たちとの合奏も楽しかった。しおりは、サークルにも入った。身体不自由な子供たちへのボランティア活動を行っている社会福祉のサークルで、しおりは社会の弱者への温かい目を養った。  (この子たちには、未来がある。命の火が燃え尽きることなど、考えていないわ。わたしのほうが、先に死んでしまうかもしれないのに)  奉仕活動をしながら、しおりの頭にそういう回想が浮かばないときはなかった。だが活動の間は、そういう考えを捨てて、打ち込むことができた。子供たちの世話をしていると、全ての心配事を忘れることができた。  (わたしの命が燃え尽きても、この子たちは、生きていく。それが、人の命の素晴らしいところね)  しおりには、その優しい心を、この子供たちに、全身で向かわせる事が出来ることが楽しく、嬉しかった。  (わたしは、この子たちに、命の力を与えられ、精気を吹き込まれている)  そういう充実感が、しおりにこの活動を続けさせた。  四年間の大学の生活は、そうして、実りの多いものとなった。  卒業のコンサートで、しおりは、交響楽団の一員として、第一ヴァイオリンを担当した。卒業生の父母の見守るなかで、行われたそのコンサートは、見事なアンサンブルで聴衆を魅了した。  卒業成績は、いつものしおりのように、真ん中から少し上くらいだったから、とても一人立ちして、プロの演奏家にはなれそうもなかった。同級生の多くは、教職の免許を取って、音楽の先生になった。残りは、オーケストラの団員になったり、楽団に加わって、生活を立てることになった。  しおりは、そのどの道も取らなかった。  「わたしは身体が弱いし、仕事続けていく体力がないわ。だから、家にいて、子供たちに教えたい」  一人娘の申し出に、両親は、いやもおうもなく同意した。  しおりは、家の玄関にワープロで買いて、  「ヴァイオリン、教えます」 と、看板を出した。  そして、ワープロで、パンフレットもつくり、エレクトーン・ハウスや楽器店に置いてもらった。  生徒は、すぐに集まった。近所の小学生がまず、やって来た。それは、しおりが、小さいころに、ヴァイオリンを始めたのと同じ同期ときっかけだった。  五人ほど生徒が、確保できて、月収は十万円くらいになった。半年ほどすると、しおりの優しい教えかたが、評判になって、生徒は、二十人に増えていた。みんな、小、中学生で、しおりの家は、学校の延長のようだった。  しおりには、楽しい日々が続いた。遠くに通勤することなく、自宅で待っていればいいのだから、身体は楽だったし、教える時間以外は、自由だった。レアッスンが、ない時は、母の康子とともに、料理を作ったりした。しおりはケーキ作りを研究して、かなり上手くなった。作ったケーキは、子供たちのおやつに出した。評判は上々だった。そういう、心尽くしが、また、評判を呼んで、生徒は断らなければならないほど、やって来た。  そんな、生活が、二年ほど続いた。  三年目の夏に、しおりが、手作りのケーキを、皆に配ろうと、ナイフで切っていたところ、手が滑って、左手の人指し指を切った。  始めは、滲んでいただけの出血は、いくら止血しても止まらなくなり、しおりは、また、ベッドの上で、意識を失った。    しおりは、母の康子に付き添われて、行きつけの病院に緊急入院した。  医師は、また、輸血で応急処置を取ったが、しおりは、それでも、意識が回復しなかった。止血剤と栄養液が混合されて、点滴が行われた。  しおりは、その晩中、昏睡を続けたが、心電図や呼吸を監視する機械のグラフは正常だった。  医師は、  「体力が弱っているので、ぐっすり眠ることが、一番でしょう。栄養を取って、眠れば、体力は回復しますよ」  そう言って、康子を慰めた。  そして、念のために精密検査をすることにした。  しおりの血液が採取され、検査に送られた。  翌朝、康子の寝ずの看病の甲斐もあり、しおりは深い眠りから寝覚めた。  だが、熱を計ると、依然、高熱が続いていた。食欲もなかった。  しおりは、意識のない中で、夢の中を彷徨っていた。  それは、最初に、側の中を流れていく愛用のヴァイオリンの光景から始まった。  ーー しおりは、流されていくヴァイオリンを、必死で追い駆けていた。川は、幅が五メーター位の狭い川幅だったが、流れは早く、しおりは土手の上走らなければならなかった。なぜ、そこにヴァイオリンが流れているのかは、分からない、だが、とにかく流れるヴァイオリンを、しおりは、声を上げて追いかけていた。  「わたしのヴァイオリンが、流れていくよー」  大声で叫びながら、追いかけていた。すると、流れの先に流木や草が積もった澱があり、そこに、ヴァイオリンの首が引っ掛かり、止まった。しおりは、手を差し延べて、そこから、ヴァイオリンを取り上げようと、身を乗り出した。土手の上に乗っていた体重が、川の方に移動し、しおりの体は、川の方に傾いた。そして、足の方から、川に落ちて、流された。  流れは急だった。しおりは、頭を上に上げて、息をしようともがいたが、急流は、しおりの身体を、容赦無く、下流に運んで行った。水が、鼻や口から入ってきて、苦しくなった。手足をもがいて、流れに逆らおうとしても、無理だった、しおりは意識を失った。  そして、数分、しおりは、土手の上に横たえられていた。だれかが、通りかかって、掬い上げてくれたらしい。しおりは、人口呼吸をされていた。気が付いたしおりは、  「わたしのヴァイオリンは」 と叫んだ。ヴァイオリンは流されてしまっていた。だが、命は助かった。瞼をあけると、母の顔が、目の前にあったーー。  そうして、しおりは、深い眠りから目覚めたのだった。 5  一週間後に、検査の結果が出た。医師は母の康子を診察室に呼んだ。  「実は、これは、お母さんにだけ、申し上げますが、しおりさんの血液検査の結果が出ました。しおりさんは、HIVヴィールスに感染していることがわかりました」  「HIV・・・・。それは、なんですか」  康子が聞いた。  「いわゆる、エイズのヴィールスです。人免疫不全症候群ヴィールスです」  「エイズというと、あのエイズですか」  「そうです」  康子は、目の前が真っ暗になった。転倒しそうにうなるのを必死で、堪えた。  たしかに、そういう事態を予想しないではなかった。しおりが、血友病に症状を呈するようになってから、ここの病院で「良い製剤ができたから」と錠剤を渡され、それをしおりは、常用していたが、康子には、少しく、危惧の念があった。なんでも、その製剤は血液から出来ているという。しかも、国産とはいえ、原料は輸入の血液らしい。米国では、血液感染による、エイズの蔓延が、社会問題になっていた。  (血液で感染する病気と血液製剤には関係がないのかしら)  康子は、密かにそういう危惧を抱いたことがあった。  それが、いま、現実になった。康子は、聞いた。  「でも、娘はまだ、異性との関係はないはずですが。まだ、処女だと思います」  医師は、考え込んで、こう言った。  「それは、一概には言えないでしょう。性体験が全ての原因とは言えません。それにそうだとして、お嬢さんが全てをお母さんにお話しになっているとは言えないでしょうね」  康子は、侮辱されたような思いがした。私としおりとの母子の関係を、十分に知りもしないで、よくそう断定的に物事を言い切ることができるものだ。しかも、しおりに、そういう体験があるという疑いまで、わたしに持たせようとするなんて。康子は胸がむかついたが、理性で抑えて、こう言った。  「血友病の治療に使っている製剤が原因なのではないですか」  医師は、少し考え込んで、  「いや、その安全性は確認されています。薬で発症する確率は極めて小さい。わたしは、それが原因だとは思いません」  康子には、それ以上の質問の材料も気力もなく、黙ってしまった。  「ヴィールスが、検出されたといっても、直ちに発症するわけではありませんから、今後は、十分体力を付けて、規則正しい生活をするよう心掛けてください」  医師は、そういって、「エイズ宣言」の会見を打ち切った。  康子は、病室に帰る途中、「これをしおりに、伝えるべきかどうか」迷った。  そして、当分は、伝えないでおくことに、決めた。そして、診察室に引き返して、  「先生、本人には、このことは、秘密にしておくことにしたいのですが」 と相談した。  医師は、  「けっこうです、こちらもそういうことで、スタッフにも伝えておきます」  そう請け負った。  康子は、病室に戻って、しおりの顔を見た。症状は、軽快に向かっているようで、顔色も赤みが差してきていた。意識も回復し、しおりは、天井を見つめていた。  「しおりちゃん。やっと、目を覚ましたのね。大丈夫よ。お母さんがいますからね。しっかりしてね」  康子は、掛け布団の下に手を差し入れ、しおりの手を握った。しおりの手は冷たかった。だが、握り返す力は強く、康子はその握力を感じて、すこし、安心した。  「お母さん、いつも、すみません。わたしのことで、子供のころから、いつも迷惑を掛けて。もう一人前の大人なのに、いつまでも心配掛けてすみません」  しおりの瞼から、光ったもの一筋が尾を引いて、流れ出た。康子は、持っていたハンカチで、その流れを拭った。  「しおりちゃん。大丈夫よ、お母さんが付いていますからね。しっかり、頑張って、元気になるのよ。これまでも、頑張って、元気になったじゃない」  「そうね、でも今度は、本当に、もう駄目になってしまうような気がするの。わたし変な夢も見たし」  「どんな夢」  「わたしの愛用のヴァイオリンが、流されて、無くなってしまったの」  「そう、でも、それは、夢よ。あなたのヴァイオリンは、家にちゃんとあるわよ」  「夢だけならいいのだけれど」  「そう、夢は夢。現実には、あなたは、こうして、生きているし、ヴァイオリンもあるわ」  「そうね、夢は夢ね。現実じゃないんだわ」  「そう、こうして、お母さんがあなたのそばにいるのが、現実なのよ。大丈夫よ」  しおりは、瞼を閉じ、安らかに眠った。  康子は、その寝顔を見ながら、自分の両の目頭が熱くなってきたのを感じた。さきほど、しおりの目頭を拭ったハンカチを、自分の目に当てて、溢れようとする、涙を止めた。  (どこまでも、不幸な子なのだろう。この子は。出来るなら、今すぐに、身体を入れ換えて、変わってやりたい)  自らの人生の長さと、娘の将来の時間を考え合わせて、康子は、耐えきれない気持ちになって、病室の窓から空を見た。  空は、茜色が差し、今にも日が西の果てに落ちようとしていた。  (こうして、毎日が、確実に、回ってくるのに、しおりには、毎日が、命を擦り減らす時間になるのだ)  そう考えて、康子は、これからの一日一日を、娘とのかけがいのないものにしていこうと、心に誓った。 6 折茂藤一郎のヴァイオリン・レッスンは、順調に、その成果を上げていた。先生の吉野りかは最初に宣言したとおり、厳しかったが、その厳しさは、成果に繋がった。  藤一郎は、言われたとおりに素直に、練習に励んだ。  (もう、人生で、失うものはない)  そういう、居直りがあったから、どんな苦労にも耐えられた。問題は、病気による体力の低下で、負担が増えることだったが、ガン宣言を受けて以来の抗ガン剤の効果もあって、体調は悪くなかった。  入院して始めのころの生活は、健康だった日頃の生活とそう変わりがなかった。藤一郎には、週に一度のレッスンが待ち遠しかった。なにしろ、吉野りかは、若く、女性としては、花の盛りの二十台後半だったから、この女性に会うだけでも、人生の最後を彩る意味があるように思われた。  暇なときには、藤一郎は、病床で想像の世界に遊んでいることも多かった。そんな空想の世界に、このヴァイオリンの先生が、登場することが多くなった。  いつも、吉野りかは、イコンのマリアの姿やボッチチェリのヴィーナス誕生の画の中のヴィーナスの姿や時には、ミロのヴィーナスやレオナルド・ダ・ヴィンチのマドンアの恰好をして登場した。それらの姿の頭の後ろには、必ず、光の輪があった。  藤一郎が、その輪を見ようとすると、光は閃光になって、目を射た。藤一郎は、目がくらみそうになって、目を閉じると、いつも、現実に引き戻されるのだった。  ある日、ヴァイオリンのレッスンが、あった日に、その後で見た夢は、今も忘れられない。  ーー 藤一郎は、山を登っていた。何という山かは分からない。ただ、姿、形からすると、富士山のような気がする。それとも、同じような形をした名もない山かもしれない。たった、一人だった。時間はもう、十二時近くで、太陽は、頭の真上にあった。藤一郎のすがたは、四国へ行く巡礼の姿だった。手には、六根しょうじょうの木の棒を持ち、頭から白い頭巾を被っていた。来ているものも白ずくめで、足には草履を履いていた。  もう相当登って、山の中腹に来た。登山道の中腹で、皆が休憩するのか、そこには小さな広場があり、木で作った長椅子も設置されていた。藤一郎は、そこで、休むことにし、持ってきた水筒から、蓋にあけて、熱いお茶を飲んだ。そうして、視界の良い下界を眺めていた。  (はるばると、良くこんなに高くまで登ってきたものだ。下の町があんなに小さく見える)  遙かに広がる風景を眺めている、藤一郎が坐っていた長椅子の端に、若い女性が腰掛けるところだった。その女性は、。  「すみません。ここあいているでしょうか」  か細い声で、声を掛けた。  「はい。もちろんです。あいていますよ」  そんなことから、話が弾み、此処までの途中の山道の話をしたりして、気持ちが打ち解けた。そして、  「ご一緒しませんか」  藤一郎がそう声を掛けたのに、女性も応じ、さらに頂上を目指して、ともに登ることに話が纏まった。  女性の足取りは、遅かった。  「わたしは、身体が弱いので、マイペースで行きますから、先に行ってください」  そういうのを、  「いいえ、わたし急ぐ道ではありませんから。それより、そんなに身体が弱いのに、一人のあなたを残していくほうが、心配だ」  そう断って、同道した。  しかし、八号目くらいに、登ったところで、女性は、とうとう、息が上がり、座り込んでしまった。  「もう、先に行ってください。わたしは、もう、無理です。ここで、休んで、体力が回復したら、また、登りはじめます。だめなら、引き返しますから」  そろそろ、日も落ちはじめたので、藤一郎は思案した。  (ここに、置いていってしまえば、わたしは頂上に登れる。しかし、この人は、どんなにか、心細くなるだろう。一緒に下山したほうがいいかもしれない)  そう考えて、  「では、一緒に、元気になるまで待ちましょう  そう申し出た。  当然のように、女性は、  「それでは、申し訳ない。一人でも、頂上を目指してください」  泣きそうになりながら、そう訴えた。  そして、  「頂上に行って、私の分まで、山頂の神様にお祈りしてきてください」  そう懇願した。  藤一郎は、ジレンマに陥った。  (行くべきか、いかざるべきか)  考えた見たが、  (やはり、思い立って、始めた登山だ。頂上を究めなければ、意味がない)  そう決断して、一人で登山を続けることにした。  頂上には、日のある家に到着した、藤一郎は、そこで、山頂の神様に女性の分までお祈りしたあと護符も買い、女性が登って来ないか、と待っていた。一時間待っても来ない。しかたなく、下山を始めた。途中、先程の場所で、再会することを期待したが、すでに、女性はいなかった。  藤一郎は、落胆して、麓に着いた。  そして、山頂方面をみると、山に上に、大きな雲が出ていた。西に傾いている太陽の光を受けて、その雲は明るく輝いていた。雲は山頂から真っ直ぐ上に立ち上がり、上部で丸くなり、人の顔のように見えた。その顔をじっくりと、見やった藤一郎は、愕然とした。それは、吉野りかの丸い顔そっくりだったからだ。その顔は、没していく落日の最後の輝きを受けて、黄金のように輝いていた。後ろから、光が差し込み、顔の回りを日輪の形で、囲んでいるのも見えた。  藤一郎は、  (これは、女神だ。神様の姿だ)  しみじみと感じいって、確信した。  (あの女性は、この女神に導かれて、無事に下山したに違いない)  そう、安心したので、張っていた気持ちに、急に、緩みが出た。  どっと疲れ切が出て、バス停のベンチに横になって、バスを待っていると、眠くなって、うとうとしはじめたーー。  そして、ハッと目覚めたとき、目の前には、良子の見慣れた顔があった。  (夢のなかの若い女性に比べ・・・・)  藤一郎は、そう呟いたが、良子には聞こえなかったらしい。          7  町田しおりは、「エイズ感染」の宣言を受けたが、発症はしなかった。出血が止まらず入院した病院は、一週間で退院した。  しかし、自宅に帰ったしおりは元気がなかった。ヴァイオリンの生徒は、やって来たが、レッスンに身が入らない。どうしても根気が続かず、教えかたも、おざなりになった。一週間ほど、努力して、続けてみたが、しおり、  (これでは、やって来る生徒に申し訳ない)  と考え、一月ほど、休むことにした。  自室に籠もって、ゆっくり、静養するつもりだったが、母の康子の様子が、以前とは違うのに気が付いて、しおりは、思考の渦のなかで、煩悶した。  (いつも、母は、冷静にわたしに対してきたのに、何か変だ)  そう気がついたのは、しおりが、  「すこし、熱がありそうなの」  と、言って、早めに休んだ日の夜だった。  康子は、二階のしおりの部屋にやって来て、氷嚢やお絞りをベッドの脇に置き、体温計を、差し出して、  「これで、体温を計りなさい」  と言いながら、しおりの額に手を当てた。  その手の動きが、自信なげで、弱々しかった。  なにか、腫れ物を触るような手付きで、恐る恐る手を差し延べているようだった。  しおりは、そう感じたが、口には出さなかった。ただ、  (母さんが、なにか変だ。気力がない感じだ)  そう思って、心に止めた。  翌日、しおりの熱は少し下がったが、まだ、だるかった。朝食を食べる食欲もなく、ただ、康子が持ってきた熱いミルクだけが喉を通った。  その日も一日、寝ていて、起き上がる気力はなかった。そういう、身体の不調は、それから、五日間ほど、続いた。  少し、身体に力が再生したのを感じたのは、しおりが寝はじめてから、六日目の土曜日だった。解熱剤と、ぶどう糖注射が聞いて、身体の芯からエネルギーが、湧き出るのを感じた。  元気になっても、しおりは、今回のように高熱が続いたのは、初めての経験だっただけに、自分の身体が、どうなったのか、疑問が湧いた。  それに、それまで使っていた血友病の治療のための錠剤が、依然と変わっていた。  (母さんの態度もおかしかったし、ひょっとして、何か、重大な病気に罹っているのではないかしら。母さんは、知っているんだわ。わたしに隠している)  そういう、疑問が、確信に変わるのには、そう時間が掛からなかった。  康子が、氷嚢を替えに部屋にやって来たとき、しおりは、直截に聞いた。  「ねえ、母さん、わたし、なにか重大な病気に罹っていない」  康子は、娘のその質問に、たじろいだ。心の用意のないところへ、いきなり、ボールが飛んできた。それでも、康子は、年の効と母親として娘に対してきた経験から、すぐに、体勢を建て直して、  「そんなことはないわよ。あなたは、軽い血友病なのは、分かっているでしょう。こんど、お薬が変わったのが、影響して、熱が出たのではないかしら。きっとそうよ」  と、強い言葉で、答えた。そして、きっとした表情で、部屋を出ていった。    康子は、心臓が張り裂けるかと思った。  (やはり、娘は聞いてきた、うすうす、気が付いているのかもしれない。今回は、どうにか、繕ったけど、そうそう、隠しきれないだろう。いつか、必ず、言わなければいけないときが来る。その時のために心の準備をしておかなければ)  康子は、下の階の茶の間に坐って、考え込んだ。  しおりに、宣言を伝えるには、父親とも相談しなければならないが、夫の雄一は、福岡に単身赴任して、二年になる。しおりのことは、電話でおりにふれ、相談しているが直接に会って話し合わないと、話が通らないこともあった。雄一は、留守宅のことは康子に任せきりにしている。康子も、夫が仕事に打ち込みためには、それもしかたないと諦めていた。  (こんかいも、わたしの判断で、やっていくしかないだろう)  康子は、いつものように、自分だけでこの事態を乗り切ることにした。  (いつまでも、嘘をついているわけにはいかない。しおりも大人なのだし、知らせてやったほうが、本人のこれからの人生のためにも、良いことだ)  康子は、そう心に決めた。そう決めてみると、胸のつかえが、すーっと降りたようで爽やかな気持ちになった。  (病院では、口止めをお願いしたけれど、家では、そう決めたのだから、その方針でいく)  そうしても、  (わが娘は、力強く生きていくだろう)  そういう、確信があった。    だがそれは、母の過信だった。  娘は。それほど自らの生命の危機に泰然としていることが出来るほど、強くはなかった。  しおりは、自分の病気の症候が変化したのに気付いていた。  単なる出血がなかなか止まらないだけではなく、微熱が続き、咳が止まらず、だるいという症状は、風や肺炎の症状に似ていたが、身体を温かくして、休め、十分に睡眠を取っても、完治するという感覚がまったく、なかった。かえって、症状は悪化していき朝起きるのが辛く、何事もやる気が出なかった。  しおりは、  (これ、風邪ではない。もっと、なにか違う病気だ)  そう感じるようになっていった。  それから、しおりは、病気を勉強した。そして、行き当たったのが、アメリカの医学雑誌に載った「HIV=エイズ」の記事だった。それは、血液の非加熱製剤によるエイズ感染の危険性について、アメリカ公衆衛星局の研究者が、警告を発していた記事だった。  しおりは、その危険性が、ピタリと、自らにも当てはまると分かって、戦慄した。疑問は疑惑となり、肯定となって、確信に変わった。  そして、母の康子が、二階に食事を持ってきたとき、  「わたし、エイズ何でしょ」  そう、ぶっきら棒に、聞いて、康子を慌てさせた。  それでも、康子は、既に、  (嘘をつかずに、本当のことを包み隠さず話そう)  と心に決めていたから、  「そうよ、なぜ、分かったの」  と平然と接した。  そんもあと、長い沈黙があった。康子はそれを永遠に感じた。  しおりは、目を閉じていた、そした長い沈黙のあと、  「わーっつ」  と大声を上げて泣きだした。それは、康子が今までに聞いたことのないよな、激しい慟哭だった。  「どうすればいいの、わたし。死んでしまうのよー」  「わたし、まだ、死にたくないわー」  何度も何度も、同じ台詞を繰り返し、泣き、繰り返し、泣いた。  康子は、茫然として、娘のその姿を見ていた。  「もう、何も、したくはないわ。なにもかも、いらないわ。生きて居てこそ意味のあるものは、なにもいらない。だから、神様、私の命を助けて」  しおりは、完全に、常軌を失っていた。  そして、少し、落ちついたとき、部屋の隅の楽器置場に行って、ヴァイオリンのケースを掴み、  「これを、売ってきて」  と康子に差し出した。康子は、素直に受け取り、頷くしかなかった。  康子は、翌日、神田のヴァイオリン専門店に出向き、「S.M.」のイニシャルが入ったしおり愛用のヴァイオリンを手放した。             8  吉野りかは、夢に出てくるほど、藤一郎の心を捕らえたが、藤一郎は、そんなことは、おくびにも出さなかった。だから、二人の関係は、あくまでも、ヴァイオリンの先生と生徒と言う関係だった。  生徒が、先生を好ましく思えば、何事も、吸収は早い。藤一郎の上達も、先生に目を見張らせた。  「このお年で、お身体も万全でないのに、よくここまで、頑張りましたね」  そう、りかが、言ったのは、レッスンを始めてから、半年程、立ってからだった。  すでに、初歩の練習曲は終え、中級の入口に入っていた。童謡はかなり弾けるようになり、いよいよ、西洋の音楽家の練習曲に取りかかる時期に達していた。  「さあ、そろそろ、楽しくなってくるころですね。練習すれば、するほど、手応えがありますからね。しっかり頑張ってください」  りかは、そう、勇気付けた。  りかは、気丈な女性だったから、藤一郎が、時折、腹に差し込むような膵臓の病に特有の痛みを訴えても、始まった練習をやめたりはしなかった。そういう時、藤一郎は、りかを女神ではなく、魔女のように思えたが、苦労して弾き終えた時の  「良くできました」  の一言が、欲しくて、必死で頑張ってしまったりした。  藤一郎の身長は、百七十センチあったが、りかも百七十センチはあり、女性としては大柄だった。それに、身体の肉も引き締まって良く着いており、胸を大きかった。最初は、構えを教わったとき、その胸が藤一郎の身体のそこそこに触れ、藤一郎に病気を忘れさせた。それに、りかの身体からは、えも言われぬ香りが、した。  それは、若草が燃えるときのような処女の香りだった。  藤一郎は  (りかは、男を未だ知らない)  そう確信していた。  (だからといって、わたしが、初めての相手になるということではないが)  そう考えると、自分の病気の身体が、無念だった。  (おれだって、もう少し、若くて、しかも健康なら)  そんな妄想が、生まれたこともある。  りかは、そんな藤一郎の頭のなかの動きを、知らないように、大胆に振る舞った。  季節が春から夏に差しかかり、人々は、冬の衣装を脱ぎ捨て、軽やかな装いになっていったが、りかも、それまでのセーター姿から、ブラウスやティー・シャツ姿で、やって来た。仕立ての良い絹の薄いブラウスの下には、胸を寄せてあげる最新型のブラジャーをしていたから、素晴らしいシルエットの胸を見せつけられて、藤一郎は、目のやり場困った。だが、それを意識しないで、みせているところが、いかにも、怖い物しらずの男性未体験の女性の証拠のようにも思えて、藤一郎は、その処女性に感嘆しないではいられなかった。  (そう、りかは、処女の聖母、マリアさまだ。わたしにとって)  残り少ない、命を、こういう女性と過ごせることに、藤一郎は、感謝した。  藤一郎のヴァイオリンの腕前は、長足の進歩をした。真夏の熱さのなかでも、エアコンの効いた病室での練習は、苦にならなかったが、問題は、徐々に弱まってきた体力だった。  そんな、ある日のレッスンのあとで、りかは、  「もうここまで、弾けるようになったのですから、そろそろ、本物の演奏者の演奏を聞いてみるのもいいでしょう」  そう言って、プロの演奏家コンサートに誘った。  藤一郎は、行きたかったが、医師の許しが出るかどうかが、問題だった。  良子を通じて、医師の意向を聞いたところ、  「藤一郎さんの思い通りのことをしてあげてください」  医師は、残り少ない命を、充実させていくことに心を配る末期医療の推進者だった。 医師の許可が出て、藤一郎は、その人生で多分、最後になるであろうコンサートに出掛けることになった。 9 町田しおりは、母の康子から「エイズ宣言」を聞かされて、一時、動転したが、そのショックはそう長くは残らなかった。  五日もすると、しおりは、元気を回復した。それは、若さ故の立ち直りの早さとも思えたが、しおりのなかの気持ちは、そうではなかった。  しおりは、考えた。  (そういう不治の病になった以上、残された運命を精一杯生きていこう)  そして、  (こういう病になったのは、わたしの力ではどうしようもない、運命なのだ)  そういう風に思うと、無念で、悔しかったが、自責の念は消えた。  (すべては、わたしの責任で、どうにかなるものではない)  何かをしたいと考えるころの一人の女性にとっては、それは、諦めの敗北宣言のようにも考えられるが、しおりは、そういう運命を避けることので来ない定めと受け取るしかないと、腹を決めた。  では、これからを、どう生きればいいのか。いつ燃え尽きるかもしれぬ命を抱えて、どう生きていけばいいのか。  (これが、ガンのように、余命幾日と分かっていれば、生きようもあるのに)  そんなことも、脳裏に浮かんだ。  だが、いずれにせよ、長い命ではないのは、確かだ。  (わたしが、生まれたのは、なんのためだったのだろう)  それは、当然の疑問だったが、それに対する答えは、一つであるわけがない。  (神様は、人一人ずつの運命を、命の長さを、どうやって決めるのだろう)  世の中には、世間に迷惑を掛けるだけ掛けて、長生きをする人もいるし、何も悪いことをしないのに、いや、する以前に、亡くなってしまう子供もいる。  (その別れ道はどこにあるのだろう)  そう考えても、答えなどあるはずもない。  そして、しおりは、  (人の命は、人の性の善悪で決まらない)  という当たり前の答えを得て、愕然となった。  (ということは、人は善悪の前に、全て平等なのだ。悪い人も良い人も、死の前ではみな、平等なのだ。お金持ちも、貧乏人も、死んでしまえばみな同じ)  愕然とした気持ちが、収斂して、そういう、昇華さえた気持ちに変わった。  (何歳まで生きようが、結局は、人は死ぬ。死なない人はいない。長く生きても死ぬまでの人生が充実しているか、いないかは、その人の内面の問題だ。短くても、満たされていればいい)  しおりの思考は、その領域にまで達した。  そこで、母の康子から「宣言」を聞いた最初の日に、逆上して、愛用のヴァイオリンを売ってしまったのが、悔やまれた。  だが、いずれにせよ、もう。ヴァイオリンは弾けない。それだけの体力も、気力もない。そのことだけは、確かだった。  (でも、聞いて楽しむことは、まだ、出来る)  しおりは、そう、思うと、無性に、だれかの演奏を聞きたくなった。  しおりは、康子にねだって、コンサートにいくことにした。  「母さん、少し、体調が良くなってから、わたし、演奏会に行きたい」  康子は、その申し出に、喜んだ。  「いいわよ、しおりの好きなようにしなさい。わたしが、チケットを手に入れるてくるから」  康子は、しおりに、好きなことをさせてやる積もりだった。血友病もエイズ感染も、この娘の責任ではないのだ。責任のあるのは、この母と父と、そして、非加熱製剤を放置した国や製薬会社なのだ。  (どうして、この娘のしたいことを妨げる理由があるだろうか)  康子は、チケット入手に奔走し、前端貞子のヴァイオリン・コンサートのA席の券を手にいれた。それは、酷暑の八月に東京で開かれる、この世界では稀な真夏の演奏会だった。           10  高く登った太陽が、ぎらぎらとした光線を容赦無く、地上に投げ掛けていた。道を行く人々は、汗ばんだシャツやブラウスが肌にへばりつく不快な感覚を堪えながら、足早に通り過ぎていた。  池袋駅の西口にある東京芸術劇場の一階の大きなホールは、これから、始まる来日演奏家のコンサートに集まった聴衆で溢れていた。  そこに、折茂藤一郎が、妻の良子と一緒に姿を表したのは、焼ける太陽が西の空に落ちて行きはじめた午後の四時ころだった。藤一郎が目指したのは、二階の小ホールで開かれる予定の前端貞子の「真夏のヴァイオリン・コンサート」である。  藤一郎は、既に半年に及ぶ療養生活で、体重がげっそり減り、運動も儘ならないため筋肉の力も減少していたが、歩くことは出来た。だが、元気だった時のように、さっさと言うわけには行かず、一歩一歩を踏みしめるような歩きかただった、藤一郎の歩みを良子が脇で支えていた。  大ホールの中は、エアコンが効いていたため、熱いなかを歩いてきた藤一郎と良子、中に入って、ホッと溜め息を付いた。そこは、外の猛暑に比べれば、天国だった。隅にある軽食コーナーで、冷たいコーヒーを頼み、椅子に坐って、一息いれた。  「さあ、ここで、少し休みましょう」  良子に誘われる儘に、椅子に腰かけた藤一郎は、ゆっくりと味わいながら、良く冷えた褐色の液体を味わった。  「やっと、やって来たね。僕には、最後のコンサートなるだろうが」  「そんなことは、ないわよ。何回でも、こられるわ。あなたさえ、頑張って生きてくれれば」  話は、どうしても藤一郎の残された時間の方に向いてしまう。  良子は、そういう会話に、始めのころは、随分気を使ったが、いまでは、そう神経質ではなくなった、藤一郎が、それを当然のこととして、受けいれる姿勢になっていることが、その原因だった。  コンサートの開始時間は、午後五時である。二人は、三十分前に、ホールに入り、自分たちの席を探した。すでにホールは、三分の一位が埋まっていた。  席は、一階の真中の最高の席だった。二人は席に座り、買ってきたプログラムを読んでいた。  藤一郎の隣の席が、二つ開いていた。列も半分くらいが埋まったが、隣の二席は、開いたままだった。  (どんな人が来るのだろうか。いい人ならいいが)  藤一郎の胸の内には、かすかに、そんな思いが過った。  (いい人ならいいが)  そう思ったのは、若いころ出掛けた演奏会で酷い目に会ったことがあるからだ。  やはり、ヴァイオリンの演奏会だったが、藤一郎の隣席には、若いカップルが座り、開演前から、盛んに世間話や二人の親密な会話を楽しんでいた。演奏が始まれば、収まるものと藤一郎は考えたが、それは、はかない期待に終わった。カップルは、会話をや止めず、しかも、男のほうが、演奏家や楽曲の解説を始め、藤一郎は辟易した、だが、遠慮深い藤一郎は、文句も言わずに耐えた。終了後、残ったのは、  (何故、注意しなかったのか)  という後悔と、折角の演奏会を、乱された不快感だけだった。  だから、藤一郎には、「隣の席にどのような人が座るか」は、かなり重要な問題だった。  隣の席に女性の二人連れが座ったのは、演奏が始まる十分前だった。様子から、母と娘の風だったが、あまり話をしないので、関係はハッキリとは分からなかった。  ただ、藤一郎側の席に座った娘と思われる女性の顔色が、異常に悪かったのが印象に残った。  母と娘はプログラムを読んでいた。藤一郎もプログラムに目を落として、開演を待った。  そうするうちに、開始時間が来て、前端貞子が舞台に出てきて挨拶した。さっそく、第一曲目の演奏が始まった。  一曲目は、サラサーテの「チゴイネルワイゼン」だった。このポピュラーな楽曲を第一曲目に持ってきたところが、このコンサートの性格を物語っていた。  「真夏に、気楽に楽しく、ヴァイオリン音楽を」、というのが、そのコンセプトだった。夏のこの季節には、涼しい長野県で「サイトウ記念フェスティバル」などが開かれる。熱い東京でのコンサートは、珍しいだけに、「ヴァイオリン音楽を、もっと、幅広く広めよう」という前端の姿勢が、よく現れている選曲だ、と藤一郎は納得した。  一曲目が終わって、会場は拍手の嵐に包まれた。そして、二曲目は、藤一郎が期待していた「メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64」だった。その甘い、流れるようなメロディーに、会場はうっとりとなった。フォルテはあくまでも力強く、ピアノはどこまでもか細く。めりはりがくっきりと付いた演奏は、やはり、名人のものだった。  (もう、何回、この女性はこの曲を弾いたのだろうか)  藤一郎は、密かに考えた。  (もう、何百回だろう。そうでなくては、こんなに情感を込めて、激しくまた静かに弾けるものではない)  三曲位目は「チャイコフスキーのニ長調作品35」。これも、名曲だ。  その第二楽章を、前端が弾きはじめたとき、隣の席の娘のほうの若い女性が、  「あっ」と小声を上げて、身を引いた。  母親が娘の方を見て、差し出された左手の人指し指を手に取った。そこには、赤い血が滲んでいた。  「わたし、手を切ってしまった。プログラムの紙の端で」  「大変だ。止血をしないとね。医務室に行きましょう」  母親は、しんと水を打ったようなホールで、動いて聴衆に迷惑を掛けてはいけないという配慮をする間もなく、席を立って、後ろの扉から、出ていった。  娘は始めは、ハンカチで、指を縛って止血をしていたが、なかなか、止まらなかったらしい。見る見るうちに、白いハンカチは赤く染まり、娘は次のハンカチを用意しようとしていた。その緊迫した表情を見ていて、藤一郎は、自分のハンカチを取り出して、 「これを使ってください」  と差し出した。目を閉じて、椅子にもたれ掛かっていた娘は、目を開けて、  「はい、すいません。有り難うございます」  と、頭を下げて、受け取った。そして、そのハンカチを左指に巻いた。  母親が、係員を連れてきた。係員が、娘の両脇に回って、肩を貸し、娘は肩に両手を掛けて、立ち上がった。そして、係員に身体を抱えられて、ホールからでていった。  そのとき、娘にハンカチを指差して目配せされた母は、藤一郎にむかって、振り返り 「どうも済みません。あとで、必ずお返ししますから、連絡先とお名前を教えて下さい」  と。申し出た。  良子が、持っていた紙に住所と電話番号と名前を書いた。  母親はそれを受け取ると、  「これは、私どもの連絡先と名前です」  と言って、小さな女性用の名刺を差し出した。  それには、「ヴァイオリン教授、町田さおり」  と書いてあるのが読み取れた。  その母と娘が、出ていってから、そとで救急車のサイレンが響いたが、完全防音のホールの中には聞こえなかった。  演奏会が終わっても、二人は席に戻らなかった。  アンコールの演奏も堪能して、藤一郎と良子は、ホールを出た。  「素晴らしい演奏だったね」  藤一郎の感想に、良子は、  「そうですね。一緒に来て良かった。最後になるかもしれないし」  「そうだな、良い思い出が出来た」  演奏途中で起きた、隣の席の出来事は、もう、すっかり忘れていた。  二人は、満ち足りた気持ちで、病院に帰ってきた。                11  それから、一カ月が過ぎた。藤一郎のヴァイオリンのレッスンは、ますます順調だった、だが、それと反比例するように、体力と食欲は衰えていった。  もう、秋の気配がしはじめていた九月の上旬のその日に、良子は午後やって来て、  「これが、家に届いていたわ」 と、一通の手紙を、藤一郎に手渡した。最近は、すっかり、世間との繋がりも切れて、届く郵便類は現役の頃に比べて、激減していたから、良子が持参したその手紙は、久し振りのお土産だった。  手紙を裏返して、差し出し人を見た。そこには、町田康子という署名があった。その名前に、藤一郎は心当たりがなかった。良子も知らなかった。もう、嫉妬を感じる夫婦の間柄でもなかったし、その年でもないから、若いころのように、夫に届いた女性名の手紙にも、良子は、淡々としていられた。だが、義務のようなものを感じて、  「どなたなのかしらね。その方」 とだけは、聞いてみた。  「知らんな。この名前は」  そう言って、藤一郎は、手紙の封筒の頭を破いて、中身を取り出した。中身は数枚の手紙だったが、一番下から、一万円札が出てきた。  その手紙には、こうあった。    ーー 拝啓   熱さが徐々に和らぎ、過ごしやすい季節の訪れも、すぐそこに感じられる今日このごろとなりましたが、ご健勝にお過ごしのことと、ご推察申し上げます。  さてあ、私は、先日、東京芸術劇場で行われた前端貞子のヴァイオリン・コンサートで、お隣の席で鑑賞していて、途中退場した町田しおりの母です。  あの節にお世話になって居ながら、こうして、このように遅くまで、ご挨拶が遅れ、誠に失礼したしました。  さて、娘のしおりは、あの後、救急車で近くの病院に運ばれ、救急処置の結果、止血に成功し、一命を取り止めました。しおりは、以前から血友病の持病があり、治療をしておりました。そして、その際に使用した血液製剤のために、不治の病に罹り、自宅で療養中でしたが、病気にやや小康状態が見られたため、「幼いころから習ってきたヴァイオリンのコンサートに行きたい」と言いだし、あの演奏会に出向いた次第です。  そして、あの様な不足の事故に会ったわけです。あのとき、貸して頂いたハンカチは本来なら、お返ししなければなりませんが、血液で汚れたうえ、そのような血液系の病気の患者が使ってしまった物ですから、そのままお返しするのは、失礼と考え、新しいハンカチを買って頂けるよう、申し訳ありませんが、お金を同封いたしましたので、御受領くださいませ。  なお、しおりは、現在、救急病院から、血友病の治療では伝統のある都内M病院に転院し、治療に専念しておりますので、本来なら本人がお伺いして、直接、お礼申し上げるなければならないところを、母がなりかわって、お礼の書状を差し上げました。失礼の段、くれぐれも、宜しくお許しください。  凌ぎ易い季節にはなってまいりましたが、まだまだ、残暑が続きます。くれぐれもお身体にお気をつけになって、ご活躍ください。取り合えず、ご挨拶で。                                かしこ  折茂 藤一郎さま                     町田しおり母、康子   ーー  藤一郎は、書状を読んで、「都内M病院」という記述に、釘付けになった。それは、まさしく、彼が、今、入院生活を送っている、この病院だったからだ。    その日は、レッスンの日だった。藤一郎は、「S.M.」のイニシャルの残ったケースから、ヴァイオリンを取り出し、練習を始めた。その音色は、真昼を迎えようとしていた病院内に、心地よく流れていき、人々の耳を向けさせた。藤一郎がレッスンを始めたころは、個室を締め切って、なるべく、他の人たちの迷惑にならないように気を使っていたが、段々、上達するにつれ、その演奏を他人に聞かせたいという気持ちも手伝って、たまには、ドアをあけたまま練習をすることもあった。それを聞きつけた患者のなかには、  「聞かせてくださいよ。味気ない入院生活の潤いになります」  と言ってくれる人もいた。  そんなこともあって、調子がいいときには、皆に、音楽をプレゼントするつもりで、演奏した。それは、藤一郎には、病院内の小さなコンサートでもあった。  二階の病室の窓からも、メロディーは流れだした。冷房ばかりでは身体に良くないと、たまに、窓を開けて空気を入れ換えていたが、練習のときには、そのほうが気持ちがよかった。だから、音が部屋にこもらないようにするということもあって、窓は、開けていた。藤一郎の小コンサートの楽曲の音色は、二階の窓から、外に流れ、庭を潤して、一階の病室にまで流れ込んだ。  藤一郎の病室の真下の一階の病室に、町田しおりは入院していた。  入院以来、毎日のように、昼頃になると聞こえて来るヴァイオリンの音色に、しおりは、何か聞き覚えがあるように、感じていた。それは、心を和ませる音色だった。長い間、親しんだ、音のようにも感じた。  しおりの病状は、悪化しないまでも、改善の兆候はなかった。「エイズ・ウィルス」は、静かに確実に、しおりの身体を浸食していっていた。  身体は辛く、気持ちも日々に暗くなっていったが、昼時に聞こえるヴァイオリンの音色が、彼女の気持ちをいつも、持ち直させた。  (今日も、一日、生き延びてやる)  そういう、力をあたえてくれるような気持ちがした。  だから、その音が聞こえてくるのが、待ち遠しかった。  (今日は、昨日より上手かしら。毎日確実に良くなっていくのを聞くのは気持ちがいい)  しおりは、自分の練習を思い出していた。  (わたしも、上達が実感できたときは、充実感があった)  そういう気持ちが、その音色への、さらなる関心を呼び覚ました。  (だれが、弾いているのかは知らないけれど、上手下手を超えて、一生懸命なことが伝わってくるわ。音にも気持ちが出るものなのね)  それは、新しい感動だった。そして、消えていくかもしてれない命を持った自分が、そういう感動を得られるのだということが分かって、また、  (命の火を燃え尽きさせてはいけない) と心に誓うのだった。  (本当に落ちつくわ。あの音色を聞いていると)  そういう満たされた気持ちになって、うっとりとし、午睡を取るのが、しおりの快適な毎日の過ごしかたになっていった。   12 その音色は、毎日、確実に聞こえてきて、週に二回は、レッスンのためか長かった。そのレッスンの度に、わずかかながらに上達していくのが、しおりにはよく分かった。 しおりは、心のなかで、その上達を応援した。  だが、しおりの病状はそのヴァイオリンの音の進歩に反比例して、下降していった。十月の秋の盛りには、高熱が止まらず、身体中に斑点ができて、痒かった。息をするのも苦しく、呼吸も浅くなって、しおりの病室には、酸素吸入機がいれられ、雑菌への感染を防ぐために、ビニールのテントが張られた。  しおりは、そのビニールのテントのなかで、薄らいでいく意識を必死に鼓舞して、毎日、十二時近くに聞こえてくる、ヴァイオリンの音を聞いた。  しおりは、思っていた。  (このヴァイオリンの音が、聞こえてくるかぎり、わたしの命は、燃えつづける)  そう信じて、毎日のヴァイオリンの音を、心待ちにして聞いた。  時々、薄らいでいく意識のなかで、それを演奏している人のイメージを瞼に浮かべることがあった。  それは、演奏の力強さから、男性だと思われた。そして、丁寧な音の動きから、相当年齢の行った人だとも感じられた。  (どんな人が演奏しているのだろう。入院患者なのかしら。それとも、医師か看護婦か)  そんな疑問も湧いたが、それを知ろうとは思わなかった。ただ、同じ時間に同じ音色の演奏が聞こえてくれば、それで、満足だった。  しおりの病状を医師は、  「かなり、危険な状態」  と康子に話していた。康子は、覚悟して、いつか訪れるであろう娘の最期の日を、泰然と迎えたいと、心に決めていた。それは、医師によれば、  「そう遠くないだろう」  とのことだったが、しおりは、酸素を付けはじめてからも、驚異的な生命力で、命の火を燃やしつづけていた。  冬になっても、その状態は変わらなかった。しおりの症状は、悪化もせず、改善もしない平穏期に入っていた。  ヴァイオリンノ音は、確実に、昼頃に聞こえてきた。それは、実際、時計よりも正確に、昼時を伝えた。しおりは、それを耳にすると、顔に精気が溢れ、生きる勇気が湧いてくるのを感じた。  (今日も聞こえてきた。わたしは、生きていける)  そう信じて、一日一日を生き長らえていた。  「母さん、あのヴァイオリンが、わたしを生きながらせてくれているの。おの音が聞こえてくるかぎり、わたしは、死なないわよ」  体調がいい時に、しおりは、康子に話しかけた。  「そう、よい音色ね。しおりは、あの楽器のために、一生を掛けてきたような物じゃない。それが、こうして、あなたに生きる息吹を吹き込んでくれている。大丈夫よ、まだ、生きられるわ」  康子は、娘にこういう偶然の機会がやって来たこと、神に感謝した。娘が愛用のヴァイオリンを投げ捨てて、売りに出したときのことを、忘れられなかった。  しおりは、言った。  「ねえ、この音、わたしが持っていたヴァイオリンの音と良く似ているでしょう。ほんとうに、あの音色とそっくりよ。上手になるに従って、わたしが、弾いていたころに似てきた。ますます、わたしの物になってきた感じがする」  「そう、あなたのものね。あなたが、元気に、弾いている姿を思い出すわ」  康子は、優しく、娘の顔を見つめながら、そう呟いた。    十一月頃までは、その音色から、確実に上達しているのが分かった。週二回のレッスンも丁寧に行われていた。  だが、十二月になると、上達の停滞機に入ったのか、同じ演奏が、何度も繰り返された。週二回のレッスンも単調になった。  しおりの症状も、それにつれて、変化があった。上達期には、悪化の一途を辿っていたのだが、そのヴァイオリンの音が、単調になってからは、むしろ、改善していった。 世の中は師走を迎え、慌ただしかったが、そんな世間の様子とは、別天地のように、病室でのしおりの生活は、規則正しく、昼には、確実に、昨日と同じヴァイオリンの音が、聞こえてくるのを、待っていた。  そして、それは、そのとおりに、昨日とまったく変わらぬ音色で聞こえてきた。時間も調子も、大きさも全く同じだった。  それを聞いて、しおりは、安心する。  (今日も、また、昨日と変わらず、わたしは、生きていける。明日も、今日と変わらず生きていける予感がする)  そういう気持ちを支えに、しおりは、生きていた。 そして、そういう規則正しい生活が効を奏して、しおりの症状は安定から、改善に向かった。それは、医師が、  「これは、奇跡としか言いようがない。わたしたちも、もともとそう経験豊富な病気ではありませんが、改善の傾向を示すことは、ないと思っていたのに、珍しい」  と舌を巻くほどの顕著な改善だった。  「ねえ、母さん、わたし生きる勇気が、身体の底からわき上がってくる気がするの。あのヴァイオリンの音が、続くかぎり、わたしは、生きて行けるんですもの」  康子は、その音色が毎日、欠かさず、聞こえてくるように、願った。少なくとも、この改善が続き、しおりが元気になるまでは。  しおりは、寝たきりだったから、その音が何処から聞こえてくるのか、疑問には思っても、突き止めることは出来なかった。しかし、康子は、入院患者や看護婦にも知り合いが出来ていたから、その音の基を訪ねることは出来たはずだった。だが。康子は、そうしなかった。  (もし、音のもとを突き止めても、それで、その音が聞こえなくなってしまったら、意味がない。そっとしておいて、毎日、聞こえてきてくれたほうが、しおりのためだ) そういう考えが、占領していた。  看護婦や医師は、知っている筈だった。毎日、同じ音を聞く、入院患者も知っているはずだった。だから、だれが、このしおりには、どの様な治療にも増した効果がある毎日の演奏をしているのか、知ることはたやすいことだったが、康子は、あえて、調べようとはしなかった。  しおりの症状は、さらに、改善して、正月を迎えることには、歩くことが出来るようになり、一時帰宅も話題に登る程だったが、しおりは、ハッキリとした口調で、それを断った。  それは、もし、この病室を離れてしまえば、  (あの、命の音色は聞かれなくなる)  という恐れからだった。  ということは、どんなにしおりが、良くなっても、あの音がなければ、直ちに、病状が悪化するという事態も予測されたが、康子は、そういう考えにとらわれることなく、ただ、病院で、正月を迎えたいというしおりの気持ちを大事にして、そうすることにした。  演奏は、正確に、大晦日にも、元旦にも行われた。それは、いつもと寸分も変わらず、時間も長さも調子も同じだった。  そのことから、しおりに、ある疑念が生じた。 13 「母さん、少し、変なの」  しおりは、康子に気掛かりになっていることを、確かめたかった。  「なんなの」  康子が、聞き返した。  「あの、わたしの、命の糧になっている昼のヴァイオリン演奏ね。この頃は、いつも同じ様で、神秘歩がないの。いつも、同じ、演奏のようなのだけど」  「そうかね、わたしは、気が付かなかった。あなたは、毎日、耳を済まして聞いているからね。聞いているときのあなたは、幸せそのものよ」  「そう。あの演奏がわたしを、勇気付けてくれて、ここまで、回復したんだわ。あの演奏が、わたしを生き長えらせているのよ」  「それで、なんなのだい」  「だから、ここ一ヵ月、あの演奏に変化がないのよ。どうしたのかしら。それを知りたいの」  「それなら、来てみれば、すぐ分かるわよ。これまでは。遠慮して、詳しくは聞いてみなけど、看護婦さんに聞けば分かるんじゃないの」  「でも、分かってしまうのは、良くないことなのかも知れない。これまで、だれが、どうして、弾いているのかわからなかったから、こうして毎日、聞いて来れたんだわ。天の神様の励ましの演奏だと思って」  「それなら、知らないほうがいいかもしれないね」  「そうね、でも、最近、なにかあったのは確かだわ。上達が止まったみたいで、変わりがないんだもの」  会話は、堂々めぐりを始めた。  しおりが、真実を知りたがっているのは、明らかだった。康子は、訪ねてみれば、分かる、と思ったが、これまで、長い間、そうすることもなく、静かにその演奏を聞いてきて、突然、訪ねてみるのも、厚かましいのではないかという、躊躇もあった。  康子は、人に尋ねることなく、演奏者が誰かを知る方法はないかと考えた。そして、それは、そう難しいことではないと、思い至った。  (そう、演奏が行われる時間に、音の元を辿って行けばいいのじゃない。わたしが、行ってみればいいことだ)  そして、翌日のその時に、音源を見つけに行くことに決めたが、しおりには、言わなかった。  翌日の昼頃に、そん演奏が始まったとき、康子は、しおりの病室出て、音を頼りにその方向に向かった。  しおりの病室は、一階の南向きで、この病棟の一番東側にあった。廊下は病室の北側にある。その廊下に出て、康子は、西に向かい、この棟の中央部にある看護婦ステーションの前に来た。康子は、余程、看護婦さんたちに、その音の元を尋ねようとおもってが、折角、自分で探索しようと、心に決めたのに、そうしては、もとも子もないと、考えてやめにした。  看護婦ステーションの前は、エレベーターホールになっていて、そこに対面して三機ずつのエレベーターのドアが、あった。そこで、康子は、登りのボタンを押して、上がってくるエレベータを待った。  暫くして、エレベーターが到着し、康子は乗り込んで、まず三階のボタンを押した。エレベーターは、上昇して、三階に止まった。康子は、降りて、左に行き、また左に曲がって、しおりの病室の真上の位置にある、病室の前まで来た。  そこは、整形外科の病棟で、ギブスをしたり、身体中に包帯をした入院患者が居たがヴァイオリンを弾いている様子はなかった。  康子は病室内まで入り、窓際に立って、耳をそばだてた。ヴァイオリンの音は、下から聞こえてきた。  康子は、病室を出て、こんどは、エレベーターホールの裏側にある階段を使って、二階に降りた。そして、やはり、しおりの病室の真上の位置にある病室まで、行って、その部屋に入ろうとした。しかし、そこは、鍵が掛かっていて、開けることが出来なかった。康子は、仕方なく、ドアーに耳を近付けて、内部の音を聞いた。たしかに、あのヴァイオリンの演奏音は、その部屋から聞こえてきていた。  しかし、入ることは出来ない。  ドアーの前で、うとうろしていると、白衣の看護婦さんが、こちらの様子を伺いながら、やって来るのが、見えた。  その若い看護婦は、康子に近寄ってきて、  「その部屋は、開きませんよ。院長から、厳重に、入らないように言われているのです」  そう言った。  康子は、その断定的な言い方に、なにか、聞いてみようという勢いを削がれたが、それでも、一度、しっかり息を飲み込んでから、  「この中から、ヴァイオリンの演奏が聞こえてきますね。だれか、演奏しているのですか」  そう聞くのが精一杯だった。  「そうですか、わたしには、そんな音は聞こえませんが」  看護婦は、ドアに耳を寄せて、聞き耳を立てた。  「やはり、聞こえませんね。ほら」  看護婦に促されて、康子も再び、ドアーに耳を寄せたが、確かに、もう音は消えていた。  「でも、確かに、聞こえていたんですよ」  康子は、疑問を呈した。若い看護婦は、康子の必死の問い掛けに、なにか感ずることがあったのか、  「では、ちょっと、看護婦室で聞いてみましょう」  そう言って、ナースステーションに、向かった。  (あの看護婦さんは、このフロアの担当ではないのかしら)  康子がいぶかりながら待っていると、もう少し、年取った、ベテランらしい、看護婦が、やって来て、  「わたしは、このガン病棟の婦長ですが」  と名乗った。  「この部屋に入っていいですか」  康子は、尋ねた。  「いえ、いけません、この部屋は、あるかたが貸しきっていて、絶対に他人を入れるな、と命じられています。わたいたたちも入れないのです。入れるのは、院長と特別の許可を得た親戚だけです。担当医は院長ですし、看護婦も外部から来た専属の方がいらっしゃいます。病院の中なのに、おかしいですよね」  康子は、狐に摘まれたような気持ちになった。  (病院内にこのような特別の部屋があるなんて、どういうことなのだろう。なんだかわからないわ)  しかし、それ以上、粘っても埒が明かないことだとわかって、康子は、お礼を言い、その場を離れて、一階のしおりの病室に帰ってきた。  (こうなれば、院長さんに聞いてみるしかないわ。しおりにとっての、命の音の訳を知るのは、そのお陰で回復したしおりには、当然の思いだもの。はっきりさせてやった方がいい)  康子は、知りたいという欲求が、ますます強くなっているのを、感じていた。  それは、  (しおりの回復のお礼を言いたい) という気持ちが、なせる意思だった。    翌日、康子は、院長に面会を申し込んだ。  院長は、忙しかったが、夕方に一時間ほど、時間がとれた。  康子は、院長室の入口で、約束の時間が来るのを待った。  「どうぞ中へ」  という声に促されて、院長室の中に入って、勧められたソファに座った。  院長は、既に六十歳を大分行った年頃の人の良さそうな男だったが、患者の母親が突然、会いたいと申し込んできての面会だけに、何事かと、身構えている気配があった。 「ところで、どの様な、お話ですか」  院長は、座っている康子の、真正面に座って、そう聞いた。  「はい。実は、わたしは血友病で、エイズに感染していると診断された町田しおりの母の康子と申します」  「それは、存じております」  「それで、しおりは、診断では、絶望的と思われたのですが、ここへきて、とみに体力を回復し、立って歩けるほどになりました」  「それも、知っています、お嬢さんは、本当に、われわれの常識では考えられない回復を見せている。これは、奇跡といっていいほどですよ。こういう、回復のありかたは医学の常識を覆すものです。ほんとうに、素晴らしい」  「それで、その回復の原因なのですが、実は、しおりは、毎日、昼頃に聞こえてくるヴァイオリンの音色に、勇気付けられて、生きる力を回復したのです。そのヴァイオリンの音が、続くかぎり、わたしは死なない、というのが娘の信念です、それが、ますます、強くなって、確信になり、病気を跳ね返しているのです」  「そうですか。そういうことがありましたか」  「そうです。それで、その演奏をしれくれているかたにお礼を申し上げようと、昨日二階に行ってみましたが、部屋には鍵が掛かっていて、入れませんでした」  「二階の部屋ですか」  「そうです、あの部屋は、院長さんしか入れないと聞きました」  「そうです。そこまで、お聞きになっているのですか。そうですか」  「そうです。あの部屋には何があるのですか」  康子は、問い詰めるような口調になって、性急に聞いた。  「それなら、もうお話ししていいでしょう。それはこう言うことです」  院長が話しはじめた。            14  それは、こういうことだった。  ーー その病室に入っていたのは折茂藤一郎という人です。折茂は、わたしの同郷の出身で、大学まで、一緒だった親友です。彼は、一昨年、十一月に、うちの病院で、「膵臓ガンのため、余命一年」の診断を受けました。それ以来、彼は、残された自分の人生をどう過ごすか、必死で考えましたが、思い当たったのは、「悔いないように、したかったことをしておこう」ということでした。  彼は、「自分がしたかったこととはなにか」を考えました。すると、小さいころの思い出が、浮かんできて、「おれは、ヴァイオリンを弾きたかったのだ」と思い至ったのです。それから、彼のヴァイオリンの練習が、病院で始まったのです、われわれもその練習を許可しました。かれは、必死になって、練習し、先生によると、上達度は素晴らしいものだったということです。レッスンの日は、当然、他の病室内に音が聞こえましたが、医師も看護婦も入院患者も皆、理解して、その音を聞きながら、密かに、心で応援し、彼を励ましたのです。  かれは、長足に進歩しました。昨年の夏には、病状は、限界まで悪化していましたが演奏できるレパートリーも五つに増え、「勉強のため、体調がいい日に、プロの演奏会に行ってみたい」と言いだしたのです。われわれは、かれに、余生を思いどおりに送って貰いたいと思っていましたから、当然、許可を出しました。そこで、彼は、隣の席の女性に関心を持ちました。なぜなら、その女性が、突然、出血して気を失って、倒れ、緊急入院したからです。かれは、そのとき、持っていたハンカチを使ってくれるように、手渡しました。  そして、かれは、また、病院で練習に余年がなかったのですが、少し経って、その女性の母親から、お礼の手紙が来て、その女性が、血友病という病気に罹っていることを知りました、しかも、その女性は、この病院に入院していたのです。  それから、かれは、その女性の入院している部屋や、病状を、奥さんに調べさせ、しおりさんが、自分の病室の真下の一階に入院していると知って、その偶然の成せる技に驚きました。そかも、しおりさんは、なにか、重大な病気も併発していて、生命が危ういという。また、もとヴァイオリニストだったことも分かりました。  そのころ、わたしが、回診に行くと、かれは、言いました、  「わたしは、ヴァイオリインの演奏が上手くなってから、誰かに聞いてもらいたくて仕方なくなりました。大きなホールで沢山の聴衆を前に演奏するのも、いいですが、わたし望みは、たった一人でもいいから、わたしの演奏を気に入って、聞いてくれる人がいればいいのです。そして、そういう人が、わたしにも出来たようです」  それは、一階下の病室で、闘病していた、しおりさんのことだったのです。  かれは、こうも言いました。  わたしが練習していたヴァイオリンは、中古で手にいれたものですが、そのケースに「S.M.」のイニシャルがある。これは、この町田しおりさんの頭文字を同じだ。僕は、きっと、この人の物だったのだと思う。そう信じている、だから、頑張りたい」  そう信じて、頑張っていましたーー  康子は、そこまで聞いて、質問した。  「その手紙は、戴きました。折茂さんが、その人だったのですか。毎日、弾いてくれる。それで、折茂さんのご病状はいかがなのですか」  それは、喉の奥に引っ掛かっていた疑問だった。 院長は、暗い表情をして答えた。 「昨年十一月に亡くなりました」  康子は、怪訝な表情になった。「  「それなら、いまでも、聞こえている演奏は」  「ああ、それなら、なぜ、あの部屋が鍵を掛けられて入れんないようになっているのかを、説明しないといけない」  「ぜひ、聞かせてください」  ーー 折茂さんは、亡くなる前に、わたしにこう言いました。  「そろそろ、わたしもお暇の時が来たようだ、なにも思い残すことはないが、一つだけ気掛かりなことがある。それは、下の病室に入院している町田しおりさんのことだ。話に聞けば、わたしの毎日の演奏を心待ちにしていて、それを張り合いに生きているという。わたしが、死んで、演奏が聞こえなくなったら、彼女も気を落とすだろう。病気は気力だから、気力が落ちれば、命に差し支えないとはいえないだろう。そこで、わたしは、考えた。わたしが亡くなってからも、演奏が聞こえるように擦ればどうすればいいか。良いアイデアがある。それは、テープに録音しておいて、毎日決まった時間に再生できるようにするのがいいだろう。わたしは、その装置を用意した。それを病室に置いておくから、彼女元気になるまで、病室はこの儘にしておいてほしい。これが、わたしの最期のお願いだ」  その言葉を残して、彼は、息を引き取りましたーー。  聞いていた康子は、目頭が熱くなってくるのを感じたが、それを拭わずに、言った。 「そんな方が、しおりを見ていてくれたのですか。亡くなったあとまで、生きる勇気を与え続けてくれたのですね」  「まあ、そういうことでしょう。ですから、わたしたちは、それらの事は、秘密にしておきました。それが、折茂の遺志であったし、遺言とも言えるものでしたから」  康子は、しおりが、エイズ感染を知って、投げ捨てた愛用のヴァイオリンが、こんな人の繋がりをつくったのだと思うと、人の世の縁の不思議さを感じないではいられなかった。  「そのヴァイオリンは、間違いなくしおりのものだと思います。音色もその儘でしたし、しおり自身がそう言っています」  「それで、実は、わたしは折茂君のしおり宛の手紙も預かっているのです。いつか、事情が知れたときに、渡してくれと言われました」  院長は、部屋の隅の棚に入っている手金庫を開け、中から、一通の書状を取りだし、康子に渡した。それは、封がしてあり、表書きは、「町田しおりさま」となっていた。康子は、それを預かった。  康子は、院長室を辞去した、帰り際に院長は、  「あの、演奏は、まだ、続けたほうがいいでしょうね。しおりさんが、完治して、退院できるまで」  院長は、元気づけてくれた。  康子は、黙って頷き、  「お願いします」  と頭を下げた。  (と言っても、いつになるか。なにしろ、しおりは一度、エイズを発症しかかったのだ)  そんな思いを抱きながら、病室に帰り、さおりに預かってきた手紙を渡した。    しおりは、手紙を受け取って、  「何かしら、知らない人からの手紙だわ」  と訝ったが、封書を開け、目を凝らして中の文面を追った。    ーー 初めてお便りを致しますが、わたしは、あなたの病室の上の二階に入院しているもので、折茂藤一郎と申します。あなたが、毎日、私の拙いヴァイオリンの演奏を心待ちにしてくださっている、と風の便りに耳にし、大変嬉しく思っています。  あなたは、まだ、ご存じないかもしれませんが、わたしは、夏に行われた前端貞子のヴァイオリン・リサイタで、隣に座り、あなたが、不足の事態に遭遇したとき、ハンカチを渡したものです。その後、母上から丁重なお礼の手紙を頂き、あなたが、わたし同じ病院に入院しているのを知りました。  そして、あなたが、すぐ下の病室に居て、わたしの下手たな演奏を心待ちにしていて下さることも看護婦さんらの話から知ることが出来ました。  それを、知って以来、私には生きる張り合いが出来ました。わたしは、命に限りのある病を患っていますので、どこまで、この演奏を続けることができるか、分かりませんが、生のあるかぎり、頑張ってみたいと思っています。あなたに生きる力を与え、わたしの分まで生きて欲しいと思います。  それから、わたしの使用しているヴァイロリンは、神田の専門店から入手したものでケースに「S.M.」のイニシャルが書いてあります。それは、しおりさんのイニシャル同じなので、ひょっとして、あなたが手放されたものではないかと、思っています。 わたしは、ずっと、毎日の演奏を続ける積もりです。あなたも、この音が聞こえるかぎり、生きていけると信じて、いてください。  お元気に回復されることを、お祈り申し上げますーー。    手紙は、しおりの健康回復を願っていた。  読みおわったしおりは、康子に、手渡しながら、  「本当に、この世には不思議なことがあるものね。あのヴァイオリンが、ここにあって、知らない人が弾いていた、しかも、その人は、夏のコンサートの時に、隣の席に座っていて、わたしを助けてくれたなんて」  「そうね、それが、貴方に生きる息吹を与えて暮れているのだから」  「わたし、この方にお会いして、お礼を言いたいわ」  「そうね、それがいいでしょう。でも、もう少し、元気になって、自由に歩くことが出来、出来れば、退院の許可が出るころにね」  「そう。そうしないと、この方にも申し訳ないわ。元気な姿をお見せしなければ」  「もう少しで、そうなるわよ。春も近いし」  「春になったら、元気になれるかしら」  季節は春の盛りに向かっていたが、しおりの病状は、小康を保ったまま、そう変わらなかった。  そのある日、二階の閉じられた病室に鍵を開けて入っていく人影があった。  その影は、窓際に向かい、そこにおいてあるステレオ装置のカセットテープ・プレーヤーカセットを取り出し、持ってきたカセットと入れ換えた。  新しいテープは、ヴィヴァルディの「四季」から、「春」の演奏が入っていた。それは、折茂の演奏ではなかったが、ヴァイオリンの練習の上達度から、そろそろ、折茂が、取りかかってもいいレベルの楽曲だった。  昼にそれまでの同じ曲から、変わったのを聞いたしおりは、  「母さん、折茂さんが、また、ステップを上がったわ。あれな、「春」よ。私が大好きな曲。わたし、死なないわ。ずっと生きていく。絶対、死なないわ。生きていけるわよ」   康子は、窓の外を見た。  冬の間、ひっそりと孤高に立っていた桜の木の蕾が、花を付けはじめていた。                        (終わり)