『凧』
孝子は、「これは、 もう駄目だわ」と呟きながら、隅田川の水の流れを、目で追っていた。
「本当にだめだわ」ともう一度、胸のなかで、呟いて、決心したように、すっくと立ち上がり、流れに背を向けて、堤防を登りはじめた。
子供たちが、揚げていた凧の糸が切れて、向こう岸へと、般若を芝居絵風に描いた畳半畳ほど大きな凧が、飛んでいった。
「おーい。凧が行っちゃうよー」
五人の子供が、一斉に走りだして、凧を追いかけたが、正月の穏やかな日差しにしては、上空の風は強く、見る間に凧は舞い上がり、一円玉ほどに小さくなった途端、きりきり舞いしながら、一気に落下し、河面に落ちて、流れていった。
孝子は、子供の喚声に振り向いて、その様子を見た。
「これで、吹っ切れるわ」
堤防の上に出た。何か、体のなかの 重いものが、凧と一緒に、舞い上がり、すーっと消えてなくなったような気持ちだった。そんな軽やかな気持ちを、感じるのは、久し振りだった。
商店街で、太めの大根を買い、大根おろしにして、正月の餅を焼き、海苔でくるんで食べた。それが、今年の孝子の正月だった。
昨年は、違っていた。
「亮ちゃんが、帰ってきて、川越の叔父さんも来ていたし、賑やかだったのに」
それが、今年は、独りぼっちの正月だ。
思えば、この一年間は、孝子の二十五年の人生のなかでは、一番の激動の年だった。大学時代から付き合っていた勲が、突然、「アメリカへ行く」と言いだし、孝子の必死の願いを振り切って、逃げるように、去って行った。それが、九月だった。
その前の年のクリスマスに、奥志賀へスキーに行き、初めて二人きりの夜を過ごした。一年遅れで、やっと大学を卒業した勲は孝子と同級生だったが、先に社会人になった孝子は、二十二才からの一年間を、勲の女パトロンのような格好で過ごした。学生時代は、勲のほうが、何かと、孝子をリードしたが、あの一年だけは、違っていた、と孝子は思う。 勲は坂を転げ落ちるように、自信を失っていき、対照的に、社会人になった孝子は自信に満ちた人生を歩みはじめていた。
そんな立場の逆転は、勲がやっとの思いで、大学の卒業資格を得た後も続いた。不景気が学生の就職戦線も直撃し、わずか一年の違いで、孝子と勲は、望みの大企業と不満ながらの中小企業という明暗を分けた。
孝子はずっと望んでいた広告会社のキャリアウーマンになったが、勲は渋々、中堅の旅行会社に就職しなければならなかった。
「仕事は、どうせ、お金を稼ぐことでしかないわ。どんな会社だって、程々の給料があれば、いいじゃない。人生、仕事ばかりではないのだから、楽しくやっていければいいのよ」という孝子の言葉も、勲には虚しく響いた。
「ぞうせ、うまくはいきっこないわね。とても結婚なんて、出来そうもない」という状態だったのに、ずるずると続いたのは、「体の関係がなかったからだ」と孝子は思う。
そもそも、二十歳を過ぎてそういう経験が無いというのは、今時の女性では、少数派だろうが、「いや、そうでもない」と孝子は思っている。
マスコミが、はやし立てるようには、日本の若い女性は、舞い上がってもいないし、案外、堅実なのだ、という信念のようなものが、孝子にはあった。それにそれほどそういう行為が好きなわけではない。好ましい人に、求められれば、いやとは言わないだろうが、そうでないかぎりは、したくはない、という極自然な気持ちだった。
だから、これまでも、そんな関係になりそうな男がいなかったわけではないが、そんな気持ちにならなかったので・・・というよりそういう気持ちにしてくれる男がいなかったので、孝子は、二十四才まで処女だった。
すっかり、自信をなくしていた勲が、自ら進んで、
「今年のイブはスキーに行こう」と言いだした時、孝子は、勲の目を見つめた。真剣だった。瞳に訴えるような光があった。
そう、勲が言いだしたのは、銀座で、ブルース・ウィリス主演の「スリー・リバース」を見たあと、「鳥銀」で釜飯を食べているときだった。
「俺たちもそろそろ、ちゃんとしなくちゃな。お前だって、もういい年だしさ。どうにか仕事にも慣れてきたし、いろいろ考えてるんだ」
蔵出しだと宣伝して有名になったビールを孝子のグラスに注ぎながら、勲は、さりげなくそう言った。
「私の歳がどうしたって言うの。私は私の歳のせいで、結婚するのなんて嫌だな。あなたがどう思おうと、適齢期だからとか、そろそろなんていうのは、私には関係ないんだ。一緒に暮らしたい、一緒に子供を育てたいという気持ちのほうが大事だと思うよ」
孝子は、勲の目を真っ直ぐに見つめて、そう言った。
勲はこの言葉にたじろいだ。
「そんなことじゃないよ。一気に結婚なんて言ってないよ。もうおれたちも長いからさ。何か、けじめみたいなものが、必要じゃないかと思ってさ。それだけのこと」
必死に態勢を建て直してみたが、孝子のきっぱりとした物言いに、すでに後手に回っていた。
「まあ、いつまでも、ハッキリしない関係でも仕方ないし、あなたの言うように、潮時かもしれないわね。ずるずるしているより、けじめを付けたほうがいいか」
孝子は追い打ちを掛けた。
「そうだな。だから、ぼくとしても、きちんとする積もりでいるんだ。君にも心の準備をしてもらいたいと思ってね」
「いいわよ。そんなことくらい。もうすっかり準備できているわよ」
「今度のイブさ。二人でスキーに行こう」 勲が突然言ったことに、孝子は、素直に頷いた。
師走の町に、ユーミンの「真夏の夜の夢」のメロディーが流れていた。四丁目の角で、勲は、花売りのおばさんから、シクラメンの鉢を買い、孝子に贈った。
花を贈られたのは初めてだったが、孝子は初め、
「育てかたが分からないから」
と拒んだ。
「いいんだ。この花が咲いているうちだけ、君の部屋に飾って置いてくれれば。枯れてしまったら、捨てればいい」
と勲は無理に押しつけた。
孝子は、自分の部屋の机の上に、その儘、置いておいて、一日一度の水も遣らなかったが、シクラメンはその冬の間じゅう、暗赤色の花を見事に咲かせ続けた。
イブは、二人だけの夜になった。奥志賀のホテルは快適で、昼間中、ゲレンデで滑ったあと、夕方からのアフタースキーは、プールで泳いだ。
疲れきった体で、部屋に戻った二人は、すぐに、ダブルベッドに倒れ込んだが、なかなか寝付かれず、冷蔵庫のなかにあったウイスキーのミニボトルで、水割りを作って飲んだ。 勲が、「ちっとも寝られないや」と、ぶつぶつ言いながら、起き上がったのを見て、見ぬふりをしていた孝子は、
「こんな夜なのに、なんだろうこの人は」と心の中でつぶやいていた。
それでも、勲が二人分の水割りを作ってきて、孝子に手渡すと、
「ありがとう」と言って、素直に受け取った。 窓の外は、真っ白の銀世界で、雪がしんしんと降っていた。
窓際の小さなテーブルに、差し向かいに座って、グラスを傾けていると、体の中から、ほのぼのとした温かさが、沸いてきて、孝子は、とても幸せな気分になった。
(このひとは、こんなにやさしいし、一緒に暮らしてみるのも、いいかもしれない)
心の中で、呟きが聞こえる。
酒のせいで、体がほてってきた。勲は椅子に座り、孝子をじっと見つめている。それだけで、何も言わない。
(このひとは、いつもこうだ。自分から何かをしようということがない。精々、水割りを作るくらいしか、しようとしないのだ)
と孝子は思う。
リクルートカットの短い髪の毛を、ほぼ真ん中で分け、柑橘形の整髪料をつけ、醤油顔の髭は、いつも奇麗に剃ってある。アメリカの大リーグのファンで、着ているパジャマはドジャーズのネームが胸に入ったツーピースだ。孝子も、その幼児趣味に付き合わされて、大リーグのパジャマを買った。
その日は、二人とも、そのお揃いのパジャマを着ていた。
「風呂にでも入ろうか」
「そうね。でも、まだ、寝ていたいわ。もうすこし」
「そう言わずに、一緒に入ろうぜ。せっかくじゃないか」
「なにが、せっかくなのよ」
「こういう夜は、初めてだってことだよ。こうして二人っきりの夜は、寝てしまうなんてもったいないよ。存分に楽しまなくちゃ」 「楽しむって、なにをさ」
「だから、気持ちいいことをしようって」 「なにそれ」
「とぼけるんじゃないよ。カマトトぶって。わかっているだろう」
「知らないわよ。すっかり、のぼせ上がって、どうしたの。鼻息がかかるわよ」
「そんなこと言わずにさ。さあ、入ろう。僕が先に入るから、後から来てね」
「そう、どうぞ。その気になったら、行くわよ」
そんな会話を交わして、勲はバス・ル−ムに入って行った。
バス・ル−ムから、シャワ−の音が聞こえてくる。体を洗う前に、髪を洗うのが、勲習慣なのだろうか。頭から湯をかぶっているようだ。風呂に浸かる、ザブンという大きな音を聞いて、孝子はやっと、風呂に入る気になった。
「早く、おいでよ」
タイミング良く、勲が誘った。
「なぜ、そんなに焦っているの。いま行くわよ」
パジャマの中は、もうブラジャ−とパンティ−しか着けていなかったから、素早くそれらを脱ぎ捨てるのに、時間は掛からなかった。 勲はもうすっかり、いきり立っていた。孝子が、生まれたままの姿で、バス・ル−ムに入っていくと、勲は、いきなり抱きついてきて、孝子の乳房をまさぐろうとした。 「ちょっと待ってよ。未だ、お湯にも浸かっていないのよ。早く出て、交代して」
孝子は、姉さん気分で、勲を焦らした。勲が素直に従って、バス・タブから出る瞬間、入れ代わりに入ろうとした孝子と体が触れ合った。孝子には、初めての若い男の裸の体との直接の触れ合いだった。
(張り詰めていて、堅くて、女の柔らかい体とは、違うのね)
孝子にとって、それは新鮮な感動だった。その気持ちが、男と二人きりでいるのだという意識と混じり合って、孝子の大脳にある官能の感覚を刺激した。とても良い気分がしてきて、うっとりとなった。
「どうしたんだよ。そんなにポ−っとした顔をして。それにしても、孝子は良い体をしているね。ほどほどの大きさの乳房としっかりくびれた腰、ヒップも形がいいし、最高だよ。乳房が円錐型で、つんと尖っているのは、まだ、十代の少女だな。だって、処女なんだろう」
勲が攻め込んできた。
「そんなこと、どうして分かるの。処女か処女でないかなんて、分かるわけないじゃない。勲は、いっぱい、女を知っているからね」
「そんなことはないよ。君しかいないじゃないか」
孝子湯船を出た。勲が
「背中を流してやるよ」
というのを、拒む気持ちはまったく、なかった。むしろ、早く男の体に触れて欲しかった。 勲はたっぷりと石鹸を着けたスポンジで背中を流すと、次に、後ろから、孝子の乳房を両手で、わしづかみにした。すべすべとした石鹸のせいで、柔らかく撫でられると孝子の気持ちのよさは、ますます、高揚して、思わず、吐息が漏れた。
「ああ。ああ。うう−ん。ああ」
勲は、それでも攻めるのをやめず、今度は、手を後ろから、下腹部に落とし、孝子の茂みをまさぐり、石鹸の泡だらけにした。
そこまで、来て、初めて、孝子は勲の方に、体を向け、目を閉じたまま、唇に熱い接吻を受けた。孝子の頭は、真っ白になった。激しく舌を絡ませ、勲の唾液を飲み込んだ。
孝子はもうメロメロだった。
勲にバスの床に押し倒されて、上からしたまで、全身を泡だらけにされて、まさぐられ、キスを身体中に浴びて、最後は、茂みのなかの一番大切な部分を、勲が唇で嘗めはじめたころは、快感が全身を貫くのを感じた。
(彼がこんなにしてくれるのだから、私もしてあげなくちゃ)
という思いが、浮かんだ。してあげるのは、彼の物をしゃぶってあげることだわ、ということが、処女なのに、分かったのは、不思議だった。
(女って、そういう風に出来ているのかしら。これが、自然の本能なのかな。本で読んだり、聞いたりしたことは、あるけれど、こんなに自然に、あんなに恥ずかしいことが出来るなんて)
ごく自然に、勲の物を手で掴み、口に入れて頬を膨らませた。
「孝子、最高だよ。気持ちがいいよ」
こういうときの、男の台詞は、紋切り型で、決まっている。
孝子は、唾液で勲の堅くなった物を、濡れそぼらせて、なお、貪るように、なめ尽くした。
そうしているうちに、また、快感がこみ上げてきて、孝子の肌は逆立つように、ゾッとなった。下半身には、愛液が溢れ、股を伝いだした。
(早く、中に入れてほしい)
そう、言いたくなったが、まだ、理性がそれを抑制していた。
(私は、処女なのに、どうして、こんなに淫乱になれるのかしら)
勲は、もう堪えきれなくなって、挿入の姿勢を取った。向かい合った正常位で、勲は孝子を下にして、いきり立った物を、孝子の中に差し入れた。
袖送運動が始まると、孝子の官能は、関を開いたように、解き放たれ、激しい歓喜の声となって、ほとばしり出た。勲は、それに刺激されて、運動を激しくした。勲にとって、そうした行為は、初めてではなかった。ソ−プ・ランドの経験もあったし、実を言うと、孝子が初めての女ではない。
だが、今回はそれまでの、ただ、放出するだけ行為とは、違った。
愛情の裏付けを得ての、願いが叶っての、行為なのだ。
勲は、前後だけでなく、回転や左右の動きも加えて、孝子を頂上へと導いていった。 喘ぎ声を高まらせる孝子に、最後は、バックの姿勢を取らせて、腰を両手で掴んで、激しい袖送を繰り返すと、孝子の秘部は、熱くなって、愛液を滴らせ、頂上を究めると同時に、勲は放出して、果てた。
激しい動悸が、二人を襲い、勲が逸物を引き抜くと、彼がいま、孝子の中に解き放った物が溢れて、孝子の開かれた襞に沿って、垂れ落ちた。
孝子は暫く、勲と並んで寝ながら、余韻を味わっていたが、勲より早く起き上がり、大切な部分をシャワ−で流し、湯船から湯を救って、全身を洗い流し、バス・ル−ムを出た。 勲は、孝子の後に続いた。
これが、孝子の処女喪失だった。処女幕が破られたときの血は、お湯の中に薄く広がって、流れてしまった。勲は、そのとき、やや、きつさを感じたが、処女幕を破った意識はなかった。むしろ、孝子の中の締まりのよさが、勲を刺激し、放出を早める結果になった。快感が激しいスピ−ドで、加速し、一気に突き抜けた感じだった。
外に出て、バス・タオルで、孝子の全身を宝石を磨くように拭いてあげた。それは、勲の感謝の気持ちと愛情の現れだった。孝子はそのころも、ただ、茫然とし、セックスのあとの余韻に体は支配されつづけていた。
だから、孝子の処女喪失は、強姦や暴力的な行為によって、行われたものとは違い、幸せなものだった、と言えるだろう。二十四歳の成熟した女体が、男を受け入れるのを容易にしていたし、心の準備は、もう、十分すぎるくらい出来ていた。
やや、遅すぎたにせよ、ちょうど良いタイミングで、孝子は、幸せに、初体験をしたのだった。
だから、そういうことがあったあとも、孝子の勲に対する態度は、全く変わらなかった。デートの場所や時間を決めるのも、孝子が主導権を取ったし、レストランで、メニューを決めるのも、孝子だった。
(勲は、何か勘違いをしているらしい)
と孝子が、感じはじめたのは、そのころだった。
いろいろな決定を、孝子に任せてはいるものの、以前のように、全てをお任せというわけではなくなった。
正月には、鎌倉の鶴岡八幡宮に初詣に行ったが、それも、孝子の強い希望によるもので、勲は最初は渋っていた。
「そんな古臭いことより、渋谷のホテルで、一日過ごそうよ」
と言ったり、
「おれの家で、ヴィデオを見よう」
と提案したりした。
「なんで、そんなに物臭なの」
と孝子は、責めた。すると、
「お前は、俺の言うことに従えないのか」と、勲は初めて、孝子を「お前」と呼び、強圧的な態度を取った。
「あなたにお前と呼ばれる筋あいはないわ」
孝子は、誇り高く、そう宣言したが、勲は、 「いいじゃないか。おれの彼女なんだから」
と言い放った。
それでも、孝子の説得に応じて、八幡宮への初詣に従ったのは、それまでのしがらみが、そうさせたまでのことのようだった。
だから、初詣は、楽しくなかった。
横須賀線の電車の中でも、ずっと、無口だった。
(前の年に初詣に行ったときには、あんなにはしゃいでいたのに)
孝子は一年の歳月の長さを思った。
お賽銭をあげて、柏手を打ち、両手を合わせたが、孝子の
「何をお祈りしたの」
との問い掛けに、勲は、
「君と別れて、遠くに行くことさ」
と、平然と言った。
「そう、願いが叶うといいわね」
孝子は応じた。
あとは、二人とも黙りこくって、八幡宮の長い階段を下りた。
参拝客には、若い二人連れが多かった。階段は、参拝客で溢れていたが、勲は孝子の手を取るわけでもなく、二人は、それぞれ、一人ずつになって、階段を下りていった。 孝子も勲も、何時もの普段着の洋服姿で、晴れ着や和服姿の男女が多いなかでは、まったく目立たない存在だった。それでも、仲が良さそうに、腕を絡ませたり、手を握りあっているカップッルの中では、二人は異様だった。勲が先に行き、孝子が後に従ったが、二人の間隔は、いつも一メートル以上離れていて、寄り添うことがなかった。
なにも話さずに、東京に帰って、東京駅で別れた。
家に戻って孝子は、ほっと溜め息をついた。 「ああ、疲れた。正月なんて家に居るのが一番ね」
ぼーっとした頭のまま、孝子は、炬燵にもぐり込み、蜜柑を二個食べた。
横になると、止めどなく、涙が溢れてきた。 何故だか、理由は、分からなかったが、無性に悲しかった。
それが、勲とのことだとは、うすうす、気がついていたものの、そんなに悲しくなるとは、思いもよらなかった。
(わたしが、勲をここまで、リードしてきてあげたのに、どういうことなの)
孝子は、自問自答した。
それは、これまで慈しんできたものが、自分の手元から去っていくのを前にした、不安感や喪失感からくる、なんともいえない、恐れの感情が、もたらしたもののようだった。 (勲は、私を離れていく)
そういう無性に、虚しい感情が、こみ上げてきて、涙腺を刺激したのだった。
そんな気持ちを吹っ切ろうと、翌日の二日、孝子は、浅草にいった。そこの屋台に絵凧を売っている店があり、その原色で描かれた役者絵や鬼の絵が沈んだ心を浮き上がらせる様な気がして、孝子は、一枚、三千円の凧を買った。
手を広げたくらいの幅がある大きな凧を手に、家に帰った孝子の気持ちは、元の明るさを取り戻した。
(こんなに大きな凧を持っているのは、この町内ではきっと私だけだわ。持って帰るだけでも、大変だった。抱えて帰ってくる時は、みんなが見ていたわ。もう私の宝物にしよう)
大きな凧を買うだけで、こんなに気分が変わるとは。それが、孝子にはなにか不思議だった。
勲とは、その正月はもう会わなかった。
勲が、そのあと「会いたい」と言ってきたのは、二月の最初の日曜日だった。
その日は、雪がちらついていて、テレビの天気番組は
「今年一番の冷え込みで、寒波の大集団が近ずいている」
と伝えていた。
孝子は、厚い羊毛のコートに手編みの帽子を付け、手袋をして、ロング・ブーツをはいて、家を出た。
待ち合わせ場所の渋谷の「109」ビル前には、勲がさきに来ていて待っていた。
勲も冬の恰好をしていて、革ジャンパーに白い毛糸のマフラー、スキー帽に、リーバイスのジーパン、それにショート・ブーツといういでたちだった。
もう昼ころだったから、「お昼を食べよう」ということになって、
孝子は「豚カツにしよう」と言った。
勲に異論はなかった。
二人は、道現坂の途中にある「勝一」に入った。
ヒレ定食を二人分頼んで、料理が出来てくるのを待っているあいだ、勲は
「正月は、すまなかったね。おれは、どうかしていたよ。孝子に変な思いをさせてしまって」
そう、もちかけた。
「そう。それはどう言うこと。わたしは、なんとも思っていないわよ。勲が私をお前と呼び捨てたり、おれの女だなんて言ったことなんて、どうでもいいじゃない」
本当は、それが、ショックで片時も頭を離れなかったのに、いざ、そういわれてみると、どうしても、意地を張ってしまうのが、孝子の習性だった。
「でも、僕はそう思っていたいんだよ。孝子が俺の彼女で、僕のものになったのは、事実じゃないか。あのクリスマス以来」
(勲は、クリスマスの夜のことで、彼女を自分の所有物と考えるような、単純な男だったのか)
孝子にまた、何とも言えない、苦い思いが胸の奥にこみ上げてきた。
「だから、あなたの態度が変わったのね。これまでは、あんなに優しかったのに、あの日以来、とても生意気になったもの。セックスしたことが、どれほどのことだというのよ」
「でも、男というものは、そういうものだよ。やってしまえば、自分のものだと思うものだよ」
「下品な言い方ね。それで、いやになれなれしくなったわけ。それが、恋や愛だと思ったら、大間違いだと思うわ。私達の関係は、そんなに軽々しいものだとは思いたくないわ」
孝子は、毅然として、そう宣言した。
勲は、その語勢に一瞬、たじろいだ。
「では、どうすればいいんだ。いままでと同じではなにも進展しないのじゃないの」 勲は真正面から、孝子の顔を見て、尋ねた。 孝子にも、どうすればいいのか、実は、まったく分からなかった。
二人の関係は、何の第三者のアドバイスもないままに、まるで、糸の切れた凧のきりもみ状態のような状況に陥っていった。
三月になった。寒気が緩んできた。人々は、冬の厚い装備を脱ぎ捨た。春の訪れは、すぐそこだった。
孝子は、小学校時代からの友人の恵子と会った。
恵子から突然、電話がかかってきて、
「私、結婚することになったの。その前に、ずっと親友だった孝子と会っておきたいの。式のことで相談もしたいし」
恵子は一段と美しくなっていた。ロング・ヘアーをナチュラルに靡かせた髪形は、自然だったし、肌はほとんど化粧をしていないのに、ほんのり赤みが掛かって、健康そうだった。唯一、口紅だけは指している。それもごく目立たないように。瞼は二重で、そのしたに円らな瞳が、光っていた。
孝子は、いつも恵子を見るたびに、
(まるで、少女漫画から抜け出たようだ)と思う。
(わたしの不細工さに比べたら、雲泥の差だわ。神はなぜこういう不平等をなさるのかしら)
孝子も世間の平均からすれば、決して、不細工とはいえない。せいぜい、平均なみの器量をしていたが、そう目を引くような顔かたちとは言えないのは、自分でも自覚していた。それは、
(わたしは、なんでも、十人並みでいればいい)
という彼女の人生観を反映しているようでもあった。
山手通り沿いの、ティー・ルームで、待ち合わせた二人は、ひとしきり、恵子の結婚のお祝いの言葉を交わしたあと、向かい合って座った。
「でも、びっくりしたわ。あなたは、いつも、私は三十すぎまで仕事一筋よ、と言っていたから。私のほうが、結婚願望は強いと思っていたのに」
孝子は、自分では思ってもいなかった言葉を口にした。
「こういうのは、タイミングよね。計画してできることではないわね。ひょっとしたきっかけでなってしまうものなのよ」
恵子は、まるで他人ごとのように、言い放った。
「それで、お式でね。孝子に友人代表で、祝辞を頂きたいの。お願いね」
「でも、わたし、そんな経験ないしなあ。できれば、パスしたいんだけど
「そう言わずに、絶対お願いよ。だって、小学校から、大学までのお友達は孝子しかいないんだから」
「そうか。そこまで頼まれて、逃げたら、女がすたるな。いいわ、引き受けた」
「まだ、六月までは間があるから、じっくり、練習しておいてね」
「そうか、恵子は、ジューン・ブライドになるのか。本当にあなたのすることは、全てが理想的ね」
「それは、彼が言いだしたのよ。一生に一度のことだからって」
「いいな。いまはもう熱あついムードなんでしょ」
恵子は、答えずに、微笑み返した。
二人で、駅に行く途中で、孝子は、勲のような男が、スクランブル交差点を、渡っていくのを見かけたような気がした。急いで、そちらの方へ駆けて行きたかったが、恵子がいたので、そうもいかなかった。勲のあとを目で追っていると、一人の若い女性が、後を追いかけて行き、交差点の向こう側で、追いついて、彼の左腕に右手を指し入れたのが見えた。二人は、楽しそうに、笑いながら、仲のいいカップルのように、駅のほうへ歩いていった。
孝子は、恵子との会話の中身を忘れた。恵子が気付いて
「孝子どうしたの」
と、尋ねたが、それにも、孝子は気がつかなかった。
孝子の頭のなかは、パニックに陥った。しかし、すぐに、恵子の言葉に、気がついて 「いえ、何でもないわ。大丈夫」
とかわした。
だが、電車のなかでも、孝子の頭は、いま少し前に見た、勲らしい男の姿で一杯だった。
家に帰って、孝子は勲のことを、考えた。 それは、それまでに、勲といて費やした時間よりも、ずっと長い時間、しかも、これほど、集中したことは、ないというくらいに、じっくりと、考えた。頭はそのことで、すべて占められていて、夕食も忘れた。
(一体、勲は私にとって、何なのだろう) それが、第一の設問だった。
高校では、勲は文芸部の部長で、孝子は会計を担当していた。文芸部は年に二回ほど同人誌を出す。勲は何時も先頭に立って、楽しそうに、同人誌を編集していた。孝子はそれを頼もしいと思った。孝子は、文章を書くのがそれほど好きではなかったのに、文芸部に留まっていたのは、勲の魅力のためだと言ってもよかっった。
だから、勲は孝子には、まず、憧れだった。 だが、勲は、部活動に力を入れすぎたためか、孝子と同じ大学を受けながら、失敗した。孝子は、首尾よく、合格した。一年遅れで、同じ大学に入った勲は、高校時代とはまったく、変わっていた。すべてに、消極的で、なんでも、孝子の言うことに従うようになっていった。
孝子の勲に対する憧れは、消滅したが、その代わりに、生まれたのは、同情と思いやりだった。孝子にはそれが新鮮な感覚で、
(私にも人の心を慈しむ気持ちがあるんだ)
という感覚が、孝子の官能を刺激して心地よかった。しかも、相手は高校時代に憧れていた異性だ、ということも、孝子の快感に繋がっていた。
勲の素直さと孝子の優しさが、上手く重なりあって、二人は急激に親密になった。
孝子が、三年生になったころには、二人は講義の時以外は、ずっと一緒にいたように思う。子供がじゃれ会うように、二人は、互いに触れ合い、持っている個性を与えあった。興奮し、高揚し、快感が隠された苦しみを覆い隠し、喜悦が苦悩を包み隠している時代だった。
孝子が四年生になると、卒論や就職活動で忙しくなり、二人の距離は、少し遠くなった。勲は、友達付き合いに忙しく、週に一度のデートが出来ればいい方だった。
孝子の就職が決まったとき、孝子は勲を誘ったが、勲は、
「アルバイトがあるから」
と断ってきた。
卒業の日に、二人は会って、勲は卒業祝いにと、万年筆を買ってくれた。
それが、大学時代の二人の関係だった。
(なんということもない。ごく一般的な普通の、何の異常も、変わったこともない、流れる水のような関係だったんだ)
孝子は、そのことにいま気付いた。
(だから、あの日まで、セックスもなかったんだわ)
孝子は、まるで、淡い水彩画のように、勲との学生時代の日々を思い出していた。
(パステル画なのかもしれない。本当は、油絵のような重厚さと鮮烈さが、必要だったんだ)
そう思い当たって、孝子は、流れていった日々の長さを思い、長嘆息した。
第二の設問は、ではどうすればいいのか、ということだった。
こういう関係は、長続きするわけはない、とまず孝子は考えた。
だからこそ、勲は、私の知らない女と、ああやって、腕を組んで歩いていたのだ。勲は、わたしだけの男ではないんだ。わたしが、かれを必要としなくなったように、かれもわたしをもう、必要としないんだわ。そう考えて、孝子は少し、寂しくなった。
勲が孝子の生活からいなくなるのは、寂しいことだ。でも、それも致し方ないことなのだろう。それが、時間の流れのなかで、二人を運んでいく運命の流れなのなら、その流れに乗っていくしかないだろう。それが、人生というものかもしれない。
そこまで、考えが及んで、孝子は少し気分が楽になった。重い心の澱がすーと消えて軽くなった気がした。
でも、きりを付けるためには、やはり、あの日、目撃したことを、勲に聞いてみるこ
とは、必要だわ。それから、ハッキリと、勲に言ってあげなければ。いつもの孝子の姿勢に戻って、彼女はそう決断した。
三つ目の問題は、ではわたしの将来は、ということだったが、もう考えるのは止めにした。そんなことは、目前の問題を片ずけてからにしたかった。勲とケリを付けてからだって、どうせ、また新しい事態が起きるに違いない。男だって、勲だけじゃないんだから、と考えたが、それは、なにか、負け惜しみのように思えて、そういう考えかたはやめにした。むしろ、すっきりとすることが、未来を見据えた行為のように思われた。わたしだって、まだ、若いのだから、これから、いろいろとあるはずだ、という考えのほうが、より前向きのように思われた。
だから、振っ切りたい、という気持ちが段々、強くなった。とにかく何かしなければいけない。このままでは、絶対いけない。一日も早く。
そう考えているうちに、花の季節となり、陽気はますます、暖かさを増し、四月になった。
その最初の日曜日に、孝子は勲と会った。 いつもの渋谷の喫茶店に表れた勲は、元気がなかった。着古したティーシャツに、ジーンズをはき、背中に軽いナイロンのリュックサックを背負っていた。孝子はベージュのワンピースで、軽くルージュを指していた。
「恵子が結婚するって知ってる」
孝子はまず、共通の友人の結婚話から始めた。
「聞いたよ。お見合いだってね」
「そうらしいわ。式で友人代表で挨拶してくれって、頼まれたわ」
「僕には招待はなかった。お祝いは贈るつもりだけど」
「勲はそれでいいと思うわ。わたしは準備が大変よ。ところで、勲とは御無沙汰だったけど、何していたの」
「別に、毎日、会社に行って、仕事をして、家に帰ることの繰り返しだよ」
「三月ころ、楽しかったでしょう」
「それ、どういう意味だい」
「わたし、見たのよ」
孝子は、ストレートに言った。
「なにを」
勲は怪訝な表情をした。
「勲が、女と一緒に歩いているところ」
「なに」
「あなた。わたしが厭になったのなら、はっきりそう言いなさいよ」
「そんなことはないよ」
「じゃあ、誰なの。一緒にいた女性は」
「だから、どこで、何時ころだよ」
「だから、三月ごろよ。渋谷のスクランブル交差点を、腕を組んで歩いていたでしょう」
「三月・・・」
勲は考え込んだ。
「いろいろいて、分からないんでしょ」
「・・・・・・」
勲はまだ考えていた。そして、思い当たったように、
「ああ、あれは、従姉妹だよ」
と、はっきりと、思いだしたように、答えた。 「従姉妹・・・」
孝子は、一瞬、虚を突かれた感じがしたが、そのあと、急におかしくなって、大声を挙げて笑いだした。
「従姉妹って、だれの」
「決まっているじゃないか。俺のだよ」
「でも、わたしは知らないわ」
「当たり前だよ。あなたが僕の従姉妹を全部知っているわけではないだろう」
「うん。まあ、そうだわ」
「田舎から出てきて、買い物付き合ったんだ」
「それにしても、親しそうだったわね」
「それは、親しいよ。血がつながっているんだからね。少なくともあなたよりはね」 「そうか。一応、信じるわ」
その件は、それで終わった。だが、そのあと、勲が
「実は、おれ、いま。会社にアメリカの支社に行かないかと打診されているんだ。でも、単身だと、大変だよね」
と言いだして、二人の間に緊張感が生まれた。
「それは、貴方は、いままで、一人暮らしをしたことがないものね。しかも、外国だったら、それは、楽ではないでしょうね」
「一緒に行ってくれる人がいれば、いいんだけど」
「そうね、それがいいわね」
そう答えて、孝子は、軽率なことを言ったと、後悔した。勲は、いま、わたしに一緒に行ってほしいと、ほのめかしたのではないか。安易な答えは、出来ないわ。そう思って、口ごもった。
その後の、会話は途切れた。
「でも、断ればいいじゃない」
孝子はそう言うのが、精一杯だった。
「そうも、いかないさ。宮仕えの身だもの。辞令を拒否はできないよ」
勲は、訴えるような目をして、孝子を見た。 孝子は、それを無視した。
そうして、その件はこれといった結論もなしに、あいまいなままになった。二人で夕食を一緒に食べて、その日は家に帰った。
寝るまえにベッドの中で、孝子は、思案した。
(勲は、わたしに結婚を望んでいるのだろうか。一緒に行ってくれる人が・・・というのは、その意味なのかしら。いや、そうではないな、一般論として、そう言ったのだろう。勲がわたしを欲するのなら。はっきり、そう言えばいいのだから。プロポーズの言葉が、そんなものであるわけはない。もっと、濃厚で、しっかりした物でなくては。そんな曖昧言葉が、プロポーズであるわけがないよ)
結論は、消極的だった。だから、わたしたちの関係は、駄目なのだ、と考えながら、眠りに落ちていった
眠りのなかで、夢を見た。
ーー 小鳥を追いかけていた少女が、息を切らせながら、森のなかに迷い込み、やっとの思いで、小鳥の巣にたどり着いた。巣のなかには五羽の鳥がいて、少女は、恐る恐る中を覗き込んだ。すると、中から般若が表れて、少女に襲いかかった。少女は必死の思いで逃げたが、いくら走ろうとしても、足が思うように動かず、下草に足を取られて、転倒し、般若に襲われそうになった。「たすけてー」と大声を上げたが、誰も助けにきてくれない。般若の顔が近付いてきて、今にも食われそうになってーー
そこで、「はっ」と目が覚めた。
「ああ怖かった」
少し目覚めたあとの興奮が続いたが、それも落ちつき、再び、今度は、より深い睡眠に助けられて、怖かった夢は、翌日はほとんど忘れていた。
翌朝、目が覚めると、壁に掛けた般若の凧絵が、傾いていた。
孝子は、それをしっかりと元に戻して、
(これが、傾いたときに、あの夢をみたのかしら)
と考えた。
般若の顔に変化はなかった。きっと目尻をつり上げ、口をかっと見開いている姿にそれを購入した時と、寸分も変わりはなかった。ただ、少し、古びてきた。それも壁に掛けっぱなしで、埃も払わなかったからだ。
(怖いけど、素敵だわ。この表情が。きりっとした意思を持っているもの。何ものにも動じない強さが魅力ね)
そう思って、孝子は、やや衝動的にこの凧を買ったのだった。
六月。孝子は、恵子の結婚式に出席した。 恵子は初夏の日差しを受けて輝いていた。夏が近いそのころ、陽光はますます明るさを増す。その日は快晴だった。抜けるような青空が、二人の門出を祝福した。
披露宴で挨拶に立った孝子は、幼いころの恵子と自分との交遊のエピソードを織りまぜ今までの交際の経緯を振り返りながら、幸せな家庭を願って、締めくくった。
次々と参会者の挨拶や、決まりごとのセレモニーが続き、最後に花婿の親が、挨拶して、祝宴は終わった。
お開きとなって、参会者は、お見送りの列に並んだ。孝子が、順番を待っていると、四、五人ほど前に、どこかで見たことのあるような後ろ姿の女性を見つけた。長い髪と整った白い肌と高い鼻の顔。横顔が、既知体験だった。
孝子は、そのときは、さほど気にならなかったが、帰宅してからも、その面影が頭にへばりついて離れなかった。
(どこで見たのだろう)
孝子は、考えはじめた。過去の記憶を辿っていって、探し当てたのは、恵子と会った三月の一日の思い出だった。
(そうか、あの日に、交差点で、勲と一緒に歩いていたひとだ)
そう思い当たって、孝子は少し、ショックだったが、そのあと、「なぜか」との疑問がわいた。
翌日、孝子は、勲に電話した。
「昨日、恵子の結婚式に行ってきたわよ」 「そう、よかったかい」
「幸せそうだった。天気も良かったし、良い門出だったわ」
「それは、良かった」
「それでね、会場であの人を見かけたの」 「あの人って」
「あなたが、一緒に歩いていた人よ」
「歩いていた人?]
「三月に、渋谷の交差点で」
「ああ。従姉妹か」
「そう、あなたは言っていたけど」
「あいつが、結婚披露宴に出ていた?」
「間違いないわ。あのひとよ」
「なぜかな。人違いだろう」
「そう、そうかもしれないわね」
「きっと、そうだよ。似た人はいるからね」
「似た人ね。わたしには本人に見えたけど」
「だって、彼女が、恵子の結婚式に行くはずがないじゃないか」
「わかった」
会話はそれで終わった。
恵子が新婚旅行から帰ってきて、新居に移り、落ちついたころ。もう季節は夏になっていた。暑い盛りの八月中旬、恵子から、新居への招待が来た。
日傘に白一色のサマー・ワンピースで、水羊羹をお土産に、孝子は、恵子の世田谷の新居を訪問した。
「やっと、落ちついたの。どうも、来てくれてありがとう」
恵子は如才なく孝子を家に迎えた。
「もう、二月も経ったのね。月日の流れは、年を取るにしたがって、速くなるわね」 「何言ってるの。それほどの年でもないのに。でも孝子も早いとこ、決めなさいよ」 「決めるって」
「結婚よ。勲君とはうまく行ってるんでしょ」
「まあ、変わりがないわね。可もなし、不可もなしってところかな」
「それがいいのよ。自然が一番だって」
「でも、変化がなくて、何も決まらないの」
「それは、お互いが、消極的だからよ。どちらかが、ふっきらなくちゃ」
「ふっきるって」
「決めることよ。行くか、やめるかを。でも、焦ることはないわね」
「焦ってなんかいないけど。なにか変化は欲しいわ」
「勲とは会っているの」
「週に一回くらいね。でも、飽きてしまった感じで、盛り上がらないの」
「マンネリなんだわ。二人で旅行にでも行ってくれば」
「お互いに、忙しくて、時間がないし」
「時間なんて、作るものよ」
「それは、言うのは簡単だけど」
そんな話をして、時間が流れていった。
お茶を飲んで、リラックスし、恵子の結婚式の話になった時、孝子は、
「あの日、来ていた人で、色の白い、鼻の高い女性がいたでしょ。彼女は貴方のお友達?」
と思い切って、聞いた。
恵子は
「ああ、留美ね。そう、わたしの女子大の友達よ。サークルが、同じなの。それで、どうしたの」
「いや、ちょっと、目立っていたから」
「そうね。彼女は美人だもの。どこにいても目立つわね。ああいう華やかな席には最適だわ」
恵子は、呆気らかんと、そう話した。表情は、あくまでも明るく、新婚生活の幸せに満ちている、と孝子は感じ、親友を心から祝福した。
その月の終わりに、勲が、「大切な話がしたい」と言ってきた。
南青山のお茶の専門店で、孝子は、勲にあった。
暑い盛りにもかかわらず、きちんとしたスーツ姿で、表れた勲は、薄いサマー・スーツの軽装の孝子に向かって、重大な決意を打ち明けた。
「アメリカに行くことになったよ。九月に出発する。来週だね」
と告白した。
「そう。では、わたし、送りにいくわ。成田に」
孝子は、内心の動揺を隠して、それだけ言った。
「どのくらい行ってるの。長いの」
孝子は聞いた。
「二年か三年くらいだと思うよ」
「一人では、大変だわね」
「まあね」
勲は、そう言ったとき、孝子の視線を逸らした。
ウエイターが、紅茶のポットを、テーブルに置いた。
孝子は、自分のポットから、自分のカップにだけ、紅茶を注いだ。
勲は、孝子のあとを追うように、自分のカップに報茶を煎れた。
そのとき、孝子から、自分でも思わぬ言葉が、吹き出た。
「わたし、寂しくなるわ」
言ってしまって、孝子は、自分に驚いた。動揺を隠すように、孝子は二度目の紅茶をポットから、注いだ。
勲もその言葉に、何かを感じたのか。
「あなたがそんなことを言うなんて。驚いた。しっかりしてくれよ」
と、咄嗟に、応じた。
「寂しいのは、ぼくの方だよ。その間、会えないのだから」
「ありがとう。わたし、手紙を書くわ」
「そうだ。それがいい。俺もなるべく、書くようにする」
これまでの二人の立場が、その間は、逆転しているような感じだった。
勲が、日本を立つ日、孝子は成田に送りにいった。
出発ロビーには、孝子も顔を知っている勲の両親と妹、それに会社の人たちが、集まっていた。談笑している一群の輪の中心に勲の見慣れた姿があった。両親に挨拶をしたあと、孝子は、花束を買いに、空港の花屋へ行って、一輪挿しのパンジーを買って帰ってきた。
そのとき、両親の
「留美さんは、遅いわねー。どうしたのかしら、間に合わなくなってしまうわ」 という会話が、耳に入った。
勲も、そわそわしはじめた。
孝子は、花束を手に、本能的に、一群から離れて立っていたが、そこへ、勲の母が、 「やっと着いたわよ。留美さんが」
といいいながら、走り寄ってきた。
孝子は、その方向を見た。そこには、美しく旅行姿に変身した留美が、スーツケースを、引きながら、走るように、こちらへ来る姿があった。
孝子は、一瞬、事態を把握しかねたが、少し経って、事情が飲み込めた。
孝子は、内心の動揺を隠しながら、出発ロビーに向かう、勲と留美に買ってきた花束をわたした。
「お元気でね。がんばっください」
そう言う言葉が、霞んでいたが、他の人気付かなかったようだった。
二人は、手を携えて、皆の前から消えた。 孝子は、両親に挨拶して、その場を離れた。
その年、約束した勲からの手紙は来なかった。
孝子も手紙を書かなかった。
部屋の壁の般若の凧は、寒さが増した秋ころには、破れ始めた。
冬になって、般若の絵は、すっかり精彩を無くして、黄ばんできた。
師走の大掃除に、孝子は、迷いに迷ったあげく、凧を破って捨てた。
新しい年が、もうそこまで来ていた。
(終わり)