「奇妙なキャベツ」
石野太郎は、この五月で定年になった。
二十八年間の会社勤めの間に、結婚もし、二人の子供もできた。その一男一女は、すでに成人し、別に家庭を持っている。妻のたな子は、病気一つしない丈夫な体で、今でも、近くのスーパーにパートに出ている。
まずは、平穏無事に、第一の人生を勤め上げたといっていいだろう。あとは、悠々自適の第二の人生が待っているはずだった。
「石さん。いよいよですね。それで、我々だけ、お世話になったものだけで、ささやかな、お別れ会を開きたいのですが」
部下の保田信夫が、引き継ぎの書類を纏めている太郎のところにやってきて、そう言ったのは、四月の始めだった。翌日が最後の出勤日で、もうあさってには、太郎は、会社に出てこないでいいことになっていた。社内外へのあいさつ回りも、正月の挨拶もかねて、早々と済ましていたから、残っていた有給休暇を消化して、五月五日の定年までは、家でのんびりするつもりだった。
六十歳は、まだ、体力も知力も衰えてはいない。だから、第二の人生を考えて、子会社や関連会社に世話になったり、先輩や上司の誘いで再就職する人が多かった。しかし、太郎はそういう形の停年後の生活は送りたくなかった。まずは、ゆっくり、一年くらいは、年金を貰って暮らしながら、老後の人生を考えてみたかった。ただ、なんとなく、漠然としたアイデアは、あった。それが、まだ、具体的にどういうかたちになるかが、分からなかったが、
(生きていると実感出来ることをしたい)
と考えていた。
夫に他の同僚のように、再就職の意思がないと聞いても、妻のたな子は、なにも、言わなかった。二人の子供は独立しているのだし、長年、家庭を支えてきた太郎の労を思えば、ここは自由にさせてやろうと、考えていた。心配なのは、毎日、型通りに同じ時間にきっちりと、家を出て、真っ直ぐに家に帰っている夫が、そういう生活のリズムを失って、一日中家に居て、体を壊しはしないかという一点だった。それは、自分自身の健康についての心配でもあった。夫と毎日、顔を突き合わせているような生活はしたことがなかったから、その鬱陶しさが想像できた。実際、去年定年退職した先輩の奥さんから、
「ほんとうに、毎日家に居られると、ノイローゼになりそうよ。すこしは、家事を手伝ってくれるかと、思っていたら、ただ、ぐだぐだとしているだけなんだから。なんの役にも立ちゃしない。はやく、居なくなればいいと思うわ」
という愚痴を聞かされて、本当は、働きに出てくれればいいのに、という思いがあったが、口にはしなかった。なにしろ、身を粉にして、働き詰めで働いて、二人の子供を育て上げ、家も建て、やっと、ゴールに辿りついたのだから、その労苦を労うのが、妻として第一にすべきことだ、と考えていた。
「じゃあ、来週の金曜日に、渋谷の勝政で。奥さんもお呼びしますから、必ず、一緒に来てくださいね」
保田は、そういって、パソコンで製作した「石野太郎さんを送る会」の招待状を置いていった。それは、渋谷の豚カツ屋で、石野が大好物なのを知っている保田ならではアイデアだった。保田は、新入社員のときから、石野とコンビで顧客回りをしたいわば愛弟子だ。石野は、都内の商業高校を卒業して、この証券会社に外務員の資格で入った。最初は、歩合の契約社員だったが、業務が拡大した七〇年代に、大規模な社員登用を行い、営業社員になった。そのとき、配属された都内の営業所に、本社採用の大卒社員が新任でやってきた。会社は、ベテランの外務員とコンビで、外回りの営業に回らせ、この若い芽を育てる方針だった。石野のコンビ相手になってからの付き合いだから、保田はいまでも、頭が上がらない。入社年度は同じだが、石野が一から手を取って教えて、保田は証券営業の仕事を覚えたのだ。だが、その後の出世のスピードは、石野が各駅停車だったのに比べ、保田は超特急だった。石野との営業の仕事を二年で終えて、本社の営業統括に戻ったあと、本社の係長から、営業所の課長を数か所したあと、本社営業課長補佐へと、順調に出世し、今では、石野が課長補佐をしている第一営業部の隣にある、法人営業部の部長代理になっている。社内の階級では三ランク上に居るが、保田の石野に対する態度は、新人時代と変わらない。呼びかけには「石さん」というが、話すときは敬語だ。石野がそれを聞くたびに
「敬語は止めろよ」
と言うのだが、
「そうしようと思っても、つい、そうそうなるんです。なんたって、石さんは、僕の大師匠ですから」
とかわされてしまう。
会にはそうして、親しく、石野の薫陶を受けた、後輩たちばかりが、二十人ほど出てくるといういう。部の主宰ではない、堅苦しくない、気が合った仲間だけの会なのだという。
「あの、紀子さんも来るそうですよ」
保田は最後にそういって、にっこりと笑った。
その内輪の送別会が、行われた金曜日は、あさから快晴で、清々しい一日の始まりを予感させた。午後七時から始まった会は、やって来た連中が、三々五々、勝手にビールを継ぎあって、いつの間にか始まり、やがて昔話で盛り上がり、花束贈呈と、石野の言葉があって終わるという自然な流れで進んでいった。お偉方が正面に出て、送る言葉を述べた社内の会とは違い、肩苦しさがないのが、救いだった。それに、ランやユリの大柄の華が盛られた花束を、これも、大柄で派手な顔つきをした紀子から、送られたのも、石野には感激だった。こういう席で、ちまじました小柄な女から、菫やりんどうなどの細かい花を送られたりしたら、辛気臭くていけない。石野は、アメリカ人のように「ハッピー・リタイアメント」と叫んで、万歳をするという気持ちはなかったが、職場への哀愁より新たな人生への期待のほうが、大きかったのだ。
紀子が花束を贈るとき、司会者役に立った保田は、
「ここで、あのかつてのわれらがマドンナ、木田紀子さんから・・・・・・」
と紹介した。その通りに、紀子は、往年の美しさを失っていなかった。むしろ、年を重ねて、その美には洗練された神々しさが出てきたようだった。たしかに、ダ・ヴィンチのモナリザに似ていた。ふっくらとした輪郭に、整った眉と同心円の瞳があり、真っ直ぐに通った鼻筋の下に形のいい唇が添えられていた。昔、健康なピンク色で艶があった唇には、今日は、やや濃いめの口紅が赤みを載せていた。
「石さん、長い間、ご苦労さまでした」
紀子は、そう言ってから、抱えられない程の大きさの花束を渡し、石野の頭に腕を回して、頬に接吻した。すでにかなり、酒が回っていた石野は、さらに顔を赤らめて、ぺこりと頭を下げた。箸とお猪口を運ぶ手を休めて、二人の方を見ていた出席者たちは、その後、両手を叩いて、大きな拍手を送った。
そのあと、自分の席に座った石野に、保田と同期だが、いまは新宿の支店長をしている竜野が、
「石さん、紀子さんとのことを話してくださいよ。折角の席なんですから。これが、最後と思って」
とにじり寄ってきた。石野は、それには
「いや、話すことなんかありません。皆さんが、思っているようなことではないんです」
とだけ言って、退けた。
「それよりね、この盛り合わせに付いている、キャベツ、本当においしいですね。いままで、この店には随分通ったし、友達も連れてきたが、これほど、キャベツがおいしいと思ったことはない。いつもと違う味がするね」
石野は巧みに話題を逸らしたが、そう話しかけられた竜野たちは、一度、キャベツを口に運んでから、
「そうかな。そう言われると、そんな気もするが。いつもと、変わらないんじゃないですか」
と頭を傾げた。
「いや、おれは、豚カツは大好物だから、味覚には自信がある。豚カツはカツだけでなく、キャベツやソースと一体のものだと、思っている。さらに言えば、御飯と味噌汁も重要だ。それらが、バランスよく互いに補いあってこその豚カツ定食なんだよ。だから、どれが際立っても行けないが、退いていても行けない。特に、キャベツは大切だ。豚カツの油肉のこってりした触感を、硬めのキャベツの千切りの舌触りが緩和する。栄養的にもビタミンの補給の意味がある。カツにソースを付けてから、キャベツで包んで頬ばると、豚肉と野菜の味が一緒に口の中に広がる。それが、素晴らしいコンビネーションなんだ。そのためには、キャベツは表に立つほど甘くてはいけない。ほどほどのみずみずしさとコシの強さが必要なんだが、そういうキャベツは少ないよ。硬くて乾いていたり、しんなりとし過ぎていたり、良いものは少ない。その点、このキャベツは最高だ」
石野の長口説を、最後まで聞いていた人はいなかった。ただ、話の途中で、
「そうですか」
「なるほど」
と合槌を打っていたが、豚カツのキャベツのことに感心があるような若い男はいない。むしろ、そういうことに興味があるような者は、証券マンなどにはならないだろう。ここでも、石野は異質だった。これまでは、そういう異質な部分は、表に出さずに、むしろ隠して生きてきた。だが、足しげく、豚カツを食べに行けば、豚カツ好きは知れる。だからこそ、豚カツ屋での送別会が企画され、こうして、行われたのだった。だが、それは、石野の食物の好みであって、参加者のものではない。だから、石野が豚カツに寄せる情熱を理解するものはそこには、いなかった。ただ、独り、遠くの席に座って、大輪を開いている紀子を除いては。
その席で、石野は、定年後の暮らしの、ある指針の萌芽を感じた。それまで、朧だった老後の生きかたに、あるヒントを得たのだった。石野はかねがね、
(定年後は、やりたいことをやっていきたい)
とは思っていたが、その具体的は姿は浮かばなかった。だが、この送別会で、あのおいしいキャベツを口にしてから、ある姿が浮かんだ。それは、翌日から、徐々に大きくなり、輪郭と色彩を帯びてきた。
石野は、翌日からのんびりと、自由な時間を過ごす積もりだったが、日に日に大きくなる頭の中の像に押されるように、一週間後に、再び、勝政を訪ねた。
客の入口でなく、裏の調理場に直接回って、来意を告げると、奥から板前頭が出てきた。
「ええ、家で使っているキャベツの産地を知りたいって。面白い人がいるもんだな。とはいえ、こちとらはそういうお客さんを待っていたんだ。苦労して仕入れた甲斐があったというもんだぜ」
頭にしたいなせな手拭いの鉢巻きを外しながら、体の大きい、丸顔の若い板長は言った。若いといっても、石野に比べてで、既に四十歳は過ぎている。
「はい、是非、教えて欲しいんです。余りにおいしかったし、他の店では味わえない様な気がしたので」
石野は真剣な表情で訴えた。
「でもね、あれは、滅多に手に入らないよ。こっちが欲しいと言っても、簡単には手に入らない。何しろ、八百屋にも市場にも出てこないんだから」
「すると、いわゆる、産直ですか」
「まあ、はやりの言い方ならそうかもね。でも、いわゆる産直なら、注文すれば持ってくるだろう。そうじゃないんだ」
「では、どうやって]
「売りに来るんだよ、たまにね。出来がいい時だけ、持ってくるみたいだ」
「どんなかたが」
「年寄りだ。名前は知らない。ただ、試食してみたら、上手かったんで、買った。だから、うちの店でいつでも使っているわけではない。手に入った時だけなんだよ」
「すると、その時は運が良いわけだ」
「好きな人にはね。でも、食べ物は好き好きだから、嫌いな人もいる。いつもと違うじゃないか、というお客さんもいるから」
これでは、取りつく島もない。石野はさらに
「何処から来るんですかね」
と聞いてみた。
「詳しくは知らないが。軽のトラックでくるから、そう遠くじゃないだろうな。その親父、いろいろ聞いても、言いたがらないんだ。うちは、品物さえよければ、それでいいんだし、どうしても、というわけじゃないからね。値段が安くて、そこそこの物なら、買うよ。八百屋に頼む手間も省けるしね。まあ、そんなところだ」
板前は、そろそろいいだろう、という仕種で、中に戻っていった。
こうなると、きっかけがない。だが、石野は、どうしてもその産地を知り、その生産者を知りたかった。石野の気持ちは決まっていた。
(こういうキャベツを、自分で作ってみたい)
それを、人生の最後の目標にすると決めたのだ。
そして、相手が分からなければ、待てばいいのだ、と考えついた。一週間でも、一ヵ月でも待てばいい。どうせ、来るのは朝方だろう。こっちは、幾らでも時間があるのだ。朝から、この勝手口で待てばいい。そうすれば、いつか、その農夫は現れる。幸い、勝政の向かいには、小さな喫茶店があった。その店でモーニング・コーヒーでも飲みながら、待てばいい。そう決心して、石野の行動予定は定まった。
それから毎日、石野は喫茶店の開店を待って、店に入り、向かいの勝手口を見張った。四日目に勝手口の前の露地に、三輪の軽トラックが停まるのが見えた。薄緑色のペンキが禿げかかっているミゼットから、白髪の小柄な老人が降りてきて、中に入っていった。石野は、
(間違いない)
と直感して、喫茶店を飛びだし、老人が出てくるのを待っていた。
暫くして、老人は出てくると、後ろの荷台に回り、小型のダンボール箱を二箱抱えて、店に入っていった。その作業を石野は少し、遠くで見ていた。ダンボール箱からは、一部の積み荷の頭が見えていた。それは、間違いなくキャベツだった。
老人が、また、出てきたとき、石野は思い切って、声を掛けた。
「あの、すみませんが」
ミゼットの運転席に戻って行こうとした老人は、振り返って、立ち止まった。
「なんでしょう」
「こちらのキャベツの件で、すこし伺いたいことがあるんです」
「ええ、キャベツがどうかしましたか」
「いえ、この店で食べて、余りにおいしかったものですから」
「そうですか。味には自信がありますよ」
老人はそのとき、少し胸を張った。
「それで、私も、作ってみたいと思いまして」
「作る? ああ、栽培してみたいというのですね」
「そうです」
「止めたほうがいいでしょう。無理ですね。お見掛けしたところ、百姓はしたことが無いようだし」
老人は、石野を全身をしげしげと見回した。確かに、背格好は普通人並みだが、痩せ作りの石野はひ弱に見えた。実は、病気一つしたこともないくらい体には自信があった。会社勤めで休んだのは、両親が死んだときの二回だけだ。有給休暇はほとんど使わないで来た。いま、その残った有給のほんの少しを消化しているのだ。
「いや、でも、したいんですよ。とくにこのキャベツを作ってみたい、そう考えているんです」
「でも、容易ではないですよ。考えるほど簡単ではない。それに、これは八百屋で売っている普通のキャベツとは違うんです。特別な育てかたをしている。だから、味も違うんです。総てが違う。気持ちで育てているんですから」
「気持ちなら、あります。やってみたいんですよ」
「気持ちと言ったって、生半可な気持ちでは出来ません。特別な気持ち。これが肝心なんです」
老人は、頑に石野の申し出を拒否した。
「では、せめて、お所とお名前だけでも教えてくれますせんか」
「ああ、私のね。けちな人間ですから、人に名乗る程の者ではないが、まま、いいでしょう」
老人は、石野に名前と住所を名乗った。
「はい、寺岡善次さんですか、それで、住所は、神奈川県の大和市ね」
石野はそれを手帳にメモした。電話番号も知りたかったが、それは、トラックの脇に書かれた「人間牧場」という字の下に書いてあった番号だろうと思って、そちらを写しておいた。
「そのうち、お伺いするかも知れませんので。どうしても、作りたいので、教えて欲しいんです」
「珍しい方だな。作ったって儲けにはなりませんよ。それに、本当に複雑なんだ。こいつを育てるのは。面倒が掛かりすぎて、皆、手を引いたんだが、俺だけが細々とやっている。これも、世間様のためさ。自分のことを考えていたら、とてもやっていけないよ。儲け抜きでやりたいというのなら、教えてやってもいいよ。本当に儲けにはならないんだ。それにしても、殊勝な人がいたものだ」
寺岡老人は、軽トラックの運転席に乗り込んで、石野に手を振りながら、アクセルを踏みこんだ。
石野は、とにかく、生産者に会えただけでも、満足だった。次は、現地に行って、栽培の様子を見てみたい。どのくらいの敷地で、どう栽培をするのか。それを確かめて、自分にもできるかどうか、調べるのだ。そういう手続きは、石野は慣れている。慎重に事を運べば、物事は、希望どおりになっていく。それが、六十歳の人生を生きてきた熟年男の判断だった。
翌日、石野は教えられた寺岡の住所に出掛けていった。その土地は、横浜で相模鉄道という私鉄に乗り換えて、大和という駅で降りる。そこから、さらに西に進んで、五キロほどの住宅地の中だった。不思議な場所だった。石野が驚いたのは、目の前に大きな飛行場が迫っていたことだ。背の高さほどのフェンスに囲まれて、その飛行場は遙か彼方まで、敷地を伸ばし、その果ては見えなかった。遠くに芥子粒ほどの大きさで、両翼を広く伸ばした飛行機が三機並んで見えた。フェンスのすぐ手前に、小さな二階建ての家があり、それが、寺岡老人が教えてくれた住所だと、乗ってきたタクシーの運転手は言った。石野は、車から降りて、外に出た。その瞬間、耳を轟音がつんざいた。目の前の滑走路を、大きな鯨のような輸送機が飛び立っていくところだった。音はそれだけではない。足元からも、間断なく、ドーという連続音が聞こえてくる。それは、地の底からわき上がってくる、腹に響く音響だった。
石野は、寺岡の家に入っていく前に、その地底からわき上がる音の元を探りたくなった。空の轟音は、機影が遠ざかるに従って、消えていたから、足元の音だけを探ればよかった。それは、フェンスの途切れる辺りから、聞こえて来た、石野はそちらに歩いていった。滑走路の終端を横切っている道路が見えた。その道を横切っていくと、向こうに先程の相模鉄道の線路があった。滑走路の下はトンネルになっている。電車が通るその時だけ、鉄が擦り会う金属音が聞こえた。地の底の音はその先からやって来る。石野がその方を眺めると、そこには、片側三車線の高速道路が走っていた。地表を掘り下げて作ってあるため、底の道を走る車の走行音が、籠もって、反射し、あの轟音を発していたのだ。石野は納得したが、その地区が、このように騒音の入り交じった酷い環境の所だと分かって、あのキャベツの味との格差が信じられない思いだった。
石野は、あのような鮮烈な味のキャベツは、もっと綺麗な空気の抜けるような青空の見える高原で出来るという先入観があった。たとえば、清里とか野辺山高原のような清冷な高原を思い浮かべていた。だが、この場所は、あまりにも、予想とかけ離れていた。
(だが、キャベツに耳があるわけではない)
と思いなおして、石野は引き返し、寺岡の家の玄関に立った。
「やはり、ほんとうに、お出でになりましたか。あなたの真剣な眼差しから、きっと、お出でになられると思っていましたよ」
寺岡老人は石野を迎えて、背筋を真っ直ぐに伸ばしながら、そう言った。
「誠に恐縮です。思い余って、やって来ました。どうしても、あのキャベツを作ってみたくてね。お願いします」
「そこまで、気持ちを決めて来られたのに、駄目とは言えませんな。ご案内しますよ」
寺岡老人は、麦藁帽を被って、外に出てきた。庭に停めてあった軽トラックの方に石野を導き、助手席に乗るように言った。
「畑は、そう遠くはありませんが、歩いていくのは面倒なんです。近くを走るのには、こいつが一番ですわ」
石野が乗ったのを確かめると、老人は器用にハンドルを手繰り、車を門から道路に進めていった。
畑は、老人の言葉どおりに、近かった。延々とフェンスが続くのを追いかけるように進んでいった先に、その畑はあった。ということは、老人の家と同じく、畑も基地の滑走路に沿っているということだ。先程の三機の飛行機の影が、やや、大きくなっていたから、管制塔や格納庫がある中心部にすこし、近寄ったらしい。
「ここですよ」
寺岡老人が軽トラックを停めて、畑の縁に立った。
「広いですね」
石野は遙かに続くキャベツ畑を見渡しながら、言った。畑は滑走路に沿って、あの三機の輸送機が停まっている辺りまで続いていた。
「大体、五十ヘクタール位ありますかね。最初はこの半分くらいだったが、農家が離農するのを引き受けて、耕していますから。私の所有地は三分の一くらいだ」
「小作をしているんですか」
「いや、戦前のような小作じゃありません。家も戦前は小作農家で、苦労したが、今は、耕してくれるだけでいい、というのです。この辺の農家は、もう農業なんかやっていません。貸家を作って貸していたり、大手のスーパーやディスカウントストアに土地を貸して生きている。子供たちは、殆どが勤め人ですから。ほんとうの気持ち程度の地代は払っていますがね。どうせ、いつかは、宅地になってしまう。皆、相続税を払えないで手放すんですよ」
「じゃあ、こんな広さがあるのは奇跡ですね」
「まあ、そういう事もできますか。とにかく、繋がったまま耕作地として、利用されているのは、珍しいでしょうな。でも、今のうちですよ。こうして、キャベツを作っていられるのは」
石野は、畑に入ってみた。彼は、どこでもキャベツ畑のキャベツは、殆ど同じくらいの大きさになっていると、想像していたが、ここでは、違った。畝ごとに大きさも色も違うキャベツが、並んでいるのだ。同じ畝の中でも大きさが違うものがある。以前、長野の川上村で見たレタス畑には、見事に大きさや形が揃ったレタスが黒いビニールシートの下に首を揃えていたから、この光景は意外だった。緑や黄色や黄緑色や白黄色や淡白色の斑が、巨大な綴れ織りの敷物のように広がっていた。
「随分、不揃いなんですね」
石野の問いに、寺岡老人は、
「それでいいんです。家は、ほとんど手を掛けていない。やつらは勝手に生えてきて、勝手に育っている。私がするのは、生えたキャベツを収穫するだけなんです。まったく、手は掛からない。だから、やっているんですよ。でも、切り落とすときは、嫌な思いですが。手を掛けて大きくしたのなら、収穫も楽しいでしょうが、こいつらは、そうじゃない。勝手に育っているのを、私が首をちょん切ってやるんです。その時は、特別に気を入れないといけないが、あまり、楽しいものじゃない」
石野はその言葉は意外だった。農家は収穫の時が一番楽しいのではないか。丹精込めて作った作物を、採ってきて、売りに出す。そのときが、一番活気があり、充実感を感じる時なのではないかと、考えていたが、寺岡老人はそうではないという。
「じゃあ、何もしないで、これらは育ってきたんですか」
石野は突っ込んで聞いた。
「そう、わしは何もしない。だから、あなたに教えることなんか、本当は何もないんだよ」
老人は平然と言い放った。
石野は分けが分からなくなった。
「ちょっと、その当たりを、詳しく聞かせてください」
「いや、その前に、あなたに言っておきたいことがある。全く何もしないわけじゃない。ただ、こいつらは、昼間は何もしない。生長もしない。ただ、黙って地面にへばりついている。だが、わしが気が付いて、栽培の秘密にしているのは、夜だ。夜になると、こいつらは動く。動くだけでなく大きくなる。育つんだ。その時が肝心なんだ。変な育ちかたをしないように、よく監視して、導いてやらないと行けない。そうしないと、やつらは、死ぬ」
「死ぬんですか」
「そう、疲れ切って死ぬんだ、だから、夜が忙しい。それが、わしが編み出した栽培法だ。これまでは、教えてくれと言ってきた者はいないから、誰にも話してはいないが、それが、わしのキャベツ作りの秘密と言えば、一つの秘密だ」
「すると、夜まで待たないと、教えてはもらえないんですね」
「そうだ。わしがやることを見たいんだったら、夜まで待つんだな。だが、それを見たからといって、同じキャベツは作れないよ。それは、覚悟しておいてくれ」
石野はそう言われて、
「はい、分かりました」
とは、答えたのもの、狐に摘まれた思いだった。だが、夜になれば、老人は秘密を見せるという。そう言ったということは、石野が見ていてもいいということだろう、と判断して、夜を明かす覚悟をした。
それに、
「それを見たからといって、同じキャベツは作れない」
と老人は言う、それなら、夜を付き合っても、意味がないのだろうか。だが、老人は、「帰れ」とは言っていないのだ。
「では、夜まで付き合わさせていただきます」
石野が言うと、老人は、黙って頷き、煙草を取り出して、一服つけた。
「夜までには、時間がある。家に帰って、すこし、話でもしようか」
老人は煙草を上手そうに、吸い込みながら、石野を誘った。
老人は二階建ての家に独りで暮らしていた。結婚して子供もいたが、子供たちは独立して、家を出ていき、長年連れ添った妻も、三年前にガンで亡くした、という。
「三年も、独り暮らしを続けていると、これが、なかなか、気楽でいいんだ。この年になっちゃあ、もう再婚は考えない。キャベツ畑も、俺が死んだらお終いというわけさ」
そう言いながら、一升瓶を抱えてきて、紺地に白い水玉模様が入っている茶碗を二個、ちゃぶ台に置いた。
「肴はキャベツだ。今朝取ったばかりだから、うまいよ」
酒を茶碗に注いだあと、キャベツを一個、丸のまま皿に盛ってきた。
「こいつを一枚ずつ、はぎ取りながら、齧るんだ。これが、なかなか、冷酒には会う。だれもこんなことはやらんだろうが、まあ、騙されたと思って、思い切ってやってみたまえ」
老人はもぎったキャベツの葉に味塩を振って、端から齧り、酒を一杯飲んだ。石野はそれに習って、同じように、一枚葉をもぎ取り、塩を振って、齧ってみた。確かに、豚カツに付いていたキャベツと同じ味がした。酒は辛口だった。一升瓶のラベルを見ると、山形県の地酒「桜川」という毛筆体の大きな字が見えた。
酔うほどに、身の上話と昔の思い出が出てくるのは、お互いに年を取った男同士だからかもしれないが、石野は、久し振りに、心置きなく胸の内にあることを吐きだせる相手に出会った気がしていた。
「わしが、ここでなぜ、キャベツを作っているか、あんたは、不思議でならないだろう。あんたの疑問は、俺という男と、この土地と、あのキャベツの様子と、いろいろとあるだろうが、こうして、二人で上手い酒を飲んでいるのだから、まず、わしということについて、話そう。あんたのことは聞かなくても分かる。誰が見ても都会の会社に勤めるサラリーマンだもんな。しかも、お金を扱う商売だ。それは、あんたの顔に書いてある。姿だけじゃなくて、顔つきから分かるよ。人の顔は職業を表しているからね。だが、あんたは、わしのことは見当が付かんだろう。百姓の姿をしているが、昔の百姓の顔つきじゃないしね。それに、そう日焼けしてもいないし、手が農夫の手じゃないと思っているじゃろう。だが、今の農民の手なんて、こんなもんだよ。すべて機械が働いてくれるんだから、農夫の手は綺麗になったんだ」
「でも私に比べたら、やはりごついですよ」
「まあ、そうかもしれん。わしも考えれば、戦後はずっと、この畑を守ってきたんだから、それなりに、いかつい手にはなった。だが、わしがあの畑に行って、やることは収穫くらいだ。あと、夜の世話と」
「その夜の世話というのは」
「それは、あとで、見れば分かる。それより、わしが、なぜ、ここでキャベツを作りつづけているかに、興味はないのか」
「たしかに、興味がありますよ」
ここで、老人は、コップの酒を飲み干した。石野は瓶から酒を注いで、次の話を待った。
「あのキャベツどもは、勝手に育つ。勝手に育つと、身が緩む。だから、身を引き締めるために、監視がいるんだ」
老人の目が座った。迫力のある眼光を、石野に向けた、石野は、目を逸らせて、酒を一口煽った。
「わしは、肥料もやらない。一日に一回だけ、水をやる。それも夜中にな。わしが、やるのは、それくらいだ。ああ、あと、特別の肥料はやるが、少量だ」
「特別のというと」
「それは、まだ、秘密だ。わしが話すことを理解し、わしがすることに納得が行ったら、教えてもいいが」
「なぜ、肥料をやらずに育つんです」
石野は真っ直ぐ、老人の目を見ながら聞いた。老人はその問いを待っていたように、眼光を鋭くした。
「やつらは、自分で栄養を吸収するんだ」
「自分でというと」
「栄養分を、自分で土の中から探してきて、それを吸う」
「その栄養は与えないと行けないのでしょう」
「それが、そうしなくてもいい。それが、あの土地なんだよ。だから、わしは、この土地を守ってきた。特別の場所なんだ、ここは」
老人の目が遠くを見る様子になった。
外は段々と、暮れなずんできていた。心地よい風が、開け放した雨戸から吹き込んで、酔って上気した肌に心地よい。石野は時間の経つのを忘れて、老人の話に耳をそばだてた。
ーー あれは、戦争が終わる真近の時じゃった。ここの飛行場には、若い少年航空兵が、大勢配属されていたんだが、みんな、最後まで戦うとの意気が盛んだった。海軍の飛行機は、もうほとんどが使えない状態だったが、少年たちは残された戦闘機を大事に整備して、毎日、訓練していたんだ。わしも、その一人だった。そろそろ、戦がおわりそうだという肌の感触はあったが、神国がそう簡単には、負けるわけがない。必ず、神風が吹くと、思っていたやつらもいた。わしは、出ていった先輩たちが、段々、帰らなくなったんで、駄目じゃないかとは、感じていたよ。だが、そんなことは、口に出して言えない。でも、徐々に情勢が悪くなってくると、だれともなく、「おれは、最後まで戦う。お国の守りの楯となる」と言いはじめるものも、出てきた。だから、陛下の玉音放送を聞いてからが、大変だった。上官たちの制止を振り切って、本土決戦も辞さずという決戦派が台頭して、決死隊が結成されたんだ。彼らは、航空隊司令部の本棟に立てこもって、籠城した。国はポツダム宣言を受諾して、武装解除して降伏しることになっていたから、これは異常事態だ。上層部は、憲兵隊を動員して、制圧することにした。わしの親父は憲兵隊員だったから、わしら親子は敵味方になって、相対したんだーー。
老人の話は、続いていた、だが、石野は、昼からの酒が聞いて、すっかり、眠くなってきた。庭に舞っていたシジミ蝶が、迷い込んで、ちゃぶ台に放り出したお猪口の上を舞っていた。石野のお猪口に酒は満たされていたが、丸抱え一つ分のキャベツは、もう芯だけになっていた。石野は単調なリズムの老人の話を、子守歌のように聞いては、いたが、その内容の重大さには、気が付かなかった。老人は、戦争は簡単には終わらなかったのだ、と言っているらしい。
ーー われわれ少年兵の決意は堅かった。なにしろ、戦争中は国のために命を捨てることなど、当たり前に思うように教育されていたんだ。そうやってわしらは、育ってきた。だから、人一人の命に対する敬意より、戦争に負けて、国が亡くなる恐れの方が強かったんだ。それなのに、大人たちの変わり身は早かった。それまでは、鬼畜米英なんて、言っていたのが、武装解除で全面降伏に従うというのだから、わしたちは混乱もしていた。そう簡単に頭の中を変えられない年代だったからねーー。
蝶々はしばらく、部屋のなかを舞ったあと、裏の台所の方に出ていった。石野の意識は、ますます、朦朧としてきた。この老人は、戦争を戦い続けたいと言っていた少年の一人なのだったと言っているらしい。僕はまだ八歳だったから、何も分からない。ただ、空襲や空腹がこれで、なくなるんだ、という思いだけが、終戦の思い出だ。三月の空襲で東京が焼け野原になって、石原の一家は、東北地方の農村に疎開していた。父親は兵隊に取られていたから、母と、姉と兄との四人で、母の実家の親戚の納屋で暮らしていた。食べ物は比較的手に入ったが、それも、段々、枯渇するようになってきて、ただ、戦争が終わるのを願いながら、生きていた。
ーー 建物に閉じこもって、二日過ぎた。われわれは、最後まで戦う積もりだった。手榴弾を体に巻いて、機関銃を手にしての籠城は、夏の最中だけに栄養不足の体にはきつかった。われわれは、だが、戦意だけは失わなかった。三日目の夕方、わしは、建物の周囲が、戦車や残っていた戦闘機や無数の地雷で埋め尽くされているのを見つけた。徹夜の歩哨に立っていて、疲れで寝過ごした。その夜の間に、大人たちは、そういう装備を集めて、包囲していたんだ。わしは、これはだめだとそのとき思った。大人たちはやる気なんだ。どうしても、国内を平穏に保って、この国をアメリカに明け渡す積もりなんだ。その決意は硬いんだ、と初めて、その構えを見て、思い知らされた。わしは、逃げることにした。まだ、朝は早かったから、薄暮にまみれて、わしは、武器を放り出して、裸足で逃げた。幸い、家は近い。このフェンスはそのころは木の杭で出来ていた。杭に渡したバラ線を飛び越えようとして、足を引っかけた、刺が肌に刺さって血が出た。その血の生暖かさを手で感じた。そのとき、やはり、人間は生きているときは、暖かいんだと、実感した。わしは、一目散で家に駆け込み、畳に倒れこんで眠ってしまったーー。
石野は堪えきれなくなって、畳の上に倒れた。左を下にして、コトンと達磨が倒れるように、崩れ落ちた。だが、達磨と違って、すぐには起き上がれなかった。石野は、横になりながら、耳では、老人のまだ、続く話を聞いている。老人の語調は変わらない。依然として、ちょびりちょびり、酒を啜りながら、単調な語りを続けている。もう、キャベツはないはずなのに、時折、上手そうに、口をもぐもぐさせる。
ーー 朝まで寝ていたらしい。回りが明るくなってきたので、自然に目が覚めた。親父が顔を覗き込んでいた。わしは、目を開けた瞬間、びっくり仰天して、飛び上がりそうだった。「あい、みんな死んだぞ。お前逃げたのか」、ただ、それだけ言って、わしの体を抱いたんだ。わしは、憲兵隊の親父に見つかって、もう駄目だと思っていた。脱走兵は銃殺だと聞かされていたから、これは、殺されると思った。たとえ、父親でも、あれだけ、国民に厳格な規律を求めてきた憲兵なんだから、子供でも殺すと、恐れていた、だがおやじは、わしを全身で抱き抱えていた。やせ細った胸の骨が頬に当たって痛かったが、わしは、そのままじっとしていた。それで、わしは、戦争が終わるというのはこう言うことなんだ、と体で納得したんだよーー。
石野には声だけが聞こえる。体が熱くなり、畳の冷たい感触が心地いい。老人の父親の胸も、同じように熱かったのだろうか、と石野は思っていた。
ーー 親父の胸に抱えられることは、それまでには一度もなかったことだ。なにしろ、親父はもと警官だったから、そんな甘酸っぱいことなんか、出来るはずがなかったんだ。親父は抱きながら、「みんな、死んだ」と繰り返した。そのみんなというのは、籠城していた少年兵のことだと、すぐに分かった。「誰に殺されたんだ」とわしは反射的に聞いた。「それは・・・・」親父は答えなかった。それで、すぐに、分かった。あの戦闘機などの機銃が火を噴いたのだ。最後まで本土決戦に備えて、綺麗に整備を怠らなかった飛行機が、自分たちに向けられるとは、だれも想像していなかった。だが、そうなったのだ。「なんで、殺したんだ」とわしは、親父の胸から飛びのいて、叫んだ。親父は黙っていた。そして、「後始末をしないといけない」と呟いて、出ていった。あとで、死体は、あのフェンスの横の土地に、穴を掘って埋められたと聞いた。おれは、見ていないが、そういう噂だ。お国の方針に歯向かった逆族だし、人手がないから、一々、焼いて骨にしたり、埋葬していられない。まとめて、掘った穴に投げ込んで、家族には戦地で死んだと通知したんだという。確かにその夜から、わしは、あの場所で炎を見た。まる一日、空を焦がすような火の手が上がり、あの一帯は燃えつづけていた。わしは、まだ、仲間が焼かれる炎だとは知らなかった。敵や誰かに見られては困る書類や備品なんかを焼いているのだと思っていた。確かにそれも、混じっていたらしい。だが、匂いもした。それが、いい匂いなんだ。航空機に使うガソリンがまだ、かなり備蓄されていた、そのガソリンが燃えるときの、頭がすっきりするような鼻を刺す匂いがした。それは、死体が燃えるときの異臭を消すためだったんだーー。
石野はそこまで聞いて、後は覚えていない。寝てしまったのだ。覚えているのは、その眠りの中で、見たと思われる、夢のことだけである。
石野は、白い顔をした丸顔の女性に、抱き抱えられていた。周囲は闇だったが、時折、瞬間的に明るくなる。その明るさが余りに輝かしいので、目を開けたとき、面前にその顔が現れたのだ。
「もう大丈夫だよ。助かったんだよ」
女はそう言って笑っていた。
「僕、助かったんだね」
やっと、そう答えただけで、石野はまた、意識を失った。
夢はそれだけだ。女の顔は、母に似ている感じがしたが、必ずしもそうではない。もっと似ているひとがいた。木田紀子の顔だった。
「そろそろ、行くかい」
意識が戻りつつある石野の耳に、寺岡老人の声が聞こえた。目を開けると、老人は、既に出掛ける身支度を終えて、家のなかの電気を消しているところだった。石野は跳ね上がり、皺になった着衣を直し、立ち上がった。
外に出ると、トラックの荷台に小型のタンクが載せられていた。ステンレスで出来たそのタンクは、牛乳輸送のトラックが載せているタンクの小型版だった。月が出ていて、タンクを薄い光で照らしていた。
「こっちに乗ってくれ」
老人は既に運転席に座っていた。石野はその横に座って、腕時計を見た。ディジタル時計の小さなボタンを押して、照明を当てると、19:33の字が読み取れた。二時間ほど寝ていたらしい。
トラックは昼間通ったと同じ道を行った。ただ少し印象が違う。薄い月明かりを受けたキャベツ畑は、昼間はぼろ布をまき散らしたような殺伐とした風景を見せていたのに今は、一面に青白く広がって、静かだった。石野はその光景を何処かで見たような気がした。デジャブ(既視体験)だ。それは、少年のころ見た風景だった。
「僕、助かったんだね」
と答えた意識を失った石野は、その夜、筵の小屋で目を覚ました。母が付き添っていたのに、その時は寝ていた。石野の横で肘を下にして、規則的な寝息を立てていた。石野は静かに起き上がり、外に出た。空に月が出ていた。石野は小高い岡のようになったその掘立て小屋のある場所から、はるか彼方に広がる街の風景を見た。くすぶる煙が所々に上がっていた。そこに街はなく、焼け落ちた瓦礫の重なりが、青白く光っていた。月明かりが、その場を支配していた。
(あれと同じだ)
同じ風景に思い当たったが、石野は何も言わなかった。記憶の極片隅に仕舞い込まれた思い出を、口に出してしまいたくはなかったのだ。
「さあ、着いた。降りましょう」
老人は石野を促した。昼間来た辺りで、二人は車を降りた。
老人は運転席に置いたダンボール箱から、大きな眼鏡のような機器を取り出した。
「これを掛けてみな」
老人が石野に渡したその機器は、老人の説明では、赤外線を利用した暗視装置なのだという。石野は、手にとって、目に当てた。
「どうだ。明るく輝いている所と暗く沈んだ所があるだろう」
確かに、明るい所とそうでない所がある。
「その明るい所が、生命活動が活発なところだ。熱線を出している。その部分が、生き生きとしている、ということだな」
「こうやって、見分けて、なんになるんですか」
「明るいところのキャベツが生きがいいということだろう、そのキャベツを収穫するんだよ」
「じゃあ、暗いところのは」
「そこには、水を掛ける。トラックに、積んできた水だ。だが、ただの水だけというわけではないがね」
それが、老人の栽培の秘密らしい。
「これから、収穫に行くが、その眼鏡を付けたまま近寄ると、驚くものが見えるかもしれない。お楽しみと言うわけだ。今夜は、その眼鏡はあんたに任せる。どれが収穫できるか言ってくれ。一番輝いているのが、今夜の目標だ。せいぜい、五つくらいだろう」
石野は眼鏡を掛けたまま、頭を左右に振った。どこにその目標があるのか、全体を見渡してみる積もりだった。広い畑をサーチしてみると、光っているのは、基地と接したフェンス際のキャベツが多いようだった。昼間に、老人が立っていた辺りが、纏まって明るく輝いている。この分なら、その辺りだけを探れば、今夜の収穫は終わりに出来そうだった。
「あの辺りですよ」
石野が指差すと、老人は、
「今夜もあそこか。やっぱりな。なかなか、平均的にならない」
と呟きながら、そちらに向かった。石野もあとに従った。光が集まっている所は、近づいていくと、眼鏡の中で徐々に分裂し、五つの円形に分裂した。老人が言ったとおりだ。 畝を横に進み、光の固まりの上に来た。光はさらに分裂し、一際明るい部分が、線状になって、輪郭と描線に変化した。石野は円形の輝きの中に、人の顔が浮かび上がってくるのを見ていた。
「おや、キャベツが人の顔に見えますよ」
驚きの声を上げた石野を振り向いて、老人は、
「そうだろう。それだよ。やつらは、笑っているかい」
「笑い顔のやつと、むっつりしたのといろいろいるようですね」
「誰かに似ていないかい」
石野はそう言われて、もう一度、じっと見てみた。たしかに、誰かに似ている。人の顔ならだれでも、一人ぐらい似ているはずだから、それは、おかしいことではない。
「似ているでしょうね。確かに」
「その一番端のやつは誰に似ている」
石野は促されて、さらにじっくりと見てみた。それは、よく新聞で見かける顔つきだった。もう、相当前に世間を騒がした、政官界を巻き込んだ贈収賄事件で、有罪になった元首相の顔だった。
「中田元総理ですね」
「そうかい。今日は、政治家か。今夜の収穫物は、いい方だな。多分。出来がいい」
老人はそのとき、欠けた前歯を見せて笑った。月明かりが、その黄ばんだ歯をきらり光らせた。
「このなたで首を切るんだ」
老人は、腰の紐に付けてきたなたを手にして、土の上の生え際をぐさりと切った。切り口から、液体が滴り落ちている。眼鏡で見たその液体は、赤く光っていたから、石野は驚愕した。生首を切られたときに、頭の血液がこういうふうに、したたり落ちるのではないかと、思ったのだ。石野は眼鏡を外して、その部分を肉眼で見たが、薄明かりのなかで、白い雫がしたたっていただけだった。
「ほら、こんなに瑞々しい、良くできたキャベツだ」
老人は収穫物を高々と掲げ、石野に見せた。確かに、見た目にも葉の張りよく、食べたとき歯応えが良さそうは、新鮮なキャベツだった。
「葉の密度も揃っている。隙間が殆どないくらい詰まっている。いい出来だよ。栄養を存分に吸って、見事に育っている」
「その栄養ですが、あのタンクに入っているで十分なのですか」
「いや、あれはカンフル剤のようなもので、発育不全のキャベツにやる。あんたの眼鏡で暗かったやつにね。こいつらは、勝手に養分を吸って育っている。それが、分かったのは、でも、キャベツが生えだしてから、二年目だ、一年目は肥料をやって失敗した」
「その勝手に、養分を取るというのは、どういうことです」
「勝手に取るという言い方は間違っているかもしれない。この土地には、地下から栄養が流れてくるんだよ。あっちからね」
老人はフェンスの中を指差した。そして、
「地下に埋まった人たちの命の水を吸って育ったのが、こいつらだ」
と吐き捨てるように言った。
(そうか、昨日の夕方、老人が話した話が、このキャベツ栽培では重要なポイントなのだ)
と石野はそのとき、理解した。終戦を前に無念の死を遂げて、あそに埋められた若者たちの命が、このキャベツには吹き込まれている。だから、あのように瑞々しく、爽やかな食感があるのだろう。
「こいつは、何に見える」
老人が二つ目を切り取った。最初のキャベツの横に並んでいた奴だ。それは、同じ事件で贈賄側で捕まった航空会社の社長に似ていた。
「そうかい、じゃあ、これは」
老人は三つ目を採った。それは、やはり、贈賄側の商社の会長に似ていた。どうも、この場所は、世間を騒がせた有名な航空機輸入汚職事件の関係者の並んだ一角らしい。
五つの首キャベツを総て採りおえた老人は、
「こいつらは、本当は向こう側にいっていてしかるべきやつらだが、こっち側で生き延びた。しかも、殺されて埋められた者たちの犠牲の上に立って、彼らが残した生気を吸って育ったんだ。ここに生えているキャベツはみな、同じようなものだ。戦争の犠牲者たちの残した遺物を食って、育ってきた。だからこいつらを観察していると、わしらの国の姿がよくわかるんじゃ」
と強い声でいった。頬の皺が引きつり、額の汗が光っていた。大声ではなかったが、怒りの毒が、込められた押し出すような声だった。
闇に目が慣れて、遠くを見はるかすと、眼鏡を掛けずとも、青白く光る一角が見えた。アルコールを燃やした時の炎のように薄く青白い燐光が、燃えていた。
「あの一角はなんですか」
石野が指差すと、老人は、
「ああ、あそこは、一番最近生えだした場所だよ。だから、成長が活発で、眼鏡を使わなくても、肉眼でみえるのだ」
「あそこの栄養も、あなたが言った兵隊たちの栄養を吸っているんですか」
「いや、あそこは遠すぎる。あそこの脇のフェンスの中の敷地には、朝鮮戦争やヴェトナム戦争で前線から運ばれた廃棄物が埋まっている。それが、どんな物かは、わしは知らないが、土の中で分解されて、栄養になるものもあるんだろうよ」
老人の答えは、単純だが、正確だ。知らないことは、ハッキリと、知らないというのが心地いい。それが、彼の言葉に信頼を感じさせた。
(そうか、この基地は、そういう周辺有事の際にも使われていたんだ。事があれば、いつでも、活用されるというわけなんだ)
「青白く光っているのはなぜです」
石野はそう質問したが、老人は答えず、代わりに、
「終戦直後に、国内で起きた事件の被害者もいるかもしれない」
と呟いた。
「わしの姉のようにな」
そう続けた老人は、独白を始めた。刈り取った五個のキャベツをトラックに積みながらの独り言だった。両手でやっと抱えられる大きさのキャベツを二人で三回、往復しながら、トラックに積み込むと、老人は、
「そろそろ、一休みするべえ。今夜の収穫は、これでおしまいだ。あとは、成長不足の奴に、こいつを掛けるだけだ」
荷台のタンクを叩いて、老人は笑った。そして、荷台の横に身を持たれさせて、話しだした。石野は老人の横に立ちながら、その話に聞き耳を立てた。
「おい、石さんよ、あんたは、マクワウリというのを知っているかい」
老人は突然、聞いてきた。
「はい、戦後はよく食べましたよ。白い身で、匂いは強いが、そう旨いもんじゃなかった」
「細長い楕円のウリで、表面に縞模様があったやつだな。猪の子供をウリンコというべえ。あれは、模様が似ているせいだ」
「あの縦長の模様ですね」
石野は、夏になると母が、台所でこのウリを剥いている姿を思い出した。
「この畑は、戦後は、ウリ畑だった。ところで、あのウリの関東での産地は東京の府中市だ。なぜ、府中が産地になったかというとだな、権現様の大好物だったからだ」
「権現様、というと、徳川家康ですか」
「そうだ。家康は江戸入城後も、駿河で食べていたマクワウリが、忘れられなかった。それで、駿河からウリ作りの農家を江戸に呼んで、栽培させた。その地に選ばれたのが、水利がよかった府中と言うわけだ」
「いまは、見ませんね」
「マスクメロンに押されて、すっかり姿を消したな。そううまいもんじゃなかったからな。いまじゃ、栃木の農家が細々と、種取りだけのために栽培している。種を絶やさないためだかにね」
「全滅ですか」
「いや、作る気になれば、その種を使えばいいんだ。だが、もう作る人はいまい」
「ここでのウリ作りを止めて、キャベツ畑にしたのも、同じ理由ですか」
石野がそう聞くと、老人は、鋭く否定した。
「そうじゃないんだ。それをいま、話そうとしていたんだ」
石野は黙りこくった。
「戦後の昭和二十三年くらいだな。この畑はマクワウリ畑だった。みんな、マクワウリを作っていた。その年は、豊作だった。そして、ある事件が起きた。わしの一番上の姉が、ここで死体で見つかったんだ。そのころは、進駐軍のGHQ(総司令部)が、権力を握っていたから、MPと日本の警察が調べにきた。姉は、顔を殴打されて、ウリ畑に仰向けになって、倒れていた。着衣も乱れていたから、そのころ、頻発していた米兵の犯行の可能性が強かった。でも、なかなか、犯人は見つからない。わしらは、警察やMPは、どうせ、まともに捜査はしないだろうからと、独自に話を聞いて回った。あの晩なにか、異常がなかったかどうか、住民に聞いてみたんだ。畑の周りには今のように、住宅はなかった。こんなに住宅が建て込むなんて、とても、考えられなかった。すると、ある老婆が一切を目撃しているのが分かったんだ。老婆は夕方、外で小用をしようと、家を出て、適当な場所を探しているうちに、畑まで来た、奥に入ってしゃがんで用を足しているうちに、女が男らに追われているのが目に入った。最初は、子供が鬼ごっこでもしているのかと、思ったが、女のただならぬ様子に、身を伏せて見ていると、息が上がった女が畑に倒れ込むと、追ってきた男たちは、一斉に襲いかかり、女の口を塞いで、手足を押さえこみ、衣服を奪って裸にしたうえ、交互に犯したんだ、という。男は四、五人だったが、五人目の男がのしかかるころには、女はぐったりして、死んだようになった。老婆は、一切を見ていたが、男たちが逃げさったあと、恐ろしくなって、家に逃げ帰って、誰にも話さなかったのだという。男たちはどんなやつだったか、親父は聞いたそうだ。だが、体が大きい若い男だった、というだけで、日本人かアメリカ人かは、分からない、と老婆は言ったんだ。
そのころ、この辺りでは、米兵によるものと思われる強盗や婦女暴行事件が頻発していた。学校の近くの文房具屋の働き者の新妻が、黒人に教われて、売上金を奪われたうえ、激しい暴行を受けて、片目が見えなくなったという事件もあった。その夫人は、眼球を支える筋肉がきれて、目の球が動かなくなった。それでも、店に出て、子供たちに文房具を売っていた。左目が全く動かないのに、右目だけで商売を続けていた。わしらは、子供たちが、片目のおばちゃんというのをたしなめたもんだ。そういうことが、頻発しても、殆ど犯人は捕まらなかった。警察は捜査をしてはいたが、犯行が米兵らしいとわかると、途端に腰が引けて、最後まで追及しない。だから、やられたほうは泣き寝入りだ。もちろん、保障なんてない。犯人が特定できても、米軍はすぐ海外に逃がしてしまう。いま、沖縄で、米兵の犯罪が問題になっているが、あんなことは、毎日のように起きていて、しかも、捜査はおざなりだった。犯人はほとんど、捕まらないんだから、やり放題だったんだな。
だから、姉の事件も、まともな捜査はされなかった。無駄死にになったんだ。うちでは、近所の人の協力で、基地のゲートを見張ったりしたが、それも無駄だった。若い兵隊は大勢いて、見分けが付かない。そのうちに警察もMPも捜査を止めてしまった。うちでは、姉のお墓を、あの滑走路の先端の先に土を盛って、作ることにした。昼間、道の端に見えていた小高い丘があったでしょう。あれが、姉の墓ですよ。当時では大工事だったが、皆が手伝ってくれた。土はウリ畑を削って集め、もっこを使って、盛り上げたんだ。もうウリは作りたくなかった。長い縞が入ったウリを見ると、同じ縞のもんぺを履いてその畑に倒れていた姉の無念の姿が目に浮かぶ。畑は、土を取ったあと、三年ほど放っておいた。そのうち、日本は高度成長に入り、畑は潰されて、宅地になっていった。ウリ作りを止めた農家は、みな、現金収入を求めて働きに出て、畑は雑草に覆われて荒れ放題だった、それが、宅地開発で高値で売れたんだから、ほくほくだ。そのころになると、姉の事件なんて、もう忘れられていた。でも、わしは忘れなかった。ウリは止めたが、細々と、陸稲や麦を作って畑地を維持していた。それが、昭和三十年頃、ある暑い夏の日に、姉が夢枕に出てきた。「そろそろ、お盆になるが、私のお墓にお参りに来たら、岡の裾の草の中を見てみなさい。命の水が湧きだしているだろう。それを使って、新しい作物を作りなさい」と姉は、言った。わしが、お参りに行くと、確かに、水が湧いていた。そのあたりは、昔、古代に尼寺があって、用水が引かれていた。湧き水も豊富で、「尼の泣き水」という地名も残っている。名前だけで、実際の水は枯れていたんだが、このとき、復活したんだ。枯れていた水源から、また、水が湧きだした。だが、わしは、このことを自分の胸に収めていた。その年は、夏に雨が降らず、干ばつになった。ここにあった麦も陸稲もほぼ全滅した。枯れた作物の後始末を始めたとき、倒れた藁のしたから、青い芽が出てきているのが見えた。わしは、姉の湧き水から汲んできたなけなしの水を掛けてやった。どうせ、その、水を使う作物は枯れたんだから、捨ててしまおうという気持ちだった。ところが、水を掛けた芽は、むくむくと起き上がり、見る間に大きく成長した。それが、このキャベツの先祖なんだ」
老人は、長い語りを終えて、一息付いた。
「その水は昼間にやったんですか」
石野は見当外れのことを聞いた。
「ああ、そうだよ。今は夜にやっているのにというのだろう」
「はい」
「あのころは、昼だった。やつらは、昼に成長していた。それが、夜になったのは、昭和四十年代後半になってからだな」
「なぜですかね」
「昼間がうるさくなったんだ。ジェット機の離着陸が激しくなった。飛行場の飛行機が殆ど、ジェット機になって騒音が酷くなった。それに、周りが住宅になって、昼間はた環境が悪化したんだ」
「それで、夜、伸びるようになった・・・・・・」
「やつらの知恵だ。こんな野菜にも生き延びる知恵はある。それを人は知らないだけだ」
「死人のエキスを吸って、人面をしているのも、知恵ですか」
「知恵でもあり、宿命だ。やつらはそうして、生き延びて、旨さを増し、人間の栄養になる。輪廻だ、自然の大きなサイクルのなかで、やつらも生きている」
「なぜ、人の顔をするんですか」
「それは、分からん。始めから、ああいう姿だった。人の顔だと、わしが思ったのは、国が乱れてからだ。政治家や役人や会社の偉いやつらが、悪いことを初めてから、わしは、こいつらが、そいつらに似ていると気が付いた。顔に似た奴は益々増えている。こうつらが似てきたのではなく、人間がこいつらに似てきたんだと思うがね。育ち足らない奴も、皆、誰かに似ている」
老人は、寄り掛かっていた荷台から体を離して、次の作業に取りかかる準備をはじめた。石野が、
「暗いのは全体的に、畦道沿いですね」
と言う前に、老人は、トラックを道沿いに進めていた。
「こっちの方が、どうしても育ちが遅い。それも、栄養がフェンスの方から来ている証拠だな。こっちのはどうしても、栄養をやらないと育たないんだ」
老人は、一番こちらの端に車を停めて、タンクのコックを捻った。タンクから水が勢いよく噴出した。コックの先は、平均的に散水出来るように、途中に無数の穴を開けた管になっていた。その先から、迸る水は、きらきらときらめいて、地上に落ちた。石野はトラックを降りて、その様子を見ていた。夜空から星がぱらぱらと落ちるように、水は光かがやきながら、発育不良のキャベツの上に降り注いだ。銀の砂が砂丘に落ちる時、雨上がりに葉のうえの水滴が池に落ちる時の光景に似ていた。石野はこの迸る光の錯乱は、ディズニーのアニメ映画で見た映像だと思った。バンビが立ち上がるときに、尾から水溜まりに落ちた水滴は輝いていた。最後の一滴がきらりと光って、落ちた映像が脳裏に浮かび上がった。
「細かい光の乱舞が見えたかい」
降りてきた老人が、石野に聞いた。この畝のキャベツへの散水は、終わり、次の畝に移る時だ。
「ええ、素晴らしいものを見ました。花火のしだれ柳、銀色の細かい星の流れ。美しい光景です。その水には何か光を発する物質が入っているんでしょうか」
石野は当然の疑問を聞いた。
「いや、ただの水だ。姉さんの墓の下から汲んできた、ただの水だよ」
トラックは次の畝に移っていった。散水が終わったあとのキャベツは、先程、フェンス側で見たキャベツのように、青白い光が周囲を取り囲み、輪郭になっていた。その輪郭は輝いている。石野は、念のためにあの眼鏡を付けた。光の輪郭の中に、描線が見えた。石野は目を凝らした。その顔は、石野が定年になった証券会社の社長の顔だった。
「社長、あんたまで、ここにいるんですか」
石野は思わず、嘆息を漏らした。その社長は、総会屋への巨額な損失補填で、逮捕されたばかりだ。石野は隣のキャベツの顔も見た。それは、専務だった。その隣は、総務部長の顔だった。
(なんだ、皆そろって、こんなところに)
石野はそういう会社のお偉方を、知っていた訳ではない。新聞紙面やテレビが報道する逮捕の時の映像で、知っただけだ。だが、石野が半生を捧げた会社の幹部たちだ。親近感が湧かないわけはない。
(あんたたちも、育っていけば、あの老人が首を切る。そして、どこかの豚カツ屋に卸されて、豚カツの付け合わせになるっていうわけだ)
石野の瞼から、熱いものが湧き出た。石野はそれを老人に知られないように、服の袖で拭った。それでも、涙は止まらなかった。溢れ出た涙は、今、頭に浴びせられたばかりの水滴が光っている、キャベツの上に落ちて、混じり合った。熱い涙は金色の水滴だった。金色の粒が、銀色の中に落ちて、光が融合した。その一瞬、落ちた場所だけが、一層明るさを増して、糸を引くように、地上に伝って、流れて、消えた。
石野は熱いものを止めようと、空を仰いだ。濡れてぼやけていた視界に、あの笑顔が見えた。その笑顔は漆黒の夜空に、金の粒が集まって出来ていた。石野は目を擦った。そして、焦点を合わせて、笑顔の全体を見通した。それは、紀子の顔だった。静かに笑っていた。これは、聖母の顔だと、気が付いて、石野は、胸の底から、その名を呼んだ。
「紀子さん、のりこさん」
大声で呼ぶ石野の声に、天井の顔は、答えてきた。
「なんですか。いしさん」
「あの時はすまなかった。あんたをあんな目に合わせて、追い出してしまった」
「いいんですよ。あなたは、やれることはやってくれました。わたしが自分で決めたことですから。それより、皆さん、二度とあんな事がないようにって誓っていたのに、どうしたんですか」
石野は、胸に応えた。
木田紀子は、石野と保田が組んでいたころ、支店営業部で審査を担当していた。顧客との契約に法令違反はないか、違法な取引が行われていないかをチェックする係だ。バブルが華やかなりしころ、営業部員は大かれすくなかれ、だれでも、顧客への損失補填や、自社売買をやっていた。株の取引は本来、指定株を指定の値段で取引するのがルールだが、金だけ預かって、売買を任せてているものや指定された銘柄を買わずに儲けの多そうな株に自己判断で投資するという取引が行われていた。石野と保田のコンビもいくらかはそういう取引をして、かなりの損をした。それを、紀子が見つけたのだ。
紀子は他にも多くの不正を見つけていた。それを真面目に一々、本社の審査部に報告した。だが、なんの改善命令もなかった。そのことを、紀子は石野に相談した。
「わたしが、やっている仕事は、なんのためなのか、分からなくなったわ。いくら、不適当な取引を見つけても、本社は無視している。こう言うことが積み重なっていったら、不正が正常になったしまうわね」
「皆がやっているから、一々、言えないんだよ。そうやって、営業が好転しているかぎり、会社はそれでいいんだから。でも、僕等は止めるよ。君の努力が無になるようなことはしない。君に指摘された通り、俺たちも、補填をしていた。お客から一任されていると、損はさせたくないと思ってしまうからね。でも、取引は自己責任だ。俺たちは例え成績が上がらなくても、出世しなくても、無理はしない」
石野は紀子にそう約束した。紀子が会社を辞めたのは、このすぐ後だった。そして、それから半年くらいして、補填問題が社会問題になった。一時的だったが、その後、補填は表向きは禁止され、業界は無理な競争を止めた、それが、また、同じ問題で、今度は、トップの逮捕に及んだのだ。
「でも、みんな頑張っているんだものね。それが、仕事と思っているんだから。わたしが言えるのは、あまり、無理はしないでね、ということだけ」
紀子はそう言い残して、会社を去っていった。
石野は母に似た面影を持つ紀子のその言葉を忘れずに、残りの会社人生を送り、定年にまで無事辿り着いたのだ。
「紀子さん、このキャベツ達はあんたの言うことを守れなかったんだ」
とはいえ、一介の支社の女性社員を幹部たちが知るわけはない。だが、石野はそういう正義感のある社員もいたのだ、そして、辞めていったのだ、ということを訴えたかった。
「みんな、善意で生きてきたのだろうが、こうしてキャベツにされる者もいるし、星になる者も居る。その別れ目は何なんだ」
石野はそれが、一番知りたかった。
そのとき、フェンスの向こう側の上空に、明るい光の点が見えて、徐々に大きくなり、一気に下降し始めると同時に、すさまじい轟音が、降り注いできた。丸い光の球は、その音に押されるように、目の前に迫り、地上を昼間の明るさにして、過っていった。その先には、滑走路がある。白く続く滑走路に降りるかとみえた光の球は、しかし、着地しなかった。地面ぎりぎりに、腹を擦るようにして、滑ったあと、光は再び上昇を始め、大きなまりがバウンドするように、向こう側へと遠ざかっていった。だが、それは、一つではなかった。最初の光の球が、行き過ぎて、再び闇に包まれたキャベツ畑を、新たな光が襲いかかった。球形は一気に大きさを増し、地上を昼間の明るさにしたあと、地上で反射して、遠くに消える。最初の球とおなじだった。その球は、次から次へとやって来て、消えていった。
石野と老人は、作業を休んで、畑に座り、その光の球の乱舞を見上げていた。
「折角の紀子さんが、消えてしまった」
石野が呟いたが、轟音で耳を塞いでいる老人には、聞こえなかったようだ。
「凄いもんですな、これでは、下に住んでいる人は堪らない」
老人の耳に口を当てて大声で言うと、老人は、逆に石野の耳に口を当てて、
「いつもの事で、慣れっこになっているよ。横須賀に空母が入ると、こいつが始まるんだ。夜中の離着陸訓練というんだな」
と大声で教えたくれた。
石野は何度か、NLTと略称がついているジェット戦闘機の夜間離着陸訓練の記事を新聞で読んではいたが、本物を身近に見るのはもちろん、初めてだった。耳をつんざく轟音と、光の洪水。それが、この夜の見せ物の印象だ。
空想の中の聖母を見ていた夜空は、機械的な高音が溢れ、光の渦がうねる現実の夜空に一変していた。
その饗宴が終えたころ、
「さあ、次の畝に行くぞー」
と老人は、立ち上がり、トラックを次の畝に移動した。コックを捻ると、輝く水が迸り出た。
「寺岡さん、今まで、聞きたくて聞かなったんだが、このキャベツにされた人たちは、なぜ、こうなったんです」
石野は走り寄って、老人に聞いた。
「そんなこと、わしには、わからんよ。本人たちは知っているだろうが。わしは、生えてきたのを育てて、大きくし、収穫してくれとやつらが言ったら、首を切ってやるだけだ。本人達の希望を第一に優先してるんだ。だから、あの高価な赤外線眼鏡まで購入して、やつらの気持ちを注意深く見ているんだ。やつらは、此処では喋れないからね」
(そうか、彼らは喋れないんだ。人間としてなら、人一倍口が達者なやつらなのに、ここでは、喋れないんだ)
石野はそのことに、気が付いて、大声を上げて笑った。笑いはなかなか止まらなかった。
(そうか、やつらは喋れない。俺たちに威張って命令することもできなければ、怒ることも、褒めることもできない。ただ収穫を待つキャベツなんだ。ここから出るのは食べられるときだけだ。そして、その時が彼らの最良の日なんだ。ああして、光輝いて、収穫してくれ、食べてくれと訴える。ここは、贖罪の場所なんだ。総ての毒を吐き出して、地上に戻し、清麗な養分と汚れない水だけを体内に取り込んで生まれ変わる。そして、身も心も清めて、食べられるようになり、収穫を待つ)
石野は感じていた。清麗な養分は、無念の内に命を落とした者たちの生きようとする強い念力から発せられる。命への意欲だ。そして、汚れのない水は、いわれない不条理の暴力で命を落とした乙女の献体から出てくる。いずれも、この世で罪を犯し、私利私欲に走った者への浄化の養分なのだ。
(この土地は浄化の場所なんだ)
と石野は気が付いた。そして、
(それならば、だからこそ、こういうキャベツを作ってみたい)
と決意を強くした。
だが、ここと同じような栽培の適地は他にあるだろうか。フェンスに隔てられた軍事基地の脇で、しかも、清らかな湧き水が湧き出る所でないといけないだろう。
そう考えると、我が意を得たりのアイデアも実現は難しそうだった。このような土地が、狭い日本にそうあるとは思えない。
「そろそろ、最後の畝だ」
遠くから、老人が叫んだ。トラックは一番奥の列まで進み、残りの水を掛ける作業に入る所だった。
「いま、行きますよ」
石野は、駆け足で、トラックの方に行った。
「ここは、極最近、生えだしたところだ。まだ、株が小さいだろう。親指の先くらいしか、見えないから、まあ、大雑把にやっておくよ。これで、お終いだ」
石野は、やり水の流れの先を見た。そこに株が数株見えた。ダイヤモンドのように、キラッと光った。
「こいつ、いやに明るいな。小さいくせに、生き生きとしている」
石野はその小さな株の側にしゃがみこんで、顔を近付けた。
「こんなに小さいのに、一人前の格好をしていやがる」
確かに、その株は、小さいけれども、細く白い筋を見ていくと、鼻も眼も口もあるのだ。茹で卵のような丸顔で、口許が涼しく、細い目と鼻筋が通った小作りの鼻が見えた。
「はは、これは、少年の顔だ」
石野は、赤外線眼鏡を付けて、輝きの程度を見てみた。小さな丸い光が見えたが、最初に見た五つのキャベツよりはずっと、輝きが薄い。
「まだまだ、これから。収穫までには、沢山の日にちと手間がかかるだろうな」
水のコックを止めるために運転席から降りてきた老人が、こちらにやって来て、その新しい株を、腰をかがめて、見つめた。
「こいつ、どっかで、見たような気がするよ。あんた、そう思わないか」
老人は石野の方を振り向いて聞いた。
「えっつ、そういえば、どこかで見たような気がしたんだ。うん、そうだなあ」
「ははーん、こいつは、まだ子供だぞ。子供を見た覚えがあるのは、学校の近くでかな」
「いや、二人とも見た感じがするのは、直に見たということではないのんではないですかね。雑誌とかの、マスメディアでですよ。この丸顔を見たのは」
「いや、わしはそんなものは見ない。この、頭の中に入りこんでいる記憶の底にしか、ないんだ」
「それなら、もう、お手上げです。私には、分からない」
老人は頭をひねった。だが、どうしても、見た感じがあるのだ。
「そのうちに、思い出しますよ。もういい年だから、記憶力は落ちる」
「確かに」
「これで作業はお終いですか」
「そうだ。今夜は、五つ採れた、十分じゃろう。参考になったかな」
「はい、不思議なことばかりで。私にはできそうもありませんな」
石野が悲観的な顔をすると、老人は、
「そうでもあるまい。栽培そのものは、簡単なんだ。やつらは、自然に生えてくる。だが、もしあんたが始めるのなら、適地を選んで、最初は株分けしなければいけないだろうな」
「その場所が問題なんですよ。株分けしていただいても、こういう適地が見つかるかどうか。フェンスの脇で、自然の良水が手に入る所はそうありませんから」
「そうかのう。では、諦めるか」
「いえ、諦められません。探します、日本中」
「案外、こう言う場所は多いんではないかな。長崎にも、広島にも、岩国にも、三沢にも、あるような気がするよ」
「基地があるところですね」
「そう、そういう土地は、まだ、多いじゃないか。その周辺なら、キャベツが育つくらいの場所はあるだろう」
「でも、水が・・・・・・」
「水か。あの種の水は日本中に出ている。なにも、此処だけのことじゃない。戦後に姉のようにして、死んでいった者は少なくないんだよ。これも、日本中にある。ただ、忘れているか、忘れようとしているだけだ。その場所を探し出すだけでも、意味はある」
老人の言葉は、力強かった。
「やってみますかな」
石野は、勇気が湧いてきた。あの空の上では紀子が見ていてくれる。この空は日本中どこにいっても広がっているはずだ。
妻のたな子も許してくれるだろう。夫婦で適地を探し歩いてもいいではないか。
「いい所が見つかったら、株を取りに来なさい。さっき見た若いのがいいだろう。生きがいいから、育て甲斐があるよ」
石野は、先程の株を見に戻ってみた。
一端、離れた後に見直したためか、詰まっていた記憶のページが捲られて、その顔が誰だか、瞬時に分かった。
「酒鬼薔薇君か。小学生をキャベツのように殺して棄てた君が、キャベツになったのか」
その小さな驚きの声にも、小さなキャベツの株は、なんの反応もしなかった。
(終わり)