「爺さん」
ーー 「実を言いますとね」
その店では、いま、爺さんが、元気に、道の水まきを始めたばかりだったが、旅慣れた風の中年の男が、通りかかるのを見て、不意に、こう話しかけた。
男は、びっくりして怪訝そうにその爺さんを振り返って、
「はい」
と、思わず答えてしまう。
「この道を真っ直ぐ行くとひどい目に、お会いになさるでよ」
と、思わせ振りに言うのだ。
男は突然の爺さんの言いように、狐につままれた気になったが、あまりの語気の鋭さに、ハタと立ち止まって次の言葉を待った。
「昨日も一人、おまえさんと似たような旅の人が、お通りになったが、やっぱり帰って来なかった。毎日、毎日、大勢人が通るけれど、誰も帰って来たこたない」
と、爺さんんは、言う。
「それは、そうだろう。この道は、一本道だ。帰りの客は、ほとんどいまいよ」
「そうじゃないんだ。一人もいないってことを言ってるんだよ。お前さんも、帰って来ないだろうってことよ」
「当たり前だ。おれは真っ直ぐ行っちまうよ。帰ってくるのは、そうな、ひと月も後かな。その頃には爺さんも、俺の顔なんか覚えちゃいめえ」
「いんや、わしは物覚えは良いほうだ。うちの前を通った者は、わしゃ、全部、覚えとるわ。だが、わしが、覚えている限り、戻って来た奴は、いねえんだ」
「それは、どういう事かね」
男が、不安げに尋ねた。
「だから、言ったろうが…。実はな、この道の向こうには、恐ろしい鬼が住んでおるんじゃ。人食い鬼じゃ。体は岩のように大きくて、顔は真っ赤じゃ。一日に、一度は人を食うのが、習いとなっておる。この道を行くのは、食われに行くようなもんじゃよ」
「そうか、それなら、おれは鬼退治に行こう。どうせ、のんびりした旅の途中だし、そんなに強い鬼なら、取っ掴まえれば、良い見世物になる。一つ、おいらが頑張って、鬼退治と行ってみるかな」
「止めときなさいよ、そう言って、力自慢や猛者のお人が、これまでも随分、通っていかれたが、首尾良く鬼を連れて来た者は、一人もいない」
「では、おれはその最初の者になろう」
「やめときなされ、そういって、何人が、帰って来なかったか」
「そういわれると、ますますやる気になってきた。じゃあ、爺さん、行ってくるよ」
男は、そう言い残して、道を歩きはじめようとした。
「おい、それなら、ちょっと、お待ちなさい。ここに鬼退治の特効薬がある。持っていきなされ」
と、爺さんが渡してくれたのは、瓢箪だった。
「なんだいこれは。瓢箪には、何が入っているんだい」
「鬼を眠らす薬だわ。鬼を見つけたら、そっと近寄って、こいつを振りかければいいのだ。眠ったところを、縄で縛れば、退治ができようぞ」
「そいつは、あり難い。貰っていくよ」
「だがな、一言いっておくが、そいつは、鬼にしか効かないから、人間には使っては駄目だぞ。人に掛かるとそいつが、鬼になってしまうから」
「分かったよ。爺さん。では、行くからね」
そういって、男は道を行った。
八里ばかり行くと、道は山道になり、上り坂が険しくなった。男は、頑張って、山道を登った。
「こんなに、きつくては、喉が乾くよ。なにか、飲み物が欲しいな。そういえば、爺さんがくれた瓢箪に、飲み物が入っていた。瓢箪は重いし、少し、軽くしてもいいだろう」 男は、瓢箪の蓋を開けようとした時、爺さんの忠告を思い出した。
「そうだ、爺さんは、人間が飲むと、鬼になると言っていた。でも、喉が乾いてしようがない」
そう呟きながらも、男は我慢し、一里ほど進むと、左の道端に、人のような黒い物が見えた。段々、近寄ると、それは青鬼の形をして、じっと立ち尽くしている像だった。
男が、近寄ると、その像は、
「旅のお方、助けてくだされ。わたしをもとの人間に戻してくだされ」
と、囁いた。
「なに、どうしたのだ。いったい」
男は、像に問いかけた。
「実は、坂があまりにきついので、喉が渇いて、爺さんに貰った瓢箪から水を飲んだんだ。そうしたら、見る間に、体が固まって、動かなくなってしまった。助けてくだされ」 「助けるったって、どうすればいいのだ」
男は、像に問いかけた。
「知りませぬ。ただ、もう少し、奥に行けば、なにか、解るかもしれませぬ」
像は、答えた。
「では、もう少し、行ってみよう」
男は、そう言って、道を急いだ。
上り坂は、さらに険しくなり、男は汗みずくになり、喉もからからにか渇いた。つい、瓢箪の水を飲みたくなったが、必死の思いで、我慢した。
また、三里ほど行くと、今度は、右側の道端に、黒い影を見つけた。男が近寄ると、今度は赤鬼の形をした像が立っていた。
「旅のお方、どうぞ、私を元の人間に戻してください」
像が囁いた。
「どうしたのだ」
男が尋ねた。
「実は爺さんの瓢箪から、飲物を飲んだら、体が見る見る、固くなって、動かなくなってしまったので。どうか、元の人間に返してください」
像が訴えた。
男は尋ねた。
「では、どうすればいいのだ」
「それは、よく、知らないが、どうも、この奥に住んでいる大鬼が持っている水薬を、掛ければ、良いらしい」
「そうか、では、大鬼退治をしないといけないな。願ってもないことだ。任せておきなさい」
男は、そう請け負って、さらに、山道を登って行った。
また、二里ほど登り、山頂に近づくと、道の左に大きな祠があり、中から、光が漏れていた。恐る恐る中に、入って行くと、中で赤々と火が燃えて、大きな角が二つある黒い影が祠の壁に映ってみえた。
男が潜んで、観察をしていると、黒い影はむしゃむしゃと、なにかを噛り、腹がいっぱいになると、横になって、寝てしまった。
しばらくすると、
「ズー、ズー、ズー」と大きないびきをかきはじめた。
男が近寄ると、それは、身の丈が人の五倍ほどもある大鬼で、お腹の当たりが、息をするたびに、大きく波打っていた。顔は真っ赤で、髭はぼうぼう。赤い口からは、二本の牙が突き出ていて、男は、思わずその異様な姿を見て、後ずさりした。
「だが、今こそ、絶好の機会だな。ここで、爺さんから貰った、あの瓢箪の薬を使えば、鬼退治ができる」
そう思って、恐る恐る大鬼に近寄ると、大鬼が、寝返りを打った。
「ああ、びっくりした。これでは、巧く薬を口に入れられない。向こう側に回らないと」
そう思って、反対側に行きかけたところ、鬼の背中に小さな薬瓶が見えた。
「ああ、あれが、赤鬼の像が言っていた薬か。あれを使えば、人間に戻れる。先にいただいてしまおうか。それとも、大鬼退治を先にしようか」
考えていると、大鬼が再び、寝返りを打って、こっちを向いた。
息がこちらへかかって来て、とても臭くてたまらず、男は、また、後ろへ退いた。
「鬼は寝ているのか。影になって解らない。よし、思い切って、瓢箪の水を掛けてやれ」 そこは、肝っ玉を決めて、身体ごと、大鬼に突っ込んで、瓢箪の中味を大鬼の顔をめがけて、ぶちまけた。
大鬼は目を覚まして、起き上がり、目のあたりを手でしきりに、こすったが、薬の効き目は、ものすごく、ひとしきりもがくと、がっくりと膝を折り、地面に倒れて、静かになった。
様子を見ていた男は、すばやく大鬼の後ろに回り、薬の壜を引ったくて、一目さんに、祠を飛び出した。
「やれやれ、これで、大鬼退治ができたようだ。薬も取ったし、これは大手柄だ。さっそく、山を下って、赤鬼、青鬼を助けよう」 奪った薬瓶を手に、男は山を降った。
二里ほど、降ると、赤鬼の像の所に来た。 「さあ、赤鬼さん、人間に戻してやるぞ。 待ってなよ」
男が、薬瓶の蓋を取り、中の薬を振りまくと、固くなっていた像が、見る間に溶けて、人の形になり、頭の方から動きはじめた。
足まで溶けて、出て来たのは、小柄な飛脚。 「どうも、ありがとうございました。わたしは一月ほど前に、この道を行こうとして、爺さんに呼び止められ、瓢箪を貰ったが、ついつい、喉が渇いて、飲んでしまった。本当に助かった。急いで、手紙を届けなくては」 そう言って、立ち去った。
男は、そこから、三里ほど降り、青鬼の所に来た。同じように、薬を降り懸けると、今度は、あっという間に、旅芸人の姿が現れた。 「どうも、ありがとう。わたしは、半月ほど前に、この道を通りかかり、爺さんに瓢箪を貰ったが、喉が渇いて、飲んでしまい、こんな姿に、なってしまった。元へ戻してくれてありがとう」
そう言って、行ってしまった。
(やれやれ、赤鬼といい青鬼といい、まったく、恩知らずだ。こちらは、大鬼退治で、命からがらだったというのに、ありがとうだけで、行ってしまうとは。まったく、骨折り損の草臥れ儲け、とはこのことだ)
そんなことを考えながら、もう遅くなったので、山道を引き返すよりは、と来た道を爺さんの家の方に戻った。
爺さんは、まだ、家の前にいて、道行く人を、見守っていた。
「爺さん、大鬼を退治して来たよ。もう、大丈夫さ。途中で、二人を助けたよ」
「そうか。だが、二人きりかね。もっと大勢が、行ったきり、帰ってこないのじゃが」 「では、そいつらは、行きっぱなしの一方通行だ。大鬼の祠には、そういえば、食べ残しの骨が、いっぱいあったなあ」
「そうか、二人は、助かったのだな。それだけでも、良かったよ」
「でも、二人は、ありがとうとだけ言って行ってしまったよ。礼もせずにね」
「いいじゃないかい、それで。ほかに、何が欲しいのかね」
「いや何も、しかし、なにかあってもいい」
「ところで、あんたに持たせた瓢箪だが、中に入っていたのは、鬼殺しだ。鬼が飲むとこてんとひっくり返ってしまうが、人が飲むと酔ッぱらって、固まってしまう。固まる前は、良い気分になるそうじゃ」
男はその晩、爺さんの家に、泊めてもらい、瓢箪の中の液体の製造法を、教わった。
爺さんも、人のために骨を折って、何の報いもなかった男に同情したこともあって懇切丁寧に、作り方を教えてくれ、それを、男は一語一句漏らさずに、書き取った。
翌日、爺さんに、丁寧に礼を言って、別れを告げた男は、昨日、通った山道に差しかかった。
青鬼がいたところに来ると、跡に着物が残されていて、「旅の方、助けてくれて、有り難う。私の名は市川善十郎といい、売れない歌舞伎役者です。いつか、私が売れるようになったら、必ず、このご恩はおかえしします」
との書き付けが置いてあった。
男は、それを懐に仕舞い、今度は、赤鬼のいた所に差しかかった。
すると、今度は、飛脚の持つ文箱の蓋が、残されていて、その下に、
「旅のお方、元に戻してくれて、有り難う。私は、道を急ぐ飛脚ですが、江戸へ行って飛脚問屋の親方になれたら、必ず、ご恩をお返しします」
と書いた手紙が置いてあった。
男は、その手紙も懐に仕舞い、先を急いだ。 山を越えて、峠を下り、あと二日して、江戸に着いた。
男は、爺さんに教えてもらった薬液に、数年間の間、改良を重ね、工夫を凝らして、売り出すと、江戸の庶民に、人気を得て、飛ぶように売れ、一年もすると、大金持ちになっていた。
男が工夫したのは、濃いままの原液では、飲んだ人が、固まってしまうのがわかり、十倍に薄めると、とても良い気持ちになり、えも言われぬ、気分になれることだった。
その人気を聞きつけて、ある日、一人の歌舞伎役者が、男の店を訪ねてきた。高級そうな着物を着た役者は、
「あなたのお陰で、私も一人前の役者になれました。ぜひ一度、芝居を見に来てください」
と言う。
男は
「ああ、あの時の、赤鬼さんですか、立派になりましたね。よかった、よかった」
と、手を握りあい、再会を喜んだ。
それから、数日して、今度は、羽振りの良さそうな、商人風の人が、訪ねてきた。
「あの時は、本当に有り難うございました。私はやっと、飛脚問屋の店主になれました。おのときのお礼に、貴方の店の商品の運送は、全て半額の割引で、扱わせて頂きます」
と申し出た。
男は、
「ああ、あの時の、青鬼さんですか。立派になりましたね。よかった、よかった」
と、手を握りあい再会を喜んだ。
数日後、男は、市川善十郎の誘いで、歌舞伎を見に行った。
演目は、「大鬼退治」という題で、善十郎が鬼退治をする主役を張っていた。
「あのときの話をすっかり、頂いて芝居にしました。どうぞ、貴方の店の『鬼殺し』を、うちの劇場で、売らせてください」
との申し出を、喜んで受け入れた男は、その後も、益々、商売繁盛で、三人の友情は固く、死ぬまで続いたという。
(終わり)