「浮遊空間」             一  新宿三丁目の交差点を渡って、歌舞伎町方向に入る角の所に、その喫茶店はあった。  この店には、いつも昼頃から、四、五十歳代の男たちが、大勢集まってきて、夕方までの時間を潰していく。  男たちは、新宿職安で、職探しをしてきたあと、この店に来て、日がな一日、コーヒーで粘り、新聞や雑誌を読んでいるだけだ。  だから、店内には、むさ苦しい中年男のすえた体臭と、鈍く沈んで、気だるい雰囲気が、立ち込めていた。  入口から入って、一番奥の左側の長いカウンターの中に立ち、いつも、その長く伸びた顎髭とうっとおしい頬髭をさすっているマスターのトシローは、この店に来て、もう十年になるが、  「あの頃は、違っていた」 と、十年前の店内の光景を、この頃は、懐かしく思い出している日々である。  十年前は、日本はバブル経済の最盛期で、ここに集まる男たちは、ブランド物で身体中を飾り立てた若いOLやいかにも愛人風の中年女を連れていた。高そうなスーツに、ローレックスの金時計、イタリア製の革靴とネクタイで、ピシリと決めたビジネスマンが、開店したばかりのフランスのカフェを模したこの店の軽薄な成り金趣味に、彩りを与えていた。  そのころ、店の常連客に、都心のビル用地の地上げで稼いでいた不動産屋のサブローがいた。サブローは、栃木の高校を卒業してから、まるでゴリラのような獰猛な顔付きと相撲取りのような巨体を生かして、歌舞伎町のクラブのボーイ兼用心棒や風俗嬢のヒモ兼ボディー・ガード、そして、堅い仕事では、建築現場の警備員などの仕事を転々としていた。その仕事を転々とする間にも、この店に来ては、  「おれは、それほど頭の良くないし、女にもてた試しはないよ。だけど、やっぱり、目立ちたいんだ。いつか、でかいことをやってやる。有名になってやるんだ」 と、熱い口調で、トシローに夢を語っていた。  サブローは、チーマーの走りでもあった。  「全部で百万円以上掛かった」 という愛車のホンダ・ウイング750CCの改造で、いつも財布は空っぽだったが、気持だけは、硬派だった。  「おれは、日本一のバイク乗りになるんだ」  と言うのも口癖で、この店に来たときは、カウンターの中のトシローに、滔々と夢を語ったものだった。  そのサブローが、チーマーの走りから、足を洗って、不動産屋になったのは、ちょっとした事件がきっかけだった。  新宿コマ劇場近くのサウナで、知り合った中年の男が、サウナの受付で、サブローが金を払えずに、押し問答をしているところに、出くわして、サウナの「入り逃げ」で、警察に突き出されそうになったサブローに代わって、代金を支払ってくれたのだ。  その上、  「めしを食おう」 と近くの焼き肉屋に連れていかれて、焼き肉を腹一杯、御馳走になった。  その席で、「山中」と名乗ったその中年男が、切り出したのは、  「いま、うちでやっているちょっとした仕事を手伝わないか」 ということだった。  サブローにも、「ちょっとした仕事」の中身が気になったから、その点を質すと、  「まあ。軽い仕事だ」 という説明に、半信半疑でいたが、翌日には、言われた事務所に顔を出していた。  その事務所は、新宿・百人町の貸しビルの中にあって、ドアー入口には、  「極東総業」 という看板が掛かっていた。  部屋の中には、机が五つあって、そのどれもに一人ずつが、座っていた。男が四人に女が一人。窓側の席に、昨日、サブローに声を掛けた山中が、座っていて、残る四つの机を横から見ている配置になっていた。  サブローが入って行くと、山中が、  「おおー」 と声を上げて、  「こちらへ」 と言って、奥のドアーを開けて、もう一つの奥の部屋へ招き入れた。  そこには、ソファーが、対面して置かれていて、その間に、タバコ入れを乗せたテーブルを挟んでいた。サブローは、その片側に腰を降ろし、反対側に、山中が座った。  「さっそくだが、君に、やってもらいたいのは、ある男を説得することだ。その男の名前と住所は、これから、君と一緒に行動する、田口が知っている。田口と一緒にその男の家に行ってくれ。あんたは、ただ、座っているだけでいい。あんたの顔があるだけでいいんだ」  「そんなことなら、お易い御用です」  「ただ、その相手の男は、凶暴だから、油断してはいけない。万一のために、護身用にこれを持っていけ」  山中に渡されたのは、重く、黒光りした小型の拳銃だった。              二  山中が紹介した田口と一緒に、サブローは、神田の古い町並みの一角にある、木造平屋建ての酒屋に出掛けた。酒屋の主人は、六十歳を越えた小柄な男で、山中が言ったような凶暴さは伺えなかったが、二人を見ると、  「あの話は、なかったことにしてくれ」 と言って、店の中に駆け込んだ。  田口とサブローは、男の後を追って、閉じられた扉をこじ開け、中に入った。  男は、ソファーに座って、  「もう、やめにしたんだよ」 と大声で怒鳴った。  田口は、  「そう言わず、もう、判こも突いてしまったんだし、金も受け取ったんだろう。早いところ、明け渡してくれよ」 としつこく、迫った。  主人は、  「金は返したぜ。もともと、おれは、脅迫されて、契約書にむりやり、判を押させられたんだ。契約は無効だよ」 と語気を強めて、言い張った。  「そう言って、譲らないのなら、こっちにも、考えがあるぜ」  田口は、強もての顔付きで、主人の面前に片膝をついて、迫った。  「ああ、なんでも、やれるものなら、やってみな。おれは、なにも怖くない。この歳まで生きてきたんだ。もう、人生を十分に生きた。この世に未練なんてないよ」 と言って、田口の顔に、唾を吐き捨てた。  田口はサブローに合図した。  「やっちまえ」  サブローはその声に、反射的に応じて、背広の下の肩ホルダーに入れてあった拳銃を引き抜き、主人目がけて、二発、発射した。  弾は主人の左肩と腹部に命中。主人は、グラリと膝を折り、床に崩れ落ちてから、前へ倒れ、床につっ伏した。床は赤く染まり、流れ出た血が、じわじわと染み出して、床に広がった。  「逃げろ」  田口の掛け声を聞いて、サブローは家を飛びだした。  入り組んだ路地を一気に駆け抜け、左へ右へと、五分程駆けに駆けて、大通りに出るところで、田口は、  「お前は、左に行け」 と命じた。その指示に従って、サブローは左に曲がった。  すると、正面から、二人の警察官が、走ってきた。銃声を聞いた住民からの通報で、現場に駆けつける途中だった。警官らは、前から拳銃を手にした男が走ってくるのを見て、   (これは、犯人だ) と確信した。  サブローは、簡単に警察官に捕まった。容疑は、殺人と銃刀法違反だった。  サブローの起訴から裁判での判決までは、三カ月ほど掛かった。判決は「懲役六年」の実刑判決だった。  サブローは、刑務所に収監された。  初犯だったサブローにとって、刑務所に入所の時の、「儀式」は、屈辱と憤怒に満ちたものだった。身体検査で、全裸にされ、全身を隈なく検査されたのも初体験だったが、中でも、下半身を丸出しにして、尻の穴まで見せたうえに、指を突っ込まれて調べられたのには、本当に惨めは思いがした。表向きは「痔の検査」ということになっていたが、これは、明らかに、受刑者への見せしめと服従を誓わせる「儀式」だという気持ちがした。  だが、サブローが、自分の身中に潜む「無意識」に気がついたのは、驚きであると同時に、収穫でもあった。  サブローは、尻の穴に指を差しこまれる時、苦痛ではなく、心の芯から滲み出るような甘美な毒を味わったのである。  これは、初めての経験であると同時に、新たな発見だった。  「おれには、悪魔が潜んでいる」  自らの心中に隠された秘密の一端を見せつけられたようで、気持ちが高揚して、その夜は、眠れなかった。  サブローが、「開眼」したのは、その日から、一週間してからだった。  作業の後の入浴の時間に、サブローは、古参の受刑者数人に取り巻かれて、更衣室の壁際に連れていかれた。  「おい。ちょっと、脱いでみろ」  「脱ぐって?」  「パンツを降ろすんだよ」  いかつい顔中に、ゴマ塩の髭を生やした身長百八十センチはあると思われる大男が、そう言って、脅した。  それでも、サブローが、おずおずとして、前を隠していると、大男の横に立っていた細面の痩せた男が、寄ってきて、無理やり、パンツの紐に手を掛けて、引きずり降ろした。  サブローは、後ろ向きになり、壁に向かい、男たちに背を向けた。すると、今度は、剥げでチビの小太りの男が、体当たりしてきて、サブローは、床に崩れ落ちた。サブローが、床に這いつくばっていると、筋肉がぶ厚く付いた胸を持つ、中肉中背の男が、右足で、サブローの尻を蹴り上げた。サブローは、呻いて、床の上につんのめって、胸から落ち、コンクリートの床で、胸部を強打した。息が詰まって、呼吸が止まりかけた。口からは、締まりがなく、涎が滴り落ちた。  そこへ、今度は、その男の左足の蹴りが、見舞った。サブローの尻は、二発のキックで真っ赤に膨れ上がり、柔らかい皮膚に亀裂が走った。  サブローは、苦痛と屈辱の中で、もがいていた。その時、最初の男が、寄ってきて、うつ伏せになったサブローの囚人服の背中から襟を掴んで、引き寄せ、顔面に強烈なパンチを食らわせた。サブローは、先程倒れこんだコンクリートの床に、今度は、背中から仰向けに倒れて、天を仰いだ。  看守は二人いたが、他の囚人に気を取られた振りをして、見てみぬ風を装っていた。  「看守に助けてもらおうなんて、考えても無駄だぞ。このムショでは、新入りの歓迎はこうするのが、きまりなんだ」  大男は、そう言って、サブローの頬に右手を添えて、優しく、ゆっくりと、殴った顔を撫でた。  その手の感触は、柔らかく、暖かかった。サブローは、地獄の果てで、慈母の優しさに触れたような気持ちになって、安らぎを感じた。  だが、それは、一時のことだった。  男は、頬を撫でていた右手を、サブローの下腹部に持っていって、  「さて、そろそろ、俺たちに使わさせて貰うとするか」 と、赤く爛れた尻の方にも手を回し、何度もなで上げた。  サブローには、意外だったが、そうされると、意思に反して、体が反応した。  小さく、畏まっていたサブローの下半身の突起物は、男の掌の感触を感じて、ムクムクと起き上がった。小さく隠されていたその裏の二つの球を包み込んだ袋が、徐々に弛緩して、伸び下がって行き、突起物の大きく伸び上がるのを助けた。  突起物は、三、四倍に膨張した。サブローは、下半身に、ツッパリ感を感じながら、頭の中は、恐怖と歓喜で一杯だった。  恐怖の中での快感、快感とない混ぜになった恐怖が、一気に膨れ上がり、今にも爆発しそうだった。  サブローは、大声で、  「やめろー」 と叫んだ。  知らぬ顔の半兵衛生を決め込んでいた看守らが、その声を聞きつけて、跳んでくるのを見て、サブローを取り囲んでいた男たちは、四散して、無関係を装った。  サブローは、パンツを引き上げ、入浴を待つ列に並んだ。  それが、初めての「あの快感」の経験だった、と今は、言うことが出来る。  サブローは、刑務所に一年五カ月、いた。その間に、サブローは、毎日、男たちに後門を犯られた。初めのころは、その回数と男の数を数えていたが、二週間してから、そんなことは、無駄だと分かった。回数など数えても何の意味もない。それより、その状況に身を任せたほうが、楽だし、快感も深まることを知ったからである。                 三  サブロ−が、出所したころ、世の中はバブル経済が弾けて、合理化、リストラの嵐が吹いていた。仕事はなかった。出所後の四カ月間は、ムショ時代に働いた報労金でなんとか凌いでいたが、五カ月目には、食事をするカネもなくなった。  サブロ−は、スポ−ツ新聞の求人欄で、ソ−プランドのマネ−ジャ−の仕事を見つけ、応募した。その仕事は、客の応対とソ−プ嬢の出退勤管理などだったが、入り組んだ人間関係になじめず、一ヵ月で辞めた。次ぎに就いたのは、前にやっていたクラブのボ−イで、それは半年、持った。そして、今は、新宿三丁目のホスト・クラブの用心棒におさまっていた。  ホスト・クラブに勤めながら、ずっと、稼ぎがいいホストをしないのは、サブローの容貌のせいである。  面接をした店長は、  「その顔では、ホストは無理だな。ガ−ドマンをしてもらおう」 とハッキリ言った。  以来半年、サブロ−は、夕方六時に、その店に出社しては、別室の警備室で、監視テレビの前に座っている。仕事の終わるのは、朝の三時ころだ。  そうして、出所後、一年余りが過ぎたころ、監視カメラの映像のなかに、昔、見慣れた顔が写っているのを、サブロ−は、見つけた。  それは、他でもないムショで、初めてサブロ−に、「後門」に洗礼をしてくれたあの大男だった。サブロ−には、再会したいという欲求と絶対に会いたくないという拒否の気持の相反した感情が湧いてきた。  テレビを見ていると、男が仲間を連れているのが分かった。その男たちをサブロ−は見たことがなったが、その筋の者らしいことは、態度や服装でよく分かった。  男たちは、本来は、女が遊びに来るホスト・クラブに、男だけで来て、何を楽しむのか。その目的は、明らかだった。カネと暴力にあかして、暗く、淀んだ欲望を満たすためである。ホストのなかには、カネ目当てに、「両刀使い」をする者もいるのである。  ムショでの体験で、サブロ−は、自身の心中に、密かな男色の素質が芽生えていたのは、理解していたが、全く、そちら側へ渡るほど、その欲求は強くなかった。サブロ−は、基本的にノ−マルだったし、女性への欲望のほうが、まだ、強かった。それだけに、そういう関係を強要した男たちへの憎悪と嫌悪感は、そうした行為の度に、深く、強くなっていき、心の中に沈んで、厚みを増していった。  「あいつら、いつか、殺してやる」  一人になって、眠る前に、サブロ−はいつも、叫んでいた。  (男というものが、どういうものなのか、いつか、必ず、思い知らせてやる。尻の穴を探るのが、真の男なのか。女の穴を探すのが、本当の男なのか。お前らにきっと、思い知らせてやる)  サブロ−は、敵意を抱えて、毎日を生きていた。それは、自分をこんな惨めな境遇に放置しているこの不平等な社会と表では笑顔を作りながら、裏では汚い手を使って生き延びているエリート然とした体制派に対する、骨の髄まで染み渡った反逆の姿勢だった。  「そういう全ての者を、オレは殺してやる。その最初は、あいつらだ」  テレビの画面で、醜い笑い顔を見せて、酒杯を交わす男たちのクロ−ズ・アップを見ているサブロ−のくすぶっていた殺意に火が点いた。怒りは頂点に達して、爆発寸前になっていた。  サブロ−は、夜間の店内見回り用に持ち歩く木刀を手にして、部屋を出た。男たちのいる席は、ドアーを開ければ、すぐ、目の前だった。  サブロ−は、大男目がけて一直線に進み、その頭部を狙って、真っ直ぐに木刀を振り降ろした。男の額から、鮮血がほとばしり出て、床の絨毯を濡らした。店内は騒然となった。連れの男たちは、最初はひるんで引き下がったが、サブロ−が、第二撃を加えようと、木刀を振り上げた時に、店員やホストらと共に一団となって、サブロ−に襲いかかり、第二撃を止めさせた。  大男は、顔中を血で真っ赤に染めて、フロア−に倒れていた。眉間がまっ二つに割れ、目を見開いていた。それは、仁王像そのままの顔つきだった。  サブロ−は、男たちに羽交い締めにされ、連絡を受けて、駆けつけた警官に突き出された。救急車が駆けつけて、大男を収容しようとしたが、すでに、出血多量で、死んでいることがわかり、そのまま引き上げた。  サブロ−は、「殺人罪」で逮捕され、送検、起訴された。裁判の判決は、再犯罪とあって「懲役十五年」の実刑だった。    サブロ−は、二年ぶりに、刑務所に戻った。  今回は、再犯だったため、刑務所内では、羽振りが効いた。古参の受刑者たちは、舞い戻ったサブロ−を畏敬の気持ちで見ていた。それは、先輩への尊敬の眼差しでもあったし、重大犯罪を二度も重ねた者への恐れの念が混じった神妙な気持ちだった。  サブロ−の境遇は一変した。今度は、初犯の若者たちに「洗礼」を与える立場になっていた。  だが、サブロ−はそういう「仕事」を拒否して、一切、しなかった。なかには、いかにも、自ら獲得した立場を楽しむ古参の受刑者もいたが、サブロ−には、そういう立場は、むしろ煩わしく、無縁の事柄だった。  サブロ−は、ただ、正確に定められた日々の作業をこなし、規則正しく所内のスケデュ−ルに従っていくのが、自らの務めと胆に命じていた。  サブロ−は「死」を覚悟していた。すでに、二人も殺したのだから、いつか、自分も殺されて当然だ、と思うようになっていた。それに、体調が悪くなっていた。軽いカゼをひいても高熱が長く続き、肺炎も併発して、胸が苦しくなり、所内の病院に入院した時は、  「もう、駄目だ」 と覚悟した。  だが、サブロ−に「死」の福音は訪れなかった。代わりに彼を襲ったのは、医師の  「あなたはエイズに感染している」 という「エイズ宣言」だった。  刑務所内での度重なる肛門性交で、サブロ−の大腸の粘膜は、過剰に刺激され、時に出血したこともあった。そういう時にも、あの男たちは、サブローを許さなかった。  出血をしながら、後ろを攻められると、激痛が走ったが、意識は、半分、混濁していたから、その痛みには、まろやかさが加わり、膨れきった腫瘍が崩れるときのカタストロフィ−のような癒しを感じて、むしろ、自らの血の暖かさが心地よかった。  「ああして、オレは、感染したんだ」  サブロ−は、絶望を見た。男にレイプされて、失いかけていた男としての誇りを、規則正しい生活で、やっと、取り戻しつつあった時だから、その絶望は、底無し沼のように深かった。  「やはり、死のう」  サブロ−は、死を試みようとしたが、良い知恵は浮かばなかった。例えば、囚人服のズボンの紐を繋げて長い綱をつくり、窓枠に括り付けて、首を吊ることも考えてみたが、一度は、紐が解け、もう一度は、足を踏み外して、失敗した。そのため、看守たちには「自殺要注意人物」と見なされて、房内での自殺の試みは不可能になった。  エイズの発症を恐れながら、自殺を図る自分がおかしくなった。生きようとしているのか、死のうとしているのか。  サブロ−の心は、地にとどまることも、天に昇ることも、どちらもできない状況だった。天と地と、極楽と地獄との間で、彷徨っていた。それは、心地よさと、不快さがごちゃ混ぜになった浮遊空間だった。空気との比重が近接したヘリウム入りの風船が、空中に漂うように、サブロ−の魂は、空間に浮かんでいた。  「オレは、本当にどうすればいいのだ」  もう、その設問への答えは、自分自身の中では、解決できない状態に陥っていた。  サブロ−は、絶対者が欲しくなった。  「だれか、導く者がいてほしい」  サブロ−は、宗教を求めていた。  だが、刑務所に宗教はなかった。毎週、決められた日に、「仏教」「キリスト教」などの僧侶や神父、牧師が来て、説教する時間は組まれていたが、サブローは、それらに関心は抱けなかった。  (彼らは、学校の先生のように宗教を教えていく)  そうすることが、市民社会での「仕事」である以上、彼らがその務めを果たしていることに、異論はないが、サブローは、それは、自分の求めている真の宗教ではない、と分かっていた。  「人間が、その全身全霊を掛けて、燃焼し、心身共に燃え尽くすことができる対象」 それが、サブローにとっての、「宗教」の意味だと思われた。  サブローはそういう「宗教」を欲していた。外部にそれがなければ、自分の内部から、それを発見しようともしたが、やはり、「天」と「地」のどちらにも、確固としたものを得られない、中途半端な位置の中で、もがき、苦しむだけで、しっかりと手の中に捕えられるものは、なかった。  だが、  (エイズが、いつ、発症し、自分がいつ死ぬかもしれない) という底知れぬ恐怖と戦いながら、  (二人を殺してまで生きている) という生の実感とは、大怪我をした時の苦痛と治癒へ向かう時の癒しの感覚との相剋の中で味わえる、不気味な、どっちつかずの中間的な浮遊感覚のように、心地良く、甘美なものだった。  サブローは、そういう超感覚を、刑務所の日々の生活の中で味わいながら、七年を過ごした。最初の入所からは、十年が経っていた。そして、その十年を過ぎたころに、短期間の仮出所を許された。  サブローは、初めて新宿に来たときに、立ち寄って以来、常連になっていた喫茶店に入って、カウンターの中にいた顔見知りのマスターに、  「帰って来たよ」 と言って、例の如く、ダッチ・コーヒーを注文した。    スペインの現代史家で、思想家のアンナ・コトモ・アルデス女史は、その著書「現代宗教と救済」で「死のモチーフのない宗教は、世界史上に一つもないが、魂の救済に踏み込んだ哲学性を持つ宗教は少ない。多くは、『生』の世界での儀式と儀礼の要求に終わっている」と述べている。  確かに、現世の宗教は修行や勤行が、宗教者への道であることを求めている。傷ついた魂を救済する方策を教えてくれることは、ないのだ。  罪を犯し、自らの魂の癒しを求める者たちへの救いは、絶対にもたらされないのか。平安の境地と安寧の心理へと、迷える者たちを導く、メシアは、この世のどこにいるのか。  その探索の旅程を、サブローも、この混沌の世界で、始めなければ、ならなかった。              四  ーー 頭の上に白い大きな輪が降りてきて、両手に顔を埋めて、涙を流していた私を光が包み込んで、真っ暗だった空間を、真夏の太陽の下の焼けつく海岸のように変えたのです。  驚いて私が、両手を頭から離して、閉じていた目を開けると、そこは、赤、青、黄色、緑の原色が飛び交う色彩が洪水のように、降り注ぐ世界になっていまし。  私は、万華鏡のような、色とりどりの光を放つ、天空の光源に向かって、屈んでいた体を、思い切り伸び上がらせて、手を差し延べようとしましたが、すぐ真上に見えた光源は、遙か彼方にあり、私の両手は、空を掴んで、ゆっくり閉じただけでした。  私の体から、それまで私を攻め苛んでいた苦しみや悩みが、すーと、抜けていき、鉛を詰め込んだように重かった体が、すっかり、軽くなり、ちょっと、弾みをつければ、空中に浮かび上がってしまうような、軽快さを感じて、気分がうきうきしました。宇宙飛行士が宇宙遊泳をするときのように、私も空中で浮遊できるのではないかという気持ちになったのです。  それまで、身中に重く淀んで、積もっていた汚れた堆積物が、すっかり、抜けていき、わたしは、風船のように、体中に空気を孕んで、浮き上がろうとしていました。私の体の表面を覆う微細な神経は、鋭く感度を増し、僅かな刺激でも、大きく反応を示すようになっていました。まるで、空中に浮かんだ風船が、ちょっと指先で突くだけで、はるか彼方へ、飛んでいってしまうように、そして、シャボン玉が僅かな空気の動きを感じて、揺れ動くように、私の神経は、完璧な鋭さを持って、その空間を彷徨っていたのでした。  その時、そうした微細な動きを察知する鋭い神経を、私の下腹部を貫く強烈な刺激が、貫いたのです。それは、身体で一番、敏感なスポットから、一直線に頂上を目指し、体のど真ん中を駆け抜けて、脳を直撃し、天頂で弾け散って行きました。  素晴らしい、快感でした。全身が痺れるような刺激だったのです。  私はそんな甘美な喜びを味わったことが、なかったので、私の神経と体がこのような反応を見せるのに、驚き、絶叫しました。  この快感は、私の魂の救いになりました。刹那的な喜びではあっても、間違いなく、苦悩の底での救済だったのです。だから、私はこの経験が忘れられず、その後も何度もあの「薬」を使い、ついには常習者になったのですーー。  サブロ−が入っていた刑務所の医務室で、精神分析医のミチコは、特別の病院で自らが書いたその手記を読みながら、「あの頃」を思い出していた。  ちょうど、十年前に、ミチコは、人生を捨てる気持ちを抱えて、新宿三丁目のあの喫茶店に座っていた。たった一人で、頼んだウインナ・コーヒーを啜りながら、カウンターのなかにいるマスターを見ていた。  ミチコは、その前の年の春に、私立の医科大学を卒業したが、就職はしなかった。外科や内科と違って、精神科の医師の就職先は少ない。すでに、医師国家試験は、在学中に通っていたが、仕事がないのは、自尊心の強かったミチコには、自分を馬鹿にされているような気持がして、人生初めての進路の試練に直面していたのだ。  それに、結婚の約束までしていた同級生のイチローが、  「別れたい」 と言ってきたのも、ショックだった。イチローは、しがない安サラリーマンの娘のミチコを捨て、大学教授の娘の方との結婚を選んだのだった。イチローとミチコは、すでに、肉体関係があったが、ミチコは、それを理由にすがりつくような女ではない。ニッコリト笑いながら、  「それなら、そうしましょう」 とあっさりと、別れ話に同意した。  その上、ちょうど、そのころ、手塩に掛けて、ミチコを育ててくれた母親が死んだ。母のサチコは、後妻に入り、先妻の子の二人の姉を立派に育て上げて、嫁に出した上にミチコを私立の医大に進ませ、その卒業で、それまで、張り詰めていた糸が切れるように、習慣になっている朝風呂に入ったある日、突然、風呂桶のなかで心臓発作を起こして、あっけなく、逝ってしまった。イチローと別れたことは、大した衝撃ではなかったが、母の死は、ミチコには、大ショックだった。しかし,葬式やもろもろの後始末で悩殺され、悲しみが、湧きだしてくるまでには、時間が掛かった。  夏ごろには、事態も落ちつき、年老いた父とミチコのふたりきりの生活が始まった。父は既に、会社を定年退職して、職がなく、ミチコも無職で、一日中、家に居て顔を合わせていても、到底、明るい雰囲気にはならず、ミチコの気持ちは、ますます、沈んでいった。  そんなとき、ふと、手にしたのが、医学生時代に、入手して保存していた覚醒剤だった。その薬を飲むと、枠をはめられているような気持ちのタガが外されて、気持ちが高揚し開放された。これに、マリファナをミックスすると、脳内で苦しみをもたらしている何かの物資が、一気に消失し、閉じていた気分が、解き放たれた。  ミチコは、覚醒剤を常用するようになった。生理の前に、薬を飲んで、オナニーをすると、最高の快感を味わうことができた。この世の憂いを全て忘れ、怒りの気持ちも完全に除去され、心は、空間を浮遊した。  取り置いておいた覚醒剤が切れると、ミチコは、町にでて、売人から手に入れるようになった。そのためには、カネが必要だ。だが、収入がない。そのカネを稼ぐために。女は自分の肉体を使うことができるということを、ミチコも知らないわけではなかった。  最初は、新聞広告で見つけたピンク・サロンに勤めた。だが、口での奉仕は、ミチコの性格に会うはずがなく、口内炎にも罹って、一週間で辞めた。そして、薬への依存は、前より強くなった。すると、さらに、カネが掛かる。次は、ファッション・マッサージに勤めた。口内炎は治ったが、今度の仕事は、体を激しく使うので、もう、三十歳に手が届きかけていたミチコには、薬の常用もあって、体力がなく、疲れ切って、二ヵ月で辞めた。最後は、ソープ・ランドだった。ここも、体力がなければ持たない。それでも、ファッション・マッサージよりは、楽だったので、一年持った。だが、肌が湯でかさかさになり、かぜも引きやすくなって、寒さが増すころには、肺炎を併発して寝込み、勤めに出られなくなった。  高熱を発して、ミチコは入院した。入院しているベッドで、やっと、クスリから、逃れることができたが、今度は、禁断症状に襲われた。薬が切れると、身体中をモゾモゾと小さな虫が這い回り、もう何人もの男の物を受け入れた女性器の中に、入り込んで、内部を食い散らす夢を見た。その虫を追い出そうと、両手で下半身の付け根を掻きむしったため、ミチコの女性器は、赤く爛れて、膨れ上がり、切れて、出血した。  その症状を見て、担当の医師は、専門の医院への転院を勧めた。ミチコは、両手両足を縛りつけられたまま、病院の搬送車に乗せられ、窓に鉄格子の入っている病院に入院した。  そのときから退院するまで、四年が掛かっていた。その四年間は、薬物中毒から、すっかり足を洗うための努力の年月だった。その間、二度挫折しそうになり、地獄の淵まで行ったが、淵に滑り落ちずに、這い上がってこれたのは、落ちてしまうことへの怖れと、なにか、まだ、自分にも未来があるのではないかという、かすかな希望の賜物だったのではないか、と思う。  老いた父親が、見舞いに来るたびに、淵まで行って、思案していたミチコは、引き返してきた。やはり、家族の支えは、力があったのだ。 五  その刑務所の医務室に勤めるようになったのは、そういう経歴を持つミチコが、普通の病院には、とても採用されなかったことと、ミチコ自身が、ノーマルな境遇より、極限状況での医療を求めたということがある。したがって、身分はあくまで、臨時雇いの「嘱託」で、不安定だった。だが、ミチコは、仕事にも、人生にも、安定を求めたいという気持ちはなかった。  (どうせ、人生は、漂っていくもの。生きるのもうたかた、死ぬのもうたかた) という思いが強かった。それは、覚醒剤に走ったような、自身の弱く、優柔不断な性格の資質によるものとも思われた。  (私は、所詮、まともな生活や人生は送れないし、似つかわしくもない) という気持ちがいつもあった。  安定を求めず、かといって、そんなに不安定にも行けない。中途半端な浮遊状態が好きだった。  そんな気持ちで、医務室に勤めていても、どうにか、五年間も勤まっていたのは、日本の平和な社会のお陰だった。これが、アメリカのように、凶悪犯罪が多発している国だったら、こうはいかない。毎日、目が回るような忙しさで、明け暮れたろう。  だから、せっかく、ありついたこの仕事にも、ミチコは、不満だった。これといった刺激的な患者が来るわけではなく、毎日、おざなりに、不眠症の患者に、睡眠薬を処方したり、頭痛の患者に、痛み止めを出したりすることが、途方もなく、短い人生の時間の浪費と下らない行為に思えて、飽きはじめていた。  そんな時、サブローが、ミチコの前に現れたのだった。  サブローは、度重なる自殺未遂の囚人として、 (精神鑑定を受けるのが適当) との所長の判断で、ミチコの元へ送られてきた。  ミチコは、最初の診断の時に、サブローには、強烈な印象を受けた。自殺を図った者にしては、態度が堂々としているし、言うこともはっきりしていた。なによりも、ミチコが、感動したのは、サブローの肉体の素晴らしさだった。張りのある肌の色と無駄のない肉付き、強靱さを伺わせる筋肉の動き。堂々とした体格が、醜い顔を支えていた。確かに、面構えは美しいとは、言えないが、世間で美しいといわれるものほど、その裏側には醜さを抱えているものと、ミチコは、敏感に感知していた。  (顔なんてどうでもいい。人間は魂なんだ) と信じ始めていたミチコにとって、顔の美醜は問題ではなかった。  それより、体の芯から放射するような光をもった人間の方が、ミチコには、信用できる感じだった。言葉も見栄えも関係ない。存在そのものが感動を与えることができるもの。それが、真の美だと信じていた。  サブローには、それに近いものが、あった。椅子に、黙して語らずに座っているサブローの身体からは、オーラが発散していた。それは、生きようとして叶わないものを突き抜けようという意思と、その生を押し止めようとする障壁との相剋が発する、摩擦熱を孕んだ強烈な熱だった。  ミチコは、ダブローに熱を感じた。  そして、その熱があるのに、なぜ、自殺などを何度も図ったのか、疑問が湧いてきた。  それで、ミチコは、最初にこう質問した。  「何度も、自殺をしようとしたのは、何故なの」  サブローはこの質問を無視した。  二人で顔を見合わせながらの探り合いの沈黙が続いた。  「ミチコは、再び、聞いた。  「自殺するって、楽しいの」  「楽しいわけなんか、ないさ」  「苦しいの」  「そうでもない」  「ではなぜ、するの」  ミチコは、段階を追って、質問を続けた。  「生きていることを確かめたいからさ」  サブローは、胸を張って、張りのあるバリトンの声で答えた。  ミチコには、その心境が、少しは、理解できた。  ミチコもそうだった。薬漬けになったのは、生きていることを確かめたくなって、生の喜びを求めて、ということが、あったのかもしれない。  「でも、生きているじゃない」  「もっと、確実に生きていることを確かめたい」  「では、死ぬということは考えていないのね」  「いや、死ぬことを通じて、生きていることを知りたい」  「でも、死にきっていない」  「それが、うまく行かない」  ミチコは、それも理解が出来た。  人生なんて、そんなものかもしれない。生ききれず、死にきれず、生きていく。  だが、ミチコは、サブローとは、一つ、違うことがあった。それは、ミチコは、そういう確証のない生きかたをしてきても、まだ、だれも傷つけていないということだ、と思う。すくなくとも、サブローのように、人の命を奪ったりしたことはない。たとえ、父を苦しめていても、である。  ミチコは、その「差」に関心を向けた。  「あなたは、二人も殺したの」  ミチコのストレートな質問を。サブローは、キッチリと受け止めた。  「そうだ。だが、どちらも理由があった」  「理由があるから、殺したの」  「そうじゃない。殺してしまったが、理由があった、ということだ」  「理由があれば、殺していいの」  「いや、理由があって、殺してしまったのだ」  ミチコは、このやり取りから、その外貌に似合わず、サブローは、知能指数が高いのではないかと、記録を見た。その通りだった。サブローのIQは、一般人の普通以上だった。  知能指数は高いのに、容貌は醜く、二人を殺した殺人犯。  そういうサブローのイメージが、頭に浮かんできたが、そう言ってしまうには、はばかれるほど、サブローには、生きているという生命感があり、それが、半分、人生に投げやりになっていたミチコにの閉じかけていた心を刺激した。それは、この診察室に勤めるようになってから、初めて味わう、患者から与えられた生の感動だった。 ミチコの冷たく、固まりかけていた魂が、すこしづつ溶けはじめた。そして、この患者の全てを知って、治療を行い、所長が投げかけた問題を処理してやろうという欲求がわき起こった。  ミチコは、診察室のドアーに鍵を掛け、室内の照明を暗くして、天井のスポット・ライト一つだけにした。これで、大分、患者の心は落ちつくはずだ。そして、サブローを座椅子でなく、リラックスできるソファーに誘い、自分は、反対側の椅子に寛いだ姿で座った。ミチコは、白衣を脱いで、ティーシャツとスカートのカジュアルな姿になり、両足を綺麗に揃えて、腰掛けた。サブローはソファーに座ってからも、体を堅くしていたが、ミチコが、お茶とタバコを勧めると、お茶を旨そうに啜り、タバコを一本吸いおわると大分、寛いで、ゆったりとソファーにもたれ掛かった。    診察室は蒸しかった。古い形のクーラーのモーターが、カタカタと音を立てて、動いてはいたが、隙間だらけの建て付けの部屋の造りと、旧型のモーターが動かすクーラーの冷房能力は、この夏の暑さには追いつかなかった。  暗く湿った部屋の中で、スポット・ライトだけの暗闇の中で、ミチコは、サブローと対面していた。  静かに端座しているサブローを、ミチコはじっと見ていた。なにも、話さず、何も、言わずに。  サブローの、天井からのスポット・ライトに照らされた肉体は、彫像のようだった。額から少しずつ、汗が滲みだして、広い前頭部に、ぶつぶつの結晶を作っていた。  (そう、本当に、これは、彫像だわ。それも、ルーブル博物館のダビデ像のような西洋の均整の取れた彫像と同じだわ。ただ、違うのは、あの醜悪な面構えだ。そう、これは、あの運慶、快慶作の東大寺南大門の仁王像だ。でも、その頭から上を除けば、胸も腕も、上半身と下半身は、ダビデ像そのもの。でも、このアンバランスは、なんなのかしら。西洋と東洋の混在。これも また、何方にも、定まらない。何方と決めようのない宙に浮いた存在。中間生成物。だが、両方の美と醜を備えている)  ミチコはサブローの肉体を、まるのまま、直接見てみたい衝動にかられた。  「暑いわね。上に着ている物を脱いでもいいわよ」  ミチコの誘いに、サブローは、素直に従った。サブローは、着ていた半袖の囚人服の上着を脱いで、ズボンだけになって,ミチコの前に座った。  その時、服の中で、汗を吹き出そうとしていたサブローの厚い胸や太い上腕から、玉の汗が吹き出た。それは、一方向しか照らさない照明の光線を受けて、キラキラと真珠のように輝いた。  ミチコは、その様子を目にして、頭がクラクラした。だが、目は、そうして流れはじめたサブローの胸の汗の先端の行く方を必死で追っていた。  そのうちに汗の発する男の匂いが鼻を刺激しはじめた。濃厚な男のフェロモンを含んだ汗が蒸発して、空中に発散し、気体に含まれたこのホルモンのエキスが、ミチコの鼻孔を刺激し、ミチコは、眩暈がして、ソファーの上に倒れ込んだ。  ミチコは、無性に「男」が欲しくなった。視覚と臭覚による刺激に、性的興奮は、最も、強烈に反応する。ミチコは、本当に久し振りに、自然に自分の下半身の一番、密やかな部分が、感応して、ジワッと濡れているのを。内股の感覚で感じていた。  (何ということ。自ら、こういう部屋の状況を作っておいて、こうなってしまうなんて)  ミチコの胸中を、こういう状態に自らを追い込んだことに対する、恐れの気持ちが、走ったが、それは、長続きはしなかった。むしろ、進んで招いたこの状況の中で、しなくてはならないことは、自らを開放して、サブローの発散するフェロモンに、巣直に、自由に応じることだということが、ミチコには、分かっていた。そうすれが、苦しみや悩みの淵から、サブローもミチコも解放されて、また、あの自由な空間を彷徨うことができる。それは、クスリによる、一時の救いよりも、はるかに、前向きで、永続的な自由のはずだ。    だが、サブローにとっては、こういう状況は、どう認識されていたのだろうか。  実をいうと、サブローは、こういうような形で、成熟した女性と二人きりで、密室に閉じ込められるような経験は、なかった。間違いなく、初めての経験だった。だが、そういう状況を相手の女性が作り出したのは、なにか、意味のあることのように感じていた。  サブローには、生への意欲はあったが、生の実感はなかった。むしろ、それを確かめたくて、度重なる自殺を試みたのである。  だから、自らが発する強烈な生を呼び覚ます力を理解していなかった。それは、飽くまでも、彼に接する他者が、感じ取るもので、自分で分かるようなものではないのだ。 サブローは、エイズ感染者と認定されていたが、自らそう感じたことは一度もない。まったく、健康な人間と同じ生活を送り、食欲も睡眠も十分に取り、ただ、性欲だけが抑制されている状態だった。  エイズを意識しないサブローは、また、死を意識しない存在だった。だからこそ、何度も自殺を図れたのである。そして、その試みは、ことごとく、無駄に終わって、現にサブローは、生きていた。  サブローは、自身の発する生の力の強さを理解していなかったから、密室状態の中に、成熟した女性と二人きりでいることに、何の不思議も抱かなかった。単なる、女医の患者の一人として、自分は、ここに来ているのだ、としか思っていなかった。  それが、ミチコは、  「上着を脱げ」 という。  そして、それは、  「暑いからだ」 という。  裸になったサブローをじっと、見つめているミチコの目が、徐々に、うっとりとし、濡れてきたことを、サブローは、分かっていた。それでも、サブローは平然としていた。  (あくまで、おれは患者だ。ただ、医師の指示に素直に従うだけだ)  そう思い込んで、石のように、硬直しているサブローの耳に、  「わたしも暑いから、上着を取ろう」 というミチコのかすれた声が聞こえてきた。    ミチコはティーシャツを脱いだ。その下には、お気に入りのフランス製のブラジャーだけしか、着けていないのだった。その姿になって、ミチコは、サブローの向かいの席に腰を降ろした。  ミチコは、スポット・ライトを浴びて光る汗が輝くサブローの厚い胸を、じっと見つめた。サブローは、ミチコの目を見ていたが、ミチコの上半身がブラジャーだけになってからは、ブラジャーに包まれた豊かで、形の良い胸を想像するかのように、ミチコの隠された胸の一点を、凝視していた。  「これで少しは、暑さが凌げるわ。この暑さったら、まったく、地獄だわね」  ミチコのそういう語りかけにも、サブローは、一切、答えなかった。彼の額の上に一匹のハエがとまっていた。しきりに手足を擦っていた。サブローは、それも、一切、気にしない様子で、ジッと、ミチコの胸を見つめたままだった。  サブローの胸を汗が流れはじめた。胸にも二匹のハエがとまっては、飛び上がることを繰り返していたが、サブローはそれにも一切、構わなかった。  むせかえるような男のフェロモンの香りに、今度は、ミチコが軽く付けている「マダム・ミチコ」の香水の香りが、混じって、濃厚な媚薬の芳香の空間が、二人の間に形成された。その香りは、サブローの鼻孔にも届き、その粘膜を刺激しているはずだったが、サブローの表情は、依然、変わらなかった。  ミチコは、聞いてみた。  「リラックスできますか」  サブローは初めて、素直に答えた。  「ええ、少しは」  「では、肩の力を抜いて、体全体の筋肉から力を抜いてみて下さい」  サブローの怒っていた肩が、なだらかになった。筋肉から力を抜くことは、そう難しいことではなく、意識すれば、出来ることだった。  次に、ミチコは、サブローをソファーに横にならせてみることにした。  「リラックスできたら、そこに横になってください」  サブローは素直に、指示に従った。サブローは、尻と背を下にして、仰向けに横になり、天井を見上げる格好になった。  「両手を挙げてください」  サブローが、両手を上に突き上げると、ミチコはその両手を握って、  「そう、そうして、静かに、こうして、降ろしてください」  両手を肩とほぼ、平行になるまで降ろさせた。  「そして、体全体から力を抜いて、リラックスしてください。目を閉じて」  サブローは、指示に従った。  「体の重さが感じられますか。筋肉の力を抜いて、自分の体の重さを感じて見てください」  サブローの全身から無駄な力が抜けた。それは、魂が、ふと体から遊離して、空中に抜けだすような感覚だった。  「そう、いいわ。上手ですね」  ミチコのその言葉を聞いていたのか、いないのか。サブローの意識は現実から離れ、夢の入り口に立っていた。  その時、芳香が鼻を突いた。その香りは、頭の上の方からやって来て、鼻孔を直撃した。と、その刺激に感応して、意識の覚醒が始まった瞬間に、サブローの唇は、生暖かく、湿った、柔らかいものに塞がれた。芳しい香りと甘美な御馳走。夢見心地のサブローは、果樹が実る花園にさ迷い込んでいたが、やっと、果物を口に入れることができたという実感が膨れ上がって、強烈な刺激となり、身体中を貫いて、駆け抜け、下半身に至って、その根元の勃起神経を興奮させ、サブローの下半身のものが、頭をもたげ始めた。  「サブローさん。あなたが、頑張ったから、ご褒美をあげるわ」  耳に、ミチコの甘い囁きが聞こえきて、サブローの下半身は、さらに、角度を増した。  サブローが、非常時の状態にいる間に、ミチコは、ブラジャーを外していた。唇のあとで、柔らかい二つの丘が、サブローの胸の上にあるのを、サブローが感じ取るのに、時間はかかれなかった。ミチコの汗がサブローの汗と混じって、フェロモンはさらに広く拡散した。二人の脳髄は、完璧な生と性の頂上へ向けて始動を始め、アクセルは、全開へ向けて力強く、踏み込まれつつあった。                六  サブローは、ミチコの体の重みと温かい体温を感じていた。このうす暗い部屋で、汗ばんだ肌が触れ合う音と、フェロモンと香水の混じり合った芳香と、それに、壊れかかったクーラーのカタカタというモーターの音が、重なって、非日常的な異様な空間が形成されていた。  ミチコは、胸と胸を合わせ、サブローの体に、真っ直ぐにのしかかっていた。この姿勢で、サブローが次に感覚したのは、閉じた瞳への生暖かい唇の感触だった。その感触は、続いて、鼻へ、頬へ、顎へと降りていき、サブローの顔面は、ミチコの唾液まみれになった。  ミチコの口撃は、さらに続いた。顔のあとは、耳からうなじ、そして、首へと。その後、また、唇に戻ってきた時、サブローは、両手に力いっぱいの腕力を込めて、重なっていたミチコの背中を、自分の方に引きつけ、互いの体の前面を密着させておいて、ミチコの口の中に、自分の舌を差し入れて、ミチコの舌に、絡ませた。  ミチコは、そうされて、  「うっ、うー」 と呻いた。  ミチコの唾液の生産量が急増し、サブローの口中に流れ込んだ。サブローは、その甘美な蜜を、口に含んでは味わい、一定量が溜まってから、一気に飲み込んだ。  ミチコは、唇を離して、いったん、息をついた。  「感じた」  ミチコは、そう、問いかけたが、サブローは無言だった。  短いインターバルを置いて、ミチコは、次に、両手を突っ張って、体を起こすと、ソファーの脇に腰を降ろして、サブローの首から胸へと唇を這わせて行った。サブローの隆起した厚い胸の筋肉の上で、しばし、立ち止まり、時間を掛けて、唇を這わせたが、後は、一気に、腹部へ向かい、臍の穴をまた唾液で一杯にしたころには、左手が、自然に、サブローのズボンの上から、中のものを探っていた。ズボンの上から、ミチコはサブローのものを掴んだ。それは、半分、怒張していて、あと、僅かな刺激で、一気に反り返り、百八十度の反転を見せようとしていた。  ミチコは、それを確認してから、サブローのズボンに手を掛け、両手を使って、一気に引きずり落とした。そして、剥き出しになったサブローの逸物を両手で掴んで、頬張った。  ミチコの下半身は、まだ、スカートとパンティーを着けていた。ミチコは、二、三度、サブローのものを、しゃぶってみたあと、一時、その作業を中断し、自分の手でスカートを脱いだ。残ったパンティーは着けたまま、横たわっているサブローの頭の上に跨がった。  ミチコは、いわゆる、「69」の姿勢を取って、自分が上になり、サブローの下腹部に顔を埋めて、ペニスを口で攻撃した。そして、パンティーに覆われた豊かな臀部をサブローの顔に押しつけて、腰を揺すった。  すると、サブローの逸物は、最大の膨張度となり、ミチコの口の中で、硬度を増した。それでも、サブローは、ミチコのパンティーを顔に押しつけられたまま、じっとしていた。両手は、所在なげに体の両側に置かれていたが、その手が、動きはじめる一瞬は、もうすぐだった。  ミチコがサブローの肉塊を舌で刺激しながら、上下動を始めたとき、サブローの静止していた両腕と両手が動いて、顔の上のパンティーに、届き、一気に、引っ張り下げた。ミチコはその時を待っていたかのように、腰を持ち上げて、その作業をしやすいように、協力した。  ミチコの秘部が露わになり、サブローの眼前にその熟しきったザクロのような形状を晒した。陰唇は肥大し、充血し、滑りをもって光っていた。その真ん中にある核も、突出し、被いが開いて、中から、固い部分が顔を出していた。サブローは、その固い果実を口の先で転がした後、その下部に開いた花びらを上と下の唇を使って、かき分け、中の蜜を啜った。  ミチコは、  「アアー、アアー」 と歓びの声をあげた。  もう、十分、準備は整った。ミチコは、体を入れ換えて、熱く煮立った蜜壺に、灼熱の肉棒を受け入れようという姿勢になった.  すると、その時、サブローが、初めて、大声を挙げ、ミチコのその動きを静止した。 「そのままでは、駄目だ。ゴムを着けなくては」  サブローは、その一言だけを言った。  「どうして」  ミチコは、聞かずもながのことを、聞いた。  「オレは、エイズだ」  サブローは、短く、答えた。  ミチコはその言葉を聞いて、  「あなたは、優しい人なのね」 とささやいた。    全てのことが終わって、二人は、始めたときのように、体を重ねて横たわっていた。サブローは、ミチコの両の乳房に手を当てて、静かな愛撫を続けていた。終わったあとの気だるさの中で、互いの信頼感を確認しあうように、身を寄せながら、静かに余韻を貪っている男女の姿は、醜くはない。  うっとりとした目つきで、サブローの横顔を見ながら、ミチコが聞いた。  「なぜ、コンドームを着けたの」  「それは・・・。そうしなくては、いけないだろう」  サブローが短く、答えた。  「わたしは、そんなこと、怖くないわ。あなたに移されても、全然、怖くないのに」  「そういうわけには、いかない。わたしは、自分の命は惜しくないが、人の命を奪うわけにはいかない」  「あなたって、優しいのね。こんなに思いやりがあるあなたが、なぜ、殺人犯なのかしら」  「それには、わけがある。人はいくら、優しくても人を殺すことがあるということだ。優しくない人が、人を殺すのは分かる、と世間は思うだろうが、真実は、その逆なのだ」  「そうね。道徳的に正しい人が、政治家になるわけではないし、正義感が強い人が、法律家になるというわけではない。この世では、その逆のことが多いもの。その点、わたしは、医者になってよかった。患者のために、ここまで尽くすことが、わたしには、できることが、今、わかったから」  「だれに対してでも、できるのか」  「そうしたい。でも、今日は、あなただけという気持ちだった」  「だれにでも、できるようになってくれ。おれが、付き合っていた風俗の女たちのなかには、そういう気持の子もいたよ。カネを稼ぐためにだけ、そういう行為をしているのではない。男の寂しい気持ちを救いたいという気持ちも、少しは、持っている子がいるんだよ、あの世界にも」  「わたしも、そういう気持になれれば、きっと、自分も幸せを感じることができるんだ、と思うわ。だから、あなたにもいろいろと教えてもらいたいの」  「おれがか。このおれが、女医のあなたに、教える。そんなことができるかな」  「絶対に、できる。そういう確信を、今、得たの。だから、教えおわるまで、ずっと、あなたと一緒にいたい」                       七  こうして、始まったミチコの「診察」は、サブローの入所中、毎週一回ずつ、行われた。それは、普通は、一時間くらい、長いと三時間に及ぶことがあった。そのいずれの「診察」の後でも、ミチコの顔色は紅潮し、サブローの肌の色が、赤く光を増していたことが、観察された。  そうして、半年程経って、診察室にいる三人の看護婦の一人が、サブローの診察時に限って、診察室のドアーに鍵が掛けられているのに、不審を抱いた。それから、その看護婦は、サブローの診察の時には、閉じられたドアーの向こう側の動きに強い関心を抱くようになった。  診察が始まると、部屋のライトが、薄暗く落とされるのは、いつもの他の患者への精神診療の時と同じだったが、いつもは、三十分くらい過ぎれば灯る部屋の明かりが、サブローの時は、短くて一時間、長い場合は三時間も、灯らず、暗いままだったのが、第一の疑問だった。  第二の疑問は、声であった。ミチコとサブローは、診察室に入ってから、ドアーを閉じると、ほとんど、中からは、音が聞こえてこない。すなわち、長い沈黙が続くのである。そのうち、一時間もすると、ミチコの長く尾を引く、  「あー」 とか、  「うー」 とかいう声が、わずかに、聞こえてきて、その後、また、静寂が訪れる。  この看護婦は、この「無声」を訝った。なぜなら、他の患者の場合は、ドアーは、開け放たれていて、中からは、ミチコの問診の声や談笑が聞こえてきていたからである。サブローの時に限って、部屋を締め切り、しかも、ずっと、静かになるのは、どう見ても、不自然だった。  この看護婦が、疑惑を抱いた点は、さらにある。なんといっても、不思議なのは、診察終了の合図で、看護婦が部屋に入ると、クラクラと眩暈がするような、甘美な香りと濃厚な媚薬の香りが、漂っていて、彼女自身、何度も、腰が抜けるような体験をしたことだった。その上、二人は、いつも、全身を紅潮させ、まるで、湯上がり後のように、のぼせ上がっていた。それほど、男性経験のあった方ではないが、その看護婦は、女の直感で、それは、男女の睦みあいの後の、余韻の雰囲気のせいだと、見てとっていた。  かといって、看護婦という立場から、医療行為を行う医師であるミチコを問い詰める訳にも行かず、悩んだ末に、上司の診察室長を通り越して、長く親交のある女性の刑務所長に、相談することにした。  看護婦の挙げる、数々の疑惑を、目を閉じて聞いていたそのベテラン所長は、全てを聞きおえると、  「いずれも、あなたが感じていることに過ぎないわね。まず、事実を確認しないことには。それには、証拠を掴むことよ」  と考えを述べた。  「どうすれば、いいでしょうか」  「二人は、部屋に入ると、ドアーを閉めて、他人が入れなくしてしまうのでしょう。診察室は、医師の管理下にあるから、私のほうで、強権を発動して調べるわけにはいかない。そうだ、あなたが、証拠の映像か音声を撮って見ればいいじゃない」  「盗撮とか盗聴という意味ですか」  「まあ、はっきり言って、そういうことかもね」  「・・・・・・・・・」  看護婦は、そう言われて、考え込んだ。  「資材は用意できるでしょう。ビデオもテープ・レコーダーも、あるわよ」  「そうですか」  看護婦は、所長にそこまで言われて、心を決めた。  「わたし、やってみます。こういうことを、このまま放置するわけにはいかないですから」  「そうね、ミチコさんは、臨時職員とはいえ、医務室の医師なのだから、そう乱れたことをしてもらっては、困ります。まして、相手が、入所者だなんて。ことが外に漏れたら、管理責任を問われますからね」  所長は厳しい表情で、言った。  「わたしもその点が心配です。ミチコさんに対して、どうこうという気持ちは、わたしには、まったく、ないのです。ただ、所内の規律のためです」  「よく、分かっています。じゃ、やってみて下さい。その証拠が揃ってから、あとのことは、考えましょう」  所長の言葉に送られて、看護婦は、出ていった。  次の週のサブローの診察日を狙って、その看護婦は、機材をセットした。  ソファーの反対側の書棚の中に、ビデオ・カメラを隠し、小型テープ・レコーダーは、医師が座る机の引き出しに、潜ませた。もちろん、リモコンで操作できるほどの装置・設備はないから、診察予約時間の寸前に、ミチコがトイレに行くのを見計らっての作業だった。  トイレから、帰ってきたミチコは、やって来たサブローを、いつものように、笑顔で迎えて、部屋に入れ、ドアーのキーをロックした。そのあと、照明を落として、ソファーに腰掛けた。  もうこの頃は、ミチコは、サブローの対面には座らなかった。初めから、サブローの横に腰掛けて、これといった問診もしないで、ただ、顔と顔を合わせて、目と目を見つめあい、しばらくすると、サブローの厚い胸の中に、頭を沈めた。  そして、ミチコから誘うこともなく、サブローの方から、ミチコの体を引き寄せ、ミチコの顎を、右手で上向かせると、その尖った唇の先に、自らの唇を持っていった。重ね合わせた唇の中で、サブローが、舌を差し入れて、ミチコの舌に絡ませて、強く吸うのが、毎回の、儀式の始まりになっていた。  ミチコは、その動きに応じて、サブローの顔を下から見上げる形になり、サブローの背中に両手を回して、しがみつく。その形で、長い接吻が、続く。それが、一時間にも及ぶことがあり、その間は、部屋は静寂が支配していた。  ミチコの体は、そうしているうちに、くすぶりはじめ、炎を伴って、燃えはじめる。サブローもまた、そうした時間を通じて、静かに収まっていた情念の火をともし、ほんの僅かの刺激だけで、エンジンが快調に高回転へと唸りをあげていく態勢を整えるのだった。  サブローとミチコは、全身の力を込めて、抱擁しあい、一時間の助走時間を過ごした。その後、どちらかが、互いの上着や下履きを脱がすのが、普通の愛の儀式だが、もはや、この二人には、その必要はなかった。  お互いに、十分の助走をし、ウオーミング・アップが、終わったのを確認しあうと、体を離して、ミチコは着ていたブラウスとスカートを自らの手で外した。サブローは、囚人服の上と下をさっと、脱ぎ捨てた。そのあと、ミチコは、ブラジャーとパンティーを脱ぎすて、サブローは、シャツとパンツを脱いだ。  二人は、生まれたままの姿になって、互いを見つめて、立っていた。もう、全裸になった後で、ソファーに倒れ込んだりはしない。ただ、立ったまま、互いが近寄るのを待ち、歩み寄って、再び、しっかりと正面から、抱き合った。  ミチコは、抱き合っていた右手を、緩やかに離し、サブローの下半身に持っていった。そして、そこにあった男のものを、しっかりと掴んだまま、膝を折って、腰を降ろし、サブローの下半身の前にしゃがんで、右手で握ったものを扱きながら、唇を近付けていき、軽くキスをした。すると、サブローのものは、少しずつ、頭をもたげ、きつ立を始めた。ほぼ、直角に、起き上がったところで、ミチコは、口内にそれを吸い込んで、頬を膨らませた。  その時、ミチコは、本棚の方をちらと、見やると、サブローの体を九十度回転させ、本棚の方から見ると、左にミチコ、右にサブローが位置するようにし、その中央部にサブローのものを口に頬張ったミチコの横顔が、来るような体勢にした。  ミチコは、優しく、包むように、口全体を使って、サブローのものをくわえ、柔らかく、舌で先端を愛撫した。それは、サブローには、生暖かい感覚を与え、その心地よさは、腰から脊髄を抜けて、頭部に達し、セックスの快感となった。  ミチコは、舌での刺激を終え、頭を前後に動かして、肉の棒の上を行ったり来たりと唇を滑らせた。口によるちゅう送運動は、サブローのものの皮膚感覚を鋭敏にし、中のものを鋼鉄のように硬くさせた。硬くなり、角度が増して、既に、それは、ミチコの口の中だけでは、処理しきれない状態になって、ミチコは唇を離した。  今度は、サブローが、直立したミチコの前にかがんで、ミチコの熱く火照った女の部分に愛撫を加えた。最初は、右手の指を使っての刺激だった。それによって、火を燃え立て上がらせられたミチコのその部分は、内部から、液を溢れさせて、火を消そうとしているかのようだったが、サブローの人差し指と中指が、内部をまさぐり、さらに、薬指も加わっての、内部の探索でも、溢れ出る液を押さえることは出来なかった。  ミチコは、サブローの厚い胸にしがみついていた。それを振りほどいたサブローは、ミチコの前に跪いて、湧きでる泉に、口を持っていき、その蜜を吸った。鼻の頭部が、泉の上にある、丸い硬いものに触れるたびに、ミチコは、上半身をのけ反らせた。  そういう第二段階のステップにやはり、一時間かかった。  そのあとは、十分、態勢の整った互いの体を、真っ直ぐに、向かい合わせて、結合する段階だけが残されていた。サブローは、愛する異性への自らの象徴の没入を欲し、ミチコは、その象徴へ、厚い、硬いものを受入れたいと、欲情していた。  サブローは、ミチコの両足を両手で抱え挙げて、その陰部を自らの下半身のものへと導き、腰を入れて、下から突き入れた。  ミチコは、その瞬間、頭に血が上り、  「あー、あっつ」 と意識しないままに、声を挙げざるを得なかった。  サブローは、そのものをミチコの中へ、深く差し入れて、腰を回して、内部をかき混ぜた。それが子宮の内部をかき混ぜ、粘膜を全体的に刺激した。  ミチコは、内部を蹂躪された被虐的な感覚が、甘美な衣を纏って、快感に繋がるのをよく、知っていた。ミチコは、また、  「うー、うっつ」 と歓びの声をあげ、両手で、サブローにしがみついた。  サブローは、次に、腰を上下に振って、ミチコの腰を振り上げ、振り下げて、肉の棒を出し入れした。その感覚は、今度は、ミチコの蜜壺を覆っている襞の感覚を鋭敏にし、小陰唇と大陰唇を摩擦して、肥大させた。それは、その部分を、快感の集中するスポットにして、全ての心地よい刺激を、脳幹部に直送し、体への反応に繋げた。ミチコは、体をエビのようにのけ反らせ、サブローの体に、両手を絡ませながら、天井を仰いでいた。  そういう全ての行為は、本棚の正面で、正確に行われた。それは、十分に稽古を重ねた芝居の演技のように、均整が取れ、確実だった。二人は、まさに完璧なデュオだった。他には絶対ないような、完璧な相性をもって、その一連の行為は、行われ、流れるように続いていった。  最後に、ミチコは、サブローに両足を開かれたまま、前に持ち上げられた。ミチコの赤く膨張した、女の部分が、大きく開かれ、内部まで見えるように、開帳された。そのまま、サブローは、ミチコの前の部分を、開いたまま、本棚の方に向かって、静止した。分泌液で肉汁のようにコーティングされた赤い肉壁は、十分に淫乱で刺激的だった。そういうポーズでサブローは、十分、静止し、ミチコを床に降ろすと、上から、一気に差し入れ、激しく、腰を使って、ミチコを頂上へ導いた。ミチコは、自制心を完全に失って、頭の中が真っ白になった。ミチコは、失神し、その下半身の壺を失禁で濡らした。  サブローは、ミチコの腹部に、放出し、体を離した。  (エイズの人間が、内部に放出してしまったら、結果は最悪だ)  サブローには、そういう信念があったから、ミチコの  「中で出してもいいのに」 という許しを、頑に拒否していた。  サブローは、ラスト・スパートで、全力を使い切って、ミチコの体から体を離し、並んで床に、仰向けに横になった。  サブローの心臓の鼓動は、ハッキリと聞こえるくらい、高まっていた。ミチコは、すぐに、行ったあとの虚脱感から抜け出し、横に並んだサブローの下半身のものを握ると、体を起こして、横にしゃがむと、再び、口に含んで、頭の上下動を始めた。サブローのそのものは、一度、放出した後、萎えていたが、ミチコの口による刺激に応じて、再び、充血を始めた。ミチコは、硬度が十分に増したのを確認して、サブローのその部分の上に跨がり、静かに腰を降ろして、自分の凹部にサブローの凸部を迎え入れた。  ミチコは、腰を使って、快感が突き抜けていく感覚を貪った。こういう姿態は、上にいる女性が主導権を取って、自由に快感をコントロールできる。サブローの顔が、蜜壺の粘液の刺激による快感で、引きつり、歪んだ。  その顔の表情を見て、ミチコは、  (これで、わたしは、自由になるのだ) と実感していた。  (サブローを自由へと解き放ち、自らも、手枷、足枷を外して、自由空間に浮遊できる)  そう考えると、  (こういう時間を永続させたい) という気持にかられた。  (この瞬間を静止させておきたい)  そういう強い衝動が、心中から突き上げてきた。  ミチコは、目を閉じて噴出に堪え、ため込んだ快感を、持ちこたえようとして努力しているサブローの首に両手を掛けた。そして、思いきりの力を込めて、締めた。  その時、サブローには、首を締められているという意識はなかった。非現実的な、浮遊意識の中で、すでに、現実的な痛みや苦しみの感覚はなくなっていたから、首が締められて、徐々に息が詰まり、息苦しくなっていったのも、そう深く認識できなかった。  そのうちに、意識が薄らいできて、頭のなかが真っ白になった。それは、臨死体験をした人たちが語る、明るいお花畑の白昼の白さだった。サブローは、とても気持ちが良かった。花園の上空に視線が移り、小川の流れに架かった小さな丸い橋を、色とりどりの鳥たちに囲まれながら、渡っていく自分の姿を、見ていた。サブローは、橋の上で、躊躇していた。  (渡るべきか、引き返すか、迷っている。この快感を絶やさぬように、早く、渡ってしまえ)  天空の視点にいるサブローの目は、この姿を見て、そういう励ましの声を送った。  橋の上のサブローは、しばし、橋上で花園の花々を見回したあと、やっと、橋を渡り始めた。  (橋を渡りきった) と思った瞬間に、画面は暗転し、深い暗闇に閉ざされた。そう、知覚したか、しないかの瞬間、サブローは、グッタリとなった。  ミチコは、サブローが、グッタリとなっても、それは、打ち寄せる快感による一種の昇天なのではないか、と考えていた。女性は、男性の行為によって、そうなることができるが、男も女によって、天空へ導かれることができる、とミチコは、考えていた。  ミチコは、グッタリとしたサブローの下半身の部分から血が引いて、一気に萎えて行くのを、自分の下半身の部分で直接、感知していた。  「行ってしまったのね」  そう思って、下半身を、離した。そして、愛しそうに、胸に顔を埋めたが、その厚い胸の中から聞こえる鼓動が、いつもとは、違うことを、ミチコの聴覚が感じ取った。心臓の規則的な鼓動が、聞こえないのだ。  ミチコは、医師である。このことが、何を意味するかは、すぐに、分かった。  ミチコは、サブローの胸の上に、両手を置いて、何度も、リズミカルに押し下げる動作を繰り返した。だが、その心臓マッサージの努力も無駄だった。心臓は、再び、鼓動を始めることはなかった。停止したままだった。  (サブローは、死んだ)  ミチコは、そのことを、理解した。  (なぜ、死んだの。わたしが首を締めたから)  そう考えると、納得がいった。  (最高の感覚の中で、最高の場所に登って行ったのだわ。わたしがそうしてあげたんだ)  そう考えると、満足がいった。  そして、ミチコは、サブローの死体を、隣の診察台のあるタイル張りの部屋に運ぶと、鋸とノミやメスを手にして、解体を始めた。           八  管理意識が旺盛なそのベテラン看護婦は、サブローの治療が終わったのを見計らって、診察室に入ろうとしたが、依然として、ドアーには鍵がかかっており、中へは入れなかった。すると、そのうちに、ミチコが、焦燥しきった表情で、部屋を出てきて、どこかへ走って行った。看護婦は、その不在の間を見計らって、部屋に入り、本棚に置いたビデオ・カメラと医師の机の引き出しに隠しておいたテープ・レコーダーを回収した。  看護婦は、早速、別室にテープを持ち込み、再生して、確認を始めた。  ビデオ・テープは、最長二時間の録画時間で、それは、一本しか入っていなかったから、確認にもそれだけの時間がかかる。それでは、この短い時間だけでは、無理だと考えて、まず、頭の三十分くらいを見てみることにした。  八ミリ・ビデオのカメラを、モニター・テレビに繋いで、スイッチをいれ、プレイ・ボタンを押した。そして、テープ・レコーダーも再生にして、画面と同期させた。  画像は、最初の十五分くらいは、ミチコが、机でカルテを読んでいる場面が、続いた。そのあと、イチローが、部屋に入ってきた。その部分の音声は、明瞭に記録されていたが、内容はなかった。  ミチコは、型通りの質問をして、サブローの容態を聞いていた。  「その後、どうですか」  「変わりません」  「すると、まだ、自殺願望はある」  「いつでも、死にたいと思っています」  そういう会話が、型通りに行われていた。  だが、それは、十分くらいで、そのあとに、ミチコの声が続き、画面はミチコが、サブローの座っているソファーに移動していくのを写していた。  「わたしが、いても」  ソファーに腰を降ろして、ミチコが、サブローの肩に手を掛けながら、聞いた。  「それは、ただ、わたしには、未来がないから」  「わたしが、生きがいにならないの」  「いまは、確かに、生きる意味の多くが、そのためだ。でも、おれには、未来がない」  そのあと、ミチコが、サブローの頭に手を回して、唇を持っていく場面になった。看護婦は、目を見開いた。  あとは、流れるように、二人のセックスの場面が続いていった。それは十分に、この未婚の中年女性の官能を興奮させた。この謹厳実直な看護婦にとって、そのような場面に、遭遇することは、あくまで異例の経験だったし、レンタルのアダルト・ビデオを見るような趣味もない彼女にとって、それは、たしかに、衝撃的な映像だった。  彼女は、すでに、濃厚な二人の接吻の場面で、下半身の微妙な部分が、熱を帯びて、疼くのを感じた。されに、続く、濃厚な愛撫の画像には、心臓の鼓動が、早鐘のように打つのを感じていた。顔が紅潮して、体全体が、熱くなった。サブローが、ミチコの胸に口付けし、ミチコの乳房が、唾液で濡らされる所では、思わず、自分の胸に手を入れて、乳首を揉んでしまい、自らの自制心のなさに、気が付いて、はっと、手を離した。 画面を食い入るように見詰めていたため三十分の予定が、一時間に及んだ。その一時間で、彼女の下半身は、もう、ふらふらになってしまい、時計を見て、  (そろそろ、診察室に戻らないと、いけない) と、気が付いたときには、ただ、ぼうぜんとなって、椅子に倒れ込んでから、かなりの時間が過ぎていた。  看護婦は、  (あとは、自宅に持ち帰って、チェックしよう) と考えて、機器を整理した。そして、ビデオと音声のテープ二本を取り出して、ロッカー・ルームに行き、ショルダー・バッグにしまって、勤務場所に戻った。  ミチコは、帰っていなかった。  ただ、デスクに書き置きがあった。  「わたしは、所用が出来たので、早退します。午後四時に、運送業者が来ますから、診察室にあるダンボール箱三個を渡してください」 と書いてあった。  (いま、午後三時五十分か。あと十分だ)  看護婦は時計を見て確認した。  運送業者は、時間どおりにやって来た。  看護婦は、彼らを診察室に招き入れ、かなり大きな箱の荷物三個を、着払いで渡した。伝票は、既に書かれていた。今までに見たことのないようなビデオを、密かに見ていたことで、完全に、興奮し舞い上がっていた看護婦は、本来なら行う宛先の確認もせずに、係員らに荷物を持ち出させた。  その日の患者の予定は、もうなかった。看護婦は、それでも、その日の終業時間まで、時間を潰したが、特に仕事がなかっだけに、家に帰ってからの作業を想像して、頭はすでに、狂わんばかりに、加熱していた。  仕事場でのほてりをそのまま持ちかえった看護婦は、家に帰り着くと、取るものも取りあえず、ビデオ装置に、ビデオ・テープをセットし、ラジカセには音声テープを入れて再生を始めた。それは、アダルト・ビデオを借りてきたマニアが、部屋を締め切って見始める瞬間に似て、期待で一杯の一瞬だった。邪魔されたくなかったので、電話の線を差し込み口から引き抜いた。  画面は、二人がソファーに凭れ込んで、互いの体を貪り会う場面になっていた。互いの衣服をすべて取り払う場面で、彼女も、上着と、下着を外した。彼女の行動は、完全にテレビの画面と連動するようになっていた。  サブローが立ちあがって、ミチコにフェラチオをされる場面では、初めて、女が男のものを口に含んで刺激する行為を、目で見たこともあって、思わず、口をすぼめていた。そして、冷蔵庫にあったバナナを思い出し、一本もいで来て、口に入れた。両手でバナナを掴み、前後に動かして、その表面を滑らかにしていた。  画面を見ながら、バナナを喉の奥に差し入れたときは、軽い快感がした。それで、もっと奥まで、差し入れると、もっと気持ちが良くなったが、息苦しくなったので、それで、やめにした。画面では、サブローが、ミチコの下半身に口を入れて、奉仕している所だった。看護婦は、それは、一人では無理だと分かったが、右手は自然に、すでに十分、潤んでいた下半身に向かい、パンテティーを足首まで擦り降ろして、すっかり丸出しになった秘密の部分を、激しく摩擦していた。  サブローが、ミチコの体を持ち上げて、ビデオの画面の方に向かい、ミチコの両足を大きく開脚させ、その部分を開いて、見せつける場面に来た。  看護婦は、その時、鏡台に行き、手鏡を持って来て自分の両足を大きく開き、その真ん中に鏡を翳して、自分のものを見ていた。  (なんて、美しくて、醜いの。赤い口を開けて、てかてかに光っている。なんて美しいの、わたしのこの部分。赤い舌を出して、招いている。なんて、醜悪なの)  そういう思いを抱いて、画面と鏡とを見た。そこにあるのは、十分に熟れきって、男のものを待っている、女性の性器だった。  (この性器は、男を受け入れることのできる性器だ。同じものなのに、私のものは、そうしたことがない)  彼女は、そう思い当たって、手鏡を離し、きちんと座りなおして、画面の続きを見た。画面は、ミチコの赤い性器を拡大して見せた場面の後で、突然、真っ白になった。  看護婦は、カメラからテープを取り出した。それは、最後まで、使われて終わっていた。二時間のテープが、そこで終わっていたのだ。  彼女は、さらに行為の続きを見たかったが、それは、無理だということがわかった。  彼女の火照った体を、癒す方法は、ただ、風呂に入って、冷たいシャワーで体を冷やすしかなかった。冷たい水流を、下半身に打ちつけ、軽いエクスタシーで、加熱した体を冷やし、抜けきれない疲れを抱えたまま、床に就き、朝までうとうとしていた。  そして、  (これは、大変なものを見てしまった。さっそく、明日、所長に、報告して、善後策を講じないといけない)  すっかり、有能な国家公務員の思考に戻って、やっと、彼女は、眠ることができた。  翌日、その刑務所に、彼女が出勤すると、所内は騒然としていた。  診察室のロッカー・ルームで着替えをして、所長室に直行した。所長は、渋面をつくって、椅子に深く沈んでいた。  看護婦が怪訝な顔で、問いかけると、  「いまごろ、何を言っているの、あなたのところには、夕べから今日の朝まで、連絡を入れたけど、不在だったし、どこに、行っていたのですか」  「はい、いえ、ちょっと、用事があったので・・・・・・」  そう言うしかなかった。  「受刑者が、姿を消したのですよ。どこを探しても見当たらないの。脱獄と見て、いま、警察に連絡し終わったところです」  「誰なんですか」  「誰って、何を言っているの」  「その逃げたのは」  「ああ、吉田三郎ですよ。二人も人を殺した凶悪犯です。大変なことになってしまった」  「いつごろから、不明なのですか」  「その点を貴方に聞きたかったのです」  「何故ですか」  「ですから、昨日、ミチコ医師の診察のあと、サブローの所在は、確認したのですか」  「いつもは、看守が連れて帰るのですが・・・・・・。係の看守は、何と言っていますか」  「看守は、ミチコ医師に、先に帰っていい、と言われて帰った、と言っています。サブローの診察は、いつも長時間かかるので、最近は、終わったあとで、連絡してもらって、引き取りに来ていた。昨日も、終わった後、連絡がある思って待っていたが、ずっと、連絡がないので、六時過ぎに気が付いて、迎えにきたが、見つからず、大騒ぎになったのです」  「では、ミチコ医師は」  「これも、連絡が取れないのです。家に何度も連絡を入れたのに、出てこない。どうしているのか、あなた、わからないですか」  聞かれたが、看護婦にはミチコの行く方は、まったく、心当たりがなかった。  所長は、続けて聞いた。  「昨日、サブローの診察の時には、あなたはいたのでしょう」  「はい」  「いつごろ、診察が終わったのですか。詳しく、状況を話してください」  「三時ころ、診察が終わった、とミチコ医師が出てきたので、それで、終わりと考えて、仕掛けておいたビデオを早く回収しようと、すぐ、診察室に入りました」  「ああ。あの件ね。それを昨日、実行したのですね」  「そうです。所長には、そう報告したと思いましたが」  「ああ、そうでした。それで、診察室に入った時は、サブローは」  「いませんでした」  「とすると、ミチコ医師が出ていったときには、サブローは、部屋にいなかったのですね」  「そうだったと思います。その時は、先にサブローを帰して、ミチコさんが出てきたのだ、と思いました」  「ミチコさんは、そのあと、帰ってきたのですか」  「いえ。わたしは、すぐに、ビデオを見ようと、別室に行ってしまい、一時間ほどして、戻ってくると、「所用があるので、先に帰る」というミチコ医師のメモが置いてありました」  「すると、ミチコさんは、先に帰ったのですか。その一時間の間に、サブローが脱獄したのは、間違いなさそうね」  「はいっ」    サブローは、すでに、解体されて、ミチコの待つある場所へ、宅急便で送りだされていたが、刑務所の外では、凶悪な殺人犯の捜索に、警察官が、走り回っていた。  ミチコが、サブローの「身体(ボディー)」の移送を依頼した先の東京・神田の古い民家に、その荷が届いたのは、その翌日だった。その家は、あと数カ月後の解体が決まっていて、玄関にも窓にも板が打ちつけられていて、電気の配給も止められていたが、配達人が、正確に住所を確認したあと、思い切って中に声を掛けると、裏口から女性が姿を表した。その女性はミチコである。  ミチコは、配達人が運んできた大型の段ボール箱三個を、裏口から中に入れてもらい、ここに人が住んでいたときには、居間に使っていたと思われる部屋に、運び込んだ。陽は、既に高く、もうすぐ、正午という時刻だった。  段ボールの中には、ミチコが診察室で切断し、血抜きもしたサブローの遺体が、胴体、頭部と上肢、下肢の三部分に分けて入れてあるはずだった。  段ボール箱が、部屋に収まったのを確認して、運送人達は帰っていった。以前は、酒屋を営んでいたこの旧家は、玄関口が広く、道路に面した店構えがそのまま残り、ただ、棚の上に並んでいた商品の酒瓶がなくなり、棚だけが壁に横に並ぶ空虚な空間をつくっていた。その店先から一段上に上がった奥の部屋が、段ボール箱が置かれた居間になっていて、さらに奥には台所が続いていた。この家の造りは、サブローが、最初の殺人事件を起こした酒屋の構えと良く似ていた。  ミチコは、もちろん、そういう形の家で、サブローが、最初の事件を起こしたことなど、知るよしもなかった。もし、知っていたら、  「それは、良かった。そういう因縁のある家で、サブローと二人きりの時間を過ごせるなんて」 と考えたに違いない。  ミチコは、荷物が、キチンと収まった後、台所のガス台に点火して、水を張った鍋を掛けて、暖め始めた。電気は、止まっていたが、ガスと水道はまだ、止まっていなかった。それも、あと数日で、止まるのは、間違いないだろう。  鍋の中がコトコトと音を立てはじめたころ、ミチコは、置かれた箱の一つを開いて、中の物を取り出した。その箱には、胴体が入っていた。すでに、胸と腹に分割され、内蔵も別のビニール袋に分けられていた。ミチコはその、内蔵の詰まった袋を取り出した。そして、綺麗な緑色の肝臓と黄色い胃や長い腸を取り出して、俎の上に乗せ、包丁で細かく刻んだ。  鍋の湯は沸騰を始めていた。そこへ、塩を入れてから、先ず、肝臓をぶち込んだ。続いて、胃や腸も一気に、たたき入れた。そして、鍋の蓋をし、肉が煮込まれるのを待った。  こうした一連の作業を終えて、ミチコは、座敷に座って、めい目した。  「天よ、われらを救いたまえ」  心中で、五回、呟いて、横になった。  いろいろな、思いが頭をかすめていく。  そして、  (こういう、人でなしの、獣のような行為をしているのは、罪ではないのか) という問いかけが、まず、頭に浮かんだ。  ミチコは、  「否」 と言った。  (なぜ、否と言えるのか) と心中の誰かが問う。  「わたしは、悪いことはしていない」  ミチコは、確信を持って、答えた。  (でも、あなたは、人一人を殺して、切り刻んでしまった)  「確かに。だが、そうすることが、サブローにも、わたしにも、まったく自然だ。サブローはそうして欲しかったのだもの。痛み、傷ついた魂の救いを求めていたのだもの。わたしも、胸の中で壊れていきそうな魂の救済を求めていた。その救いの行為が、絶頂を究めたときに、わたしは、そのままの状態で、彼の肉体を私の物にしておきたかった。だから、肉体が失われても、魂は、こうして私の中で、生き続けることができる。わたしは、彼を救い、彼もわたしを救おうとしている」  鍋が煮詰まってきた。  ミチコは、体を起こして、台所に行き、鍋の蓋を開けて、中の様子を見た。そして、おたまで中身をかき回すと、茶碗を持ってきて、よそった。  茶碗を両手で捧げて、居間に戻り、正座して、茶碗から静かに、汁を啜った後、箸で身を取り、口に運んだ。  (サブローが、わたしの中に入っていく。完全にわたしのものになる。わたしの体の一部となって、サブローは救われる。完全な一体化、真の結合、最高の合体だわ)  サブローはエイズに感染していた。そういう感染者と知っていても、セッスを厭わなかったミチコだが、こうして、完全に熱を通して、煮てしまえば、エイズなんて、まったく怖くない。ウイルスは死んでしまう。  (エイズなんて、所詮は、この程度のものよ。まったく、恐れることなんかない。人の命を奪う力を持っているものが、こうして、人の命の糧となることもできる。肉体が滅びても、その栄養素は、もう一人の人を生かすことができる。死は死ではない。死は生をもたらす力になるものなのだ。恐怖の死が、逆に生の歓びをもたらす。これこそが、生きるということ、命ということではないのかしら)  ミチコは、心で深く祈りながら、サブローの肉と肉汁を口に運んだ。空腹が、満たされ、体内からエネルギーが、湧き出るのを感じていた。  (サブローがわたしの体に吸収されて、体の一部になり、わたしに新しい命の息吹を吹き込んだ。人は、こうして、太古から生きてきたに違いない。いま、わたしは、それを最高に愛する者を相手に、行っているだけ。何も悪いことは、していないわ)  ミチコは、再度、そう呟いた。  こうして、あと数日。明日は、下半身を煮込み、明後日は、頭部と上肢を何らかの方法で、料理しているだろう。そうしながら、わたしは、あと一カ月は生き延びることができる。サブローを全て、わたしのものにし終えたら、わたしは、もう、なにも食べない。全てを食べたあとは、断食に入る。生きる充実感が、その時は、死への恐怖に変わるかもしれないが、わたしには、真の恐れはないのだ。  ミチコは、サブローの肉体の全てを体内に取り込んで、生きていく。その何週間かは、至高の時間になるはずだ。他者の自己への一体化が、そういう究極の形で行われる。その時、サブローの全人格、全身体、全意思、全宇宙、全ての魂が、ミチコのものとなり、ミチコの精神は、完全に解放されて、自由へと羽ばたくはずだ。  それは、二つに分断されていた人格の、一つの身体への完全なる統合だ。すでに、ミチコは、サブローに、ミチコの人格の殆どを与えていた。肉体が結ばれたときの一体感は、サブローに、自分だけでは得られない心の満足を与えていたはずなのである。  そのサブローを、ミチコは、完全に自分のものにして、心身共に一つになった。これほどの献身、これほどの奉仕と没頭があるだろうか。真に他者を愛するとは、こういう、ことなのだ。  満腹のなかで、ミチコは、天上に向かって歩みはじめた自分の姿を見ていた。原子爆弾が炸裂したような、強烈な光線が天上から注ぐ中を、空中から金色の梯子が降りてくるのを、ミチコは見ていた。ミチコはその最下段の一段に足を掛け、梯子を登り始めていた。明日は、あの半分まで、登っていくだろう。明後日は、三分の二位までは行くかもしれない。そこで、足を踏み外したら、どうなるのかしら。きっと、落ちてはしまわないだろう。これほどに没入し、全身を捧げた行為の愛と献身の結果が、転落などになるはずがない。  (わたしは、空中で浮遊するに違いない。何者にもとらわれずに)  ミチコは、全身に勇気と希望が湧いてくるのを感じた。    一ヵ月後、その旧家の取り壊し作業をしていた作業員が、軒下に、女性の死体があるのを見つけた。  その女性は、安らかに目を閉じ、胸の上に組んだ両手の下に、一枚の写真を握っていた。  その写真には、男二人と女一人が写っていた。  髭面の男が、真ん中にいて、その前に黒光りしたカウンターがあり、左の若い男性と右の年頃の女性が、コーヒー・カップーを手にして、乾杯のポーズを取っていた。  写真の裏には、メモが書いてあった。  「初めて会ったときから、あなたを愛していた 愛は永遠に サブローへ、ミチコ」  作業員は、その写真を手に取ると、ハンカチに包んで、胸のポケットにしまい、警察への連絡に走っていった。                       (おわり)