「春の夢」ーー日替弥十郎夢残香録ーー        壱  桜の花びらが、蝶のように舞って、花見に繰り出した芸者衆の丸髷にとまった。  一陣の風が、桜吹雪の群れを、川の中に押し流して、吹雪に舞う粉雪のように、川面に散らした。  春は爛漫である。  日替弥十郎が、その男を見たのは、これが、二度目だった。  一度目は、一年前のやはり、花の季節である。  その日は、花曇りで、夕方から小雨がぱらついてきていた。弥十郎は、深川の小料理屋で、いつものように、晩酌をしたあと、千鳥足で神田隼人町の屋敷まで、やって来た。  そのとき、門前に、怪しい影が走った。十五夜の月が、明るい夜だったから、その影の姿を、弥十郎はほろ酔い加減ながらも、ハッキリと見ていた。  影は既に閉じられている檜の正門の左の脇門から走り出て、一気に門前を駆け抜け、広い大路へと通り過ぎようとしていたが、長い塀伝いに、夜風に吹かれて歩いてきた弥十郎と鉢合わせになった。  それは、偶然ではない。左の肩を落としてよろよろと蠢く影に不審を悟った弥十郎が、そのほうに寄っていったのだ。影はそのことを知らない。ただ、一目散に逃げ去ろうとして、地面を見ていたから、弥十郎と、思い切りぶつかって、仰向けになって、倒れると、  「おい。あぶねえじゃねえか。前を良く見て歩け」  と悪態をついた。  「これは失礼した。夜道なのでな。気が付かなかった」  弥十郎は、一端、詫びの言葉を述べたあと、男に近寄って、手を差し延べた。だが、男は、その手を払いのけて、立ち上がり、  「今夜のことは忘れてくれ。それだけでいい」 と言って、倒れた衝撃で外れた頭巾を被り直して、一礼して、立ち去った。  そのとき、弥十郎は、男の顔をハッキリと見ていた。均整の取れた目鼻達の整った若い男で、頭の髪を伸ばしていて、さかやきが、入っていなかった。一見して、浪人風情である。着ているものは、闇の深さと頭からずっぽり被った長頭巾尾のせいで、ハッキリしなかったが、袴は、鼠地の質素な姿だった。  一方で、弥十郎の姿は、伊達物の派手好みだったから、ぶつかって倒れた瞬間に、相手は驚いて、尻込みをした。両刀をたばさんだ長身の男が、緋縮緬の裏地を付けた羽織をひらつかせて立っていたのだから、胆を潰したのには頷ける。それでも、  「あぶねえじゃねえか」  と言えたのは、男も必死だったからだろう。 男が消えたあとに、芳香が漂っていた。  「伽羅の香りだ。春の宵には似あわない」    それが、弥十郎が、その男に会った初めて時だった。  残り香を記憶の底に忍ばせて弥十郎は、男が出てきた通用門から、屋敷に入っていった。飯寺藩江戸詰め屋敷の独身家臣の宿舎「錬成寮」の自室に戻ると、しばらくして、夜警の番の若い武士たちが、  「曲者は、逃げてしまったようだ」  と言いながら、母屋から引き上げてくるのが聞こえた。  弥十郎は、引き戸をあけて、その声の聞こえる方に出ていった。話しながら、廊下を来たのは、江戸家老の身の回りの世話をする小姓組の井上琢馬という二十代の若者だった。  「何があったのだ」  弥十郎が問いかけると、井上は、  「これはこれは、見回り組頭の日替さま。いま、お帰りですか」  と頭を下げながら、皮相な言い方で挨拶した。  「どうしたのだ」  弥十郎は、重ねて聞いた。  「それが、曲者が忍び込みまして、夜警の者が、総掛かりで、賊を追ったのですが、無念にも取り逃がしました」  井上の言い分は、あくまでも、突き放した言い方だった。それは、家老の身辺警護を任務とする見回り組の責任者である弥十郎に対する非難とも受け取れた。弥十郎は、剣の使い手ではあったが、生活と勤務ぶりは自堕落で、規律の正しい育てられかたをした若い者には、人気がなかった。最近の若者たちは、自分の腕によって立つより、組織の規律のなかに安住しようとしている、と弥十郎は、もどかしさを感じていた。  「で、何か、やられたか」  「は、やられたといいますと」  「だから、被害はあったのかと、聞いているのだ」  「いまのところは、何もないようです」 「賊の狙いはなんなのだ。どこに忍び込んだのだ」  「はい、御家老の寝所です」  「なに、寝所まで行ったのか。不寝番は何をしておった」  ここまできて、弥十郎は、詰る口調になっていた。  「はい、それが、この春の酔いの心地よさに、誘われて」  井上は言い訳をする言い方になった。先程の横柄な物言いとは打って変わって卑屈な言いようである。  「寝ていたのだな」  井上は、静かに頭を下げた。  「お主が、そうか」  「いえ、私ではありません。私は、不審を察知して、皆を起こしたほうです」  「分かった」  弥十郎は、それだけ言って、廊下を走り出した。行き止まりには母屋に続いている扉がある。そこにも、番がいるが、弥十郎は  「御苦労」 とだけ言って、母屋に入り、一路、家老の寝所を目指した。    江戸家老の稲葉作衛門は、寝所に浩々と燭蝋を焚いて、憮然とした表情で、部屋の一番奥に正座していた。それに対面して夜警の係、五人が座っていた。  一礼をして入っていった弥十郎を見つけた稲葉は、  「どこに行っておったのだ。遅いぞ」  とまず、一括した。  「恐れ入ります。申し訳ない」 と謝った弥十郎に、稲葉は、  「といっても、弥十郎は、気にせん男だ」 と言って、豪放に笑い声を上げた。  「ご無事でなによりです。怪我はございませんか」  弥十郎は、一応、気使った。  「見た通りだ。どこも、怪我はない。無事だよ」  それで、一安心した弥十郎は、稲葉の前に進み出て、  「賊の心当たりは」  と短く聞いた。稲葉は答えなかった。  そして、  「今晩は、これで、終わりとしよう、あす、詳しいことを話す。警護を万全にして、皆、宜しく頼む」  と宣言して、部屋から皆を帰す算段にした。  弥十郎も家老の意向に従い、部屋を辞そうと立ち上がったが、稲葉が、  「弥十郎だけ、残ってくれ」  と最後に言ったので、皆が出ていくのを見送って、座敷に座ったままでいた。  二人きりになると、稲葉は、  「心当たりは、ないといったら嘘になる。ただ、確信がない。わしも、この年まで、生きていると、なにかとしがらみは多いのだ。藩士の連中で、恨んでいるものもいるだろう。わしは、殿とお家第一にお勤めしてきた積もりだが、なんといっても、人が集まって出来ている組織だ。一人一人に目を配った積もりでも、必ず、目こぼしはある。皆の気持ちを完全に満たす訳には行かないからな。出来るだけ、不満が出ないようにやって来た積もりだが、そうは、思っていない輩も多いのだ」  そう言ってから、稲葉は、唾を飲み込み、一息付いた。  弥十郎はその様子を暗い燭蝋の光で覗き見て、  (あの、怖いもの知らずだった稲葉さまが、こんな弱音を吐かれるようになったのか) と齢の重さを感じていた。   「だから、わしには、今夜のことが、そういう不満を持った藩士によるものだと思いたくないが、そうではないかという気持ちも半分くらいある。もし、そうなら、芽を摘まねばならないが、それは、簡単ではない。なにしろ、家中の仲間を疑うことなのだからな。しかし、危険が迫っているのだとしたら、ことは、緊急を要するのだ」  弥十郎は、黙って聞いていた。稲葉が続けた。  「そこでだ、あくまでも、隠密裏にことを運ばねばならないが、どうだ、お主、やってみてくれぬか」  「やってみてというのは」  弥十郎は尋ねた。  「その犯人の探索だ」  稲葉は念を押した。  本来の弥十郎の仕事は、この家老の身辺警護なのだから、捜索はその延長線上にあると言えないこともない。  ただ、気になったのは、今、藩の上層部でくすぶりはじめていた権力闘争に、巻き込まれるのではないかという危惧である。弥十郎は、政治には関心がなかった。自らの剣の腕を買われて、今の職務に付いているという意識が強かったから、権力闘争に参加して、出世をしようという気持ちは、いささかもなかったのだ。  「それは、あくまで、今宵の襲撃犯の捜索というのならば、役目でもありますから」  弥十郎は条件を示した。  「勿論だ。この事態を捨ておくわけには行かない。もちろん、幕府に知れることも避けねばならない。お家騒動の証拠と因縁を付けられるかもしれない。とにかく、襲ったのは何者なのか、それを知りたい」  稲葉は、そう言ってから、天井を見た。それは、遠くを見る眼差しだった。          弐  翌朝、稲葉は、朝の会議で、昨夜の事件に付いて、家臣に報告した。  「昨夜は、春風邪をひいたのか、気分が優れず、早めに寝所に引き上げて、香を焚いて、布団の中に入って、行灯の火を頼りに、書見をしていた。屋敷は、静寂そのものだったが、床下からごそごそと小さな物音がするので、そちらに目をやると、畳が波打ち、膨らみだした。わしは、これは曲者の侵入だと思って、刀かけから、太刀を取り、身構えた。  しばらくすると、畳が剥がされて、男が顔を出した。わしは、何者だ、名を名乗れと、誰何したが、男は、身を踊らせて、姿を表し、わしに打ち込んできた。わしは、最初の攻撃を太刀で受けて、交わした、男は体勢を立てなおして、再び切りかかってきた。それも、交わして、男の刀を峰打ちにすると、男は刀を落として、がっくりと腰を落とした。それを見て、わしは、刀を収めて、話し掛けようとした瞬間、男は、身を翻して、襖を開けて逃走した。それが、昨日の騒ぎの全容です。皆には心配を掛けて、申し訳ない」  そう稲葉は、語った。  弥十郎は、日々の事務的な仕事や政策決定に携わる立場にないので、その早朝の定例会議には出席しなかった。藩邸の慣例で、それでよいとされていた。  弥十郎は、心地よい春の朝の眠りを心行くまで貪っていた。  (春眠暁を覚えず、とは至言だな)  うつらうつらした半覚醒の意識のなかで、弥十郎は、そんなことを考えていた。  そうしているうちに、時は刻々と過ぎ、空気が生暖かく感じられるような時刻になった。  (こうして、過ごしていく時間が、春には、貴重だ。春宵一刻値千金とはいうが、まだ、昼か)  また少し覚醒した意識が、時の過ぎ行くのを感じている。  そろそろ、正午の鐘が渡ってくるころになって、弥十郎の部屋を若い者が訪れて、  「ご家老がお呼びです」  と告げた。  「何方だ」  「はい、書院でございます」  「すぐに、行くと言ってくれ」  弥十郎は、そう答えて、完全に目覚めた。  寝巻きを羽織、袴に着替えて、髭をあたり、髪に櫛をいれて、身繕いした。食事をしていないので、腹が減っていたが、そこは、我慢して、廊下を母屋に向かった。  稲葉は、書院で一人、書類を読んでいた。弥十郎が、障子の外で名を名乗ると、  「入ってくれ」  と低音の威圧するような独特の声が答えた。  弥十郎は、稲葉の前に正座して、座り、  「何用ですか」  と端的に聞いた。  「随分と、ゆっくりしているようだが、昨夜の曲者の探索には取りかかったか」  稲葉は、弥十郎を詰ろうとしているのではない。その目は、緩んで、目尻に笑顔の皺ができていた。半分は、揶揄である。  「はい、早速、取りかかるつもりで、その端緒を考えておりました」  「うまいことをいうのお。それで、なにかいい考えは浮かんだか」  「いえ、いろいろ考えましたが、手掛かりがないので、どこから、手を付ければいいのか。それが、分かりません」  「手掛かりか。それは、ある」  「なんですか」  「一つは、わしは襲撃されて、反撃したそのとき、相手は手傷を負った。左の肩を怪我しているはずだ」  「すると、賊は、手負いだったのですか」 弥十郎は昨夜、門前で見た影の男を思い出した。たしかに、あの男は、左の肩を落としていた。  「血が流れているはずだ」  稲葉が言い、さらに続けた。  「それから、賊が逃げだす瞬間に、わしは、香炉を投げつけた。炉の口は開いて、中のお香が男の着物に当たった」  「お香ですか」  弥十郎は、再び、昨夜の影の記憶を呼び覚ました。  (たしかに、男が去ったあとに、伽羅の香りがしていた)  「その二つを手掛かりに、即刻、探してくれたまえ。以上の手掛かりは、お主にしか、話していない。他の者には内緒にしてある。頼んだぞ」  稲葉は、弥十郎の尻を叩いて、この一件はなるべく早くかたずけたいようだった。  「よく、分かりました。やってみましょう」  弥十郎は、力強く、宣言して、稲葉の面前辞した。  とは言ってみたものの、この二つの手掛かりで、どうやって、探せばいいのか。地面に血が落ちているのか。香りが残っているのか。そのどちらも、昨夜のことなら、手掛かりになったろうが、一夜明けて、しかも、昼時を過ぎて、あの往来にまだ、証拠が残っているとは思えない。  (すこし、寝すぎたようだ)  今となっては、存分に春眠を貪ったのが悔やまれた。  だが、稲葉のきつい言いつけだから、動きださねばならない。  (こんな、天気のよい春の日は、日がな一日、川風にでも当たっていたい)  とぼやきながら、弥十郎は屋敷を出た。  前夜、男とぶつかった場所は、正門を出るとすぐそこだった。幅広の道だったから、人通りが少なければ、証拠が残っているのではないかと、その辺りの地面を目を凝らして、見ていった。たしかに、土の色が黒く変わっている所が点々とあったが、その数は多く、どれが、賊の血液の跡なのかは、分からない。牛馬の落とし物や猫や犬の排泄物も落ちていたから、判別は不可能だ。  弥十郎は、血のあとを追うのは無理だと、諦めた。  すると、残るは、春には不似合いな伽羅の香りである。弥十郎は、それほど、臭いに敏感でない鼻の穴を大きく広げて、地面を嗅いだ。往来だけに、多数の人や獣が行く。それらのものたちの落とす異物で、地面は鼻を背けたくなる酷い臭さだった。  「これでは、無理だ。とても、やっていられない」  弥十郎は、この手掛かりを探るのも無理ではないかと考えはじめていた。  (稲葉さまの言った手掛かりは、何方も追っていけない。これは、困ったことになった。他の手掛かりはないか)  弥十郎は、諦め顔で、屋敷に引き返しそうになったが、何も成果がないのでは、帰っても手持ち無沙汰になるだけだ、と思いなおして、さらに先へと歩きだした。  そのまま行くと銀座の方向だが、今日は、明神様の晦日の縁日とあって、道沿いに屋台が出て子供たちで賑わっていた。弥十郎が、屋台の並びの真ん中位にくると、そこに見せ物小屋が掛かっているのが目についた。  (どうせ、実りのない手間だった。ここらで、息抜きをしよう)  勤勉という言葉が似合わない弥十郎が、小屋の木戸口に向かっていったのは、不思議ではない。  小屋の出し物は、四肢のない女の飾り物、蛇女の幻術、白木の板に血を塗って、生イタチと書いたものなど、定番の出し物だった。こういう人を食った展示と芸には飽きていたから、そろそろ出ようと席を立つころ、犬がぞろぞろ舞台に出てきて、芸を始めた。  最初は、学者犬で、寺子屋の背景の前で計算や漢字の読みをして、客から大きな拍手を浴びた。次は、客が舞台に上げられ、その客の持ち物を手掛かりに、客席に下がった客本人を当てるという技だった。腰に挟んだ手拭いを手掛かりに、当てられた大工と思われる男が、  「すっげえや、こいつの鼻は。三里先でも読めるんじゃねえか」  と素っ頓狂に、大声を上げた。  それをみて、弥十郎は、ある考えが浮かんだ。  弥十郎は、小屋を出て楽屋の入口を尋ねると、座長の居場所を探した。一番奥の座長部屋で次の終幕の口上の出番を待って、化粧に余念がなかった座長は、弥十郎の申し出に、 「結構ですよ。ですが、そのための休業代は出して頂きます」  と承諾した。弥十郎が、  「お礼は十分差し上げます」  と頭を下げると、座長は、動物の係を呼び出し、  「こちらのお侍の話を聞いてやってくれ」  と申し渡した。             三  背が曲がった小男の動物の係りは、もう相当の年寄りだが、いわゆる小人で足と手が短く、頭や胴体は大人の体つきだった。ひょこひょこと、跳ねるように歩いて、小屋の外に出ると、屋外に檻があって、多種多様な動物が、入っていた。弥十郎は、犬ばかりがうごめいている小型の檻の前に連れられてきた。 「だんな、どんなのがご所望です」  動物係が、弥十郎を見上げて聞いた。  「そうだな。鼻の効く奴だ。この中で、一番、鼻が効く奴が良い」  弥十郎は迷わずに、希望を言った。  「そうなると、ここにはいない」   「いないのか」  「はい、ここにはね」  弥十郎は不安になった。  「では、どこにいるのだ」  気忙しく聞いた弥十郎に、老人は、  「もうすぐ、帰ってきますだ。いま、舞台に出ているから」  と泰然として答えた。  弥十郎は納得した。先程、舞台で芸をして観客をうならせたあの犬に違いない。  「あいつは、一座の稼ぎ頭だから、間違いはないが、高いですよ」  老人は弥十郎の顔をうかがった。  「その心配は無用だ。たとえ言い値でも、借りていく」  「安心しました。あいつは自慢の川上犬です。はるばる信濃の国から、連れてきた。雪にも強いし、寒さにも耐える。そのうえ、足腰は頑丈で、鼻の効くこと日本一ですよ」  老人は、醜い顔をくしゃくしゃにして、自慢話を続けた。  弥十郎は、暫くの間、付近を散策した。小屋の裏には、三つの檻があって、その中に、多くの動物が蠢いていた。犬の檻には、二十匹ばかりの犬がいた。大型の土佐犬や秋田犬が、檻の真ん中で威張っていたが、大陸から伝来したというチンなどの小型犬も、忙しく動き回っていた。他の檻には、狐と狸が一緒に肩を竦めていた。最初は、物珍しさもあって、近くで見ていた弥十郎だったが、臭いが酷くて、その場を離れ、次の檻に行った。その檻には、珍獣がいた。熊のような形をしているが、日本原産のツキノワグマより大型で、蝦夷地に住むというヒグマより小さいようだった。何より、滑稽なのは、その熊が白と黒のブチの毛を全身に纏っていたことだった。  「これは、熊のブチ猫だ」  弥十郎は、思わず、叫んでいた。自然界には、想像も付かないものが、存在していることは、弥十郎も分かってはいたが、この熊のように想像を絶する動物のことは、思いもつかなかった。  弥十郎が、その檻から元の犬の檻に戻ってくると、老人が、舞台を終えて帰ってきた犬たちを檻に追い込んでいた。  「ああ、よかった。どこに行ったのか探しましたよ」  「すまんな、犬は帰ってきたか」  老人は、左手に持った手綱を、弥十郎に渡した。  「こいつですよ。ほら、賢そうな顔をしているでしょう。うちでは、ピカ一ですから」  弥十郎は、手綱を受け取って、手繰り寄せ、犬の首を右手で撫でながら、  「ほー、ほー。よし、よし」  と犬の機嫌を取ったが、小型の川上犬は、ソッポを向いまままだった。  「お代は前金を頭に渡しておいたから、残りはあとでな」  と弥十郎は、老人に言って、犬の手綱を引いて、来た道を取って帰した。  道にはもう昼を過ぎたころとあって、老若男女が繰り出して、賑わっていた、その雑踏を縫って先を急ぐ弥十郎を、むしろ犬が先導する形で、進んでいった。犬はワンとも鳴かない。おとなしく、従順そうな賢い犬だった。  弥十郎は飯寺藩江戸屋敷に帰ると、庭の榎に犬の綱を結んで、母屋に行き、家老の執務室に入っていった。稲葉は、食事の最中だった。  「おお、弥十郎か。どうだ、探索ははかどっておるか」  稲葉は弥十郎の顔を見ると、早速聞いた。 「いえ、ご家老の言われた手掛かりは、悉く、消失しておりました。昨夜なら、まだ、どうにかなったでしょうが、一夜明けて、しかも、朝から大分時間が立ってしまいましたからね]  「そうか、早く、気が付けばよかった。残念だな」  稲葉は、そう言いながら、粥をかき込んだ。  「ですが、諦めることはありません。いい考えがあります」  稲葉は、粥の茶碗に落としていた視線を、再び、弥十郎に向けて、  「どんな考えだ、言ってみろ」  と催促した。  「はい、賊の肩に付けた傷痕からは、血が出ただろうという推測で、地面を見てみましたが、跡は見つからなかった」  「そうだろうな」  「ですが、ご家老が、賊に投げつけた香は、伽羅ですから、臭いを辿ればと」  「だが、もう香りは消えているぞ。壺一瓶の香だから、かなり強烈なはずだが、一夜たてば、消えてしまう。そのように、儚い所が、香りの道のわび、さびでもある」  「たしかに、われわれ人間には、匂いませんがね、嗅覚が鋭いものなら、追うことができる」  稲葉は、首を傾げて、弥十郎を見据えた。  「そうか、畜生どもだな。良いところに目を付けた」  「はい、そう考えて、犬を借りてきました」  「そうか。犬を使った探索は、江戸の町の岡引きも考えつくまい。でかした」  「それで、お香を少し、頂戴したいと参上いたしました」  「よし、分かった、すこし、待っていてくれ」  稲葉は茶碗の最後の粥を一気に啜ると、その茶碗に急須のお茶を注ぎ込み、綺麗に拭って、飲み込んだ。そして、近衆に、  「終わりだ」  と申しつけると、部屋を出ていった。  稲葉が席を明けているあいだに、弥十郎は、この事件では、腑に落ちないことがまだ、ある、と考えていた。それは、喉から落ちない小魚の小骨のように、引っ掛かっていて、気分が悪い。追い追い、じっくりと考えてみようと、心を決めたころ、稲葉が戻ってきて、朱の漆塗りに螺鈿細工で菊の花を描いている小ぶりの香壺を畳の上に置いた。  「これだが、開けてみてくれ。香は残っているか」  弥十郎が、壺を手に取ると、稲葉が投げつけて、そのあと柱にでも当たったのか、肩口に凹んだ傷痕があった。それに、構わず、小口を塞いだ袱紗の紐を緩めて、壺を逆さにすると、少量のこっていた粉末が溢れ出た。  「すこし、残っています。これだけあれば、大丈夫でしょう」  弥十郎は、言うと、稲葉は頷いた。  「そうか、この香は、そう何処にでもあるものではない。これを頼りに、捜せば、間違いなく、昨夜の賊だろう。たのんだぞ」  弥十郎は、頷いて、頭を下げた。  「ところで、その犬はどうした。こういう探索は、犬の能力にかかっているだろう。良い犬が手配できたか」  弥十郎は、この日の自分の行動を説明し、犬の入手の方法を説明した。  「そうか、それなら、大丈夫だ。借り賃は、勘定方から出費させる。表に行って請求してくれ」  稲葉は弥十郎の計画を納得した。  弥十郎は、部屋を出て、自室に戻って、箪笥から手拭いを取り出して懐に入れ、庭に出ていった。小型の犬は、榎の木に繋がれたまま、両足を前に揃えて、きちんとした姿勢で、待っていた。環境が変わっても、騒ぎ回らず、静かに動ぜず、落ちつきはらっているのはこの犬の資質なのだろうか。弥十郎は、雪深い信濃の山村にだけ育つという川上犬の優れた特質を信頼してみる気になっていた。  弥十郎は、手にした香壺から、手拭いに残りの粉末を落として、包みこむと、丸めて、犬の鼻先に持っていて、十分な時間を掛けて、嗅がせた。  この犬は、人の衣類や持ち物の臭いを嗅いで、本人を探す芸を持っているのだから、自然な姿勢で、弥十郎が、鼻先に突き出した手拭いの臭いを吸い込んでいた。  「よし、もう、よかろう。どうだ」  弥十郎は、犬の顔を覗き込んだが、表情に変化はない。弥十郎はやや心配になった。  「どうだ、わかるか」  もう一度、聞いてみたが、犬はにこりともしない。  弥十郎は仕方なく、念をいれて、手拭いを犬の鼻に押し当てた。  犬は顔を背けて、くしゃみをした。それは、もう十分に、香りを吸い込んだ証拠だ。  「よし、大丈夫だな。行け」  弥十郎は、木から手綱を外して手にし、走り出そうとしていた犬の後に付いて行く準備を整えた。  だが、犬は、じっとして動かない。むしろ、首を傾げて、考え込むような仕種をし、さらに、その場所でぐるぐると回転して、何かを探っていた。  すると、間もなく、その犬は、行くべき方向が定まったのか、ゆっくりと歩きだした。犬は、正門の方向に進んでいった。  「よしよし、その方向だ。確かに、そっちだろう」  弥十郎は、犬の行動に満足していた。犬が歩き始めたのは、間違いなく、昨夜、弥十郎が不審な影とぶつかった方角だったのだ。        四  犬は弥十郎を引きながら、門を出て、大路を真っ直ぐに進み、昨夜、男が逃げていった方向を目指して、進んでいった。男が弥十郎とぶつかって、倒れた場所には、立ち止まることもなく、ただ、真っ直ぐに進んでいった。しばらく行くと、掘割に太鼓橋がかかった所に突き当たったが、犬はその橋も渡って、さらに、奥へと進んでいく。それは、もう、一目散と言っていいほどで、弥十郎は、引いている手綱を思い切り引き返さなければ、ならばいほどだった。  橋を渡るとその先は、大工や左官らの職人が住む、工人町の長屋街に続いている。その入口にある桜の木の下に、犬は寄っていって、片足を上げて、小便をした。終わりがけに、太い幹に体があたり、今にも散ろうとしていた山桜の塊が崩れて、落ちた。はらはらと、塊は、空中で崩れて、広がり、ふいと吹き込んだ風に乗って、小川のほうに揺れていき、川面に浮かんで流れていった。  弥十郎は、その光景を、苛々しながら、見ていた。春の風情も、今の弥十郎には、無用だった。  犬は小用を終えると、弥十郎を無視するように再び、歩きはじめた。頭はひたすら、地面を這っている。犬も必死なのだった。  四軒長屋が軒を揃えている中に進んでいくと、長屋が四軒寄り添っている真ん中の辺り、共同水場を過ぎた所で、犬が足を止めた。始めの長屋が切れて、次の長屋が始まる最初の家だった。  犬は、その家の玄関の引き戸の前に立ち止まり、両足を戸板の下部に凭れかけ、せわしなく動かして、中に入ろうとする動作をしていた。  「よーし、分かった。お手柄だ」  弥十郎は、犬を手前に引き寄せて、頭を撫でて、落ちつかせ、引き戸に手を掛けて、開けようとした。だが、中から用心棒が掛かっているのか、開かず、もう一度、全身の力を込めて引いてみたが、それも、無駄だった。  こうなれば、大家に言って、開けてもらうしかない。それに、この家の住人のことも、聞いてみないといけない。どのような人物が住んでいるのか、それを調べないといけない、と考えて、大家の家を探った。  大家は、長屋街の一番奥まったところに、大きな門構えの一軒家を構えていた。表札には「秋谷」とある。  (大家には似つかない名字だ) と思いながら、弥十郎は、案内を請うた。  家の中から姿を表したのは、もう六十すぎの小柄な年寄りだったが、顔が大きく、赤ら顔で、いかにも健康そうだった。  「すみませんが、あのこちら側の真ん中の外れの家のことで伺いたいのですが」  弥十郎は、しどろもどろに、説明した。  それでも、大家は、確実に理解し、  「ああ、水場の脇の家ですか」  「そうです。あの家には、何方が住んでいますか」  「ええと、あそこには、若い夫婦者が住まっています。そう長くはないが」  「なんていいますか」  弥十郎は、息せききって尋ねた。  「吉野多門というお侍とよしという女の人ですね」  「侍が、長屋に住んでいるのか」  「でも、録はなく、浪人者のようですが」  「何処の藩のものかな」  「それは、遠く、陸奥の藩のようなことを言っていました。お家騒動に巻き込まれて、父君が改易され、喰い詰めて江戸に出てきたと聞いております」  「女は妻女か」  「いえ、いや、そうかも知れませんが。どうも、変わった人でして」  大家はそう言いながら言いよどんだ。弥十郎はそれに構わず、追っつけて聞いた。  「どんなふうに」  「はい、かみさんらしい家事を一切しないようですね。洗い場で洗濯をしているところを見たこともない。米を研いでいることもない。かみさん連中は、そう噂していますよ」  「そうか。あの家を見てみたいのだが、いいかな」  「それより、お武家さんは何方で」  弥十郎は、名を名乗るのを忘れていた。所属と名前と用向きを簡単に説明すると、大家は納得した。  「では、行ってみましょう」  大家が南京錠の鍵を手にして、先導して、来た道を戻っていった。  その家で、大家は弥十郎が、したように入口の引き戸に手を掛けて引いてみたが、開かないと分かると、裏に回って、台所の入口の南京錠に鍵を差し込み、回した。そこも、狭い引き戸になっていて、取っ手の先に、錠前が付いていて、それが、柱と戸を繋いでいた。  錠は外れ、大家は、引き戸を開いて、中に入った。弥十郎も、板塀の柱に犬の手綱を縛って後に従った。  中には、だれもいなかったが、内部は綺麗に整理整頓されていて、掃除も行き届いていた。人のいない家の冷気が、外の温んでいる空気と違い、弥十郎の体を包んで、緊張させた。  奥の寝室に行くと、壁に衣装が掛かっていた。女物と男物が一対ずつ、並んでいた。そのうち男物には、弥十郎は見覚えがあった。  (あの影の男が着ていた鼠色の袴だな)  弥十郎は一見して、それと分かった。  弥十郎は近寄って、羽織の左の肩口を見た。生地が切れており、周りに滲んだ黒い染みがあった。  (ここに峰打ちされて、男は怪我をしたのだ)  弥十郎は頷いた。  こうなれば、この家が、あの曲者の住処に間違いない。一刻もはやく、行く方を追わなければならない。弥十郎は、一度、外に出てで、犬を連れて引き返し、着物の前に連れていって、反応を見た。  犬は激しく興奮して、袴に掴みかかり、臭いを嗅いでいた。犬の嗅覚も、ここに住む男が、飯寺藩江戸屋敷の家老の寝所に侵入した不審者だ、ということを察知していた。  弥十郎は、裳抜けの殻になっている部屋の中で、たじろいでいる大家を呼び寄せ、さらに詳しく話を聞いた。  「この家の吉野多門とやらは、何を生業にしておったのだ」  「それが、分かりませんので。浪人とあれば、笠張りなどの手内職をするのが相場ですが、その気配もない。私より、近所の店子のほうが、良く知っているでしょう。隣りにでも聞いてみましょうかね」  大家は如才なく、家を出ていったて隣りの家の四十絡みの女を連れてきた。  「うのよ、この家の主人は、仕事は何をしていた」  大家が聞いた。うのと呼ばれた女は、  「よく分かりませんが、毎日、朝には出て、夜遅くに帰って来ていましたよ。いつも二人連れで、仲がいいのにはわたしたちも驚いていたくらいで」  「二人連れで出ていって、夜遅く帰っていたのだな」  大家が念を押した。  「それなら、飯を作ることも洗濯をすることもないだろうな」  「はい、ただ、寝に帰っているだけのようでした」  うのは神妙に、返答し、さらに、付け加えた。  「昨晩は、明日は川越に行かねばならないから早く寝よう、と話しているのが聞こえたましたよ」  「川越か」  弥十郎が、確認した。  「他におかしいことはなかったか」  「はいそれが、おかしいと言えば、いろいろと」  「どんなことだね」  「ここの二人は夫婦のように思っていましたが、そうでもないようなんですよ。その女の方は、帰ってしばらくすると、声が変わるんです。もともと、女の声ではないように思っていたんですが、すっかり男の声になる。最初は、もう一人男が後から来て話しているように思ったのですが、どうもそうではないらしい。部屋には女と二人しかいなはずなのに、二人の男の声がするんです」  「妙なこともあるものだな」  弥十郎は、この世は摩訶不思議なことが多い、とは思っていたが、ここにも、不思議があると、強い興味が湧いた。  「大変参考になった。御苦労だったな」  弥十郎は、そう言って、うのを引き取らせた。  (川越には何をしにいったのだろう)  弥十郎には新たな疑問が湧いてきた。できれば、これから、追いかけて、捜し出すのが一番だと思ったが、ただ闇雲に、出掛けても、仕方がない。手掛かりが欲しかった。  そのとき,弥十郎は、ふと気が付いて、押入れを見てみることにした。これは、少々、越権行為かも知れないが、大家には大目に見てもらおう。  そう考えて、大家の方を見ると、部屋の中には姿がなく、うのと一緒に外に出たらしい。  (これは、いい)  と弥十郎が、寝間の押入れの襖に手を掛けて、開けると、中には寝具がぎっしり詰まっていて、開けると同時に、はみ出して、畳に落ちた。  それに驚いて、後ろに引き下がった弥十郎は、布団が落ちて開いたあと、押入れの奥に木でできた棚があるのを見つけた。  そこに、整然と並んでいたのは、書物だった。弥十郎はその一冊を手に取り、中を捲った。それは、「勧進帳・暫」の役割番付(歌舞伎台本)で、台詞とト書きが読み取れた。台詞には、朱が入れてあり、何度も読み返したのか、表紙が破れ、中身も紙の端が捲れていた。  弥十郎は、もう一冊の本を手にした。それには、表紙に「京鹿子娘道成寺」の朱書きが刷り込んであり、やはり歌舞伎の台本だった。  弥十郎は、さらに、その横にあった一枚刷りのチラシを手にした。そこには、「梅元若之助一座、関八州公演」と書かれており、一座の回る場所と日程が、載っていた。  それを見ていくと、丁度、今日、武蔵野国の天領、川越の多喜院で一座の公演が予定されていた。  「これだ。これにちがいない」  弥十郎は、確信した。そして、家を飛びだし、犬の手綱を引くと、外でうのと話しこんでいる大家に、大声で、礼を言って、街道に飛び出していった。         五  本郷から白山を通って、江戸の町を北上し、川越街道をさらに、西に行くと、最初の宿場町は、板橋宿である。  弥一郎が、板橋宿に着いたのは、まだ日の明るいうちだったが、走るような速さで、歩いてきたので、その辺りで体力が尽きたのだ。  小さな旅籠が並んでいる宿場には、客引きはほとんどいない。江戸の外れにあるためか、客引きなどはしないで、飛び込みの客をただ、待っているのが、この宿場町のやり方らしい。  弥十郎は、並んだ宿の一番奥まで行き、「越後屋」との屋号を染め抜いた暖簾を掲げた宿に入って行った。玄関にはいると、戸外とは、打って変わって、数人の雇い人が居て、帳場の女将と思われる女性が、畳の上を進んできて、  「いらっしゃいませ。お一人ですか」  と頭を下げて、歓迎した。  「人は一人だが、犬が一匹いる」  「あれ、お犬様をお連れですか」  女将は、思案顔になった。将軍・綱吉の「生類哀れみの令」で、江戸の庶民は犬の取り扱いでは、神経質になっていた記憶があるから、女将も「犬」と聞いて、身構えたのだ。だが、  「結構ですよ。裏に、小屋がありますから」  犬を大事に取り扱うことには、慣れているのだろう。簡単に承知してから、女中を呼んだ。  「はーい」  と元気な返事をして、若い娘が二人やって来て、一人は、盥を弥十郎の足元に置き、汚れた草履を脱がせて洗い出した。もう一人は、犬の手綱を預かり、裏へ連れていった。手綱を手放すとき、この犬は、  「くーん」  と鼻を鳴らして、弥十郎の袴の裾に、擦り寄った。  足を洗うのが終わって、弥十郎は、女将の案内で二階の小部屋に入った。所持金はそうないから、  「一晩寝るだけの安い部屋を」  と頼んだのだ。  部屋にはいると、女将は、  「お食事は如何しますか。お風呂はいつでも入れます」  と意向を聞いた。  弥十郎は、疲れたので、寝たかった。食事はそのあと、どこかに、食べにいけばいいと考えて、そう答えると、  「この辺りには、夜食を食べるような所はありません、お握りでも握っておきましょうか」  と申し出た。あくまでも、面倒見がいいのが、弥十郎は気に入った。  「では、お願いします。起きてから食べますから」  といい、布団を敷いてもらって、横になった。  布団に入って、しばらくして、弥十郎は、浅い眠りの中で、夢を見た。  ーー 春霞に曇る川の両側の土手の上には、真っ直ぐに一列に並んだ桜の並木があった。木々には花が満開で、空からの俯瞰から、徐々に、視点を下げていくと、花の下には、着飾った人々の群れがある。手に手に手折った桜の枝を持ち、笑いさざめいて、一団が進む。土手から川に降りていく斜面から、川際に掛けて、赤い毛氈が、途切れ途切れに敷かれていて、その上に車座になった花見客たちは、料理が入った重箱を囲んで、舌鼓を打っている。歌えや踊れの華やかな宴があちこちの毛氈の上で繰り広げられている。  視線はそれらの宴客のほろ酔い姿を、覗きながら、橋の下へと移動していく。そこでは、狭くなった川幅の流れに沿って、子供たちが整列していた。男の子も女の子もいる。皆、手に手に、小さな人形を持っている。流れがすこし、淀んだ場所では、その子供たちが、腰を曲げて、白木の板に持っている人形を乗せて、流しているところだ。雛流しの行事である。  (こんな昼間から)  と言う疑問が過るが、拘泥はしない。それより、  (これは、故郷の川の風景だ)  と懐かしさのほうが感じられる。  花見と雛流しが一緒になっているのも、変だが、陸奥の飯寺藩では、雛祭は雪解けが始まる四月になってからという変則だから、おかしくはない。そう納得して、雛を流す子供たちの顔を見ると、そこに懐かしい千代女と伊太郎の顔があった。二人は、幼な友達だ。  「おい、何をしているんだ」  私が声を掛けても、二人は振り向かない。千代女が手にしたお姫様の人形は、真白の面長の顔つきも着ている十二単衣にもまったく疵がなく、新品のようだった。  「そんなに綺麗な雛をなぜ流すんだい」  私がそう聞くと、千代女は、はじめて、こちらに顔を向け、  「患いが着いておりますから」 とだけ、俯いて言った。  伊太郎の持っている雛は、汚れていた。顔には無数の疵があり、着ている物もずたずたに破れていた。  「その雛は、苦労しているなあ」   私の呼びかけに、伊太郎は、  「流しがいがあるでよう」  と白い歯を見せて答えた。  二人が、同時に水面に降ろすと、二つの雛は寄り添うように、水面を走りだし、下流に向かって動きだした。  「おい、お主は流さんのか」  伊太郎が、聞いてきた。  そういえば、なぜ、私はこの場所に来たのだろう。雛もないのに。ふと考えて、  「おれは、雛は持っておらん、おれ一人だから」 と返答をした。そのとき、可愛い妹を持つ伊太郎が、うらやましくなった。私は、  「ではな」  と手を振って、その場から逃げだすように走りだした。  視点が、再び、上昇して、明るい光が反射する故郷の川の全景を映し出す。画面の真ん中を蛇行して数本の川の流れがあり、その両側の河原には、赤い毛氈が敷かれていて、その上で人々が踊っている。川の端の堤のうえの桜は今が満開だ。上空の春霞が、その全景をかすめさせーー  弥十郎は、目覚めた。  目を覚ました弥十郎の心は、懐かしさで一杯だった。それは、弥十郎が生まれ育った陸奥の小藩、飯寺藩の春の気色だった。  (故郷は、そのころが一番、心踊る季節だ)  弥十郎は、体の奥に押し込んである、望郷の念を解けさせて、感傷に沈んだ。  布団の枕元に、頼んだとおりの味噌握り二個と、味噌汁、それに、酒徳利が一本と杯が載っている盆が置かれていた。  弥十郎は、徳利から中身を杯に注ぎ、障子を開けて、往来を眺めながら、杯を舐めた。  外の道には、誰もいない。しんとした静寂が、あるだけだ。その静けさが、心地良い。  (この静寂は掛けがいのない酒の肴だ)  弥十郎は、一人ごちて、酒杯をただ傾ける。  何処からか、葉桜が舞い落ちて、窓際に置いた盆の上に落ちて、止まった。  (春の夜の夢か)  先程、まどろみながら見た光景が、まだ、頭に浮かぶが、いまは、その風景からは遠い場所にいる。明日には、お勤めの職務を果たすために、街道を急いで、下らねばならない。  弥十郎は、徳利から最後の一滴を絞り出して、啜ると、お握り一個を手にして、部屋を出て、風呂場に向かった。  宿の手拭いを肩に掛けて、階段を降り、長い廊下を奥に進むと、外れの部屋に明かりが点いていた。中に人影があって、何かを話している。  「梅元一座は、川越のあと、どさ回りに出るようです。行き先は、越後ですな。ほぼ、一月の予定ですから、急がないといけない」  「そんなに長く、江戸を出るのか。ならば、むしろ好機ではないか」  「いえ、そこまでは、準備ができておりません。ここは、どうしても、川越で、やってしまわないといけない」  「首尾よく行けばいいが」  男の声が二つ聞こえた。  弥十郎は、驚いて、歩みを止め、擦り足で、その声のする部屋の柱の陰に隠れて、話に聞き耳を立てた。  「なに、簡単ですよ。出番が、終わったころ、ちょいと、呼び出して、そこで」  「そううまく行くかな。なにしろ客が大勢いるのだから、闇夜とは違う」  「倉田さまは、闇夜がお好きですな」  そう言ってから、二人は大声を挙げて笑いそうになったが、夜中と気が付いて、声を落とした。  「まあ、まあ、あと、一杯行きましょう」  倉田と呼びかけた男が、言った。  「そろそろ寝ようではないか。明日は、早いぞ」   倉田が言った。酒杯をかたずける音がして、二人は、横になったらしい。それから、声は聞こえなくなり、弥十郎は、擦り足のまま、風呂場へ向かった。  翌朝、弥十郎は、日が昇るとともに目覚めて、宿を早立ちした。昨夜の二人の客が気になったが、女将にそのことを聞くこともなく、弥十郎は、先を急いだ。  裏庭で一夜を過ごした犬は、女将が、  「お任せください」 と自信を示していたように、元気一杯で、戻ってきた。            六  吉野多門とよしの二人に、その書状がもたらされたのは、ほぼ、七日前の夜だった。その日は、一座の公演も久し振りの休みで、朝から天気も良く、絶好の花見日和だったから、多門が、  「おい、花見にでも行こうか」 と言いだしたのを、よしが受けて、この長屋へ越してきて以来、初めての花見に繰り出したのだが、日の落ちないうちにと心がけて、ほろ酔い加減で、帰宅すると、土間に一通の書状が落ちていた。  居間に落ちついてから、行灯の光を頼りに、その分厚い書状を読んだ多門は、衝撃を受けて、言葉が出なかった。  「おい。やっと、おまえの探していたことがわかったぞ」  多門は、読みおわった巻紙を、よしに投げて渡した。  よしも、その書面をじっくりと時間を掛けて読んでいった。そして、やはり、激しい衝撃を受けて、その場にへたりこんだ。  「どうしましょう。これが本当なら、私は、大変なことになる」  「そうだ。かならず、身の危険が迫ってくるだろう。まずは、それが、事実なのかどうか、確かめるのが、肝心だが、おまえは、覚悟はあるか、このまま、捨ておくという手もあるが」   そう言われて、よしは、黙ってしまった。それほど、重大な一身上の問題だったのだ。  「いえ、私は、自分のことは、知っておきたい。その手掛かりが、向こうからやって来たのですから、はっきりさせたほうがいいと思います」  すこし、考えてからそう言った。  「だが、どうやって、調べる。おれたちは、しがない河原者だ。武農工商の身分に違いがあるこの世の中、最低の身分のわしらが、お武家様に簡単の会えるわけはない」  多門は、よしの思いを叶えてやりたかったが、世間の壁が目に見えていて、それは、儚い希望のように思われたのだ。  その夜は、昼間の遊興の疲れもあって、そのまま、寝についた。翌日からは、熊谷での旅公演があったから、その忙しさにかまけて,多門は、書状のことは忘れていたが、よしは、片時も頭を離れず、舞台も無意識状態で勤めて、三日目前に、我が家に戻ってきたのだった。  この時代は、もともと、旅役者が定住する居所を持っているのは、珍しかったが、梅元一座は、関東八州を回るのと江戸の町の周辺で興業を持つ、半々の公演を繰り返すだけだったから、小さいながらも、借り間住まいを、中堅役者の二人は、出来たのである。  江戸に戻るまでの道中で、公演が一段落して、余裕が出来た二人は、手紙の件を話し合った。  「おまえ、どうしても、あの件を確かめたいか」  「はい、それは、勿論です」  「それなら、座長に聞いてみるのも、一計ではないか。先代のときかもしれないが、お前の出自は、座長は知っているだろう」  「ですが、もう、かなりになるんですから」  「先代が生きていれば、わかることかもしれんな。なにしろ、おまえより長いおれが、知らんのだから、いまの座長も知らんとは思うが」  「それは、常日頃から、折りに触れ、座長とは話していますよ。でも、分からない」  話はそこまでは行くが、先に進まない。  道中は進み、一行が大宮神社の境内で、一休みをしているとき、多門は、地面に敷かれたござの上に寝そべって、まどろんでいた。境内には、一座の者しかいなかったから、安心して、眠り掛けたが、ふと、社務所の方を見ると、入口の塀の陰に、二つの人影がこちらを伺っているのに気が付いた。  (そういえば、熊谷を出て以来、不審な影を後ろに感じていたが、あれは、いわれのないことではなかったのか)  その胸騒ぎが、現実のものになったのを、しかし、多門は、どうすることもできなかった。なにしろ、こちらは、弱者である三文役者である。なにか、ことが起きれば、こちらが非を問われるのは目に見えている。なにかが、起きようとしても、できれば、避けて通るのが身にしみ込んだ処世術だった。  それが、あったから、多門は、このことを一座の誰にも他言せず、ただ、後ろを追ってくる二つの影に注意を払って、あとの道を辿ってきた。  多門が、その道中で、気付かれぬように、影について確かめたのは、二人が、両刀を束さんだ侍であること、衣装が江戸の武士と違って地味な姿であること、赤ら顔の顔つきに鋭い眼光を湛えていることなどだった。  背は一人が中肉中背、もう一人は小柄だが、いずれも、体の備えはしっかりしていた。いわば、どっしりとした体付きだった.  二人は、一座の列の後ろを、間十間ほど、隔てて、隙間を開かずに追ってきた。こちらは、大勢がわいわいと話しながら進んでいったから、多門を除いて誰一人、二人の行動に気が付く者はいない。  一行は江戸で常宿にしている上野の寛永寺の境内に至って、帰りの旅を終えた。吉野多門とよしは、そこで、一座と別れて、神田の借家に帰ってきた。多門が、一座を離れる時に、周辺を注意深く観察してみたが、この辺りでは、人の数も多く、あの二人を見つけることはできなかった。  長屋に帰り着いてから、多門は、よしに、  「今日、道中の間中、不審な侍が付いてきたろう」  と聞いてみた。よしは、頷いて、  「そうですね。わたしも、気付いていました。なんでしょうね」  「わからん、ただ、他でもないわれわれの一座の後を付けていたのは間違いない」  二人は目を合わせて頷いた。  「あの書状とは関係ないんでしょうか」  よしは、胸につかえていたことを、思い切り口に出した。  「おれも、それを考えたが、つながりが分からんからね。でも、こうなれば、何かの手掛かりが欲しいな」  「じっとしているのが、あたしたちの処世の術ではないのですか」  そう言われると、多門も返す言葉がない。  日も落ちて、暗くなってきた座敷に向かい合って、二人は、うなだれて考えてこんだ。  「わしは、あの侍たちは、あの書状と関係があるという気がする。確かめてみよう」  多門はそう、言ったが、よしには、どうすれば、確かめられるかの、方法が浮かばなかった。  「確かめるといっても、どのように」  そう言いかけたが、黙っていた。多門の言い方に、並々ならぬ意思が感じられたし、それは、よしには、近寄りがたい雰囲気ああったからだ。  日が暮れて、晩飯の算段をしないと行けない時間になった。めったに家ではしない夕餉の支度は、今日はよししの番だった。今回の旅の途中で、浦和の辺りの川魚料理屋で、鰻の白焼きを買ってきていたので、それを炙ればいいと、よしは、七輪に火を起こして、付いてきたたれをたっぷりと付けて、二本ほど焼いた。香ばしい香りが、土間に漂って、疲れた体に食欲を誘った。あとは、飯を焚いて、この蒲焼を乗せれれば、豪華な夕食の出来上がりだ。  出来上がった、蒲焼を存分に楽しんだあと、多門は、晩酌に一本だけ、飲んだ後、  「疲れたから、寝るよ」  と言って、早めに床に入った。  よしも、食事の跡かたずけを終えると、並んで敷いた布団に入った。こういう日は、ときたま、多門が、手を差し延べてきて、よしも応じ、禁じられた快楽を探究することもあったが、この夜は、そんな気にはならなかった。二人とも、疲れていたのだ。  よしは、布団に入ると、間もなく眠ってしまった。多門も寝息をかいて、熟睡している雰囲気だった。よしは、安心して、静かに、心地よい無意識の中に入っていった。  だが、多門は、眠っていなかった。目を閉じて、じっと、その日のことを反芻していた。あの書状と二人の侍の関係を考えているうち、  (やはり、確かめておこう)  と意を決した。  多門は、よしが心地よく眠っているのを、確認すると、布団を撥ねのけて起き上がった。壁に掛けてある侍衣装に袖を通して、袴を穿いた。そして、二本差しを指し入れて、侍姿に着替えると、表の引き戸を静かに開けて、十五夜で明るい、夜道に走り出た。  目指したのは、あの書状に書かれていた飯寺藩江戸屋敷だった。          七  川越への街道を辿る日替弥十郎と借りてきた川上犬は、街道から街中に入って、多くなった通行人に道を聞いて、梅元座が、公演を打っている多喜院の境内に来た。  弥十郎は、そのような旅回りの一座は、小さな筵引きの小屋で、ちまじまとやっているのだろうと想像していたから、満艦飾の幟が翻り、役者の名前が墨黒々と書かれた「まねき」が並んだ入口の光景を見て、大いに感心した。  吉野多門と吉野よしの名前が書かれた「まねき」は、ほぼ中央にあった。それは、彼らが、この座の中堅役者であることの証左だった。弥十郎は、すぐに楽屋に座長を尋ね、二人との面会の許可をとろうかと考えたが、  (せっかく、ここまで、来たのだから、芝居を見ていこうか)  という気持ちになり、木戸口に行って、代金を払った。そのとき、木戸番が、弥十郎の引いていた犬を見て、  「犬は入れません」  と咎めた。弥十郎は、  「この犬はおとなしいから、連れて入っても大丈夫だ」  と言い張ったが、木戸番は、頑として譲らなかった。そして、  「私が預かります」  と提案し、弥十郎も、その案に乗って、犬を引き渡した。それでも、犬は、静かにしていた。弥十郎は手綱を渡して、中に入った。  一階の枡席に座ると、相席の人は居なかった。これで足を伸ばして、ゆったりと観劇ができる。木戸口でもらった演目表によるといま、舞台で演じられているのは、人気の「娘道成寺」の筈だった。  席に着いて、落ちついた弥十郎は、目前の舞台に目を凝らした。  紅白の段幕が舞台の背景になっていて、その前、やや上手よりに大きな鐘がつるされていた。その脇で烏帽子を付けた女形が能を舞っていた。  ーー 花のほかには松ばかり・・・ という謡に合わせて、擦り足で舞っていた。やがて、謡は囃子に変わり、一層華やかに踊りが繰り広げ行った。見事な、女形の舞だった。  その舞が終わると、  「ちょんちょん」 と小さく拍子木が打たれ、背景の紅白の段幕が、するすると上がり、緋毛氈を敷いた雛壇の上に上下を着た演奏家がずらりと揃った舞台に早がわりした。二段の雛壇には、三味線引きや太鼓、大鼓、小鼓、笛の演奏者と歌い手が並び、その後ろの背景には、桜の花が満開の道成寺の山が描かれていた。  その瞬間、歌も謡が長唄に変わり、振り袖姿の白拍子が、それに合わせての踊り三昧が始まった。弥十郎は、暫く、その妖艶な踊りに心を奪われて、陶然としていた。  踊りが暫く続いくと、舞台に黒子が現れた。なにやら、娘の後ろでもぞもぞやっていたかと見るうちに、パッと衣装が変わった。これは、「引き抜き」という早がわりだと、弥十郎は、歌舞伎好きの行きつけの蕎麦屋の娘から聞いたことがあった。  舞台はさらに、衣装を換えた娘の毬歌や花笠の踊り、手拭いを使って踊る踊り、かっこの踊り、鈴太鼓の踊りと踊りの連続となった。観客はその艶やかな役者の姿に、完全に心を吸い込まれて、しんとしていた。  と、突然、吊ってあった鐘が落ちて、娘はその中に閉じ込められたしまった。「鐘入り」という有名なくだりだが、弥十郎には、そのような舞台の知識はない。ただ、  (すごい、舞台装置だ。娘はどうなった) と感動し、心配するだけだ。  その心配に呼応するように、鐘は再び、吊り上げられた。だが、中の娘は蛇の姿に変身し、恐ろしい顔付に変貌している。すると、花道から、形相恐ろしい大男がやって来て、逃げようとする蛇娘を押し戻していった。娘は、鐘の上に上って、すさまじい顔で見得を切ったところで、この舞台は幕となった。  すっかり、舞台に吸い込まれていた観客はそこでやっと我に返って、激しい拍手の嵐となった。弥十郎も、思わず、手を叩いていたた。  その拍手の嵐のなかで、舞台の上手下の一角の枡席だけは、動かない。そこには、二人の侍姿があって、幕が下がるやいなや、席を立って、楽屋のある裏に入って行こうとしているのが、弥十郎には、見えた。  弥十郎も、席を立って、二人の後を追った。  演目表を見ると、いまの舞台の「娘道成寺」の白拍子、花子は、吉野義太夫が演じていた。そして、花道の大男は吉野多衛門となっている。それは、女形の吉野よしと多門の役者名だ、と容易に想像が付いた。だから、二人の男が、幕が下りてから、裏に入っていったのは、偶然ではない、と弥十郎はとっさに、思い当たったのだ。  (これは、大変なことになりそうだ)  弥十郎は、急がなければならないのだ。なにしろ、その二人は、両刀を脇に束さんだ使い手なのだ。楽屋で、刃傷沙汰が起きても不思議はない。昨夜、旅館で耳に挟んだひそひそ話を考えれば、弥十郎の心配は、杞憂ではない。  弥十郎は、舞台の裏に回った。そこには、人の身長の三倍以上ある大掛かりな大道具が所狭しと並んでいた。これだけの「所帯」を持って移動するのだから、旅演劇も、容易ではない。  男たちは、弥十郎の先を行っている。弥十郎が、舞台の裏に出た時、二人は、多分楽屋があるだろう奥への通路の入口の暖簾を割って、行くところだった。その姿を弥十郎は、その目で確認していた。  弥十郎は、駆けだした。楽屋への通路には、何人かの出番を待つ大部屋役者がいたが、弥十郎は、目に入らなかった。弥十郎の目は、ただ、先を行った二人を追っていた。  通路に出ると、男たちがいた。彼らは、個室の入口の名札を見ていっていた。弥十郎は彼らが、目指すのは、吉野多門とよしの部屋だろう、と考えた。それとも、座長の梅元若之助だろうか。いずれにせよ、彼らは人を探していた。  「おい、あったぞ」  一人の男が、相棒に叫んだ。  「どこですか、倉田さん」  「こっちだ」  さらに先の廊下が左に曲がった辺りで、男たちの声がした。弥十郎は、駆け足で、その方向に進んでいった。そのとき、争う声がしてきた。  「なにをするんですか」  それは、舞台で聞いた吉野義太夫の女形の発声だった。  弥十郎は、部屋に踏み込んだ。二人の男は、突然の闖入者を振り返ると、まず、小柄な男が、大刀を鞘から抜いて、こちらに向かって、正眼の構えで身構えた。その隙に、体を抑えられ掛かっていた義太夫は、軽やかに身を交わして、男たちの間をすり抜け、部屋の外に逃げだそうとしていた。  それを見て、弥十郎は、義太夫の方に体を進めて、壁を背にして、後ろの安全圏に招き入れた。義太夫は、弥十郎の背中の陰で肩に両手を当てて、恐怖で身を震わせていた。  二人の男が、弥十郎に正面から対峙し、二対一の配置で、男たちは、暫く静止した。互いの出方を探る凍りついた時間が、長い。四人の呼吸と微かな心臓の鼓動の音が、聞こえてくる。  その時、部屋の外で、異常を察知した座員たちが、騒ぎはじめた。  「おい、吉野さんの部屋に、賊が侵入したぞ」  一人の男の声が、叫んでいた。どかどかと人が集まってくる足音がした。その人の動きが、部屋の入口の長暖簾を震わして、空気が動いた。押された空気に乗って、一羽の胡蝶が、三人の間に舞い込んだ。蝶はひらひらと舞い、三人の男が、静止して形作っている正三角形の中心を舞っていた。  暫くの上下運動のあと、蝶は行き先を定めたように、最初に刀を抜いた小柄な男の顔を目指して飛んでいった。  弥十郎はその瞬間を逃さなかった。弥十郎は、剣の腕を頼りに今の地位を固めているのだから、腕には自信がある。田舎の藩の道場では、並ぶものがないくらいの習練を積んでいた。その結果、「藩史始まって以来の剣豪」との賞賛を浴びて、自他ともに認める腕前なのだ。  「えい」  弥十郎は、全身を前に向けて、男の大刀に向かって踏み込んだ。  「かーん」  と金属同士がぶつかり合う、高い音が響いて、男の大刀が空中に飛んだ。剣は真っ直ぐに低い天井に向かっ突き進み、その鋭い切っ先を、斜めに、突き刺した。たじろいだ男は、何を思ったのか、斜めに吊り下がった刀の柄を掴もうと、何度も飛び上がっていたが、ついに届かず、諦めると、体を壁に押しつけて、恐怖の目で弥十郎を見つめた。  弥十郎は、もう一人の男に向かい合った。体を向けると、後ろの義太夫も一緒に、体を寄せて動き、二人は一体になって、もう一人の大柄の男に対峙した。その動きに合わせて、男は、刀をふりかぶり、面を打つ構えになって、隙を伺っている。弥十郎は、その顔の真正面に切っ先を当てて、様子を伺った。殺気が交錯して、剣の先から見えない光線が放射した。  先程の一撃の際、頭の上に逃げていた蝶は、今度は、男の頭の上で舞っている、弥十郎は、その蝶の辺りに狙いを定めて、刀を左から右へと一旋した。男は、一歩後ろに退き、頭を低くした。そのとき、足を滑らせて、前につんのめると、そのまま腹這いになって倒れた。  弥十郎の剣は、見事に蝶を捕らえて、その胴体を真二つに裂き、二つになった蝶の胴体は、倒れた男の目の前に、はらりと落ちて、止まった。  こうなれば、弥十郎の勝利は決まったことになる。二人は、腰を抜かして、うずくまり、恐怖に目を見開いて、弥十郎の次の動きを探っていた。  ゆっくりと刀を鞘に収めてから、弥十郎は、言った。  「お主らに、聞きたいことがある。刀を脇に置いてこちらに来てくれ」  吉野よしが、弥十郎から、身を離して、奥の鏡台の前に座ると、弥十郎は、二人を促して、その側に行き、  「客人に茶を入れてくれ」  と頼んだ。  よしは、付け人を呼んで、茶を入れるように申し付けると、  「お侍さん同士の話ですから、私はこれで」  と言って、出ていった。  「すまん、すぐに済むから。それから、わしは、怪しいものではない」  と言って弥十郎が、名を名乗ると、よしは、  「それはそうでしょう、こちらの二人は、怪しいですがね」  と捨てぜりふを残して、出ていった。          八  川越での大仕事を終えた弥十郎は、その日の内に、江戸の藩邸に帰着した。朧な日中の日は既に落ちて、闇夜に入る境目の頃だったが、春爛漫の昼間の熱りが残り香のように残って、心地よい宵だった。  自室で旅の汚れを落として、室内着に着替えて一息入れた弥十郎は、半時ほど、横になって、天井を見ながら、呼吸を整えていた。日が落ちてからすぐに、家老の稲葉を自室に訪ねようか、と考えたが、用件が隠密を要することだけに、皆が寝静まってから、二人きりの対話を持ったほうがいいと考えて、時間を待つことにしたのである。  すでに、稲葉には、使いの者から帰着を伝えてある。稲葉は、それに対し、  「四つ時(午後十時)過ぎに、参られたい」  との返答を寄越したのだ。  その時刻まで、二刻ほどある。弥十郎は、土産に買ってきた芋菓子を齧りながら、これまでの経緯を整理していた。  ーー 切りかかった侍二人は、話を聞いたところ、飯寺藩の在所から派遣された地侍と判明した。弥十郎が、なかなか、口を割らない二人が、やっと話し始めたとき、その語り口に訛りがあったので、追求していったところ、倉田という侍が、弥十郎が通った剣道場と同じ道場の門弟で、「実は、日替さまと知っておりました」と自白したのだ。  この男たちと切っ先を交わしたとき、弥十郎は、若き日に汗を流した道場での試合の記憶が蘇っていた。それは、いつか体で経験したことのある、懐かしい思い出だった。それを感じて、弥十郎は「この男たちは、おれと同じ流派の使い手だ」と分かったのである。  そういう関係もあって、二人を問い詰めると、  「藩命で役者二人のうち、女形の方を連れ帰れ」  と命じれられて、一通の書状を携え、はるばる、江戸に上ってきたことが分かった。  「その書状を見たのか」  と弥十郎は、質したが、二人は頑強に  「いえ、あの住まいの場所を教えられ、投げ入れただけです。そのあと、連れ帰るように言われました」  と否定した。  弥十郎は、二人に藩での役職を質した。だが、二人は、隠密方とだけ言い、  「それ以上は、ご勘弁を。それ以上を言うと、命が・・・・・・」 と懇願したので、問い詰めるのはやめにした。そればかりではない、弥十郎もうそれ以上は、問い詰めるのはやめにした。弥十郎の仕事は、藩邸に侵入した男を探索できればいいのである。いまのところ、この二人は、その賊ではないと言えた。  弥十郎は、続いて、吉野多門とよしを呼んで、話を聞いた。  「侍に襲われるような覚えはないか」  「はい、実は」  と二人が口を揃えて話したのは、まさに、侍たちが知らなかった書状の内容だった。  「二晩続けで、不審な書状が、家に投げ入れられたのです」  よしが言うと、多門も頷いた。  「なにが書いてあったのだ」  「最初の一通は、ただ、陸奥のある藩の名前が書いてあって、帰城を命ずる、とあっただけでした」  多門が苦悩に満ちた表情で、俯きながら打ち明けた。  「その翌日は、その藩の江戸屋敷の所在地からの発信で、江戸を出るな、とだけ書かれた書状が投げ入れられました」  二人は目を見合わせて、頷いていた。  その話を打ち明けた時の落ち着きのない多門の様子を見て、弥十郎は、  「なにか、知っていることが他にないか」  と問い詰めたが、多門は頭を振っただけだった。そして、鮮やかに蝶の螺鈿が浮き出た漆塗りの煙草入れから刻み煙草を取り出して煙管にねじ込み、火鉢の火を翳して、火を付け、旨そうに吸い込んだ。後ろの鏡台に同じ作りの赤い漆塗りの女物の煙草入れが。あるのを、弥十郎は、見逃さなかった。その装飾には、見覚えがあった。  弥十郎は、二人はこれ以上答えないだろうと、判断した。こうなれば、多分、二人の出自に絡んだ事情が、重大な関連を持っているに違いないと、睨んでいた。  弥十郎は座長の梅元若之助がその辺りのことを知っているに違いないと睨んで、座長部屋に行って、話を聞いた。  「はい、吉野よしは、子供のころ、あるお侍から預けられたのです。詳しくは言えません。それは、そのお侍との約束ですからね。多門は、よしが大きくなってから、突然、座員になりたいと訪ねてきた。芸を見たら、なかなかのものだったので、採用した。なんでも、やはり、陸奥の藩に仕えていたが、芸事にこって脱藩したとか、言っていたようですがね。うちはご覧のようなしがない旅回りの一座ですから、出ていくものが多ければ、入って来るものも拒まないから、私でも知らない座員がいたりする。あまり、出身を聞いたりはしないのです。ただ。よしだけは別ですがね」  梅元は気さくに話した。  「よしさんを預けたお侍はどこの藩の方ですか」  無礼を弁えず、弥十郎は思わず聞いていた。座長の表情が、途端に引き締まり、  「それは言えません。私は、男の約束は守ります。その方には、一方ならぬお世話にもなっている。初めて会ったあなたに、簡単に話す訳にはいきません」  ときっぱりと断った。  だが、弥十郎には、それで、十分だった。それが、弥十郎が仕える飯寺藩の重臣でない訳がない。そうであるからこそ、藩士の弥十郎が、ここに来ているのだ。  それで、十分だった。弥十郎は礼を言って小屋を出た。そして、急いで江戸に引き返したのだった。  弥十郎は、考えていた。そして、このあと、稲葉に聞くべき問の中身を確認した。これで、今夜の会見の心の準備は整った。時間が来るまで、春の宵の心地良い眠りを貪ればよい。すこし、空気が冷えはじめたが、開け放した障子の間から見える夜桜は、昼間の晴れやかさを宿して、満開を誇っているように見えた。  すこし、まどろんだか、という気持しかなかったが、鐘はその時を告げていた。弥十郎は、着替えをして、奥へ行く準備をした。夜の非公式な場とはいえ、そう略装で行きたくはなかった。一応、命を受けた事の結果を報告するだけでなく、弥十郎は、稲葉に聞くべきことを持っていた。それも、かしこまって聞かねばならない。そう思ってから、弥十郎は、気持ちを引き締めて、廊下を進んでいったのだ。  江戸家老が私用に使う奥の八畳間の書院で、稲葉は、書見をしていた。浩々とした燭蝋の光が、壮年の脂汗を額に浮かべている稲葉の横顔を照らし、部屋には、張り詰めた空気が漂っていた。  弥十郎は、名を名乗って、 「入れ」  との応答を待って、襖を開けて部屋の中央の用意された座蒲団に行き、膝を屈して正座し、稲葉が、書見を一段落するのを待っていた。         十  「行って参りました」  稲葉が、対座したのを見て、弥十郎は、まず、そう言った。  「それで、首尾は」  稲葉は端的に聞いた。  「賊の当てはつきましたが、何か事情があるのかと」  弥十郎は、膝を前に出して、稲葉の目を見た。そして、  「その事情は、是非、ご家老に伺いたい」  と加えた。  「賊は、どうしたのだ」  稲葉は、構わず、続けた。  「はい、旅芸人の一座で、看板になっておりました」  「・・・・・」  「それらしき者は、今、天領の川越で芝居を打っている梅元一座の立て女形の吉野義太夫と同居している吉野多門です。多門が、あの夜の不審者だと思います」  「その、よしは、どうしておった」  稲葉は、目を上にあげながら、聞いた。  「わしも、ついでにと思い、舞台を見ました。娘道成寺の娘役で、素晴らしい踊りを見せてくれました。あれは、歌舞伎座の女形と引けを取りませんな」  「そんなにすばらしいのか」  稲葉はさらに頭を上にあげて、なにかに堪えているような顔をした。  「わしは、感動しました」  「そうか、それは、良かった」  弥十郎は、その一言を聞き逃さなかった。  「良かった、と申しますと」  稲葉が、きっとなって、弥十郎を見た。  「あ、これは、口が滑った。申し訳ない」  「ご家老は、なにか、子細を御存知のようですな。ぜひとも、詳しい話を聞かせて頂きたい」  「こんな、夜だ。それもよかろう。長い話だが、手短かにな。心地よい夜には、昔話も似合うであろう」  弥十郎は、身を乗り出した。    ーー お主も知ってのように、我が藩には、積年に渡り、二大派閥の権力争いがある。これは、代々の病弊だ。だが、その流れのなかで、藩士たちは生きていかねばならないのは、この世の処世と言うものだ。今は、落ちついているが、わしが若いころは、現君の幼年時代で、先代の跡目を巡って、国家老の井上様と、いまは、大目付けの山田様の間で、角逐が激しかった。井上様は、妾腹ながら一子の幼君の擁立を目指したが、山田様は、先君の弟君の鶴丸さまを押していた。われわれは、その抗争に巻き込まれて、両派に別れて、争った。  そのころ、わしはまだ若く、毎年春の雛流しにも、出掛けるほどで、幼かった。その雛流しに武家の家の子弟が参加するのは、珍しいが、わしは、その日が楽しみで、いつも、わくわくしていた。その理由は、わしには、お目当ての女子がいて、毎年、一度だけ、あの祭りで会うことができたからだ。相手の女子は、さくらと言って、市内の小間物屋、越後屋の娘だ。知り合ったきっかけは、わしが、妹の雛人形を持って行った時に、全く同じ、人形師の人形を持っていたのが、さくらだったのだ。わたしは、その事に気が付いて、話しかけた。その日は、人形の話で、話が弾んだ。そして、文を交わす中になり、人目の付かぬところで何度か密会もした。だが、お天道様が明るい日の日中に、堂々と会えるのは、雛流しの日だけだった。  お家騒動が、蠢きはじめたころに、さくらは、身ごもった。その年の雛流しの日に、われわれは、河原の脇の葦の茂みで密会し、初めて男女の仲になった。そのときにさくらは、身ごもったらしい。さくらからの文でそのことを知らされたわしは、喜びと苦しみの間で、悩んだが、優柔不断に躊躇している内に非情にも月日は過ぎ、さくらは男の子を生んだ、と知らせてきた。わしは、会いに行きたかったが、身分の違いと不倫の子という事情で、行けなかった。  そのうちに、跡目争いは、ますます、過激になり、山田派が、幼君を誘拐し、拉致しようとしているという計画が漏れてきた。我が家は本流の井上様に組していたから、夜毎の会合で、その対策が話し合われていて、わしも、若いながら、養家の家督を継ぎ、当主になっていたので、積極的に参加した。幼君には、沢山の乳母や腰元が付いていたが、それらの中も両派に別れ、なかには、山田派の息がかかって、幼君に危険を及ぼしかねない女がいてもおかしくなかった。それらの手から、幼君を守るには、どうすべきか、われわれは、話し合った。そして、出た結論は、「幼君を城の奥から、もっと安全な場所に移す」という案だった。身柄を確保しておけば、それが、一番安全な道だ、ということになった。だが、そうするには、身代わりが要る。幼君は変わらず、城にいて、成長しているのを山田派に疑われないようにしないといけない。相手は、命を狙ってはいるが、それは、公には秘密で、あくまでも、丁寧に対していたから、幼君が消えたとなれば。これを先途と鶴丸様へ家督相続を主張しはじめるのは明らかだった。  わしは、「私にある考えがある」と申し出た。それは、秘策だったが、皆に、その考えを言うと、「全てを、稲葉殿に任す」と仲間たちはわしに、対策を一任してくれた。わしの秘策とは、丁度年頃が同じ、さくらの生んだ子を、幼君と入れ換えて、当面の難局を乗りきろうというものだった。わしは、連れ出した幼君の養育は、越後屋に頼もうと、主人に全てを打ち明けて、協力をお願いした。主人は、じっくりと、愛娘との関係や突然生まれた子供のことについての、わしの説明を聞いていたが、「すべて、稲葉様のお考えに従います。命を掛けて、幼君をお守りします」と確約してくれた。  わしは 直ちに行動に移り、わしとさくらの子と、幼君を入れ換えた。この仕事で、一番抵抗したのは、さくらだった。逆境を乗り越えて、必死の思いで出産し、子育てに全力を傾けていたのに、その愛子が連れ去られて、変わりに、君主の一子とはいえ、抱いたこともない見ず知らずの赤子を育てろと、言われたのだから、その哀嘆の程は、想像を絶していた。だが、深く愛し会っていたわしのことを考えたのか、さくらは、命に従った。  そうして、わしとさくらの子は、身代わりとなって、城に入ったーー。  弥十郎には、話の筋が見えはじめた。その子が、あの女形の歌舞伎役者なのか。稲葉は、話を続けた。  ーー そうして、山田派の出かたを見ているうちに、異変が起きた。先ず乳母たちが、「幼君は、乳の吸いかたが変わった」と言いはじめ、生みの親の雛の方に告げ口をした。といっても、雛の方は養育はしていないので、変化には気が付かない。それで、ことは落着したが、われわれは危機感を持った。一刻も早く、鶴丸さまのお命を、と密使を放ったが、相手もいち早く察知して、何処かに匿った。そうして、事態は膠着したまま、一年が過ぎた。  翌年の花のころ、「鶴丸様が落馬して、亡くなった」という急報が流れてきた。お狩り場で、競馬を催して、健在振りを誇示し、代替わりを公にしようとした会で、皮肉にも落馬し、重症を負った。その事故の後、お屋敷で療養していたのだが、そのかいなく、あの雛流しの日に、亡くなったのだ。  これで幼君への継承に障害はなくなった。だが、城ですくすくと育っているのは、わしとさくらの子で、本当に先代の血を継ぐ幼君ではない。われわれは、再び、入替えをすることにしたーー  「なんと」  弥十郎は、呻いた。  ーー だが、問題があった。それは、さくらも幼君を一年間にわたって、自分の母乳で育ててきたから、情が移っていた。それは、そうだろう。本当の自分の子を連れ去られ、代わりにという気持ちに、やっと、切り換えて、必死の思いで育ててきたのだ。われわれは、仕方なく、奥の中ろうらを入れ換えることにした。奥女中らを入れ換えて、さくらを奥の筆頭に迎えた。それで、とにかく、城の方の体制は整備できた。だが、そうなると、身代わりになっていたわが子の行く先がなくなった。越後屋に返すのが筋だが、そこには、すでに、さくらはいないのだ。越後屋の主人も、望んでいた子供ではないから、押しつけられてもこまると言うわけだった。それに越後屋には既に跡取りがいた。わしが、引き取る手もあったが、それも、稲葉の家を守るということから、無理だった。出自のハッキリしない子供を、家に入れるのはもってのほか、と家人らは反対するだろうーー  「不憫な話だ。皆に爪弾きにされて」  弥十郎は、自らの身の上を重ね合わせて、嘆息した。弥十郎も養子の身、父は知れていたが、母の消息は分からない。  ーー そこで、わしらは仕方なく、子供を寺に預けた。そして、忘れることにした。そして、確かに忘れていた。いや、忘れようと努力した。仕事に全力を傾けて、そういう過去を振り払おうとしていたのだ。それは、さくらも、同じだった。幼君を自分の子と同じと考え、養育に全身全霊を打ち込んだ。しかし・・・ーー  「しかし」  ーー 春になると思い出すのだ。あの子を城から寺に入れたのは、このように、心地よい春の盛りの宵だった。お主も知っているように、田舎ではこのころ、雛流しの行事がある。わしとさくらは、城の中で約束して、二人で必ず、かならず、連れ立って川に行って、雛を流した。われわれは、子供を世間の荒波のなかに、流してしまったのだ。せめてもの、供養をと、一年に一度の逢瀬を誓っていたーー  (それは、親の身勝手というものだ)  弥十郎はやや、いらついた。  ーー 確かに、それで、心の安らぎを得ていたのかもしれない。そのうちに時が過ぎ、わしは、江戸家老に任じられて、こちらに赴任した。すると、城では、また、お家騒動の芽が吹き出した。わしというタガがなくなって、山田派が復権を目指して、色々な陰謀をめぐらせ始めた、という情報が寄せられるようになった。隠密の報告で、一番、衝撃を受けたのは、わしらの子が寺から旅回りの芸人に預けられ、役者になっているという報告だった。わしは、さらに詳しい情報を探らせた。すると、山田派が、行方をすでに突き止め、身柄を確保して、藩に移送しようとしていることが分かった。そのための藩士をすでに送ったという。わしは、ことを急がねばならぬと思っていた。その矢先に、あの男が、屋敷に侵入したーー  「吉野多門ですね」  ーー 名前は知らんが、賊だ。彼は、文を二つ持っていた。一つは、すぐにでも城に返れというもので、これは、山田派が送った藩士が投げ入れたのだ。もう一通は、わしが出した。おめおめと城に戻れば、山田派の手に落ちるからな。その二通に不審を抱いた男が、この屋敷に忍び込んできたのだ、そして、わしに、説明を求めた。わしは、息子に会いたかったが、勤め上それは無理だ。それで、思いついたのが、賊として、追跡させ、消息を探ったうえ、身を守らせることだったーー  「その、役割が、おれに回ってきたというわけだ」  ーー そうだな。よく勤めを果たしてくれたーー  「伽羅のお香を投げたというのも、風変わりと思ったが、あれにも、子細があったのですね。わしは、芝居小屋でここにあったお香入れと同じ家紋が入った煙草入れを見た」  ーー そうだ、あれが、あの子に持たせたわれわれの唯一の形見だった。よく、見つけてくれたな。これで、その吉野よしとかいう役者が、わしの流した雛の子だということが、はっきりした。一緒にいる多門とかいう男は知らんがーー  「かれも、同じ家紋入りの小物を持っていますがね。どこかで、作らせたのだろうか」  ーー それは、わしは知らん。わしには、息子が無事だっただけで十分だーー  稲葉は、低い声でそれだけ言って、話すのを止めた。弥十郎もそれ以上、聞かなかった。  (お会いになりますか)  と口に出しそうになったが、止めにした。それは、他人の立ち入ることではないように思われたからだ。         十一  春霞に遠景が霞む大川の土手の上を弥十郎は、歩いている。擦れ違った男に会ったのは、二度目だった。男は、弥十郎を見ると、軽く会釈したように見えたが、それは、こちらの心持ちだけの話かもしれない。弥十郎は、それでよかった。  男の後ろから、声がした。  「多門さん。そんなに速く歩いては、付いていけないわ」  堤を歩く多くの女たちの中でも、一際目立つ、目鼻立ちの整った女が、追っていく。この季節に、ぴったりの若い二人連れに見える。  そこには、梵鐘の上で、見得を切っている蛇娘の面影はない。花道で、娘の行く手を阻んでいた荒事の男も、隈取りの顔ではないから、それとは分からない。  (そうか、すると、正確には、これが三度目なのだ)  弥十郎は、呟いた。二度目は舞台化粧で化けていたのだ。弥十郎は、それを忘れていた。  男が通り過ぎて行った後に、かすかに伽羅の残り香がした。 (終わり)