「爬虫類を飼う女」 第一章 人食い鰐騒動  「公園の池で鰐が泳いでいるんです。皆が、怖がって、遠巻きにして見ていますよ」  警視庁・練馬警察署の当直主任、山下英五郎警部は、五月の連休の初日、  (まったく、順番とはいえ、われわれには、ゴールデン・ウイークというものはないのかね)  と内心でぼやきながら、休日出勤の勤務に就いていた。  その朝は、気分良く晴れ上がり、爽やかなその春の一日を予感させるように、空気が軽かった。だから、山下警部も、気持ちよく、当直勤務に出てきたのだった。  そして、間もなく、掛かってきたのが、その電話だった。勤務の椅子に座ると間もなく鳴った電話から、若い男の声が聞こえてきた。  「何だって、鰐って、あの動物園にいる鰐かい」  警部は、驚いて聞いた。  「そうです。あのハンドバッグやベルトになる鰐ですよ。しかも、相当大きいのが、池で泳いでいるんです」  「泳いでいるって。まずは、その場所を言ってくれ」  「練馬の光が丘公園の中にある池です」  「それで、その鰐の大きさは」  「体長、二メートルくらいで、体はかなりの大きさですね」  「了解した。それでは、パトカーを現場に向かわせるから。それから、捕獲のための準備もしておく」  山下警部は、電話を切り、無線機のマイクを握って、公園近くのパトカーを呼び出し、現場に向かわせた。また、光が丘団地の派出所にも連絡し、警官を現場に向かわせた。  最初のパトカーが、現場に到着したとき、池の回りには人垣が出来ていた。  鰐は、池の真ん中にある小さな島のような場所に、腹這いになって、横たわっていた。すっかり、明るくなった五月の陽光の下で、のんびりと、惰眠を貪っているように見えた。だが、決して、寝ている訳ではなかった。その証拠に、ほぼ、五分置きくらいに、大きな口を広げて、あくびをした。  そのあくびの様子は、長く大きな上顎を、目一杯上に持ち上げて、再び、元に戻すという動作で、その時、口の中が、覗ける。口の中には、鋭く尖った歯が縦に並んでいた。もし噛まれたりしたら、とても助からないだろうと思われるような鋭く、大きな歯だった。  池を取り囲んでいた野次馬の群れのなかから、女の子の大きな泣き声が聞こえた。  「ママー。とても怖いよー。早くお家にかえろうよー」  幼い女の子はそういって、泣いていた。  その泣き声が、群衆の恐怖感を呼び覚まし、人々は、口々に、  「早く、捕まえてしまわないと、恐ろしいことになるぞ」  と駆けつけた警察官らに訴えた。  そういう現場の様子の連絡を受けた山下警部は、区役所や動物園の係員にも、電話を掛けて報せ、大掛かりな捕獲作戦が展開されることになった。  多摩動物園の鰐飼育係らの専門家も加わった鰐捕獲班が結成され、まず、鰐を池の岸辺の片隅に追い込むことになった。  二、三人が、鰐の後ろに回り、長い棒で尻を突いてみたが、鰐の反応は鈍く、わずかに前に出たが、少し動いただけで、また止まってしまう。この繰り返しで、五メートル位は移動させたが、これでは、池の片隅まで追い込むには、丸一日掛かりになってしまうことが、分かった。  鰐捕獲班は作戦を変更した。  遠くから棒でつ突いて、鰐を動かせる方法では、鰐自身の動きを待たないといないが、これでは、時間が掛かってしまう。それより、むしろ、人為的に鰐を捕まえて、持ち上げてしまった方が、作業は早くなる。  それには、鰐の最大の武器である、あの大きな口を封じなければならない。鰐の口を縛ってから、人力で体を持ち上げる作戦に取りかかった。  鰐の口を縛る係は、動物園の鰐飼育係員がすることになった。その係員は、  「鰐は目を覆ってしまえば、動きがとれなくなる。布か袋で両目を覆い、そして,口を締めてしまう。それには、大きな袋を口の先から被せてしまうのが、いいだろう」 と提案した。  作戦は、これを軸にして、実施されることになった。  二人の係員が、二つの袋を持って、鰐のいる島へ行き、一人が目を覆うと同時に、もう一人が鰐の口の先へ袋を被せることになった。  時間は、正午を過ぎようとしていた。陽光はますます、輝きを増し、見物の人の群れも、ますます増えて、池の周囲の歩道は、人で一杯になっていた。  その衆人監視のなかで、二人は行動を開始し、小船に乗って、ゆっくりと鰐に近づいていった。  鰐は微動だにしないで、小さな島の上に寝ていた。係員は、一人がまず、両目に袋を被せて覆うと同時に、もう一人が、先端が円くなった針金を付けた袋を鰐の口に被せた。  その瞬間、鰐は、びっくりして体を捩って、抵抗した。それは、意外に強い力で、二人の係員が、もし、尾のほうにいたら、その直撃をまともに食らっていたかもしれないが、幸い彼らは、鰐の体の前部にいたので、無事だった。  針金が仕込まれた袋は、上手に鰐の口を押さえていた。係員は、棒の手元まで伸びている針金の先端を思いきり、引っ張って、袋の口を閉めた。  鰐は何度も、激しく動いて、抵抗したが、袋で両目を覆われて、口も開けられなくなると、静かになって、抵抗を止めたようにみえた。  そのとき、群衆から大きな拍手が起きた。  あとは、その様子を見守っていた残りの係員らが、一斉に、鰐に襲いかかり、全員で鰐の体を押さえて荒縄を鰐の手足に掛けて、しっかりと縛り上げた。  「これで、捕獲作戦は、成功した」  と皆に安堵の気持ちが漂ったその時、鰐は、突然、猛烈に体を揺すって暴れ出した。それは、渾身の力をふり絞っての最後の足掻きと思われた。と、その時、口の先端を覆っていた袋が外れた。大きな口が袋の外に現れた。その大きな口は、すぐ、側に立っていた捕獲係員の脚に噛みついた。  係員は、  「ギャー」 と大声を上げて、卒倒し、地面に倒れた。  その右足が鰐に噛まれて、口の中に引きずり込まれていた。鰐に取りついていた人々は、全員が、手を離して、一目散に逃げだした。  鰐のいる島には、係員の脚に噛みついている鰐と、その係員だけが残された。  待機していた警察機動隊射撃部隊のライフル銃が、一斉に火を噴いた。捕獲に失敗した万一の場合に備えて、危険防止のため待機させておい射撃部隊だった。  鰐の体は、全身が蜂の巣のようになって、その穴から鮮血が吹き出した。そして、動かしていた口も、ぐったりとなって閉じ、息絶えた。  このあと、救急隊が、現場に急行し、鰐の口を開いて、係員を救出した。しかし、その右脚は、太股の下の膝の辺りまで、鰐の歯が食い込み、下肢はおびただしく、出血していた。係員は、直ちに応急処置を施され、救急病院に移送された。  池を取り囲んだ群衆は、この捕獲劇と狙撃劇に酔っていた。まさに、めったに目撃できないような大捕りもの劇が、現実のものとして、目前で繰り広げられたのだから、興奮は最高潮に達していた。テレビの取材クルーが、一部始終を撮影していた。この様子は、ワイド・ショーでも生中継され、全国に伝えられた。全国民が成り行きを注視していた。  そのなかでの、悲劇的な結末。それは、一つのドラマだった。  その悲劇の主役は、死んだ鰐であり、重症を負った動物園の飼育係だった。  鰐の死体は、多摩動物園に移送され、念のために、解剖し、剥製にされることになった。  救急病院に収容された係員は、右足に無数の傷が残っていたが、脚を失うことのないように、注意深く手術され、入院治療の結果、数カ月後に完治して、退院した。だが、動物園に出勤してきて  「もう、鰐係はいやです」 と鰐の飼育係を辞退した。  鰐の解剖は、動物園の病院内の手術台で行われた。  外皮をはぎ取り、内蔵の摘出と内容物の検査が行われたが、胃や腸を開いてみて、執刀医が驚いたのは、ドロドロに溶けた摂取物の中に、骨が数本混じっていたことだった。  その骨は、動物の骨で、しかも、詳しく検査した結果、人骨と判明したのである。  「人骨が、鰐の内蔵から見つかった」  これは、ショッキングなニュースだった。  なぜなら、これは、すなわち、この鰐が人を食べていたということの証拠に他ならないからだ。しかも、一部の骨には、肉片まで付いていたから、少なくとも、二十四時間以内に、この鰐は人肉を食べたことになる。  この検査結果は、警視庁・練馬署にも連絡された。動物事件を扱うのは、本来なら、保安課や生活課という部署だが、この件は、殺人事件を扱う捜査一課にも伝えられた。野性でない鰐が人肉を食べていたということは、これを飼育していた人物が、人肉を与えたという可能性も否定できないから、これは、当然の措置だった。  人肉が見つかったからには、鰐の所有者を捜査しなければならない。生活課と捜査一課の合同で捜査が行われることになった。これは、簡単な捜査と思われたから、人員は五人と少なかった。  最初に鰐の連絡を受け取った山下警部は、本来は捜査一課所属だが、行き掛かりもあって、この捜査班に組み入れられ、その責任者を命じられた。 死んだ鰐から摘出された人骨は、科学警察研究所で、分析の結果、男性のもので、年齢は、四十五歳から五十歳位と推定された。また、化学分析の結果、人種的には、モンゴロイド(黄色人種)で、水銀成分の組成が比較的に高いことから、米食人種と判明した。  これで、鰐に食われた死体の被害者像がある程度、分かった。中年の男性で、米食性というのだから、これは、まず、日本人と見てよいだろう。  これらの手掛かりを元に、山下警部ら五人の専従班は、まず、手始めに鰐の所有者の追求に着手した。  だが、これは、そう易しい作業ではなかった。確かに鰐を飼育していれば、近所で評判になっただろうが、マスコミの協力でペットの鰐がいなくなった人を探し、チラシなど配って、付近の人に協力を呼びかけても、名乗り出る人はいなかった。  ただ、  「知人が鰐を飼っている」 という情報は、二十数件、寄せられた。  この数字は、捜査員達を、  (この東京で、こんなに鰐を飼っている人がいたとは) と嘆かせるのに十分だった。  人情希薄な大都会では、ペットの爬虫類に孤独を紛らわせている人が、意外に多いのだ。  こうして、寄せられた情報は、一つ一つ、克明にチェックされた、しかし、あの「人食い鰐」の飼い主と思われる人には、突き当たらず、リストに上がった大半の人が、今でも、鰐を飼っていた。  捜査は、壁に突き当たった。  こうなれば、ペットショップを軒並み当たって、鰐を買った人を一人ずつ、潰していくしかない。これまでの、捜査に一ヵ月は掛かっていたから、季節は、そろそろ、夏を迎えようとしていた。  死んだ鰐の種類は、中米から南米にかけて数多く生息する、いわゆるアリゲーター科で、歯や顎の特徴から、南米・アマゾン河流域に分布するクロカイマンと分かった。  鰐の輸入はそう多くはないから、輸入記録も残っているはずだった。税関の輸入記録とペットショップの販売記録を、克明に追っていけば、必ず、購入者にたどり着けるはずだが、これは、あくまで、表の正式ルートでの話であり、こういうワシントン条約で輸出や輸入が禁止されている野性動物の場合は、密輸という裏のルートが頻繁に使われる。このルートで入って来たのだとすれば、追跡は困難だ。  さらに、ペットとして、飼っていた鰐から生まれた子鰐が、ペットとしての流通ルートに乗る場合もあるし、個人的な譲渡の場合もある。ペット天国の日本では、鰐の流通ルートも多岐にわたり、複雑を極めている。  こういう状況は、大海で真珠一粒を探しだすような捜査を強いることになる。すなわち、捜査は、全くの八方塞がりとなり、大きな暗礁に乗り上げていった。  事件は、迷宮入りかとも思われた。  専従捜査班員は、それぞれの持ち場の仕事を抱えている。それぞれがそちらの仕事に比重を移し、「人食い鰐」の事件には、山下警部だけが、一人専従するという態勢がいつのまにか、出来上がり、その夏を何の成果もなしに過ごして、季節は秋になろうとしていた。  体長二メートルを越える鰐を飼育するには、それなりの大きさの水槽か飼育箱あるいは檻が必要になる。それだけの大きさの設備をするには、それだけの広さの空間が必要なはずだった。  ということは、それだけの設備をするためには、マンションのような集合住宅ではなく、かなり、広い庭を持つ戸建ての家ではないかという推測ができる。山下警部は、そう当たりを付けて、光が丘公園近くの一戸建て住宅をターゲットに、聞き込みもしたが、良い情報は得られなかった。  それなら、鰐はどこから来たのか。  (あれだけの大きさの動物を運んでくるのは、一人では無理ではないか)  (運搬は、トラックなどの自動車を使ったのでは)  いろいろと考えて、当日、不審なグループや自動車を見た目撃者探しに全力を傾倒したが、これも、初動捜査で思わしい収穫が得られなかったと同様に、無駄な努力に終わったのだった。    秋風が吹きはじめた十月の初旬、膠着状態だった「食人鰐」の捜査にとって、重要な有力情報がもたらされた。  それは、その情報がもたらされる数日前の出来事に関係していた。  その数日前の当日、山下警部は、午前中の勤務を終えて、しばしの昼休みをとっていた。ちょうど、テレビのニュースの時間で、持参した弁当を食べながら、なにげなく、見ていると、全国ニュースが終わった後の関東ローカル・ニュースのトップで、「東京・北区の荒川川原で鰐騒動」というニュースが、伝えられた。  自分が、鰐に係わる捜査をしているときだけに、このニュースには、注目せざるを得なかった。  ニュースは、伝えていた。  ーー 今日午前七時ころ、東京・北区西が原の荒川河川敷を、体長二メートル位の大型の鰐が歩いているのを、散歩をしていた人が見つけ、滝の川署に届けました。警察が調べたところ、この鰐は、南米原産のアリゲーターで、ペットとして飼われていたものが逃走したか、あるいは、飼い主が捨てたものと見て、飼い主を探しています。河原に居合わせた人たちは、この時ならぬ鰐の出現に、恐る恐る遠巻きにしながら、様子を見ていましたが、連絡を受けて駆けつけた警察官や上野動物園の係員が、大きな網を使って、生け取りし、上野動物園に移送しました。この捕りもの、当の鰐には、とんだ、アリゲーター迷惑でしたーー。  山下警部は、女性キャスターの最後の一言で、食べていた御飯を吹き出しそうになったが、口を結んで、やっと、堪えたのだった。  それから数日後、鰐が収容された上野動物園で検査していた多摩動物園の顔見知りの鰐飼育係から、山下警部に電話があった。  「いや、久し振りです。山下警部さん。先日の荒川の鰐騒動は、ご存じですか」  「ええ、テレビで見ました。大変な騒ぎだったようですね」  「半年前を思い出したでしょう」  「そうですね。この半年の間に、二度も鰐騒動があるとはね」  警部は飼育係の言葉に相槌を打った。  「それで、こうして、電話したのはですね。今度の鰐が、この前のと同じ種類だったのですよ。しかも、兄弟のようなんですよ」  「なんですって、兄弟って。どうして、分かったんですか」  「それは、外皮の組織や鱗の形などが、似ているのに疑問を持ちましてね。詳しく細胞組織を検査したんです。DNAの比較もしました。すると、殆ど一致したんです。同じ親から生まれた兄弟と見ていいでしょうね」  「それで、何処から来たのかは分かりますか」  「それは、無理ですね。そちらにも連絡があったと思いましたが、管轄が違いますね。こちらの事件は、滝の川署の上田警部が中心になって、調べているようですよ」  「そうですか。ありがとうございました。わたしの方から滝の川署に連絡してみます」  「お役に立てれば幸いです。では」  そう言って、飼育係は、電話を切った。  山下警部は早速、警察電話で、滝の川署を呼び出した。  電話に出たのは、女性だった。その女性は、山下警部の  「上田君いるかい」 との問い掛けに、  「私が上田です」 と応答した。  山下警部は、その上田警部が、女性だとは、考えていなかったから、これには、少し、驚かされて、話の口調を変えた。  「あ、すみません。男の方だと思っていたものですから」  「結構ですよ。名前と肩書だけで、私に電話をしてくる人は、大抵、驚きますから」  そう言って、上田警部は、優しいアルトの女声で、返事をした。  そういえば、最近は、警察官への女性の進出も多くなり、捜査関係の枢要な部署にも女性が配属されているケースがある。  「わたしは、生活課課長補佐の上田ですが、どのようなご用件ですか」  上田警部は、改めて、山下警部に用件を聞いた。  「先日の、鰐騒動の件で、少し、お聞きしたいことが、あるのです。実は、半年くらい前に、私の方での鰐が出まして、この鰐を解剖した結果、消化器官から人骨が出たものですから、殺人事件とみて、私が専従捜査しているんです」  「その事件は、私も知っています。私の方も念のために、先日の鰐の解剖を行う予定にしています。でも、今は、まだ、生きていますから、動物園側との話し合いで、どうなることか。動物園側が飼育したいということになれば、解剖はできません」  「それで、どこから、逃げだしたかは、分かりますか」  「いま、鋭意、捜査中です。ペット・ショップの聞き込みとチラシで一般の人に情報提供を呼びかけていますが、いま一つ、反応がなくて」  「こちらも、この半年間、いろいろやって見ましたが、手掛かりがありません。あんな大きな動物が、一目に触れずに、池や河原に行けるはずがないんですがね」  「だれか、運んだ人がいるということですかね」  「それも、いろいろ、当たってみましたが、手掛かりがなくて。今度の騒動で、こちらの方の鰐とそちらのが同じ親から生まれた兄弟らしいということだけが、新しい進展でしてね」  「そうですか。それは、初耳です。どなたから、お聞きになったのですか」  「多摩動物園の飼育係の人ですが」  「ああ、上野動物園で、お会いしました」  「それで、兄弟ということですから、飼い主も同じかもしれない。その可能性は高いと思います。ということは、そちらと同じ目標を追うということになりますね。出来るだけ、情報交換をして、出来れば、一緒に捜査をしたほうがよいのでは、と思うのですが」  山下警部は、まだ見ないが、女性らしいまろやかな優しさを持った声の主に面会し、できれば、共同捜査をしたい、と考えていた。  「そうですね。その方が、効率的ですし、バラバラに追うよりは、早いでしょう」  「では、今から、そちらにうかがいます」  「分かりました」  それで、電話は切れた。  山下警部は、正式な用事のために、いつもロッカーに用意してあるネクタイを締めて、鏡でワイシャツにきちっとフィットさせ、軽い足取りで、練馬署を出て、捜査用車両を調達し、滝の川署に向かった。    滝の川署に到着した山下警部が、三階の生活課の部屋に入っていくと、「課長補佐・上田警部」と掛かれた名札を乗せた机の奥で、女性警部は、電話の最中だった。  山下警部は、目で挨拶したが、それに応えた上田警部の目での指示に従って、机の前の応接椅子に座って、電話が終わるのを待った。  電話の様子では、上田警部は、例の鰐の件で、重要な通報を受けている様子だった。  十五分程経ったあと、上田警部は、電話を切った。  「どうも、お待たせしました。例の捕獲した鰐の飼育主らしい人から電話を受けていたところです。その人の言うには、ここ二、三日、家を空けていたが、飼っていた鰐が見当たらず、知人に聞いたところ、数日前の鰐騒動を知ったのだそうです。その人の家の庭には、広い飼育プールが作ってあり、そこに一匹だけ、大型の鰐を飼っていたそうですが、その鰐が見当たらないと言っていました」  「そうですか。一応、現場に行って、詳しい話を聞いてみたほうがいいようですね」  「そうですね。では、行ってみましょう」  二人は、初対面の挨拶もそこそこに、連れ立って、山下警部が乗ってきた車で、電話をくれた飼い主の住む、北区十条の家に向かった。  その家は、かつての製紙会社の工場跡地に近い、閑静な住宅地にあった。舗装道路沿いに長い塀が巡らされ、その中央部に広い門が開いていた。その門を通って、山下警部は、敷地に車を乗り入れた。門から五、六メートル行くと、どっしりした構えの玄関があり、二人はその目前で車を降りて、呼び出しブザーのボタンを押した。  しばらくすると、中から、初老の男性が姿を表し、二人に挨拶した。  「ご連絡をいただいた警察の者です」  上田警部がまず、名乗った。  「はい。さっそく、御足労いただいて、ありがとうございます。私は、この家の主で奥田三平と申します。用件は、電話で大体、お話ししましたが」  「その点をもう少し、詳しくお聞きしたいと思い、参上いたしました」  老人は、二人を客間に招き入れた。  奥の部屋に通され、畳の上に正座した二人に、お茶が出され、ちゃぶ台をはさんで、対面した老人の話を聞いた。  老人の話は、こうだった。  ーー 私は以前から、動物好きで、いろいろな動物を飼ってきましたが、五、六年前からは、爬虫類が好きになり、トカゲやヘビ、カメを飼うケージを荒川の堤防沿いの所有地に作って、飼っています。見えなくなった鰐は、ペットショップで買った子鰐を育ててきた三匹のうち生き残った番いの二匹から二、三年前に子供が生まれ、それが、大きくなった物です。この番いから子鰐が、毎年、五、六匹生まれます。生まれた子鰐は、ペットショップに卸すか、欲しい人には、分けてあげています。私は、数日前に、楽しみにしていた旅行に出掛けていて、昨日、帰宅し、鰐がいなくなっているのを知ったのです。昨年、妻に先立たれてからは、一人暮らしですから、旅行中は、留守でした。家を完全に締め切り、ケージにも鍵を掛けていったのですが」  上田警部が聞いた。  「その生まれてきた子鰐の行き先は、分かりますか」  「一応、ノートに記録してありますから、見てみましょう」  老人は、一端、引っ込んで、古いノートを手に戻ってきた。  「これを見ると、最初に生まれたのは、三年前で、その時は、六匹でした。四匹はペットショップに売り、残りの二匹は残して育てました。そのうちの一匹が、逃走した鰐ですね。一匹は、飼育中に死にました」  「すると、この時の鰐が、うちの事件の鰐ということか」  山下警部が、頷いたが、  「うちのって」  と老人は、頭を傾げた。半年前に起きた鰐騒動を覚えていなかった。  「昨年も、六匹生まれました。そのあと、番いの鰐は二匹とも死んだので、処分したわけです」  「となると、ペットショップに売った鰐の一匹が、人食い鰐ということか」  山下警部は、そう考えて、そのペットショップの名前を聞いた。   第二章 孤独な女  三年前のある日、東京・板橋区常磐台の川越街道南側に面したペットショップで、二人の男女が、大きな水槽の前に立って、蛍光灯の光がこうこうと輝く、ガラスの中に見入っていた。  男は、長身の中年男、女は、三十歳台のOL風。この日は日曜日で、二人は、夕方五時ころ、店に来て、ハムスターやイヌ、ネコの檻を見て、動物たちにしきりに何かを話しかけていた。約一時間ほど、そうして動物たちとの対話を繰り返した後、この爬虫類が数種類入っている大水槽の前で、立ち止まったのだった。  この水槽の中には、小型のカメやトカゲ、ヘビ、カエルなどが、仕切りで分けられて、入っていた。トカゲ類は、スルスルと動いては、ピタリと止まり、また少し動いては、止まるという動きを繰り返し、止まったときは、赤い舌をチロチロと出し入れをする。  二人は、そうした爬虫類の動きを、ガラスを覗き込んで、飽かずに眺めていたのだった。  その女の名は、松田由美子という。都心のアパレル・メーカー本社に勤めるOLだ。  松田のこれまでのペット動物の飼育歴を言えば、最初は、友達に貰った雑種のネコだった。このネコは、彼女が中学生のときに、ペット好きの女友達が、  「子供ができたから」 とくれたものだが、一年ほどして、車に跳ねられて、無残な死体になってからは、温かい血の流れる哺乳動物は嫌になって、今度は、水槽を買ってきて、熱帯魚を飼った。しかし、これは見ているだけで、触れられないという不満が募り、次には、犬のチンチラを飼った。そのころは、もう社会人だったから、その費用、五万円は、自分で出した。  だが、これも、食事や下の世話がやっかいで、すぐに知人に譲ってしまった。  「哺乳動物は、匂いがするし、餌や排泄物の世話などの手間が掛かりすぎる。もっと、簡単に飼えて、世話のいらないペットは、いないのかしら」  と考えていたところへ、爬虫類がその条件に会っているということを知り、早速、このペットショップに様子を見に訪れたのだった。  松田由美子がなぜ、ペットの飼育にこだわるかというと、それは、本人にも理由が明確ではない。とにかく、一人でいるのが怖いのだ。  (夜中に、たった一人の部屋で、暗いなかで起きていたら、都会の孤独の怖さが、身に染みるわ)  友達との会話で、由美子はよく、そんな話をした。  松田由美子が、孤独を恐れるのには、理由があった。  由美子が小学校三年の時、両親が離婚し、母親と二人暮らしを始めた。母親は保険のセールス・レディーをしながら、由美子を育てたが、その母親も、由美子が短大を出て、社会人になり、会社勤めを始めて、二年経ったころに、急性心不全で、急逝した。  由美子は、それから、十三年間、たった一人で、生きてきた。   由美子にとって、OL生活は退屈そのものだった。勤務場所は、都心の真ん中だったが、職場は入社以来、経理部で、しかも、短大卒の一般職入社だったから、いつまでも、総合職の男子職員の補助的仕事が多く、正直言って、仕事は面白くなかった。  ただ、もう、部内では二番目のベテランになっていたから、仕事と部内の人間関係はなどは、熟知していたため、若い社員から、一目置かれる立場になっていた。要するにいわゆる、「お局様」になりかかっていたのだった。  入社したころは、それでも、未来に描く夢があった。それは、いつか素敵な恋人を見つけて、幸せな結婚をするというOLにはありがちな夢だった。  (そうすれば、苦労してきた母さんに喜んでもらえる)  由美子は、そういう小さな夢を抱いて、男子社員との交際のきっかけを待っていた。  アパレル会社とあって、一見華やかで、社員のファッションセンスも垢抜けていたが、一年もすると、この会社の男子社員は、男性的な魅力に欠ける者が多いことがわかった。  やはり、女性ファッションが中心の仕事だけに、男性も女性的になるのも止むを得ないところかもしれない。  由美子は身長が一七0センチメートル位あり、肉付きもそれなりに良く、なおかつ、きりっと締まっていたから、自分でもプロポーションには、それなりの自身があった。  そういう均整の取れた体になったのは、小さいころから欠かさずに通ったモダン・バレー教室での訓練のおかげだった。苦労した母は、それでも、そう安くはないレッスン料を、この一人娘のために、惜しいとは思わなかった。  スラリと伸びた脚と良く張った胸、程よく括れた腰の線、それに、若い娘だけが持っている輝くように、はち切れそうな肌が、若いころの由美子を輝かせていた。  だが、その均整のとれたプロポーションの体の上に乗っている顔のつくりは、せいぜい、世間並みだった。広い額と小さな鼻と目の取り合わせは、今なら、アムラーの憧れの的かもしれないが、  (決して美人ではないのだ) と、由美子は、自分でも思っていた。  それに、口が大きすぎた。その上、上唇が捲くれていて、それが、とても、嫌だった。小さな作りの幼い顔だちといえば、通りがいいだろう。とにかく、すべての部品が、アンバランスに配置され、女友達が、  「由美子は、研ナオコ似ね」 と言うのが、せめてもの、お世辞なのを、彼女も知っていた。  だが、由美子は、そんな自分が嫌いではなかった.  (そういえば、私は、一度も、自分自身を嫌いになったことはないわ)  そう思い込んでいたから、女友達がなんと言おうと、気にしなかった。  (私には、素敵なボディーがあるじゃない)  それが、自信となって、由美子はさっそうと町を歩き、元気一杯で会社に行った。  そんな日々のなかで、確かに好ましい男性との出会いも無いわけではなかった。同期入社のある男性社員とは、一年間付き合った。  それは、由美子には初めての、異性との交際で、確かに胸がときめいたが、特に相手に引かれるものは感じなかった。それに相手にも積極性がなかった。ただ、週に一度、週末に映画を見に行ったり、食事をしたりして、その雰囲気を楽しんでいた。そして、その交際は、自然消滅した。相手に引かれる訳でもなく、なんとなくそういう交際に憧れて始まった関係だったから、打ち寄せる波が、必ず、いつかは、引いていくように、ごく自然に、会うことがなくなった。  由美子は、魅力的な男性と出会い、灼熱の恋をすることに、憧れていた。いつかは、必ず、白馬に跨がった王子様が現れて、彼女を馬に乗せ、古いお城に連れていってくれなければならない、と彼女は、考えていた。  だが、王子様は、いつまで経っても現れなかった。ただ、時間だけが、単調に過ぎていき、いつしか、由美子は、三十歳を越え、半ばにさしかかっていたのだ。  だから、由美子は、まだ、処女だった。  都会の夜には、底無しの暗さはなく、キーンと音がするような静寂もない。その半分昼間のような夜のなかで、たった一人で、夜の深さを味わっている孤独な女性もいる。その孤独は、本来の夜の暗さのように、深い。  由美子が、心からの寂しさを抱えて、眠るようになったのは、母が急逝してからだ。  その寂しさの縁から抜け出すためにも、側に居てくれる生き物の血の通った同伴者が欲しかった。それは、女性として、愛する男性ならば、最高だが、それが叶わない時は、どうすればいいのか。「人」はそう簡単に、手には入らない。お金で買うことも、現代社会では不可能ではないが、それは、特定の人がすることだ。それが、良く分かっていたからこそ、彼女は、人に代わって買うことのできる同伴者が欲しかった。  夜の巷で、遅くまで酒を飲んだり、同僚たちとカラオケをはしごしたりしたことも、寂しさの解消に少しはなったが、本質的な解決にはならなかった。  由美子は、まだ、燃え上がることのできる未婚女性の熱い情念と深い孤独とを抱えて、あのペットショップに出掛けたのだった。  そして、爬虫類のケースを見ながら、  (カメやヘビは嫌だ。トカゲならいい。飼いやすいというし。でも、この鰐も素敵だ)  そう内心で思いながら、決心できずに、家に帰ってきた。  帰ってから、考えて見た。気に入った鰐の子供は、体長が二0センチ位の大きさで、飼うのは簡単そうだった。店員は、  「週に一回くらい、餌を与えればいいんです。清潔で、匂いもしませんし、飼いやすいですよ」 と勧めていた。  鰐は、一匹だけだった。それも、彼女の気にいった。  (あの鰐を私が飼えるなら、素敵だ)  由美子は、買うことを決心し、次の日に、あのペットショップに出掛けることにした。  翌日、由美子は、そのペットショップを、再び訪れた。入口の自動ドアーを通って、鰐のいた水槽に直行した。そして、昨日見た鰐の子供を探した。  だが、ヘビやカメ、トカゲなどの姿はあったものの、鰐の姿はなかった。  それでも、由美子は、岩の陰や餌箱の裏に隠れているのではないかと、横に回って覗き込んでも見たが、見つからなかった。  由美子は、店員を呼んで、聞いた。  「ここにいた鰐は、どうしたんですか」  「ああ、あのカイマンは、売れましたよ」  「売れたって、昨日はいたのに」  「そうです。昨日、売れたのです」  「そうですか」  由美子は落胆して、肩を落とした。  その姿を見て、店員は、  「残念でしたね。あの鰐は、ここに三カ月もいたんですから。それが、昨日売れたんですよ」 と、すまなそうに、言い訳をした。  由美子は、思い切って、聞いてみた。  「それで、買った人は」  「中年の男の人ですよ。昨日、あなたと一緒に、この水槽の前でずっと覗いていたでしょう」  店員は、昨日の由美子の姿を覚えていた。  「どちらに住んでいるんですか」  「あ、それなら、すぐに分かりますよ。ああいう貴重な動物は、売った先を控えてありますから」  店員は、カウンターの方に向かった。由美子も後に従った。  「練馬区北町の吉野宗太郎さんという方ですね」  由美子は住所を控えて、お礼を言い、店を出た。  家へ帰る途中も、子鰐のことが頭から離れなかった。  (せっかく、決心したのにタッチの差で逃してしまっのは、本当に悔しいな)  一日、考えようとしたために、後手に回ってしまった。何事も先手必勝、とは真理に違いない、と思った。  (でも、その人は、鰐をちゃんと飼えるのかしら)  その男の人の人相、風体を思い出して、由美子は、疑問を感じた。  (鰐を飼おう) と決心するのに、由美子は、相当の覚悟が要った。十分に面倒を見て、しっかり飼って行けるかどうか、正直言って、余り自信はなかった。だから、一日考えて見ようと思ったのだが、あの男は、即断即決で、思い切って買ってしまったのだろうか。  (でも、なぜ、そういう早業が出来たのだろう。ずっと前から買うつもりでいたのだろうか。なぜ、鰐なんて飼う気になったのかしら)  由美子は、自分自身が、深い孤独の中から、救いを求めるようなつもりで、爬虫類を飼うことを思い立っただけに、買っていった男もまた、同じ心境なのだろうか、と考えた。  そして、思い当たった。  (爬虫類の中でも鰐を飼いたいという心が、私と同じなんだわ。こんな人は、滅多にいない。そう、思ったことが同じだということは、あの男の人は、私と同じ心境だったに違いない)  婚期を逃して、たった一人で暮らしている由美子の心に、その男の姿が、大きく、投影しはじめていた。  そんなことがあって、少し落ち込んだ気持ちを抱きながらも、その週は月曜日から木曜日まで、大過なく、会社に勤めて過ごした。  その週末の金曜日の昼休みに、由美子は、何時ものように社員食堂で昼食を取らずに、隣のビルの地下一階の食堂街にランチを食べにいった。制服姿でたった一人だけの女性は、このビル街では、そう多くは見ない。女性たちの大半は、グループで弁当の買い出しや食事に連れ立って歩いている。  由美子は、食堂街の一隅にあるトンカツ屋に入って、昼定食を注文した。  そして、注文したものが出てくるのを待っているうちに、店内を見回してみて、驚いた。  あのペットショプで会った男の人が一人でトンカツを食べていたのだった。  目が合って、その男、吉野宗太郎も目礼を返した。それで、一度は、目線を外したのだが、気にしながらもう一度、男の方を見てみると、吉野は、右手で手招きして、由美子を呼んでいた。  (随分、失礼な人だわ) とは思ったものの、こちらも一人だけに、手招きに促されて、自動的に立ち上がって、男の前の椅子に座っていた。  「いやあ。この前は。こんな所で会うなんて、奇遇ですね」  吉野は、気さくに話しかけた。  由美子は、  「本当ですね。驚きましたわ。この近くに勤めているのですか」  「そうです。第四森ビルですよ」  そのビルは、由美子の会社の隣のビルだった。  「そうですか。私は、その隣のビルの十二階です」  「驚いたな。家も近いみたいだし。それに、趣味も・・・・・・・共通点が多いですね」  「趣味ですか・・・・・・。ああ、ペットね。ところで、あの鰐は、あなたが買ったのでしょう。どうしていますか」  由美子が聞きたかったのは、そのことだった。  「ああ、鰐。家の応接間の水槽の中で、元気にしていますよ。すごく可愛いですよ。掌に乗せて、口をつ突いてやると、ちろちろと舌をだしたりして、楽しいですよ」  「いいなあ。私、あの後、思い切って決心して、あのペットショップに行ったんです」  「決心して? ああ、そうですか。それは、一歩遅かったなあ」  「そう、残念だわ。一日考えなけれればよかった。あのー、お会いした日に買ったのですか」  「そうです。あなたが、思案げな表情をして帰ったから、諦めたのかと思って。もし、あの日にあなたが買うといったら、僕は諦めるつもりでした」  吉野は、屈託なく笑った。  「一歩違いでした」  「ええ、一足違い」  そんな会話をしながら、出てきたカツドンを一緒に食べ、ペットの話題で話が弾んだ。食事が終わるころには、すっかり、気持ちが打ち解けていた。  吉野の  「お茶にでも行きましょうか」 との誘いに、由美子は、素直に頷いていた。  喫茶店でコーヒーを啜りながらの話題も、ペットの話だった。  「僕は、爬虫類を飼うのは初めてなんです。これまで、ラットやイタチなどの小動物を飼いましたが、皆、死んでいくときがとても悲しかった。やはり、温かい血が通っているのが、僕にはありがたいと同時に、とても、悲劇的な思いをさせるんです。ですから、次は冷血動物を飼いたいと思って」  「そうですか。私も同じ考えでした。手が掛からないというし、匂いもありませんしね」  そう、由美子が言うと、吉野は、  「そんなに残念なら、ぜひ、家に見にいらっしゃい。いつでもいいですから。大きく育っていくのを楽しみにして、一緒に飼うつもりでいいじゃないですか」  そういう優しい誘い方をされたが、由美子が、  「でも、ご家族がいらっしゃるのでしょう」 と遠慮すると、吉野は、  「いや、僕は、独り暮らしですから、気楽ですよ。もっとも、一度、結婚生活を送ったのですが、私がリストラの対象にされて失業すると、家内が離婚を申し出ましてね。子供二人を連れて、実家に帰ってしまった。だから、私はこの年で、独身生活を楽しんでいるんです」  「でも今は、会社に勤めているんでしょう」  「確かに、でも、契約社員でしてね。不安定な身分です。この歳になって、正社員で雇ってくれる所は、ありませんからね。でも、お陰で、責任がなくて、気楽ですが」  「なにか、うらやましい気もします」  そんな話をしながら、金曜日の昼休みは終わった。  吉野は、別れ際にも、  「いつでも、見にいらっしゃい。連絡をいただければ、迎えに行きますよ」 と言って、自宅の住所と電話番号を書いて渡した。  由美子は、その紙片を受け取って、何か、気分がとても軽快になった。それは、平凡な日々の中に投げ入れられた一個の小石だった。  何かが起きるかもしれない、という予感がした。  由美子は、会社では「お局様」の立場であったが、その名のとおりに、いわゆる「お局様」的な行いはしたことがなかった。確かに、その名称は若い女性社員や男性の新入社員には、怖い存在で、いろいろ命令しては、苛めたりするハイ・ミスの女性社員ということなのだろうが、由美子は、年下の社員からも慕われ、世間でいうような苛めをしたこともなかった。ただ、社内のポジション的には、年齢的に「お局様」的存在にいるというだけだった。  しかし、由美子は、親しまれてはいたが、かといって、尊敬されていたわけでも、一目置かれていたわけでもない。  何となく、会社の先輩で、単純な仕事の手順や手続きを知っているという意味で、重宝に思われ、親しげに話しかけられもしたが、決して、重んじられていたわけではない。  ただ、入社以来二十年にも届こうかという高齢の女性社員は、人事異動の度に入れ代わる部課長たちからすると、部内事情に通じていて、何にでも役に立つ存在だったから、何かと相談を持ちかけられることもあった。  親しまれ、重宝されているという立場は、由美子に安心感を与え、それがまた、長い間、会社に安住する結果に繋がっていた。備品が何処にあるのか、どうすれば経理に伝票が通るか、出張の精算の仕方は、といった細々とした事務的手続きの相談を受け、由美子も、優しく教えてあげていた。  そうした仕事の相談をしているうちに、社員の表には出ない隠されたプライバシーも自然に知れてくるようになった。由美子は、自分が独身でもあり、一時は結婚相手探しを考えたことがあったことから、そういう個人情報に関心を持って、求めずとも流れてくる情報を収集、整理し、分類することに、異常な興味を覚えていた。  個人の名前を付けたカードを作り、それを箱に入れて、ファイル化して、分類した。カードには、毎日、入ってくる情報を少しずつ書き込んでいった。  そういう作業を、五年も続けているうちに、由美子の机のうえのカード箱には、全社員の七、八割の名前が並んでいた。  動物を飼って、気を紛らすのと、このファイルからカードを抜き取って、書き込まれた個人情報を読むのが、由美子のストレスの発散方法になっていた。  吉野宗太郎と会った金曜日にも、帰宅してから「社外」という名前の付いたファイル箱の中の白紙のカードに、「吉野」という名前を付けた一枚を加えた。  由美子は、カードの上の端のタブを、黒、赤、青の三色で色分けしていた。黒は、由美子にとって敵、危険人物だった。そして、赤は危険信号で注意すべき人物、青は好印象の人、優しくしてくれる味方だった。  吉野のカードには、最初から青い色が着けられた。  由美子は、この色付けについて、  (まったくの独断と偏見だけど、私の目に間違いはないわ) と、変な自信を持っていた。  それは、上司を由美子が評価したことと会社の評価とが、かなりの確率で一致していたからだった。  (私が、この人は、と見込んだ人は、必ず、出世していく)  そう、考えると、自分が人事をしているようで、気持ちがよかった。  しかし、その人物評価眼も、自分自身が係わることになると、まったく、自信がなかった。  それで、いまだに、独身でいた。  第三章 不明の男  一週間程前に、松田由美子の勤める会社で、直属の上司の経理部長が、蒸発するという事件が起きた。突然の出来事だっただけに、部内は騒然とした。  その部長は会社の営業資金の一億円と共に消えていたから、社内では、  「部長が、持ち逃げした」 という噂がしきりだった。  昼休みの給湯室などでの立話でも、その噂話で持ちきりとなった。  「その部長には、愛人がいたらしい」  「奥さんと二人の子供がいるのにね」  「奥さんは、泣き暮らしているそうよ」  「でも、あの部長は、有名な堅物で、そんな大それたことをするようには、見えなかったけど」  「人は、見掛けによらないって言うでしょ」  「一億円も持ちだして、愛人と一緒に逃げているんでしょ」  「愛の逃避行よ」  「いいな。私も愛人になりたいよ」  「バカ。持ち逃げ犯人だよ。相手は」  「そうか」  「くわばら、くわばら」  噂話には尾鰭が付いて、その消えた部長は、愛人と一緒にカリブ海に逃げて、優雅な暮らしをしているらしいという話にまでなり、「成田空港で二人を見た」というもっともらしい証言まで加わって、信憑性が高められていった。    吉野宗太郎は、詐欺師だった。  しかも、仲間うちでは、「すけこまし」と言われる「結婚詐欺」が専門だった。  もう四十代も半ばを過ぎているのに、そんな犯罪稼業から足を洗えないでいるのは、「結婚詐欺」という行為が、彼の性に合っていたからにほかならない。この仕事は、彼の性格にも、才能にもピッタリと会っていたのだ。  それに、二十代で手を染めたこの稼業で、合計五回、逮捕され、通産十五年の刑務所暮らしをしていたから、四十代を迎えるのは、あっという間だった。  裁判では、殊勝な姿で、反省の言葉を述べ、二度目までは、執行猶予と減刑で、二年程度のブタ箱暮らしで済んでいたが、その後は、三、四、五年と刑期が延び、人生で充実しているべき二十、三十代の殆どを刑務所で過ごしたのだった。  その刑期の間にも、彼は、次の「結婚詐欺」の計画を、ずっと、考えつづけていた。ターゲットと手段・方法、最初に話しかけるべき言葉、そして、最後の落とし所まで、入念にストーリーを考え、プロットを設定した。そういう犯罪計画を練ることが、無味乾燥で、退屈な刑務所暮らしの中で、一番、充実し、打ち込めることだった。  彼の最初の犯行は、ふとしたきっかけで、犯罪にされてしまった「過失」の事件だった。彼は、この最初の犠牲者の女性と、真剣に結婚を考えていのだが、いくつかの嘘がばれて、それを相手に詰られて、逃げたのだった。  この女性との付き合いの間に、何度か金を借り、結婚式場まで決めて、高額な結婚費用を預かったまま、全部持ち逃げしたのだった。相手は、警察に駆け込み、彼は追われる身となったが、手配されたのも知らずに、金を遣い果たして、彼女に連絡を取り、簡単に捕まった。警察で、彼は、  「必ず返す積もりで、借りていた」 と弁解したが、聞き入れられなかった。  裁判でも、彼は犯意を否定したが、裁判所は、認めなかった。被害者と名乗った相手の女性の主張を全面的に受入れ、彼は、執行猶予付きの有罪判決を言い渡された。  その裁判の中で、被害者の女性が、  「私は、本当に、結婚できるものと思っていました。私は忘れていなかったのに」 と訴えた言葉が、ずっと、耳に残っていた。それは、  (おれには、そんなに女を引きつける魅力があるのか) という自信になった。  確かに、長身で、整った顔つきをしていて、知性的な雰囲気があり、堂々とした体躯だったから、外見的には、男性的な魅力が、十分にあった。それに、巧みな話術が加わっていた。その会話の中身は、七割方が嘘だったが、それを見極める眼力のある女性は少なかった。  彼は三度目の詐欺を働くという確信があった。そして、見事に「芸術的に」(と彼は思った)三十代のキャリア・ウーマン女性を騙して、三百万円ほど「戴いた」時には、  (これは天職だ) と考えた。だが、これも、足が付いて、捕まった。  この時の裁判でも、被害者(と名乗った)女性は、  「被告人との楽しい思い出が、忘れられない」 と証言していた。  彼には、ますます、自信が付いていた。  そうして、「楽しい思い出」を作りながら、さらに二件の「結婚詐欺」を働き、その刑期を終えて、出てきたのが、三年前だったのだ。  吉野は、最後の刑期を刑務所で送っている間、出所後にやるべき計画として考えたのは、  (今度こそ、結婚詐欺師としての最後の大仕事をしたい) ということだった。  (そして、それを首尾よくやり遂げたら、もう足を洗う) つもりだった。  このためには、ターゲットは、小金を貯めているだけの女ではいけない。とにかく、大金を引き出せるだけの女でなければならない。  (これまでのように大した金も持っていない女では駄目なのだ。大金を貯めているか、大金を用意できる女でないといけない)  そう考えているとき、囚人仲間の一人から、貴重な情報を聞き込んだ。  その仲間は、松田由美子が、勤めているアパレル・メーカーの卸し先の衣料商社に最近まで勤めていて、ギャンブルの借金を商品取り込み詐欺で、稼ごうとして捕まった三十代男だった。  「吉野さんよ。おれは、しくじってしまったが、あの会社は、個人商店からのし上がっただけに、経理が杜撰で、どんぶり勘定なんだ。だから、おれも狙ったんだが、社内の会計はもっといい加減だということだよ。ああいうところは、女性社員も多い。狙ってみたら面白いかもよ」  とその男は、耳打ちしたのだった。  吉野は、その通りだと思った。  (経理が杜撰な会社の経理部に、結婚願望が強い、ハイミスがいれば、それが、格好のターゲットだ。たとえ、女が金を持っていなくても、会社の金を狙えば、いいのだから)  そう考えて、出所後、吉野は、さっそく、名簿会社を訪れ、その会社の名簿を閲覧した。そして、経理部の社員名と住所、電話番号を写し取った。  経理部の名簿には、三人の女性の名前があった。その一人ひとりに当たるつもりで、最初に、始めたのが吉野由美子の家の前での、張り込みだった。  だから、由美子が吉野に、あのペットショップの鰐の水槽の前で、出会ったのは、偶然ではない。吉野は、由美子が家を出てからずっと付けて来て、由美子がペットショップに入ると、一緒に、店に入り、あの大きなガラス飼育槽の前で、出くわしたように装ったのである。  ということは、由美子が、昼食時に、トンカツ屋で吉野に出会ったのも、偶然ではないということだ。吉野は、由美子の周辺を探ろうと、その日、会社のそばにやって来て、まず、腹拵えをしようと、そのトンカツ屋に入ったのだった。じっくり、旨いものを食べて、戦闘体制を整えてから、由美子の会社に侵入して、廊下などで偶然再会したように装い、繋がりをつける積もりだった。  だが、その手間が省けた。由美子のほうから、この豚カツ屋に入ってきたのだから。そして、由美子があの鰐に関心を抱いていることが確認できた。あとは、いつか、家に訪ねてくるのを待てばいい。その後、この俺の手練手管で、じっくりと、火に入ってきた夏の虫を存分に料理してしまえばいいのだ、とだけ考えた。    吉野が由美子を誘った一週間後の、土曜日の夕方、由美子が吉野のアパートを訪ねてきた。由美子は、吉野に貰った名刺に書いてあった吉野の自宅の電話番号に電話してきて、家の所在地を確かめ、訪問の許しを得てから、訪ねてきた。由美子は、そういう手順には、こだわる女なのだった。  この電話を取ってから、吉野は、準備をする余裕ができた。吉野も訪問を受けてからの手順を考えた。ただし、この場合の手順は、由美子の場合とは違って、「いかに、落とすか」という犯罪の「手口」だった。  「お誘いに甘えて、やって来ました」  由美子は、型通りの挨拶をして、家に入ってきた。  「鰐の子は、元気にしていますか」  「ああ、奴は、この飼育箱の中で、元気にしていますよ」  吉野は、由美子を、リビングルームの壁際にしつらえた大型の飼育箱の前に、導いた。  「あの時と同じですね。じっとしていて、動かない。でも、こんなに小さいのに、どのくらいの大きさにまでなるんでしょう」  「二、三年で、大人に成長すると聞きましたが、大型カイマンは、体長二メートル以上になるといいますよ」  「そんなに大きくなったら、どうやって飼うのかしら」  「大きくなったらなったで、その時のことでしょう。とにかく、育てていかなくては・・・・・・」  「いいなあ、私もそうして、育ててみたいわ」  由美子は、素直に、心から押し出すように、そう言った。  「そんなに、この鰐が気に入ったのかい」  「そう。本当に、気にいってしまったの」  由美子は、その日、夜の八時過ぎまで、飼育箱の前で、ずっと、鰐も見ていた。その姿を、吉野が、また、ずっと、見続けていた。  八時すぎになって、吉野が、  「おれは、腹が減ったよ。御飯を食べてないからね。それそろ、鰐との対面は切り上げて、飯でも食おうよ」  「そうね。私もおなかがすいたわ。でもこの子には、食事をさせなくていいの」  「まだ、小さいから、ペット・フードだけで大丈夫みたいだ。大きくなったら、生肉をやらないといけないだろうが」  「生肉。そうしたらお金がかかるわね」  「確かに、でも、俺にはある考えがある」  「考えって、どんな」  「それは、簡単には言えないよ。どうしても知りたいのなら、もっと親しくならなきゃ」  「親しくって、どういう意味」  「心を通じ合わせる関係にならないといけない」  「意味不明ね」  この夜、二人は、近くのファミリー・レストランに行って、一緒に食事をした。だが、会話は弾まなかった。  それは、由美子が、  「あの鰐に、再会できた」 という感動で胸をいっぱいにして、言葉少なになっていたからだった。由美子は、鰐と会った感激を胸にして、帰宅した。    それから、二週間して由美子は、無性にあの鰐の顔を再び見たくなった。  由美子は、吉野に電話して、また、鰐に会いに行った。  いつ電話しても、吉野が、必ず自宅に居て、本人が出てくるのには、少し不自然に思ったものの、鰐のことで心が一杯で、吉野がどういう仕事をしているのか、どんな生活をしているのか、家族がいるのかといったことには、関心が湧かなかった。  由美子は、ただ、鰐に会って、その動く姿を見たいのだった。吉野は、自分で言った通りに、独り暮らしのようだった。それは、部屋の様子からの推測だが、たまたま、今だけ独り暮らしをしているのか、どこかに家族がいるのかは、わからなかった。だが、由美子は、その点を詳しく、聞こうとは思わなかった。  この二度目の訪問でも、由美子は、じっと飼育箱の前に座って、鰐を見ていた。ただ、今度は、前回、何も土産を持ってこなかったので、ショート・ケーキを二人分、持参していた。  吉野は、そのケーキの箱を開けて、小皿に盛り、台所で、紅茶をポットに入れて持ってきて、テーブルの上に置いた。  「お茶をいれたよ」 「すみません」  由美子は、飼育箱の前から離れ、吉野と向かい合わせに座って、ケーキを食べた。  そうしているうちに、そういう形で、密室に、男性と二人きりでいるのということが、突然、意識の大きな領域を占めるようになった。  これは、鰐を見ているときには、考えたこともなかったことだったが、そういう形で、男性と二人きりでいることは、普通のことではないような気持ちがした。  そう意識しはじめると、前に座っている吉野の視線は、由美子の体をなめるよう見据えているよう気がして、由美子は、体が硬くなった。  意識すると、会話も堅くなり、途切れ途切れの受け答えになっていった。  だが、そのポツポツとした会話の中から、由美子のプライバシーを嗅ぎ取るのを、吉野は、怠らなかった。  由美子が三十五歳で独身で、独り暮らしであること、母と死に別れてからずっと、一人でいること、丸の内のアパレル・メーカーで経理の仕事をしていることなどを話したが、吉野のほうは、年齢が四十代半ばで、独り暮らしをしていることは、分かったが、妻子がいないような感じがしただけで、どういう仕事をしているのか、毎日、何をしているのかは、不明のままだった。ただ、その立派な体躯と包み込むような話しぶりから、嫌な感じはせず、むしろ、寛いだ気持ちになって、話をしていることに、この人の人柄に引き込まれていくようなものがあるのを感じていた。  「そうですか。もうずっと、独り暮らしなんですか」  吉野は、由美子の目を真っ直ぐに見つめて、同情するような眼差しで、そう言った。    そのあと、由美子は、吉野の家を、二週間に一度くらいのペースで、頻繁に訪問した。時には、  「鰐の餌に」  と言って、生肉を買ってくることもあったし、再び、ケーキを買ってきて、二人で、食べるような機会もあった。だが、由美子は、いつも、ずっと、子鰐の飼育箱の前に座りこんで、静かにじっとしている鰐の姿を見つめているだけだった。  吉野は、そうして、由美子が、何度か通ってきたあと、四カ月ほど経ったときに、  「実は、どうしても金が必要になったので」  と由美子に借金を申し出た。  由美子はその申し出に、最初は、戸惑っていたが、吉野が、  「十万円くらいだけど」  と言うと、  「いいわよ。その位なら」  と承諾した。そして、  「明日にでも、口座に振り込んでおくわ。振込通帳が証拠になりますから」 といかにも経理部の社員らしく、請け負った。  そして、その後、  「ただし、条件があるわ」 と言い加えた。  吉野は、その申し出に、渋い顔をした。すると、由美子は、  「大したことじゃないわ。一緒に動物園に行って欲しいの。一日だけ」 と言った。  吉野は、承諾し、その週の休日に、由美子と待ち合わせて、上野動物園に行った。  由美子は、鰐や、トカゲが入っている、爬虫類舎に直行し、アメリカ鰐の前で、一日中、鰐を見ていた。吉野は、そういう由美子に最初は、丁寧に付き合っていたが、いい加減に飽きて、外へ出てベンチに座って、由美子を待っていた。  それは、ただ、飽きたということだけが理由ではない。この日、由美子と会って以来、吉野は、二人の行動が、誰かに見張られているようなうそ寒い思いがするのを感じていた。それを確かめたくて、一人で外に出たのだが、見張っているような人物は、見つからなかった。  その日を境に、由美子は、急に、吉野になれなれしくなって、最初のころのような、構えた姿勢がなくなった。まるで、友達のような感じの話しかたをするようになり、他人が見たら、兄弟と思うだろうというような、親しさが、二人のあいだに漂うようになっていた。  それは吉野には、好都合なことだった。彼の計画している犯罪にとって、そういう関係が出来上がったということは、良いことだった。  (ターゲットと気持ちが近くなるのは、「結婚詐欺」の第一条件だ)  吉野は、計画が思いどおりに進んでいくのを、ほくそえんでいた。  それから、二ヵ月くらいして、やって来た由美子に、  「緊急に、百万円位、必要になった。貸してくれないか」  と申し出た。  以前に借りた十万円は、約束通りの期限に返していたから、信用はあるはずだった。  由美子の気持ちは、以前より、吉野に近付いているはずだったから、この申し出に無理はないはずだった。  由美子は、簡単に承諾した。  だが、今度も、条件を出してきた。  「いいわよ。ただし、この部屋を一日だけ、私に貸してほしいの。私の自由に使わせて」  吉野は、承諾して、その日を決めた。  その日からは、由美子の訪問は、遠くなり、それから半年もすると、月に一回くらいのペースに減っていた。そして、一年後には、三ヵ月に一回くらいになった。その間、鰐は、ぐんぐん成長し、大きくなっていた。  吉野は、今度の犯行を、生涯最後にするつもりだったし、それだけ、じっくりと時間を掛けて、最大の成果を得る積もりにしていたので、時間の経過は、惜しまなかった。だから、由美子の足が遠のいても、焦らず、どっしりと構えていた。  (この前、百万円はきちんと、返したから、今度は、一気に五百万円にしよう)  吉野は、そう考えて、二人が、知り合ってから、ちょうど二年後のその日に、訪ねてきた由美子に、申し出た。  由美子は、これは、少しは、大金だけに、  「そんなに、すぐには出来ないわ」  と断ったが、吉野が、  「分割でもいい」  と言うと、  「それなら、少しずつね」 と言いながら、一週間後には、五百万円を揃えて、口座に振り込んでくれた。  その返却には、二カ月掛けた。それは、次の大金をせしめるための、重要な布石だった。  吉野は、その返却を百万円ずつ、五回に分けて、行った。  その間、二回ほど、由美子が訪ねてきたが、そのたびごとに、  「借りた金は、必ず返すからね」  と言うのを、忘れなかった。そして、返却がいかにも大変そうに装った。それは、吉野が金を返すのに、苦闘している姿を、由美子の印象に植えつけるためだった。  それから、吉野は、最後の仕上げに取りかかった。  吉野は、訪れた由美子に、一千万円の借用を申し出た。由美子は、  「そんなにすぐには、出来ないわよ」 と行ったが、既に、五百万円を貸して、利子とともに、確実に返却され、小金を稼いでいたので、その言葉は、弱かった。  吉野は、  「貴方の個人的なお金はないかもしれないが、会社にはあるでしょう。そのくらいは、経理の操作でも、すぐに用立てられるのじゃないの」 と知恵を付けた。  由美子は、会社の金庫に常に用意してある、緊急の資金を、お得意の伝票操作で、引き出し、数日後に吉野の口座に振り込んだ。  例によって、会社の審査はないに等しく、どんぶり勘定だったから、一千万円くらいの金は、簡単に引き出せた。それに、必要な書類や印鑑は、由美子が管理していたのだから。  吉野は、この一千万円を間違いなく返して、由美子を安心させた。それに、このくらいの額になると、一割と約束した利息の収入も悪くない額になったから、由美子は、欲もだすようになった。  それからは、吉野は、借りる額を二千、五千万円と引き上げていったが、いずれも、約束どおりに、利子を付けて返却し、由美子も会社に気づかれないうちに、金庫に返していた。  二人の間には、お金に関しての信頼感が生まれていた。由美子は、以前、吉野の仕事については、詳しく、知らなかったし、知ろうともしなかった。ただ、多額の金を貸しても、確実に返してくれるのだから、しっかりした人だ、と考え、信頼感が強くなっていたようだった。それに伴って、多額な金額への抵抗感がなくなり、無関心になっていた。伝票に記入する、金額が、ただ、数字の行列にしか見えない状態だった。  そんな時、珍しく、既に二メートル近くに育っていた鰐を見に、由美子は、吉野の家を訪ねた。例によって、生肉とケーキを持ってきた。鰐の餌と二人の茶飲み菓子だった。鰐は、一日に十キロくらい餌を食べるほどに育っていたから生肉だけでも、かなりな重さだった。  その由美子に、吉野は、申し出た。  「また、すまないけど、金を用立ててもらいたい」  「今度は、いくらくらい、この前は、五千万だったから、今度は、一億かな」  由美子は、笑いながら言った、その顔は、その位は、大丈夫と言いたげだった。なにしろ、会社の金なら、それこそ幾らでも引き出せる、という自信があった。そうして、貸した金の利子で、由美子は、かなりの小金を稼ぎ、洋服やアクセサリーなども買った。それは、OLの安い給料では、出来ない贅沢だった。由美子は、小額のお金の価値に無感動になっていた。  「そう、一億円ほど頼むよ」  「一億円は、大きな額ね」  「でも、必要になったんだ、必ず、返すから」  吉野は、懇願した。  そして、  「これまで、何回も、この部屋で、二人きりで、貴方に会ったけど、一度も、貴方を求めたりしなかったのは、なぜだか分かるかい。本当は、一日も早く、そうしたかったけど、そんなことをする男ではないということを見てほしかった。だから、必ず、約束どおり、金を返してきただろう。貴方への、気持ちは、十分、分かっているはずだ。俺の最後のお願いだよ。この金さえ借りられれば、おれは、大金持ちになれる。そうすれば、君とも一緒になれるんだ」  と熱を込めて、説得した。  そして、由美子の顔に顔を近つけて、顎に手を当て、唇を求めたが、由美子は、すぐに、顔を背けて、拒絶した。そして、  「一緒になれるって、結婚すること」  と聞いた。  「そうだよ。そういうこだ」  由美子に、これはプロポーズなのだ、と分からせないと行けない。吉野は、念を押した。由美子の応対が、ぎこちなくなった。多分、そういう経験がないからだろう。男に結婚を申し込まれたのは、三十年以上の人生で、これが初めてに違いない。由美子の顔が紅潮してきた。  「だから、最後の頼みとして、お願いする」  下を向いて、由美子は、頷いた。  「わかりました。いつもの通りやってみますから」  そういう会話が、吉野の部屋で、あったのが、あの「鰐騒動」の一週間前だった。 第四章 トリック  東京都北区十条の爬虫類好きの老人、奥田三平が、飼育した鰐を売った先のペット・ショップは、警視庁練馬署捜査一課の山下警部と、滝の川署生活課の女性課長補佐、上田警部の精力的な合同捜査で、すぐに、突き止められた。  板橋区常磐台の川越街道に北面したそのペット・ショップを訪問した二人の警部は、店員から奥田老人から買い取った鰐の売却先を聞き出した。四匹の鰐の売却先は、すべて、店の売上帳簿に記載されていた。二人は、その飼い主の名前と住所、電話番号をメモした。三年前のことなので、四人がすべて、その住所に住んでいるとは、限らなかったが、電話で当たってみることにした。  近くの練馬署に帰った二人は、早速、手分けして、その一人ずつの電話に当たっていった。その四人は、いずれも板橋区や練馬区に住所を持っていた。そのペット・ショップの近くだった。  一人は、練馬区本町の女性、もう一人は、板橋区常磐台の男性、そして、もう一人は、板橋区上板橋の男性、最後の一人は、練馬区北町の男性だった。  二人の警部は、二人ずつ、分担して、電話を掛けた。  山下警部が電話した最初の練馬区本町の女性は、  「買ってから、一年ぐらいで死んでしまいました」 と答えた。  二人目の板橋区常磐台の男性は、  「昨年まで、元気でいたんですが、丁度、一年くらい前に、死んだので、庭に埋めました」 と言った。  上田警部が最初に当たったのは、板橋区上板橋の男性だった。その人は、すでに転居していて居なかったが、その家を買い取ったという家の主婦が電話口に出てきて、  「ご主人が外国に転勤することになり、私達が、家を買い受けました。鰐は、庭に檻を作って飼っていたようですが、引っ越しの際に、みな、業者引き取ってもらったようです」 と言った。  最後の練馬区北町の男性は、  「確かに、一年くらい前まで飼っていましたが、どうしても飼いたいという人が居て、譲ってあげました」 と答えた。  上田警部が、  「その譲った先は、分かりますか」 と聞くと、その男は、  「すぐに分かりますよ」 と言って、その名前を教えてくれた。それは、女性の名前で、「松田由美子」という名前だった。上田警部は、その名前と住所、電話番号を記録した。    二人は、この電話調査の結果を突き合わせた。その結果、最初に当たった二人は、すでに、鰐が死んでいるのでまず、除外した。残るのは、上田警部が当たった二人だったが、海外に転勤した人の鰐は、  「業者が引き取っていった」 ということで、その業者の名前までは、分からなかった。その鰐が生きているとしても、これ以上は、追跡のしようがない。  最後の男性が、友人の女性に譲り渡したいう鰐だけが、さらに追跡できるただ、一匹の鰐だった。  二人は、譲渡を受けたという「松田由美子」に電話して、家を訪問してみることにした。  上田警部が、早速、その電話番号に電話すると、電話口から、聞こえてきたのは、  「この電話番号は、現在使われていません。電話番号をお調べになって、お掛けなおし下さい」  という機械的な、女性の声だった。  「転居したのでしょうか」  上田警部は、憂いを含んだ表情で、聞いていた山下警部に問い掛けた。  「そうかもしれない。仕方ないから、その家に行ってみようじゃないか」  二人は、連れ立って公用車で、由美子の住所に向かった。  由美子の家は、アパートだった。板橋区常磐台の閑静な住宅地の一角にある鉄骨鉄筋二階建てで、計八室が、上下に四室ずつ並んでいる造りだった。  松田由美子の部屋は、二階の真ん中の左側で、表札があったので、すぐに、分かった。山下警部が、部屋のインターホンを押したが、応答はなく、しばらくしてから、ドアーをノックしてみたが、やはり、無言のままだった。  隣の部屋には、人が住んでいるようだったので、その部屋のインターホンを押してみた。すると、中から、返事があった。表札を見ると、そこには、男の名前が書いてあった。  「はい、なんでしょうか」  中から聞こえたのは、男の声だった。  「すみませんが、隣の松田由美子さんのお宅に伺ったのですが、不在のようですので」  上田警部が、そう言って、面会を求めた。  「ちょっと、待ってください。いま、行きますから」  その男、中上次郎と表札に書いてある人物が、しばらくして、ドアーを開けて、姿を見せた。  その人物は、白い杖を突いた三十代の男で、一見して、盲人と分かった。  「すみません。私達は、警察の者ですが、隣の松田さんは、引っ越されたのですか」  「いえ。よく、分かりませんね。でも、そういう挨拶はありませんよ」  「では、まだ、部屋を借りているのですね」  山下警部と、上田警部が交互に聞いた。  「そうだと思いますが」  「つかぬことを伺いますが、松田さんは、鰐のような動物を飼っていませんでしたか」  「いえ、そんなことは、ないでしょう。そんな感じはなかったですね」  上田警部が、さらに尋ねた。  「松田さんは、ここに住んで長いのですか」  「そうですね。私が越してきた時には、すでに、いらっしゃいましたから、ここ三、四年は、住んでいたのではないでしょうかね」  山下警部が、進み出て聞いた。  「それで、最近、何か変わったこととか、気が付いたこととかは、ありませんか」  中上は、すこし考え込んでから、  「そういえば、一週間ほど前に、随分大きな物音がしていましたね。あれは、誰かが訪ねて来たのでしょう。荷物を運び出すような音が、聞こえましたよ」  「何時ごろですか」  「それが、夜中なのです。世間でよくある夜逃げでもするのかと思いました。私は、このように目が不自由なので、耳だけは鋭いのです。あれは、人が三人くらいいた感じだな」  「男性ですか。それ以外に気付いたことは」  「そう言えば、男と言えば、ほとんど毎日のように、男性の靴音が聞こえてきて、そのあとドアーが開き、部屋に入る音が聞こえました。ところが、いつも、入っていくだけで、出てくる気配がないのです。私は、寝るのが早いので、その靴音を聞いてから、眠ってしまうので、朝方に出ていっても、分からないことは、分からないのですがね」  「男性の靴音。それは、どっちの方から聞こえてきましたか」  山下警部が、さらに聞いた。  「どこから・・・。そういえば、それが、不思議なことに、一階からではないのです。階段を上がる音は、聞こえないのですよ。この部屋の前を通って、隣に行く音だけなのですよ。そういえば、上がる時の音は、聞こえなかった」  二人の警部は、顔を見合わせた。同時に、ピーンと直感が走ったのだ。  この部屋を挟んで、松田の部屋の反対側、すなわち、廊下側から見て一番、右の部屋に走っていって、表札を見た。そこには、「中原勇」といい名前があった。  山下警部が、部屋のインターホンを押したが、案の定、中から応答はなかった。  二人は、中上に礼を言って、アパートを辞した。そして、松田に、鰐を譲った男性を訪ねることにした。  その男、吉野宗太郎の家は、練馬区北町の旧川越街道沿いのマンションで、道から少し入った住宅街の一角に建っていた。  突然、訪れた二人を、吉野は丁重な応対で、迎えた。  「ああ、先日、電話を下さった警察の方ですね。さっそく、どうも、ご苦労さまです」  そう言って、愛想良く、二人を部屋に迎え入れた。  リビング・ルームのソファーに誘われた二人を、台所に入ってから、ずいぶん、ゆっくり時間を掛けていれてきたコーヒーでもてなしながら、吉野は、  「あの鰐の件でしょう」 と自分から、話を切りだした  キッチンに入っていた時間が、あまりに長かったので、痺れを切らしていた山下警部が、急いで言った。  「そうです。貴方から、教えられた松田さんの家に行ってみたのですが、どうも、引っ越されたようなのです」  「そうですか。私もそれほど、深い知り合いではないので、それは知りませんでした。ペット・ショップで、私が鰐を買ったときに、一緒に買おうとしていたので、知り合いになったのですが、その後も、何度か、鰐を見たいからと、家を訪ねてきて、ずっと見ていました。その姿が、とてもいじらしかったので、そんなに好きならと、無償で譲ったのです。でも、転居してしまったのですか。それは、知りませんでした。鰐をどうしたのでしょうね」  山下警部が、聞いた。  「そうです、その鰐ですが、それが、逃げだして、先日の光が丘公園の鰐騒動になったのですよ。それは御存知でしょう」  「そういう騒動があったのは承知していますが、それが、私の飼っていた鰐だとは知りませんでした。そうすると、松田さんが、逃がしたのかな」  「どうも、そうらしいですね。それで、できれば、確認をして頂きたいのです。飼っていた鰐は、すぐに、分かりますか」  「それは、分かりますよ。二年以上、一緒に暮らしたのですから。見れば分かります」  二人は、あの鰐が保存されている多摩動物園への同行を申し出た。吉野は、承諾し、翌日、一緒に動物園へ行った。顔の作りやこけらの模様などから、間違いなく、吉野が飼っていた鰐だったことが、確認された。  こうして、問題の鰐の飼い主が判明した。しかし、その最近の飼育者は、依然として不明だった。さらに、その鰐が腹に入れていた人骨が、誰の物なのかも、依然、分からないままだった。  その真相を追究している二人の警部にとっての手掛かりは、残り唯一の糸口である「松田由美子」という名前だけになった。  二人は、アパートの大家を訪ねて、まず、松田の転居先を聞いたが、大家は、  「聞いていない。第一、あの部屋は、まだ契約が切れていないのに、いなくなってしまった」 と愚痴を言った。しかし、勤務先は、入居の際の書類に記されていた。  警部らは、その会社に電話して、松田由美子の所在を訪ねた、しかし、電話口の女性は、  「松田は、すでに、退社しております」 と答えただけで、それ以上は、教えてくれなかった。  仕方なく、二人の刑事は、再び、大家に頼み込んで、松田と中原の部屋を合鍵を使って、捜索した。だが、これも、予想したように、二人の部屋には、一切の家具類も身の回り品も残されておらず、もぬけの殻になっていた。  しかし、このことは、逆に二人の関係を裏付ける状況状況だと、山下警部は感じた。それは、まだ若いエリートの上田警部には、はっきりとは分からなかったが、長い経験による直感だった。  だが、とにかく、松田の行く方を追うしかないことで、二人の意見は一致していた 。  (あとは、松田の会社の同僚に当たって、心当たりを聞いてみるしかない) と考えて、二人は、松田の勤めていた東京・丸の内のアパレル・メーカーの本社に向かった。  受付で、経理部の所在を聞いて、上がっていき、上司に警察手帳を見せて、話を付けた。  化粧の濃い二十歳代半ばの、女子社員が二人、推薦されて応接室に入ってきた。小柄な丸顔の女性と、中肉中背の面長の女性だった。二人は、松田の机の両側に机を並べて、仕事をしていた同僚だった。  まず、山下警部が切りだした。  「松田さんの行く方を探しているのですが、心当たりはありませんか」  「それが、突然、辞めてしまったのです。私達も驚いています。あんなに、長く勤めていて、お局様のような存在だったのに。でも、正直言って、私達は、ホッとしています」  「どうして」  「だって、やはり、年上の先輩の女性は、うっとおしい存在ですよ。それに、松田さんは、部長や課長も頭が上がらない位の経理部の重鎮でしたらね。仕事のうえの細かいことは、なんでも、松田さんにお伺いを立てていたくらいですから。そういう意味では、隠然たる権力があったのですから」  「部長も課長も頭が上がらないくらいだったのですか。では、会社には、損失でしょうね」  「そうでしょうね。いろいろと秘密も握っていたみたいだし。あっ、そう言えば、彼女が辞めてから、経理帳簿の監査があったのですが、かなり多額の使途不明金が出てきたというウワサですよ。あ、いけないことを言ってしまった」  太った女のほうが、口を滑らせた。  「大丈夫ですよ。われわれは、管轄が違いますから。その方面の捜査では、ありませんから安心してください。では、彼女は、かなりの権限を持っていたのですね」  面長のほうが答えた。  「それはそうです。大金を自由に動かせる立場でした。部長の決裁印を預かっていましたから。ですから、この使途不明金も、会社は、蒸発した前部長に一切の責任を押しつけてもみ消してしまった。それで、一件落着です」  「一体、幾らくらいの額なのです」  「それが、一億円だというのです。私達のような安月給の身には、夢のような額ですよ」  「ところで、その蒸発した部長は、何といいます」  「中原です」  「名前は」  「ええと、そうだ、勇です。近藤勇の勇ですね」  二人の警部は、その名前に覚えがあった。  それを聞いて、二人は、顔を見合わせて、頷いた。   練馬署への帰りの車のなかで、助手席に座っていた上田警部が、山下警部に問いかけた。  「やはり、第六感が当たりましたね。松田由美子と中原勇は、会社の上司と部下の関係だったんですね」  「そうだ。ピーンときた通りだった」  「そうです、でも、そこまでは当たりましたが、二人とも、行く方が分からない。どうしたらいいでしょうね」  「それが、問題だな。何か、手掛かりがあればいいが・・・。そうだ。中原には、家族がいるのではないか。会社で聞いた住所に当たってみようか」  「それがいいですね」  そう話が一致して、二人の警部は、練馬署に戻ってから、会社で調べてきた中原の家の電話の番号を回した。すると、すぐに、電話口に、留守宅の妻と思われる女性が出た。  しかし、山下警部の問には、  「それが、家のほうにまったく連絡がなくて、弱っているんです。私のほうが、警察に捜索願いを出そうかと、考えていたところでした。よろしく、捜査をお願いします」 と泣きつかれてしまった。  こうして、せっかく、人食い鰐の飼い主が判明し、その被害者かとも思われる男の存在が、浮かび上がったが、捜査は、方向性を見失ってしまった。  ただ、もう一度だけ、やってみるべきことがあった。それは、鰐の体内から摘出された人骨が、確かに中原部長のものと確認できるかどうかの検査だった。  山下警部は、もう一度、中原の自宅に電話して、事情を話し、訪問の許可を得た。その妻のほうには、夫の行く方の探索を警察の方から言いだしてきたのだから、元より断る理由はなかった。  山下警部は、中原の家に出向き、主人の使っていた歯ブラシ、箸、髭そりなどを預かり、寝室から中原のものと思われる毛髪を採取した。そして、科学警察研究所に送り、鰐の腹のなかにあった人骨の血液型やDNAとの照合を依頼した。  検査結果は、翌週、送付されてきた。しかし、その報告書は、「鰐から出た人骨とは異なる」という結論を明確に述べていた。血液型もDNAも全く一致せず、他人の物だということが、分かった。  こうして、完全に捜査は、暗礁に乗り上げた。もう行くべき道は、ないかに見えた。  上田警部と山下警部の「美女と野獣」の合同捜査も、もうこれ以上続けることは、諦めるしかない状況になった。それぞれに、本来の日常業務が山積していたのである。  「もう、これ以上、捜査するのは、無理だろう。後は、向こうから、何かの信号を伝えてくるのを待つしかないな。行方不明者をチェックするのだって、二人では、とてもやりきれないよ」  音を上げた山下警部をじっと見ながら、賢こそうな眼をくるくる光らせながら、上田警部は、  「ただ、一つだけ、気掛かりなことがあるのです。あの鰐を松田に譲った吉野ですけど、私達が訪ねたときに、コーヒーを入れてくれましたけど、カップの在る場所が分からなくて、ひとしきり探していたでしょう。自分の家なのに、なぜ、すぐに分からなかったのかしら。しかも、独り暮らしだというのに、部屋がとても綺麗にかたずいていた。独り暮らしの男の人ってあんなに、綺麗好きなのかしら。それに、自分の持ち物の食器がしまってある場所くらい、すぐに分かりそうなものなのに。少なくとも、女性はそんなことはないわ」  「まあ、滅多にお客が来ないとしたら、客用の茶碗のしまってある場所を忘れてしまうことも、ないではないだろうが・・・。そんなことが、気にかかっていたのかい。さすがに、女性は、観察力がある。素晴らしいね」  「ですから、もう一度、吉野の家に行ってみませんか。それに、吉野って、何をしているのか、どんな人物なのかも、知らないし、少し、当たってみたほうがいいのではないですか」  二人の意見は一致した。黒塗の公用車で、二人は、再び、吉野のマンションを訪問した。  ドアーの前に立って、インターホンを押してたが、返答がなかった。五、六回、ボタン押してみたが、それでも、返事はなく、内部に人の気配が感じられなかった。  吉野も行く方をくらましてしまった。二人は、管理人室を訪れて、尋ねた。  「二階の吉野さんは、不在ですか」  怪訝な表情で、出てきた、初老の管理人は、警察手帳を見せると、急に態度を固くして、  「分かりませんね。一々、挨拶していく人はありませんから。いるのか、いないのかは、こちらでは、チェックしていませんからね」  と言った。  「ところで、吉野さんは、どんな仕事をしているのですか」  「仕事は、名簿に載っていますから、すぐ、分かりますよ。ちょっと待っててください」  管理人は、奥の部屋に行って、小さな冊子を持って戻ってきた。  「ええと。会社員とだけ出ていますね」  「ありがとう」 とは、言いながら、二人の警部は、失望していた。これでは、まったく、手掛かりがないのと、同じだ。  「先日伺ったときには、地味な背広を着て、目立たないネクタイをしていたから、何か固い商売のように見えましたけれど」  上田警部が、柔らかく、聞いた。  「えっ、そうですか。私が、会うときには、いつも原色の派手なシャツで、ネクタイをしているのは、見たことがないですがね、それはまた、別人のようですね」  (別人? そうか、別人なのか)  二人は、この答に、すぐに反応した。  「すみませんが、吉野さんの顔写真は、ありませんかね」  「そんなものは、ありませんよ。管理人は、顔写真まで、持っていないといけませんか」  老管理人は、いい加減にしてくれといわんばかりに、ぶっきらぼうに、答えた。  二人は、潮時と見て、マンションを出た。    帰りの車で、山下警部が言った。  「少し、明かりが見えてきた感じだな。事件の糸口が、見えてきた」  「ええ、そうですね。私も、すこし、分かってきました」  「あとは、あの松田由美子の会社で、中原部長の顔写真を手にいれる」  「そういうことです」  山下警部は、車を都心に向う川越街道の上り車線に導いていた。    成田空港を飛び立って、十二時間、松田由美子と中原勇の二人は、英国・ロンドンのヒースロー空港に、降り立った。  成田を立ったのは、夜だったが、この地は、その日の夕方になっていた。北極圏経由のルートだったから、北極海上空では、空からオーロラを見下ろすことができた。  二人とも、海外旅行は、初めてだった。由美子は、漆黒の空の下に漂うオーロラの光の揺らめきを見下ろしながら、  (これがこの世のものなのだろうか。こんな世界があったなんて)  と、改めて、自分が生きてきた三十数年の人生の狭小さを思った。  (でも、これからは、違う。もうすぐ、違う人生が始まるのだ)  そう思うと、今までの人生の暗さが、これからの人生の明るさを、さらに、輝かしいものにしてくれるのではないかという、かすかな希望が湧いてきた。  隣の座席では、中原が毛布を被って、いびきをかいていた。  (初めて、体を許した相手が、この人だったから、私は、こうなってしまった)  由美子は、ここへ来るまでに、二人で組んで行った「犯罪行為」を、思い返していた。  (そもそもは、吉野が、私に接触してきて、金を借りたのが発端だった。あいつが、段々と借金の額をつり上げて、最後は、一億円を貸せ、と言ってきたんだった。一億円なんて、大金だから、もう私の手には、負えなかった。そうしたら、前々から、私の経理に不審を抱いていた中原部長が、やって来て、「あなたに話がある」と言ったのだった。「君は、なにか、危ういことに係わっていないか」と部長は、聞いてきた。最初はそういう丁寧な聞きかただったが、最後は、それまでに私が部長の印鑑を使って振りだした伝票を私に示して、「こんなに何回も、独断で金を出し入れしている。しかも、金額は、倍々で増えている。この計算でいくと、今度は、一億円を無断で、振りだすことになるね」と迫ってきたんだった。わたしは、あの謹厳実直、真面目一方の部長だから、不正の発覚で、懲戒免職は確実だと、観念した。ところが、部長は、こう言ってきた。「いいんだよ。私の職権でこのことは、なかったことにしておく。それより、こんな大金を何に使おうとしているんだい」と聞いてきた。私は、正直に、訳を話した。すると、部長は「そういうことか。鰐を飼っている男に貸しているのか。その男が君に、借金を申し込んできて、それに応えたというわけだね。君の心が、その男の方を向いていて、言いなりになっている、というわけだ。それは、君、その男は、詐欺師だね。多分、結婚詐欺師だよ」。私は、答えた。「でも、そういう話は、まだ、出ていませんよ」。「それを仄めかしてはいるだろう」と部長は問い詰めた。「そういう雰囲気は、あります」。「間違いないな。その男は、君から金を引き出して、逃げるつもりだ。こう言うときは、先手を売ったほうがいい」と部長は、助言した。  そして、私は、部長に知恵を付けられて、「あの犯行計画」に乗ったのだった。一日だけ、吉野の部屋を借りきったときに徹底的に調べた部屋の内部の様子や家具の位置、吉野の癖などを部長に話した。部長は、それを完璧に覚え、殺害する場所、殺害する紐のある場所、遺体を処置する場所などについて、詳細な殺人計画を練った。そして、あの日に、吉野のマンションを訪れて、私がコーヒーに睡眠薬を入れて眠らせたあと、部長が紐で頸を締めて、殺した。それから、遺体を切断して、ビニール袋に分けて入れて、冷蔵庫に隠した。そして、部長は、吉野になり代わってあの部屋に住み、保存した人肉を鰐に与え続けたのだ)  そこまで、考えて、由美子は、吐きそうになった。シートを倒して、横になり、毛布を頭に被って、目を瞑った。それでも、考えていたことの続きが、頭に浮かんでくる。  (部長が、最後の背骨の肉片を与え終わった後、夜中に私達は、トラックで鰐を運び出し、あの公園に放したのだった。一億円は、すでに、会社から振り込まれた銀行口座から引き出し、外国銀行に口座を開設して、その口座でクレジット・カードを作った。計画は、完璧だ。私達は、こうして、イギリスから、イタリアに向い、ローマを見物した後、フィレンツェに行く。そこで、古い家を借りて、二人の生活を始める。それが、私達の計画だ。みんなこの中原部長が考えたのだ。でも、どうして、そんなことを、私に持ちかけたのか。私は、前に、聞いてみたことがある。そうしたら、部長は「前から、いまような型にはまった退屈で平凡な生活から、いつか足を洗いたいと思っていた。でも、家族があって、俺の稼ぎを当てにして生きている。だから、踏み切れないでいる。でも、おれは、前から考えていたんだ。それで、特に君の不正が分かってから、俺の計画を実行しようと、決断したんだ」。部長が、そう告白したのは、吉野のマンションに彼が、身代わりに住むようになった日だった。そう言ってから、「もう君と俺は、一心同体だ。これから一生、別れようったって、別れられない関係なんだよ」と言って、私を抱いた。私は、自分のしていることへのスリルと恐怖感もあって、満たされない思いで体の芯が疼いていたから、あれが、初めてのセックスだったのに、最高に感じてしまった。それで、私もこの男から、離れられなくなったんだ)  由美子は、そう考えいるうちに、深い眠りに落ちた。  飛行機は、ヒースロー空港に到着した。ここは、トランジットで、あとは、ローマに向かう便に乗り換える。そして、鉄道で憧れのフィレンツェへ。どうせ、日本へは帰らない旅だから急ぐことはない。全く自由な、気儘な旅のはずだった。  二人の警部は、松田由美子と中原勇の勤めていた会社に出向いて、中原・元部長の顔写真を見た。それは、他でもない、あの「吉野」の顔そのものだった。  「これで、謎が解けましたね。殺されたのは、吉野本人。私達が会ったのは、吉野になり代わっていた中原だ、ということですね」  上田警部が、確認するように、山下警部に言った。  「その通り。吉野のマンションに行って、彼の遺留品を探そう。ひょっとして、すっかり、掃除されてしまっているかもしれないが、徹底的に探せば、血液検査とDNA鑑定ができる検体は見つかるだろう」  二人は、マンションを訪れて、寝室などから、落ちていた毛髪を採取した。それは、電気掃除機で、完全に塵を吸い取り、そのフィルターから取った塵を持ち帰って、調べて、やっと見つかった毛髪だった。中原の毛髪も混じっていることは、ハッキリしていたが、彼の毛髪は既に検査済みなので、容易に選別できた。  鑑定の結果は、二人が予想したとおりに、人骨のものと血液型もDNAも完全に一致した。  「これで、吉野殺しの逮捕状が取れる」  山下警部は、逮捕状請求書類の作成に取りかかった。    ローマに到着した中原と松田の二人連れを、入国審査のカウンターの向こう側で、体格のいい、一人の日本人男性が出迎えた。  「中原さんと松田さんですね」  その眼光の鋭い男は、二人に名前を確認すると、  「私は、ローマの日本大使館の職員です。少し、伺いたいことがあるので、大使館に同行願います」  と有無を言わせぬ、断定的な口ぶりで言った。  二人は、素直に従った。  逮捕状の請求と共に行ったパスポートの発行チェックで、まず、二人が旅券を取得しているのが分かった。それから、税関での、海外渡航者のコンピューターによる検索で、二人がロンドン経由ローマ行きの航空券を所持して、出発したことが判明した。そして警察庁から派遣されているローマ大使館員に手配が送られたのだった。  会社からドロップ・アウトしようとした中年男と、やっと、男との幸せを掴みかけていたハイ・ミスの初めての海外逃避旅行は、束の間で終わった。  翌日、二人は、成田行きの直行便に乗せられ、日本へ強制送還されていった。             (終わり)