「土俵の下」       朝稽古  ニューヨークの秋は、物悲しい。この縦に細長い島、マンハッタン島の北西部。ハーレムの西側にあるコロンビア大学のキャンパスを、比較文化学研究所の研究員、キャサリン・シュルツが、早足で、歩いていた。  キャサリンは、これから、学部事務所へ、彼女にとっては、悲願とも言うべき、極東の国、日本の留学手続きを取りに行く途中だった。  ボストン生まれのユダヤ人、キャサリンとこの極東の国との最初の接近遭遇は、朝鮮戦争で日本に駐留した母方の叔父が、帰国の土産に買ってきた綺麗な錦画の版画だった。第一次世界大戦後のヨーロッパに吹き荒れた芸術世界のジャポニスムの波が、大量に持ち込まれた浮世絵版画のよるものだったと同じように、キャサリンは、その絵を見て、カルチャーショックを受けた。  それは、彼女が、小学校の低学年のころだったから、その影響は、彼女の人生に多大な残滓を残した。小学校の高学年のころには、テレビで放映された日本製のアニメや怪獣映画に病み付きになった。日本の漫画にも熱中し、大量のコレクションを集めた。それは、彼女の両親が、それなりの経済的な余裕があったためで、中学、高校時代には、その日本研究は、文学、歴史、文化の多方面に渡った。彼女が、比較文化学では定評のあるコロンビアに進んだのも、ごく、自然な選択だった。  彼女は、弾んでいた。大学院で日本の国際交流基金が、日本文化研究留学生を募集しているとの掲示を見てから、  (これは、わたしのための募集だ)  との確信があった。彼女は、早速、応募し、書類選考や面接を経て、今年度、たったひとりの留学生に選ばれ、いよいよ、来年から、東京の東京大学に留学する運びになっていた。  今日は、最後の書類手続きを取る日だった。大学院に休学届けを出し、寮からの退寮届けを提出し、研究室を片づけないといけない。その全てを、一日でかたずけるには、無理があるが、彼女は、  (とにかく、今日から、留学のための準備をはじめよう)  そう決めていた。  アメリカンフットボールのコーチが、冬の間、着ているようなナイロン製の膝下まであるロング・コートを着ていたから、寒くはなかったが、そとの気温は、零度を下回ろうとしている寒い金曜日の午後だった。  日本では、もちろん、広範に亘る日本文化全体を研究対象にすることになっていたがが、彼女には、心中期すものがあった。  それは、「相撲の研究」である。それには、最初に彼女が、日本の文化と接触した錦絵に描かれていた二人の力士が格闘する姿が、脳裏のこびりついて、離れなかったというのが、大きな動機だったが、それに加えて、これまでに、この日本伝統の格闘技を、本格的に研究した外国人の研究者がいないという、研究者としては、心踊る領域を対象とすることで、パイオニアになろうとの自負も加わっていた。  (年間に六回開かれるという大相撲を全部見る)  それが、彼女が、心に期した、留学での目標だった。  それには、お金と時間が掛かりそうだったが、金は、裕福な父親から借金もできる。時間は、十分にある筈だった。  キャサリンは、その日、学部事務所での手続きを、時間どおりに終え、研究室の整理を始めたが、それには、意外な時間が掛かった。家に持ち替えるべき書類と、廃棄する書類、留学で持っていくべき書類の、区分けに、なかなか、思い切ることが出来ず、それぞれを手にするたびに読みふけって、知らぬ間に、時間が過ぎた。  そうして、夜、九時すぎまで、寒い研究室で、過ごし、イースト・サイドのアパートに帰ったのは、十時を回っていた。  その夜、彼女は、クローゼットの引き出しから、子供の頃から眺めてきた叔父の土産の錦絵を取り出した。  それは、二人の力士が、土俵のなかで、四つに組み合った図で、力強い腕や足の筋肉や頭の変わった髪形が彼女の興味を引いた。それに、股間に描かれている黒と緑のまわしが、印象的だった。  真ん中には、金色の糸が綾取りされた衣装を付けた審判、行事が描かれていた。そして、丸い土俵と、四隅には柱。それらは、彼女には、見慣れたもので、それぞれの名前を熟知していた。ただ、彼女には、大相撲のニューヨーク公演が行われたラジオ・シチーのスタジアムで、その雰囲気を味わっただけで、本物の大相撲は、見たことがなかった。たまに、テレビのスポーツ番組で放映されることもあったが、そのアナウンスも解説も彼女には、物足らなかった。  (いよいよ、来年の初場所から、本物の相撲が見られる)  そう考えただけで、キャサリンは、幸せな気分になり、土俵を瞼に浮かべながら、うとうとし、ベッドに入って、眠りに落ちた。  キャサリンは、十二月のクリスマス・イブに、日本へやって来た。すでに、宿舎も決まり荷物も送ってあったから、身の回りの物を少しだけ、スーツ・ケースにいれて、彼女は雪の降る成田空港に降り立った。  ニューヨークから、約十時間の空の旅に、彼女は疲れていたが、初めて踏む憧れの日本の地に、心が踊って、疲れは忘れていた。  成田からは、エアポート・リムジンで、東京に向かった。高速道路は車で溢れ、それは、ニューヨークの高速道路の混雑を思い出させた。  (なるほど、たしかに、日本は時代の最先端を行く工業国家だ)  彼女が、そういう感嘆に耽っていると、バスは東京湾岸に抜け、建物が建て込んできた。左側に彼女が、フロリダで見たのと同じ様なディズニー・ランドの塔が見えた時には、  (これが、憧れの極東の島国の姿とは)  と彼女を嘆かせた。  彼女は、バスの乗り込んで以来、通路を隔てて、反対側の席に座っている着物姿の若い男性が気に掛かっていた。その男は、こちらを一度も向かなかった。ずっと、窓の外を眺めて、静かに考え込んでいるようだった。  その姿は、彼女に、ニューヨークで見た、浮世絵の歌舞伎役者の姿を思い出させた。 高速道路の急カーブをバス曲がるとき、運転手はスピードのコントロールをしっかりしなかった。そのため、バスは、右に車体を振り、向かいの男性が荷棚に乗せておいた荷物が、落ちてきて、キャサリンの横の空席に落ちた。  彼女は、それをみて、すぐに、荷物に拾い上げ、荷棚に戻してあげた。  男は、  「どうも済みません」  と静かに頭を下げた。そのとき、彼女は、得意の日本語で。  「どういたしまして。大丈夫ですか」 と答えた。  それから、話が弾み、彼は、彼女の隣の席に移って、自己紹介し、彼女のことも聞いた。  「そうですか。留学ですか。ぜひ、日本のことを沢山学んでください」  彼は、そう言ったが、キャサリンが、相撲の話をすると、  「わたしも。ファンで、毎場所、見に行きます」  そういって、目を輝かせた。  「それなら。案内してもらいませんか」  彼女の呟きに、彼は、  「いいですよ。こうしてお知り合いになれたのも、何かの縁ですから」  そう言って、承諾した。そして、  「わたしは、片岡操といいます。連絡先は」  と電話番号を教えてくれた。  (幸先のよい、スタートだ)  彼女は、その幸運に感謝し、片岡との再会を約した。  その晩、到着した寮で、荷物を開きながら、彼女は、  (これで、わたしの日本での生活がスタートする。充実したものにしなければ)  そう深く、心に誓い、その夜は、興奮して、寝つくのが遅かった。  その週は、荷物の整理や大学への挨拶など雑用で、明け暮れた。一週間もすると、東京の交通にもなれ、地下鉄路線図を頼りに、銀座や新宿にも行ってみた。大晦日の夜は主任教授の自宅に呼ばれ、その家で新年を迎えた。翌朝は、お雑煮とお節料理を振る舞われ、舌鼓を打った。お屠蘇気分で、正月の東京を歩いて、晴れ着姿の若い女性や着物姿の男たちを見て、日本の伝統を感じて、収穫が多かった。キャサリンはその様子を、カメラに収めた。全ては、研究に繋がる資料収拾の一一環だったが、そういう、行為は仕事を超えて、楽しかった。  日本で、一番、伝統的風習が外に出ていく時期に、日本に来たのは、キャサリンには幸運に思われた。明治神宮に行ってみた。そこは、初詣の参拝客で溢れていた。神社に繋がる参道を歩いて、社殿の樹前にたどり着くころには、キャサリンはすっかり、日本人の気分になっていた。本殿の前に、事務所があって、中に入ると、横綱の土俵入りの写真が掛かっていた、それは、この神社の参道で行われたもので、下の写真説明に「貴の花の不知火型の土俵入り奉納」と書いてあった。  キャサリンは、参拝客に続いて、社殿の正面に進み、お賽銭を投げた。  (いくらにしようか)  考えたが、百円玉があったので、それを投げた。  そうして、隣の人がするの真似て、手を合わせた。  (わたしの日本での生活が、実り多いものでありますように)  そうお願いした。  正月は、忙しかった。翌日は、両国に行って、相撲部屋の初稽古を見るつもりだったが、朝方に、ニューヨークの両親から、国際電話が入って、長話をしたため、寝るのが遅くなり、昼頃まで寝てしまったため、行けなかった。  東京で朝の六時は、ニューヨークでは前日の午後四時だから、既に、リタイアしている両親には、夕餉の前の一番寛げる時間だった。  「キャシー、元気かい。無事着いたという電話は貰ったけど、短かったから、こちらから掛けなおしたよ、電話代を気にしなくていいからね」  父のジョナサンはそういって、嬉しそうに、電話で呼びかけてきた。  キャサリンには、話したいことがいっぱいあった。この一週間に東京で体験したことは、全てが、驚きであり、楽しかった、  「このままなら、日本での生活は、とてもエキサイチングなものになりそうだわ」  キャサリンは、興奮気味に、父に報告した。  「母さんも心配していたけど、それなら大丈夫だ」  父親は、安心したようだった。  その日は、正月でも開いていた「ウィンディーズ」で、夕食をして、早めに眠った。それは、  (明日は、必ず、相撲部屋に朝稽古を見に行く)  そう誓っていたためだ。  翌朝、早起きしたキャサリンは、六時すぎには、両国の駅を降りて、南に向かい、伝統のある八潮部屋の稽古場に入っていた。エアポート・バスで知り合った片岡が、紹介してくれたのだったが、本人は、所用があって、来られなかったので、行動力のあるキャサリンはたった一人で、やって来た。 八潮部屋は、大関・潮の海を柱に、いま伸び盛りの関取、西尾が脇を固める隆盛著しい相撲部屋だった。力士は、二十五人居て、さらに大関格の行事、木村正彦、それに、呼び出し、三吉と床山、三郎らが所属していた。  稽古は、番付けの下の若いものから始まり、七時頃には、十両格の力士が出てきて、稽古に加わった。八時には、潮の海と西尾も参加して、激しいぶつかり稽古を繰り広げた。  そのあと、申し会いに移り、上位力士が、一番一番、真剣な稽古を進めていった。キャサリンは、聞いていたものの、その男同士の激しい肉弾戦に目を見張った。力士たちは、珍しい金髪の見物客も意に介さず、身体中汗だくになって、稽古に集中していた。  その土俵に釘付けになって、何枚もカメラのシャッターを切っていると、うしろから、彼女の肩を叩く人がいた。振り向くと、それは着物にズボンのような、下履きを履いた呼び出しで、  「お客さんは、アメリカの人ですか」  と聞いてきた。  「そうです。わたし、キャサリン・シュルツと申します」  そう丁寧に、名乗ると、その呼び出しは、  「わたしは、この部屋の所属の呼び出しで、三吉といいます。これをどうぞ」  そういって、盆に乗せて持ってきた、茶碗を置いた。  「ありがとうございます」  そう言って、お礼をして、キャサリンは、茶碗の中に入った黄色い液体を啜った。それは、番茶だったが、朝早く起きたキャサリンには、とても、おいしい味がした。  (相撲部屋では、こういうサービスもあるのか)  彼女は、感心した。お茶を飲みながら、激しい稽古を見物して、キャサリンは、すっかり、一相撲ファンの女性になりきっていた。  呼び出しの三吉は、お茶碗を下げにきて、  「如何ですか。朝稽古を見て」  と感想を聞いた。  「素敵ですね、ほら、力士の身体から、湯気が出ているでしょう。そこに朝の日の光が当たって、眩いばかりです。わたしは、神様を感じました」  「そうですか。本当に日本語が上手ですね。どこで、学んだのですか」  三吉は好奇心が一杯の小柄な男だった。  「ニューヨークの大学です。わたしは、日本文化を中心に、文化を研究しています」 「それで、相撲も研究しているのですか」  「それは、趣味ですね。好きなのです。とても、純粋で、汚れがない精神の力を感じます。神様を感じます」」  「そうですか。神様をね。まあ、神様にも、良い神様も、悪い神様もいますからね」  三吉は、そう言って、溜め息を着いた。  キャサリンは、その様子が、何か、投げやりなように見えて、気にかかったが、三吉が盆を下げて、行ってしまったで、あとは、土俵の観察に集中した。十一時すぎには、稽古は、全て終わり、力士たちは、風呂に入り、ちゃんこの用意を始めた。  キャサリンは、それをしおに、八潮部屋を辞去した。そして、両国駅の北側に回り、国技館を外から眺めて、写真を撮った。      呼び出し ーー テンツク、テンツク、テンテンテン・・・・。  触れ太鼓を担いだ呼び出しの一行が、両国の町を練り歩いて行った。  太鼓を棒で吊るして、二人が背負い、ばちを持った太鼓の打ち手とともに、相撲甚句の歌い手の後に続いて、練りあるく。  この、触れ太鼓が、聞こえてくると、町の人々は、  (明日から、初場所が始まる) と、期待に胸を踊らせる。  正月場所は、一月の第二週の日曜日から、始まる。  相撲取りたちは、その日のその年最初の一番に一年の成績を占う。  晴れ着姿の若い女性も、混じって、初日の観客の入りは、上々だった。  八潮部屋の大黒柱、大関・潮の海は、四日まで快調に白星を重ねたが、五日目に前頭上位のライバルに黒星を喫していた。西尾は、六日目まで、四勝二敗で続いていた。  キャサリンは、大学を通して、研究のためと、日本相撲協会に、場所中の木戸口の通行証を申請し、認められたため、それを持って、毎日、国技館に通った。  テレビや新聞などのメディアを通してでなく、肉眼で見る相撲は、彼女が以前から抱いていたイメージとは、まったく違っていた。  まず、土俵の大きさが、目で見ると、意外と小さいのに驚いた。また、その土俵下に真近に砂被りがあり、その場所が、意外に、土俵に近いのもびっくりした。それから、相撲取りの身体の大きさと肌の色つやの素晴らしさ。化粧まわしの色の鮮やかさ。そして、升席での飲食と焼き鳥の香り。全てが、異国情緒たっぷりと思われ、キャサリンは毎日、場所に通うのが、楽しくて仕方がなかった。  初めて、相撲部屋の稽古を見に行ったとき、お茶を出してくれた呼び出しの三吉とは相撲茶屋の並んだ通路で、擦れ違いになり、先日のお礼を言った。それは、こちらから呼びかけたのではなく、向こうから、キャサリンの姿を見つけ、寄ってきて、挨拶したのだった。何しろ、金髪で、色白、長身のスラットした姿のキャサリンは、黒い髪の毛に黄色い顔ばかりの日本人の集団の中では、見つけなくてもすぐ分かった。  「先日は、お世話になりました。やっと場所が始まりましたね。お忙しいでしょう」 そう挨拶したキャサリンに、三吉は、  「貧乏ひまなしですよ。場所の前は土俵作りなどで忙しく、場所が始まれば、また、それなりの忙しさです」  そういった三吉の声に明瞭さがなく、喉の奥に引っ掛かっているようなのが、キャサリンには、気になった。それに、身体も以前に会った時に比べ、やや、小さくなったような印象が残った。また、顔が左右対称でなくなり、左の頬が引きつるように窪んでいた。  (三吉さんは、どこか、具合が悪いのだろうか)  三吉の表情は、キャサリンの胸の奥に引っ掛かっていた。    八日目の日曜日に、国技館を衝撃的なニュースが駆け抜けた。  それは、「呼び出しの三吉が、隅田川に投身自殺した」という速報だった。  キャサリンも、知り合いになったスポーツ新聞の相撲記者から、その事実を教えられた。  「なんでも、今朝、隅田川の両国橋の下の辺りに人間らしいものが流れていくのを、通りかかった船の乗り組み員が見つけて、水上署に通報した。水上署と消防署が引き上げてみると、着物姿の男だった。さっそく身元調査が始まったが、着ていた着物から、相撲関係者と分かり、居なくなった呼び出しがいないか、調べたところ、八潮部屋の三吉が、今朝から姿が見えないのが分かった。親方を呼んで、遺体を確認してもらい、三吉と確認された」  そう、記者は言っていた。  キャサリンは聞いた。  「自殺なのですか」  「そう、警察は、そう見ているらしい。橋から、身投げしたらしいという見かただ。いま、遺書がないか調べているよ」  キャサリンは、八潮部屋に行ってみることに決めた。  両国駅の南にある八潮部屋の前には、パトカーや黒塗の捜査用の乗用車が三台ほど止まり、慌ただしそうだった。キャサリンは、土俵の見える畳の部屋に入って、座った。奥の部屋に、背広姿の男たちがいて、親方と女将さんから、事情を聞いているのが、見えた。それが、終わると、場所入り前の潮の海と西尾が、相次いで呼ばれ、聴取を受けていた。キャサリンの場所からは、話は聞こえなかったが、ぽつりぽつりと漏れてきたのは、  「身体が悪かった・・・・・・」  「悩んでいた・・・・・・・」  「元気がなかった・・・・・・・」  などの、言葉だった。  聴取が終わった親方が出てくるのを待って、キャサリンは、挨拶し、  「この度は、大変なことでした。お悔み申し上げます」  と慰めた。  「ああ。外国のお客さんに最初にそういう声を掛けて頂いて。済みません」  親方は、律儀に答えた、それは、現役時代に、稽古熱心で知られ、小兵ながら関脇まで登った元・山風の親方の性格そのものが、滲み出た対応振りだった。  その真面目さに掛けて、キャサリンは聞いてみた。  「三吉さんは、自殺されたのですか」  「いえ、まだ、分かりません。自殺だとしても、遺書がないし、理由が分からない。警察も事故死と、自殺の両面で考えているようです」  「自殺するような動機はないのですか。わたしは、昨日、国技館で三吉さんに会ったのですが、元気がないような印象でした」  「そうでしたか。なるほどね。かれは、手術をしたばかりだから」  「手術ってなんのですか」  「いえ、かれは、場所前に顔の腫瘍を摘出したのです。それで、頬がこけた。声の具合も変だったでしょう。半年もすれば、元に戻るということでしたが」  「では、手術は成功したのですね」  「そうです。だから、もっと生きようという意欲に満ちていたはずですよ」  「では、自殺は、考えられませんね」  「そうです」  親方はそう言うと、次の客との応対のために、別の部屋に入っていった。  キャサリンは、次に聴取を終えて出てきた潮の海に聞いてみた。  「三吉さんは、自殺なの」  「わかりません。昨日は、ずっと、夜は谷町と付き合って、部屋にはいなかったからわしはわかりません」  潮の海の答えは単純だった。  次いで、西尾が出てきた。  「昨日は三吉さんは、部屋にいたんでしょう」  そうキャサリンが、尋ねると、西尾は、  「知らない。おれたちは、珍しく遊びにいかず、部屋で夜のちゃんこをしていた。その席には、三吉も加わっていたようだよ。そして、朝になったら、居なくなっていたんだ」  「では、昨日の夜は、一緒だったのね」  「一緒といったって、若いものと皆、一緒だ。一人で居た訳ではないんだ」  「ありがとう」  キャサリンは、外に出て、警察の聴取が終わるのを待った。  日は既に、空の頂上に上がり、昼食の時が迫っていたが、警官たちはなかなか出てこなかった。  おなかの虫が鳴ったが、我慢しながら、待っていると、口髭を生やした中年の男を先頭に捜査員らが、出てきて、道路の反対側に停車していた黒塗の車に乗り込んだ。そのちき、その男は、道端に立っていたキャサリンの姿を認めたが、気にすることなく、後ろの座席に乗り込み、走り去った。キャサリンは、その男の特徴を脳裏に焼き込んだ。だが、それはそう苦労はいらなかった。なにしろ、長い口髭と、小さな猫背の身体つきと頭に被ったハンチング帽は、この男を、他の男たちとくっきりと、際出させていた。忘れようのない風貌だった。   キャサリンは、そのあと、捜査員らの後を追って、両国署を訪れた。  二階の捜査一課で、先程の髭の刑事を見つけ、  「わたしは、アメリカから日本の文化を研究に来ている者で、キャサリン。シュルツと言います。呼び出しの三吉さんとは、顔見知りでしたので、詳しい話を伺いたいのですが」  名乗った。  髭の刑事は、名刺を渡して、  「わたしは、この署の捜査一課刑事で、松田泰三といいます。先程は、八潮部屋でお見かけしたしたね。三吉さんとは、お知り合いですか。それなら、すこし、話を伺いたいことがあります。宜しいですか」  髭の刑事は、そういって、隅にある個室へ誘導した。  「ところで、キャサリンさん、三吉と最後に会ったのは、いつですか」  松田刑事は、いきなり聞いて来た。  「それ、昨日ですね。国技館の通路で、挨拶を交わしました」  「そのときは、どんな様子でしたか」  「なにか、元気がないという印象を受けました。場所が始まって忙しいと言っていましたけど」  「ほかには、何か、話しましたか」  「いえ、擦れ違い様の挨拶のようなものでしたから」  「元気がないという印象のほかに、なにか、気付いたことはありませんか」  「顔が窶れていて、元気がなかった。身体も一まわり、小さくなったように感じました」  「それは、いつと比べてですか」  「わたし、場所前に朝稽古を見に、部屋に伺ったのですが、その時と比べてです」  「すると、三週間前くらいだね。場所前だから」  「そうですね。なにか、手術を受けたとか、聞きましたが」  「そのようですね。顔のガンの摘出手術のようです。あれは、術語も痛み止めを大量に飲まないといけないくらい、痛いそうですよ」  「すると、病苦による自殺なのでしょうか」  「いや、われわれは、そう見ていません。他殺です」  キャサリンは、その言葉に、驚愕した。  「え、自殺ではないのですか。それは、なぜですか」  「まあ、詳しくは言えませんが、遺体の身体に多数の打撲傷があり、しかも、死因は、首を閉めたための窒息死だと、われわれは見ています。ただ、いま、司法解剖中ですから、詳しいことはいえないが」  「殺人事件なのですか。それは、大変ですね」  「殺されたのは、ほぼ、間違いないでしょう。捜査本部を設置して、解明に取り組まなければならないでしょう。これからも、ご協力をお願いします」  松田刑事は、ゆっくりと、頭を下げた。  キャサリンは、それに応じて、やはり、頭を下げた。  キャサリンは、司法解剖の結果が届くのを待ちたかった。刑事にそう申し出ると、  「夜になるかもしれませんよ。いずれにしろ、結果は、発表しますから、夜のテレビニュースか明日の新聞には載るでしょう。それを見て頂ければ、いいのでは、ないですか」  刑事は、この異国の女性が、この事件に興味を持っていることに、興味があったが、そう深く関与してもらいたくはない、という考えのようだった。  キャサリンは、刑事の忠告に従うことにした。  彼女は、寮に戻って、この事件のことをゆっくり考えてみることにし、そのあと,夕方のテレビのニュースを待つことにした。    ーー 自殺と考えられる理由は、三吉は顔のがんの手術をしたばかりだったので、痛みが酷かったらしいことだけだった。しかも、遺書が見つかっていない。手術をした直後で、しかも、その手術は成功していたから、逆に、自殺の原因とは考えられないとも言えた。  キャサリンは、これは、自殺はないと、考えはじめていた。他殺とすれば、だれがやったのか。動機はなにか。どうやって殺したのか。考えれば考えるほど、疑問が次々にわき起こった。キャアリンは、とにかく、検視の結果を知りたいと思った。  夕方のニュースでは、最後の方で、この変死事件が報じられた。それは、自殺とも他殺とも断定せず、両面で捜査している、と伝えていた。司法解剖の結果は、報じられなかった。夜のニュースは、ほかに政局のニュースが、大半を占めたためか、このニュースは、一切、触れられなかった。キャサリンは、気が抜けて、その夜は、ただ、考えながら眠ってしまった。  翌朝、新聞を読んだキャサリンは、社会面の大きな見出しに驚愕した。  それは、「呼び出し、三吉殺される」という見出しで、三吉が殺害された。と断定的に報じていた。その根拠は、司法解剖で「頸部に締められたあとがあり、死体に生体反応が無いことから、絞め殺されたあと、隅田川に投げ捨てられたと見られる」ということだった。  その記事は、「両国橋の橋脚の下に、死体を吊るした綱が残っていた」とも報じており、絞殺されたあと、その綱に吊るされて、川に投棄されたらしいことを伺わせた。  (そうか。やはり、殺害されたのか。でも、何故なのだろう)  記事は、その疑問には答えていなかった、犯人が分かっていない以上、それは当然だった。  (この事件の裏には何があるのだろう。個人的な問題か、それとも、相撲という特別の世界が持つ問題が、背景にあるのか)  もし、後者なら、それは、キャサリンの研究にも、大きな課題を投げかけるものになるはずだった。  運動面には、中日の相撲の結果が載っていた。八潮部屋の潮の海と西尾は、部屋の騒動が影響したのか、いずれも黒星を喫して、それぞれ、六勝二敗、五勝三敗になっていた。    月曜日は、主任教授の講義があるので、それに出席したあと、御茶の水駅から総武線で、両国駅に向かった。午後四時を過ぎていたので、八潮部屋には、相撲取りは一人いなかった。しかし、部屋所属の呼び出しが、亡くなったとあって、玄関には数人の関係者が屯しており、なにか、相談していた。  その輪のなかに、中年の女性がおり、てきぱきと何か指示をしていた。それは、女将さんの千賀子に違いなかった。  キャサリンは、玄関の方に行って、目があった千賀子に、  「この度は、大変なことになりまして、ごしゅうしょうさまです」  と挨拶した。  気さくな性格らしい、千賀子は、キャサリンの方に、寄ってきて、  「あら、外国人の方から、そんなに丁寧なお悔みを言って頂くなんて、すみません」 そう言って、頭を下げた。  「不躾なことをお伺いしますが、三吉さんは、自殺ではなかったようですね」  「そうですよ。わたしは、そう聞いて、すっかり動揺してしまって。あのひとがひとに殺されるなんて、考えられませんからね。とても、真面目で、人に恨みを買うような人ではないんです。晩酌やタバコは、していましたが、そう度を越したものではないし賭け事も大嫌いでした。ただ、真面目に、相撲大好きで、裏方に徹して生きてきた人なんです」  「三吉さんは、ご家族は居られないのですか」  キャサリンは、気にかかっていたことを聞いた。  「いたんです。惚れ会って一緒になった恋女房がいたんですが、一昨年、胃ガンを患って亡くなってしまったのです。それで、すっかり、気を落としてしまって、去年は、自分の手術をしたりして、げっそり痩せて、元気がなくなってしまった。だから、自殺は考えられないこともなかったのですが。でも、ひとりっきりになっても、元気になったのだから、一生懸命、仕事をするよ、なんて、言っていたのですが」  「お子さんは、いなかったのですか」  「欲しがっていましたが、とうとう、出来ませんでした。わたしが親方と結婚するのと、同じ頃、結婚したので、どっちが先に子供が出来るか、なんていう話もしましたが私のほうに、子供が生まれてからも、なかなか、出来ないようで諦めていたようです。でも、自分の子供の分だけ、可愛がるんだ、といって、うちの美佐子を可愛がってくれて、美佐子もなついていたんですよ」  「美佐子さんというのは」  「うちの娘です。もう、二十を過ぎたので、そろそろ、嫁入り先を考えないといけないのですが」  「ところで、三吉さんは、土曜日の夜は、部屋にいたんですか」  「わたしは、三階の家族の部屋に居たので分からないのですが、部屋のものによると夜の十時頃までは、一階の部屋で夜のちゃんこをみんなと、一緒にやっていたようですよ。だから、その後に、ああいう目に会ったのでしょう」  「そうですか。警察にはその事をお話になりましたか」  「それは、みんな正直に話しています。随分、詳しく聞いていきましたから。部屋のお相撲さんも、みな、正直に話したようです。そういえば、あの晩のちゃんこ会は、中日を迎えるて、みんな良い成績だったので、随分、盛り上がったようで、いっぱい、写真も撮っていますから、それも、証拠に提出したようですよ」  女将さんは、気さくに話してくれた。  キャサリンは、丁重に礼を言って、部屋を辞した。次ぎに向かうのは、両国書に決めていた。  両国署で、キャサリンは、髭の松田刑事に面会を申し込んだ。  松田刑事は、夕食を食べていたようで、妻楊枝を口にしながら、出てきて、部屋に招き入れた。  「解剖の結果が出たようですね」  キャサリンは昨日、そのことが分かってから、来なさい、と言われたのと関連付ける積もりで、そう切りだした。  「そうだ。でも、それは、予想はしていたね。死体を見て、これは殺しだと、カンでピンと来たからね」  「それはどうして」  「頸に締めた後があったし、肺には水が入っていなかった。それに決定的なのは、身体中に生きているうちに付いた無数の打撲傷があったことだ。生きているうちに、何かに殴られて、頸を締められ、窒息死した、というのが解剖の所見でもある。それは、われわれの初動捜査の結果でもある」  「では、殺人事件で、捜査するのですね」  「そうです。今夜にも、捜査本部が出来るでしょう。われわれは忙しくなります」  それは、暗に、いつまでもキャサリンの相手をしていることは、出来ないということを言っていた。  そういう間を、キャサリンも分かって来たから、早めに辞去することにして、  「最後に一つ伺いますが、土曜日の夜は、十時ころまで、部屋でちゃんこの会をしていたようですが」  「そうです。あなたも、参加していたのですか。押収したカメラのフィルムには、写っていないようですが」  「いえ、ちょっと、耳に挟んだだけです」  「確かに、三吉は、そのフィルムに写っていました。日付けも入っていて、時間は午後十時五分から十分にかけて写されています。だから、そのあと、殺されたと考えているが、問題は、解剖の所見では、八時半ころが死亡推定時刻になっていることです。だから、そのままに受け取れば、かれは、死んでから、この飲み会に参加したことになる。そんなことが、どうしてできるのか。第一の謎ですな。それから、正式の遺書は無かったが、それらしいものは見つかりました。なかまの呼び出しが土曜日に渡されたもので、便箋一枚に、僅か一行書いてあった」  「なんて書いてあったのですか」  「それは、詳しくは、言えません、捜査上の秘密です。犯人逮捕への重大なかぎを握っているかもしれない」  「では、大体のことでいいですから」  「貴方には、事件発生以来、いろいろ、話を伺ったりしているから、特別に教えましょう。それは、もう生きていくのがいやになった。これでは、相撲界は崩壊だ。不正は絶対に止めないといけない、というような趣旨でした」  「不正を止めないといけない」  「そう、何のことを差しているか、はっきりはしませんが、素直に受け取れば、相撲界に不正があると言うことでしょうね。それをわれわれは、調べないといけないが、これは、相当に難しいことです」  「なんのことなのでしょうね。それを聞いて、わたしも、いろいろ、調べてみる気になりました。また、なにかありましたら、よろしくお願いします」  「こちらも、あなたの情報を期待していますよ。なんでもいいから、知らせてください」  二人は、共同作業をする同僚のような気持ちになって、握手をして、別れた。  (不正を正さないといけない)  その言葉が、キャサリンには、引っ掛かった。  (不正とはなんなのか。なにを差しているのか)  キャサリンの行くべき方向は、その一点のように思われた。  (それには、もう少し、いろいろと、調べてみないといけない)  キャサリンは、この一週間をその探究のための当てることにした。  両国署に設置された「呼び出し三吉殺害事件捜査本部」は、その翌日、八潮部屋で大掛かりな現場検証を行った。稽古土俵から、ちゃんこ会が行われた一階の大部屋、二階の幕下力士の大部屋、三階の親方宅や、関取の個室まで、詳細な検証が行われ、多数の写真が撮影された。  それは、まる一日がかりの仕事で、場所中の力士たちは、稽古が出来ず、他の部屋に出稽古にいった。その稽古では、潮の海は元気だったが、西尾はまるで、覇気がなくあんっているのが、気になった。  九日目の月曜日に、潮の海は二敗目を喫していたから、稽古には熱が入った、西尾もその日、三敗目を喫したが、明らかにやる気が無くなっていた。  その日、十日目に潮の海は関脇に勝って、勝ち越しを決め、大関の地位を維持した。西尾は、前頭中位の技巧派に力なく寄り切られ、六勝四敗となった。  相撲の型では、潮の海はその巨体を生かしてのがぶり寄りが得意、西尾は左下手を素早く取っての寄りと、投げが得意だが、潮の海が、その持ち味を十分に発揮して、白星街道を進んだのに対し、西尾は、回しも取れずに、一方的に寄り切られる、不本意な相撲が続いた。部屋の二つの大黒柱である二人の相撲は、明らかに、明暗を分けていた。   仕切り  八潮部屋の愛娘、美佐子は、今場所の西尾の成績が、不調なのが、気掛かりだった。毎日、西尾の取組がある夕方、五時すぎには、部屋の自室でテレビを点け、観戦することにしていた。テレビを、一人で食い入るように見つめながら、毎日、美佐子は西尾の白星を祈っていた。  その祈りは、前半戦では、かなり、通じていたが、中日を折り返して、一機にどん底に落ちこんだ。  美佐子は、それは部屋の騒動と関係があるのだ、と思っていた。  (三吉さんが、変な死にかたをしたのが、影響しているのだ)  美佐子には、そういう確信が生まれていた。  では、どういう関係かというと、それは、分からなかった。  ただ、三吉の死が、自殺ではなく、他殺だとしたら、この部屋の誰かが、絡んでいる。という気がしていた。西尾が、その中心にいるとは思えなかったが、なんらかの関係があるのではないか、かすかな女の感で感じていた。  そう美佐子が思ったのは、こうして、昔からの伝統の相撲部屋の一人娘として、生まれ、育ってきて、その古い体質やしきたりや規則が、いつも、窮屈でうっとおしく感じ若い美佐子に、圧迫感を与えていたからである。  八潮親方と、母の千賀子は、一人娘の美佐子の結婚相手を、部屋の上位の相撲取りにしたがっていた。ということは、さしあたり、大関の潮の海がその相手と目されたが、美佐子は、潮の海を好きとは言えなかった。かと言って、嫌いだったわけではない。若い年頃の娘として、美佐子は、  (心を引かれた人と一緒になりたい)  と思っていた。親の押しつけやお見合いでの家と家の結婚などは、嫌だった。  真面目で稽古熱心で、誠実な人柄の潮の海は、力士として、申し分のない、人柄だったが、若い適齢期の女性として、結婚の相手となる男性としての魅力があるような風貌ではなかった。いや、正確にそれを魅力と感じる女性の相撲ファンは多かったのだからあくまで、美佐子にとって、結婚相手の男性として、引きつけられる魅力を欠いていたのである。  (それは、何だろう)  両親の密かな期待を、感じながら、美佐子も考えてみたことがある。部屋付きの娘の結婚相手として、潮の海は全ての条件を満たしていた。真面目でひたむきな性格は、部屋の跡継ぎとしての資質を持っていた。年齢的にも問題はない。  ただ、美佐子の、気持ちだけが、問題だった。  美佐子の、心は、潮の海より二歳若く、野性的な風貌をして、引き締まった身体を持つ、西尾の方にあった。  しかし、西尾はその気持ちに気付かなかった。あるいは、気づいていても気が付かない振りをしていた。それは、親方の気持ちが、どの辺りにあるのかを、十分、理解していたし、それを分かっているからには、自分がでしゃばって、どうこうする問題でもないように思われた。  それに、若くてハンサムな西尾には、女性に不自由することがなかったのだ。  (なにも、面倒な、親方の娘と一緒になって、苦労を背負いこむことはないではないか)  西尾はそう考えていた。  部屋の二人の関取と、部屋付きの娘は、微妙な三角関係の間柄だった。  その、風向きが変わったのは、女将の千賀子が、気持ちを変えてからだった。  なぜ、千賀子の気持ちが変わったのかは、分からなかったが、千賀子は、ある日、八潮親方と話し合っていて、  「美佐子の気持ちが、一番大事ですから、わたしは、潮の海にはこだわりませんよ」 と言ったのだった。  八潮親方は、驚いて、  「なんだ、お前は、心変わりしたのか。どうしたんだ」  と問い詰めたが、千賀子は、  「それは、私は、部屋の女将さんかも知れないけれど、美佐子にとっては、母親ですからね。成人した大人の女性の意思は大事にしたいのです。それがいまの時代ですよ」 そう言って憚らなかった。  親方は、その勢いに押されて、反論も出来なかった。  そして、それ以来、部屋の後継者は西尾、という空気が生まれ、部屋の力士もそれを肌で感じて、二人の兄弟子への態度も徐々に変わっていった。  そういう雰囲気は、あくまで雰囲気として伝わっていく。だれも言葉に出すことはないが、暗黙の了解として、同じ部屋に暮らすものの上位力士の権力関係の変化は、自らの身の振りかたにも影響するだけに、みな、敏感だった。  潮の海には、長い間、面倒を見た付け人が五人いたが、この六人と、他の二十数人との間には、完全に溝が出来た。潮の海は、日常生活でのそうした角逐を、意識して、忘れようとするかのように、稽古に打ち込んだ。  一方、西尾は、後継者を目されて気を良くしたのか、それまでの、マイペースの生活に、ますます、拍車が掛かり、行動は傍若無人さを増した。  ある日、西尾は、稽古の後、風呂に入って、付け人に背中を流させていたが、いくら言っても、思っていたところを、洗わないのに腹を立てて、その場で、その若い付け人を鉄拳制裁したことがある。付け人は、殴られて、風呂の床に飛ばされ、鼻血を大量に出した。風呂場のタイルは、真っ赤に染まり、付け人は気を失った。  西尾は、倒れた付け人に、風呂桶から掬った熱い湯を、ぶっかけて、目を覚まそうとした。付け人は、それに恐れをなして、風呂場から逃走した、西尾は、他の付け人に命じて、逃げた付け人を捕らえさせ、  「稽古をつけてやる」  と言って、何度も、打ちのめし、投げ捨てた。  それは、知らないものが見れば、まるで、リンチだったが、相撲部屋だけに、それを稽古を付けるといい募ることが出来た。  西尾はそういう男だった。  気まぐれで、自分の気に入らないことはしない。弱い者に強く、強いものには弱かった。そして、気に入ったものだけを周囲に集め可愛がった。  美佐子は、そういう西尾の傍若無人振りを、男の強さと誤解して、憧れた。  美佐子は、私立の高校から、お嬢さん教育で有名な女子大系の短大に進んで、食物学を学んだ。  もともと、それほど、勉強ができる方ではなかったから、学校へ行くのは楽しくなかった。ただ、短大だけは、楽しかった。友達も出来たし、サークルは、相撲研究会に入ったが、相撲部屋の娘は、美佐子一人だっので、友達にももてた。四年生の大学との交流もあった。そこでも、相撲部屋の娘は、良いブランドになった。  両親は美佐子を甘やかし、小遣いには不自由しなかったから、洋服や化粧品、アクセサリー類はいくらでも買えた。そして、美佐子は、いくらでも買った。  元もと、色白で、ぽっちゃりした顔つきの美佐子は、愛嬌のある、ひとなつこい顔つきをしていた。それが、男たちには、幼いあどけなさにも見えたのか、なかなかの評判だった。要するに、美佐子は、男に持てたのだった。  それは、厳格に子育てをしてきたという、自信があった千賀子には自慢でもあった。 娘が男性に持てるということは、やはり、両親には、自信にもつながるのだ。  美佐子は、短大時代に、しばしば、朝帰りをしたり、友人宅に泊まってくることが、あった。  それでも、両親は、問い詰めることなく、娘の行動を許した。  たった一度、美佐子が叱られたのは、小遣いをつかい果たして、部屋の金庫から、金を持ち出したときだった。  そのときは、その頃付きあっていたK大学とのデートの約束があったが、高いブランドもののスーツを買ったために、財布の中身は払底していた。しかたなく、  (ちょっと借りる積もりで)  茶の間の金庫から、借用したのだったが、たまたま、その日は、付けで購入した賄い品の支払日にあたり、千賀子が、付け取りにきた出入りの商人に、支払おうとしたところ、お金が足りないので、明るみに出てしまった。  デートから、帰宅した美佐子は、両親に茶の間に呼ばれて、詰問された。美佐子は、素直に借用の事実を認めた、しかし、千賀子と父親の怒りは収まらず、納戸に押し込められて、鍵を掛けられた。そこに、三日間、入れられ、食事も食べられなかった。  げっそり焦燥して出てきた美佐子は、それ以来、心を入れ換えて、遊ぶのを止めた。 二年生の秋で、卒業の時が迫っていたし、  (もう、遊び過ぎるほど遊んだ)  という気持ちもあって、足を洗ったのである。  短大を卒業して、美佐子は、家事手伝いをすることになった。美佐子には、特に就いてみたい職業が無かったので、友達が就職活動をするのを、遠くから見ていた。友人の半数ほどが、就職しなかったり、あるいは、出来ないで、卒業した。  家事手伝いをすることになった美佐子は、甲斐甲斐しく良く働いた。もともと、相撲部屋の生活が、生まれついてから、身にしみ込んでいたし、快適だった。それは、なんの意識もせずに、心地よい気持ちを与えてくれる爽やかな空気のようなものだった。ただ、その中に居て、呼吸だけしていれば、気持ちも身体も新鮮に保たれた。  朝早い起床も、小さいころから身についていたから、快適だった。短大時代に、夜遅く帰ってきて、昼頃まで寝ていた生活とは、違って、早起きは心身共に快適にしてくれた。気持ちもすっかり、落ちついて、美佐子は、しとやかな妙齢の女性に変身していった。  そういう美佐子に、両親は、部屋の跡継ぎとの結婚に期待を掛けた。  その相手に目されたのは、まず、出世頭の潮の海だった。  親方夫婦は、二人に付き合いのきっかけを与えようと、いろいろ考えて、実行した。その最初の機械は、まず、自室に潮の海を呼んで、美佐子の手作り料理でもてなすという作戦だった。  美佐子は、料理作りを命じられて、最初は何のことか分からなかった。それは、  「今日は、大切なお客さまがあるので、手料理を作りなさい」  と、千賀子に言われたときに、いつもの谷町連中の来客かと、思っていたのが、作る人数が五人前と言われて、ますます、不可解になった。  美佐子は、短大では食物科だったから、カロリー計算などは、どうにか、出来たが、料理が得意というほどではなかった。ただ、家事手伝いすることになって以来、千賀子に特訓を受けて、かなりの家庭料理は、できるようになっていた。  美佐子は、そういう特訓の成果を人に見せたい時期だったから、女将の命令に応じて (ここで腕前を見せてやろう)  という気になり、気合を入れた。  作ったのは、ハンバーグとカキ鍋と筑前煮と野菜サラダなどの家庭料理だった。どこの家庭にもある、メニューだったが、ハンバーグは、挽き肉の吟味を厳しくして、最上の牛肉を使った。カキも仙台湾で取れた現地直送の生でも食べられそうな生きのいい高級品を使った。  (料理は材料が、肝心)  というのが、千賀子の教えだったし、美佐子のそう考えていた。  潮の海は、喜んで、親方の家庭料理を食べにやって来た。  何時もは、贔屓筋との会食が、多い、夕食だったから、部屋でのチャンコ以外に、家庭料理を味わうのは、そうチャンスが、ある訳ではなかった。  親方夫婦と、美佐子に、潮の海を加え、その晩の食事会は大いに盛り上がると思われた。しかし、美佐子の記憶では、それは、  (まったく退屈そのものの会となった)  のだった。  それは、美佐子が、色々と気を使って、潮の海に料理を進めても、潮の海は、とうとう、カキ鍋しか、手を出さなかったからだ。  「わしは、こういう西洋風の料理は好かんです。煮物も好きじゃない。野菜は生で食べないことにしている」  潮の海はそうして、美佐子のその外の料理には手を出さなかった。  そして、ひたすら、酒を飲み、鍋を掬った。  親方夫婦も、強要はしなかったで、その場は繕われたが、美佐子の気持ちは複雑だった。  (せっかく、お母さんに言われて苦労して作ったのに、手も付けてくれないなんて) 美佐子は、その会が、両親の美佐子と潮の海との接近の機会を作るための計画だと、気が付いていたので、そういう結果になったことは、我慢がならない気がした。  それは、また、潮の海と美佐子との相性が、良くないことを暗示していた。  それでも、美佐子は両親の気持ちを汲んで、昨年のヴァレンタイン・デーには、部屋の他の力士とは違う大きなチョコレートを潮の海に贈った。しかし、それは、多くのファンの贈ったチョコレートの山に埋もれて、輝かなかった。  潮の海は、美佐子を、そう好ましくは思っていなかったようなのだった。  美佐子と潮の海の関係は、部屋付きの娘と部屋所属の力士という関係から、まったく進展がなかった。  それでも、両親は、諦めきれないらしく、映画のチケットを手に入れた、と言っては美佐子に渡し、  「関取と一緒に行ったら」  と言ったり、潮の海の谷町との会合に美佐子を同道させようとしたりしたが、美佐子の都合が悪かったり、関取が断ったりして、いずれも、上手く行かなかった。  そうして、二人の間は、何事もなく過ぎていった、ただ、部屋の連中は、みな、潮の海が美佐子と一緒になるものと思っていたから、周囲では、いつ結婚するかだけが、問題のような状況が生まれていた。  そうして、半年ほど経過した。  ある日の朝稽古のあと、若いものがみな、大部屋で午睡を貪っている午後に、美佐子は、西尾が呼び出しの三吉と言い争いをしている場面に出くわした。 美佐子が、一階の納戸の脇を通りかかると、その中から、聞き覚えある二人の声が、聞こえてきた。  「もう止めたほうがいいですよ」  そう言ったのは、三吉だった。  「ここまで、やって来て、そんなことが、できるわけがない」  西尾の声が答えた。  「でも、限界だよ」  「足抜けは、出来ない」  「貴方のために言っているんだ」  「ありがとうよ。だが、余計なお節介だ」  とんと身体を小突く音が、聞こえた。  そして、小突かれて、人が襖にぶち当たる音。  美佐子は、耳をそばだてた。  「わかったよ。もう言わないよ」  「そうだ、それでいいんだ」  二人が、部屋から出てくる様子がしたので、美佐子は、さっとその場を離れた。  西尾は、何を言っていたのか。三吉は、何を咎めていたのか。推測するに、それは、相撲を止めるかどうかの言い争いのようにも、取れたが、子細は分からない。  ただ、西尾のきっぱりした物言いが、いかにも、若々しく、それまで、両親の変わりのように美佐子を可愛がってくれ三吉への恩もすっかり忘れて、思わず、西尾の方を持っていたことに気が付いて、美佐子は、自分に驚いた。  西尾が、  「止めない」  といい、三吉が、  「止めろ」  と言って居るのも、美佐子に西尾の方を持たせる理由になった。いずれにせよ、止めらるのは、どの様な相撲取りにしても、阻止しなければならない。それが、この世界の最大のルールだった。美佐子は、そういうルールの中にどっぷり、浸かって育ってきたのだ。  美佐子の、西尾を応援する気持ちは、強くなった。どう言う理由かは知れないが、親方でなく、部屋の呼び出しに、  「止めろ」  と言われながら、頑張っている若いホープの相撲取り、好ましく思われたし、そういうが反抗心が、美佐子は好きだった。  前回、潮の海では自宅に呼んで失敗したという思いもあって、今度は、美佐子は、両親には内緒で、西尾を外食に誘ってみた。  西尾は、拍子抜けするほどに、素直にこの誘いに応じた。  それは、銀座のイタリアン・レストランだった。  「おれは、日本食や中華より、洋食が好きだ」  西尾は、喜んだ。  短大時代によく、ボーイ・フレンドらとフランス料理やイタリア料理に出掛けた美佐子には、こういうレストラン選びは、お手のもので、はっきり言って、  「家で家庭料理を作るより、ずっと、楽だっし、楽しい」  のだった。  二人は、すっかり、盛り上がり、ワインを五本も開けて、すっかりいい気分になって引き上げた。  西尾は潮の海のように、何事にも躊躇すことのない性格で、美佐子に親方の娘であることを意識させない話し振りや態度立ったのも、気に入った。そこには、現代の若者同士の、さらっとした風が吹いていた。  だから、週に一度くらいのペースで、美佐子とデートするようになっても、美佐子は何も意識する必要がなかった。それに、デートは、必ずしも、二人きりとは限らなかった。人が大勢居る場所に出掛けると、大柄で目立つ西尾は、必ず、若い女性の視線の餌食となり、サインを求めて来る人も多かった。だか,衆人監視の元でのデートだったのだ。それでも、写真週刊誌や女性週刊誌の話題にならなかったのは、美佐子が、親方の娘であるとの一点にあった。親方の娘が、マネージャーのように付き添っている、と世間は見ていたのである。  そうして、二人の仲は深まっていった。というより、美佐子の気持ちが、傾いていった。西尾は、そういう関係が出来つつあるの、知っていたが、知らんぷりを、装っていた。それは、親方への配慮と、部屋の娘を娶ることの面倒臭さが先立った。  しかし、度々、デートを重ねれば、それは、部屋の者にも、事情が知れてくる。  「部屋の跡取りは、潮の海ではなくなったらしいぞ」  「西尾関になったらしい」  そういう会話は、交わされなかったが、以心伝心で広まっていき、部屋での潮の海と西尾の立場は逆転した。  だから、三吉が殺されたあの夜のちゃんこ会も、西尾が仕切っていて、潮の海は参加していなかった。  そのため、三吉殺しの捜査の関心は、西尾に向けられた。 立ち会い  両国署の捜査本部は、八潮部屋の現場検証で多数の証拠物を押収した。また、部屋の多くの力士からの事情聴取による調書も、取られた。  証拠物の中には、犯行当夜のちゃんこパーティーの写真もあった。それは、西尾の付け人で幕下の吉田が撮影したもので、西尾の証言もその写真に触れるところが多々あった。  西尾の証言は、  「一月十八日は七日目の土俵が終わった後、皆の成績が良かったのと、中日前でもあったので、皆で飲み会をやろうと、わしが声を掛けて、部屋でちゃんこをしました。だいたい、八時ころから始め、終わったのは、十一時頃でした。三吉も、参加していました。部屋の呼び出しですから、それは、当然参加する資格はあります。会は、盛り上がり、若いものが、歌を歌ったりして、おおいに、騒ぎました。その間、三吉はずっと、参加していました。途中で、吉田がカメラで何回か、皆を撮影していました。それは証拠として、提出してあるはずです。何度も言いますが、三吉はずっと、会に参加していましたよ」  松田刑事は、押収したカメラのフィルムを現像したプリントを見ていた。写真は約二十枚あり、いずれも、右下に日付けと時間が白い文字で印されていた。  三吉は、その十時五分過ぎから、十分の所に若い連中と一緒にVサインをしている姿が写されていた。その前には、部屋の全体の写真が写されていて、参加者全員が分かった。写真は八時半ごろから始まり、十時前までに十枚写され、三吉の二枚の後に、八枚が十一時までのものだった。  松田刑事は、これを見て、  「三吉の解剖果では、死亡推定時刻は、八時半ということになっている。だが、この写真によれば、十時すぎまで、三吉は生きていたことになる。いったいこれは、どう言うことなのだ」  そう考え込んでいた。  「それに、若い連中は、みな、八時頃には、部屋に居ということを示しているではないか。となると、やったのは部屋の連中ではないということか」  ただ、部屋の者が全員、この会に参加していたわけではない。潮の海とその付け人の幕下の親海は、不在だった。  松田刑事は、潮の海と親海の調書を呼んだ。  「あの晩は、谷町との飲み会があり、浅草橋の料亭に八時頃に出掛け、帰ったのは、十一時頃でした。その間、ずっと、その料亭に居ました。ですから、三吉とは、会っていません。帰ってきて、真っ直ぐ、部屋に戻り、すぐ、寝てしまいました」  潮の海の調書は、端的に、そう述べていた。  「わたしは、潮の海関と一緒に浅草橋の料理屋へ行き、大関が宴会から出てくるまで店控室で待っていました。食事もそこで戴きました。十時半ごろ、料理屋を出て、部屋には十一時ごろに帰り、二階の大部屋に入って寝ました」  親海の調書も極、端的にその夜の行動を述べていた。    初場所は十三日目を迎えていた。  潮の海は二敗を守り、西尾は六勝六敗で、後三日に勝ち越し、負け越しが掛かっていた。  キャサリン・シュルツは、この日も、両国の国技館に出掛けて、序の口の取組から観戦した。すでに、十三日間も通い続けていたから、知り合いもたくさん出来た。  時折、西の花道の奥にある相撲記者クラブの部屋にも顔を出して、若い記者連中と相撲の話をした。  その中で、キャリンが、特に親しくなったのは、大手スポーツ紙の記者である犬神信也だった。  金髪の女性が相撲を見ているのに、興味を持ったのか、キャサリンが、まだ予約した客が入っていない砂被りで、熱心に、メモを取っていると、  「すみませんが、ちょっと、取材させて頂いていいですか」  と声を掛けてきたのが、犬神だった。  聞けば、  「うちの新聞に、場所で見つけた美女というコラムがあるのですが、そこで、取り上げたい」  ということだった。  キャサリンは、もち前の好奇心から、その申し出に快く応じた。  それから、犬神は、キャサリンの履歴を聞き、来日の目的や相撲に対する気持ちなどを取材して、数日後の新聞に載せた。  そうして、知り合いになった犬神に、キャサリンは、来日後初めて男としての関心を抱かせられた。  犬神は、大学時代にアメリカに一年間ほど留学していた経験があり、英語が話せた。キャサリンは、日本語が出来たが、微妙な点は、英語で説明してもらうと、良く理解できた。そうして、土俵下でいろいろと話すうちに、段々と、気持ちが通じるようになりある日、犬神が、  「貴方は、ちゃんこを食べたことがあるますか」  と聞いてきた。キャサリンは、相撲部屋回りで、時折、ちゃんこに誘われたことがあったが、積極的に食べる気にはなれず、いつも、遠慮してきた。  しかし、  (いつか、本当のちゃんこを味わって見たい)  という気持ちは、ずっと、持っていた。だから、犬神にそう聞かれて、キャサリンは 「いえ、ちゃんと食べたことはないんです」  と即座に答えていた。犬神は、  「では、今晩生きませんか。いい、ちゃんこ屋を知っていますから」  と誘ってきた。キャサリンは、その誘いを、快く受け入れた。  「お願いします。連れていってください」  「じゃあ、最後の取り組が終わったあと、出原が終わったら、玄関で待ち合わせしましょう」  そうして、約束が成立し、二人で、両国駅の南側にあるチャンコ料理屋「九重」荷出掛けた。  その店の売りは、地鶏を使った鳥チャンコだった。キャサリンは、鳥肉は、クリスマスの七面鳥以外には、あまり、食べたことがなかった。それで、少々ためらわれたが、思いきって、箸を取って、手を伸ばし、ぽん酢に漬けて、口に入れると、それまで、経験したことの無かった芳醇な味が口の中に広がり、そのおいしさにキャサリンは、董然とした。  「複雑な味わいね。こんなに繊細で、ふくよかな味は、アメリカにはないわよ」  そう言ったキャサリンに、犬神は、  「これほどの味は、相撲部屋のチャンコでは、でないよ。やはり、商売でお金を取っているだけあるね」  そう言って、当然のような顔をした。  日本酒を酌み交わしながらの会食で、話題はやはり、相撲のことだった。  キャサリンは、気になっている疑問を素直に、犬神にぶつけてみた。  「先週の八潮部屋の呼び出し、三吉が死んだ事件ですけど、その後捜査の進展はあったのですか」  「僕は、相撲記者だから、事件のことは良く分からないけど、社会部記者の話では、捜査は、膠着状態のようだよ。捜査本部は、八潮部屋を捜索して、いろいろ証拠を押収したらしいけど、犯人に繋がるものはなかったようだ。部屋の相撲取りからも、聴取したが、進展はないようだ。でも、まだ、一週間だから。警察も、場所が終わるまで、様子を見ているのではないかな」  「そうね、まだ、一週間だものね。ところで、何故、三吉さんが殺されたのか、原因はなんなのかしら」  「貴方も知っているように、彼は、顔のガンを手術して、体調が悪かった。医者は一応、それで、大丈夫だと言っていたようだけど、なにせ、病名がガンだから、人生の将来に不安を持っていたのは確かだろう。でも、それにしても、手術が成功して、喜んでいた時だから、むしろ、生きる希望を感じる方の比重が高かっただろうと思うね。そういう点からは、自殺説は取れないな。やはり、事故か、殺しだと思うよ。警察は、事故ではなく、殺人事件と見ているようだ。かれは、真面目で生一本の性格だったから、いろいろと衝突することもあったのではないかな。詳しくは分からないが。それで、恨みをかっていたというもとも考えられる」  「殺人事件に違いはないわ、だって、警察は捜査本部を設置したのだから、それは、間違いないわよ。それは、刑事さんもそう言っていた。でも、動機が、分からないのよね」  キャサリンの推理は、ここ数日進展していなかった。その理由は、  (なにか、この世界特有の複雑な人間関係が、背景にあるように思うが、それが、何だか、知ってから日が浅いわたしには、皆目、分からない)  ということだった。  キャサリンはその点を犬神に聞いてみた。  「なにか、複雑な背景があるような気がするのですけれど」  犬神は、すこし、考え込んで、  「そう言えば、八潮部屋の西尾には、まえから、変な噂があった」  キャサリンの第六感が、感応した。  「それは、なに」  「うん、どうも、西尾は、あることの、総元締めをしているらしい、という噂だ」  「あることって・・・・・・」  「相撲取りが絶対、やってはならないこと。即ち、八百長だ」  「八百長?」  キャサリンが、初めて聞く言葉だった。  「そう。力士が、本当の力を出し合わず、示し合わせて、勝ち負けを先に決めておいて、戦うことだ」  「決めておくというのは」  「だから、相撲を取る前から、勝敗が決まっていると言うことだよ」  「ああ、そういうこと。それは、何のためにするの」  「なんのためって、ほら、相撲は全てが、白と黒の星の数で、出世と没落が決まる非情な世界だ。だから、生きていくために、星の貸し借りをするのだ。たとえば、七勝七敗と八勝六敗の二人が、千秋楽に対戦するとして、七勝の方が幕の内陥落の瀬戸際で、八勝のほうが、幕の内中位にいたとしたら、陥落の危機にある方は、必死だろう、そういうときに、もし、依然に、わざと負けてやって、貸した星があれば、そのときに返して貰う、という訳だ。そうすれば、負け越し寸前の力士は、幕の内から十両への陥落を免れる事が出来る」  「それで、西尾は、その元締めをしていたというの」  「そうだ、かれは、現代的で新しいもの好きなんだ。ファミコンやゲームをやっているうちに、パソコンを趣味にするようになり、かれのパソコンには、その星の貸し借りが、データとして入っているというで噂だ。カメラやヴィデオの新製品がでるとすぐくるというほど、機械会好きな所もある。そのための金も掛かるし、火の無いところに煙は立たない、というから、あながち、嘘ばかりということではないだろうな」  「でも、其だったら、協会が放っておかないのではないの」  「そうだ。でも、証拠があるわけではない。あくまでも、噂だから、それに、かれらは、目立たないように、実に巧妙にやっているらしい」  「巧妙って、見た人は居ないの」  「それは、いるだろう。でも、この世界は、以心伝心の世界なんだ。だれも、自分不利益になることや、まして、相撲界が疑われるようなことを表に出そうとは、思わないのさ。持ちつもたれつ。事を荒立てず、静かにしていれば、一生面倒を見てもらえるという蛸壺型の社会なんだよ」  「それ、本で呼んだわ。中根ちえさんの本でしょう。日本社会の分析でしょ」  「そうかな。そう言う意味では、本当に日本社会の縮図が相撲界だ、僕は、こういう組織は、日本には、三つあると思っている。相撲と、政界と、やくざの組織だ。いずれもその世界独特のしきたりやルールがあり、それに逆らわなければ、一生面倒を見てもらえるが、少しでも、逆らうと、破門や追放処分で、追い出される。やくざなんて、命まで狙われる、相撲界の、一度、追放されると、もう戻れない、プロレスなんかで、生きていくしかないんだ」  「だから、八百長を見ても見ない振りをしているというわけ」  「そうだ。まるで、互助会のような機能をしている、と見てもいい。そういう話し合いが、どうやって行われるのか。だれも知らない。だから、分からない。でも、ほんとうに、相撲を愛する人にとっては、耐えられない仕業なのではないだろうか。真面目にやっている人ほど、こういうことを知った場合は、怒りが強いはずだ。ほんとうに、真面目な相撲ファンを裏切る行為だよ」  「内部に居る人は、何とも言わないのかしら」  「言いたくても言えない場合もあるし、本当に知らない場合もあるだろう。だが、多くは、見て見ない振りをしているのが、実情だね」  「では、あなたがたジャーナリストが、頑張るべきね」  「そうだ、そう思うよ、でも、確証がないとどうにもならない。それに、われわれも協会あっての存在だから、その点を追求しようなんていう相撲記者はいないよ。これも持ちつ持たれつの関係なんだ。たまに、週刊誌が書くけれども、あれは、われわれ相撲記者から情報を得ている。だから、そういう形で、欲求不満を解消するしかない、ということも言える。せめてもの、罪滅ぼしなわけさ」  「複雑ね。まったく、複雑で、アメリカのように正義は正義といかないのね。アメリカでは、考えられないことだわ。もし、野球の大リーグでそんなことが、あったら、マスコミは黙っていないし、絡んだ関係者は、厳重に処分されるわ。それこそ、永久追放処分になって、二度と、グラウンドに立てないわね」  「そうだろう。それが、本当だよ。スポーツの世界は、公平さと正当性がなければいけない。すべてにルールが優先するのだから」  「そうすると、三吉殺しには、西尾が絡んでいるのかしら」  「それは、分からない。事件は全て、警察の捜査を待つしかないだろうな」  「わたしは、それでは、歯がゆいわ。やれるだけやってみる。当たって砕けろ、プラグマティズムが、ヤンキー精神よ」  「それは、自由だけど、相手は、力のある大男だらけだ。気を付けた方がいいよ」  「忠告ありがとう。そして、今日は、御馳走様でした」  犬神とキャサリンは、その晩、いい気分になって、夜の隅田川沿いを酔い覚ましに散歩し、駅まで歩いて、別れた。    十三日目に潮の海は白星を上げ、十一勝二敗で優勝戦線に踏みとどまった。西尾は、七敗目を喫して、十四日目と千秋楽に勝ち越し、負け越しを掛けることになった。  キャサリンは十四日目にも、国技館に通い、カメラを片手に、いろいろと取材していた。その様子を見つけた、犬神が、やって来た。キャサリンは、  「昨日は、どうもお世話になりました」  とお礼の言葉を述べた。  それに、答えるのももどかしいように、犬神は、  「大変なんだ。今日から、西尾が休場するらしい。それで、部屋まで行ったんですがどうも、行方不明らしい。朝から、見えないのだそうだ。部屋は、大騒動になっているよ」  「そう、では、急いで行ってみないと。行きますか」  キャサリンは、一人で行くのは不安だった。それで、犬神を誘ったのだが、犬神は、 「いや、今、帰ってきたばかりだよ。僕は、こちらで、原稿を書かないといけない」と断った。キャサリンは一人で、行くことにした。  八潮部屋では、親方が、憮然とした表情で、稽古土俵を見つめながら、座敷に座っていた。それを、遠巻きにして、部屋の力士たちが、渋面を抱えていた。  「それで、いつごろまで、いたんだ」  親方が、付け人を詰問していた。  その若い付け人は、下を向いて、ぼそぼそと、  「昨日の夜は、部屋に居ました。わたしは、十時すぎには、大部屋に帰ったので、あとは分かりません」  それだけ、答えて、押し黙ってしまった。  「どこに、いそうか、見当は付かないのか」  親方は、若い者たちに、大声で、聞いていたが、答えは無かった。  キャサリンは、それを、遠くから聞いていた。  部屋の総力を上げて、心辺りを探したが、昼頃までに、探し出すことが出来ず、八潮親方は、「休場届け」を協会に提出した。  その日、一日、西尾の居場所を捜し続けたが、夜までに、西尾は帰らなかった。一切連絡もなく、翌日の千秋楽の休場も決定的になった。  西尾は、失踪した。行く方は、場所が終わっても、明らかにならず、親方は、一ヵ月後、両国署に「失踪届け」を提出した。 組み手 千秋楽の日の朝のスポーツ新聞には、「西尾失踪」の大きな見出しが踊っていた。キャサリンは、駅の売店で、犬神が所属する新聞社の新聞を買った。  その記事は、次のように、西尾の失踪を伝えていた。  ーー 大相撲の前五枚目、西尾(二二)=八潮部屋が、十四日目の土俵を欠場したが、これは、西尾の姿が、同部屋から消えたための「失踪事件」だったことが、分かった。西尾は、前日の十三日目の土俵を終えたあと、同部屋に午後七時頃、帰宅したが、十四日の朝になって、朝の稽古に姿を見せないのを、不審に思った付け人が、部屋を訪ねたところ、姿が見えず、そのまま稽古に出なかった。その後も、心当たりを探したが、見つからず、休場届けを提出した。  西尾は、今場所前半は、好調だったが、後半戦に入ってからは、黒星が続き、十三日目までに、六勝七敗となり、後二日に勝ち越しが、掛かっていた。  八潮部屋では、先週末に、所属の呼び出し、三吉が殺害され、所属の力士には、動揺が見られるが、なかでも、西尾の後半戦での不調が大きく、殺人事件が、今度の失踪と関係がないかどうか、協会関係者は、憂慮している。  八潮親方の話 今朝、稽古に姿を見せなかったので、驚いて、探したが、見つからなかったので、休場届けを提出した。このようなことは、初めての事態なので、当惑している。全力で、行き先を探し出したい。  記事には、犬神記者の署名で解説記事が付いていた。それは、  ーー 西尾の失踪は、再び、大相撲の古い体質に警鐘を鳴らした。西尾は、八潮部屋の若手の期待の成長株で、力を付けるにしたがって、大関・潮の海との確執が取り沙汰されていた。伝統の名門部屋である八潮部屋では、後継者を巡って、この二者が候補に上がり、八潮親方は、その決定を二人の昇進と絡めて判断する意向と言われ、部屋内部では、両派に別れて、熾烈な多数派工作が、繰り広げられていた。  今回の失踪事件が、そうした跡目争いの影響によるものかどうかは、明らかではないが、「西尾は、派閥争いに飽き飽きしていた」という関係者の証言もある。その相手である大関・潮の海は、今場所、西尾とは対照的に絶好調で、十四日目までで十二勝二敗で、優勝戦繊維踏みとどまっている。それだけに、不調の西尾は、気力的にも、落ち込んでいたといい、日頃から稽古熱心ではなく、センスを体力で勝負する天才肌だけに、成績不振を苦にしての失踪とも考えられる。  こうした、上位力士のわがままな行動に対して、日本相撲協会の出羽の海理事長は、「少し成績が悪いからといって、安易に休場するのは、許しがたい行為だ。もし、失踪したのなら、一刻も早く、居場所を報せ、自ら姿を表せと言いたい」と厳しく批判している。また、協会としても、監督責任者の八潮親方を含め、関係者の厳しい処分を検討しているーー。    キャサリンは、この記事を読んで、喉に小骨が突き刺さったよう気分になった。  (跡目争い続いていた。これは、一体どう言うことなのかしら。あの部屋の親方の後を継ぐということは)  そう考えてみて、思い当たったのは、  (そうか、部屋の娘さんと、誰が、結婚するかということね)  ということだった。  キャサリンは、八潮部屋に行ってみる気になった。  既に、部屋の女将の千賀子とは、顔見知りになっていたから、まず、裏の勝手口に回り、千賀子を探した。しかし、千賀子は、所要があって、不在だった。台所にいたのは若い娘で、キャサリンはその顔を知っていた。  それは、部屋の一人娘、美佐子に違いなかった。  「もしもし、すみませんが」  キャサリンは、美佐子に声を掛けた。  「はい、どなたですか」  美佐子が、訝ったので、キャサリンは、自己紹介したあと、  「すこし、お話していいですか」  と聞いた。  美佐子は、了承して、キャサリンを部屋に上げてくれた。  そして、コーヒー・メーカーから、コーヒーをカップに注ぎ、もてなした。   「実は、お伺いしたいのは、西尾関の失踪です。なにか、心当たりはないのですか」 キャサリンは尋ねた。  「それで、今日は、親方も女将さんも忙しなのです。心当たりの所を、当たっています」  美佐子は、憂いを見せた。  「美佐子さんは、心当たりがないのですか」  「ありません。まったく、思い当たる節は、ないのです」  美佐子は、途方に暮れていた。キャサリンは、あさ読んだ新聞の知識を使ってみた。 「なにか、部屋の後継者のことで、争いがあったのでしょうか」  「そんなことはありません。ただ、わたしが・・・・・・」  美佐子は口籠もった。  「わたしが、いけないのかもしれない」  キャサアリンは先を聞きたくなった。  「いけないって、なんのことですか」  「ですから、後継者を決めることで、わたしが、いい加減だったから」  「そう、相手を決める上で迷いがあったのですね」  「そうです。本当は、両親は、潮の海関をと言っていたんですが。わたしが、西尾関に気持ちを移してしまったから」  「でも、それが、失踪の原因とは言えないでしょう。昨日は、西尾関とは、会ったのでしょう」  「いいえ、朝から居なくなってしまったから」  「それでは、その前の夜は」  「いえ、その前の晩は、会いました」  「会っていたのですか。それは、どこで」  「あまり言いたく無いけど、ホテルです」  美佐子は、意外なことを言った。  「何時から何時まで」  「取組が終わってからですから、七時半頃から、十時半ころまで、両国駅のそばのグリーン・ホテルで」  「二人きりですか」  「そうです」  キャサリンは考え込んだ。  「そのとき、西尾関に変わった様子はなかった」  「それは、ありません、とても、元気でした。二度もしたのです。わたしもあんなに幸せだったことはありません」  「そう、ほんとうに愛し合ったのね」  「そうです、本当は、場所中はそういうことはいけないのですけれども、わたしが、せがんで、行ったのです」  「それは、何故」  「だって、今場所は後半に入って、成績ががた落ちで、負け越しそうになっていたから、せめて、わたしが出来ることは、そうやって、やる気を出して貰うことぐらいしかないんですもの」  キャサリンは、納得した。愛し合う者どおしなら、そうして励ますことは、大いにあり得ることだ。  (わたしも、研究が行き詰まったとき、セックス・フレンドのサムエルソンを部屋に呼んで、愛し合ったことがあるもの。その逆もあって、当然だし、わたしにもそういう経験がある)  だがそう聞いて、なおさら、疑問が募った。  (そんなに、元気なのに、なぜ、失踪なんてしたのだろう)  「そんなことのあった翌日に居なくなるなんて、変ですね]  キャサリンの率直な問いに、美佐子は、  「そう。ただ、十一時頃にわたしは部屋に帰ったのだけれど。西尾関は、その後、また、電話で呼び出されて、出ていったの」  「それは、大変だわ。そのことを誰かに話した。それに、その電話はどこからだったの」  「誰にも話してないわ。だって、出ていったと言っても、それだけのことよ、それから帰ってこないのだから。電話があったのは、知っていたけど、何処からかはしらないわ。彼の部屋にあったの。そう言って、出ていったのよ」  美佐子は、事も無げにそう言った。  「美佐子さんは、そのとき彼の部屋にいたの」  「そう、別れがたかったから、寝る前の最後のお別れに行っていたの」  キャサリンは、当夜の様子が大体、理解できた、問題は、その電話が何処から掛かってきたかを知ることだった。  (それには、電話局のコンピューターの記録を調べるのが、近道だ。しかし、それには捜索令状がいる。キャサリンは、美佐子に、西尾の電話の番号を聞いて、メモした。あとは、これを両国署の松田刑事に話し協力してもらうことだった。  (三吉殺害事件と同じ部屋で起きた失踪事件だもの、彼が、関心を抱かないはずがない)  そういう確信が、キャサリンにはあった。   キャサリンは、両国署を訪ねた。捜査本部で松田刑事は、気難しい顔をして、彼女を迎えた。  「どうですか、捜査の進展具合は」  「まあまあというところかな」  「なにか、いい情報はありましたか」  「あったよ」  松田刑事は事も無げにそう言った。  キャサリンが、驚いて、唾を飲み込んでいると、松田刑事は、自慢の髭を撫でながら茶碗の渋茶を勧め、  「まあ、いろいろ世話になったから、おしえてあげてもいいだろう。実は、三吉が殺された夜に、両国橋の袂に、夕方からずっと不審な乗用車が止まっていたという、有力情報が、寄せられた、ナンバーもしっかりと確認できた。おま、その車の持ち主を洗っているところだ。なにせ、大きなアメリカ車だから、目立つ。その車の中で、八時半ごろ、三吉らしい男と身体の大きな男が、争っているのを、そばのタバコ屋の婆さんが見ていた。夕方から、ずっと停まっていて、九時頃には居なくなっていたという。時間は、ぴったり会う。これで、きまりだ」  「でも、三吉さんは、その時間に部屋でチャンコの会に出ていたのではないですか」 「そうだ。そこが、この場合のネックだな。でも、この車の事を調べていけば、自然に解決するだろうよ」  「随分、楽観的ですね。その時間、八潮部屋にいたことは、写真が証明しているではありませんか」  「そうだね。この写真だ。それが、どうにもならないかな」  キャサリンは、始め気がつかなかったが、松田刑事は、机の上に、証拠の写真を並べて、考えている最中だった。  松田刑事はそれだけ言って、また、写真に視線を落とし、沈黙した。  キャサリンも暫く、一緒に、眺めていたが、すこしたってから、思い切り、聞いてみた。  「事実は、今日は、少し、協力をして頂けないかと思いまして」  松田刑事は、目を上げて、キャサリンの顔を見た。  「八潮部屋の西尾が失踪したことは、御存知でしょう」  「それで、部屋も大変なようだな。まったく、あの部屋は、どうなっているのだ、呪われているとしか言いようがないな」  「この件は、三吉殺しと、全く無関係だと思いますか」  「それは、わたしも、考えてみたが、直接の関係は、今のところ、浮かんでいないようだ」  「でも、これは、わたしの女性としての感ですが、いや、長年の比較人類学の研究者としての経験からですが、人のする事に、関連性がないことは、滅多にないです、まして、同じ部屋で起きた事ですから、必ず、何らかの糸が繋がっているはずです。どこかに、違った現象の同じ根っ子がある。それを突き止めるのが。比較人類学のそもそものテーマなんですが」  「難しい、学問の話は、分からんが、そうかもしれないな。だから、失踪事件も、こちらが、すこし、絡んでいるわけだ」  「絡んでいるって」  「だから、行方不明の人を捜査する部門と密接な連絡を取って、捜査していくことになった」  「そうですか、それなら、頼みやすいな。実は、西尾は、前の晩、何処からか電話を受けて、出ていったのです。これが、西尾の電話番号ですが、調べてもらいませんか」 キャサリンは、メモを見せた。  松田刑事は、それを手にとって、  「電話があって出ていったというのは、初耳だな。だれが、言ったんだ」  「娘の美佐子さんです」  「どうして知っていたのかな」  「出掛けるとき、そういって、出ていったのだそうです」  「そうか。分かった。さっそく、電話局で調べよう、十一時半頃、この電話番号にだれが、掛けてきたか」  「よろしくお願いします。重要な点ですから」    その結果は、すぐに、分かった。  電話は千葉県のA市の市外番号から掛かってきていた。松田刑事は、その電話番号に電話してみた。  出てきた、女性は、  「はい、新世界興業です」  と、言った。松田刑事はその名前を聞いて、すこし、驚いたが、そのことは、おくびにも出さず、必死で同じ声の調子を維持しながら、  「実はそちらにお伺いしたいのですが、道順を教えてください」  と聞いてみた。女性は、  「電車でいらっしゃいますか」  と聞き返してきた。  「はい、そうです」  「では、A駅の南口を降りて、真っ直ぐに進み、パチンコ店の角を、左に曲がってください、すると、右側に大きな新世界プロレスの看板があります。その横がうちの事務所とジムになっています」  丁寧に案内してくれた。  「どうも、有り難う」  そう言って、松田刑事は電話を切った。そして、  「新世界興業か」  と独り言を言って、タバコに火を点けた。  それは、まさに、三吉殺しの捜査で、調べを始めた不審な外車の所有者として、記載されていた名前だった。  千秋楽で八潮部屋の大関・潮の海は、優勝決定勝戦で横綱・鷹の島に敗れて、優勝を逃した。しかし、準優勝の成績は、立派で、おおいに国技館を沸かせた。  キャサリンは千秋楽の土俵に酔った。結びの一番で一敗の鷹の島を破れば決定戦に持ち込める潮の海は、気合十分の立会いから、得意の左四つに持ち込み、右四つが得意の鷹の島を攻めた。十分の体勢から、一気に前に出ると、横綱は苦し紛れに、右の上手投げを打ったが、それで、体勢が崩れたのを見た潮の海は、真っ直ぐに寄り立て、万全の相撲で、横綱を破った。  しかし、決定戦は、最後の大一番で、気力と体力を使い果たしたのか、まったく逆の展開になった。鷹の島が、一歩早く踏み込んで、右を差し入れ、仕方なく、潮の海は左上手を探ったが、届かず、右を差し入れて、右四つの体勢で、動きが止められた。横砂は、両まわしを取っての完璧な体勢に持ち込んだ。これでは、潮の海も成す術がなく、一気の寄りに、潮の海も土俵際で踏ん張ったものの、左からの上手投げで体勢を崩され最後は押し出された。  両力士とも死力を尽くしての、大一番を戦った。  キャサリンは、戦いのあとに、身体から、わき上がる熱い汗と紅潮した肌、気迫のある表情のそのいずれもに、深い感動を覚えた。  最後の戦いを見たあとは、両者の健闘を讃え、思わず、大きな拍手を送っていた。  (素晴らしい。これが、男の戦いなのだわ)  キャサリンは、身体中が熱くなるのを感じた。特に、腰から下が熱り、歩く力が抜けていったのを、不思議な感覚で覚えている。それは、女性という男性の大極にある異性として、素晴らしく、セクシーな感覚のようにも感しられた。勝負が決まった瞬間にキャサリンは、股の間が、熱くなったのを感じた。そして、すぐに、それが、失禁だと分かって、赤面しながら、トイレに駆け込んだ。脱いだパンティーは、びっしょりと濡れていた。  (こんなになるなんて、人には言えないわね)  持っていたバッグに、もしものときにと、入れておいた替えのパンティーに履き換えて、戻ると、土俵では優勝賜杯の授与など表彰式が延々と続いていた。キャサリンにはそういう儀式が、好奇心をかき立てたが、そういう場面は、アメリカでもテレビで見たことがあったから、早めに、国技館を出て、再び両国署に向かった。  そこで、キャサリンは、松田刑事に、電話と不審な外車が同じ所のものであることを聞かされた。  (やはり、関係していた)  キャサリンの「直感」は、的中した。あとは、どのように、それらが、絡んでいるのか、糸を解きほぐすことだけのことのように思われた。  「すると、その新世界興行とかには、捜査員は向かったのですか」  キャサリンは、松田刑事に聞いた。   「そう。だが、その結果はまだ、解らない。捜査員が帰ってきてからでも、遅くはないからね。関連を調べるのは、ゆっくりしてもいい」   松田刑事の意見は、あくまで、三吉殺害の捜査という立場からのものだった。   「でも、西尾の失踪は、早く捜査しないと、また、大変なことになるかもしれませんよ」  キャサリンは、心中、心配になっていたことを、口にした。  「心配ない。警察を信頼してくれ。西尾は必ず、見つかる。生きて、発見するから、安心してくれ」   キャサリンには、その言葉は信じられなかった。     攻め  その日の夕方、捜査員が帰ってきた捜査本部では、毎日、恒例の捜査会議が開かれていた。千葉県A市の新世界興業市に出掛けていた捜査員が、結果を報告した。  「新世界興業は、社長が、もと大相撲の大関・北の島の新島登という人物です。プロレスラーは、二十人ほど居て、主に関東地方から北の東日本で、興業しています。われわれは、その新島登社長に会って、話を聞きました。あのナンバーに車は、会社所有で主に社長が使っているので、事件当日の行動を聞きました。社長の話では、その日は、昔の大相撲の仲間との懇親会があり、両国橋の袂に長時間、停めておいたそうです。ですから、タバコやの叔母さんの話と、一致します。ですが、八時半ころに、内部で争っていたという目撃談は、頑強に否定しています。ずっと、会合のある料理屋から出ていない、と言い張っています。それから、三吉と新島は、もちろん、知り合いです。なんでも、三吉は小金を溜めていたらしく、新島も現役時代に、ギャンブルで金がなくなった時は、世話になったといっていました。大分、大勢に貸していたようです。ですが、あの日に、三吉とは会っていない、と言い張っています。もちろん、会合があった料理屋の名前は、聞いてきました。アリバイを捜査してみたらいいと思います」  さっそく、当日の、新島の行動を裏付け捜査することが、決まった。  松田刑事が、口を開いた。  「実は、昨日の同じ八潮部屋の関取、西尾の失踪事件だが、西尾がその前の晩に部屋を出ていったとき、電話があったことが、分かった。その電話があって、西尾は出ていったのだ、そうだ。それで、電話局で調べたのだが、掛かってきた電話は、その新世界興業からだとわかった。そう考えると、八潮部屋と新世界興業との間には、なにかが、あると考えざるをえないな」  捜査本部長の、両国次長の横田甚平が、決断を下した。  「その点を、徹底的に、洗ってみよう。この二つの事件は、どこかで絡み合っているような気がする。八潮部屋と新世界興業の関係だ。松田君、さっそく、明日から掛かってくれたまえ」  松田刑事は、指名されて、待ってましたとばかりに、  「わかりました。さっそく、やってみます」  と、大声で返事をしていた。    松田刑事は、翌日、八潮部屋を訪れた。三吉の殺人事件で、現場検証して以来の、訪問だったが、玄関から入って、すぐの稽古土俵が、この前に来たときと、少し、感じが違うような気がした。それは、天候の変化によるものかも知れなかったが、土俵の色が、前のときより、明るくなっているような気がした。それに、土も、目が細やかで、さらさらした感じに、なっていた。  応接間で会った八潮親方に、その事を話すと、親方は、  「いや、砂を入れたんです。中日を過ぎてから、土俵も痛んできたものですから」  と説明した。  松田刑事は、そんなことを雑談しているより、新世界興業との関係を質さなければならなかった。  「千葉にあるプロレスの興業会社で、新世界興業というのを知っていますか」  松田刑事は、短刀直入に聞いた。  「知ってますよ。元大関の北の島がやっている会社でしょう。よく知っています」  「その会社所有の乗用車が、三吉が、両国橋に吊るされた時間に、橋の近くに、長時間、停まっていたのです」  「そうですか。あの日は、昔の相撲仲間との懇親会がありましてね。わたしも出席しました。北の島とわたしは、ずっと一緒でしたから、間違いありませんよ」  「途中、退席したりしませんでしたか」  「それは、トイレに行ったりする時間は、宴席からいなくなりましたが、それ以外、ずっと、一緒でしたよ。終わったのは、十時ころでしたから、それまでは、北の島は宴会場にいました」  松田刑事は、考え込んだ。  「では、違った方向から、すこし、伺いたいのですが、西尾関の行く方の見当は付きましたか」  八潮親方は、テーブルの上のタバコ入れから、ラークを一本抜き取り、隣にあったライターを手に取り、火を付けた、深く、一服吸い込んでから、  「まったく、見当が付きません。何処へ、行ったのか、心当たりは、全て当たってみましたが、何処にも、いませんでした。警察にも、届けを出しましたが」  「そうですね、われわれも、この両事件は、密接な関係があると見て、関心を持っています。そこで、すこし、伺いたいが、西尾関と新世界興業の関係について、なにか、ご存じのことがありましたら、話してください」  親方はタバコを、灰皿に置いて、静かに、心を落ちつけた。  「実は、わたしは、困っていました。西尾が、引退の気持ちを持っていて、それが、もっと楽に稼ぎたい、とい安易な気持ちから来ていることは、わたしは、分かっていました。相撲の稽古は厳しいし、相撲界もいろいろとしきたりがあって、西尾のような性格の男には、うっとしく感じることが、多かったのかもしれません。西尾は、転職する意向をもって、かれらと接触していたようです」  「彼らというのは」  「ですから、プロレスの関係者ですよ」  「新世界興業ですか」  「いや、始めは、そうではないようです。ほかの会社ですね。新世界からは、話は来ていなかったと思いますよ。さっき話した懇親会でも、北の島から、そんな話は聞かなかった」  「すると、どこの、プロレスですか」  「それは、知りません。もちろん、西尾はわたしにそんな話をしませんから。ただ、そういうような動きをしている、と教えてくれた者がいる」  「それは、三吉だったのではないですか」  松田刑事は、ズバリと、核心を聞いた。  「それも、あります。だが、それだけではない」  「西尾は、それを、恨んでいた」  「いえ、それは、知りません」  親方の、応答は、徐々に、つっけんどんになっていった。  松田刑事は、そろそろ潮時だ、と感じて、部屋を辞去した。帰る歳に、稽古土俵の土を一掬いして、ハンカチにいれた。  次は、新世界興業で、元大関・北の島の新島登に会って、話を聞かねばならない。  両国署に戻って、かねてからの打ちあわせどおりに、鑑識課員の車に乗って、出発した。鑑識課員を同行したのには、訳があった。新島社長の大型外国車の内部を、調べてみることにしたのだった。ただ、捜査令状は取っていないから、任意の調べになる。新島が承諾すればいいが、拒否すれば、調べることは出来ない。松田刑事は、掛けてみることにした。もし、拒否すれば、なにか都合が悪いことがあること認めることになる。しかし、応諾すれば、それは、こちらの狙いどおりに調べをすることができる。何方にころんでも、鑑識を連れていくことは、有意義なことと判断したのだった。 千葉県のA市にある、新世界興業の会社事務所には、新島はいなかった。応対に出た留守居の営業部長によれば、  「興業に出ていた、一週間は帰らないだろう」  とのことだった。  松田刑事は、この営業部長に申し出た。  「ちょっとお願いがあるのですが。いつも、社長が使っている、大型の外車は、こちらにありますか」  「ええ、今度は、東北での興業ですから、新幹線での移動です。だから、こちらに、おいてありますよ」  「そうですか。ちょっと、中を調べたいのですが」  「調べるというのは、どういうことですか」  「内部を、ちょっと、見せて頂けますか」  営業部長は、考えたが、警察の申し出をむべに断ったら、今後の営業に差し支えるのではないか、という危惧と、中を見せるくらいなら自分の判断でやってもいいだろうという結論に達した。  「どうぞ。今日は、ずっと使いませんから」  そういい添えることまでして、キーを渡した。  鑑識班は、車庫に行って、キーをあけ、車両の内部を徹底的に、調べた、残留物や指紋、血液反応などの調査が、徹底的に行われた。  鑑識班が検査をしている間、この営業部長の気を引き止めておく、意味もあって、松田刑事は、盛んに話かけた。  「こういう仕事も、いろいろと大変苦労があるでしょうね」  「はい、昔のようには、行きませんね、テレビが中継していたころは、左うちわでやって来れましたが、いまは、楽ではありませんよ」  「やはり、営業が一番、苦労するでしょう」  「まあ、それぞれに、苦労はありますが、確かに、チケットを売るのは、難しい時代です」  「でも、儲かっているのでしょう。あんな、立派な車もあるし」  「いえいえ、やっと、給料が払えるくらいです、レスラーもそういい給料を貰っているとは、思いませんね。だから、危ないことに手を出す者もいる」  「危ないことって、なんですか」  松田刑事は、さらりと聞いた。  「いえ、ギャンブルとかね。競馬の闇屋をやったり、最近では、何でも賭にして、イギリスの賭屋のようなことまでやっている者ものいる。あっ、危ない。刑事さんに根あ事を言ってしまった」  「いえいえ、わたしは、一課ですから、管轄が違います、それに、わたしは、警視庁ですから、地域の担当も違うから、安心してください」  「どうですか。一課って、殺人事件を捜査する所でしょう」  営業所長は、警戒の表情を示した。そういえば、車の検証の目的もまだ、聞いていないことに気が付いた。  「そういえば、何の事件の捜査なんですか」  「いえいえ、ちょっとした、暴行事件の被害者が、お宅の車に落とし物をしたのではないか、と言いだしたのです。そんも裏付け捜査です」  「だれですか」  「相撲の関係者で、社長と知り合いのかたです」  「社長は、もと相撲取りですから、まだ、いろいろ付き合いがあります。その落とし物とは何ですか」  「暴行をうけて、車に逃げ込んだのだそうですが、そのとき、犯人のシャツを引きちぎっていた、その端でもあればと」  営業部長はそれを聞いて、やっと納得した。その程度の、ことなら、社長に無断で車を調べさせても、文句は言われないだろう、と安堵した。第一、警察に協力していくことは、会社の方針でもあったのだから。  鑑識の検査は、一時間半ほどでおわり、一行は乗ってきた車で、帰路を急いだ。  「なにか、収穫は、ありましたか」  松田刑事は、鑑識課員に聞いた。  「それは、われわれは、どんな細かいものでも、収拾しますから、これからの検査によりますね。とにかく、床から、シーツから、ドアノブから、全て、付着しているものは、採集しました。毛髪も皮膚の剥落物もあるはずです。毛髪があれば、血液型もDNA鑑定も出来ますから、人物の判定はすぐできます。大船に乗っている積もりで、居てください」  その話で、松田刑事は、行く方に光が差し始めたという感じがしはじめた。 翌日、両国署で前日の捜査報告を書いている松田刑事が、一区切り付いて、顔を上げると、ドアーを開けて、金髪の女性が入ってくるところだった。  「いや。先日は、キャサリンさん、新世界興業に行ってきましたよ」  松田刑事は、仕事が片付いたこともあって、気軽に声を掛けた。  キャサリンは、こちらの机に近付いてきて、  「それで、如何でした。よい成果はありましたか」  「いま、鑑識で、調べているところです。けっかは、二、三日すれば、出てくるでしょう。それより、こんな所では、むさ苦しいから、何処か、喫茶店委にも行きましょうか」  キャサリンは、思いかけない松田刑事の誘いに、最初は、驚いたが、すぐに、  「そうですか。どこか、良いところはありますか」  と応じていた。  松田刑事は、自慢の髭を右手で撫でながら、少し、考えた末、  「そろそろ、食事の時間だな。猪でも食いに行きますか」  と誘った。  「猪って。そんあもの、食べられるのですか」  「わたしに任せておきなさい」  二人は、タクシーを拾い、隅田川の袂の「への字」に向かった。  「への字」では、座敷に上がって、猪鍋を頼んだ。まだ、寒さが残っている季節だったから、昼間から、そういう温まる物を食べるのも、悪くはないことだった。  鍋が煮えるのを待ちながら、キャサリンが、切りだした。  「そういえば、先日は、短い時間だったので、話さなかったのですが、西尾関は、八百長の総元締めをやっていたという噂がありますよ」  「なに、八百長の。それは、初耳だ」  「それが、何か、今回の二つの事件の共通の原因ではないか、という気がするのですが」  「ううん。いい所を付いているかもしれない。そういうのを、日本では、女の直感というんだ」  「そういういいかたは、女性を差別した言い方ですね。女性を見下している言いかた出す。もし。アメリカでそんなことを言ったら、セクハラで訴えられる」  「ええ、そんな事はないでしょう。その程度で。僕もそういう方面は、勉強しないといけないな」  鍋が煮えはじめた、上手そうに色を変えはじめた猪の肉を上手に箸で掬いながら、キャサリンは、さらに、聞いた。  「それは、さし置いて、どう思います」  「そうだな。でも、証拠はないんだろう」  「はい、あくまで、噂だけですけれど。かなり、大掛かりにやっていたようですよ」 それを聞いて、松田刑事は、前日に聞いたことを思い出した。  「そういえば、昨日、千世界興業で、選手たちが、小遣い稼ぎに、いろいろと賭け事をやっていると言っていたぞ。思い出した」  「では、やはり、ギャンブルが、絡んでいるのかもしれない。その辺りを探ってみましょうよ」  キャサリン、もうすっかり、この刑事一緒に捜査をするつもりになっていた。  「狙いは、案外、いい線かもしれない。こうなれば、猪突猛進と行くか。猪を食ったことだし」  「そうね、遣ってみましょう」  二人は、すっかり息投合して、昼ビールのコップを開けた。    鑑識の結果は、二日後に出てきた。  ーー 車の後部座席から、少量の毛髪が発見され、血液型検査とDNA鑑定を試みた結果。次のように判明した。血液型はB型、Rhプラス。DNA鑑定では、今回の事件の被害者、三吉との照合を行い、完全な一致が見られた。他にも、多くの毛髪や指紋が採取され、保管中ーー  以上の報告が、届いた。  三吉が、後部座席に、居たことは、これで完全に科学的に裏付けられた。  のこる、問題は、もう一人の、人物。すなわち、三吉と争っていた人物は、だれか、と言うことだ。これは、車の所有者の新島社長の疑いがあるが、本人は否定し、駐車中に宴会に同席していたという、八潮親方もアリバイを証言している。では、だれか。  松田刑事は、考えたが、キャサリンから聞いた、「西尾が、八百長に絡んでいるのでは」という話を、新世界興業での聞き込みと結びつけて、「それは、西尾ではないか」との直感が走った。  だが、この説には、その時間、午後八時半ころには、八潮部屋で、チャンコ会やっていたという西尾自身の証言が傷害となる。しかも、写真という物証まであるのだ。  (こうなれば、新島社長と西尾の毛髪検査と、DNA鑑定をしてみるしかない)  松田刑事は、そう考え、捜査本部長でもある上司の両国署次長に相談した。  「西尾の毛髪は、八潮部屋で手に入るとしても、新島からの入手は難しいだろう」  そういう結論になった。  「だから、これは、別件で引っ張るか、床屋にでも当たるしかないだろうな」  次長はそう言った。   (しかし、床屋は何処でやるのか。自分でやったり、家人に刈ってもらったりしていてら、どうにもならない)  そう考えていると、鑑識から、有力な助け船がやって来た。  前部座席のセンター・コンソールのなかから、大麻の断片が見つかった、という報告だった。  (これは、天の助けだ)  松田刑事は、早速、新島の逮捕状請求に取りかかった。  翌日、逮捕状を持って、同僚の若い刑事とともに、松田刑事は、新世界興業のプロレス興業が行われている、山形市へ向かった。そして、宿舎で、新島を逮捕し、東京に護送してきた。 新島と会っての印象は、 (とにかく、体格が素晴らしく良い) ということだった。 やはり、元・大相撲の大関だけのことはある。隠退後も、プロレスの厳しい修業をして来ただけに、筋肉にも衰えがなく、肌も張り詰めていた。それに、彼の体格は、西尾とそっくりだった。 守り 新世興業社長の新島登は、両国署での取り調べに対し、否認を続けた。  「これが、君の車の中から、出てきた大麻の破片だ。君が所持していたのだろう」 松田刑事の追及にも、新島は、  「それは、俺の物ではない。いろんな人を乗せているからだれかが、置いていったのだろう」  とシラを切りつづけた。  所詮、大麻書所持は、新島逮捕の本来の目的ではなかったから、その調べは、ほどほどぬにして、松田刑事は、まず、新島の髪の毛を採取した。すでに、拘留中の身なので新島は、  「なんで、髪の毛を取るんだ」  と訝りながらも、素直に採取に応じた。  髪の毛は、直ちに、鑑識に回された。もし、三吉の遺体が掴んでいた毛髪と一致すれば新島は、三吉と接触があった事になり、殺人の容疑は濃厚になる。  「ところで、あなたは、大相撲関係者とといまだに交際があるようだが、呼び出しの三吉とは、顔見知りかい」  松田刑事が聞いた。  「それは、知っていますよ、わたし現役時代から、呼び出しをしていたから。でも、深い仲ではないですよ。場所中に顔を見れば、挨拶くらいはしましたがね」  「これは、既に一度、われわれの捜査員が聞いたかもしれないが、三吉が、殺された夜に、貴方は、彼に会っていませんでしたか」  「それは、この前話したとおり、わたしは、宴会に出ていたし、三吉を会ったことはないですな」  ここで、松田刑事は、切り込みかたを変えてみた。  「では、西尾とは、会っていなかったのかね」  新島は、それを聞かれて、すぐに返答をしなかった。  「いえ、会ってませんね」  「でも、知り合いだろう」  「それは、知ってますよ。有名な相撲取りだから」  「そういう意味ではない。親しかっただろうというのだ」  「親しい、というようなことはないのではないかな」  「あんたは、西尾が失踪した夜に、西尾に電話を掛けたのじゃないか。そうだろう」 松田刑事の口調が厳しくなった。  「電話。ああ、したかもしれないな」  「どういう用件だった」  「飲みにこないかと誘ったんだ。あのときは、八潮部屋の近くのスナックで飲んでいたから」  「それで、西尾は来たのか」  「いや、来なかった。ずっと待っていたんだが」  「会わなかったのか」  「そうだ」  松田刑事は、頭が、混乱してきた。  (では、西尾は何処へ行ったんだ。電話は新島が掛けたのがこれで、確認されたが) 新島は、三吉と会っていたことを、頑強に否定した。  残るは、では、だれが、会っていたかの問題だが、もう一人、可能性のあるのは、西尾だった。  西尾の毛髪か皮膚を入手して、血液型やDNAを鑑定すれば、特定できる。そうして生物・化学的に鑑定すれば、西尾存在が、特定できるだろう。  松田刑事は、それらの入手方法をいろいろ、考えたが、すでに、八潮部屋の検証は終わっているので、強制捜査するわけにはいかない。あくまで、任意の提出を求めなければならない。  (どうしたら、提出してくれるだろうか)  松田刑事は、自慢の髭を撫でながら思案した。考え込むときの、彼の癖である。  そして、思い当たったのは、  (そうだ、キャサリンに頼めばいい。彼女は、あの部屋に出入りしていて、女将とも娘とも親しいそうではないか。娘は西尾と付き合っていたともいうし)  松田刑事は、キャサリンの研究室に電話した。キャサリンは、研究室で、それまで、取材した写真類の整理をしていた。すでに、写した写真は、三十六枚撮りフフィルムが二十本以上になり、ファイルも一杯になっていた。  「済みませんが、西尾の毛髪を手に入れたいのですが、キャリンさんから、頼んでもらえませんか」  松田刑事は、端的に、依頼した。  「分かりました。娘さんに頼んでみます。それで、駄目だったら、床山さんにでも当たってみましょうか」  「お願いします。お礼はまた、考えますから」  「どうも、先日は、有り難う。おいしいかったです」  そういって、電話は切られた。  キャサリンは、直ちに、研究室を出て、両国に向かった。  八潮部屋は、その日も閑散としていた。弟子たちは、朝の出稽古を終えて、午睡をむさぼっているころだった。  部屋に入って、キャサリンは、美佐子を探した。美佐子は、自室で本を読んでいた。美佐子はキャサリンを部屋に招き入れた。  「先日、西尾関の電話のことを伺いましたが、掛けてきたのは、千葉のプロレス興業会社からでした。御存知でしたか」  美佐子は、考え込んで、  「いや、そこまでは、知りません」  と気だるげに答えた。  「それで、警察は、そこの社長を逮捕して、いま、追及しています」  「そうですか、それは、知りませんでした」  「でも、社長は、犯行を認めていません」  「犯行って、西尾関は失踪したのでしょう。犯罪ではないのではないですか」  「いえそうではなくて、三吉さんの殺害事件です」  「三吉さんの。でもどうしても、その社長と関係があるのですか」  「社長の車に乗っているのを見た人がいるのです。だれか。大きな身体の人と、三吉さんらしい人が、車内で名争っているのを」  「そうです。それで、その社長が大柄の男だと」  「ところが、血液型を調べたところ、社長ではありませんでした」  キャサリンの説明に一々、頷いていた美佐子だったが、そのときは目を見開いて、質問した。  「では、だれだったのですか」  「警察は、西尾さんではないのか、と疑っています」  「証拠はあるのですか」  「そこで、美佐子さんにお願いしたいのですが。西尾関の毛髪を手に入れて戴けませんか」  「毛髪ですか」  「そうです。へやの枕などを探して戴ければ、いいのかと」  「でも、お相撲さんは、髪の毛をきちんと結っていますから、見つけるのは、難しいかも知れませんよ」  「お願いします。探してみてください」  美佐子は、キャサリンの懇願に折れ、西尾の個室に入って、髪の毛を探した。キャサリンは、個室に入るのは、遠慮した。それが、嗜みだと思われたからだ。  「ああ。ありました」  そういって、美佐子は、長い髪の毛一本を手にして、戻ってきた。キャサリンは受け取って、ハンカチに包んだ。  「西尾三と三吉さんは、仲が良かったのですか」  キャサリンは、聞いた。  「それほど、なかがいいという訳ではないでしょう。むしろ、最近は、仲が悪かったのではないかと」  「何か、ありましたか」  「ちょっと、言い争っているのを聞いたことがあります」  「どんな」  「なんでも、もう止めたほうがいい、とか、そんなことが、できるわけがない、とか言い争っていました」  「喧嘩をしていた」  「いい争いですね。最後は、西尾関が、余計なお節介だ、と言って、三吉の身体を小突いていました」  「それで、終わった」  「はい、三吉が、わかった、と言って、その場は終わったのです」  「それを、聞いていた」  「納戸のわきを通りがかりにね」  キャサリンは、この話を聞いて、思い当たる節があった。だが、それは、美佐子には言わなかった。  「念のためといっては、何ですが、床山さんは、髪を持っていませんか」  「そうね、持っている人もるでしょうけど。相手によりますね。潮の海のはあるでしょうけど」  キャサリンはそれだけ、聞いて、美佐子の部屋を出た。そして、帰りがけに。大部屋に行って、床山の三郎に会った。  キャサリンの申し出に、三郎は、自分の道具入れを探って、  「はいこれが、西尾の髪だ」  と太く束され、和紙に包まれた髪の毛を見せた。その中から、数本を取り出し、キャサリンに渡した。  「どうも、ありがとう」  三郎は、金髪の美女にそう言われて、満面に笑みを浮かべ、  「どういたしまして」  と言った。    キャサリンは、思いがけぬ、今日の成果に、うきうきしながら、両国署へ向かった。 (あそこでは、髭の刑事が、わたしを待っている。かれを感激させて、上げなくちゃね)  折からの、暖かさを増した天候も手伝って、キャサリンの心は、弾んでいた。彼女はかろやかに、スキップしながら、玄関の守衛に敬礼し、署の建物に入っていった。  「はい、ご注文の品を、お届けに参りました」  キャサリンは、おどけて、入手した髪の毛を、松田刑事に差し出した。  「おやおや、さっそく、御苦労さん。もう、手に入れましたか。これは、捜査協力で表彰の申請をしなくちゃいけないな。謹んで、お受け賜ります。さっそく、鑑識に回そう」  「よろこんで戴けて、光栄ですわ、髭の刑事さん」  「いやいや、ところで、部屋では、いい話はありましたか」  キャサリンは、美佐子に聞いた話をかいつまんで、松田刑事に伝えた。  そして、  「その、止めろというのは、八百長のことではないでしょうか」  と自らの解釈を加えた。  「そうかもしてない。西尾は、八百長をしていた。それを知って、三吉が、咎めたと言う場面だろうな」  「三吉さんは、それで、殺らされたのではないでしょうか」  「なんとも、言えないな、いずれにせよ、鑑識の結果で、判断できる」  松田刑事の説明に、キャサリンも納得して、あとは、一緒に食べた猪鍋の話などで盛り上がった。   鑑識の結果は、その二日後に出た。  それは、意外な結果だった。報告書を手にした松田刑事は、それを見て目を疑った。そこに書いてあったのは、  「第一の物証拠(新島のもの)は、車内から見つかった毛髪と一致したが、三吉が、掴んでいた髪の毛とは一致しない。第二の物証(髪の毛一本のもの)は、車内からの毛髪とも三吉が掴んでいた髪の毛とも一致しない。第三の物証(数本束ねたもの)は、車内から見つかった髪の毛に一致するものはない。しかし、三吉が、掴んでいた髪の毛と一致した」  以上が、報告書の内容だった。  (すると、やはり、西尾が三吉の最後に出会った人物ということだ)  松田刑事の心証のなかで、西尾の容疑が深まった。  だが、そこに、大きな疑問が残った。  (なぜ、第二の物証は、一致しなかったのか。同じ、西尾の毛髪のはずではないか) 不思議な事だった。鑑識に確認しても、同じ人物の髪ならば、同じ結果がでるのが、当然で、違う結果が出たということは、違う人物のものだという事を示していた。  (これは、採取したキャサリンに聞いてみるしかないだろう)  松田刑事は、キャサリンに電話した。キャサリンは、この日も研究室に籠もって、先日、松田刑事からの依頼で、中断した写真の整理を続けていた。  その作業は、ネガフィルムを、撮影した順番に、ネガファイルに入れて、焼き増しした写真と番号を一致させながら、メモの説明を書き写していく。それによって、キャサリンが、フィールド・ワークとして収拾した素材の系統的な、一覧が可能になる。主なキー・ワードには、検索できるようサイン・ペンでチェックを入れた。  そうして、時系列で、ファイルするのは、キャサリンの長い間の経験から割り出した手法だった。最近は、日本でも「超整理法」という実用書が、ベスト・セラーになったと聞いたが、彼女は、すでに以前から、同じような手法を使っていたのだった。  「おかしいですね。確かに、美佐子さんが、部屋から取ってきてくれたものですが」 松田刑事の問いに、キャサリンは、そう答えたが、彼女の心でも疑問は広がった。  (まさか、彼女が・・・・・・・。床山の三郎さんが・・・・・・・)  二人を疑ってみたが、何方も信用したかった。  [それで、第二と第三の証拠は、どう違うのですか」  キャサリンは率直な疑問を。松田刑事にぶつけてみた。  「第二の毛髪は、一本だけなので、詳しく調べられなかったらしいが、色からすると茶色がかっており、柔らかい毛質のようです。第三のは、髪質は固く、黒でした」  「男女の別は、分からないのですか」  「それは、DNA鑑定で分かるはずです。それには、あと数日必要です」  「その結果が分かったら、また、連絡してください」  電話を切って、キャサリンは考えた。  「第三の髪の毛は一致したのだから、西尾が三吉と最後に会っていたのは確実だ。犯人は、西尾にまず、間違いないだろう。すると、物証の記念写真の日付けを、どう説明すればいいのだろうか。それに、何故、美佐子が、わたしに、西尾のではない髪の毛を渡したのか」  そういう疑問に捕らわれて、キャサリンは、仕事を忘れた。ソファーに横になって、天井を眺めながら、疑問は、頭のなかを、巡って行った。    数日後、DNA鑑定の結果がでた。  問題の第二の物証は「女性のもの」との鑑定結果だった。  (茶色系統で、柔らかく、女性の物)  それが、纏めて言ったときの第二の物証の性質だった。  キャサリンは、これに当てはまる人物を考えてみた。まず、最初に考えたのは、ほかならぬ、それを持ってきた美佐子だった。  だが、美佐子の髪は、黒い長髪で、肩まで漆黒の髪の毛が靡いていた。だから、最初に排除しなければならなかった。  (すると、ほかに、女性がいたのか。女性に人気者の西尾関だけに、その可能性は大いにあるが、そうした女性を、自分の個室に入れて、しかも、枕の上で寝かせるような事態は、考えられなかった、それとも、西尾関は大胆にもそういう事をしていたのだろうか)  キャサリンの考えは、巡った。そういう事が、あったかどうかは、部屋の人でなければ分からない。  (これは、もう一度、美佐子に会うか、女将さんに会って、話を聞かないといけないな)  そう考えたが、資料の整理に忙しく、なかなか、時間が出来なかった。    松田刑事も考えていた。  (車の中で三吉を争っていたのが、西尾かどうかはわからないが、最後の手を掛けたのは西尾に違いない。しかし、行く方不明になっているのだから、この捜索に全力で当たらなければいけない。西尾を発見できれば、すべてが解明出来るだろう。だが、西尾の手掛かりは、余りにも少なすぎる、それは、何故か。電話を受けたあとの足取りが、掴めないからだ。一体かれは、何処へ行ったのか)  考えは、果てし無く巡った、だが、いずれにせよ、科学的検査の結果で、西尾が、三吉の握っていた髪の毛の持ち主と分かったのは、大きな前進だ。これで、三吉殺しの逮捕状を請求するには、十分な証拠が揃った。ただ一つの壁は、証拠の写真だったが、それは、西尾を追及すれば、解明されるだろう。  捜査本部は、松田刑事の進言に従って、逮捕状を請求した。  あとは、不明の西尾の跡を追うのが、仕事になった。  それには、失踪時の状況を、もう一つ、明確にしておく必要があった。  焦点は、部屋を出ていった夜の状況だった。松田刑事は、美佐子や親方、女将さんを参考人として、署に呼び、聴取することに決めた。    キャサリンは、写真の整理に再び、手を付けた。それには、もちろん、八潮部屋の内部の様子が写っている写真もあった。  一枚ずつ、整理していくと、稽古土俵も日によって、表情が変わることに気が付いて、キャサリンは、  (土俵にも表情がある) ト気が付いた。   なかでも、違って見えたのは、初場所十四日目に写した土俵と、それ以前に、撮った写真の差だった。  (どこが、違うのだろう)  キャサリンは、撮影した日にちを確認しながら、その二種類の写真をじっくり眺めてみた。明らかな差は、土俵の色だった。初めての写真ニ写った土俵は、黒っぽく、沈んだ色をしていた。それは、十分に水を吸った土の色だった。十四日目のものは、明るく、軽い色をしていた。何れも、土に特有の茶色と灰色の入り交じった色合いだったが、その違いは明らかだった。  (なぜ、こうも違うのだろう)   キャサリンは、念のために、ネガを見た。そして、その時、ある重大な事実に気が付いた。それは、三吉殺しで、西尾ら部屋のもののアリバイを崩すのに、有力な発見のように思われた。     寄り     キャサリンは、両国へ向かった。目的は西尾のアリバイを証明している、写真のトリックを、解明するためである。  捜査本部の部屋を覗くと、松田刑事が、必死にノートを整理していた。それは、捜査日誌というような類のもので、びっちりと書き込みがあった。松田刑事は、キャサリンヲ見つけると、ノートを閉じて、中へ招き入れた。  「先日はどうも、いろいろ忙しくて、失礼しました」  キャサリンは、髪の毛の件鑑定を教えてもらった礼を言って、松田刑事の反対側の椅子の座った。  そして、おもむろに、切りだした。  「実は、三吉さんが、殺された日のアリバイですが、記念写真の日付と時間がネックになっていましたね」  松田刑事は頷いて言った。  「そうです。チャンコ会で写した写真には、時間が入っていた。部屋の皆が鍋を囲んでいる写真は、二十枚ほどあり、それらの日付けはいずれも一月十一日の午後八時半から、十一時までのものだったよ」  松田刑事は、そう言って、机の引き出しを開け、中なら、焼き増しした写真を取り出し、机の上に広げた。  キャサリンは、その写真をネガの番号の順番に並べた。  「先ず一番から十番までの写真ですが、これは、八時半から十時までの写真でそのなかの二枚に三吉が写っている。最初はこの八時四十分の写真です、そのあとは、この九時半の写真ですね。そして、残りの八枚は、十時から十一時の印があり、それにも、三吉が写っている写真が二枚ある。十時十分のと十時五十分の部屋の若い衆と、はしゃいでいる写真です。フィルムは、二十枚撮りだから、これで、全てですね」  「うん、そうだ」  「それが、このフィルムの番号順なのです」  「そのとおり、そうして、その順番に撮影されたのだろう」  「ところが、そうではないのです」  「えっ。どう言うことかね」  「それは、今は言えませんが、いまから、ある実験をしてみたいと思います」  松田刑事は、意外な申し出に驚いたが、すぐに、  「そうか、やってみてくれたまえ」  と承諾していた。  「これから、松田さんはどちらかへ行きますか」  「いまから、八潮部屋の娘さんを署に呼んだので、事情を聞くことになっている」  「そうですか。では、その様子をこのカメラで撮影して見ます」  「いいけど、マジックミラー越しにしてくれよ、直接はまずい」  松田刑事は、キャサリンを調べ室の隣の部屋に連れていった。そして、そのあと、隣の部屋に入り、既にそこに腰かけていた美佐子に向かって、  「今日は、お忙しいところを御足労戴きました。それでは、すこし、伺います」  と質問を始めた。  「まず、貴方が協力してくれた、西尾関の毛髪ですが、あれは、本人の物ではないのではないですか」  「なぜそんなことを言うのですか」  美佐子はそういってが、目を伏せていた。  「実は、わたしのほうで、科学的な検査をしたのですが、あの髪の毛は、女性のものという鑑定結果が出たのです」  「・・・・・・・・」  「あれは、貴方の毛でしょう」  「でも、わたしは、このように黒くて、硬く長い髪をしています」  「なぜ、あれが、黒くなく、柔らかいとわかるのです」  「それは。わたしが取ってきて、あたしたのですから」  「美佐子さん、嘘を言ってはいけません。われわれを。馬鹿にしてはいけない。貴方の行きつけの美容院では、貴方は、柔らかい茶色系統の髪だ、と言っていましたよ。しかも、貴方は、それをまっ黒に染めている。そうでしょう」  美佐子は、下を、向いて、黙りこくった。  松田刑事は、追い打ちを駆けた。  「なぜそんなことをしたのです」  「・・・・・・」  「本当のことを伺いましょうか」  「・・・・・・・・・」  「黙っていては、わかりません。どうして、こんなことしたのですか」  美佐子は、なんども迫られて、意を決したのか、顔を上げ、松田刑事を見つめた話しはじめた。  「それは、西尾関を三吉殺しの犯人にしたくなかったからです」  「ということは、西尾関が、犯人だと、貴方は思っている」  美佐子は、その質問に、また沈黙した。そして、下を向いて、考えていた。静かな沈黙のあと、頬に一筋の涙が、流れた。  「そうです。間違いありません」  再び、顔を上げた、美佐子は、そうきっぱりと言った。  「わたしは、あの晩、西尾関が、三吉さん連れて部屋出ていくのを見ました。三吉さんは、いやがるのを、西尾関が無理やり、引っ張って、連れだすところでした。わたしは、あまりに、異常な姿だったので、後を付けました」  「後を付けたのか」  「そうです。二人は、部屋を出て、両国橋の方へ歩いていき、袂に停まっていた大きな車に乗りました。わたしは、家の陰に隠れて、様子を見守りました。すると、激しい口論が聞こえ、西尾関が、三吉さんの首を締めているのが見えました。三吉さんは、差最初は抵抗していましたが、その内にぐったりして、倒れました」  「それからどうした」  「西尾関は、三吉さんの身体を抱えて、橋の方に向かいました。そして、隅田川に投げ込んだのです」  「そのまま、投げ込んだ」  「そうです。新聞には、綱で吊るしたように書いてありましたが、わたしには、そうは見えませんでした」  「貴重な証言をありがとう。だが、動機がわからない。なぜ、西尾は、三吉を殺す必要があったのかね。それに、犯行時間の八時すぎには、部屋でちゃんこをしていたんだろう」  「それは西尾関の主張でしょう。わたしが言い争って出ていたのを見たのは、八時すぎだったと思います」  「すると、記念写真の時間はどうなるんだ。その時間には、写真が取られていて、三吉は、にっこり笑って写っている」  「なぜでしょう。わたしには、分かりません」  「動機はどうだね」  「これは、想像ですが、西尾関には、かなり借金があるようでした。三吉さんは、お金を貸してくれていたようです。その話がもつれたのではないでしょうか」  「そんなことで、殺すかね。もっと強い動機があったと思うが」  「それ以上は、知りません。詳しいことは、付け人の若の海たちが知っているのではとないですか」  「そうか、写真を撮ったと言ったのも、若の海だった。話を聞いてみよう」  美佐子の、聴取は終わった。美佐子は、くたびれ果てた表情で、椅子から立ち上がり部屋を出ていった。  キャサリンは、隣の部屋で、その全てを、持ってきたカメラで写した。そして、すぐに、DPE屋へ走り、即日現像を注文した。  写真が出来たのは、それから、二時間後だった、キャサリンは、出来上がりを受け取り、両国署に松田刑事を訪ねた。  「ほら、どうですか。この写真を見て」  「なんだね。美佐子が写っているが」  「そうですよ。そのネガ打たれている駒番号を見て、なにか気が付きませんか」  「一番から二十番まであるよ」  「一番の写真は」  「美佐子が部屋を出ていく場面だ」  「十番は」  「下を向いて泣いている」  「二十番は」  「椅子に座っている」  「ということは」  「時間と、番号が、逆転している」  「そのとおりです」  「どうしてなんだ」  「そういう、カメラなんです」  「そういうカメラ」  「そう。プリ・ロード・カメラといって、フィルムを入れると、最初に、全部、巻き込んでしまい。撮影するごとに、フィルムのパトローネに巻き込まれていくんです」  「何のためだね」  「最後の巻き取りをしなくてよいように、工夫したのですね。撮影が終わったら、巻き込まれたフィルムをそのまま、取り出せる」  「なるほど」  松田刑事は、納得した。  「分かりましたね。そこで、この前の証拠の写真を見てください。下に写されている時間は、駒の番号の順に並んでいますね」  「そうだ。八時半にチャンコの準備が始まり、皆が鍋を囲んでいる。そして、八時四十分に、三吉の最初の写真が撮られている。次は、三吉が一人でVサインをしている九時半の写真ですね。そして、皆が並んでいる中に三吉が写っている十時十分と五十分の写真。ですから、これらの写真は、八時四十分から十時五十分までは、三吉が、この会に参加していることを証明しようとしているわけですね」  「そうです。ところが、三吉は八時半には、殺されていた。ですから、この世に実在しているわけがない。そうですね」  「ということは、写真はトリックなのかね」  「そのとおりです。しかも、このリロード・カメラで。撮ったものです」  「でも、時間は、フィルムの番号順に進んでいるよ」  「ですから、そこを細工したのです。あたかも、普通のカメラで写したように」  「そうか、時間の表示は、手動で変えられるからな。とすると、この宴会はもっと早く開かれたのか」  「そうです。多分、七時まえから八時ころまででしょう。写真を撮った者が、時間の表示を遅らせて撮ったのです。しかも、最初の写真から、少しずつ、時間を逆上っていった。ですから、皆が並んでいる中で、三吉が写っている十時五十分のが、実際には最初に写された。そして、九時半のVサイン写真になり、最後が、八時四十分の鍋を囲んでいる写真です」  「そうか。どうしてそれが分かったのかね」  「それは、三吉さんの顔の色つやが、前の写真ほど赤みを増しているので、おかしいと思ったのです。最後の写真(即ち時間が一番早い写真)は、もう皆出来上がった、感じですからね」  「でも、何故、そんな面倒なことをしたんだろう」  「それは、時間をシフトしたかったのと、あとで起きたことを早く起きたことに置き換えたかったからでしょう」  「なんのために」  「三吉が遅くまで生きていたことを証明するためです。だから、一番最初を一番、遅い時間に設定した。本当なら、普通のカメラで、時間だけシフトしてもいいのでしょうが、そうしなかったのは、安全のためなのです。それだけ、確実に、三吉をそとに連れだし、殺害したかったのです。殺意と計画性は明確ですね」  「でも、これらの写真に西尾が写っていないのは、何故なんだ」  「それは、彼が写したからでしょう。西尾の部屋を捜索して、プリロード・カメラが出てくれば、この一件は、解決ですよ」  キャサリンの説明を、松田刑事は、納得した。  翌日、八潮部屋の西尾関の部屋を捜索した結果、キャサリンが、言ったとおりプリロードのコンパクトカメラが、発見された。松田刑事は、それを証拠物として応酬した。 そして、西尾の付け人の若の海から、事情を聞いた。  「若の海さん、貴方が見せてくれた西尾関が撮ったというチャンコ会の写真のトリックは、わかりましたよ」  「トリック。なんですか、それは」  「君も知っていたんだろう。そういう。トリックのある写真だって」  「知りません」  「まあ、白を切るのも、そうは出来まいよ。ところで、三吉殺しの動機は、何なんだね」  「まあ、西尾関が恨んでいるとしたら、金のことと、八百長のではないですか」  「金というのは」  「西尾関は、三吉さんに大分借金をしていて、利子を相当とられていたらしい。返す期限が、あの日だったんですよ。小耳に挟んだところでは、三吉さんは、返さないのなら、お前たちが釣るんでやっている、八百長をばらす、と脅していた。西尾関は、八百長の元締めでしたから、それは、かなりの衝撃ですよ。三吉さんは、西尾関の弱みをよく、知っていた。どこで手に入れたのか、親方のお嬢さんの美佐子さんと西尾関がラブ・ホテルに入る所の写真まで持っていた。いくら、ガンで治療費が掛かるからといっても、あんなにえげつなく金儲けをしているのを、みんな、苦々しく思っていましたよ」  若の海は、三吉への義憤にかられたのか、よく、喋った。  「でも、そんなことを、喋っても大丈夫なのか」 と松田刑事が訝ったほどだった。  「いいんです。わたしは、もう、相撲界から引退すると決めたんです。どっぷり、浸かっていると、人間が駄目になる。金銭感覚もおかしくなって、それこそ、薬をやりたくなりますよ」  「ところで、あんたにそうまで、思い込ませた西尾だが、どこへ行っちまったんだろうね」  「それが、不思議なんですよ。十三日目までは、部屋にいたんですから。その夜から居なくなってしまった。わたしらは、その晩は、大部屋で早く寝ましたからね。皆、十時ころには、寝てしまった。ただ、夜中に、土俵の方で、話し声がしたと言うものも居ますが、全員早く寝てしまった、何しろ、場所も終わりで、みな、疲れていましたからね。翌日、いつも六時前には、稽古土俵に入る、親方と潮の海関が、珍しく遅かったのが、変に思いましたが。それと、あの日の稽古は、大関は元気がなく、早く目に引きあげた。優勝が掛かっていたから、ゲンを担いだのかと思った。長い場所で身体も疲れているから、あまり、稽古をしないほうが休養になっていいのかと、思いました」  「そうか。参考になったよ、これで、西尾が、三吉をやったのは、確実になった。あとは、かれの行く方を探すのに全力を入れないと」  松田刑事は、そう言って、嘆息した。 松田刑事は、キャサリン・シュルツの研究室に、電話した。  「あなたのお陰で、謎解きが出来ました。有り難う」  「いえ、お役に立てて、嬉しいですわ。やはり、動機はお金でしたか。それに、八百長が絡んでいた。わたしの憧れの大相撲の世界が、こんなに汚れていたなんて、ショックウですわ。もっと、純粋で、汚れのないものだと思っていましたから。でも、やはり人間のする事ですし、そう、純粋なものばかりではないですね。生きていくためには、お金も必要だし、人間の欲望は、限りないですから。残念ですけど、無念ではありませよ」  「いやいや、そんなに言ってもらえれば、相撲取りたちも、本望でしょう。ですが、まだ、その西尾が見つかっていないのです。これだけの時間が過ぎても、出てこないのは、誰か匿っている者がいるか、あるいは、事件に巻き込まれていると考えるのが、順当です。これからは、こちらに本腰を入れて、やるつもりです」  「頑張ってください。わたしも、できるかぎり、お手伝いしますよ」  「お願いします。そこで、といっては、なんですが、ひとつ、八潮親方の家族に会って頂けないでしょうか」  「と申しますと」  「その、西尾が、行く方不明になっ夜の様子を聞いてくれませんか。わたしの方でも、いつかは事情を聞かなければならないでしょうが、世間話のような感じのほうが、本当のことを聞き出せるかもしれない」  キャサリンは、承知した。すでに親方一家とは、顔見知りになっていたし、なにより相撲を研究の対象にしている者として、何度でも部屋を訪れてみるつもりだった。 キャサリンは、聞いてこなければならないことはなにか、研究室のソファに寝そべって、天上を見ながら、考えた。 ーー まず、西尾が、あの晩に行く方不明になってから、その後、連絡がないのかどうか、確かめなければならない。そして、失踪するような原因や行き先に心当りはないのかどうか。依然、連絡がないとしたら、それはなぜなのか。なにか、その理由に心当りはないのかどうか。 そうしたことが、聞きたい内容だったが、キャサリンは、さらに、そうした表面的なことだけでなく、部屋の後継者の問題や親方家族の家庭の葛藤が、この失踪事件の裏にある本当の背景ではないのか、というような胸騒ぎと予感があった。 キャサリンは、初めて美佐子に会った時以来、美佐子には男の運命を狂わせるような女の魔性が潜んでいるというような直感もあった。 移り気で、奔放で、自分の気持ちに素直な気紛れさが、男を翻弄し、傷つける。だが、本人は、そのことを、意識しないか、意識しても、そう重大には考えない。そうした女の一人だと、キャサリンは、直感した。 (そういう女でも、こういう格式と伝統の世界で生きていけるのか) 外国人である彼女には、それが、単純に、不思議だった。 決まり手 呼び出し・三吉殺しの両国署捜査本部は、毛髪、写真などの物証、関係者の事情聴取による証言などの書証を揃えて、西尾を被疑者行く方不明のまま、検察庁に送った。しかし、松田刑事ら、本部員の多くは、そのまま、西尾失踪事件の捜査に投入された。それは、犯人の捜索するという目的以外にも、西尾もまた、殺害されているという可能性が残ったていたからだ。もちろん、全国に氏名手配もしたが、これだけ、世間に顔が知られていて、しかも、大柄な身体の男の消息が、全くないということは、事件の陰を伺わせて十分だった。  (こうまで、徹底して、探しても、心当たりの場所にもいないし、どこかに、埋められてしまったのかもしれない)  そういう考えが捜査員の大半に浮かんでいた。  とにかく、西尾は、現れないのだ。どこかに、潜んでいるとしても、そうは長くは続くはずもないのに、ようとして、影が現れなかった。  そういうときは、とにかく、地道に足取りを追うしかない。西尾が居なくなった夜の足取りは、美佐子の、 「電話を受けて部屋を出ていった」 という証言以外にない。  新世界興業の新島社長は、  「確かに電話をしたが、誘っても西尾は来なかった」  と言っている。  その晩、西尾は、どこへ行ったのか。それが、解明されなければならない謎だった。  捜査は、足取り捜査で、壁に突き当たっていたが、地道に足取りを追っていた捜査員が、聞き込み先で、有力な証言を得たのは、本格的に捜査を始めてから、一週間後だった。  両国の相撲の守護寺の総名院に聞き込みにいった捜査員は、  「初場所の十三日目の夜、境内で二人の相撲取りが、稽古をしていた」  という目撃証言を得たのだった。  それは、寺の管理人の女房で、四十五歳を過ぎてから、強度の不眠症に悩まされ、その夜もうつらうつらしている内に、激しく何かがぶつかり合うような音を聞き、外へでてみて、二人の相撲取りが、夜間の野外稽古をしているのを見たのだった。  その証言は、  ーー 一月十三日の夜でしたが、わたしは、何時ものように、夜寝つかれず、うとうとしていると、境内の相撲場の方で、激しいぶつかり愛の音が、聞こえてきたのです。「変なこともあるものだと、わたしは、寝床を出て、家を出て、相撲場の方に行きました。夜も曇っていたので、よくは見えませんでしたが、相撲場の脇の柱の影に隠れて、見ていると、大きな身体をした二人の男が、ぶつかり稽古をしていました。ぶつかっていって稽古を付けてもらっている方が、長身でやせ型、稽古を付けている方は、太ったちゃんこ型の力士でした。わたしは、そこで、十分くらい、稽古の様子を見ていましたが、「夜まで稽古をするなんて、稽古熱心なお相撲さんだ」くらいに考えて、引き上げました。そのあとも、よくは眠れなかったのですが、寒い夜中に出ていって、疲れたこともあって、そのうちに眠ってしまったのです。ですから、どのくらい二人が、稽古を続けてたのかは、知りません。ただ、翌朝、夫が、その相撲場を見てみたところ、柱の新しい傷があり、土俵上に新しい砂が入っていたようだということでしたーー。  その証言は、調書に書き留められた。    キャサリン・シュルは、松田刑事の要請に従って、八潮部屋に出向いて、まず、美佐子に会った。  美佐子は、この日も、部屋で留守番をしていた。これも、何時ものように、綺麗に長い髪をセットし、家事などしないように、ブランドもののティーシャツとミニ・スカートを履いていた。耳には、やはり、ブランド物のイヤリング、唇には濃いめの口紅を塗っていた。  「先日は、失礼しました」  キャサリンの挨拶に、美佐子は、  「ああ。今日は、何の楊枝ですか」  と素っ気なく答えた。  「実は、行く方不明の西尾さんですけど、まだ、手掛かりはないんですか。なんの連絡もないのですか」  そう聞いたときは、さすがに、美佐子の表情が曇った。  「なにも、ないんです。どうしたのかしらね」  その声には、逃げた男を詰るような響きがあった。  「そこで、聞きたいのですが、貴方は、西尾関と、本当に一緒になる積もりだったのですか」  「もちろんです。それは、両親も認めていましたし、公然とした交際をしていたのですよ」  「でも、その前は、潮の海関との話が進んでいたのでしょう」  「はい、それは、両親たちがそうさせようとしていたのです」  「でも、よく、親方たちは、折れましたね」  「それは、わたしの気持ちを、考えてくれたんです。おまえが、どうしてもと言うのならしようがないって」  キャサリンは、あっけらかんとした美佐子の言い分が、素直に納得が行かなかった。 (それは、好きでもない人と一緒になることほど、辛いことはないかもしれない。でも、それは、美佐子さん側の気持ちだわ。それまで、すっかり、一緒になると思わされていた潮の海の気持ちは、そう道なのかしら。それを、この人は考えないのかしら)  そう考えて、見たが、あえて、その事は、聞かなかった、そんなことを質問しても、美佐子は、  「分からないよ」  としか言わないに決まっている。そういう話は、本人に聞かないといけない。  キャサリンは、潮の海に気持ちを聞こうと思った。  「大関は、いますか」  「部屋に居ると思いますよ」  美佐子に言われて、キャサリンは、三階の個室に上がっていた。  潮の海は、部屋でヘッド・ホンをして、音楽を聞きながら、本を読んでいた。潮の海は、角界きっての読書家で知られていた。ベスト・セラーになった本はほとんど読んでいるという評判だった。たしかに、部屋の壁には大きな書棚がしつらえてあり。ぎっしりと本が並べられていた。  「こんいちは、読書中にすいません」  キャサリンの挨拶に、潮の海は、横になっていたのを起き上がり、  「いえいえ、どうぞ」  と部屋に招き入れた。  「随分、本を読むんですね」  「ええ。趣味ですよ。ぼくは、ほかに楽しみがないんです。音楽を聞くのと読書しか楽しみがない。不器用なんです」  それは、相撲の取り口にも現れていた。かれの相撲は、決まって、低い姿勢からの寄りで、決まり手も、圧倒的に寄り切りや押し出しという変わり生えのしないものが多かった。  「西尾さんが不明になって、心配でしょう」  「そうですね、部屋から明かりが消えたようになってしまった。やつは、派手で明るかったから。僕では、彼のように、賑やかにもり立てる事が出来ない」  「そういう意味ではないですよ。お相撲さんは、土俵が一番。良い成績を残せばいいのです。人気が先行では、本人も辛いですよね」  「いや、やはり、人気も大切ですよ。西尾には、華がある、だから、それを大切にしないといけないし、ほら、その証拠に、いなくなってしまったら、部屋も火が消えたようになってしまった」  「そこで、すこし、聞きたいのですが、行く方不明になった日に、大関はどうしていたんですか」  「ああ、アリバイですネ。あの晩は、谷町との宴会のあと、十時半過ぎは、部屋に帰ってきて、テレビを見て、十二時すぎに寝てしまいました」  「では、西尾関には会わなかった」  「ええ。会っていませんね」  「心当たりは、ありますか」  「なにせ、彼は付き合いが広いから。そう言えば、殺された三吉とも親しく付き合っていたようだし、プロレスの関係者ともよく飲んでいた。引退後はプロレスに行きたい、なんて言っていたこともある。そういう方面なんか、調べてみたのかな」  「それは、警察が、全て、調べたようですよ。でも、居なかった」  「すると、皆目、見当が付かない」  キャサリンは、完全に心当たりを否定され、それ以上を聞けなかった。ただし、聞いておかなければならないことが、一つ残っていた。  「これは、すこし、立ち入ったことかもしれませんが、ほら、美佐子さんの結婚話ですけれど、最初は関取がお相手だったんでしょう、それが、途中から、西尾関に変わった。それは、どう、思っていますか」  「なんとも、思っていませんよ。結婚は、本人同士の合意によるって、憲法にも書いてあるでしょう。ですから、なんとも思っていません」  そう言ったとき、それまでの、落ちついた声が、すこし、かすれたように聞こえたのを、キャサリンの鋭敏な耳と比較人類学の研究者としての観察力は見逃さなかった。  キャサリンが、部屋を辞して、帰りがけた時、松田刑事が、やって来るのが見えた。  それを見つけたキャサリンは、  「あれどうしたのですか」  と問いかけた。  「いやあ、重大な証言が得られたんだ。それで、潮の海の話を聞きにきた」  「いま、会ってきたところですよ」  「奴さん、居るのか、良かった。では、いこう」  「行こうといったって、いま、行ってきたばかりです」  「これは、重要な、案件なのだ。君も付き合ったほうが、良いのではないかの、と思うよ」  そういわれて、キャサリンは、踵を返して、松田刑事の後を追った。  松田刑事は、美佐子に挨拶をして、潮の海に面会を申し込んだ。美佐子は、この時の、そっけなく、  「三階の部屋にいますよ」  と言って、階段の方を顎で指した。  松田刑事は、部屋に入って、早速、尋問した。  「実は、西尾が、不明になった夜、総名院で、力士二人が稽古しているのを見たという人が居る。その風態が、君と西尾にそっくりなんだ。そういう覚えはないかね」  突然の質問に、潮の海は、体勢を整える余裕がなかったのか、それとも、生来の生真面目さが、咄嗟のときに出たのか、  「はい、わたしです」 と返答していた。  「そうか、こんなに簡単に、言ってくれるとは思わなかったよ」  「はい」  「どう言うことか、説明してくれないか」  潮の海は、その夜の出来事を、語った。  ーー その晩、谷町の会合から帰ったわたしは、部屋で寝ようとしていたところへ、西尾から電話があったのです。それは、総名院で、稽古を付けてくれ、という内容でした。西尾は、あの時、負け越しの危機にあり、必死でしたから、十四日目はどうしても負けられないと思ったのでしょう。わたしは、夜も遅いし、そんなことをした例がないから、と断ったのですが、西尾は、必死で、頼むのです。わたしは、日頃は稽古が嫌いな西尾もやる気を起こしたのかと感激し、頼みを聞いてやることにして、一人で、総名院に向かいました。西尾は、土俵で四股を踏んでいました。すでに、汗が吹き出ていて、稽古をするのに十分な準備運動は終わっていました。わたしは、それから、準備運動をして、まず、申し会い形式の稽古を始めました、本当の一番のように、相撲を取る稽古です。でも、稽古の時は全力を入れるわけでは有りません。適度に、加減をして、取り組みをするのですが、この晩の西尾は、全力で当たってきたのです。わたしはおかしいとは思いましたが、晩付けも経験も上で、わたしのほうが兄弟子ですから、負けてはいけにと、気を締めなおし、わたしも全力で、稽古に応じました。十番ほど、力一杯相撲を取って、少し休みました。そのとき、わたしは聞いたのです。「なぜ、こんな稽古をしたくなったのか」と。すると、西尾は「今場所で、おれは相撲を辞めることにしたんだ。それには、負け越しでなく勝ち越して、男の花道をつくりたい。だから、是非とも明日は勝ちたい。いま、絶好調の兄弟子に稽古を付けてもらい、必ず勝てるという自信を得たい。だから、頼んだんだ」と言いました。わたしは、当然、「なぜ、辞めるんだ」と聞きました。西尾は「それは、酷い事をしてしまった。三吉を殺してしまった。本当に、どうかしていたんだ。美佐子さんとの仲が親方に許されて、すっかり舞い上がってしまっていた。何でも出来るような大きな気持ちになっていたところが、三吉と釣るんでやっていた相撲の賭けと八百長がばれたら、結婚もなくなるし、力士生命も終いだという恐怖感が襲ってきた。それに、三吉は、借金を返さないと、そういうことをばらすと脅してきた。それで、ついかっとなって、やってしまったんだ。これは、いずれ、ばれる、でも、この場所だけは、しっかり勤めて、身を引きたい、だから稽古するんだ」西尾の表情は必死でした。  わたしは、告白されて、  (西尾は、苦しんでいる、楽になりたいのだ)  と直感しました。人を一人殺めたのでは、大相撲界には居られません。部屋にも親方にも迷惑が掛かる。大スキャンダルになるだろう。わたしは、この対策には、時間が必要だ、と思いました。それまでに、前後策を考える時間が欲しい。親方とも十分相談しないといけない。西尾を殺人犯人として、警察に突き出すのか。それが、一番いい方法かも知れないが、それでは、相撲界の厳しいしきたりや掟が用を成さなかったことになる。わたしは、こういう問題は、やはり、自ら責任を取るのが、一番いいのではないかと、西尾に進言しました。  すると、西尾は、「わたしが、死んでしまえば、一番いいのだ」と言いだしました。そして、わたしに、「死ぬくらい厳しく、稽古を付けてくれ」と必死に頼んだのです。わたしも、その心に打たれて、休憩の後、激しいぶつかり稽古をしました。それは、約一時間も続きました。二人ともへとへとになり、立っていられないほどになったとき、西尾は、突然、持っていたバッグから、薬瓶を取りだし、一気に飲み下したのです。それから、すぐに、どっと倒れて、動かなくなりました。わたしは、人口呼吸をして、助けようとしました。しかしそのうち、脈がなくなり、心臓に耳を当てましたが、鼓動が聞こえなくなりました。  わたしは、部屋に電話して、親方に、事情を伝えました。親方は、すぐに、駆けつけてきて、起きた事態を理解しました。  そして、二人で、この事態をどう切り抜けるか、話し合いました。  「こんなことが、明るみにでたら、それこそ、大相撲が崩壊するぞ」  親方は、危機感を持ってそう言いました。  そして、明け方まで話し合った結果が、西尾を失踪させよう、という結論になったのです」  潮の海はそこまで、一気に話して、深く溜め息を付いた。  そして、  「ちょっと、すみません」  と部屋を出ていった。尿意を催したのか、トイレに駆け込んだのだった。  松田刑事は、キャサリンに向かって、  「真相が、明らかにされる時は、こうして、いつも、淡々としている」  と言った。  「でも、潮の海関の話は、未だ、途中ですよ。先を聞かなくては」  キャサリンの興味は、それから、西尾の失踪がどう仕組まれたのかと、もうすでに先に行っていた。  いままでの、部屋に張り詰めていた緊張感が、すこしほどけて、松田刑事は、たばこに火を付けた。  その火が、たばこの長さの半分ほどに、至ろうとしていたときに、潮の海が、出ていった方角から、  「どたーん」 という大きな物音が聞こえた。まるで、立てかけられていた材木が一気に倒れたような物音だった。  二人は、物音のしたほうに息せききって駆けつけた。  階段の下に、潮の海の大きな体が、倒れていて、天を仰いで、気を失っていた。  キャサリンは、階段を駆け降りて、潮の海のそばに行き、体を揺すって、   「大丈夫。しっかりして」  と声を掛けた。しかし、反応はなかった。 美佐子も台所から出てきて、その様子を見ていたが、すぐに、事態を察知して、電話に飛び付き、「119番」を回した。   救急車は、十五分ほどして、やってきた。潮の海の容体を検診した救急隊員は、   「頭をひどく打ったらしい。万が一の場合もあるから、脳外科がある病院ンに搬送します」  と言って、潮の海を救急車に乗せた。   美佐子が、気を効かせて、タクシーを呼び、救急車の後を追走した。  それらの手順は、実に手際良く運び、弟子達が大勢、手伝ったこともあって、潮の海の巨体は、一路、救急病院に向かい、当直医の診察を受けることが出来た。  キャサリンと松田刑事は、事情聴取中の突然の出来事に、驚愕したが、部屋の人達の手際の良いさばきに、何もすることがなかった。  「これで、また、真相は未解明のままになってしまったわね」  キャサリンは、松田刑事に同情したが、松田刑事は、  「いや、彼の証言で、八潮親方が、絡んでいることが、解ったから、大丈夫さ。親方に話を聞けばいい」 と、泰然としていた。  その親方は、夫婦で外出していて、部屋に帰ってきたのは、夜の八時過ぎだった。携帯電話を持たないプライベートな外出だったから、帰宅後、事件を知らされた親方は、その後、病院へ向かった。  潮の海は、救急治療を受けた結果、失っていた意識も回復し、脳には異常がないことが確認された。ただ、右腕と肩を強打して、骨にひびが入っているのがわかった。診断結果は「骨折により、全治一ヶ月半の治療を必要とする」ということだった。   軍 配  翌日、松田刑事とキャサリンは、両国駅前の喫茶店で、待ち合わせた。前日に、「明日、親方に話を聞こう」と打ち合わせていたから、これは、予定の行動だった。  「大体、事件の真相が、見えて来たわね」  キャアリンの気持ちは、晴々としていた。  来日以来、すっかり、相撲の世界に浸かってしまい、他の仕事は手に付かなかい状態っだったが、それなりに、楽しかった。相撲を楽しむだけでなく、予想もしない事件に巻き込まれ、探偵もどきの仕事も出来たのだから、興奮の毎日だった。  「大体ね。でも、まだ、一番、肝心なことが、残されている」  熱いコーヒーを啜りながら、松田刑事が、警告した。  「そうね、西尾の遺体が・・・・・。もう、死んでいろことは、ハッキリしたのだから、それでいいと思うけど・・・・・・。遺体が、見つかっていない」  「それは、今日、親方に聞けば、分かるだろう。全て、話してくれるさ。ああいう、真面目な性格の人だから」  「そう、期待しましょう。一体、何処に、行ったのだろう」  「これは、わたしの推理だが、あの晩、休止した西尾の死体を、始末するとしたら、そう遠くへは運べないと思うよ。どうせ、この近くにあるさ」  「でも、車を使えば、どこでも、運べるでしょう」  「そうだが、そうは、しないと思う。彼らのメンタリティーからして、どこかに、丁重に葬っているはずだ」  「それが、何処かが、問題だ。そこが、分かって、遺体が見つかれば、全て解決ね」 「そういうこと。しっかり。頑張ろうな」  キャサリンは、すっかり、この出世と縁がない髭の刑事が、気に入っていた。いつも冷静、沈着で、動揺することのない、それでいて、時折、笑ったときの笑顔が子供のように可愛い、この刑事を、キャサリンは、  (コロンボを少し、こぎれいにした) という意味で、彼女はノートに、「ひげ小ロンボ」とあだ名を記して記録していた。  「さて、いこうか」  松田刑事は、立ち上がった。  キャサリンじゃ、そのあとに続いて、道路の出たときは、恋人のように、右手を彼の腕に指しいれていた、それは、小柄の刑事と、背の高い金髪女性との、奇妙な取り合わせだった。  八潮部屋で、親方は、自室で、スポーツ新聞を読んでいた、それには、前日の潮の海の骨折事件が大きく、掲載されていた。  「今日は、昨日は、大変なことになりましたね」  美佐子に案内されて、入った親方の個室兼応接室で、キャサリンが、話しかけた。  「いや、驚きました。医者は、全治一カ月半と言ってますが、春場所は休場しないと行けないでしょうね。もう一か月後ですに、稽古も出来ないのだから」  「昨日も、お伺いして、潮の海関に、西尾関の意外な事実を伺いました。あの夜に猛烈な稽古をしていて、突然、自ら薬を飲んで、亡くなったことを、でも、そのあと、死んだ西尾関をどうしたかを聞く前に、あんな事になってしまって」  親方は、それを聞いて、考え込んだ、そして、しばらく、沈黙したあと、  「潮の海は、西尾が薬を飲んで、亡くなったと言ったのですか」 と聞いた。  「そうです、悩みを打ち明けたあと、薬を飲んだと」  「そうですかね。わたしには、そうは、思えませんが」  「では、親方はどう見たのか。その日のことを詳しく話してもらえませんか」  松田刑事の促しに、八潮親方は、意を決したように、話しはじめた。  ーー あの晩、わたしは、昔の相撲取り仲間のOB会に出て、十二時ころに、帰宅しました。そのあと、雑事を片づけて、寝たのですが。夜中に・・・午前四時ころですかねいつも、寝床に置いておく、携帯電話が鳴ったのです。電話は、潮の海からで、西尾が急死したので、総名院まで来てほしい、というものでした。そんな夜中になにをしているのか、と思いましたが、あまりに息せききって、非常に興奮したこ話振りだったのでとにかく、行ってみようと、総名院に向かいました。すると、あそこの相撲場で、潮の海がうずくまって、倒れた西尾の身体を必死で揺すって、起こそうとしているところでした。わたしは、潮の海に詳しい事情を聞き、倒れて動かない西尾の様子も見ました。すると、額が割れてそこから、激しく出血し、意識を失っていることが分かりました。心臓はまだ動いていたと思います。わたしは、潮の海に西尾の告白を聞き、以前から抱いていた疑惑が、すっかり、解消されたと思いました、やはり、三吉を殺したのは、西尾だったんだ。しかも、頻繁に小耳に挟んでいた賭と八百長の元締めをしていた。こんな男に、可愛い娘をくれてやることにしてしまった。なんという愚かな親なのだろう。わたしは、自分の軽率な判断と優柔不断な決定を悔やみました。深い自責の念と後悔の中で、わたしは、このまま、西尾が死んでしまえば、全て解決するのではないか、と考えたのです。わたしは、倒れてい西尾の息の根を止めようと思いました。すっかり、動転している潮の海には、「あとは任せろ。お前は、気付けの水を探してこい」と命じてその場を去らせ、わたしは西尾の首を持ち上げて、右腕で締め上げました。西尾は、意識を失っていましたから、そんなことは簡単に出来ました。十分もすると、ぐったりし呼吸も止まり、心臓も停止しそうになりました。そして、そのまま、土俵におろし、水をもって帰ってきた潮の海に「だめだ、死んだよ」と告げたのです。  潮の海はすっかり、動転し「大変なことをしてしまった。どうしよう」をわたしに縋ってきました。わたしには、ある考えがありました。  それは、  (土俵に命を掛けた相撲取りは、土俵に返してやろう) という気持ちですーー。  松田刑事が、そこで、口を挟んで聞いた。  「土俵に返してやろう、というのは・・・・・・」  「そのままの意味ですよ」  親方は話を続けた。  ーー わたしは、潮の海と二人で、遺体を担いで、部屋に帰りました。そして、部屋の稽古土俵を彫り下げて、男が二人入るくらいの穴を掘りましたーー。  「すると、この部屋の土俵の下に、埋めたのですか」  キャサリンは、驚きの声を上げた。予想もできない、遺体の隠しかたではないか。  「そうです。一階の土俵の下に埋まっています」  親方は、そこまで、話しおえて、深く嘆息し、椅子の凭れて、目を閉じた。  (想像も出来ない隠匿方法だ)  キャサリンの驚きは、収まらなかったが、ある気になっていたことが、これで、氷解したと分かって、納得した。  それは、最初にこの部屋に来たときに撮影した土俵の写真と、西尾関が失踪したと聞いて、この部屋に来たときに撮影した写真とでは、微妙に色合いが違っていたことだった。しっとりと写っていた土俵が、なにかかさかさして、乾燥しているように感じた。そのとき、気になって、稽古土俵の砂を持ちかえっていたことも、思い出した。  (そうだ、あの砂を、総名院の土俵の砂と比べれば、良かったんだ)  そう気が付いても、そのときは、とても、思いつかない。いまとなっては、警察が行うであろう遺体の発掘が、全てを解きあかしてくれる。キャサリンはそう納得して、持ちかえった砂は、思い出の中に閉まっておこうと決心した。   松田刑事の報告を受けた両国署長は、直ちに、八潮部屋の土俵の発掘調査を実施することを決めた。  鑑識課員らを含め、三十人ほどの署員が動員され、スコップやつるはしを手にした署員らが、土俵を掘り返した。  すると、土俵の中央部を約三十センチほど、掘り下げたところで、化粧回しが見つかった。化粧回しを取り外すと、その下に、屈曲した姿勢で、西尾の遺骸が、埋まっていた。両手と両足を折り曲げて、身体を抱え込んだ、姿勢だった。顔は、出血の跡が綺麗に拭き取られ、美男子の面影を止めていた。  遺体は、発掘されたあと、司法解剖に送られた。  所見は、その日のうちにもたらされた。  それは、  「死因は、頭部の強い打撲による脳内出血。薬物の反応はなし。首に締めた跡が認められるが、死因とは相関関係はない。他に外傷は認められない」 となっていた。  その所見を得て、今度は、入院中の潮の海を病院に訪ねて、調書が取られた。  「潮の海さん、先日伺った話では、西尾関は、稽古の合間に持っていた薬を煽って、倒れたと言うことですが、解剖では、薬物は認められませんでしたよ」  松田刑事は、そう言って、潮の海に記憶の読み直しを迫った。  「そうですか。では、あの薬はなんなんだろう。確かに、薬を飲んだんです」  潮の海は言い張った。  「それと、西尾関が倒れたあと、心臓に耳を当てたら、心音が聞こえなかった。と言っていましたが、親方は、まだ、心臓は動いていたと言っている」  「気が動転していましたから、よく分かりません。わたしは、心音は聞こえませんでした」  「死因は、強度の頭部の打撲による脳内出血ということになっています。深夜の稽古では、どこかに頭をぶつけたりしたことはありませんか」  潮の海は、沈黙して、考え込んだ。  「ただ、無我夢中の真剣勝負の稽古でしたから、相当激しかったことは確かです。だが、頭部を強打したようなことは、無かったと思います」  「じゃあ、どうして、脳内出血をしたんだね」  「わかりません」  これでは、犯罪にはならない。松田刑事の見かたは、これでは事件として、立件するのは、困難だろうという判断に近付いていった。  しかし、まだ、当たってみなければならないことがある。  親方が「首を締めた」と自白したことだが、これは、既に死んでいたところを締めたのだから、最大限、事件としても、「死体損壊罪」に該当するくらいだろう。だが、そのときは、親方は「西尾は生きている」という認識があったのだから、意思の上では、これは殺人罪に当たる。結果的に、死体を締めていたことになり、事件の客体として人間ではないのだから、殺人は立件できないということなのだ。  (では、なぜ、西尾は脳内出血などしたのか)  それは、最後まで残った、この一連の事件の謎だった。    両国署に帰ってきた松田刑事は、そのことを、署で待っていたキャサリンに告げた。 キャサリンは、当日の西尾の行動を、記憶に辿ってみた。彼女は手帳には、それまでに聞いて得た情報が、日付け順に記録してあった。  西尾の失踪前日の行動は、一ページでは、入りきらず、二ページに渡っていたが、その七時半の欄に「美佐子とホテルへ」という記述が気になった。  「あの日、西尾関は、美佐子さんとホテルへ行っていますよ」  松田刑事は、驚いて、手帳を覗き込みながら、呟いた。  「それは。初耳だな。なぜ、そんなことを、貴方は知っているの」  「それは、美佐子さん本人が言ったのです」  「よし、それだ、その時に、何があったか。くわしく聞いて来よう」  二人は、連れ立って、署を出た。  外は、まだ、冬の寒さが居すわっていて、松田刑事は、厚いバーバリーのコートを着ていた。キャサリンは、昔、流行ったスポルディングのダウンジャケットを、飽きもせずに着ていた。その長い袖から、右腕を出したキャサリンは、コートのポケットに両手を指しいれていた松田刑事の左腕に絡ませて、肩を寄せて歩いていった。  美佐子は、潮の海の病院から帰ったところで、まだ外出着を着替えていなかった。それは、シャネルのツーピースで、長髪の彼女に、ピタリを決まっていた。  「先日、美佐子さんは、西尾関の失踪の前日に、ホテルに行って、負け越しそうな関取を励ましたって、言ってましたけど、そのとおりですね」  美佐子は、いまごろ、なぜ、あの日の事を聞かれるのだと、訝ったが、  「そうですよ。その通りです」 と認めた。  「それは、貴方から誘ったのよね」  キャサリンは、こともなげに、確認した。  「そうです。女から誘ってはいけないの」  「そんな事ではありません。それが、初めてですか」  「そういうことは、プライヴェートなことですから、言いたくありません」  「では、違うことを聞きますけど。そのとき、西尾関に変わったところはなかったですか」  美佐子はそういわれて、考えた。  「特に無かったと思いますよ」  「例えば、酷く、頭を打つとか。転ぶとか」  「ああ、そう言えば。終わったあと、頭が痛いって、手で抱え込んでいた。でも、それは、負け越しが迫っていて、悩んでいるのかと思ったのです」  「酒を飲んだ様なことは、無かった」  「それは、飲んでいましたよ。ホテルニ行く前に、もう酔っていたし、ホテルに入ってからも、ビールで乾杯した」  「すると、相当、酔っていた」  「でも、お相撲さんは、強いから、少しぐらい、飲んでも、変わらないですよ」  キャサリンは、踏み込んで聞いた。  「二人は、二回も愛しあったのでしたね」  「そうです。あの日は、何故か、凄く、燃えました」  美佐子は、そういって、顔を赤らめた。それは、その日の愛情の交換の想像以上の激しさを物語っていた。  (こんなにさばけた女性なのに、やはり、こういう話には、恥じらいがある)  キャサリンは、そこに、日本文化の深層に漂う、感情の根を見たような気がした。  「それで、関取は疲れたような感じはなかった」  松田刑事が聞いた。  「そうは、見えなかったけど、負け越しも目前で、かなり精神的には参っていたようでした、だから、わたしが誘ったのです、そのほかにも、いろいろ、心労が重なっていて」  (美佐子は、西尾の「裏の顔」を知らないのだろうか。知らないとしても、わざわざ教えて上げる必要はない)  キャサリンは、それを確認して、松田刑事と目配せした。  「分かりました。どうも、ありがとう」  そういって、二人は、辞した。    帰り道、キャサリンが、話しかけた。  「これで、全て、解決ということね。西尾関は、疲れていた。そして、美佐子さんと愛し合って、興奮し、血管が切れかかった。そのまま、いつもはしたことのない深夜の稽古をした。これで、完全に血管が破裂して、死んだ。そういうことでしょう」  松田刑事に、確認の気持ちを伝えた。  「そうかもしれない。そうでないかもしれない。でもそういうことにしておこうということだろう」  まるで、禅問答だった。キャサリンは聞いた。  「でも、なぜ、そんなに曖昧にしておくのですか。これは、事件か事件でないかの、大きな違いになるでしょう」  「でも、いいんだよ。西尾が、殺されたという証拠は何もないのだ。解剖所見さえ、殺害とは言っていない。ただ、強く頭を打ちつけたことが死因となった。それだけだ。必死の稽古だったというから、頭を強く打つ事もあったろう。それでいいんだよ」  「でも納得できないわ。これが、アメリカなら、徹底的に、どこでどう打ったのかを調べるわよ」  「日本ではそうしない」  「何故なの」  松田刑事は、少し、間を置いて、答えた。  「それは、大相撲が、日本の国技だからです。わたしも、相撲が好きで、両国署にいる」  「・・・・・・・・・・・・」  「これ以上。傷つけることはできない」  キャサリンには、理解できない理屈だった。首を傾げているキャサリンを見て、松田刑事は言った。  「君の国のベースボーールの人気選手やバスケット・ボールのスター・プレーヤーが事件の疑惑に巻き込まれたときと同じだ。殺人事件を起訴しても、陪審は無罪にしてしまう。日本には陪審制度はないから、検察が起訴、不起訴の判断をする。それに、この事件は殺人事件として立件するには、証拠がなさ過ぎる、ただ、死体遺棄事件では出来るが、ああやって、相撲取りの働き場所である土俵に葬っているのだ。感情的にもわれわれが、踏み込む余地はないよ。かれらは、かれらで、きちんと始末を付けるだろう」 キャサリンは、ますます、分からなくなった。    翌日の新聞は、簡潔に西尾の死を伝えていた。  ーー 失踪していた大相撲の西尾は、故郷実家で死亡していたことが、確認された。西尾は、初場所途中の十四日目から休場し、行く方が分からなくなっていたため、関係者が捜索していたが、結局、実家に帰っていたこと。これまで、真相を明らかにしなかったのは、「西尾は精神的にまいっており、相撲を辞めたがっていたので、そっとしておいてやりたかった。みなさんには、申し訳ないことをした」と家族は語っている。葬儀は、既に終わり、埋葬も終わったというーー。    キャサリンは、この記事をファイルした。そして,これまでに集めたメモ類も一緒にして、袋に詰め、「三吉殺害と西尾変死事件」と表題を書いた。  (日本の社会は、このように、複雑であり、表と裏がある。社会の至るところに二重の基準があり、それらの一方が、交互に、顔を覗かせたり、隠れたりする。その一端が、この事件にかいま見られた)  キャサリンは、いつか、纏めるであろう、日本研究論文の文章の一部をそうしようと思って、タイプに打ち、これもファイルした。  外は、春の気配がしはじめていた。桜の季節ももうすぐだ。  (春になれば、桜の下で、また新しい事が起きるかも知れない)  キャサリンは、まだ、長い、異国での生活の未来に、心のときめきを覚えて、身を震わせた。                        (終わり)