「クローン」ー失踪した少女ーー       (序)  河原一面に敷きつめられているムラサキツユクサのお花畑の中に、その少女は、身をかがめて潜んでいた。  私は、彼女を、追って、その日の夕方中、この付近を走り回った。  もう、午後の日が落ちて、夕暮れが迫ろうという時間に、少女を見つけたのは、斜めに射し込み始めた日の光のお陰である。  お花畑を、横から、順に、サーチしていった私の望遠レンズ付き一眼レフが、すくっと立った花々の一部が、僅かに動くのを見つけたのだ。  ざわざわと、音はしないが、景色が動いて、その場所に、何者かがいるのが、明らかだった。  私は、そちらの方に、走っていった。そして、その場所で、少女が、横たわっているのを見つけた。  少女は、私を見ると、急に、  「わーっ」  大きな泣き声を上げて、私に、抱きついた。  私は、少女の突進を受けとめ、その小さな肩を抱いて、  「もう、大丈夫だ。安心しなさい」 と小声でいった。  少女はそれでも、泣き止まず、すすり上げ続けていた。  私は、泣き止まぬ少女を、両腕に抱えて、暗くなりはじめた河原を、土手のほう歩いていき、停めてあった、車に、収容した。  車に積んである、缶ジュースを開けて、少女に渡した。  喉が、乾いていたのだろう、少女は、嬉しそうに、缶を受け取り、すこしずつ、口に流し込んで、泣き止んだ。  私は、少女が、後部座席で、落ちつくのを見計らって、車をスタートさせた。  それが、二人きりの旅の始まりだった。         (一)  「おい、葉子はどこに行ったのだ。姿が見えないぞ」  山根義雄が、その日、仕事から帰宅して、最初に妻の麗子に聞いたのは、その一言だった。  義雄が、二人の一粒種、娘の葉子の様子が変だと気が付いたのは、つい、一週間ほど前だった。  義雄と麗子が、埼玉県浦和市の西の郊外の新興住宅地に越してきたのは、七歳になってその春から小学校に入学する予定の葉子が、持病の喘息に悩まれ、  「出来るだけ空気の良いところに」 という医師の勧めで、東京の下町、町屋のアパートを出て、思い切って、転居を決めたためである。  それほどに、山根夫妻は、娘を大切に育ててきた。それは、葉子の出生にも関連している。  義雄が二十八、麗子が二十三歳の時に、二人は結婚したが、すぐにでも子供が欲しかったのに、二年間も、麗子に妊娠の兆候はなかった。そのため、夫婦で話し合った二人は、いろいろとその医師に相談した。二人とも原因を探るために数々の検査も受けた。  だが、結果は、「二人とも異状はない」 と言うものだった。  「では、なぜ、子供が出来ないのか」  悩んだ二人は、より精密な検査をしてもらうために、掛かりつけの町の医師から紹介状を貰い、産婦人科の専門医師がいる大病院を訪れた。  その病院は、先端医療で有名で、人工受精や体外受精などの技術にも、我が国屈指の実績を誇っていた。  「あそこに、行けば、最新鋭の機械も揃っているし、本当の原因が分かるでしょう。そうすれば、対処の道も見つかる」  主治医にそう言われて、二人は、七年前の春に、浦和市中心部にあるその総合病院の産婦人科を訪れたのだった。  検査の結果は、診療日から一週間後に出た。再び病院を訪れた二人に、担当の若い医師は、  「奥さんの方は、卵管狭窄症です。卵子が少ない上に、子宮に降りる管が細いために卵が降りてこない。そして、旦那さんにも原因がある。精子の数が少ないのです。平均の半分しかない。この両方の原因があるから、妊娠はとても難しいのです」 と診察結果を伝えた。  二人は、途方に暮れた。二人共に原因があっては、子供を作るのは諦めなければならないのか。そうならば、養子の道も考えないといけない。  「子供は、できないのでしょうか」  おずおずと、聞いた二人に、医師は、  「いや、今や、産婦人科医学は、日進月歩です。手立てはあります。ただし、これには、ご夫妻の了承が必要ですが」 と言った。  「方法はあるのですか」  「あります。奥さんの方に卵管狭窄があるから、人工受精は無理かもしれないが、体外受精なら可能性がある。旦那さんのほうも、精子を濃くする人工的な方法があるのです」と教えた。  二人は、深く相談することもなく、その場で、  「どんな手段でもいいですから、お願いします」 と頭を下げていた。  「なるべく早く」 という夫婦の希望に沿って、その手術は、その一週間後に実施され、卵子と精子が採取された。いずれも、苦痛を伴わない軽い術で、二人は、あまりの簡単さに、緊張していたことが無駄だったと思えるほどだった。  受精卵は、それから、体外で育てられた上、一ヵ月後に麗子の子宮に戻され、着床も確認され、受胎した。  あとは、母体が大事にその杯を育てればいい。麗子は、十分に体を労って、その大事な杯を大きく育て上げていく、夫婦の念願の第一子の誕生に結びつけたのだった。  都内の出版社でイラストレーターをしていた義雄は、勤務が不規則で、時間通りに家に帰ることの少ない男だったが、葉子が生まれてからは、その生活を一変して、近くのスーパーの転職し、定刻に出て、残業も断って、早めに家に帰ることになった。  子供は、夫婦が望んでいたとおりの女の子だったし、もう子供は出来ないものと諦めていたところに、授かった子供だったから、夫婦の喜びようとその後の可愛がりかたは、尋常ではなかった。それこそ、腫れ物に触り、目のなかに入れても痛くないというくらいの溺愛振ぶで、麗子を育てたのだった。  だから、夫婦は、麗子の全てを知っている積もりだった。小児喘息になったときも、あらゆる手段を尽くして、治療にいいことはやってみた。その結果、この病気は、薬ではなく、環境が大切だということが分かり、転居を決めたのだった。  そうして、引っ越しをしてから、半年、葉子の病気は徐々に軽くなり、いまや、全快の真近まで来ていた。  夫婦は、  「やはり、環境の良い所に、引っ越して良かった」 と、転居の決断が正しかったとの実感を味わっていた。  ただ、気掛かりは、年を越してここ一ヵ月ほど、葉子の様子が、どうも以前と違ってきたという感じがしはじめたことだった。  以前は、物静かで、一日中、母の麗子の近くに着いて廻り、片時も側を離れなかったのが、この頃は、麗子が家事をしていると、外に出たがり、なるべく家の外で遊びたがったり、いままでは、嫌いだったお風呂が、大好きになり、長く入ったうえに、出るとすぐに、寝てしまうなど、それまでの行動と正反対の動きをするようになっていた。  これらを、夫婦は、成長過程での変化と見ていたが、その余りの変わりぶりには、驚かざるを得ないでいた。  だから、この日、義雄が葉子の姿が見えないので、大声で叫んだのも、そうした変化が、心の深層に影を落としていたからだ。  その問い掛けに、夕餉の用意に台所に入っていた麗子は、  「その辺にいるでしょう」 と軽く答えた。その返答があまりにそっけなかったので、義雄は、  「おい、のんきなことを言っているなよ。外にいないから聞いてるんだ」 と気色ばんで詰った。  「えー、外で遊んでいないの。おかしいわね。今日に限って」  麗子は、料理の手を休めて、外に出た義雄の方に走ってきて、ガラス窓を開けて問いかけた。  「おれは、この周りを探してくる。おまえも、心当たりを探せ」  義雄は、そう言い残して、家を走り出ていった。麗子はいつも公園で遊んでいる知り合いの家に何軒か電話をしてみた。だが、どこの家にも、葉子はいなかった。  義雄は、一時間ほど近くを捜し回って、家に帰ってきた。探しはじめたころには、薄明かりが残っていた日は、既にどっぷりと暮れ、夜闇が迫っていた。  「見つからないよ。これは、大変なことになった。警察に届けよう」  夫婦は相談した。しかし、あまりに慌てて、ひょっこり帰ってきたりしたら、恥をかく。  「あと一時間待って」 と話し合って、待つことにした。食事などもう、手が付かない。じっと、黙って、下を向いたままの一時間があっという間に過ぎて、義雄は、警察への電話のダイヤルを廻した。           (二)  後部座席に座っている少女は、安らかな顔で眠りに入っていた。  私は、バックミラーでその寝顔を見ながら、  (さて、これから、どうすればいいのだ) と考えながら、車のハンドルを握っていた。道は、河川敷からこの川を渡る広いバイパスへと続く進入路へと入っていっていた。  私は、その道をただ、まっすぐに進んでいった。バイパスとの交差点で、いったん停車したあと、私は、ハンドルを左に切って、下り車線に入って行き、あまり多くない車の流れに合流して、すこし、スピードを速めるために、アクセルを踏み込んだ。  その道は、そのまま進むと、東京都心を離れ、東北地方へと続く高速道路のインターチェンジにでる。  私は、この先、どうすべきかまだわからなあった。ただ、都会に戻るのは嫌だった。だから、進んで行く方向は、これでいいのだが、そのあと、どこへ行けばいいのか、決断できなかったのだ。  後部座席で、少女が寝返りを打った。なにか、ぼそぼそと、寝言を言っている。  後ろから、後続車がクラクションを鳴らした。スピードを落としたこちらに、早く先に進むことを催促している。私は、その音に押されて、緩めたアクセルを再び踏み込んだ。  車はスピードを上げて、一直線に道路を進んでいく。このまま行くと、次のインターチェンジは、県境になる。そこを過ぎれば、群馬、栃木へと続き、三時間もすれば、東北地方に入ることになるのだ。  車で一度、真っ直ぐに進みはじめると、曲がることが、面倒になる。まして、行き先が決まらないときは、ただ、そのまま、直進するのが、一番楽だ。  私も、そういう心境になって、ただ、ハンドルに手を添えるだけで、車の進行に任せようとの気持ちになっていった。  少女は、眠り続けていた。その寝顔は、無邪気で、私が、この少女を「獲保」したときにみせた恐怖と安心がないまぜになった複雑な表情は、消えていた。  少女は、何かに怯えたように、何かから逃れようとしていたが、それは、私ではない。私は、確かに、この少女を、夕方中追いかけていたが、それは、彼女が逃げていたからだった。逃げる者が、カメラのファインダーに入ったとき、その先を追おうとするのは、カメラマンの持っている、本来の習性なのだ。だから、私は、この少女を最後まで、レンズで追った。そして、その果てに、彼女は、私の胸に飛び込んできたのだった。  あくまで、行き掛かり上、私はこの少女を「引き受け」た。その意思があったかどうかと、聞かれれば、あったともいえるし、なかったともいえる。こちらに来ないで、そのまま、ファインダーの視界から消えれば、私は追わなかっただろう。だが、少女は、視界から消えないままに、動き廻り、こちらの胸に飛び込んできたのだ。  だから、私は受け入れた。氏、素性も分からぬままに。  そして、車に乗せ、一緒に旅を始めようとしている。  (一体、どこに行けばいいのだろう)  私は、既に漆黒の闇に包まれた高速道路をあてもなく、進んでいる。こういうことになったのは、あくまで行き掛かりだ、と私は思いたかったが、そうではないのかもしれない。それは、少女が、なぜか、あの河川敷の花園で、私の視界から離れずに、ずっとファインダーの視野に入っていたからだ。それは、偶然ではなく、意図的とも言えた。確かに、ムラサキツユクサのお花畑のなかに身を隠していたが、動きはじめると、時折、立ち止まっては、こちらを向いて、ポーズをつくる仕種をしてみせたりしたからだ。  そのことが、私に、少女への関心を失わせずに、ずっと追いつづけさせたのだ。  後部座席で寝ている少女は、そのあどけない寝顔とは裏腹に、案外、したたかな女なのかも、知れないのだ。だが、それらのことは、全て、未知の事である。  こうなった以上、そうした疑問は、解きあかさなければならない。そのためにも、少女を、車に乗せて行く必要があった、と私は自らを納得させた。  宇都宮のインターチェンジを過ぎたころ、少女は、目覚めた。  「あんた、だれ。私をどこに連れてくの」  それが、寝覚めた後の、少女の第一声だった。  「だれだろうな。どこへ行くのかな」  私は、素直に、その問に答えていた。それは、真面目な答えだった。たしかに、私は、この少女に対して、自分自身が何者なのか、分からなかったし、どこへ行こうとしているのか、理解の果てにあったのだから。  「私は、行きたい所があるんだ。おじさん、そこへ連れてってくれるの」  少女は、後部座席から身を乗り出して、私の耳元で、大声で聞いた。  「びっくりした。もうすこし、小さい声でしゃべれよ。二人しかいないんだから。行きたいところって、どこだい」  「私の家だよ。私が生まれて、育ったママやパパが住んでいるおうちだよ」  「家に帰りたいのか。車でドライブするのは嫌いか」  「嫌いじゃないけど。私は家に帰りたいんだ」  「家って、どこなんだい」  「どこかなんて知らないよ。丘の上の大きな家だよ。庭の前は広い緑の丘で、その丘は、ずっと地平線まで続いている。シベリアンハスキーのドンとマイがいて、いつも私と遊んでいた。大好きなおじいちゃんが部屋からそれを見ていた。あの丘の上の家だよ」  少女は、遠くを見つめるような顔をして、そう言った。  「そんな家、この狭い日本にそうあるもんじゃないよ。どこなんだ、その家は」  「向こうの丘では、羊が草を食べている。牧童が、周りを囲んで、追っている。もう日が暮れて、小屋に帰らなきゃいけないのに、 私が見ているうちは、ずっとそうしているんだ」  「大人ぶった話をする子だな。そんな家があるはずがない。もし、あったとしても、どこなんだか分からなきゃあ、行きようがないな」  私は、はっきりと言った。そんな荒唐無稽な少女の作り話などには付きあってはいられない。  「それなら、いいや。行きようがないんなら、行けないものね」  少女は簡単に諦めて、再び、後部シートに横になって、眠ってしまった。  私は、狐に摘まれたような気持ちだった。  (一体、この少女は、どういう子なのだろう。言うことが大人の口調で、しかも、現実離れしている。なのに、この寝顔の愛らしさ。くっきりとした瞳、二重の瞼。形のいい眉、つんとした形の良い鼻と小さく纏まった唇。どこから見ても美少女なのに、得体がしれない。写真のモデルには、一級品だが、その心の中は計り知れない)  私は、不気味さを感じていた。この車の後部座席には、掴みようのないエイリアンのような子供が横たわっている。言葉がかみ合わず、考えかたも理解しがたい。そういう異端の存在が、私の狭い車の空間を当然のように占拠していた。  だが、私は、車のアクセルを緩めなかった。漫然と、アクセルにおいた右足を、そのままの状態に保ったまま、動かさなかった。  そのため、車は一定のスピードを維持して、前進を続けていた。  高速道路は、白河を過ぎて、福島に入り、ここからは左に行けば山形へ、直進すれば仙台へとの分岐路に差しかかっていた。  その時、少女は目覚めて、  「左へ行け」 と大声で命じた。  私は、驚いて、急遽ハンドルを左に切って山形に向かう高速道路へと車を進めていた。  それは、突然の進路変更だった。命令はいきなりやって来て、私はそれに逆らえずに、素直に、従っていた。  私は少女の言いなりになりつつあった。私の意思が、しっかりと固まっていないことも、原因だったが、少女の口調があまりにしっかりしていたので、従う以外になかったのだと思う。  車は左に進路を変え、山形への道を辿りはじめた。通行量は格段と減り、私の車一台だけが、漆黒の闇を切り裂いて、一直線に進んでいった。  山形へは、深い山脈を越えていく。コンクリートの高架橋が、その山肌を縫い、まるで宇宙の闇を伝う一筋の光線のように、遙か彼方へと白い線が伸びている。それは、日常性を越えた空想の異空間だった。  その一筋の道の上を、丸いカプセルに守られた小さな移動物体が、二つの生命を乗せて、猛スピードで、突き進んでいった。  少女は、進路を伝えたあと、再び、横になって、眠っていた。私は、これは、現実ではないのではないか、との疑念に捕らわれはじめていた。  たった一台で闇の中を彼方へとワープする小さなコミューター。その中のアンドロイドの飛行士と異星人のプリンス。SF映画の一場面が、目の前で展開されている感じがした。それは、現実感覚を喪失させる異常体験だった。          (三)  山根義雄、麗子夫妻は、娘の葉子の帰りを、捜索から帰ってから、二時間待ったが、夜も徐々に、深まったこともあり、意を決して、警察へ電話を掛けた。  電話を受けた埼玉県警浦和西署の当直係長、金井照夫警部補は、最初は春先に良くある少女の無断外泊の相談だと思って、その電話を受けたが、少女の年齢が七歳で、しかも、たった一人でいなくなったと聞いて、事態の緊急性を理解した。  「分かりました。直ちに、係官をそちらに向かわせます。その警官に詳しく事情を話して下さい」 と言って、電話を切った。  失踪事件は、殺人事件や強盗事件、引き逃げ事件などほど緊急性はないが、ただ、それが少女だということは、今後、誘拐などの大事件に発展する芽を孕んでいる。場合によっては、署員総掛かりの緊急配備の必要性があるかもしれない。  そう判断した金井警部補は、近くのパトロールカーに、山根家への急行を無線で指示する一方、山根家の住所を受持ち地域に持つ派出所にも、ファックスで緊急情報を連絡した。ただし、派出所の警官は、ほかにも細々とした仕事を抱えているから、あくまで、抑えの積もりだった。あとは、当直係の警官二人を、覆面パトカーで、派遣した。  「これだけ、やっておけば、万全だ」  金井警部補は、全ての配備の指示を終えて、机のうえのマイルドセブンに手をやって、一本取り出し、口に含んで、百円ライターで火を点けた。  実は、そういう初動捜査の手配では、金井警部補には、苦い思い出があった。  それは、浦和市の中心部を受け持つ浦和署の警邏係に勤務していた時だった。  「浦和市立病院で、赤ちゃんがいなくなった。直ちに、直行せよ」 との県警司令室からの無線指令を、大宮バイパスを移動中に受けた金井巡査長と相棒の山岡巡査は、Uターンして病院に向かおうとしたが、ちょうどその時、目前に猛スピードで車線を塗っていく赤いスポーツカーが、目に入り、本能的に、その車の追跡を始めていた。  追跡の途中、警察無線は、刻々と、病院での赤ちゃん不明事件の状況を伝えてきていた。 「不審な黒い国産高級乗用車が、大宮バイパス方面に向かった。各車、発見次第連絡せよ。車両登録ナンバーは、******」  病院と大宮バイパスとの位置関係からすると、不審な黒い乗用車が向かっているのは、金井らが先程まで、警邏していた方向だった。だが、かれらは、指令室の指示を無視して、かってに自分たちの「獲物」を追っていた。 結局、赤いスポーツカーは、都県境まで、猛スピードを緩めず、埼玉県警には守備範囲外の都内に消えた。  金井らは、落ち込んだ気持ちで、再びUターンし、下り車線を浦和方向に引き返し始めた。もちろん、指令室から受けた黒い車に注意を払いながら、市立病院に向かおうとしていた。その途中でも、次々と情報が入った。  「黒い不審車に乗っているのは、三十代の中年の男と、二十代後半から三十代の女性の二人連れ。女性が後部座席に乗り、赤ん坊を抱いている。繰り返す。ナンバーは、*******」  無線の声が、甲高くなり、事件の緊迫性を生々しく伝えてきた。  金井警部補と山岡巡査長は、しかし、それほどには、この事件を重視していなかった。  (ナンバーも割れているし、車種も特定されている。そのうち、見つかるさ)  そういう判断が、二人の間に、自然に出来ていたような感じだった。  それに、このパトカーでなくても、同僚のパトカーが、いっぱい出動しているのだ。そのうちのどれかが、かならず、検索するだろう。  二人は、そう考えて、この情報にはなるべく係わらないようにするかのように、ゆっくりと、渋滞を続ける大宮バイパスの下り車線を流して行った。  だが、事件は、思わぬ方向に流れていった。浦和西の信号を通過して、大宮方面に向かうと左側車線の路肩に、司令室が指示してきたのと同じ型の黒い乗用車が停車していたのだ。  二人は、直ちにその後ろにパトカーを止めて、車のそばに駆け寄った。そして、車内を覗いたが、中には人の姿は見えなかった。  「そちらのドアーを開けろ」  運転手席側に回った山岡巡査に、金井が言った。  しかし、ドアーには、鍵がかかっていて、開かなかった。助手席側のドアーにも鍵がかかっていた。  (それでは、不審車発見の第一報を入れよう)  金井はパトカーに戻り、通信司令室に、通報するため、マイクを握った。  その通報に従って、周辺から多くのパトカーが集合してきたが、乗っていた二人の男女と赤ん坊の行く方は依然として掴めなかった.  車の鍵は、駆けつけた専門家の手で開けられたが、内部を調べても、何の手掛かりも得られなかった。ただ、この車が盗難車だと分かっただけだった。  こうして、赤ちゃんの誘拐犯人は、姿を消した。この事件は、発生後五年が経ったが、まだ解決していない。  そのことから、金井は深く反省した。  (あの時、スピード違反車を追わずに、司令室の指示通りに、交差点付近で、待機していたら、誘拐犯は捕捉できた)  それが、初動捜査の重要性だと、悟ったのだった。一分、一秒の差が、明暗を分けることがある。それが、事件発生後一時間の初動期の捜査の重要性だ。  だから、金井は、この日、その捜査を指令する立場に立って、あらゆる可能性を考えて、万全を期したのだった。  だが、現場に到着した警官からの報告は、金井を失望させるものだった。  少女が家に帰らないと分かってから、すでに二時間が過ぎていた。家人が届け出を渋って、考えているあいだに、時間は容赦なく過ぎていっていた。それに、少女がいなくなったのは夕方だったが、もう、夜になって、闇が覆っている。行く方不明者の捜索には、条件が悪くなってしまっているのだ。  だが、警察としては、幼女の行く方不明には真剣に対処せざるをえない。金井は、事情を把握してから、県警司令室に、圏内全域の緊急配備を要請した。  だが、手掛かりは、少女が出ていったときの服装と人相だけだ。車に乗せられているのか、だれかと一緒にとこかに隠れているのか、それとも事故や事件に遭遇して、姿が消えたのか。分からないことの方が多かった。  その大々的な配備の一方で、刑事の捜査員は、目撃者の発見に力を入れていた。  最初は、もちろん、近所の聞き込みだ。  隣家を訪問した捜査員に、隣家の主婦は、  「三時ころから夕方の四時ころまでは、庭で砂遊びをしている姿を見ましたよ。そのあと私は、買い物に出たので、分かりませんが、買い物に出掛けるときは、見かけませんでした」 と証言した。  母の麗子は、  「四時頃から、奥の居間で裁縫を始めて、ずっと、外を見なかった。四時頃に、もう遅いから家に入りなさい、と厳しく言ったのですが。もうすこし、と言われて。私も、仕事があったので、それにかまけて、それ以上は言わなかったのがいけなかった」 と言って、泣き崩れていた。  聞き込みから、重大な証言も入ってきた。  住宅地の集合した一角から、幹線道路に出る角の家の子供が、  「私たち、庭で遊んでいたら、小さな子供が、歩いて行った。ゆっくりとした足取りで、バイパスの方に行ったよ。お母さんが、そろそろ、家に入りなさい、と言ってきたのが、四時すぎだから、丁度、その頃だったと思う」 と証言したのだった。  バイパスを渡っていくと、その先は、荒川の河川敷にでる。そこは、広い公園になっていて、さらに奥にすすむと、ムラサツユクサの広大な自生地に行き着く。  その公園は休日には、多くの人で賑わうが、平日の夕方には、そう人はいないはずだ。  (それなら、少女の目撃者が見つかるかもしれない)  捜査員らは、そう考えたが、その日の聞き込みでは、子供たちの証言以上の成果は得られず、その夜は、そこで、一区切りして、誘拐事件を想定して、山根家に録音器と逆探知装置を設置したあと、泊まり込みの捜査員を残して、署に引き上げた。  署での検討会では、行く方不明を柱に誘拐も視野に入れて、今後の捜索を行う方針が決まった。第一には、目撃者探しに取り組むのが、定石だ。  公園方向に消えたと考えて、行く方不明者捜索の似顔絵を入れたチラシを作成し、付近に張り出すとともに、さらに付近の住民から聞き込みをすることにして、その夜の会議は終了した。          (四)  漆黒の空間を切り裂いて走る私の小さなトランスポーターは、深い森の中を通り過ぎて、遠くに町の光を望む地点にまで来た。遙か彼方へと続く、白い一本道も、その先に、光の帯を横に敷いて、終点のゲートが見えてきた。黒い空間にその場所だけが、明るく浮かび上がっている。  私は、アクセルを緩めて、車のスピードを徐々に、落とし、光のゲートの寸前に来て、右足をアクセル・ペダルから離して、ブレーキを踏んだ。  車は、一気にスピードを落とし、ゲートの前で止まった。そこには、初老の男がいて、こちらを見て、手を差し延べた。料金を渡すと、お返しにレシートを寄越したので、私は素直に受け取り、再び、アクセルペダルを踏み込んで、車に勢いをつけた。本当は、そんなに先を急ぐ必要はないのだ。後続の車はいないのだし、前を行く車のない。たった一台でこの道を走っているのだから、急かせられる必要はないのだが、なぜか、私は先を急ぎたい気分だった。  早く、こういう状況から抜け出して、出来れば、どこかの旅館かホテルで休みたかった。だが、後ろに寝ている少女は、そんなことは、とても、許してくれそうもない。いまは、ただ、この少女の命令のままに、私は車を進めていたのだ。  料金ゲートでは、少女は起きていた。むっくりと起き上がって、  「その先も真っ直ぐに進んで」 と私に命じたのだ。  その命にしたがって、私は、アクセルを踏んでいた。道はまっすぐに続いている。だが、両側に家はなかった。初夏とあって、水を湛えた水田が遠くまで広がり、微かな月明かりとインターチェンジ周辺の照明の明かりを受けて、光っていた。  そこは、既に、一般の道路だが、車の通行はない。ここでも、私の車だけ、ただ一台が、明るいヘッドライトを夜道に落としているだけだ。  車は市街地に差しかかった。だが、町は寝ていた。街灯に照らされた家々は、静かに肩を寄せて、ひっそりと身を固めあっていた。  私の車は一気にその小さな市街を抜けて、また、暗い道路に出た。周囲は、再び、広い水田だけである。そういう形で、市街地を三回抜けた。  「おい、どこまで行けばいいんだ」  私は心配になって、後部座席に声を掛けた。  「どこまでも行くんだ。いいというまで」  少女は、どすが聞いた声で答えた。  私は驚いて、後ろを振り返ってみた。すると、少女は、あどけない笑顔で微笑みかけ、  「あと、すこしですよ。寺岡さん」 と優しく言ったのだ。  (どうして、私の名前が分かったのだろう)  私は、少女の不気味な言い方に、おじけずいて、身をすくめながら必死で、考えた。  (そういえば、後ろに、私用のシステム手帳を入れたポシェットを置いておいた。あれを、見たのか)  そう考えたが、聞くのはやめにした。  (どうせ、ずっと一緒にいるのだから、名前を知らないという訳には行かないだろう) と思ったものの、  (だが、こちらは、少女の名前を知らないではないか。これでは、不公平というものだ) と思いついた。  「私の名前がなぜ分かったんだね。人の名を呼んでおいて、自分は名乗らないのか」  私は、前を向いたまま、そう言った。  「なぜ、なぜ・・・。大人は必ずそう聞く。理由なんてなくたっていいじゃない。そういう名前を私が知っているということが、なぜ,そんなに心配なの。理由なんか聞かなくたっていいんだよ。理由が分かったからって、なにも変わらないよ」  確かに理屈だ。私の名前がこの子に分かっているからって、なぜその理由を問いただす必要があるのか。それは、大人の世界の常識であって、少女の世界では非常識なのかもしれない。  「でも、君の名前を教えてくれてもいいじゃないかい」  「そうだね。なんでもいいよ。好きに呼んでよ。名前なんか、符号でしかないんだから。人と区別がつけばいいんだろう」  「そうか。じゃあ、なんて呼ぼうか。かぐや姫とでも言おうか。この世の人のようには見えないから」  「それなら、かぐちゃんでいいよ。私は本当は、シンデレラが好きなんだけどね」  「そうか、いずれにせよ。おとぎ話の世界だな。現実世界にいない」  「それなら、私は、あんたのこと、竹取り爺さんと言おうかな。かぐや姫を大切にして、育ててくれたあの爺さんだよ」  「竹爺さんか」  「あはははは。いいな」  「ところで、かぐちゃん、どこまで行けばいいんだい」  「そうね、竹おじさん、まだまだ、真っ直ぐに行ってくださいよ。曲がる所に行ったら、言いますから」  そう言って、少女は、また後ろの席に、寄り掛かり目を瞑って、話を止めた。  (こんな所まで来てしまった。いつでも引き返すことは出来たのに、この子の言うままになって。いまからでも遅くはない。引き返すことにしようか)  私は、悔やんだが、ここまで来たからには、どこに行くのか確かめたい、という気持ちの方が上回っていた。  (とにかく、この子の言うところまで、行ってみよう)  すでに、心はそう決めていた。  三番目の市街地を抜けると、あとは、ずっと郊外の道路が続いた。周りはただ暗い。その闇を、ヘッドライトが、一条の筋を引いて、切り裂いていく。対向車がたまにあるが、その時だけ、ライトを下向きにする。あとは、左右に二つずつあるライトを全部点灯したままだから、遠くまで見通すことができる。  その光の中に、大きな赤い、左向きの矢印が浮かび上がった。その上には、「蔵王山頂まであと四十キロ」の文字が大きく書いてあった。  「ああ、あの道を左だ」  いつのまにか、起きていたかぐちゃんが、後ろからそう言った。  「なに、蔵王に行くのか」  「まあね、そっちの方だ」  「なにがあるんだい」  「なにが、それは、行ってみりゃ、分かる。私も、何があるか知らない。ただ、そちらにこいと誘っているんだ」  「誘っているって、だれが」  「そう、聞こえるんだよ。そういう声が、聞こえるんだ」  私には、何がなんだか、さっぱり分からなかった。少女は、誰かに導かれているようだ。かぐちゃん自身が、この道を選んでいるのではないらしい。それが、彼女の説明から分かったが、それ以上は、不明だった。  道は登り坂になってきた。交差点を曲がったすぐの所に急坂があって、私は低速ギアにギア・チェンジして、最初の難関を乗り切ったが、一端平坦になったあとで、連続して急坂が続いていたのだ。  エンジンが、唸りを上げている。夕方から既に五時間以上、走り続けているのだ。途中、高速走行もあったのだから、この小さな車には相当な負担だったろう。  道はただ、坂になっただけでなく、左右に揺れて、蛇行していた。右や左にハンドルを操作する作業が多くなった、そのたびに、アクセルを緩め、ブレーキを踏んで、ギアを変えて、再び、アクセルを踏んで加速する。そのせわしない操作に、私は集中していた。  そういうカーブをいくつ曲がったろうか。多分。蔵王の山頂までの三分の二程、登った所で、少女は、突然、  「ここで止めて」 と鋭い声で言った。  私は驚いて、急ブレーキを掛けて、車を道路の左側に寄せて、止まろうとした。  「そこで、止まらないで、左の空き地に入ってから、止めて」  かぐちゃんは、矢継ぎ早に私に命じた。私は、その言葉に従い、車を左側の丈の高い葦を切り開いた小さな広場に導いて、停車した。  「ここで、朝まで待て」  かぐチャンは、耳を済まして、空を見上げた。  「と、言っている」  その声は、空から来るらしい。  「朝までか。それもいいだろう。いい加減疲れたしな。おじさんは、眠るよ」  私は、運転席のリクライニングを倒して、後ろに横になって、寝る姿勢をとった。  「いいよ、御苦労さん。もし、なにもないのなら、もう帰っていいよ」  かぐちゃんは、冷たくそう言い放った。  「それは、ないだろう。こんな所まで、連れてきて、帰っていいだなんて。おれは、最後まで付き合うよ」  「勝手にしな。折角、返してやろうと思ったのに。帰りたくないのなら、それでもいいけど」  かぐちゃんは、生意気な言い方でそう言った。  「私は、朝まで起きている。もうそろそろ、夜も明けるころだろう。あとすこし、起きている。用心のためにも」  「用心って。なにを用心するんだ」  「命令が来るかも知れないだろ。それを聞き逃さないために、起きていないと」  私は、結局、少女と一緒に車の中で、朝を待った。  朝日が、遠く東の空へ、登ってくるのを、私達は見ていた。徐々に光の量を増した太陽は、漆黒の夜に包まれていた眼下の町々の家々を、すこしずつ陰影を刻んで浮かび上がらせ、人々の目覚めを待っていた。  私は、後部座席から肩をつつかれ、その指差す先を見た。そこには、いまでも私の目に焼きついて離れない荘厳な風景があった。       (五)  夜が明けた。  当直勤務を終えても、埼玉県警浦和西警察署の金井警部補は、帰宅出来なかった。  昨夕から係わっている山根葉子の捜索は、この日が山と考えられた。署員たちは、緊急を要するこの事件に、すでにかなりの数がさかれていた。  「今日は総動員態勢だな」  金井はそう考えながら、洗面所に行き、顔を洗い、歯を磨いた。そのあと、この日行われるだろう総掛かりでの検索に支障のないように、体を休めておこう、と思って、三階の仮眠室に行った。そこには、二段ベッドがあって、当直明けの署員らが、眠ることが出来るようになっている。  午前九時頃になると、署長ら幹部連中も出勤してきて、この事件への態勢つくりを始めた。そのための資料となる報告は、当直係長だった金井がしなければならない。わずか、二時間程の仮眠でも、体は休まった。こういう暮らしにはすっかり慣れているから、その程度の仮眠でも、十分過ぎるほどだ。  会議室での検討会では、事件に臨む基本方針と、当面の対処策が話し合われて、決定された。  その方針は、まず、事故と誘拐の両面で捜査に臨むことだった。現場は河川敷だから、川に転落したことも考えられる。あるいは、バイパスで引き逃げされて、遺体を運ばれた可能性もある。通り魔が拉致したか、変質者の誘拐の可能性も考えられた。  そして、当面の捜査方針は、もちろん、広域に聞き込み捜査を行うが、特徴を記した広報資料を作り、近所に協力を呼びかけること、マスコミを通じた協力要請などが考えられたが、もし、誘拐だとしたら、それは、逆効果になる。とすると、事故か誘拐かの見極めが大事だった。  朝の時点では、身の代金の要求電話などはないらしいが、これから掛かってくることも考えられた。  そういう多様な状況を勘案して、会議で議長を務めていた署長は、  「今日一日は、極秘捜査を行う。誘拐としたら犯人から何かの接触があるだろう。それに、有力な目撃証言があがるかもしれない。あくまで、外部にはもらさず、われわれ捜査員だけの手で、今日は、全力を上げて捜査することにする」 と決断を下した。  その際、  「山根家での家庭状況と葉子の性格、成育歴、最近の状況についてさらに詳しく聞き取りを行うよう。誘拐されたとしたら、なにかの原因があるはずだ、その思い当たることなどについて、詳しく調べるように」 との指示が下された。  本来は、刑事課の捜査員である金井も、その態勢に加わって、山根家に行くことになった。  山根夫婦から、葉子の成育歴などについて聞き出すのが与えられた任務だった。  覆面パトカーで、予てからの同僚、山岡巡査長と二人で、山根の家に向かった金井は、その道が、いつか来たことのある道のような気がした。いわゆる既知体験(デジャブ)で、それは、記憶の深層に澱のように沈澱していたが、はっきりとは分からなかった。とにかく、「いつか来た道」であることは、確かだった。  もともと、パトカーの警官は、市内を走り回るのが仕事だから、ほとんどの道は知っている。一度ならずとも、何度も通ったことのある道は、記憶の表層にあるから、目を瞑っても走ることができそうだ。だが、その道はそういう頻繁に通る道とは違ったが、とにかく、過去に走ったことがある記憶が、うっすらとあったのだ。そう頻繁に通る道ではない。だが、一、二度通ったことがある。そういう感覚だった。  新興住宅地だから、あまり、パトカーは、行かない。それなりに治安は保たれているから、用事がそうないのだ。付近の住民は次々と訪れる警察の車両に、驚いたような表情で家の陰から様子を覗いていた。  山根夫婦は、昨夜は寝ていないようだった。目の周りにくまを作った麗子が、金井らを出迎えたが、主人の義雄は、寝室で横になっているとかで、姿がなかった。  義雄は、こうなったからには、勤め先を休まなければならないが、警察には秘密にしておくように言われている。どういう理由で会社を休むか、思案を続けていた。  (とにかく、病気を理由にするのが一番だろう) と考えが至ったころに、下から麗子が上がってきて、  「刑事さんが、話を聞きたいと言っているけど」 と言った。  義雄は、身繕いをして、階段を降りて、刑事たちが待つ応接間に出ていった。  「私は浦和西署の金井です」  「私は山岡といいます」 と二人は名乗ったあと、  「ちょっと、詳しく家庭のことや葉子さんの成育歴などを伺いたい。あくまで、捜査の参考のためです」 と申し向けた。  「そうですか。では、こちらで」 と麗子は、応接間より親密に話ができるだろうダイニングへ、二人を誘い、コーヒーを入れはじめた。  煎ったコーヒーが熱い湯を受けて醸しだす芳香が部屋を満たし、朝の陽光が、流し台の外の窓から斜めに差し込んで、いかにも、幸せな家庭の朝の情景を作り上げていたが、これから行われる作業は、一人の少女の生死を掛けた捜査のための情報収集なのだった。  「ところで、最近、あなたがたの周辺で変わったことが起きたとか、不審な人物を見かけたとかいうことはありませんでしたか」  金井が、麗子が差しだしたいれたてのコーヒーを啜りながら、尋ね。  「これといって、なにもありませんね。いつもと変わらぬ生活でしたよ」  義雄が即答した。  「奥さんは如何ですか」  金井が質問の方向を変えた。  「なにも、ないですね。ご近所との付き合いも普通だし、なにか、恨まれているようなことは心当たりがありません」  「ご主人の仕事の面ではどうですか」  「御存知のとおり。私の仕事は、スーパーの店員ですから、客商売ですが、最近はなにもトラブルはないですよ。それに、いまは、現場には出ていないので、客と応対する機会もあまりありません。事務の仕事が主ですから」  「でも、客のクレームとかで悩まされることは多いのではないですか」  山岡が聞いた。  「それは、日常のことですから。でも、そう変な人は来ません。いずれも、理に叶った苦情ですね」  「では、奥さんは、心当たりはないですかね」  金井がまた、話の方向を変えた。金井は、執拗に麗子に質問の矛先を持っていっていた。  それは、なぜか。理由は分からなかったが、その場の状況から、そういう形になっていた。それは、金井の捜査官としての長年の勘によるものだったのかもしれない。  「私は、昼は、この家にずっといて、外にいくのは、買い物ぐらいです。なにか、習い事でもしてみたいのですが、子供がまだ小さいし、子育てに掛かりきりですからね」  「でも、葉子さんが、いなくなったときは。側にいなかったんでしょう」  山岡が短刀直入に聞いた。  麗子にはその質問はショックだったのだろうか。一端口ごもって、唾を飲み込んでから、上を向き、  「そうです。それが、悔やまれてならない。あのとき、私が目を離さなかったら。あのとき、家のなかで縫い物なんかしていなかったら」  涙声でそう言ったあと、流しに向かって、向きを変え、両手で顔を覆って泣いた。  「葉子さんには、変わったことはなかったですか」  金井が、今度は一段と優しい声で質問した。  「変わったことと言えば、昨年までは、内気な子で、家の中に閉じこもって、私の側を片時も離れなかったのですが、一年くらい前からは、外に出たがって、仕方がなくなったのです。これも、成長の過程と考えていたのですが、それが、余りに急だったから、すこし驚いて、主人にも話したのです」  麗子はそういって、義雄を見た。  「たしかに、その話は聞きましたが、私は、家にはいないので、そんなものかと思っただけです。もう小学校に上がる年齢ですので、そういう変化はあるものだと思いました」  「それは、驚くほど急だったのですか」  山岡が興味深そうに尋ねた。  「そうです。私には急激な変化だと見えました。体や顔つきに変わりがでた訳ではないので、それほど気にはしませんでしたが、心の変化があったのではないかと心配しました。それに、読み物の興味も変わった」  「どういう風に」  「これまでは、いかにも少女が好む童話が好きで、いろいろと読んであげたのですが、全然、興味を示さなくなり、テレビのホラードラマや少年週刊誌の恐怖漫画に異常な関心を示すようになりました。それが、変わったと言えば変わったことですね」  聞いていた二人の刑事は、この年頃の少女の心の動きには遠い立場にあったが、日々、身近に接している母親の関心は、そういう所にあるのかと、勉強させられた気分で聞いていた。  「私は、葉子の心の変化を、感じていましたが、それがなんなのか、分からなかった」  麗子は、そのことが、重大な過失でもあるように、ふっと呟いて、コーヒーのお代わりを入れるために、テーブルの上のカップに手を伸ばした。          (六)  少女が指差した先には、大きな建物が聳えていた。夜の闇の中で気が付かなかったが、目の前は、短い雑草が一面に茂った広い丘になっていて、なだらかな上りのスロープがずっと先の方まで続いていた。丘はいちど、僅かに下降してから、今度は、急激な傾斜で上に向かい、そのたどり着いた所に、大きな城壁がそびえ立っていた。巨大だが、精密な石組の上には、ヨーロッパの観光案内書にあるような石造りの城があった。ただ、それらの古城と違うのは、欧州の観光名所の城の石が、いかにも歴史の荒波をくぐり抜けてきたように、苔むして、黒ずみ、丸みを帯びているのに対して、この城は、明るい色の角張った石で組まれていて、いかにも、出来立ての建造物のように見えたことだ。  城は朝日を浴びて、青い空を背景に白くくっきりと、空間に聳えていた。一番上には、塔があって、その頂上には尖塔があり、三枚の旗がはためいていた。上から四角、三角、長四角の順で、その模様は、何かのマークのようだったが、その意味は不明だ。  城壁に向かって、細い一本道が伸びている。その道は、丘の横を右側に寄って、うねりながら、いま、車が止まっているこの場所から、遙かに続いていた。  まだ、朝が早いためか、丘の上には何もいなかった。日が高くなれば、羊や牛を放牧するには、格好の場所だろう。  「あそこへ、行くんだ」  かぐちゃんは、遠くを差していた右手の人指し指を収めて、身支度に取りかかった。  といっても、ただ、着ている白いワンピースの皺を伸ばして、誇りを払い、すこし、形を整えただけである。着たきりで、彼女は出てきたのだ。  「あそこへか」  私は聞き返した。  「そうだよ。そのために遙々来たのだ。おじさんは、もう帰っていいよ。多分、私は帰ってこないだろうから」  「ええ、帰ってこないのか」  「たぶんね。でも、事情によっては帰ることになるかもしれない、それは、行ってから決まる」  「いきなり、帰れと言われてもなあ、一緒に行っては、不味いのか」  念のために聞いてみた。  「だめという訳ではないだろうが。城の下の門で、止められて、入れないのではないかな」  「あなたは、入れるのか」  「それは、当然だ」  「よし、一緒に行こう。入れないならそこで帰ることにしよう」  「でも、一緒では駄目だ。私が出てから、五分後に後から来てくれ」  話は付いた。かぐちゃんは、靴を履いて車の外に出て、歩きだした。  空にまで抜けるような青空が広がり、空気が冷たくて心地よい。今日は、一日好天に恵まれそうだった。  かぐちゃんは、軽くスキップをしながら、細い一本道を進んでいった。丘が一端、下に下る所にまで歩いたころが、五分後だった。私は、車を降りて、ドアーに鍵を掛け、城を仰ぎ見ながら、歩きだした。ひんやりとした空気が肌を刺激し、それまで睡眠していた体が、しゃきりと覚醒した感じがした。  道の右側は灌木の林になっていた。露を帯びた下草から、蒸気が立ちのぼり、薄い靄を足元にもたらし、道が霞んでいるのが、おとぎ話の世界のような環境を醸しだしていた。  数百メートル先を行く、かぐちゃんは、霞の上を動いていく。私も、雲の上の孫悟空の気持ちで、先を急いだ。  城壁は、遠くで眺めていたときに想像したよりは、ずっと大きく、道の突き当たる所に、門があったが、衛兵はいなかった。その代わりに観音開きの扉があった。かぐちゃんはその前まで行って、しばらく、佇んでいた。すると、自動的に、門扉は内側に開き、人が入れる道を開いた。かぐちゃんは、その間を真っ直ぐに進んで、城に入っていった。  私は、その様子を確認して、同じように、門の前に立って、扉が開くのを待った。しかし、いくら、待っても、門は開かなかった。  私は、門の所に行って、体全体で、扉を押してみた。だが、びくともしない。何回を体当たりを繰り返したが、厚い木で組み立てられた門扉は、すこしも、動かなかった。なんどか、扉への直接攻撃を繰り返しているうちに、すっかり疲れて、膝に両手を突いて、さわしく息を吸っていると、頭の上から、声がした。  「あなたは、入城が許されていません。このままお帰りください。どうしても、入場したい方は、警備係の許可を得てから、お入りください。連絡先は、*******です」  男の声が、同じフレーズを二度繰り返してから、止まった。  私は、携帯電話で、その連絡先に、電話してみることにした。電話は、車の中に置いてきた。来た道を引き返さなければならない。この遠い道のりを帰らなければならないのは、辛かったが、城に入るためには、それ以外の方法はない。私は、疲れた体を引きずりながら、車を止めてある広場に引き返した。朝の空気はぐんぐん、暖かさを増し、周囲の情景も昼間らしさを感じさせるようになっていた。だが、そびえ立つ城の姿は、朝の光の中で初めて見た荘厳さを失わず、私の挑戦意識をかき立てていた。  「もしもし、警備の係ですか」  携帯電話で言われた番号をダイヤルすると、一発で、繋がった。相手は、意外や女性の声で、  「そうですが。なんでしょうか」 と柔らかく答えてきた。  「なかに入りたいのですが」  「どのような事情でしょうか」  私は、少女を車に乗せてこちらに来たこと、少女はすでに中に入ったことを手短に説明した。  「分かりました。付添いの方ですね。お父さんですか」  「いえ、行きずりの者です。ですが、東京方面から遙々乗せてきたのです」  「そうですか。それは、御苦労様。お疲れのようですね。では、中に入って、ゆっくり休んでください」  女性は優しく、私の労を労い、入城の許可を与えた。  「どうすればいいですか」  「門のまえに立って、正面に向かって、お名前を言ってください。こちらで確認し、門を明けます」  「名前は、寺岡誠司です」  「わかりました」  私は、こんどは、念のため、電話を抱えたまま、また、道を戻っていった。  門のまえで、言われた通りに名前を名乗ると、門が静かに開いて、中に入る道が出来た。私は、心を踊らせて中に入っていった。  門を過ぎると、また長い道が続いていた。今度は、すこし行ってから、左に曲がり、その先は階段になっていた。階段は途中で右に折れ、すこし進んで、小さい建物の玄関に至った。そこは、城に入る人の控えの部屋で、雨露を凌ぐとともに、衣服を脱いで準備をするために建てられているようだった。  私は、その壁に掛けられた、部外者のための注意書を読んだ。  ーー 「初めて入城の部外者の方は、以下の注意をお守り下さい。  一 城内では、静粛を旨とし、要らぬ話をしないこと。騒ぐ人は即刻退場して頂きます。二 城内は全面禁煙です。喫煙所もありません。煙草は一切、ここでごみ箱に処分してください。 三 写真撮影は禁止となっています。あらゆる映像と音声の記録は、禁止です。発見した場合は、メディアの提出を求め、当方で処分します」  私のポケットには、小さなコンパクト・カメラが、忍ばせてあった。もともと煙草は吸わない。話好きでもないし、連れはいないから、一、二は、抵触する恐れはない。だが、三は、問題だった。ただ、禁止と書いてはあっても、所持している場合の規程はない。  (機器は持っていても、撮らなければいいのだ) と解釈して、そのまま、持ち込むことにした。  その注意書を読みおわると、突き当たりの壁にあるエレベーターの扉が開いた。そのエレベーターは、相当大型で、広い間口を持っていた。人間なら二十人は乗れそうな代物だ。  私は、たった一人でその箱に入った。扉がすぐに閉まり、なかで、立ちすくんでいると、  「何階へ行きますか」 と女声の合成音で聞いてきた。  内部に階数の表示はなく、何階建てでどの階に何があるのかは、一切、分からない。ただ、扉の上の横に並んだ階数表示が、地下五階から地上十階までを表示している。その上にはルーフ階が、二階あるようだった。  私は、何階に行けばいいのか、分からないままに、とっさに、  「初めて来ましたので」 と人工音声に答えていた。すると、意外や天井からの声は、  「それでは、見学者コースに御案内します。二階の受付で申込みしてください」  と言ったのだ。  (見学者コースがあるのか。ということは、かなり、多くの見学者が来るということだ)  私はすこし安心した。このような人里離れた場所にある異様な建物は、あくまで、秘密の館で、外部の者の訪問を拒んでいるのかと思っていたが、そうでもないらしい。  二階の表示が止まり、エレベーターのドアーが開いた。私は、その階に歩み出た。  正面は広く開かれた窓で、遠くに私が歩いてきた細い道が筋を描いて、広場へと続いているのが見えた。その景色を西洋の風景画の一場面のように感じながら、左側を見ると、そこにカウンターがあって、女性が一人座っていた。私は歩み寄っていって、  「見学ですが」 と声を掛けた、すると、その女性は、  「分かりました。ではこの用紙に記入して下さい」 と言って、紙とペンを渡した。その用紙は、 「見学願い」という表題で、住所、氏名、年齢、職業、性別、見学の目的等を記入する欄があった。私は克明に各欄を埋め、女性に提出した。  女性は受け取って、内容を確かめると、  「これが、見学者用のIDカードです。館内では、かならず胸に付けておいてください。その番号であなたを確認します。では」  と上にクリップが付いた長方形のカードをくれた。  私は、それを付けて、入口のゲートの前に立った。IDカードが赤い光線で照らされたあと、ゲートは自動的に開き、私を内部に誘った。         (七)  山根夫妻からの聴取を続けていた山岡は、麗子が入れ換えてくれた二杯目のコーヒーに口をつけながら、  「大体、事情は分かりました。昨日の目撃情報を得るために、チラシを作りたいと思うので、葉子さんの特徴が一番よく現れていると思われる写真があれば、お借りしたいのですが」 と提案した。  「ちょっと待ってください」  麗子は流しの前を離れて、二階へ上がっていった。うえには、夫婦の寝室と子供部屋があるのだという。  暫くして、麗子は、分厚いアルバムを四冊も抱えて、降りてきた。  「これが、麗子のアルバムです。赤ちゃんの頃から、この人が沢山写真を撮ったので、こんなにありますが」  金井と山岡は、その写真の量には驚いたが、赤ん坊の頃の写真では役に立たないと分かっていたから、  「いえ、ごく最近ので、映りがいいのを出してください」 と選択を、この母に任せた。  麗子は、一枚ずつ、ページを捲りながら、写真を見ていった。その一枚毎に深い思い出が詰まっているらしい。何ページかを捲りおわると、麗子は、目頭をエプロンの裾で抑えて、出てくるものを抑え始めた。  だが、健気にも、写真の選択の作業は忘れず、五枚を選んで、テーブルの上に並べた。  「五歳の時の七五三に、写真屋で撮ったのが、一番ハッキリしていますが、葉子の特徴がよく出ているのは、こちらですね」  そう言って、麗子が差し示したのは、この家の玄関に直立した葉子が映っている写真だった。袖口にレースのフリルがあしらわれた白いワンピースの大きく広がった裾を両手で握ってポーズしている姿は、少女雑誌のモデルのようだった。にっこりと微笑んだ葉子は、天使のような無邪気な表情をしていた。  「昨日もこれを着ていましたから」  麗子は、失踪した当時の姿のままの方が、いいのではないかと考えていた。  「そうですね。よく映っているし、これにしましょうか」  金井が同意した。そばで見ていた義雄も、  「これが一番、最近の葉子の姿に近いから、これがいい」 と賛成した。  この写真を元に、チラシを作成して、姿が消えた河川敷沿いの公園に張れば、当時その付近にいた人からの目撃情報が寄せられるとの期待込めての選択だった。  一夜明けての付近の住民からの再度の聞き込みでは、大した収穫はなかった。ただ、山根夫婦の間柄についての世間話を、近くの麗子と同年配の主婦としてきたベテランの刑事が、署に帰ってからの検討会で、面白い話をした。  「なんでも、山根夫婦は、結婚後も、長い間、子供に恵まれず、いろいろとやってみた結果、体外受精とか言う最先端の療法を選んだのだそうだ。それが、一発で成功し、奥さんは大喜びしていた、とその主婦は話していたよ。人工受精というのは、大分以前から行われていたと言うが、体外受精は、女の卵子を体外に取り出して、夫の精子と受精させ、再び子宮に返して育てるという手法だそうだ。変な話だが、その主婦は、最近は何でも出来るんですね、と驚いて聞いたのを覚えていた」  「とすると、葉子は、どこかの病院の冷たい実験台の上で、最初の生命を得たということなのか」  山岡が呟いた。  「そういう子づくりは、夫には実感がないだろうな。男は、その瞬間、これで俺の子供ができるという充実感を覚えるが、こういう授精では、その感じもないだろう」  金井が受けて言った。  「そんなものですかね。私は分かりません」  独身の山岡は、怪訝な顔をして、金井を覗き込んだ。  「ところで、その病院はどこなんだね」  刑事課長が、ベテランの刑事に聞いた。  「はい、市内の総合病院だというから、市立病院ではないですか」  「あの、古ぼけた病院で、そんな先端医療が行われていたとは知らなかったな。七年前に、そういう技術を持った医師がいたのだろうか」  刑事課長は、基本的な疑問を呈した。  「すこし、調べて見ましょうか。葉子本人に係わることですから、なんでも、調べておくに越したことはないでしょう」  金井が手を上げて提案した。  「そうだな。どういう経緯で世に生まれ出たのか。その出生に関して、何か、示唆するものが得られれば、犯人への手掛かりも得られるかもしれない」  課長が同意した。金井と山岡は、さっそく、翌日、市立病院に出向き、葉子の出生の経緯を調べることにした。  いずれにせよ、これからは、地道な捜査になることはハッキリしている。誘拐だとしたら、もう、犯人から連絡があるはずだ。それが、ないのだから、事故とも考えられるが、川浚いをした捜査員からは、遺体発見の報せは届いていなかった。  手掛かりは、なくなったのだ。あとは、目撃者の出現を待つしかない。初動捜査で遅れをとると、事件はこういう様相になる。金井は若いころの失敗の経験を思い出して、ほぞを噛む思いがしていた。  (少女は、突然、姿を消し、どこかに行ってしまった。これは、神隠しだ。天狗の誘拐だ)  金井は、古い言い伝えを思い出して、現代でも、そういう蒸発は、多数発生しているが、そのうちのどのくらいが、生きて帰ってきて、肉親を安心させたのだろうと、考えた。それは、かなり、低い確率に違いない。隣人との関係が希薄な現代社会では、戸板一枚隔てた空間で、人が死んでも気が付かずに、一年も放置されているようなことが、よくある。  (この時代は、人の行く方に、関心を抱かない時代なのだ)  金井はそう考えると、両親が心から心配し、多くの捜査員が動員されているこの事件は、まだいい方だ、という感じがした。沢山の行く方不明者のなかで、こうして、大掛かりな捜査をしてもらえる者はそう多くない。葉子は、幼児だというだけで、幸せ者だと言えた。  それだけに、  (絶対、生きて、返してやりたい)  警官たちの気持ちは、その一点に集中していたのだ。  出来上がったチラシ一万枚は、現場の公園周辺中心に張り出された。駅や映画館などの人の多く集まる場所にも掲示され、目撃者の名乗り出を呼びかけた。  一方で、金井らは市立病院を訪れ、葉子の出生の経過を探った。その市立病院での聞き込みは、予想外の収穫をもたらした。          (八)  私は、見学者用のゲートを過ぎてから、壁沿いに内部に進んでいった。壁には、横文字で何かの説明があったが、私には何が書いてあるのかまったく、分からない。ただ、途中に差し込まれている写真やイラストから、その展示が、生物の発生から成長の過程を示しているように思えた。  私は、二つめの部屋に入っていった。急に照明が落ちて、全体照明から、スポットの部分照明になった。黒く暗く沈んだ壁の中に小窓が開けられていて、中の展示物がよく見えるようになっていた。  最初の箱の中には、魚のホルマリ漬けが入っていた。雌らしく、卵巣のなかの卵が赤く染めてある。鮭の子供の筋子のような卵がぎっしりと詰まっているのが見える。次の展示は蛙の標本だった。トコロテンのようなゼラチン質の膜に包まれた卵が、今にも孵化して、おたまじゃくしになる瞬間を見せていた。  さらに、爬虫類の亀や鰐の卵の展示が続いて、その部屋は終わっていた。このまま行けば、次には、鳥類が展示されていることだろう。しかも、その全ては、発生と誕生という種の保存に関したものになっているだろうことは、これまでの順番から、容易に想像できた。  第三室は、やはり、その通りに展示が進んでいた。すると、最後は、哺乳類になり、アンカーは人類が務めることになるのだろう。  私はそう想像しながら、展示を順に見ていき、第四室に入っていった。  予想したとおり、その部屋には哺乳類が展示されていた。鼠から始まって、牛や馬に及び、最後は類人猿のチンパンジーの雌の標本が解剖された形で、大きな硝子の瓶に入って照明の光を浴びていた。彼女の腹部の子宮には、赤ん坊がいた。赤ん坊は、人の子供と同じように、体を抱え込んだ形で、羊膜のなかに収まっていた。手足の指が五本ずつ生えかかっている。全体は白く、産毛が生えていた。第四室の展示は、それが最後だった。  ということは、次の第五室は、当然人間だけの展示になるのだろうか。私はそう考えながら、最後になるだろうその部屋に入っていた。その予想は、当たった。  その部屋は「人」だけが展示されている一室で、生の標本は少なかったが、精巧な模型が沢山展示されていた。精子の卵子との出会いから始まって、精子と卵子の顕微鏡写真や受精卵の中で起きる変化、受精卵の細胞分裂の様子などが、多数の図版を使って説明してあった。  最後に、死産だったのだろうか、母親の体内に入っている状態で、胎児の標本があった。細く目を瞑った頭の大きな生命体が、小さな五つの指を開いた状態で、丸くなって、ホルマリン液に浮かび、へその緒で母体と結ばれている状態が、示されていた。  私はそれを見て、気分が悪くなった。吐き気がして、すぐにも、その場所を立ち去りたい気分になって、右手で口を塞いで、足早に部屋から歩み出ていた。  展示はこれで終わりかと思ったが、違った。さらに、その先に第六室があったのだ。  私は気分が悪かったが、引き返すわけには行かない。いずれにせよ、前に進まなければ、どうしようもない、と思い直して、次の部屋に入っていった。  第六室は、生命に対する人工的な手段が展示されている部屋で、品種改良とか、遺伝子操作や人工受精などが、模型や写真、グラフを多用して、展示され、詳しく説明してあった。  遺伝子組み換えによる、農薬に強い作物や害虫対策を施した植物などの実物が、山積みになっているコーナーもあった。それらは、外見からは普通に栽培されている農作物と変わらず、見た目からは、区別ができないことがわかった。  それは、遺伝子を操作した山羊や羊が、やはり、外見からは判別できないのと、同じことだったが、その操作が、もし、人に加えられたら、やはり、外見から、他の人とは区別は出来ないだろうと、私は考えて、恐ろしくなった。  その恐れは、最後のコーナーの展示で現実感を帯びてきた。  そこには、遺伝子異常で先天的な病気になった新生児の治療事例が示されていた。遺伝子の異常である種の酵素が出来ないため、正常遺伝子を大腸菌に組み込んで、入れ換える治療法が,説明されていた。また、ダウン症の子供への遺伝子治療の現状を示したパネルもあった。  不妊症の治療技術のコーナーでは、排卵誘発剤の使用による治療法で、多産児が増えたため、最近は、体外受精による妊娠が増えていることなどが、説明されていたが、生命の種である胚を人が加工することにより、双子や四つ子を作る可能性について、特に詳しく説明されているのが、私は気になった。  細胞分裂のある段階で、人の手によって、分割の仕方を操作すれば、同じ性格や肉体的特質を持った遺伝的に同質な人が幾らでも作れる可能性がある。この展示室は、そのことに異常にスペースを裂いていた。  受精卵を細胞分裂のある段階で、二つに割り、分離すると、杯は、そのまま独立に発生して、二つの個体を作る。そのための操作手法が、写真入りで詳解されていた。  その展示を見おえて、最後に、私は、たぶんそういう操作を経て、人工的に作られたと思われる人の子供の標本の前に来た。  そこには、男と女の子の胎児の時代から、成長過程を追ってのモデルの展示があった。私は、時間的な経緯を追って、その展示を見ていったが、最後の、幼児の人形の前に来て、我が目を疑った。  そこにあったのは、紛れもなく、かぐちゃんそのものの姿だったからだ。  「おい、そこで、何してるんだ」  私は、思わず声を掛けたが、その少女は黙っていた。  返事がないので、私は、伸び上がって、その顔をまじまじと見つめた。  それは、生きている肌をしていた。呼吸が聞こえて来そうな気がした。目はあくまで黒かったが、動きがないので、作り物のようにも見えた。だが、体液に濡れて、艶があり、生命を宿している生き物の瞳のような感じもした。  「おい、目を開けているのなら、返事をしろよ」  私は再び、声を掛けてみた。だが、やはり、返事はない。ただ、目を見開いて、前を凝視しているだけだ。  睡眠薬でも打たれて、気を失っているのだろうか。生きているようで、本当は、作り物の人形なのだろうか。  私は、前にあって、間を隔てているガラスの板が煩わしくなって、拳で激しく、叩いてみた。だが、強化ガラスを使っているのか、ガラスの仕切りはびくともしなかった。  私は、叩き疲れて、床にへたりこんだ。その瞬間、目から熱いものが吹き出し、滴り落ちた。私は、なぜか、泣いていた。ひとしきり、すすり上げてから、頭を上げ、その少女の像を見上げた。  すると、その像は、頬の筋肉を緩めて、微笑んだのだ。  私は、  (この像は、生きている。かぐちゃんに違いない) と実感した。  「おい、返事をしろよ。なにしてるんだ」  私は、渾身の力を振り絞って、大声で、その像に呼びかけた。  声は、部屋中に響きわたった。すると、警報機がけたたましく、鳴りはじめ、部屋の向こうから、入口にいた女性の係員が、駆け寄ってきた。  天井から声がした。  「見学者は、静かにして、進んでください。他の方に迷惑のないよう、気をつけて下さい」  人工的な音声が、警告を発していた。  他の方といっても、私の他に見学者はいないのだ。それを知っているから、女の係員が、走ってきたのだろう。  「どうされました」  係員は、心配そうに、私の顔を覗き込んで聞いた。  「いや、何でもありません。ちょっと、興奮してしまった。大丈夫です」  「でも、あんなに大きな声を上げられたから。心配です。医務室で休みますか」  女声係員は、丁寧に聞いた。  その優しさに、掛けて、私は、事実を言ってみた。  「実は、この少女が、知り合いの子供ととても似ていたものですから、驚いてしまって」  係員は、狐に摘まれたような表情をして、  「こんな子供は、どこにでもいますよ。誰にでも似ていると言ってもいいんです。ごく一般的な少女をモデルにしているのですから」 と説明した。  「そうでしょうか。私には、特殊な、個性が感じられます。実は、この少女がこの城に入っていてしまったので、私は、後を追って、ここまで来たのです。どこへ行ったか知りませんか」  私は、縋るつもりで、この係員に事情を説明した。  すると、これまでの、優しそうな表情が急に厳しくなって、  「そういう事情を、私に話されてもどうしようもありません。これから静かに見学されるか、それとも、お帰りになるか。どうしますか」  女性係員は、あくまで、自分の仕事を単純に果たそうとしているようだった。  (一体、かぐちゃんはどこに行ってしまったのだろう)  私は、そのことが気になっていた。行く方を突き止めるまでは、この建物を出ていくわけにはいかない。私は、この建物に踏みとどまるためにも、大声を上げるのをやめ、係員の指示に従わざるを得ないだろう。  そう観念しようと決心したとき、隣の部屋から、もう一人、人が入ってきた。  背中に光を受けているため、顔の表情は分からなかったが、白髪を伸ばし放題にしている老人が、医者の着るような白衣を来て、近寄ってくるのが見えた。  身長は高いほうではないが、恰幅は良く、広い歩幅で歩いてきたので、この老人は健康そのものなのだと、私は考えた。その予想どおりに、近寄ってきた老人は、私の目の前に来て、  「お待ちしていた、お客さんが見えたようだな」 と太く張りのある声で言って、私の顔を真っ直ぐに見た。          (九)  浦和市立病院を訪れた金井警部補は、受付で名を名乗り、病院事務長への案内を請うた。館内電話で連絡した受付嬢は、  「結構だそうです。事務長室は、二階の廊下のつきあたりです」 と面会の了解を伝えた。  金井は、目の前の螺旋階段を上り、二階に出て、廊下を真っ直ぐに進んで、突き当たりのその部屋のドアーの前に立ち、ノックした。  「どうぞ] 中から低音の太い声が聞こえてきた。金井は、ドアーを開けて、中に入ると、その男は、奥の窓際のデスクから立ち上がって、こちらに歩み寄り、デスクの脇の応接椅子を勧めた。  対面して座ったその事務長は、  「名瀬と言います」 と名を名乗った。金井も名を名乗り、  「ところで、どの様なご用事ですか」 という言葉に促されて、来訪した事情を話した。  「こちらで七、八年前に生まれた子供について、伺いたいことがあるのです。名前は山根葉子といいますが」 と言って、両親の住所、名前等を言い、  「できれば、担当の医師や看護婦がいたら、すこし、お話を聞きたいのです」 と丁重に頼んだ。  「事情は、分かりました。ただ、患者のカルテは五年間は保存することになっていますが、期間経過後は、必要性を認めたもの以外は、廃棄処分しています。ですから、そのころだと、ないかも知れません。それに、カルテを丸のままで、お見せすることはできません。あくまで、医師の立会いでの説明というかたちになりますが、それで良いですか」  「結構です」  「それでは、カルテの検索と担当医の氏名の検索をしてみましょう」  事務長は秘書に命じてその作業に掛からせた。  金井は結果を待つあいだ、名瀬事務長と雑談をしていた。事務長にはほかにも、仕事がありそうだったが、わざわざ尋ねてきた警察官を無碍に追い出すわけには行かないと、考えたのだろう。愛想笑いの奥に、鋭い視線を眼鏡の下に隠しながら、事務長は、病院経営の厳しさなどを話していた。  「病院経営も、最近は、綱渡り状態ですよ。人件費は高騰しているし、高額な最新機械を、入れなければ、競争に勝てないし。だから、どうしても、薬で稼ごうという傾向もでる。うちなどは、公的な期間がやっている病院ですから、そう経営的なことを配慮する必要もないのですが、やはり、赤字が出れれば、市議会からも批判される。これで、なかなか、因果な商売ですよ」  そんな話をしているうちに、カルテ調査の結果が、もたらされた。  深く礼をして,部屋に入ってきた秘書は、  「資料室で調べましたが、その方のカルテはありませんでした。ですが、コンピューターで検索したところ、処分の仕方は、廃棄ではなく、部外持ち出しとなっていました。持ち出したのは、いまは、もう辞職しましたが、前の前の産婦人科の副医長、長井さんです」 と調べた結果を報告した。  「その長井さんというのは」  金井は、名瀬の方を向いて、尋ねた。  「婦人科学会では名前が知られた名医ですよ、そのころは、うちの看板医師でした。こういう公的な病院は、産婦人科の患者が多いのです。ですから、できるだけ、スタッフも充実したい。長井さんは、日本でも有数の不妊治療の権威です」  「それで、今は、いないのですね」  「そうです。もともと、こちらへ来て頂いたのは、当時の市長のたっても希望だったので、ずっと、いるつもりはなかったのです。そもそも、五年契約で来て頂いたのですから。契約が切れて、先生は退職されました」  名瀬は何でもよく知っていた。金井はさらに尋ねた。  「いまは、どちらにいらっしゃるのですか」  名瀬はそん質問を待っていたように、  「それがね。不思議なことが起きたのです」 と言って、てかてかの額の汗をポケットから取り出したハンカチで拭いた後、一たん、深呼吸した。金井は身を乗り出した。  「先生は、うちの病院を辞めてすぐに、蒸発してしまったのです」  「蒸発というと、姿が見えなくなった」  「そうです。先生には、春の産婦人科学会の資料を取りに出掛けたまま、帰らなくなった。もう六年になりますかね。家族は八方手を尽くして、行く方を探しましたが、まだ、見つかっていないようですな。奥さんはこちらにも、なん度か、いらっしゃいましたが」  「警察には届けは出したのでしょうね」  「多分、住所地の警察に出したと思います」  「家はどこですか」  「東京の世田谷です。経堂だったと思いますよ」  「なにか、その動機のようなことは聞いていませんか」  「奥さんは、全く心当たりがない、といっていました。失踪した日は、長女の方の大学の卒業式の前日だったそうです。明日は必ず出席する、といって出掛けたということですから、意図的に姿を眩ませたのではないのではないでしょうか。詳しいことは、警察に話したそうですが」  金井は、それ以上はこの事務長には分からないだろうと、判断して、そろそろ、引き上げることにした。  「いろいろと、有り難うございました。参考になりました」  金井が席を立とうとすると、名瀬は、  「いえいえ、お力になれなくて、またいつでも、調べたいことがあったら、いらっしてください」 と愛想笑いをしながら、送りだした。  ドアーを出かかるとき、金井は、一つだけ聞き逃したことがあるのに気が付いた。  「そういう、カルテを部外に持ち出すようなことはよくあるのですか」  その問いに、名瀬は顔色を変えた。  「そんなこと、滅多にありませんよ。うちでは重要書類の管理に手抜かりはありません」  有能な地方公務員の態度に返って、名瀬は高いトーンでそう言い、後ろからドアーを、バタンと閉めた。  帰り際に、金井は考えた。  (その長井医師とやらの失踪は、この事件と関係がないのだろうか。葉子のカルテだけが紛失しているとしたら、なにか、関係がないとは断定できない感じがする。警視庁でどういう捜査状況になっているかも知りたいところだが。所轄署なら、詳しい調書を取っているだろう)  署に帰って、金井は課長にこの件を報告した。  「そうだな、念のために警視庁に聞いてみてくれ。それで、必要なら、君が出向いて調べてくれ」 と課長は即断した。  そのとき、部屋の隅の電話が鳴った。  刑事たちは、みな外に出ていたから、部屋には課長と金井しかいなかった。金井はしかたなく、電話を取って、受話器を耳にあてた。向こう側の声は、聞き慣れた相棒の山岡の声だった。病院に二人で行く必要はないと判断して、今日は現場の聞き込みの方に回っていた。  「あっ、金井さんですか。良かった。大変ですよ。現場付近を散歩していた人から、目撃証言が得られたんです」  「えっ、そうか。それは、お手柄だな。はやく、帰って来て、話を聞かせろよ」  「分かりました。あと、すこし、この辺を回ってみてから、署に帰ります。宜しく」  金井は電話を切ってから、このあとの山岡の報告が待ち遠しくなった。それまでの時間、一服しておこうと、部屋を出て、廊下の隙の自動販売機の前に行き、ドリップのコーヒーのボタンを押した。           (十)  白衣の老人は、私の方に向いて、握手を求めてきた。  私は、安易にその手を握るのは、憚られたが、老人の態度がとても自然だったので、思わず、握り返して、  「どうも、よろしく」 と言っていた。なにが、よろしくだと、そうした行動をとったあとで、考え直したが、そこには、そうせざるをえないような雰囲気があった。  「どうですかな。一通り、見おわって」  老人は感想を求めた。  「いやあ、勉強になりました。すばらしい博物館ですね」  私は率直な感想を言った。  「博物館。はあ、やはり、そう見ますか。私はここを資料室と思っていたんですが」  「資料室ですか。とすると、公開してはいなのですね」  「そうです。ここは、私の私的な研究所ですからね」  「でも、受付もあって、入場手続きをしていた」  「まあ、時には、あなたのように迷い込んで来るかたもいますから。そのために、心の準備はしています。ですが、ここは、あくまで私的な施設なのです」  「私的なというと、あなたの持ち物だというわけですか。この奇怪な建物が」  「私のだけという訳ではないですが、公開してはいません。奇怪と言われましたが、そう見えますか。目立ちすぎるのかな」  老人は下を向いて考え込んだ。  「ところで、私が、ここに来たのは、一人の少女を追ってきたのです。その少女は、どこにいるのですか」  「少女って。ああ、キメラ一一号のことですか。それなら、あなたが見ていた展示ケースに入っていたでしょう」  老人は意外なことを言った。  「あの人形ですか。あれは、やはり、かぐちゃんだったのか」  「かぐちゃんとは」  「あの少女のことです」  老人は頷いた。  「ところで、あなたは、なぜこの城に来たのだと思いますか」  さらに聞いてきた。  「それは、かぐちゃんが一緒に行こうと言ったからですよ」  「キメラ一一号はそんなことまで、あなたに言ったのですか。やはりね」  「だから、あの子に会いたい。どこにいるのか、探しているのです」  「会いたいといってもね。でも、すでにあなたは、会ったでしょう。あの場所で」  「ああ、あのケースの中のですか、でも、あれは、人形ですよ。私が話しかけても、なにも答えてくれない。ただ、すこし、笑ったような気はしたけど。あれはかぐちゃんじゃあない」  「でも、姿はそのままでは、ないですか」  「でも、私が、知っているかぐちゃんじゃないんだ」  「そうですか。どうしても会いたいですか」  老人は、顎髭を右手で撫でながら、私の目を見つめて、呟いた。  「会いたい。別れてから、ますます、会いたくなった。一瞬でも、離れていると思うと、気持ちが引き裂かれる思いがする。一刻も早く会いたいのです」  私の気持ちは、もう我慢の限界に来ていた。あのかぐちゃんが無事なのかどうか、この目で確かに、確認したかった。  老人は、髭を撫でるのを止めて、また、じっと私の目を覗き込み、  「そんなに、恋い焦がれてくれる人ができて、キメラ一一号も幸せものだ。あいつが、そんなことができるようになるなんて、満足だよ」   「満足って、なぜです。それにさっきから、キメラ一一号とか言っているけど、それは何の記号なんですか」  「それを、あなたに教えるには、時間が掛かる。それに、我々は今、会ったばかりだ。そう簡単に話はできないよ。私が、生涯を掛けてやって来た仕事に係わる重要な秘密だからね。だが、それほどまでに、あれが、本物の人の心を捕らえてしまったのなら、これは成功であると同時に大失敗だとも言えるのだ。考え直さなければならない」  「そんな勝手なことをいくら言われても、私には何がなんだか、さっぱり、分からない。かぐちゃんはどうしているのですか」  「まあ、安心しなさい。あれは、ちゃんと生きている。ただ、すこし、我々がやらなければならないことが出来たので。その順番を待っている。それだけだよ」  老人は憂いを含んだ言い方でそう言った。  「いろいろと能書きはいいですから、はやく、かぐちゃんに会わせてくださいよ。お願いします」  私は、床にひれ伏して、頭を下げて、老人にお願いした。  「まあまあ、頭を上げて。そんなに愛されているあいつも幸せ者だ。わかりました。会わせましょう。ですが、ちょっと、準備が必要です。あなたもあれも。準備が整うまで、別室で待機してもらいますが、よろしいですか」  私に異存がありようもない。  「いいですよ。いくらでも、待ちますよ。どんな準備でもしてください」  私は無条件で、老人の指示に従うとの態度を示していた。  「そうですか、それは、ありがたい。どんな指示にも従って頂ける。それは、こちらには、願ってもない話だ」  老人は、ほくそえんでいた。それは、白い眉の下の小さな黒い瞳が、狷介な色を帯びたので私にもよく分かった。  「では、私の後に付いてきて下さい」  老人は先に立って私を導いた。  私は、老人の白衣を見失わないように注意しながら、暗い第六展示室を出て、明るいホールに行った。そこは、高い天井から大きなシャンデリアが下がっている大理石造りの空間で、進んでいった先の壁に、くすんだ金色の真鍮製の扉を持つエレベーターがあった。高級デパートにあるアンティークなエレベーターと同じ雰囲気の扉だったが、違うのは、上の壁にある回数表示の指示針がないということだった。  老人はただ、その扉の前で待っていた。私もその後ろで、箱が上がってくるのを待っていた。入ってきたときに乗ったエレベーターの階数表示は、二階だったから、このフロアーは二階の筈だった。  しばらくすると、エレベーターの箱が上がってきた。扉が開き、老人が乗り込んだのに従って、私も中に入った。箱は無人のまま上がってきたから、箱には老人と私の二人だけが入る形になった。老人は、パネルの回数ボタンを押した。それは、B4だった。  (地下に行くのか)  私はそう思って、覚悟を決めた。地下となれば、逃げるのは難しい。何があっても、心の備えだけはしっかりとしておきたかったのだ。  エレベーターはさすがに、旧型らしく、騒音をたてながらゆっくりと下がっていった。それは、もどかしいほどの速度だったが、緊張していた私には、それは、かなりの速さに感じられた。まったく、あっと言う間に、エレベーターは地下四階に着いた気がしたのだ。  「さあ着きました。真っ直ぐに進んで、下さい」  老人が、後ろに下がり、私を先に立てた。  私は、物音ひとつしない閑散とした無機質の廊下を真っ直ぐに進んでいった。  突き当たり新しい木製の扉があった。  後ろを振り帰ると、老人が開けるように目配せした。  私は観音開きの木の扉を押して、向こう側に開き、中に足を踏み入れた。  そこに、展開していたのは、素晴らしい光景だった。正面の壁は一面が青く、中で、白い泡が無数に吹き上がり、数えきれない魚たちが、回遊していたのだ。  私は、浦島太郎になった気分だった。そこは、龍宮城のようだった。鯛や平目が泳ぎ回り、その光景をこちらから眺めることが出来るようになっていた。  私は広いその部屋の様子を見た。水槽を望むようにこちら側に、革が張られた高級な応接セットがあり、さらに一番奥のコーナーには、広いキングサイズのダブルベッドが置かれていた。  天井にはめ込まれているのだろうスピーカーからは、心地良いBGMの音楽が流れ、ラベンダーの香りが部屋を満たしていた。  奥に進むとさらに別室があり、そこは、照明も明るく、クリーム色に統一されたダイニング・テーブルセットやキッチンがしつらえられていた。その部屋には料理をするための用具が全て完璧に揃っていた。  別のドアーを開けるとさらに一部屋があり、トイレとバスがあった。壁一面が白と青の大理石でできていて、いかにも清潔そうだった。  「いかがですか。気に入りましたか」  老人は私が一回り、部屋をチェクし終わるのを待っていたかのように、そう聞いてきた。  「それは、素晴らしい。特に、この壁一面の水槽には驚きました」  「それはよかった。では、私はこれで失礼する。用事があったら、あのテレビ電話でなんでも言って下さい。うちの職員が申し受けます」  老人はそう言って、部屋を出ていった。私は後を追ったが、老人が足早に部屋を出ると、分厚い扉が閉まり、私が、開けようとしても、開かなくなっていた。  私はその特別な部屋に、監禁されたのだった。         (十一)  山岡巡査部長が、署に引き上げてきたのは、日が落ちてから、大分経ってからだった。  「いい聞き込みが出来ました」 という電話報告を受けていた金井警部補は、期待して、山岡の帰りを待ったが、連絡があってから余りに時間が過ぎていたので、そろそろ、帰り支度をしようとしていたところに、日焼けした山岡が、姿を表した。  「おい、何していたんだ。遅かったじゃないか」  金井は詰るように言ったが、その顔は期待で一杯だった。  「はい、実は、証言の状況が事実かどうか、確かめていたので」  山岡は頭をかきながら、言い訳を言った。だが、その表情は自信に溢れていた。  「さっそく、その話をしてみろよ。私が聞いて、確信が持てたら、会議で報告しよう」  「まあまあ、ちょっと、これを飲んで、一服させてください」  山岡は、金井が入れてきた自販機のコーヒーのカップを手にして、飲もうとしていた。それは、金井が、自分のために入れてきたのだが、この際、仕方がない。いい話を聞かせてもらうための、投資とでも考えておこう。  金井はそう考えて、この元気な後輩の話が早く始まらないかと、待っていた。  「いやー、あんな事があるなんて、感動しましたよ」  「そんなにいい話なのか。もったいつけずに早く話せよ」 「はい。実は、私は今日、葉子が失踪した公園でビラ張りを手伝っていたんですが、私の張っているビラをしげしげと見ながら考え込んでいるお年寄りがいたんです」  「ふむふむ」  「それで、私は、なにか記憶がありますか。と聞いてみたんです。そうしたら、その老人は確かに、その日の夕方に、葉子らしい子供の姿を見た、と言いはじめたのです」  「そうか」  「私は、老人をベンチに誘い、詳しく話を聞きました」  「その老人は、どんなふうだった」  「年は七十五歳で、近くに住んでいるので、あの公園での夕方の散歩は日課になっているのだそうです。眼鏡を掛けた小柄なお年寄りでした」  「それで」  「話はこうです」  山岡は、話しはじめた。  ーー 老人が、公園に行ったのは、夕方四時頃で、最初は、ずっと公園を一周して、ムラサキツユクサの花の咲き具合いなどを監察した後、すこし離れた場所のベンチに座って、夕日を見ていた、というのです。もう日が傾いて、山の端に差しかかったころ、陰が差していた花の群生地の一角が、突然、急に輝きはじめたので、老人は、そちらの方に自然に目を奪われた。なにごとかと、目を凝らすと、その光は、花の群れの中を漂い始めた。ゆらりゆらりと、花園を行ったり来たりして、止まることがなかった。まるで、夏の蛍の動きのようだと、目を見張って見ていたと言います。  そうこうしているうちに、光は、段々と大きさを増し、縦に長く伸びて、横幅も増した。大きな光の輪は周囲が黄色で、一団と明るく、中はやや暗くて、ハッキリとは見えなかったが、丸い核のようなものと長い緑色のものが見えたというです。老人は、映画で見た宇宙人の姿を想像したのですが、それほど、くっきりとはしていなかった。ただ、光の玉が大きくなった形で、花園の上を飛んでいた。さらに暫くすると、その輪のなかから手や足の様な枝が四本出てきて、最後には、真ん中に頭のようなものが現れた。そして、地面に直立したようなかたちで、こちらに向かって来た。老人は、怖くなって、逃げようとしたが、そのとき、空を見上げると、夕焼けで茜色に焼けた空の一角に、黒い円盤が浮いていて、それが、あっというまに、西の空に消えていった。そこにあった物体が一瞬にして、消滅したのだそうです。  老人は思わず立ち止まり、再び、光の方を見た。すると、その輪は花園からこちらの道の方に向かってきた。老人はそれまで気が付かなかったが、そこに黒い人影がいた。その黒い塊に向かって、光は吸い込まれ、消えたのだそうです。老人は恐ろしくなって、家に帰ろうと歩きはじめたのですが、一瞬後ろを振り帰ると、その黒い塊は、光の輪を手で引くようにして、こちらに向かっていた。老人は、ほんとうに怖くなって、必死で走って家に帰ったのだそうです。光の塊の中には、うっすらと、少女のような影があったようだが、白く薄い輪郭が粉をふいたようにその姿を描いていただけで、顔つきや体型はよくわからなかった、ということですーー。  「これが、老人の話の内容です」  聞きおわって、金井は、釈然としない顔をしていた。  「それは、なにか、本当に、SF映画の一場面のような光景だな」  「たしかに、現実離れしています。ですから、私も、半信半疑で、事実を間違いないように注意しながら聞いたのですが、老人のその部分の記憶ははっきりしていました」  「たしかに、面白い話だが、それが、葉子ちゃんだと、関連つける証拠はないのだろう」  「そうですね。そういう、非現実的な事が起きた、と老人が言っているということだけですからね。ただの、耄碌老人の妄想かもしれない。そう思ったので、確かめようと、そのまま、夕方まで、公園で待ちました」  「待ちましたって。何を」  「ですから、老人が言ったようなことが、再び起きれば、それは、なにか理由は分からないが、自然現象か物理的な現象と言えるでしょう。すなわち、繰り返して起きれば、それは、再検証可能な現象ですから、自然界の出来事です。でも、再び起きなかったら、多分それは一回だけの人工的な特殊な出来事なのです」  「そうか。さすがに若い人は科学的だ」  「それは、高校でも教える科学の方法論ですよ」  「それで、結果はどうだった」  「起きませんでした。花園に光は現れず、大きな塊なんてまったく、見えませんでした」  「空の飛行物体は」  「それは、ありました」  「えっ、あったのか」  金井は驚きの声を上げた。  「でも、ジェット機でした。多分、入間の自衛隊基地のものでしょう。ジェット戦闘機が編隊で、西の空に飛んでいきましたが、それだけでした」  「空飛ぶ円盤は現れなかったのか」  「そうです。結果は、期待外れになりました」  「だから、署に上がってくるのも、憚られたのだな」  「そういう面もありますね。有力証言が得られたなんて、金井さんに言ってしまったから」  「でも、時間は失踪したころだし、場所もその場所だよ」  「そうなんですよ。それらに間違いがなければ、唯一の現場の目撃証言なのでしょうが。話が余りに荒唐無稽でしてね」  「そうだな。その話をしても、信じる捜査員はそういまい。返って笑われるかもしれない。ここは、二人だけの話にしておいたほうが、いいかもな」  「折角、いい話だと思ったのですがね」  山岡は、話しおわって、一気に残りのコーヒーを飲み干し、空になった紙コップを部屋の真ん中にある大きなごみ箱に叩きつけるように投げ入れた。  「だが、折角だから調書に纏めておけよ。日々と相手の住所、氏名を忘れずにな。将来、何かに役立つかも知れない」  そう言われて、一日中、公園にいてすっかり疲れていた山岡は、改めて気を取り直して、机に向かい、ボールペンを手に取り、専用用紙に向かって、調書を書きはじめていた。  そして、一時間くらい経ったころ、山岡は、自分で書いた文書の中から、少女の姿が浮かび上がって来るような奇妙な感覚に襲われた。老人の話では、少女の姿は見えなかったという。ただ、周囲の輪郭が、一際明るい光の輪が、動いてきて、空間を漂っていた、というだけだが、山岡には、その輪の中に少女がいるのが見えていた。その手を引いていく黒い人影は、むさ苦しい髭面の中年男だった。  山岡にはそうでなければならないという深い思い込みがあった。だから、山岡の調書には、「少女が光の中にくるまれて、男に手を引かれて歩いているのを、老人は見た」という文章が、自然に挿入されていた。          (十二)  私は、不思議な建物の地下四階の一室に「監禁」された。ここに招いた老人は、私のことを「お客様」などと呼んでいたが、それは、慇懃無礼な言い方でしかない。とにかく、入口の扉に外から鍵が掛けられ、私が自由に出入り出来ないのは事実なのだ。  ここに入るときに持っていたものは、コンパクトカメラと携帯電話と時計くらいで、鍵を掛けるための道具らしきものは、一切所持していなかった。  腕時計のディジタルは、今の時間を示しているはずだ。それは、午後一時すぎの時刻を表示していた。  「もう、昼を過ぎたのか。緊張の連続だったので、気にならなかったが、腹が減ったな」  私は、台所に行ってみた。そこには、冷蔵庫や炊飯器、ガスレンジなど調理に必要なものは一切が揃っていた。  私は、冷蔵庫を開けてみた、中には、牛や豚の生肉、牛乳、バター、野菜、果物など、一応のものは揃っていた。調味料も、流し台の下の引き戸棚に殆どのものが入っていた。  「これなら、一週間は生きていける」  私は確信した。ガスレンジの着火ボタンを回すと、ガスの火花が勢いよく立ち上がった。  「ようし、好きな料理が出来るぞ」  料理にはすくなからぬ自信がある私は これだけのことを確認して、とにかく生き延びることはできるのが分かって、一安心し、  (なにか、すこし、口に入れてから眠ろう) と考えて、冷蔵庫から卵を取り出した。  卵を三個、ボールに割り、かき混ぜてから、砂糖と塩を加え、熱く熱した平らな卵焼き器に流し込んだ。薄く引いた卵が焼き上がるのを見て、先のほうから手前にくるみこみ、その作業を三、四回繰り返すと、綺麗な卵焼きが出来上がった。  あとは、ハムかチーズがあれば、昼飯には十分だ。私は、冷蔵庫の弱冷凍庫からハムを取り出し、二、三片を薄く切った。チーズもチーズ入れにパルメザンがあったので、それを二口ほど切り、皿に載せた。あとは、フランスパンがあれば言うことはない。それに、熱いコーヒーかカフェオレだ。私は棚の扉を開けて、コーヒーの粉と抽出用のフィルターを探した。それらは、棚の奥に仕舞われていた。  罐からコーヒーの粉を計量カップで量ってフィルターに載せ、熱いお湯を注いだ。コーヒーの香りが部屋中に広がり、心が落ちついた。  パンは食パンがあっただけだった。既に薄切りはしてあったから、オーブンに入れて焼くだけでいい。全ての料理を誂え終えて、ダイニングに持っていき、あとは、ゆっくりとコーヒーの入るのを待っていた。その時間は、捕らわれの生活の初日とは思えない平穏さで、ゆっくりと流れていった。  私の都会の部屋でよりも快適そうなその部屋での生活は、自由に行動ができないという制約を除けば、「食」「住」の面では、一応、満足のいく水準にあったといえよう。  私はコーヒーをカップに入れて、作った料理を楽しんで食べた。ふっくらとした卵の舌触りが、徹夜の長旅で疲れ切っていた私の内蔵まで優しく、柔らかく伝わり、私の体は内部から生き返った。それは、疲れの癒しと体の活力の再生のプロセスを着実に辿っているとの満足感だった。  私は、満腹して、食べ残した食物を容器をテーブルに残したまま、ダイニングを出て、ベッドに行き、横になったまま、知らぬうちに眠っていた。  その眠りは、深かったから、そのあとで、その部屋で起きたことは、全く分からない。ただ、ベッドの前の壁まで、全面を占める水槽が、青のつづれ織の色彩を絶えず、部屋の中に投げかけ、その青の多彩な彩色の中で、水の中に抱かれるような安らかな気持ちになって、横たわっていたことだけが、意識の底にあった。  時折、薄い眠りになって、水槽の中を眺めているような意識になることがあった。そういう時には、小魚の群れの銀色の流れとそれに逆らうような海豚の泳ぎが、目の前で交差したりした。その交差を突っ切る形で、水面から、白布を着た人の姿が、降りてきて水槽の壁面にへばりついた。それは、良く見ると、頭のない人形の姿だった。  私は、これはかぐちゃんではないかと、じっと目を凝らして、肩より上の部分を見たが、どうしても頭や顔が見えない。  (とうとう、かぐちゃんは、首を落とされたしまったのか)  私は衝撃に打たれながら、その白い降下物を見ていた。その白い流れは、上から落ちてきて、水底近くにいたると、底に着く直前に、再び旋回して、上に登っていく空気の流れのようだった。  (そうか、空気を入れているんだ)  私は気が付いて、安心し、再び、深い眠りに落ちていった。  どのくらい眠ったのだろうか。すっかり体が軽くなった爽快な感覚を抱いて、私は目覚めた。  時計を見ると、ディジタル表示は、午後十時半を指していた。  (もうそんな時間か)  私は起きようとして、また部屋を見回した。ここに来たときと、変わりはない。私は起き上がり、先程昼食をとったダイニングに行ってみた。私は、食べ残しのままに、置いてておいたのに、すっかり綺麗に片づけられ、食器類は、流しの横の乾燥機の中に整然と並べられていた。  (寝疲れしたのか、また腹が減った)  食欲があるのは、健康な証拠だ。  (今度は何を作ろうか) とも考えたが、それより、風呂に入って、体を綺麗にし、温かくしたかった。  ここに来たときにすでに、バスとトイレの場所は確認してあった。私はその部屋のドアーを開けて、入っていき、バスの湯の蛇口をひねった。湯は、ふんだんに流れ出てきた。手を差し伸べるとかなりの高温だった。私はもう一つの水の蛇口をひねり、適温に調節して、バスルームを出た。後は、バスに湯が満たされるのを待つだけだ。  その間、夜食は何にしようかと、考えた。なかなか良いアイデアが浮かばないまま、ベッドの隅に座っていると、壁際のライティング・デスクの上にあるパソコンのディスプレーが、青白い光を発して、唸り始めた。誰かが、遠隔操作で電源を入れたのだろうか。それとも、タイマーで自動的に起動するようにセットされていたのだろうか。いずれにせよ、パソコンのスウィッチが入り、起動したのは確かだ。  画面が次々と切り替わり、ウィンドウズ95のロゴが出たあと、「料理レシピ」の画面が現れた。  私は、パソコンに駆け寄り、マウスを握った。なんとタイミングがいいことだろう。この部屋の主が、夜食を作ろうと考えはじめたときに、パソコンが起動し、画面が料理メニューに切り替わったのだ。  私は、  (私は見張られている) という感覚を拭えなかった。どこかに、監視カメラが隠されていて。私は、四六時中見張られているのだ。そうでなくては、こんなにタイミングのいい芸当ができる訳がない。  あるいは、人の心を読むことができる異能者がいるのかもしれない。テレパシーの感知能力がある特別な生物がいて、それが、心を読んでいるのかもしれないと、私は恐ろしい気持ちになった。  だが、腹が減っていては、ろくなことは考えられない。とにかく、なにかを食べないといけない。食堂に行くことは出来ないのだし、出前をとるなどということは、論外だ。あとは、ここの職員による差し入れを待つことだが、その当てはないといっていい。  そういう要求への答えが、このパソコンの起動なのだろうと私は理解した。  表紙にあたる「料理レシピ」の文字をダブル・クリックすると、さらに詳しいメニューが出た。右隅にはフランス、イタリア、中華、和食、洋食などの項目があり、左には、一週間の献立、一ヵ月の献立、季節の献立の項目が列記されていた。  さらに一番下には、「この部屋の収容者への特別メニュー」という欄があり、その下に丸括弧で、  (この収容室に入っている人には、この欄のメニューをお勧めします。保存してある食材を最も生かせるメニューです) という注意書があった。  私は、その勧めに従って、その欄をクリックした。  すると、「第一日目」の画面が現れた。その文字をさらに開くと、やっと待望のメニューが現れた。  その夕食の項目に書いてあったのは、「野菜のクリーム煮のブロッコリー添え」と「梅雑炊」だった。デザートには、ただ、エスプレッソ・コーヒーとだけ書いてあった。  (なんだ、随分簡単な料理だな)  と私は、もっとこってりとしたものを想像していただけに、ちょっと意外だったが、それが、お勧めメニューとあっては、致しかたない。最初の日くらいは、注文通りにしてやろうと、鷹揚に構えて、その料理を作ることにした。  パソコン画面には、「メニューは印刷出来ます」というメッセージも出ていた。私は、印刷の項目をクリックした。すこしの時間待ってから、接続されたプリンターが、唸りを上げて、印刷を始めた。  その書類が排出されてくるのを待って、私は、パソコンを離れ、トイレに行った。バスの湯は一杯になって、入る人を待っていた。  私は着ていた物を脱ぎ捨て、風呂場に行った。湯に足を付けてから、ゆっくりと体を沈めると、足の先から体が暖められて、血液の循環が活発になるのが分かった。  全身を沈めて、私は黙想した。その瞬間、全ての音声が止まり、静寂が部屋の隅までを支配した。  ただ、天井の一角から、静かに小型モーターが回る音だけが、聞こえてきた。  「すー、ズー、シャッ」  モーターは回転を止めた。私は、その音のした方向を目で探った。  その位置の天井には、小さな透明のプラスチックの飾りがあった。それを横から見ると、中で丸いレンズがこちらを見ていた。  (ここでも、監察されている)  私は、そのとき、研究室に飼われているモルモットやハツカネズミを思い出した。  (私は完璧に管理され、監視される部屋に入れられている。しかも、実験動物には、餌は与えられるのに、自分の餌を指示されたとおりに作りながらだ)  そう思い至ったとき、夕食のレシピは自分の思ったままにしようとも思ったが、辞めた。  (そんなことは、いつでもできる。ここ当面は、相手の指示に従ってみよう。相手の出かたが分からないのに。波風を立てる必要はない。まず、相手の意図を知ることが第一だ) と考え直して、指示された料理を作ってみることにした。        (十三)  山根葉子が、姿を消した公園の要所に張り出したビラの効果は、その後も大きかった。  翌日、金井と山岡が出署していると、机の上の電話が鳴った。  山岡が出ると、相手は女性だった。   「あの、公園で行方不明になった女の子の捜索願いを見たんですが、ちょっと、気になることがあるものですから」  その女性は、おずおずと、そう言った。  「はい、どんなことでしょうか」  これは、有力情報に違いないと直感した山岡は、なるべく丁寧な言葉使いで応対しようと考えていた。  「実は、ビラに書いてある日の夕方に私は、一人であの公園を散歩していたのですが、異様な光景を見たのです。あまり友達もいないので、だれにも話していないのですが、もう、誰かに聞いてもらわないと、だめです。私、一人で抱えているには、耐えきれなくなって。そう考えて、もう一度、あの公園に行ってみたら、ビラを見掛けたものですから」  「そうですか。そういう話なら、電話では何ですから、こちらからお伺いしますが、よろしいですか」  山岡は手際良く電話に応対していた。  「それは、結構ですよ。どうせ、この年になって一人暮しですから、ずっと家にいますので、いつでもどうぞ」  山岡はその女性の住所と名前を聞いて、電話を切った。  「金井さん。話を聞きに出かけますが」  声を掛けられた金井は、  「よし、おれも行こう。どうせ、ここにへばりついていたって、俺達は仕事にならない。一緒に行くよ。それで、ついでに、君が昨日言っていた怪奇現象を確かめに、夕方にも、公園に行って見ようじゃないか」  金井と山岡は覆面パトカーに乗り込み、女性の言った住所に向かった。  その家は、郊外の一戸建だった。公園の南側に肩を寄せ合うように建っている終戦直後に建設された市営住宅のうちの一戸で、もう相当の年数が経ってるため、軒や壁板は黒ずみ、歪んでいた。  玄関の標識に  「板尾よね」 とあるのを見つけた山岡が、  「この家だ」 といって、玄関のベルのボタンを押した。  板尾よねは、電話を切ってから、待っていたのであろう。すぐに玄関先に姿をみせて、  「私がよねです」 と名を名乗った。その姿は、電話口の声から想像したより、ずっと小柄で、背がすこし曲がり始めて七十歳くらいの年齢に思われた。  「どうぞ、中へ」  誘われて、警官二人は、部屋に上がった。よねは、二人に茶を出した後、すぐに  「いえ、あれには驚いたわ」 と早速、その目撃談を話し始めた。  ーー あたしは、毎日、散歩に行く場所は決まっているんです。時間も大体、午後四時半すぎに決めている。公園の南門から入り、ゆっくりと、歩いていく。真ん中あたりに行くまで、二十分くらいはかかる。なにしろ、見ての通り、足が悪いんで、すごくゆっくり歩いていく。それから、真ん中の丸い花壇の脇にあるベンチに座って、風景を見るんです。なにしろ、あの公園は側に川が流れていて、水鳥も来るから、ずっと、眺めていても、飽きないんです。そうしていると大体、一時間くらいは、あっという間に過ぎる。あの日も、一時間ぐらいいて、鳩に餌をやったりしていた。そろそろ、日も落ちかけたので、帰ろうかと、ベンチを立ち上がったときに、北の方から、小さな子供の手を引いて、男がやって来るのが見えた。  あたしは、目も悪いので、もう薄暗くなっていたその時間は、あまり遠くまで見えないのですが、なぜ、あんなにくっきりと、二人の姿が見えたのかは、よく分からない。公園には、他にも数人、人がいましたが、そういう人たちとは違って、くっきりと浮かび上がって見えたのです。とくに、女の子は、まるで、昼間の明るみで見るように、明るく見えた。それなのに、姿や形、顔つきは思い出せない。ただぼんやりと、明るい光の塊の中に女の子がいて、その塊を運ぶようにして、男が歩いていた。言ってみれば、明るい大きな風船を連れて歩いているように見えたのです。  あたしは、そんなものは見たことがなかったから、驚いて、ずっと目を凝らしていました。どこにいくのか、気になったからです。二人は、脇目も振らずに真っ直ぐに歩いていき、途中で左に曲がりました。その先は、広い堤防上の広場のようになっていて、遠くまで川を見渡せる。また、車で来る人は、公園の中まで入れないから、その広場に駐車している人もいる。あたしは、足が悪いので、急坂の堤には登っていけないので、光の玉の行く末を目でおっていた。すると、玉はゆらゆらと動きながら、上に登りはじめ、堤の向こうに消えたのです。以上が私が、見たことの全てですーー。  板尾よねは、それだけを一気に語りおえると、ゆっくりと、テーブルの上の茶碗から茶を啜った。  「また、光の玉か」  金井は、聞きおわると、脇に座っていた山岡に向かって、嘆息した。  「確かに、その光の中には、女の子がいたのかね」  金井の視線を受けて、それを遮るように、山岡は、板尾に向き直って、聞いた。  「そうだと思うよ。なにしろ、お人形が着るような白い裾が広がったスカートのワンピースを着ていたからね。女の子だ、それに背格好から大人の女じゃないとあたしは、思ったね。あれは、女の子以外のなにものでもない」  「わかった。それで、男はどんな格好をしていた」  山岡が追いかけて尋ねた。  「男の印象は、余りないんだ。黒っぽいうわっぱりで、くすんだズボンだったような気がするが。なにしろ、もうかなり薄暗くなっていたから、暗いとよく見えないしね」  「背格好はどうなんだい」  金井が聞いた。  「普通の高さだよ。中肉中背というところかな。特に特徴はなかったようだ。ただ、顔に髭が生えていたような感じがする」  板尾よねは、男のことはよく覚えていなかったようだった。それだけ、女の子の印象が強烈だったのだろう。人の記憶ではよくそういうことが起きる。物理的には、瞳は平等に対象からの光線を受け止めているが、脳でその信号を処理するときに、選択がされる。必要な情報が選択され、不必要と判断された情報は捨てられる。それは、記憶の場合も同様のことが、行われる。いわば、二重のフィルターで濾過された核となる大切な情報だけが、記憶として、保存されるのだ。感覚器と脳のこの二重の作用で、光に包まれた女の子の記憶はより鮮明になり、男の記憶は薄められたのに違いない。  金井と山岡は考え込んでいたが、金井が思いついたように、  「それで、男は何か、持っていなかったかね」  それは、なんでもいいから、手掛かりが得たい気持ちから出た、習慣的な質問だった。刑事という職業は因果なもので、たえず、人の行く方を追っている。しかも、その人は不明の場合が多い。だから、その対象を特定するために知り合いの人から特徴を聞きだすのが、習性になっている。質問の形式は大体が同じようなものだ。年齢、風体、背格好、顔つき、着ている物の形や色、持ち物ーー。  金井はその最後の項目をただ事務的に聞いたのだった。  「ああそういえば、肩から何か下げていた。あれは、三脚だな。大きな三脚だったから、思い出したよ。それに、大きなバッグも、あったみたいだな」  板尾の婆さんは、記憶を呼び覚ました。  「三脚というと、それは、肩に背負っていたのかい。バッグと一緒に」  「そうだな。左手で女の子の手を引いて、右の肩に乗せていた。バッグも、右肩に掛けていたようだ」  金井と山岡の二人は頷いた。  「よく分かった、どうも有り難う。また何か思い出したら、連絡してください」  二人はそう言って、頭を下げ、板尾の傾きかけた家を出た。  「おい、これで、君の聞き込みの傍証がえられたぞ。君の聞いてきたことは、間違いないようだ。明るい光の中に女の子がいた。それが、山根葉子であることは、かなりの確率で、確かなことだろう」  「そうですね。私もあまりの非現実さに、あの爺さんは幻覚を見たのかとも考えましたが」  「年寄りとはいえ、二人が見ていたのだ。間違いないだろう」  署に帰りの覆面パトカーのなかで、二人は興奮していた。こうなれば、捜査会議で発表する以外にない。これだけ有力な情報は、今までにはなかったのだから、捜査の進展に大きな手掛かりになるのは必至だった。         (十四)  「監禁室」のバスタブに浸りながら、私は、入っている湯が、透明でなく、しかも、純粋の水よりも軽い感じがするのに気が付いた。それは、昔、酔って、間違って、洋酒を風呂に入れて、入ってしまったときに感じた臭いと触感だった。あるいは、ローションの香りと言ってもいいかもしれない。色がややや青いのは、ローションや整髪剤に入ってるアルコール類によるものとも、考えられた。  (これは、趣向だ。清潔好きなのと香りに肌触りを考えている) とその心遣いに感心したが、よく考えると、それは、心配りではなく、むしろ、何かの必要性からだと考えたほうが、この施設の性格から正しいかもしれない。  私は爽やかな香りに包まれて、湯に浸り、ゆっくりと疲れた肉体と精神を揉みほぐした。湯船の薬品が、体の隅々まで、染み渡って行くのを感じて、私は、うとうとと、まどろんでいた。  暫しのリラクゼーションのあと、私は、西欧型のボディーソープを風呂に入れ、よく泡立てて、体全身を洗った。長い柄が付いた洗い具があったから、その先を体全体に擦り付けて、隅々の垢を落とした。  すると、その擦ったあとに、薬品がしみ込んで、ひりひりとしたが、それは、なぜか心地よい感覚で、しまいには、痒みに転じて、身体中がくすぐられる感覚が強くなったので、私は体を洗う作業をやめた。本当は、体を洗うのは、浴槽の外の流しでやりたかったのだが、バスタブの構造がそうなっておらず、浴槽に入ってあまりの気持ち良さに、外に出るのが面倒になったこともあって、私は、初めて、いつか、洋画で見たような浴槽内での体洗いをやってみたのだ。だから、それは、あくまで、私の自由意思によるものだと、言うことができるが、環境がそういう方向に仕向けたのだ、ということも出来る。  それは、たしかに、そういう風に仕向けられていたのかもしれない。いまとなっては、そうだったとしか言いようがない。なにしろ、その時、私は「監禁室」に入れられていたのだ。  風呂から出て、私は、直ちに、夕食のレシピに従い、料理に取りかかった。「緑野菜のクリーム煮のブロッコリー添え」と「梅雑炊」というのは、和風の洋食と純和風の料理だが、私は作ったことがなかったから、一言一句逃すことのないように、プリンターで印刷したレシピの内容を読んでいかなければならなかった。  食材は、全て、冷蔵庫に入っていた。それらをレシピ通りに誂え、準備した。料理では、炒めたり、煮たり、焼いたり、蒸したりの調理より、下ごしらえのほうが楽しいことがある。特に野菜を切りそろえたり、肉や魚を見栄えよくしつらえたりするのに快感を覚える料理人は多いのだ。それも、プロよりもアマチュアに多いことを私は知っていた。  なぜなら、かくいう私がそうなのだ。全てをしつらえて、最後の仕上げに掛かるときも、新たな興奮がある。それは、調味料で味付けし、好みの味に仕上げるのに、やはり、芸術的な感覚を要求され、それに取りかかった時、料理人は、芸術的な官能を覚えるのだ。  だが、二つのメニューともそれ程、手間のかかるものではないので、段取りは滞りなく進み、短時間で、クリーム煮は煮込みの段階になり、梅雑炊も釜に入って、ぐつぐつ言いだした。  私は、二つの鍋から、湯気が出るのを見ながら、一息ついて、水槽のガラス壁の中の様子を監察していた。  夜もかなり遅くなったのに、水槽の魚たちは動くのを辞めない。  (一体、魚は夜眠るのだろうか) という疑問が私の心に沸き起こった。  たしかに、テレビの動物物などを見ると、夜行性でない魚たちは、夜は尾鰭や背鰭を揺らしながら、静かに水中の一点に止まり、動かないでいる。それを人は観察して、魚も眠っているというのだが、もしあれが、人間だったら、とても、安眠している状態ではないだろう。せわしなく体の一部を動かしながらも、眠ることが出来るのは、不思議だ、と私は子供のころに思ったことがある。  ただ、ウツボやカレイなどの底にすむ魚は、じっとして動かないから、いつでも寝ているようなものだろう、と思ったが、餌の小魚が通りかかると、瞬時の早業で、飲み込んでしまったりするから、あるいは、寝ていないのかもしれない。  (要するに、魚のことは、人間はまだ、大して分かってはいないのだ) という結論に至ったが、夜中にも、様々な動きで、回遊する魚の群れを見ていると、ますます、分からなくなった。ただ、その優雅な動きが、人の心を和ませる力を持っているのは確かなことだ。  暗く沈んだ海の底で、こういう魚たちが、一日中、いや、一年中、あくことのない同じ動きをしていると考えると、地球という銀河系の端の小さな惑星の偉大さがよくわかる。  小さなことを思い悩んだり、些細なことでいさかいを繰り返す人のことなど、一切関係ない次元に、自然の活動は存在している。雄大な自然の景観や動物の活動に感動するのは、そうした超人間的な姿が、人の心に何かの刺激をもたらすからだろう。  (人の世は小さく、狭い)  そういう感傷に浸りかかって、  (私は、さらに小さく狭いこの部屋に閉じ込められている) と現実に返って、身が震えた。  だが、現実を打開する手立ては、今のところ何もない。なにか、道具を探して、扉を打ち破ることは出来ないか。それもここを抜け出す一つの案だが、いますぐに、実行は出来ない。追々、ここに慣れたら、検討する余地のある方法だ。一番、可能なのは、素直に相手の指示に従い、相手が隙を見せたときに、機を見て、反抗にでることだ。今のところ、食事と寝る場所は保障されているようだから、その可能性を、探る方が安全だと考えた。  いまは、隠忍自重の時期なのだ。  そんなことを考えているうちに、鍋が料理の完成を伝えはじめた。私は、火を落として、鍋の蓋を開けた。湯気が迸り出て、旨そうに出来上がった二つの料理を、包んでいた。  私は食器棚から皿と茶碗を取り出し、その中に鍋の料理を空けた。出来上がったばかりの料理は、たとえ不味くても、このうえなくおいしくみえるものだ。そのうえ、私はおなかが空いていたから、「緑野菜のクリーム煮」の香辛料の香りと「梅雑炊」の梅の臭いが食欲を誘った。  あとは、簡単に冷蔵のカニの罐詰めとレタスとマヨネーズでカニサラダを手早く仕上げて、夕食は出来上がった。  レシピの記述を真面目に守ったためか、味は、ごく標準的は、薄味だったが、疲れた体にはちょうどいい。これが、元気一杯の状態だったら、こんなものは、吐きだしていただろう。むしろ、始めから、こんな料理には手を付けない。もっと、こってりした料理が、私は年齢の割りには好きだった。  (このメニューを最初の日に持ってきたのは、メニューの作成者の炯眼だ) と私は感嘆した。  それは、疲労困憊した遭難者に最初は、温かい白湯やお粥を与えるのと同じ効果がある。まずは、お手柔らかに、体を労ること、これが、肉体的なストレスへの有効な対処の仕方なのだ。ネニューの作成者はこのセオリーを忠実に守っていたのだ。  だからこその薄味でもある。私は、その程度の味付けが、ちょうどいいかとも思いながら、なるべく、ゆっくりと、味わいながら、食べ残しをすることなく、全てを平らげた。  満腹すると、後かたずけが面倒になる。使った食器類を纏めて流しに移し、シンクの中に重ねて置き、  (洗うのは後にしよう) と蛇口から湯をながしたままにして、私は最後のコーヒーを味わっていた。最後のデザートまでを全てかたずけてから、食器のあとかたずけをするのが、普通だが、食べ散らかした食器を見ながら、コーヒーを飲むのは私の性に会わないのだ。  (コーヒーは、綺麗な食卓で、それだけを飲みたい)  私はいつもそう思っていたが、そうならない場合が多かった。それは、大勢での会食や公の場での食事でも、最近は守られていないことが多くなった。静かな時間が流れるなかでの、食後の一杯が最高の楽しみだというのに。  コーヒーの最後の一滴をカップから飲み干した時は、もう十二時に近かった。時計は、翌日にあと十分を指していた、私は、シンクの食器類を全て洗って、乾燥機に入れ、ダイニングの照明を消して、ベッドに入った。  かなり広いワンルームのその部屋は、壁一面の水槽のガラスから漏れる暗い青色の光だけが支配する空間に変わった。  私はベッドに入ると、間もなく、眠りに落ちた。それは、激動の一日の最後の心地よい締めくくりになるはずだったが、日常とはあまりにかけ離れた体験が、私の脳の活動をそう簡単には、休息させることはなく、レム睡眠の断続のなかで、私は、今でも現実なのか夢なのかの見分けが付かない、素晴らしい幻影を見た。        (十五)  浦和西署の会議室で、山根葉子の失踪事件捜査の検討会が開かれた。  これまで、三日間の総掛かりでの捜査の成果を、皆で出し合って検討するのが、目的だ。  この席で、金井と山岡は、二人だけが知っている新証言の報告を行うつもりだった。  ただ、二人だけで話し合ったところ、二人の証言者がいずれも老人で、話の内容が一致してはいるものの、現実離れした話であることなどから、果たして、発表しても、信じて貰えるだろうかという、疑問が出てきた。  悪くすると、年寄りの絵空事と一蹴されるかもしれない。ただ、ほぼ同じ内容の証言が二人から得られたことは、かなりの強い裏付けにはなる。二人とも大体同じ時間に同じ公園にいたのだ。それは、間違いのないところだから、あとは信憑性だけが、問題になるだろう。  二人の捜査官の見たところ、老人二人は、意識も明晰で、言うことに矛盾はなかった。ただ、その証言内容が、普通人の現実感覚と大幅に遊離しているのだけが問題だった。  この証言を発表した場合、捜査にどれだけの意味あいがあるのかを考えて見ないといけない。現場から、葉子がいなくなるのを見ていることが、最大の有意義なことだったが、それは、少女らしいいと言うだけで、顔かたちや姿をハッキリと記憶しているわけではなかった。記憶がなくなったのではなく、そもそも、その影が不明瞭だったため、見えなかったのだ。だから、葉子の写真を見せても、二人とも、頭を傾げて、  「この子のような気もするが、そうでないような気もする」 と言っただけだった。  さらに、老人二人は、光の輪のなかにいる少女らしい姿を見ていたが、その輪と手を繋いでいた男の姿は、板尾よねだけが、見ていた。だが、見ていたものの、黒っぽい服を着た髭面の中年男と言うだけで、特徴はハッキリしなかった。ただ、カメラマンが持つような三脚とバッグらしい物を肩から掛けていたというのが、かなり、追究してみる価値のある情報と考えられた。  「光の話はあまりに荒唐無稽だから、抑えておくことにして、葉子らしい姿を見た、としよう。その証言が二つあった。それより、板尾の不審な男の話に重点を置いて話したほうがいいな。その男なら追う価値があるだろう。家に帰ってこないカメラマンの男なんて、この広い日本には五万といるだろうが。あの時間にあの公園にいて、帰らないのは、その男一人だけだ。もっとも、誘拐したのなら、そして、近くに居る人も共犯なら、その探索は難しい」  金井の提案に山岡も、  「そうしましょうか。少女の有力目撃者が現れたということと男が居たという点を柱に、発表しますよ。それでいいでしょう。光の輪のことは隠しておきましょう」 と賛成した。  会議は、専従の捜査員ら十二人と警邏隊や本庁の資料課からも係員が出席したかなり、大掛かりなものだった。  大きな黒板の前に刑事課長らの幹部が並んでこちらを向き、金井らの捜査員らは、黒板に向かった何列かの机に付いていた。  まず、これまでの捜査の経過が、署長から報告されたが、その内容は、  「特に有力な手掛かりは今のところ、得られていない」 というもので、その後、署長は、  「これまでの捜査結果をそれぞれ、報告していただきたい」 と言って、出席者に発言を促した。  山岡が手を上げて、金井と予て打ち合わせたとおりの内容を発表した。  「それは、唯一の有力目撃情報じゃないか。なぜ、内緒にしていたんだ」  刑事課長が血相を変えて、詰め寄ってきた。  「ですから、この場で報告しようと、思っていたのです」  山岡が言い訳を言った。  「ただ、その子供が、山根葉子かどうか、ハッキリしないのです。だから、そう積極的に、報告するべきかどうか、迷っていたのです。私自身そう自信があるわけではないし」  「いや、唯一の目撃証言じゃないか。その男が、少女を誘拐したのだ。間違いない」  「誘拐だとすると、手をつないでいる少女が、抵抗したりするのではないですか。少女はおとなしく、男と歩いていたというのですがね」  「それは、誘拐だからと言って、被害者が泣きわめいたりするとは限らない。誘拐事件の対象となる子供は、案外素直に犯人に付いていったりすることがある」  課長は、そう断定して、その男が、犯人に間違いないと決めつけた。  「全力を上げて、その男を追うことだ。目撃者に署に来てもらい、似顔絵を作ろう。これまでに脅迫状や身の代金の要求はないから、公開捜査も検討してもいいのではないか、と思うが、いかがでしょうかね。署長」  刑事課長は署長に決断を求めた。  「いや、まだ、早いだろう。似顔絵を作るのはいいだろうが、あくまで捜査用だ。公開捜査にはまだ早い。諸君には全力を上げて、その不審な男の割り出しに当たってもらいたい」  署長はそう檄を飛ばした。  「それから、その男が車を使っていた可能性が高いな。土手の上の駐車場の方へ歩いて言ったというのだろう。当日の不審車両を再チェックする必要があるかもしれない。検問にひっかかっているかもしれない。他県警にも協力を求めて、不審車両を洗ってもらいたいが」  署長はそう提案したが、刑事課長は、 「それは、かなり、難しいでしょう。車に乗っていたとしても、どんな車か分からない。検問がどこで行われていたか、他県警に一々聞かないといけない。それは、手間だけ掛かって、そう有効なやり方ではないでしょう」  署長はそう言われて、苦虫をかみつぶした。  金井がそれを見て、手を上げた。  「実は、葉子の出生について、市立病院で、調べたのですが、カルテは五年間しか保存していなくて、詳しいことは分かりませんでした。ただ、担当医の長井医師は、当時は産婦人科の副医長だったそうですが、もう退職していました。ただ、退職後、六年ほど前に、蒸発して、いなくなってしまったのだそうです。家は東京の世田谷ですから、蒸発事件の管轄は警視庁になりますが、いまだに、行く方は分かっていないらしいのです。その長井医師が、当時の自分の担当患者のカルテを持ち出した可能性が高い。長井医師は、産婦人科の世界では、不妊治療の権威だそうです。山根夫婦も長い間、子供ができなくて、長井医師の相談して、体外受精をした。その結果、葉子が生まれた訳ですが、その経緯は長井医師しか知らないわけですから、どうしても、話を聞きたいが、果たせない状況です」  金井が、報告したのは、この調査は、刑事課長から直接命じられたという経緯があったためだが、そう報告して、この件からは手を引きたいという気持ちもあった。  「その長井医師が、蒸発したというのは、どうも、気にかかる。どういう状況で居なくなったのか、警視庁に聞いてみたほうがいいな。全く連絡もなく、居なくなっているのか。何かの兆候はなかったか。そんなことを」  刑事課長は、こともなげに、金井に向かっていった。  (まったく、あの男の思いつきには、付き合いきれないな)  金井はそう思ったが、上司とあっては、そう逆らえない。  「分かりました。もうすこし、当たってみます」 と答えざるを得なかった。  実直な捜査官の金井は、自分の言葉で、いつも新しい重荷を背負いこむ損な性格だったが、与えられた仕事を着実にこなすのも、また、彼のやり方だった。         (十六)  得体の知れない城のなかの一部屋に監禁されていた私は、レム睡眠の断続のなかで、今でも現実なのか夢なのかの見分けが付かない、素晴らしい幻影を見た。  それは、突然、壁一面の水槽の中に現れて、私のほうを見ていた。  頭に巨大な光輪を乗せた長髪の人間が、上の方から降りてきた。長いドレープの付いた白いレースのロングケープを身に纏い、袖も長い薄目の生地で作られたゆったりとした形の長袖で、手には、長尺の金色の丈を持っていた。  顔つきからだけは、それが男なのか、女なのかはよく分からない。ただ、胸に僅かな脹らみがあったことから、若い女性ではないか、と私は、漠然とした意識の中で思っていた。  身長は普通の人の三倍はあるだろうか。水槽の壁面の下から三分の二位までを占めて、その体が、こちらを向いて、迫っていた。  この姿をそのまま人の背の高さに縮小すれば、どこかで見たことのある姿になりそうだった。確かに、その姿は、荒れ地に立つキリストの像に似ていた。手に持った丈で信者の頭をなでて、福音を呼ぶ。そうした画像を、私は、東欧のある修道院で見たことがあった。  私は、目を見開いて、その顔を凝視した。すると、その像は、硬い相好を崩して、優しく笑いかけたのだ。それは、何者をも包み込む、慈愛に満ちた笑顔だった。私は、その笑顔に吸い込まれそうになった。  笑顔を見せてからその像は、両手を高々と持ち上げて、精一杯伸びをした。体の回りの水がかき回されて蠢き、白い薄ものの、身に纏った物が、ゆったりと揺らめいて、青い水の中に踊った。それは、風のなかで舞うヴィーナスのスローモーション映像のようだった。  私は、幅が広いスクリーンの中で、繰り広げられる華麗なレビューを見ているような感覚に捕らわれ、その映像に引き込まれていった。  高々と差し上げた両手を降ろしたその像は、今度は、体を捻って、右に回転した。再び、周囲の水が泡立って、体にまとわりつくように回転した衣服の布の中から、多量な泡が、出てきて、水面に駆け上がっていった。泡と水流の華やかなページェントが、繰り広げられていった。  その像は、右に一回転すると、再び、こちらに向き直り、今度は、右の膝を折って、すこししゃがみこむ姿勢を取った。左の膝もやや斜めに前に折って、体全体を沈みこませ、両手を白い薄もののケープの裾の先端に持っていって握り、そのまま大きく広げ、上半身を前に傾けて、また、微笑んだ。  それは、劇場の舞台で、スターがする観客へ挨拶の動作と似ていた。  (そうか、これから、ショーが始まるのだ)  私は、その仕種から、何かのイベントの始めを予知していた。  だが、その像は、そういう動作をしたあとは、また、最初の直立不動の姿勢に戻り、じっと真正面を向いて、動かなくなった。  私は、動作が止まったのを見て、ベッドから起き上がり、ガラスの壁に顔を寄せて、食い入るようにその像を覗き込んだ。  じっと観察してみると、その像には足がなかった。体は、しっかりとして、肩から腹までの体型を形作っていたが、腰から下は、ぼかし絵のぼかしのように、グラディエーションを持ちながら、消えていた。足元まで、長いケープが、覆っているので、一見したときは、気が付かなかったが、その像に両足がないのは、確実だった。  静かに静止している姿をよく見ると、観音像のような威厳もある。白い上着の襞もくすんだ色に塗り変えてみれば、観音像と同じ形になりそうだ。そういえば、頭の後ろの光の輪は、仏像が背負っている光輪と同じではないか。すっくと立った八頭身のスタイルも、仏像の姿を彷彿とさせていた。  私は、最初は、キリストの姿を見ていたが、静止している姿が、国宝級の仏像と酷似していることに気が付いて、  (そうだ、この場所は、城の形をした建物の中で、日本国内なのだ) と思い出した。  この場所に、西洋文化の基盤を作るキリストの姿が現れることは、可能性としては、少ないのだ、と考え直すと、その像の神秘性がさらに深まった。  (なぜ、水中に、仏像が出現したのか)  私の頭は混乱した。  私は、さらに顔を上に向けて、像の顔をさらにじっくりと観察した。  半眼に閉じた両の目は、薄く開かれた瞼の奥から、こちらを見ていた。頬はふっくらとして、健康そうだった。額は狭く、その上に、真ん中から両側に二つに分けた髪の毛が乗っている。髪の毛は長く、後ろに束ねられた後、丸く曲げられて、頭の頂上に二つの輪を作っていた。鼻は小さいが高く、筋が真っ直ぐに通っていた。口は唇が小さく、形良く鼻の下に収まっていた。  (これは、相当の日本美人だ。のっぺりとした肌艶といい、青銅の仏像そのものだ)  私は感嘆して、引き寄せられるように、像を見ていた。  像は私の正視を、しっかりと受け止めて、微動だにしない様相で、きつ立していた。  私はその威厳に押されて、思わず、像の顔から目を離そうとした。すると、像は、すこし、身をかがめて、頬の筋肉を緩め、唇の幅を広げて、にっこりと微笑んだのだ。半眼の瞼がすこしだけ、見開かれ、中の瞳がこちらを向いた、キラッと輝いた。  私も思わず、その微笑みに、にっこりとして、微笑みを返していた。  そのとき、何かが聞こえた。耳の奥で、何者かが囁いたのだ。それは、音波として、空間を伝わってきて、物理的に鼓膜を震わせて聞こえる音とは、感じが違っていた。  それは、聴覚神経が直接刺激されて、音として聞こえる生理的な音だった。なにしろ、部屋の空間には、音波はなかったのだ。文学的な表現をすれば、心の奥底に響いた音のようなものである。  「ねえ、助けて。私を助けて」  その音は、そう言っていた。  「ねえ、私を助けて」  その音は、女性の声でそう言っていた。  目の前にある像の姿も女性のように見えた。そして、私はその像を目の前にしていたから、その声は、その像が言っていると思われたが、唇は動いていなかった。  (どこから、音は聞こえてくるのか)  私は、その声の元を探りたくなった。だが、声は、直接、脳の聴覚神経を刺激して聞こえてくる。音は伝わってきていないのだから、その発生源を探るのは難しかった。どこからか、直接、信号を伝えてきている、という感覚は、このとき、初めて私は体験していた。だから、その発生源を探ることなど、とても、できかねる仕業だった。  しかし、聞こえてきた内容は、聞き逃すことのできないものだった。なにしろ、その声は、助けを求めているのだ、しかも、若い女性の声なのだ。  「おい、どこにいるのだ。どこから聞こえてくるのだ」  私は、思わず、大声を出していた。だが、応答はない。ただ、  「助けて。私を助けて」 と繰り返すばかりである。  私は、再び、水中の像を見た。その顔は、あらゆる苦悩や煩悩を和ませるような穏やかな微笑みを湛えたままだった。いささかの迷いもなく、人の心を救う仏像の笑顔だった。  私は、それを見て、脳の奥底から聞こえてくる救いを求める必死の声と対比して、その微笑みの中に宿された苦悩の深さを知った。  ここには、私とその像としか、思考を伴って存在しているものはない。部屋は完璧に外界と遮断されている。ということは、この人肉声は、私が内部から発しているのでないかぎり、目の前にいるこの像の内部から発信されたものに違いない。  私はそう確信した。  (では、なぜ、救いを求める声なのか)  その穏やかな表情から、なにかに救いを求めるような苦悩を抱えているとは思えない。  この像が、本当に私に救いを求めているのだろうか。あるいは、この像に救いを求める声を、私が、「傍受」したのだろうか。  それは、心と心のテレパシーによる通信のようなものだから、受け取る方にも受容能力がなければならない。またそれ以上に、大切なのは、相手もこちらも心を通じ合えるような親密な関係であることが肝心だ。  私は、仏像は、偶像であることに思い至った。衆生を救うために、仏教には多くの陪神が作られているが、それらは、それぞれに、独自の機能と能力を持っている。そのなかで観音さまは、その名前のように信者の声を聞いて、音を観じて、悩みを解決し、救いをもたらす役割がある。  (そうだ、この像が、誰かの声を聞いて、それを私に伝えてきているのだ)  私は、やっと、この像の出現の意味と、その役割を理解することができた。  観音像は、誰かの救いの声を伝えに現れたのだ。それは、高性能なトランスポンダー、信号仲介機なのだ。  (では、誰の声を伝えにきたのか)  ここまで来て、私は、確信した。それは、あの少女、葉子、かぐちゃんでないわけがない。  かぐちゃんが、断末魔の助けを求めている。私はそう悟って、矢も楯も堪らなくなった。  (何事かが、起きようとしている)  私は彼女の危機を察知した。だが、何も出来ない。この部屋に監禁されている限り、私は何もできないのだ。  それに、かぐちゃんがどこに居るのかも分からない。この城のどこかに居るのは間違いないことだろうが、どこかは分からないのだ。  私は朦朧とした頭で、そこまで考えたが、その後は、強い睡眠への誘いによって、深い眠りに落ちていった。緊張と疑惑とが私の心を酷い疲労に陥らせ、それが、睡眠への強力な誘いとなって、逆らえなかった。  私がそれから、目覚めたのは、腕時計にセットしたアラームが、午前八時を告げてからだった。私の寝覚めは悪かった。寝覚めたあとも、不快感が付いて回った。その不快感は、こすっても落ちないしつこい垢のように私の全身にこびりつき、その日のスタートを居心地の悪いものにした。私はいらいらして、怒っていた。そして、それは、湿りかけていた私の闘争本能を、ぶすぶすといぶし始めていた。         (十七)  埼玉県警浦和西署の金井警部補は、捜査会議での自らの発言によって、浦和市立病院の前々産婦人科副医長、長井医師の失踪についての調査に着手せざるを得なくなった。  翌日、長井は、警視庁世田谷署に連絡して、一人で、調査に出向いた。車で行こうとしたが、都内での渋滞を考慮して、電車でいくことにした。大体の目処を付けるには、一日あれば十分だと判断していたから、気分はゆったりしていた。  それでも、浦和から世田谷までは二時間弱はかかると見て、金井は、朝八時には、自宅を出た。警察の業務が始まる九時すぎには世田谷署に到着したかった。向こうの刑事課には、九時半ごろ伺います、と連連絡しておいた。  幸い、この日は朝から抜けるような青空が広がり、天気予報は、一日中晴天が続くでしょう、と言っていた。秋の爽やかな空気が、心地よい。  世田谷署は流石に、都内の警察署だけに、朝から人の出入りが激しかった。玄関を出入りする人の流れをかいくぐりながら、金井は受付に行き、刑事課のある場所を聞いた。  それは、二階の隅の部屋だと教えられて、金井は階段を上り、ドアーの上に横長の標識が掲げられた部屋をノックして、中に入っていった。  応対に現れた若い男は、  「ああ、浦和の金井さんですね。昨日電話を戴いた。私は、こういうものです」 と言って、名刺を出した。金井は、名刺を持たないことにしている。若い男の名刺を受け取っただけで、深く頭を下げた。名刺には。警視庁警部、武藤弘とあった。この若い男は、金井よりも階級が上だった。  窓際の応接椅子に招かれて、座った金井は、さっそく用件を切りだした。  「六年くらい前に捜索届けが出されていると思いますが、長井照男という医師について、話をうかがいたいの」  「ああ、それは、昨日の電話で聞きました。古い書類を調べて見たのですが、三つだけその関係の書類がありました。それで、全てです」  武藤警部は、紙袋に入れた書類を、取り出して机に置いた。用意は周到のようである。  金井は書類を手にとってみた。  一つは、「捜索願い」で、多分妻と思われる女性が、「夫が失踪したので、捜査をお願いします」と流麗な筆致で記した書類だった末尾に住所と電話番号が書いてあった。女性の名前は長井操とあった。金井は、この名前と住所、電話番号を警察手帳にメモした。  二つ目の書類は、捜査記録で、家族からの事情聴取の内容が記されていた。  それによると、長井の失踪の経緯は、こうだった。  ーー 夫の長井照男は、昨年十一月まで、浦和市立病院の産婦人科に勤務していましたが、事情があって退職してからは、家で論文を書いていました。それは、不妊治療の新しい手法というもので、翌年の産婦人科学会で発表するつもりだったようです。半年係りで、その論文は、八割方完成していたと思います。失踪した日は、その資料が必要だと言って、市立病院に行くといって出掛けたのです。病院に残してきたカルテの保存期限が切れるので、廃棄される前に持ち帰ろうとしていたのです。ですから、夫は、車で出掛けました。段ボール箱五箱位あるということでした。私も、手つだいましょうか、と聞いたのですが、自分一人で出来ると言って、一人で出掛けました。あのとき、私が引かずに、絶対一緒に行くと言い張れば良かったと、後悔しています。  夫は、そのあと、夕方の五時頃、「全部終わったから、これから帰る」と電話を掛けてきたのですが、それから、二時間たっても、三時間たっても帰ってきませんでした。仕方なく、夕食も片付けてから、念のために夜の十時すぎに、病院に電話したのですが、繋がりませんでした。電話は確かに病院に掛かるのですが、産婦人科の研究室を呼び出すと、三回ほど呼び出し音がしてから、切れてしまうのです。変だなとは思いましたが、繋がらないものはしようがない。なにか、用事が出来て、どこかに行ったのだろうと、考え、そのうち、帰ると思って、私は玄関の鍵を掛けて寝てしまいました。夫は夜中に帰ってきて、朝になると、横に寝ていることが、何回かあったものですから、今度もそうなると思ったのです。  ところが、翌日になっても、夫は帰ってきていませんでした。それが、四日前のことです。私はもう一度、市立病院に電話を掛けて、夫の行く方を探りました。電話に出た事務長は、姿は見かけていないと言いました。病院中を探してもらっても、いないということでした。それで、私は夫の行く方が分からなくなったと知ったのですーー。  調書は簡潔のそれだけを記していた。  「そのあと、車の捜索や、病院での捜査をしたのでしょうね」  金井は武藤に念を押した。  「当然でしょうね。でもその記録は残っていません。車のナンバーと車種の記録はあります。これです」  武藤が差し出したのは、車検証の複製だった。下に陸運事務所の公印が押してある。  「だが、病院での捜査の記録はないですね」  「そうです。どうしたのでしょうね。埼玉だから、行くのを渋ったかな」  「そんな、無精はしないでしょう」  「ですが、都内の警察は忙しいですからね、手配だけで済ましたかもしれない。ほら、ご覧のように、この警察の管内だけでも、現在、五つも特別捜査本部が置かれている状況です」  金井が、壁の上の張り出しを見ると、そこには、「現在設置中の捜査本部」を書いた表が張られていた。たしかに、発砲事件や覚醒剤取引の捜査本部の名が並んでいた。  (人一人の失踪などには、そう係わっては居られないということか)  金井は、場違いな所へ迷い込んだという思いがしてきた。この署員たちは、六年も前の失踪事件に深く係わっている時間的な余裕はないのだと、分かって、それでも、これだけの資料を捜し出してくれた、若く有能な武藤警部の心遣いに感謝した。  これ以上、迷惑は掛けられない。金井は、長井の自宅を自ら尋ねて、家人に事情を聞こうと思い立った。  「いや、有り難うございました。その資料を出来ればコピーして頂いて、それだけで、結構です。御足労お掛けしました」  金井は最後の願いを武藤に言って、席を立とうとした。  「それでは、すこしお待ちください。コピーが出来るまで、まあ、そのまま座っていて下さい」  武藤は部屋を出ていった。多分、別室でコピーを取るのだろう。暫くして、武藤は戻ってきて、紙包みを、  「全部、コピーしてきました。どうぞ」 と金井に渡した。  「これでは、参考にならないでしょうがね。行く方不明の人は、警視庁管内でも年間数百人出ますからね。なかなか、難しい。家族関係や人間関係が微妙に絡んでくる事が多いでしょう。折角、手掛かりを探して、居場所を突き止めても、家族に黙っていてくれと頼まれる場合も多い。事件絡みなら別ですが、単なる失踪の捜査は、警察も熱が入りませんよね」  六年も前の失踪事件を掘り返そうとしている老刑事に向かって、若い出世頭の警部は、思いやりを見せた積もりらしかったが、金井は、その言葉にむしろ、反発するより頷けるものがあった。たしかに、徒労かもしれない。葉子の失踪は幼女だけに事は重大だが、いい分別盛りの熟年男の行く方不明が、それに、どう係わっているのか、いまは、不明なのだ。ただ、捜査官としての第六感に引っ掛かっているだけである。  金井は、長井の住所に行ってみることにした。どうせ、時間はたっぷりある。世田谷署での調査があまりに、簡単に済んでしまったので、まだ、丁度昼時にさしかかったばかりである。  そう考えていると、柱の時計が、丁度、正午を指し、管内の連絡用の放送のチャイムが鳴った。  金井はそれをしおに立ち上がり、武藤に礼を言って、世田谷署を辞した。  金井がメモした長井の住所は、地図を見ると、住宅地の中にある。玉川通りの奥にある戦後の新興住宅地だ。  金井は、  (今、行っても、昼食中かもしれない。腹が減ったし、なにか、食べていこう) と警察から出た通りを歩きながら、食堂を探した。  道は長井の家の方向に辿っていた。家に行く着く前に、適当な定食屋かラーメン屋でもあれば、いいと思って探したが、ここには、そういった庶民の入る食堂は少ない。横文字を並べたイタリヤ料理屋やパン屋がやたらとあるのが目についた。しかたなく、金井は、店の前にランチの実物を飾ったイタリヤ料理屋に入るしかなかった。  その店は、赤と緑と白の三色で彩られた日除けを店の前に張り出している西洋風の店構えの小さな店だったが、店内のテーブルは客で一杯だった。  出てきたウエイトレスが、  「お一人ですか」 と尋ねたので、金井は頷いた。  するとウエイトレスは、  「では、カウンターにどうぞ」 と言って、店の奥の調理場を見通せる長いテーブルの席に導いた。  金井は、その席に座って、  「ランチを」 とだけ言って、注文した。  そのランチは、  「受精卵のオムライスと赤唐辛子のスパゲッティー、エスプレッソ・コーヒー付き」 とメニューにあったが、金井は、それが、どういう料理かは、もちろん、知らなかった。        (十八)  拭いがたい不快感のなかで、目覚めた私は、体全体にこびりついた汚れたものをすべて洗い流そうと、バスルームに行って、シャワーを浴びた。蛇口を捻ると、勢い良く熱い熱湯が迸り出た。熱湯は常に用意されているらしい。そういう点ではこの城の設備は、万全だった。  白い湯気が上がり、天井に登っていった。私は、首から肩、胸、腹、そして下腹部へとシャワーを浴びせ、最後に両足に強い水流を当てて、アッサージした。昨日からずっと、両足がだるく、疲労感が足元に、集中している感じがしていた。  そのあと、ボディー洗剤を使って、全体を泡で一杯にし、全身にシャワーを浴びせて、こびりついているように感じた汚れを洗い流した。そうしている内に、体全体の筋肉がときほごされて、疲れが抜け、体が柔軟性を増したようになった。  私はすっかり、リラックスして、バスルームをでて、大型のタオルで体全体を覆ったまま、再び、ベッドに仰向けに横たわった。  天井をぼんやりと眺めていると、その一角が、動くのが見えた。近寄ってみると、そこに小さな穴が開いていて、その奥にしつらえられたレンズが動いているのだった。それは、バスルームにもあったビデオの監視カメラに違いなかった。  (おれは、どこへ行っても、監視されている)  私はシャワーで一たんは和らげられた怒りが、再び鋭い鎌首をもたげて、体の奥からわき上がって来るのを抑えることができなかった。  私は、台所に行って、長い刺身包丁を手にして、舞い戻り、その先を穴の先に突き付けて、中にあったガラスの瞳を破壊した。動いていた小型モーターの音が止まり、レンズを抱えた回転体も止まって、静かになった。  私は、  (やった。初めての反撃だ。思い知ったか) と快采を叫んだ。  これですこしは鬱憤晴らしが出来た。心に積もり積もっていた物が、一気に吐きだされて、軽くなった心持ちがしていた。  破壊されて床に落ちた破片を拾い集めて、始末しようとしていたころ、天井のスピーカーから声がした。  「あまり、乱暴なことはしないでください。あなたのためになりません」 と女性の声が警告を発した。  私は黙って聞いていた、すると、天井の声は、  「お分かりになりましたか。なりましたね」 とお節介な追い打ちをしてきたのだ。  私は、  「分かるも何も。なんで、あんたたちは、俺をこんな状態にして、閉じ込めておくのだ。早く解放しろ」 と叫んだ。天井の声はそれを聞いて、一度は、黙ったが、側に居る誰かと相談しているような気配が感じられたあと、  「何をお望みですか。言って見てください」 と丁寧に聞いてきた。  「ここからの解放と、かぐちゃんの安全の確認だ」  私は、明確に要求を言った。  「解放は出来ません。それと、キメラ一一号とは、今のところ、会うことは出来ません。再会は、一週間後になるでしょう」  天井の声は、トーンを冷たくして、そう言った。  それは、私には、少なからぬショックだった。一週間ということは、私はその間、この狭い空間に閉じ困られたままなのだろう。  「なにを言っているのだ。そんなに長く、この部屋にいろというのか」  私は、天井に向かって絶叫した。  天井の声は、それに答えず、その後も、返答はなかった。沈黙したのだ。  これは、拷問に等しかった。この部屋で、あと最低限、六日間は過ごさなければならない。そう宣言されたのだから。さらに、その最低限の期間が経過したからといって、解放されるとは限らないのだ。  私は、私の体と命の行く末が全て、完全に相手の手中にあると悟って、絶望感に襲われた。  私に考えられる手段と言えば、強硬策しかない。この体と頭を使って、どうにか、部屋を抜け出すことだ。それが、最後の手段であることは、確かなことだ。  だが、どうすればいいのか、手順も手段も私には、分からず、与えられてもいなかった。  (こうして、悶々として、過ごすしかないのか)  私は、再び深い絶望感に襲われ、怒りがこみ上げたが、いくら怒ってみても、事態が好転するわけではない。そう気が付いて、仰向けになって、天井を見ると、無性に腹が減ってきた。ちょっとした立ち回りを演じたこともあって、空腹感が倍増していた。  (そうだ。飯を食わなければならない)  朝食を取らないと行けないと考えて、メニューはあのパソコンの中にあることが思い出された。  私は、パソコンに向かい、マウスを握った。それまで、パワーセーブ機能で、電気が遮断され、暗くなっていたディスプレーの画面に、光が入って、明るくなり、昨夜見た料理レシピノ画面が現れた。  私はその中から、今日の日付けの画面をクリックして、呼び出した。  そこには、朝食、昼食、夕食、夜食、おやつの項目が並んでいた。私は、朝食の文字のうえをダブル・クリックして、そのページに移動した。  その日の朝食のメニューは、簡単な物だった。  「かりかりのベーコン・エッグとフレンチ・トースト、カフェオレとオレンジジュースのセット」  それが料理の項目で、名前は長いが、要するに町の喫茶店のモーニング・メニューと変わらない。  そういう簡単な料理なのに、材料と分量の書かれたいわゆるレシピには、細かい指定が記されていた。そういうところが、こういうメニュー・ソフトの剣呑なところだ。  (ベーコン・エッグとフレンチ・トーストに分量も何もないだろう)  私は、一人ごちた。だが、食べなければいけない。食べることは生きることの基本だ。それをおろそかにすると、体が基本から弱ってくる。そう思いなおして、私は、キッチンに入っていった。  材料は全て、冷蔵庫と食材倉庫にそろっている。あとは、調理具をレンジに掛けて、火を点ければいい。  私は、  (乗り掛かった船だ。この通りにやってやれ) と腹を括って、その印刷されたレシピ通りに、朝食を作ることにした。  レシピは手順を数字で示していた、最初は、フライパンを熱することだ。そこにバターをひいて、溶けるを待ち、冷凍したベーコンを炒める。カリカリになったところで、卵を落とし、あとは、落とし蓋をして、焼き上がるのを待つだけだ。  そんな簡単な料理だが、卵料理はタイミングが難しい。すこし早くても、遅くても、狙い通りの出来上がりにはならないのだ。  私はそれらの作業を、絶妙なタイミングで、こなしていった。結果は、やはり、絶妙な仕上がりとなった。  この作業の傍ら、フレンチ・トーストを焼き、カフェオレもいれなければならない。簡単な料理でも、案外、面倒が掛かるの物なのだ。そういう意味で、主婦の労働は評価されなければならない。今はその評価が低すぎるかもしれない。  (と言っても、目下、独身の俺には関係ないが)  料理をしていると、まとまりのないことが、次から次へと、頭に浮かんでは消えていく。それが、ストレスの発散になる面もある。これだけの欲求不満解消に役立つのだから、主婦の労働は楽しいのかもしれない。すると、娯楽の一面もあるのか。とすれば、その労働は、単価が高すぎるかもしれない。  思考は止めどなく、移っていく。それが、食事を造り、食べるときの快感でもある。  とにかく、そういう意味での、満足感を味わった私は、朝食をぺろりと平らげて、食器を流しに運んで、水に浸し、テーブルを綺麗にして、ダイニングを出た。  あとは、する事はない。ベッドに身を横たえて、ただ、何かを考える。今度は、寝覚めて活発な活動を始めた魚の群れの回遊を眺めながら、この場所からの脱出の方法を、ひたすら考えた。  自分の力だけに頼るのではなく、外に助けを求めるのも一方法だ。しかし、連絡の手段がない。電話もなければ、声も届かない。  そこまで考えて、携帯電話があったことを思い出した。  私は、ショルダー・バッグから携帯電話を取り出して、念のため「117」の時報案内をダイヤルした。だが、通じなかった。そもそも呼び出し音もしないのだ。  (この部屋はシールドされている) と気が付いて、その手段は通じないと悟った。  外へも連絡できないことが、これで、決定的になった。  私は再び、ベッドに仰向けになって、考えていた。そのとき、あるアイデアが閃いた。  私は期待に追い立てられるように、パソコンのある机に走っていき、マウスを握って、ある操作を始めていた。         (十九)  東京は世田谷のイタリアンレストランで昼食を済ませた金井は、時刻が午後一時を過ぎたのを見計らって、支払いを済ませ、長井照男の自宅に向かった。地図で見ると、その家は、もうそう遠くない場所にあるはずだった。  レエストランは、広い道路に面していたが、長井家には、その先の路地を右に曲がって、狭い道に入り、数十メートルで、着くはずだった。  このあたりは、高い生け垣を巡らした邸宅が多いが、地図に載っている長井家も、かなり広い宅地を占めていた。  金井は、ゆっくりと歩きながら、路地を曲がって、狭い道に入っていった。一軒目は表札の名前が違っていた。二軒目も違う。地図の通りに整然と区画された敷地が続いている。  地図では三軒目が長井家のはずだった。確かに、金井がその家の前に来ると、表札には長井照男とあって、その隣に妻の名だろうか、操という名前が添えてある。  門は、古い芝垣門で、桟が入った木製の引き戸がその真ん中に収まっていた。引き戸には鍵がかかっている。よくみると、右側の門柱に、呼び鈴のスイッチがあった。金井は、そのボタンを二三回押して、応答を待った。  それには、インターホーンは着いておらず、あくまでも来客を告げるのだけを目的に付けられているらしい。  金井は、玄関の方向を見ながら、家人が姿を表すのを待っていた。しばらくすると、居間のあるあたりのカーテンが開いて、白髪の女性が、顔をのぞかせた。こちらを見て、様子を探っているようだ。  金井は、頭でその顔に会釈して、この家を訪ねて来た者であることを悟らせた。すると、老女は、アルミサッシの引き戸の雨戸を開いて、  「どなたさまですか」 とあらん限りの大声で、聞いてきた。  「ちょっと、用事があるのです。私は埼玉から来た刑事です」  金井も、良く聞こえるように、大声で応答した。  「分かりました。すこし、待っててください」  老女は急に声の大きさを絞って、雨戸を閉めた。しばらくすると、玄関のドアーが開き、こちらへ向かう石畳の道を伝って、老女が姿を見せ、鍵を開けて、金井を導き入れた。  金井は名刺は持ち歩かないが、警察手帳は持っている。老女に、手帳を見せて、名を名乗ると、老女は、ちらりと金井の手の内を見たものの、それは、一瞬で、  「やっと、本気になってくれたんですね。警察も」 と頷きながら、金井を家の方に先導していった。  応接間に案内された金井を応対したのは、この老女だけだった。  「ご家族はいらっしゃらないのですか」  金井は率直に聞いてみた。  「家族って、私が家族ですよ」  「照男さんが失踪されたとき、捜索願いを出したのは、奥さんの操さんの名前でしたが」  「ああ、嫁かい。嫁は、息子が居なくなってから、私と一緒に二人で暮らしていたが、もともと仲が良くなかったから、一年も経たずに、出ていった。それも、どこに行くとも言わないのだからね。実家は、東北の方だが、そちらにも行っていないらしい。何度も、問いあわせたが、帰っていないということだった。全く、年寄り一人残して、どこに行ってしまったんだか。息子の失踪以来、この家は祟りにあったようなものだ。悪いことばかりで」  老女は、いきなり、嘆き節を聞かせてきた。  「ところでお婆ちゃんは、照男さんのお母さんだよな」  「そうだね、だが、わしとは血のつながりはない。あれは、お祖父さんの前の人の子供だ。わしは、前の人が死んでから、この家に入ったが、付き合いはずっと長いのさ。今でいう愛人関係だたからね」  「そうですか。苦労したんだ」  「いや、大した苦労なんてしていない。照男は出来が良い子で手がかからなかったし、子供は一人だけしかいなかったから、わが子のように可愛がって育てた。それで、ストレートで東大の医学部に入った。私には自慢の子供だった」  「育ての親の愛情のほうがずっと深いこともあるからね」  「そうだ、照男を生んだ前の人は、照男が三歳の時に死んでしまったんだ。まだ、物心がつかない年だよ。だから、照男はその母の愛は知らないで育った」  春子という名のその老女は、饒舌だった。長い独り暮らしで、話を聞いてくれる人を求めていたのだろう。しかも、それは、息子の自慢話で、その最愛の息子の失踪で一番、衝撃を受けたは、捜索願いに名前のあった妻ではなく、この老女らしいことが、分かってきた。やはり、足で調べることは基本だ。  「奥さんも行く方が分からないのに、捜索願いは出ていませんね」  「それはそうだ。私には、捜そうという気もない。夫の照男はいないし、捜す人は誰もいないのだから、届けは出ないだろうね」  「でも、お嫁さんなんでしょう。お婆さんにとって、大切な人ではないのですか」  「なにが、大切かね。出来の悪い嫁でね。照男には不足の嫁だよ。大体、どこの馬の骨か分からないのだから。照男は、あの女に騙されて、結婚したんだ。もともとは、患者だったんだから。若かったから、色気にやられたのだろう。そういう面では、やり手の女だったからね。私はろくに、口も聞かなかったくらいだ。いなくなって、せいせいしたよ」  春子の言葉には、一々毒があったが、言い方はさっぱりしていて、いかにも東京の山の手の物にこだわらない、怖さ知らずの婦人らしかった。ただ、もうすこし、上品なのが普通だろう。そこが、長い間、日陰暮らしをした女の、隠しきれない品性というものかもしれない。  「それで、捜索願いを出したあとも、全く、手掛かりはないですか」  春子は考え込んだ。  「いや、それが、私は、操が家を出るときに、照男からなにか連絡があったような気がするんだ。何かの報せが届いて、操は急いで家を出たんだね。きっと。これは、あくまで私の感だがね。だから、二人とも、未だに居場所が分からないんだよ。そうでなけりゃ、どっちかの行く方は知れそうなものだよね」  「ははーん。ばあちゃんは、なかなか、鋭い感をしているね。すると、二人は、示し合わせて、姿を眩ましたということだな」  「示し合わせたのか、照男が、寂しくなって、操を呼び寄せたのか分からんが、私は、一緒にいると見ている」  それは、捨てられた老女の僻みと思えないこともないが、一緒に生活してきての肌に染みた感情が言わせたものだから、一概に、当たっていないと言えないだろう、と金井は考えた。  「それで、お婆ちゃんには、心当たりはないのかね」  「だから、一緒に居るのでは、というんだ」  「そうではなくて、居場所の心当たりだよ」  「まあ、日本にはいるだろう。外国に出た形跡はない。二人ともパスポートを持っていないしね。だから、国内のどこかにいることになる。私は、関東地方ではないと思う。もっと遠くだな。しかも、北の方だ」  「ということは、東北地方か北海道だね」  「そんな気がする。なぜそうかというと、二人の新婚旅行があっちの方だったんだ、それに、操の実家も東北地方だし」  「具体的にはどこですか、それは」  「操の実家は宮城だ。二人の新婚旅行先は、北海道と東北地方の周遊だ。夏の熱い盛りで、東北四大祭りを見るのを楽しみにして、行ったんだよ」  金井には、かなりのイメージが掴めてきた。老女の言うことは、実感でしかなく、具体的な証拠があるわけではないが、家族の証言だけに、捨て去るわけには行かない。  この医者は何かの理由で、姿を消した。そして、一年前に女房を呼び寄せて、いまは、一緒に暮らしている。それは、東北地方のどこからしい。  もし、長井医師が、山根葉子の失踪に絡んでいたとすれば、葉子は、東北地方に連れ去られたのかもしれない。  金井は、そこまで、推理して、愕然とした。  金井が若いころ、浦和市立病院から新生児が連れ去られるという事件があったが、その車は北を目指していた。そのころの産婦人科の副医長は、この長井家の失踪した主人だった。  山根葉子が消えた公園は、大宮バイパスのすぐ脇にある。大宮バイパスを北に向かえば、東北自動車道のどこかのインターチェンジに入れるのだ。  (あらゆることが、北を指している) と金井は感じた。  世田谷の長井の家を辞して、金井は、渋谷駅から埼京線に乗り換え、その北に向かって、帰っていった。      (二十)  私が、パソコンの前に座って取りかかった作業は、通信ソフトのアイコンを探すことだった。ウィンドウズの画面には、数十種類のアイコンが、並んでいた。そのなかには、ワープロ、表計算等のアプリケーションや画像、音楽、ゲームなどのアイコンと並んで、インターネットやパソコン通信に接続できるソフトのアイコンが、あるはずだった。  私は、そのソフトを起動して、外部との通信を試みようとしていた。  その基本ソフトはウィンドウズ95だったから、インターネット・エクスプローラーが、設定されいるはずだった。  画面をスクロールすると、確かに、エクスプローラーのアイコンが現れた。私はその絵をクリックして、中を開いた。画面に現れたのは、確かに見慣れたエクスプローラーの画面だった。これだけでは、パソコンは外部には繋がっていない。接続ソフトを起動して、電話をダイヤルするか、LAN(地域ネットワーク)が構築されていれば、サーバーのホスト・コンピューターへの接続手続きを取らなければならない。  私は接続ソフトを探した。それは、PPPというイニシャルを記したアイコンの中にあった。それを起動すると、ソフトは自動的に電話番号をダイヤルし始めた。何回かのトライアルを繰り返していたが、結局、相手には繋がらなかった。  私は、なぜだろうと、考えた。  回線が繋がっていないのか、モデムが繋がっていないのか、それとも、ソフトが動かないのか。少なくともソフトは、起動したようだから、原因は他に考えられる。このコンピューターは、モデムは内蔵型になっている。だから、外観からは分からないが、モデムは繋がっていることは、間違いない。すると、回線が繋がっていないのだろうか。  私は、パソコンのきょう体の後ろに回って、通信回線の接続を調べて見た。電源コード、プリンターコード、音声出力コード等に混じって、もう一本、細くて偏平な灰色のコードが見つかった。それが、通信回線に違いなさそうだった。  回線も繋がっていた。すると、後はその先が問題だ。この壁の向こうに出ている回線の先が、切断されているか、あるいは、切断器で遮断されているに違いない。すると、それを繋げないかぎり、外部の通信回路との接続は、断念せざるを得ない。  私は、閃いたアイデアは抜群だと小踊りしていたが、こうなっては、奈落の底に突き落とされた心境だった。  もう外部に危急を知らせる手立てはない。  私は、パソコンのディスプレーを離れ、また、元いたベッドに戻って、両手を頭の下に置いて、天井を見上げて、ただ、考えていた。  (私は、こうしているだけで、何もできない、何も知らない)  これを、籠のなかの鳥の心境と言うのだろうか。囚われの身の不自由は、これといってなかったが、わが身、わが体を、束縛なく行動させられないことが、最大の苦痛であることに変わりはなかった。外で活発に活動するのが、なによりの楽しみであり、取り柄でもあった私には、これは、拷問以外のなにものでもない。まだ、二日目だというのに、私の精神は、確実に萎縮し、内向化を始めて、殻に閉じこもり掛けていた。  私には、それが高じていくと、危ういことになるという恐れがあった。こういう状態が、さらに、一週間も続けば、私は間違いなく、狂気に陥る。その前に、何かの手立てがなければ、私は、この周りのあらゆる物を全て破壊し、最後には、自らも傷つけて、消滅させてしまうことは明らかだった。  そうなる前に、  (お前たち、おれをどうにかしろ)  私は、天井の監視カメラをにらみ付けて、唾を吐きかけた。カメラは、それでも、定期的な回転動作を止めず、以前と変わらず、規則的に室内を舐め回し続けていた。  私は、疲れたから、そのまま、ベッドで眠ることにした。こちらからなにかをしようとしても、何も反応がないのでは、徒労でしかない。やることがなくなったら、人はただ、眠るだけだ。私には、そういう経験はなかったが、人生ですることがまったくなくなり、ただ寝ることしかなくなった人は、寝ることにまでは飽きないのだろうか。寝ることに飽きたら、人は何をすればいいのか。その先には、生命の終焉があるのだろうか。  まだ、私には、人生で分からないことが多くある。私は、まだ、寝ることで、疲労を回復し、翌日の活動のエネルギーを再生することが必要だが、その必要がなく、寝ることが目的になる時が来ないとは限らない。その時、現在は安息である睡眠が苦痛になって、私の精神と体を蝕むかも知れないのだ。そのことは、実感はないが、想像はできる。その時、安息の手段は、苦痛の根源になる。  そんなことを考えると、いまの閉鎖的な環境も、考えようによっては、苦痛でなく、快楽に変える方法が考えられるかもしれない。  一生、狭い籠や檻のなかで終える飼育動物の気持ちはどうなのだ。動物園で生まれ、動物園で育った野性動物の子供たちは、野性の血が騒がないのだろうか。かれらは、仕方なく、檻の中の生活を甘受して過ごすのだろうか。全てがそうでないにしても、自らの置かれた環境で、満足してしまう個体も多いに違いない。檻の中で野性の血をたぎらせるのは、野性動物の子供でさえ、得策でないのを知っている。時折、野性に戻って、人間に危害を及ぼす物も出てくるが、そういう反逆者の行く末は、処分ということに決まっている。  私も、この環境に従わず、自らの力に頼って、脱出を試みて、失敗したら、その結末は死なのだろうか。死は恐怖である。成功したときの喜びと、失敗したときの恐怖を秤に掛けていては、自力の救出など初めからできないのに決まっている。脱獄を試みる者に、失敗したらの配慮はない。ただ、解放されたときの喜びだけを夢見て、彼らは、無謀かもしれない試みに挑戦するのだ。  私の頭の中を、様々な感情と思考が巡っていた。それらには、いずれも実行可能性と現実性の面で、難があった。一人ではどうしようもない、というのが、全ての計画の実行可能性を阻害していた。  (こういうときは、やはり、寝るのに限る、ほかにすることはないのだから)  私は、考え疲れて、頭を空っぽにして、眠ろうとした。  すると、そう睡眠を欲していないだけに、半覚醒状態で、またまた、いろいろと、幻想が巡る。そのなかで一番、最後まで、脳細胞の隅にこびりついて離れなかったのは、あの白衣の老人と、天井のスピーカーが、同じように言っていた、かぐちゃんの呼び名のことだった。  彼らは、かぐちゃんを。  「キメラ一一号」 と呼んでいた。  それは、どういう意味なのか。記号のようである。号というところが、特にそういうニュアンスを持っている。  「キメラ」とはどういう意味なのか。私にはその言葉についての知識がまるでなかった。  ただ、その呼び名が、機械的で、符号的なのは、その対象が、人ではなく、観察可能な実験動物のようなものだということを、示しているという感じがした。人を記号で呼ぶのはその相手の人格を認めないという意思の現れなのだ。それは、犯罪者が監獄や拘置所で名前を剥奪され、番号で呼ばれる意識の傾向と符合している。  人の形をしている者を、呼び名でなく、記号で呼ぶのは、相手の人格を認めないだけでなく、相手をコントロール可能なものとして考えているということの現れでもある。いわば、自分より下の自由意思のない存在として、相手を扱っているということの証拠なのだ。  (すると、自由な行動が制限されているおれも、やつらは、記号で呼んでいるかもしれない)  そう考えが至って、私は、全身を悪寒が走るのを感じた。        (二十一)  浦和西署に戻った金井は、今日の出張の成果を反芻していた。自動販売機で、いつもの百十円コーヒーを入れてきて、それを一口啜ったときに、山岡がやって来て、  「どうでした。世田谷は」 と聞いてきた。  「うん、中々面白い話が聞けたよ。長井の家は、複雑だった」  「複雑って」  「複雑という言葉でなければ、所謂、幸せそうな中産階級の家にも、いろいろ、事情があるってことかな」  「世田谷の高級住宅地だったんでしょう」  「そう高級でもないが。一応は、纏まった住宅地の中にあった」  「話してくださいよ。その面白い話とやらを」  「うん、いま、考え中だ。話は面白かったが、この事件との関係は、特になさそうなんだ」  「ないんですか」  「ないとは、言い切れないが、あるという証拠はない」  「そう勿体ぶらずに、言ってくださいよ」  「そうだな。長井医師の捜索願いを出した妻の操さんだが、彼女も、失踪していたんだ」  「ええっ」  山岡は、びっくりした声を上げた。  「家には、長井の母親がいただけだった」  「その、母親に会ってきたのですか」  金井はただ、頷いて、  「そうだ。その人がまた、凄い人だ」  「凄いって、どう凄いんですか」  「あれは、猛母だな。きっぷはいいが、口も悪い。まあ、竹を割ったような性格とでもいうかな」  「面白い。僕は、そういう女性は好みだな」  「もう相当の年寄りだぞ」  「僕は、年寄り殺しですから」  「おれは、辟易した。だがな、話は面白かった」  金井は、長井春子の話したことを、簡潔に取りまとめて、山岡に話して聞かせた。  聞きおわった山岡は、  「そうですか。すると、金井さんは、葉子も東北にいると考えているんですか。その長井医師と一緒に」  「いや、一緒にいるとまでは、言わないが、方向としては、二人とも、いや、長井の妻を入れれば、三人とも北にいるという感触があるのは、確かだ」  「でも、それを、捜査会議には出せないですね」  「そうだな。感触だけだからな。これも君と私の二人の間だけにしておいてくれ。ただ、婆さんが言ったことは、報告しておかないと」  金井は、刑事課長の席に行って、山岡に話したのと同じ話をした。課長は、  「そうか。参考になったな。長井医師との関係はハッキリしないが、いずれなにか、関係が出てくるかもしれない。記録にしておいてくれ」 と指示した。  席に戻ってきた金井は、その指示をすぐに実行するのではなく、用紙とペンを持って、ずっと、考えごとをしていた。  それは、公園で老人二人が見た光の輪と、今日の昼飯に食べたイタリア料理屋での定食が、なぜか、光景の記憶として、同時に金井の瞼の下に現れたため、その二重映しのイメージの関連性について、すこし、考えざるをえなかったからだ。「受精卵のオムライスと赤唐辛子のスパゲッティー、エスプレッソ・コーヒー付き」のメニューは、色彩が豊かだったが、味はそれほどでもなかった。その色彩感が、いまだに金井のなかに残像として残っていて、今頃になって、再生されたのだ。それは、そろそろ夕食の時間で、空腹なのに、コーヒーしかないという今の状況から来るものかもしれなかった。腹が減って、食い物の影を見るのは万人に共通している傾向だ。  金井には、オムライスの黄色い色と、その上に乗っていたケチャップの赤が、特に印象的に思い出された。その卵は、普通の卵よりこってりしていて、味に厚みがあった。そこが、「受精卵」たるいわれなのだろう、と金井は思っていた。  だが、この二つの風景が、突如、一緒になって、脳裏を襲ったのには、当の金井自身が驚いていた。  (なぜ、唐突に、二つが出てきたのだ)  そのことを、金井は考えはじめていたから、課長の言った報告書を書くことなど、すっかり、忘れていたのだった。  だが、そういう経験は、これが初めてではない。昔、強盗事件の捜査をしたときに、三人組の犯人のうち、一人が逃走して、緊急配備した時、警邏係だった金井は、無線でその男の人相の手配を受けた。言葉で人の顔つきの説明をするのは、難しい、しかし、パトカーにはファックスは、搭載されていないから、話言葉で特徴を手配するしか方法はない。連絡は、大雑把で、目撃者の話をかいつまんで言っているだけだったが、金井には、明確なイメージが浮かんでいた。  「二十歳代で、馬面で、髪はオールバック」という手配の特徴だけで、金井はその犯人の顔を輪郭がだいたい分かった。そして、最後に「くすんだ感じ」と無線は言ってきた。多くの手配を受けた警察官はそれだけでは、人の顔を具体的に思い浮かべるのは難しいだろう。だが、金井は、それだけで十分だった。金井は、不審者の特徴をハッキリつかんでいたから、路上の職務質問で、その逃走犯を検挙する事ができた。  それは、金井が内心誇りにしている、図形的な直観能力だった。そのお陰で、金井は、刑事課に異動し、かねてから希望の刑事になれたのだった。  だから、金井は、二つの映像が同時に脳裏に出現したことは、単なる偶然ではないと考えたかった。そういう、直観には、自信があったから、  (これには、なにか、意味があるに違いない) と金井は、考えたかった。  だが、いくら考えても、あまりにかけ離れた状況と場所で経験した二つの事象なのだ。つながりが、特にあるとは思えなかった。  ただ、イメージは鮮烈に。二つの事象の関連性を訴えている。それが、なにかを金井は考えていたのだが、手掛かりはない。  しかたなく、金井は報告書の作成に取りかかったが、書こうとしても筆が、すこしも進まない。さきほどのイメージがこびりついて離れないのだ。  (きょうはもう、だめだ。急ぐことはない、あくまでも、参考の資料なのだから、明日に回そう。そういう先送りも、芸の内) と納得して、帰り支度を始めた。  コートを着て、帰ろうとドアーの外に出たときに、山岡が通りかかって、  「おや、もう引き上げますか。どうです、たまには、一杯いきませんか」  と右手で、輪っかを作ってぐいと引き上げ、飲みに行こうと誘った。  これから、家に帰るには、確かにすこし、時間があった。  「そうだな、たまには行くか」  金井は応じて、山岡がロッカールームで帰り支度をして、出てくるのを待っていた。  二人には、駅前に行きつけの焼き鳥屋があったが、山岡が、  「うまいステーキ屋を見つけたので、そこで生ビールと分厚いステーキと言うのはどうです」 と誘ってきたので、金井もそれに同意した。  そのステーキ屋は、国道沿いに新しく出来た郊外レストランだった、だが、署からは歩いてもそう遠くない。  ファミリーレストラン型のその店は、夕方とあって、母親に連れられた子供たちで込んでいた。  金井と山岡は、ウエイターに案内されて、奥の衝立で区切られた別室に入っていった。  「ここなら、ゆっくり出来る」  山岡は、子供たちに折角の席を邪魔されるのを心配していたから、それで、一安心して、席に落ちついた。  ウエイターが、注文を聞きにきた。テーブルのうえにあるメニューに、「豪州産のチルドビーフがお勧め」とあったので、二人はそれを五白グラムずつ、ミディアムの焼き加減で注文し、生ビールの大ジョッキを二杯頼んだ。  「このチルドビーフってのは、なんだい」  金井が、山岡に聞いた。  「それは、半冷凍で輸送してきた肉ですよ。輸送中に熟成して、味が良くなるのだそうです」  「肉の味がか」  「そうです。うま味が出るんだそうです」  「人間は食い物を旨く食べようと色々なことを考えるんだな」  「そうです、人の知恵は限りがない。最近じゃあ、遺伝子操作とか言って、害虫に強い野菜とか、腐りにくい果物なんてのも自由自在に作れるそうです。それが、植物だけかと思っていたら、牛も人工的な細工をされるようになったようですよ」  「どんな細工だね」  「雄牛は本来、角を持っている物でしょう。闘牛なんかでみる牛は、みな長い角を持っていますよね」  「確かに、それで」  「ところが、肉牛には角は必要ではないんです。むしろ、お互いに突つき合って、体を傷つけたりする。角はないほうがいいのです。だから、子牛のころ、生えてきた角を切るのですが。これが、大変な作業だ。暴れる牛の背後に回って、機を見て大きな鋏で切るんですが、そんな手間は掛からない牛が出来れば、その必要はなくなる。それで、たまに、角のない牛が生まれるのですが、その牛の遺伝子を採取して、受精させるという手法が最近開発された。角のない牛の受精卵から核だけを採取して雌牛から取った卵細胞に組み入れた後、卵を複数の雌牛の子宮に入れて、胎児を育てるのです、すると、一気に多数の角のない牛が生まれる。人の技術は、ここまで来ている」  「随分詳しいね。子孫のありかたを決めるのは、神の仕事ではないのかね」  「人はその領域にすでに踏み込んでしまったのでしょう。だって、いまや、人の子供だって、人工的な細工がされる時代ですよ」  「そうだな。長井医師はその先端にいたんだ。人工的に受精させて、体内に返す。牛と同じだな。それを不妊治療に応用していた」  「でも、子供が出来ない夫婦には、朗報ですよ」   「たしかに。だから、需要は豊富にある」  「でも、そうやって、自由に出産を操作できるようになると、際限がないですね」  「そうだな。体外受精では、受精を人の手でやるんだから、その気になれば、どうにでもなるな。保存しておいた精液を混ぜたってわかりゃしない。それに、細胞の分割が始まってからだって、操作は出来るだろう」  「全ては医の倫理に係わってくる。患者は医者を信頼するしかない」  ステーキができて来た。ビールもテーブルに並べられて、乾杯したあと、二人は、ステーキをぽくついた。  「ところで、金井さんは、受精の瞬間を見たことありますか」  「いや」  「この前テレビでやっていたんですが、精子が一匹だけ卵子の膜を突き破って、核に向かって入っていくんです。その一匹だけが入った瞬間、膜が化学反応を起こして、他の精子の進入を妨げるようになる。それは、本当の一瞬のことで、ぱっと、光が拡散したような見事な変化なんですよ」  「光が拡散するようなか・・・・・・」  金井の脳裏をまた、あの映像が覆いはじめた。それは、まるで、録画された画像のように、正確に黄色い光の輪と一緒に、黄色い卵が出現するのだった。       (二十二)  私が監禁生活に入れられてから、三日目が過ぎようとしていた。なにも、する事がないので、ただひたすら、ベッドに寝そべって、考えごとをしている。  その考えの最初に出てきたのが、  「私も記号で呼ばれているのではないか」 という疑問だった。たしかに、この城に来てから、私は名前を呼ばれたことはない。  水槽には変化がなかった。魚たちはゆったりと回遊し、時折、大きな海豚が姿を見せて、こちらを覗き込んだ。私は、見るとはなしにそれらの動物たちを見ていた。そうしていると、自然と、壁際に寄ってくる魚や海豚の見分けをしたくなってくる。  (いま、来たのは、さっきのとは違うのか)  そういう思いが湧いてきて、つい、区別したくなってくる。分類と選別は、人の知的活動の重要な機能を占めていることが分かる。そういう、カテゴリー化で、人類は情報を整理し、知恵を拡大してきたのだ。その最初の作業は、それらの一つ一つに名前か記号を付けることだ。それによって、個の選別が容易になり、それぞれの特徴の把握と分類、整理が可能になる。  私は、頭の白い大型の海豚を「白頭」と名付けて、その行動を観察した。次に、やや大きめの鯛を見つけて、「大頭」と命名した。さらのこのやり方で、十数種類の水槽の中の相手に、名前を付けていった。そして、その観察記録を、ノートに取ろうと考えた。ノートはサイドデスクの引き出しに入っていたメモ用紙を使い、筆記具もその側にあった鉛筆で間に合わせた。  一頭、一尾ずつの名前を記したあと、その後ろに体の特徴と、行動の跡を書いていく。それだけでも、かなりの暇つぶしになった。そうやっていると、また、時間の過ぎるのを自然と忘れることができた。  くつろいだ姿勢で、その作業を続けている内に、いつの間にか時間が過ぎて、そろそろ、作業に飽きて、腕時計を見ると、時刻は夜の八時になっていた。  そんなにまで、集中して、この作業に係わっている内に、私は、ある法則に気付きつつあった。それは、まだ、もうすこし、検証が必要だが、ここに泳いでいる魚たちには、共通した一定に特徴があったのだ。  私はその発見に興奮していた。それは、物理学者が、この世に存在する物質の共通原理を発見した時の喜び、数学の定理を発見した数学者の興奮に匹敵することかもしれない。  私はその興奮を胸にしながら、そろそろ、夜食の準備をしないといけない、とも考えていた。  だが、この発見の意外性と喜びには、食欲は叶わない。私は、八時を過ぎても、観察を続けることにした。今日の夕食は抜きにすることに決めたのだった。  私は、さらに克明に、記録を付けていった。対象も二十種類以上に広げた。その結果、特有の名前は無理になり、自然と、記号や数字を使って、区別するようになっていった。たとえば、うつぼの最初の観察対象は、「U1」とし、さらに大きさや色の特徴も、その記号に含ませることもした。大型で色が緑なら「L」とか「G」の記号を後ろにつけるのだ。  そうして、手を広げた観察のために、私はその夜は殆ど徹夜をした。睡魔に対抗できなくなって、眠ったのは、監禁四日目の午前四時ころだった。  ベッドのサイドテーブルの上は、書き残したメモ用紙で山が出来ていたが、私は、それらを整理することなく、睡魔に襲われてやっと、眠りに就き、起きたのは昼過ぎの、午後一時頃だった。と言っても、それは、私のディジタル腕時計での表示であり。日の光の入らない地下の部屋では、体感的に時刻を知ることはできなかった。  とにかく、時計に従えば、私は昼過ぎまでゆっくり寝ていたのだ。  目覚めてから、私はメモの整理に取りかかった。腹も空いていたが、台所で、食パンを二切れ、トースターで焼いてきて、冷蔵庫にあった苺ジャムを塗り、牛乳をコップに入れて持ってきて、不味いトーストを片手で流し込んだ。  その間も、もう一方の手では、メモを取り続けていた。そうしているうちに、回遊してくる時間的なインターバルや一緒に動く仲間など、かなり、詳細な記録が徐々に蓄積されていった。  その作業は、トイレに行く時間以外は、その日も継続して続けられ、私は、懲りずにメモを取った。そのうち、紙が足りなくなったが、裏返しても使い、字も小さくして、用紙の使用効率を高めた。  そうして、四日目は過ぎていったが、その日は大体の検討も付いていたし、二日続きの作業で疲れてもいたので、早めに寝た。夕食はコンピューターのレシピに従い、「ドライ・カレー」を作って食べた。量も多めに出来たので、明日の二食分までは、それで、持ちそうだった。  五日目に私は、データの徹底した分析に取りかかった。すでに、私は、ある直観を得ていたが、それを証拠付けるためには、多数のデータを分析して、系統付けることが必要だ。  それぞれに、共通する特徴と特質を抽出し、位置付けを行う、その作業は、手間の掛かる、根気のいる作業だった。私は、最初の十数種類の分類をするうち、  (これは手作業では、手間が掛かってしかたがない) と実感した。  (そうだ。こういう作業は、コンピューターに任せるのに限る) と思いついた私は、それまでの作業の成果を、あのパソコンに入力し、データ・ベース化しておくことを思いついた。そうしておけば、データの分析、加工は意のままになる。  私は、メモ書きしたデータを、丁寧にパソコンのデータ・ベースに打ち込んでいった。だが、手で書くようには、作業は進まず、打ち込みだけで、その日は、終わった。  この日も疲れ切って、私は、早めに寝た。作業の片隅で、このデータを分析する手法を考えなければならなかったし、その手法は、余りにも多くありそうだったので、どの角度から見てみようか。最初の直観による、法則の確認だけでは、もったいないような気がしてきたのだ。  六日目の昼頃には、データの打ち込みは終わり、私は分析するためのソフトを起動して、作業に取りかかった。そのためのソフトの最初は、表計算ソフトで、そのなかに、項目を立てて、打ち込んだデータの共通項を検索表示させる。それだけである一定のカテゴリーにかなった項目が選択されて示され、法則を明示してくれるはずだった。         (二十三)  金井は、翌日一日がかりで、長井春子から聞いた話を報告書にまとめ、上司に提出した。そのなかに、長井照男の妻の操も失踪したという事実を書き込んだのが、刑事課長の目に止まった。  「照男は奥さんと一緒にいるのだろうか」  「それは、その話からは分かりませんが、私の勘では一緒だと思いますよ」  「操の生まれは東北のどこなんだな」  「宮城だとか言っていたようですが」  「その家には確認したか」  「いえ、ただ、春子は電話して聞いたようです。そのときは、行っていないという回答だったようです」  「もう一度、聞いたほうがいいかもしれないな。どんなきっかけでも、一つ一つ潰していかないといけない」  「分かりました」  金井は、操の実家への直当たりを命じられた。  金井は、長井の家に電話して、春子から、操の実家の電話番号を聞き出した。すぐに、電話したが、その電話番号は、使われていなかった。金井は、その結果を得てから、再び、長井の家に電話を入れて、春子に、番号に間違いがないかを確かめた、春子は、前と同じ番号を教えてから、  「前に電話したときは、母親が出てきたが、おかしいね。引っ越しでもしたのだろうかね」 と怪訝な声で、不思議がっていた。  金井は、これで、操の実家への手掛かりを失った。ただ、区役所で住民票を調べ、本籍地を探る手は残されている。  金井は世田谷区役所に電話して、住民課を呼び出し、警察の仕事だと言って、調査を依頼した。だが、電話に出た係の女性は、  「電話では、応対できません、こちらへ直接お出でになって、必要な書類を提出して頂きたい」 と言ってきた。  金井には特に仕事はなかったから、これを、渡りに船と考えて、外出するむねを告げて、署を出た。前に長井の家に行ったと同じ経路で、世田谷区役所に向かった。  区役所の窓口で、警察手帳を見せて、用件を言うと、今度の係は、如才なく、要求に応じて、長井の家の住民票の謄本をコピーしてくれた。  だが、期待した妻の欄には、操の名前は記されていなかった。そこにあったのは、なんと春子の名前だった。しかも、それは、照男の姉ということになっていた。それは金井には、想像も出来ない話だった。  (一体、どうなっているんだ、あの家は)  金井は訳が分からなくなった。春子は、確かに、かなりの年齢で、照男からすれば、母といっておかしくはないが、書類状は姉となっている。照男の親の養女として入籍したのだろうか。本人は、確か、後妻に入った、と言っていたと思うが、その話とも食い違う。  金井は、  (これは、本人に確かめるしかない) と考えて、もう一度、長井の家に行ってみることにした。  一度、歩いたことのある道は、絶対、間違えないのが、金井の刑事としての経験が身に付けさせた特技だった。金井は、区役所から一直線で、長井家に向かい、十分も立たずに、その家の門の前に立っていた。  例によって、金井は門の柱の呼び出しベルを押した。だが、今度は、なかなか、春子の姿が見えない。金井が門の引き戸に手を掛けると、鍵がかかっていなかったのか、戸は簡単に開いた。金井は、玄関に向かった。玄関で、  「こんにちは。すみません」 と声を掛けた。だが、中からは、返事がない。金井はもう一、二度、声を上げて、中からの応答を待った。それでも、反応がないので、留守かと思い、帰りかけた。すると、門までの石伝いの進入路の途中に、人が歩いた足跡がくっくりと残っているのが見えた。それは、かなり大きな足型で、男の物とも見えた。いま、流行のスポーツ・シューズの足の跡のような感じだった。  金井はその足跡の先を追っていった。それは、刑事としての本能だった。足跡は、その通路と庭を隔てる築ひじを横切って、庭の方に続いている。足跡の形からすると、そちらの方から出てきて、門の方に向かっている形跡だ。  足跡は、庭を横切り、客間の方に続いていて、縁側で止まっていた。  金井は、閉じられていた雨戸を開けてみた。すると、そのうちの一枚が、するりと開いた。それは、足跡の途絶えた場所とは、ずれていたが、縁側のすぐ下はコンクリートの打ちっぱなしだったから、足跡の主は、コンクリートに降りたあと、足跡が途絶えた場所に行き、そこから、靴を履いて、歩き出したらしい。  金井は、開いた雨戸から、部屋の中に上がっていった。客間には誰もいなかった。誰かがいたという形跡もない。次の間の洋間も閑散としていた。冷たい空気が淀んで停滞していた。さらに奥の台所では、食事をした直後のように、流しに食器が置かれたままになっていた。その脇には、ダイニングがある。食卓には、コーヒーカップが一脚、置かれていた。だが、中身はなかった。切られていた照明のスイッチを入れると、その中身がテーブルに溢れているのが分かった。こぼれ落ちたコーヒーは、その一部が床にも落ちて、床に張られた赤い絨毯に黒っぽい染みを作っていた。その絨毯には、疵が付いていた、長く、何かを引きずった様な疵は断続的に、向かいのドアーのほうに続き、そこで、切れていた。  金井は、その疵を追っていった。疵は金属性の硬いもので引っかいたような形跡で、さらにその先の廊下に続き、途中で消えていた。消えた場所の脇には、曇りガラスが入った引き戸で仕切られた浴室があった。  金井は、自然にその戸を引いた。  そこには、脱衣所があり、さらにその奥には浴室があるに違いない。引っかいたような疵は、脱衣所の木の床には付いていなかった。金井は、浴室の戸を開けた。そして、引きつった表情で、その場所にあった死体に駆け寄り、脈を取った。だが、すでに、脈はなかった。  死体は、春子だった。顔面が蒼白で、全裸の死体には、疵はなかった。脱衣所には、春子が着ていたらしい長ズボンとブラウスや下着類が脱ぎ捨てられていた。風呂には湯が張られていて、春子は洗い場で倒れていた。  この状況からは、事故死も考えられる。入浴中に、突然心臓発作を起こしたという可能性も排除できない。もし、これが、殺人だとしたら、犯人は、事故死を装って、現場を取り繕ったということも考えられる。  金井は、現場の状況をじっくり観察したあと、世田谷署に連絡した。すでに死亡しているのは、間違いなかったから、消防署には知らせず、世田谷署の捜査官らが、到着するのを、待っていた。  金井が連絡してから、約二十分後に世田谷署の捜査員たちが、次々と駆けつけてきた。なにしろ、犯罪が少ないので有名な閑静な住宅地で起きた不審死だけに、署員もおっとり刀で駆けつけてきたのだろう。  その捜査員のなかに、数日前に、面会した武藤警部もいた。  「いやー。金井さんですか。先日はどうも。驚きましたよ。私が紹介した家で、こんな事件が起きるなんて」  武藤は、飽くまでも如才ない。  「いえ、私も、ちょっと、用事を思い出して、来てみたのですが、こんなことになっていたとは、驚きました」  だれでも、犯罪現場での最初の会話は、似たようなものである。  署員らは、早速、現場保存の作業と鑑識作業に取りかかった。忙しく働く係員らに、弾かれるように、庭に出ていた金井に、武藤は近寄ってきて、  「金井さんは、第一発見者だから、詳しい話を伺わないとなりませんが。そこは、餅屋は餅屋ですから、ご協力願います」  金井はその言葉で、いつもは自分がやっている仕事が、武藤の仕事になり、自分は、聞かれる相手の立場に立たされていることを知った。  金井は、どうせ、現場の観察は、殆ど終わっていたから、そこにいつまでもいても、仕方がないと思っていたから、武藤に誘われるままに、捜査用車両に乗り込んで、世田谷署に向かった。  署に着いて、武藤は、衝立で仕切られた応接場所に金井を招いて、  「まあ、ゆっくりしましょう。こういう事件は、急いでもしかたがない」 と言って、粗茶を勧めた、金井は、お茶よりもコーヒー党だから、  「私はコーヒーがいいので」 と席を立ち、自動販売機でドリップのコーヒーを買ってきた。  「やはり、先日の件で、長井の家に行かれたのですか」  武藤が丁重に聞いてきた。  「そうなんです。先日、訪ねたときは、驚くことが多くて、成果がありました。それを上司に報告したら、もうすこし、詳しく調べるようにと言われたものですから」  金井は、内容を暈していたが、上司というところに、アクセントを置いて、階級が上の武藤の顔つきを見た。武藤はそんなことは意に介さないように、  「成果というと、どんなことですか」 と聞いてきた。それは、自分が係わった事件に新しい進展があったのかという心配と職業的好奇心からのものだったが、武藤の性格からすると、むしろ、責任問題を重視した関心かも知れなかった。解決されない事件を他県警に解決されては、怠慢を指摘されかねない。その責任を事前に回避するためにも、新しい情報は欲しいのだ。  「詳しいことは、言いたくありませんが」 と金井は、武藤の心境を先取りして、ちくりとやったあと、  「奥さんも失踪していたのですよ」 とだけ、言った。  「そうですか。でも、その捜索願いは出ていないでしょう」  「そうです。だから、いま、あの家に住んでいるのは、殺された春子だけです。春子が届けを出さなかったから、誰からも出ないわけです」  「どうしてですか」  「その必要はないと判断したようです。それに、嫁の操との仲もよくなかった」  「その辺に、この事件の背景があるかもしれない」  「この事件とは」  「勿論、今日の事件です。早速、第一発見者の供述をお願いします」  武藤は有能な捜査官の顔つきになって、金井に相対した。金井は、当時の状況を素直に、話しはじめた。      (二十四)  私が、水槽の生物たちの記録をパソコンで整理を始めてから、ある法則性が見えてきた。  それは、魚や海豚たちが、いずれも、二匹ずつのペアーで、その水槽に存在していることだった。  始め、私が直観的に感じたことが、数時的にも統計的にも検証されて、確認された。  たとえば、頭の頂上に白い三角形の班紋を持つ小型のバンドウイルカは、他の同じ種類の海豚のなかで、特に目立つものでは、なかったが、よく観察していると、僅かに尾鰭に疵があった。ところが、その個体が、水槽の壁際を離れて、遠くに去っていった後、暫くして、やはり、頭の頂上に白い三角の班紋を持つ全く同じ外形の海豚が姿を見せたが、その個体には、尾鰭には先程の海豚にあった特徴的な傷痕がなかったのである。  数が多い鰯の分類には、かなりの手間が掛かった。これは、群れを成して泳いでいるので、私は分析の対象から外そうとしたが、なかに、かなり大型の個体もあったので、それらに注目して、調べてみた。  すると、やはり、鰭の形がまったく同じ個体が、二体ずつ存在することが確かめられた。これらの小型の魚の解析には、時間が掛かったが、大型の魚類で確かめられたことが、これらでも、共通していることが、分かって、私の仮説は確信に変わった。  (こいつらは、いずれも、自分と同じ、兄弟を持っている)  それらは、厳密に言えば、「兄弟」というのではなく、むしろ自分自身の「分身」をもっていると言った方がいいかもしれない。  そして、その「分身」たちは、同じ場所には決していないで、遙かにはなれた場所に存在していた。だから、一見したところでは、この水槽は、多種多様な水の中の生物で溢れているように見えたが、実は、その半分の種類で構成されていたのだ。  それは、規格された少数の構成材で、多様さの表現をしようとする、現代の建築や工業製品などに共通する性格だろう。大量生産に規格化は避けられない。大量生産、大漁消費の現代社会は、個性より集団性を重視するから、その構成員も個性を失い、期待される像に収斂しようとする。それが、マス社会の特徴だ。  私はその幻影に巡り合ったような気がした。ここでも、マスプロダクションの概念が、実現されている。これは、どう考えればいいのか。管理された水槽が、神の手によって、ここにあるわけはない。だれか、地上の人の企てに違いなかったが、それは、これだけの設備をしつらえられているのだから、富も権力も持っている強力な人か組織に違いない。  巨額の資金と運営費がなければ、このような大掛かりな設備や建物を造り、動かしていくことは、できないだろう。人材も知識も必要だ。一人の力では、できない仕業と思われた。  私はある大きな存在が、この件に係わっているのではないか、と思いはじめた。それは、あるいは国家かもしれない。あるいは巨大な企業かもしれない。いずれにせよ、巨額の資金を動かせ、運営するノウハウを持ち、現実に回転させていく力を持つものが、やっている事業に違いないだろう。そう考えると、私のこの監禁状態は絶望的だった。もし、あの老人と案内係の女性だけが相手なら、個人の力で事態打開に打つ手もあろうが、他に多数の係員がいて、組織的に私がここに閉じ込められているのだとしたら、脱出などほぼ不可能なことと思われた。多くの警備員がいるだろうし、見張りもいるに違いない。私は監視カメラで見張られているだけではなく、外界とこの部屋を隔てた熱い扉の向こうには、武器を携えた屈強な男が立っているのかも知れない。  これだけのハイテク設備を備え、大掛かりな仕掛けは、なんのためにあるのだろうか。水槽に、見物客はいない。だから、公開された水族館の設備ではないらしい。そういえば、普通の水族館で良く見られる潜水による魚の餌付けの作業はない。私は、「あれには、学術的な意味はなく、ただ、見せ物にすぎない」と訳知り顔の若い男が、水族館で連れの女性に説明しているのを小耳に挟んだことがあったが、それが、本当なら、この大掛かりな水槽は、見せるためのものではない。  とすると、なんのためなのか。残る可能性は、研究用か商用しか考えられない。見たところ、商用のように無粋な環境でもない。なにしろ、半分は、この部屋に面して、ガラスの壁が、張られている。この部屋に入った人に見せようという工夫なのだから、あるいは、商談に来た人たちをここに泊めておくのかもしれない。だが、こんな東北地方の山の奥に、このような海の物を集めて、なんの商売をしようというのだろう。私がここに来たときのようにいまは、高速道路が張りめぐらされている。すこし車を飛ばせば、海沿いの町で海産物をいくらでも仕入れることができるのだ。わざわざ、こんなに金の掛かる設備を造っていては、採算に会わないのだ。  とすると、この施設は研究用でしかない、と私の推論の結末は、一点に収束していった。  では、何の研究なのだろうか。それが、次の疑問になった。  魚がこんなに一杯いるのだから、魚の研究か。養殖の研究なのだろうか。あるいは、さらに拡大して、生物全般のなにかの研究なのだろうか。いろいろと考えられたが、結論を出すにはデータが少なすぎる。  それに、私をこうして、監禁状態の置いて、監視しているのは何のためなのだろうか。それとも、私もモルモットのように観察の対象にされているのだろうか。分からないことが多すぎた。  ただ、ここへ来た理由だけはハッキリしていた。それは、あの少女に半強制的に命令されて、ほぼ強引にここまで、運転させられてきたのだった。大体、あの少女、かぐちゃんは、なぜ、この場所に来たのだろう。それが、最初の原点の疑問だった。それが、解きあかされれば、この施設のしていることの中身も自然に解明されるのかも知れない。  私は、  (なにか、生物に対するおぞましいことが行われている) という微かな実感があったが、それは、ここにいては、分からない。  (とにかく、ここを脱出して、この建物の中を調べないといけない)  私はせっぱ詰まった気持ちになってきた。とてつもない生物の研究が行われているとしたら、それは、原爆の研究以上に危険なものかも知れないのだ。それを知っている人は、多分、多くはいない。その証拠に、極普通の一般人である私が、こんな施設がこんな所にあることを知らなかったのだから、国民の誰もが知っていることとは、思われない。  あくまでも、この城は、隠された施設なのだ。秘密の研究施設に違いない。そういう確信が生まれてきていた。  私自身の身を守ることと、この施設の秘密を暴くことは、同じ座標の上にある。この監禁室を脱出して、外に出て、内部を探り、最後にかぐちゃんを見つけ出して、救出し、無事、脱出することができれば、最高だ。  それが、私がこれから生きていく目標になる。大いなる標的だ。私は、体の中なら、熱いエネルギーが、湧いてくるのを感じて、気を引き締めた。  脱出するとすれば、その場所は、入ってきた厚い木製の扉しかない。だが、これをこじ開けるのは、一人ではとても無理だ。ほかに、脱出口はないのだろうか。壁は分厚いコンクリートで作られている。壁を壊すのは至難の技だ。横に立ちはだかっているものを抜けることは難しい。  では天井はどうか。これも、厚い板で出来ていた。突き破ることは難しい。この部屋は完璧な造りで、中のものを閉じ込めるように出来ていた。  私は考えつかれて、風呂に入りたくなった。湯に浸かって、ゆったりすれば、なにかよい脱出法が思い浮かぶかもしれない。そう考えて、脱衣所に行き、裸になって、風呂場に行った。風呂には湯は入っていなかったが、蛇口を捻るとすぐに熱湯が出て来るのは分かっていたから、湯のない湯船に横になって、温度を調節しながら、湯と水の蛇口を開けて、湯が溜まってるのを見ていた。  最初は脛の当たりから、徐々に湯が満ちていき、腹から胸へと水位が上がっていった。それに伴って、浴室に上気が満ち、体が暖められて、心地良くなっていった。  蒸気が上がって行くと、自動的に換気扇が唸りをあげて動きだしたのが、音で分かった。換気は強力で、あっと言う間に、充満していた蒸気が排出されていった。  私は、蒸気の昇っていく先を見ていた。それは 天井の排気ダクトに吸い込まれ、太いブリキの管を通って、外に出ていた。それは、監視ビデオカメラがしつらえられていた場所の近くだったから、最初にカメラを見つけた時に、確認していた。  (そうか。その手があったか)  私は脳裏に閃いたアイデアに、心で、喝采を送った。それは、古典的なやりかただが、一番確実な方法と見てよいようだった。        (二十五)  長井春子の変死事件は、世田谷署が、事故と殺人の両面から捜査することになった。自殺も考えられないではないが、春子が健康だったこと、遺書がないことなどから、その可能性は排除された。なによりも、金井が発見した足跡が、何者かがこの家に入っていた証拠であり、その意味では、殺人事件の可能性が高く、警察は、捜査本部を設置することも覚悟して、この事件に取り組んだ。  もし、解剖で死因が特定され、凶器が判明すれば、捜査は直ちに、捜査本部事件に模様換えされる。武藤がその担当主任になることが、既定の事実だった。  武藤は、金井に第一発見者としての、面前調書を取ったあと、  「でも、遺体は随分綺麗でしたね。どうやって殺したのか、あれでは、外傷による死亡ではないですね。薬でも使ったのか」 と独り言を言った。  金井は、  「確かに顔面は蒼白でしたが、外傷は無いようでした。でも、心臓は停止していたのだから、死んでいたのは間違いないでしょう」 と答えたが、それは、現場で間違いなく、金井が確認したことだった。  「いずれにせよ、解剖待ちですね。死因の特定は。ところで、金井さん、私らの用事は済みましたが、これからどうします。私は、病院に行きます。解剖の結果を一刻も早く知りたいですから。お帰りになるのなら、お送りしますよ」  武藤は金井に用すみだと、伝えたが、金井は、係わり合った事件について、もうすこし、情報を得たかった、できたら、解剖の結果も知りたいと思っていた。  「私も、ご一緒しますよ。迷惑でなければ、解剖結果も知りたいし」  ということで、武藤の運転する捜査用車で、二人は、解剖の行われる東都大学付属病院に向かった。  解剖は、その病院の法医学教室の主任教授、桜井正夫の執刀で行われることになっていた。  金井と武藤はその光景を見学用の二階の部屋から観察した。  桜井教授は、解剖台に乗せられた春子の遺体を、綺麗にアルコールで拭っていた、すると、はやくも、体の後ろ、背中から腰になる辺りに小さな焼け焦げたような穴が開いているのが、見つかった。教授はその疵跡をじっくりと見ていたが、そのあとの仕種を見ていると、首を傾げて、不審な表情を見せていた。  「これ、何だか、分かりますか」  教授がインターホンで、二階にいる武藤に聞いてきた。  「よく、分かりません」  「そうですか。まあ、開けてみれば分かるでしょう」  教授はそのまま、遺体の腹を仰向けにして、体の正中線にメスを真っ直ぐに入れた。中から、黄色い脂肪が見えた。その下に内蔵がある。教授は、すっかり、腹を開いて、内蔵を取り出し、形態を観察した後で秤で重さを量りはじめた。その作業を全ての内蔵に繰り返し、記録していく。見ている限り、内蔵には異変はないようだった。ただ、心臓を取り出した教授は、長い間その手を離さず、じっくりと観察していた。そして、納得したように頷き、解剖台の横の俎に置いて、包丁で切り刻んでいった。そして、心臓が入っていた体の内側の場所を点検していた。教授は、なにかの道筋を辿っていって、最後に、最初に不審な顔をしてていた腰の部分に至って、その部分の写真を、助手に撮影させた。  「教授はなにかを見つけたらしい」  武藤が金井に囁いた。  「ああ見えて、あの先生は、中々出来のいい医者ですからね」  確かに、はげ上がった大きな頭を小さな体に乗せた桜井教授は、風采の上がらないラーメン屋の親父という風貌だが、腕は確からしかった。  解剖はそのあと、頭を鋸で開いて、脳を取り出し、重さを量ったり、内部を切り開いて見る段階に至っていたが、武藤も金井も、人間の体が、細切れになっていく解体作業を見るのに疲れて、部屋の隅にあった長椅子に座って、煙草に火を点けた。  「あの元気な婆さんも、ああなっては、可愛そうだ。人間誰でも、死んでしまえば、単なる一個の物体に帰るのとはわかっていてもつい先日まで元気で、私と話をしていたんですからね」  金井は感無量な面持ちで、武藤に話しかけたが、武藤は、そんなことはこの仕事をしていれば、しょっちゅうあることだとでも、言いたげに、金井の問い掛けを無視した。  煙草を吸いおわって、下の解剖台を見てみると、桜井教授は、すでに、縫合の作業に掛かっていた。解剖は終わったのである。  二人は部屋を出て、階下に降り、解剖室に入っていった。  「終わりましたね。いかがですか、所見は」  武藤が性急に問いかけた。  「いやあ、驚きましたね。こんなことがあるなんて」  教授は、白いマスクを脱いで、驚きの言葉を発した。  「何ですか」  武藤が聞いた。  「それが、この遺体には、ご覧だったように外傷はありませんでした。ですから、外部からの物理的な力による打撃はなかったようです。それと、内蔵も綺麗でしたから、毒物によることも考えられない。あとは、呼吸器の閉塞による窒息の可能性ですが、肺も綺麗でしたし、脳も正常でした」  「じゃあ、何なのですか」  「ただ一つ、異変があったのは、腰の辺りの焼けたような傷痕と、心臓の異状です。腰の辺りの疵は、私は、多分、電気のような刺激が走った跡だと思います。その電流はその場所から入って、一気に心臓まで駆け上がり、心臓を一撃して、そのショックで心臓が停止した。それが、死因だと思います」  「すると、感電死ですか」  武藤が確認した。  「そうですね。しかも、相当な高圧電流でしょう。一撃ですから、だから、遺体も焼けていない。腰から入った電流が、一気に心臓に至って、即死させたのでしょう」  「すると、どういうことなんでしょうね。なぜ、電流が流れたのでしょうね」  「まあ、普通の家庭に入っている百ボルトの電流では、こういうことは起きないと思いますよ。何百万ボルトの電流が、瞬間的に走った。高圧電流です」  「そんな電源があの家にあったかな」  武藤は首を傾げながら金井の方を向いて、問いかけたが、金井には心当たりはなかった。  「まあいいや、調べてみましょう。その電源とやらを」  武藤は、そう言って、引き下がった。  「追っつけ、正式の解剖所見を書類にして届けますが、私の判断はそういうことですよ」  教授は解剖室を出ていき、教授の研究室に向かった。そこで、警察への監察医としての解剖結果報告書を作成するのだ。  武藤はそれを見て、教授の後に付いていった。しかたなく金井も後に従った。  「先生、すると、例えば、痴漢よけの電気ショックの道具なんかでもこうなりますか」  「いや、とても無理でしょう。あの程度の電圧では、人は殺せません。もっと高圧で、電流も多くないといけない。例えば、雷が落ちたときなんかが、似ている状況と言えますが、この遺体はそれより強い電気に打たれたのだと思いますよ」  研究室に入りながら教授が言った。教授はドアーを開けて、二人を中に招きながら、  「でも、風呂場で倒れていたのだとしたら、雷が落ちるはずもないし、死亡時刻頃、天気はどうでした」 と問いかけた。  「昨日から、天気は変わっていませんよ。薄曇りです。雷が鳴ったなんていう天気ではなかった」  金井が答えた。そして、  「でも、遺体があったのは風呂場ですが、そこまで引きずっていたのかもしれない。その跡があった」 と捜査上の秘密の一端を明かした。  「引きずっていった跡があったのだったら、戸外にいたのかもしれない」  教授のその言葉で、金井は、引きずった跡がどこからか思い出してみたが、それは、ダイニングだと思い出した。  「跡はダイニングから付いていました」  教授は椅子に腰掛けて、二人に向かい側の座椅子を勧めながら、  「そうですか。台所で、高圧の電気があるところと言えば、電子レンジですかな」 と問いかけた。  「電子レンジでもあの位の疵は出来ますかね」   武藤が追いかけて聞いた。  「それは、分かりません。直撃を受けたら、可能性はないとはいえないが、シールドされているから直撃を受けることは考えられないですね。それに、電気は腰から入っているのです。手からなら、可能性がないこともないだろうが」  三人は、考え込んでいた。暫くして、  「まあ。いずれにせよ、私の所見はそういうことですから。これから、書類を書きます」 と教授が言ったのを潮に、金井と武藤は、研究室を辞した。  「よく、分からないことばかりだ。署に帰って考えてみよう」  世田谷署に帰る武藤に、私鉄の駅まで送ってもらい、金井は、浦和に向かう電車に乗った。      (二十六)  バスルームの天井に、排気ダクトを見つけた私は、全ての衣服を着て、持ち物を持ち、人一人が入れるその入口にもぐり込むため、羽目板をはずす作業を始めた。  下か上にぐいと押し上げると、羽目板は簡単に外れた。私は、羽目板を下に降ろすと、そこに開いた四角の穴の中にもぐり込んだ、いままで、水蒸気を送っていたダクトだけに、内部は水滴で濡れていたが、潜って、腹這いで進んでいくときは、返ってその水分が膜をつくり、進みやすかった。  ダクトは、最初に水平に室外に出て、廊下と思われる場所の上を進んで、建物の壁面に続いていた。壁面近くで集合管に接合し、上下に伸びているようだった。  私は、下にいる警備員に気付かれないように、ゆっくりと廊下の上のダクトをほふく前進していった。ダクトは、途中で各部屋に枝別れしていたが、私は、目もくれずに、真っ直ぐに進んでいった。  行き止まりは、集合ダクトだった。それは建物の上下に伸びていた。太さも二倍ほどに増していたが、上に行くには、何かの手掛かりが必要だ。私は、手すりがないか、暗闇の中で、ダクトの壁面を探った。  空気は、ゆっくりと流れていたが、ここまで腹這いで来るあいだに、何回か、強風に変わることがあった。それは、一定の間隔を持って、正確に繰り返されたから、この送風機は、強風を送るインターバルを決めたプログラムで運転されているらしい。私はその間隔が、約五分置きであることを、体感で理解した。  上下に建物を走るダクトは、内部が広く、そこが強風状態になると、人一人は立っているのが難しくなりそうだった。私は、強風を水平の状態で耐えることにした。  その時、後ろから、激しい扇風機のモーター音が聞こえ、唸りを上げて、風が吹きつけてきた。それは、台風の暴風雨のなかの横殴りの風と同じだった。私のジャケットはめくり上がり、腹の上部から胸に折り返されて来るほどだった。私は、ダクトの中のつなぎ目の鉄材に両手を掛けて、必死で踏ん張った。  風は二分程で収まり、元の微風に戻った。この状態の中で、私は、どうにかして上に向かい、出来れば脱出口を見つけて、外に出たかった。私は、ダクトの接合部の鉄骨に手を掛けて、上下ダクトの中に飛びだした。後は両手両足をフルに使って、上に上っていくしかない。カメラなどの入っている小型のバッグを背負って、私は渾身の力を振り絞って、一歩ずつ体を持ち上げていった。  しばらくすると、横に枝別れする場所に来た。私は一階分を上り切ったのだ。監禁室は私の記憶では、地下四階だったから、普通の建物ならこの場所は、地下三階のはずだ。地下からでは、地上に出るのは、困難だろうと私は考えていたから、あと三階分を上がらねばならないと思った。  私は、再び、体を持ち上げる、単純だが骨の折れる作業に掛かっていた。さらに数メートル上がったところで、私は、一定のリズムで手と足を上げる作業の秩序を乱された。暗闇の中で、右手を差し出したところに、掴むべき梁が出ていなかったのだ。そこは、ブリキの地肌のままだった。右手を掴み損ねた私は、その瞬間、体のバランスを崩して、深い奈落の底に落下しそうになった。だが、危機一髪、左手と両足は、しっかりと、体を支えていたから、落下の危機はどうにか、免れた。心が凍る思いがしたが、やっとのことで踏ん張って、右手を探ると、右側の壁に突起があり、そこに手を掛けると、しっかりと右手を固定できた。救われた思いで、私は、再び、クライミングを始めた。  そろそろ、二階に近くなったころ、強風に移るインターバルが近くなった。私は、あせって、横に別れる水平ダクトに避難しようと、動作を急いだ。水平ダクトに右手を掛けた瞬間、風が強くなって、下から吹き上げてきた。私は、必死で、水平ダクトに体を持ち上げ、腹這いになって、風の過ぎるのを待った。だが、強風は水平ダクトの向こう側からも吹いてくる。それは、垂直の排気筒になだれ込み、下から来る強風と一体になって、さらに強さを増して吹き上がっていた。  私は、水平ダクトの端で体を支えていた。もし、風がさらに強まり、頭の方から吹いてくる風がもっと強くなったら、垂直ダクトの中に転落してしまうだろう。私は、必死で、踏ん張っていた。  そろそろ、強風の時間が終わりそうになって、私は、一安心できると、気を抜いた。  と、そのとき、水平ダクトの向こうから吹き寄せる風が突然止まった。後ろから吹き上げる垂直塔の風は依然、止まっていなっかったから、私は後ろからの強風に煽られて、地下二階の水平ダクトに吸い込まれていった。私の体も、そちら側に力を込めて、引かれていたから、風の向きの急変は、ダクトの奥に体を引く力を倍加させ、私は、一気に奥のほうに、持っていかれて、体を一番奥の行き止まりに、激しく打ちつけられた。  そのとき、ドーンをいう大音響が、響いた。私は風が収まってからは、体を打ちつけられた打ち身の痛みも加わって、その場所に屈み込んでいた。大音響は多分、下に人がいれば、何かの異変と感じたに違いない。もし、その人が警戒心の旺盛な人物か職業的に警戒を任務としている者ならば、直ちに、この場所に駆け寄って来るに違いない。  しばらく、静かだったが、やはり、下に人が集まってくる様子が伝わってきた。  「おい、なんだい、あの大きな音は」  「ここで、音がしたぞ。この上だ」  「調べてみよう」  「そうだな」  男が何人か集まってきているらしい。ドンドンと下から、棒で突つく音がした。私がうずくまっている壁の行き止まりの、すこし、前に下から入り込める管理用の羽目板が開いている。そこに梯子を掛けて昇ることを、男たちは話し始めた。  私は、これは万事窮した、と思った。このままここにいてはすぐに、発見されてしまう。逃げるしかないのだ。私は、再び、ほふく前進で元の上下ダクトの部分に戻ろうとして、体を動かそうとした。だが、体が動かない。すでに、ここに来るまでかなり、体力を消耗していた。ここ何日か、ろくに栄養のある食事をしていなかったこともあり、私の体力は消耗していた。さらに、激しく体を壁にぶつけて、体全身が痛かった。  私は、逃げることを断念した。このまま、もとに、戻っても、この体力では、地下深く落下する危険性もある。ここは、おとなしく捕まって、命を永らえたほうがいいという判断もあった。まさか、彼らが、私を殺すことはないだろうと、考えたのだ。  警備員らは、梯子を掛けて、ダクトの点検口から、こちらを覗き込んだ。最初は、目が慣れなかったのか、左右を見回して、様子を探っていたが、手に持った懐中電灯を満遍なく照らして、私の姿を発見した。  「おい。人がいるぞ」  最初に見つけた警備員が、大声を上げて仲間を呼んだ。多数の仲間が下に集まってきたようだ。  「何しているんだ。そこで。こちらに出てこい」  その警備員は、私に向かって、大声で命令した。  「体が、痛くて、歩けない」  私は小さい声で、そう答えた。  「そうか、では、こちらから、そっちに行くよ。待っていいろ」  その警備員は、若かった。身軽にダクトの中に体を入れると、こちらに擦り足で寄ってきた。そして、手を差し延べて、  「おい、手を出せ。引っ張ってやる」 と言った。私は、その手を握った。警備員は、思い切り、自分の方に、私の体を引き寄せた。私は、節々がメスを入れられたように痛んだが、強い力には逆らえない。ぐいと、引っ張られて、警備員の目と鼻の先に移っていった。  あとは、そのまま、下に降ろされて、私は、保護された。絶妙の脱出計画は、そうして水泡と帰したのだった。  私は、病人が手術の前に乗せられる搬送車に乗せられて、地下二階の手術室に連れていかれた。  そこで、待っていたのは、私がこの城に入ってきたときに初めて会った受付の若い女性と、展示室の最後に会った白衣の老人だった。 老人は、手にゴムの手袋をして、身構えていた。女性は、看護婦の衣装に着替えて、その後ろに立っていた。      (二十七)  「電気ショックによる死亡」との解剖所見を得たものの、世田谷署は、長井春子の死因を他殺によるものか、事故死なのかの判断を付けかねていた。解剖所見だけでは、そのどちらにも考えられたからだ。ただ、自殺の可能性だけは、排除できた。まず、遺書がなかったし、現場に引きずられた跡があっては、自殺は考えられない。あとは、死んだあと、だれが、遺体を引きずっていったか。庭に残っていた足跡は、誰の者なのかということを解明しなければならない。遺体を移動した者が、名乗り出ていない以上、その者が殺人者である可能性は高かった。  世田谷署長は、こういう状況から、捜査本部は設置せず、専従班を設けて、捜査に当たることに決めた。その主任には、若い武藤警部が、予定どおりに選任された。  専従班にとって、まず、最初にすることは、定石通りに、近所の聞き込みだ。主任といえども、少数しかいない専従班のこと、武藤警部も机に座ってばかりいない。積極的に聞き込みに加わった。  刑事課に配属されたばかりの若い後輩を伴って、隣の家に出向いた武藤は、最近増築したばかりの新しい家の客間で、その家の婦人から、事件当日の燐家の様子を聞いていた。  「あの日は、隣では、なにか、異変はなかったでしょうか」  出されたコーヒーを啜りながら、対面して座った三十代の主婦に質問した。  「このとおり、私は専業主婦で、だいたい、毎日、一日中家にいますが、お隣は、ご主人と奥さんが居なくなってから、おばあちゃん一人でしたから、もし、何かあったら、助けに行かなければいけないという心構えはあったのです。それで、なんとなく、気を付けていつも、隣の様子は伺うようにしているのですが、特に変わったことはありませんでしたね」  「いつもと変わらない様子だったのですね」  「そうです」  「ところで、長井さんの御夫婦は、ずっと姿が見えないのですか」  「そうです。ご主人は、もう六年くらい前に、失踪されて。それは、警察にも届けを出されていると思います。奥さんは、そのあと、お婆ちゃんと暮らしていたのですが、もともと、そう相性がよくなかったこともあって、昨年辺りから、姿が見えなくなったのです。お婆ちゃんにそれとなく、聞いたことはあるんですが、いつも、ちょっと、実家に帰っているんです、というばかりで。うちでも、おかしいとは話していたんですよ」  「そう言うとき、春子さんは、どんな表情をしていましたか」  「これといって、変わった風には見えませんでしたね。いつもとかわらず、淡々と話していましたが、あまり、元気はなかった感じでした」  「そうですか。それで、春子さんは、一人で暮らしていたんですね。だれか、訪ねてくるような人はいなかったですか」  「時折、郵便屋さんが、郵便物を持ってきたり、朝夕は新聞配達が来るくらいで、人の来ることも少なかったようですね。年寄りの独り暮らしなんて、そんなものなのでしょうかね。私も、そうなるのかしら」  その家の主婦はまだ若かったが、そんなことを言って、武藤に出したコーヒーのおかわりを入れに行った。  帰ってきた主婦は、  「そうだ。そういえば、いま、急に思い出したんですが。あの日は、すごく良い天気だったのに、テレビの映りが悪くて、いろいろとチャンネルを変えたのを思い出しました。いつもは、そんなことはないのに、テレビに縞が入って、見えにくかったわ」  「ゴーストはなかったですか。ほら、二重、三重に映る現象ですよ」  「それはなかったですが、ちらちらと縞が入るんです。そのうちに一瞬、すっかり白くなった瞬間もありましたが、すぐに直りました」  「異常な現象ですね。そういう影響は、高圧電線の下で起きることがあるという話は聞いたことがありますが」  武藤も首を傾げていた。すると、主婦は、  「ああ、それから、もっとおかしいことがあった。その日は気が付かなかったんですが。翌日、玄関の靴箱の上に置いてある、金魚の水槽で、金魚が二匹死んでいました。ああ、これは、あまり、関係ないようですね」  「死因はなんですか」  「それは、知りません、金魚が死ぬのは、珍しいことではないですからね。死因なんて、考えませんよ」  「外傷ですかね」  「いえ、疵や病気はないようでした。姿は綺麗でしたから。よくある、鰭の白い傷痕のようなものは、ありませんでしたから」  「ああ、あの白せん病ですね」  武藤は小学生のころ、金魚の世話をしていたとことがあったから、詳しかった。  「変わったことと言えばそんなところですか」  「そうですね」  「だれか、不審な者がいたようなことは、ないですか」  「私は見かけませんでした。どなたか来ていたのですか」  主婦は好奇心一杯に、そう聞いてきた。  「まあ、足跡が見つかっているのです。あの門から玄関に至る間の地面にね」  「そうですか。あの通路は家の方からは生け垣が陰になってよく見えませんから。もし、だれかがいても、分からなかったでしょう」  この隣家は、玄関側にあったが、斜め北側にあるため、門からの進入路はよく見えなかった。  かといって、門がよく見える隣家はない。その場所はこの家が経営しているらしい駐車場になっているから、車が停まっているとだれも、中を見ることは出来ないのだ。  不審者の割り出しは、困難になりそうだった。  大体の話を聞き出した武藤らは、隣家を辞した。  「どう思う。あのテレビの件だが」  武藤は、同行した若い刑事に聞いてみた。  「主任が言われたように、ああいう現象は、高圧電流の近くで起きるのでしょう。あるいは、雷の放電とか、自動車のスパーク・プラグの近くで起きますよね。あれと似た現象ですかね」  若い刑事は案外、科学現象には詳しいようだった。  「そうだな。そういう高圧放電が起きたと言うことかな。解剖所見でも、体内を高圧電流が走ったと言っている。あの主婦の証言とそういう点では、共通性があるんだな」  署への帰りがけに、歩きながら、二人は、いま得た証言を反芻していた。  夕方になって、外に出ていた捜査員が、引き上げてきて、この日の成果を持ち寄って、検討会が開かれた。  武藤も、捜査員の一人として、この日の聞き込みの成果を披露した。武藤の話が終わると、聞いていた捜査員の一人が、挙手して、  「われわれも同じ現象を聞きました」 と言ったのだった。  その捜査員は、武藤らが出向いた家の反対側の家に聞き込みに言っていた。その捜査員は、  「われわれは、長井家の西側のアパートに行ったのですが、二階の部屋の独り暮らしの老人が、テレビを見ていて、やはり、縞が入ったのを覚えていました。そのアパートは二階建てで、三部屋ずつあるのですが、若い人の独り暮らしが多く、昼間は殆ど人がいません。このお祖父さんだけが、昼間はいるんですが、腰が悪くて、毎日、一日中テレビを付けている。だから、テレビ鑑賞の達人でもあるのです。以前は、電気屋に務めていて、電気関係の知識も深い。それに、驚いたのは、あの狭い部屋で、驚く程、高級なAV機器を持っているのです。テレビも完璧に調整されていて、私はテレビにはあれほど、綺麗な映像が映るのだと初めて知りました。そのいつもは、綺麗な映像が、突然大きく乱れたので、その人は、すぐに瞬間録画のスイッチを入れて、その現象をビデオに撮りました」  捜査員の間に、歓声が上がった。  「それを、ここに借りて来ました。ダビングしてから、返せばいいと思いまして」  その捜査員は、ビデオの現物を差し出して見せた。  「さっそく、見てみようじゃないか」  武藤が、提案した。  その部屋には、ビデオとテレビの接続された機器はなかった。所内では、研修や講習が行われる四階の会議室に、その設備はあった。捜査員らが、そこに移動して、見てみることになった。  ビデオをセットして、部屋を暗膜で覆って、再生が始まった。  テレビは、午後の番組を映していた。それは、民放局の長寿番組の一つで、「銀子の部屋」というインタビュー番組のようだった。ビデオの画質は優秀で、署の再生装置も最近購入したものだけに、SーVHSの鮮明画像を再現していた。評判通り、ホステスの高齢の女優の化粧の厚いのも、よく見えるように映し出していた。途中でCMが入って、番組の録画はそこで中断していたが、そのまま再生を続けていくと、しばらく、無画像の部分があったあと、突然、白い縞が一面に入った画像が現れた。裏に何かの映像があるのだが、それが、全く見えなくなるほど、一面が白い縞で覆われ、その映像が約三分間も続いていた。  見ていた武藤は、その目を疑っていた。  「あの奥さんは、簡単に言っていたけど、こんなに酷い映像だったのか。聞くと見るでは大違いとはこのことだ。百聞は一見にしかずだな」  たしかに、話に聞いて想像した画面の乱れとは、大違いだった。薄い縞が出て、画像に掛かった位に考えていたのが、一面の縞の乱舞である。しかも、それは、高精度の録画だったから、鮮明に見えて、目がくらむ程だった。ただ、音はしなかった。ただ、画像だけが乱れていたのだ。  「これは、何かの文字かもしれないな」  武藤が言って、見ていたものは、解読しようと、目を凝らしたが、流れが早く、読み取れなかった。  「とにかく、コピーを取っておくことと、出来れば、現物を預かったまま、科学警察研究所に分析を頼もう」  武藤が決断していった。  「では、あの爺さんには、電話で、もうすこし借りておくと断っておきます」  ビデオ入手の手柄を立てた捜査員が、誇らしげにそう言って、ビデオ鑑賞会は終わった。      (二十八)  城の警備員らに拘束された私は、手錠を掛けられ、二人の警備員に後ろ手にされて、その階にある別室に連れて行かれた。その部屋は、天井から大きな丸い照明灯を多数抱え込んだ照明器具を吊るしてある白い壁の部屋で、その中央には、大きなベッドが置いてあった。  (これは、手術室だ) と私は直観した。  (なんの手術をするのだろうか)  私は、太平洋戦争の最中に日本軍の特殊部隊やドイツの特務機関が行った人間改造手術のおぞましさを思い出した。それは、囚人や精神病患者、ユダヤ人等に行った脳手術で、精神病の治療や脳機能の解明を目的にした、非人道的な手術だった。その多くは、人間モルモットにされたのだった。  ベッドの上に寝かされた私を、白衣の老人と看護婦姿の受付嬢が見下ろしていた。老人はすでに手に注射器を持っている。老人が、看護婦に  「下半身を押さえなさい」 と命じると、若い看護婦は、私の下履きを引いて擦り降ろさせ、腰を剥き出しにした。私は、前を押さえたかったが、両手を拘束されていたので、どうにもならない、されるままに、下半身の逸物も露出したままでいると、看護婦は冷たい笑いを横顔に見せて、右手の細い人差し指と親指で輪を作り、私の逸物の上に持っていって、ピンと弾いた。私のものは、その刺激で、だらりと伸びていたのが、ぐっと引き締まり、徐々に縮んで、下腹部の所定の場所にすくんで収まった。  私はその看護婦が、その清楚で清潔な外見にも係わらず、かなりのやり手で場馴れしているということに気が付いた。私のものが小さく収まったのを確認すると、横を向いて、私の顔を探るような目つきで見て、微笑みかけると、  「先生どうぞ」 と事務的に言った。私はこの看護婦の一連の処置を受けて、それまで、微かに心中に抱いていた隙があれば逃げようという闘争心を、一気に失った。女性、しかも、若く美しい女に男の誇りを砕くようなそのような取り扱いを受けて、私は、素直な心になっていた。そして、彼女は、男というものは、そういうことをすると、おとなしく従順になるものだということを熟知しているようだった。それだけ、男を扱い慣れており、経験を積んでいるという証だろう。  私は、二股の付け根に、太い注射を打たれた。しばらくすると、私の意識は、段々と遠ざかって行き、朦朧として、現実感が消えた。  私は消えていく意識のなかで、微かな回想をしていた。それは、私が生まれ出る以前の母なる女性の体内での記憶のようだった。  ーー 私は、狭い空間に体を丸くして、潜んでいた。カーテンに遮られた光線のような明るい光が、体全体を包み込み、生暖かい液体の中に浮かんでいた。その空間は、心地よい浮遊空間だった。体全体が微温の液体の中に浮かび、ゆらゆらと揺らめいて、私は生きていた。だが、時折、激しいショックが加わるときがあった。それまでは、心地よく、眠りと覚醒が半々の意識が、その瞬間突然、呼び起こされ、鋭くなる。体は、反射的に防御の姿勢を強くし、体全体が硬直して、筋肉が収縮しているのが分かった。  そういう、弛緩と緊張の繰り返しが、その浮遊空間での生活のすべてだった。激しい衝撃のあと、痛みと疵が残ることはない。そこが、現実の生活とは違う。喜びや楽しみ、心地良さと苦痛、悩み、不快さの割合を比べれば、九対一で、快楽が上回っていた。そういう快適な状態が破られ、酷い外界の波風に洗われるのは、時間的には、予定された出来事だったが、私は、そういう時期が来るのが怖く、成るべくそうならないように祈っていたような気がする。  だが、その時は、確実にやって来るのだ。それは、教えられなくても、分かっていた。なぜだろうか。本能なのだろうか。私にはその答えは分からなかったが、ただ、今の心地よい状態が変わるのだけは、嫌悪感を持って、警戒していた。なぜあのように、ここち良かったのだろう。それは、完璧に守られた安全の空間で、ただ、生きて、成長することだけを目的に構成された合理的な空間だったから、あのように快適だったのかも知れない。何かに耐えたり、辛抱したりする必要はない。呼吸し、生きていくという生物としての基本的な動きをしてい射さえすれば、いいのだ。これほど、安全で、不安のない状態はない。そういう安逸の時間が長ければ長いほど、長くいたいと思うのは、怠惰の証明なのだろうか。  私は、その快適な時間をなるべく長く持っていたかった。だから、私は、本当は生まれてきたくなかったのだ。なぜ、人は、成長していくのだろう。それが、生物としての摂理だということが、私にはいかにも不条理に思われた。なぜ、このまま、時間の進行が停止し、死へ至る成長が止まり、いまのままの幸せな環境が保持されないのだろうか。たとえ時間の進行が止められなくても、細胞の分化による老化や衰退が停まって、今の状態を維持することは、なぜ、不可能なのだろうか。そうできないことに、生命の進化や人の歴史や行動の秘密が深く係わっていると考えると、出生は生きていくことの根源を、突然突きつける作業のような気がして、私は、その残酷な儀式を喜びの笑顔で迎える女たちを呪いたかった。  母の体内での生活がずっと長続きがすればいいなどと考えている胎児はいない。それは確かに、現実的ではない。だが、私は覚醒から睡眠への移行段階にいて、夢を見ていたのだ。それは、たしかに、回想というより夢だった。大体、胎児のころの自分を覚えている人はいないのだ、ただ、孔子は覚えていて、その頃は春の陽気だった、と語ったと言われる。それは、時々、松茸が顔を出したからだと、もっともな理由がこの説には付されているが、それは、後世の輩が面白おかしく創造した逸話だろう。  たしかに、春の陽気の朧気な雰囲気は、母の体内では保たれているに違いない。完璧に胎児のために守られた理想的な環境なのだから、当たり前だ。私はそういう浮遊空間の夢を見ながら、意識を徐々に失っていった。  目覚めたのは、突然だった。  私は、手術台ではなく、普通のベッドに寝かされて、白い壁の部屋の中にいた。部屋には誰もいなかった。ただ、口を塞いだ呼吸器の「すーすー」という規則的な動作音だけが、静寂を破っていた。  私は、目覚めてから、どこになんの手術をされたのか、体全体の神経を逆立てて探っていた。痛みがある場所はない。多分、鎮静剤が使われて痛みは抑えられているに違いない。しかたなく、私は手を使って、体全体を摩ってみた。両足には異状はなかった。顔にも触ったが、変わりはない。頭にも傷痕はなかった。ナチスのような、人間改造術が行われたのではないらしい。胸も背中にも異状はなかった。私は両手を徐々に下に下げた。そして、腰の後ろ側に小さな手術跡があるのを見つけた。ただ、その跡はそう大きくはなく、小さな穴が開けられて、再び縫合されたらしい。縫い合わされた疵口には、ガーゼと包帯が巻かれて、疵を細菌感染から守っていた。  私は、その意味が分からなかった。  (なんの手術だったのだろう)  自分自身の体に行われた手術なのに、本人は何の目的で、行われたのか、全く説明がなく、壁の外にいたのだ。私は、その穴の跡の先に、手術前にあの若い看護婦が、玩弄した私の逸物があった、と思い出した。  私は、はっとして、両手でその部分を探ってみたが、たしかに、そこには、触り覚えていたままのものが、ちゃんと存在していた。私はほっと安堵の溜め息を漏らした。  あの若い看護婦が、右手の指で輪を作り、ピント弾いた私の逸物は、その時、驚いて身を竦めたが、いまは、堂々ともとの大きさに戻り、私の下腹部に収まっていた。こういうものは、持ち主の精神状態を敏感に反映するものなのだ。  天井を見ながら、そんな他愛のないことを考えていると、病室の入口ドアーが開いた。笑いながら、姿を見せたのはあの禿の老人とあの意地悪な看護婦の、例の二人連れだった。      (二十九)  科学警察研究所に送られたビデオは、音響と映像の専門家による分析が行われた。なにしろ、画面には、白い大きな縞しかみえないのだから、このなかに何かを発見するとしたら、各種の機器による、検査にかけなければならない。  最初に行われたのは、音響の分析だった。音は、もともとは、テレビ番組の音声が入っていたが、その裏に微かに、高音程の連続音が続いているのを、検査官は聞きのがさなかった。周波数分析器に掛けると、それは、人が聞きとれない高周波数で、オシロスコープに掛けると、上部に三本の波の波形があり、それが波を打って連続していた。  検査員はその波形が、ある特殊な音波の形に似ているのを感じていた。それは、鯨が海中で発する通信音と酷似していたのだ。人が聞こえる音域に波を移し変えてみると、その音は、  「ピー、ピー、ピー」  「すいー、すいー、すいー」  「ズズズー、ズズズー、ズズズー」  の三種類聞こえた。  それらは、鯨の愛情音、仲間の識別信号、獲物を追っているときの威嚇音の三つと照合した。  ここまでは、判明したが、陸に鯨がいるわけはないから、その音を誰が発進して、どこから来たのかは、不明だった。ただ、音波はそのままビデオに記録されるわけはなく、一端、電波に変調されて、出力され、受信機にキャッチされて、復調され、ビデオの信号として、記録されたのだ。その電波の発信元を突き止めなければならない。  次に映像の分析が行われた。映像は、白い乱れた縞模様が、テレビ番組の上に被さっているものだったが、何の映像なのかは、判読不能だった。最初に、テレビ画像から、その縞模様だけを分離する電子的な作業が行われた。そうして、取り分けた縞だけの映像をいろいろな分析器に掛けて分析した。  まず、行われたのは、ビデオテープの再生スピードを変えて見ることだ。それによって、飛ぶような速さだった白い縞の動きは、やや、スムーズになって、縞がゆっくりと流れるようになったが、判読は出来なかった。ただ、白い縞が流れていることには、変わりなかったのだ。  次には、音波と同じように、波型の分析が行われた。スコープに映し出された波は、綺麗なアナログの波型を見せていた。だが、拡大して見ると、そのなかに、小さな点々が入っているのが見つかった。それは、一定の幅で規則的に記録されており、さらに拡大すると、その一つ一つの点は、それぞれに異なった幅を持っていた。  微細な磁気記録なので、目で見えるようにするには、電気的な処理をして、ブラウン管などのディスプレーに表示するしかないが、発見された点は、表示管の解像度ぎりぎりで、さらによく見るのは無理だった。  検査官らは、電気的な解析に掛けることにした。アナログ波型にある規則的な点々だけを取り出して、その部分を解析するのだ。だが、こうして複製を繰り返していると、記録は徐々に劣化していくのが、普通だ。ビデオのダビングを繰り返すと、画像がちらついたり、ぼけてくるのが、その現象だ。  だが、規則的な点は、ただ、点だけなので、そういう恐れからは、免れやすかった。ダビングでの劣化は、黒白やコントラストが明確でない、中間域のディテールから始まるのが、多い。微妙なハーフトーンから、解像度は落ちていくのだ。その点で、点の単純な繰り返しは、劣化に対しては、強い耐性を持っていた。  規則的に記録された点だけを取り出すことに成功した、検査官らは、その部分が映像として、あるいは、音声として再生出来ないか、知恵を絞った。そういう情報の記録の方法は、現代では、多種多様な方法がある。最初も今も、磁気を媒体とするのが主流だが、最近は光を使うCDやMOなどの方式が増加している。そこに記録する方式は、レコードやテープのように接触したままではないので、当然アナログではなくディジタル方式になる。ディタルとは、細切れにされた点の幅や大きさに情報を担わせるやり方だ。  コンピューターは、元々、一と〇の電気量の組み合わせで動作するから、ディジタルだった。だからその取り扱う情報もディジタルで記録される。ワープロで打ち込んだ文書も映像も、音声も、みな、一と〇の二単位の情報に変換されて格納される。一と〇にしかすぎないから、劣化しにくく、その後の処理もし易いのだ。一と〇の組み合わせを加工するだけで、いろいろな処理を行うことが出来るのだ。  検査官らは、処理したテープに残された信号が、点々の連続だったことから、その信号はディジタル処理された信号ではないか、と考えた。その点々を読み取り、画像情報に変換して、表示出来るようにすればいい。彼らは、その方法を求めて、全力を傾けた。  始めは、そのまま、アナログの波型に変換して、表示してみたが、結果は、もともとあった映像が現れただけだった。次に、音としての再生を試みた。すると、やはり、  「ピー、ピー」 という音が、出ただけで、それ以上の変化はなかった。  解析の作業はそこで、行き詰まった。ディジタルの情報を再生する方式は、オーディオ・ビジュアルの手法では、それが、限界だった。衛生ディジタル放送を一般のディスプレーに表示する方式では、アナログ変換が行われるが、その方式では、再現できないと分かったのだ。  しかし、その障害は、数日して、思わぬ所から、解決の糸口が見えてきた。分析を諦めきれない、ある検査官が、サンプルの波型を何度もスコープに映し出して見ているうちに、この波型にはある規則的な動きがあるのに、気が付いたのだ。  「おい、この波、幾つかの塊になっているんじゃないか。頭に先導信号が入っていて、そのあとに中身が続いてパッケージされているんではないかな」  声をかけられた年上の検査官が、  「本当かい。それなら、その単位ごとに解析すれば、出てくるよ」 とアドバイスした。  「ということは、これは、データが圧縮されているのですかね。繰り返しの情報は、単純化されて記録してある」  「そうかもしれない。いや、その可能性が高いな。圧縮してあるのだろう。そうなると、その方式が暗号解読と同様、面倒だが」  「やってみましょう。暗号解読なら、方法は確立されている。キーになる記号を捜し出せば、あとは、いも蔓式で解けますよ」  その若い検査官は、大学では数学を専攻していた。だから、暗号解読などは、趣味の領域でもあったのだ。  まる一日がかりで、その作業に打ち込んだ検査官は、夜中になって、やっと、記録方式の割り出しに成功した。  その方式は、実に合理的なデータの圧縮方式だった。数フレーム続く同じ情報は簡略化して、その継続フレーム数だけを記録していた。すなわち、二ビットだけで数フレームをカバーしてしまうのだ。一枚ずつの画像を、全て記録していくやり方に比べれば、相当のメディアの消費域の節約になる。それだけ、記録と再生のスピードも上がるし、記録媒体の節約にもなるのだ。  そういう記録方式を解読して、検査官は、再生装置の開発に掛かった。それは、簡単な作業ではなかったが、パソコンをフルに活用して、パソコンの画面にソフト的に再生するようにした。一々、ハードウエアを設計していては、時間が掛かってしかたがない。  だが、ソフトだけでも、時間はかかる。それが、一年くらい前までの、この研究所の現状だったが、いまは、スーパーコンピューターが、オンライン接続で使用可能になっていた。机上のパソコンに繋がった大型コンピューターが、与えられたプログラムをそれこそ、瞬時に計算してくれる。パソコンには、簡単な開発プログラムを入れてある。そこに、意図にあった修正を加えるだけで、この作業は完了するはずだった。  検査官は、その夜、設定した命令をオンラインで遠隔地にあるスーパーコンピューターに送って、結果を出力するように命じて、その日は、研究室を出て、帰宅した。  翌日、その検査官が、研究室の戻ると、電子メールの着信記録に、「依頼のデータ処理結果」という項目があり、そのメールを開くと、スーパーコンピューターの処理した結果が出てきた。それは、数字が羅列されたバイナリーデータで、そのままでは、何が書いているかは分からない。だが、これをコンピューターに読みこませれば、なにかプログラムが現れるはずだった。  検査官は、白衣に着替えるとさっそく、その作業に掛かった。しばらくすると。画面に「処理終了」の文字が現れ、そのあと、画面に「デジタル画像データ表示」というアイコンが張りついた。  あとは、そのアイコンをダブルクリックすれば、表示プログラムが現れる。その中に、ビデオテープから抽出した信号のデータを読み込んでみれば、画面にその中身が表示されるはずだった。  それらの作業は、手順どおりに、順調に進んだ。最後の画像表示の段階になって、その若い検査官は、上司を呼んだ。  「やっと、出来ました。今から、表示してみます」   彼の机に上司や同僚らが集まってきて、ディスプレーを凝視した。  静かに、ハードディスクの駆動音がして、現れたのは、文字だった。  それは、英文で、  [CELL PORTATION] とだけ表示され、その白い文字が、右側から左側にスクロールするものだった。  「これは、どういう意味だね」  上司が質問した。  「CELLというのは、部屋とか区切りとかいう意味でしょう。細胞という意味もありますね」  「細胞か。細胞を移送ということかね」  「細胞移送ですか」  「そうか、あの遺体の細胞を移したんだよ」  「えっ。そういうことですかね、それは」  「だから、遺体の細胞を採取して、どこかに移送したと言っているのだ。この画面は」  「分かりませんね。どうやってそれをしたんですか」  二人は顔を見合わせて、黙り込んだ。       (三十)  ベッドで寝ている私の枕元に立った白衣の老人と若い看護婦は、私の顔を見下げて、  「やっと、起きたようだね。具合いはどうかな」 と聞いてきた。  「はー」  私が怪訝な顔をして、聞き返すと、医師は、  「どこか、痛いところはないか」 と再び聞いた。  「痛くはないが、腰に何か痼ができた」 「うん、それは、手術の跡だ。すぐに治るさ」  「いつまで、ここに、こうしていればいいのだ」  「そうな。いま、手術跡を見てみるが、あと、三日もいれば、いいだろう。さあ」  医師は、看護婦に目配せした。看護婦は私の足元の方に行って、私のパジャマのズボンを引きずり下ろし、パンツに手を掛けて、脱がせ始めた。私は、思わず、抵抗したが、それは、手術の前に、この女性から受けた下半身の屈辱的な取り扱いを思い出したからだ。  看護婦は私の抵抗をものともせずに、パンツを引きずり下ろし、私の下半身を丸裸にした。そして、医師が検査のための器具を用意している隙に、私のものを左手で鷲掴みにすると、右手の人差し指で、ピイーンと弾いた。私は、その瞬間、痛みが走ったので、また、看護婦にいたずらされたことが分かった。  私が驚いて、彼女の顔を見ると、医師には見えないように、顔を横に背けて、にこりと微笑んだ。私は、その笑顔をみて、この女の不敵な肝っ玉を想像して、嘔吐しそうになった。  「では、腰をこちらに向けて」  医師が命じるままに、私は、体を捻って、背中を医師の方に向けた。医師は手術の傷口を観察していた。  「まあ、綺麗に縫合されているから、順調ですね」  中ば、自分の腕を讃えながら、医師はそう言った。看護婦は黙って、次の作業のため、消毒液をしみ込ませたガーゼを医師に渡していた。  私は、この看護婦の二度に渡る悪戯で、心がいたく傷ついていた。抵抗ができない状態で、この看護婦は、いつでもああいう悪さをしてきたのだろうか。そして、悪女のように微笑んでいたのだろうか。私はおぞましい気持ちがこみ上げるとともに、私のなかで彼女に対する引力が強まるのを感じていた。  それからは、医師のことよりも、看護婦が何をするか、どこにいるのか、どんな表情をしているのか、気になっていた。  「よし、これでいい。あと、二、三日様子をみよう」  医師はそう宣言した。私には聞きたいことが山ほどあった。  「おい、いつまで、おれをここに置いておくつもりなんだ」  「置いておくって、あなたは病人なんですよ。疵が直るまでです」  「病人だって。おれは、病人なんかじゃない。お前たちが、おれをここへ監禁していたんじゃないか。はやく、出してくれよ。俺と一緒に来た少女はどうしたんだ」  「監禁とは物騒な。われわれは、あなたを賓客として丁重に扱っているつもりですがね。あの部屋はこの建物のなかでも一等の設備を持っている。あんなに大掛かりな水槽付きの部屋なんて、世界中にそうありませんよ。それから、少女のことだが、もうしばらくすれば、一緒に帰れるようになりますよ、それが、あと、三日くらいだということです。分かりましたか」  医師は噛んで含めるように、そう語った。  「あと、三日すれば、かぐちゃんと一緒に解放するということだな。それは、間違いないな」  「ああ。作業の進み具合いにもよるが、多分、間に会うだろう」  「約束だぞ」  私は大声で、迫った。  「分かった。では、部屋に連れていきたまえ」  看護婦にそう命じると、医師は問答に疲れた表情で肩を落として、手術室を出ていった。  「さあ、お部屋に帰りましょうね」  看護婦が、私をストレッチャーに乗せ変えて後ろから押して、動かしはじめた。私を乗せた移動ベッドは廊下を通って、エレベーターホールに向かい、降りてくるエレベーターを待った。このエレベーターは高速形だけに、すぐに下がってきて、われわれは乗り込んだ。ストレッチャーを乗せるために、内部はかなり広くなっていた。看護婦は寝ている私の脇に立って、地下四階のボタンを押したが、押しおわって、元の位置に戻るときに、故意なのか、偶然か分からないかたちで、その手を私の股間に持っていき、ぐいと握りしめた。  私は、驚いて、瞬間的に足を閉じたが、そのために、彼女の手が挟まって抜けなくなった。それは、咄嗟の私の運動反応だった。  「あらっ。御免なさい。倒れそうになったから、手を付いただけですよ。足を開いてください」  彼女は懇願したが、私は足の筋肉を緩めなかった。彼女の右手が、私の股間に入ったまま、エレベーターは下がっていき、地下四階に停止して、ドアーが開いた。  彼女は仕方なく、そのままの姿勢で、ストレッチャーを押して、エレベーターの外に出し、体全体で押して、私が一時は脱出に成功したあの監禁部屋に向かった。  監禁部屋には、鍵が掛かっていなかった。私が連れ戻されることを予想して、開けてあるのだろうか。彼女は不自由な態勢のまま、部屋の中にストレッチャーを押し入れた。そして、ベッドの脇に行って、  「はい、あなたの寝場所に来ましたよ。その足を開きなさい。ベッドに移しますから」  と命令口調で言った。  私は素直にその命令に従って足での拘束を解いた。私はすでに、立って歩ける状態だったが、彼女の手助けで、ベッドに移ると決めていたので、そのままストレッチャーに寝ていた。  看護婦は、私の脇の下に自分の体を入れて、起こしはじめた。私は素直に、彼女の動きに従い、右腕を彼女の左肩に置いて、体を起こすと、左手で体を抱えて、彼女の首に巻きつけた。これで、二人は、正面から抱き合う形になった。私より体の小さい彼女は、必死で、私の体を抱えて、ベッドの方にずりさげ、枕の上に頭を置くと、次は、下半身を両腕で抱え上げて、引っ張り、私の全身をベッドに横たえた。  そして、下に丸めてあった上掛けを手にして、私に掛けようとした。私は全ての作業が終わるのを見計らって、上掛けを持った手が私の両肩に掛かったとき、隠していた両手をいきなり出して、彼女の両手を握って、体を引き寄せ、近付いた顔の唇を目掛けて、自分の口を持っていって、押しつけた。すると、意外や彼女も抵抗することなく、唇を押しつけ返してきた。  私は、彼女の頭を両手で抱えて、引き寄せ、さらに強く唇を密着させて、吸った。しばらくそうしていると、彼女のほうから、口を開いて、舌を絡めてきた。私もそれに応じて、舌を伸ばして、彼女のものに絡めさせた。唾液が、口中に充満して、私の顔に滴り落ちた。私は、体全体が熱くなるのを感じていた。彼女も、体が熱を帯びてきた。  私は、立っていた彼女の体を、ベッドの中に引き入れた。彼女も素直にその動作に従った。寝ている私の左側に彼女の体が横たわる形で、二人はベッドに寝た。そして、彼女は、上の手術室でもそうしたように、器用に私の下履きを脱がせ、私の逸物をいとおしそうに、握った。  「やはり、男の人のものは、可愛いわ。いつまでも握っていたい」  その呟きが、聞こえたころ、私も彼女の秘密の花園を探り当て、その二つに裂けた割れ目をま探り始めていた。  「本当に、久し振りよ。ここに来てから、元気のいいのは、見たことがなかったんだから」  「君の、ここは、凄く熱くて、中から液が溢れそうだ」  「あなたのものも、こうしていると段々元気になってきたわね」  両手を互いの下半身に伸ばしての愛撫が続いた。  「さあ、こんなに、大きくなってきた。もっと固く、大きくしてあげるわ」  「そうか、それなら、おれも、ここをぐしょぐしょにしてやろう」  二人は起き上がって、互いの体を入れ替えた。彼女が、私の下半身に顔を付けて、ブロージョブを始めた。私は、彼女の白いストッキングの両足を思い切り広げさせ、その付け根の部分に、顔を持っていって、黒い茂みを唇でまさぐった。  そういう行為が延々と続き、あとは、お定まりの手順で、彼女の昇天と私の放出で、第一幕は終わった。その心地よい疲れの中で、私は考えていた。  (この部屋は、完璧に監視されている。この模様も、テレビで誰かが見ているに違いない。あるいは、ビデオも撮っているだろう。それなのに、なぜ、彼女はこういう行為をしたのか)  その疑問への答えは、あの医師もこのことを容認しているから、ということである。  (それなら、徹底してやってやれ、彼女も、中々の上物なのだから)  私がそんなことを考えていると、横で天井に目を走らせていた彼女が、  「あと、二ラウンドはできるわね」  私の横顔を覗き込んで、探るように聞いた。         (三十一)  科学警察研究所から、ビデオ映像の分析結果の報告を受けた世田谷署の捜査員たちは、その意外な結論を、理解することが、出来なかった。  「CELL PORTATION」(細胞移動)といっても、一体何のことなのか。科学警察研究所にも、医師の免許を持つものはいるが、この事について、特に説明はなかった。ただ、「ビデオの白い縞から読み取れたのは、以上の文字でした」という添え書きがあって、横文字と訳語が書いてあっただけだった。  刑事課長は、  「これでは、何だかさっぱり分からん」 と思案げな表情で、武藤を見た。  そうなれば、なにか、答えなければならない。  「細胞というのですから、生物の細胞ではないですか。それを移動したということですよ」  「どうやって、誰がやったんだろう」  「それが、分かれば苦労はしない」  「科警研に、もうすこし詳しく話を聞いてくれないか」  上司の命令であれば仕方がない。武藤警部は、机上の電話を握って、科学警察研究所のダイヤルを回した。  こちらの名前を名乗って、生物関係の技官の所へ繋いで貰った。科警研も部署が違えば、他部門の検査については、関知していないだろう。こちらの依頼は、ビデオの映像処理だから、それをして、その成果を送ってきただけである。その意味に付いては、こちらが主体的に調べなければいけない。  電話に出た技官に、武藤が要点を説明すると、その技官は、  「多分、細胞を採取して、どこかに送ったということではないですかね」 と言ったが、詳しいことは分からないらしかった。だが、武藤には、思い当たることがあった。それは、遺体の解剖で、春子の腰の辺りにあった疵痕である。それは、何かをその穴から採取したような形状をしていた。解剖の執刀医は、  「その場所から体の中に電気のようなものが走って、心臓に向かい直撃されたのが、死因」  と言っていた。  (あれは、細胞を採取した跡なのではないか)  武藤はその疑いを強くした。ただ、近所の聞き込みでは、不審な人物を見たものがいなかった。だれが、このような手術をしたのか。かなりの高圧の電気を発生させる機械を持っていたとしたら、その姿は必ず、誰かに見つかるはずである。それが、目撃者はいないのだ。足跡らしきものはあるというのに。  武藤は、第一発見者の金井に、もう一度確認してみようと思った。ビデオが見つかったことと、高圧の電気のようなものがなかったのか。そのことを知らせて、あらたに質問したいことがあった。  浦和西署には、警察電話で繋がる。一般電話回線を通さないだけに、秘密の会話も出来る。お話中なのが滅多にないのが、便利だ。  金井は、署にいた。  「もしもし、先日はどうも。行く方不明の少女の捜索は進展していますか」  金井は沈んだ声で答えた。  「いえ。まったく、手掛かりがなくて、進展しませんよ。困ったものです」  「ところで、うちのほうの変死事件ですが。聞き込みで、犯行当時に、高圧電流が流れていたらしいことが、分かりました。解剖結果でも、電気ショックによる心臓麻痺とでています。そこで、お伺いしたいのは、遺体を見つけたとき、発電機や変電機などの機械を見なかったかどうか。あるいは、電流が流れた跡のようなものは、なかったかということです」  「それは鑑識さんがじっくり調べているのではないですか。私はそれらしいものは見ませんでしたよ」  「そうですか。隣の家のビデオに変わった映像が映っていましてね。それを科警研で分析したところ、英語で細胞移動という文字だと分かったんです。なにか、些細なことでもいいですから、気が付いたことはありませんか」  金井は考え込んでいた。  「その細胞移動というのは、何ですかね」  「それが、われわれも、首を傾げているのですが。科警研の専門家の話では、生物の細胞ではないかというんですがね。それ以上は分かりません」  「高圧の電流が走ったとすれば、雷のように光が見えたのではないですか」  「その目撃者はいません」  「ああ、確かに、昼間ですからね。天気も良かったし、光が出ても見えないかもしれない」  金井はそう言った後、光の像を頭に浮かべて、その光景をどこかで見たか、聞いた気がした。明るい光が、野外の空間にある映像だ。  (そうか。あれは、少女が不明になった時の公園の目撃証言だった)  そのことを思い出したが、電話口で、武藤に話すことではないと考えて、黙っていた。  武藤は、特に新しい手掛かりは得られないと見て、その後、すぐに警察電話を切った。  金井は、電話機を置いた後、窓の外を眺めながら、考え込んだ。  (光か、そして、移動か)  金井が捜査している山根葉子の失踪事件には、まだ、捜査員たちに明かさないでいる老人二人の目撃情報があった。それは、金井とコンビを組む山岡との間の秘密だった。老人たちが光の輪を見たという事実は、二人だけしか知らないのだ。  金井は山根葉子の失踪事件と、長井春子の変死の間にある共通性は、「光」と「移送」にあると、このとき、気が付いた。だが、その意味が依然として、不明だった。  こういう、人の蒸発は、映画では見たことがある。宇宙の果てから得体の知れない宇宙人がやって来て、光の輪で人を包み込み、誘拐していくというストーリーは、宇宙物の定番のようなものだ。  (だが、それが、この地球で、現実に起きるとは思えない)  金井は、自らの空想を否定した。  だが、何かの共通性が、この二つの事件の間にはあるような雰囲気がある。それは、証拠はないが、空気で感じるものである。二つの事件はどこか、似通っているのだ。  金井は、武藤ともうすこし、じっくり話し合ってみよう思い立った。こちらが得ている情報を包み隠さず、相手に与え、こちらも相手の情報を聞き出して、二つの事件の関連性を追究し見よう。  金井は、そう思い立って、今度は、こちらから警察電話で、警視庁世田谷署を呼び出し、武藤の面会の約束を取り付けた。  武藤は、  「今度は、私がそちら方面に伺いますよ」  「そうですか、どこにしますか」  「私は家がそちらなのです。川口にちょっと知っている店があるのでそこでどうでしょうか」  武藤は店の名前と道順、電話番号を教えた。  「では、明日にでも」  金井は時間を打合せ、話が決まった。その店は、名前からすると、鰻屋のようだった。      (三十二)  城の若い看護婦と私は、そのあと二回、登り詰め、放出して、疲れ果てた体を、ベッドに横たえていた。その行為の最中にはあまり、言葉を交わさなかったが、すっかり満足した彼女は、私の裸の体の右側に、生まれたままの姿で寝ていた。  「本当に久し振りだった、本物の男は」  そう呟くのを聞いて、私は、  「なんだい、その本物の男というのは」 と聞いていた。  「本物の人間はいいわね。やっぱり、なんでも、本物に限るわ。偽物は駄目だ」  看護婦は、今度は、そう呟いた。  「君は、本物なのか、偽物なのか」  「さあ、どちらでしょう。あなたはどう思う」  私は、彼女との行為の流れを順番に思い出していた。前戯の愛撫から挿入して、内部の感覚は、いままで、私が交わった女性とそう変わりはなかった。熱く燃え、湧き出る愛液が、内部の暗闇に充満していて、襞の感触が私の一番鋭敏な末端神経を伝わって、脳髄を刺激した。私は、何度かのちゅう送を繰り返し、彼女が登り詰めるとともに、リズムをシンクロさせて、果てたが、そこまでの、全身の知覚神経を伝わる感触は、人の女性との行為で感じるものと同じだった。彼女は、なぜ,  「本物はいい」 などと言ったのだろう。  私は、そういう疑問を抱きながら、再び、彼女を右手で、抱き起こし、体に引き寄せてから、胸の上に頭を乗せて、乳房の感触を楽しんだ。彼女が、仰向けに寝ている胸の上に、私は右の耳を持っていって、静かにその鼓動を聞こうとした。  だが、その胸の鼓動は、小さかった。あれだけの激しい行為をしたあとだから、心臓は脈拍を増やし、力一杯血液を送る作業をしているはずだから、そのような小さな心音は予想外だった。その点が、そういえば、私が経験した本物の人間の女性とは違っていた。彼女たちは、必ず、行為のあと、息使いを激しくし、心臓も勢い良く鼓動を速めていたものだ。  私は不審に思って、彼女の胸の上の耳を滑らせて、鼓動の先を追っていった。最初に聞いていたのは、左の胸だったから、そのすぐ下に、普通の人間なら、心臓があって、最も大きな音が聞こえてくるはずだった。それが、か細い、心音しか、聞こえないのだ。  私は、今度は左の耳を彼女の右胸に持っていった。胸の乳房は、大ぶりで、片手で掴むとはみ出すボリュームがあったが、その大きさの為に、音が遮断されて、私の経験とは違う音量だったのかと、訝ったから、同じボリュームがある右胸ではどうか、と考えたのだ。  右胸のしたの鼓動の音のボリュームは、左の二倍は大きかった。  「おい、君の心臓は、右にあるのか」  私は、驚いて、彼女に聞いた。  「そうね。そこが、失敗作なのよ。私は」  「失敗作って」  「だから、作り方を間違えたって訳ね」  「作り方って。君は、生まれたのではないのかい」  「生まれたと言うことも出来るわね。父と母はいないけど、成長はしてきたのだから」  「親がいないのか。君は、孤児というわけかね」  「まあ、そういう言い方も出来るかもしれない。でも、私には、もともと、親がいないのよ」  「親がいなくて、人が生まれる訳がない」  私は彼女が言っていることが、わからなくなっていた。  「そのうち、あなたにも分かるかもしれないわ。私達のことが」  彼女はそう言って、胸に乗っていた私の頭を押し退けて、体を向こう側に返して、丸くなった。  それは、会話を拒否するという意思を示した姿勢だった。  「私、疲れたから、すこし、ここで、眠っていく。いいでしょう」  そう言って、既に眠る姿勢を取っていた。  「でも、戻らなくていいのかい」  「ああ。あの人の所。いいのよ。あの人も分かっていて、こうさせているのだから。あの天井のカメラで、ここの一部始終を撮って、研究に役立てる積もりなんでしょう」  「研究か」  「そう、私がどういう反応をしているか、観察しているのよ。人の男に対して、どういう反応を示すかをね」  私はみはり、モルモットなのだ、とこの時、深く、実感した。私はこのホテル並の設備を持った客室とやらの檻に入れられて、観察されているのだ。そこに、雌を入れてみて、反応を見る。そういう決められている手続きのまま、正直に、私は反応していたというわけだ。  「そうやって、君が眠るのも、決められた手順なのかね」  私は、ひがみ声で聞いた。  「私には分からない。そういう風に、私がプログラムされているのか、どうかは、されている本人には分からないのよ」  多分、あの天井のカメラで覗いているやつらは、その下のデスクに、印刷された観察項目の書類を置いて、私達が、所定の行動をとるかどうか、見ているにちがいない。  彼女が体を横に向けて、私との会話を拒絶した時、私がどう出るか。それも、観察項目なのだろう。  実際、私はどうでるのか。彼女の体を、再び、こちらに向けさせて、もう一戦を挑むのはどうか。それとも、私も、反対側を向いて、寝てしまおうか。または、このまま、彼女を残したまま、風呂場に行って、汗に塗れた体を流そうか。見ているやつらは、何を期待しているのだろう。  だが、私には、二ラウンドの後、さらに戦いを挑む体力と気力は既になかった。一番したいことを考えると、それは、火照った彼女の体をこの胸に抱え込んで、温もりを感じながら、ゆっくると、まどろむことだった.  私は、彼女の体を後ろから抱いて、自分の方に引き寄せた。彼女は、その動作に、抗うこともなく、むしろ積極的に、自分の体を寄せてきて、途中でくるりと寝返りを打ち、顔をこちらに向けて、下から私の顔を覗き込む姿勢を取った。  私は、彼女の背中に左手を回して、体全体を抱え込み、胸を密着させて、柔らかい肌の感触を自分の知覚神経に伝えた。  私たちは、そうやって、一つになって眠った。肌を密着させていると、心が落ちつき、相手の考えていることが、言葉を介さずとも自然に伝わってくる感じがした。温かい体温と規則正しい、呼吸と心臓の鼓動と。それらが、生きている生物の証として、確実に、捕らえられて、私の心を落ちつかせた。  それに、胸に抱いているのは、ついすこし前まで、私の性的衝動を一身で受け止めてくれた異性なのだ。彼女にも勿論、性的欲求はあっただろう。その両者の欲求が合致しての行為であることは間違いない。そして、二人とも満足して、こうして、抱きあっているのだ。それは、満ち足りた眠りへの序曲であるに違いない。  彼女は、名前も名乗らないでいる。私の名前は知っているだろう。だが、私は名前など聞きたいとは思わなかった。そういう形で、男と女が交わり、極、自然な成り行きで、こういう形で、抱き合っている。それは、スムーズな、抵抗しえない流れの中で、行われたのだ。そういう、自然の流れが、今の状況を招いたのだと考えれば、その状況を思い切り、堪能すればいいのだ。天井のカメラが覗いていようとも、それは、わわわれの関係には、無関係のことだ。  私はそう考えると、彼女に引き寄せられた自分の微妙な心の動きの不思議さに感動した。それは、また、微かな過去の記憶とも、一致していた。そういう微かな感情は、あの公園で、私が少女に抱いた感情と同じだった。  たしかに、少女は何物かから逃れようとして、あの公園に来ていたのだ。だが、私はその姿をファインダーの中で覗いて、これは私のためにしつらえられた状況で、千載一遇の好機だと思ったのだった。だから、私は、彼女を匿って、言われた通りの旅に出たのだ。  ここに寝ている女もかぐちゃんも、私には、避けがたい誘惑だったのだ。たとえ、向こうから飛び込んできたにせよ、私は彼女たちを受け入れたのだから。こういう監禁状態でも、私は、彼女を愛することが出来たのが、誇りだった。  だが、なぜ、見ず知らずの名前も知らない女を、このように愛することが出来るのか。それは、男の性なのか。私は、そうではないと考えていた。同じような状況になっても、相手によっては、出来ないこともあるだろう。いくら、気持ちが入っていても、体が言うことをきかないということもありうる。それが、このように何の抵抗もなく、スムーズにことが進んだのはなぜなのだろう。  そのことを突き詰めて考えてみて、私はある重要な要件に気が付いた。それは、私が、慣らされてきたここ一週間の環境のせいだと思われたのだ。  すなわち、私は、かぐちゃんに誘われて、この城に導かれた。そこまでの経過で、私の心は、彼女の方を向いていた。だからこそ、私は逆らわずに、彼女に言われるままに、ここまで付いてきたのだ。そのなかで、私の心はかぐちゃんの方だけを見ていた。それは、心地が良いことだったし、いつまでも、そういう状況が続けばいいと思っていたからだ。  そして、この城で、彼女を見失って、暫く経ったが、今度はここにいる若い女性が現れて、私はそちらに心と体を引かれたのだ。その時、違和感はまったくなかった。  これは、どう言うことなのだ。私の心は、かぐちゃんから。この女性へとスムーズに移行した。  ということは、この二人に、共通した資質があるということなのではないのか。それは、使い慣れた工業製品をなくすと、同じ物を欲しがる傾向と符合していないだろうか。  (そうだ。かぐちゃんと、ここにいる彼女は、同じ部品で同じ形で出来ているのだ) と私は気が付いた。  「作りかたを間違えた」 と彼女は言った。そうだ、確かにそうなのだ。彼女たちは、誰かに作られた。しかも、  「親はいない」 とも彼女は言っていた。ということは、彼女たちは、人工的に作られたものなのだ。  私はそこまで、考えて、横に寝ている彼女を突き飛ばしそうになったが、必死で堪えていた。  彼女とのセックスの記憶が、作り物のような感じではなく、生き物としての息をしている人類との深い交流と思えたからだ。         (三十三)    浦和西署の金井警部補は、警視庁世田谷署の武藤警部と、川口の鰻屋「きもや」で待ち合わせした。地の利が近い金井が、先に着いて、予約が入っているのを確認すると、店員は、すぐに、「こちらへ」と言って、別室に案内した。  金井が、こざっぱりしたその別室で出されたお絞りで顔を拭きおわったころに、武藤が現れて、  「いやあ、久し振りです」 と笑いながら、入ってきた。  先ずは、ビールで乾杯して、座が和むと、蒲焼や、白焼きや、胆焼きなどが、次々と出されてきて、二人は、鰻つくしの料理に舌鼓を打った。  「私は、そちらの事件と、われわれの事件の共通性を考えていたんですが、一つ思い浮かびましたよ」 と話を持ちかけたのは金井だった。  「どういうことですか。それは」  武藤が応じた。  「これは、うちの捜査員にも秘密にしてあることなのですが、光と、移送がキーワードだと思います」  「光と移送ですか」  「移送は移動と言ってもいいですがね」  「詳しく説明してくださいよ」  武藤は、ビールを金井に勧めながら、身を乗り出してきた。  「では、お話ししましょう。われわれの事件の少女失踪事件の聞き込みで、少女が不審な男と一緒に歩いているのを見たという目撃証言を得ました。それは、捜査本部の共有の情報ですが、実は、私ともう一人の捜査員しか知らない情報があるのです。それは、公園にいた老人二人が共通して言っていることなのですが、その男は、明るい光の輪と一緒に歩いていたというのです。また、あの公園のお花畑を大きな光の輪が移動していくのを見た人もいる。それが、まず、光ということですが、あなたの方の事件でも光が登場しますね」  「そうです。高圧電流が流れた節があるのです。只、昼間だったので、明るい光の目撃情報はありません。でも、常識的にあのような傷痕が出来るのは、相当激しい放電があったのではないか、専門家は言っています。金井さんが見つけた時はどうだったんですか」  「それが、電流に打たれたような形跡はなかったですね。遺体にそれらしい疵はなかったですよ」  「でも、解剖ではそういう所見になっています。電流が体を走って、心臓を打ったと」  「そうですか。でも、外傷も毒物を飲んだ形跡もないとしたら、考えられないことではないですね」  「外見上は、遺体は綺麗なものでした」  「そうでしたね。だから、電流は実に鮮やかに心臓を直撃している。これは、偶然とは思えませんよ。誰かが、意図的に狙ってやったとしか、思えない」  「故意ですか。で、あの足跡はどうなりました。だれのものか、分かりましたか」  「いえ、まったく手掛かりがありません。ただ、おかしいのは足跡の形が、左右不揃いなんです。左足が、極端に小さくて、右足の跡はその二倍の大きさがある。どうもその点が不可解なのです」  「それで、靴の形や、メーカーは分からないのですか」  金井が突っ込んで聞いた。  「分かりません。日本にあるメーカーには、全部当たってみたのですが、該当する靴はないようです。あとは、輸入品とか、外国製のものですが、それは、いま鋭意、当たっているところです」  「私が感じたのは、あれは、人の穿く靴ではないのではないかということでした。あれは、たとえば、宇宙飛行士が穿いている宇宙靴のようなものでは、ないでしょうか」  「と言いますと」  「飽くまで想像ですが、ゴム底のような柔らかい物質ではなく、硬い金属の跡のような感じがしたんですがね」  「そうですか。それは、貴重な見解ですね。われわれが、調べたのは、すこし時間が経ってからだから、輪郭が崩れていて、その点までは分からなかった」  そこまで、話して、二人は、ひとしきり、酒の杯を酌み交わして、出てきた鰻料理を口に運んだ。  大分、酔いが回り、おなかも満腹になったところで、金井が、再び話しだした。  「二つの事件で私が感じているもう一つの共通点は、いずれも、物体が移送・移動していることです」  「はあ、移動ですか」  武藤が、口に持っていった白焼きの一切れを箸に挟んだまま、聞いた。  「そうです。われわれの事件では、少女と男がいなくなった。どこかに、移動していったのです。そして、あなたたちの事件では、細胞が、移送された。ビデオの分析で、それが、文字で宣言されていたのでしょう」  「そうです。細胞移送という英文が出てきました」  「すなわち、物体、いや正確には生命体がどこかに動いていったのです。それが、事件を構成している。われわれの事件では、それが事件そのものだし、あなたがたの事件では、それが、重要な手段になっている。そうですね」  「はい、何者かが、長井春子を殺害して、あるいは、結果として殺害して、その身体から生命細胞を採取した形跡がある。多分殺害そのものではなく、細胞採取が目的で、春子を襲撃し、生命を奪うことになったのだろうと、私は見ています」  武藤は、自分の考えを述べた。  「そうです。ですから、この二つの事件には、二つの共通性がある」  武藤が、違った方向から、意見を述べた。 「細胞を採取するという行為は、普通の人が出来ることではないですね。医師とか生物関係の研究者か、そういう人がすることでしょう。ですから、出来る人は限られている」  「確かにね。でも、長井春子の息子の照男は医師ですよ。とても身近にそれができる人がいたことになる」  「これは、偶然だろうか」  「いや、そうではないでしょう。照男はもう六年以上、行く方不明です、そして、妻の操も一年前から姿を消した。二人の居場所は、いまもって分かっていない。これは、不思議なことです」  「われわれも、捜査はしたんですがね」  武藤は、自分の管轄の地域で出された捜索願をまともに捜査しなかったのを詰られた感じがして、やや、語気を強めて、言った。  「もう一度、身を入れて捜査をしなおした方がいいかもしれないですね」  金井は、そう提言した。  「だが、手掛かりがまったくないのです、本当に忽然としていなくなってしまった」  「いや、それは、捜査不足ですね」  金井は、この人はいいが、エリート然とした若い警部に、含むところはなかったが、やはり、しがないたたき上げの自分の身の上が、自然と口ぶりに出ていた。  「そうですか。なにか、いい情報があるのですか」  「いいかどうかは、分かりませんが、奥さんの実家を探しましたか」  「いえ。と言うのは、奥さんの捜索願いはでていませんから」  「やむを得ないか」  「ですが、こうなったら、あたってみましょう。死んだ、春子さんに最後に会ったのは、金井さんですからね、なにか、聞きましたか」  「操の実家は、東北地方だそうです。私は世田谷区役所で調べましたが、実家は宮城県の仙台市でした。春子から電話番号を教えてもらって、電話をしてみました。でも、その電話は使われていなかった。それから、もう、こうなったら、言ってしまっていいでしょうが、死んだ春子は、照男の義母として暮らしていて、実際、早く実母を亡くした照男を母代わりになって、目に入れても痛くないような可愛がり振りで育てましたが、戸籍上は、養女になっていて、続柄は照男の姉となっています。そういうことは、古くから日本ではよく行われてきてはいますが、不自然なことは、事実です。姉が弟を育てたことになるのです」  「そうですか。かなり、複雑な関係なんですね」  「いや、そうでもないですよ。この程度のことは、大して複雑とは言えない。あくまで、戸籍上のことですからね」  「すると。手掛かりは、北にありということですね」  「そうです。ですから、一刻も早く、その場所を特定できれば、二つの事件は一気に解決すると思います」  「宮城に行って見ましょうか」  「そうだね、あの本籍地に行ってみれば、なにか新しいことが分かるかもしれない」  謎ときの鍵は、北にあり、ということで、二人の意見は一致した。そして、日を打ち合わせて、一緒に、陸奥を訪ねることを決めた。       (三十四)  男と女の愛の戦いを終えたあとで、ベッドでまどろんでいる彼女の様子を探りながら、私は、この城からの脱出を考えていた。逃げる方法は、換気口を伝っていくほかに、いろいろとありそうだが、問題は、私一人ではなく、囚われているだろうかぐちゃんも助け出して、一緒に逃げなければならないということだった。  かぐちゃんはどこにいるのだろう。捕らえられている場所を、探らなければならない。だが、その前に、まず脱出しないと行けない。私は彼女を起こさないように注意しながら、衣服を着て、持ち物を持って、入口のドアーの方に行った。私の微かな記憶では、看護婦の彼女が、私をストレッチャーに乗せて、この分厚いドアーを通ったとき、ドアーをロックしていないという感じがしていたからだ。 私は内側からドアーを押してみた。重いドアーは、びくともしなかった。近寄って良く観察すると、このドアーは、不思議なことに内側からは鍵が掛けられない構造になっていた。内部の鍵は外から掛けるのだ。ということは、こちら側には、普通の部屋の鍵穴があるはずだった。ところが、それが、ないのである。すなわち、この鍵は外からだけ掛けられるようになっている。  (それなら、ここに入ってきた係員は、どうやって外に出るのだろう) と私は考えてみた。それは、外部から操作してもらってでるか、何かの自動認識装置によって、確認するのだろうと思いついた。  そうなると、彼女はその認識のための、鍵を持っているはずだった。私は、彼女の脱ぎ捨てた白衣や下着を調べてみたが、それらしきものは見つからなかった。  ただ、彼女との行為の最中に、左腕に触れたとき、異様な硬い物を感じたのを思い出して、はたと考えた。  (あれは、認識装置なのではないか。体に埋め込まれているのだ)  私はそう想像したが、それは、その部分を開いて内部の物を確認しなければ、分からない。開くと言うことは切開することだから、皮膚を傷つけないと行けない。それは手術だ。痛い思いを、寝ているままで過ごすことはできないから、当然彼女は目を覚まし、暴れるだろう、そうなると、手術どころでなないことになる。  (だが、触って確かめるだけなら、起こさないで出来るかもしれない)  そう考えて、私は、彼女の左腕を探って、その硬い部分を調べてみた。確かに、それは、硬い鉱物性の物体だった。偏平の小型の金属部品がそこにあるようだった。  私は、その部分を強く押してみた。すると、部品は、皮膚の下をすこし移動した。さらに押してみると、また、すこし移動した。彼女の皮膚は、ビニールの布を張りつけたような触感がして、私も行為の最中から気になってはいたが、人の肌には色々な性質があるから、と考えて、その部分だけは最高の感覚があった下半身の微妙な部分に神経を集中していた。だから、他の部分への神経の気配りが足らなかったのは事実だ。  この腕の感触に触れてみて、彼女が、  「私は失敗作だから」 と独り言を言ったその意味の一端に触れたような気がした。  私は構わず、皮膚の下の固形物をずらしていって、それ以上ずれない所まで持っていき、思い切って、力を込めて、押し上げた。すると皮膚が破れて、平たい金属の板が、顔を出した。破れた皮膚からは血が出たが、溢れる程ではない。神経が通じていないのか、彼女は声一つ上げずに、健やかな寝息を立てて眠っている。  私は皮膚のその部分に、ハンカチを切り裂いて作った応急のガーゼを当てて、止血した。そして、手に入れた金属片を握って、ベッドを後にした。  厚いドアーの前に立つと、みはり、予想していたように、ドアーの中の装置が反応した。  「ううー」 という音がして、  「カチャリ」 とロックが外れる独特の音が響いた。  それを確かめてから、私は、ゆっくりとドアーに全身を凭れかけて、押してみた。  ドアーは、徐々に開き始め、ゆっくりと、外の廊下を見せはじめた。  私は、自分の体が通れるだけの空間を確保したあと、右足から、廊下に踏みだした。体は、簡単に外に出た。外の廊下に警備員はいなかった。私は廊下に踏みだすと、思い切って、エレベーターとは反対側に走った。そこには、非常階段があるはずだった。  行き止まりまでくると、そこに鉄の扉があって、閉まっていた。私は、その扉を押した。すると、さすがに非常口だけに、鍵は掛かっておらず、簡単に開いた。階段には赤い非常灯しか点いていなかったので、暗かったが、踊り場にしばらく佇んでいると目が慣れてきた。  私はこの階から上に行かねばならない。上にこそ、地上があり、そこに脱出口もあるだろう。私は躊躇することなく、上りの階段を駆け上がった。  地三階に来たとき、外から、人の話声が聞こえた。私は警戒して、立ち止まり、聞き耳を立てた。  男が話していた。  「ミキラ一一号の処理が終わったら、返送は一日後に実施する、手段は、自然法だ。あの男をヘルパーにして、人間社会に平穏に復帰させる。それでいいな」  女の声が答える。かなり年を取った女の声だ。 「その方法が最適でしょう。疑われる恐れが一番少ない。処理は終了したのですか」  「あと、すこしだが、今日中には終わるだろう。すると、返送は、明日だな。ところで、あのヘルパーは、どうしている」  「ナースAが、付き添って、監視房に送りましたが」  「でも、ナースAは、帰ってきていないぞ」  「監視装置で見てみましょうか」  「いや、位置を確認するだけでいい」  そのあとキーボードを叩くがした。  「いま、監視房の外に出たようですね。トイレかしら、動きがない」  私は、認識用の金属片を念のため、廊下を走りながら、行き止まりの便所に捨ててきていた。  「あの男は部屋にいるのか」  男がさらに、質問した。  「テレビで見ていますが、変わりはないですね。ベッドに寝ています。それにしてもナースAと熱戦は見物でしたね。久し振りに堪能しました」  「なにを言っているのだ。君は」  「ああ、失礼しました。はしたないことを」  「だが、まったく動きがないじゃないか、この映像は」  男が、疑問を呈した。  私は、ベッドの毛布を一杯に上げて、そこに彼女の頭をうつ伏せにして、寝かせていたから、かれらは、それを私だと思っているらしい。それに、監視カメラの解像度が良くないのも、彼らの会話から伺われた。  私は彼らの会話から、キメラ一一号と呼ばれるかぐちゃんが、なんらかの処置を施されて、一両日中に、「解放」されるのではないかとの感触を得た。彼らが「ヘルパー」と呼んでいるのは、私のことに違いない。その私に伴わせて、世間に戻すことを「返送」と言うのだろう。  彼らが、かぐちゃんになんらかの施術を行い、社会に返そうとしているのが、明白だ。  (一体、何の施術を行ったのだろう)  私はその疑問を解く必要があると考えていた。その問いの答えは、この建物の中にある。それだけはハッキリしている。となれば、いまのかぐちゃんの置かれた状況を知ることが、肝心だ。  私は彼らの隙を伺って、その階に出ていくつもりだった。その階のどこかの部屋に、かぐちゃんは監禁されていて、そこで、なにかの手術を施されたに違いない。そのフロアーをくまなく探せば、かならず、見つかるというに確信があった。  研究者と思われる二人の男女が、その場所を離れるのを、私は、階段の踊り場で、じっと、待っていた。  暫くすると、電話が鳴って、  「いま、すぐに、伺います」 という返答のあと、二人が部屋を出ていく雰囲気がした。部屋の電灯が消されて、暗くなった。  私は静かに、防火扉を開けて、部屋の中に忍び込んだ。そこには、大きなガラスの容器が大量に並んでいた。そこには、人の形をした物体が、透明の液体のなかに入れられて、並んでいた。  私はその光景を、一度見た「デジャブ」経験があるように思われた。  (そうだ。これは、最初の日にこの城の展示室で見た、人の発生の標本とおなじ姿なのだ) と私は気が付いて、自然にその中に、あのかぐちゃんと同じ顔の物がないかを探していた。        (三十五)  金井警部補が、浦和西署に出勤すると、すぐに、武藤警部から電話があった。  「例の東北行きの件ですが、善は急げといいますから、明日にでも如何です」  武藤は金井の予定を聞いてきたのだ。  「そうですね。今のところ、こちらも、進展がないようなので、結構ですよ」  「では、明日朝、上野駅発の東北新幹線で行きましょう。出発ホームで待ち合わせしましょう」  「いや、私は大宮からの方が近いので、列車だけ決めて下さい」  金井がそういうと、武藤はすでに調べてあったのか、列車の名前と時刻を言い、  「では、明日」 と言って、電話を切った。  本来なら、仙台行きは、武藤の職務である。夫の実家の母が殺されていて、その主婦が家出しているというのだから、この事件の捜査に当たっている武藤が専任で調べてもいいのだ。だが、その情報は金井が得てきたものだから、武藤は仁義を切って、一緒に行こう、と誘ったのだ。  その日は、これといった動きがなかったので、金井は、機会を見て、課長に出張の意向を伝えた。事情を聞いた課長は、  「直接、こちらの事件に関係していることではないだろうから、宮城県警に連絡して、調べてもらってもいいのではないか」 と難色を示した。  だが、金井が、  「この話は、死んだ春子から聞いたので、長井医師の失踪と密接に関連していると思う。ということは、こちらの事件にも係わっているかもしれない、なにしろ、長井医師は葉子が誕生したときの担当医なんですから」 と説得すると、  「なるべく、早めに引き上げてよ」 と言いながら、渋々、納得した。  武藤は、その日、もう一度、科学警察研究所に出掛けていった。昼過ぎに、映像分析を担当した検査官から、  「面白い記録が出てきました」 と連絡を受けたのだった。  武藤はそのとき、いちおう、  「どういう内容ですか」 と聞いてみたが、  「それは、見て頂いたほうが一目瞭然ですよ」 と言われてその言に従ったのだった。  研究所を訪れた武藤に、その検査官は、  「いま、映像をディスプレーに出します」 と言って、機器を操作した。  「この映像は、先日解析した白い文字のコントラストを下げていった結果、出てきたものです」 という説明を聞きながら、見たその映像は、上部から白い雪のような物が降り注ぎ、白い木の形のオブジェに当たっている画面だった。  「どうです。こういう、映像を見たことがありますか」  検査官は、武藤の顔を覗き込んだ。  「なんだか、雪国の風景のような感じですね」  「そうです。木のような物が見えるでしょう。大きいのや、小さいのが並んでいる。それらは、皆、雪ですっぽり覆われている。こういう風景は、独特だと思いませんか」  「はあ、確かに。どこか、駅で見たポスターにあった風景だな」  「そう、スキー旅行の募集ポスターなどに多いですよ。こういう風景は」  「ああそうだ。これは、蔵王の樹氷ですね。多量の雪が木に付いている」  「私もそう思いました。面白いと思いませんか。こんな画像を背景に使っているなんて。発信者の趣味なんでしょうか」  武藤は、明日にも向かうことになっている宮城県とこの画像との照合にはっとなった。蔵王は、山形が有名だが、宮城県との県境にあるから、宮城蔵王という場所もあるのだ。  武藤は、ピンと来た。  (われわれが 向かうところは、この樹氷の場所だ)  そういう確信が湧いてきた。  武藤はその画像をダビングしたテープを手にして、科警研を出た。そして、駅のターミナルの大型書店に行き、蔵王を含む宮城、山形県の地図と、旅行案内書を買った。  署に帰るあいだに考えてみると、行くべき場所は、仙台から蔵王である。そこに二つの事件を解く鍵がある、という思いが強くなって、それは、徐々に信念に変わっていた。  (いまは、何があるか、分からないが、必ず、なにかがある)  すぐにでも、今朝早く電話した同道者の金井に、この新しい情報を知らせたかったが、止めておくことにした。直接、新幹線の中で話をして、驚かせたかった。これまでは、金井に多くの情報を教えて貰うことが多かったが、こんどは、こちらから、一矢を見舞いたかったのだ。  そう考えて、武藤は楽しくなったが、いつまでも喜んではいられない。  蔵王といっても、広いのだ。そのどこに潜伏先があるのか、手探りの状態なのは確かだ。しかも、特に特定すべき証拠があるわけではない。たんにテープの画像解析でそれらしい画像が現れただけである。しかもそこに「蔵王にて撮影」と書いてあった訳でもない。その上、蔵王は広いと来ている。武藤は浮かれていた気持ちが急激に沈むのを感じた。  だが、とにかく、一定の手掛かりを得たことは確かだ。  (あとは、仙台の操の実家を探ってみればなにか出てくるかもしれない。それに、期待しよう)  そう思って、翌日の主張の用意をするため、という理由を付けて、この日は早めに、帰宅した。  久し振りにテレビのニュースを見ていると、「イギリスの民間研究所で、クローン羊を作ることに成功して、その羊は既に生後八か月に育っていることが、近く発売される科学雑誌に掲載されることが、明らかになりました」 とアナウンサーが話していた。  武藤は、そういう生化学の知識はなかったが、明日訪ねていくのはそういう研究をしていた医師の出奔した妻の実家だという意識があったから、注目して、次の言葉を聞いていた。  「その方法は、羊の雌の乳腺から取った細胞の核を、他の羊の卵子に委嘱して、化学的に刺激を与えて、細胞分裂させ、育った受精卵をもう一頭の雌の子宮に入れて、成育させるというもので、成長した個体の細胞から採取した核を使った方法では、初めての成功例になる」  アナウンサーは淡々と手にした原稿を読み上げていた。画面には、その手法のプロセスを描いたパターンが映し出されていた。アナウンサーは続けた。  「精子を使わない無性生殖の方法で、この手法を使えば、親と全く同じ子供を多量に作ることができるため、倫理的な問題が問われそうです。これまで、人工的な無性生殖はカエルなどの卵を使って成功していましたが、人と同じ種である哺乳類では初めてです」  アナウンサーは、そこで一端息を継いで、さらに最後に、  「この技術は原理的には人にも使うことが可能なため、道徳的、倫理的な問題を提起しそうです」 と結んで、次のニュースに移っていった。  (すごい時代になったものだ。人工的に、まったく同じ生命が作れるのか。おれの子供がまったく俺と同じだったら、どうだろう。嬉しいか、気持ちが悪いか)  武藤は考えたが、年齢四十を過ぎて、やもめ暮らしの身とあっては、実感が湧いてこなかった。  そして、  (すると、その技術を持ったやつは、好きなだけ、好きなものを生物を作れるわけだ。それでは、自動車や電気製品の大量生産とおなじことが出来るわけだ。ヒットラーなら、大喜びしていたろうな)  そのとおり、大量生産だけでなく、思った通りのものを作れるのだから、ヒトラーの考えていた「優秀なアーリアン民族による世界制覇」は、人の供給の面から、現実的になるのだ。一方で、「無能で汚い民族」を抹殺してしまえば、彼の理想の世界が実現されることになるだろう。  二十一世紀になったら、そんな技術を使って、機能別の人間を作り、さらに細分化された階層社会が出現するのかもしれない。  (そうなったら、世も末だな。まったく、おぞましい限りだ)  武藤は、そう呟いて、テレビを消して、買ってきた東北地方の地図を広げ、解説書と首っ引きで、蔵王の特徴を頭に入れた。そうやって、布団に入っているうちに、いつの間にか、睡魔が襲ってきて、眠りに落ちた。       (三十六)  暗い部屋に冷たい微風が静かに流れていた。微かな常備灯の光を頼りに、室内を見回してみると、大きなガラス容器に入った人の形をした標本が、整然と並べられているのが、分かった。  天井から青い光が、平行に漏れていて、その波長の短い光線が、ガラス容器の頭から降ってきて、ガラスを青白く輝かせていた。光は、ガラス容器に当たって屈折し、錯乱して、周囲全体を幽玄な雰囲気に色付け、私は、氷の城に迷い込んだアリスの感覚がしていた。  私は、その林立するガラスの中の標本にかぐちゃんの姿がないか、意識しないで、探していた。その多くは、子供の姿だったから、探すのは、体格だけでなく、顔も一々、見ていかないと分からない。だが、光が少なくて、判別は難しかった。  私は照明のスイッチの在りかを探した。それは、普通は、入口のドアーに近い壁に取り付けられているはずだった。私は、二人が出ていったドアーの方に行き、壁を探った。やはり、スイッチは、壁に集めてあった。私は、その一番、右端のスイッチを入れて見た。天井の一番奥の蛍光灯が、瞬き始め、グロー・ランプの青い光が一瞬、瞬いたあと、蛍光灯が点灯した。私は他のスイッチを次々に点けていった。すると、部屋の半分ほどの蛍光灯が点灯し、部屋は格段と明るくなった。  私は、その明るい照明の中で、かぐちゃんの顔をした標本を、再び、探しはじめた。すると、その時、いきなり、廊下に警報音が鳴り響いているのが聞こえてきた。廊下を人が走ってくる音が聞こえた。  私は、壁際に走り戻って、全てのスイッチを消した。そして、天井の蛍光灯が、全て、光を落とした瞬間に、あの老医師と赤いスーツを着た年寄りの女性、さらに、白衣を着た若い男女の四人が、ドアーの側に駆け寄って来たのがわかった。  四人は、手分けして、部屋の内部を探りはじめた。私は、部屋の隅にあったロッカーの狭い隙間に身を隠して、四人の足音に聞き耳を立てた。  息使いでも、人の動きは分かる。特に若い男女の息使いは荒く、その位置が手に取るように、感じられたが、老人と老女の場所は、掴みにくかった。私は、とにかく、力のあるだろう若い男女の動向に注意して、動きをみていた。だが、二人は、まるで見当違いの方向を探り、部屋のさら奥へと入っていっていた。私は、安心して、その場所に身を隠し続けていたが、部屋の入口に再び、目をやると、今度は、人の腰の辺りで明るい光が輝くが分かった、それは、どうも、懐中電灯の光のようだ。光は二つの光線の束を放射していた。二つの位置は離れ、別々に動いている。二人の人間が、持っているのが明らかだ。それは、多分、私が、逃げだすときに一瞬、かいま見た老人と老女に違いない。  光の束は、こちらへ向かってきた。私は身を隠している場所は危険だと考えたが、ここで、飛びだしたら、もろに光を受けることになる。私は、さらに身を縮めてロッカーの間の狭い空間に体を押しつけた。  光は、こちらにやってきた。そして、私が身を隠している前に来て、止まり。こちらの方を照らしだしたのだ。私は、二つの光線の直射を受けて、暗い舞台でスポットライトを浴びたような状態になった。  ライトの光が余りに明るく感じられて、それを照らしている二人の姿は分からなかった。私は、胆を括って、狭い空間から、歩み出た。そして、うなだれて、両手を前に出し、  「もう、逃げないよ」 とだけ言った。  だれかが、壁のスイッチを入れたのだろう、すぐに、天井の蛍光灯がこうこうと輝きだし、部屋は一転して、真昼の空間に変化した。  私はそのとき、初めて、四人の姿を見た。老人を目にするのは、初めてこの城に来たときと、手術のときに続いて三度目だが、ほかの三人は初体面だった。異様だったのは、若い二人の医師が男と女と性は違うが、顔つきがそっくりなことだった。まったく同じ鋳型で射抜いた人形の顔のように、もし、首から上だけを同じ髪形にしていたら、見分けは付かない。髪形の違いだけが、二人を見分ける手掛かりだった。  老人が進み出て、言った。  「君は、本当に厄介な男だ。今度は、この部屋で何をしようとしていたのかね」  詰問調で聞いてきた。  私は黙秘した。重い沈黙が流れた。  「そろそろ、帰してあげようかという時期に、どうして、そう、厄介を掛けるのかね」  老人は冷静な尋問官の口調でさらに聞いてきた。  私は下を向いて、口を噤んでいた。  「そうやって、なにも喋らないのなら、こちらも、考えがある。われわれはあなたをどうにでも出来るのだよ。あなたには選択の余地はないんだ。あなたの全ては、われわれの手に握られているんだよ」  状況は確かにそのとおりだった。こちらには選択の余地はない。相手は、言うとおりにすべてを進めることができるのだ。  私は、思わず叫んだ。  「かぐちゃんをどうしたんだ」  「かぐちゃんとは、何のことだ」  老人が聞いた。  「少女だよ、少女。おれと一緒に来た少女だ」  「ああ、あれか。もうすぐ、戻ってくるよ。そんなに心配なのか。あれのことが。そうか。そんなに心配なのか」  老人はそう言って考え込んだ。  そして、  「あなたはなんにも分かっていないようだ。あなたに全てを分かって貰おうとは思わないが、折角、ここにこうして来ているのだから、教えてあげよう。すこし、勉強して行くのもいいだろう」 と付け加えた。  「こちらへ、連れてきたまえ」  老人が、若い二人に目配せをすると、二人は、進み出て、私の両脇を支えて、歩き始めた。老人が先頭を行き、老女が並んでそれに従った。私は、両脇を抱えられて、その後に付いていった。  老人は、廊下の突き当たりを左折し、暫く言ってから、明るく電気が輝いている部屋の中に入っていった。私にはその部屋の記憶があった。排気口からの脱出に失敗し、捕らえられて、連れていかれた手術室と同じ作りだった。  (こんどは、どんな手術をされるのか)  前のときは、簡単な怪我の手当てをしてもらっただけだったが、今度は、それだけでは済まされないかもしれない。致命的な手術が行われるかもしれない。たとえば、脳の手術で抵抗心をなくすとか、言語能力を喪失させるとか。全体主義の国家で行われていた人の尊厳を汚す違法な手術も可能な状況なのだから。  だが、老人は、手術台には目もくれずに、その奥にある部屋に入っていった。  そこには、最初の標本室にあったような大型のガラス容器が三つ並んでいた。  私はそれを目にして、驚きの余り、腰が抜けそうになった。  そのうちの二つは、紛れもなくかぐちゃんの姿をしていた。一見したところ、全く同じ姿のかぐちゃんが二体、ガラスの中で微笑んでいた。もう一体は老女だった。その姿は、私は見たことはなかった。  「まあそこにかけたまえ」  小柄な老人は頭のてっぺん近くまで禿げ上がった後ろに残された比較的豊かな白髪を右手で掻き上げながら、私の方を向いて言った。  白衣を着ているので、気が付かなかったが、老人は、案外小柄だった。椅子に座って、白衣の前が肌けると小柄な体躯が覗き見えた。  「そこにあるのが、君がかぐちゃんとか言っている生命体だ。驚いたかね」  「もちろんだよ。あんたは、かぐちゃんになにをしたのだ。こんな標本にしてしまって」  「標本か。たしかに、見た目では、死んでいる標本のように見えるが、これらは、生きているのだ」  「生きている。かぐちゃんは、生きているのか」  「近くに寄って、よく見てみたまえ、呼吸しているのが、分かるだろう」  私は、容器に近寄って、中を凝視した。目を凝らして見ると、確かに、鼻や口の前の液体が規則的に動いていた。胸も静かに前後に定期的な運動を繰り返し、生きているように見えた。他の二体も同じように規則的に内部からの運動が繰り返されているようだった。  「生きているのか、死んでいるのか。死にかけているようだな」  私は元の椅子に戻り、老人の目を見て、悪態を言った。  「生命維持の低レベルの運動の状態になっているだけだ。覚醒させれば、すぐに、活発な生命体に戻るよ」  老人の言葉は確信に満ちていた。  私は、どう言うことなのかを、考えた。  (確かにここにあるのはかぐちゃんの体だ。しかも、二つもある。なぜ、二つあるのだろう)  それに対する答えは、明確だ。一つは本物のかぐちゃんで、もう一つは偽物だということだ。どちらかが本物で、一方は偽物だ。ではどちらなのか。私は、どちらを救い出せばいいのだろう。  「どっちが、本物なのだ」  私は、老人に語気鋭く、質した。  「どちらとも言えないね」  老人は即答した。  「なぜだ」  「たとえば、君が、書物を作るとしたら、どうだ。何部も刷るだろうが、そのどれが、本物で、どれが偽物だと言えるかい」  老人は複写という概念を言っているらしい。  「その場合、全てが本物だろう。だから、その質問は愚問だ」  老人は、私の質問を跳ね返した。  「だが、ここにあるのは、本ではない。生命、人の生命だ。それが、同じ形で二つあるということは、自然界ではありえない。印刷物とは、違うんだ」  私は必死で食い下がった。  老人は、哀れそうに私を見て、  「私は、それを同じにしたのだ」 と言った。      (三十七)  武藤は、金井と東北新幹線の車両内で待ち合わせして、東北へ旅立った。まずは、仙台に行って、長井操の実家について調査しないといけない。その所在地は、世田谷区役所で金井が調べた住民票と戸籍簿で確認している。ただ、その家に電話をしても、誰も出てこないで、応答がなかったのが、この調査に出ることになった一つの理由だ。それに、ビデオの画像分析から、蔵王の画が確認されたから、出来ればそちらの方面に踏み込めれば、この旅行の成果があった、ということになるだろう。  新幹線は、順調に旅程を稼ぎ、大宮から宇都宮、福島と過ぎて、窓外に雪が積もっている風景を見せながら、北上していった。仙台には、二人とも来たことがあった。武藤は、学生時代の夏休みに、友達と卒業旅行を企てて、東北地方を巡ったのである。金井は、逃走した強盗犯人を追って、宮城県警との捜査協力を話し合うために、数年前に来たことがあった。  仙台市は、二人が訪れた時に比べ、格段の発展をしていた。駅前には、広い歩道橋が設けられ、大型のビルが乱立していた。  二人は、駅に降り立つと、さっそく、調べてきた住所に向かった。あくまでも、足で直接当たるのが、捜査の鉄則である。この時、市役所に行って、戸籍を調べてもいいのだが、二人はそういう迂回した手順はとらなかった。  操の実家と思われる本籍地は、仙台市の北側にあった。塩釜へのルートとなる北部郊外の農村地帯にその家はあるはずだった。  二人はタクシーを拾い、その家を目指した。陸上自衛隊の駐屯地のある広大な敷地を脇に見ながら、北上する道路を車は急ぎ、十五分もすると、目指す住居表示の場所に到着した。  それは、水田が広がる水稲栽培地帯の真ん中に一軒だけポツンと存在していた。周囲を屋敷森に囲まれているが、家自体は、木造にトタン葺きの家屋がいまにも崩れそうな構えで、その家の経済状態をしのばせていた。  二人は、地面に倒れかかっている、門のコンクートブロックを横目にしながら、敷地の中に入っていった。まっすぐに行くと、その部分だけ前に張り出した農家独特の作りの玄関だがあった。その右側の柱に呼び出しベルの押しボタンのようなものがあったので、武藤が押してみたが、応答はなかった。  二人は、裏に回った。裏の台所の入口には、干からびた大根が三本投げ出すように置いてあった。そこは、前開きのドアーで、金井がノブを握って、引いてみたが開かなかった。鍵がかかっているらしい。ここから、中に入るのも無理のようだ。さらに、家の回りを歩いて、中に入る場所はないかと、探したが、雨戸も全て、閉まっていて、開かなかった。  家を一周した様子からは、この家には誰も住んでいないようだったが、だからといって、捜索令状もなしに、家の中に入るのは、家宅侵入罪に該当してしまう。できれば、簡単に破れそうなどれかの入口から、無理やり入ってしまいたかったが、それでは、犯罪を犯すことになる。れっきとして警察官が、だれも見ていないらしいからといって、そんなことは、できなかった。武藤は、この時、  (もし、私が一人だったら、押し入っていたかもしれない) と思ったが、幸い、金井が側にいた。  二人は家内の捜索を諦めて、隣近所での聞き込みをすることにした。  隣家は、徒歩で十分もの離れた場所にあったが、幸い、庭で作業をしていた、家人に話を聞くことが出来た。  日焼けしたしわくちゃな顔に手拭いで頬かむりした小柄な農夫は、二人が、隣家の様子を聞いたのに対し、  「ああ、あの佐藤さんちは、だれも住んでいないよ」 とあっけらかんと答えた。  「というと」  金井が聞いた。  「いや、どこかに、引っ越したんだよ。一応、挨拶はあったから、夜逃したわけではないだろう」  「どこへ行ったんですかね」  武藤が尋ねた。  「ああ、それは確か、山に入るとか言っていたよ。なんでも、娘の操ちゃんが、こっちへ帰ってきて、蔵王の山裾に家を建てたんだそうだ。年も年なので、農作業はしんどくなった。娘が面倒を見てくれるというので、喜んで、世話になることにした、と言っていたな」  「あの家は、夫婦二人暮らしなのですか」  金井が、確認する質問を発した。  「そうだよ。もう、七十すぎの年寄り二人で細々と農業をしていたんだが、減反や機械化の遅れで、経営は楽ではなかった。この辺りはササニシキが主力生産物なんだが、うちのようにかなり、手広くやっていても、生活は楽ではないよ」  「それで、お子さんは、その娘さんだけなんですか」  「そうだ。大きく育ったのはな。本当は跡継ぎの男の子が欲しかったんだろうが、出来なかったようだな。あの娘も、四十過ぎて恵まれた子宝だ。それだけに、目に入れても痛くないような可愛がり振りで、なんでも言うことを聞いていたようだ。だから、操ちゃんが、東京に出て、看護婦になりたいと言いだしたときも、手放すのは辛かったろうが、言うことを聞いて、出してやった。そうしたら、医者と結婚したというのだろう。佐藤さんちは、娘を東京に出してよかったな、と噂したもんだよ」   「結婚したのは、その後ですね」  「いや、実際は、同棲生活をかなり長い間した後、旦那の家に入ったようだな。簡単には結婚まで、いかなかったんだろうね。結婚式もなかったくらいだ。我々へのお披露目も大分あとになってから、二人で挨拶にきたんだ。一応、御祝儀はやったんだがね」  老農夫は、明快に隣家の家庭の事情を説明した。  「ところで、御夫婦は蔵王のどこに転居したんですか。蔵王といっても広いでしょう」  武藤は、出来れば、確かな所在地を知りたかった。  「どこかか。そうだな、そういえば、郵便物や届け物の移送先だといって、メモを置いていったかな。いま、家の中に行って、調べて見ようか。ちょっと、待ってくれよ」  老農夫は、腰を上げて、母屋の方に歩いて行った。  しばらくすると、廊下の方から、手招きして、  「メモが見つかりましたよ。これですよ」 という呼び声が聞こえた。  金井と武藤は、そちらに駆け寄って、老人が手にしている紙片を受け取った。  そこには、  ーー 転居先、山形県上山市蔵王下五の一一一 長井生命科学研究所ーー と書いてあった。  「ありましたね。これだ」  金井と武藤は目を見合わせて、早速、その場所を警察手帳に記録した。  「いやあ、どうも、有り難うございました。大変役にたちました」  二人は、老人に頭を下げて、その家を出た。  帰りは、天気も良いので、バスが通っている幹線道路まで歩いていこう、ということになって、稲穂が重い頭を垂れている水田の中の農道を歩きだした。  水田の面を渡る風が心地よく、気温も適度に低かったので、二人は爽やかな気分で、農道の上を進んでいった。  「来て良かったですね、やはり、事件は、足で稼ぐものですね」  武藤が年長の金井に話しかけた。  「そうだ。その教えは、どんなに世の中が便利になっても、変わらないよ。はるばる、来たかいがあった」  「それにしても、佐藤さんの家は酷い状態だったですね」  「ああ、家も人が住まなくなると、すぐに、荒廃してしまうんですね。あの荒れ果てようには、驚いた」  「やはり、農政の歪みをもろに被るのが、ああいう現場の農民なんですかね」  「そうだな、政府も色々と政策を考えて、バイオテクノロギーなどで新しい作物の開発もしているらしいが、その恩恵は末端の農民までは行き渡らないんだよ」  金井が、率直に感想を言った。  「佐藤さんの夫婦がどう言う人かは分かりませんが、子供に恵まれずに、遅くなって出来た一粒種の操を可愛がっていたようですね」  「そうだな。その子が、医者と結婚したのだから、苦労のかいもあったものということかな」  「でも、操は、その家を出ているんですよ。姑との折り合いが悪くて」  「それは、夫が失踪してしまったから、居ずらくなったんだろう。でも、約四年もよく我慢したじゃないか。あの春子の元でね」  「そんあに、酷い婆さんだったんですか、春子さんは」  「いや、そうでもないが、嫁の悪口は言っていたね。どこにでも、ある話かもしれないが」  そんな、とりとめもない話をしているうちに、二人はバスの通っている大通りに出ていた。バスは仙台駅行きが頻繁に来ていて、二人は、そう待つこともなく、バスの乗り込んだ。  「まあ、いずれにせよ、転居先に、操も両親もいるのだろう。ひょっとしたら、長井医師も、一緒かもしれない。その場所にいけば、春子の変死も、われわれの少女失踪事件も一気に解決するかもしれない」  金井は、緊張気味の武藤の気持ちをほぐすように、そう言った。  バスは、仙台駅のターミナルに到着した。二人は、駅の出札窓口に行き、仙山線経由での山形駅行きの切符を買った。       (三十八)  老人が、説明を始めた。  「君が言うのことは、もっともではあるが、私は最先端の医学をやっているのだ。人の知識の進歩は際限がない。人は知識をより多く獲得することによって、文明を進めてきた。それは、神への道でもある。神というのは、人の作った概念だが、実際にこの世に存在していると、君は思うかね。どうだ」  そういう神学的な思考は私は、苦手だった。私は、一介のカメラマンに過ぎないし、しかも、売れないカメラマンなのだ。そのような、形而上的なものごとを考える余裕もなかった。  ただ、単純に、  「神はいるのか、いないか。どちらだと思うか」 と問われれば、私は即座に、  「いないと思う」 と答えることができた。これまでの、私の人生で、神を必要とする事態がなかったこともあるが、あくまでも、現実的に毎日生きてきたから、その存在を意識することさえなかったのだ。だが、人の生の根源を問うような状況に追い込まれれば、私も神のことを考えるようになるだろう。  私は、  「この世にはいないだろうが、われわれの意識の中には存在するだろうな」 と答えていた。  「では、あなたが、ここにこうしているのは、なぜかね。こうして、生きているのはなぜかね」 とさらに、老人は聞いてきた。  「それは、親が生んだからだ」  私は答えた。  「そうだな。では、その誕生は、偶然かね、必然かね」  老人はさらに聞いてきた。  「親には必然かもしれないが、私には偶然だ」  「偶然というのは、人の力ではどうにもならないことを言うのだ。そういう意味では、人の力を越えるなにものかが、君をこの世に送りだしたことになるね」  「まあ、そうかもしれない」  「だが、それは、偶然ではないのだよ」  老人は、一気に論を巻き戻した。  「というと。必然なのか」  「そうだ。そのメカニズムをわれわれ人間の優秀な頭脳は、解明してしまった」  「生まれ出る仕組みだな」  「そうだ。それは、長い道だったが、もう疑う余地はない。そして、その上で、われわれは、われわれの存在の原点をわれわれの手操ることができるようになったんだよ」  「もっと、分かりやすく言え。要するに、あんたは、人の生命を弄んでいるのだろう」  老人は言葉を詰まらせた。私はさらに追究した。  「あんたが、ここで、何をしているのか。なかでも、おれのかぐちゃんの何をしたのか、話してもらおうか」  私は気色ばんで、金切り声を上げていた。  「いいだろう、こうして、対面しているのも、何かの縁だ。君の疑問に、全て明確に答えてやろうじゃないか」  そう言って、老人は、脇に並んでいるガラスの容器の方に顔を向けた。  私は、最初の質問を考えていた。第一撃がこういうときには、最も大事なのだ。  「じゃあ、聞くが、かぐちゃんはどうしたんだ」  「あなたが、かぐちゃんと呼んでいるのは、われわれの試作モデル、キメラ一一号のことのようだな。あれは、試用期間が切れたので、あなたに回収してもらった。いま、その代替製品を鋭意、制作中だ。すでに、殆どの工程を終わり、最終検査の途中なのだ」  「代替品って、かぐちゃんは人間なんだぞ。一人一人が、かけがいのない人間なのだ。代替品とはどういうことだ」  「キメラ一一号は、私が研究の最初の段階で、製作した試作品なのだ。といっても、かなり、完成品に近いがね。私にとっては自信作だ。だから、実験室から世に出した。社会に送りだしてやったのだ。だが、やはり、欠陥があった」  「欠陥とは、どこに欠陥があるんだ」  「あれは、幼いうちは、人の子供と同じように親になついて育つが、七歳を過ぎると、家に居つかなくなる。親を認識できなくなるのだ。だから、家の外を歩き回り、親が呼んでも戻ってこない。あるいは、親の問い掛けにも応答しなくなる。そういう欠陥が遺伝子的に組み込まれてしまっていたのだ」  「だから、回収したというのか」  「そうだ。それは、製造者としての責任だ。PL(製造者責任)だな。私は無責任な製造者ではない」  「親に対して、心を閉ざすのは、自閉症児の特徴だ。その原因は、まだ、ハッキリしないと聞いている。なぜ、遺伝子的に改修できると言えるんだい」  「遺伝的な要因もあるのだ。すべて、環境や成育歴が原因なのではない。私は、少なくとの遺伝的な欠陥は直すことができる、それが、私の責任だから、そうしようということだよ」   「第二に、どうやって、それを行うのだ。一度、大きくなった人の子供を、入れ換えるなんてことが、出来るのか」  「できるのだよ。ここに置いてある標本は、二つがキメラ一一号と同じなのは、分かるだろう」   「わかるよ」  「これらは、単なる標本ではない。生命維持された生きている個体だ」  「それが、二つあるのか」  「そうだ。一つは、改良された遺伝子を組み込んだもの。もう一つは、回収されたものと同じ、遺伝子を持っている。さらにもう一体は、向こうの部屋で、動作の試験を受けている」  老人は、壁を指して、そう言った。  「その向こうの部屋にあるのが、かぐちゃんの代替品と言うわけだな」  「代替品ではない。さらに改良された作品だ。単なる、不良品のリコールとは違うんだ。これまでの成育の記憶も完全に持っている改良品だ。機能がより良く改められている」  「バージョン・アップというわけか」  「そういういい方もできるかもしれない」  「かぐちゃんV2ということだな」  「いや、キメラ一一一号だ」  「そのキメラというのは、何だ」  「ああ。ギリシャ神話の半人半獣の怪物だ。多種の細胞から構成された一個の個体ということだな」  「かぐちゃんは、人ではないのか」  「良く気が付いた。あのころ私は、人の細胞だけではなく、類人猿の細胞を使って、研究していた。類人猿と人の遺伝子は九九パーセントが同じだ。だから、その同じ部分を利用していた。そうなれば、倫理的な批判をかわせるからね」  私は一番聞きたくないことを聞いてしまった。暗然たる気持ちになったあと、いきなり、激しい怒りが突き上げた。  「かぐちゃんには、猿の遺伝子が入っていたというのか」  私は、冷静さを失っていた。いまにも、この男を殴りたい欲求に駆られたが、ここでは、さらに、話を聞いて置かなければならない。話は、途中なのだ。  「たしかに、一部、入ってしまった。それが、成長するにつれ、人間らしい行動をとらなくなるおそれの理由だ。親に寄りつかなくなり、外に行きたがり、心も閉ざされる。人の親とのコミュニケーションに欠陥がでる恐れがあった」   「かぐちゃんにはそういう傾向はみられないじゃないか」  「いまは、見られなくても、かならず、いつかそうなる。いや、すこしは、その傾向が出ていたのだ。だから、製造責任者として、回収し、改良品にかえる必要があるのだ、そのために、あなたには御足労願った。あくまで,自然に入替えをしたかったのだ」  「そうすると、帰してくれるのか」  「帰すよ。あたらしい少女と一緒にね。ただし、ここでの、秘密は守ってもらわなくては困る。それが、条件だ」  老人は、私の方に向いて私の目を直視して、私の返事を待っていた。       (三十九)  金井と武藤の二人の刑事は、仙台から山形へ通じる地方路線の仙山線の急行で、山形へ向かった。山形駅からは、タクシーを拾い、教えられた佐藤親子の転居先を探すことにしていた。  山形駅を降りると、黒塗りに白く会社の名前を書いたタクシーが並んでいた。タクシー乗り場に列はなかった。二人は、真っ直ぐに最先頭の車両に乗り込んだ。運転手にメモの住所を告げると、運転手は、  「そういう場所は聞いたことがありませんね。地図を見てみましょう」 と言って、椅子の横に置いてあった業務用の地図を手にして、ページを繰った。しばらくして、  「やはり、そういう場所はない。どうします」 と聞いてきた。  「ないって。でも、蔵王には行けるだろう」  二人は、そう答えたが、運転手は、  「蔵王と言っても広いですからね。ほら、あそこに大きな山が見えるでしょう。あれ全体が蔵王ですから」 といって、フロントウインドーから見える山塊を指差して見せた。  二人が、答えに窮していると、運転手は、  「分かりました、無線で聞いてみましょう。最近住居表示が変更になったので、旧住所かもしれない」  まだ、若そうな運転手は、古い住居表示を良く知らないらしかった。  運転手は無線室といろいろと、交信していたが、相手もよく分からないらしかった。  「架空の住所かもしれないな」  金井が、予想もしない落とし穴があったことに気が付いて、武藤に言った。  「そこまで、隠さなければならない事情があったのでしょうかね」  武藤は、独り言のように言った。  そのとき、運転手が、  「どうも、隣の駅の上山から入っていく裏道の沿線にある場所らしいでね。どうします、ちょっと長くなりますが、このまま、行きますか」 と聞いてきた。  二人は目を見合わせて、無言で相談したが、金井が頷いたのを見て、武藤が、  「行ってください」 と言った。運転手はギアーを入れ、アクセルを踏んで車を出した。  確かに、山形から正規の蔵王へ向かうルートとは違い、その裏道は、遠かった。だが、その方向に、聞いた場所があるのだから、仕方がない。今回は、業務上の出張だから、交通費も精算できる。二人で二枚の領収書を貰い、割り勘にして、経費の請求をすればいいのだ。そういう気安さがあったから、タクシーで行くことに同意したのだ。  山形市の市街地を出て、車は郊外の田園地帯に入り、豊かな稲を付けた水稲の波を両側にしながら、距離を稼いで、「左に行くと蔵王」という道路標識を見てから、交差点を左折し、上りの道に入っていた。  上り傾斜になってから、道は左右にうねり、厳しいヘアピンカーブを随所に置いて、車の中の人を翻弄した。運転手は流石に地元の人で、そういう道には慣れているのか、平然としていたが、乗客の二人は、慣れない横揺れに揺すぶられ、気分が悪くなりそうだった。  だが、徐々に、標高を稼いでいくと、時折、切れる左右の林の切れ目から見える下界の景色は、素晴らしく、空気が清浄さを増したこともあって、清々しい気分になって、気を休めることができた。  もう午後の、夕方に近い時刻とあって、上ってくる後続車はなかったが、時折、対向車が山から下ってくる。それらの車は、屋根に雪を乗せていたりして、山の上の天気の状況を示していた。  最初のくねくねとした急坂を登り切ると、一端、高原状態の平坦路に出た。道の両側には、背が高い大型のススキが密生していて、その奥に何があるのかを隠していた。ススキはタクシーの高さ以上だから、中に居る人間が、その奥を覗くのは不可能だ。  タクシーは、二度目の上りに掛かった。今度のカーブは、下のよりも急で、運転手は先程より、スピードを緩めて、遅い速度で慎重に進んでいった。その曲がり道も、終わり、また、平坦な道に出た。両側のススキの密生は変わらず、続いている。二度目の平坦路が終わるところで、運転手は、車を止めた。  「その住所表示は、だいたいこの辺りの場所を示していますが」  停車した場所の両側は、雑木林で、針葉樹の間に、高いススキや雑草が生い茂っていた。  「ここですか。どこか、なかに入る道はないですか」  武藤が聞いた。  「中へ入るって言っても、ご覧のような状態ですよ。道なんかないでしょう」  「そうか、では降りて、探すしかないな。おい、降りてみよう」  金井が言って、車を降りた。武藤が後に従ったが、運転手は出てこなかった。  「出てみると、案外、遠目が効くじゃないか」  金井が周囲を見回しながら、武藤に話しかけた。  「そうですね。ただの、林とススキしかないかと思ったら、いろんな建物が立っていますよ」  「これなら、住所表示が変わってもおかしくない。人が住むようになっているのだからね」  確かに、その平原から立ち上がった山の途中にも、ポツポツと家が見えた、多分、別荘なのだろう。ここにも、列島総不動産屋の波が及んでいるらしい。  しばらく、ススキの中に踏み込んでいた金井が、  「おい、中に入る道があるよ。舗装はされていないが、車くらい入れそうだ」 と武藤に声を掛けた。  武藤が、走りよってその道を確かめた。  「そうですね。行ってみましょう」  二人は、車に戻って、運転手にその道を教えた。運転手は気が進まないようだった。それは、そうだろう、未舗装の荒道では、車体が汚れる。そのあとの、処理のことを考えれば、気が向かないのも頷ける。  だが、客の要求には背けない。運転手は恐る恐る、金井が見つけた道に車を進めていった。  その道は、高くそびえ立ったススキの群生に挟まれて、頭の上を穂が覆う状態だったが、穂は柔らかいので、屋根がかき分けながら、前に進むことが出来た。しばらくすると、ススキの群生が切れ、やや広い、広場のような場所に出た。そこだけは、それまで続いていたススキの海原が切れて、遙か彼方を見張るかせる広大な空間だった。  右折して、駐車場のよう広場に車を進めていくと、一台の小型車がそこに停まっていた。ナンバーは練馬ナンバーで、雪を被っていることから、最近来たのではなく、少なくとも数日は経っていることを想像させた。  「降りてみよう」  金井が言い武藤が従った。  地面に降りて、金井は、だれでもするように、周囲を見回して、山の方に頭を向けて、驚きの声を上げた。  そこには、空に向かってそびえ立つ古城があったからだ。  「おい、なんだ、あの建物は」  金井が、上擦った声で、武藤に叫んだ。  いま車から降りてきたばかりの、武藤は、その声に、すぐに、金井が見ている方向を見上げた。  「なんだ、これは。素晴らしく立派なお城ではないか」  眼前の巨大な建物は、落ちはじめた太陽の西日を浴びて、天守閣の鯱を銀色に輝かせていた。  「この建物はなんなんだ」  二人の様子に、車を降りてきた運転手が、そう聞かれて、  「いえ、初めて見ました。ここに、こんな建物があるなんて、知りませんでした」 と茫然として、答えた。  「ここだよ、佐藤の両親が転居したのは。ここに、間違いない。これは、おれの長年の勘からそう思うのだ」  金井が武藤に話しかけた。  「そうでしょう。われわれが、追っている者達が逃げ込むには格好の建物だ。私も、小さなアパートとは思っていませんでした」  武藤が合い槌を打った。  「行ってみましょう」  武藤が城に向かって歩きはじめた。金井がその後を追っていく。  「私はどうしましょう」  運転手が後ろから聞いた。  「どうするって、それは、自分で決めたらしい。付いて来たけりゃ、来ればいいさ」  金井がそういうと、運転手は、おじけついて、  「ここで、お待ちします。二時間までですよ。そのあとは、帰りますから、かたを置いていってください」  そう叫んでいたが、二人は、無視して、城に至る石の階段を上りはじめていた。       (四十)    老人は私の目を凝視していた。私は、何かの返答をしないと行けないと思った。  「分かった。それで、いつ、帰してもらえる」  思わず、聞いていた。  「明日にでも、君らを一緒に、社会に戻す。そのつもりだ」  老人はハッキリと、言った。  「社会に戻すというのは、私と二人を、家に帰すということか」  「そうだ。そして、暫く、様子を見る。今度は、十七歳くらいまで、持つだろう。そのときは、また、あなたに搬送をお願いするかもしれないが」  「搬送? 冗談じゃない。もう、願い下げだよ。他の人にしてくれ」  「そうか。それは、どちらでも構わんが、とにかく、この秘密は守ってもらうよ」  老人は念を押した。  「それは、分からん、約束は出来ない。いつ、口が滑ってしまうかもしれない。保障は出来ないよ」  「そういうことなら、こちらも考えないといけないな。あなたは囚われの身であることを忘れているようだ。君の命は、われわれが、握っているのだということを忘れているようだ」  脅しとしては、上出来な言い方で、老人は、宣言した。私はおじけついて、  「分かった、約束する」 と言っていた。  「そのために、もうすこし聞きたいことがある」  私は疑問を一挙に解決しようと思っていた。  「なんでも、聞いてくれ」  老人は、泰然としていた。  「あなたが製作したクローンは、かぐちゃんだけか」  「そんなわけはない。ここにいる男女の二人もそうだ。そして,この婦人もな」  「なに、その婦人とは、どういう関係だ」  「わしの妻だよ」  「なに、妻もクローンなのか」  「いや、正確には、妻と母のだがな」  「あの、若い看護婦は誰なんだ」  「あれが、私の妻だよ」  私は、分からなくなった。この老婦人がこの男の妻と母のということは、一人の人間の体に、二つの要素を持っているということなのだろうか。  「すると、この人たちは、みな、あんたが作ったのだね」  「そうだ。みな、私の子供たちだ」  「あんたは何を企んでいるのだ」  「企む? なにも企んではいない。研究を続けていて、その結果が、これらの者たちだ、ということだよ」  「あんたは、人の命を勝手に操っているんだよ。神のつもりなのか。あんたは」  私は原則として、神の存在を信じないのだが、思わず、口を突いて出たのは、私には意外な「神」という言葉だった。  「私は、神など信じない。私が信じているのは、この大脳の可能性だけだ。人の頭脳が、これらの成果をもたらした。われわれ、人類の文明の勝利なのだよ」  「勝利か。人の命を操作することが、知性の勝利なのか。その先にあるのは、傲岸と卑屈の隣合わせになった悔恨だけではないのか」  「私は奢ることはしない。かといって、自然の偉大さの前に、恐れを抱かないわけではない。だから、悔いることなど、全くないのだ」  「すごい、自信だな。そういう研究が、なんのためになると、思っているのだ」  「なんのため? なんにでも、役立つだろう。人の不妊治療、遺伝子病の治療、品種の改良、目的にあった性質をもつ種の創作。可能性は無限だよ」  「やはりな。あんたたちの考えていることは、そういう害悪ばかりだ。そういう技術が、良いことばかりに利用されると考えているとしたら、それが、研究者の狭視的なところだ。いくらでも、悪用できるではないか」  「そんなことはない。私が開発した技術は、人類の未来にバラ色の夢を描かせるものだ。来世紀になれば、当たり前のことになるよ。人は人の目的にあって作られる。合目的な存在として、生まれることができるようになるのだ。素晴らしいと思わないかね」  「それは、あんたの勝手な言い分というものだ。自分の誕生が、特定の意思によって、目的を与えられているなんて、それは、全体主義の主張じゃないか」  「全体主義ではない。個人主義がより、徹底され、個人は、備えられた才能をより、存分に発揮して生きていくことが、できるようになるんだよ。人類は、そうして、飛躍的に進化することになるだろう」  これでは、どこまで行っても、話は交わらない。そもそも、哲学が違うのだ。私は、そういう人格が、この世に存在するということを知っただけでも、この男に会ったことは、意味があると思わざるをえなかった.  私は、もう、話をする事が、面倒になっていた。  「わかったよ。それでは、明日、帰してくれるんだな」  そう念を押した。  「そうだ。約束する。あなたのいうかぐちゃんとやらのキメラ一一一号は、あす、すべての検査を終えて、社会に帰されることになっているのだ」  「よし、分かった、そういうことなら、おとなしくしよう。もう、逃げようとなんかしないよ。そして.秘密を守ることを約束するよ」  私は、仕方なくそう言っていた。  老人は、部屋の外に立っていた警備員に命じて、私の両手に手錠を掛けて、監禁室に戻すように言った。  屈強な警備員が二人、私の両腕をねじ上げ後ろ手にして、手錠の上から縄を掛けて、部屋の外に引き立てていった。  私は、廊下を歩かされて、エレベーターの来るのを待っていた。階数表示が、一階で停まったままで、なかなか動かなかった。警備員らは、私の後ろで、ずっと、エレベーターの来るのを待っていたが、耳に挟んだ、連絡用の無線機が、何かを伝えてきたらしい。  「おい、緊急事態だ。おれは、一階に行くから、こいつを頼む」 と、長身の方が、若い背の低い男に、私の後ろ手から伸びた縄を渡して、階段の方に駆けだした。  「非常招集だな。なにがあったんだろう」  若い方が、綱をしっかり握りながら、呟いた。エレベーターは、停まったまま、動かなかった。  「しかたがない、俺たちも階段で行こう」  若い男が、私を廊下の逆の方に引っ立てて行こうとした。私は抵抗したが、苦しい体勢の上に、若い男の腕力は強く、逆らいきれずに従わざるをえなかった。われわれが階段に到着したころ、非常ベルがけたたましく、鳴り響いた。それは、全館に非常事態を告げるベルで、館内の全員が非常態勢を取ることを知らせるものだった。  階段室で、私は、老人らがあの部屋から飛びだしてきて、廊下を走っていく物音を聞いた。階段を下りて行くと、地下三階でも騒々しい、足音が聞こえ、だれかが、  「曲者が侵入したらしい。直ちに検索して捕まえろという指示だ」 と叫んでいた。  私は、私がこの城に入ってきたときは、もっと平穏だったが、と思いだした。それは、今となっては、賓客として迎えられているという「錯覚」だった。だが,今度の、「来客」は、そうではないらしい。始めから、不審者として、待遇されている。ということは、その侵入者らは、この城の胡散臭さを知りながら、この施設に入ってきたということだろう。  (これは、期待できる。地獄に仏が現れたのだ) と直観した。  私も、縄さえ解ければ、脱出したかった。だが、両手は、厳重に縛られ、背は低いが、ごつい体付きの男が、その先を握っているのだ。こういう状態から、縄を振りほどいて、逃走を図るのは、至難の技だと自覚していた。  だが、男の隙を見て、体当たりをかませば、他に人はいないのだから、混乱に任せて、逃走できる可能性がないわけではない。  私は、あの部屋に行くまでが、勝負だと考えて、隙を伺っていた。  地下四階の階段まで来て、防火扉を開けて廊下に出ようとしたとき、男の無線機に何かが連絡されてきた。  「なに、相手は、銃を持っているのか。これは、大変だ」  そう男は呟いた。  「あんたたちは、持っていないのか」  「当たり前だ、俺たちは、単なる警備員だ。銃など持てる訳がない」  「すると、相手はプロだということになる。あんたらも、命の保障はないというわけだ」  男は、私のその言葉に、顔色を青覚めて、黙りこくった。以外に、肝っ玉は小さいらしい。これが、チャンスだと、私は直観した。思い切り、綱を引っ張ると、一気に寄ってきた男の体の下半身に、膝で思い切り蹴りを入れた。男は、「うーうう」と呻いて、つんのめりそうになった。それで、さらに屈んだところの背中を上から両肘で、すとんと、突きをかました。男は、呻いて、地面にひれひした。  綱はまだ、繋がっていたから、どうにかして、解かなければならない。私は気絶している男のキーホルダーを探って、手錠の鍵を探した。数本の鍵があったが、見当を付けて、一つ一つ鍵穴に入れていくと、三つ目で手応えがあった。右に回すと、手錠の拘束が解けた。私は、手錠を振りほどいて、再び、階段を上り始めた。  階段を一つずつスキップして、地上一階にでた。非常扉の先からは、銃声が聞こえてきた。  「ぱーん、ぱーん」  それは、連発で聞こえた。ピストルのようだった。  私は非常扉を僅かに開いて、銃声がした方を覗いてみた。そこには、中年のロングコートを着た男と、さらに若い背広姿の男が、柱の陰に身を隠して、向こうの方を狙っていた。  私は、さらに扉を開いて、柱の方に飛びだして行った。         (四十一)  後ろにそのような扉があることを意識していなかった二人の男は、驚いて、こちらを振り返り、年上の男が、私に銃口を向けて、  「誰だ」 と叫んだ。私は即座に、身をかがめて、  「怪しい者ではないです。浦和から少女に連れられてこの城に来たのですが、囚われてしまったのです」 と返答した。  「少女か。それは、私が探している少女のことだろう。やはり、少女はここにいたのか」 とその男は、嘆息したあと、私に柱の側に来るように、手で合図した。  私は腹這いになって、二人の身を隠している太いコンクリートの柱の陰に忍び寄った。  そのとき、向こう側で人が動く気配がした。狙いを定めていた若い男が、引き金を聞いて、一発、弾丸を発射した。  「ばーん」  大きな破裂音が部屋に轟いた。  向こう側の男たちはその一発で、動きが停まった。暫く、不気味な静寂が続いて、互いの動きの探り合いの状態になった。向こうもこちらもせきとして動かない。あいては、予想もしない銃での反撃に動転している気配だった。  その気配を察知して、年上の男が、声を上げた。  「おい、お前ら、睨み合ってばかりでは、埒が開かない。ここは、静かに、話し合いをしようじゃないか。われわれは怪しい者ではない。ここに来ている行く方不明の者たちを捜索しているだけだ。その者たちに会えればいいのだから」   相手は、何かを相談している様子だった。しばらく沈黙が続いたあと、  「分かった。そうしよう。われわれは武器を持っていない。撃たないでくれ」 と声が聞こえた。  「よし、では、そっちから姿を見せろ。全員出てきたら、俺たちも出ていく」  その、呼びかけに、柱の陰から男が四人、両手を挙げてきて、部屋の真ん中に並んだ。  他に仲間がいないのを確認して、われわれもそちらに出ていった。  「われわれは、この施設の警備をしているだけで、不審な者が入れば、当然、咎めるのが仕事だ。いきなり、逃げだしたから追いかけただけだ。それを銃で撃つなんて。警察の方ですか」  警備員の一番年上の男が、話しかけた。  「そうだよ。私は埼玉県警の刑事で金井という。こちらは、警視庁の武藤刑事だ」 年上の男がそう言って、胸の裏ポケットから警察手帳を取り出して、見せた。  「そうですか。それなら。いきなり、逃げようとしたり、しないで、われわれの指示にしたがって戴ければよかたったのに」  「われわれが、身を明かす前に、あんたたちが検索しようとしたからだ」  金井刑事は、警備員らを詰ったが、すぐそのあとに、私の方を向いて、  「その少女が居る場所は分かるね」 と聞いた。  「たしかなことは、分かりませんが、この施設の主宰者のいる所なら分かります」 と私は答えた。  「では、案内してもらおう」  私が先頭に立ち、階段室に逆戻りした。警備員らもわれわれの後に従った。  階段を降りて、地下二階の標本室の裏の扉の前まで来た。防火扉を開けると、その部屋は常備灯だけが点いていて、暗かったが、微かな光を頼りに、進んでいった。  「この部屋には、驚くようなものがあるますよ」 と私は、二人の刑事に、予め注意を喚起した。部屋の中央部まで進むうちに、ガラス容器に入った人の標本が、並んでいることが、二人にも分かったらしい。  「おい、何だよ、これ」  若い武藤刑事が驚きの声を挙げた。  「人間の標本ですよ」  「なに、人の標本だと。何をしているのだ、この施設は」  金井刑事が、声を揺らしながらを聞いた。  「ここの主宰者の年寄りの医師が、人を作っているんです」   「なに、人間をか。どういうことだそれは」  二人が同時に聞いた。  「その医師の言うには、彼は、人を製造している。あの少女も彼が作ったものだと言っていました」  「少女を作ったと、言うのか」  「そうです。ここにあるのはその研究のために作った試作品でしょう」  「なんていうことだ」  私達はその部屋を出て、隣の私が治療を受けた診察室にへ入って行った。  だが、そこに人はいなかった。私は、それ以上、どこにいるのかの見当が付かない。ここにいないとしたら、どこなのか。  途方に暮れていると、後ろから、先程の警備主任が進み出て、  「所長の居場所なら、これで即座に分かりますよ」 と液晶ディスプレーが付いた位置表示器を見せた。  「この二重丸が所長のマークですよ。いまは、地下一階にいるようです」  「地下一階か。それなら、行き過ぎたのか」  私はそう嘆息して、いま来た道を戻って、階段室に出て、下がって来た階段を上っていった。  地下一階のフロアーは、防火扉を開けると、廊下には、天井からこうこうとした明かりが輝いていて、目も眩むようだった。位置表示装置の二重丸は、この長い廊下を真っ直ぐに進んで、左の部屋にあった。そこには、「最終処置室」という標識が掛かっていた。  われわれは、腰を落として低い防御姿勢を取った。二人の刑事は、ホルダーから拳銃を取り出して、両手で構え、内部からどのような攻撃があっても、反撃できる体勢になって、身構えた。   武藤刑事が、低い姿勢のまま、ドアーのノブに手を伸ばして捻った。ドアーのノッチが開いて、ドアーが半開きになったのを、見計らって、足で向こうに蹴り、われわれは、その部屋に突入した。  だが、部屋にはだれもいなかった。その部屋は、狭くて、さらに奥にある部屋の側室のようだった。奥に続く場所に、もう一枚ドアーがあった。今度は、金井が、低姿勢で身構え、ドアーのノブを回した。足で蹴って開けたのも金井だった。  われわれは今度も、勢い込んで突入したが、その部屋にも誰もいなかった。その部屋は、行き止まりで、その奥には、さらに部屋があるとは思えない。  われわれ三人は、来たとおりに引き返して、警備主任が持っている位置表示装置を確認した。  所長を示す二重丸は、たしかに、この部屋を示していた。  「おい、どうなんだ。ここで、間違いないのか」  金井が、詰った。  「そういうふうに出ていますよ」  警備主任は不服そうだった。  「でも、他に部屋はないのだろう」  金井はもう一度、なかに入っていった。私と武藤刑事もあとに従った。  壁を叩きながら、奥に部屋がないか確認していく。  壁を丁寧に叩いていくうち、天井が暗かった一隅が、突然明るくなった。その場所は、先程の部屋とは反対側の壁の奥だった。  驚いて、三人でそちらの方を見上げると、壁のように見えていた突き当たりの一角が、広く開いて、なかから、声がした。  「用事がおありなら,そこから、入って来なさい」  それは、私が聞き慣れたあの老医師の声だった。  武藤刑事を先頭に、われわれは、その声の方に進んでいった。そこには、あの老医師が立っており、となりに、婦人が寄り添っていた。          (四十二)  「いよいよ、来ましたね。お待ちしていましたよ」  老人は、丁重にわれわれを部屋に招き入れた。  部屋は、十畳ほどの広さで、奥にアスレチッククラブにあるようなトレーニングマシンが設置されていた。その自転車形の酸素消費測定マシンに一人の少女が座って、一生懸命両足を動かしていた。  「おい、あれは、かぐちゃんだ。探したよ。大丈夫か」  そう言いながら、私は、そちらに駆け寄っていた。  「あら、竹爺さん。どこにいたの。なにしていたの」   かぐちゃんは、屈託のない笑顔を、こちらに笑いかけた。それは、あの夜に見て以来の可愛い笑顔だった。  老人が、こちらにやってきて、  「調子はどうだね。気分はいいか」 と少女に聞いた。  「ええ。気持ちいいわ。こうして、運動していると、体から、汚れが抜けていくような気がする」  そう言って、少女は、老人にも微笑んだ。  「いいようだな。これで、検査は完了だ。もっとも、体のほうはそう痛んでいなかったが。心の方も見たところ、完璧に治ったようだ」  老人は、頷いていた。  松田刑事が、やって来て、  「すこし、お話を伺いたいが、宜しいですか」 と老人に、問いかけた。  老人は、部屋の真ん中にしつらえられている応接セットに松田刑事と武藤刑事を招いた。私も勧められるままに、そちらに移り、老人が語り始めるのを待った。老人が座った椅子の後ろに、婦人が立っていた。  「なんでも、お話ししますよ、なんでも、聞いてください」  老人は、余裕のある態度で、われわれを見回して、質問を待っていた。  「最初にお伺いしたいのは、あなた自身のことです。あなたは医師ですか」  金井が聞いた。  「そうです。私は長い間、公立病院で産婦人科の医師をしてきました。専門は不妊治療です。それが、産婦人科では最大の今日的な問題ですからね。私は一生を不妊治療に捧げたのです」  そう誇りを持って言うと、胸を張った。  「すると、浦和市立病院人にも勤めていたことが、ありますか」  金井が続いて聞いた。  「ありますよ。六年くらい前まで、産婦人科の副医長をしていました」  「そのころ、山根麗子という婦人を診察しませんでしたか。それは、覚えていますか」  「当然、それは、忘れようがありません。私が、最初の人工受精のクローンを作って差し上げた相手ですから」  「そのことを、山根夫妻は知っていたのですか」  そう金井が聞いたとき、老人は、下を向いて、考えこんだ後、  「知らなかったでしょうね。説明しませんでしたから」  「患者に説明しないで、そういう治療行為をしたのですね。長井さん」  金井は初めて、老人を名字で呼んだ。老人は、それをたしなめなかった.  「私が、患者のためになると考えてしたことです。あの夫婦は子供を欲しがっていた」  「そして、それは、成功した」  「一時的にはね。だが、欠陥があることがわかった。その欠陥は成長するとともに大きくなっていく」  「それで、あなたは自分の作品を、回収して、修理した、とでも、言いたいわけだ」  私が追究した。それは、二人の刑事に状況を把握させるための質問だった。  「そうです。それが、研究者としての、医師としての、さらに製作者としての責任です」  「製造者責任(PL)というわけですね」  私は金井、武藤の刑事の顔を見て言った。  「どこが、悪かったのですか」  武藤が聞いた。  「やや、専門的になるが、精神の発達に齟齬を来すことがその後の経過観察で、分かったのです。両親を嫌って、寄りつかなくなったり、外を徘徊するようになったりです。これは、一部に使った類人猿の遺伝子から来ていた」  「でも、どうやって、その修理とやらをしたのだね」  金井が不思議そうな顔をして尋ねた。  「サンプルは取ってありますから。正常に機能する新品と取り替えるだけです。それが、あれです」  長井老人は、自転車から降りて、汗を拭いているかぐちゃんを指差した。  「あんたは、人の命を自由に作ったりすることが出来るのか」  武藤が気色ばんで質問した。  「自由になんてできないが、人の幸せのために先端医療を使うことは、できる。倫理とか道徳とかの枠を外せば、意図のとおりに操ることができるまで、人の技術は進んできた。それを、患者の悩みを解決するために使うのは、医師の義務だろう」  長井医師の話は、確信に満ちていた。  「基本的なことを聞くが、では、そのここに回収された少女は、あの少女と違うのだろう」  「確かに、個体は違うが外見も内部も全く同じだ。生活記憶も完全に移植したからね。遺伝的にはまったく同じと見ていい」  「すると、一卵性双生児と同じことか」  「作り方は、そうだが、あれは自然に受精して出来る。私は、遺伝情報を担っている細胞核を完全に移植しているから、もっと、元の個体に近い。もとの本物とは違うと言えば違うものだが、外見上も変わらないよ」  「でも、コピーなのだろう」  武藤がさらに追究した。  「では、聞くが、いま、この世にあるたくさんの印刷物やビデオやCDなどが、どれが本物でどれが、偽物なんてことが言えるかね。あるいは、工業製品も人が作って世に出されたものは、みな本物であり、偽物でもあると言えないかね。それと同じだよ。私は、需要に応じて、望みの製品を作った善良な供給者でしかない」  「まるで、コンピューターのデータを複製するようなやり方だな。安易にコピーして、大丈夫なのか」  「だから、道徳的、倫理的な議論は、さておいてと言っているだろう。現実の必要性のほうが、われわれ、現場のものには、切実なのだ」  これでは、いくらいっても話は交わらないと、判断して、金井が話の向きを変えた。  「では、その改良のために、少女を誘拐したのだね」  「誘拐ではない。移送したのだ。しかも、それは、移送される者の自主的な意思で行われた。この人はその手伝いをしてくれた」  長井医師は私を指差した。  「そうです。私は誘拐なんて大それたことはしていませんよ。身の代金の要求でもしたなら別ですが」  「そうだな。確かに。だが、誘拐でないにしても、監禁したことは、間違いない」  「監禁って。だって、私は、かぐちゃんに命じられて、言われるままに車を運転して来ただけですよ」  私は必死で弁明した。  (こういう事件は、被害者が発見できれば解決だが、この場合、あそこにいる少女は、当の被害者と言えるのだろうか)  金井がその点の疑問を突いていた。  「ところで、最初にここに来た少女、山根葉子はどうしたのだ」  金井が意図的にそう聞いた。  「あそこにいるだろう」  長井は突っぱねた。  「そうではない。ここに来た葉子だ」  「ああ、欠陥品のことか。今後の改良のために生かしてあるよ。いまは、眠っている」  「すると、少なくとも傷害罪は成立するな」  武藤が独り言を言った。  「ところで、少女が姿を消した公園で、少女の体を光が包んでいたという証言があるが、なぜだね」  金井が気になっていた質問をした。  「光か。そんなものは、出るはずがない、私の作品は、完全な人間だ。人間に発光能力があれば、別だが、人が光を発するわけがない」   長井医師は、簡単に退けたが、  「ただ、私の医師としての経験から言うと、その目撃者が老人ならば、そういうこともあるかもしれない。少女は老人には、若い日を回想させる貴重な存在だから、心理的には、憧れの対象だ。そういうものを見たとき、心理的に光を見ることもあるだろう。仏像の後ろの後輪がそうだよ。まして、その老人らが、白内障や緑内障を持っていたとしたら、多くの明るい映像は輝いて見えるからね」  金井は、すこし疑問が解けたと思った。 (四十三)  (では、長井春子の変死はどう説明するのか)  金井は、武藤がその件で質問するのを待った。  「ところで、あなたの、家で長井春子というお年寄りが死んでいたことは知っていますか」  武藤が、そのことを聞き始めた。そのとき、長井医師の後ろに立っている婦人が、ピクリと動いた。  「死んでいたのか。確かにあの時、手応えが悪かった。死んでしまったのか。そうだろうな」  長井医師は、独り言を言った。  「ということは、知っているのですね」  「あの老女は、私の母だよ、知らないわけがない」  「あなたが、やったんですね」  「やったということは、何をだね」  「ですから、殺したんですね」  その言葉を聞いて、医師は、顔色を変えた。  「殺したなどと、物騒な。母は生きているよ。姿を変えてね」  「生きている。なにを言っているのだ。現に死体があったではないか」  「死体か。体など単なる、本当の命の入れ物でしかないではないか。母の本質は、ちゃんと生きている」  「どこに、生きているのだ。見せて頂きたい者だね」  長井医師は、後ろにたっている婦人を指差して、  「ここに、その一部がいるのだ」  「一部だって。それに、顔は春子さんでない」  「確かにね、彼女は、妻と母の両方の特徴を持っている。私の理想を、一身で実現したものだ。ただし、年齢の制御は母の遺伝子に従っている。だから、年齢は、同じだ」  二人の刑事はその女の顔をしげいげと見つめた。確かに、死体の春子に似ている所もあった。だが、二人は、長井の妻の操の顔は見ていない。それに、武藤は春子も死体の顔しか知らないのだから、いくらでも化ける女性の顔だけに、確信はなかった。  「では、聞くが、この人も、得意の遺伝子操作で作ったのか」  「良く聞いてくれた。母は、実母ではなく、長い間父の愛人だった女だが、母が亡くなってから、私を実の子供以上に愛情を込めて育ててくれた。それなのに、事情があって、戸籍上は妻にはなれず、私の義姉として、記載されている。だから、父の死後の遺産相続でも、割りが悪かった。私は、遺産の殆どを受け継いで、それを元手に、ここに研究所を設立した。誰にも仕事を煩わされたくなかったから、母には家を残して、私は家出して、ここに閉じこもった。だが、やはり、家庭の味は忘れられなくて、まず、妻を呼び寄せた。それが、約一年前だ。妻は、母とはあまり折り合いがいい方ではなかったので、喜んで、やって来た。だが、私は、母も忘れられなかった。高齢だし、献身的に私を養育してくれたのだから、恩もある。独り暮らしをいつまでも続けさせるのは、忍びがたかった。だから、こちらに来てもらった」  長井医師は長い独白をした。  「来てもらった、といっても、春子は死んだのだぞ」  武藤が、大声で、詰問した。  「死んだとはいえない。現にここに居るではないか」  「では、あなたの家に残されていた遺体は、なんなんだ」  「あれは、細胞を抽出したあとの脱け殻だよ。昆虫なら脱皮したあとの殻だ。安心していい。母は、こうしてここに生きている」  「では、春子さん、私のことを覚えていますか」  金井が、その女性に向かって聞いた。脇の女性は顔を向けて、  「はい、浦和の刑事さんでしょ。先日はどうも」 と愛想よく、頭を下げた。  「確かにな。声も似ていないこともない」  金井は半分納得した。  「それで、半分だけというのは、どういうことですか」  武藤がさらに聞いた。  「残りの半分は、操です。私は、理想の女性を作りたかった、そして、どうにか、ここまで、出来た」  「なに、半分、奥さんなのか」  「そうです。だが、良いことばかりではなかった」  「なぜだ」  「私はこの妻と母の良い性質だけ持った一人の女性を作りたかったのだが、できなかった。私の才能の限界だよ。この一体を作るために、他にも二体を作ったが、そのうち、一体は、死んでしまった。そして、もう一体は、私が期待した理想の女性の倫理感や道徳感を失っていた」  「もう一体」 と聞いて、私は、あのことを思い出した。  (あの日、下の監禁室で私が一夜を過ごした若い看護婦は、ここの施設の規則に従おうとしなかった。すぐに、帰らずに、あの部屋で私とセックスして過ごしたのだ) と気が付いた。  「そのもう一体は、どうしたのですか」  私は思わず、聞いていた。  「死なす訳には行かないから、自由にさせている。私の作った者は、私には可愛い娘と同じなのだ」  「自由にさせている、というのは、ここにいるということかね」  「そうだよ。あなたは、もう会っているよ。一晩、一緒に過ごしたではないか」  (やはり、そうだった)  私は納得した。  「それで、死んだ春子のことだが、あなたが、やったのは認めたが、どうして、ああいう状況になったのだね」  金井が詳しく聞いた。  「あれをやってくれたのは、ここにいる看護人達だ。かれらは妻の身内の細胞から再生したので、従順だ。東北人は我慢強い。もくもくと、よく働くし、逆らわない。彼らは、私の最高傑作だ」  二人の刑事は、昨日尋ねた、仙台市郊外の佐藤家から居なくなった操の両親を想像した。  「この人たちは、奥さんの両親だろう」  武藤が確かめるように、尋ねた。  「正確には、かれらの性質を持った新しい個体だ。かれらは、若返りたいと言っていたから、希望を叶えたのだ。最新の私の技術の進歩で、それが出来るようになったのだ」  「それで、どうやって、春子をやったのだね」  武藤は手口にこだわっていた。それは、刑事訴追の基本だったから、武藤は忠実に職務を執行していた。  「電気的な措置で、体細胞を採取した。そのうちに、端末の接触を間違って、電流を心臓に流してしまった。だが、それは、予測の範囲に入っていた。こちらは、細胞さえ取れれば成功だ。個体は死んでも、生き返らせるのが目的だから、こだわらない」  「あなたには、そうなのかも、知れないが、こちらには、それが、問題なのだ」  武藤は、激こうしていた。声が、次第に大きくなる。  「すると、ここにいる男女のどちらが、実行犯なのだ」  「仕事をやってくれたのは、一緒だよ。高電圧の装置を運んだり、設置したりは、一人ではできない」  「ところで、隣のアパートの住人が、犯行当時、テレビの画像が乱れているのを見ていた。それは、ビデオにも記録されており、われわれの分析では、その画像には「細胞移動」という英文が樹氷の画面の上に出てくることが分かった。このことを説明してしてくれないか」  「細胞採取の際に、高い電圧が必要なのは確かだが、テレビの画面に移るような電波は出ないよ。何かの間違いではないか」  「落雷のような光が出ていた可能性もある」  金井が、推論を言った。  「そんなことは、考えられない。たしかに、装置の操作に慣れないので、電圧を間違ったことはある。そのため、過量な電流が走り、母を死なせてしまった。だが、電波を出したり、光を発したりはしないと思うよ」  長井医師の説明は、理路整然としていた。その言葉のなかに、「死なせた」という単語聞いてを、武藤が、  「死なせた思っているのだとしたら、過失致死は成立する」 と囁いた。  「そうか、それなら、ビデオの件は置くとして、これまでの説明で、山根葉子の拉致監禁と傷害、長井春子の過失致死の罪が成立することが明らかになった。これから、裁判所にあなたの逮捕状を請求して、逮捕することになるが、それまで、ここを動かないように」  金井が捜査官を代表して、長井医師に宣言した。  「逮捕されるのですか。私はなにも悪いことをしていないのに。ただ、自分の研究を誠心誠意やって来ただけです。妻を母もこうして、ここで、新しい自分に生まれ変わって、満足して生活している。私はなにも罪を犯していない」  長井医師の確信は、揺るがない。  (罪を犯していない、か。科学者の研究に罪は問えないというのか。それが、われわれ人類の歴史を悲惨なものにしてしまうことのあるのを、半世紀前に学んだばかりなのに)  私は、暗澹たる気持ちになった。ここに笑い顔で座っている老人が、少女の全てを制御できるのだとしたら、少女はどうして、個性を持って、生きていくことが出来ようか。それは人の進歩を阻害し、成長に水を指す行為に違いないのに。       (結)  あの得体の知れない城から解放され、東京に戻って、以前の売れないカメラマンの生活に戻った私は、久し振りに、あの少女と会った公園に行ってみた。  初めて少女をファインダーに捕らえたムラサキツユクサの群生地は、すっかり整地されて、石畳に囲まれた花壇になっていた。花壇の回りは円形に石のベンチが取り囲んでいる。そのベンチの中程に、幼い少女を連れた若い夫婦が座っていた。  私は、遙かに離れた丘の上から、望遠レンズでその家族連れの姿を捕らえた。天気が良かったので、明るい太陽の光が、若い夫婦とその真ん中に挟まれた小学生上級生の年頃の少女の姿をくっきりと浮き上がらせていた。  右側に座っている母親が、持っていた籠から布包みを取り出し、ベンチの上に置いた。包みを解くと、中から、プラスチックの弁当箱が出てきた。母親は、その蓋を開けて、中身を父親と少女に見せた。私は望遠レンズの焦点を弁当に合わせた。  おかずは、オムレツだった。大きめの黄色い塊が、ふんわりとして、箱のなかに収まっていた。  (うまそうなオムレツだ)  私は、空腹だったから、思わず、生唾を飲み込んだ。  (あれは、鶏の卵だから、人は自由に料理が出来る。でも、あれが、人の卵だったらどうなんだ)  私は、経験したことの意味が余りに重かったので、そんな疑問が頭を過った。  私は、少女の顔をアップして、焦点を合わせた。  ファインダーの中に、浮かび上がった笑顔は、作り笑いのように、くすんで、悲しそうだった。私は画面が滲んできたのを知った。画像は歪み、霞んできた。歪んだ画像の中で、少女の顔が徐々に、変化していって、最後は、あの日のかぐちゃんの顔に変わった。  私は目頭をハンカチで拭おうとしたが、熱いものは、大粒の涙となって溢れ、目からこぼれ落ちて、地面を濡らした。          (終わり)