一 岩瀬太一郎は、十一月の肌寒さが増した土曜日の昼下がりに、一通の通知を、三十年間勤めた新聞社から、受け取った。 それは、既に予期していたことではあったが、さすがにいざとなると、その封書を開くとき、胸に込み上げてくるものがあった。妻や家族は、この一か月間の騒動を十分に知っていたから、ついに、最後通牒が到着しても、もう動揺はしなかったが、太一郎は、やはり、内心、穏やかではなかった。 ーーなぜ、おれが・・・。 という気持ちが、まだ、あったし、これから家族四人をどう支えていけばいいのか、前途は、真っ暗だった。 太一郎は、封書を開いた。そこには、冷酷にも、「貴殿を十一月十日付けをもって、懲戒免職とします。離職手続きに、十三日正午までに、本社人事部まで出頭してください」とのワープロ文字が、書かれていた。 「これで、おれが会社に捧げた三十年が終わりになった。誠心誠意、ただ、黙々と、真面目にやってきた結果が、こういうことというわけだ。人生の半分を、大して文句も言わず、堪えに堪えてきて、こういう事になるとは。この世には、真実を見ている神様はいないのだろうか」。 悔しさが込み上げてきたが、涙は出なかった。無念さでいっぱいだったが、泣きたくはなかった。なぜなら、太一郎が、被せられた「罪」は、本人には覚えがないことだったし、覚えがないことでは、人は泣けないのだ。ただ、そうした状況に追い込まれた自分が情けなく、悔しかった。 この一か月、胸が締め付けられるように苦しく、頭痛と吐き気と動悸が、間断なく襲って、ほとんど、夜は眠れなかった。睡眠薬の力を借りても、うつらうつらして、ほぼ二時間毎に、眼が覚め、その度に尿意を催すが、トイレに行っても、ほとんど小便は出なかった。 全身が痺れたようで、自分自身がどうなっているのか、はっきりせず、意識が希薄になった。茫然と無意識の中を、ただ、漂っていた。 二 太一郎は運動部から、今の職場に異動してから、徐々に頭痛が激しくなり、夜も眠れないようになっていった。そもそも、今の職場は、毎日が夜勤続きで、高血圧気味で朝型の体質の太一郎は、上司に「体を壊すから」と異動拒否の意志表示をしたのだが、その上司は「異動は会社の権限だ」と取り付くシマもなかった。 しかし、太一郎の訴えを、職場の仲間たちは、理解してくれて、組合の「苦情処理委員会」に異議を申し立てた太一郎に対し、組合本部は、「職場単位で解決する問題」と逃げてしまったが、運動部の仲間は「岩瀬太一郎の運動部から地方版編集への異動に関する吉田・地方部長への要望書」をまとめ、運動部長、組合代表委員、組合支部執行委員の立ち会いで、吉田・部長に手交してくれた。 その内容は、 @ 給与に関して、最低限、減収とならないように配慮して欲しい。 A 現業職場で、夜勤で時間に追われる仕事をすると、ストレスが溜まり、ゲップ、吐き気、頭痛、鼻の違和感などの抑鬱、緊張などの症状が出るので、理解して欲しい。 B 政治部から整理本部への異動も、それが原因になっていたので、なるべく早く取材部門へ戻して欲しい。 C 今回の異動の話し合いの中で、交わした約束を完全に守って欲しい。 D 家庭の事情から、子供とのコミュニケーションをはかり、平和な家庭を築くため、深夜勤勤務をなるべく少なくして欲しい。 E 外勤職場を強く希望してきたという、これまでの職場経歴を十分、尊重して欲しい。というもので、「以上、運動部職場班一同」との連署が添えてあった。 しかし、この要望は、ほとんどが守られなかった。組織と会社の論理とは、そういうものかもしれないが、@の収入は減ったし、仕事は時間に追われ続けるもので、Aも理解はなかったといってよいほどだった。現職場に来て、すでに五年が経ち、Bはまったくの反故となっていた。 問題は、Cである。 須田・運動部長は、この異動を言いつける際に「岩瀬君、これは昇格人事だよ。君は地方版編集の主任待遇になる。あそこは高齢者が多いから、十八人抜きだよ」と水を向けたのだった。それでも、太一郎が体調を理由に拒むと、吉田部長が、直々にやってきて、喫茶店に誘い、「今の制度では、主任待遇は、地方支局の次長が、本社に上がってきたときになる地位だが、君のために、特別に会社の機構制度改正をする。これは僕が男の約束として、必ず、実行する」とまで、言ったのだった。 しかし、これも反故になった。迷いに迷って、期限を迫られ、異動を承認した直後、再び太一郎が、このことを吉田部長にただすと、部長は「あれは、上の方の都合でだめになった」とこともなげに言い放ったのである。 Dの件は、一応は守られたが、それもいいかげんなものだった。そもそも、職場自体が夜勤の連続の仕事だったし、週に六日も連続で、夕方五時から十二時過ぎまでの夜勤勤務を強いられた。連休がある月もあったが、無い月の方が、多かった。 Eもまったく、省みられることなく、五年間が過ぎ、太一郎の心身は、徐々に、確実に蝕まれていった。 体が耐えられなくなった時には、なるべく、病気休みを取るようにして、仕事でのミスを避けるしかなかったが、そうすることは、職場の仲間にとっては、迷惑をかけることになり、太一郎はますます、同僚との付き合いが悪くなり、自らの殻に閉じこもるようになっていった。 部長は何代か代わったが、太一郎のそうした苦痛と苦悩を理解する人はいなかった。太一郎もまた、そうした自分の病状を、強く訴えもしなかった。 「自分で耐えなければいけない。じっと耐えていかなければ」。 そう思う気持ちが、ますます、彼を自分の内部に追い込んでいった。苦しみから逃れるために、仕事には身が入らなかった。彼にしてみれば、慣れきった仕事を流れ作業にしたがって、やって行くだけで、なにも難しいことは、なかったが、そういう、やりたくない仕事を無理矢理にさせられていること自体が、悔しく、自然と仕事は投げやりになっていった。苦しくつまらない仕事は、どうしてもいいかげんになる。やりたい仕事は、だれでも、身銭を切っても積極的に、楽しく、明るくやっていけるものなのだ。だから、そういう仕事を与えられた人は、幸せであるーー。 岩瀬太一郎は、不幸のどん底にいるように自分を感じていた。人はそういう精神状態になると、自殺や蒸発を考えるものだが、太一郎に、その勇気はなかった。むしろ、そうした状態に、太一郎を追い込んだ上司と会社を怨んだ。 怨むという精神作業は、まず、相手を無視することから始まる。上司や同僚の呼び掛けにも、当たり触りのない答えをするだけで、自分から声を掛けたり、積極的に提案をするようなことは、なくなった。働き盛りの五十代の企業戦士から、戦う意欲が消滅したのである。 三 そもそも、岩瀬太一郎は、この会社では、不必要な人材なのか。彼は自問自答した。 入社して以来の彼の経歴をたどって行くと、有能な人材が、徐々に辺境に追いやられ、ついに、断末魔に追い込まれて、絶壁から崩れ落ちてしまった、という構図が、浮かんでくる。それは、どこの組織・会社にもある風景かも知れないが、また、滅多に無い光景のようにも思えてくる。 「岩さんは、人が良いから、人生、気をつけて生きていかないと、いけないわよ。世の中には良い人ばかりが、いるわけではないからね」 新人で最初に赴任した盛岡支局のキー・パンチャーだった良子ちゃんが、そう言っていたのを遠く思い出す。 そう言えば、良子ちゃんは、岩瀬にやさしかった。誕生日も覚えていてくれて、ほかの支局員に解らないように、バースデー・カードを、机の引き出しに入れておいてくれたり、手作りの小さなケーキを帰り際にそっと渡してくれたりした。そのころ、岩瀬は二十五歳で彼女は二十歳。独身で年頃だった。 だから、休日が重なったとき、奥羽山脈の山中にある温泉にドライブする話が、極秘に決まったとき、はしゃいで喜んだのは、彼女の方だった。九月の陸奥の山々は、真っ赤に燃える。山頂から赤味を増した山々は、徐々にその緋色の絨毯を降ろし、裾にまで届くころには、今度は白い冠に覆われるのだ。 眼にも鮮やかな紅葉の林の中を、駆け抜けて行く車の中で、良子は夢を語った。 「岩瀬さんのようなエリートとデートできるなんて、夢のようだわ。私なんか、田舎で一生を終えてしまうのが、関の山だけど、岩瀬さんたちは、いつか東京に戻って、活躍するんだものね。そんな人と一緒になれたらいいのに。無理だろうな」 彼はそれには、答えなかった。 「田舎だといっても、都会に無いきれいな空気とおいしい食べ物、のんびりした時間は貴重だよ。あくせくして、神経をすり減らすより、一生を考えると良いかもしれない」 「でも、それは東京に戻るのが決まっている人の言うことだわ。私には東京の生活はあこがれだもの」 その夜、平家の落人が、開いたという温泉の旅館の混浴の岩風呂で、二人は若いお互いの肉体を知り、岩瀬は、良子のはちきれるばかりにつんと先の尖った乳首と薄桃色の乳輪の乳房、形よくくびれた腰と良く張った腰に見入り、下腹部を固くした。 湯上がりのあと、部屋に戻ると、布団は一組しか敷かれていなかった。幅広の夫婦布団で、宿の部屋掛りのおばさんは、てっきり、若い夫婦と思い込んだのだろう。 岩瀬は、一緒に布団に入るのは、いやではなかった。風呂で良子の素晴らしい体を見てしまったあとだから、その体に自分を密着させ、抱きすくめて、自分の物にしたかった。良子は、布団が一組しかないのは、まるで気にしない様子で、鏡台の前で濡れた髪を梳いていた。 「さあ、そろそろ寝ようか。僕が先に入るよ」 と、先に布団に入ると、良子は躊躇していたが、 「早く、おいでよ」 との呼び掛けに、良子は浴衣の前を、重ね直して、掛け布団の褄をめくり、裾の方から下半身を先にして、岩瀬の右側に滑り込んできた。 足が触れ合い、それが浴衣の裾をはだけさせて、太股が触れ合った。 良子はその間も無言で、ただ目をつむって、次にくる事態に、期待し、備えている気配だった。岩瀬は、脚を絡ませながら、思い切り良子の頭を両手でこちらに向けさせ、唇を吸った。良子はそれに応えてきて、舌を絡めた。浴衣の前から、手を入れて、ノーブラの乳房をつかみ、乳首をもてあそんだ。乳首に唇をはわせ、そのまま、下に降りて、へその中を唾液で濡らした。そして、良子の大切な部分にたどり着くころには、良子は、かわいい吐息をもらし、それが彼の脳髄を刺激して、下半身は鋼鉄のようにそそり立った。良子の泉は、豊かだった。滑らかに液体が湧きだし、滴り落ちた。 良子は 「あなたのも欲しい」 と言い、岩瀬の固くなったものを、アイス・キャンデーをしゃぶるように、おいしそうにほおばった。十分に味わい尽くすと、 「入れて」 とだけ、耳元で短く言った。 その一言が、岩瀬をさらに興奮させて、彼は下半身を良子の腰に密着させながら、思い切り差し入れた。 「いいわ。もっと、もっと」。 良子には、娼婦の素質がある、と思えるほど二人は、初めて、お互いの体を思い切り、貪りあった。 そんなことが、あったあとも、良子との関係は、週一回位のペースで続いたが、仕事の方は、可もなく、不可もないという状態で、たまに保険金殺人事件の特だねも書いたりし、地方部長賞を受賞して、悦にいったりしていた。 四 四年半ほどして、東京本社政治部への異動の辞令が出た。東京は、戦後最大の疑獄事件、ラッキード事件の取材の渦中にあった。そんな中に、岩瀬は放りこまれた。 岩瀬にやる気が充溢した。 「新聞記者になって、こんな機会に恵まれることは、滅多にない。頑張るぞ」 岩瀬は、密かに心に誓った。 毎日の首相番というルーティーン・ワークから、特だねが掴めることは、絶対にない。早朝、出勤前の政府首脳宅や夜、帰宅後、寛いだ自宅での懇談から、重要な情報が得られる。いわゆる、「夜討ち」「朝駆け」に、岩瀬も全力を注いだ。 総理大臣が、二木首相の時に検察を援護する姿勢が鮮明になり、ラッキード事件で賄賂をもらった政治家の名前が焦点になったが、その名前を割り出すのが、マスコミ各社の競争になり、岩瀬も微力を尽くした結果、この競争は、岩瀬の所属する新聞社の勝利となった。そこまでたどり着くのに、岩瀬は秘術と死力を尽くした。名前が公表された調査委員会の最中は、壁に耳を擦りつけて、発言を聞き取ろうとしたし、事務局に深夜、忍び込んで、ペンライトで照らし、書類を写し取るような、法律すれすれの取材までしたのだった。だが、仕事は充実感でいっぱいだった。特だねが、一面を大きく飾る前の晩は、興奮して眠れないほどだった。そして、翌朝の首相官邸記者クラブで、肩で風を切っているのは、キャップとその同僚たちだった。 ニ木首相のあまりの捜査支持姿勢のため、政界に「二木降ろし」という政権交代の動きが起きた。その結果は、丸田政権の誕生となったが、こちらは、行政改革を唱えて、「よく働こう」が、スローガンだった。 報道各社の競争は、その行政改革案の中身の入手を巡る戦いになった。春から夏にかけて、いろいろな案が新聞紙面を飾ったが、どれもが、断片的で全容をつかんだものは、なかった。 岩瀬もこの競争に参加させられていたが、それは、行政改革の取りまとめ役の行政管理庁が、彼の担当だったからでもある。岩瀬は朝駆け、夜回りによる断片的な特だねも書いたが、それでは満足できなかった。「全官庁の計画が書かれた全文が欲しい」と彼は考えた。それには、どうすればいいのか。 「全文は、担当の役人が書いているはずだ。それを見せてもらうしかない」のは、解っているものの、政府の秘密文書をそう簡単に、高級官僚が見せてくれるはずがない。情報管理は、徹底しており、何等かの意図がないかぎり、そうした極秘情報は、漏れないことになっている。 −−岩瀬は考えた。 久し振りの休日の朝、十分に睡眠をとった頭に、ふと閃いたアイデアがあった。  翌日の夜、残業をしている所へ、取材で訪れた役所で、話し込んだあと、帰り際に、シュレッダ−(書類裁断機)の脇に、裁断された書類が、山のようにうず高く積まれているのを、見つけた。岩瀬は、さりげなく、その山の上の紙屑を、持ってきた紙袋に入れ部屋を後にした。  裁断された紙屑の塊を、見せられた、本社のデスクは、思案に暮れた。  「再現してみようじゃないか」 と言ったのは、日頃から、敏腕記者で社内に知られた大石だった。  「まず、官邸の連中が、社に上がってきたら、総掛かりでやろう」  大石デスクが、全員招集を掛けたのは、もう夜も十二時を回っていた。  まるで、ジグソ−・パズルをやるように、細かく裁断された長細い紙を、切り口を、文字を合わせながら、繋いで、糊で貼って行く。その作業は、五人掛かりで、朝の七時くらいまで掛かるほどの根気のいる作業だった。 「岩瀬君。出来たよ。これで、完璧に再現されたわけだ。シュレッダ−の業者は、おどろくだろうな」  大石が、そう言うと、  「やったぞ」 と、作業に掛かりきりだった政治部員から、拍手が起きた。  岩瀬には、それを元にして、記事を書く作業が待っていた。前文と本文、それに署名入りの解説記事。勿論、再現された政府の案は、全文掲載される。  この特だねは、その日の夕刊の一面トップを飾った。入手した全文は、二面のほとんどを埋めていた。官邸記者クラブのキャップは、その日、肩で風を切って、歩いた。  夕刊を読んだ他紙の担当記者と官僚は、度胆を抜かれた。急遽、記者会見が設定され担当大臣が、呼び出されて、案文の説明をせざるを得なかった。  各紙は、結局、翌日の朝刊に全文を掲載したが、岩瀬のいた新聞には、「全文は夕刊既報」の文字が、誇らしげに、踊っていた。  そのころが、岩瀬が記者として,最も充実していた時期だった。 五 それから、二年間が過ぎた。岩瀬の毎日は、丸田首相の後を、まるで、金魚のふんのように付いて行く仕事にで明け暮れたが、正月を過ぎて、二月に近いある日、岩瀬は山田政治部長から、電話で呼び出しを受けた。 本社に上がると、部長は、一階の喫茶店に誘い、「実は、二月の異動で、水戸支局に行って欲しい。いわゆる、ビッグ・ブラザー交流と言うわけだ。支局の若い記者に本社の仕事ぶりを教えて欲しい。まあ、二年くらいだな」と言った。 岩瀬は、突然の申し出に戸惑った。何しろ、盛岡から政治部に上がってから、まだ、二年と少ししか経っていない。「さあ、これから油の乗った仕事ができる」と張り切っていただけに、この申し出は、ショックだった。 「少し、考えさせて下さい」とその場は、終わったが、どう考えても、「わずか二年で・・・」の心が残った。 ちょうど、そのころ、会社は、赤字続きで倒産の危機にあり、労働組合と「人事異動は、組合の了解を必要とする」という「合意書」を、結んでいたから、その効果を確かめるような意味がある人事とも思われた。ここで、岩瀬が拒否すれば、「合意書」の趣旨は貫かれるが、同意すれば、会社の人事権の前には、社員・組合員の意向や希望は、まったくの無力だということが、証明されることになる。 そう考えて、岩瀬はいったんは、断ることにした。そう伝えると、山田部長は「一、二年で必ず、政治部に戻すのを約束するから」と、強調した。岩瀬はもともと、意志がそう強くない方だ。当時の太島・編集局長にも、「今度、水戸に行くことになるようです」と挨拶したが、「まあ、一、二年だ。しっかりやってくれ」と軽くあしらわれた。 しかし、岩瀬はこの「一、二年」との言葉を、固く信じることにした。「一、二年経てば、政治部に帰れる」。その一心で、彼は、この異動に同意したのだった。         六    支局勤務は、のんびりしてる。  開田支局長は、赴任した岩瀬を、わざわざ、三階の支局長住宅に呼んで、  「最初は、地理を覚えるためにも、警察回りをしてもらいたい」と宣言した。  岩瀬は、異動の際、山田部長から、「支局では若い記者の手本になるように、やってくれ。当然、県政担当になるよう言っておく」と言われていたから、この申し出は、そうした申し送りが、実際は、全く、行われていないことを意味していた。 山田部長は岩瀬の「収入減になるのでは」という疑問にも、「いや、増えるはずだ」と語ったが、実際に支給された給料は、月五万円の減収になっいた。  編集局長は、「わずか、二年でまた転居は、大変です」という岩瀬の訴えに、「では、今の家から通えばいい」という暴言まで、吐いていた。  政治部時代に、見合い結婚した妻の和子は、この辞令にショックを受けて、折角、身ごもった初めての子供を、流産した。和子は、会社を辞めて、彼に従った。そうした犠牲を払っての水戸支局赴任だった。  察回りでは、岩瀬は毎日、県警記者クラブのベッドで、昼寝をした。県警の公報体制は、徹底していて、すべての事件の発生と、捜査の状況は、それこそ記者の鉄則の「現場に行く」ことさえしなくても、分かった。  だから、彼は寝ていた。そして、同じように、公報体制に寄り掛かって、他社の警察担当記者も、記者クラブで、惰眠を貪り、眠るのを止めているときは、これもどこの記者クラブにもあるマ−ジャン台で、賭けマ−ジャンをした。彼は賭け事には、強かった。だから、いつも程々に稼いで、小遣いには困らなかった。  大した事件はなかった。彼が県警を担当していた一年間に、殺人事件が一件と過激派による航空機管制用の通信ケ−ブル切断事件があったのが、せいぜいの大きな事件だった。 そんな日常の中で、彼は「一、二年で政治部に返す」という編集局長や政治部長の言葉を「男の約束」として、ずっと信じていた。 二年目に支局長が代わり、支局の担当換えもあって、彼は県政担当になった。それも、「そういわれて、支局に来たはずだ」という彼の言葉が、聞き入れられたからで、もし、何も言わなかったら、そうならなかったかもしれない。彼はこの会社が、そういう場当たり主義の人事や経営方針の決定をすることを熟知していたが、それに乗っかって、自分の意思を通すのは、彼の人生感や趣味に会わなかった。が、さすがに二年間も察回りをさせられそうな事態に直面して、「本来、私はビッグ・ブラザ−交流で、来たはずです」と主張した。 新しい支局長は、田舎の農夫のような好好爺で、盆栽が趣味で、盆栽記者として知られていたが、全てを支局の次長に任せて、担当を決めた。次長もただ、調子が良いだけのお人好しだったから、岩瀬の意向はすんなり、通った。 編集局長は「自宅から通勤すればいいじゃないか」と言ったが、水戸ともなれば、東京から通勤など出来ない。彼と和子は、水戸市内にアパ−トを借りた。そして、転勤から二年目に、長男が生まれた。二人は、この子を21世紀に活躍するように、と紀之と名付けた。  和子は、子育てに追われて、東京へ帰ることを、そう気にしていなかったが、太一郎は、違った。「必ず、一、二年で、政治部に返す」という政治部長と、編集局長の言葉を、ずっと信じていた。  だから、一年が過ぎ、二年が過ぎようとしたころ、彼は地方機関を統べる地方部長と政治部長に手紙を書いた。地方部長も政治部長も新しい部長に変わっていた。支局長も変わっていたが、「約束を守ってほしい」との私信に対し、新地方部長の中田部長は、新支局長の西郷に対して、「岩瀬がこういう手紙を寄越した。政治部長と相談したが、整理本部に異動させることにした。政治部長も、近くにおいて仕事ぶりを見たい、と了解している」と言ってきた。  岩瀬は、政治部長の大池忠雄から、「会社に来てほしい。会って話し合いたい」との電話を貰い、約束の日に、本社を訪れたが、「大池は、所用で出社しません」との返答をされて、失意の思いで、帰ってきたことがある。  そうした経緯を考慮しても、実際上、山田・前政治部長と太島・前編集局長は、自らの「必ず、政治部に戻す」との約束を、守らなかったことになる。  岩瀬は、ショックだった。  「なぜ、そこまで嘘をつくのか。どうして、言ったことを守らないのか」  岩瀬は、自問した。  答えは、「自分に努力が足りないからだ」と自分を責めてみたが、それにしても、こういう人事は、あっていいものだろうか。会社組織の人事権には逆らえないのはわかるが、人と人との「約束」の方が、大事だ、と彼は、思う。それは、大人げない、ということなのかも知れないが、彼は純粋にそう思った。本来の彼の生真面目さが、彼を悩みの淵に追いやっていった。 「人事には従うしかない。それに東京に帰れるのだし、大池・政治部長も、”近くで見れる”と言っているではないか」と西郷支局長は説得した。岩瀬もそう観念して、整理本部への異動に同意した。  西郷支局長は「君の経歴からして、硬派を担当することになるだろう。少し辛抱すれば、政治部に帰れるよ」と言って、失意の岩瀬を慰めた。  そのころ、会社は、経験者の記者を二人採用することになり、岩瀬も人材の発掘に駆り出されたが、結局、埼玉と千葉の地方紙から二人が決まり、千葉の地方紙の記者が、岩瀬と入れ代わりに、水戸支局に採用されてきた。 彼の送別会で、彼はこう言った。  「長いようで、短い二年間でしたが、見当も付かない整理の仕事をすることになりました。私は外勤記者のほうが、向いていると思いますが、夜勤が多い職場というので、体を壊さないよう、健康に気を付けて、頑張りたいと思います」。 七 整理の仕事は、まったく、性に会わなかった。椅子に座り続けで、しかも、夜勤がほとんどだ。 岩瀬は、西郷・支局長の言葉にもかかわらず、軟派グループに配属された。東京本社に戻ったという実感は、喜びではなくなった。最初の出勤日に、米山・整理本部長と谷崎次長に、喫茶店に誘われた岩瀬は、二人の「政治部では、どこを担当していたの」との問いかけに、「首相番をしただけです」とつっけんどんに答えるしかなかった。 軟派とは、古い歴史を持つ日本の新聞社の独特な呼称で、社会面を主体に、運動面、都内版つくりを担当するグループ名を言う。これにさらに、文化・芸術面などの編集をする編集者が加わる。これに対し、硬派という言葉もあり、これは一面、政治面、三面、経済面、外電面などを割り付け・編集するグループを指す。 整理の仕事は、肉体労働の面もあり、徒弟関係で教えられる。「先生」といわれる先輩編集者が、仕事をしながら、教えて行く。岩瀬の先生は、名古屋の中部本社が振り出しの加地だった。加地は、取材部門に対し、明らかなコンプレックスを持っており、自分が中部本社の報道部で、愛知県政を担当していた事を「東京でいえば、政治部の首相官邸担当と同じだ」と、当てつけがましく言ったりもした。だが、根は悪い人ではないらしく、仕事は熱心だった。時折、緊張すると、ビート・たけしのチック症のように、右手を額に当てて、後ろに二、三度ひっくり返るような症状を見せることもあったが、みなは無視した。それが、思いやりでもあったし、なにより、自分の仕事が忙しく、いちいち、気にしている余裕はなかったのである。 岩瀬の飲み込みは速かったが、これも「徒弟社会」の定めと、「本番」といわれる見出しをつけて、レイアウトする立場の人の指図を受けて、大組み場で工場の工員さんを使って、鉛の活字で紙面つくりを実際におこなう「大組み」を約一年間もさせられた。 この体験は、取材記者としての岩瀬の誇りと自負を完璧に打ち砕いた。他人の下手な原稿に見出しを付けることもそうないままに、ただ、工員と一緒に組み上げる。岩瀬はこれほど、屈辱的なことはないと受け止めた。 そうした気持ちが、鬱積して、澱のように心に沈殿しはじめた。工場の工員のなかには、整理の新人いじめを、義務のように心得ている悪もいて、しばしば、岩瀬の指示を無視したり、逆らったりして、岩瀬の心は、ますます、ささくれた。 それに、朝刊づくりでは、夕方に出社して、平均、四、五面をつくり、朝の一時半過ぎに最終版を降ろし、それからささやかな飲み会をして終わる、というスケジュールだったから、帰宅はもう夜も明ける早朝になることが常態だった。月に三回以上の泊まり勤務もあった。これは前日の朝刊のあと会社の宿直室の二段ベッドで寝て、翌日の夕刊、三つをつくり、さらに、統合版という夕刊のない東北、信越地方行きの夕・朝の合体版を編集して、やっと、その日の夜に解放される、という激務だった。 二年目に、岩瀬は「本番」になり、上司のデスクの監督の下に、自由に紙面を編集できる立場になったが、「必ず、政治部へ帰す」という歴代政治部長や地方部長らの言葉を片時も忘れることは、なかった。 一日中、座りっぱなしの仕事に加え、「本来、いるべき場所でない。性にあっていない」という気持ちが、岩瀬の心身を蝕む度合が、強くなっていった。まず、運動不足と座りきりという状態から、痔の症状が出た。次に、朝方から寝るという無理が祟り、不眠症の常態に陥った。それは、頭痛と吐気を伴い、腰痛を感じはじめた。中でも、吐気は勤務中にもでて、周囲を不快な思いにさせた。これは、加地の異様な反射行動と同じ原因かとも思われたが、二人とも、会社の診療所に行ってみることさえしなかった。ふたりは、自らの心身が発する危険信号を放置し、専ら仕事に打ち込んでいた。 岩瀬には、当初、「本来、硬派といわれていたのに」という気持ちはなかった。社会面づくりは、それなりに躍動感があったし、何より、紙面制作という「職人技」を身に付けるということに、意義があるように、思うよう、岩瀬は努力した。苦しかったが、それを乗り越えれば、本来の願いがかなうのでは、というかすかな希望もあった。 もともと、明るい性格の岩瀬には、駄洒落を言って、周囲を和ませる独特の才能もあった。だが、そういう岩瀬を、苦々しく思う人達の一群も存在していたのも事実だ。紙面づくりに安住しているような、そういう職人集団に、岩瀬は激しい嫌悪感を抱いた。しかし、それを表に出さないようにするおとなの知恵も、岩瀬は身に付けていた。 「人を誹謗したり、ばかにすることは、絶対にできないし、してはいけない」。 そう心に誓い、本来の自分の居場所を見つけられないままに、整理の仕事に耐えていた。その間に、「岩瀬君は、政治部に戻りたいのだろう」と尋ねた上司もいたが、岩瀬は明確な返事をしなかった。 それは、「本来、”帰す”と約束したのだから、約束を守るべきなのは、会社側で、こちらから、申し出るべきものではない」という論理構成によっていた。だから、自らそう申し出ることは、しなかったし、なによりも「何度も自分から、お願いするのはいやだ」という気持ちが先立った。 だから、岩瀬はいわば、昂然と仕事をしていた。「会おう」という約束を破った大池・政治部長の方から、「戻す」と言ってくるべきなのが、物事の筋だ、と考え、この考えに固執していた。 しかし、整理本部で三年間が過ぎても、大池は「戻す」と言ってこなかった。 (わずか、二、三メ−トルの距離しか離れていないのに、どういうことだ)  岩瀬の心は、乱れた。しかし、生来の平静を装う、という性格が、災いして、それを外に表すことはなかった。  その焦燥感は、会社では、仕事にまぎれて、忘れられたが、家にいるときは、その耐えていた分だけ、一気に募った。  (私は、言葉で表すのは苦手だから、文章に書いて気持ちを表そう)  そう考えて、彼は、また代わっていた金田・政治部長と、論説委員になっていた山田に手紙を書いて、気持ちを伝えることにした。その手紙は、岩瀬の直截な性格が表れて、やや、暴力的な言葉も混じっていた。  「きちんと、約束を守れ」とか「嘘つきは泥棒の始まり」という文句が、散りばめられた葉書や手紙を受け取った二人のなかで、金田はその瞬間湯沸器のような性格もあって、整理部長を通して、岩瀬を呼びつけたり、実家を編集総務部長に尋ねさせて、年老いた両親から事情を聞いたりした。一方、山田は一切を無視した。  岩瀬は、昇進して編集局次長になっていた大池にも、手紙を書いたが、こちらはもっぱら、丁重に事情を説明して、善処を求めた。 そういう動きは、整理本部の部長連中にも伝わったようで、四年半が過ぎてから、異動の動きがあった。  整理本部の山崎部長が、岩瀬を呼び出し、 「君の異動希望を大池さんから聞いたが、金田政治部長は、帰す気はない、と言っている。異動できるのは、社会部と運動部、地方部取材班の三箇所が上がっているが、どこがいい」と聞いた。  岩瀬は、考えた。  (なぜ、金田は帰さないと言っているのか。やはり、あの手紙が、彼を怒らせてしまったのだろうか)  山崎が続けた。   「僕は社会部がいいと思うが、社会部も、八王子とか支局もある。そういう所には行かないように、言っておく」  「では、そうしてください」  岩瀬は、どうでもいいような気がしていた。結局は「約束は守られない」ということなのだから。  「お任せします」  そう言うのが精一杯だった。  それから数日後、今度は、大池が、岩瀬を呼び出した。  「運動部長の小桶君に話を付けた。まあ頑張ってくれ」  朝刊勤務が明けた夜中の二時すぎに、印刷されたばかりの新聞を運ぶトラックが、通る道路の片隅に毎晩出る屋台の椅子に座った岩瀬に、酒をおごりながら、大池はそう言った。 「そうですか。もうどうでもいいという、感じです。なぜ、政治部に戻してくれないのですか」  岩瀬の問い掛けに、大池は  「金田君がうんと言わない。運動部で頑張れば、また、戻れるようにもなるだろう」 そう言って慰めた。  岩瀬は、それを信じた。「運動部でしっかりやれば、いいのだ」  そう、心に念じて、運動部への異動を了承した。  山崎は「運動部では、ロス五輪要員になるだろう。収入も減らないはずだ。その点は言っておく」と断言した。  整理本部での四年間で、岩瀬の心身は、完全に疲弊しきっていた。  吐き気や不眠が止まらず、最後の一年間は、慢性的な頭痛と腰痛に痔が、加わり、心も体も、ずたずたになっていた。  その間に、明るく人なつっこかった、外向的な性格が、暗く、人見知りする内向的な性格に変化したのを、彼も気付いていた。  それもすべては、水戸支局から整理本部へ移る際の  1 整理本部では、硬派面担当  2 我慢すれば、政治部に戻す  3 仕事は楽 というような、”約束”が、守られないことにあった。  整理本部に在職中に生まれた、第二子の女の子は、「自閉症」気味で、それが、夜勤続きの仕事への、妻の不満とも重なって、岩瀬の心と体をずたずたにした。  見合いで結婚した妻の和子は、  「私は政治部にいたから結婚したのに。あなたは、外務省担当になれば、国賓の歓迎パ−ティ−にも出られる、と言ったのよ」 と、夜勤明けの岩瀬をなじった。岩瀬は、それに反論ができなかった。彼も同じ”夢”を、実際に、抱いていたからだ。  (支局から帰ったら、外務省担当にもする、と山田部長は、言ったはずだ)  その、裏切られたという気持ちも、彼を内面から蝕んでいた。          八  そんな気持ちを抱いたまま、岩瀬は運動部に異動した。  それは風香る五月で、彼に新しい職場でのやる気を喚起するのに十分な、まろやかな季節だった。  大相撲の夏場所が迫っていた。岩瀬はロス五輪要員ではなく、大相撲担当になった。大相撲には、伊藤というキャップがいて、岩瀬はその下で、指示のもとに取材し、記事を書くことになった。  しかし、外勤記者になったことで、岩瀬の心は、やや、開放された。当時の蔵前国技館の夏場所が、終わるころには、岩瀬の体調は、回復し始め、半年が経った秋場所のころには、気分は相当、軽快になっていた。  取材と執筆意欲は大盛だった。プロ野球の担当も決まり、二年目と三年目の春先は、キャンプの取材で、沖縄に行き、楽しい思い出を作った。  また、秋には北京で開かれた北京マラソンの取材に特派員として派遣され、児玉泰介の日本最高記録達成の現場から、記事を送った。 翌年は、アマチュア野球世界選手権の取材で、イタリアに行った。約二週間の同行取材で、今を時めく、野茂投手や潮崎投手、古田捕手らと一緒に、イタリア各地を転戦した。 スポ−ツ取材は、気楽だったし、楽しかった。 ただ、それでも、岩瀬の心のなかには、 「これは本来の、俺の仕事ではない」 という気持ちが、いつも、湧き出た。  岩瀬は、それを表には、出さなかったが、専門の種目を持ち、そこに専門家としての仕事の価値を見いだしている他の運動部記者とは、様子が違った。  入社年度が同じ、小野が、  「岩瀬君、君は何を本当は、やりたいの」と聞いたとき、  岩瀬は、  (そうか、おれには、ここでやりたいことがないのだ) と、思い当たった。  それに、二年目には、水戸支局で岩瀬と入れ替わりになった地方紙から採用の記者が運動部に異動してきた。  (おれは、こんなに苦労して、外勤記者に出たのに、途中採用の者が、すぐに希望を叶えられるのは、どういうことだ)  そんな、気持も、岩瀬の心のなかに、あった。  そうした内面の気持ちは、自然と、仕事の仕方にも表れる。  積極性が欠け、やる気が感じられないと、周囲は見たのかもしれない。  岩瀬の心は、常に  (ここは、おれのいる場所ではない) との気持ちに、苛まれつづけた。  四年間が、あっと言う間に過ぎた。  岩瀬は、アマチュア野球のキャップということで、春、夏の高校野球、夏の社会人野球などの取材に明け暮れた。  四年目には、ゴルフも担当になり、ト−ナメントの取材に忙しく全国と飛び回った。そうして、健康も回復し、本来の記者の仕事を、やっているという充実感が、岩瀬には生まれていた。  (こういうことなら、運動部でずっと、やってもいいな) と思いはじめた、四年十ヵ月程、経った十一月のある日、運動部長の須田が、朝から早出勤務についていた岩瀬を、お茶に誘い、  「実は、地方部地方版編集に異動してほしい。地方部長は主任待遇にするといっている。あそこは、高齢者が多いから、十数人抜きだよ」 と、申し出た。  岩瀬には、晴天の霹靂だった。  (編集の仕事で、体を壊して、運動部に出させてもらったのに、また、編集に戻るのでは、私に死ねと言うことか。それに、運動部で頑張れば、必ず、政治部に戻すと大池も、言っていたではないか)  岩瀬の気持ちは、怒りで震えた。  「もう少し、考えさせてください」  そういって、その場は、終わった。  岩瀬には、納得が行かなかった。  (いつか、政治部に戻す、という約束と違うし、編集の仕事で体調を壊したのに、そこにまた戻すというのは、死ねということと同じだ) と岩瀬は、思った。  その夜、家に帰った岩瀬は、須田部長の自宅に電話して、  「今度の件は、お受けできません」 と伝えた。部長は、  「まあ、明日また話し合おう」 と言って、電話を切った。  翌日からは、説得工作が始まった。  「私がそのまま部長をしていれば、帰すことも考えられる」 という意味は、いつか運動部に帰すということだが、そういう「約束」には、岩瀬は、もう何度も騙されてきた。  岩瀬は納得が行かず、東京本社代表になっていた大池に面会を求めた。  大池は、  「そうか、では、また、そこで頑張ってくれ」 というだけで、冷たく岩瀬をあしらった。  (そういうことではない。あなたが約束した「政治部に返す」、ということは、どうなっているのだ) と、岩瀬は言いたかったが、そこまで言っては、自尊心と人生観の沽券に係わると考えて、出かかった言葉を止めた。  しかし、帰宅後、岩瀬は大池の自宅に電話し、  「私はこの異動はしたくありません」 と言うと、大池は  「では、須田君に言っておくよ」 と言うだけだった。  しかし、この約束は果たされたらしく、須田は、  「大池さんから、君と良く話し会えと言われた」 と言い、再び、喫茶店に誘った。岩瀬は、  「男と男の約束として、守ってもらいたいことがある」 と言ったが、須田には何を言っているのか、理解できなかったらしい。  「でも、悪いようにはしないよ。昇進人事なのだから」 というのが、説得の根拠だった。  岩瀬は、そう言われて、気持ちが揺らいだ。 (二年も我慢すれば、希望が叶うかもしれない) という気持ちもあった。  岩瀬は同意した。  すると、早速、異動同意書に印鑑を押して、地方部長に書類が回され、地方部長も印を押して、社内の手続きが終わった。  その時を、待っていたとばかりに、吉田地方部長は、岩瀬を喫茶店に誘い、  「実は、昇格の件は、社内規定で、地方の支局から帰ってきた人が、なるようになっていることが、分かった。社内の機構改革を人事に提案するから、僕を信じてくれ」 と言いだした。  岩瀬は、  「そうですか、おまかせします」 と言わざるを得なかったが、気持ちは、 (また、騙すつもりだ。この会社はそういう体質なのだ) という思いで一杯だった。  岩瀬はそう言われて、労働組合に、異義申し立てを行った。「苦情処理委員会」という機構があって、職場の代表委員を通じて、苦情を、申し立てた。  組合は、職場討議を行うよう指導し、運動部職場班の職場討議が、行われることになった。  岩瀬は、各自の発言を記録したが、その大半の意見は、  「意向に沿わない異動は、すべきでない」というものだった。少数意見は  「岩瀬さんの意向は分かるが、職場として、人員減にならないなら、仕方がない」 というもので、それは、相撲を一緒に担当した伊藤と若い斎藤が述べた。  職場代表委員の古田と支部執行委員の海野は、職場の意見を纏めて、須田運動部長立会いのもと、吉田地方部長に、「要望書」を提出することにした。  そうして、彼らも、こじれた問題を解決しようとした。それに、十二月一日の異動時期が迫っていた。  十一月三十日に、彼らは、最初に記したように、  @ 給与に関して、最低限、減収にならないよう配慮してほしい。  A 内勤職場で、時間に追われる仕事をすると、ストレスが溜まり、ゲップ、吐気、頭痛、鼻の違和感等の抑うつ、緊張等の症状が出るので、理解してほしい。  B 整理本部から運動部への異動も、それが一因になっていたので、なるべく早く運動部に戻してほしい。  C 今回の異動の話し合いの途中で交わして約束を完全に守ってほしい。(これは、昇進人事ということ)  D 家庭の事情から、子供とのコミュニケ−ションをはかり、平和な家庭を築くため、夜勤勤務をなるべく少なくしてほしい。  E 外勤職場を強く希望してきたという、これまでの職場経歴を十分尊重してほしい。−−との「岩瀬太一郎の運動部から地方部への異動(平成二年十二月一日付け)に関する吉田・地方部長への要望書」をつくり、「以上、運動部職場班一同」と記して、吉田地方部長に手交した。           九  実は、岩瀬は、十一月二十五日の夜、それまで鬱積していた胸を締め付けられるような、切迫感と、頭痛と吐き気が激しくなり、自宅近くの大学病院に駆け込み、「自律神経失調症」との診断を受け、「一ヶ月間の自宅静養を要す」との診断署をもらっていた。 岩瀬は、三十日に、須田部長に診断書を提出した。 受け取った須田部長は、吉田部長にそのむねを、伝達した。 吉田部長は、静養に入った岩瀬の自宅に、電話して来て、 「了解しました。ゆっくり休んでください」と言って来た。 岩瀬は、その一ヶ月を無聊にすごしたわけではない。 求人雑誌を見て、いくつかの会社に応募した。そのうち、銀行系のシンク・タンクと電力会社と軽金属会社が、「面接を」と言って来た。結局採用が、決まったのは、軽金属会社だけだったが、「静岡勤務になる」と聞いて、断念した。 ほかにも、人材紹介会社に登録したところ、そのうちの一つが、青色申告会の事務局長を紹介して来たが、岩瀬は、その時は (柄に会わない) と感じ、応募を見送った。 また、 (文筆業か、フリーになろうか) とも考え、若いころの自分の経験を描いた小説三編を書いた。 「蘭の名前ーサトコ・ホワイト・フィービー」「雪解けの朝」「裏の女」の三点で、少なからず自信があった岩瀬は、それらを文学界新人賞や新潮新人賞、小説現代新人賞などに応募したが、いずれも、入選しなかった。 そんなことをしているうちに、あっと言う間に一ヶ月が過ぎて、出勤日の平成三年一月三日になった。 岩瀬の心は重かったが、思い鉛を引きずったような気持ちで、しかたなく、会社へ行った。 地方版整理でも、新人には、一応「先生」が付く。彼も一年くらい後輩の「先生」と一週間ほど一緒に仕事をしたが、すでの経験済みの仕事なので、教えられることは少なかった。仕事は、やさしく、岩瀬の職務能力からば、簡単だったが、ただ、 (やりたくない仕事を無理矢理にやらされている) という気持ちだけが、さらに募った。 (なんで、おれがこういう仕事をしなければいけないのか。なにか、悪い事をしたのか) という気持ちが、岩瀬を苛んだ。 その月は、正月ということもあって、あっという間に過ぎた。 二月になり、岩瀬の体調は、再び、悪化した。 腰痛が加わり、不眠症が常態となって、頭痛と吐気が激しくなった。 岩瀬は、接骨医の診断書を郵送し、ファックスで、「体調不調で一週間の休暇」を願い出た。休暇は許された。 岩瀬は、必死の思いで、体調回復を図ったが、夜勤の連続による、体のリズムの不調は、そう簡単に直らなかった。 十一月の突然の体調不調のとき、会社の診断所の産業医と大学病院の医師が、口を揃えて、「仕事の環境が変われば、この病気はすぐ直ります。それが、無理なら、生活を規則正しくし、よく睡眠を取るように」とアドバイしたが、いまの仕事はまったくその忠告を守れるような環境ではなかった。 彼は、体調を壊して、病気になるように仕向けられて、その通りになっていったのだった。 また、 (そう仕向けられた) という意識が、さらに、彼を苛んだ。 (なぜ、そういう目に合わされなければならないのか) 彼は自問した。返って来た答は、 一、この会社は、二世や酔っぱらいや、ゴマ擦りや大声で主張するものばかりの希望を入れ、真面目にこつこつとやっている者は、無視される。 二、異動での「約束」は、一切守らない。「嘘は泥棒の始まり」という最低限の倫理も持っていない。 三、「適材適所」で人事を行う、というのは建前で、実態は、上司が気に入った者を可愛がり、仕事ができても、要領の悪いものは排斥する。 ということだった。 (所詮、組織や会社とはそういうものかも知れない) とは、思うものの、岩瀬は、持ち前の正義感から、そういうことは許せない気がした。 だが、だからと言って、それを、おおっぴらに公言したり、表立って声高に主張することは、しなかった。 (じっと耐えて、頑張っている姿を見せればいいではないか) そう考えて、三月からの仕事には、打ち込んだ。 しかし、その間でも、 (なぜ、おれが) という気持ちは、時間を置いて吹き出す間欠泉のように、家に帰ってくると、吹き出し、岩瀬の心を苦しめ、不眠症に追い込んだ。  うつらうつらした、起きているのか寝ているのか、本人も確としない常態で仕事ができたのは、岩瀬の早くて確実な仕事の処理能力と、経験だけのおかげだった。心身は、完全に疲弊し切り、正常な心と体は、もう回復しようもないほどに、切り刻まれ、浸潤されきっていた。 一年が過ぎても、状態は変わらなかった。その間、ほぼ一ヶ月に一度、彼は病欠した。二年目はさらに状態は悪化し、明るさがなくなって、仕事が投げやりになった。三年目はもう、ただ、会社に出て、適当にやって帰るという、植物人間的勤務が続いた。四年目には、会社で話す人もなくなり、新聞編集の作業が、それまでの製作部員の作業から、編集者の作業に移行されるという組織変更もあって、会社に出て勝手に紙面を作って帰る、という状態になっていた。 「編集者組み版」への移行に当たって、会社は講習会を開催したが、岩瀬は出なかった。それより、毎月二、三回の部会にも一切出席しなかったし、途中、行われた統一地方選、参議院選などの準備の部会にも一切、欠席した。 それでも、部長以下が、なんともいわなかったのを、奇貨として、出社時刻もぎりぎりになり。帰るのは一番早かった。 (午後五時からの仕事で、十時には帰る)のを、彼は基本とするようになり、 「もう少し、早く来るように」 と上司から注意を受けたこともあったが、直さなかった。 彼の心は、極限まで蝕まれていた。 それは、「早く、運動部に返す」、という約束が守られず、彼の一年後に、大阪本社や仙台支局へ異動した運動部員の後輩が、二年後に副部長のデスクになって帰って来たり、四年目には、運動部の二年後輩が編集委員に昇格したりして、ますます、彼の心を落ち込ませた。 五年目、彼の異動の二年後に地方支局に次長で出た四年後輩が、東京に戻り、デスクの仕事に付いた。 彼の心は、完全に我慢の限界を越えた。  五年目の平成七年の九月は、十月の異動が内示され、多くの同期生や後輩の昇格人事があったが、彼は蚊帳の外だった。 (同期でヒラはオレだけになった) そうした人事には、表面的には気にしない振りをしていても、  (ずっと人事に翻弄されて来て、じっと耐えて来たのに) と彼は、大いなる不条理を感じた。 (約束は一切、守られない。でも、おれはじっと耐えて来た。その気持ちが通じないのか) 家では、妻の和子や娘の和美が、岩瀬に向かって 「ヒラ、ヒラ」 と揶揄することが、しばしばで、その頻度は彼が四十六歳を過ぎてから、とくに激しくなった。 確かに、彼は五十二歳でヒラだったが、 (それは、なにも、好きでなっているわけではない。もとはといえば、須田と吉田が嘘をついたきり、約束を守らないからだ) という気持ちが、彼らと会社への怨念と憎悪になっていった。 (もともと、政治部から出る時から、嘘続きだった。この会社は嘘つき会社だ) と彼は思う。 (適材適所に人事が行われていたら、こんなに途中で辞めて行く大物記者や名物記者が出るわけがないではないか) とも思った。 (経営が苦しくなり、部数が伸びないのも、そういう寡黙な社員を大切にしない社風のせいだ)とも思うようになった。 (残っている奴等はろくに仕事もできないで、ゴマばかり擦っている連中ばかりだ。あるいは、人を陥れ、いやな気分にして、自分だけは巧いこと、世渡りしている偽者ばかりだ) という気持ちが、ますます強くなっていった。 九月、彼の心身の調子は最悪になっていた。風邪ぎみで飲んだ風邪薬の影響もあって、自分でしていることの半分も、意識しておらず、覚えてもいないような最悪の状態だったが、人事の時期であることで、これまでのように、病欠せずに、無理をして頑張った。 しかし、十五日過ぎから、やっていることの自覚症状がなくなった。 自分の担当面は、「やらなければ」という義務感と集中力による意気込みと永年の惰性でこなせたが、それ以外の空白の時間は、まるで夢遊病者のように無意識だった。何かを集中してやったあとに訪れる、気が抜けた時間が、長くなっていった。自分でもその間に起きた事は、いまでも、思い出すことができない。 彼は、夢遊病者のように生きていた。 十 十一月三日、出社した彼に、星野・編集製作総センター地域面グループ部長が、 「ちょっと、来てくれ」 と声を掛けた。 岩瀬は彼の後に従った。  星野は、佐藤・編集総センタ−室長と一緒に、編集会議室に、岩瀬を招き入れた。  そこには、大村、高梅の両編集局次長が居り、佐藤と星野が、岩瀬の反対側に座り、佐藤がまず、口を開いた。  「一日に君は、山梨版を担当していたね。それで、その大組みが終わったあと、運動面を開かなかったかね」  岩瀬には、覚えがなかった。だから、素直に  「覚えがありません」 と、答えた。  佐藤は、続けた。  「運動面を開いて、競馬の配当金の入った表の、金額を違うように直したろう」  「いや、まったく、覚えていません」  「そういう、操作を君がLDP(新聞編集のレイアウト・ディスプレ−)で、しているのを見た、証人もいるんだよ」  「そうですか、でも、僕は、まったく覚えていません」   岩瀬は、確信を持って答えた。  「では、それは置いて。九月十五日には、一面を開いて、渡辺元外務大臣の死去の記事を、直さなかったかね」  「もう、半月も前のことですから、覚えていません。大体、昨日のことでさえ、最近は、そう覚えていない状態ですから」  「その日、君は静岡版をやっていて、その作業が終わったあと、六秒後に一面を開いている。そして、直しをしている。数字を入れ換えているのだ。コンピュ−タ−の記録にそう、残っているんだが」  「まったく、覚えがありません。なにかの間違いではないですか」  「ほかにも、そうして、直された形跡が、幾つかあるんだ」  「本当に、やっていないのかね」  やくざ顔をした高梅局次長が、詰問したとき、岩瀬は恐怖心を覚えた。  「これは、食品会社なら、製品に毒を入れるようなものだ。死人記事で住所が間違っていたりしたら、迷惑なことだ」  「本当に、覚えていないのかね。そういう状態は、これまでもあったのかね。そうだとすれば、ほかの仕事もできないね」  温厚そうな大村局次長が、尋ねた。  「そんなことは、ありませんでした。でも、その件について、まったく覚えていないということです」  岩瀬は、正直に訴えた。  「でも、君が、やっているのを見ていた証人がいるのだし、コンピュ−タ−の記録とも時間が一致している。君がやったことは、間違いないのだ」  ただ、真面目に紙面編集一筋に来て、紙面に一点の曇りもないことを、金科玉条にしてきた佐藤と星野にとっては、このような事態は、まったく予想外のことだったにちがいない。  「君がやったのだから、始末書を書いてくれ」  佐藤が、社用の便箋とボ−ルペンを岩瀬の前に差し出した。  岩瀬は、われがわからない状態になっていた。四人に囲まれて、四対一で対峙し、始末書を書かなければ、部屋を出してもらえない監禁状態のなかで、仕方なく、編集局長宛の始末書を書き、署名した。  (どうなっているのか。一体)  岩瀬は自問してみて、  (これは病気に違いない)  と考えた。  小一時間の「糾弾」の会合が、終わって、薄暗い部屋を出ていく際、岩瀬は、星野部長に、  「明日、社の診療所で診察を受けます」 と言った。星野は  「では、僕も行こう」と言い、「午前十一時に行きます」と岩瀬が言うと、「わかった」と答えた。 翌日、十一時きっかりに、岩瀬は、診療所に行った。  担当医は、岩瀬が、地方版編集に異動してから、何度も診察を受けた馴染みの医師で、異動の際に岩瀬が、「自律神経失調症」に罹り、自宅近くの大学病院に、駆け込んで以来のカルテを取ってあり、それを見ながら、  「やはり、いまの環境では、無理でしたか」と、嘆息した。  岩瀬は、  「自分が分からなくなったので、精神科医に見てもらったほうがいいでしょうか」 と言うと、  「では、日本医大に紹介状を書きましょう」 と、これまでの病歴を詳しく書いた紹介状を書いてくれた。  星野は、時間に遅れ、岩瀬の診療が終わるころ、出社した。岩瀬が、  「明日、病院に行くことになりました」と説明すると、  「では、私も一緒に行こう」と、同行を希望した。  翌日の木曜日に、岩瀬は、紹介された日本医大の精神科を尋ねた。  初診の医師は、藤尾・部長と言い、紹介状を見て、若いインタ−ンに、岩瀬の訴えを筆記させ、カルテに記入させた。  岩瀬は、これまでの、自分への会社の人事の嘘と偽りの仕打ちを、面々と訴え、若い医師を驚かせた。若い医師は、それでも、熱心に岩瀬の訴えを、克明に筆記した。  藤尾が、岩瀬を診る時、星野も同席した。 「なにか、酷いことをしてしまったらしいのですが、覚えていないのです。会社に大変な迷惑を掛けたらしいのですが・・・」  「どういうことをしたのですかな」  「なにか、ほかの面を開いて、間違ったように直しをしたと、言われました」  「そんなに、大変なことなのですか、それで、あなたは、大分、会社の人事に不満を持っているようだが、そんなことは、宮仕えでは、仕方のないことですよ」  「でも、そういうことは、許せないと思います」  「君は、相当、興奮している。そのくせ、気分が落ち込んでいる。症状はどうなのですか」  「不眠が続き、頭痛と吐き気が止まりません。腰痛もあるし」  「不眠は良くないな。いずれにしろ、ストレスが溜まっている。鬱状態ですね」  岩瀬の診察はそれで終わった。  次に、星野が呼ばれた。  そして、また、岩瀬が呼ばれた。  「僕には、そちらの仕事のことは、よくわからないが、大分、大変なことをしたようだね。たんに、君のほうが良い文章が書けるからと文章を直したりした、ということではなさそうだ。部長はそう言っているよ」  「そうですか、でも、覚えていないのです」  「覚えているか、いないかは、現代の医学ではなんともいえない。ロッキ−ド事件の被告だって、覚えがないといったんだ。本人が言うかぎり、そうかもしれないが、すべては、本人の意識だから」  「星野部長にも、そう、言ったのですか」 「そうです、覚えがないことは、あるかもしれないし、ないかもしれない、と」  「でも、私はまったく、覚えていないのです」  岩瀬は、脳の詳しい科学的な検査を受けることになった。まず、エックス線での撮影、ラジオ・アイソト−プを使っての断層撮影や、磁気共鳴装置での断層撮影に脳波の検査の日程が決まった。  星野部長は、岩瀬の  「鬱状態のため、当分の、自宅静養を要す」 との診断書を手に、会社に向かった。                          九  家で静養状態に入った岩瀬は、不安だった。いらいらは募ったし、なぜ、こうなったかを、誰かに訴えたかった。  岩瀬は、河瀬編集局長にお詫びの手紙を書いた。それには、政治部を出てからの各責任者の人事上の「約束」が、いかに守られず、そのために、精神的、肉体的にいかに傷ついたかの経過を書き綴った表と、運動部から出る際の、地方部長への「要望書」の写しが添えてあった。  同じ手紙を、岩瀬は、星野部長と佐藤室長にも、送った。パソコンで書いたので、複製は容易で、記録も手元に残った。  その三日後、岩瀬に星野部長から電話があった。  「都合のよい日に、会いたい」という。  「では、土曜日に」  岩瀬は答えた。  「場所は、高田馬場のルノア−ルでは、どうだい」  「いいですよ」  「一時ころに、では、そこで」  電話があったのは、木曜日だった。岩瀬は金曜日に用事があった。  実は、彼は、「退社」という事態も予想して、転職の可能性も探りはじめていた。その応募の面接が、金曜日に予定されていたのだ。 土曜日、ルノア−ルで、会った星野は、大変、言いにくそうに、  「おれもこんなことは、嫌だけれども、こういう事態になってしまったので、仕方がない。自主退職をしてくれないか」 と、持ちかけた。  岩瀬の頭脳は、まだ、病んでいた。薬のせいもあって、朦朧とした状態のなかで、深く考えずに、  「いいですよ」 と、差し出された、便箋にすらすらと「退職願」を書いて渡した。  それを受け取った星野は、電話で佐藤に連連絡を取り、  「下のルノア−ルで、佐藤室長が待っている。確認のため、会ってくれ」 と、誘った。岩瀬は、同じ名の喫茶店が並んであるのを、初めて知った。  岩瀬は星野に従って、下の喫茶店に行くと、佐藤が待っていた。  「よく、決断してくれた。大変だろうが、また、新しい人生を切り開いてくれ」  佐藤は、そう、人情家ぶった態度で、岩瀬に告げた。  岩瀬には、何となく、わかってきた。もし、岩瀬がこのまま、病気欠勤を続け、事態を放っておくと、佐藤は、自分がこの「事件」を、まるで検察官のように、解明していく立場上、会社の懲罰委員会に提議せざるをえず、そうなれば、監督責任者としての、自分と星野にも、責任追求がなされる。当然、譴責処分は避けられそうになく、そうなれば、経歴に傷が付く。  (それが、いやで、おれに身を引かせようとしているのか)  岩瀬は、二人の「陰謀」に気がついた。その晩、家に帰った岩瀬は、星野に電話し、 「退職願の撤回」を申し出た。  星野は、  「分かりました。すでに、書面は編集局長のほうに回っているので、そのむね、編集局長に伝えます」 と、答えた。 岩瀬は、それでも心配だった。 翌々日の早朝、岩瀬は、「退職願を受領しないでください」、との趣旨の手紙を書き、会社に行って、社長になっていた大池に、渡してもらうよう、秘書課に頼んだ。  (ひょっとして、大池から、「会おう」といってくるかもしれない) との期待もあったが、大池は、ここでも、岩瀬を無視した。  (政治部へ帰す、との約束を守らないのと同じだ)  彼は、そう思い、さらに大池らこの会社の幹部と、そして組織への怨念と憎悪の気持ちをますます、募らせた。  一週間ほどが、たんたんと過ぎた。  翌週の金曜日の夜に、岩瀬は、実家の老父から、電話を貰った。  「実は、佐藤さんから電話があって、『一太郎君が退職願を撤回したが、彼は争うつもりですか。私は、自己退職が一番、本人のためにもいいと思うが、説得してもらえないか、そうしないと、所定の手続きが進んでいく』と言うんだ。『私は、もう年だし、彼も大人ですから、彼の判断に従います』と答えたおいたよ」  老父は語った。  「そこまで、するからには、佐藤さんも相当、悩んでいるのだろうか。それとも、保身に必死なのだろうか。多分、後者だろうな。僕は、覚えのないことで、責任は取りたくないから、自分から退職するつもりはないよ」 岩瀬は、気遣う老父を安心させるつもりで、答えた。そして、「所定の手続き」とは、「賞罰委員会への提訴」ということだと考えた。  そのような事態に、老母は、気弱な性格から、ノイロ−ゼ状態に陥った。  「私は、毎日、仏檀にお経をあげているの。そうしない、胸がぐっと締めつけられる思いで、苦しくてしようがないから」  事態が、持ち上がって以来、岩瀬は、ことあるごとに、実家と相談していたが、事態が悪い方向に行くにしたがって、老母の神経過敏は強くなって、不眠と体調不調を訴えた。 「退職願」の「撤回届」が、出されたまま、膠着状態が続いた。  その後、二回ほど、佐藤と星野との話し合いが、岩瀬との間で持たれた。いずれも、同じ、喫茶店に、二人で訪れ、説得が繰り返された。  「君の将来のためにも、自己退職したほうがいい」  「覚えのないことで、責任は取りたくありません。本当に、覚えがないのですから。わたしは、制作部員との仲もあまり良くないし、殴る蹴るの喧嘩をしたことも、あります。ひょっとして、嵌められたんではないですか」 「そういうことは、絶対にない。そんなことをするはずがない」  「でも、やったという覚えがないんですから」  「でも、記録に残っているし、証人もいるのだから」  「そう決めつけないで、ほかの可能性は考えられないのですか」  「考えられないね」  話し合いは、平行線を辿るばかりだった。 十一月の初旬になって、星野部長が、「会いたい」と言ってきた。  岩瀬は、多分、「弁明のため賞罰委員会へ出席をするかどうか」の確認だと、感じたが、果たして、その通りだった。  就業規則は、「賞罰委員会では、本人に弁明の機会を与えることが出来る」と規定し、労働協約は「弁明のため、出席させねばならない」と定めていた。  その日、岩瀬は、迷っていた。それは、賞罰委員会では、最悪の場合、懲戒免職、次に諭旨解雇の可能性があるが、その場合、退職金はないか、半減されるが、自己退職なら、七割支給されるからだ。  すなわち、「争って、負ければ、得られるものは、懲戒免職あるいは諭旨解雇の不名誉記録と退職金なし。争わず、自己退職すれば、名誉は守られ、退職金も支給される」という構図だ。これに、自己退職ならば、佐藤室長と星野部長の職歴にも傷が付かないという本来の彼らの狙いが、見え隠れする。  星野部長は、「処分となれば、決して軽くはないだろうが、懲戒は金や物を盗んだりしたときだというのが前例だ、と思う。君の場合は、諭旨解雇とその下の懲戒休職の間くらいの感じだが、その差は大きいな。辞めるか、留まるかの違いだからね」 と気を持たせた。  岩瀬は、星野に  「お任せします。自己退職でもいいので、ここに新しい退職願を、持ってきましたから、お預けします。そして、賞罰委員会への出席届けにも、署名、捺印しておきます」と、伝えた。  賞罰委員会の開催は、十一月十日となっていた。              十 佐藤は、十一月八日の夜、岩瀬の家に電話をして来た。 「君のためにも、自己退職を勧めるよ。賞罰委員会に掛かったら、退職金も出ないから」 相変わらずの、自己責任回避の姿勢と、岩瀬は理解した。 「いや、覚えのないことで、責任をとるようなことは、したくありませんから、賞罰委員会で私の考えを述べたいと思います」 彼は、明確にそう答えて、電話を切った。 十日の朝、彼は爽快に目覚めた。八時には、すべての用意を整えて、九時過ぎには、家を出た。委員会は、十一時からの開催だったから、時間に十分な余裕があった。その間、喫茶店で、前夜、下書きをした「弁明書」を暗記した。 「弁明書」は、一切、過去の異動での「約束」違反などには、触れず、ただ、「嫌疑が掛けられようなことはした覚えがない」と訴えていた。 [弁明書] この度はこのような事態を招きまして、会社に大変な御迷惑を掛け、誠に申し訳けなく、私自身、悔しさと無念さでいっぱいです。 二度とこのようなことのないよう、強く誓っておりますので、よろしく御願いします。 私は愛して当新聞者に入社し、三十年間にわたり、盛岡支局、政治部、水戸支局、整理本部、運動部、地方部地方版編集(現・編集総センター地域面グループ)と異動する中で、誠心誠意、精一杯、頑張り、会社にも微力ながらも尽くしてきたつもりですが、今回のような”疑惑”を招き、このような委員会に出席を要請され、今、「私の記者生活は一体、何だったのか」と屈辱感と無念さでいっぱいです。 私の「罪状」といわれる「他面を開いて、間違うように直した」ことについては、まったくおぼえがありません。 というのは、もともと、整理の仕事で体調を崩して、運動部に異動しましたが、その後、「性格的に向いていない。体調を崩す危険がある」と拒否したにもかかわらず、現職場に無理矢理、異動させられた際にも、昇進の約束が守られなかったことなどもあり、精神面で、異常を感じ、会社の産業医の本社診療所医師の診断を受け、「自律神経失調症」で、病気欠勤しました。この異動は医師の「この病気は仕事の環境さえ変わればすぐ直る」とのアドバイス(注告)に反したもので、その後も症状は改善されず、ますますストレスは、募っていき、私の心と体を蝕み続けました。そのすべての記録は会社のカルテに残っているはずです。そのため、その後も何度も欠勤をくり返し、職場の仲間にはご迷惑を掛けてきました。ですから、人事異動の度の重なる「約束違反」で悪化した一社員の精神衛生を十分、配慮せず、放置し続けた方々にも、責任はあると思います。 夜勤の連続の中、日常的な睡眠不足で意識がもうろうとし、頭痛と吐き気と腰痛が、直らず、「危ない」と感じたときには、なるべく休むようにして、ぎりぎりのところで、危険を回避してきましたが、この九月は体調が最悪だったにもかかわらず、異動時期でもあり、「必死で頑張ろう」という気持ちで、無理をして勤務し、意識が不明瞭ななかで、どうにか自らの担当面は、こなしているという状態でした。(十月一日の「山梨版」は、早版だけしか作れず、遅版は同僚に御願いした状態でした)。 ですから、明確な記憶はありませんし、反証の材料はまったくありませんが、私が自ら、故意にこのような行為をしたことは、整理記者としての、約十年間の記者生命を掛けて、「絶対に無い」と断言いたします。整理職場では,「間違いを正すことに集中するのが勤め」と徹底的に教えられて来ましたし、わざと間違いにするというようなことは、とても考えられず、信じられません。ですが、意識もうろう状態の中で、そうした行為をしなかったという、確固とした物的反証は、無念にも私にはありません。むしろ、言われた事実に恐怖し、驚愕した次第です。 そのため、このことの指摘を受けた後、自ら診療所を訪れ、日本医科大学の神経科を紹介されて診療の結果、「強度の鬱状態で自宅静養が必要」と、診断され、現在、病気欠勤中です。担当医師によれば、「強度のストレスなどで、そうした無意識状態になることは、ある」ということです。この診断書は、部長を通じて会社に提出してあります。 ですから、そうした中で、そのような行為が、本当に行われたとすれば、以上のような経緯で、体調が最悪だったとはいえ、私は、ずっと愛してきた会社に対し、誠に申しわけない気持ちでいっぱいです。ただ、私の願っていた取材部での仕事の機会が、ついに再び、与えられずに終わるのは大変な心残りです。(何しろ、「二、三年で戻す」という異動の度の言葉は、すべて反故にされたのですから) 私が疑問に思いますのは、「コンピューターの記録に残っている」と佐藤・編集総センター室長は言っておられますが、確実にだれが操作したか、名前まで、記録されているのでしょうか。現在、編集者大組みが実施されていますが、割り付けを書いて組む場合もありますし、事前作業で私の担当面が開けられることもあると思います。事件を指摘された各面の原稿の「赤字直し」は、基本的に、編集者の仕事ではないため、私はその作業方法も、よく習熟しておりません。また、「証人もいる」とのことですが、「その証人はだれか。対決したい」との私の反論にも「それは言えない」としか言ってもらえませんでした。 私はLDP作業をする数名の制作部員から、ここ数年の間、再三にわたり、殴る蹴るの暴行を受けています。また、一部の編集者との人間関係もうまくいっておりません。こうしたことが、この一件の背景にあることも考えられますし、そうした暴行行為は、当然、懲罰にあたると思いますが、いかがでしょうか。 当委員会の決定で、もし、会社に留まることができれば、心と体を鍛えなおし、健康維持に努め、精一杯、頑張り、恩返しをしたいと思います。中高年の再就職が困難な状況 のなか、私も家族四人を抱え、ここで解雇や退職の処分を受ければ、路頭に迷うことになります。 どうぞ、以上のような点を御勘案下さいまして、寛大な 措置をおとり下さるよう、御願い申し上げます。 「整理記者としての長い経験を掛けて、そのようなことは、した覚えがありませんし、していないと思います」文面は、あくまでお詫びと恭順の意を強調していた。 十一時に会社の五階会議室で開かれた賞罰委員会は、各局の次長クラス九人で構成されていた。 佐藤が作成した岩瀬の「嫌疑」を示す議題は、「LDPによる紙面改ざんについて」というものだった。 委員たちは、書面でその「容疑」を確認した後、岩瀬が呼ばれ、弁明の機会が与えられた。 「こういうことは、会社に対する犯罪行為だね。どういうつもりだったのかね」 委員長の石原編集局次長が、ぶっきらぼうに岩瀬に尋ねた。 「そういうことをしたとしたら、愛する会社に誠に申し訳けないと思います。私自身、屈辱感と挫折感でいっぱいです。でも。私には、そんなことをしたという覚えが、ないのです。信じていただけないかもしれませんが、そういうことは、ある、と医師も言っています。ですから、やった覚えのないことの責任を問われても、解りませんというしかありません」 岩瀬は、精一杯の弁明をした。 「言いたいことは、それだけですか」 「はい」 委員会は、岩瀬を退席させた。 そして、これといった審議もなく「懲戒免職」と決め、十一日に通知した。こうして岩瀬の会社人間としての三十年が、終わった。 リストラの嵐の中、今、職安には中高年者の退職者が、列をなしている。岩瀬も、十一月下旬、その列の最後尾に加わった。師走の風が、彼の萎えた心に、一層、冷たい。  それから、半年後、岩瀬は、通う病院を変えた。精神医学では、先進的な医療をおこなっている川崎市のM医科大学に、通院しはじめた岩瀬は、主治医の女医、大蔵まり子の精密な検査を受けた。  大蔵は、長い間、米国のカリフォルニア大学の精神医療学科で、人格障害を研究してきた。その、手法は、担当患者と、面接して、幾つかの質問をして、その対話のなかから、患者の、精神的な障害の要因を探りだし、治療の対策を立てるという、新フロイト主義の手法によるものだった。  岩瀬は、初診の時、五十項目に及ぶ、質問シートを渡され、その一つ一つに、念入りな回答をさせられた。  その幾つかは、彼に、途方もない不快感をもたらした。  「いつもいらいらしていますか」  「はい」  「死んでしまいたいと思ったことは」  「はい」  「大声を上げて、叫びたいと思ったことは」  「はい」  その殆どが、彼に当てはまった。  そして、  「頭痛や吐き気、身体の痛みを感じたことは」  には、大きく、  「はい」 と記入した。  大蔵の問診のとき、岩瀬は、平常に応答しているつもりだった。  「それで、ほんとうに、それをしたことを、覚えていないのですか  大蔵は質問した。  「はい。まったく記憶がないのです。わたしが、そんな大それたことをしたなんて、信じられません。そう言われて、驚愕したのです」  「そうですか」  「そういうことは、ありうることなのでしょうか」  「体調が不調で、記憶を失うことは、ないとは言えません。とくに、風で風邪薬を飲んでいるときなのには睡眠作用で、そうなることもあります」  「そうですか。たしかに、あのころ、わたしは、風邪気味で、薬も飲んでいました」 「ですが、そうなると、その時は、ずっとそういう状態ですの、他の仕事も出来ないはずですね」  「それが、自分の仕事は、きちんとしていたのです」  「そこが、不思議ですね」  「はい」  「とにかく、もう少し、様子を見ます。次の診断のときには、もう少し、詳しく、お話しをしましょう。そうすれば、あなたの症状の、原因が掴めるでしょう」  岩瀬は、そういわれて、次の診察の予約をした。  大蔵は、背が高く、まるで、アメリカ映画にでてくる女優のように花が高く、色白な美人だった。ただ目が悪いらしく、丸い金縁の眼鏡を掛けているのが、彼女の整った顔を、親しみやすい表情に変えていた、しかし、その奥にある二つの目からは、鋭い視線が放たれていた。  岩瀬は、子の女医を一目見て、気に入った。もともと、知的な美人は彼の好みで、大蔵は、彼の感性にぴったりの女性だった。  だから、この病院にかようのは、かれに喜びをもたらすはずだった。  予約した、次の診察の日を、かれは、指折り数えて、待った。  そして、その前日に、かれは、散髪に行き、丁寧に風呂に入った。その日は一張羅を来て、軽い足取りで、病院に来た。  診察を待っていると、大蔵が顔を出し、  「もうすぐですから」 とわざわざ、言ってくれたことも、かれを幸せにした。  そして、いよいよ、診察の番になって、かれが、診察室に入っていくと、彼女は  「今日は、別室で、丁寧な問診をします」  そう言って、個人の住宅のリビング・ルームのような部屋に連れて行った。  「そこの、ソファーに座って、寛いでいてください」  彼女に進められるままに、岩瀬は、ソファーに座って、足を伸ばした。  彼女は、脇の流し場に行き、熱い紅茶を二杯いれてきて、テーブルに置いた。  そして、彼の向かい側のソファーに足を組んで座った。その何げない仕種のなかで、かれは、彼女が、すらりとした素晴らしい足を持っていることを、知らされた。  かれは、その足に見入っていたが、彼女の、  「治療の手掛かりに、あなたの生い立ちをお聞きしたいのですが、話していただけますか」  「はい」  「では、最初は、楽しかった思い出を話してください」  「そうえすね。これまでに、一番楽しかったのは、外国に旅行したことでしょうか」 「それは、いつごろですか」  「それは、五年前ぐらいです」  「そうではなくて、子供のころの楽しかった思い出です」  「子供のころ。女の子と遊んだことでしょうか」  「どういう」  「好きだった女の子です」  「どうして楽しかったのですか」  「それは、母と違う女性を感じたからです」  「母と違うというと」  「母は・・・、酷い女でした」  岩瀬はそこまできて、口籠もった。そして、表情が険しくなり、また、穏やかになったかと思うと、幼児の仕種をしはじめた。  「僕は、知りません。栄子ちゃんがやったのです。あのこは、僕を逸も酷い目に合わせようとしている。僕は、栄子ちゃんが嫌いです」  こえも、幼児の高音に変化していた。  大蔵は、その変化を、カルテに記入しながら、詳細に観察した。  「栄子ちゃんを何故嫌いなの」  「僕に、変なことをするんだ。身体を触ったり、嘗めたりする」  「そうされるのは、いやなの」  「気持ちがいいよ。女の子にされるのは」  「では、なぜ嫌がるの」  「そういうことは、しては行けないんだ、僕のような子供たちは、してはいけないんだよ」  「どうしてなの」  「だって、母さんがそう言ってたから」  「そう、でも、気持ちはいいのね」  「いいよ。だから、もっと、してほしいんだ」  「栄子ちゃんは、あと、何をするの」  「僕の前で、裸になってみたりする」  「それは、いやなの」  「ううん、よく、わからない。それで・・・」  「それで」  「ぼくの、ぼくの、おちんちんをさわったりする」  「栄子ちゃんは、年上なの」  「そう、二つお姉さんだよ」  そこまで言うと、岩瀬は、ぐったりと頭を垂れて、眠り込んだ。  女医は、その様子をじっくりと、観察した。  そして、カルテに、  「多重人格症の可能性」 と記入した。  岩瀬は、週に一回ずつ、通院し、大蔵の診察を受けた。その結果、岩瀬の人格のなかには、四人の人格が存在することが解明された。  一人は、幼児の太郎と言う名の人格で、これは厳格な教育を受けた真面目な人柄を持っていた。二人目は、一郎という名で、自堕落で、享楽的な性格をしていた。そして、三人目は、次郎と言う名前の、ひょうきんな人柄だった。四人目は真面目な勉強家で、道徳家だった。  その、四つの人格が、環境の変化や体調によって交互に出現していたのが、岩瀬の多重人格症だった。  大蔵は、治療の方針を決めた。  それは、そうした本人が意識できない人格の変化が、岩瀬を苦しめているのだから、四人の人格が統一して、岩瀬自信に現れるように仕向けていくことだった。  それには、まず、本人の人格を強固なものにして、本人以外の人格が出現する余地を与えないようにすることが、望ましい。自分に自信を持たせることが、統一的人格の実現に繋がる、と大蔵は考えた。  なかでも、岩瀬の幼児体験が重要だ、という判断もあった。その幼児体験は、おもに性に関連している。  (岩瀬は、母親の圧力の元で、性体験を抑圧されていたのが、人格変移をもたらした重要な要因だ)  そう思い至った、大蔵は、これまで、考えてきた、治療を思い切って、この患者に試してみようと、決意した。それは、彼女が教えられてきた、「患者のために尽くすのが医者の務め」という理念にも、合致していると思われた。  次の、診察の日、彼女は、何時もの白衣ではなく、エプロン姿で、岩瀬を迎えた。  何時ものソファーに腰掛けて、彼女は、リラックスした会話で、また、幼児に戻った岩瀬を、  「さあ。こちらに来て、お母さんの膝のうえにお出で」 と呼びかけた。岩瀬が、素直に、彼女の元に行くと、  「おまえは、お母さんに何をしてほしいの」  「こうして、抱かれているのが、来持ちいい。でも、もっとしてほしいのは」  「なんなの」  「おっぱいがほしい」  彼女はためらわずに、エプロンの紐を外し、上半身に着ていたブラウスを下からたくし上げて、乳房を露出した。  そして、  「さあ。おっぱいを上げるわ」  岩瀬の頭を、その豊かな胸に持っていった。  岩瀬は、口を彼女の右の乳房に付けて、思い切り、乳首を吸った。  彼女に、それまでに体験したことのないような快感がわき上がった。彼女には、恋人はいなかった。これまでに、多くのボーイ・フレンドが、ちかずいてきたが、そうき関係になった人は、いなかった、彼女は、なまじ、美人だったうえに、聡明な医師でもあたら、多くの男は、それだけで、深い関係に離れないと勝手に、思い込んで、一定の距離上は、近付い来なかったのだ。  彼女には、患者のために治療という職務を果たすという、名目もあったから、その行為は、無私で義務感に満ちていたから、そうされることで、このような官能の喜びがわき上がってくるとは、想像もしなかった。  「もっと、気の済むように吸いなさい」  彼女は、そうまで言っていた。  岩瀬は、両手を彼女の両の乳房に当てて、音を立てて、乳房を吸った。  彼女は、赤子に乳房を吸われる母親の心境になって、その心地よさに酔った。  部屋には、二人の他に誰もいなたったから、そこは、まさに、二人の密室だった。  官能の海は、岩瀬が、乳房を離してから、ゆっくりと引いていった。岩瀬は、吸いおわると。もとの大人の人格に戻り、眠りから覚めたときのように、朦朧とした意識の中に板が、なにか、自信のようなものが、湧いて出た様な気がしていた。  大蔵は、たくし上げたブラウスを下に降ろし、エプロンは脱いで、紅潮した頬を両手で摩擦し、洗面所で洗顔した。眼鏡を掛けなおして。もとの女医表情に戻ると、  「どうでした。気分はいい」  岩瀬に問いかけた。  「とても、よい気分です。久し振りに爽快な気分だな」  「それは、良かった。今日はこのくらいで」  次の診察日を、聞いて、岩瀬は、病院を出た。  そういう治療が、続いた。その度に岩瀬は、気分が高揚し、愉快になって、気持ちがよかった。大蔵も、治療のあとは、機嫌がよく、  「大分、良くなってきたから、そのうちに、一緒に、お食事でもしましょう」  そういう誘いかけさえした。岩瀬は、女医のそういう好意に甘えようとしたが、  「主治医とそういう関係になるのはまずい」 と深い判断をして、丁寧に、断った。  岩瀬は、治療の効果が、出てくるようになって、佐藤に手紙を書くことにした。それは、自分の疑問が徐々に、解決に向かっていることを、説明するとともに、佐藤が彼に迫って、退職させた経緯に反省を促すものになるはずだった。    岩瀬は、こう手紙を書いた。  「拝啓  その後、いかが、お過ごしでしょうか。当方は、毎日が日曜日の早めにきた退職後の生活を過ごしております。その後、病院を変え、精神医学では定評のあるM医科大学に通院しております。  そこでの丁寧な診察の結果、私は「多重人格症」と診断され、続けて、治療を受けております。  ということは、今回の私の行為は、そういう症状の中で行われたもので、私には意識がなかったということになります。  意識ないなかでの行為については、人はその責任を問われないのが、法律の建前でもあります。貴社の就業規則も、病気の社員は、休暇を与えて、治療に専念させる、としており、退職を求めることは、規則上もおかしいとしか言えません。  貴方の行為は、こうした規則に違反しているのみならず、貴重な人材を戦力とせずに路頭に迷わせ、自らの責任を回避しようとするもので、あったのは、明らかです。  そうして行為を、責任のないものに行ったことを、深く反省していただきたい。  すでに、わたしは、懲戒免職処分となったので、それを、もとに戻すことは出来ないでしょうが、今後のために、宜しく、反省され、二度とこのようなことがないように、善処してください。また、そういうことをした責任を、十分に感じて、身を処して頂きたい、と思います。                                    敬具  平成八年三月二日          佐藤制作総センター室長殿                               岩瀬太一郎   」  この手紙に対する、返事は来なかった。  岩瀬は、それは、予想していた。そして、  (そういう体質の会社だったのだ)  そう呟いて、病院と職安に行く、用意を始めた。                      (終わり)