『ブレジネフの遺産』    序幕  プロローグ     一九九一年末のソ連邦崩壊で、米ソの冷戦が終わり、アメリカとロシア両国を中心とした核兵器の削減が世界の平和維持の緊急の課題となった。両国はSTART(戦略兵器制限交渉)T、Uに調印し、それに基づいて、核兵器の削減交渉を進めてきたが、旧ソ連のウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンに配備された戦略兵器の取り扱いが障害となって、STARTTの批准が完了しなかった。  しかし、最後まで残っていたウクライナが、一九九四年一月に米ロ両国と非核化協定を締結、同年二月にウクライナ議会は、STARTTリスボン議定書を批准した。また、ウクライナは同年十一月に核拡散防止条約(NPT)に加盟することを決め、同国に配備されていた核兵器を、九六年末までに、ロシアに移送することを約束した。  米国はウクライナの核解体支援のため、二億ドル余の支援を約束。これにより、米ロ両国と旧ソ連の三カ国は、九四年十二月、STARTT批准書を交換した。ウクライナは、九五年二月までに、同国内の戦略核ミサイル百十三基を戦闘態勢から解除し、核弾頭の解体のためロシア移送した。しかし、まだ、数十基の核ミサイルと一千発以上の核弾頭が、残されている。  また、旧ソ連では、一九八五年八月、沿海州チェジマ湾の海軍船舶修理工場で原子力潜水艦の原子炉が爆発、炎上。八九年四月には、ノルウェー沖で原子力潜水艦が火災を起こし、沈没、同年六月にも、ノルウェー沖で原子力潜水艦が火災事故を起こした。  ソ連崩壊後も、一九九三年四月に、ロシア・西シベリアの軍事閉鎖都市「トムスク」(現・セベルスク)で、核兵器用のプルトニウムを生産する最処理工場のウラン溶液貯蔵タンクが、爆発し、放射性物質が発散する事故をはじめ、旧ソ連の原子力潜水艦や核兵器搭載艦の事故が、頻発している。   第一部 フォーメーション  [1]  黄昏の太平洋上をボーイング747ジャンボジェット機は、偏西風に逆らって、両翼のジェット・エンジンを全開して東京に向かっていた。  窓側の席に座った外務省欧亜課長、山中操は、余りにも静かで無機質のジュラルミンの箱の非人間性に,あと十数分でお別れだと思うと、 (やっとこれで帰ってきたのだ) という実感が込み上げてきて、この現代技術が造り上げた亜音速の乗り物が急に愛しくなった。  (実際、俺はよく働いた。会議会議の連続にめげず、あの体力のあるゲルマン人の末裔たちと対等に張り合ったのだから。一時はどうなるかと思ったが、とにかく向こうさんは、分かってくれたようだ。これが本当の相互理解と言うものだろう。これでわが国も一応の体面を保つことが出来たし、向こうさんだって、そう無理ばかりは言えない筈だ)  「ただいま東京上空の待機飛行に入りました。あと暫くで成田空港に着陸致します。シートベルトをお締め下さい。成田着は午後五時三十六分の予定です」  スチュワーデスのアナウンスが機内に響いた。  (ワシントンから、まる一日の旅だった。時差ボケで体がだるい。妻と二人の子供の待つマイホームに帰ったら、熱い風呂に入って飯を食おう。きっと泰子はサシミでも用意しているだろうが、今日は温かい米の飯と味噌汁とお茶が有れば良い。たらふく食べて、ぐっすり眠るんだ)  山中はそんなことを考えながら、座席のベルトを締めた。   東京湾の深黒の海を縁取るように、点々と宝石のような光が輝いている。 「ダイヤモンドを散りばめた」 という表現が陳腐に聞こえるほど、壮大な光の塊が、一面に続いている。  「あの中の一つが我が家だ」  東京の西郊。最近、大手私鉄が開発し、今も開発を続けている比較的初期の住宅地に彼の家はある。一カ月ぶりにその家に帰るのである。  747は機首を下げた。着陸態勢に入ったのである。グングン高度が下がる。光の粒子はやがて徐々に拡大して個性を発揮し始めた。降下が速い。光が横に飛んで行く。強い衝撃、ランディング、ブレーキ。エンジンカバーが開き、逆噴射。  定められた手順で、ジャンボは降り立ち、滑走路をスケーティングしてエプロンに向かった。  [2]  山中が乗った747が降下を始めた頃、神奈川県綾瀬市の航空自衛隊厚木基地から、大きい図体に平たい傘をかぶった異様な飛行機が飛び立った。  電子機器とメーター類に囲まれたコックピットには二人、そしてその後ろにもう一人、計三人の乗員は、何時ものように平静で、飛行に必要な最少限の用語しか話さず、極めて事務的に、各人に課された役割を適確に処理していた。  「間もなく相模湾に抜けます。夕陽が綺麗ですね、田所さん」  副操縦士席の本間義一が田所勇一にそんな気軽な声を掛けたのは、機が所定高度に上がり、水平飛行に入ってから、暫く後だった。  「秋の陽の落ちるのは速い。もう十一月だ。こんな夕焼けを見るのも久し振りだな。飛びながら見る夕焼けは格別綺麗だ」  田所機長は、こう答えた。  機は一路、南方に針路を取り、相模湾から、太平洋へ向けて、飛び続けている。  夕陽がコックピット前方の風防ガラスに乱反射し、時折、光の十字架を無数に散りばめる。その十字架が雲の中に流れていく。   田所はこうして、空の上に漂う浮遊感の中で、眩いばかりの光の交差を見る度に  「飛行機乗りになって良かった」 と何時も思う。たとえ勤務で飛んでいても…である。  しかし、今日の任務は重い。この新型哨戒機が厚木に到着して、これが事実上初めての哨戒飛行だった。  この新型哨戒機は、田所がアメリカから運んできた。約半年がかりの訓練を受けた後、所定通りのスケジュールで、この最新型の電子装置を満載した軍用機は日本の土を踏んだ。  P3C。二十世紀に造られたあらゆる飛行機の中で、最も精巧な電子装置をその胴中に腹一杯詰め込んでいる電子技術の塊だ。  伊豆大島上空を抜け、さらに南に進む。   夕焼けを地平線の彼方に見ながら、機はひたすら南下していった。  三宅島を通過し、さらに南へ。  沖の鳥島を過ぎた辺りで、哨戒任務に入った。レーダーに転々と操業中の漁船や航行中の貨物船、タンカーの映像が写し出された。   高度を下げると、雲の切れ間から、陽光を眩しく反射する太平洋が見えてきた。   すると、遠くに白い煙のような影が細く上がっていた。  「何ですかね。あれ。見慣れない煙ですが」  本間が田所に尋ねた。  「確かに、変わった雲だな。龍巻かな。とにかく、近付いてみよう」  田所は操縦桿を右に切り、機首を向けた。   煙は海から上がっていた。  目視は出来ないが、遠くで白く見えた煙は、実は黒く、眼下の一点から吹き上げていた。   田所はさらに高度を下げ、旋回飛行に入った。  すると、煙の下に黒一色のクジラのような影が見え始めた。レーダーは、くっきりと白く長い映像をスクリーンに映し出した。  「潜水艦のようですね」  本間の問い掛けに田所も頷いた。  「どこの国のだろうか」  後ろの席の通信士が  「緊急信号は発していないようです」 と伝えた。  「米軍の識別信号は」  「出ていません」  「とすると、ソ連か中国さんだな。信号がない以上はいずれにせよ、われわれとしては、これ以上近寄る必要もあるまい。写真を撮って引き返そう」  胴体の下に取り付けられた高性能カメラにスイッチが入れられた。ビデオカメラも録画を始めた。  [3]  ロシアの冬は、朝の冷気が肌を刺す。  石畳の敷き詰められた広場を、黒塗りの高級乗用車が二台、猛スピードで駆け抜けていった。  厚い岩を積み上げた外壁に、そこだけ開かれている通用門を目掛けて黒い矢が突き進んでいくと、衛兵が機械的に敬礼をした。  車は正面玄関に横付けされた。  前の車から、白髪混じりの頭髪に皺が深い面長の顔をしかめさせながら、この国の外国へ向けた顔である高級テクノクラートのボストルヌイフ外相が降り立った。  苦虫を噛み潰したような表情は、この男の素顔でもあるが、この朝は、一層、不機嫌そうだった。  厳しい冬に、やっと訪れた朝の心地良い眠りを、大統領からの「緊急電話」で破られたからに違いない。  後ろの車から降り立った男は、もっと若い。いかにも、エリート然とした風体と精悍な顔付きが、この男がこの国の枢要な機関の重要な地位にあることを伺わせた。  一見して気が付くのは、目付きの鋭さと人を信じることを知らない人間の持っているある種の酷薄さを感じさせる薄く、一文字に結んだ唇の悍ましいほどの血色の悪さである。  二人は、無言のまま、広い石畳の階段を登り、レーニンの肖像に突き当たる辺りで、右に折れ、奥まった部屋の大きな扉を開けた。  だだっ広い部屋には、大きな黒いテーブルが真ん中に置かれ、その一番奥まった場所に三人の男が、既に座っていた。  テーブルの先端にいる大顔の男は、唇をへの字にして、自分の右隣に座った制服の男の話を聞いていた。二人が入っていっても、全く無視するように、目礼もしない。いま着いたばかりの二人は、共産党書記長であり、連邦会議議長として、この国の権力機構の頂点に君臨するこの大顔の男を正面に、左右に別れて静かに腰を下ろした。  「同志諸君、今、アンドロポフ君から、詳しい報告を受けたばかりだが、概要は既に御存知のことと思う。太平洋上で困難な問題が起きた。わが海軍の新型潜水艦が火災を起こした。被害は報告を受けた限りでは、乗組員三人が死に、十数人が負傷した模様だ。艦長からの無線連絡では、被害は軽微、艦も修復可能と言うことだが、航行は不能だ。ウラジオストックから、救援艦が現地へ向け出航したものの、到着するのには、時間がかかる。所詮、艦長らは、正直な報告をするわけはないが、KGBの現地諜報員は、核ミサイルの異常事態が出火の原因と思われると、遠回しに伝えてきた。この点が、一番の問題だ。諸君に緊急に集まってもらったのは、こういう訳だ」   書記長は、一気に言って、残る四人の顔を見回した。  「とにかく、事態を正確に把握しなければなりません。そして、より重要なのは、この事態を相手陣営に気付かれぬようにすることです」  アンドロポフ国防大臣の向かいに座った男が、重い口を開いた。狡猾そうな目とそつのない物腰が、この小柄な男が泳いできた権謀術数の世界の匂いを感じさせた。  「ミカエルビッチ君の心配はもっともだ。その点はぬかりないだろうね、ヤゾフ君」  声を掛けられた最も年少の官僚は、先程、二台目の黒塗りの車から降り立ったKGB長官である。  「今までの情報では、洩れてはおりません。ただ……」  「ただ…。なんだね、ミカエルビッチ君」  「乗組員に潜入させてあるうちの諜報員の暗号連絡によると、原潜が炎上中、上空に哨戒機らしき航空機が現れ、数回旋回飛行した後、飛び去ったとのことです。国籍は不明ですが、わが陣営のものではありません。無線コードが、合致していなかったのと、いまだにどの友好国からも報告が無いことの二点を考慮しても、敵陣営のものと判断されます」  「他に何か、分かっていることは、あるかね」  「外交ルートでの動きはまったくありません。この事故を知っているのは、ここにいる五人と乗組員、それにその国籍不明機だけというわけです」  しかめっつらをしながらボストルヌイフ外相が、絞り出すように言った。  「まず、早急に、あれをウラジオに曳航するのだ。あくまでも、あいつらに知られずにな。それが、全てだ。アンドロポフ君」  アンドロポフ国防相は、ただ頷いた。  旧ソ連が、崩壊しようとしていたこの時期に、厄介な問題が持ち上がった。      [4]    三部首相は、首相官邸に出勤する前、阿部防衛庁長官からの電話を自宅で受けた。  [緊急に官邸でお会いしたい。重要な報告がある」 というのが、その内容だった。  いつもは、落ち着いた口調の阿部の声が、幾分、緊張気味だったことが、気に掛かって、  「電話では、駄目なことなのか」 と問い掛けたのは、今になって、無意味なことが悟られ、三部は不機嫌だった。  官邸の玄関に待ち構えている若い記者連中に、次々と質問を浴びせられたが、一言も答えず、執務室に入った。  三十分程して、阿部が来た。  椅子に腰掛けるのも、もどかしそうに、阿部は、話しだした。  「あの新型の哨戒機は、買い得でした。高い買い物でしたが、それだけのことはありました」  「P3Cが、何か見付けたのかね。余程、大変な物らしいな。いつも冷静な君が、おっとり刀で駆けつけてくるんだから」  「そりゃ、そうです。多分、これから話す事は、世界中で、あなたと私しか知らないことですから。当事者以外はね」  「当事者というのは…」  「ロシアですよ。いや、ソ連でした。ソ連は、近年、海軍力の増強を意欲的に計っていたのは、御存知のようです。特に戦略核を搭載した原子力潜水艦の増強には熱心で、最新型を次々と投入しています」  「だから、わが国も、対潜水艦兵器の整備には力を入れている」  「解っています。その最新型原潜が、太平洋上で火災を起こしたんです。それをわが対潜哨戒機が、発見し、ばっちり写真も撮りました。実に鮮明な写真で、艦上に乗組員が非難して、消火作業をしているところまで写っています。これがそうです」  阿部は、大事に抱えてきた事務用封筒から、数枚の写真を取り出し、テーブルに置いた。  三部はそれを手にとって、じっくりと、覗き込んだ。  「確かに、塔から煙が上がっているな。よく写っている。しかし、これが、火災で、潜水艦が敵さんの物なのは、確かなのかね」  「それは、これほどはっきりと写り、発見時の状況からも間違いありません。うちの専門家も、そう言っています。専門家たちは、むしろ、間違いなくこれがソ連の原潜で、しかも、これだけの事故になっているのを、憂慮しています。まず、放射能汚染が心配です。乗員や艦だけでなく、海が汚染されれば、魚にも影響が出るでしょう。わが国にとっては、あの海域は魚の宝庫ですし、国民は食卓が危険に晒されるのを黙っていないでしょうから」  三部は瞑目した。  阿部も、そこまで言って、自ら発した言葉の重大さに、改めて気付いたかのように、黙り込んだ。  しばらくして、三部が、呻いた。  「阿部君。いま聞いたことは、君と僕だけしか知らないのは、間違いないね」  「はい。勿論、うちの関係職員を除けば、ですが」  「彼等には、かん口令を敷き給え。他の閣僚には一切、口外は無用だ。それから、新たな情報が入ったら、すぐ知らせてくれ」  「総理がそうおっしゃるなら、そう致します。いたずらに、世間を騒がせるのは、本意ではありませんし、情報収集につとめます」  阿部は首相官邸を辞した。  三部は、この件に関する情報を、阿部を通じて、徹底的に収集した。  そして、ホワイトハウス直通のホット・ラインの受話器を取った。  [5]  首相官邸詰めの番記者たちは、いつもは饒舌な三部が、何時になくむっつりとしていたのが気掛かりではあったが、この朝、某紙に掲載された支持率の世論調査結果が、下降気味となっていたのが、原因だろう、ということで皆が、納得した。  しかし、直ぐに、阿部が訪れ、長時間、話し込んだ後、来訪の目的を聞かれ、  「諸々の情勢について報告した」 とばかり、繰り返して、退去したのに、違和感を感じ取った記者は、有能だった。  いつもたむろしている記者室を離れ、密かに防衛庁に電話をし、担当記者に、  「なんか、変ですね。これといって問題がある訳でもないのに、総理が官邸に到着早々、長官が来たんですが、タイミングが良すぎる。打ち合わせをしたうえでの来訪に違いありませんよ。一応、情勢報告という事ですが」  夕日新聞の悪田亮一記者は、若い後輩の番記者から、連絡を受け、防衛庁に戻った阿部に直当たりしようと、長官室を訪ねた。  そこにはすでに、ライバル新聞の曽根が来ていて、阿部に質問中だった。  「いや、本当に、所管事項の報告だよ。嘘じゃない」  「ですから、その内容ですよ。ずばり、何なんですか。今日は、大臣も随分、口が堅いな。阿部さんらしくもない」  「だから、僕の所管は、国の防衛だから、防衛に関する諸々の事項について、総理の御下問を受け、御報告申しあげたということだ」  「いつもの大臣とどうも感じが違うなあ。秘密があるなら、言ってしまったほうが、楽になりますよ。腹に入れておくと、体に悪いですよ」  「煩い。もう帰れよ。悪田君も待っているんだし」  曽根は、  「じゃあ、引き上げますがね。あとは、悪田に任せて。よろしく頼むよ」 と、捨て台詞を残して、席を立った。  「どうも、同じ疑惑のようですが。長官は貝になった、という形の記事にしてもいいんですけど…」  「そう、苛めるなよ。何と書いても良いが、間違いだけはしないようにな。僕も辛いが、君も辛くなるだろう。だから、オフレコにしておいて欲しいんだが、実は、クジラが火を吹いたんだよ」  悪田は、「火ですか。クジラがね。黒い奴ですね」 とだけ、問い返した。  「クジラは黒いに決まってるさ。それも、若くて、一番黒い奴だ」  悪田は全てを理解した。  二人の間では、クジラは「潜水艦」と暗黙の了解が出来ている。そして、白いクジラは、自由主義陣営の、黒いのは社会主義国のものということだ。「若くて、一番黒い」となれば、「最新型のソ連の原潜」に決まっている。  政治家ほど、口が軽い人種はいない。秘密保持が生理的に出来ない人種といっても良いほどだ。  こうして、「オフレコ」の条件付きとはいえ、三部が口止めをした機密は、その日のうちに、新聞記者の知るところとなった。  しかし、悪田は書かなかった。阿部との約束を守ったのである。  それが、阿部には、うれしかった。  翌日、夜回りに訪れた悪田に、阿部は酔いも加わって、  「P3Cは良い買い物だった」 と自慢を始めて、知っていることの全てを語ったのである。   「オフレコにしてくれ」 の縛りの言葉はなかった。  悪田もわざわざ、「書いて良いか」 と念を押す事はしなかった。  そこは、あうんの呼吸である。   翌日の新聞の一面に、悪田のスクープ記事が踊った。  ーー 政府首脳はOO日、数日前、太平洋上でソ連の最新型原子力潜水艦(タイフー級)が、火災を起こしたのを、防衛庁が確認した、との情報を「その通りだ」と正式に認めた。 海上自衛隊厚木基地所属の対潜哨戒機・P3Cが××日午後××時ごろ、沖の鳥島南方を飛行中……」 と書きだしの記事は、写真もあしらって、最新兵器の解説も交え、わかりやすく「原潜火災」の重大性を訴えていた。  スクープは、国際的反響を巻き起こした。外国通信社が、リライトして配信した記事は、海外の主要な有力紙に掲載された。テレビも通信社の記事を伝えたが、国内のキー局は、自衛隊が写したと伝えられた写真と絶対に写しているに違いないと確信をもったビデオ・テープの提供を執拗に迫った。  防衛庁は、その圧力に屈して、一部をテレビ用に公開した。生々しい火災の様子が、テレビ画面に写し出され、反響は、益々拡大していった。   [6]  三部首相からのホットラインを受けた米国のプッシュ大統領は、直ちに、国防長官を呼び、調査を命じた。ウィニー国防長官は、ペンタゴンに戻り、全ての偵察衛星の画像と電波傍受記録のチェック、南太平洋を航行中の第七艦隊の全艦艇からの情報の収集などあらゆる方法での真相究明を部下に要請した。  全ての記録のチェックには、相当の時間が必要となる事が分かり、確認には手間が掛かりそうだった。  そう報告を受けたプッシュ大統領は、今度は、逆に三部首相にホットラインを掛けた。  「あなたが得ている証拠を渡してくれないか。自由社会の友好と世界の平和の為にも、証拠物が必要だ」  三部首相は恩を売った。  「日米の友好と相互協力を維持するために、大統領化閣下の御要望を可と致します」  写真とビデオ、それに国内の電波傍受施設が、最新の機器を使って、受信と解析に成功した交信記録も添えて、ソ連の最新型原潜の火災事故の証拠物件が、ホワイトハウスに送られた。  この証拠物件の分析にはペンタゴン(米国国防総省)の戦略情報室が、当たった。  全長百七十メーターの巨大さや、二十機のミサイル発射筒が、確認されたことから、最新型の水上発射ミサイル搭載原子力潜水艦の「タイフーン型」と判明した。この原潜は、水中排水量二万六千五百トンと世界最大を誇り、SSーNー20弾道ミサイル二十基を搭載し、射程八千三百メーター、二百キロ・トンの多核弾頭十発を持つ。世界では、六隻しか、就航していない最新型だった。    [7] それから、一年半後。一九九一年のソ連邦の崩壊と共に、独立した北海沿岸のバルト三国のなかで、一番南にあるリトアニアの海岸沿いの港町、M市。元は造船所だった古いドックに隣接したビルの一室に、笑いのない、冷たい表情の男達が、五人、集まっていた。 完全に頭の禿げあがったボーン・ヘッドの長身の男が、話している。 「こういう事態は、既に予想されていた。だから、言わないことじゃない。まったく、ソ連というわが祖国が消失して以来、われわれにはろくなことがなかった。あれだけ、完璧に整備されていたわれわれの機関は、ずたずたにされた。その結果が、これだ。われわれのかつての誇りはどこへ行ったのだ。こんなことは、昔は絶対になかった。そうではないかね、同士」 埃まみれの長方形のテーブルをはさんで、この男の正面に座っている小柄な男がうなずいた。 「まったくです、ツベルフコッフ少佐。われわれの現役時代なら、とても考えられない事態です。これほど完璧に国の最高機密が、西側に知られるなんて・・・。そもそも、あの潜水艦の就航や搭載核ミサイルの種類、数、核弾頭数などは、われわれとレニングラードの技師たち以外には、だれも知らないはずだった。それが、ロシア共和国に変わったとたんに、こういう事態ですからね。情報は完全に筒抜けだし、CIAとの情報戦争なんて、もう、夢のなかのことですね」 「その通りだ。イワン軍曹。しかし、だからこそわれわれのような、情報専門家の価値が、ますます、増した、とは思わないかね。確かに冷戦時代は、われわれは国家の機関だった。しかし、冷戦後の世界で、われわれの生きる道は、国家のなかではなくなった。正確にはソ連という国家の中では、われわれの役割りは終わった。だが、情報活動は、どんな世の中になっても、必要でなくなることはないのだよ。だからこそ、こうして、昔の仲間がここに集まったというわけだ」 そう、繋いだのは、ふさふさとした金髪に金縁眼鏡をかけた中肉中背で、こげ茶色のセーターにブレザー姿の男だった。彼は鋭い視線を除けば、どこかの製造会社の研究所員のような風貌をしていた。 「確かに、君の対諜報技術は、ここ何年かは、お倉入りになっていたわけだな。生活も楽では、なかったろう。ハンス」 最初の禿の少佐が、受けた。 「ところで、われわれに、ここに来るように、言って来たのは、一体、だれなのだ。確かに、われわれの招集暗号の”ヤー・チャイカ”(わたしはカモメ)へ、と書かれた発信人から、今日、この場所に来るように、との電報は受け取ったが、だれが発信したのか、わからない。ネフチェンコ少将、あなたですか」 椅子に座らず、三人の会話を聞いていた中央アジアの小数民族の黄色人種の顔つきをした男が、一番、テーブルの端に座って、一言も発しない白髪の背の曲がりかけた老人の方向を向いて、問いかけた。 ネフチェンコ少将と呼ばれた老人は、ずっと下を向いて、聞いていた顔を上げ、 「そう、確かに、私がみんなに招集を掛けた。だが、私は間を取り次いだだけで、だれが、われわれの力を必要としているのか、解らない。ただ、太平洋上で、あの黒いクジラが火を吹いたあと、匿名の手紙が私に届いた。それをいまから読み上げる。  老人は、長いコートの右ポケットに皺だらけの手を差し入れ、一通の手紙を取り出した。  ーー親愛なる同士諸君 われわれは君達の培ってきた諜報技術を今、必要としている。われわれは、火を噴いたクジラの詳細を知りたい。クジラの種類や、大きさは必要ではない。火を噴いた原因を知りたいのだ。それは、クジラの心臓なのか、肺なのか、それとも肝臓なのか。詳しい調査をして、知らせて欲しい。なお、調査費用は、スイスの銀行に振り込む。予算は、十万ドルである。  「諸君、これだけだ。どう思うかね」  老人が、皆を見回して、聞いた。  「それで、どこに連絡すればいいのですか」  黄色人種の顔つきをした男が、尋ねた。  「それが、何とも書いていない。レゾフ君。ただ、来年の一月二十日に、ウィーンのザッハ・ホテルのレストランで、とだけ書いてある。そうなると、あと半年で、調査を終わらせなければならない。どうだ、やって見るかね」  「私は、旧ソ連の科学技術省にコネはあるが、当たってみてもいいですよ」  そう、答えたのは、ハンスと呼ばれたブレザー姿の男だった。  「しかし、クジラは、科学技術省の所管ではないだろう。これは、われわれ旧軍のプロの仕事だと思うよ。ネフチェンコ少将は、ご高齢だから、そう身軽には動けないでしょう。少将には連絡係のなっていただいて、われわれが、やってみましょう」  ツベルフコッフ少佐が、イワン軍曹と目配せしながら、提案した。  「そうしようか。先ず二人に当たってもらおう。ハンスは、その結果の情報判断、レゾフは、わしと一緒に、連絡の補助をしてくれたまえ」  五人は、老人の決定を肯定して、頷いた。テーブルに置かれたウオッカの瓶から、五人のグラスに、中身を並々と注ぎ、乾杯をしたあと、一気に飲み干して、健闘を誓いあった。       [8]  ウィーンには、一九九三年の初夏が来ていた。市街を一周する市街電車の客達も、さらっとした薄手のシャツに身を包み、時折、差し込む陽光を避けるように、電車に駆け込んだ。  こんな暑さ中でもザッハ・ホテルの外側に、張り出したティー・サロンは、今日もいつもと変わらず、営業していた。ホテルの正面玄関から、最も遠い一角に、二人の男が、座って、先程から、密談していた。二人ともスーツを着たまま、ポットから、コーヒーを継ぎ足し、継ぎ足して、飲んでは、密談を続けていた。  「例の件は、一応、相手に伝わったようだが、果たして、うまく行くかどうか。何しろ、相手は、国家を失った連中ですからね。仕事も無くなったが、昔のように、自由に国家の情報を取れるわけでもない。旧軍の関係者だといっても、ルートは、限られている。一応、金で釣りましたが、結果を見ないとね」  背の高い面長の男が、話している。髪は七三にわけ、完璧にセットしている。一目で政府職員と分かる身のこなしだ。  「私は、期待していませんね。ああいう連中の仕事の仕方は、冷戦時代の古いやり方だ。このハイテク時代に、人間のつてを頼ったり、侵入や盗みで情報を取るなんて、時代遅れも甚だしい。彼らはそういうやり方で、やるでしょう。まあ、せいぜいが十万ドルの出費だから、なんていうこともないが。それより、心配なのは、どうも、彼らの一部に毛色の違ったグループが、接触しているらしいことです。われわれの組織が、手に入れた通信文に、チェチェンとアゼルバイジャンからのものがあったが、それに、例のクジラの情報入手の依頼があった。あそこは独立派のゲリラ組織の活動が、活発だが、その組織が依頼してきたようです」  小柄な若い男の方が、答え、コーヒーを啜りながら、面長の男を直視した。  「何しろウクライナだけで、約二千発の核弾頭が、保有されているのだ。ゲリラの組織が、裏でその情報を手に入れたがるのも、無理はない。あり得ることだな。そういえばわれわれの泊まっているホテルにも、アジア人の顔をした胡散臭い連中が、いっぱいいる。昨日は、黄色人種の変わった服を着た団体が、髭もじゃもじゃの男を取り囲んで、変わった儀式をしていた。日本人の仏教徒だそうだが、ハイテクの国、日本にもおかしな人がいるものだな」  「あれは、何か仏教徒のグループのようでしたね。何をしに来たのだろう」  「わからんが、あやしい。これからは、われわれも国や軍だけでなく、ああいう集団の危険性をチェックしないといけないかもしれない。人類を脅かす危険な兆候だよ。ウイリアム」  「ゴードン。確かに、そうかもしれないな。しかし、われわれの仕事は、あくまで、国家の機密だ。わたしがこだわるのは、チェチェンとアゼルバイジャンからの依頼です。これは、もうすこし、探って見る必要がありそうですね。かれらが何を企み、何を欲しがっているのか」  「それは、君に任せた。わたしは、”チャイカ”の活動を、見守ろう」  「了解しました。では」  二人の男は、席を立ち、残されたカップ類を、端正な着こなしのボーイたちが、かたずけ始めた。     [9]    ワシントンは、快晴だったが、その部屋は、外光と完全に隔てられていて、外の様子は分からない。ただ、エアコンのモーターの音だけが、静かに唸っている。  上空から見ると、完全な五角形をしたそのビルは、「ペンタゴン」の愛称で呼ばれていた。  その四階の一室で、二人の男が、椅子に座って、話していた。  「例の写真ですが、CIAの分析どおり、旧ソ連のタイフーン型原子力潜水艦です。潜望塔から煙を出していることと消火活動の様子ぐらいしか、わかりませんが、その後の、軍事衛星の追跡で、ウラジオストックに、回航されたことが、判明した。事故のあと、回航に三日間掛かり、その後、二カ月間、ウラジオの軍港に係留されたままで、これといった調査が行われたような形跡はありません。そろそろ、われわれの雇った諜報員が現地に入るころですから、何か情報が入るかもしれません」  ぴったりしたダーク・スーツを着た眼鏡の男が、話しかけた。  「ビル。そんな悠長なことを言っていられないよ。あの事故は場合によっては、大変な事態を招いたのかも知れないのだ。もし、大火災で、ミサイルの発射装置に異常が起きたら、あのクジラから、わが国に向けて、核弾頭が発射され、わが国の防衛網は、瞬時の応戦していたろう。そうなったら、歯止めが効かなくなっていた。いくら、ソ連が解体したとはいえ、ロシアの軍事網は、縮小されたが、いまだに健在だからな。第三次世界大戦も予想される事態だったのだ」  白髪の男が、ビルと呼ばれた男に応答した。  「ですから、われわれは、諜報員を雇って、現地に向かわせたのです。確かに、われわれは日本の電子傍聴網を駆使して、無線通信を追跡しました。暗号の解析もしましたが、事故の原因については、まったく分かっていない。もう、二年も経ったのにです。かれらが、それに触れないのです。かれら自身、把握していないのかもしれない。それがソ連解体後のあの国の科学技術の水準なのかもしれない。とにかく、人間の情報を待ちましょう。カーター部長」  「そうだな、もう少し、待つことにしようか。とにかく、ウラジオからの生の情報が大事だよ。ビル」  「情報は、ウィーン経由で入ります。ウラジオから衛星通信で入れるのは、危険が大きすぎるので、確実な手段を取ることにしました」  「それでいいだろう。とにかく、あの時は、非常事態は避けられたのだから、あとは、じっくりやるしかないな。では、いい情報が入ることを期待しよう」  二人は、簡潔にこの一件を済ませ、もう一つの事務の話し合いに移った。       [10]  パリの夏には、人がいない。長いヴァカンスを南で過ごす人達が、消えたあとは、日本人の観光客で、いっぱいだ。  オペラ座の前の、観光バス乗り場に、その集団が表れたのは、昼下がりの午後一時過ぎだった。  顔中髭もじゃで、太った男を取り囲んで、若い男や女の二十人ばかりの集団が、バスを待っていた。太った男は、目が不自由のようで、右手を背の低い女性の肩にかけて、何かしゃべっていた。  すると、黒塗りのリムジンが、すっと寄ってきて、太った男ともう一人の中年の男、それに肩を掛けられていた女性を、後部座席に乗せた。その車の後部座席には、赤ら顔の中東地区の生まれらしい男が、座っていた。前の座席には運転手と屈強なガードマン風の男が座った。  リムジンは、ルーブル博物館の方向に向かって走りはじめた。残された集団の人達は、やって来た観光バスに乗り込んだ。  リムジンの中で、中東生まれのような男が切りだした。  「はるばる、日本からご苦労さんです。ところで、お話の件ですが、われわれは、貴方の要求を、全部満たすことが出来ます。これからお連れする場所で、われわれのボスが、詳しい話をするでしょう。御足労の苦労をねぎらって、シャンペンは、いかがですか」  男はクーラー・ボックスから、シャンペンの瓶を取り出し、グラスに注いだ。  「どうもありがとう。では、いただこう」  盲目の太った男が、応じた。  「ところで、われわれをどこに連れていこうというのかね」  「いや、そう遠いところではありません。ちょっと、郊外の古いお城ですが。大体、一時間くらいのドライブになりますか」  「われわれの希望は、ちゃんと伝わっているのだろうね。何しろ、われわれは、インドの聖地を訪ねたあと、ウィーンに回ってまで、君達とコンタクトをしたのだから」  「それは、十分に承知しています。そのうえで、依頼をお受けしましょうというのです」  「まあ、詳しい話は、君達のグルではない、ボスにあってすることにしよう」  車のなかでの、シャンペン・グラスのやり取りが、続いた。            [11]  リムジンは、城の入り口に到着した。石を両側に積み上げた高い門の間に、観音開きの鉄の扉が、締まり、行く手を阻んでいた。  運転手が、ダッシュボードから、リモコンを取り出し、赤外線を門に向かって、発射した。門は自動的に、内側に向かって開いた。車は、静かに砂利道を行った。道の右側には、噴水を吹き上げている長方形の池があり、水鳥が数羽、湖面を泳いでいた。  車は、滑るように池の脇を走りぬけ、高いポーチの付いた玄関に到着した。車が車寄せに入ると、執事が出てきて、ドアーを開けた。  四人は、車から降り、太った盲目の男は、女性の肩に右手を置いた。中東人風の男が、案内し、一行は、城の中に入っていった。  彼らは、二階の一室に招きいれられ、深々としたソファーに座って、次の会見を待った。  その間も、飲み物が出され、軽い食べ物を用意された。太った盲目の男は、キャビアの乗ったクッキーを三つも一気に頬張り、上手そうに食べ、満足そうだった。  小一時間待つと、この城の主人らしい人が、部屋に入ってきた。しっかりとした設えのスーツを着込んだ男は、長身で長い顎ひげをたくわえていた。   「遠路はるばる、ご苦労様。私が、ル・ノートルです。世間では、黒い商人とか言っているようですがね。わたしは、クリーンなビジネスをしているつもりですよ。ですから、どのような方でも、商売をしたいという方は、拒みません。商人には時間は貴重です。早速、商談に移りましょう。ムッシュ・アサハラ」  ル・ノートルは、早口にまくしたてた。  「解りました。率直に話してくれて、こちらも話がしやすい。実は、わが教団は、世界最終戦争に備えて、武装化を急いでいますが、最終戦争では、通常兵器では、心許ない。われわれは、この世の決着を付けことができる最終兵器が欲しい。しかし、これを持っているのは、限られた国です。アメリカとイギリスとフランスと中国と旧ソ連ですが、旧ソ連を除けば、何れも管理が徹底していて、とても入り込めない。だが、旧ソ連からは、入手が可能なのではないですか」  「確かに、これはかなり難しい相談だが、われわれの力をもってすれば、不可能ではないと、判断しました。当たっては見るということです。必ず、出来るというわけではない。その点は、間違わないでもらいたい。大きな危険も伴います。だから、資金もかかります。その点は、充分にご承知いただきたい。ざっくばらんに言うと、一本百万ドルにはなるでしょう。また、首尾良く入手できても、輸送が難しい。われわれは、国際的な密輸の手段も持っているが、物が物ですから、安全には、万全の注意を払わないといけない」   「かなり、困難な仕事だということは、良くわかっている。われわれは、資金も用意してある。輸送手段などは、お任せしたい。その分の費用は、払います。それでいいですか」  ムッシュ・アサハラと呼ばれた盲目の男が、申し出た。  「そうですか。よし、それで決まった。後の細かい話は、部下にまかせましょう。先ずは、商談成立を祝って、パーティーと行きましょう」  ル・ノートルは、一行を、別室のボール・ルームに移動させ、はなやかな、ダンス・パーティーを楽しませた。太った盲目の男も、まるで、目が見えるかのように、一人でステップを踏み、ブロンドの美女と踊り明かしていた。     [12]  ウラジオストックに、晴れの日は、少ない。  シベリア鉄道で一週間掛けて、モスクワ発の特急列車が、中央駅に到着した。  二人の男が、プラットホームに降り立った。  夏には珍しいどんよりとした天候もあって、二人の表情は冴えなかった。旅の疲れも加わって、二人の足取りは重かった。大きな革のトランクを二人とも重そうに引きずりながら、改札を出ていった。トランクは、軍用の規格品だったから、二人が軍の関係者ということは一目瞭然だった。  二人は、タクシー乗り場に急ぎ、古い型のベンツの白タクに乗り込み、  「インツーリスト・ホテルへ」と告げた。  ホテルで、チェックインをして、二人は、ツイン・ベッドの部屋に入った。旅装を解いて、最初にしたのは、電話で軍の知り合いにコンタクトをとることだった。  二人とも軍関係には、知り合いは多かった。何しろ、旧ソ連軍で、二人は二十年以上の経歴があった。  「大佐。ウラジオの海軍原子力潜水艦基地には、ヤコブ司令官がいましたね。副司令官のミハイルヴィッチは、わたしと海軍士官学校の同期生です。まず、ミハイルヴィッチから当たってみましょうか」  「イワン軍曹。それがいいだろう。わたしは、ヤコブに会って見よう。二人で手分けしてやるほうがいい」  話はついた。イワンが、電話機を取り、会見の場所と日時を決めた。その後、ツベルフコッツ少佐が、電話して、ヤコブの官舎を訪ねることになった。  「これで、段取りは着いた。いずれにしろ、明日だから、今日は、この街を楽しもう。まず、夕食を取らなければ。どこかいいレストランでも、探してみよう」  「少佐。それは、無理と言うものです。ここは、軍の街です。そんな洒落レストランなんて、あるわけがありません。ホテルのまずい食事で我慢しましょう」  「そうか、まったくだな。本当になんていう国だ。この国は」  二人は、思い足取りで、一階の食堂に降りていった。           [13]  チェチェン共和国の首都、グロズヌイ市。独立運動の制圧のために、出動したロシア共和国軍司令部で、ミハイルビッチ総司令官が、情報将校から報告を受けていた。  「わが軍は、完全にこの街を制圧しました。独立運動派は、街から完全に姿を消しました。かれらは、これから地下に潜るでしょう。ゲリラ活動が活発化するかもしれないが、当面は、平穏でしょう。作戦は、完全に成功しました」  「それは、よくわかっている。それより、肝心なのは、わが軍の出動の目的が、完全に達成されたかどうかだ。君もそれはわかっているだろう」  「その点は、わたしの所管ではありませんので。担当将校を寄越しましょうか」  「そうしてくれ」  総司令官の部屋を辞したその情報将校は、もう一人の若手の参謀を呼び出した。  若手の将校が、部屋に入って来た。総司令官は、尋ねた。  「例の通信文の件だが、あれは、本物と確認されたのだったな」  「はいそのとうりです」  「そして、その目的は、わが軍の勝利で、完全に破壊されたと見ていいかね」  「もう、大丈夫だと思います。敵に、あの文書の実現を図る余力はありません」  「そうか。もし、あれが現実になっていたら、事はわが国の国内問題だけでは、なくなっていた。彼らが、最終殺戮兵器を手に入れるなど、考えただけでも、おぞましい。わが大統領と軍司令官は、正しい判断をした。世間は、チェチェン独立運動を、押さえつけるための軍出動と見ているのだろうがね」  「それでいいのです。まさか、オベリンらが、われわれのミサイルを狙っていたのだとは、誰も信じないし、信じたくありませんからね」  「ところで、彼らの資金源は、解明できたかね」  「それが、なかなか、うまくいきません。活動家のなかに、西側の国とのコネクションがある人物は、多数います。陸路でハンガリーを経由し、オートリアやドイツに行ったり来たりしている者も、相当数います。それを全部は把握できない。ただ、核ミサイルを購入するような金を、国内で調達することは不可能です。西側から資金が流れ込んだと見るのが、自然だ」  「引き続き、情報部と協力して、出資者と仲立ち人、こちらの窓口になった人物を探ってくれ。難しいかも知れないが、頼むよ」  「わかりました」  総司令官は、部屋の窓を開けて、空気を入れ換えた。外には、真っ青な空が、地平の果てまで広がり、その下で、数箇所のビルから、白煙が上がっていた。  [14]  ワシントンは、夕暮れ時になると、官庁街から一斉に帰宅を急ぐ、政府の職員らが、吐きだされ、道路は、車で溢れて、ラッシュがひどい。  その渋滞を、眼下にしながら、CIA本部ビルでは、ハーンズ極東担当主任が、遠くを見つめる目をして、ガラスの外を眺めていた。  (彼らは、もう現地に入ったろうか。入った、との報せは、軍事衛星で瞬時に入ってくるはずだが、まだ、来ない。こんどの作戦は、われわれの仲間は、一人も加わっていないだけに、信頼感に欠けるが、かれらの実力を見るには、恰好の機会だ。われわれの”チャイカ”は、どの程度の精度の情報をもたらすか。もう、かつての時代のように、戦闘的な集団ではないから、危険なことはしないだろうが、われわれのエージェントとは、わからないで欲しい。あくまで、かれらの自主的行動として、今回の作戦は、実施されたことにしておかないといけない)  そう、考えているときに、パリの諜報員から、暗号電報が到着した。  金髪のグラマラスな女性秘書が、電文を手に、彼の部屋に入ってきたので、かれは、窓を向いていたのを止め、部屋の内側の方に、回転椅子を回した。  電文はこうだった。  ーー 当地のアンダー・グラウンド情報によると、欧州全域に網を張った「死の商人」であるル・ノートル・ド・ノルマンディ伯爵が、東洋人の宗教家グループと接触、当地郊外の彼の邸宅で、会談し、大歓迎パーティーを開催した。あらたな商談が、成立したと見るのが妥当と、思われる。どのような商談かは、目下、調査中。追って連絡する。以上、至急電ーー。  ハーンズは、黙考した。  (これは、どういうことだ。かつて、第一次、第二次中東戦争の際、アラブ側へ、米国製の銃器を供給していたル・ノートルが、また、なにかを企んでいるらしい。あいつが、動きだすときは、ろくなことが起きない。必ず、やっかいな事件を起こすのだ。これは、われわれの組織を、動員して、かれらの動きを追わないと、いけないかもしれない。かれをランクAに格上げしよう)  かれは、そう考えて、諜報部長への、提案書の作成のため、タイプライターに向かった。 第二部 セット・アップ        [15] 東京・大手町のM商事本社。テレックス・ルームに、ワルシャワから、緊急電が入ってきた。 それは、ただちに、電文の宛先、重機械部東欧課に配送された。  佐竹純一・課長は、その朝、いつものように、出社後、最初の仕事として、机の上に山積みになった書類のチェックに掛かっていた。  ワルシャワからの電文には、「アージェント(緊急)」の赤いスタンプが、押してあったので、佐竹の目を引いた。  ーー 当地の産業省は、ワルシャワ市内での大型機械運搬用の大型トラック数十台の調達指令を発令した。これは正式の指令ではないが、当駐在員事務所が、数カ所の情報源に当たって、確認した。調達されるのは一台、二十トン程度の大型車両で、台数は約数十台。時期は、出来るだけ速やかにとのことで、いくつかの西側トラック・メーカーに内々の打診があったものと思料されるーー。  ワルシャワ駐在員事務所からの電文はそれだけの内容を端的に伝えていた。  佐竹は、   (これはビジネス・チャンスだ) と直感した。  そして、ワルシャワ事務所へ  「さらに、詳しい内容を調査するように」 との指示を電文に認め、テレックス室へ、送るとともに、午後の会議で、商談への乗り出しを提案するつもりで、メモを書きはじめた。   [16]    ウラジオストックのロシア海軍基地司令官の官舎で、ツベルフコッフ少佐は、ヤコブ司令官に会見した。  かつて、ドイツの東ベルリン駐在軍で、作戦参謀と副官として、勤務して以来の関係だ。  「御無沙汰しております。参謀」  少佐は、かつての呼びかたで、ヤコブに挨拶した。  「少佐もお元気そうで」  司令官は、短い言葉で、返答した。  「まあ。掛けたまえ」  勧められるままに、ソファーに座ると、  「何がいいかね。ウイスキーか、シャンパンか、それとも、わが国が誇るウオッカにするかね」  「ウオッカが、よいですね」  司令官は、氷を入れたジャーとグラスをテーブルの上に置いて、  「好きにやってくれたまえ」 と、勧めた。  「最近は、軍関係の予算も削減されて、暮らしも昔のようにはいかないよ」  酒の肴も用意出来ない様子に、少佐は、  「飲み物があるだけで、十分です」 と、司令官の言葉を引き取った。  「昔は良かった。キャビアも食べ放題にあったし、こちらでは鮭の燻製やホッケのひものなんかが、いくらでもあった。いまは、軍の売店にもそんなものは一かけらもない。せいぜい、安酒が手に入るだけだよ」  司令官は、溜め息をついた。  「モスクワは少しは、改善されましたが、それも、闇がはびこっていましてね。自由化も善し悪しですな」  「われわれには、悪いことばかりだ。暮らし向きは悪くなるばかりだし、軍の規律も乱れてきた。そのうえ、先日は、とんでもない事故まで起きた」  少佐は、司令官の話の向きが、都合の良いほうに変わったのを、千載一遇の機会ととらえた。  「事故ですか」  「そうだ」  酔いが回ってきたのか、司令官の口は滑らかだった。  「予想もできない、事故があったんだ。わが基地所属の潜水艦にね。君もそのことを聞きたくて、訪ねてきたのだろう」  司令官は、お見通しだった。  「ええ、まあ。それと、やはり、久し振りにご尊顔を拝したいと思いまして」  少佐は、あくまで、儀礼訪問の口実にこだわった。  「いや、いいんだ。君も、軍を解雇されてから、仕事もなかったようだし、なにか、お役に立てればうれしいよ」  「ありがとうございます。そう言っていただけければ、話は早いのですが、その原子力潜水艦の事故ですが、原因調査は終わりましたか」  「いや、まだ終わっていない。わが軍も、技術者を中心に事故調査委員会を結成して、調査しているが。まだ調査中だ」  「では、まだ、原因は分からないのですか」  「そういうことだ。まったく、不明だ。なぜ、あんな事故が起きたのか、分かっていない」  「大体の見当も着いていない?」  「こうではないかということは、いろいろ考えられる。システムの異常なのか、人災なのか、あるいは、乗組員の故意による放火も捨てられない」  「設計ミスということは」  「それもありうるかもしれない」  「もしそうなら、第二、第三の事故が、危惧されますね」  「だから、あの形の潜水艦は、すべて、基地に引き上げさせて、点検している」  「そうですか。それで、ひと安心しました。当然、西側諸国は、そのことを一番、心配していますからね」  「君を通じて、そのことは、彼らに伝わるだろうからな」  「恐れ入ります。すべて、お見通しですね」  「その件については、そんなところだ。もういいだろう。久し振りに会ったのだ。楽しく飲んで、愉快な一夜をすごそうではないか」  司令官はそうもちかけ、少佐も応じて、二人は夜が更けるまで、古き良き旧ソ連時代の赤軍の思い出話を楽しんだ。       [17]  同じウラジオストックの「インツーリスト・ホテル」で、イワン軍曹は、ロシア海軍基地の副司令官、ミハイルヴィッチと会食した。  一階のディナー・ルームに、ミハイルヴィッチを迎えたイワンは、地中海艦隊勤務以来の再会を喜び合い、予約しておいた奥のテーブルに案内した。  「久し振りだね。お元気でなにより」  イワンは精一杯の笑みをつくり、副司令官を迎えた。  「君もお元気そうで。すっかり、体の方は良くなったかね」  海軍士官学校では、同期生だったイワンが、海軍では軍艦勤務で体調を崩し、欠勤を続けて、結局、軍曹までしか出世しなかったのを、彼は良く知っていた。  「軍をやめてから、少し、療養をしましたが、いまはすっかり健康になりました。やはり、私には、軍艦乗務は向いていなかったようです」  軍曹は、答えた。  ウエイターが、スープを運んできて、テーブルに置いた。  「船の勤務は、楽しいこともあるが、大半は苦しいことの連続だからね。空母などの大きい船はいいが、潜水艦となったら、地獄だよ。一度、沈んだら、二十日も浮上しないこともある。中は狭いし、息が詰まる」  「わたしなんか、その空母もいやだった。やはり、地に足が着いていないと、不安です。夜も心配で、あまり、熟睡できませんでしたからね。わたしには、向いていなかったんです。でも、よく十五年も我慢した」  「軍にはいい所もあったからね。生活の心配はいらないし、かなり、金銭的には恵まれていた。それが、最近は、全くだだめだ」  スープが終わり、サカナ料理になった。  「こんなに旨い、鱒料理なんて、軍の給料では食べられないよ。君は、いまはなにしているの」  「仲間と会社をやっています。貿易会社ですが、市場開放政策で、そこそこには儲かっていますよ」  軍曹は、嘘をついた。  「それは、いい。時勢にあっている。いまは、軍隊なんて似合わない職業だ。わたしもなにか、金儲けの仕事をしたいもんだ」  「そういうことなら、任せてください。相談に乗りますよ」  軍曹は、水を向けた。  魚料理が終わり、肉料理になったが、それは牛肉ではなくマトンのステーキだった。 「潜水艦と言えば、最近、大事故があったようですね」  「機密になっているはずだが、よく、御存知ですな」  「そこは、情報が生命の商売ですから。基地も大変だったでしょう」  「それは、大騒動だった。なにしろ、乗組員が三人も死に、十二人が怪我をした。怪我人もみな、重症だった。その、治療だけでも大変だったよ」  「火事ですか」  「火災で火傷をしたのが大多数だったが、中には、肺炎や免疫障害で亡くなったものもいる。外傷で死んだものもいた」  「放射能の障害は出ていませんか」  「それは、聞いていない。ただ、火傷で死んだものの火傷は、ケロイドが、凄かったということだ」  ステーキが終わった。デザートのコーヒーが、来るまでの短い休息の時間に、軍曹は、直截に尋ねた。  「事故原因は、分かりましたか」  「調査委員会が、いま、報告書を纏めているが、第一次の報告書は、もうすぐ出るだろう。聞くところによれば、なにか、ミサイルの制御装置の異常が原因のようだな」  「その詳しい報告書は、手に入りませんか」  「それは、私は手に入れられるだろうが、極秘扱いだろうな。だから、外部の者には門外不出だよ」  「そこをなんとか。どのようなご希望でも叶えますから」  軍曹は、暗に賄賂を持ちかけた。  「わたしも、生活がそう楽ではない。子供はもうすぐ上級学校に進学しないといけないし、車も欲しい。家はいまは官舎だが、退役後の定住場所も欲しいしね。何かと物入りなことはたしかだ」  副司令官は乗ってきた。  「分かりました。では、その報告書を全て、コピーに取らせていただきたい。一部当たり、五千ドルではいかがでしょう」  「どうやって渡すのだね」  副司令官は、乗ってきた。  「あす、駅の前のカフェに、私がうかがいます。そこで、四時はいかがですか。そのあと一時間ほどして、報告書はお返しします」  「わかった。それで、見返りのほうは」  「報告書が本物と分かったら、現金で差し上げます」  二人の話は着いた。最後のコーヒーを、ゆっくり味わってから、ミハイルヴィッチは、イワンに別れを言い、ホテルを出ていった。 [18] ハンガリーの首府、ブダペスト。悠々たるドナウ河の流れに沿って、広がった町だ。市街地中心部のホテル「ライゼン」のコーヒー・ハウスで、中央アジアの民族衣装を纏った若い男とアングロサクソン系のブロンドの髪をした背の高い中年の女性が対面して、お茶を飲んでいた。女性は、ぴったりとしたビジネス・スーツを着て、脇の椅子にばバーバリーのロング・コートが、畳んであった。  「それで、オベリンは、どうなったの。まだ、現地で指揮を取っているのかい。それとも、脱出したの。かれとコンタクトを取れなければ、どうしようもないね」  「かれの行方は、分かりません。わたしの考えでは、地下にもぐったようです。現地にはいないと思いますね。いまごろは、黒海沿岸のアジトにでも潜んでいるのかも知れないです。ミス・エルブリヒ」  「まあ。黒海の方へ。あなたも下手な嘘をつくわね。この私に。となると、われわれの契約は、解除だね。とても大きな仕事だったけど、残念だわね」  「いや、それは、まだ。預かったお金は、返りませんよ。前金として、かなりの額をお支払いになったでしょう」  「そうね。それを無駄にしないためにも、保険として、契約は継続ということにしておくかな。いずれにせよ、ボスに相談しないといけない。オベリンが、地下に潜ったのなら、むしろ、われわれのリクエストは、やりやすくなったのではないの。ゾーリン」 「そうかもしれません。なにしろ、かれにはまだ、百人以上の使える兵隊がいる。かれらが、チームを組み、やる気になれば、簡単にできます。わたしも連絡係ではなく、実行部隊に加わりたいほどです」  「あなたも、彼も、そう長く、ここにとどまっているわけではないでしょう。とにかく、契約はまだ継続していることを、かれに伝えてください。わたしは、ボスに情勢を伝えないといけない」  「伝えます。でも、かれがここにいることが良く分かりましたね」  「当たり前よ。かれの居場所は、わたしは嗅覚で分かるの。たとえ、地球の反対側にいようともね」  ポットに入ったダージリン・ティーの最後の一杯を飲み干し、二人は、席を立った。 [19]  ワルシャワ駅に、貴族然とした紳士が降り立った。ルイヴィトンのトランクを赤帽に持たせて、プラット・ホームを悠然と歩いていった。駅構内を横切って、車寄せまでくると、男は赤帽にチップをはずみ、すっと入って来た黒塗りの大型車に滑るように乗り込んだ。車のなかには、金髪を短く刈り込んだゲルマン人の男がいた。  「久しぶりだな、ハンス。ところで、指示したトラックの手配はできたかね」  「それは、着々と進んでいます。先日は、産業省の名義で、調達情報を流しておきました。いくつかの商社が関心を示しているようです。そのなかから、一番条件がいいものを選べばいいでしょう。それは、簡単に済むと思います。政府の役人には、ちゃんと、掴ませてありますから、輸入に支障はないでしょう」  「すると、あとは、運転手だな。なるべくなら、東側の地理に明るい者がいい。そちらは大丈夫か。まあ、時間は十分あるから、じっくりと取り組んでくれ」  「わかりました。伯爵」  「それから、今回、わたしが来た用件は、例のソ連から亡命した核兵器技術者に会うためだが、そちらの方は、大丈夫だろうね」  「明日、かれの自宅を訪問する予定です。かれには郊外に瀟洒な住宅を買い与えてあります。それも、こういうときに役立つようにと考えてのことで。これまでの投資は、回収できるでしょう」  「これまでも、かれは、十分に役に立ってきた。トカレフの設計図など、中東諸国やアジアの国々に高く売れたよ。最近では、日本からも引き合いがある」  「そうですね。しかし、さすがに、核兵器の注文はなかった。時代は変わるものですね」  「何時の世も、兵器を必要とする人間は、存在するのだ。どんなに、平和が叫ばれても、戦いは人の性だからな。だからこそ、われわれの生きる余地がある。景気の善し悪しに係わらずね」  「その通りです」  そのあと、二人は、黙りこくった。  車は、繁華街を抜けて、「ワルシャワ・ホテル」に滑り込んだ。 [20]  ツベッルフコッフ少佐とイワン軍曹は、ウラジオストックの「インツーリスト・ホテル」に、戻って、その日の会見の成果を、纏めた。  「ヤコブ司令官は、基地に事故調査委員会を設置して、事故原因を調査中だと言っていた」  少佐が、話した。  「その調査委員会ですが、すでに、第一次の報告書が出来ているようです。あした、会って、見せてもらうように頼みました。それから、被害者ですが死者が三人、重症のけが人が十二人出たようです。ですから、事故原因を調査中という、司令官の言葉は、嘘ではないが、正しくもない」  「司令官は同じ型の潜水艦を全部基地に戻して、点検中だとも言っていたが」  「それも、どうか分かりませんね。彼らの言うことは、大体が、外部への宣伝と見てもいいですよ。特にわれわれのような素性の知れたものには、真実は言いませんね」  「だが、明日、入手する報告書は本物だろう」  「それは、相当の額を提示しましたから。偽物を掴ませたら、どうなるかくらいは、かれも分かっているでしょう」  「では、それに期待しようではないか。そう長くここに滞在もできないしな」  「あしたで、引き払いましょう。情報は西側へ出てから、やつらに渡さないといけない」  「そういうことにしよう」  かれらは、その日、早めに就寝した。   [21]  翌日、午後四時、イワンは、ウラジオストック駅前のカフェで、ミハイルヴィッチ副司令官と会った。副司令官は、片手に分厚い紙袋を抱えていた。  奥の暗い席に座ったイワンが、副司令官が店に入ってくるのを見つけ、手を振って、テーブルに招いた。  「昨日は、どうも。約束通り来てくれましたね」  「わたしは、約束は守る男だ。書類はここにある」  副司令官は、手に持っていた紙袋をテーブルに置いた。  「ちょっと、確かめさせてもらいます」  軍曹は置かれた書類袋を開けて、中の書類を取り出した。  書類は、ロシア語で、表紙に「原子力潜水艦事故報告書」と書かれ、内部は、状況、被害、原因などの項目からなっていた。  軍曹は一瞥し、  「間違いないようですね。お預かりします」 と言って、席を立ち、宿泊先のホテルに向かった。  副司令官は店に残って、軍曹の帰りを待つことになった。  軍曹は、ホテルには向かわず、待たせておいたタクシーで、ウラジオストック駅に向かった。車のトランクには、すでにすべての旅装が、入れてあり、そのまま、列車に乗って行くことが出来た。  駅には少佐が待っており、列車は既にホームに入線していた。  「軍曹うまく行ったかね」  「計画どおりでした。一時間後、かれは、私の帰らないのに気づくでしょう。その時は、後の祭りだ」  「まったく、わが軍の連中と来たら、疑うことを知らんのだからな」  「その通りです。この国で、諜報活動をするのは、なんとたやすいことか」  二人は、予約しておいたコンパートメントで、荷物を片付け終わると、椅子に足を投げ出し、リラックスしながら、作戦の成功を祝福し会っていた。    [22]  ワルシャワ郊外の邸宅地の一角にあるボロディン博士の家に、紳士が表れたのは、午後一時ころだった。博士は書斎で、設計図を描いていた。黒い高級車で玄関に到着した紳士は、付添いの男に導かれて、遠慮なく、家の中に入っていった。  応接間を通って、隣りの書斎に直行した紳士は、しばらく博士の仕事の様子を眺めていた。それに気がつかない博士は、黙々と設計図描きに打ち込んでいた。紳士は、痺れを切らして、  「博士」 と呼びかけた。博士はそれでもまだ、気がつかなかった。  三度目の  「博士」 との呼び掛けに、やっと顔を上げた博士は。  「やあ、君か。伯爵」 と紳士のほうに顔を向けた。白髪に顎髭を伸ばした初老の博士は、まるでレオナルド・ダ・ヴィンチのような風貌だった。しかし、年齢は五十代の半ばだった。頭脳は今が最も使い時だ。 「御無沙汰でしたね。博士」  「久し振りだ。まあ、かけたまえ」  博士は、脇の長椅子を勧めた。  「今日は、何の用事だね」  アポイントメントを取っていたことを、まるっきり、忘れたかのように、博士は尋ねた。   「いや、旧ソ連の核兵器のことで、ご相談がありまして」  「なんだね」  「実は、商談が進んでいるのです」  「商談?」  「はい、買いたいという者が表れたのです」  「買いたいといっても、物はそう簡単には手に入らないだろう」  「ですから、お知恵を拝借したいと思いまして」  「たしかにウラル地方の核基地には、依然として数千発の核弾頭が残っているが、管理は厳重なはずだ」  「そこを、なんとかならないかと」  「わたしの知恵を借りたいというのだな」  「そうです。どうしたらいいでしょう」  「安全装置さえ、掛かっていれば、物さえ運搬できれば、手に入れるのはそう難しい仕事ではないだろう。危険もそうない」  「ですから、どこの基地のどのような物を狙えばいいかということでして」  「君も、いきなり、物騒なことを言うね。それは君たちが、考えれば、いいことだろう。わたしはあくまで、アドバイザーなんだからね」  「そう言われると思い目標はだいたい決めました。基本的な計画もほぼ整いました。ただ、核兵器を取り扱った経験のある者がいない。ぜひ、博士に、この計画に加わって頂きたい」  伯爵の言葉は、博士に有無を言わせぬ、命令口調だった。  「わたしも、貴方たちには世話になっているから、厭とは言いにくいが、本当に安全な計画なんだろうね」  「いまのところ着実に、進んでいます。博士には最後の段階で、核弾頭の取り扱いを管理して頂きたい。報酬ははずみます」  「まあいいだろう。詳しい計画を聞こうじゃないか」  応接間に席を移して、二人の打ち合わせは、夕食を挟み、深夜まで続いた。    [23]  ”チャイカ”の情報は、ブタペストを通じてウィーンにもたらされた。少佐と軍曹は再び、地下に潜伏した。  ザッハ・ホテルのラウンジで、二人の男が話をしていた。面長の男と小柄な男。二人ともダーク・スーツに身を包み、いかにも、政府職員という感じだ。  「ウイリアム。遙か東方からの報せが届いたよ」  「意外に早かったですね。ゴードン」  「物は支局にある。わたしも開けてみたが、一級品だ。わたしは、ロシア語が分からないから、ワシントンに送るがね。作戦は成功だった。本部の連中も喜ぶだろう」  「わたしのほうは、まだまだです。全然、情報が入ってこない。ただ、ワルシャワでどうも不思議な動きがある。政府が発注もしていないのに、大型トラックの政府調達がある、という情報が流れた。現地の商社の連中は、戦せん恐々としている、という。でも、実際に政府が動いた形跡はない。わたしは、あのアゼルバイジャンとチェチェンからの電報と関連があるように思えてならないのですが」  「われわれは、あくまで、表で裏の活動を支えている存在だ。あまり、深入りする必要もないが、目だけは光らせておいてくれ。わたしも、注意はするつもりだ」  ゴードンは、背広の裏ポケットから、葉巻を取り出し、火を点けた。  「いずれにせよ、狙っていた物が入手出来たのは、上出来でしたな。高い報酬を払った甲斐があった。中身がどうなのか、早く知りたいものです」  「それは、ワシントンの専門家が、分析するだろう。徹底的にね。いずれにせよ、あのクジラの一件の事故原因が明らかになるはずだ。そうなれば、わが国の安全保障も一段と保たれることにもなり、ひいては、世界の平和維持にも繋がるということだ」  「だから、われわれの仕事は、意味がある」  ゴードンは、思い出したように、この同僚にも、自分の葉巻を勧めた。受け取ったウイリアムは、旨そうに吸いながら、そう自分を納得させるように呟いた。       [24]  ブダペストの下町で、住宅が密集したスラムの一角に、そのアジトあった。髭もじゃで、体格のいい赤ら顔の男が、五、六人の若い男に囲まれて椅子に座っていた。粗悪品の紙巻き煙草に火を点け、脇に立った秘書役の長身の男に、声を掛けた。  「ゾーリン、あの白人女との会見の予定は、何時だったかな」  「それは、今日の午後三時ですが」  「場所は?」  「場所? いえ、向こうの方から、連絡を寄越すということになっております」  「その連絡は来ているのかね」  「いえ、まだですが」  「わかった」  そんな、会話をしているときに、護衛の青年が、入ってきて、  「ミス・エルブリヒというおばさんがボスに会いたいと言っていますが」 と言った。  「やってきたか。中に入りなさい、と言ってくれ」  オベリンは、そう、青年に言いつけた。  部屋に入ってきた女性は、ピンクのツーピース姿で、首にブランド物のスカーフをまき、焦げ茶のサングラスを掛けていた。それが、ブロンドの髪によく似合っていた。  (まったく、しゃれたもんだぜ。西欧の女は)  オベリンは、その姿を目にして心中、呟いた。  「まあ、こちらへ掛けて」  「どうも、ありがとう」  「お元気そうですな」  「あなたこそ」  「わたしは、大変でしたよ。命からがらですからね」  「大変だったようね。でも、結局は、政府の力には叶わなかったということかな」  「いや、一時的な撤退ですよ。われわれに余力はまだ、ある」  「確かに、人と兵器はあるでしょうが、資金のほうはどうなの」  「確かに、不足気味ですな。あなたたちへの支払いは、滞っているようですね」  「それは、急がないよ。ただ、代わりにやってもらいたいことがあるのだけれど」  「いまは、一時的な休戦の時期ですから、われわれに仕事をする時間はありますよ」 「それなら話は早いわ。では、食事でもしながら、詳しい話をしましょうか」  「お聞きしましょう」  オベリンは、立ち上がった。護衛がかれに付いていこうとしたが、彼は  「きょうは、もういい。二人で行くから」 と制した。  二人は、まるで旧知の古い恋人のように、腕を組んで、寄り添いながら、町に出ていった。      [25]  ワシントン市の郊外、ラングレーの五角形の建物のなかの一室。米国国防総省情報分析室ロシア担当部のカーター部長は、いま、届けられたばかりの、ロシア語の書類を、熱心に呼んでいた。まだ、英語には翻訳されていないが、カーターは、ロシア語にも堪能だったので、概要は掴むことができた。  報告書は、「太平洋での原子力潜水艦事故報告書ー第一次」となっており、内部は目次からはじまり、「推測される原因」で終わっていた。  カーター部長は読み進んだ。  事実関係は、かれが知っていることと、ほとんど違いなかった。それは、日本から届いた情報とも一致していた。ただ、被害の程度は、分かっていなかったから、死者三人、重症者十二人とは、初耳だった。また、原子炉格納庫には被害がなく、ミサイル室の被害が甚大なのが、分かった。  (となると、ミサイルの事故だったのか)   部長は、頷いた。  (すると、問題は、さらに深刻になる)  右舷の十本のミサイルは、完全に使い物にならなくなったようで、分解・処分の勧告が、書かれていた。  (ところで、重要なのは原因だ)  部長は読み進んだ。  報告書は、書いていた、  ーー 考えられる原因には、一、乗組員の操作ミス 二、発火制御装置の異常 三、火薬の装填ミス 四、製造段階での製造ミス 五、中央コンピューター異常ーーなどが、列挙されていた。  そのなかで、報告書が最も重視していたのは、二の発火制御装置の異常だった。  一、三、四、五、は可能性が少ない、と排除されていた。  報告書は記していた。  「発火制御装置のマイクロコンピューターに欠陥品が多いことは、過去数年間、軍の内部で、問題になっていた。マイクロチップは、わが国内での製造は不可能なので、主に、西側諸国からの輸入品を使用しているが、当初は米国や日本製の製品を使っていたが、コストを考え、韓国や東南アジア諸国の製品を使うようになった。もちろん、これらの電子製品はココムの規制対象製品であるため、わが国は、非合法的にこれらを裏市場から入手してきた。そのため、欠陥品の混入する確率が高い」  (マイクロ・チップが、原因だといっている)  部長は、天井を眺めて、考え込んだ。  (それも、わがほうの諜報機関が仕組んだことなのかも知れない)  部長はCIAを信頼しておらず、むしろ世界の安全保障にとって、厄介な存在だと、常日頃から、考えていた。   [26]  東京の首相官邸で、内閣調査室などの安全保障問題検討定例会議が開かれていた。佐々木・室長が、立って報告した。  「太平洋上で起きた旧ソ連の原子力潜水艦の火災事故は、いまだ、原因が判明しておりません。もし、原子炉の異常による火災だとすれば、わが国の安全保障にとっても、由々しき問題になる。火災の第一発見者は、わが国の自衛隊機ですが、日米安全保障条約の規定に則り、得た情報はすべて、アメリカ側に渡してあります。しかし、その後、むこうからは情報がまったくはいって来ない。ですから、どのような事故だったのか、皆目、見当が付きません。また、重要な原因に付いては、向こうの情報機関が、鋭意、情報の収集中らしいですが、結果については、わが国には、一切、連絡がありません」 「わが国は、第一通報者なのに、以後は、つんぼ桟敷に置かれている、ということですか」  参会者の一人が、質問した。  「その通りです。情報を入れるように、ワシントン大使館にはせっついていますが、駄目です。わが国は、それ以上の要求はできませんから。情報収集は手詰まりということですね」  「あれほど、鮮明な現場写真を提供したのに、なんということだ」  制服の自衛隊幹部が、呻いた。  「ただ、自衛隊の電子情報収集活動によれば、あの事故以後、日本沿岸の海中からは、ロシア原子力潜水艦の姿が、見えなくなった。基地に帰って、点検中ではないか、と見られます」  「それにしても、わが国が、核攻撃の危機にさらされていることに、違いはない。米国政府に、もう少し、協力的な姿勢を取るよう要請してもいいのではないか」  そういったのは、内閣官房長官だ。  二木首相も、それに同意した。  「その件については、外交チャネルを通じて、要請していくことにする」  首相の一声で、その一件は決着が付いた。   [27]  ワルシャワでは、「政府機関」のトラック調達が、駐在各国商社に、通達された。もう秋が深まっていたが、その日は良く晴れ上がった空が、市内を覆った。  「九月二十日に、市内のワルシャワ・ホテルで、記名競争入札方式で実施する」 というものだった。  日本のM商事ワルシャワ駐在事務所の横地所長も、提携自動車メーカーのM自動車の要請を受けて、入札に参加した。  ホテルには、内外のメーカーや商社、約五十社の担当者が集まった。  提示されたのは、  ーー 二十トントラック二十台の調達 で、一台当たり五百万円として、一億円の商談だった。  横地所長は、メーカーの担当者と、夜通し連絡を取って、一台四百五十万円の「破格の」値付けで臨むことにした。  東京は、  「今後の商談の拡大のことを考えても、絶対、入札に勝つように」 と、厳しく言ってきていた。  入札の書類は、煩雑を究めたが、それらは現地採用のエキスパートが、難なく処理した。  いよいよ、開札となった。政府関係者と名乗った係員が、一社毎の入札価格をチェックしていく。それに、約三時間ほどかかった。  その間に、横地所長は、軽い食事をとった。  (この価格なら、ドイツのF社といい勝負だろう。向こうはどのくらいで出しているか。わが方の調達は、M社の欧州工場の生産品だから、ここまで、安く出来た。これが、日本からの輸入だったら、こうはいかない。勝算は五分五分といったところだな)  横地はそう考えていた。  開札結果は、その予想通りになった。  ドイツのF社は、一台四百六十万円の価格を出してきた。まさにM社の薄氷を踏む勝利となった。  入札が終了し、政府関係者に呼ばれた横地は、  「来年一月二十二日までに、全部を揃え、納品するように」 と厳命された。  横地は、承諾して、M自動車の担当者に伝えた。  入札の結果は、その夜、東京の本社に、テレックスで連絡された。  「入札に勝利した。商談は成立した」 と始まる通信文は、詳しい内容も記して、A3判五枚分にも及んだ。  東京・大手町のM商事ビルの重機械部東欧州課長、佐竹純一にも、その通信文が転送された。  (上手く行って良かった。こんな商談は、めったにないからな)  その夜、佐竹は、たったひとりで、祝杯を挙げた。    [28]  スイスのレマン湖畔の町、ジュネーブ。背の曲がった白髪の老人が、スイス・チューリヒ銀行支店の玄関の狭い眼階段を上がっていった。黒色の長い毛皮のコートを着ているのは、寒い国からやって来た証拠だ。頭には熊の毛で出来たロシア帽を被っている。 階段を上がり左側の堅牢なドアーを開けると、そこにカウンターが見えた。なかで、ロイド眼鏡を掛け、頭のはげ上がった中年の男の銀行員が、右手で眼鏡を上げて挨拶した。  老人は、背広の裏ポケットから、二枚の紙切れを取り出し、銀行員に差し出した。銀行員は、それを受け取り、一瞥して、確認のために席を立った。  しばらくして、席に戻ると、老人の方を向いて、  「支払いは、小切手の額面どおり、ドルにしますか」 と聞いた。  老人は、  「そうしてくれ」 と、ロシア訛りの英語で答えた。  銀行員は、ドル札を数えはじめた。  千ドル札で二百枚。きっちり、数えおえて、銀行員は、袋に入れた。  老人は、何食わぬ顔で、その札束入りの紙袋を受け取り、ドアーを開けて、階段を下りていった。  老人が向かったのは、スイス国鉄のジュネーブ駅である。駅の出札窓口で、  「パリ行きのTGV」 とフランス国鉄自慢の超高速特急の座席の予約をした。出札窓口から切符を受け取ると、すっと踵を返し、市街地に引き返した。  レマン湖畔のホテルの一階レストランに入った老人は、ロビーの電話で、長距離電話を申し込んだ。  「リトアニアのM市へ、国際通話をお願いしたい」  「繋がりました」  「レゾフか。金は手に入れた。あとは計画どおりに進める」  それだけで、電話は切れた。  老人は、ランチを注文し、湖面を眺めながら、ゆっくりと食事をした。  噴水が、天にも登るような高さまで、水を吹き上げていた。空は、あくまで青く晴れ上がり、青のキャンバスに、白い煙が筋を描いていた。   [29]  ワシントン市内のCIAヘッド・クオーター。その一室で、ハーンズ極東担当主任が部下の諜報部員から、報告を受けていた。  「やつらは、とうとう手に入れましたよ。例の事故の報告書ですが」  「それなら、私も持っているよ」  「えっ、どうしてですか」  「それは、言わんでおこう。われわれの組織は、制服の連中より、ずっと有能で、効率的なのだ」  「恐れ入りました。それで、いかがですか、出来は」  「まあ、こんなものだろう。第一次の報告書だからね。でも、気に入らないのは、最も考えられる原因を西側から密輸したマイコン・チップのせいにしていることだ。かれらは、管理ミスや制御ミスなどの人的な原因ではない、と言いたいのだろう。まったく大変な国だよ。あのスラブ人の国は」  「昔から、変わりませんね。あの体質は、どんな体制になっても、不変です」  「しかも、われわれの手に入れた資料では、不良だったマイコン・チップは、東南アジア諸国の生産品であるらしい。わが国のパソコン製品にも、大量に使われているではないか」  「これが明らかになったら、日米の新しい半導体戦争がまた、始まってしまう」  「そうだ、なにしろ、RAMの大半は、日本と韓国製品だ。集積度が高くなるほど高度の技術が必要とされるから、そちらは日本が優勢だが、低い集積度の製品は、アジア諸国が追い上げている。ロシア、ではない旧ソ連製のミサイルに粗悪品が使われているとしたら、今回の事故をきっかけに、それらを信頼性の高いチップに乗せ変えないといけないだろう。かれらが、それをやらなかったら、世界の安全保障のためにも、われわれがやらせないといけない。あくまで、裏からの交渉になるが、信頼性の高い製品を供給しないといけない。それには日本製を使うしかないだろう。となると、われわれが。押しつけた自主規制を破らないといけなくなる」  「そういうことです。パンタゴンの連中は、そういう粗悪品を使わせたのも、われわれの仕組んだことだ、と疑っている者もいるようです」  「それは、ありえない。やったとしても、冷戦時代の跳ね返り連中だろう。そんなことは、世界に危機をもたらすことはあっても、平和維持には何の意味もないからね」  「連中は、われわれのこの件への関与に気付いているでしょうか」  「いないだろうな。”チャイカ”が、二重スパイだなんてね」  ハーンズ主任は、窓から外を見た。今日もまた、ワシントンの夕刻は、ライトを点けた車が列をつくり、帰宅のラッシュアワーが、始まっていた。   [30]   モスクワのロシア共和国大統領官邸。別名、クレムリンの大統領執務室で、エミチャン大統領は、二人の補佐官から説明を受けていた。  いつものように、大統領は、酒を飲んでいるように顔色が赤い。が、堂々とした体躯には、威圧感があった。執務机の前に二つの小さな椅子があり、そこに補佐官二人は座っていた。  「一九九一年二月の原子力潜水艦火災事後の事故原因調査委員会の第一次報告書が、纏まりました」  「わたしは、読みたくないから、概要を聞かせてくれ」  大統領は、相変わらず、物臭だった。  「わかりました。そう、厚いものではありませんから」  「わが国にしては、早いほうだ」  「そうです。でも、第一次ですから、まだ、詳しい原因については調査中です。報告書も原因を確定したわけではありません」  「そうか。では、伺おうか」  「事実関係は、すでにお知らせしてありますから、省略します。ポイントは、原因ですが、報告書は、五つの可能性を挙げています」  「いいから、最大の問題点だけでいい」  「それは、ミサイル発射制御用のマイクロ・コンピューターの異常というものです」 「しかし、旧ソ連時代でも、マイクロ・チップは生産していないだろう」  大統領は、意外なところで博学だった。  「そうです。使っていたのは、すべて輸入品です。しかも、ココム規制品ですから、密輸品です」  「どこから、買っていたのだ」  「先進国からは、規制が厳しくて、入ってきません。ですから、インドや中東の国のダミー商社を通じて、東南アジア諸国の製品を入れていました」  大統領は考え込んだ。  (ということは、西側の軍やスパイ組織の息がかかった商社が絡んでいることもあり得るのだ。これは、由々しい事態だぞ。この一件から、わが国の防衛戦略が総崩れになることもありうる)  「事故調査委員会は、本当にそう考えているのか」  大統領は、重ねて聞いた。  「第一次の報告書では、そのようですな」  「それで、そのチップは、どのくらい使われているのだ」  「わかりません。それは、調べてみないと」  「早急に、調べて、報告してくれ」  三人の会談はその一言で終わった。 [31]  ブダペストのドナウ沿いを臨む、エスニック・レストランで、ミス・エルブリヒとオベリンは、テーブルを境に向かい合っていた。テーブルには、鱒のムニエルが、乗っていた。黒パンを齧りながら、時折、鱒をフォークで突き刺しては、オベリンは旨そうに頬張っていた。ミス・エルブリヒは、鴨のステーキを皿に乗せ、赤ワインを一口ごとに喉に流し込んでいた。  「まったく、ここの鴨ときたら、池の水を飲んでいるようね。泥臭くて、かなわないわ。ワインを飲まないと、食べられたものではないわよ」  「その点、鱒料理は、一級品だ。旨いよ」   「それは、あんたがいままで、ろくな食べ物を食べてこなかったからよ。鱒だってわたしには、食べられない」  「とかなんとか言って、かなり、平らげたじゃないか」  「そりゃあ、食べないと生きていけないからね。食べれるときは食べておくものよ」 「それは、おれの言う台詞だ。明日は食べれないかもしれない。だから、今日食べておけ、というのがおれのモットーだ」  「ところで、この計画にあんたたちは乗ってくれるかい。もう、ここまで話したのだから、厭とは言わせないけど」  「まあな。詳しい話を聞いて、本当のところは、かなり、やばい作戦だと思うよ。はっきり言って、われわれは、今は休みたいのだ。休んで鋭気を養いたい。しかし、われわれも、資金が枯渇している。休んでいるより、稼いだほうがいいかもしれない」  「それは、そうだ。あんたたちのように、戦いに長けたグループは、今の世界を見回しても、そうはいないわ。それを遊ばしておく手はないでしょう。それに、これは、戦闘ではないんだから、命の危険はそうないと思うよ。あんたらには、いい話じゃない」 「そうだな。あんたらとは、武器の調達で長い付き合いだし、武器代の支払いも待ってもらっている。武器代くらいは、出してくれるんだろうね」  「まさか。それとこれとは、話が違うの。言ってみれば、別会計ということね。ただ、支払いはキャッシュで、前金でもいいというのが条件よ」  「それは、あり難い。前金で頂こう」  「そうすることにして、手続きするけど。ということは、乗ったと言うことでいいのね」  「そう取ってもらっていい。契約書はいらない。現金を払ってくれれば、われわれは動きだす」  「よし、わかった。それでは、さっそく、ボスに連絡を取るわ。ところで、オベリン、今日はアジトに帰らなくてもいいんでしょ」   「一人で出てきたから、一人で帰ればいい」  「わかったわ。わたし、ホテルの部屋を変えてくるから。シングルからダブルにね」 オベリンは、頷いた。  二人は、そのベッドの上で、一年ぶりに愛し合った。  「あんたは本当に男のなかの男よ。その青い瞳、訴えるような唇、厚い胸、長い顎髭・・・・・。あんたに抱かれたらどんな女だって、蕩けてしまう」  「そういうあんただって、女のなかの女だね。はち切れそうな乳房と尻、長い睫毛、緑の瞳、男を飲み込む赤い唇・・・・・・」  「あんたも言うじゃない。すっかり、口も上手くなったわ。ベイルートで戦っていたころは、あんなにウブだったのに」  「第二次中東戦争のころだろう。あのころは、おれはまだ、一兵卒だった」  「そこで、わたしたちは知り合ったのね。あたしは、アリファト議長の秘書で、しかも、西側のスパイだった。あんたは、イスラエル首相の専属運転手で、ソ連のスパイだった」   「昔のことは、懐かしいが、そう触れたいものじゃないぜ。それより、楽しもう、お互いを」  「わたしはもう十分に濡れているわ。あんたに会ったときから、わたしのプッシーちゃんは、びしょびしょよ」  「おれの息子も、元気になりっぱなしだ。飯など食わずに、ホテルに直行すべきだった」  オベリンは、ミス・エルブリヒの愛撫に任せていた体を起こし、自分が上の体位に入れ換えた。ミス・エルブリヒの絹のペチコート型の下着の裾が、翻って、オベリンの下に来た。  オベリンは、彼女の足のほうから、舌を這わせた。唾液を伴った舌が、内股のほうに上がって来たとき、彼女は、  「ああっ」 と吐息を漏らした。  そのあと、オベリンは、ごつい右手で、彼女の豊満な左の乳房を鷲掴みにした。さらに、体を真正面に持ってきて、彼女の額を唇で濡らし、髪の毛から額、鼻を通って、頬から唇を攻めた。左の掌は右の乳房を掴み、彼女の胸に両手をつけた形で、唇にあてた口から、長い舌を差し入れた。彼女は呻き、その舌に自分の舌を絡ませた。  「こうして、キスをすると下まで感じてくるわ」  長い口付けのあとで、彼女は、彼の耳もとで呟いた。  オベリンの攻撃は、休みがなかった。  唇を攻略したあと、彼の唇は、首に向かい、乳房をなめつくし、腹や臍をと次々に攻略した。彼女はその度に、目を閉じ、体をくねらせた。  「そろそろ、見てみるか」  彼は、右手を、彼女の秘所に持っていき、中を探り、三本指でかき回して、責めたてた。 彼女は、もう限界だった。  「ねえ、早くして、あなたのもの欲しいの」  それでも、かれは、彼女の要求に応じず、じっくりと樹液を味わったあと、  「じゃあ、いくぜ」 と、熱く固いものを、蜜で一杯に蕩けた花弁の中に、刺し入れた。  「ううー。ああー。いいわー」  彼女のプロポーションのいい肉体が波うち、接点で、快感が爆発した。  「素晴らしいわ。ぐんぐん攻めて」  彼はリクエストに従順だった。花びらの中心の花心を激しい腰使いで、一気に攻め立てた。  荒野の激戦で鍛えた全身の筋肉が、生き生きと躍動した。腰の運動は、しなやかで、しかも、強力だった。  彼女は、彼の軍門に下り、快感を全身で貪って、登り詰めた。  彼が、放出すると、彼女は、静かに腰を引き、発射されたものを、口で受け止めて、拭い、綺麗になめ尽くした。  「ああ、おいしかった。精が付くわ」  女性にしては露骨な言いかたは、彼への親密さの現れでもあった。  ふたりはそのあと、横になって、休んだ。   彼の左腕が、彼女の枕になった。性交のあとのぐったりした疲れが、二人に心地よい睡眠をもたらした。そして、朝まで、ぐっすり、二人は、一体になって眠った。    [32]  ドイツ国鉄は、ドイツ全土に路線を張り巡らしている。ダイヤは正確で、サービも充実している。  フランクフルトから、西へ向かう特急の一等車のコンパートメントに、二人は座っていた。  二列並んだ席に向かい合った二人は、ワルシャワから、パリに向かうル・ノートルとボロディン博士だった。  「飛行機もいいが、時間がある時は、列車の旅も、楽しいですな」  髭の伯爵が、話しかけた。  「私のように、研究生活に打ち込んでいると、こういう小旅行は、恰好の息抜きになります。しかも、行き先は花のパリ。私は十年ぶりですよ」  「パリでは、私の屋敷で、ゆったりと、寛いでください。計画の実施はまだ先ですからね。それまでは、われわれの部隊の教育をしていただければ、結構です」  「久々の長期休暇ということですかね。でも、わたしは、パリでは、したいことが一杯ある。オペラ座の公演は、いまは何が掛かっていますか」  「はあ、私はそのほうは、まったく疎くて。パリに着いたら、調べさせましょう。チケットは、わたしのほうで用意しますよ」  「それは、ありがたい。それから、ルーブル美術館が、新しく改装されたようだが、そちらにも行ってみたいと、思っています」  「おやすい、御用です」  ふたりの会話は、止めどなく続いた。      [33]  翌朝、オベリンは、早くから行動を開始した。  ベッドで、ミス・エルブリヒは、眠ったままだった。  シャワーをあびて、素早く着替えると、かれは一階に下りていって、バイキング形式の朝食を採った。  一人で、コーヒーと黒パンにバター、ベーコン・エッグを選んで席に着いたオベリンは、昨夜の出来事を、慈しみ深く思い出して、反芻した。  短い時間で朝食を済ませて、部屋に帰ったが、彼女はまだ、心地よさそうに、朝の眠りを貪っていた。彼女を起こさないように、静かに、サイド・テーブルで、書き置きを書いた。  ーー 有り難う。エリー。わたしは先に出かける。計画は、すべて了解した。人の手配を急ぐことにするーー  と書いた。  オベリンは、朝の通勤客の波に紛れて、アジトヘ帰った。  アジトでは、若者たちが、早くも、出向いていて、部屋を掃除していた。  「ボス。お帰りなさい。昨晩は、異常はありませんでした」  寝ずの番をしていた青年が、敬礼しながら、オベリンに声をかけた。  「御苦労さん。君はもう寝ていいぞ。帰り際に、下の事務所に、アリが来ていたら、呼んでくれ」  オベリンの申しつけに、青年は大きな声で、「了解」と答え、下りていった。  しばらくするとアリが、大柄な体を震わせながら、姿を表した。  「おはよう、アリ。昨日はよく寝たかね」   「ええ、久し振りに。ボスが、不在でしたから、早めに寝かせてもらいました」  「それでは、頭はさえ渡っているね。早速だが、いますぐにでも、パリへ動員できる仲間のリストを作ってくれ。これから、大仕事が始まる」  「パリって、あのフランスの」  「そうだ。わたしが、請け負ってきた仕事は、パリで必要な訓練をしたあと、取りかかることになる。必要なのは、車の運転が出来、地理に明るい者だ。それに、ガンの取り扱いと格闘技に長けた連中がいいな。といっても、われわれの仲間は、そんな連中ばかりだが」  「わかりました。それは、簡単なことです。それで、何時までに」  「早急にだ。できれば、今日中にお願いしたい」  (アリは、有能な事務局長だ。こんな仕事は、あっと言う間に仕上げるだろう)  オベリンは、内心でそう思っていた。  そのあと、  「それから、ナターシャ・クラウゼヴィッツは、必ずメンバーに入れておいてくれ」と付け加えた。  アりは、  「彼女は、いま、チェチェン新しい作戦の裏工作に従事しています。帰るのは、一週間後ですが」  「それでもいいだろう。この作戦には、どうしても、彼女の力が、必要だ」  エブリンは、そう命じた。  アリは、この要求に、  「そういうことなら、わかりました」 と、有能な事務官僚らしい丁重さで応じた。  エブリンが、ナターシャを、特に、指名したのには、訳があった。  ナターシャは、まだ、若かったが、この武装軍団では唯一の爆発物の専門家だった。 (われわれの親の世代が、故郷を無理やり、離れさせられて、中央アジアに強制移住させられたとき、彼女の父親は、われわれのリーダーだった。あのとき、われわれの家族は、ユダヤ人のバビロンの捕囚に勝るとも劣らない、苦るしみを味あわさせられた。父親たちは、「いつも、あの十四年間は、死んでも忘れないだろう」と言っていたものだ。そういう、打ちひしがれた民族に、イスラムの伝統と教義に則って、誇りを取り戻させてくれたのが、ジョハル・クラウゼヴィッツ、即ち、彼女の亡き父親だった)  民族独立への、それからの、遠い道のりを、かれは思った。  (だからこそ、われわれは、戦いつづけなければならない。民族の尊厳を守るためにも)  かれは、深く決心し、  (この仕事を受けたのも、そのための、手段なのだ) と、自らに言い聞かせた。     [34]    ネフチェンコ少将が乗ったフランス国鉄自慢の超高速列車TGVは、午後五時十七分に、十分遅れでパリ南駅に到着した。  TGVの旅は快適だった。車内の食堂車でのランチは二種類のメニューから、肉料理を選んだ。スープからのコースに、満腹し、席に帰ってきてから、少将は心地よい午睡を取った。  その間も二十万ドルの入ったトランクは、体の近くから離さなかった。トランクは、パリの革製品メーカーのブランド品だったから、この列車には多くの人が、持ち込んでいる物で、誰も怪しまない品物だ。そのなかに、大金が入っているとは、誰も思わないだろうし、むしろ、これ以上の大金が詰まったトランクが、この列車には、あったかもしれない。  終着駅に到着して、老人は、最初にトランクを確かめ、右手に持って列車を降りた。歩みは、遅々としていたが、しっかりとした足取りで、老人は改札口に向かった。  そして、真っ直ぐ、ツーリスト・ガイドの黄色い標識の方に向かい、ガラス扉で仕切られた一室に入っていった。  「一泊千ドル位のホテルを紹介してもらいたい。バスつきで」  老人が、話しかけると、窓口の女性が、  「場所はどのあたりがよろしいですか」 と尋ねた。  「モンマルトルがいいね」  「それなら、沢山あります。ムーランルージュの近くでもよろしいですか」  「結構です」  受付嬢は、電話を取り、目当てのホテルに連絡した。  「では、こちらへ。地下鉄でいきますか」   「いや、タクシーで」  「では、この番地をどうぞ」  老人は、メモを受け取り、謝礼を払って、部屋を出た。  タクシー乗り場で、タクシーをひろい、運転手にメモを見せた老人は、旅の疲れを癒すように、後ろの座席にもぐり込み、じっと目を閉じた。   [35]  ワシントン、ホワイトハウスの大統領執務室で、クリキントン大統領が、二人の補佐官から説明を受けていた。  「一九九一年の二月にあった太平洋上でのロシア原子力潜水艦の火災事故ですが、あちら側の事故調査委員会が纏めた第一次調査報告書が、入手できました」  禿げ頭のジャクソン安全保障担当補佐官が、口火を切った。  「それによりますと、われわれのスパイ衛星や通信傍聴では不明だった事故原因が、列挙されています。中でも最大の可能性として、ミサイル点火装置のマイクロ・コンピューター・チップの不良が挙げられています」  「それは、どういう意味だね。もう少し、分かりやすく説明してくれたまえ。ジャック」  大統領が促した。  「それは、こういうことです」  国務担当補佐官のメイヤーが、口を挟んだ。   「旧ソ連製の核ミサイルには、東南アジア諸国製のマイコン・チップが、使用されていて、それに粗悪品があった、と言いたいのです」  「ということは、同じチップが、他の貯蔵されている核ミサイルにも使用されているということか」  「まあ、そういうことですね」  「それは、大変な事態ではないか。おなじような事故がまた。起こりうるということだろう」  「そうです。ただ、あの事故が、自然発生的に起きたのか、人為的な事故なのかは、報告書は曖昧にしています」  「冷戦が終わってから、ロシアには、核ミサイルを使う意思はないと、見ていいと思うが、その意思に関わらず、ミサイルが発射される可能性がある、ということではないか」  「そういうことです、最悪の場合は」  「チップの取り替えか、取り外しが必要だな」  「ロシアにその余裕は、経済的にも、人的にもありません」  「しかし、そのチップが、自然に動作して、あのような事故を引き起こすとしたら、さらに、延焼して、ミサイルの誤発射もありうるではないか」  「そこまでは、予想も出来ませんが、核弾頭が誤って爆発する事態は考えられる、と専門家は言っています」  「ところで、メイヤー、君のほうの情報のほうが、正確だな」  「わたしのほうの情報は、複数から入っていますから」  ジャクソン補佐官が、苦虫を噛みつぶした。   「となると、いまや、ロシアの核弾頭は、海でも、陸でも、管理が不十分なうえ、誤爆発の危険性を抱えて存在しているということだ」  「ただ、その問題のチップが、どのくらい使われているのか。それが、分かりませんと、危険度は計れません」  「早急に、調べてくれ」  「かなり、難しい仕事になりますね。調べている間に、危険性が消滅するわけでもないし」  「場合によっては、わが国の援助が必要となるかもしれない。エミチャン大統領は、知っているのだろうな」  「それは、報告書が出たくらいですから」   「向こうが、援助を要請してきた場合の対応も考えておかないといかんだろう」  「そうですね。やっておきましょう」  「事態は、そう簡単ではないようだ」  クリキントン大統領は、執務室を出ていった。難しい問題が起きたときの大統領の恒例の行動だったから、二人の補佐官も納得した。   それは、何のためかというと、別室にいるファースト・レディー、フアリー夫人に相談するためである。   [36]    ウィーンの秋は、物悲しい。街路樹の銀杏が、枯れ葉を道にまき散らし、市電がそれを巻き上げていく。  また、ザッハ・ホテルのティー・ルームで、二人の男が話していた。  今日は、ダージリン・ティーと、ホテルの自慢のケーキ、ザッハ・ケーキの定番メニューが、テーブルに乗っていた。  「いよいよ、寒くなってきましたね。冬に近付いている。ウイリアム」  「季節は、確実に変わっていくな。本当に正確だ。ゴードン」  「それで、結局は、大統領はあの報告書には、完全に満足しなかったようですな」  「そうだ、わがほうにも、そういう情報が入ってきている。それで、君のほうは、何か指示があったかね」  「ありしたよ。あのチップを使っている核ミサイルの数と種類を調べろ、というのです」  「わがほうも、まったく同じ内容だ。こうして、わが国は無駄な諜報予算を使っている」  「それが、伝統的なやりかたなんですよ。複数の情報が一致すれば、信頼性は増す、というのが、わが国の情報機関を支配している、伝統的情報理論なのです。その最初の情報源がたとえ、同一であってもですよ」  「まったく、机に座っているやつらの考えることは、その程度だ。現場の実情を理解していない」  「われわれだって、少ない人員で、山ほど仕事を抱えているんですから、仕事は、合理的にやりたいですからね」  「それで、得をするのは、われわれが雇った諜報員だな。かれらは、全くのダブル・インカムだよ。二重に手数料を貰っている」  「仕方がないでしょうね。予算は使わなければ、付かないのだから」  「それで、どうするか」  「わたしには、ちょっと、その点では、コネがあります。ソ連からの亡命科学者ですが。確か、ワルシャワにいたはずだが。連絡をしてみますよ」  「そうか、では、その線から当たってみよう。それで、だめなら、また”チャイカ”に御足労願うしかないだろう」  「そうですね。さっそく、ワルシャワにうちの部員を送ってみましょう。それとも、わたしが出向いてもいいが」  「君が行ったほうがいいだろうな。それだけの価値はあると思うよ。その亡命科学者は」  「そうですか。じゃあ、わたしが当たります」  ふたりは、ポットのお茶を飲み干し、席を立った。   [37]  パリ北駅にフランクフルトからの国際特急が到着した。  長身の髭の紳士と白髪の初老の男が、一等車から降りてきた。プラット・ホームでは三人の若い屈強の男が待っていて、二人のスーツ・ケースを受け取った。  二人は、男たちに回りを取り囲まれ、護衛されながら、駅構内を横切り、玄関口に出た。そこには、黒塗りのリムジンが待っていて、二人は、運転手が開けた後部座席のドアーから、車内に乗り込んだ。  「やっと、着きましたね。博士」  「ああいい旅だった。やっと来たね、パリへ」  「私の屋敷まで、あと少しですから」  「こうして、パリの町をドライブするのは、久し振りだな」  「パリ市内より、わたしの屋敷のほうが、寛げますよ」  「そうか、ありがたいことだ」  「では、到着の祝いに」  伯爵は、座席の脇のクーラー・ボックスから、冷えたシャンペンを取り出し、グラスに注いだ。  「では、乾杯」  「乾杯」  博士は、一杯で眠くなった。市街地をろくに見ないうちに、博士はいびきをかいて寝てしまった。    [38]  ネフチェンコ少将は、モンマルトルのプチ・ホテルにチェックインした。部屋は三階建ての最上階のペントハウスで、部屋の真ん中に大きなベッドが、横たわっていた。バスは綺麗な大理石製で、洗面台も綺麗に掃除されていた。  「うん、なかなか、よろしい」  少将は満足した。  荷物を、クローゼットに入れると、さっそく、部屋の電話で国際電話を申し込んだ。先方は、リトアニアのM市。ダイヤル通話は通じない。交換手経由の国際電話だ。  二十分ほど待つと、相手が出た。  「パリに到着した。もう、みんな、そちらは引き払ったほうがいいな。レゾフ。それから、イワン軍曹とツベルクホフ少佐は、まだ、戻っていないだろう。彼らには、例の連絡先にメモを残して起きたまえ。それで、君とハンスだけで、こちらに向かってほしい。こちらに付いたら、ここの電話番号に電話してくれ」 と言って、ホテルの電話番号を教えた。  「一週間もすれば、そちらは引き払えるだろう。もし連絡が付かなかったら、来週の木曜日に、サン・クレール寺院で会おう」  老人は、それだけ言って、電話を切った。    [39]    ブタペストで、オベリンの有能な事務官、アリは動員すべき隊員の名簿を、完成させた。オベリンは、彼らへの手配を全て、彼に任せた。隊員は予定通り、五十人。彼らを、三々五々、パリに向かわせる。  (まず、わたしが先頭で乗り込むことにしよう。ミス・エルブリヒと一緒に、少し洒落た旅になりそうだ)  オベリンは、出発することにした。ホテルでミス・エリブリヒを待った。  ロビーに現れた彼女は、また、違った服装をしていた。まるで、アフリカのサハラ砂漠を探検するような姿で、丸縁の帽子を被っていた。靴はロング・ブーツで、ゆったりとしたズボンの上に、幅広のベルトを付け、さっそうと現れた。  「お待たせ。ボスと連絡を取って、条件を言ったら、全てオーケーになったから、予定通りね」  「驚いたぜ。その姿には。まるで、猛獣狩りに行くようだな」  「もう、着る服がなくなったの。わたしは、洗濯をしないからね。それに、このホテルじゃ、ランドリーにも出したくないしね。高級品もずたずざにされてしまう」  「それにしても、この国では目立つな」  「どうせ、タクシーを呼んで、駅まで行ってしまえばいいんだから。あとは、オリエント急行で、パリへ一直線よ」  「まったく大胆だぜ。お前は」  「楽しい旅にしましょう。もう、この国には、飽きたわ。食べ物も人間にも飽き飽きした。一刻でも早く、離れたいわよ」  「では、そうしよう。おれも、一刻も早く、とんずらしたい。そろそろ、ロシアの追手が、迫って来そうだから」  「そろそろね。ロシア軍は、チェチェン独立派の逃走した者を、しらみ潰しで洗っているらしいからね。あんたが、その追跡の最大のターゲットよ」  二人は、恋人同士の旅人のように装って、ホテルをチェックアウトし、タクシーで、ブタぺスト駅に向かい、イスタンブール発のオリエント急行の一等車のコンパートメントに乗り込んだ。   第三部 エグゼキューション(実行)    [40]  ウイリアム・マッコレーは、ワルシャワの郊外まで、車で来た。ウィーンを出て、丸三日耐え、ドイツのアウトバーンを通り、BMWを一人で運転してきた。ポーランドに入ると、急に道が悪くなって、ドイツ国境からは、丸一日がかりだった。  それでも、ウィーンでの事務所生活よりは、気が晴れた。なにより、かれは、車の運転が好きだった、気儘な一人旅も、性に会っていた。  (こんな機会が、一年に二回もあれば、今の仕事は言うことがない)  二泊は、モーテル泊まりだったが、ドイツのモーテルはどこもこざっぱりして、気持ちがよかった。接客の態度も設備も申し分がなかった。  だから、二泊はすべて、ドイツで過ごし、三日目の朝にポーランドに入る計画を立てて、実際その計画通りに、車は進んでいた。  ポーランドは、復興の足音が、ひたひたと忍び寄ってきて、経済改革は順調に進んでいるように見えた。いまや、先進国に着実にキャッチ・アップを始めていた。  人々の表情は、みな明るく、労働の喜びを享受しているのが、よくわかった。  「この国は、危機を乗り越えたな。国民の富は、順調に増大しているようだ」  そんな感想を抱きながら、ウイリアムは、市街を抜け、郊外へと車を進めていった。 地図を頼りの旅である。手にした、ポーランドの道路地図は、ウィーンの支局にあったものをコピーしてきた。そのなかの、ワルシャワ市の郊外の一点に赤い印が付けてある。それが、かれが訪ねていくべき、ソ連の亡命核物理学者で、兵器専門家のボロディン博士の別荘の場所だった。  車は、落ちついた邸宅地に入っていった。木立の中に、ぽつりぽつりと家が建っている。一軒ずつの屋敷は広く、裏庭には、広くシラカバ林が広がっていた。  ウイリアムは、玄関の表札と番地票を頼りに、博士の家を探した。  すると、ガラス張りのサンルームを持つ、博士の別荘が、車のフロントグラスに見えてきた。ウイリアムは、車を降り、門に近づいた。開いていた門を通り、玄関まで行って、ベルを押した。  中から、腰を曲げた老人が出てきた。  「すみません。ボロディン博士ですか」  ウイリアムは、博士に面識がなかった。  「いや、先生は、不在だ」  「は、いつごろおかえりになりますか」  「それは、わからん。帰ってくるの、そうとう、遅くなるのではないかな」  「どちらまで、行かれたのですか」  「パリと言っていた」  「それで、パリの連絡先はわかりますか」  「住所は分からんが、万一のことを考えて、電話番号だけは置いていった」  「教えて頂きますか」  「ところで、あなたは、どなたですか」  「むかし、研究所でお世話になったものです。わたしもパリに行く途中、懐かしくなって、連絡もせずに、来てしまいました」  ウイリアムの真面目そうな、風体が、効果を発揮した。  「ちょっと待ってくださいよ。いま、中で調べてくるから」  老人は室内へ姿を消した。そして、電話番号帳を手にして戻ってくると、博士のパリの滞在先の電話番号を、丁寧に教えてくれた。  「そうもありがとう」  「わざわざ、遠くから御苦労さん」  ねぎらいの言葉に送られて、ウイリアムは、屋敷を辞去した。  (無駄足に終わったが、連絡先だけでも分かってよかった)  仕事を一つ終えた、安堵感を胸にしながら、ウイリアムの心は、大好きなドライブに戻っていた。  かれは、やって来たアウトバーンを、そのまま引き返し、三日後、ウィーンに帰着した。   [41]  富士山の麓、山梨県・上九一色村で、教団の施設の建設が、着々と進んでいた。  教祖の朝原昭湖は、幹部を集めて、緊急会議を開いていた。  「われわれの計画は確実に進んでいる。ロシアからのヘリコプターは、もう到着している。科学兵器や生物兵器の開発も、手応えが十分ある。世界最終戦争に向けて、われわれの教団の生き残り策は、順調に進んでいる。これも、みな、君たちのお陰だ。君たちの修行のお陰だ。二〇〇〇年には、必ず、ハルマゲドンが起きる。それまでに、数々の攻撃が、われわれに加えられるであろう。われわれ、それでも生き残る。そのための供えを十分にしておこう」  白いシーツが被せられた深々とした特製の椅子に座った教祖は、そう、訴えた。  脇に立っていた中年の男が、それを受けた。  「わたしとここにいるウッパラバンナー正大師、上城君がロシアで探った情報は、間違っていなかった。ウクライナには、使われなくなった核兵器が千発以上、眠っている。われわれは、それを手に入れることにした。しかし、管理が厳重で、そう容易ではないから、われわれは、プロに入手を依頼した。それには、大金が掛かるが、プロの彼らなら、不可能ではない、と思う。核弾道弾を手に入れたら、教祖の教えは、われわれのものとなる。大いに期待してくれて結構だ」  参会者から、拍手が起こった。  また、饒舌な教祖が、話しだした。  「君たちは、わが教団でも、屈指の指導者たちだ。数次の難行の修行を経験し、信仰は厚い。君たちこそ、わが国の将来と、人類の未来を担わなくてはならない人材だ。これからの作戦には、信者の先頭に立って、それぞれの役割を果たしてほしい。われわれの計画は、着々と進行している」  そのあと、生物兵器と化学兵器の開発担当者から、開発の進捗状況が、報告された。それによると、化学兵器のソマンやサリンは、実験室段階での生産が終わり、次は大規模生産プラントの着工が予定されていた。生物兵器は、扱いが難しく、開発は難航していた。「細菌の管理が、困難です」とわが国の最難関大学の医学部を出た、開発担当者が、訴えた。  「しっかりやってほしい。すべては、人類を救うための修行なのだから」  教祖は、激励した。  続いて、最初に、教祖を受けた中年の男が、また、話し始めた。  「化学兵器の製造プラントは、設計図が、出来上がり、わたしの建設省で、資材を調達のうえ、近く着工します。完成は来年、夏ころの予定です。これが完成すると、東京都の全人口を、始末できるだけのサリンやソマンが、製造できるようになる」  「十分な量だ」  教祖が、繋いだ。  「十分過ぎる量だ」  建設担当の先程の幹部が、呟いた。  「それに、ソ連の核ミサイルが、加われば、武器は完璧だ」  教祖が、繰り返した。  「そうだ、武器は完璧になる」  幹部が、引き受けた。  「そして、われわれは、生き残る」  教祖が、大声を上げた。  「われわれは生き残る」  残りの参会者が唱和した。  その、繰り返しのなかで、幹部の信者らは、無我の境に陥り、恍惚として、われを忘れて行った。   [42]    木曜日に、ネフチェンコ少将は、サン・クレール寺院の階段の前のベンチに腰を掛けて、パリの市街地を眺めていた。裏側に回ると、似顔絵描きの画家の卵たちが、まとわりついて、うるさいが、こちら側は、いつも、落ちついた公園の趣を呈している。  老人は、正午ころにここに来て、もう二時間も、ベンチに座っていた。  手にした「ル・モンド」紙の写真を眺めては、また、市街地を望むという動作を、何度も繰り返していた。老人は、フランス語が、すこし分かった。それは、陸軍士官学校の初級課程で、第二外国語に選択したことがあるからだ。  二時頃になって、老人は、坂の途中のサンドイッチ屋で買ってきたフランス・パンに生ハムを挟んだサンドイッチと紙コップ入りのカフェ・オレのランチを食べた。  それが、終わるころ、二人の男が、老人を見つけて、近寄ってきた。  一人は、中近東系の肌が褐色の男で、背が高く、顔中に髭を蓄えていた。もう一人は中肉中背でいかつい顔をしており、金縁の眼鏡を掛け、頭の真中くらいまで、禿げ上がっていた。目はややつり上がり気味で、精悍だった。  「おお、来たか。ハンスとレゾフ」  老人が、歩み寄り、二人に声を掛けた。  「少将、お久し振りです」  三人は、手を取り合って、再会を喜んだ。  「作戦は、大成功だったな」  「お陰で、上手く行きました」  「分け前は、ホテルにある。安心したまえ」  「それより、少佐と軍曹は」  「まだ、連絡が付かない。わしの連絡先は、置いてきただろう」  「はい、そろそろ、連絡があってもいい頃です」  「そうだな」  「まあ、いい、待とうではないか。今日は、再会祝いに、うまいものでも食べにいこう」  三人は、老人を先頭に、丘を下り、モンマルトルの町に、数あるフランスの家庭料理のレストランを探して、歩き始めた。   [43]  外務省の電文室。ワシントンの在米国大使館からの、暗号電文が、入電した。隣りの解読室で、コンピューターが、解読を始めた。  ーー 電文35 当地の米国通商関係筋の情報によると、米国大統領周辺は、日本産のICチップの購入拡大に向け、検討を始めた模様。日米半導体交渉では、わが国は大幅な譲歩を余儀なくされ、輸出額に厳しい総額規制を掛かられたが、その枠外の購入計画を、米国政府は検討を始めた模様ーー  ごく短い電文が、あっというまに、プリンターに吐きだされた。  その電文は、他の電文と一緒に、外務省欧亜課長の山中操のもとにも回ってきた。  その電文を呼んだ、山中は、不審な感じに襲われた。  (これは、いったいどういうことだ。あれほど、丁々発止やり合って、まとめた交渉を、向こうから、勝手に破ろうというのだろうか。それは、わが国には、願ってもないことではあるのだが)  ワシントンでの、厳しい交渉の経過が、脳裏を走った。日本は、圧倒的に押しまくられ、ぎりぎりの譲歩を迫られたうえ、交渉時間切れになりそうになって、「両国の友好関係を維持するため」という大義名分で纏めたのが、この時の通商交渉だった。  だから、山中は、疲れ切って、東京に帰った。そのとき、わが家がどれほど、恋しかったことか。自宅の風呂に入って旨い白飯を食べ、山中はやっと息を付いたのだった。  (あれほどの、厳しい交渉の末、まとめあげた合意を、米国は一方的に破棄しようというのだろうか)  山中の頭は、混乱した。そして、詳しい内容を知るべく、ワシントンの大使館を専用電話に呼び出そうと、電話機に手を掛けた。     [44]  ワシントンのホワイトハウスの大統領補佐官室で、ジャックソン安全保障担当補佐官は、二日酔いの頭を抱えながら、前夜の盛大なパーティーのことを思い出していた。  それは、米国に進出した日系企業の五周年記念パーティーで、ニューヨークのプラザホテルの宴会場を借り切って催された。  ジャクソン補佐官は、大統領の祝辞を代読するために、招かれた。  参会者は千人以上で、政・官・財界の主だった指導者や、芸能界からも歌手やタレントが、多数招かれていた。  ジャクソン補佐官は、祝辞の代読を終えたあと、パーティーの席で、顔を知らない人を紹介されたりし、その度に酒を次がれて、カクテルをしこたま飲まされた。酒は、嫌いではないから、次から次へと注がれる酒を、こなしていったが、激務の疲れも加わって、段々、意識が消失し、気がついたときには、大統領専用機の中にいた。  そういえば、背の低い、顔の黄色い人たちが、集まってきては、最近の国際情勢に付いて、質問を浴びせたように思うが、どう答えたかは、よく思い出せなかった。  なかには、数年前にあったソ連の原子力潜水艦の火災事故で日本の自衛隊の活躍を自慢げに言う人がいたような記憶があった。  その日本人は、  「あの原因は何だったのですか」 と聞いたように思う。  そのあと、何と答えたかは、朦朧とした頭のなかで、記憶が喪失していた。  とにかく、頭痛と吐き気がひどく、  「あの酒には、何か薬が入っていたのでは」 と疑ったほどだ。  頭痛止めの薬を飲んで、どうにか執務室に入ったが、仕事にはならなかった。  「今日は、開店休業にしよう」  女性の秘書に声を掛けて、ジャクソン補佐官は、早引けした。ちょうど、その日は金曜日だったので、週末は家でゆっくり休むことができそうだ、と安心して、帰宅した。     [45]  イスタンブール発のオリエント急行が、パリ北駅に入ってきた。  一等車のコンパートメントで、ミス・エルブリヒは、着替えを終えた。  それまで、この室内では、シャネルの名前が入ったティー・シャツとショート・パンツ姿だったのを、乗ってきたときのサファリ・ルックに着替えたのだ。  同行のオベリンは、ただ、上着を羽織っただけだった。かれは、乗ってきたときのままの恰好で、車内で過ごしていた。  途中、個室に頼んだのは、飲み物だけだったから、室内は、汚れていなかった。  棚からトランクを降ろして、降車準備は整った。  コンパート・メントには、二人だけだったから、前日の夜は、存分に二人だけの列車内の夜を楽しんだ。列車が揺れるに連れ、体が浮き沈みするのが、新しい喜びの発見に繋がり、二人はその行為を堪能した。  その疲れは、心地よく、二人とも、気分は爽快だった。体が、軽く、軽快に動いた。 「さあ、着いたぞ。エミーよ、これが、パリの駅だ」  「なに言ってるの。忙しくなるわよ。心しておきなさい」  「暫くは、君とのセックスもお預けだな」  「そうなるといいわね」  「暇を見て、しよう」  「そんな、暇なんてないでしょうね」  「せれが、仕事というものさ」  「ボスはきびしいわよ。失敗を許さないから」  「願ったりだ」  短い会話を交わしながら、二人はプラット・ホームに降り立った。  赤帽に荷物を持たせて、車寄せまで出た。そしてやって来たタクシーに乗り込んだ。 「ランブイエまで」  ミス・エルブリヒが言うと、運転手は、嬉しそうに、  「ウイ」 と請け負った。遠距離の上客だった。    [46]  ウィーンに戻ったウイリアム・マッコレーは、ワシントンの本部に経過を連絡した。ワシントンから返令は、来なかった。ただ、「その件は、鋭意、調査を続行せよ」と言ってきただけだった。  ウイリアムは、考えた。  (これも、旧ソ連にからむ問題だ。やはり、”チャイカ”を使うのが、一番効率が、よさそうだな)  そう考えて、調査依頼の暗号文の作成に取り掛かった。  経緯を説明し、依頼の趣旨を記した。そして、秘密の連絡場所へ、発信した。  それは、リトアニアの北海沿岸の港町で、そこにかれらのアジトがあるはずだった。  (これで、あとは、待てばいいのだ。それが、この稼業の、素晴らしいところだ)  ウイリアムは、心中で、呟いた。  条件は、調査費用に「三十万ドル」を弾んだ。期間は、「早急に」とした。情報の受渡し方法は、「何時もの通り」だった。  (あとは、寝ていても、彼らは仕事をしてくる。有能なやつらだからな)  かれは、そういう立場の自分が、誇らしくもあり、自慢でもあった。  (そのすべてが、おれの業績になる)  そう考えると、楽しくなった。  (今晩は、久し振りに、コンサートに行こう)  机の引き出しから、国立オペラ劇場のチケットを取り出すと、電話機に手を掛け、自宅の電話番号に電話した。妻が、すぐに電話に出た。  「では、夕方の六時に、入口で」  その夕、彼らは、モーツアルトの「セビリア理髪師」と「ドン・ジョバンニ」を観てこの音楽の都の秋の夕べを堪能した。    [47」  リトアニアの港町、M市にツベルフコッフ少佐とイワン軍曹が、帰ってきた。  「長い旅だったね。イワン」  「そうだ。くたびれ果てたよ」  「だが、仕事は仕上げたのだから、やれやれだ」  二人はもう使われていない倉庫の扉を開けた。  事務室のようになった衝立で仕切られた一角には、人の気配は全く無かった。うそ寒い空気が、狭い空間を支配し、窓から、斜めに光線が差していた。  その部屋の机の上に、一枚のメモがあるのを、見つけたのは、先に部屋に入った軍曹だった。  「みんな、パリに行く、と書いてある。この数字は電話番号だろう」  「そうだな。少将以下、パリで配当を山分けということだろう」  「われわれも、パリに向かわないと」  「まあ、帰ってきたばかりだ。ゆっくりしよう。そういえば、連絡箱には、何も入っていなかったかな」  「見てくるのを忘れた。あとで行ってみよう」  「ここで、少し休んで、船でパリへ向かおう。そのまえに、あの場所で連絡箱を見てみよう」  二人は、この事務所の壁際の二段ベッドで、仮眠した。  それから、町に出て、ある雑貨屋に立ち寄り、主人に声を掛けると、主人は家の中に入って、出てきた。主人が持ってきた手紙を受け取って、船着場のほうへ向かった。  船の乗船券売り場で、アムテルダム行きの一等客室券を買うと、時間待ちのため、二階の食堂に上がっていった。  食堂では、鮭料理を頼んだ。食後のコーヒーになって、少佐が持ってきた封筒を開けた。そこには、アルファベットが、羅列されていた。  少佐は、  「また、仕事がきたよ。乱数表は持っているかい」 と軍曹に聞いた。  軍曹は。  「いや、持っていない。預けてきた荷物のなかだな」 と素っ気なく答えた。  「では、船内での楽しみにしよう」  二人は、小荷物預りから、荷物を受け取ると、軍曹が、バッグの中を探って、乱数表を取り出した。そして、出船時刻の十分前に船に乗り込み、個室に入った。  少佐は、直ちに、暗号の解読に取りかかった。  三十分ほどして、解読を終えた少佐は、  「やはり、新しい仕事の依頼だった。今度は、ソ連の亡命核物理学者のボロディン博士の行方を突き止め、例の欠陥核ミサイルの数を調べてくれ、と書いてある。博士の滞在先の電話番号も書いてあるが、どうも、これは、パリ郊外のようだな」  「それは、ちょうど良かった。われわれには、まさに好都合だな」  「その通り、やっと、ツキが回って来たぞ」  「ハラショー、KGBですよ」  「あまり、大きな声でいうな」  船は、スウェーデンの沖きあいに近づいていた。   [48]  パリ郊外のランブイエにあるル・ノートル伯爵の屋敷は、広大な敷地の中にあった。正面ゲートから、邸宅の玄関まで、約一・五キロの道が続く。その右手には、大きな池が広がり、鴨や白鳥が湖面で遊んでいた。池の反対側は、広大な牧場だった。緑の絨毯がはるか地平線の彼方まで、広がっている。遠くに鬱蒼とした森が見えた。  伯爵は、その森で、狩りをする。そのために使う馬の飼われている厩が、屋敷の裏庭に設けられていた。  邸宅は十六世紀の野城を改装したもので、外観は、石造りで、堂々としていた。しかし、内部は、現代のテクノロジーが詰め込まれ、エレベーターや空調システムは、集中管理室のコンピューターが、コントロールしていた。しかも、部屋の内装は十九世紀のアール・デコ調の曲線を大胆に使ったデザインで、中にいる人たちを寛がせた。  ここにも、古い伝統を重んじながら、現代の最先端技術を取り入れていくフランス人の先端的性格が、強く反映されていた。  シトロエンのタクシーが、正面ゲートを潜って、玄関を目指していた。  二階の書斎の窓から、その様子を見ていた、伯爵は、執事に合図して、玄関に迎えに出させた。タクシーは、道を右に曲がって、玄関のアプローチに入り、アルコーブの正規の停車位置に停車した。  車の後部座席のドアーが開き、ミス・エルブリヒとオベリンが、降り立った。二人は降りた瞬間、空を見上げた。そこには、秋の抜けるような青空が広がり、太陽が、輝いていた。視線を建物の二階に移すと、そこに伯爵の姿があった。ミス・エルブリヒは、無邪気に右手を振った。伯爵は、何の反応も示さず、じっと立ち尽くしていた。  執事に導かれて、屋内に入った二人は、直ちに、二階のサロンに案内され、主の現れるのを待った。  しばらくすると、ル・ノートル伯爵は、長身に髭を蓄えた見慣れた姿でサロンに入ってきた。  「ごくろうさんだったな。ミス」  最初に挨拶したのは、女性の方へだった。それは、マナーにかなったものだった。  「お久しぶり。ボス。お元気そうでなによりです」  「わたしをこの家でまで、ボスと呼ぶのは、彼女だけですな」  伯爵は、男の方を振り向いて、言った。  「こちらが、ミスター・オベリン。やっと、やって来てくれました」  ミス・エルブリヒが、紹介した。  「初めまして」  「よろしく」  二人の男は、強く右手を握りあった。  「今日のところは、ゆっくりお休みになって。急ぐ仕事ではないですから。それから、一緒に夕食をしましょう。ミス・エルブリヒは、荷物を置いてから、わたしの書斎に来てください」  伯爵は、執事に二人を部屋に案内するように、言い付けて、出ていった。  執事は、三階のゲスト・ルームに二人を案内した。  それぞれに、個室が用意され、二人は、少し失望した。  南側角の女性の部屋の入口で、  「じゃあね」 と目配せして、彼女は、部屋に入った。オベリンには、その部屋から、反対側の角部屋が、用意された。オベリンは、部屋に入ると、豪華な絹のベッドに倒れ込み、そのまま眠った。  ミス・エルブリヒは、部屋に入るとすぐ、シャワーを浴びた。一刻も早くサファリ・ルックのきつい洋服を脱ぎ捨てたい気分だった。上着をはぎ取るように脱ぎ捨て、下着をむしり取るように、外すと、真っ裸になって、シャワールームに直行した。  シャワーの湯温は、ちょうどよく調整されていて、適温まで待っている必要はなかった。彼女は、まず、右手にシャワーの把手を持って、胸の当たりから、流した。そして、肩から、腹部へとお湯を注ぎ、足元から太股へと上がっていった。  一番、微妙な部分は最後にしたが、それは、期待感があったからだ。そこへ圧力の強い湯を注ぐと、痺れるような快感が全身を貫くのを、彼女は、十代から知っていた。  長い旅の疲れも加わって、彼女は、かなり、興奮状態だった。静かに、その部分へシャワーの口を持っていき、感じやすい部分に水流が、当たったとき。彼女は、思わず、 「あー」 とため息を漏らした。  そのあと、ボディー・シャンプーで、全身を洗った。素敵な気分だった。そして、バスに湯を張り、バス・タブに体を静めて、寛いだ。洗髪はしなかった、それは寝る前の仕事と彼女は、決めていた。  (伯爵の前に行くには、どの香水にしようか)  そう考えてみたが、選択は不要だ、と気が付いた。  (そうだ、伯爵は、マダム・ミツコがお気に入りだったんだ)  体を拭きながら、バス・ルームを出た。  クローゼットには、多くの種類のイブニング・ドレスが用意されていた。彼女は、胸の大きく開いた黄色のドレスを迷わず選ぶと、ノーブラのまま、袖を通した。パンティーも履かなかった。香水をつけて、たった一枚の黄色の布のドレスに、身をくるんで、伯爵の待つ書斎へ向かった。  三階から二階へ階段を降りて、書斎のドアーの前で、彼女は、少し乱れたドレスの前を直し、ソアーをノックした。  なかから  「どうぞ」 との声が、掛かるのに合わせて、彼女は、ドアーを開けて、部屋のなかに入った。  窓側にこちらを向いて、置いてある大きなマホガニーの両袖机の後ろで、ル・ノートル伯爵は、パイプを口に加えて書類を読んでいたが、彼女が入っていくと、顔を上げ、 「よく帰ってきた。ミス・マリー・エルブリヒ・フォン・ハウザー」 と迎えた。彼女は、  「久し振りです。ミスター・カール・レオノール・ル・ノートル伯爵」 よ答えた。  再会の最初の、挨拶では、正式は名前をフル・ネームで呼び会うのが、上流社会のしきたりだ。二人は、それに習っていた。  椅子を立って、彼女の再会の接吻に応えた伯爵は、彼女の胸元に、顔を近づけ、全身から香り立つ、芳香を吸い込んだ。  「おお、すばらしい香りだ、わたしはこの香りが、帰ってくるのを、それほど待ち望んだことか」  恍惚の表情をしながら、伯爵は、彼女を両腕で抱き抱えた。  部屋のなかに、伯爵好みのパイプ・タバコの銘柄、「アンフォーラ・ブラック」のシェリー酒の香りと、マダム・ミツコの香水の香りが、充満し、香りの饗宴が出現した。 彼女から離れた伯爵は、二、三歩後ずさりして、彼女の立ち姿に見入った。  「素敵だ。そのドレスを選ぶとは。君もわたしの好みを忘れなかったね」  「もちろんですわ。伯爵の好みの色は、黒と黄色。忘れはしません」  「そうだ。この二色は、わが家の紋章の色だ。ということは、われわれの軍団のマークでもある黒と黄色の縞模様の色なのだ」  「わかっておりますわ」  ミス・エルブリヒは、得意そうに、うなづいた。  「ところで、計画は、完璧だよ。喜んでくれ」  伯爵は話題を、仕事に戻した。  「十分に検討したが、これで大丈夫だ」  「それは、良かったですわ」  「あとは、この計画に基づいて、訓練あるのみだな」  「もうすぐ、エブリンの軍団が、到着します」  「それまで、しばしの休息を楽しもう」  伯爵は、彼女にウインクしてみせ、壁のサイド・ボードから、グラスを取り出して、彼女に渡した、  「なにがいい」  「そうね、今日は、ブラディー・マリーでもいただこうかしら」   伯爵は、酒のボトルの並んだ棚から、ウオッカを取り出し、冷蔵庫から、トマト・ジュースを出して、慣れた手付きで、注文のカクテルを作った。伯爵自身は、ジンに炭酸水をいれたジン・フィッズをシェイカーで作って、グラスに注いだ。  「きみも、激しい酒を飲むね」  「だって、これは、わたしの銘柄よ。血塗られたマリー。それは、わたしのことなんだわ」  「なるほど。ところで、きみはいくつになった」  「レディーに歳を聞くなんて、失礼だわ。でも、しかたないか。ほかならぬ、あなただから、教えてあげるわ。三十五よ」  「で、ここへ来て、何年になる」  「もう、十年も経ったわ」  「十年か。では、ここへ来たときは、二十五歳だったんだ」  「そうね、あなたにお仕えして、もう十年ね」  「きみはPLOのアリファト議長の秘書をしていたのを、わたしが横取りした。議長とは、武器の取り引きの決済として、話を付けたのだ。それは、知っていたね」  「もちろん。だから、わたしは、売られてきたのよ。あなたのところへ」  「そんな、人聞きが悪いことを言うものじゃない。わたしが気に入ったから、お願いしたのだ」  「どっちにしても、わたしには同じことだわ。愛しい議長のもとを離れて、黒い商人の所へ来たのだから」  「議長にはそんなに、魅力があるのか」  「それはそうよ。彼の十二番目の男の子はわたしが生んだのよ。名残が無いわけはないわ」  「それで、わたしの子供は生まないのか」  「そうかもしれない。でも、あなたは子供を望んでいないでしょう。それが、わたしにむしろ、好都合なの」  「そうだな。われわれは楽しめばいい。その相手としては、君は最高だよ」  彼女は、伯爵に近寄り、両腕を首にからめて、唇を押しつけた。  伯爵は、彼女の体を、両腕で引き寄せ、胸を乳房に押しつけた。  そして、肩にかかっていたドレスの肩紐を外し、ノーブラの乳房を露出させ、両手で乳房をもみしだいた。彼女の右手が、伯爵のズボンの前に降り、ジッパーを開けて、固くなりはじめた物を握った。  伯爵は、顔を下げて、乳房に口を当てて、貪ったあと、ドレスを完全にはぎ取った。彼女は、全裸で伯爵のキッスを受け止めた。体の真ん中の秘密の部分を、伯爵の唇が、まさぐると、彼女は、腰を前に突き出して、愛撫を受け入れた。  そうして、いったん登り詰めたあと、今度は、彼女が攻めに転じた。伯爵のズボンを下ろし、いきり立ったものを、剥き出しにすると、迷わず、両手で捧げ持ち、自ら膝を屈して、唇を持っていった。そして、激しい息使いとともに、口を使った注挿運動を繰り返した。伯爵は、溜まらず、のけ反りそうになりながらも、持ちこたえ、彼女の奉仕に耐えきった。  「そろそろ、寝室にいこう」  「いえ、わたしは、そうはしたくない」  「寝室で、きみの好みのプレーをしてほしくないのかね」  「今は、ここまで。メイン・ディッシュは、ディナーのあとでね」  やんわりと断った彼女は、伯爵がズボンを上げるのを手伝い、自分も床に落ちたドレスを拾い上げ、素早く、纏って、身繕いをした。       [49]  二階の食堂で、ディナーが始まったのは、ボロディン博士が、新装なったルーブル美術館見学から、帰ってきてからだった。  ダイニング・ルームの脇にあるサロンで、食前酒を嘗めていた伯爵とオベリンは、チェチェン情勢を話題にしていた。ミス・エルブリヒは、所在なげに、二人の話を聞くともなしに、聞いていた。  「あなたはもう、チェチェンに帰る積もりはないんでしょう」  「とんでもない、わたしは、必ず、祖国に戻ります。ソ連軍がどんなに強力でも、われわれには、チェチェンの人民が付いている。独立運動に、終わりはありません」  「あなたは、われわれに、核兵器の入手の依頼をしてきたが、運動は、そこまで追い詰められていたのですか」  「あくまで、それは、形式上のことです。われわれには、そのための資金はありません。あくまで、可能性を探ってのことです。もし、入手することになれば、自分たちでやりますよ」  「そうでしょうね。そのための電報が、傍受されて、ロシア軍の大量介入になってしまったのだとしたら、われわれにも責任の一端はありますね」  「いや、あのような電報をうったのは、実を言うと、われわれの作戦でもあったのです。はっきり行って、われわれの独立闘争の限界は見えていました。武器も少ないし、資金もない。戦いつづける能力は、限界に達していたのです。だから、起死回生にあのような電報を打ってみた。そうしたら、ロシア軍が真に受けて、あのような武力行使に繋がった」  「すると、あなたは、手を引く機会をうかがっていたと」  「手を引くという表現が妥当だとは思いません。一時的な休戦ということです」  「そして、その間に、われわれの仕事を手伝って、資金を稼ごうと」  「それもあるが、われわれが実際の行動に出るときの、訓練にもなりますからね」  「だが、狙うものは同じですよ」  「だから、意味がある。誘いに乗ったのは、その意味でですよ」  「あなたがたにとっては、本番も演習なのかもしれないが、われわれには、あくまでも、本番は本番です。失敗しないためにも、ここでの実習訓練は、徹底的にやってもらいます」  「望むところです。われわれの精鋭部隊を、信頼してもらっていいですよ」  「頼もしい言葉で、ありがたい。じっくり、実力を見させていただきます」  二人の男の間に、闘志の火花が散った。    ボロデイン博士が、帰ってきた。さっそく、四人は、ダイニング・ルームに場所を移した。長方形のテーブルの暖炉側の端に、伯爵が席を占め、そこから見て、右側の長いほうの椅子に博士、左側にオベリンが座り、伯爵と反対側の席をミス・エルブリヒが、占領した。  料理は、ラム肉のステーキをメインに、スープからのコースが出された。スープが終わって、魚料理を待つ間に、伯爵が、博士に聞いた。  「ルーブルはいかがでした」  「いやー、驚いた。すっかり変わってしまって。ずいぶん、近代的な建物に改装されましたね。わたしは、建物を見るだけで満足です。あと、モナ・リザさえ見られれば」  「マドンナは、ありましたか」  「再会しました。展示に工夫がされ、この前に見たときより、明るく、子細に鑑賞できました」  「それは、よかった」  伯爵は、ついで、オベリンに話しかけた。  「さきほど、紹介したとおり、博士は、旧ソ連の核兵器開発の中心になった研究者ですが、われわれの今度の作戦には、顧問格で参加してくださることになった。この頭脳に詰まった知識と情報を十二分に活用してください」  「聞いておきたいことは、山ほどある。追々、質問させて頂きます」  「なんでも。どうぞ。わたしは、こういうわたしの人生を宿命と思っている。人は状況に流されいくものですよ」  博士は、伏目がちに、そう言って、出された鱒の酢漬けを不味そうに、口にした。   [50]  ディナーが終わり、食後の飲み物が、、隣室のサロンで供される時間になったが、伯爵とミス・エルブリヒは、目配せをして、早めに、その部屋を出ていった。博士とオベリンは、しばらく、パリの名所の話題に花を咲かせていたが、それも、話題が尽きて、それぞれの部屋に引き上げた。  伯爵とミス・エルブリヒは、時間差を付けて、伯爵の寝室に入った。それは、彼女がいったん、自室に帰って、ドレスを着替えて来たからだった。  彼女は、伯爵に言われて、クローゼットにあった革製の下着を着けてきた。手には、轡と首輪を持ち、アイラインとアイシャドウは、目一杯派手にして、伯爵の寝室に現れた。  寝室とはいうものの、広さは、二十畳ほどもあり、天井からは、幾つものロープが、垂れていて、そこは、禁断の遊戯場の観を呈していた。  伯爵は、すでに手に乗馬用の笞を持ち、猛獣の調教師の姿で、彼女の来るのを待ち構えていた。部屋に入って来たミス・エルブリヒに、伯爵は、  「先ず、自分で首輪をしたまえ」 と命じた。彼女は、素直に、両手で自分の首に首輪を掛けた、伯爵が最後に、鍵を掛けて、首輪から繋がった綱を手にした。続いて、伯爵は、彼女の口に轡をはめた。  そして、  「四つん這いになりなさい」 と命じた。彼女は素直に両手を床に付き、犬のようにはいつくばった。  伯爵は、手綱を手繰って、彼女を大理石の床の上で、右へ左へと歩き回らせた。その度に、ぴっちりと肌に食い込んだ革の下着が、ピンク色の素肌を締めつけ、キュッ、キュッツと鳴った。  それが終わると、今度は、尻を突き出させて、その頂点目掛けて、思い切り笞を振り下ろした。彼女は、最初は耐えていたが、三回目の笞を振るおうとした瞬間、  「ウオー」 とわめき声を上げた。それでも、伯爵は笞を使い続けた。彼女の叫び声が、徐々に甘くなり、  「ああー」 と歓喜の声に変わりはじめた。  「笞は十分に味わったかな」  残酷な問い掛けに、彼女は、  「はい」 と切なく答えた。  「では、次のプレーに移ろう」  伯爵は、彼女の下着を脱がせ、全裸にし、仰向きに寝かせた。そして、小道具箱から取り出した赤いローソクにライターで火を点け、ロウの溶けるのを待って、横たわった彼女の豊かな胸に滴らせた。彼女は、左右に体を捩って、ロウの熱さから逃げる仕種を見せたが、決して、逃げようとはせず、最も女性らしい部分にロウを受けるころには、積極的にロウを受け止め、紅潮した顔に歓喜の表情を見せていた。  最後の仕上げは、ロープと滑車を使っての、緊縛と吊り下げ、グリセリンの水溶液を使って、後部を攻める浣腸プレーだった。彼女は十分に高揚し、登り詰め、自我を崩壊させて、歓喜の渦に沈んだ。ぐったりとした彼女を、抱き起こし、伯爵は深い口付けを唇に与えながら、体を抱きかかえて、ベッドに運び、固くなった逸物を、完全に洪水状態の彼女の秘密の部分に突き入れた。浅く深く、リズミカルに伯爵は下半身を使った。数十回の袖送行為のあと、生暖かく、ねっとりとした感覚が下半身を覆い、暗く、深い深部に向けて激流が、ほとばしり出た。  真っ赤に紅潮した彼女の裸身を横にして、伯爵は仰向けになって、天井を見た。そこにはめ込まれた鏡には、疲れ果てて、ぼろ屑ようになった、男と女の裸の姿があった。 (こういう時間のために、俺たちの生はある) そう、内心で呟いて、彼女の体に、やさしく毛布を掛けた。     [51]  翌日、二階の会議室に、四人が集まって、第一回の作戦会議が開かれた。  伯爵が、作戦の概要を説明したが、質問の集中砲火を浴びたのは、ボロディン博士だった。  まず、オベリンが、尋ねた。  「ウクライナには、全体で、どのくらいの核兵器が、残っているのですか」  博士は、丁寧に説明した。  「皆さんも御存知の通り、ソ連邦の解体は核兵器の管理に大きな問題を残しました。旧ソ連には、実に膨大な量の核兵器があったからです。作戦配備の核弾頭は、戦略核が、一万二千発、戦術核は一万五千発に上り、合わせて、二万七千発が、配備されていました。この他に、未配備のものもあったから、合計で約三万発が保有さていたのです。その配備地域の内訳は、戦略核は、今のロシアに約七割に当たる八千七百五十発、ウクライナに千七百五十発、カザフスタンに千四百発、ベラルーシに百発、というものでした。戦術核は、ほとんど全部の共和国に配備されていました。  ソ連の解体後、この各共和国間で、核兵器の保有をめぐって話し合いが行われ、事実上、核兵器の使用権は、ロシアに一元化されました。その結果、戦略核兵器は、ロシア以外の三カ国からは、廃棄されることになった。しかし、ウクライナだけは、ソ連解体後、戦術核はロシアに移送したものの、SS19百三十基、SS24四十六基の計百七十六基の戦略核ミサイルの保有を続け、戦略爆撃機四十三機に核爆弾千八百八十発を搭載し続けています。  ウクライナは、戦略核廃棄に伴う財政支出への支援を求めているわけですが、来年には、アメリカとロシアから、安全保障の約束とアメリカからの核廃棄についての支援を受けること、解体した核弾頭から取り出される高濃縮ウランの代償に、ロシアから原子力発電用の燃料の提供を受けこと、などを条件に戦略核兵器削減に、合意する見込みです。そして、三月からは、核弾頭のロシア移送が始まり、九五年初めまでに、戦略核ミサイルすべてと四百二十七発の核弾頭を移送する、と言われている。  しかし、わたしの知るかぎりでは、それは表向きのことで、経費や人員不足から、移送をできるのは、その半分位で、多くが手つかずのまま、残される模様なのです。  アメリカは、解体支援のため、ウクライナだけで、総額約一億ドルの新規援助を約束しましたが、その金も解体のために使われる、という確証はない」  「すると、まだ、大半の核兵器が、ウクライナに残される」  「そういうことです。しかも、管理は不完全で、核燃料物質の盗難事件や密輸事件が、頻発している。それだけ、管理が杜撰になったということでしょう」  「そこに、この計画が付け込む余地がある」  オベリンは、核心を突いた。  「まあ、露骨に言うと、そういうことだな」  伯爵が、受けた。  「移送ということが、重要だ。われわれは、その隙を狙うつもりだ」  「それでは、トラックの調達が、難関だな」  オベリンは、疑問をぶつけた。  「そのための、手は打ってある」  伯爵が、自信一杯に、胸を張って言った。   [52]  パリのモンマルトルのネフチェンコ少将の宿泊先に、ツベルフコッフ少佐とイワン軍曹から、電話があった時、少将は、レゾフとハンスとともに、ホテルのラウンジで、お茶を飲んでいた。  「なにか連絡があったら、こちらに言ってくれ」 とフロントに言ってあったので、ウエイターが、電話があったことを伝え、少将がラウンジにある電話口に出た。  「もしもし、ああ、少佐かね。そうか、やっと、パリに到着したか。御苦労さん」  少将は二人にねぎらいの言葉を掛けた。  二人は、リトアニアのアジトに新しい仕事の依頼が来ていたことを告げた。  「それは、こちらに来てから、詳しい話を聞こう。まず、五人が会わないことには」 そして、くわしいホテルへの道順を教え、電話を切った。  ラウンジに戻ると、待っていたレゾフとハンスに、  「少佐と軍曹からだった。アジトに新しい仕事の依頼がきていたそうだ。次々と仕事が来て、忙しくなるぞ」 と告げた。   [53]    モスクワのエミチャン大統領が、防衛担当の大臣から説明を受けていた。  「問題のマイコン・チップは、タイフーン級の原子力潜水艦に搭載されているSSーNー20弾道ミサイルと最新型の大型ICBMのSSー24に使用されています。SSー24の配備数は、九十二基です。うち、四十六基は、ウクライナ共和国内に配備されています。タイフーン級原子力潜水艦は、六隻就航しており、一隻に二十基のSSー20が搭載されているので、百二十基あります。ですから、あわせて、二百十二基が、該当する、ということです」   目を瞑りながら、説明を聞いていた大統領が、口を開いた。  「だが、ウクライナからは、戦略核ミサイルは、全部撤去されたのだろう」  「いえ、完全撤去は、一九九六年内というのが、協定の区切った時限ですから、やっと、半数くらいが、移送された段階です」  「では、二十基位が残っているのだな」  「そうです。その位でしょうね」  「暴走する危険性のある核ミサイルが、そんなにあの国に残っているのか」  「そうです」  「これは、早急に、チップの交換を急がないといけない」  「だが、代替のチップは、安全性の高いものでないといけません」  「それは、どこにあるののだ」  「専門家によると、日本とアメリカのICメーカーが、生産しているチップに互換性があり、信頼度も高いといいますが」   「では、両国で、入手しなければなるまい」  「ところが、アメリカは、需要が強くて、出荷まで半年待ちの状態。日本は、協定で米国への輸出に規制が掛かって以来、品物はだぶついていましたが、同じタイプのものは、日米の棲み分けが合意された結果、生産調整が行われ、いまや、品薄になっています。だが、日本で探すほうが、入手出来る可能性は高い、というのが対外情報局の分析です」  「しかし、わが国の力には、限界がある。ここは、アメリカの協力を得たほうがいいのではないか」  「そのほうが、手っとり早いかもしれませんね」  「ホット・ラインで、クリキントンに、話してみるか」  その決断をしたところへ、コージレフ外務大臣が入ってきて、  「チェチェン独立派の指導者、オベリンが、潜伏していたブタペストから姿を消し、仲間も移動を始めた」 と秘密情報を報告した。     [54]  一九九四年一月初旬、パリ郊外、ランブイエのル・ノートル伯爵の邸宅に、続々と戦闘服姿の男たちが、集まってきた。かれらは、バスや徒歩やヒッチハイクで、やって来た。カメラの監視装置付きの正面ゲートの前に立っては、名前を言い、いちいち、オベリンのチェックを受け、敷地内に入ってきた。  二十人ほどが集まったところで、伯爵は、かれらを倉庫に案内し、五十人が数週間は生活できる大型のテント運び出させ、邸宅の裏の広大な草地に、テントを張らせた。  テントは、完全に戦地用のもので、内部に入ると、快適な空間が出来あがっていた。テントの内部には、ベッドがしつらえられ、五人くらいが生活できた。そのテントが、十張、張られ、残りの三十人の受け入れ態勢が整った。  彼らは倉庫から、燃料や食料も運び出した。テントの間の広場の場所には、煉瓦で大きな竈が作られ、その上に炊き出しようの大鍋が掛けられた。  これで、食事と居住用の準備は出来た。  残りの三十人も、三々五々、到着した。すべて、オベリンの有能な事務官、アリが、選りすぐった精鋭たちだった。かれらは、黙々と集まり、黙々と、必要な仕事をし、訓練開始の時を待った。  広い敷地も、屈強な男が五十人も集まると、賑やかになった。  伯爵は、彼らのために、十分な振る舞いをした。十分な食事とあり余る程の酒を用意し、ミス・エルブリヒも、酒宴で、かれらを歓待した。  その姿を、邸宅内の二階から見ていた伯爵とオベリンは、むさ苦しい男の軍団のなかで、ただ一人細やかに動き回る紅一点に、賞賛の気持ちを、感じざるを得なかった。  オベリンは、下に降りていって、その女性兵士の方に歩んでいった。  女性兵士は、小柄な体つきにも係わらず、敏捷な動きできびきびと動き回る様子は、森の小動物を思わせた。小作りの顔の中に大きな瞳が、強い意思をもって座っていた。その顔つきや、動きの機敏さから、彼女は、なかまから、「バンビ」のニック・ネームで、呼ばれていた。  オベリンも、その愛称で話しかけた。  「やあ。バンビ、来てくれたね。わたしのたっての願いを聞いてくれた」  ナターシャ・クラウゼヴィッツは、オベリンの目を正面から見つめて、  「お久し振り。わたしを呼んでくれてありがとう」 と、笑顔で迎えた。  「チェチェンでの活動は、上々だったね」  「まあまの出来でしょうね。病院への立てこもりは、秀逸なアイデアですよ。入院患者を人質の取るのは、人道的な非難を浴びるでしょうが、作戦としては、安全性と効率の面から、見事なものです。すっかり、支度を整えてきました」  ナターシャは、胸を張った。  「そして、今度の作戦も、また、驚くべき発想と刺激に満ちている」  オベリンは、彼女の好奇心をまさぐった。  「ぜひ、詳しく伺いたいものですわ」  彼女は、予期したように、誘いに、乗ってきた。  オベリンは、今度の作戦計画を、実戦部隊の目から、検討し直してみたかった。それには、実戦経験が豊富なうえ、女性らしいこまやかな心使いもできるナターシャは、最適の役回りだった。  「今晩は、思う存分楽しんで、明日の訓練開始には、君たちの持てる力を、十二分に発揮し欲しい」  見回ったオベリンは、部下たちにそう、訓示した。  そして、伯爵が、明日からの訓練計画を、手短に説明したが、それを真面目に聞いている者は、ほとんどいなかった。かれらはあくまで、行動派で、理屈や言葉には、動かされにくい人種だった。  そのため、伯爵は、  「実際に、どうなるかは、訓練でチェックして行くしかないが」 と言わざるをえなかった。実際、そのほうが、事態に則していたといえるだろう。  「では、がんばってくれたまえ」 とだけ、言い残して、伯爵は身を引いた。  五十人の精鋭たちは、良く食べ、良く飲み、良く語り合ったあと、静かに眠りに就いた。すべては、翌日からの厳しい訓練に備えて、体を十分に休めておくためである。  オベリンは、ナターシャを、屋敷内に招き、こんどは、詳細に作戦計画を説明した。 その結果、最初の作戦の一部が、修正された。  「もっと、慎重に、万が一を考えておいたほうがいい」 という、彼女の提案で、当初の攻撃一本槍の計画が、練り直された。それは、作戦が漏れたりして妨害され、追跡や反抗を受けた場合の、防御策だった。  「それには、作戦部隊を、二手に分ける必要があるな。囮の部隊と、本物とに」  「そうしておいたほうが、成功率は高いでしょうね。万が一、攻撃されたときも、逃げきることができる。おらゆる可能性を追究し、あらゆる危険性を排除しておくのが、作戦というものです」  オベリンは、彼女の周到さと、完璧さを追究する姿勢に、改めて感嘆すると同時に、ここまで、いたいけな少女を鍛え上げた独立闘争の苛烈さを思い、胸が熱くなった。    [55]  ツベクコッフ少佐とイワン軍曹が、ネフチェンコ少将のモンマルトルのホテルにやって来たのは、夕方だった。少将とハンスとレゾフは、一階の食堂で、夕食を取りはじめたところだった。  二人は、ホテルにタクシーで乗り付け、軍用のトランクを手に、颯爽とホテルの正面玄関を入ってきた。  その姿を最初に見つけたイワンが、少将に 「連中が帰ってきましてよ」 と告げた。  三人は立ち上がり、二人を、迎えに玄関ロビーに出た。  「御苦労さんでした。さっそく、食事をしながら、次の作戦を話し合おう」  少将が、急かせた。  二人は、荷物をベル・ボーイに頼んで、部屋に運ばせ、食堂に入ってきた。  「今回の作戦の分け前は、わたしが持っているから、あとで渡す。それより、アジトにあった新たな依頼の話を聞こうではないか」  席に座った少佐に、少将が、促した。  「暗号文を解読したところ、パリに来ている旧ソ連の亡命核物理学者のボロディン博士から、旧ソ連内に配備された核兵器の配備状況を探りだせ、という内容です。なかでも、SSー24の配備状況が、欲しいらしい。そう難しい仕事ではないでしょう」  「しかし、何のために、博士は、こちらへ来ているのだ」  「それは、不明です。ただ、連絡先と昔、「イズベスチア」に載ったという博士の顔写真が、同封されていました。不鮮明な写真ですが、手掛かりにはなるでしょう」  「それで、期限はいつまで、と」  「できるだけ、早く(アズ・スーン・アズ・ファースト)、となっています」  「どうせ、われわれは、いま、暇なのだから、早いところ、済ましてしまおう。どういう形が、いいかね」  少将がみなに聞いた。  「まず、その連絡先に行ってみることですね。どの様な装備で、どういう形で博士に接触するか。すべては、それからです」  軍曹が、提案した。  「そうだな。では、明日にでも、ハンスとレゾフに行ってもらおうか。電話番号から住所はすぐわかるだろう。少佐と軍曹は疲れを取らないといけないしな」  少将の提案を、みな、納得した。   [56]  翌日、ドイツ系ロシア人で、元エンジニアのハンスと中東系アジア人の血を受け継ぐレゾフは、パリ郊外のランブイエに向かった。交通手段は、レンタ・カーだった。  住所を手掛かりに、ル・ノートルの屋敷に着いたふたりは、厳重な鉄の門に行く手を阻まれた。門は電動式で、両側の門柱の最上部から、監視用のテレビカメラが、覗いていた。  「これは、簡単には入れないぞ。侵入は難しい」  ハンスが、呟いた。  「そうだな。出入りを見張っていて、チェックするしかないだろう。友好的な雰囲気で博士に会うのは、困難のようだ」  テゾフも応じた。そして、聞き返した。  「というと」  「だから、車で出入りするのを、見張っていて、誘拐ということになるだろうな」  「確かに、この邸宅の警備の厳重さを見ると、アポイントを取って、会ってくれるような、雰囲気ではないな」  「そうだ、われわれは、完全装備で、車もろとも、博士も強奪するしかないだろう」 「そうだ、そうするしかない」  二人の意見は一致した。  そのあと、車の中から、屋敷の中を双眼鏡で覗いていたレゾフは、邸宅の裏に、広がる草地の上に、白い物が広がっているのを、見つけた。  「あれは、何だ。白いテントが、いっぱい、張ってあるようだぞ」  「何だって」  ハンスは、双眼鏡を横取りして、レゾフが眺めていた方向に、ピントを合わせた。  「人が大勢、動いているよ。まるで、野戦場のテントのようだ」  「戦争でも始めるつもりだろうか」  「その、博士とやらは、いるかい」  「とても、そこまでは、分からない。小さくて、顔までは判読できない」  二人は、この光景を網膜に刻んで、門の前を去り、パリ市内へ戻るため、車のアクセルを踏んだ。   [57]  ル・ノートル伯爵の屋敷の裏の草原では、作戦の実地訓練が、展開された。  最初は、十一台のトラックの襲撃と乗っ取りだった。一台につき、三人ずつが、マシンガンを持って、襲撃、運転手を後ろ手に縛り上げ、運転席を占拠して、乗っ取る訓練が、繰り広げられた。  続いては、クレーン車で、ミサイルに見立てた長い木の棒を、搬出する練習が、集中して行われた。そのときは、五十人が総がかりで、ミサイルの木の棒をクレーンで、トラックに積み込み、逃走するのを想定した訓練を繰り返した。  当然、全員武装し、戦闘服を着用し、トラックやミサイル以外は、完全に本物の再現だった。  この光景を、ル・ノートル伯爵は、満足そうに見守った。脇にはボロディン博士が、付添い、オベリンとミス・エルブリヒは、隊員らに混じって行動の指揮を執っていた。 「博士、実際の作戦行動の時には、現場に行っていただきますが、ミサイルの移送は極秘に、夜間に行われるというのは、事実ですか」  伯爵が聞いた。  「そう、聞いている。なるべくなら、近辺の住民を刺激したくないし、交通の閑散な夜の方が、速いし、周辺への危険性も少ない。すべてにうまくいくのだ」  博士は、即座に答えた。  「すると、夜間の照明の用意もしておかないといけないですね」  「少しは、必要だろうが、基地を出発するのは、夕方だから、そう、神経質になる必要はない。なるべく、照明に頼らなくてもよいように、夜と言っても、満月の夜を選ぶというのが、常識だ。ヘッドライト程度を、皆に持たせればいいだろう」  「それから、移送中のトラックをそのまま、乗っ取るのが、手っとり早いが、足が付きやすいので、積み替えることにしていますが、これは、容易にできるでしょうな」  「そう、手間の掛かることはないだろう。トレーラーに乗せて、固定してあるだけだけから、金具を外せば、あとは簡単だ。心配することはないよ」  「これで、完全に準備は整いましたね。これも、すべては、博士の明晰な頭脳と寛大な強力姿勢のお蔭です」  伯爵は、嬉しそうに、博士に謝意を示した。  「そうか、それでは、わたしは、あすはオペラ座にオペラ観賞に行ってくるよ。パリに来たら、こいつは必見だからね」  「わかりました。どうぞ、わたしの車とシェーファーを使ってください。他に、ご要望があれば、なんなりと伺いますよ。エスコートに、だれか、女性を付けましょうか」 「いや、結構。わたしは、オペラは、一人で見ることに決めている。その主義は変えないよ。運転手だけで、結構です」  「では、先日のハンスを付けましょう。かれなら、腕に自信があるし、ボディー・ガードとしても、安心です」  「では、よろしく」  博士は、足取りも軽く、自室に引き上げた。   [58]    パリのオペラ座の終演は、何時も午後九時三十分すぎと決まっている。  終わりのベルの音に送られて、観客らが、ロビーに出てきた。みな、正装して、いま見てきたばかりの、出し物の話に、余念がない。  正面玄関には、次々と、高級車が、横付けされ、紳士や淑女が車中に消えては、次の車が、その主人たちを待ち、乗せては消えていった。  ボロディン博士も、玄関でハンスの運転するリムジンを待っていた。博士のリムジンは、白い衣装にターバン姿のアラブの王族を乗せたロールス・ロイスの後に、車寄せにやって来た。ハンスが走り出て、後部ドアーを開けた。博士は乗り込んだ。車はランブイエニに取って返すため、東へ向けて走り出した。  博士は、観劇の疲れもあって、車に乗り込むと、大した話もしないうちに、目を閉じた。  車は、セーヌ側沿いの幹線道路に差しかかった。右に曲がるため、交差点の赤信号で、止まった。  その時、後ろから付けてきたライトバンから、四人の男が、降りて、リムジンに駆け寄った。中東系アジア人の顔をした男が、左の運転席のドアーに近づき、持っていたマシンガンをハンスに突きつけて、  「降りろ」 と、無言で合図した。  ハンスは、とっさに、ドアーに体当たりして、そこに立っていた男を、撥ねのけた。その男、レゾフは簡単にハンスが、降りてくるものと考えていたため、そのような反応は予期していなかったので、思い切り撥ね飛ばされ、道の上に倒れた。ハンスは、その隙を見て、車を捨てて逃走しようとした。  後ろのドアーに取りかかった少佐と軍曹は、後部座席の右側に座っていたボロディン博士に、拳銃を突きつけて脅し、車から引きずり出した。  前部座席の右側にいたハンスが、逃げ出したハンス目掛けて、ソヴィエト製の軍用拳銃を発射した。玉は、逃げ足の速いハンスには、当たらず、道路の反対側に跳ねて行き、セーヌ川の中に消えた。  それを見て、逃げながら振り返ったハンスが、立ち止まり、こちら側のハンス目掛けて、ワルサーを一発、発射した。護身用に肌身話さず、携帯していた銃だ。扱い慣れた銃から、発射さえた玉は、ハンスの右腕をかすめた。  当たらなかったことに、たじろいだ向こう側のハンスが、もう一発を撃とうとしたところで、倒れていたレゾフが、起き上がった。  「危ないぞ、ハンス」  そう叫んだレゾフの大声に、向こう側のハンスは、一瞬、自分の名前が呼ばれたと思って、引きがねに掛けていた右指を緩め、撃つのを止めて、動きが止まった。  その数秒の瞬間を見逃さず、体勢を立ち直したレゾフのマシンガンが、火を吹いた。 立ち止まっていた向こう側のハンスは、連謝された弾で全身を撃ち抜かれ、大きなわめき声を上げて、路上に仰向けに倒れた。  少佐と軍曹は、博士の両脇を抱え、リムジンの後方に停めたフォルクス・ワーゲンのヴァンに連れ込んだ。後部の荷物席に乗せると、軍曹が博士の脇腹に一発、パンチをお見舞いした。博士は、  「うっつ」 とうめいて、荷物席の床に倒れた。  そこで、少佐が、持ってきた、睡眠剤をしみ込ませたハンカチを、博士の鼻に押しつけた。睡眠作用で昏倒した博士は、両手錠を掛けられ、床に寝かされた。  ハンスとレゾフは、運転席と助手席に走り込み、車を発進させた。  ヴァンは、一端、走ってきた道をバックしたあと、猛スピードで、モンマルトルの方向へ、走り去った。   [59]  モンマルトルの休演中の劇場「ムーラン・ルージュ」の大道具置場になっている倉庫に先程の四人の男に、黒のロング・コートを着た髭の老人が加わった五人の男が、白髪の老人と相対していた。  椅子に縛りつけられた老人は、ボロディン博士だ。  回りを取り囲んだ男のうち、正面に立ったネフチェン少将が、尋問した。  「博士は、旧ソ連で核兵器の研究、開発を担当し、最新型の多核弾頭ミサイル、SSー24を開発したのは、事実ですか」  「間違いない。あれは、わたしの最高傑作だ。わたしの全研究者生命を掛けて、生み出したわたしの秘蔵っ子だ」  「タイフーン型の原子力潜水艦に、搭載しているSSー20もそうですか」  「その開発にも、われわれのスタッフが当たった」  「そこで、お伺いしたいのは、それらの核兵器が、どのくらいあるのか、ということだ。お答えしていただけますか」  「そんなことなら、いつでも、答えるよ。ソ連が崩壊し、核軍縮が進んでいる現在では、そんなことは、秘密でも何でもないからね」  「では、お答え頂きたい」  「SSー24は、全部で九十二基ある。そのうち、四十七基が、ウクライナ国内にある。SSー20は、タイフーン級の最新型原子力潜水艦に搭載されている。タイフーン級の原潜は六隻、建造された。一隻に二十基、搭載されているから、全部で百二十基あるという計算になる」  「SSー24は、ウクライナからは、全部、撤去されるのではないのですか」  「そう公表されているようだが、実際は、かなりが、残るだろう。九六年中には、全てをロシアに移送する、というのが、アメリカ、ロシア、ウクライナの三国で合意された内容だ」  「すると、依然として、地上には九十二基あるということだな」  「そういうことだ」  「うち、解体されたのは、どのくらいになるのか」  「わたしは、解体については、いっさい知らない。解体作業に入る前に、国を出てしまったのだから」  「そうか。わたしの聞くことは、以上だ」  少将の尋問が終わった。  次に、ハンスが、尋ねた。  「あなたは、ル・ノートル伯爵の屋敷に滞在しているようだが、伯爵とは、どういう関係ですか」  「いま、世話になっている。亡命の手筈や資金も、彼が出した。現在は、あらゆる面で、世話になっている」  「かれが、裏の世界では、有名な黒い商人だということは、ご存知ですか」  「知っている」  「それでも、あなたは、そういうふうに、かれに生活の面倒を見てもらっている?」 「だから、どうしたというのだ」  「学者として、良心の呵責を感じないのか」  「君に、そのようなことは、言われたくない。君らだって、お金は欲しいだろう。わたしには、豊かな生活と整った研究環境が必要なのだ。ソ連が崩壊してから、そういう環境は、完全に破壊されたからね。わたしは、生活と研究のために、いまの境遇を求めたのだ」  ハンスが、続けた。  「まあ、それは置いておきましょう。それぞれの人生観だからね。それより。私が聞きたいのは、あの伯爵の屋敷で、あなたは何をしていたのか、ということだ」  「それは、単なる滞在ですよ。わたしが、パリでルーブル美術館やオペラ座での歌劇観賞をしたい、と言ったら、伯爵が、わたしの屋敷に泊まりなさい、と言ってくれた」 「優雅な。パリの休日、というわけですな」  「まあ、そうだな」  そこで、レゾフが、質問を代わった。  「博士。嘘を言ってはいけない。あなたは、何でも知っているはずだ。何を企んでいるのですか。伯爵と一緒に」  「何も企んでなんか、いないよ。変なことをいうな」  博士は、気色ばみ、レゾフの顔を睨み付けた。  「では、聞くが、伯爵の邸宅に駐在している、軍団はなんなのだね」  そう言われ、博士は言葉に詰まった。  「伯爵と一緒に、なにかを計画しているのだろう。屋敷の連中は、みな、プロの戦闘員だ。プロのわれわれが、そう言うのだから、間違いない」  博士は、言葉に詰まった。  少将が、命じた。  「博士には、話してもらわなければ、いけない。それまでは、われわれも待機だ」  そういって、持ち込んだ夕食のサンドイッチを五人で食べ始めた。  博士は、長いオペラ見物の間、何も食事をしなかったから、空腹だった。  しかも、博士は、食料不足のソ連が嫌で、亡命を決心した程だから、人一倍、食欲が旺盛だった、しかも、美食家だったから、空腹時に食事が出来ないのには、忍耐力が、圧倒的に不足していた。水分も取りたかった。ここで、暑いコーヒーが、出されたら、それが、どんなに、苦い物でも、飛びついていたに違いない。  「博士、おなかがすいているようですね。話してくれたら、この旨い生ハムのサンドイッチを分けてあげますよ。熱いスープもありますよ」  この種の拷問には、豊富な経験があり、手慣れている少佐が、耳元で囁いた。  頭でっかちの秀才ほど、この種の、誘惑と拷問には弱い。博士も例外ではなかった。それに、  (自分が、話したとしても、伯爵の計画には影響がない) という、自己弁護もあった。  (所詮、この計画は伯爵らのもので、わたしは、あくまで、顧問を依頼されただけ)という責任感のない立場が、博士に話すことを、納得させた。  「分かった。知っていることは、話すよ」  博士は、自分が知っているかぎりの、核兵器強奪計画の内容を、自白した。  そして、存分に、生ハムのサンドイッチを手に入れ、一気に三個も貪って、空腹を満たし、満足した。その晩、博士は倉庫にしつらえられた木のベッドで眠り、翌日、解放された。  この自白を聞いた少将らは、この話は高く売れる、と踏んだ。  「第一級の情報だ。われわれの顧客が、涎を流しそうだ。思い切り高値を付けて、売ってやろう。それには、小出しにすることだな。ほのめかして、相手をいらつかせ、競り上げて売る」  少将の悪知恵は、その顔に刻まれた皺の数ほど、限りがないようにわき出た。     [60]  クレムリンのエミチャン大統領から「ホット・ライン」に電話が掛かってきたのは、クリキントン大統領が、フラリー夫人とのランチのテーブルに付こうとしている時だった。  ジャクソン安全保障補佐官が、電話を取り次いだ。  「やあ、ロシアの大統領閣下。お久し振りです」  電話の向こうで、通訳がロシア語を英語に訳した声が聞こえた。  「この電話を差し上げたのは、わが国とアメリカの双方にとっての利益に関わる、安全保障上の問題で、重大な懸案が持ち上がったからです。それは、一九九一年のわが国の原子力潜水艦の火災事故に関することですが、その事故報告書が、やっとまとまり、その中で、最大の考えられる原因として、燃料点火装置のマイクロ・コンピューター・チップの異常が、指摘されました」  「そうですか。それは、どういうことですか」  クリキントン大統領は、その情報はすでに報告を受けていたが、知らん振りをした。 「そのチップは、東南アジア諸国産で、事実を言うと、ココムの輸出規制をかいくぐって、わが国の情報機関が、中東諸国経由で、輸入したものです」   「やはり、貴国の組織の連中は、そういうことをやっていたのですね」  「それは、貴国もよく、御存知だったでしょう。そう仕向けたのは、貴国の機関だったという説も、こちらにはあります」  「それで」  「いまや、そういう腹の探り合いの時代は、過去のものです。そこで、率直に言わせてもらいたいのですが、このチップを交換しないと、再び、同じ様な事故が起きる危険性あるということです。このまま放置すると、場合によっては、御爆発が、起こる。ここ数年は、これらの兵器も静かな場所に置かれていましたから、無事に過ぎましたが、戦略兵器削減条約に基づき、今後、ウクライナなどから、わが国に移送が始まれば、移動の作業や振動で、劣化した欠陥チップが御動作する危険性があるのです」  「そうですか。それな、由々しき事態だ」  「そこで、わが国としては、問題のチップを、互換性のある、信頼度の高いものに交換したい、と考えています」  「はい」  「しかし、そのチップは、貴国と日本でしか入手できない、ということです」  「段々、理解できるようになってきました」  「それで、是非、その入手や交換作業にご協力を頂きたい」  エミチャン大統領は、協力を依頼した。  「チップ入手には、協力したい、そして、出来るかぎり、交換作業にも」  「問題は、こちらの情報によれば、そのチップは、貴国では品薄で入手が困難なようです。となると、日本からということになりますが」  「それは、むずかいしい問題を含んでいますね。何しろ、日本からのわが国への半導体輸出には、総量規制が掛けられている。本来、合意された数量以外に、わが国は輸入出来ない。一体、どのくらいが必要なのですた」  クリキントン大統領は、細かい点を質した。  「ミサイルは、九十二基ですが、問題のチップは、一基に八個ずつ使用されているので、七百三十六個ですね。約八百個は必要でしょう」  「まあ、そういう細かいことは、スタッフに任せることにして、ご要望の点に付いては、異論がないので、ご協力を約束します」  「ありがとう。それでは、実務上のことは、専門家に任せますので、よろしく」  エミチャン大統領は、そう言って、ホット・ラインを切った。   [61」  ウィーンのザッハホテルの外側に張り出したティー・サロンで、二人の男が、話していた。ウィーンは、その日、快晴に恵まれ、冬の寒さのなかで、一時の「春」を謳歌していた。  「結局、ワルシャワ訪問は、空振りに終わったのかね」  「まあ、目当ての博士には会えませんでしたが、留守居の年寄りから、連絡先を聞きました。博士はパリに休養で行っているということで、滞在先の住所と電話番号を教えてもらいましてね」  小柄な男が、オレンジ・ペコーの紅茶を一杯、飲みほしながら、言った。  大柄な男が、質問した。  「ウイリアム、それで、旅は楽しかったかね」  「それは、久し振りに、ロング・ドライブを楽しみました。やはり、アウト・バーンは、素晴らしい。快適な旅でした」  「パリの博士には、会ったのかい」  「いえ、そこまでは、やりませんよ。これは、あの”チャイカ”に任せました。例ののアジトに暗号で連絡しました」  「彼らなら、たやすい仕事だろうな」  面長の男は、テーブルに置かれた、ダージリン・ティーのポットから、カップに紅茶を注ぎながら言った。  「そうです、さっそく、回答が来ましたよ。ワシントンからの宿題は、終わりです。ただ・・・・」 「ただ、なんだね」  ゴードンの質問に、ウイリアムは即答しなかった。しばし、考え込んだあと、  「新たな、要求が、彼らから、来ました」  「要求? どんな要求だ」  「世界の安全保障上、重大な情報が手に入った。買わないか、と言うのです」  「内容は、分からないのか」  「核ミサイルの秘密情報だそうです」  「そういっても、冷戦後のこの時代に、それほど、重要な情報ではないだろう」  「だが、珍しく、かれらの方から、売り込んできた。こんなことは、これまでになかったことです。だから、乗って見ようかとも」  「値段は付けてきたのかね」  「それは、抜け目なく」  「法外な値段か」  「まあそうですね」  「幾らくらい」  ゴードンは、追究した。  「二百万ドルです」  「二百万! それは、随分、吹きかけたな」  「吹きかけたのか。本当に、それだけの価値があるのか」  「わたしは、値切る積もりです」  「いくらに」  「まあ、五〇%カット・ダウンですね」  「半額に・・・」  「それは、交渉の手段です。二十五%が、落とし所ですかね」  「まあ、頑張ってくれたまえ。われわれの仕事では、一世紀に一度あるかないかの情報かもしれないし」  「半額払いで、半分、頂き、あとは、その中身次第ということにしても、いいのですよ」  そろそろ、午後の日が、傾き始めた。二人は、残りの紅茶を飲み干し、席を立った。   [62」  情報の値引き交渉は、その数日後に、あっけなく、決着した。  ウイリアムが、ワシントンにこの件を報告すると、直ちに長官から、  「百万ドルまでなら、交渉に応じて良い」 との決済が出たのである。  ウイリアムは、ネフチェンコ少将が、言ってきた連絡先に、電話で連絡を取った。  「あなたが、申し込んできた極秘情報だが、こちらは、百万ドルまでしか出せない。それで、駄目なら、諦めるよ」  「そう言われると、こちらは、いかんともしがたいですね。なにしろ、この情報は、アメリカしか、買ってくれそうもないものですからね」  「それが、きみらの強みでもあり、弱みでもある」  「分かりました。百万ドルでも、われわれには大金ですから。そっくり、お渡ししますよ」  話しは付いた。  少将は、  「詳しくは、文書にして、支局に送致する」 と言って、電話を切った。     [63]  ”チャイカ”の情報は一級品だった。  報告を受けたワシントンのCIA本部の対テロリスト情報部は、震撼した。  情報は、直ちに、ハインツ長官に上げられ、長官を通じて、ホワイトハウスのジャクソン安全担当補佐官から、クリキントン大統領に報告された。  ルーティーンになっているオーバル・ルーム(大統領執務室)での打ち合わせ会で、大統領は、質問した。  「この、ロシアの核の乗っ取り計画というのは、現実性があるのかね」  ジャクソン補佐官が、答えた。  「情報によれば、かなり、現実性のあるもののようです。諜報員は、テロリストたちが、実地訓練をしているのを、現認しています。情報は計画の中枢にいる者から得ていますから、確実性は高いですね」  それを聞いていたメイヤー国務担当補佐官が、説明を重ねた。  「テロリストたちは、フランスの黒い商人といわれるル・ノートル伯爵のパリ郊外の屋敷に、集結しています。ですから、行動を起こすのはそう遅くないと考えられます。かれらの行動を完全に監視しておいたほうが、いいと思いますが」  「そうだな。しかし、監視をするだけではしかたがない。なにか、対策を打たないわけには行かないだろう。ロシアのエミチャン大統領は、このことを知っているのかね」 「まだ、知らないでしょう。知っているのは、われわれの機関と”チャイカ”だけだと思います」  ジャクソン補佐官が答えた。  「では、わたしは、エミチャン大統領に。このことを伝えておく必要があるな。それとも、言わないでおいたほうがいいかな」  大統領が聞いた。  「それは、われわれの対応次第でしょう。われわれが、この作戦に介入する意思があるか、ないかで、対応は変わってくる」  「いまや、世界の警察の役割を果たせる国は、わが国しかない。こういう世界秩序を乱す活動には、断固として対処する必要があるだろう」  大統領が、語気鋭く言った。  メイヤー補佐官が、提案した。  「そういえば、核ミサイルの誤発射という危険性対策について、エミチャン大統領から、協力依頼が来ましたが、それには、まだ、具体的な回答はしていないでしょう。それならば、マイコン・チップの交換に協力するということで、わが軍の特殊任務部隊を送ったらどうでしょうか。ロシアの特殊部隊・スペツナズとも協力して、対抗するのが最善の策だと思います」  「ジャクソンは、どう考えるかね」  大統領が聞いた。  「メイヤーの案は、可能性としては、最善の対策かもしれません。とにかく、彼らの行動を追跡していくことが、第一だと思います。それには、監視衛星も使って、徹底的にやる。動きだしたら、現場で阻止する。厳しい局面もあるかもしれないが、わが方の戦闘能力からすれば、難しい作戦ではない」  「では、わたしは、エミチャン大統領に、ホット・ラインで、このことを知らせる。あとの、作戦は、君たち専門家に任せる。それで、いいね」  「了解しました」  二人の補佐官は、同時に、返答した。  クリキントン大統領は、その後、直ちに、エミチャン大統領に、ホット・ラインの電話を掛け、この件について、情報を伝えるとともに、共同作戦についての合意を取り付けた。   [64]  東京の首相官邸に、米国大統領から、問題のコンピューター・チップの調達の依頼文書が、届いた。  ーー わが国と貴国との半導体協定合意文書では、当該部品は、わが国への輸出が規制されていますが、緊急の例外措置として、八百個相当を入手し、緊急に送っていただきたい。世界の安全保障上、重大な措置が必要なので、配慮を願いたいーー。  二木首相は、通産省と外務省に、この依頼の受け入れをもとめ、両省の担当大臣と担当官僚を、呼んだ。  「理由は記されていないが、こういう正式文書が、寄せられた。善処を頼む」  首相は、命令口調で、言い渡した・  外務大臣と同行した外務省の山中・欧亜課長は。この申し入れは、納得が、行かなかった。  (あれほどまでに、難航し、やっと合意にこぎ着けた交渉の中身が、たとえ、八百個とはいえ、なし崩しに破られるのか) という、感慨があった。  しかし、  (だから、われわれの主張は正しかったのだ。アメリカ、いや世界にとって、日本の半導体製品は、不可欠な物なのだ) という思いも伴った。   通産省の担当者が、  「われわれが、業界に掛け合って、何とかしましょう。いや、八百個くらいなら、なんとかなるはずです」 と請け負った。  首相は、安心したのか、  「では、よろしく、頼む」 と笑顔を見せた。  結局、日米半導体協定は、こうして、なし崩しに、破られたが、すべては、外交の秘密に包まれ、漏れることはなかった。  当該部品は、通産省の依頼で、国内メーカーが、出荷予定を変更して、政府調達に応じる形で、生産所の工場からワシントンに直送された。     [65]  パリ郊外のル・ノートル伯爵の屋敷に、博士の襲撃、誘拐の報がもたらされたのは、事件のあったその夜だった。  帰りの遅いのに気付いた伯爵が、オペラ座へ手下をやって、調べさせると、運転手兼ボディー・ガードのハンスの死亡と、博士の行く方不明が確認された。  残されたリムジンに乗って帰ってきた手下に、車を調べさせると、ボディーに、弾痕が残っていた。それは、ハンスの持っていたワルサーから、発射された弾のあとで、ハンスが、ソヴィエト製の軍用マシンガンで蜂の巣にされていたことから、銃撃戦が展開されたことが、予想された。  (ソ連のなんらかの機関が、介入している) と伯爵が、考えたのも無理はない。  伯爵は、作戦の決行を急ぐことにした。  オベリンとミス・エリブリヒには、事件の事実を告げ、  「いよ、いよだぞ」 と、心の準備をするように、言った。  オベリンはテントを張って生活している、仲間たちに、  「いよいよ、その日が来た。情報では、明日にも、トラックの移送が、ポーランドで始まるらしい。いよいよ、出発だ」 と告げた。  翌日の早朝、彼らは、ポーランドに向けて、出発した。交通手段は、伯爵が用意した中古の大型バスだった。旅券や査証は、既に、偽造したものをみんなが所持していた。中古のバスで観光に来たチェチェン人のツーリストを装っての、ポーランド国境越えを画策していた。  事実、それで十分、通用した。  検問の緩いフランスとドイツ国境は、楽に通過した。ドイツとポーランド国境では渋滞に巻き込まれたが、どうにかクリアーし、戦闘団を乗せたバスは、ポーランド国内にはいり、襲撃に備えて、待機した。   [66]  ポーランドのバルト海沿岸の港町で、有数の工業都市、グダニスク。その港の第三埠頭に巨大な自動車運搬船が横付けされていた。船腹のゲートが、開けられ、中から、次々と自動車が吐きだされてきた。乗用車が、一列になって、駐車場に向かった。  乗用車が終わっあとは、バス。次いでトラックと続いていく。トラックのなかに、政府調達で、日本のM商事が系列のM自動車とともに応札した、大型トラック二十台も混じっていた。  この大型トラックは、ここに一端、駐留したあと。陸送で、ワルシャワまで、運ばれる。駐留は、約三日間の予定だ。その間、入国管理局と税関の職員が、必要書類のチェックをし、一台ずつに許可証を張って、始めて、輸入が許可される仕組みだ。そのあと陸上運送用の仮ナンバー・プレートが、交付され、初めて、陸上輸送が可能になる。  それまでは、この動く巨人たちも、静かな安息の時を過ごす。    上陸三日目に、検査が全て終了した時点で、地元販売会社が手配した陸送係の運転手が、やって来て、港湾事務所で、キーを受け取り、陸送が始まった。  トラックは隊列を組んで、一路、南東方面に向かった。ワルシャワまで、約一日がかり。途中、ムワヴァで、昼食を取る予定だ。  隊列は、イワヴァを過ぎる当たりで、二隊に別れた。先頭の十一台と後ろの九台に分裂し、ムワヴァに向かっていった。  ムワヴァまで、約十キロの地点に来たとき、道路の前面に通行止めの標識が表れた。 先頭のトラックの運転手は、急ブレーキを掛けて、停車した。  すると、左右の森のなかから、戦闘服に身を固めた数十人の男たちが現れ、運転手らに機関銃を突きつけ、車から降りるように命じた。  運転手らは、両手を挙げ、彼らの要求に素直に、従った。  男たちは、運転席に乗り込み、トラックを発車させた。後ろの荷台にも、数人ずつが別れて乗り込んだ。  地上に降ろされた運転手らは、走る去るトラックを、手を拱いて、見送った。そしてトラックの隊列が、遠くに走り去ると、第二集団のトラックがやって来た。  運転手らは、やって来たトラックに、事情を報せ、同乗した。  「軍隊に、トラックを乗っ取られた」  かれらは、そう、訴えた。  第二隊列のトラックは、その夜、ワルシャワに到着。迎えた政府関係者に、被害を報告した。連絡を受けたポーランド内務省警察は、乗っ取られたトラックを全国に手配したが、有力情報は、得られなかった。  盗まれた車両は、警察の手配が発せられたころには、すでに、ルブリンを通過、一目散で、ウクライナ方面に、疾走していた。そして、夜、プシェミシル北方で、国境線の鉄条網を爆破して、突破し、ウクライナ領内に入っていった。     [67]  アメリカ中西部の山岳地帯にある、ノーランドの米国防総省軍事衛星情報分析基地には、軍事衛星からの偵察写真が、時じ刻こく入ってくる。  そのなかの一枚を、情報分析官のサミュエルソンが、見ていた。  それは、ポーランド国内の道路を写した写真で、細く白い線の上に、無数の車が見て取れた。  写真の右の下の方に、白く輝く十一台のトラックの影があった。  「やつらは、国境を越えていこうとしている。これは、昨夕の写真だ。そして、今朝は、やつらの影は消えてしまった。たぶん、ウクライナに入ってから、カムフラージュしたか、どこかの、隠れ家に入ったのだろう」  「しかし、あれだけの隊列なら、いつ、どこから表れても、追跡出来ますよ」  一緒に、写真を覗き込んでいた、同僚のキャサリン・オズワルドが、安心させるように言葉を挟んだ。  「大体の方向は分かっているから、われわれの部隊を向かわせるディレクションは、指示できる。あとは、地上の情報と突き合わせて、ピン・ポイントで、行方は追跡できる」  「さっそく、NATO内にいるわれわれの部隊に連絡しましょう」  「そうしてくれ。かれらも、われわれの情報を待っているだろうから」  キャサリンは、写真を電送機に掛け、分析内容のタイプ文を暗号に変えて、NATO軍内の特殊部隊に送信した。     [68]  ドイツのミュンヘン市郊外のNATO軍基地内にある米国陸軍特殊部隊の作戦指令室に作戦参謀が集まっていた。  レオン参謀長が、これから開始する「オペレーションX」の作戦内容を説明した。  「これは、対テロリスト防衛作戦である。敵の総数は約五十人。すでに、ポーランド領内で、新型の大型トラック十一台を強奪し、そのまま、国境線を突破し、ウクライナ国内に侵入した。現在の所在地は、いま、軍事衛星が追跡している。  ワシントンからの指示と情報によれば、かれらは、ウクライナからロシアに移送される核ミサイルの強奪を計画しているらしい。  われわれの作戦は、これを阻止することだ。  われわれが、動員するのは、特殊部隊隊員六十人とアパッチ・ヘリコプター十機、それに輸送機一機だ。隊員は、ヘリに搭乗して、現地に向かう。輸送機はウクライナのキエフ空港に待機させる。また、ロシアの特殊部隊、スペルナッズも、われわれと共同作戦をとる予定だが、詳細は現地に入ってから、話し合うことになっている。以上」  参謀長は、端的に告げた。  作戦は、了承され、直ちに、特殊部隊の司令官を通じて、各部隊に連絡された。  六十人は、三小隊の規模だ。要員は、厳選され、第三、五、七小隊が、召集された。 第三小隊のケネディー少佐の部隊は、ワシントンから到着する核兵器専門家をヘリに乗せて、行くことに決まった。十人の核専門家は、交換用のコンピューター・チップを持って、同乗する。  入手が困難だったチップは、日本政府の特別調達で入手することで、日米の合意が成立し、ワシントンに到着していた。  部隊は、夜闇に乗じて、ヘリコプターで、出発した。  「AHー64アパッチ」の称号で呼ばれる搭乗ヘリは、本来は、米国空軍の航空機だが、最新型のため、その性能を評価した陸軍特殊部隊にも配属されていた。飛行速度は時速三百五十キロ・メーターで、航続距離は、約五百キロ・メーターに達する。三十ミリ機関砲にレーザー誘導対地ミサイル八発や空対空ミサイルも搭載可能だ。操縦席は、二十ミリ弾までの耐被弾性能を持っている。  「アパッチ」は、軽快なローターの回転音と激しいジェット・エンジンの噴射音を残して飛び立った。十機が五機ごとの編隊飛行で、東へ向かう。ドイツからオーストリア上空まではNATOの航空管制が、夜間の誘導をしてくれるが、ポーランド国内では、完全な有視界飛行になる。それを搭載レーダーが、補助してくれるが、地上からのアシストは期待できない。  しかし、流石に選り優られたパイロットたちだけに、互いの機で交信して、助け合いながら、ポーランド領空を無事に通過、ウクライナに向かって、進んでいった。   [69]  ウクライナの北西部、B市外の草原地帯に設置された固定式のSSー24の移送準備作業は、突然中断された。  ロシアのエミチャン大統領からの親書を受け取った、ウクライナのメドビエフ大統領が、中止命令を出したためだ。  しかし、鉄道移動式の同型ミサイルは、既に、移送を開始していた。  ウクライナとロシアを結ぶ広軌鉄道上を深夜、移送する。大統領命令は、しかし、鉄道輸送の移送にも有効で、出発していた貨物列車は、B市から西へ五キロのK町の停車場で、停車していた。  ロシアを出発した核ミサイルの専門家は、空軍の飛行機で、B市外の飛行場に到着した。NATOの専門家チームをアシストしながら、マイコン・チップを交換するのが、目的だ。  ウクライナには四十六基のSSー24が、配備されているはずで、そのうち、二十六基は、すでに移送が完了している。残りの二十基のチップの交換が、彼らに課せられた任務だ。二十基は、ウクライナ国内の五つのミサイル基地に分散している。それらの各基地には、それぞれ二人ずつの専門家が派遣された。  B市に派遣されてきたのは、若手の技術者、二人だった。二人は、まず、緊急停車している鉄道輸送のミサイルに着手しようと、K町に向かった。  といっても、アメリカの専門家チームが、到着しなければ、チップがないから、彼らは、ただ、待つしかなかった。  二人は、K町の共産党支部で待つことにし、B市の担当者にアメリカ・チームへの伝言を頼んで、B市を後にした。  かれらの移動には、ウクライナの陸軍が、全面的に協力していた。   [70] ポーランド国境から、ウクライナ領内に入った強奪されたトラック十一台は、国境線から約四十キロ走った所で、道路を外れ、右側の森林地帯に入って、停車した。  乗っていた隊員らは、地面に落ちていた木の葉や枝をトラックの屋根に乗せ、上空からの、偵察に対して、カムフラージュをこらした。  先頭のトラックから、オベリンが、降りてきて、それらの偽装の指揮を取った。  「こういう、偽装には、われわれは、手慣れている。ゲリラ活動の基本だからな」  そう言いながら、隊員らの素早い動きを、楽しそうに見守った。  二台目の荷台に乗っていた、ミス・エルブリヒも降りてきた。  「第一段階は、成功だわね。ここで、少し休んで、深夜になったら、出発するのが、計画だから、少し、休憩する暇があるわ。そのあいだに腹拵えをしておかないと」  そう、オベリンに話しかけた。  「そうだ、カムフラージュが終わったら食事にしよう。そして、少し、休むことだ。今日の夜は長いからな」  オベリンには、現場の指揮官としての精悍さと機敏さが、備わっていた。  ミス・エルブリヒは、男性の隊員と同じ戦闘服を来て、軽機関銃を手にしていた。  夕食は、ポーランドで仕込んだフランス・パンのサンド・イッチだった。  五十人の隊員は、それぞれ、自分たちが強奪したトラックの運転席と荷台に戻って、黙々と食事を頬張った。  森は、森閑とし、時折、鳥の鳴き声が、闇をつん裂いた。そして、間断なく風が吹いていた。風が、木々の梢を渡るときのさんざめきが、これから始まる大作戦のおどろおどろしさを予告しているようだった。     [71]  NATOの特殊部隊員六十人と米国の核専門技術者を乗せた米軍のアパッチ・ヘリコプター十機は、ウクライナ国境に入ってからも、ターゲットのトラックを発見出来なかった。軍事衛星の情報網からも、トラックの姿が消えた。  実行部隊の指揮官、ケネディー中佐は、NATOの駐在軍司令部と連絡を取った。  「ターゲットTを、見失った。そのため、作戦コードCに従い、われわれは、ウクライナ国内のB空港に着陸し、待機する。了解を願う」  長距離無線で中佐は、そう伝え、司令部の了解を取った。  作戦コードCは、  ーー トラック軍を発見できない場合は、B市の空港に着陸し、そこで、核技術者を下ろし、同市郊外に配備されたSSー24のコンピューター・チップの交換を行うーーとなっていた。  NATO軍司令部は作戦変更を了承した。  ーー 目下、鋭意、トラックの行く方を追跡中。発見次第、位置を連絡するーー という返電が来て、コンタクトが切れた。  アパッチ・ヘリコプターは、小刻みに震える爆音を連ねて、方向をやや北方に改め、一路、B市の空港を目指して、飛行を続けていった。     [72]  ウクライナ時間の午後十一時五十分になって、深い森のなかで眠っていたトラックの軍団が行動を開始した。日本製の大型トラックのディーゼル・エンジンは、ドライバーが、エンジン・キーを回すと、一発で快調に始動した。  十一台のトラックは、エンジン音の和音を響かせて、森の闇の沈黙を破った。  先頭車両の助手席に乗った指揮官、オベリンが  「さあ、行こう」 と運転席の仲間に、声を掛けた。  それを、合図に、まず、先頭トラックが、発車した。それに続いて、十台のトラックが、一列で森を走り始めた。  約二十分程で、先程、走ってきた幹線道路に出た。そこを、右に曲がる。  道路は、閑散としていた。ほかに走っている車は、見えなかった。  先頭のトラックの四つのヘッド・ライトが、闇を照らしたが、二台目以後は、二灯だけにして、上空からの監視をなるべく、避けようとしていた。  「あと、六十キロ程だな」  助手席で、オベリンは呟いた。  作戦地図には、サイロに格納されたSSー24の位置と鉄道移動式のSSー24のある場所が、克明にしるされていた。そのどれを狙うかは、現場の状況により、実施部隊の司令官のオベリンの判断に任せられていた。  地図を見ながら、オベリンは、考えた。  (もっとも効率的なのは、鉄道移動式を狙うことだろうが、これは、移動していて、場所が、変わっている場合がある。確実に、設置場所が分かるのは、格納式だが、これは移動が難しい。サイロから、出してあればいいが、そういうことは滅多にないだろう)  そう考えて、まず、鉄道移動式を、第一のターゲットにしようと決意した。  (それには、状況を正確に把握する必要がある)  かれは、鉄道路線に沿って走るこの幹線道路の左側の鉄道の線路をじっと、観察しはじめた。  (今夜の移送は、間違いないのだから、絶対にミサイルを乗せた列車が走ってくるに違いない) というのが、彼の確信だったし、練りに練った計画の基本だった。     [73]    NATOの特殊部隊のアパッチ・ヘリコプター十機が、ウクライナ共和国のB市の空港に着陸した。ヘリからは、六十人の米軍特殊部員と十人の核専門技術者が、降り立った。  いったん、この空港で待機し、司令部の指示を待つ。  空港には、ウクライナの現地軍司令官らが出迎えた。  「夜分にご苦労さまです。こちらに、来られたということは、目標を見失ったということですか」  現地司令官は、ケネディー中佐に、直截に聞いた。  「そういうことです。われわれの搭載機器では、捕捉できなくなった。たぶん、森の中に消えたのでしょう。レーザー探知装置でも、わからない程ですから、余程、巧妙にカムフラージュしたにちがいない。しかし、やつらの作戦目標には、まだ、到達していないはずですから、必ず、動きだす。われわれは、それを、ただ、待っていればいいのです。上空からは、監視衛星も探索していますし」  「そうですね。では、連絡があるまで、ゆっくり、待機してください。それから、ミサイルの電子部品の交換は、明日にしますか」  「それは、核エンジニアに聞いてください。そちらは、そう急ぐことではないし、かれらの襲撃がなければ、明日でもいい」  「では、待機所にご案内します」 ウクライナ軍の現地司令官が、ロビーで待っていた特殊部隊を建物の中の待機所に、案内していった。     [74]  アメリカ中西部、ノーランドの山岳地帯の地下に作られた米国防総省軍事衛星情報分析室で、キャサリン・オズルドが、長い金髪をかきあげながら、画像情報分析官のサミュエルソンのデスクに、やって来て、一枚の写真を見せた。  「これ、今入ったばかりですが、右下の黒いところに、十一個ほどの四角い形が写っています。これは、赤外線写真ですから、人間の目では見えない暗い部分もはっきりわかる。例のトラックのようですね」  「そう見ていいだろうな。やつらは、森の中に隠れていたのか」  キャサリンの強い香水の芳香に、鼻をぴくつかせながら、サミュエルソンは答えた。 「これは、一時間前の撮影ですから、そろそろ、次の写真が入っているかもしれません」  「そろそろ、姿を見せたかもしれない。その、写真で所在が明確になったら、現地に連絡しよう」  「わかりました」  キャサリンは、画像受信室に戻っていった。  その姿を見送りながら、サミュエルソンは、  (あんなに仕事熱心なのは、ボーイ・フレンドが、いないからだ。あれだけの魅力的な、グラマーな美人が、そういう機会に恵まれないのも、こういう山の中の地下室勤務のためだ。まったく、彼女にも、僕にも因果な勤務状況だよ) と、心の中で呻いた。  そんなことで、頭が一杯だったところへ、彼女がまた、戻ってきた。  「出ましたよ。かれらの十一台のトラックが。この幹線道路に、くっきりと写っています。先頭の車だけが四灯のライトを点けている。そのあとに、二灯のヘッド・ライトだけの十台が、整然と続いている。幹線道路をK町から、B市方面に、向かっています」  サミュエルソンは、キャサリンの持参した写真を手に取った。  「そうだ。よく見えるな。非常に鮮明だ。スケールで計ってみると。K町まであと、四十キロくらいだな。さっそく、NATOの司令部経由で特殊部隊に、伝えてやってくれないか」  「わかりました。サム」  チャサリンは、ハッキリとした声で、そう答えて、立ち去った。  (まったく、才色を完備した有能な女性とは、彼女のような者を言うに違いない)  サミュエルソンは、彼女のきびきびした仕事ぶりに、改めて感嘆した。  衛星は、その後も、追跡を続けていた。       [75]  オベリンを乗せたトラック部隊が、K町に入っていった。K町は、小麦や大麦などの穀物や野菜など周辺で産する物資の集積地で、中心部に広い貨物駅を持っていた。  トラック部隊は、町の中心部へ向かって進んでいった。道路の両側に商店街が現れたが、この時刻では、開いている店はない。深い眠りに付いている町の静寂を、トラックの走行音が、破った。  トラック部隊は、貨物駅の横を通過しようとしていた。  先頭のトラックの助手席で、線路を見張り続けていた、オベリンが、運転席の隊員に突然、声を掛けた。  「ちょっと、止まれ。そこで、ストップだ」  運転手が、急ブレーキを掛けた。トラックの列は、そこで停車し全てのトラックが、ヘッド・ライトを消した。  オベリンは、すべてのトラックから、隊員を下車させ、駅前広場に整列させて、訓示した。  「ここが、作戦決行の場所だ。作戦地図には、記されていないが、B市に配属されているはずだった鉄道移動式のSSー24ミサイルを乗せた貨物車が、この駅構内に止まっているのを、おれが確認した。あそこに見える長物を積んだ貨車に間違いない。さっそく、トラックからクレーン車を下ろして、実行に着手する」  隊員らは、ヘルメットの上のランプを点けた。五台目と六台目のトラックから、組立式のクレーンを、降ろす作業が、先ず最初の段取りだった。  作業は、着実に、淡々と、澱みなく進んでいった。  別の部隊は、線路に鉄板を敷きはじめた。その上にクレーン車を通して、ミサイル搭載の列車に近づき、ミサイルを引き上げて、トラックに乗せ替える。  列車までは約五十メートル。その距離をクレーン車とトラックが通れるように、鉄板で敷きつめる。この作業が、着実に進んでいった。  二時間後、通路の敷設作業が終わった。  クレーン車を引き入れて、ワイヤーをミサイルに掛ける作業に移った。貨物車への留め金をアセチレン・バーナーと火薬で焼ききり、拘束を外し、ワイヤーに掛けた滑車で、引き上げる。ミサイルは約十メートルの長さがある。途中を、発車段数ごとに、三分割し、三つのパーツに分けて、運ぶ出すのが、かれらの計画だった。  ナターシャが、細工した小型の火薬爆弾が、ミサイルを止めていた太い鉄製の留め金を吹き飛ばした。アセチレン・バーナーの炎が、そのあとを追い、ワイヤーからミサイルの拘束が外された。  それらの、一連の作業が終わり、先頭の部分のクレーンでの引き上げが、始まったのは、もう、翌日の午前三時を回ったころだった。      [76]  軍事衛星の情報は、ニュンヘンのNATO司令部経由で、ウクライナのB市の空港に待機中のアパッチ・ヘリ部隊に送られた。  受信した通信隊員が、空港内の待機所にいたケネディー司令官のもとへ、情報を伝えに来た。そのとき、司令官は、部下の副官と談笑中だった。  「トラックの所在が、分かったようだ」  司令官は、通信部員から報告を受けたあと、副官に告げた。  「そうですか。いよいよ、その時が来ましたね」  「場所は、K町の貨物駅だ。そこに、十一台のトラックが、集結し、何か、作業をしているのが、判明した。直ちに、ヘリで、現地に向かう。皆にそう伝えてくれ」  「了解」  部隊は、臨戦態勢に入った。  隊員が、ヘリに向かって走り、搭乗をおえると、ジェット・エンジンが、吠え始め、その音が、徐々に大きくなっていった。二人の核エンジニアも、念のために同乗した。  「さあ、いくぞ」  ケネデイー司令官が、号令を掛けた。  アパッチ・ヘリは、爆音を残して、空中に飛び上がった。漆黒の空を西に向かう。コック・ピットのレーダーが、地上の地形を写し、オート・ナヴィゲーター装置が、進路を導いた。操縦士は、搭載の三十ミリ砲と短距離ミサイルのロックを解除し、発射態勢に入った。  約十分足らずの飛行で、ヘリ部隊はK町上空に到着した。貨物駅方向に機首を向けると、投光機にスウィッチを入れた。駅構内で作業をする人の群れが、光の輪のなかに浮かび上がった。  「あれだ。やつらがみつかったぞ」  ケネディー司令官が叫んだ。  ヘリ部隊は、駅構内の一点に集中した。下では、クレーン車が、ミサイルの最下段を積み込む最後の作業の最中だった。    [77]  SSー24鉄道移動式ミサイルの最下段の積み込みまで、作業は順調に続いたので、オベリンは、安心しきっていた。  (もう、ここまで、来れば、作戦は終了したも同然だ。やれやれ) と、安心感が、こみ上げてきた。  ミス・オベリンが、寄ってきて、  「われわれの作戦は完璧だわ。大成功は目前よ」 と、話しかけた。  「そうだな、皆、よくやったよ。あとは、帰るだけ。最大の山場は乗り越えたようだな」  オベリンは、珍しく、右のポケットから葉巻煙草を取り出し、口にした。ミス・オベリンは、すかさず、ジッポのライターを取り出して、それに火を点けた。  オベリンは、上手そうに煙を吐きだすと、最終段ロケット積み込みの点検に、貨物列車の後方に、歩いていった。    歩いていく途中で、オベリンは、「パタパタパタ」という、ヘリコプターの風きり音を耳にした。  オベリンは、持っていた双眼鏡で、漆黒の空を覗いたが、当然、肉眼では、ただ、黒い空が見えるだけで、何も確認できなかった。しかし、かれの危機に対す動物的な直感が、危険を探知した。すばやく、列車の影に走り込むと、大声で、  「危ないぶ。みな、避けろ」 と、大声を挙げて叫んでいた。  司令官のその警告の声に、隊員の反応は早かった。ある者は列車の床下に、ある者は、トラックの荷台に逃げ込み、腰を低くして、武器を取り出して、身構えた。  ミス・エルブリヒは、オベリンと一緒に、列車の影に駆け込んだ。男に負けず劣らずの強気な彼女だったが、いざとなっては、やはり一番、頼りがいのある男の傍に行ってしまうのは、これも、女の動物的直感からだろう。  ヘリから、投光機の光が降ってきた。隊員のヘッド・ライト以外に、真っ暗だった現場が、一気に真昼のような明るさに変貌した。  十機のヘリコプターから、降り注ぐ光の洪水のなかで、十一台のトラックとクレーン車の姿が、くっきりと浮かび上がった。鉄道敷地内に敷設された鉄板もトラックやクレーン車の轍の跡も明瞭に表れた。  地上の隊員たちは、ヘリの位置を確認すると、持っていた武器で、ヘリを狙った。最初の銃機の発射音が、闇をつんざくと、ほぼ、同時に、ヘリの機関砲が火を吹いた。  ヘリが狙ったのは、鉄道敷地外に駐車していたトラックだった。多くのトラックは、荷台の側板から運転席にかけて、一列に弾の食い込んだ跡が付き、燃料タンクを直撃されたトラックは、火を吹いて燃え上がった。  闇が一気に、真昼と化した。  ヘリの爆音と銃器の発射音とで、騒然とした修羅場のなかで、オベリンは、最後の積み込み作業を急がせ、どうにか、トラックにミサイルの最終段を積み込んだ。  そして、すでに、積み込み作業を終え、線路の構外に出ていた五台のトラックに駆け寄った。  ミス・エルブリヒも後を追った。  オベリンは、トラック群の間を、すり抜けて、先頭の一台のトラックに到着し、運転席にはい登った。ミス・エルブリヒも、その車の助手席に飛び込んだ。  そして、オベリンがエンジンを掛けた。トラックは、急発進した。あとに、四台のトラックも続いた。  そして、駅の構内をぬけると、やって来た方向には、引き返さず、左に曲がり、ウクライナ領内の深部に向けて、走りだした。    上空のヘリから、ケネディー司令官は、下界の様子を観察していた。  間違いなく、貨物列車に乗ったミサイルを、積み替えているのが、見て取れた。  そこで、先ず、機載のスピーカーで、  「下にいる諸君、君たちの作業を止め、鉄道敷地の外に出て、整列しろ」 と英語で警告した、  しかし、それは、伝わらなかった。下の隊員たちは、ほとんどが、チェチェン人で、ロシア語と北カフカーズ語系の母国語しか理解しなかったからだ。  警告をしている間に、下から銃器の発射音が聞こえた。音が連射音だったことから、ロシア製の機関銃によるものなのが、分かった。  それを引きがねにして、ヘリからの銃撃音が響いた。ヘリの乗員は、すっかり、戦闘用意が整っていたから、反撃は素早かった。そのあとは、激しい銃撃戦になった。  ヘリは、地上からの攻撃で、四機が撃墜された。地上の損害は、さらにひどく、一時間ほどの激戦のあと、約三十人程の死体が、駅の内外に横たわった。 司令官のケネディ中佐は出発前に  「戦闘になった場合、銃器の狙いはあくまで、相手の人間だ。間違っても、ミサイル本体を銃撃しないように」 と、乗組員に注意していた。それは、核兵器の誤爆を回避するのが目的だったが、隊員らはこの指示に忠実に従っていた。そのため、ミサイルを積み替えたとみられるトラックも、標的から外され、被弾は少なかった。  ケネディー中佐の搭乗ヘリは、高度が高く、地上の反撃をかいくぐり、無事だった。 また少し、高度を挙げて、地上を観察すると、駅郊外の駐車場に止まっていた一台が急に動きだしたのが、見えた。  「あのトラックを追跡しろ」  中佐は、パイロットに、命じた。    [78]  先頭のトラックに駆け込んだミス・エルブリヒは、オベリンが、道路を左に曲がっことに驚いた。  「あれ、来た道を戻らなくていいの」  オベリンに聞いた。  「戻らないよ」  「それは、どう言うこと」  「ウクライナを横断していく」  「だって、上からヘリが、追って来ているよ。逃げきれる」  「やってみないと分からない」  そういう短い会話だった。  ミス・エルブリヒは、ナターシャが提案した善後策の作戦を知らされていなかった。 なにしろ、事態は緊迫していた。上空から、六機のヘリが、追ってきていた。  オベリンは、アクセルをいっぱいに踏み込んで、トラックの車速を最大に上げた。  トラックは、加速度を付け、道路を疾走した。  ヘリからは、時折、機関砲の雨が降ってきたが、パラパラと荷台の屋根に当たるだけで、運転席は、どうにか無事だった。  後ろの四台も、どうにか付いてきた。  B市に近づいたが、オベリンは、市街に向かうのは止めた。市街地を避けたバイパスに向かい、さらに、速度を速めた。  トラックは激しく左右に揺れ、ミス・エルブリヒは、必死で、車内の把手にしがみついた。オベリンは、下から突き上げる衝撃に、腰を上げて耐えながら、無我夢中でハンドルを操った。  すると、行く手に長いトンネルが、見えてきた。 オベリンは、スピードを緩めず、真っ正面から、トンネルに突っ込んでいった。    上空から、追っていたケネディー中佐のアパッチ・ヘリは、トラックがトンネルに消えたのを見て、山を登って、トンネルの出口の方へ先回りした。  後続の五機も、追従した。  山を越えて、下り、トンネルの出口の上空まで来て、トラック隊の出てくるのを待った。  トラック隊は、なかなか出てこなかった。ケネディー中佐は、機の高度を下げて、トンネルの出口に機首を向けて、ホバリング態勢に入った。当然、機関砲の狙いは、出口に定めている。  すると、ややあって、トラックが出てきた。ヘリから、機銃掃射が一斉に行われた。出てきたトラックは、前輪を射抜かれて、方向性を失い、進路右側の草地に、突っ込んで、止まった。  二台目のトラックが、出てきたのは、また、それから、しばらく経ってからだった。こんどは、中佐の後ろについていたヘリが、追尾して、後ろの車輪を狙った。  後輪は、しぶとく、ゴムの破片を振りまきながら、持ちこたえ、四輪ともを損傷して止まるまでには、かなりの、時間がかかった。二機のヘリがこれを深追いし、中佐のヘリからは、相当、遠くまで追いかけていった。  三台目が、出てくるまでは、更には、時間が掛かった。中佐のヘリと残る二機が、出口を見据えて、ホバリングしていた。すると、いきなりトンネルを出てきたトラックの後部荷台から、激しい機関銃の掃射が、ヘリ目掛けて、襲いかかり、中佐のヘリの後部にいた一機のパイロットを直撃した。ヘリは、きりもみ状態になって、地上へ落ちていった。もう一機のヘリもローターを直撃され、操縦不能に陥り、道路左の空き地に不時着した、。  そのトラックを中佐は追いかけ、帰ってきた二機とともに、掃射を浴びせた。三台目のトラックは、左側の車輪を大破し、左側を下にして、道路上に横転した。  それを見て、三機のヘリは、また、トンネル出口に取って返した。  四台目のトラックが、出てくるまでには、さらに、時間が掛かった。  ヘッド・ライトを消して、四台目のトラックは、ゆっくりとしたスピードで、トンネルを出てきた。そして,出口の途中で停車した。  その様子を見て、中佐のヘリは、高度を下げ、路上にすれすれに、ホバリングしながら、出方を探った。すると、トラックは急発進し、ヘリ目掛けて突っ込んできた。ヘリは、急上昇しようとしたが、そうした機敏な動作は、航空機は苦手だ。トラックの屋根が、ヘリの足を引っかけて、引きずった。ヘリは、路上に引き倒され、間もなく、炎上した。中佐は、パイロットの反対側の席に座っていたため、横転したときは、上になった。急いで、安全ベルトを外して、ヘリの外に転げ落ち、駆け足で、機体から遠ざかった。後ろで、ヘリが爆発する大音響が聞こえ、振り返ると、赤い炎が一気に上がり、炎上するのが見えた。トラックは、横転していた。  ヘリは、二機になった。うち、一機が路上に降り、中佐を救助した。  (トラックは、五台だった、うち、四台が出てきたから、あと一台だ)  中佐は計算した。そのあと一台を待って、二機のアパッチは、空中で、待機した。  「こんどは、ミサイルでやっつけてやる」  命からがらで、逃げ延びた中佐は、完全に頭に血が登っていた。  かれ自身が、出撃前に言った一  「ミサイルが、乗っているから、誤爆をさけるために、トラックは狙わないように」との注意を完全に忘れ去っていた。  照準をトンネルの出口に、ピタリと合わせて、二機のヘリは、ホバリングしていたが五台目のトラックは、ずっと、姿を現わさなかった。十数分も、ホバリングを続けて、中佐は、着陸を決断した。  (トラックの内部を調べておこう)  中佐はそう考えた。  二機のヘリは、並んで路上に着陸した。中佐は、横転したトラックに近づき、運転席を調べた。なかで、戦闘服姿の若い男が、呻いていた。足をダッシュ・ボードに挟まれ顔中、血まみれだった。男が動けないと見て、中佐は、車の後ろに回り、真後ろのコンテナーのフックを開けた。  荷台には、何も乗っていなかった。  中佐は、  「くそ。図られたか」 と叫んで、拳を握りしめた。そして、ヘリに戻り、  「トンネルの入口の方へ戻れ」  と命じた。しかし、中佐の乗り込んだヘリは、急降下したため、着陸後、ジェット・エンジンが、停止したままで、再起動に手間取った。  「えい、こんな時に。向こうのヘリに乗り換える」  そう言って、もう一台にヘリに向かった。  もう、一台のヘリは、順調に空中に舞い上がった。サーチ・ライトをフル点灯して、越えてきた山に向かって、唸りを上げて、飛行していった。   [79]  「どうだ、うまくいったろう。巧妙な作戦だな」  運転席のオベリンが、助手席のミス・エルブリヒに、自慢気に声を掛けた。  「まったくだわ。あなたは、さすがの策士ね。あなたの悪知恵には、いつも感嘆するわ」  その、感嘆の言葉にオベリンは答えなかった。  これらは、すべて、ナターシャの進言によるものだったが、そのことを、ミス・エルブリヒに伝えても、意味がないものと思われた。  オベリンの運転するトラックは、いま来たばかりの道を引き返していた。  「あの、トンネルは、中央分離帯が、真ん中で途切れているんだ。すべては、事前に調査済みのことだ。だから、足で調べた情報が、重要なんだよ。ヘリのやつらには、そんなことは、皆目、分からないだろう」  オベリンは、ミス・エルブリヒを右腕で抱き寄せた。彼女も素直に誘いに従った。そして、頭をオベリンの太股の上に乗せ、安らかな笑顔でオベリンの髭の顔を見上げた。  トラックのディーゼル・エンジンの規則的な振動が、心地よかった。トラックは、ヘッド・ライトをスモールにして、慎重に道を進んでいった。バイパスを抜ければ、間もなく、仲間と落ち合う森の入り口に差しかかる。  そこは、こちらに来るときの休憩地とは違い、ポーランドとの国境に近い、森林だった。  エブリンは、脇道に入った。幹線道路より、狭いが綺麗に舗装された道は、快適だった。それに、この道は、両側から木が覆いかかり、上空からの視認が、夜には、ことさら、難しかった。オベリンは、この道で、時間を稼ぐつもりだった。  (空から、見つけるのが難しい道だから、追手も焦るだろう。そのうちにわれわれは距離を稼げる)  かれはそう考えた。     [80]  上空から引き返したケネディー中佐のヘリは、一端、山沿いに上昇し、頂上を過ぎてから、下降し、トンネルの反対側に出た。しかし、そこにトラックの姿はなく、ヘリは来た道に沿って直進した。そのまま行くと、K町のK駅に戻る。  へりは駅に、帰って来た。  上空から、見ると、線路を覆っていた鉄板は残っていたものの、トラックは一台だけの残骸があり、残りの五台は消えていた。  線路上の貨車に乗せられていたミサイルの影もなかった。  中佐は双眼鏡で、幹道路の轍をよく観察した。  駅の駐車場からの、轍は幹線道路の左右に別れて、延びていっていた。  「そうか、やつらは、ダミーのトラックをわれわれに追わせ、ミサイルを乗せたトラックは、やって来た右の方向に戻って行ったのだ」  中佐は気が付いた。  そして、その方向にヘリコプターを向かわせた。  しばらく、道路上を追っていったが、それらしきトラックは、まったく発見できなかった。ポーランド国境近くまで行っても見つからず、仕方なく、中佐は、B市の空港の基地に引き返すことにした。  作戦は完全に裏を掻かれ、完敗だった。中佐は、ほぞを噛んだ。  「やつら、ただでは済まないぞ」 と、苦虫を噛みつぶした。  重い気持ちを抱いて、ヘリは、空港に帰ってきた。   [81]  一目散にポーランド方面へ取って返したオベリンのトラックが、まだ、ウクライナ国内の待ち合わせ場所に到着した。そこには、四台のトラックが待っていた。  オベリンと他の隊員らは、再会を祝し、作戦の成功を喜び合った。  「あとは、一気に、国境を抜け、ポーランドのアジトで、車を乗り換えるだけだ。こうしたオぺレーションは、最後の仕上げが肝心だ。最後まで、気を抜かずに頑張ってくれたまえ。気を引き締めていこう」  かれは、そう隊員を激励した。  もうすぐ、夜明けが迫っていた。そろそろ、朝日が昇る時刻がやってくる。その前に国境を越える必要があった。  (積み替えは、早朝になるだろう)  オベリンは、そう踏んでいた。  (そして、まず、国境を越えねばならない)  そう考えて、かれは、偽造の建設機械輸出認可状を、取り出した。関門で、それを見せれば、トラブルを招くことなく、国境を越えられる。整然とトラック列は、進んで行ける筈でだった。  五台のトラックは、脇道から幹線道路に出て、一列渋滞で整然と進んでいった。上空に、監視する飛行機や、ヘリコプターは、見えなかった。  (残ったヘリは、引き上げたのだろうか)  オベリンは、上空を見上げたが、早暁の空が広がっているだけで、飛行物体は一機も無かった。  トラック隊は、スピードを上げた。トラック性能ぎりぎりのスピードで、疾走していった。  国境の検問所には、車がほとんどいなかった。まっすぐに進んだトラック部隊はそこで、一時停車した。係官が、寄ってきて、出国書類の提出を求めた。オベリンが、偽造書類を提出した。係官は、書類を眺めていたが、とくに、疑問は感じなたっからしく、スタンプを押すと、すぐに返してきた。トラックの荷台を確かめることもなかった。  「オーケー。行っていいよ」  係官が、合図をした。オベリンは、書類を受け取ると、その合図に従って、車を進行させた。残りの四台が、それに続いた。  検問所を無事、通過したトラック部隊は、また、スピードを上げた。しかし、運転席はどれも上機嫌だった。鼻唄まじりに、車は進んだ。  うち二台の荷台には、隊員が詰め込まれていたが、その中も、話声で充満していた。 先頭車両で、ミス・エルブリは、オベリンの頬にキスの雨を降らせた。  「まったく、あんたは立派よ。こんな大作戦をこんなに完璧にやり遂げようとしているんだもの。最高の男だわ」  うっとりとした目つきで、オベリンの横顔を眺めた。  「まだ、終わったわけじゃないんだ。うしろの荷台の物を無事、船に積み込んで、作戦は完遂する。パリに帰るまで、そういう態度はお預けだよ」  「でも、パリに帰ったら、伯爵がいるのよ」  「かれが、仕掛けた仕事なのだから。われわれは、かれの駒に過ぎないんだよ」  「それは、そうね。だから、わたしには、辛いのよ」  「ところで、君は、かれの何なんだ」  「こんな場所で、唐突な質問ね」  「だから、できる」  「わたしを自由に出来る権限を持っている人とでも言うのかしら」  「きみは、愛してはいないのか」  「ちゃんちゃら、おかしいわ。愛なんて、ないわよ」  「でも、きみは別れられないんだろう」  「そう、いまはね。だって、わたしは、かれの奴隷のようになっているんだもの」  「奴隷?]  「そう、奴隷ね。奴隷でなければ、しもべね。なんでも言うことを聞かされてしまうの。そういう関係なのよ」  「おれは、どうなんだ」  「どうって」  「だから、おれのことは、どう思っているんだ」  「好きよ」  「それなら、もう、伯爵の言うとおりになるなよ」  「そうしたい。あなたがそうしてくれたら」  「そうするさ」  ポーランド国内、ウクライナ国境から百二十キロ、ルヴリンのアジトが近づいてきていた。     [82]    ウクライナ共和国のB市の空港の基地に矢折れ刀尽きて帰還したケネディー中佐は取る物も取り合えず、NATOの司令部に作戦失敗と被害の報告をした。  ーー 当方はヘリコプター五機と隊員三十人を失いました。当地にはまだ、三十人の隊員と九名の核兵器専門家が、残されていますが、ヘリは一機が残っただけである。できれば、応援と帰還のためのヘリの派遣を願いたい。また、標的のトラックはポーランドとの国境付近で見失った。なお、核兵器専門家の当地での核ミサイルのマイクロ・チップ交換作業は行うべきか否かーー  報告は以上だった。  NATO司令部から、折り返し、返電が来た。  ーー 帰還用のヘリは、二機派遣する。また、トラックの捜索は、ほかのチームが、ポーランド国内に入って、実施する。核ミサイルのチップ交換は、現地で速やかに実施するようにーー  返電は、チップ交換作業の速やかな実施を求めていた。  それには、ロシア側の技術者の協力が、不可欠だ。彼らは、現地に来ているはずだった。中佐らは、彼らの行く方をウクライナの当局者に尋ねた。  「かれらは、すでに、当地到着し、K町に向かった」  それが、当局者答えだった。    K町の共産党支部に宿泊していたロシアの核エンジニアたちは、朝になって、K駅周辺で銃撃戦が行われたことを知った。ただちに、その現場に行くと、そこは、鉄道移動式のSSー24が、足止めを食ったはずの場所だった。そして、そのミサイルが、前夜に、そっくり姿を消してしまったことも、分かった。  本来なら、かれらが、米国の技術者と協力して、米国の技術者が持参する代替の日本製チップを交換しなければならない物だった。  (もし、交換しなかったら、誤爆発の危険性が残る)  そんな危惧を抱きながら、彼らは、B市の基地に戻ってきた。  帰ってきたかれらを同行して、サイロ固定式のSSー24のチップの交換作業は、順調に進んだ。ここにある十一基のミサイルのチップが、交換され、誤爆発の危険性が排除された。  (しかし、一基だけ、危険性をかかえたままのミサイルが、国外に持ち去られた)  ケネディー中佐は、改めて、ほぞを噛んだ。  迎えのヘリは、翌日、やって来た。残された特殊部隊員と核技術者たちが、乗り込んだ。敗軍の将・ケネディー中佐も乗り込んだ。  みな、ふがいない結果に、意気はそろうしていた。うちひしがれた気持ちを乗せた帰還ヘリのなかで、全員が、疲れ切って、眠った。      第四章 セトル・ダウン(決着)    [83]  米国国防総省軍事衛星情報分析室のキャサリン・オズワルドは、特殊部隊が見失ったトラック部隊の行く方を、衛星写真で追跡していた。  早朝の写真にポーランド国境の検問所を通過するトラックの一団が写っていた。  (検問所を抜けて、何処へ行くのか)  彼女は、次の写真の入電を待った。  早朝の斜めの陽光が、トラックの群れの影をくっきりと地上に投影していた。その影の特徴から、彼女には、  (絶対、見失わない) という自信があった。  次の写真は、検問所から約六十キロほど、進んだ地点のものだった。まだ、隊列は崩れずに道路を進んでいた。  (追跡すればまだ、間に合う。NATOは、別の追跡部隊を出す、と言っているからこの情報は入れておこう)  そう考えて、正確な地点を計算し直して、数値に置き換え、コンピューターに入力した。データは、自動的にNATO軍に送信された。  ところが、次に届いた写真からは、トラックの隊列は見事に消滅していた。  彼女は、その情報もコンピューターに入力し、注釈の電文を添えた。  ーー 今朝十時二十三分撮影の写真から、トラックの影が消滅した。場所は、ワルシャワ東方の小都市、ルヴリン市付近であるーー  そう発信したあと、その周辺の画像を拡大し、写真によるトラック軍の探索作業に取りかかった。      [84]  ポーランド国内、ルヴリン郊外の自動車修理工場のガレージに、五台のトラックが、一列で、入ってきた。広大なガレージは、すっぽり天井が屋根で覆われていて、外からは見えない。  トラックの一団が入ると、入口のシャッターが、素早く、閉じられた。  トラックからは、約二十人の戦闘服を着用した軍団が、降り立った。オベリンとミス・エルブリヒも、疲れ切った表情で、先頭のトラックから、降りてきた。  「ここで、ミサイルをあちらに待機中のタトラ三台に積み替える。見てのとおり、あのタトラは、新品だ。運転手も付いている。タトラは、ミサイルを積んで、ワルシャワ経由で、グダニスク港に向かう。港には、日本の自動車輸出船が、待っているはずだ」 オベリンは、ミス・エルブリヒに、説明した。  「そうだわね。それが、われわれの計画だったわ。作戦は計画通りに進んでいる、ということね」  オベリンは、勢ぞろいした軍団に向かって、訓令した。  「ここで、われわれは、解散する。みな、御苦労だった。作戦参加費は、ここに小切手があるので、取りにきてほしい。あとは、自由だ。どこかで休養するのもいいし、家族の所に帰るのもいいだろう。祖国は、まだ、混乱状態だが、四月には、われわれの祖国のための新しい作戦が、始まる。そのときは、また、いっしょに戦おう」  そう言って、締めくくった。  軍団は、解散した。生き残った者たちは、三々五々、思い思いに、それぞれの道を急いだ。  オベリンとミス・エルブリヒは、車でワルシャワに向かい、飛行機でパリに帰る計画だった。  タトラへの積み込み作業は、半日がかりだったが、夕方には、終了し、三台の大型トラックは、北へ向けて出発した。      [85]  軍事衛星の拡大写真を分析していたキャサリン・オズワルドは、それまで数枚の写真に写ったトラックの位置と走行距離と時間から、トラックの平均スピードを割り出した。  その平均速度を使って、トラックが消えた写真の撮影時間と消える前の撮影時間との差から、消えたと思われる位置を計算した。それは、ルヴリン市郊外の草原の中に四角く見える建物だった。  (形からすると、倉庫のようにも見える、工場かもしれない。とにかく、大きな平屋建ての建築物だわ)  彼女は、その大きさも計算した。  約五百平方メートルだった。  そして、建物の色は灰色か銀色と推測した。  北側に、光を強く反射し、輝いている所があった。  それは、池か沼と推測されたが、光の反射の具合から、彼女は、水草が繁った池と推理した。アヒルか鵞鳥が水面を泳いでいるような映像も、最大に拡大すると、見て取れた。 建物の脇の広場のような所には、クレーンのような長い棒を持った装置が設置されていた。ドラム菅のように丸い積載物が、積んであるのも、確認した。裏の広場のような場所には、数台の車が放置されているのが、分かった。  これらの情報を総合して、彼女は、その場所は、  (自動車の修理工場のようだ) と推理した。  彼女は、この推理を、先任分析官のサミュエルソンに、伝えた。かれは、彼女の説明に一々、頷き、納得した。  「さっそく、NATO司令部に送ろう」  彼女は、その情報を、NATO直結のコンピューターに入力した。     [86]  NATOの応援部隊は、アパッチ・ヘリコプター三機に十五人が搭乗し、軍事衛星情報分析室から送られた偵察情報に基づいて、ポーランド南東部のルヴリン市郊外のその建物をピンポイントで、探索した。  その前には、ウクライナからポーランドに入る幹線道路沿いを、嘗めるように、探索飛行し、消えたトラックを追ったが、トラックは見つかっていなかったから、この情報は、貴重だった。衛星写真の分析は、トラックの群れが、この建物で消えているのを、示していた。  三機が、分散して、市内上空を克明に探査しても、五台のトラックの影は見つからなかったが、いまや、標的は、目前だった。赤外線探査装置や、レーダーなどの最新装置も使用しても、まったく、影は捕らえられず、捜索は、膠着状態に陥っていたから、このように、的確に目的を発見できたのは、まさに、衛星での探索技術のお陰だった。   NATO本部と無線連絡を取った隊長は、  「目標を発見した。これから、着地し、内部を捜索する」 と連絡した。  三機のアパッチのうち、一機が、まず、着陸することにし、残る二機は空中で待機した。その一機が、着陸した。  乗っていた特殊部隊員がヘリから、飛び下り、一気に建物の入口に走った。そして、入口のシャッターを、こじ開けた。  そこには、五台のトラックが、並んでいた。ずっと、追いかけてきた標的だった。隊員らは、銃器を手に、トラックに近づき、運転席のドアーを順番に開けていった。だれも、居なかった。続いて、荷台を捜索したが、そこにも人は居らず、ロープや板などが散乱していた。荷物を覆っていたらしい大きなシーツも残されていた。  捜索を終えて、屋外に走り出た隊員が、上空の隊長機に、手で合図し、トラックはあったが、無人であることを告げた。  屋内に残った隊員らは、逃げた者たちの、痕跡を求めて、室内を探索した。  残されたトラックの脇の地面のうえに、太いタイヤのスリップ跡六本が見つかった。幅が広いため、大型トラックのものと考えられた。しかも、相当、重い荷物を積んで発進したらしい。  さらに、奥にクレーン車が残されているのが見つかった。  これで、逃走した者たちが、ここで、トラックを乗り換えて行ったことが、確実になった。  隊員らは、それだけ、確認して、その場所を離れた。  ローターを回転させながら、待機していたヘリコプターに戻り、無線で、隊長機に、以上の判断を連絡した隊員らは、逃げた大型トラック三台を追うべく、飛び立った。     [87]  ワルシャワ空港の出発ラウンジで、搭乗待ちをしていたオベリンとミス・エルブリヒは、椅子に座って、ロビーのテレビに写るニュースを見ていた。  ーー CNNのレポーターが、ウクライナから、お伝えしますーー のニュース・キャスターのコメントで、始まったそのニュースは、  ーー 本日未明に、ウクランナ北西部K町の鉄道駅で、NATO特殊部隊と地元独立組織の人民軍が交戦、激しい戦闘が行われ、兵士約百人が死亡しました。  また、K町に停車していた核ミサイル運搬用の貨物車から、ミサイルが、盗まれているのが判明しました。  さらに、当地から五十キロほど離れた、B市近郊の幹線道路上の第二現場では、NATO軍の五機のヘリコプターが、撃墜されているのが見つかり、トラック五台が横転しているのも、発見されました。逃走したトラックを追跡したヘリコプターが、交戦のすえ、墜落したものとみられます。  ウクライナでは、核兵器の撤去をめぐって、政府と議会が対立、住民を巻き込んで、激しい議論が、起こっており、撤去に反対する人民組織が、密かに結成されたとの情報もあり、移送を阻止しようと武装決起した反対組織が、ミサイルを横取りしようとするのを、ウクライナ政府からの要請を受けたNATO軍が、防戦したものと思われますーー。  ニュース・レポーターは、この戦闘を人民組織の決起と伝えていた。  「世の中は、こんなものだ。テレビのニュースなんて、この程度のものだよ」  オベリンが、ミス・エルブリヒに語りかけた。  「確かに。マスコミの情報は、半分だけしか正確でない、というのは事実だわ」  「ウクライナ政府が、これでは、だまっていないだろう。国内の治安が不完全だと世界に恥を晒したようなものだ」  「申し訳ないことをしたわ。政府には」  「せめて、お詫びの意味で、お土産でも買ってやろうじゃないか」  「大した物は、ないわよ。この国には。それに、ここはウクライナではないじゃないの」  「気持ちの問題だ。作戦成功の記念に、というわけだ」  エルブリヒは、免税店に、彼女を連れていき、ポーランド名産の銀のペンダントを買って、贈った。  「うれしいわ。あなたにプレゼントをされたのは、初めてだもの。というより、男の人に、貰ったのは、久し振りよ」  「伯爵はくれないのか」  「個人的には、貰ったことはないわね。屋敷にある宝石は、みな、伯爵の物。それを使わせて貰っているだけ。私の物のようで、そうではないのよ」  待っていた搭乗便が、エプロンに入ってきた。  「エール・フランス、パリ行き一三五便は、只今より搭乗手続きを開始いたします。搭乗のお客様は、六番ゲートまで、お出でください」  空港のアナウンスが、女性の声で、そう伝えていた。   [88]  NATO特殊部隊の作戦失敗は、司令部で、大きな屈辱と受け止められたが、事実関係は、テレビ・ニュースのように、歪められることなく、ワシントンのぺンタゴン(国防総省)にも伝えられた。  特殊部隊担当の、ウイリアム・マッコーレー中佐に、その報がもたらされたとき、愛称で「ビル」と呼ばれる中佐は、  (これで、ウクライナの核兵器一基が、われわれの監視外に置かれることになる) と危機感を抱いた。  その危機感は、国防大臣も同じだった。国防大臣は、ただちに、ホワイト・ハウスにこの情報を伝えた。  作戦不成功を聞いたクリキントン大統領の機嫌は悪かった。  「世界で一番、優秀な装備と人員を誇るわが国の軍隊が、たかが、テロリストの一団にこうもやすやすと、してやられるとは、どういうことだ」  大統領は、ジャクソン補佐官を、詰った。一緒に、大統領の反対側に座っていたメイヤー国務担当補佐官が、取りなした。  「それにしても、かれらの手口は、鮮やかでした。予想できない事態が、起きたのです」  「予想できない事態。そんなことは、折り込み済みで行くのが、プロというものだろう。だてに国民の税金から給料を貰っているわけではないだろう」  「それは、おっしゃる通りです」  「阻止できなかったうえ、見失ったのは、いかにも不味い」  「そのとおりです」  「わたしは、エミチャン大統領に、報告すべき言葉がない。こちらで処理するといっておきながら、こうなっては、国辱ものだな」  大統領は、古めかしい言葉を使った。  「ですが、問題のチップの交換は、すべて終了しました」 ジャクソン補佐官が、話題を変えた。  「それが、唯一の救いだな。それは、よくやった、と言っておこう」  「いちおう、これで、誤爆発の危機は、遠ざかったわけだ」  「そうです。盗まれた一基を除いては」  「だから、その一基を、早急に捜し出さなければならない」  「それは、鋭意、やっております」  ジャクソン補佐官は、大統領に嘘を付いた。  事実は、応援の探索部隊は、発見できずに、諦めて、ミュンヘン郊外のNATO基地に引き上げていたからだ。    [89]  逃げた大型トラックの追跡を始めた三機のアパッチ・ヘリコプターは、幹線道路沿いに北上し、三台と思われるトラックを追ったが、発見できなかった。  それは、三台のトラックが隊列を組まず、一台ずつ、走っていったのと、形が全て異なって、ほかの走行車両と区別がつかなかったからだ。  荷物を積んだ大型トラックは、ワルシャワとグダニスク間の産業道路には、たくさん走っている。上空からの偵察で、その中から標的の車両を捜し出すのは、至難の技だった。  隊長機はNATO司令部に、無線で連絡した。  「標的を発見できず、基地に引き返します」   司令部は、了解し、三機のヘリは、反転し、基地への帰還進路を進んで行った。        [90]    ポーランドのバルト海沿岸の港町、グダニスク港の大岸壁に、日本国籍の自動車運搬船が接岸していた。  日本からの輸出自動車を下ろしたあと、帰りの船は、ポーランドからの輸出品を積載していく。  この日は、その中に、珍しく、大型トラックとそれに載せられた発電所建設機械があった。  積載待ちの品々に混じって、税関の検査を受けた機械類は、トラック三台に載せられたまま、船の船腹に吸い込まれていった。  検査は簡単だった。外貨が欲しいこの国には、滅多にない高額の輸出品だったから、係官も現物をチェックする事はしなかった。すべては、書類審査で、偽造書類は完璧だったから、すんなり、検査を通過した。  船腹の貨物室に入れられ、船底にフックとワイヤーで固定されたトラックは、ただ、就航の合図を待つだけだった。  船は、夜、出航した。 北上して、バルト海に出て、デンマークのコペンハーゲン沖の狭いオーレ海峡を通過し、ノルウェー沖の北海に出るコースを行く長い航海が、始まった。  北海に出たあとは、南下し、オランダのアムステルダムで、荷物の積み卸しを行う予定だ。   船は、翌朝、オーレ海峡を通過し、ノルウェー沖に出た。  バルト海では海はないでいたが、海峡を越えて、ノルウェー沖に出た途端に、時化に変わった。荒波が甲板を洗い、激しい雨が船を襲った。船は左右に揺さぶられ、上下にピッチングを繰り返した。  昼ころまでは、その状態が続いたが、夕方になって、南下を始めたころには、時化もおさまり、快適な航海になった。  船員達はやっと、落ちついた海に一安心し、夕食を取って、しばらく、思い思いに寛いだあと、寝室に入っていった。  船は、昼間の時化で、かなり西に流されていた。それを取り戻そうと、全速力で南に向かっていた。船倉で、大型のディーゼル・エンジンが、唸りを挙げていた。  ほとんどの船員が寝ていた夜十時を過ぎたころ、第一の爆発音が、一番下の船倉から聞こえた。  火災警報が鳴り、緊急事態を伝えるベルの音が、全室に響きわたった。  船内は、パニックに陥った。寝巻き姿の船員たちが、逃げまどい、大声を上げて救いを求めていた。  船長は、自分の個室にいたが、避難上の指示を特に出す暇もなく、事故は急速に被害を広げていった。  最初の警報で、船室の消火装置が作動したが、それは、焼け石に水だった。すでに第一の爆発で、船倉に大きな穴が開いていた。海水が激流となって、船内に流れ込み。船は沈み始めた。  そのとき、第二の爆発が起きた。猛烈な火が船倉から吹き上げ、人間には打つ手がない状態になった。そのあと、ロケットの発射音のような、轟音が聞こえ、船の横腹に固く、重い物が激突し、船腹を突き破った。  船は、大音響とともに、沈没した。船首が持ち上がり、船体は真っ二つに折れ曲がっって、海に沈んでいった。  火災にも生き残った船員たちは、われ先にと、海に飛び込んだ。必死に、泳いで逃げる船員達の後ろで、沈んでいく船の方へ引き寄せる激しい水の流れが起きた。  それに、引き寄せられ、泳いでいる船員達の何人かが、船の沈没の最後に、激流の渦に飲まれていった。  黒い海の上で、空をも焦がす大きな赤い炎が、漆黒の空を染めた。  船に積まれた旧ソ連の戦略核ミサイル、SSー24一基は、誤動作が危険な爆発制御用マイコン・チップを抱えたまま、爆発し、北海の海底に沈んだ。  しかし、核爆発は、起こらなかった。    [91]     パリ市内で一泊したオベリンとミス・エルブリヒは、翌日、同市郊外、ランブイエのル・ノートル伯爵の邸宅に戻って来た。  タクシーを降り、玄関に立った二人を、伯爵は笑顔で迎えた。  「作戦の遂行、御苦労さん。見事な成功だったよ。わたしの生涯で最高の部類の成功だ。なにしろ、あのNATO軍を相手に、見事に裏を掻いてやったのだからな。最高の気持ちだ。きみたちは、ここで、ゆっくり休んでくれたまえ」  伯爵は両手を差し出して、二人と握手した。  「ありがとうございます。ですが、われわれは、休んでいる訳にはいきません。次の仕事が、待っていますから」  オベリンは、断固として言った。 伯爵は聞き返した。  「われわれが、か?]  [そうです、われわれ、二人です」  「二人で、出ていくというのか」  「その積もりです」  「ミス。きみはわたしの恩を忘れたのかね」  伯爵は、ミス・エルブリヒの方に向き直って聞いた。  「そんなことは、ありませんが、もう決めたのです」  彼女も、きっぱりと言った。  「今晩は、ここで、休ませて頂きますが、あした早くに、出て行くつもりです」  伯爵の諦めは早かった。  「では、今晩は最後の晩餐だな。そういうことなら、豪華に行こう」  「それは、どうも」  二人は、それぞれの個室に上がり、戦闘服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びて、体を休めた。  ミス・エルブリヒは、これが、伯爵の館での最後の日になるか、と思うと、身の回りの品々が、急にいとおしくなった。  熱いシャワーもバスタブもボディー・シャンプーもすべてが、彼女のために伯爵が用意した。絹のネグリジェとナイト・ガウント、柔らかなベッドと滑らかなシーツと。みな、この屋敷で彼女が使い慣れた品々だった。  それらの品々を慈しむように、彼女は、頬に当てた。そして、戦闘服の中の汗を吸い込んだ下着を脱衣籠に投げ入れて、生まれたままの姿になった。  右腕と首に擦過傷が、あった。バスに入るとその傷が湯の熱で痛んだ。  (これが、戦いのあとの鈍い快感なんだわ。いつも)  彼女は、若いころ、ゴラン高原での戦いのあと、野戦キャンプで浴びた急拵えの簡易シャワーの気持ち良さを思い出していた。  (あのころは、あれでも、いい心地になったのに。わたしも贅沢になったものね)  ゆったりと、湯船に浸かり、汚れた肌の垢を洗い落とした。泥だらけの髪の毛にもシャンプーをじっくりしみ込ませて、洗い流した。  すっかり見違えるような心地になって、最後に、香水を使う時になって、彼女は、すこし、ためらった。  (もう、マダム・ミツコは、やめよう。きょうは、シャネルの五番だわ)  そう心に決して、この強い香りの香水を、首と胸と脛に噴霧した。  そして、夕食までの時間、下着を着けず、絹のネグリジェとシーツに包まれて、ぐっすりと眠った。   第五章  クロージング(終幕)    [92]  二人が眠っているあいだに、伯爵は、書斎でフランス国営テレビのニュースを見ていた。  トップ・ニュースが始まった。  ーー 昨晩、ノルウェー沖の北海で、日本国籍の自動車運搬船が、爆発、炎上し、沈没した模様です。今日の午後、近くを通りかかった客船が漂流していた乗組員を発見、救助し、その証言から、事故発生がわかったものです。  証言によると、昨晩午後十一時ころ、船の最下部の貨物船倉で、爆発音が聞こえ、二度の爆発のあと、船は沈没したということです。生存者は、ほかに四名が確認されています。  この自動車運搬船は、ポーランドのグダニスクから、オランダのアムステルダム港に向かう途中で、大型の建設機械などを積んでいましたーー。    伯爵は、このニュースに、最初は、かなり驚いた表情を見せた。が、すぐに、いつもの無表情に戻った。  机の引き出しから、パイプ煙草を取り出して、パイプに詰め、火を点けて、吸いながら、  (海に消えたか。われわれの獲物は。最後の最後に)  こう心中で呟やいた。    ディナーの席で、伯爵は、このニュースの話をしなかった。ぐっすり、熟睡していたオベリンとミス・エルブリヒは、ニュースを知らなかったが、かれらは、作戦は大成功だと信じきっていた。伯爵は、その彼らに落胆の気持ちを味あわせたくなかった。  上質の燕の巣のコンソメで始まったディナーは、平目のバター焼き、鴨のプロヴァンス風グリルと進んでいった。  三人の話題は、もっぱら、作戦のそれぞれの場面だったが、伯爵は、いちいち、感嘆の表情で、二人の手柄話しに相槌を打ち、その結果の産物が、海に消えたことには、一切、触れなかった。  ディナーは、最後のケーキとフルーツで終わった。  疲れている二人は、久し振りの御馳走に満腹して、睡魔に襲われ、真っ直ぐに、自室に戻って、また、深い眠りに陥った。  伯爵は、書斎に戻って、考えた。  (物がなくなっても、契約は有効だ。あくまで、これは積み荷の海損事故だから、保険が出るだろう。保険金をやつらと折半することになるのだろうか)  そう考えて、伯爵は、国際電話でロンドンを呼んだ。ロイズ保険組合のエージェントに連絡を取るためである。  ついで、日本を呼んだ。依頼者に海難事故の発生を伝えるとともに、発送した物の送達が無理になったことで、保険による損失保障を話し会うためである。   [93]  英国、ロンドンのシティーにあるロイズの保険事務所で、保険ブローカーのチャールズ・モルトンは、長い付き合いのフランス人の依頼人から、保険金支払いの請求を受けた。  ーー 一九九四年二月十一日、ノルウェー沖の北海で起きた日本船籍の自動車運搬船の沈没事故で、わが社は、三百万ドル相当の発電所建設機械を失った。この保険料二百五十万ドル分の支払いを求めるーー  請求書類には、そう書いてあった。  モルトンは、直ちに契約を結んでいる損害調査会社に、調査を命じた。    北海は、ノルウェーとイギリス、デンマーク、オランダ、ドイツの諸国を沿岸に持っている。ドイツを除く四カ国はノルウェーとイギリスを中心に、海難事故調査団を結成し、事故原因の調査に当たることになった。  イギリスからは、サルベージ船が出航し、ノルウェーからは、特殊潜水部隊が派遣された。  沈没した場所の海上は、調査の日はないでいた。  まず、潜水部隊が海中に潜った。  潜水部隊の報告は、  「海底に、ばらばらになった船体が、散乱している。積載荷物は何だったか判別が付かない状態で、海底に散らばっている。船の側面の鉄板には大きな穴が開いていた。極めて大きな爆発が起きたことを、伺わせる」 というものだった。  サルベージ船は、海底から、幾つかの物品を引き上げた。重機械の部品の一部と思われるものもあった。車のタイヤや車輪の形をとどめた物もあった。  デンマークの調査チームは、念のため、ガイガー・カウンターも持ち込んだ。  海底から掬った土砂を調べると、高濃度放射能が、検出された。  また、重機械の部品の一部からは、激しい爆発で焼け焦げた部分が、発見された。  これらのことから、事故調査団は、事故原因を次のように推測した。  「沈没の原因は、船内に積んだ積み荷のなかの爆発物が、爆発したためで、それをきっかけに、火災が発生し、炎上した。高濃度放射能が検出されたことから、核物質が爆発の原因となった可能性もある。しかし、核爆発は、回避された」  モルトンは、この報告書をもとに、フランスの依頼人に、満額の保険金支払いを行うことを決め、そのための事務手続きを取った。      [94]    日本の象徴、富士山の裾野。山梨県・上九一色村にある新興宗教の教団本部で、髭を伸び放題伸ばして、太った丸顔の教祖が、電話口で、怒鳴っていた。  「では、結局、物は送られて来ないのだな。注文の品が、届かないのなら、契約不履行ではないか。われわれは、大金を払っているのだ。当然、支払った金は返してもらわなければならないぞ。向こうにそう伝えろ」  電話口の向こう側にいたのは、若い幹部の上城・対外担当兼広報部長だった。  「金は、全額返還してもらう。さらに、違約金も取れれば、取れ。絶対、値切られるな」  教祖は、そう、厳しい声で、命令して、電話を切った。  そして、身近にはべる女性幹部信者に、  「これから、体を清める」 と命じて、別室の教祖専用室に向かった。  女性幹部が熱いお絞りとタオルを手にして、あとに続いた。  教祖は、好物のメロンも自室運ばせ、メロンを頬張りながら、丸々と太った裸の体を拭かせた。体を拭ったお絞りは、大事に取りおかれ、神聖な御物として、信徒に売り出される。  女性幹部は、教祖の下腹部も丁寧に拭いた。教祖は、そのとき、  「お絞りは熱すぎる」 と呟いた。  女性幹部は、お絞りで拭うのをやめ、自らの両手を湯に浸して、教祖の下腹部を洗った。教祖は心地よく、満足そうな表情だった。  (わが教団の発展も、こういう献身的な信者の賜物だ)  教祖は、心中で、頷き、納得した。  そうした内部のハーレム状態と、外部の信者の修行の場とは、天と地ほどに違いがあった。  すでに、多数の警察機動隊員が、敷地の外部を包囲していた。  教団には、東京の地下鉄で起きた毒ガス散布事件の容疑が掛けられていた。教祖が、「最初の兵器」と呼んだ、化学兵器が使われた疑いが強い。教団は、他にも生物兵器も研究していた。一部の幹部や信者はロシアに渡り、ロシア軍の特殊部隊「スペツナズ」から射撃訓練も受けた。また、ロシア製のヘリコプターや自動小銃を入手。化学兵器のサリンの製法や戦車、戦闘機の購入計画も持っていた。  そして、最終兵器の核兵器の入手も目論んでいたのだった。  しかし、入手は、北海での運搬船の沈没事故で、不可能となった。  教祖の怒りは、そこに、集中していた。  (核兵器さえあれば、世界を制服することができる)  教祖の思いは、世界最終戦争で、信徒と教団が生き残ることだった。  (そのためには、先制攻撃しかない)  そういう危機感が、教団を最終兵器の入手に走らせていた。  だが、入手は、いまや、不可能になった。  (それならば、支払った金は返してもらう)  それが、金銭にも細かく、うるさい教祖の論理だった。    [95]  ル・ノートル伯爵は、遙か東方の依頼者からの違約金の支払いに応じることにした。海事損害保険の支払いを、これに充当できる。  しかし、作戦遂行に費やした実費は、差し引いた。結局、受け取り済の契約金の半分程度を返却することに決めたが、東の国の依頼者の納得を得るのに手間取った。  数度のやりとりのうえ、伯爵が譲歩した。  合意したのは、六〇%返しで、だった。  「吝嗇なアジア人め」  伯爵は嘆じた。  それでも、百万ドル相当が、手元に純益として残った。  (これで、当分は、しのげるだろう)  ミス・エルブリヒが、いなくなった屋敷で、彼の心の張りは、趣味の狩猟だけになった。  (来週、兎狩りをしよう)  伯爵はそう決めて、準備に取りかかった。   [96]  オベリンとミス・エルブリヒは、パリの中心部にアパートを借りた。そこが、しばしの二人の愛の巣になる。  オベリンは、エルブリヒに宣言していた。  「われわれの独立闘争は、まだ、終わっていない。むしろ、これからが正念場だ。わたしは、必ず、チェチェンにかえって、仲間とともに、独立闘争を戦う。そのための計画は、この頭の中に出来ている。まず最初は、人質を取っての閉じこもり闘争になるだろう。大国・ロシア軍相手の戦いでは、ゲリラ闘争が、一番、有効なのだ」  「わたしも、一緒に戦うわ。最愛の人ですもの。どこまでも、付いていく。死ぬときは一緒よ」  彼女も、強い言葉で、宣言した。  二人は、どこでも、いつまでも、戦場の戦士だった。  パリの愛の巣での「新婚生活」は、夢のようだった。  二人は、毎日、一日中、一緒に過ごし、身を寄せ会って、飽きなかった。そして、毎晩、愛し合った。  三月に、二人は、パリを後にし、チェチェンに侵入した。    [97]  ウクライナに派遣されていた核技術専門家チームが、ワシントンに戻って来た。かれらの持ち帰った東南アジア製のコンピューター・チップは、カリフォルニア州のロス・アラモスにある陸軍兵器研究所に空輸され、検査が行われることになった。  研究所には十一枚のチップが、送られた。  詳しい検査が、多方面からおこなわれたが、どの検査でも、異常や欠陥は発見されなかった。すべてのテストにパスしたのである。  その調査結果は、即刻、国防総省に送達され、ホワイト・ハウスにも、報告された。 ホワイト・ハウスのオーバル・ルームで、クリキントン大統領が、補佐官らに聞いていた。  「これは、どういうことだ。チップに異常は無かったというのは」  「わが国の検査機器は優秀ですから、検査結果に間違いはないと思います」  ジャクソン補佐官が答えた。  「すると、ロシアの事故原因報告書が、間違っていたということになるな」  「そうですね。ほかに原因が、あったということですね」  「それが、何なのか、知りたい気持ちもあるが、もう、どうでもいいという気持ちもある」  「それは、あれから、三年たっても、誤発射のような緊急事態は起きていませんからね。旧ソ連の核兵器も、もう、安心していいでしょう」  「なにしろ、わが国は、あちらさんの核解体のため、二億ドル以上の援助を約束しているのだから」  「それは、わが国だけではない。西側の同盟国各国もそうです。日本はウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンの三国の核拡散防止条約加盟を支援するため、十億円の緊急援助を決めています。さらに、核兵器研究者の国外流出を防ぐ目的で、モスクワに設立された国際科学技術センターにも、各国が出資している」  「日本には、今回のチップ入手でも、世話になった。これからは、これまでのようにあまり、厳しい態度を取り続けることは、できないだろう」  「そうですね。何でも言うことを聞く国から、少しは、自己主張をする国に変わってもらわないといけない。その経済力に見合った発言の機会を与えるとともに、それだけの責任も負ってもらわなければ」  日米交渉に当たっていたこともあるメイヤー補佐官が、主張した。  その発言を遮るように、大統領が、話題を戻した。、  「これだけの協力態勢で、世界中が旧ソ連の核を警戒しているのに、テロリストたちは、核を虎視たんたんと狙っている」  「まったくです。だから、われわれは、一日たりとも、気を緩めることができない」 ジャクソン補佐官が、受けた。  「なにしろ、いまや、わが国しか、世界の警察官たる国は、ないのだからね。盗まれた核ミサイルの捜索は、引き続いて、やってくれ」  大統領のその言葉で、三人の会議は、この議題を終え、次の国家予算の大幅な赤字対策という主要議題に移っていった。      [98] モスクワのクレムリンの大統領執務室で、エミチャン大統領が、クラチョフ国防相から報告を受けていた。  「ウクライナから、わが国へ移送中のSSー24ミサイルが、武装集団に乗っ取られたという緊急報告は、すでに耳に入っていると思いますが、その後の逃走トラックの追跡でも、いまだに、捕捉されていません。すでに、トラックは、ポーランド領地内に入り、わが国の主権は及びませんが、NATO軍から、追跡部隊が出て、行方を追っているようです」  「とうとう、心配された事態が起きてしまった。しかし、われわれとしては、何もできなかったというのが、本当のところだ」  赤ら顔の大統領は、いかにも、無念そうに、言葉を吐きだした。  「われわれには、こうしたテロ行為を防止できる人的、金銭的は余裕がない。何しろわが国は、軍隊の削減計画の最中だ。旧ソ連は、約四万人の兵員と約二万七千発の核弾頭を持つ軍事大国だったが、ソ連崩壊後は、普通の国家を目指して、兵力の削減を開始した。一九九二年十月制定の新国防法は、ロシア軍の定員を人口の一%と決めている。ロシアの人口は、約一億五千万人だから、約百五十万人だな。軍事予算も、大幅に削減した」  「しかし、わたしは反対してきました。これでは、わが国の安全を守る国防体制は維持できないのです。今回の事件で、わが国の軍隊が、いっさい関与出来なかったのは、その証拠になるでしょう。わたしは、あくまで、二百十万体制の維持を主張してきたのです」  「だが、軍の人気の凋落が著るしいため、それも、実現は困難になった」  「たしかに、士気は低下し、徴兵逃れも急増し、徴兵率は急激に低下しています。だだら、わたしは、主張を撤回したのです。現実に会わなくなったから」  軍の責任者としての、苦悩が、言葉の端々から伺われた。  「それでも、君たちは、軍事予算の大幅な増額を要求し続けている」  「旧ソ連時代に、軍の予算が、国民総生産の二〇%にのぼり、国の財政を圧迫していたことは、良く存じています。そして、この比率が、ロシア共和国でも、ほぼ、維持されているのも、ありがたいことだと、感謝していますが、それでも、足らないのは事実なのです」  「こういう事件が起きた時に、手を拱いていなければならないとしてもか」  「ですから、そうならないようにです。本来は、ソ連の崩壊後、軍の組織は、CIS(独立国家共同体)の統一軍に、引き継がれる予定だったのが、各国の独立軍の創設でロシアも独立軍を持たざる得なくなった。そのため、グルジア、アゼルバイジャン、モルドバ、チェチェンなどの紛争に、単独で派兵している。その経費は膨大です」  「まったく、ソ連崩壊以来、周辺諸国では、紛争続きだからな。悩みごとだらけだ」 大統領は、苦悩の表情を深めた。そして、こう言い加えた。  「チェチェンの問題が一番、頭が痛い。大統領のドダエフは、ロシア連邦条約の調印を拒否したうえ、独立を求めている。勝手に、独立宣言をして、大統領になったのだから、こちらとしては、認めるわけにはいかないのは、当然だ」  「まことに、厄介な問題ですな。そもそも、かれらを中央アジアに強制移動させたスターリンが、問題の根を作ったのです。そこから、ロシアへの反感が始まっている」  「あの時は、ナチのロシア侵攻に協力した、というのが理由だったが、背景にイスラム教徒のチェチェン人を排斥しようとの意図があったのは、間違いない。言語も違い、民族が違うところへ、宗教が絡むと、厄介なことになるんだ」  「ですが、わが方も譲るわけには、行きませんね。あそこを失うと、年間、石油四千万トンを失うことになる」  「そういうことだ。もし、そうなれば、そうでなくても困難な経済再建にも支障が出るし、国民生活への影響も計り知れないことになる」  「やはり、ここは、武力で制圧するしかないのではないのですか。弱っているとはいえ、わが軍にその準備は出来ています」  国防相は、問題解決のために、武力の再行使を、大統領に進言した。  (もうすこし、様子をみる。それでも、かれらが、闘争を止めず、交渉の意思がないのならば、軍を出動させる)  大統領は、そう、決心した。       [99]  ウィーンのザッハ・ホテルのティー・サロンに、いつもの、二人が入ってきた。  いきなり、入口近くの席に座った二人は、面長の髭のある男と、中肉中背の男で、二人とも、きちんとしたスーツを着込んでいた。  二人は、席に座ると、オーダーを聞きにきたウエイターに、  「ザッハ・トルテとダージリン・ティーを二人分」 と注文した。  それらが、運ばれてくるあいだ、二人は、恒例の情報交換に入った。  「さすがに、”チャイカ”の情報は正確だったようだね。ウイリアム」  髭のある長身の男が聞いた。 「ゴードン。それは、大金を払わされたからね」  背の低い男が答えた。  「だが、その情報によって、動いたNATOの作戦行動は、大失敗だった」  「そうだ。見事に、武装軍団にしてやられた。アパッチ・ヘリが十機に、百戦錬磨の特殊部隊員六十人が出動して、このざまだ」  「それで、まんまと、旧ソ連の核ミサイルを盗まれた」  「やつらの作戦は、見事なものだった。一端、見失ったトラックを、軍事衛星の情報分析で、再発見したのだが、それも、見事に巻かれてしまった」  「プロなのかね」  「そうだろう。チェチェン共和国の独立運動を戦っている連中だという。かれらが、あの「黒い商人」のル・ノートル伯爵に雇われて、決行した作戦だよ」   ウイリアムが、苦々しげに言った。  「ところで、その消えた核ミサイルは、どうなったのだ」  「それが、行く方は、依然、不明だ。まさに、消えてしまった」  「あの、旧ソ連のブレジネフ時代に開発された「死の兵器」が、行方不明とは。穏やかではないな。世界の平和を崩壊させるのは、一基の脅威で、十分だよ」  「その点は、ル・ノートルだけが、知っているとういうことだろうが、彼がやったという証拠はないからね。ボロディン博士の証言だけだが、その博士も彼の保護の下にあるのだから、立証は困難だ。それに、フランス政府はこの件には、いっさい絡んでいないから、検索も出来ない。それより、フランス国民は貴族の血統と家柄に敬意を払っているし、彼自身、政府の要人には知人が多く、その多くは、彼から、多額の献金を貰っている」  「まさに、お手上げというわけか」  「まあ、盗まれたミサイルは、消えてしまったし、伯爵には手が出せない、とあっては、そういう状況と見て、いいでしょうね」  二人は、目を見つめ会って、嘆息した。  「ところで、”チャイカ”への褒賞金は、どうした」  「いつものように、スイスの銀行に振り込みましたよ。秘密の口座にね」  「かれらは、これから、どうするのだい」  「百万ドルという大金を手にしたのですから、われわれの仕事から、引退したい意向のようです。だが、こちらとしては、引き止めました。まだ、利用価値はありますからね。ロシアの政情は依然、安定しないし、周辺諸国でも紛争が相次いでいるのが、この世界の情勢ですから、われわれの仕事には、休みがない」  「そのために、情報源は多いほどいい。駒も多いほどいいのだ」  二人は、ポットのお茶を、飲み干し、席を立った。      [100]  パリ、モンマルトルのホテルを引き払ったネフチェンコ少将とツベルフコッフ少佐、イワン軍曹、ハンスとイワンの五人は、少佐がパリに入った経路を逆行するルートで、ジュネーブに向かった。  フランス国鉄自慢の超特急TGVでフランスを縦断し、ジュネーブに着いたのは、夕方だったため、すでに、銀行は閉まっており、五人は、その夜の宿を求めて、市内を歩いた。  すると、レマン湖畔のホテルに、メゾネット・タイプの部屋が二つ開いているのが、見つかった。かれらは、ためらわず、そのホテルに泊まることにした。  「ここまで来れば、後は、どうにでもなる。明日、金を引き出したら、俺たちは、大金持ちだ。東へ行くも、西へ行くも、自由なんだぜ」  案内された部屋に入るやいなや、両手を上げて、ベッドに仰向けに倒れながら、イワン軍曹が、叫んだ。  「そうだ。それが、おれには問題なんだよ。大金をもらって、さて、どうするかが」 ハンスが、答えた。  「おれは、国に帰って、中古車屋をやるつもりだ。これだけの分け前があれば、ロシアでは、大きな仕事ができるぜ」  少将が、口を挟んだ。  「わしもロシアに帰る。だが、身寄りも無いし、天涯孤独の身だ。あと、何年生きられるかわからないが、老後の資金には、十分な金を稼いだ。わしは、もう、この稼業を引退するが、相手はそうして欲しくないようだ。それで、わしは今後は、ツベルフコッフ少佐に、このグループの指揮を取ってもらいたいと思うが、いかがだろうか」  そう言って、全員の顔を見た。  「それは、十分な金を手に入れたのだから、われわれの目的は達したといっていいだ打ろう。われわれを育ててくれた祖国、ソ連とわれわれを鍛えてくれた亡きブレジネフ書記長に深い感謝の気持ちを捧げよう。われわれは、それらのお陰で、これまでやってこれた。そして、必要とされるのなら、いつでも、役割は果たしたい。だから、必要な時は、すぐにでも、参集していただきたい。それが、わたしからのお願いだ」  少佐が立って、みなに、告げた。  「おれは、少佐と、一緒に、また、仕事をしたい。新しい仕事が来るまで休養する。ここから、イタリアに行って、ヴァカンスを過ごすんだ」  そう言ったのは、イワン軍曹だった。  「おれも、南フランスで、休養と観光だ。そのあと、モスクワに帰って、すこし、勉強をしたい」  レゾフが、自分の希望を述べた。  「みな、自由にしていい。ただ、これだけのチームを組めたのは、ラッキーだった。だから、このつながりは、大事にしたい。新しい仕事が来たら、いつでも、対応できるように、少佐を中心して、やっていってくれ」  少将の言葉に、みんな、頷いた。    翌日、少佐は、銀行に行き、秘密口座に入金された、金を下ろし、平等に一人二十万ドルずつ、山分けした。  五人は、それぞれに、思った方向に向かって、東西へ別れていった。     [101]  ウラジオストックのロシア共和国海軍原子力潜水艦基地内の、司令官室でヤコブ総司令官とミハイルヴィッチ副司令官が、二人きりで、対面して話していた。  「三年前のわが基地所属の原潜の火災事故ですが、事故原因をとうとう隠しきりましたね」  「そうだ。うまく行った。事故調査委員会も、コンピューター・チップの欠陥だと断定したからね。それで、旧ソ連の同型のミサイルの総点検が行われ、チップも互換製品と交換された。大変な作業だったが、完了したというよ」  総司令官が、副司令官に説明した。  「でも、本当は、チップの欠陥ではなかった」  「そうだ、乗組員の操作ミスが原因だった」  「それをなぜ、隠したのです」  「それは、士気の問題だよ。ただでさえ、ソ連の崩壊で、軍が解体の瀬戸際にある時に、だれが、軍で一生懸命やろうと思うかね。乗組員のミスだ、などと公表されたら、原子力潜水艦隊は、消滅させられてしまう。上官の監督不行き届きということにもなり責任問題にも発展しかねない。そうした、部内の動揺をさけるためだった」  「機械の欠陥なら、責任は生じない。しかも、外国からの輸入品なら、なおさらだ」 「そういうことだ。それが、われわれの生きる道なのだ」  「かつて、わが国の共産党の幹部たちがしてきたようにね」  「そう。ブレジネフ書記長が、あれだけの長期政権を維持できたのも、それをモットーにしていたからだよ。ロシア人気質は、国が変わっても、変わるものではない。生きるためには、嘘でもつく」  「あの後、KGBの崩壊で、職を失った連中が、われわれを訪ねて、いろいろ、探っていましたね」  「そうだ。かれらは、金のために祖国を売るのも辞さない連中だ。日和見主義で、その時、その時の情勢に順応していく、変わり身が早い連中だ。だが、われわれは違う。祖国のために命を捧げようと、この職業に就いたのだからね。われわれの中にこそソヴィエトの精神と思想が生きている。ロシアになったからって、そう簡単に変わるものではないさ」  「だから、秘密を守りきった」  「守り切った」  二人は、笑い顔を交わしながら、熱いロシア・ティーを啜った。   終幕  エピローグ  チェチェンに移住したミス・エルブルヒは、九カ月後、男児を出産した。髪は金髪で顔は、ル・ノートル伯爵そっくりだった。彼女は、子供を「カール」と名付けた。オベリンと彼女は、沢山のおもちゃをこの子に買い与えたが、中でも、好んだのは、馬乗り遊びで、乗馬用の笞をもっては、母親の背に跨がり、その尻を叩いては、はしゃいだ。ミス・エルブリヒも、息子の求めに従って、その遊びをするのが毎日の日課になった。それは、苦しい独立闘争のなかで、彼女に過去の苦しくも、悩ましい時代の記憶を呼び覚まさせ、一瞬の刹那的な安らぎをあたえたのだった。  チェチェンでは、ロシアからの独立運動が激しさを増し、一九九六年一月、約百人の人質を取って国境の民家に籠城した武装軍に対し、ロシア軍が攻勢をかけ、多数の死傷者を出した。オベリンは、その作戦の指揮を取っていたが、生き延びた、といわれる。また、その数日後には、黒海で、トルコ船籍の客船が乗っ取られた。「シャミルの孫」を名乗った犯人らは、立てこもった武装軍へのロシア軍の攻撃停止と武装部隊の安全な撤退を要求した。  その犯人の中に、オベリンと似た男とナターシャに似た女性の姿があった。しかし、ミス・エルブリヒとその息子の行方は、不明だ。 半年後、チェチェン共和国のズダエフ大統領は、ロッケット砲撃を受けて、死亡した。その砲弾は、核装備を解除された大陸間弾道弾を改造したものだった。そうした古い弾道弾が、ベラルーシ共和国やロシア共和国にどの位くらい残されているか、未だ、正確な資料は公表されていない。                 (終わり・一九九六年一月二十日記す)