「鳥の歌」
一日三回の食事をすることが、面倒になったので、四十五歳を過ぎてから、食事は二回にすることにした。
そう決めて、実行しようとした日の朝、ベランダの窓から迷い鳥が部屋に飛び込んできて、住みついた。
私は、何度も追い出そうとして、空に放したが、いくらやっても毎回、戻ってきて、部屋に入る。私は、五回ほど放鳥を繰り返したが、六度目はやめにした。
(そんなに、ここにいたければいるがいい)
元々、ものにはこだわらない性質(たち)だけに、私のあきらめは早かった。
以来、あの鳥は、家に居る。
今朝も、起きがけに、あいつが囀るのを聞いた。それは、目ざまし時計のように正確に時を告げる。しかも、目覚めと就寝の時間で鳴き声が違う。
朝はさわやかに
「ピー、ピー、ピー」
と、細く高い鳴き声を長く続けるが、寝る時間になると、
「ピーピロロ、ピーピロロ」
とやや低い声が、短く鳴き分ける。
あいつは、あと二回、時を告げる。それは、十時すぎの第一回の食事の時と夕方五時すぎの夕・夜食の時である。なぜか、この二回の鳴き声は同じで、
「ピロ、ピロ、ピロ」
という音だ。
そうして、一日四回、正確に時を告げる以外に、あいつがすることはない。それ以外の時間は、一日中、家の中を歩き回り、飛び回って過ごす。
そうしている間に時が過ぎて、二ヵ月になった。
私は、あいつが来たときの一ヵ月前までは、東京・神田の中規模の出版社で経済雑誌の編集長をしていた。バブル経済のころは、発行部数も順調に伸び、売り上げは、倍々ゲームを続けていたが、バブルが弾けて、一挙に部数は激減し、収支が取れなくなって、廃刊した。
後は、お決まりのリストラの嵐が吹き、そこそこの高給を貰っていた私も、人員整理のターゲットにされ、部数減の責任を取るような形で、退職した。
それから、職探しを兼ねて、職安に通って、日々を送っている。妻は、私が職を失ったのを聞いて、
「実家に行ってきます」
と言って、里帰りをしたままだ。
子供はいないから、それからは、たった一人での暮らしが始まった。
それで、三度の食事をするのが、億劫になり、
(一日に、飯は二回にしよう)
と決めたのだった。
何もすることがない(すなわち、職安に行くつもりがない)日には、十時ころに起きて、遅い朝食をしてから、また、眠る。そういう日にも、あいつは、朝起きの鳴き声を告げるのを忘れない。それを知りながらも、私は、無視して眠っている。あいつも、時を告げる以外に、私とのつながりを持とうとしないから、二人(ではない、一人と一羽)の関係は、さっぱりしたものだ。
だから、あいつがそうして、家に居ついても、私は、さして気にせず、目ざまし時計代わりくらいにしか、思っていなかった。あいつも勝手に、生きていた。ただ、居候だけに、遠慮しながらだが・・・。
それが、あいつの存在が、気になりはじめたのは、居候をするようになってから二ヵ月ほどして、私が、外出先から帰ったときに、嫌に部屋のなかが、すっかり、片ずいているのに、気がついてからだ。
家には、私とあいつ以外には誰もいないのだから、私がいない間に何かがあったとすれば、それは、あいつの仕業と見るのが、順当だ。
だが、私は、そのことに気が付いたことを知らんぷりしていた。
あいつも何も言わなかった。というより、鳥なのだから、言いたくても言えなかった。
机のうえに散らかしてあった書きかけの原稿用紙や書き損じた紙類が、きちんと、ごみ箱に捨てられ、散乱していた机のうえが、綺麗に片付いていたのだから、私は愕然となったが、そうしてくれるのは、こちらには、有りがたいことなので、好意を素直に受け取ったのだ。
私は退職(といっても、実質的には免職だが)してから、ずっと、自分が過ごしてきた約半世紀の人生について、考えていた。
それは、突然、職を失ったことの衝撃で沈んだ気持ちを奮い立たせるために必要な作業かと思われた。
過去のすべてを精算して、再出発しようと、心に決めた私にとっては、過去を正確に理解しておくことが、精算のための出発点であったし、残る三分の一の人生の再スタートを切るためのスプリング・ボードになるはずだった。
生まれてから幼年時代、学生から社会人へと辿ってきた半生を振り返ってみて、私は、もしこの人生を採点するなら、合格点の七十点にはなっているのでは、と評価した。なぜなら、それは、経済的には特に不足のない状態のなかで、特に必要なものにも不自由することもなしに育ち、大きな病気に罹るわけでもなく、大事故に遭遇することもなく成育し、順当に大学に入って(すなわち浪人の苦労もすることもなく)、大きな野望を持つこともなく、あの出版社に入って、一応、順調に昇進していったのだから。
そう考えてみると、
(私の人生は、胸踊るドラマも、大きな波瀾もなかった。平穏無事に過ぎてきたというのが、妥当なところだろう。しかし、これは、人生に色がなかったということではないか。無味無臭、彩りのない無色の人生とでいうのだろうか)
と思い当たって、暗然となった。
そして、評価点を削減した。
(せいぜい、五十点くらいだ)
そう思うと、
(これからの人生は、百点満点で生きていこう)
との気持ちが募ってきた。
(おれは、これからの人生を、毎日、必死で生きていこう。ガンに罹って、余命を宣言された人は、そういう気持ちで生きているというではないか。幸いにして、おれは病気ではなく、健康体だ。死ぬ気になって、やってみよう)
という気持ちになった。
「一日二食にしよう」と決めてから、寝ころんで、そんなことを考えていると、そう決めた日に、飛び込んできあいつのことが、気になりはじめて、終いには意識の半分以上を占めるようになった。
(あいつは、あの日に飛び込んできて、こうして、居候を決め込んでいるが、何かの予兆なのだろうか、幸せの印なのか、それと不幸の使者なのか)
私は、これから、少し、距離を置いて、ゆっくりと、あいつを見てみようと思った。
私に再出発の希望を与えてくれたのは、この町の私鉄の駅前ビルにあるタウン誌の編集部に勤めることになったことだった。
職安通いでは、この不景気の最中だけに、気に入った仕事は、なかなか見つからなかった。求人票を何度も閲覧したが、いずれも、小規模の編集プロダシションや出版会社で、仕事は多く、収入は少ないのが明白だった。
「中年の再就職は、難しい」
とは、聞いていたが、これほど困難だとは、自分の身に降りかかってきて、初めて実感した。
仕事が見つからず、悶々として、日々を送るうちに、ある日、新聞の折り込み広告に、そのタウン誌が編集部員を募集しているのが掲載されているのが、目に入ったのである。確かに、待遇面では、ほかの小出版社同様、あまり良くはなさそうだったが、家の近くで、歩いて通える距離にあるのは、魅力だった。勤務時間も、朝十時から午後五時までと、短いのが気に入った。
(もう、満員電車に詰め込まれての「痛勤地獄」は嫌だ。食っていけるだけの収入があればいい。残りの人生は、のんびりと、ゆっくりと過ごしたい)
と考えていた私にとっては、案外、向いているかもしれない、と思ったのだった。
電話を入れて、応募の意思を伝えると、電話口の女性は、
「すぐにでも、面接に来てください」
と言った。
私は、早速、駅前の事務所を探して、教えられたビルの二階に上がると、ガラスに「タウン誌・町編集部」と書いたドアーがあった。私がノックして入っていくと、十畳ほどの広さの部屋に、机が四つ置いてあり、一番入口側の机に若い女性が一人で、座っていた。来意を告げると、
「ああ、先程の方ですね。こちらでお待ちください」
と隣室の応接室に、招き入れた。
そこには、向かい合わせにソファーが置かれ、奥には大きな机があり、その上に「編集長」と書かれた木の名札が置かれていた。私は、ソファーに座って待つように言われた。
しばらくすると、小柄だが、血色のよい顔に、頭が禿げ上がった愛想のよい男が姿を見せ、
「私が、編集長の稲村です」
と名乗った。
稲村さんは、私が持参した履歴書をじっくりと読んだあと、
「ずっと、雑誌の編集をしてこられた訳ですね」
と聞いた。
私は、
「はい。その通りです。雑誌一筋です」
と紋切り型に答えた。
稲村さんは、
「それで、お辞めになったのはなぜです」
と予想したとおりの質問をしてきた。
「社内でいろいろありましてね。経営が思わしくなくなって、いわゆるリストラですね。その対象にされた格好です」
「会社というものは、非情ですね。今、多数の中年社員がそういう目に会っていますよ。半生を会社のために捧げてきて、こういう仕打ちを受けるんですから、酷いものです」
男は目に同情の色を浮かべながら、言った。
「うちの雑誌は、あなたがやって来た雑誌のようには、まいりませんが・・・。どうして編集の出来る人が、欲しかったんです。私がその方面は、経験不足で、もっぱら、女房がやっているんですが、どうも、素人の域を出ない。幸い、部数は順調に伸びているので、営業成績は良いのですが、紙面が冴えないので、ここらで、一段、本格的なものにしようと考えて、人材募集をしたんです。この町には、その方面の経験者は多いと思っていました。あと何人か、応募者がいますので、また追って電話しますよ」
編集長が、一方的にそうまくし立てて、面接は終わった。
「応募者が数人いる」
とは、良く言ったものだ。こんな小さな雑誌社で、そんなことが、あるわけがない、と私は、腑に落ちない気がしたが、他に仕事がない以上、採用されるのを祈った。
その夜、また女性の声で、電話があり、
「明日にでも、来て頂いて、最後の面接をします」
と伝えてきた。
私は、そうして、翌日、また、赤ら顔の編集長に会い、詳しい仕事の内容を説明された後、「採用」された。条件は、ビラ記載の通りだったが、それによれば、収入は、以前の半分に減るのが明らかだった。
私は、
(他に仕事がない以上、これをやってみるしかないだろう)
と追い詰められた気持ちで、考え、決断した。
仕事をきめて、その日の夕方、家に帰ると、部屋の空気が変わっているのを感じた。
玄関のドアーを開けた瞬間、芳しい香りが鼻を突いた。いつもは、沈んだ空気の中に、コンクリートの壁を浸潤した青黴の匂いと、塵入れに捨てた食べ残しの食事類が発する甘い香りが、混ざった蜜柑が腐りかけた時に発する甘酸っぱい匂いを最初に感じるのだが、この日は違った。
乾いた空気と森林が醸しだすチトンウッドのかぐわしさ。山の別荘地にいた時、朝の早起き鳥のさえずりの中で嗅ぐ、生木の香りと露を乗せた下草の匂いが、部屋の中に満ちているのだった。
私は、
(確か、窓は全部、閉めていたはずだが)
と不思議だった。
だが、その空気の香りは、私には心地よかった。いつもは、やや、すえた匂いのなかで、眠りに就くのだが、この夜は、高原の爽やかさの中で、安らかに眠れた。
そして、夢を見た。
それは、南欧の海岸地方の人々が、夏の夜に楽しむ、祭りの風景だった。
彼らは、遠い山道を遙々訪ねていった私を迎えて、歓迎の宴を開いてくれた。歌を歌い、踊っていた。
「人生は楽しむものよ。毎日毎日、あくせく働いて、小金を貯めても、死んでしまえば、全てが終わり。あの世にまでは、持っていけない。食べて、飲んで、恋をして、人生を楽しもう」
村人たちは、そう歌い、踊っていた。それは、スペイン語の歌であり、「カンターレ」とか「メ・ジャーモ」とかいう単語が、断片的に聞こえた。人々の顔は笑いで溢れ、誰一人として、苦しみの表情の人はいなかった。
私は、一緒に踊っているうちに、疲れて、その場で眠り込んだ。
そこで、夢は終わっていた。
私は、心地よく眠り、翌朝、九時ころまで、熟睡した。
そして、そのタウン誌の事務所に行くと、稲村さんは、一番奥の机に向かって一生懸命、仕事をしていた。その斜向かいの机では、先日の若い女性とは違う中年の女性が、鉛筆を嘗めなめ、原稿を書いていた。
私が入っていったのを、見つけた稲村さんは、手招きして、
「これが私のワイフの加奈子です。原稿は、ほとんどこの人が書いている。私は、専ら営業担当なのでね。これからは、彼女と一緒に頑張ってくれたまえ」
と妻女を紹介した。
その声に、加奈子さんは、一度だけ、筆を休めて、顔を上げ、丸顔のなかの優しそうな目を丸めて、こちらを見、
「よろしく」
とだけ、短く言った。
その声が、とても落ちついたアルトだったので、私は気持ちが、落ちついた。
私は、その日一日、加奈子さんの机の反対側の机に座って過ごした。主に、加奈子さんの書いた原稿に目を通して、誤字脱字をチェックし、見出しを付け、印刷所に出稿する用意をする仕事だった。
一日、一緒に仕事をしているうちに、この事務所と夫婦の大体の様子が分かってきた。
それは、稲村さん夫婦は、どちらも、再婚だということだった。奥さんは、東京の下町の出身で、短大を出たあと、いろいろな出版社ん勤めたことがあり、最後は就職専門雑誌で、そこにいたころ、取材に訪れたある商社で、稲村さんと知り合ったということだった。
加奈子さんは、
「今の亭主は、三人目なの」
だという。
「一人目は、若気の至りの、勇み足結婚。二回目は、本当の真面目婚だったけど、結局、この人と不倫してしまって、別れたの。私が悪かったのね。相手は真面目一方の堅物の銀行員。そういう鯱ばった生活に飽きていたとき、心の隙間にあの人が入り込んできたのよ」
加奈子さんはそういって、はにかんだ。その顔が、とても幼くて純真そうで、温かかった。
私は、この丸顔で小太りの女性が、そういう波乱の人生を送ってきたとは、予想外だった。
さらに、加奈子さんは、
「一番長く続いたこの前の亭主はね、私が、今の旦那と一緒になったあと、自殺したの」
とさらっと、言った。少し、声がかすれていたが、顔の表情は、変わらなかった。
(あの、冴えない中年男のどこがそんなに良かったのか)
私は、もう少しで、このことを聞きそうになったが、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
初めて、短時間机を並べただけの男に、そんなにまで、夫婦の間のことを話すのは、加奈子さんの性格によるのだろうか。私は、そういう話を、このようにあっけらかんと話す女性に会ったことがなかったので、加奈子さんのそういう態度を、好ましく感じられた。
そうして、勤務の一日目を終え、駅前の定食屋で、夕食を取って帰宅すると、この夜は、部屋の空気の色が、また、違っていた。
今度は、潮の匂いがした。それは、昔の記憶を呼び覚ます磯の香りで、私が、子供のころ、夏休みを過ごした平塚の海岸を思い出させる匂いだった。
それは、小学生の頃の記憶で、海岸には、いつも、一歳年下のゆうちゃんと一歳年上のみさおちゃんがいた。浜辺で砂の城を作ったり、ボール投げをしたりして、真っ黒の体で、一日中過ごした夏の海岸の香りだった。
家に帰ると、いつもは、天井からぶらさがっているランプ・シェードの上に留まっているあいつが、今日は、いなかった。
台所の方に行ってみると、流しのなかのボールの中で、あいつが水を飲んでいるのが、薄明かりのなかに、見えた。だが、その影が別々の動きをしているのが、変だったので、よく見ると、あいつは、もう一羽の鳥と一緒だった。二羽の鳥が、仲良く水を飲んでいるのだった。
(あいつは、仲間を連れてきたのか)
と考えたが、鳥が一羽増えただけで、私にはなにも、害がないので、気にしないで、リビングに戻った。
その夜は、懐かしい磯の香りに包まれて、眠った。それは、子供のころに、丸一日の浜遊びのあと、ぐったりとなった体を横たえて眠った平塚の夜を呼び覚まし、全身の力が抜けて、軽くなった感じで、私は空中に浮かびそうな浮遊感覚に捕らえられ、リラックスして、完璧な安眠の中へと、誘われていった。
一週間ほどして、稲村さんが私の方に寄ってきて、
「そろそろ、仕事にも慣れたでしょう。ちょっと、外回りをしてみませんか」
と誘った。
私は、
(確か、編集だけということで、契約したはずだが・・・)
と思いながらも、一週間、部屋の中にばかりいたので、外の空気も吸いたいと思い、
「そうですね。いいですよ」
と気軽に応じた。
稲村さんと二人で、ライトバンに乗って、向かったのは、飲食店街にある蕎麦屋だった。 「やあ、今日は」
稲村さんは、気軽に声を掛けて、店に入っていった。
中から、主人と思われる気難しそうな老人が出てきて、
(何か、用か)
というような怪訝な表情で、こちらを見た。
「例のお約束の[うまい店]の記事をそろそろ如何かなと思いましてね」
「そんなの別に、うちは載せてもらわなくても結構だと言ったじゃないか」
老主人は、不機嫌そうだった。
「でも、この付近の店は、もう、ほとんど、紹介してしまったんですよ。あと、[うまい店]として紹介できるのは、お宅ぐらいしかないんですよ」
(稲村さんは、なかなか上手い。さすがに、長年、商社の営業マンとして鍛えられてきたことだけはある)
私は、内心、感心した。
「でも、金がかかるんだろう」
老主人は、しつこく、聞いた。
「いや、大した額じゃありません。いつも、いただいている広告料に少し上乗せして頂くだけでしてね」
こういうとき、営業の経験のない私などは、雑誌社時代の癖で、
「いや、記事掲載は、無料です」
とでも、言ってしまいそうだが、さすがに、稲村さんは、しっかりと、お金をいただくと明言していた。
「そういうことならだ、なにも、載せてもらわなくてもいいんですよ」
蕎麦屋の主人も、依怙地だ。簡単に、「うん」とは言わない。
「こうして、うちに新しく入った記者も、同行していることだし、お願いしますよ」
稲村さんは、私のこともだしにして、頼んだ。主人が、私の方を見たのをきっかけに、私は、ぺこりと頭を下げて、
「お願いします」
とお辞儀をしていた。
「そう、頭を下げられても、嫌なものは、嫌なんだ」
そういう老主人の言葉を聞いて、稲村さんは、心を決めたらしい。
「分かりました。それだけ、仰るなら、仕方ありません。でも、折角、来たのですから、蕎麦を一杯、御馳走になります」
と言って、ザル蕎麦を二人分、注文した。
頑固な主人も、蕎麦を注文する客とあっては、断るわけにも行かない。渋々、厨房に引っ込んで、調理を始めた。
側の椅子に腰掛けて、稲村さんが、照れ笑いをしながら、ひそひそ声で話しかけてきた。
「こうやってね、やっている仕事を褒めてやればいいのです。誰だって、褒められて、嫌な気持ちがする人はいませんからね。見ていてくださいよ」
ザル蕎麦は、間もなく、出来てきた。
黙って、早めに腹に流し込むと、稲村さんは、
「ああ、うまかった。さすがに、噂の蕎麦だねえ。そこいらの蕎麦屋の蕎麦とは、まるで腰が違う。大した名人芸だよ。ご主人、御馳走様」
暖簾の陰で仕事をしていた主人が、出てきて、にっこり笑った。険しい顔つきが、すっかり、崩れ、くしゃくしゃになっていた。
「こういう蕎麦が出来る秘密を、ほんのちょっぴり、教えてくださいよ。それだけで、記事になるんだから」
主人は、この誘いに応じて、こちらに出てきて、われわれの卓に座った。
「いや、これで、なかなか、蕎麦作りも大変でしてね。いろいろ知恵も絞っているんですよ・・・」
それから後は、稲村さんの問い掛けに、一問々々、丁寧な受け答えがあり、三十分も話し込んで、調理場での写真も撮って、店を出た。
「上手く行きましたね。後は、出来上がった雑誌を見せればいいんです。自分の写真が大きく掲載された記事を見れば、誰だって、悪い気はしない。ちゃんと、掲載料を払ってくれますよ」
ライトバンの運転席に戻って、稲村さんは、丸い赤ら顔を両手でツルリとなで上げてから、ショート・ホープを一本取り出して、うまそうに吸った。
(こういうのを、提灯記事というのだ。広告料と連動して、金儲けをする記事だ)
私の脳裏に、雑誌編集者時代の否定的考えがちらついたが、稲村さんの屈託のない笑顔と愛想を見ていると、そんな思いは、吹っ飛んだ。
事務所に帰ってくると、稲村さんは、
「いま聞いてきたことを、原稿にしておいてください。前の号のスタイルを見て、同じように書いてくれればいいですよ」
とだけ、言い残して、また、どこかへ出かけていった。
私は、編集者が長かったので、自分で記事を書いたのは、若い時以来で、久し振りだったが、気分を新たに原稿の枡目に向かうと、
(仕事をしている)
という実感が湧いてきた。
集中しながらも、すらすらと、[おいしい店]の原稿を書き上げ、見出しを付け、レイアウトして、その日の仕事は終わりになった。
隣の席で、黙々と原稿を書いていた加奈子さんは、柱時計が五時を指したのを見て、
「さあ、今日の仕事も終わりね。もし、良かったら、今晩、うちで夕食をしませんか」
と私を誘った。
私は、最初は、
「いえ、そんな。迷惑になりますから」
と遠慮したが、
「別に、何の迷惑にもなりませんよ。私達夫婦だけで、食べるより、人数は多いほうが、楽しいでしょ。ぜひ、おいでください」
と重ねて、招かれたので、夫婦の夕食への興味もあって、招待を受けることにした。
それに、会社を辞めてから決めた「一日二食」の方針を守って、私は、最近満足な物を食べていなかったから、久しぶりに家庭料理を味わいたいという気持ちも強かった。
五時過ぎに、稲村さんのライトバンも帰ってきて、私は、この車に乗り込んだ。
加奈子さんは、
「買い物をして帰る」
ということで、別行動になり、わたしは稲村さんと一緒に、家に向かった。
二人の「愛の巣」は、市の郊外の住宅地に建つ一戸建ての家だった。小さな庭が付いていて、十畳程のリビングからは、芝生の庭が見渡せた。
すでに、日は西の空に落ちようとしていた。夕日が斜めにリビングルームのガラスを射ていて、初夏の柔らかな光線が、それから夏へと向かう季節の短い安らぎの夕暮れの時間を、照らしていた。
加奈子さんが帰ってきて、台所に立つ物音が、聞こえてくるまで、私はそのリビングのゆったりとしたソファーに腰掛けて、稲村さんが、入れてくれたコーヒーを味わっていた。コーヒーを啜りながら、部屋のなかを見回すと、天井から、大きな鳥の形をしたモジュールが下がっているのが、目についた。そこには、紙細工で作った三羽の鳥が、吊る下がっていて、上から下へと行くに従って、鳥の形は、小さくなっていた。大きな雄と雌の親鳥の後を小さな子鳥が追いながら空を飛んでいる光景を表しているようだった。
二階まで吹き抜けの広い壁に掛かっているパネルは、鳥の写真だった。極彩色のオオムの大きな写真が、壁の真ん中を占めていて、その両側には、キツツキや十姉妹、梟などの写真が並んでいた。
そういう変わった壁の飾り物に、気を取られていた私を見て、稲村さんは、
「ここに飾ってあるのは鳥の写真ばかりでしょう。私は、バード・ウオッチングが、唯一の趣味でしてね。休みの日は、いつも、山や海に鳥を見に、出掛けます。鳥といるのは、楽しいですよ」
と語りかけた。
私は、
「奥さんも一緒ですか」
と思わず、聞いた。
「あの人は、行きません。何しろ、あれは、あれ自身が鳥のようなものですからね」
と言って笑った。
私には、その意味が、よく分からなかった。
「食事の用意が出来ましたよ」
加奈子さんの合図で、私達は、台所の脇にあるダイニングへ移った。
食卓の上には、一杯に、色とりどりの料理が並べられていた。
「さあ、どうぞ」
席に着くと、まず、ビールで喉を潤した。
「今日は、よくいらっしゃいました」
乾杯があり、いよいよ、食事が始まった。
私は、料理の品数と量の多さに、目を見張っていた。
「人生は、楽しまなくてはいけけない。その第一歩は、上手いものを腹一杯食べ、満足して、良く眠ることです。おいしい物こそ一番の体の薬ですよ」
稲村さんは、そういって、テーブルの真ん中の大鉢に山盛りになった鰹のたたきを旨そうに食べた。その大鉢の回りには、ピーマンの肉包み揚げ、水餃子、揚げ豆腐、焼きビーフンに硬やきそば、しゃぶしゃぶ用の牛肉などが取り囲んでいた。
「そのピーマンの肉包みの肉は、鹿児島の黒豚の肉です。普通とはちょいと違った味がするでしょう」
加奈子さんが、説明した。
「そうか。味が、まろやかだね」
稲村さんが、あいずちを打つ。
夫婦の会話の間は、絶妙だった。
私は、その楽しい会話と絶品の料理を存分に堪能した。
しゃぶしゃぶに御飯の最後のコースに入り、もうそれ以上詰め込めないほど、私は、腹が一杯になった。それでも、彼らの胃は動きを止めず、良く食べ、良く飲み、良く話した。テーブル一杯にあった料理が、大方、片ついたのは、食事が始まって、二時間が過ぎたころだった。
「さて、今日は満足していただけましたか。最後は、手作りのブランディーケーキはいかがですか」
加奈子さんは、聞いたが、もうなにも入らない私は、遠慮した。
「では、コーヒーを」
加奈子さんは、勝手にそう決めて、温かいコーヒーを運んできてくれた。稲村さんは、ケーキを食べた。
「最後にこれを食べないことには、我が家の夕食は終わらないのですよ」
そう言って、はにかみながら、大きなケーキをたいらげた。
リビングに移って、歓談した。
「先程の鳥のことですがね。昔は、家で飼ったりもしたのですが、鳥は、寿命が短いので、死んでしまうと、とても、悲しい気持ちになるのです。それで、飼うのは止めたのです。死んだ鳥を見るのは、嫌なものですよ。まるで、布切れみたいなってしまう」
鳥を飼った経験のない私は、そんなものなのかと思った。
とその時、
(では、家に迷い込んできた、あいつもそうなるのだろうか)
という疑問が湧いた。
「死ぬ時は、どうなるのです」
私は、聞いた。
「それは、最後のさえずりを、精一杯します。最後の歌を声を喉を絞って歌うのですよ」
私は、美空ひばりという小鳥の名前を持った歌手が、死を間近にした頃に、「悲しい酒」という歌を涙を流して歌っていた光景を、思い出した。
(鳥は、死を間近にして、血を吐きながら歌うのか)
「そして、そういう甲斐々々しいところが、私は、好きなのです」
稲村さんは、しみじみとそう言った。
台所で加奈子さんが、食事の後片付けをしながら、サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」のメロディーを口ずさんでいた。
ーーららららら、らららら、らー。らららー、らららららー、ららららららー
それは、食事の後片付けの仕事のリズムに良く会っていた。
リビングの写真が張ってある壁と反対側に、レコードをいれてある棚があった。そこは、野性の鳥の声のテープやレコード、CDで埋まっていた。
「音もお好きなのですか」
「そうです。わたしは、鳥のさえずりを聞いているだけで、心が落ちつきます」
棚の中に、私は、一枚の音楽のレコードを見つけた。
「この、音楽、私も好きですよ」
「それは、もう大分前の録音ですが、私も、大好きです。そんな曲が演奏できたらいいですね」
私は、ジャケットを見た。
ーー世界のチェリスト、パブロ・カザルス演奏。「鳥の歌」ーー
と書いてあった。
翌日、事務所へ出ると、もう、面接の日に会った若い女子事務員が、机に向かって、伝票を捲りながら、電卓を叩いていた。
「おはようございます」
挨拶をすると、彼女は顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
仕事が忙しそうなので、私は、彼女の横の机に座って、じっとしていた。すると、電卓を叩く作業が一段落してから、彼女は、
「私、まだ、挨拶していませんでしたけれど、ここで事務を手伝っている小石玲子といいます。稲村の姪です。よろしく」
と明るく良く通る声で、自己紹介した。
私のことは、名前も、来歴もよく知っていると思っていたので、私は、
「よろしく」
とだけ、返事をした。
玲子は、一週間に一度くらい、事務所に来て、伝票の整理の事務をしている、のだという。彼女のその仕事ぶりは、見るからにスピーディーで、気持ちが良く、彼女の聡明さと、きっぱりとした気質を示していた。
束になっていた伝票の処理を終えて、仕事の手を休めた頃を見計らって、私は、
「昨日は、稲村さんのお宅で、夕食をご馳走になりました」
と話しかけた。
玲子さんは、
「そうですか。やはりね」
とこともなげにいった。
私が、
「やはりというのは」
と聞きなおすと、
「叔父夫婦は、いつも、新しい人が入ってくると、しばらくして、自宅での食事に、招待するのですよ。いわば、人物テストのようなものです。二次試験といっていいかもね」
「二次試験ですか」
私は、面食らっていた。
「それで、食事は、全部、平らげましたか」
「ええ」
と、私は、答えたが、最後のケーキを残したのを思い出して、
「いや、デザートを残しました」
と言った。
「ああ、叔母の自慢のケーキですか。それは、かなりの減点だなあ」
と玲子さんは、私の目を見て、嬉しそうに笑った。
「いや、それは、冗談です。他のは全部、食べたんでしょう。それなら、合格ですよ。そんな人は、余り、いなかったし」
「もう、お腹が、いっぱいになりました」
「そうでしょう。山ほど作りますからね、叔母は。雑誌の仕事より、料理のほうが、生きがいなんですよ」
確かに、そういうことのようだ。
私に、
(稲村さんは、毎晩、あんなに夕食を食べるのだろうか)
との疑問が、湧いてきた。
「不思議でしょうが、二人での食事でも、あれくらいは、作っています」
玲子さんが、私の内心の疑問に明確に答えを出した。
「ただ、一点だけを除けば、伯母の料理は完璧です」
「それは・・・・・・」
「それは、鳥肉は使わないことね」
「何故です」
「だって、共食いになってしまう」
私は、そのブラック・ユーモアに唖然とした。
(それでは、加奈子さんは、鳥だということではないか)
「それに、家のなかも変わっていたでしょう」
玲子さんは、屈託なく聞いた。
「まあね。鳥の写真や鳥の鳴き声のレコードやCDが沢山ありました。それに、大きなモジュールが、下がっていました」
「叔父は、鳥狂いなのです。鳥となったら目がない。そのくせ、鳥料理もおいしそうに食べるけど」
「なぜ、あんなに鳥が好きなのですか」
「それは、話せば長い哲学的な話しになりますが、極、端的に言ってしまうと、男のロマンということですかね」
「ロマンね」
「叔父は、鳥を追うことの大切さに気が付いて、会社を辞めたのだと思います」
「会社って、商社でしたっけ」
「そうです。ああ見えても、商社では、遣り手のエリートだったんですよ。成績はいつも、同期のトップを走っていた、といいますから」
玲子さんの話によると、稲村さんは、大手商社の重機部門が長く、大型タンカーの輸出や航空機の輸入などで辣腕を振るっていた、という。ところが、次期戦闘機の調達に絡んで、ドロドロとした政治と商社の利益追求の波に巻き込まれ、心身共に疲弊した。商社の本分である利を求めることを度外視した商権争いに、根っからの営業マンだった稲村さんは、大いなる疑問を感じて、汚れきった(と本人が言っていた)政治絡みの商売から、足を洗ったのだ、という。
「そういうところで、叔父はロマンチストなんですよ。ああ見えても」
私は、稲村さんの離婚と再婚もそれが、原因なのではないか、と思った。
「加奈子さんと結婚したのも、それがきっかけですか」
「それもあるかも知れません。でも、あれは、タイミングですね」
「・・・・・・」
「男女の出会いは、タイミングではないですか。未婚の私が、そんなことを言うのは、口幅ったいけれど、私はそう思います。そう思って、もう、二十五歳になってしまったけど」
「そうかもしれないな」
しかし、私の妻が家を出て行ったのは、決して、タイミングではない。私は会社を追われ、尾羽根打ち枯らしているとき、彼女は、その夫を支えるのではなく、むしろ、見捨てて、実家に逃げ帰ってしまった。夫婦の愛とは、そんなにも脆いもののか。いや、愛があれば、そうはならないはずだ。愛がなかったからこそ、彼女は、私との生活を捨てようとしているのだ。われわれの夫婦生活は、打算だったのだろうか。
男と女の出会いはタイミングかも知れないが、別れはあくまで、計画的で、計算ずくなのだ。
「叔父が、自分の仕事に疑問を感じていたときに、ふと、目の前に現れたのが、加奈子さんだったんですよ。加奈子さんと知り合って、叔父は、目から鱗が落ちたんですって」
「どうして」
「前の連れ合いとは、まったく違った女性だったからだ、と思うわ。前の連れ合いは、叔父の出世を生きる支えにして、子供の成長を楽しみにするという良妻賢母型だったから、その二つともが、叶えられないと分かって、去っていってしまった。でも、加奈子さんは、そういうタイプじゃなかったの」
そう言った時の、玲子さん声は、何故か、上擦っていた。それに、なぜ、「連れ合い」という古風な言い方をするのだろうか。
「良妻賢母型ではない?」
「それは、分かったでしょう。あの通りだから。明るく楽しく人生を楽しめばいい、とうタイプでしょ。おいしい物を一杯食べて、愉快に楽しくってね。だから、叔父にとって、加奈子さんは、幸せの青い鳥っていうわけね」
「青い鳥か」
加奈子さんは、やはり、鳥なのか。
私は、その日、家に帰って、あいつの仲間が、また増えて、全部で四羽になっているのを見た。四羽は、本棚の上に止まって、静かに眠っていた。その姿が、それぞれに違っていたから、あいつは、他の鳥とは別の個体なのは明らかだった。あいつの幻影が、他に三羽あるわけではない。鳥は、確実に、増えていたのだ。
部屋の空気の演出は、この夜は、アルプスの匂いだった。ラヴェンダーの香りが、明るい初夏のアルプスの高原を思わせて、やはり、私は、心地良かった。
その爽やかな空気に包まれての安らかな眠りのなかで、私は、初めてあいつらが歌う微かな音のゆったりとして流れていくのを聞いた。
始めは高い音程が続き、天空の小鳥のさえずりに聞こえた。それは、十数羽の小鳥のようだった。
小刻みに震える高い音が、短いリズムで静かな夜の空間を破った。高い音は、圧迫感がないから、音楽への導入部の前菜(オードブル)としては、最適なのだ。さえずりの連続が、私を安らかな落ちついた気持ちに導いた。
そのあと、短い無音の時間があった。
そして、静かに語りかけるように、中・低音部の通奏音が開始され、部屋と私の全身を震わせた。長く、体に刷り込むように尾を引いて、その中・低音部は、私に語りかけてきた。
長い、長い中・低音のささやき。
その余りに官能的な音使いに、私は、次ぎにうっとりとして、半覚醒状態に陥った。
繰り返す中・低音のさえずり。長椅子に横たわり、部屋の全ての明かりを消して、私は、その鳥たちの囁きに聞き入った。
(あいつに、こんな能力があったとは・・・・・・。どういうやつらなんだ。あいつらは)
私は、あの部屋の香りの演出を、あいつらの仕業と見ていたが、やつらには、こういう音楽の才能にも恵まれていたのだ。
嗅覚と聴覚の刺激で、人間は、こんなにも安らかな気持ちになれるのか。憔悴しきった私の心身に、癒しをもたらしてくれたのは、まず、その香りだったが、今や、音の海の中へと、私は、招かれ、その美的甘美さに酔っていた。
ひとしきりの音の饗宴の後、私は、ここ数日のしきたりのように、安らかな眠りに落ちていった。そして、アルプスの高原の爽やかなアトモスフェアの中で、また、子供の頃の夢を見た。
それは、幼いころの雨の日の記憶だった。
その日は、なぜか学校が休みで、ゆうちゃんが遊びにきていて、応接間の廊下で、積木遊びをしていた。積木と言っても、今のように、しっかりとした木で出来ているものではなく、そこいらにある廃品を利用して、城や櫓を積み上げるのだ。
雨がしんしんと降っていて、二人とも、気分が沈んでいた。ひとしきりの積木遊びに飽きて、私は、尿意を催した。だが、便所に行くには、長く暗い廊下を通っていかないといけない。こんなしとしとと降る雨の日には、お化けが出そうな気がする。私は、
(ここで、してしまおう)
と決めて、廊下の縁に立って、庭に向かって放尿しはじめた。その時、積木遊びで使っていた、母の美顔クリームの空瓶を、右手に持って、放尿される先端に持っていって、尿を採取した。
なぜだか、その時、全身に快感が走った。降りつづける雨音以外に物音一つしない静寂の中で、身体の芯から突き上げるよう気持ちの良さが、全身を満たしたのだった。
「ゆうちゃん、お医者さんごっこしようよ」
私は、ゆうちゃんに呼びかけて、クリームの空瓶に溜まった黄色い液体を
「検査して」
と渡した。
その後、ゆうちゃんが、尿意を催していないのに、無理やり、
「尿検査をするから」
と命じて、廊下でパンツを降ろさせた。ゆうちゃんは、素直に応じて、おちんちんを出して、庭に向けて、放尿した。そして、その先に、今度は靴クリームの空瓶を持っていって、放出物を採取した。茶色のクリームが入っていたので、採取された液体は、茶色く汚れていた。
私が、
「汚いですね。なにか、悪い病気がありますよ」
と言うと、ゆうちゃんは、体を震わせた。
二人で、遊ぶのが、飽きたころ、みさおちゃんが、遊びにきた。
「なにして、遊んでいたの」
みさおちゃんが聞いたが、二人は黙っていた。なにか、人に言えないような悪いことをしていたような罪の意識があって、特に女のみさおちゃんには言えないという気持ちだった。
だが、みさおちゃんは、さすがに一歳年長の六年生だけあって、察しが良かった。
「なにか、変なことしていたんでしょう。顔を真っ赤にして、おかしいな」
探るような目つきで、二人の顔を覗き込んだ。
「私も入れてよ」
年長の女の子の命令には、逆らえない。二人は、渋々、何をしていたかを白状した。
みさおちゃんは、
「面白そうじゃない。わたし、最初は患者さん、それから看護婦さんになりたいわ」
と言って、残っていたもう一つの空瓶(それは、海苔の佃煮が入っていた瓶だった)を手にして、廊下にしゃがみこんだ。
私は、女の子が、小用をするところを、想像したことはあったが、この目で見たことはなかった。みさおちゃんが、あっけらかんとその姿勢を取ったので、勢いに乗せられて、私たち二人も、みさおちゃんの両隣に同じ姿勢で、座り込んだ。
その姿勢で、みさおちゃんの様子を見ていたが、みさおちゃんが、
「なかなか、出ないよう」
と悲鳴を上げながらも、すこしずつ放尿を始めたとき、また、全身をパルスが走った。みさおちゃんが、そのままの姿勢で、空瓶を手にして、放たれた液体の先に持っていったのを見たとき、わたしは、下腹部が固くなるのを感じて、両足を閉じた。そして、なぜそうなったのかは、分からないが、なにか、なってはいけないことになってしまっているような気がして、パンツを引き上げて、隠した。
するとその時、みさおちゃんが、
「上手く採れないわ。採ってくれる」
と、わたしに瓶を渡した。わたしは、庭に降りて、みさおちゃんの前に回り、放出される先に、瓶をかざすために、その元の方を確かめた。その時、初めて、女の子のその部分が、自分の物と違った構造になっているのに、気が付いた。
「ねえ、みさおちゃんのそこ、僕のと違うよ」
わたしは、ゆうちゃんにそう言った。ゆうちゃんは平然としていた。言われたみさおちゃんも、当然のような顔をしていた。
「それは、男と女だもの」
みさおちゃんは、そう言って、
「どう違うのか、よく見なさいよ」
とその部分を大きく開いて、私の目の前に突き出した。
わたしの下半身の硬直は、極限に達し、いくら、宥めようと思っても、おさまらない状態になっていた。みさおちゃんが開いた最深部を目にしたとき、わたしは、血が頭に登って、くらくらした。股の奥の下腹部に縦の割れ目が走っていて、その奥に深い洞窟があるように見えたが、奥までは分からなかった。男には、棒と玉袋があるのに、そこには、それらがなかった。
私のその棒の中を、ツーと快感が走って、パンツを汚した。それは、いままでに味わったことのない、心地よさで、いまでも忘れられない感覚だ。
その後、三人は、入れ替わりに医者と患者と看護婦と検査技師の役をこなして、みんながそれぞれの役を終えたあと、疲れ切って、応接間の畳の上で、夕方まで眠った。その眠りは、安らぎに満ちた心地よいものだった。
あいつらの歌は、夢の中でも続いていた。中・低音の通奏の後、少しの間があって、最初の高音部の再現に入り、高い音のさえずりを数回聞かせて、終了した。
それは、今村さんが言ったスペイン・カタルーニャ地方の民族音楽の「鳥の歌」に違いなかった。わたしは、その曲を本物の「鳥」の歌として、聞いていたのだった。
朝の寝覚めは、あいつの目覚まし時計のお陰で、いつも快適だった。この日は、天気も良かった。幼い日の性的な経験が雨の日のだったので、そのことを回想したあとの現実世界の天気の良さは、気分を軽くさせた。
事務所へ行くと、加奈子さんが、最後の入稿となる原稿の追い込みに掛かっているところだった。
じっと、原稿用紙に目を凝らしたり、時折、目を上げて天井を睨み、鉛筆を嘗めては、マス目を埋めていた。その張り詰めた表情は、夕食に招かれた日の加奈子さんとは、全く違って、緊張感に満ちていた。
やや。コケティッシュな小作りの顔つきと小太りの体躯は、アンバランスのようで、うまく収まっており、大黒様の置物のように、見る人に安心感を与えた。
「さあ、今日で、今月号は全部終わり、後は編集を上手くやって下さいね。期待していますよ」
と言って、加奈子さんは、最後の「編集部あとがき」の原稿を私に渡した。
私は、その最後のページのレイアウトを仕上げて、その日の仕事は、すべて終わった。
「いつも、最後の入稿をしたあと、印刷が仕上がるまでは、休みを取って、することがあるんですよ。今度は、私は家にいるつもりだけど、良かったら、玲子と一緒に参加してみませんか」
加奈子さんが、その後、話したのは、稲村さんは、毎回、各号の入稿が終わり、刷りが上がるまでの間の一日を休日にして、バード・ウオッチングに出掛けるのだという。
「今回は、多分、山だわ。前回は東京湾で海の鳥を見たから、今度は、清里ではないかしら」
加奈子さんの、この推測は当たり、この日の私の帰り際に、ひょっこり姿を見せた稲村さんは、
「鳥を見に行きませんか」
と私を誘った。
私は、会社を辞め(させられ)て以来、家に籠もっていて、時折、職安へ行く以外に、遠出をしたことがなかった。それ以外は、「一日二食」に決めて、ひたすら寝ていた。だから、山や海に行くことは、私のそのころの心理状態からすると、夢のようなことだった。私はそういう沈んだ意識状態から抜け出すためにも、
(何かをしなければ行けない)
という気持ちになっていた。
「そうですね。ご一緒させてもらいましょうか」
「では、玲子と一緒に車で迎えに行きますよ」
「いえ。家では申し訳ないから、私が、駅前まで出向きますよ」
「そうですか。では、駅前のロータリーで。鳥は朝が早いですからね。午前二時には出発します」
「そんなに、早いんですか。では余り眠れませんね」
そんな会話をして、話が整った。
私は、家で短い睡眠を取る積もりだったが、したことのないことをする日の前の日は、いつも、興奮して眠れない。一睡もせずに、午前一時過ぎには、支度をして、その三十分後には、家を出た。
駅前の待ち合わせ場所で、待っていると、午前二時少し前に、稲村さんのライトバンがやって来た。助手席に玲子さんが座っていた。
あいさつをするなり、玲子さんは、
「熱いコーヒーをどうぞ」
とポットから紙コップにコーヒーを入れて渡してくれた。眠さと興奮との間の、ボーットした状態だったから、この配慮はうれしかった。こういう心配りが出来る彼女は、素晴らしい心情の持ち主なのだ、と感心した。
中央高速道で西へ向かった。
日が明けるころには、私たちは、八ヶ岳を望む清里町の山林の中にいた。
稲村さんは、千曲川の源流にあたる小川に降りていき、河原に小さなテントを張った。そして、その前に三脚を固定して、上に一眼鏡のスコープを取り付けた。肩からは、軍事用の大型双眼鏡を掛けていた。
玲子さんも、慣れているのだろう、自分用のオペラグラス型の小型の双眼鏡を手にしていた。
そして、ぐるりと空を見回し、静かに、森の音に耳を凝らした。
「ほら、聞こえるでしょう。ホーホケキョウというさえずりが。あれは、御存知のとおり、ウグイスですよ。それから、ケレケレケレという連続音が、木の上の方から聞こえるでしょう。あれは、アカゲラです。赤啄木鳥と書いて、キツツキの一種です。キツツキの古名は、ケラツツキを言いましてね。それが、つづまってケラになった。ほかに、コゲラ、アオゲラというのもいます。いずれも、日本特有の種で、我が国でしか、見られない鳥ですよ」
稲村さんが、解説してくれた。
玲子さんは、ポロタイプのニコンの双眼鏡を手に、遠くの小鳥の姿を追っていた。そして、体色が緑色、くちばしと足の赤い小鳥を見つけ、私に双眼鏡を渡して、
「これは、ブッポウソウという名の鳥よ。ブッポウソウと鳴くから、そういうの」
と説明した。
私は、渡された双眼鏡を手にして、レンズの中を覗いた。
枯れ木の上に一羽の小鳥が止まり、くちばしを大きく開けて、鳴いていた。だが、その鳴き声は聞こえなかった。
「というのは、うそ」
と、玲子さんは、いたずらっぽく笑いながら、私の肩に体を寄せてきて、小声で耳にささやいた。その時、洗いたての髪から、アイリスの芳香がした。早朝の山中の湿った空気に包まれて嗅ぐ、そのほのかな香りが、爽快だった。
「本当は、あの鳥は鳴かないの。ブッポウソウと鳴くのは、ミミズクの一種のコノハズクだってことが、昭和の初めに、NHKのラジオ放送で確かめられたの。だから、この鳥をブッポウソウと言うのは、間違いだけど、名前はそのままになったのよ」
玲子さんも鳥については、博学だった。
山には、数知れない鳥たちが居た。ルリ色の羽根を持ったオオルリの雄、尾の長いサンコウチョウ、コガラやヤマガラを見ることが出来た。
昼過ぎになって、玲子さんが作ってきたサンドイッチを頬張りながら、河原の涼風を受けて、空を見上げていると、やや大きめの灰褐色の鳥が飛んできて、山頂の針葉樹のてっぺんに止まった。翼を垂らして、尾を上げて、「カッコウ、カッコウ」と繰り返して鳴いた。
「あれが、カッコウですか」
最初に見つけた私が、稲村さんに聞くと、玲子さんと一緒に、双眼鏡をそちらに向けて確認し、
「確かにそうですね。普通は、草原に住んでいるので、こんな山中に来るのは珍しい。餌を探しにきたのかな。人懐っこい鳥ですよ」
と稲村さんは、説明した。
「でも、自分では、子育てをしないのよね」
玲子さんが付け加えた。
「今の女性に似ているわ」
玲子さんは、厳しい口調で、そう言った。口ぶりが批評的だった。
(私は、違うけど・・・・・・)
と言いたげな余韻が残っていた。
「その通り。カッコウの仲間は、自分では巣を作らず、他の鳥の巣に卵を生み、雛を育てさせる。これを託卵といい、雛を育てる親を仮親という。仮親になるのは、モズ、アオジ、オオヨシキリなどの主に、食虫性の小鳥です」
稲村さんは、鳥に関する該博な知識を披瀝した。
「ますます、今の若い女性に似ているわ」
玲子さんは、自分も若い女性なのに、苦々しげに、そう付け加えた。
(玲子さんは、自分をそういう類の女性ではないと、考えているようだ。子育てもしっかりやって、夫の面倒も心行くまで見る。そういう「賢い」女性だと、いいたいのだろうか)
私には、玲子さんの心情が、まっすぐに、良く伝わってきた。
バード・ウオッチングは、夕暮れ前に終わった。大自然に囲まれての楽しく新鮮な体験だった。
帰り道の車では、玲子さんが後ろの席に移り、前の席では、稲村さんが、一人で、車を操った。
朝が早かったこともあり、帰り道では、玲子さんは、ゆっくり休みたかったのだろう。車が走りだすとすぐに、目を閉じて、眠ってしまった。
私は、初めての体験に興奮が収まっていなかったから、この日に見た鳥の姿や声を思いだしながら、頭は冴えていた。玲子さんは、花も盛りの若い女性らしいしなやかな身体を私の方に寄り掛からせ、安心しきった寝顔で安らかに寝息をかいていたが、車がカーブしたとき、上体が完全に私の方に倒れかかり、私の膝の上に頭を乗せて眠る格好になった。
倒れかかった一瞬、玲子さんは、目を覚ましたような気がしたが、頭の右側を下にして、私の両膝の上に倒れて、すやすやと気持ち良さそうに息をしながら、眠りつづけていた。私はその長い髪に手をやって、さらっと撫でてみた。滑らかな流れるような黒髪だった。二、三度、髪を撫でてから、その手を鼻に持っていって、香りをかいだ。アイリスとスミレの花の香りが混じったような芳香に、若い女性の甘酸っぱい汗の匂いとフェロモンとが混じり、私の官能を体の芯から刺激した。
私は、幼いころの雨の日の下半身のこわばりを思い出した。そしてそれ以上の官能の昂りを必死で、堪えていた。
だが、こういうかぐわしい匂いを発散する若い女性とのこのように間近な接触は、長い間、経験がなかっただけに、中年の肉体は、本能的な反応に目覚めて、理性と正反対の状態を呈した。
玲子さんも、私の下半身の硬直を感じないはずはなかったが、一切、知らない振りをして、そのこわばりの上に、頭を付けて、安らかに眠っていた。それは、愛しい人の怒りを和らげ、苛立ちを包み込み、鎮めようとする女性の柔らかな優しさを伝えようとしているかのようだった。
その町の駅前に帰り着いて、車を降りるとき、玲子さんは目覚めた。私は、車を降りようと立ち上がった。その時、私の股間の玲子さんが顔を埋めていた場所が、濡れて円形に染みが付いているのに、気が付いた。
私は、そこを両手で隠しながら、稲村さんに礼を言って、二人と別れた。玲子さんが、私のぎこちない動作を、鋭い目つきで見詰めているような気がした。
私は家に帰ってからも、その夜は、寝つかれなかった。玲子さんの髪の香りとあどけない寝顔と、そして、何より別れ際の何か異常なものを見るような目つきが頭から離れなかったからだ。
あいつらは、十六羽に増えていた。この割合で、毎日、倍々ずつ増えていくと、一週間も経てば、二百五十六羽になる計算だ。でも、その前の百羽を越えるくらいで、増殖は止まるだろう、と私は踏んでいた。
鳥の数が増えた分だけ、鳥の歌には、荘厳さが増していた。音量が増加し、静寂のなかで耳を澄まさなくても、聞こえるようになっていた。私は、聴覚を普通の状態にして、あいつらの歌を聞くことができた。玲子さんの若々しいはち切れそうな姿態と弾けるような笑顔を思い浮かべながら、私は鳥たちの歌を聞いていた。
翌日、事務所に行くと、加奈子さんが、
「昨日はいかがでしたか」
と話し掛けてきた。
「いやあ、本当に久し振りに、命の洗濯をさせてもらいました。楽しかったです」
と答えると、加奈子さんは、さらに、
「玲子もとても楽しかったようです。帰ってからわざわざ、電話をかけてきて、今までで、一番楽しいバードウオッチングだって言っていましたよ。どこか声が弾んでいた」
加奈子さんは、そう言ってから、
「そんなに楽しかったのなら、わたしも一緒に行けばよかった。でもなぜ、そんなに楽しかったのかしら。あなたがいたからかしらね」
と私の顔をしげしげと見た。
私はその探るような目つきに一瞬、たじろいだ。私の揺れる本心を見透かされたかと思ったからだ。
「私も玲子さんと、一日一緒に過ごして、親しくなれて良かったです」
とだけ、答えた。
その玲子さんは、ひと月に一、二度姿を見せるだけだから、今日は来ない。それに大体、どんな人なのか、全然知らないのだ。私は、それを知りたいと思っていたが、それは、心の奥底に抱え込んだ、問い掛けだった。だが、今は、それを質してみる絶好のチャンスかもしれない。
私は、加奈子さんに聞いた。
「玲子さんは、稲村さんの姪ごさんなんですか」
「ええ、妹の子供ですよ。あの人の妹は、でも玲子を生んでから間もなく亡くなったんです。それで、あの人が、家に引き取って、育て上げた。ですから、姪といっても、自分の子供みたいなものですね。育てたのは、でも、前の奥さんですけどね」
(そうか、だから、玲子さんは、カッコウの話をしたとき、あんなに突き放したような言い方をしたんだ)
私は、昨日の光景を思い出して、玲子の屈託のない笑顔の裏に隠された出生の秘密を理解した。
「で今は、独り暮らしなんですか」
「いえ。家の人の前の奥さんと一緒に暮らしています。母娘の二人暮らしのようですけど、血のつながりはないのです。でも、本当に仲がいいんですよ。あの人たち。あの人はしっかり者ですからね」
そう言った「しっかり者」が、稲村さんの別れた前妻であることは明らかだった。
(そういう関係もあるのだ。血の通わない同士が一緒に暮らしていくのは、難しい。それは、私と妻との関係でも想像できる。もし、私たち夫婦に子供がいたら、私達の関係も少しは、違ったものになっていたかもしれない。同じ他人でも、夫婦でいることより、親子でいたほうがつながりが強いのだろうか。まして、実のわが子のように育てた子供ならば・・・・・・。だが、今の稲村さん夫妻を見ていると、夫婦としての関係にも素晴らしい牽引力があるような感じがする。すべては、その個人と個人の相性というものかも知れない。その点を確かめることなく、打算で関係を作ることが、一番、危険なことなのだ。私達夫婦がそうだった。同じ巣に住みながら、互いが違う方向を見ていたのだ)
稲村さんが、帰りの車の中で、言っていた。
「鳥にも番いになるものがいて、それは、仲むつまじいものですよ。モズやムクドリは、自分の縄張りを持っていて、他の鳥が入り込むことを許さない。番いの世界を持っているんです」
鳥でさえ、自分の「家」にあたるものを持って、子育てをするものがいる。稲村さんは、今の奥さんと共に、そういう世界を作り、玲子さんも育ての親と安住の世界を持っている。私は、その世界を失って、一人ぼっちになってしまった。
私は、胸の奥から突き上げる寂寥感に見舞われて、目頭が熱くなった。
その感情の波が去ったあと、私は、毎日、数を増しているあいつらのことが、思い出された。
(そうか、あいつらが、いたんだ。毎日増えているあいつらが。私は、必ずしも、一人ぼっちではないんだ)
そう考えると、心が、休まった。
(だが、あいつらの、正体は、分からない)
そんなことを考えていると、稲村さんが姿を見せた。私は、部屋を占拠しはじめたあいつらのことを相談する相手としては、稲村さんが、最適だと思っていたので、聞いてみることにした。
「稲村さん、家に変な鳥がいるのですよ。家に居ついてしまって、毎日、増えている」
「そうですか。やはりね。お宅にもいましたか」
稲村さんは、私の質問を予想していたように答えた。
「お宅にも、というと」
「いえ、家にも鳥が居ついたことがありましてね。そのことが、きっかけで。私は、鳥に興味を持つようになったのです。その少し前に、わたしは、会社を辞めたばかりで、一日三度の食事を二度にしたくらいで、何の意欲もなしに落ち込んでいましたから、鳥がいるなんて、気が付かなかったのですが」
「鳥が居つくのは、どういうことなんでしょうね」
「悪いことではないでしょう。滅入った嫌な気持ちを忘れることができますからね。それに、幸せを運んでくることもある」
「稲村さんには・・・・・・」
「いまの女房を連れてきてくれました」
「それで、前の奥さんと別れた」
「いや、巣立って行ったのです。存分に子育ての喜びを味わってから。自分が生んだ子ではなく、他人の子供でしたが。それだけに、満足感が深かったに違いない。モズのようなものですよ」
稲村さんは、しみじみと言った。
「私の家では、鳥が増えています。このまま行くと、部屋を占領されてしまう」
「いいことでは、ないですか。それだけ、同居人が、沢山いるということは・・・・・・。そのうち、その鳥たちが、幸せを運んで来ますよ。私のように」
そう言って、稲村さんは、丸い赤ら顔を右手でつるりとなで上げ、一息ついたあと、ポケットから、ショート・ホープの箱を取り出して一本口に挟み、火を付けて、旨そうに息を吸い込んだ。
その晩、あいつらは、六十四羽に増殖していた。部屋中に散らばってコーラスで「鳥の歌」を歌っていた。絶え間なく、部屋の空間を飛び回り、床を走り回って、さえずりの声を上げていた。
私は、その歌をいつものように、長椅子に寝そべって、目を閉じて聞いていた。
一つの曲が終章に近付いて、最後の高音部のメロディーを歌い上げたあいつらは、長椅子の反対側の白い壁に一羽ずつ集まり始めた。
最初の一羽が最上部に止まったあと、もう一羽が足元に止まり、次いで、次ぎ次ぎと中央の部分の空間を埋めていき、それにつれて、一つの輪郭が現れてきた。
それは、ボッチチェルリの「ビーナスの誕生」に描かれた裸女の姿だった。美しく豊満な胸の脹らみとたおやかな腰つき。一糸まとわぬ美女の姿の出現に、私は、あっと息を飲み込んだ。
絶え間ない鳥たちの歌と、森林の爽やかな香りに包まれて。私の感覚器は、鋭く目覚めていた。聴覚の刺激に、嗅覚の興奮。そこへ、今度は、目も覚めるような視覚の鋭い刺激が加わって、私は、めくるめく気持ちになった。
私は、ビーナスの顔を見た。それは、バードウオッチングの帰りの車の中で見た玲子さんのあどけないが整った若い女性の花の盛りの引き締まった美しい顔のように見えたが、どこか雰囲気が違っていた。
私は、古い記憶を辿っていた。この花も恥じらう妙齢の女性の光輝く顔を見たのはいつの日だったのか・・・。
それは、北国が、待ち望んでいた春を迎えたころだった。私は、長い冬の闇に閉ざされていた陸奥のその地方が、弾けるようになるその季節に、すべてが明るく開かれたような日本晴れの中で、あの子の一糸まとわぬ生まれたままの姿を凝視していた。
あの子は、私が初めて地方に出張したその町で、歯科技工士をしていた。旅先で突然の歯痛に襲われて、駆け込んだ歯科医院で、私は、初めて彼女に会った。
二十歳に差しかかったばかりと思われる彼女は、ていねいに私に歯の手入れの仕方を教え、歯ブラシの正しい使用法、歯垢を取る糸の使い方を教えてくれた。私は、治療台の上に、横になって、彼女の豊かな胸が、私の顔の上にのしかかるたびに、異性からの性的な刺激を感じて、その甘い感覚に酔った。
歯科医は、私が旅先だという事情を知っていたが、
「こういう症状では、どうしても、あと二、三回は応急治療をしておかないといけない」
と譲らなかった。
私は、仕方なく出張を延期して、その医師の指示に応えざるをえなかった。延期はしても、治療時間は、一日に、せいぜい、二時間くらいだったから、それ以外の時間は、暇だった。
それで、私は、最初の治療が終わって帰るときに、彼女に、
「もし良かったら、私に付き合ってもらえませんか」
と申し出たのだった。
意外にも、彼女は、初見の患者の不意の申し出を受け入れてくれた。それは、歯科医師側の要請で主張先に残らざるを得なくなったという私への同情もあったろうが、彼女もまた、東京から来たという若い男に関心があったのだと思う。
私たちは、その夜、その町の小料理屋で郷土料理を一緒に食べ、お互いのことを素直に語り合った。彼女は、一人っ子で、しかも母子家庭だということを自ら話した。私は、その頃、独身だったから、独り暮らしの寂しさを話した。
互いの波長が会うというのは、こういうことなのだろうか。私は、彼女に急速に引き寄せられて、
(こんなに美しく、輝いている女性には初めて、会った)
と思いはじめた。事実、彼女の頭の後ろに、光輪が光っているのを私は感じていた。
その最初に日は、翌日の待ち合わせの場所を約束して別れた。そして、そのあとの二日間、夕方から夜にかけて食事を共にし、夜明けから明け方まで、あ茶や酒を飲んで、一緒に過ごした。
最後の日は、彼女が休暇を取り、この地方の有名な観光地に連れ立って出掛けた。そして、別れの時間が迫ってきた午後に、ごく自然に、彼女は、ホテルの私の部屋に来て、お互いの体を求めあったのだった。
私達が、その部屋で、最初の体の結びつきの行為を始める前に、彼女は私の手で、一糸まとわぬ姿になっていた。彼女の身に着けていたものを全て外してから、私は、彼女を姿見の前に立たせて、その光輝く裸体を眺めた。彼女は、私の要求に応じて、こちらを向いて、その長い髪を肩から胸に垂らし、両手を組み合わせて、下腹部の女の秘密の部分に添えていた。
私は、その手を外して、大きく開くように命じて、彼女のその部分の形を確かめた。私も彼女の横に並んで、体を引き寄せ、唇を吸った。そして、一連の愛撫を上から下へと加えたあと、紅潮して香気を発散する女体をしっかりと右手で抱いて、セルフタイマーで、記念写真を撮った。
そして、そのあと二人は、ベッドの上で一つになったのだった。私が彼女の中に放出したあとの、気だるい時間に、彼女は私の耳元で、
「わたし、初めてだったの」
と囁いた。たしかに、シーツのその位置が赤く染まっていた。
(あの時の彼女の姿だ)
と私は、思い出した。だが、
(玲子さんとも似ている)
確かに、ビーナスは、その彼女と玲子さんの両方の良いところを取ったような形をしていた。
彼女とは、その日だけの関係で終わった。
(いまごろ、あの子は、どうしているのだろう)
私は、懐かしい感慨に捕らわれていた。
すると、急に腹が空いてきた。私は、無性に旨いものが食べたくなった。稲村さんの家の夕食のような・・・・・・。
嗅覚と聴覚と視覚を鋭く刺激された私は、爽やかな空気を全身で感じ、それが、食欲を刺激して、腹一杯、おいしいものが食べたくなっていた。
強烈な食欲。それは、「一日二食」宣言とは、対極にある食への飽く無き欲求だった。
その時、来客を知らせる玄関のチャイムが鳴った。私は、インターホンを取った。
「あの、わたしです。玲子です。一緒に、お夜食をと思って、手作りの料理をお持ちしました」
それは、玲子さんの高く張り詰めた、りんとした声だった。
私は、また、この部屋の同居者が増える、と思いながら、玲子さんを、迎え入れ、鳥の群れに加えた。
(終わり)