「鮎の川」  相模川の初夏は、鮎釣りとともに始まる。  陽光が夏の彩りを帯びはじめるころ、川は長い竿をさげた釣り人たちで、いっぱいになる。  もうすぐ夏休みが始まるこの季節に、中津川へと分岐している中洲で、朝から釣り竿を操っていた僕たちは、太陽の照り付けが厳しくなった昼頃には、竿を収めて、最近完成したばかりのコンクリート製の人車橋の下の僅かな日陰の中に入り、持参したおにぎりの昼食をとりはじめた。  仲間が二人いた。一人は、小さいころからの幼馴染みで、近所に住む勇ちゃん。もう一人は、中学に入ってから友達になった正ちゃんだった。二人とも釣りは大好きで、僕たちは、とても、気が合った。  その釣り場は、三人だけの秘密の場所だった。最近、都会からやっくる大人の鮎釣り人は、私鉄の駅に近い、もっと下流の河原に集まる。彼らの装備は、上から下まで完璧だが、その割には、釣果は少なかった。それは、獲物の数と釣り人の数との単純な数学的比率の関係である。すなわち、大勢の人が狙う獲物の数には、限りがあるのだから、一人ずつの取り分は少なくなる計算である。  僕たちの穴場は、もっと上流にあったから、周囲に釣り人の数は、少なかった。時たま、二、三人がもっと上流から、獲物を追いながら流れてくることがあったが、彼らもここが最終点とみて、すぐに、上流に戻ってしまう。  だが、二つの川の合流点は、魚が多いのだ。多いけれども、急流なのが、難点である。中学生の体力では、そう長い間、この速い流れのなかで、踏ん張ることはできない。それが、僕らの最大の課題だった。  しかし、それにもかかわらず、釣果は上々で、この日は、午前中だけで、三人合わせて十数匹の鮎がびくの中に踊っていた。  河原には、石組を作ってあり、その囲いのなかに、河原に流れ着いた流木の枯れ木を重ねて、新聞紙で火を点けた。その火を囲んで、持ってきた竹串を差した釣り立ての鮎の串を立てておく。間もなく見事な鮎の姿焼きができあがる。  それをおかずにして、母が持たせてくれた水筒の麦茶を飲みながら、おにぎりをほおばった。野球帽を被り、ランニングに短パン姿の三人は、この簡素だが、豪華でもある最高に旨い食事をするときには、いつも、白い歯がこぼれる。真っ黒に日焼けした少年の顔の中で、白い歯とその歯にこびりついている白い御飯粒が、際立って印象的だった。  楽しい昼食の後は、午睡を取る。持参したござの上に仰向けになっていると、日陰だけにいくぶん、周囲と比べ温度が低いその場所に川風が吹いてきて、寝心地が良いのだ。午前中の川の中での疲れもあって、僕たちは横になると、すぐに、眠りに落ちていった。  その深い眠りの中で、僕は短い夢を見た。  ーー それは、美しい妖精が、夏の空に飛び交っている映像で、白い羽根を付けた僕は、天空のなか、星空の下で、幾多の妖精たちと戯れていた。そのなかに一人だけ、動き回る僕の側に寄り添って、離れない妖精がいた。僕がその妖精から逃げようとすると、すぐに追いかけてくるのに、こちらが追いかけていくと、すぐに逃げるのだ。逃げると追い、追うと逃げるのだ。そうして、付かず離れずのペア・ダンスを踊るのだが、一端、妖精を抱き寄せようとすると、逃げて行く。そんな動きを二、三度繰り返したあと、やっと、捕まえて、自分の方に引き寄せようとしたときーー  はっと、目が覚めた。  目を開けると、そこに、いま見ていた妖精の顔があった。  「驚いたでしょう」  その頭の後ろに太陽があって、目前にある顔は、真っ黒で、よく分からなかったが、その声は、間違いなく、麗子のものだった。  「今日もここにいたのね。そうだろうと思って来てあげたのよ」  「一体、何の用だい」  「それより、どうして、日曜日はいつも、ここにいるの。そんなに釣りは楽しいの」  「そりゃあ、楽しいよ」  勇ちゃんと正ちゃんは、まだ、ぐっすり眠っている。だから、二人を起こさないように、話声は低く、そのため麗子は顔を、ぐっと、僕の顔に近付けていた。  麗子の体から、少女独特の処女臭が漂ってきた。  「お楽しみをお邪魔して申し訳ないですね。でも、これは、絶対聞き得よ」  「何なんだよ。もったいつけて」  「今朝、姉さんが言っていたの。夏休み前に、東京から転校生が来るんですって。女の子よ」  「そう。だから、どうだっていうの」  「それが、その女の子は、有名人なのよ」  「有名人? なんだよ、それ」  「ほら、テレビにでているファンキ−・ドッグズというコントのグループがあるでしょう。知らない」  「見たことがあるような気がする」  「あのグループのマスコット・ガールをしていた女の子がいるでしょ」  「そうかい」  「あのグループ、昨年でマスコットは、やめにしたけど、その女の子なのよ。転校生って」  「へえ」  「こんなこと、いままでになかったし、ニュースでしょ。だから、健ちゃんに最初に教えてあげようと思って」  「そうか。ありがとう」  そういって、僕は、起き上がり、びくから一番大きい鮎を五匹、取り出して、ビニール袋に入れ、麗子に渡した。  「これ、お礼といっては、なんだけど、持っていきなよ」  「いつも、ありがとう。なにか、貰いに来たみたいだな。姉さんが一番、喜ぶわ。健ちゃんが釣ったんだというと、本当に、姉さん嬉しそうになるんだ」  麗子は、そう言って片目を瞑って見せると、ビニール袋を手に、河原の土手を登って、帰っていった。  この日の釣果は、上々だった。午後から夕方まで、糸を垂らし、三人でさらに二十匹程を釣り上げた。この魚は、半分ほどは持って帰るが、残りは、川に返す。それは、三人が決めた約束だった。  「僕たちはプロの猟師と同じくらい腕がいいだろう。でも、これで生活している訳ではない。だから、釣った分の半分は、帰すことにしよう」  それは、子供の傲慢さでもあったが、釣り上げた物すべてを持ち帰ってしまう都会の釣り師たちに対する、せめてもの地元の人間の反抗心を象徴していた。  (俺たちが、川の自然を守っている。俺たちがやらないで、ほかにやるひとはいない)  そう地元の釣り人たちは、誇りを持っていた。  僕たちもその考えに、同調していたのだった。   翌朝、僕らが学校に行くと、麗子が教室で待っていて、  「昨日の鮎はおいしかったわよ。姉さんが大喜びだった。『これ、健ちゃんが釣ったのね』と言って、本当に嬉しそうに、食べていたわ。ありがとう」  と言って、嬉しそうに笑った。  そして、  「姉さん、今日もほんとうに弾んでいたわ。新しく転入生も来るし、健ちゃんも、期待で、胸が一杯でしょ」  と言って、いたずらっぽく、笑った。  一時間目の授業の前に、ホームルームがあって、麗子の姉の加代子が、教室に入ってきた。  加代子は、このクラス、三年四組の組担任なのだ。すなわち、僕たちのクラスの担任の先生なのである。  加代子は麗子の一番上の姉で、昨年の春に、女子大を卒業して、この中学校に赴任した。まだ、ほやほやの新米先生といってよかった。だが、緊張と不安の一年目を終わり、初めての組担任になって、加代子は、張り切っていた。二年目にして、先生になった充実感を感じはじめていた。そのため、天職と信じている教育にかける熱意は、並々ではなかった。とにかく、全身全霊で生徒たちにぶつかってくるという感じで、その情熱が生徒たちにも肌で感じられて、教室は活気に満ちていた。  若い加代子先生は、ただ、情熱があるというだけではなく、町でも評判の長身の美人だった。真夏のお盆休みの最中に開かれるこの地方恒例の「鮎祭り」では、ミス・あゆまつりに、高校時代から連続三回も選出されたのは、記録だった。  加代子が大学生二年生になって、四回目のミスに応募しようとしたとき、祭りの運営委員会は、ミス選出の規程の資格条項を改め、「一度、ミスに選出された者は除く」という一条を追加した。これによって、四回連続のミス選出が確実視された加代子は、応募資格がなくなり、その年のミスには、川向こうの町の若い娘が選ばれた。  この「事件」の背景には、相模川を挟んで向かい合うA町とB町の長年に渡る、強烈な対抗意識があった。  この源を逆上れば、鮎の漁業権の争奪合戦に突き当たる。元々、両町は、仲良く話し合いで鮎漁の権利を分かち会ってきたが、町の人口増と魚の減少で、少ない鮎を奪い会うという状態が生じた。さらに、鮎祭りの主催権を巡る争いも加わって、事態は混乱していった。大金の掛かる祭りの主催は、一方で、巨額な金銭的なメリットももたらす。AかBか、どちらの町が主体になって、祭りを運営するか。それは、地元の政治家の利権も絡んで、大人たちの激しい戦いに発展した。大人の喧嘩に、子供も影響される。川を挟んで、石を投げ合うなどの大人げない遊びが流行ったりした。  僕たちが住んでいたA町は、常に人口数も多く、区域も広いB町に対して劣勢だった。一触即発の事態になって、両町の幹部らは、度重なる会合を持ち平和的な話し合いをした結果、もともと、祭りを始めたのはB町であるという経過と運営資金の負担も大きいという大義名分によって、祭りの主催権はB町がほぼ独占することになった。また、鮎の漁業権は、一応、平等に分割されることになったものの、実際的な漁獲高は、入漁者の多いB町側が優勢で、A町の住民たちは、常に臍をかんでいた。  そうした微妙な対立感情のなかで、加代子のミス連続当選は、A町の人々の心の救いだった。  「やはり、美人はこちらのほうだ。美男も美女もこちらの方が多いのよ」  A町の人々は、そう語り合って、B町の横暴による屈折した心の憂さを晴らしていた。  加代子は、そういう意味で、A町の人たちの女神であり、マリア様だった。  だから、加代子がA町の中学校に赴任することに決まって、町長以下役場の幹部は、大喜びした。校長室に直々、町長が訪ねてきて、  「加代子先生をよろしく頼みますよ」  と校長に頭を下げた。だから、校長は、初出勤した加代子を、腫れ物に触るような丁重さで扱った。  それでも、加代子は、生来、明るく楽天的な性格だったから、天狗になるわけでもなく、謙虚に甲斐甲斐しく仕事をしていた。ぴかぴかの社会人一年生として、お茶汲みでも、便所掃除でも、なんでも嫌な顔一つせずに、進んでやったから、同僚の先生たちの評判も上々だった。  加代子を花に例えれば、「ヒマワリ」だった。外見は大柄だが、良く見ると、小さな種が一杯詰まって、整然と並んでいた。それらは、いまにもはちきれんばかりだった。  また、加代子を動物に例えると、「カモシカ」だった。敏捷な長い下肢と短い胴体。長身の加代子は、理想的なプロポーションをしていた。体育の授業の最中の加代子は、野性の動物のように、精悍で、素早い動きをした。  その皆の憧れの加代子先生が、  「では、ホームルームを行います。今日は、転入生がありましたので、紹介します。吉永さん、はいっていらっしゃい」 と合図すると、教室の外で待っていた、女の子が静かに緊張した面持ちで入ってきて、教壇の加代子の横に並んで立った。  「吉永美佐子さんです。皆さんよろしく。では、挨拶してください」  加代子先生がそう紹介すると、女の子は、ぺこりと頭を下げた。  「では、席を決めます。健ちゃんの横の席が空いていますね。そこで、どうですか」  確かに、僕の隣の席は空席だった。そこは、席の最後部で、僕は窓側だったから、その横のその席は、窓側から二列目の最後部の席だった。一学期の間には転入者はなかったから、その席は、一学期中空いていた。  僕はその空席を見るたびに、  「いつか、ここに、かわいい女の子が、座るんだ」  という予感があった。これは、確たる証拠があるわけではなく、あくまで、予感だった。ただ、僕の予感は、釣りの時でもよく当たった。  (この淵に魚がいる)  という予感があると、確かに、魚がよく釣れた。  だから、僕は、自分の予知能力には自信があったのは事実だ。そして、それは、現実になった。  その女の子の転入生、吉永美佐子は、垢抜けていた。真っ白な肌の色をして、長く細い指をしていた。ぺこりと挨拶をした動作は、おとなしげだったが、めりはりの効いた確固とした仕種だった。それらが、まだ、田舎臭さを残しているこの町の子供たちとは違う、都会の洗練を示していた。  僕は、そういう美佐子を、一目で気に入った。単に気にいったというより、一目惚れしたと言ったほうがいいだろう。好きになっていたのだ。それは、ほのかな異性へ恋心だと言っていい。  とにかく、一目惚れしたのだった。だから、この時以来、美佐子が隣の席に座る度に、僕は胸をときめかし、頬を赤らめた。それは、自分でもよく、分かって、なるべく、美佐子には、感ずかれないようにしたが、心臓の高なりと、体温の上昇が、僕が平常心を失っていたことを、いつも如実に物語っていた。  美佐子のすることの全てが、気になった。  最初の日に、隣の席に着くなり、僕の方に向かって、  「よろしくね」  と挨拶したとき、それが、とても爽やかで、ハッキリした声だったのを、覚えている。僕は、その声に感動したが、  「うん」  とだけ、ぶっきらぼうに、答えただけだった。  「今日は午後から、河原に行きます。河原では石取りをします。石はいろいろな多彩な表情をしています。何かに似ているものがあったら、それに見立てて、名前を付けてください。こういう石遊びは、江戸時代から風流な遊びとして町人たちがやっていました。一人一個でいいですから、面白い石を見つけてください」  加代子先生は、そう最後に告げて、ホームルームを終えた。    次の授業が始まるまでの休み時間に、僕の隣の席には、人の輪が出来ていた。転入生には、誰でも興味があるのだ。いろいろなことを、聞いたみたい。  「前の学校は東京だったの」  一番おしゃまな佳子が聞いた。  「そうよ」  「だから、着ているものもちょっと洒落ているのね。この筆入れなんかも最新型だし」  それは、このころ、流行りだしたドラエモンのキャラクターが付いたプラスチックの筆入れだったが、転校生の持ち物は、なんでも珍しかったのだ。  休み時間の間に、沢山の友達がやって来ては、いろいろなことを聞いていた。僕は、隣の席で、そのやり取りを一々、聞いていたから、この転校生の生い立ちや家庭の事情が少しずつ、分かってきた。  ーー 美佐子がこの町に来ることになったのは、父母の離婚のためらしい。美佐子には、兄がひとりいて、飛行機のパイロットをしているらしい。この町には、母と離婚した父がいて、彼女はそこに引き取られたこと、その母が芸能好きで、彼女を子供劇団に入れ、その関係で、テレビに出ていたことーーなどが、分かった。  僕は、  「お母さんはどうして、あなたを手離してしまったの」  とやや、不躾に聞いてみた。  「恋人が出来て、私が邪魔になったのよ」  美佐子の答えは、明確だった。暗さも、惨めさもない。ただ単に、明確に事実を述べていた。  そういう問答が、とても朗らかだったので、彼女の心の襞に分け入ってしまったかもしれない質問をした僕は、ほっと、少し安心した。    午後になって、皆で、河原に出掛けた。 河原には、歩いていく。  クラスの四十五人が、男と女の二列縦隊になって、稲穂の揺れる初夏の田圃のなかの畦道を横切って、下の方へと進んでいった。  男女の二列縦隊になったとき、吉永美佐子は、僕の隣に並んだ。こういう野外授業には慣れていないのだろう。美佐子は、真っ白な顔に、困惑の表情を浮かべながら、僕の横に寄り添うようにした立っていた。  「これから、少し、遠くまで歩くんだ。道も良くないから靴が汚れるよ。ズック靴がいいな」  僕は、赤いエナメルの靴を履いていた美佐子に、そう言って忠告した。  美佐子は、この日が登校初日ということもあって、ズック靴など持ってきていなかった。そのため、ますます、当惑して、  「私は持ってないの。どうしよう」  うめき声を上げた。  「そうだ。下駄箱に、長靴があるから、よかったら使いなよ」  僕は、玄関に走っていって、長靴が置いてある下駄箱を開け、確認した。そして、出掛けるときに、長靴を取り出して、美佐子に貸した。  「少し、大きめだけど、大丈夫のようよ」  美佐子は、一安心したようだった。    河原に到着して、加代子先生は、  「では、これから、ここで好きな石を探してください。それから、ここの川の流れはとても速いので、くれぐれも、川の中には入らないように」  と生徒に伝えて、首に下げていた笛を口にした。  「次の笛が聞こえたら、この場所に集まって下さい」  そう言って、「ピー」と笛を鳴らした。  僕らには、この河原は、我が家同然だった。いつも休みの日には、三人で、ここにきて、一日中、釣りをしている場所だから、隅から隅まで知っていた。だが、どこにどんな石が転がっているのかまでは、知らない。とはいえ、大体のことは分かる。  僕は、勇ちゃんと正ちゃんと三人で、石探しに取りかろうとした。すると、美佐子が、不安そうな顔をして、  「私、どうしていいか分からないの」  と今にも泣きだしそうに、立ちすくんでいるのに、気が付いた。  「よかったら、僕たちが手伝ってやるから、付いておいでよ」  僕たち三人が、いつも釣りをしている人車橋の側の中洲に渡る所に向かうと、美佐子も、一緒に付いてきた。  「ほら、ここは、流れが曲がって、ぶち当たる所だから、石も多いよ。種類もいっぱいありそうだ」  三人で水際に座って、一つ一つの石を手で取り上げて、観察した。  確かに石の表情は多様で複雑だった。  山形の上に雲がたなびいているような格好の物、狸の顔のような模様が入っている物、瓢箪のような形の物。いろいろとあった。  一つ一つ、拾い上げては、見てみたが、いろいろあっても、これというものはなかなか、見つからなかった。  始めは、おどおどしながら、ゆっくりとした動作で、恐る恐る石を拾っていた美佐子は、その作業に慣れてくると、すっかり、大胆になった。もともと、美的な感覚と、創造力があるのか、  「あら、これは、ペコちゃんの顔に似ているわ。これは、ドラエモンね。そして、これは、のびたくん」  と独り言を言いながら、次々に石を拾っていた。  僕たちは、そうして、石を探しながら、知らぬ間に、川の中の方へと進んでいた。  河原で石を探すより、川の中から拾い上げるほうが、スリルがあった。目で見えないところを手探りで、形のよい石を拾い上げた方が、感激の度合いが大きかった。  美佐子もそう思っていたらしい。僕たちは、一緒に、徐々に川の中央部に進んでいた。  加代子先生は、河原の端の土手の上に座って、受け持ちの生徒の様子を観察していたが、人車橋の裏の所に回っていた僕たちの姿は、視野には入っていなかった。  僕たち四人は、知らぬ間に、川の中央から三分の一くらいしか離れていない場所に来て、腹まで水につかって、必死で石を探していた。  手を川底に伸ばして、石を探すためには、体をかがめなければならない。  やや、上流で腰まで水につけていた美佐子が、僕の方に向かって、  「あら。大きい型のよさそうなのが見つかったわ。いま、拾うからね」  と大声で叫ぶのが、聞こえた。  美佐子の頭が、そのあと、川面すれすれに下に向かい、石をぐっと拾い上げる動作をした。その瞬間、僕の視界から美佐子の姿が、消えた。  僕は一瞬、何が起こったのか、理解できなかったが、次の瞬間、美佐子の履いていた僕の長靴が、川面にぽっかりと浮かび上がり、目の前を流れていくのを見て、美佐子が川に呑まれたのが分かった。  僕は、必死で、美佐子の方に近付こうと、川の中へと歩みを速めようとしたが、流れが非常に速く、押し戻され、押し流さそうになった。だが、勇ちゃんと正ちゃんは、河原近くにいたから、彼らに、急を告げてることはできた。二人は、土手のほうに走っていった。  美佐子は、十メートルほど流されてから、川面に浮上した。両手を天に突き上げ、必死でもがいていた。手で宙を掴むようなかっこうのまま、急流に流されていた。  僕は、もう自力で近寄るのは、無理だと分かったが、他に助けに行ける者は、いなかったから、僕がやるしかないと、決断し、頭から流れに飛び込んで、泳ぎはじめた。急流に流されながら、力をふり絞って手足をかいて、美佐子の方へと泳いでいった。  美佐子は流されていたから、一緒に流されながら僕は、体を徐々に近づけていかなければならない。二十メートル位、進んだところで、ようやく、美佐子の近くまで進むことができた。頭を上に上げて、すでに、意識を失ったのか、目を瞑って流されていく美佐子の上着の袖を、僕は左手で掴むことができた。しっかりと、掴んだが、流れていくのを止めることは出来なかった。流れが余りに速すぎて、立つことも出来ないのだ。  二人は、一体となり、一つの塊となったまま、急流に包み込まれ、川下へと運ばれていった。  その先には、コンクリート製の小さなダムがある。ダムから落ちたら、一巻の終わりだ。命はないと思っていい。だから、そこまで行く前に、どうにか、止めないと助からない。  僕は美佐子を抱き抱えたまま、水中に止まろうと、必死で踏ん張ったが、中学生の力では、無理だった。そのうち、僕も多量の水を飲み、意識が薄れてきた。ただ、美佐子を掴んだ手は、離さなかったらしい。僕は、川の流れを見ていた目が、そこを離れて、明るい空を見上げたのを覚えている。くっきりと晴れ上がった青い空に筋雲が浮かんでいた。視覚に美佐子の上着の鮮やかな赤い色と空の青さの残像を残して、僕は、気を失った。 暖かい体温と甘いラベンダーの香りと、包み込まれるような柔らかいクッションの中で、僕は、目を覚ました。うすぼんやりと視界に入って来たのは、空の青に代わって、クリーム色の天井の四角い枠組みとその下にある見たことのある顔だった。その顔は、加代子先生の顔だった。甘い香りは、先生の体から発散されていた。  僕は、加代子先生の体の中に抱えられていた。先生は、白いシーツのベッドに腰掛け、横座りになって、その上でその中に僕の体を抱えていた。  僕の顔の横には、先生の豊かな胸の脹らみがあった。それは、マシュマロのような柔らかさで、ブラジャーは着けていなかった。だから、そのままの体温が、僕の体に伝わってきて、心地良さを増していた。  うっすらと開けた目で、加代子先生を見つめると、先生は、  「あら、やっと、目覚めたのね。よかった。もう大丈夫よ。安心してね」 と話しかけてきた。  その言葉を聞いて、僕は、再び、目を瞑った。  いったい何があったのか。僕は思いだしてみた。  美佐子が川に流されて、僕は必死で、助けに向かったのだった。急流に押し戻されながら、どうにか、近くまで泳ぎ着いて、美佐子の服を手につかんだ。そこまでは、鮮明に覚えていた。  「先生、美佐子さん、いえ、吉永さんは」  美佐子のことが、気になって聞いてみた。  「救急車で運ばれたけど、多分、大丈夫でしょう」 とだけいった。  すると、僕の寝ているこの場所は、何処なのだろうか。美佐子が運ばれていった病院とは違うところらしい。  「目が覚めたけれど、まだ、体が疲れているから、もう少し、寝かせたおいたほうがいいでしょう」  そう、先生とは違う女の人の声が言った。  それは、聞き覚えのある声だった。  そうだ。それは、養護の先生の声だった。ということは、僕は、学校の医務室に寝かされているらしい。そして、美佐子は、病院に運ばれた。それは、美佐子の方が僕より重大な事態にあることを示しているのだ。僕は、美佐子のことが心配になってきた。  一体何が起きたのだろうか。僕が意識を失っているあいだに、起きたのは、どういうことなのだ。それが、知りたかった。だが、いまは、こうして静かに横になっているしかない。とにかく、よく、眠って、元気を取り戻さなければいけない。  僕は加代子先生に聞いてみた。  「一体、どういうことだったんですか」  加代子先生は、安堵感を滲ませながら、  「とにかく、二人とも助かったのよ。それだけでもう、先生は、胸をなで下ろしたわ。健ちゃんも、よく頑張ってくれたわね」  「・・・・・・」  「健ちゃんは、最後まで、美佐子ちゃんを離さなかった。だから、二人とも助かったということよ。私は、正ちゃんや勇ちゃんに二人が流されたのを知らされて、すぐに、川の方に走っていったの。でも、二人は、かなりの速さでダムの方に流されていったわ。だから、どうしようもなかった。すると、ダムの近くの川幅が狭くなっているところで、健ちゃんは必死で泳いで、川岸に向かっていた。それで、岸辺に泳ぎ着いて、岸に引っ掛かっていた流木にしがみついたのね。ダムまであと十メートル位の所だった。健ちゃんは左手で美佐子ちゃんを掴み、右手で木の根っこにしがみついた。それで、流されるのが止まったの。私は、応援に来た先生方と一緒に、川に入って二人を引っ張りあげたのだけれど、水流が強くて、大変だったわ。二人ともよく頑張ってくれた。よく生きていてくれた。神様の助けがあったとしか思えないわね」  と言って、加代子先生は「わっ」と泣き崩れた。  僕が、気を取り直してから、成人した女性の肌の温もりと芳しい体臭を、直に嗅いだのは、その後のことなのだ。  「それで、美佐子ちゃんは・・・」  僕は、飽くまでも美佐子のことが気掛かりだった。  「健ちゃんは、川から引き上げてからすぐに息を吹き返したけど、美佐子ちゃんは、なかなか息が戻らなくて・・・・・・。水を大量に飲んでいたのでしょうね。救急車で病院に運ばれて。どうなっているんでしょうね。私もそろそろ、病院に行ってみないと行けないわね」  「ぼくも一緒に行くよ」  「でも、もう少し、体を休めなないといけないでしょう」  「大丈夫、もう元気になったよ。ほら、こんなにちゃんとしているよ」  「そうね、良かったわ。じゃあ。もうひと眠りしてから、一緒に行きましょう。病院には他の先生が付き添っているし、家族の方も来ているというから」  先生は、そう言って、僕の体を、豊かな胸の中に、しっかりと抱きしめた。    僕の両親は、共働きで、平日のこの日は、勤めに行っているから、家に帰っても誰もいない。本来なら家に帰って暖かくして、寝ていなければいけないのだろうが、美佐子のことが心配だったし、こうして加代子先生が側にいてくれるのだから、ここで乾いた衣服に着替えて休んでいるほうが、安心だった。  両親には、この事故のことは、まだ、知らされていなかった。もし、命に係わるような事態だったら、緊急連絡されただろうが、一命は取り留めたのだし、こんなに元気なのだから、学校側も事後連絡にするつもりだったのだろう。  となると、肉親も駆けつけているという美佐子の容体は、かなり深刻なのだろうか。  僕は、そんなことを頭に浮かべながら、白いベッドに横になっていた。  その浅い眠りのなかで、また、短い夢を見た。  ーー 明るい光の中に美佐子に似た少女が立っていて、こちらに笑い掛けていた。すると、急に彼女を照らしていた地平線の七色の光が薄くなっていって、回りが暗くなった。女の子の顔が、徐々に、見えなくなっていきそうだった。その子は地平線に向かう一本道を向こうに走っていこうとした。僕は、その後を必死で追いかけたが、少し、近付くと、また遠ざかるの繰り返しで、なかなか追いつけない。あと一歩のところで、足が止まってしまうのだ。女の子は行き止まりの崖の所まで来ても、そのまま進んでいこうとしていた。崖の下には荒波の洗う大海原が広がっていた。女の子は道が切れるのも知らぬように、真っ直ぐに進んでいった。僕は、必死で追いかけた。女の子は、崖から落ちようとするその時、一歩、前に踏みだして、空中に飛んだ。僕も、引かれるように空中に飛び上がった。いつのまにか、背中に羽が生えていた。僕はその女の子に導かれて、空中に舞い上がった。空中で、僕はその子に追いついて、ひしと互いの体を抱き合い、しっかりと一体になっていた。そして、明るい天空を目指して、空中を昇っていった。周囲が、段々と明るくなり、その明るさのために目を開けていられなくなった。光の輪が回りはじめた。  その時・・・・・・、  僕は目を覚ました。目の前を白いシーツを掛けた掛け布団が覆っていた。僕はその布団を撥ね退けた。そこに、加代子先生の真っ白な明るい笑顔があった。  「さあ、そろそろ、行きましょうか」  僕は、加代子先生の自転車の荷台に乗って、美佐子の運ばれていった病院に向かった。  町で唯一の病院の救急治療室に美佐子は入っていた。顔をマスクで覆われ、数本の管が、その先の機械と美佐子を結びつけていた。  加代子先生は、治療中の医師に挨拶すると、目を瞑ってベッドに横たわっている美佐子の側に行き、様子を見た。  医師は、  「一応、命は取り留めましたが、ただ、大量に水を飲んでいるので、消化器や呼吸器がやられています。痛んだ内蔵の回復を待たねばいけないので、半月位の入院が必要でしょう」 と診断結果を伝えた。  美佐子は、睡眠剤の効果もあってか、昏々と眠りつづけていた。  加代子先生と僕が、治療室から廊下に出ると、長椅子に若い男の人が、腰掛けていたが、加代子先生の姿を見ると、立ち上がって、挨拶した。  「どうも御苦労様です。私は美佐子の兄です」  その挨拶に、美佐子先生は、  「このたびは、申し訳ありません。私がついていながら、こんなことになりまして・・・・・・」  加代子先生は、畏まって挨拶を返した。  だが、二人の様子には、初対面とは思われないような、親しみがあった。  そのあと、二人は、しばらく、美佐子の容体について話し合っていたが、その会話の様子は、親しげだった。僕は、この二人は、決して、この日初めて会ったのではないという気がした。  さっき、男性が挨拶したとき、よそよそしくしていたのは、多分、第三者の僕のことを気づかってのことなのだろう。身を寄せて話をする二人の間には、決して初対面では生じないような親密な空気が漂っていたのである。  二人は話していた。  「お仕事の方はよろしいのですか」  と加代子先生は聞いた。  「はい。今日は緊急事態ですからね。あと一週間ぐらいは休んで、看病するつもりです」  「お忙しいのでしょう」  「いや、フライトのあとは、休みがありますから。今日はそのフライトが終わったところなので、ちょうど良かった」  「こうして、お会いするなんて、考えてもみなかった」  「僕もです。でも良かった。あなたが、元気そうで」  「そうでもないです。気持ちだけは一生懸命なのですけれども」  そんな会話が、途切れ途切れに耳に入ってきた。    美佐子はまる三日間、眠りつづけた。が、さすがに若い肉体の回復力は素晴らしく、昏睡が解けて四日目には、話をすることができた。  加代子先生と僕は、毎日、見舞いに行った。級友たちにも見舞い行く者がいたが、せいぜい、一、二回で、毎日行ったのは、僕と加代子先生だけだった。  毎日、学校が終わると、僕は、加代子先生の自転車の荷台に乗って、病院へ行った。風が吹くと、加代子先生の肉体から発散する甘酸っぱい香りが、僕の嗅覚を心地よく刺激した。  道は未舗装だったから、自転車は激しく揺れる。そんなとき、加代子先生は、  「健ちゃん、しっかり、私の体に捕まるのよ」  と声を掛けた。  僕は、必死で、加代子先生のおなかの部分に両手を回して、しがみついた。その場所には、柔らかいがよく張り詰めた肉体があった。僕は、必死に加代子先生にしがみつきながら、両手をしっかり引きつけ、顔を背中に押しつけた。新しい石鹸の香りのような芳香が鼻孔を射た。その姿勢は、後ろから加代子先生を抱きすくめるような格好で、僕はそうしている時間が、いつまでの長く続けばいいと思っていた。そうしていると、体が宙に漂う感じがして、とても心地よかった。    美佐子は、僕のことを命の恩人と思ったらしい。  事件から一週間後に、お見舞いに訪れた僕に向かって、  「私、健ちゃんのことは、一生、忘れられなくなってしまったわね。あの時、あなたが助けてくれなかったら、私は今、こうして生きてはいないのだもの。一生、頭が上がらないわね」  と快活に言って、笑った。  「でも、良かったよ。こんなに元気になって。あの時は、もう駄目じゃないかと思ったんだよ、本当は。それで、僕も気を失ってしまって、何がどうなったのか、分からなかったんだもの」  僕は気恥ずかしくなって、それだけ言って、ただ、美佐子の顔をじっと見ていた。  美しい顔だった。濃い眉毛に二重瞼の中の瞳は大きく見開かれ、その聡明さを物語っていた。形良くつんと尖った鼻が小さい顔の真ん中にしっかりとした位置を占めていた。その下でやや薄めの唇が、赤色鮮やかにくっきりと二本の横線を、顔の下部に描いて、全体に安定感を与えていた。あの日、蒼白だった顔色は、この日は、桜色にほんのりと染まり、生命のみずみずしい営みの証拠を示していた。  (この子は、大人になれば、女優になる) と僕は、考えたが、  (いや、すでに、タレントだったんだ) と思いついて、美少女の未来を占ってしまった浅はかさを思った。  その美少女が、僕のことを、  「命の恩人だ」 と言っている。  [生涯、忘れられない人」 と考えている。  それだけで、僕の心は、はち切れそうな満足感で一杯になった。  加代子先生の発する大人の女性の官能的な刺激と少女の与えてくれた精神的な満足感で、その時、十四歳の僕は、めくるめくような心の充実感を味わったのだった。    美佐子は、一週間半、入院した後、退院した。  それは、もう夏休みの初めで、僕たちは学校には行っていなかったから、美佐子の退院はクラスの皆には、知らされなかったが、僕と僕の親友は退院を祝いにいった。  退院の日、僕たちは美佐子の家に招待されていた。  「ささやかに、快気祝いをしたいので」 と呼ばれたのだった。  加代子先生を先頭に、僕と正ちゃんと勇ちゃんは、連れ立って、美佐子の家に出掛けていった。ささやかだが、皆でお金を出し会って買った洋菓子の箱を抱えて・・・・・・。  美佐子の父親が離婚して、この町に越してきてから、新しい妻と共に住む家は、小高い岡の頂上にある洒落た洋風の造りだった。  私達を玄関で迎えたのは、この父親と継母、それに病院で会った兄の三人だった。  美佐子は、すでに応接間に座って、僕らの到着を待っていた。  七人での楽しい、パーティーが始まった。  コーラやジュースなど沢山の飲み物とチラシ寿司、刺身の盛り合わせ、天麩羅などの料理が、奥の八畳間の食卓の上に並べられていた。僕たちは、勧められるままに、それらの料理を味わい、美佐子の全快を祝った。思い思いに、良く食べ、良く話した。  もちろん、この日の主役は、美佐子だったが、その隣に並んで座っていた両親よりも、僕らの席の反対側に肩を並べて座っていた加代子先生と美佐子の兄の様子のほうが、僕には、気になっていた。  二人は、窮屈そうに肩を並べて、食事をしながら談笑していたが、加代子先生の細かい心つかいぶりは明らかで、二人は、すっかり恋人のような感じがしていたからだ。  僕は、その様子を見ながら、二人の関係はどういうことなのかを考えていた。だが、いくら考えを巡らしても、これという答えは得られなかった。何か、とても親密な空気が二人の間にあるのは、確かなのだが、中学生の僕には、それがなぜなのか、よく分からなかった。  それより、快活に語る美佐子の声が、皆の関心を集めていた。加代子先生たちの顔色を伺いながら、静かに食べ物を口に運んでいた僕の耳に、美佐子の朗らかな声が飛んできた。  「私、一生、健ちゃんのこと、忘れられないわね。絶対、一生、側にいるからね」  皆が、僕の方を見た。僕は、顔から火が出るような気がした。  自分の気持に正直で、ものに動じない性格なのは分かっていたが、大勢の前で、そういうことを言う美佐子は、やはり、特別の女の子だった。  「そうできればいいね」 と父親が言った。その言葉が終わるやいなや、皆が、笑顔で拍手をした。皆の顔は僕の方を向いていた。  僕はそれで、確信した。  (絶対、美佐子とは、一緒にならないだろう) と。  和やかな食事が終わり、食後のデザートになった。早生の西瓜と手作りのチーズ・ケーキを口にしながらの話題は、間近に迫った「鮎祭り」のことが、中心だった。  「ミス鮎祭りの応募資格が、今年、また変更されたらしいのよ」 と言ったのは、エプロン姿の継母だった。  「どう変わるのだい」 と父親が聞いた。  「ほら、昨年までは、一度、選ばれた人は、続けて応募出来なかったでしょう。それが、今年からは、応募出来るようになったの。だけど、ミスの資格は厳しくなったらしいの」  「どう」  「これまでは、結婚している女性だけが対象外だったけど、今度は実質的に同棲している人も、その事実が分かると失格になるんですって。これも時代の流れね。籍を入れずに一緒に暮らしている男女は多いでしょうから」  それは、長い愛人の生活から、抜け出したばかりのこの母のせめてもの誇りだったのだろうか。  「それなら、加代子先生、また、出てみませんか。あなたが、我が町一番の美人であることに、違いはないですから。私達の希望の星ですからね。あなたが出られなくなってから、毎年、向こうの町の娘が選ばれるようになってしまった。悔しいではありませんか」 と父が、加代子先生に水を向けた。  「いや、もう結構ですよ。規約が改定されて、資格が緩和されたからといって、すぐに、応募するのは、気恥ずかしいですからね。それより、美佐子ちゃんのほうが・・・・・・」  加代子先生は、自分に向かって飛んできた指名の矢を巧みにかわして、美佐子の方に向けた。  言われた美佐子は、まんざらでもない様子だった。  「そうだ、美佐子ちゃんが出たら、僕たちも応援するよ」 と僕はこの瓢箪から駒の案に賛成した。  すると、継母が、  「それは、美佐子が出れば、当選は間違いないでしょうけど、まだ、中学生ですからね」 と自分が腹を痛めた子ではない美佐子に対する遠慮を示しながら、言った。  「でも、中学生では駄目だという規程はないでしょう。だったら、いいじゃないですか。芸能界だって、中学生が活躍していますよ」 と僕らは反論した。  僕は美佐子の応募には、異論がなかったが、心中、加代子先生の出馬を期待していた。何と言っても、「実績」があるのだ。ミス三回の熟女とフレッシュな中学生の二人が出れば、女の美の争いは、がぜん盛り上がるに違いない。それが、外野席の観衆の期待なのだから。  ミス選出の規約が改正されたのは、向こうの町の策謀なのだ。前回ミスに選ばれた向こうの町の女性を、再び選ぼうという深謀遠慮が規約の改正に向かわせたのだ。この策謀を打ち破るためにも、この我が町のエースとホープを出場させれば、向こうの町の連中に泡をふかすことができる。  町のお偉方もこの計画には、大賛成だろう、と思われた。  美佐子は気持ちが動いているし、今は、遠慮している加代子先生だって、昔の栄光の記憶はあるのだから、町長などお偉方が説得すれば、気持ちが変わる可能性は高い。  こうして、美佐子の快気祝いの席は、予期せぬA町対B町の面子を掛けた「ミスの座争奪戦」の作戦会議になった感じだった。  皆には、今は躊躇している加代子先生も、五度目のミスの座挑戦は間違いない、という確信が生まれていた。  祭りの季節がやって来た。  加代子先生は、町長らの説得で、ミス鮎祭りコンテストへの出場を快諾した。美佐子は、すでにハッキリと、「出馬」の意思を示していたから、僕らの町から二人の美女が、出ることになった。ほかにも、数人の若い女性が応募したが、間違いなく、この二人が本命だった。  川向こうの町からは、昨年のミスが、連続女王の座を掛けて出てくると見られていた。しかし、こちらの二人の出場が明らかになると、向こうの町の応援者たちは、騒然となったらしい。なぜなら、昨年のミスは、明らかに、こちらの二人に比べると、容貌、スタイルともに、劣っていると見られていたからだ。  向こうの町の幹部たちは、ミスの座を死守しようと、対策を練った。最善の案は、昨年のミスを上回る有力な候補者を出すことだったが、応募のあった女性たちの中には、それに匹敵するような人物は、いそうもなかった。次の手は、昨年のミスの女性に連続女王の座を狙わせるために、「根回し」をして、闇でその座を獲得することだったが、これは、もし、その工作が露見した場合を考えると、簡単に踏み切れることではなかった。また、実際、そういう工作は、必ず、明るみにでるものなのだ。  (ミスの座を守るために行った規程の改定がとんだ裏目に出た) とあちらの町の幹部らは嘆息した。  第三の案は、加代子先生か、美佐子のどちらかを応援する方に回ることだった。これならば、かなりまっとうな勝負になるのではないかと思われた。  「加代子さんのお母さんは、こちらの町の出身だから、まったく、こちらに地縁がないわけではないだろう」  すだれ頭で小太りの町の助役が、吊りバンドの帯を撫でながら、提案した。  「こちらに良い娘がいないのなら、そういう事も考えてもいいが、加代子先生は向こうの町の代表として、連続ミスになったことがあるのだ。そう簡単には、応援というわけには行かない。昔のしこりがあるからな」  やせ型で長身の町長が、ストライプの背広の襟を正しながら助役の案に難色を示した。  こうして、向こうの町の候補者が決まらないまま、「ミス鮎祭り」選考の日は、あと一週間に迫っていた。  ミス選考の手順は、両町から選出された祭り実行委員会の選考委員会による応募書類の選考から始まる。選考委員会は、両町五人ずつの計十人で構成されているが、書類選考では、まず、二十人位に絞り込み、この二十人が選考日当日のミス選出大会に臨むことになっている。  だが、すでに、書類選考の段階で、ミスと準ミスの有力候補は、目星が付けられているのが、実情だ。最後の選考大会は、その確認のためのものとも言えた、そうしないと、イベントの段取りが、作れないという事情も加わって、書類選考でかなりの程度、絞り込んでおくのが当然だった。   そういう事情もあって、両町の町民らは、もう一週間前の段階にも係わらず、「我が町の代表」の声援に熱くなっていた。  人々が我が町の代表の動きに注目を集めはじめたころ、  (おい、向こうの町は、加代子先生の応援に回ることになったらしい)  という噂話が、まことしやかに、流布されるようになった。  「向こうの町では昨年のミスが降りたそうだ。やはり、こちらの二人相手では、分がないと踏んだのだろう」  と人々は、しきりに、下馬評を語っていた。  「それなら、こっちは美佐子で確定だな。投票者は向こうの町のほうが多いのだから、苦戦は必至だ。大応援をしないといけないな」  ミス選考大会は、町民から選出された一般の選考委員百人と著名人に委嘱した審査員十人の投票で、ミスが選出される。町の代表は人口比に従っているから、向こうの町の方が、人数が多い。我が町の不利は明らかだった。だから、一票が住民代表の十票にあたる票を持つ審査員に頼るほかない。原則として、彼らは中立だったから、彼らの票が当落の行く方を握っているといってよかった。そういう意味では、審査は中立・公平に行われる仕組みにはなっていた。  僕たち子供たちも、大人たちが勢い込んでいるあちらの町とのミスの座争奪戦に無縁ではなかった。何しろ同級生と担任の先生が候補者なのだから、クラスの支持も真っ二つに割れていた。だが、やはり、同い年の僕たちは、美佐子の支持に回るのが必然だった。ぼくらは、こちらの町での美佐子の応援イベントや活動に、子供なりに力を入れて打ち込んだ。    ミス応募を加代子先生に説得したのは、肥満体の町長とまだ四十代の若い助役だったが、決断をしたのは、あくまで、本人の意思である。  僕は、何故、教師になって二年目、二十三歳の先生が、再度ミスに挑戦するのか、理由が十分、納得出来なかった。  先生の妹の麗子の話では、加代子先生は、その話が持ち上がってから、三日三晩、悩み、苦しんだという。  「姉さんは、町の偉いさん方にいろいろ言われて、苦しんでいた。これは町の名誉のためだとか、町民のためだ、とか言われて、まるで、選挙にでるような感じだった。でも、結局、説得を受け入れたのは、自分のためだと私は、思うわ。姉さんは、『今回が最後。絶対に、もう出ない。私は、違った人生を歩みたいんだもの』とはっきり、私に言ったわ。きっと、なにか、決心したことがあって、それを理解したから、姉さんは決断したんだと思う」  その決心が何なのかは、麗子にも分からなかったが、僕は、とても、気になっていた。    ミス選考大会が、三日後に迫っていた。その日、僕は朝から川に入っていた。正ちゃんと勇ちゃんの友達二人も一緒だった。この日の釣果は上々で、三つのびくには、鮎が溢れていた。  夕方、一端、竿を収めて家に帰ったが、この夜、僕たちは、初めて、夜の漁に参加することになっていた。夜食を取ってから、再び、川に戻り、松明を焚いた小舟を出して、寝ている鮎を起こして追い込み、網で捕獲する。そういう夜の漁を大人の猟師たちは、漁期の最中に、一週間に一度、日を決めて行っている。この夜は、その日に当たっていた。  僕らはまだ、中学生だったから、その漁への参加資格はなかったが、町の漁業組合長をしている正ちゃんの父親に頼み込んで見ることにしたのだった。お父さんは、僕らの申し出を迷惑がるどころか、むしろ、喜んで受け入れてくれた。  「そうか、お前たちもやってみる気になったか。それは、心強い。わしらも、後継者ができるのは、嬉しいよ」 と言って、歓迎した。  それで、この父親の船に三人が乗り込むことになったのだった。  夜の漁は午後八時すぎから始まる。  赤々と松明を点けた小舟が四隻、川岸から漕ぎだして、一端、下流に向かい、折り返して、上流へと鮎を追い立ててくる。そして、川の流れが淀みをつくっている辺りに来てから、投網を投げる。魚が多ければ、それは驚くほどの収穫が得られるのだ。だから、この漁は一週間に一度しか出来ないように自主規制しているのだ。  僕らの乗り込んだ船は、正ちゃんの父親の巧みな櫓さばきに導かれて、下流に向かい、そこで、松明の光を一気に明るくしたあと、上流に向かって追い込みに掛入った。  昼間、あれだけ大漁だったのだから、自分の縄張りの中で眠っている鮎も多いはずだった。  季節は、まさに、鮎漁の盛りの時期に来ていた。  船が上流に折り返すまでは、僕たちは特にすることはなかった。漕ぎだした場所の辺りの明るさに比べると、折り返しの場所はずっと暗く、岸辺にも人影ひとつ見られない閑散とした場所だった。暗い川面に、ただ水を掻く櫓の音だけが、聞こえる。川面を吹き抜ける夏の薫風が肌に心地よかった。  折返点に来た。周囲は静まり返っていた。  その時、川向こうの堤防の上に、二つの人影が見えた。一人は長身の男で、もう一人は、髪の長さから女性のように見えた。男の腕が女性の身体に回され、抱き抱えている様子だった。薄明かりの月明かりに照らされて、二人の人影は、影絵のようにシルエットを形作っていた。その人影は、互いに寄り添い、男性が女性の肩に手を掛けて、体を引き寄せるのが見えた。女性の顔が男性の顔を見上げていた。男性はその顔を女性の方に向けて、近付けた。そして、強く抱擁し、唇を重ねた。  その時、一斉に四隻の小舟の松明が灯った。周囲は一気に昼間の輝きに転じて、こうこうとした光が、直前まで漆黒だった空間を、昼間のように明るくした。  僕は、堤防上の人影をずっと見ていた。二人は僕らの舟がその下の川にあることも知らないらしい。二人は回りが一気に明るくなったのにも、気づかず、唇を重ねたままだった。二人はすっかり、二人だけの世界に入り込み、閉じこもって、外界と閉ざされて何者の侵入も許さない確固とした殻の中に存在しているように見えた。が、単に、物理的に瞳を閉じていたために、周囲の変化に気が付かなかっただけかもしれない。明るい光に照らされて、堤の上で抱き合う二人の姿は、まるで、映画の中の恋人の抱擁のようだった。  僕は、依然として、二人に目を凝らしていた。  しばらくの抱擁の後、二人は目を開けたらしい。すっかり、明るくなった周囲の変化に驚いて、はっと、身を離すと、二人は並んで、こちらを向き、手を繋ぎながら、茫然として佇んでいた。  それは、加代子先生と美佐子の兄だった。  (やはり、あの日の僕の直感は当たっていたのだ。二人はそういう関係だったんだ。二人は恋人なのだ)  僕は、そう納得した。そのとき、急に、胸の底から熱い物が一気にこみ上げてきて、僕の体を熱くした。見てはいけないものを見てしまったような気持といつか見てしまうであろうもの、と恐れていた事実を突然、目前に突きつけられたことの衝撃が重なって、僕は、いたたまれなくなっていた。  目頭に熱い物が溢れてきて、こぼれ出た。僕は、それを手の甲で拭った。松明に背中を向けて、皆に見られないようにしながら、次ぎから次へと流れ出る涙を必死でぬぐって、始末しようとしていたが、溢れ出るものは、止まりようがなかった。僕は、舟縁に手を付いて、溢れ出る涙を川のなかに流した。  「そろそろ。追い上げに掛かるぞ」  正ちゃんの父親が、力一杯、櫓を漕ぎはじめた。  僕たちは舟縁に座って、舟の腹を木で叩いた。こうして、寝ている鮎を起こして、追い上げるのだ。  このあと、舟の群れは、円陣を組むように淀みに進んでいき、取り囲んだ川の真ん中に網を投げ込む。僕らは、その投網も手伝った。漁獲漁は多かった。  ーーという場面が思い出されるが、ほんとうは、よく覚えていないのだ。皆が忙しく働くのに合わせて、僕もせわしなく動き回っていたが、心はそこになかったからだ。  僕は、暗い夜の闇に突然浮かび上がった男女の影を追っていた。頭を占領していたのは、憧れの加代子先生が男と川堤の上で抱きあっているシルエットの残像だけだった。    「鮎祭り」のメ−ンイベント、ミス鮎祭りの選考大会は、隣町の町民会館大ホ−ルで行われた。  朝十時からの開場を前に、多数の町民が行列して、入場を待っていた。会場は、超満員だった。  午前十一時から始まった選考の手順は、一般のこの種のコンテストとは、一風変わっていた。このミス選考の課題には、よくある水着での審査などないのだ。代わって、第一課題として課せられたのは、鮎や川や自然をテ−マにしたスピ−チなのである。  その順番は、候補者の年齢順になっていた。ということは、最年少の美佐子が、まずトップ・バッタ−で演壇に立ち、最年長の加代子先生は、ラストのアンカ−を務めるということなのだった。ミスの最有力候補者が、最初と最後なのだから、両者を応援する町民たちが、開場前から行列をつくるのは、うなずけた。  美佐子は、白いブラウスに、タ−タン・チェックのスカ−トという、僕らの中学校の女子の制服姿で、壇上に立った。頬にはほんのりと薄化粧を施し、薄く口紅もつけていた。  美佐子が選んだ演題は、「都市生活と川の自然」という硬いものだった。だが、内容は都会から引っ越してきて、この町の自然の豊かさに驚いたこと、そういう豊かな自然の中で、人々が心豊かに生活を営んでいること、川で採った鮎のおいしかったことなどを、自らの体験として語り、最後に人々に恩恵をもたらす自然を、将来も守っていかねばならない、との誓いを立てたということで結び、本当に中学生らしい真面目さで、聞いている人々に自然保護の大切さを訴えていた。  このスピ−チは、発声も明瞭で、語りかける時の表情も豊かで、聞く人々を魅了した。最初の出場者がこの内容だったから、聴衆は、次からの演者たちにも多くを期待したが、徐々に、内容も語る姿勢も勢いを欠きはじめ、尻すぼみとなっていった。  最後に、加代子先生の番になった。演題は「鮎釣りをする子供たち」というもので、自らの教員生活を語った後、教え子の中に、鮎釣りに夢中になっている者がいるとした上で、その子供たちの明るく、健康的な姿を、自然保護への願いとして述べたものだった。  僕は、  (ああ、これは、僕らのことだ) とすぐに、思い当たった。  「この町も住宅が増えて、徐々に、都市化が進んでいっています。だが、川の流れは昔と変わらず、鮎釣りの季節になれば、多くの釣り人がやって来ます。この自然を守るには、どうすればいいのか。それはいくら教室で黒板の前で言葉で伝えようとしても分かるものではありません。自ら、体験してこそ、本当に、鮎の生きる川の素晴らしさ、大切さが分かるはずなのです。この子供たちはそういうことを体で学んでいるはずです。私達はそうして、自然の素晴らしさ、大切さを知った子供たちに、将来を任せてもいいのではないかと思っています」  先生は、僕たちをそういう目で見ていてくれた。このコンテストでは、美佐子を応援せざるをえなかった僕たちが、加代子先生の心の優しさ、生徒を見守る目の信頼感に、僕たちは心から、感動した。このスピ−チを聞いて、涙を流している女子生徒もいた。  加代子先生のスピ−チが終わると、聴衆の中から、大きな拍手が巻き起こった。加代子先生は、その拍手の渦のなかで、丁寧に頭を下げて、演題を辞していった。  大観衆の拍手は鳴りやまなかった。  (やはり、スピ−チでは、加代子先生が最高だった)  美佐子はそう思っているだろうし、僕たちもそう感じていた。  この第一関門で、候補者は、半分に絞られた。残った十人は、審査員による一問一答形式の第二関門の試練を受けなければならない。  それは、二日目の明日、同じ会場で行われることになっていた。  第二次審査は、第一位の得点成績の順番に行われた。最後の二人は、美佐子と加代子先生だった。  ということは、ここまでの持ち点では、この二人が、二位と一位の席順だということを示していた。  審査は、順調に進み、美佐子の順番が回ってきた。  舞台の下の横長の机に並んだ審査員らが一問ずつ、順に質問した。  ーー あなたは、中学生ですね。  「はい、中学二年生です」  ーー 何か、趣味はありますか。  「絵を描くことです。あと、お茶です」  ーー 学科は何が好きですか。  「英語と美術です」  ーー スポ−ツはどんなことをしていますか。  「新体操をしていましたが、今はしていません。こちらに来てからは、鮎釣りをするようになりました。まだ、二回くらいしか行っていませんが」  その答えに、会場から拍手が巻き起こった。それは、僕たちが、連れていってあげたからだから、僕らは、誇らしい気持ちになった。  ーー 川が好きなのですか。  「好きだったのですが、今は・・・。実は、川に流されて、溺れてしまって、それ以来怖くなってしまいました」  会場から、どよめきが起きた。最近起きた対岸の町の中学生の川での水難事件を知っている人は、多いのである。  審査員は質問の方向を変えた。  ーー もしミスに選ばれたら、どんな事をしたいですか。  「それは、この町や隣町の広報のお手伝いをしたいです。いろいろな行事で町の振興に役立つ仕事が出来れば、と思っています」  その応答の後、履歴書をめくっていた女性の審査員が、質問した。  ーー あなたはタレントをしていましたね。  「はい、テレビの番組に出ていました」  美佐子は素直に、答えていた。  ーー その時、ギャラは貰いませんでしたか。  隣町側ひいきの男性審査員が、追い打ちを掛けて、質問した。  「はい、いくらか貰っていました」  ーー このミス・コンテストは、原則として、アマチュアの方に出場資格が限られているのは知っていますか。テレビでギャラを貰ったとすると、プロという疑いが掛かりますね。  もう一人の初老の男性審査員が、聞いた。  会場から、ブ−イングの声が、聞こえた。  「そういうことは、分かりません。でも、私はまだ、アマチュアですし、それを職業にしていた、という思いはありません」  ーー この点については、後ほど、審査員で審査いたします。  委員長の肩書が付いた名札が机の上に置いてある中年の男が、言った。この人は、この地方出身の作家だということだった。  この言葉を最後にして、美佐子は、退場した。  僕たちは、審査員たちの予想外の質問を聞いて、  (これは、美佐子を追い落とそうとするための罠だ)  と思った。向こうの町の陰険な仕掛けなのだ。大人たちもそう思っているだろう、町長たちは、会場外に出て、ヒソヒソ、何かを話していた。    最後に加代子先生が、壇上に上がった。  ーー あなたは、このコンテストでは常連で過去数回、ミスに選出されていますが、再び出場されたのは、なにか、理由があるのですか。  若い男の審査員がまず、尋ねた。  「いろいろと押してくださる方々がおりますので、その人たちの熱意にほだされて出場を決意しました。ですが、私も、もう若くはありませんので、これを最後にしたいと思っています。長かった青春時代の最後の最後の思い出として出場を決めたのです」  ーー あなたのスピ−チは、とても、感動的でした。皆が、心を打たれたでしょうが、もしミスに選ばれたら、一番になにをしたいですか。  中年の女性の審査員が、質問した。  「この地方の母なる流れである相模川の自然を守るために、広報、啓蒙活動に力を入れたいと思います。清らかで豊かなこの川の流れを私の教え子の子供たちの世代へ伝えていきたいと思います」  ーー そういう活動は、今の教師という職業を通じても、実行できるのではないですか。  「その通りです。私も日々その努力をしていますが、教室の中だけでは、広がりという点で、限りがあります。もっと、広くみなさんに訴えていくためには、ミスに選ばれることは、活動の場が広がることだと思います」  ーー 最初の質問に戻りますが、あなたは、高校生から女子大生の間に三回連続、この鮎祭りの女王に選ばれていますね。この記録は、まだ、破られていません。そのあと、数年のブランクがあって、また、応募されたわけですが、前回のミス選出の後、どのようなことをされていたのですか。  この質問に、加代子先生は、面食らったようだった。即答できずに、少し間を置いて、考え込んだ。そして、  「どういうことと、申しますと・・・」  と聞き返した。  ーー どういうことかというと、例えば、結婚したことがなかったかとか、あるいは、男性と共に生活したことがなかったか、というようなことですね。  その男性審査員は、執拗だった。  加代子先生は、これには、答えを詰まらせた。即答できないどころか、壇上で立ちすくんで、答えること自体をはばかっているようだった。  そして、一度、息を飲み込んで、呼吸を整えて、か細い声で、  「そういう記憶はありません」  と答えていた。  その「爆弾質問」をした審査員は、やはり、町の有力者で、弁護士をしている男だった。  ーー 実は、あなたの出場資格について、疑問があるのです。今回から、ミスは戸籍上の未婚者というだけでなく、事実上の結婚生活を送ったことのある、あるいは、送っている女性も除外することになりました。同棲状態を経験したことのある女性も出場資格がないのです。あなたは、特定の男性と一緒に暮らしていたことはありませんか。そうだったというある証拠があるのですが。  「どなたが、そのようなことを言っているのでしょうか。私はその方の意思を疑います」  加代子先生は、目を伏せてか細い声で、必死にそう答えた。  会場は、怒号と罵声の嵐となった。ブ−イングと歓声が入り交じって、大混乱状態に陥った。  審査委員長があわてて、  「以上については、これから、別室で審査委員会を開き、審議することにいたします」  と言って、混乱を収めに掛かった。  加代子先生は、退場し、審査員たちも別室に移ったが、会場の聴衆は興奮し、何人かは掴みあいの喧嘩を始めた者もいた。  僕たちも会場を出て、ロビ−に集まった。  「なんで、この場所で加代子先生は、あんなことを言われなくてはいけないの」  女子生徒たちも怒っていた。  僕は、考えた。  (加代子先生のあの態度は、尋常ではなかった。あのあわてぶりは、本当のことを言われたからに違いない。加代子先生には、思い当たる節があったのだ。女子大上級生のときに、加代子先生にはなにがあったんだろう)  僕は、そう考えていたが、この「なに」とは、「男と一緒に暮らしていた」ということ以外にはないとも思われた。  そう思ったとき、僕は、胸が締めつけられるような気持ちになって、吐きそうになった。  夜釣りの夜の堤防上に見た男女の姿が、瞼に浮かんだ。  そして、  (一緒に暮らしていた男は、あの美佐子の兄なのではないか) という疑問が頭をもたげてきて、徐々に大きさを増していった。    審査員たちは、別室で長時間に渡り、協議したが、その内容は開示されなかった。ただ、結果だけが、発表された。それは、夕方、六時すぎのことで、ミス選考の終了予定時間を二時間も過ぎていた。  発表の時には、二十人の候補者が、壇上に上がり、審査員たちも所定の席に座った。司会の民放アナウンサ−が、  「それでは、これから本年度のミス鮎祭りの発表を行います」 と声高らかに告げた。  まず初めは、準ミスの発表だった。  会場からは、壇上に並んだ候補者に熱い視線が注がれていた。  「準ミスは、吉竹さんと、峯田さんです」  呼ばれた二人が、前に進み出た。  その名前は、加代子先生でも、美佐子でもなかった。二次審査の質疑応答は、それまでの審査の得点順で行われたから、最後の二人だった美佐子と加代子先生は、そのどちらかが、ミスに選ばれなかったにせよ、準ミスには入ってもいいのだが、発表された名前は、二人の名前ではなかった。  二人の準ミスは満面に笑みを浮かべて、司会者のインタビュ−を受けていた。  「とても、考えていなかったので、本当に嬉しいです」  二人とも、正直な感想を述べていた。  いよいよミスの発表の時間になった。ミス選考のフィナ−レを飾るクライマックスである。  「本年度のミス鮎祭りは・・・」  司会者は、一呼吸置いたあと、手に持った封筒を開いて、中の紙片を取り出して、その紙面に目を落とした。  「本年度のミス鮎祭りは・・・」  会場が静まった。司会者の声に聴覚が集中した。  「吉永美佐子さんです」 と大きな声で司会者が読み上げた。会場から、大きな拍手が巻き起こった。  正面の舞台上、二段の列の前の中央左側に立っていた美佐子が、段を下りて、前に進み出て、立ち止まり、客席に向かい深々と頭を下げた。  その後、審査委員長から、ミスの認定書が手渡され、昨年度のミスの手で、金色に輝く王冠が美佐子の頭に乗せられた。美佐子は、その王冠を被ったままの姿で、司会者のマイクの前に導かれ、感想を求められた。  「本当に、思いもしなかったので、びっくりしています。私が選ばれるなんて、まだ、実感がわきません。夢を見ているみたいです。うれしいです」 と感極まった声で、答えていた。  司会者が、  「中学生のミスは初めてですね。このコンテストの歴史を塗り変えたわけですが、最年少ミスの感想はいかがですか」 と促した。美佐子は、  「こんなに若い私に、こういう大きなチャンスが与えられたのは、素晴らしいことだと思います。この若さで頑張ります」 と白い歯を輝かせながら、明るく言っていた。  僕はこの光景を見て、皆で美佐子を応援して、本当に良かったと胸をなで下ろした。そして、一致団結して、応援したことは、僕たちには、素晴らしい経験になった、と思った。  (なにしろ、美佐子は、僕たちのアイドルでホ−プなのだから)  そうした勝利感と満足感に心が満たされて、胸が一杯になった僕たちは、発表の瞬間、皆で手を繋ぎあって、飛び上がり、歓喜に酔っていた。  だが、その喜びの絶頂の後で、僕の胸を襲ったのは、  (では、加代子先生は、どうしたのだろうか) という深い心配だった。  (最有力候補だったのに、なぜ、先生は選ばれなかったのか。やはり、審査員の最後の質問が、問題になったのだろうか)  僕は、皆の美佐子へのお祝いの輪から一人だけ離れて、出場者の控室に行った。  控室には、美佐子を囲む大人たちの輪が出来ていたが、加代子先生の姿は、既に、そこには見えなかった。    僕は、町民会館を出て、夕闇の中を、自転車に乗って、加代子先生の家に向かった。  夜道は暗かった。月明かりに照らされた水田の中の畦道は、一直線だったから、自転車のライトだけでも、道に迷うことはなかったが、真四角に区画された田圃の一つ一つに満月が、その区画の数だけ映っていたから、僕はむしろライトを消して、ただ、月明かりだけを頼って、前に進んで行きたかった。  「ぐ−ん」という発電器の音が消えると、文字通りに水を打ったような静けさが訪れた。「シュッツ、シュッツ」というペダルを踏む音と、「ピチャ、ピチャ」というタイヤが畦道を叩く音だけが、静寂を破って聞こえた。あとは、雌を呼ぶ牡カエルの長く、尾を引くような鳴き声が、遠くの用水路の中から聞こえる。僕は、その鳴き声を真夏の夜の野性のコンサ−トのつもりで聞きながら、遠くへと続く水田に満月が返す薄明かりの中に静かに沈み込んでいる生暖かい空気を破って、自転車を進めていった。  加代子先生の家は、川のこちら側にある。こちらとは、僕らの町ではなく、川の対岸の向こうの町のことである。「ミス鮎祭りコンテスト」の会場になっていた町民会館は、あちらの町にあったから、その会場から向かった加代子先生の家は、所番地は僕らの町にありながら、建っている場所は、向こうの町のほうにあったのだ。  そういう地理的な位置関係は、あちらの町の人が、昨年のミスの代わりに、加代子先生で納得しようとしたことの隠された理由の一つでもあったのだ。加代子先生は、僕らの町とあちらの町との間で、不安定な立場にいたのだ。そういうことが、今回の審査にも微妙に影響したようにも思われる。  あのスキャンダラスな質問をした審査員は、美佐子を押していたようだったから、僕らの町の「味方」といってもよかったが、だからといって、僕らは彼の態度に心地よさは感じなかった。むしろ、僕たちはそういうやりかたに反感を覚え、加代子先生に同情した。  僕は、憤慨しながら、自転車のペダルを踏んでいた。行きどころのない怒りが、胸の中に鉛のように沈んでいて、できれば、大声で叫びたい心境だった。だが、あまりの静寂さが、そういう行為をたじろがせていた。  だが、いずれにせよ、まず先生の姿を見ることが、肝心だった。  ああいう形でミスの座を逃し、人々の驚愕と失望を背にして、急いで退出したのだろうから、先生の悲しみは想像を絶するものに違いないのだ。  (加代子先生はどうしているだろうか)  その心配だけが、僕の心を占領していた。    田圃の畦道が切れて、農道に出た。この道は、昔は、狭い砂利道で、車が走るたびに、大きな砂ぼこりが上がったが、今では、綺麗に舗装されていて、自転車は、快調に進んだ。加代子先生の家は、この道を真っ直ぐに行って、左に曲がった雑木林で囲まれた屋敷の中のはずだった。母屋は、農家の大きな造りだが、脇に小さな家を作って、そこに加代子先生は、一人で住んでいる。母屋にはかつては、両親が住んでいたが、母親が死んでからは、年老いた父親が病気で、寝たきりになってるという噂だった。いつもはこの父親は、加代子先生の兄の嫁さんが、面倒を見ているということだった。麗子はこの母屋で暮らしていた。  僕は、母屋の脇に自転車を置いて、別棟の加代子先生の家の方に、歩いていった。  僕は、その家が、想像していた以上に小さく、しかも、屋根が傾いていて、倒れそうなのを見て、心が痛んだ。新築ではなく、納屋か物置に使っていたのを人が住めるように少しだけ、改築したようだった。  入口の前の道路際に、木の枠があって、そこに加代子先生の自転車が傾けて置いてあり、そこから続いて、所々、間の抜けた木板の柵が、家を囲んでいた。僕は、その外周を廻って、明かりが点いている居間の辺りを覗ける場所に行った。  そして、灌木の茂みに身を隠して、光の明るい居間を覗き込んだ。  部屋で二つの影が動いていた。一つは姿形からして、加代子先生に違いない。もう一つの人影は、六畳ほどの雨戸が開け放たれた座敷に寝ていて、薄い敷布団に夏掛けの毛布を掛けていた。  その寝ている方の人影は、男のようだった。浴衣の胸をはだけて、肩肘を突いて、横になり、右手に持ったうちわをしきりに煽っている。その人影から、天に向かって突き出した右手が、小刻みに震えていた。その男は眠ってはいない。起きているのだ。そして、何か大声で叫んだ。  「加代子、早くしないか」 と言ったようだった。  すると、その影の脇に座った小さな影が、寝ている影の口に向かって、何かを運んでいる。じっと目を凝らすと、それは、お茶碗に盛った御飯を箸で、口に入れているのだった。御飯と皿に盛った刺身のようなものを、交互に箸で、口に運ぶ。  加代子先生は、男に食事をさせていた。しかも、箸で口に運んでやりながら。  それは、二人の間の、親密さを示している。  (やはり、ミス・コンテストの審査員の言った疑惑は、本当なのだ)  僕は、体を前に伸して、その光景を見つめていた。  僕は、居間の手前の廊下の横に、大きな水槽があるのに気が付いた。それは、間違いなく魚を入れておく水槽だった。中に、小さな魚が数匹泳いでいた。その魚には、見覚えがあった。先日、僕が川で釣って麗子に持たせた物に違いなかった。あれは、あの日の僕の獲物のなかで一番大きなものだったが、それを食べずに、生きたまま、飼っていたらしい。  (鮎を生きたまま飼うのは難しいのに、どうしたのだろう。それに食べないでいたなんて。そういえば、麗子は、「いつも、姉さんが喜ぶわ」と行っていたが)  と僕は、気が付いて、加代子先生の心境を思った。  食事が終わったらしい。加代子先生は、盆の上に全ての食器類を乗せて、部屋から出ていった。寝ている男は、また、右手を宙にかざして、盛んにうちわを振る小刻みな動きは止まず、続いていた。  部屋の明かりは、天井の蛍光灯だけだったが、それは十分に明るく、男は寝たままでその視線の先に置かれた青い光を放つ画面に見入っていた。その青い光が、ちらちらと変わるたびに、男は体を動かし、にやにやと笑ったりした。それが、いかにも、自宅で寛いでいるその家の主人のような雰囲気で、もう長い間、この部屋で暮らしてきたような感じがした。  僕は、その光景をじっと見つめていた。  すると、また、加代子先生が、部屋に入ってきた。手には桶を持っている。前のように寝ている男の脇に座って、今度は、桶に手拭いを浸して絞り、浴衣の肌けた男の胸に当てた。そして、ゆっくりと体を拭いはじめた。上腕から頸、胸、腹へと静かに手を動かしていく。足も脚も脛も、ゆっくりとした動きを繰り返しながら、丁寧に拭いていった。  体の表面に出た全ての皮膚を拭きおわったころに、男はうちわを持っていない左手を上手に使って、自分のパンツを引き下げて、加代子先生の耳元に口を寄せて、何か言った。加代子先生は、引き下げられたパンツの中の物を両手で取り出して、そこを手拭で包み込んで拭いた。すっかり、拭ったあと、今度は、右手を使って、ゆっくり、上下に動かし始めた。  僕はその行為が何を意味しているのか、理解できなかった。  右手での上下運動が終わると、先生はその部分に顔を持っていった。頭が、上下に動き始め、動きは徐々に激しくなった。二、三分、その動きを続けていると、寝ていた男の体が痙攣した。先生は動きを止めて、口に手拭いを持っていって中の物を吐きだして拭うと、桶を手にして、また、部屋を出ていった。    男は外していた夏掛けを、再び掛け、ぐったりとして横になった。  また部屋に戻ってきた加代子先生は、男の脇に布団を敷いた。そして、蛍光灯から釣り下がっていた紐を引いて消し、小さな白熱灯だけにすると、一気に暗くなった部屋の隅で、身に着けていたブラウスやスカ−ト、さらにはブラジャ−やパンティ−まで、全てを脱ぎ捨てて、布団の上に横になった。男を奥にして、縁側側に寝たので、先生の姿は、こちら側からよく見えた。その薄く白く輝く健康な素肌から、ふくよかな女の香りが匂い立つよなう気がして、僕はうっとりとした気分になり、恍惚とした。  薄い夏掛けのタオルケットだけを掛けて、先生は全裸で、横たわっていた。その薄物の下には、あの乳白色の光輝く張り詰めた肌と何者をもひれ伏させてしまうしなやかでみずみずしい脂肪を包み込んでいる肉体が、あるのだ。その肉体は、昼間の悲嘆と悔恨とを抱えながら、安息の時を迎えていた。  僕は、暗闇の中で、その姿をカメラに収めようと、息をひそめて、シャターを切った。ミス・コンテストで栄冠を得て檀上に立った美佐子の笑顔の後ろのコマに、その光景はしっかりと写しこまれるはずだった。  小さな白色灯一つと、二つの人の黒い影しか見えない暗い空間では、写真は、写らないかもしれない。何枚か、シャッタ−を切るうちに、ファインダ−が曇ってきて、段々と見えなくなった。だが、僕は、それでも良かったのだ。    加代子先生の家で見た風景は、ずっと、僕の脳裏に焼きついていて、その夜、僕は一睡もできずに過ごした。その光景は、幻であって欲しいと思ったが、否定しようのない、現実なのだった。なにしろ、目の前で起きたことなのだから。夢の中の出来事であって欲しかったが、それは、この世の現実だった。  (これが大人の世界というものか) と僕は考えた。  「大人」  それは、遠い響きの言葉であったが、間違いなく、僕たちが徐々に近付いている対象でもあった。成熟した女性というもの自体が、その年頃の僕らには不気味な存在だった。近寄りがたく、神秘のベ−ルに包まれた対象だった。そういう実体から僅かに漏れてくる現象を見て、大人の女性というものを、見ている積もりになっていたが、実は、その実体は、想像を絶して、深くかつ濃厚な密度を持つものなのかもしれない。そのことを僕は、この夜、かいま見て、恐れた。  加代子先生の裸体は、濃厚な妖艶な光を放って、僕の瞳を鋭く刺した。僕は、その光が余りに眩しすぎるので、一瞬、目がくらんだほどだ。それは、中学生の僕には、本当に、眩しすぎる姿だった。だが、僕は目を閉じてしまいたくはなかった。視覚を失いそうになりながらも、僕は、必死で、薄目がちに目を開けて、わずかでも、その姿を見ていたかった。  直視するのは、恐れられたが、物陰に隠れて盗み見するのならば、目を痛めることもないだろう。その位は、許されるような気がした。  加代子先生は、男の脇に並んで、全裸の肢体を横たえていた。まるでそうするのが、その場所では当然のように、奔放に体を開いていた。  そこに月の光が落ちていた。僕は、満月の煌々と照らす月明かりを背にして、低ルックスの照明にも係わらず暗闇の中で光輝く女体の迫力に押されて、我を失った。  そうして、朦朧とした意識のまま、その場を離れて、家に帰った。    その翌日から、僕は、川に入るのをやめにした。  川の流れは、いつもと変わらなかったが、その奥に潜む危険な罠を察知した、と思ったからだ。  罠はこちらに向けてしつらえられているようだった。深く沈んだ周到な仕掛けは、もし、僕が川に入ったら、必ず、捕らえられ、どんなに抵抗しても、最後には、深みに引き込まれて、もがき、苦しんで、命を奪われるのは必定だった。  それほど、この罠は巧妙だ。一度捕まえたら、決して、獲物を放さずには置かない。美と官能の罠。もし捕らえられたら、僕の一生は終いだ。そういう恐れが僕を川から遠ざけた。あの川には恋しい鮎の群れが、僕を待っているのは、明らかなのだから。  そういう濃厚な快感よりも、もっと淡く、軽い安らぎが、僕は欲しかった。あの光景を見てから、それは、渇きとなって、僕を襲っていた。濃厚な味の料理を味わったあとには、口直しに、薄味のお茶を飲みたくなるの、と同じことだろう。    僕は、美佐子に電話して、呼び出した。  美佐子は、幸せ一杯の声で応じ、僕の誘いを受けて、川にやって来た。  堤の上の草むらに座って、僕は美佐子に言った。  「加代子先生は、悲しんではいなかったよ」  美佐子は、円らな瞳を見開いて、僕の言葉を深く咀嚼してから、  「人に悲しみを与えることは、私は、したくないもの。それは、そうあって、当たり前のことでしょうから」 と言った、その哲学的な言い方が、僕はおかしかった。  「むしろ、喜んでいるようだった」  「喜んでいるって」  美佐子は問い返した。  「そう、あのあと、加代子先生は、喜んでいた」  「よく分からないわ」  「君が、ミスに選ばれたからだろう」  「ああそうね。自分の生徒のためにってことね」  「それから、自分のためにも」  「先生は、私のために、犠牲になったのよ」  「そうかもしれない。でも犠牲というほど悲劇的ではないよ。むしろ、鮎の共釣りの時のおとりの鮎のようなものだ」  「ああ、魚の鼻に針を付けて、獲物を誘うおとりのことね」  「そう、先生はそれになって、君という素晴らしい女の子に、あの栄冠をもたらしてくれたんだよ」  「そういうことなのかなあ。私は、知らなかったけど」  美佐子はそう言ってから、ふと、立ち上がり、遠くの山を眺めながら、  「先生のそういう気持ちを大切にして、私は、これからも生きていきたいわ。健ちゃん、ありがとう」  僕は、美佐子の顔を下から見上げた。  美しく弧を描いている睫毛の下の瞳が、川の照り返しの明るい光を受けて、少女漫画の中のヒロインの瞳のように、きらりと光った。                                                (終わり)