「アパート物語」  そのアパートは、私鉄の線路に身を寄せるように建っている。  ほぼ、五分置きに、轟音が走る。十年ほど前はそれは、十分置きだったが、いまは間隔が縮まった。私鉄が輸送力整備を急ぎ、大幅な増発をしたからだ。それが、爆発的に増えた沿線の住民を、都心に送る私鉄の使命と考えての、計画だった。  確かに、このアパートが建ったとき、周辺は桑畑ばかりだったが、今は、一戸建ての貸家や鉄筋コンクリート造りのマンションという住宅が立ち並ぶようになった。  家主の磯田誠と富士子の夫婦は、ここから、すこし離れた裏庭が広い日本家屋に住んでいるが、彼らが刻苦精励して勤め上げた末に、退職金を元手にこのアパートを建てたとき、坪単価は六万円だった。  富士子は、時折、  「もう二十年も経ったんだから、十分に元は取った」  と思う。それでも、建て替えや建て直しをしないのは、借りている人たちの事情を考えてのことだというのが、富士子の心中にある理屈だ。  それは、こうである。もし、建て替えたら、必然的に家賃は上げざるえない。そうなれば、いま住んでいる人達は、その支払いが続けられなくなる恐れがある。新しい入居者を簡単に見つけられる状況でない、昨今の情勢では、これは危険だ。事実、最近は、このあたりのアパートで条件が悪い所は、空室が目立つようになってきた。改築や模様替えをしても高い家賃では、入る者がいない。それなら、やや老朽化しても安い家賃のまま、今入っている人を大事にしたほうがいい。それが、店子のためでもある。  その理屈は、最近の貸家事情に会っていた。富士子は世間の情勢を敏感に察知する本能があった。建築資金は出したが、経営には口を出さない誠は、ここでも、何も言わなかった。  こういうことで、二階建てに計八部屋の「コーポ磯田」は、ここ数年満室になっている。  八部屋に住人は、九人いる。二階の二部屋には、老夫婦と最近入ってきた若い夫婦が住んでいる。これで、四人。あとの六部屋は独り者だから、住人の総計は十人になる計算だが、九人というのは、一人だけ、家賃は払うが、ほとんど住んでいない中年の男がいるからだ。それに道路沿いの一部屋は店舗形式になっていて、薬局が入っている。この薬局の若主人は遣り手で、アパートの建築が始まろうとしていたとき、どこからか話を聞きつけて、  「ぜひ店子にしてください。斜向かいに医院が二軒、開業することになっているので、その薬を扱う薬局をやりたいのです」  と言ってきて、内部の設計にまで加わった。この話は、磯田夫婦にも都合がよかった。全部を貸し部屋にしておくより、家賃の条件がよく、自ら店舗の設計までするというのだから、経営が順調なら、半永久的な家賃収入が見込めるのだ。話はとんとん拍子に進み、建物が建ったとき、部屋は全て満室だった。  それが、月日を経るに付けて、周囲の開発が進むと、アパートは古さが目立ち始め、新築のアパートに比べて、家賃も割安になって。住む人達も代わった。いまや、家賃の安さが、売り物になって、住民たちは居すわっている。そして、それが、富士子に数々の難題をもたらした。  一部屋だけ、契約をして家賃も滞らせないが、住んでいる様子がない中年男は二階の隅に住んでいる。長塚節というどこかで聞いたような名前のその男の職業は、日雇いの土木作業員だ。いや、「だった」というべきかもしれない。いまは、大規模公共事業の下請けの仕事で、飯場に泊り込み、作業員の手配係をやっているらしい。肉体労働からは、足を洗ったのだ。  この男、長塚は、酒豪である。筋肉労働の疲れから、飲酒は彼らの習癖だが、長塚も例にもれず、酒が好きだ。そして、酒乱だった。    長塚が今の部屋に越してきたのは、前の入居者の紹介によるものだった。近くの自動車の部品製造会社に勤めていたその人は、日米自動車摩擦による輸出自主規制の影響で、工場の生産が抑制されてから、仕事が減っため、レイオフされたのを機に、北陸地方の田舎に帰っていったのだが、その時に、  「もし、後の人が決まっていないなら知り合いの人がいるので」  と言われて、紹介されて来たのが、長塚だった。貸家経営では空室が出るのが一番恐い。前と同じ条件でいいということに加えて、新入居の際の破損の手直しや畳替えも必要ないから、と言われて、二つ返事で受け入れたのが、長塚だった。  長塚は、始めの半年は、きちんきちんと決まった日に家賃を入れて、滞らせたこともなく、男の独り暮らしのためか、台所を使うこともなく、手間がかからない借家人だった。  その長塚が、一階の借家人が、出ていくことをどこから伝え聞いたのか、家賃を払いにきたとき、富士子に、  「隣りが空き室になるようだが、後の人は決まっていますか」  と尋ねた。富士子が、  「いや、まだですよ」  と答えると、  「それなら、部屋を探している知り合いがいるので、入れてもらえませんか」  と申し出た。  話を聞くと、その知り合いは、田舎の知人の子供で、仕事を一緒にしている若い男だという。  「私の仕事の弟子のようなものです。私が身元は保証します」  と熱っぽく言うので、富士子は、空室にしているよりは、と考えて、申し出を受け入れたのだった。家賃は五千円ほど上げたいが、という希望を伝えると、相手はそれでもいい、と了解した。これで、長塚らとは、三千円程の差がついたが、これは、あとで入居する者の宿命のようなものだ。物価も値上がりしているし、そのころはまだ、バブルの影を引きずって、貸手市場だったのだ。  そうして、長塚の弟子だという安田博は、隣人になった。  それから半年は、何事もなく、家賃にも滞りがなかった。毎月の支払日には、長塚が、  「安田君の分も」  と言って、立て替えたガス代を含めて、二人分を持ってきて、支払い、世間話をしてくこともあった。それが、半年くらいたったころの十二月、長塚は  「僕の分だけです。あいつは後から来ると思います」  と意外な事を言ったのだ。実は安田は、既に支払いに来ていて、  「今月は都合で、別々に払います」  とだけ、寡黙に言って払っていっていた。  事故や異変を察知して、会話の節々から長塚の様子を探ったが、なにも分からなかった。ただ、二人の良好な人間関係になにかの亀裂が入り始めていたのは確かなようだった。  そうして、二人が別々に家賃を払ったのは、三月までだった。安田青年が、出ていったまま、帰ってこなくなったのだ。家電製品や夜具類は部屋に残したままだった。四月から家賃が滞って、五月も姿が見えないという状況になって、富士子は、さすがに辛抱しきれなくなって、保証人であり後見人の立場のような長塚に会いに行った。  「お隣の安田君、最近姿が見えないけど、どうしたのかしら」  富士子の問い掛けに、長塚は、  「俺も探しているんだが。姿をくらましやがった。まったく、恩も義理もないのが、近頃の若いやつらだ」  と言い放った。その口から酒の臭いが溢れ出た。昼間から、仕事にも行かず、酒を飲んでいるらしい。富士子が玄関先から、部屋の中を覗くと、一升瓶が部屋の真ん中に置かれ、周囲に敷いた新聞紙に、つまみの南京豆の殻が散乱しているのが見えた。  「心当たりはないの」  「ない」  「一体どうしたというの」  富士子は、なるべく優しく聞こえるように、柔らかい声色で、聞いてみた。  「考えられるのは、田舎に帰ったということだが、電話で問い合わせてみたが、そうじゃなかった。どこかに行ってしまったんだ」  「そういうことなら、貸家契約は解除しないといけないわね。残していったものは、どうしようかしら」  「いや、もう少し待って下さい。私も探しているんだから。そう事を急がずに」  「でも、心当たりがないんじゃ、仕方がないじゃない」  「いや、出ていったのには、心当たりがある」  長塚は長く心の中に秘めていたものを吐きだすように、話しだした。富士子は、酒臭さに、辟易しながらも、その話を聞いてみた。  ーー 安田は、わしの知り合いの息子だ。わしは建築現場で、鉄骨組み立てでは、良い腕を持っていると言われてきた。それで、大工をしているわしの友達が、息子を修業させてくれ、と頼んできたのだ。それが、奴だった。わしは、そのとき受けていた仕事に、奴を組み入れて、仕事の見習いをやらせていた。奴は親父が大工だけに、仕事の素質があった。すぐに、仕事を覚えて、わしは鼻が高かった。ところが、半年ほどすると、奴は他に賃金のいい仕事場が見つかったから、移りたいと言ってきた。わしはもちろん、大反対した。話を聞くと、俺が受けた仕事の下請けでは、俺に幾らか天引きされるが、今度の仕事は、そういう事がなくて、直に金をもらえるのだという。でも、俺が会社から受けて、天引きしていたのは事実だが、それは、必要な経費なんだ。仕事場に連れていく車の経費や食事代も皆、わしが立て替えてきた。家賃だって、あいつの賃金の中から、支払ってやっていた。手間が掛かることは皆、わしがやってきたんだ。その恩や義理を忘れて、わしの手から離れようというんだ。こんな一方的な話があるかい。だが、奴はどうしても、と言って、あっちの仕事場に行ってしまったんだーー。  (それが、あの頃だったんだ)  と富士子は思い当たった。毎晩のように酔っぱらって、隣人の部屋のドアーを足で蹴って、羽目板を壊したりした。また、夜中に酔っぱらったまま、部屋の前で寝てしまい、凍え死にそうになって、二階の猫をおばちゃんに見つかり、やっと、助かったという事件もあった。その恩人の猫のおばちゃんに、  「猫がうるさい。何匹も猫を飼うのは止めろ。外に猫を出すのは止めろ」  と言って怒鳴り込んだのも、その頃だった。凄い剣幕に恐れをなした猫のおばちゃんは、急いで部屋に逃げ込んだが、それでも、長塚は収まらず、部屋の前に居すわって、「出てこい。出てこい」  と怒鳴りつづけた。夫が土木工事に出ていて不在だった猫のおばちゃんは、考えあぐねて、一一〇番通報した。間もなくパトカーが飛んできて、警官が、事情聴取したが、その喧嘩の立会人として、大家さんにも来てくれ、といわれて、富士子が呼ばれたのだった。そういう時、頼みの誠はなにもしない。不穏な情勢を感じると、一目散に、書斎に逃げ込んで、本を読んでいる振りをして、その後の経過を伺っているのが、何時ものやり方だ。富士子はそういう夫に不満を感じながら呼び出されて、喧嘩の現場に出掛けた。  富士子が。アパートに着いたとき、すでに長塚は、首をうなだれて、若い警官に頭を下げていた。三毛猫を抱いた猫のおばちゃんが、その脇で神妙に、話をしていた。  「本当にこわかったんですよ。殺されるかと思いました。最近は、昼間から、家の前に来て、猫がうるさいとわめくんですから、落ちついて暮らしていけません。出ていこうかと考えていたんですよ」  富士子が来たのを確かめるように、苦しみを訴えていた。  「ああ、大家さんですか。それなら、後はお任せします。単純な喧嘩のようなので、われわれはこれで、引き上げます。話を聞いてやってください。どちらにも言い分があるのが、こういう喧嘩の常ですから」  若い警官は、年の割りには世知にたけ、人情の機微を弁えているようだ。そういって、引き上げていった。  「出ていこうかと考えた」  という言葉を聞いた富士子は、まず、おばちゃんの話を聞かざるを得なかった。  「もう一月以上も、脅されていたんです。猫が大切か人間が大事か、とまで言われて。猫を殺して、三味線にすれば、少しは金になる。俺が殺してやろうか、とまで言われたんです」  風呂に入らないのだろうか、それとも、地なのだろうか、黒光りした肌をくしゃくしゃにして、猫のおばちゃんは、訴えた。  富士子は、この女が入ってきて以来、付近に漂いはじめた動物の排泄物が出す異臭が気になっていた、一緒に暮らしている者は慣れて気にならないかもしれないが、外からやって来るものには、耐えられない臭さだ。長塚もそれを感じて、いろいろと難癖をつけたのだろうと、想像できる。  「でも、長塚さんの気持ちも良く分かりますよ。おばちゃん、猫は何匹いるの」  「分からない。十匹くらいじゃないの」  「それじゃあ、多すぎるわね。狭い部屋に十匹は。二匹くらいにしなさいな」  富士子の説得は、こういう事態の時だけに、効果があったようだ。猫のおばちゃんは、渋々納得して、  「そうします」  と約束した。  手間が掛かったのは、長塚の方だった。  「わしは悪くねえよ。あのばばあが言うことを聞かないから、やったんだ。皆迷惑してるんだ。それに、わしは気が強い」  これでも自分のことは分かっている。  「そうですね。いまおばちゃんにも話してあげたから。猫を少なくするって、約束したわよ」  「そうかい、じゃあ、わしがやったことは良かったんだ。皆のためになったんだな」  長塚は得意そうに、胸を張ると、  「じゃあ、御苦労さん」  と言って、ドアーを閉めて、静かになった。騒ぐだけ騒いで疲れたのか、すぐに寝てしまったらしい。  富士子は一安心して、家に帰った。だが、その後も、長塚は、外に出て、家々のドアーをひとしきり蹴って回っていたのだ。深夜でも仕事の都合で、不在の家もあるから、苦情はそうなかったが、猫のおばちゃんは、鮮明に恐怖の夜を覚えていた。  「家のドアーは、他より多く蹴っていった。名前は言わないが、長塚さんの仕業に違いないわ」  と後で富士子に訴えたのだ。そして、その翌日に、悲惨な事件が起きた。  激しく壁に何かがぶつかる音がするので、目を覚ました猫のおばちゃんが、わずかに開いた雨戸の隙間から、階下を除くと、長塚が安田を、殴りつけて何回も体をアパートの側壁にぶち当てていたのだ。安田は、  「止めてください。許して下さい」  と懇願していたが、長塚の暴行は終わらない。安田は、必死の形相で、腹這いになりながら、自分の部屋に這っても戻っていく姿を見てからも、聞き耳を立てて様子を伺っていたが、ドアーが閉まる音がして、騒音は消えた、という。  そういう話を富士子が猫のおばちゃんから聞いたのは、つい先日のことなのだ。  ーー わしは何度も説得したが、奴は聞かなかった。そして、顔を合わせても挨拶もせず、わしを避けるようになった。こそこそしながら逃げていくんだ。でも、わしは奴のことが心配だった。親父さんから預かっているんだからね。それなのに、奴は姿を眩ましてしまったーー。  富士子は、この話を聞いて、安田はもう帰って来ないだろう、と判断して、合鍵を使って、部屋に入ってみた。家具類は全部残っていた。洗濯機や冷蔵庫、電気炬燵、炊飯器、それに、安田が入ってから、自分で入れたエアコンも全て、そのままだった。  「もしかして、帰ってくる気があるのかしれない」  富士子は、そういう感じはしないのだが、部屋の様子からは、帰ってきそうな感じもする。できれば、部屋を片付けて、一日も早く、新しい入居者を入れ、家賃を取らなければ、貸家業は成り立たない。だから、家具類を片付けてしまいたいのは、山々だった。  長塚は、  「もうすこし、待ってくださいよ」  と言っているが、そう長くは待てない感じがした。保田が出ていってからの長塚は、それまでの威勢の良さは消えて、猫のおばちゃんを叱りつけるようなこともしなくなった。仕事先も変えたらしい。月曜から土曜日まで、どこか、遠くの飯場に泊まり込みで働きに行き、不在のことが、多くなった。だが、金曜日の夜に帰って来ると、大抵は、深く酩酊していて、しばしば、部屋の外壁に当たり散らし、隣人たちの迷惑になっていた。  その話を月ごとの集金の時に聞かされた富士子は、長塚が、家賃を納めに来たとき、  「長塚さん、いまでも、お酒は飲んでいるんですか」  とやんわりと聞いた。長塚は、その意味を計りかねたように、きょとんとした後で、気がついたように、  「いや、前ほどにはやりませんよ。酒の相手がいなくなっちゃったからね。一人酒は寂しくていけない」  と言い、軽くあしらわれそうになった。  そこで、引き下がらないのが富士子の本領だ。  「でも、いまでも、苦情があるんですよ。夜眠れないってね」  「どう言うことかね。それは」  長塚は気色ばんだ。  「いえ、そういう話を言ってくる人がいるんですよ」  「ああ、猫のばばあだろう。でも、あいつは納得したはずだが」  「いえ、おばちゃんでなくても、いろいろとね」  「できたら、誰だか、言ってくれないか・話を付けてくるから」  素面だというのに、この日の長塚は強気だった。この言葉に続けて、  「そういうことを、大家さんが言うということは、なにかい、あんたは俺に出ていって欲しいのかい。もし、そういう事なら、出ていてもいいが、只じゃああすまない。立ち退き料をたんまり頂くからね」  長塚は、富士子の顔をにらみ付けて、声にどすを効かせた。  「いえ、そんなことは言っていませんよ。だれが、そんなことを言ったんです。出ていけなんて、一言も言ってないじゃないですか」  富士子は、このとき、こういう無法な男を知り合いからの紹介だとはいえ、入居させたことを後悔した。いつものように、頼んである不動産屋を通せばこういうことは避けられる。もし、間違って入居しても、不動産屋に文句が言えるし、彼らは責任を持って解決してくれるだろう。それより、まず、こういう人物を、紹介したりはしない。そこに、プロの目というものが、働くからだ。ということは、富士子のそれだけの人を見る目がなかったということでもある。  (あの、若い不動産屋さんに比べたら、私は何倍もの人生を生きてきたのに、情けない)  と不甲斐なさを噛みしめた。富士子が長塚の思わぬ言いだしぶりに、思いも寄らず声を高めたのは、自分に対する憤慨も含まれていた。  「いや、そうですか、それならいい。こっちは、きちんきちんと払う物を払っているんですから、落ち度はないですよ。それより、風呂場の窓の桟が腐ってしまっているんだが、直してくれませんか」  長塚は、始めの剣幕で富士子がおじけついたと見たのか、次の条件を出してきた。  たしかに、あの部屋は、建築後、既に三十年も経っているから、いろいろと修理すべき所が出てきている。だが、それだけ、家賃を安くしているから、表立って文句を言ってきた借家人はなかった。それは、大家には確かに負い目だったが、入居する際には、必ず、  「家が古いから、家賃を安くしているんですよ」  と説明して、入居者はそれで、納得していたのだ。だから、家の古さに文句を行ってくる人はいなかった。互いに気にしていることを、ハッキリとは言わないで、良好な関係が保たれてきたのだった。それを、この男は、部屋を直せと、ハッキリ言うのだ。富士子は、これには、かっとなって、  「お金が無いわけじゃないから、すぐに直しますからね」  と努めて落ちついた言い方で、応じた。  「そうかい、じゃあ、この辺で。頼みますよ」  とだけ言って、長塚は引き上げていった。  この日のやり取りは、だが、効果はあったようだ。長塚は、週日は、家に居ないということもあって、住民らから苦情は、来なくなった。それより、富士子は、家の修理を約束したので、大工の手配や、工事の着手などで忙しかった。その大工の仕事の間に、お茶を持っていって、気がついたことがあった。 それは、一階の外れに入っている寺崎正一の部屋が、いつ行っても窓が閉じられ、不在のようなのに、新聞受けの新聞は溜まっておらず、人がいるのか、いないのか、分からない状態にあるように見えたことだ。  長塚が土、日曜日にしか、いないのに加え、さらにもう一部屋が同じような状態になるのは、気掛かりだった。大家の立場から言えば、家賃をきちんと払ってくれさえすれば、文句はないが、やはり、財産だけに部屋の使い方も気にはなる。毎日、部屋を空けてこまめに掃除してくれる人が一番ありがたいのだ。それを、閉める切りにして、滅多に掃除もしない人が入ると、部屋の破損度が違ってくる。だから、部屋の様子は常に気にしている。  だが、寺崎の部屋には人がいる気配があった。富士子は、  (平日なのに、仕事にいかないのかしら。病気でもしたのかしら)  と気にはなったが、寺崎は、口数の少ない真面目な青年に見えていたから、  (あまり、お節介になってはいけない)  と考えて、ドアーを開けてみるのは止めた。寺崎の部屋は、角部屋で、道から一番遠くにあったから、部屋の前を通る人は余り居ない。二階への階段の、丁度裏側にあたっていたから、二階の住人が表を通ることも滅多にない。そういう、死角で静かなことも、神経質そうな寺崎青年は気に入っているようだった。とにかく、他人の干渉や世話にはなりたくないのが、彼の性格だった。  家賃を払いにきた寺崎が、富士子にポツリポツリと漏らした話を総合すると、彼は、電子デバイス関係のエンジニアで、業績もいい会社に勤めていたが、社内の人間関係に嫌気がさして辞め、近くの電子部品を造る中小企業に再就職した。  「給料は減ったが、気軽に仕事ができる職場で、良かった」  と漏らしていたのだ。  田舎は秋田で、長男が跡を継いでいる。貧農だから、生活は楽ではない。だから、五男六女の子沢山の、末子の寺崎は、都会に働きに出なければ、ならなかった。  「でもこの通り、口下手で人付き合いが苦手だから、うまくやっていくのは大変です」  しみじみと、そんな話をしていくときもあった。富士子は、そういう話を聞くと、かならず、  (頑張りなさいよ)  と心の中で呟いて、取り置いてある、缶コーヒーや蜜柑や林檎を手渡して、帰すのだ。それは、家賃を払いにきたときに、必ず、富士子がする慣習でもあった。    その「事件」が起きたのは、長塚が要求した修理が終わり、長塚が一週間ぶりに帰ってきてその「点検」をして、納得し、眠りに付いた翌朝だった。  自分の要求どおりに大家が修理したのに満足したのか、気分良く目覚めた長塚は、いつもは通らない建物の裏側に回って、表通りに出ようと、寺岡の部屋の前を通りかかった。そして、ドアーの下に張りついている小さな紙が目を止まった。  「なんだい、こりゃあ」 腰をかがめて、眼鏡を下ろし、良く見てみると、かすれたような文字が見えてきた。  長塚は、目に皺を寄せて、その文字を読んでみた。  ーー 救急車を呼んで下さいーー。  その十文字が微かに読み取れた。「下さい」の「い」の字は、殆どかすれて、意味をとってしか、理解できないほど、弱々しい薄い文字だった。  だが、長塚はその意味をすぐに理解した。そういう点では、彼の頭の回転は速い。世知に長けて人の動向を見て暮らしている人間の本性のようなものが、役立った。  長塚は暫し、思慮したあと、表通りに面して店を借りている薬局の主人に相談しようと決意した。薬屋の自動ドアーが、開くのももどかしそうに、駆け込んだ長塚は、事情を話し、  「どうしたらいいか」  と相談した。「弥生薬局」主人、間島健二は、長塚の話を聞いて、  (まずは、寺崎の部屋を見てみよう)  と考え、一緒に部屋の前に行き、確かに、長塚のいったような張出メモがあるのを確認した。  「こりゃあ、大変なことだ。救急車を呼ばなくちゃいけない」  と店に取って帰し、店の電話で119番を回したのだった。  それから、二人で、救急車を待っていたが、なかなか来ない。できれば、二人で部屋に入って、様子を見たほうが早いが、鍵がない。二人で顔を見合わせていて、長塚が、  「そうだ。大家さん知らせないといけないだろう。大家さんちには鍵がある。その方が早いぜ」  と気がついたのだ。間島はすぐに、富士子に電話してきた。電話を取ったのは、誠だった。  「奥さんはいるかい」  電話を変わった長塚は、いきなりそう言った。  「いえ、いま出ていますが」  「しかたねえな。旦那じゃ、役に立つかわからねえが。実は、寺崎の部屋に、メモが張り出してあって、救急車を呼んでくれ、っていうんだ。弥生薬局の旦那が、119番してくれたんだが、なかなか、来ない。それで、部屋の様子を見たほうがいいと思うんだが、合鍵を持ってきてくれないかと思ってね」  長塚はこちらの様子を良く知っている。誠が役に立つか、いぶかいながらも、富士子が不在と聞いて、そこまで、言ったのだ。誠は、合鍵の場所くらいは知っている。  「分かりました。いま、すぐに、持っていきますよ」  そう答えて、電話を切ったが、本当は、そのありかは分からない。一年ほど前までは、書斎の本の空箱に入っていたのは知っているが、富士子が、  「もっとしっかりした場所に置きましょう」 と言いだして、耐火金庫を買って、納戸に入れてしまった。納戸は富士子の個室でもあったから、誠はその部屋のどこに金庫があるのかさえ、知らなかった。  途方に暮れた誠は、富士子が帰るまで待つしかないと考えて、そうすることにした。だが、この日、富士子は、最近凝りはじめた神仏融合の新興宗教の例会で、お経を読んでいた。それは、二時間ほどかかる。そう遠い所ではなかったが、誠の計算では、早くてもあと一時間は帰ってきそうもない。  誠は意を決して、納戸に入り、金庫の場所を探した。金庫の番号は、誠の日記に控えてあるから、金庫さえあれば、あとは、簡単に事が運ぶ筈だった。  はたして、部屋の隅の不用物が積み重ねてある一角に隠れるようにしている、金庫が見つかった。誠は、書斎から日記を持ってきて、金庫の番号を確かめ、ダイヤルを回して、中にあった寺崎の部屋の鍵を探りだした。そして、書き置きをして、自転車に飛び乗り、アパートに向かった。  誠が寺崎の部屋の前に着いたとき、長塚と間島が、ドアーの前で待っていた。  「ほら、ここにメモがあるでしょう。奴のSOSですよ。早くしてくださいよ」  と長塚が言ったのに促されて、誠は手にしていた鍵を鍵孔に差し込んで回した。錠はすぐに開いた。長塚がそれを見て、ドアーのノブを回して、ドアーを開けた。一瞬、酷い異臭がした。三人の男は、その臭いに暫し、たじろいだが、手で口を塞いで、部屋に入っていったのは、ここでも、長塚だった。  誠も続いて入ったが、間島はドアーの前で様子を見守っていた。そんなに、大勢が入れるほどの広さではないから、二人が入れば十分だった。異臭は血の匂がした。歯医者で虫歯を抜いたあとに、鼻を刺す臭いだった。鉄分を含んだような、焦げた感じの臭いなのだ。  「おお、大変だ。寺崎君、大丈夫か」  先に入った長塚が、畳の上にうつ伏せに倒れている寺崎を見つけ、腕に抱え上げた。寺崎の顔は蒼白で、血の色が失せていた。枕元には、ポリバケツが置いてあり、中から赤い液体が溢れそうになっていた。  「大分吐いたな。これじゃあ、苦しいだろう。おい大丈夫か」  長塚が、再び声を掛けたが、寺崎は蒼白の顔に目を剥くだけで、答はない。  「これじゃ、死んでしまう。酷い臭いだ。大家さん、換気してください」  異様な光景を目にして、茫然としていた誠に向かって長塚が声を掛けた。誠はそれで、我に返り、言われるままに、カーテンが閉じられていた南側の窓を開け放った。空気が流れ込んできて、異臭を流しはじめた、これで、幾らか部屋の臭いは消えるに違いない。  「それから、押入れか何処かに、体を包むようなものはないですか、探してみてください。こんなに冷えてては、凍えちゃう。冬でなくてよかったよ」  季節がいいから、寺崎は薄着だった。誠は洋服箪笥を開いて、冬物の厚手のコートを捜し出し、長塚に渡した。  「ほれ、これを着て休んでいなさい。すぐに命が危うくなることはないだろう。静かに、横になっていれば、そのうち、救急車が来る」  長塚は、厚着させてから、そう言って、寺崎を布団に横たえ、掛け布団を掛けた。  枕元には、吐血の入ったパリバケツの他に、食べおえたカップラーメンの空箱が、二つ置いてあった。中の物は干からびて、硬くなっていた。  「こんなものを食べていたんだ。それも、ついに、無くなって、メモを書いたんだろう」  吐血の入ったポリバケツを風呂場に運びながら、長塚が囁いた。誠には信じられない光景だった。この飽食の時代に、独り暮らしの若者が、食べるものがなくなって、部屋で吐血しながら、助けを求めていたのだ。電話やファックスなどいくらでも通信手段がある時代に、この若者は部屋の前にかすれたメモを張り出すしか、連絡の手段を思いつかなかったのだ。誠は繁栄を謳歌するこの時代の裏の姿を、目の前に突きつけられたような気がした。しかも、その現場は自分が大家のアパートの一室なのだ。  寝ている寺崎になにか、暖かい物でも飲ませた方がいいかとも思われたが、救急医療に通じているわけではない。むしろ逆効果になることを心配して、何もせずに、ただ、様子を見ているしかない自分たちが、歯がゆかった。  窓を開け放ったお蔭で、異臭は間もなく消えた。若い男の独り暮らしといっても、寺崎の部屋は綺麗に掃除されていた。それに、持ち物も余りないから、部屋もあまり損じてはいない。これは、大家にはあり難い。長塚の部屋の畳が、寝煙草のためか、到るところに焼け穴が開いて、汚れているのとは大違いだ。長塚はあまり、部屋にいないから、時折、換気を兼ねて部屋に合鍵で入ることがあった。そのたびごとに、部屋は汚れ、畳の焼け焦げが目立った。賃借人が変わるときには、かなりの額の修理代が必要だ、と富士子も睨んでいた。  「随分綺麗に住んでいるんだな。奴は几帳面なんだ」  自分の部屋の様子とは大違いの清潔さに気付いたのか、長塚は聞こえよがしにそう言った。誠に先に言われないように、先手を打ったような言い方だった。そして、  「綺麗に住んだって、食うや食わずじゃしょうがない。あげくの果てに、こうなっちゃあな」  そこは、囁きだったが、誠は確かに聞いた。意識が薄いだろう寺崎には聞こえただろうか。聞こえていないことを、誠は祈っていた。長塚の悪口は、だが、このさい、多めに見なければならない。彼が通りかかり、張り出したメモに気がつかなければ、もし、これが、明日になっていたら、寺崎の衰弱ぶりからすると、命がどうなっていたかわからない。いや、今でも助かったかどうかは、明確ではないのだ。とにかく、握っている腕の脈は。弱々しげだが、打っている。これが、徐々に弱まって、いつ消えるかは分からない状態なのだ。一刻も早い救急隊の到着が待たれた。  西日が差しはじめた頃に、救急車はやって来た。白衣を着た二人の隊員が、担架を抱えて姿を見せ、寺崎の口に酸素吸入装置を付けて、心臓の鼓動の様子や呼吸の具合を見ていたが、  「救急病院に運びます。何方か同行しますか」  と聞いてきた。長塚と間島が、誠の方を向いて、どうぞ、と促した。仕方なく、誠は、  「では、私が」  と言って、救急隊員が運び込んだ担架の後に付いて、救急車に乗り込んだ。  担架の上で、寺崎はずっと無言だったが、長塚がやった応急処置のためか、幾らか顔に赤味が差してきたような気がした。だが、幾ら呼んでも応答はない。なにも言わない寺崎を乗せた救急車は、沈黙を包んだまま、一路、市内の救急病院に向かっていた。  その長く感じられた搬送の間中、誠は寺崎の安否とは違ったことも考えていた。  何故、この若者は、倒れるまで食べないで、いたのだろう。どうして、もっと早く周りの人に助けを求めなかったのだろう、ということだ。表には、薬屋があるのだ。その店に一声掛ければ、幾ら商売人の間島だって、聞かぬ振りはできないだろう。それに、寺崎が富士子に家賃を持ってきたのは、ごく最近ではないのか。これは、富士子に聞いてみなければ分からないが、それらしい素振りはなかったのだろうか。  そういえば、富士子が、  「寺崎君が、病気で寝込んでいるから、食事を持っていってやらないと」  と言いながら、遠い道のりを朝飯を運んでいたことがあることを思い出した。御飯に味噌汁、香の物という簡素な朝食だったが、富士子は心つくしの面倒を見ていたのだ。そういえば、家にあった炊飯器も貸してやったのだ。  「寺崎君はなにも持っていないのよ。だから、御飯も炊けない。冷蔵庫はあるらしいけど、炊飯器がないというのよ。お米と一緒に持っていってあげるわ」  と言って、富士子は使い古しの旧式の炊飯器を納屋から探し出してきたのだった。だから、寺崎は自炊できたはずなのだ。それなのに、炊飯器を使っていた形跡はない。たぶん、富士子が炊いてやったあとは米を買わなかったのだろう。  こんなに世話を焼いていたのに、こういうことになったのは、富士子には衝撃に違いないと考えて、誠は一人で、この件を処理しなければいけない、という気になっていた。  救急車は、病院の裏口に止まり、救急隊員が、担架を運び込んだ。すでに、連絡が行っていたのだろう、搬入口では看護婦が二人待っていて、担架に付き添った。担架は直ちに救急処置室に運び込まれ、寺崎は黒いビニールに覆われた診察台に横たえられた。  救急医が二人、その診察台の横に付いて、体を診ていた。暫く、そうした診察を受けたあと、腕に点滴の管が繋がれ、薬液が入った何本かのボトルから液が落ちていた。そのあと、寺崎は移動車に乗せられ、検査室の方に運ばれていった。そのとき、ちらりと見えた顔は、さらに血色が良くなっていて、誠の心配をすこし、解消した。  これで命の心配はなさそうだった。各種の検査の結果を待って、医師は病名の判断を下すのだろう。それまで、時間がありそうだったから、誠は、出てきた医師に容体を聞いた。  「どんなものでしょうか」  「大事に到らなくて良かったですね。あと少し遅れていたら、分からなかった。栄養失調と糖分不足で、脳の働きに障害が残るかもしれない。それを詳しく検査していますが、まあ、入院して体力の回復を図ったほうがいいでしょうね。すこし、後遺症が残るかもしれない。脳が一部、損傷している可能性は否定できませんよ。それにしても、なぜ、こんなになるまで放っておいたのですか」  若い医師は首を傾げながら、詰るように言った。  (今時、食事を欠かせて、脳の障害が残るほどのダメージを受ける症例は,あまりないよ)  と言いたそうだった。  検査を待ちながら、誠は、寺崎のことを考えていた。  (一体、何があったのだろう。飯も食わずに、寝ていたのだろうか。そういえば、枕元にあった財布には、四十円しか、入っていなかった。カップ麺も食べ尽くしていたし、死のうとしたのだろうか。だが、「救急車を呼んでください」という張り紙を出したところを見ると、死のうとしたわけではなさそうだ。死の瀬戸際まで、頑張っていたのだろう。助けを求める方法は、幾らでもあったはずなのに)  そこまで考えて、誠は、  (寺崎には、親類縁者は居ないのだろうか)  と考え当たった。もし居るとしたら、この状況を知らせなければならない。入院するとしても、だれか血の繋がった人間が、面倒を見てやる必要があるだろう、と思っていた。  医師の話の様子では、かなり重症らしい。入院しなければならないのは間違いなさそうだ。その準備もしないといけない。誠たちだけでは寺崎の面倒を見切れないのは、はっきりしていた。  そんな今後のことを考えていると、医師がやって来て、  「やはり、脳に損傷が出ていますから、入院したほうが、いいでしょう。家族のかたがいらっしゃったら、連絡して上げてください」  と言った。寺崎の家族のことは、知らない。誰も知らない筈だ。それほど、寺崎は目立たず、孤独に生きていた。  「家族と言っても、私には」  誠のその言葉に、医師は露骨にいやな顔をして、  「家族ですよ、家族。親や兄弟はいるでしょう」  と語気を荒らげた。  そうだろう。家族のいない人間はいない。どの人間も、父と母から生まれて来るのだ。この地球上で、父と母を持たない生命はないのだ。猿山の猿といわず、野良猫でも親はいる。それが、定かでないことは多々あるが、人が家族を持たないでいることはあまりない。  「はい、分かりました。調べて探してみます」  誠はそう言うしかなかった。家に帰れば、富士子が何かを知っているかもしれない。それに望みを託しての、応答だった。  「入院の手続きは後でもいいですが。家族には知らせないといけないでしょう」  医師は、そういって、立ち去った。誠は、病室くらいは確認しておこうと思って、ナースステーションに行った。看護婦は丁寧に、入院の際の手続きについて説明してくれたが、誠は虚ろに聞いていただけだった。家族を探さなければいけないということが心に引っ掛かったまままになっていたのだ。看護婦は書類を渡してくれてから、  「私たちが入院の面倒はみますから安心してください。寝巻きと洗面道具などを持ってきて頂けるだけでいいんですよ」  となんの心配もいらないと、説明してくれた。  それにしても、寝巻きや下着や歯ブラシや石鹸をあの部屋から持ってこなければならない。もう一度、病院に来なければならないのははっきりしていた。  「では、よろしく」  と挨拶して、誠は病院を出た。体も心も重かった。とぼとぼと、玄関に出た誠には、外の明るさが救いだった。  (なんで、こんな目に会わなくてはいけないのか。波瀾なく、安心して老後を過ごそうと始めたアパート経営なのに、次から次へと、問題が出てくる)  そういう入居人の問題は、本来なら、大家の介入する事ではないかもしれない。入居者の間で解決できることが大半だ。ところが、入居者はなんでも、大家に持ち込んでくる。今度のことも、誰かが救急車を呼んでやれば済むことだったのではないか。それが、大家ということで。誠に連絡が来た。そうなれば、放っておくわけには行かなくなる。そうして、事件に完璧に巻き込まれ、人生の残された短い時間を消費することになるのだ。そういう時間は、本当は、誠は書斎に入っていたかった。それが、出来ないのは、業としか思えなかった。  だが、富士子はそうは考えない性分だった。困っている人があれば、全力で助けようとするのが、彼女の生まれつきの性分なのだ。誠が帰って、今日の事を話せば、富士子は取る物も取りあえずに、病院に駆けつけるに違いない。あるいは、もう話は伝わって、全ての用意を整えたかもしれない。誠の帰宅を待って、再び、病院に向かうために、入院の際に必要な全ての用意を整えて、待っていそうだった。  果たして、誠が疲れきって、家に帰ると、富士子は、待ち構えていたように、  「あなた、大変でしたね。入院したんでしょう。タオルや寝着を用意したおきました」  と綺麗に整えた支度を見せた。  「それ所じゃないんだよ。寺崎君の縁者はいないのかい。医者は家族に知らせるようにと言ってるよ」  「それは、そうですよね。私たちには完全な看護は無理ですからね。そうだ、入居の時に、田舎の連絡先を聞いてありますよ」  富士子は、金庫の方に言って、書類の束を持ってきた。  「ああ、あった。これですよ」  富士子が取り出した書類は、入居の際の保証人を記した書類で、実家の住所と当主の名前、それに、電話番号が書いてあった。  「秋田の生まれなのか。これは、親の名前かな」  「いえ、お父さんは早く亡くなって、それは、後を取っているお兄さんの名前だと聞いたわね」  「とにかく、連絡してみよう。こちらに来れる兄弟くらいは居るだろうからな」  「分かりました。私がしますよ。あなたは、疲れたでしょう。休んでください」  そうして、寺崎の入院事件は、富士子に引き継がれたのだった。    富士子は、身元保証人になっていた秋田の実家の兄に電話で、末の弟の事件を告げた。だが、この兄は、弟に関心がないようだった。  「お世話になりますが、わしは行くわけには行かんので。いろいろ、農作業が立て込んで忙しいんですわ。できればそちらさんで、世話してくれんかいな」  と朴訥な語り口で、考えてみればかなり、厚かましい要求をした。それでは、こちらが困る。富士子は粘って聞いた。  「だれか、他に兄弟とか、親類とか、手が空いた人はいないんですか」  兄は、考えた末に、  「いることはいるんですよ。そちらの近くに姉が嫁いでいるだが。永い間、音信がなくてね。生活も苦しいらしいんですわ。どうあがいても、私ら貧乏人は、貧乏から抜け出せんのです。こちらで、連絡してみますが、どうなるか、わからないがね」  まるで人ごとのような言い方だったが、富士子は、  「では、宜しくお願いします」  とだけ、言って電話を切った。こうなったら、もう、寺崎の肉親には頼れそうもない。富士子の出番なのだ。さっそく、貸しアパートの部屋に向かった。まず、部屋を掃除しないといけない。臭いは、誠達が窓を開け放っておいたので、消えていたが、汚れは酷かった。電気掃除機を持ってきて、埃を始末し、雑巾で綺麗に拭かなければならない。それが、終わったら、寺崎の寝具と洗面具を取り出して、用意し、病院に持っていってやらなければならない、と心に決めていた。  部屋に行くと、すぐに、長塚が姿を見せた。薬屋の間島は、既に道沿いの店に戻り、客の応対をしていた。だが、富士子の姿を見つけると、彼も客との応対を終えてから、部屋にやって来た。  「いろいろとお世話になりました。長塚さんが、発見してくれたんですか」  富士子はまず、礼を言った。  「ええ、まあ。滅多にこの部屋の前は通らないのに、気が差したというか、ふと、こっちに遠回りして、出ようとしたら、このメモが、ドアーにあったんですよ。それで、慌てて、ご主人に連絡したんです」  「救急車は、誰が呼んでくれたの」  「ああ。それは、薬屋の旦那ですよ。電話が一番近いからね」  「そうですか。でも、よかった。あなたが通りかからなかったら、大変なことになっていたかもしれないわね」  「そうですか。よかったな。あいつも、運がわるいほうでは、なさそうだ」  長塚は、もじゃもじゃの頭の毛を掻きながら、盛んに照れていた。窓から差し込む斜めの光線で見ると、ふけが飛び散ったのが分かった。これでも、この男にはこういう恥じらいもあるのだ。ただ、酒が人を変える。彼は酒を楽しむより、酒に飲まれて、抑圧されている不満や憤怒の鍵を失うタイプだった。だが、人が悪い訳ではない。  富士子は散らかった室内の掃除に取りかかった。寺崎は、食べる物を食べずにただ、寝ていただけだから、それほど、部屋は荒れてはいないようだったが、良く見ると、部屋の隅には細かい綿埃が集まって、溜まっていた。まずは、布団類を畳んで干し、電気掃除機で埃を吸い取って見ると、かなり綺麗になった。次に、濡れ雑巾で表面を拭うように拭く。そういう富士子の作業を、長塚は、開け放ってある玄関のドアーの外で、ずっと見ていた。畳を拭きおわった富士子が、怪訝そうに、そちらを見ると、長塚は、  「ああ、すいません。なんか、手伝うことはないかと思ってね。でも、これじゃあ、なさそうだな」  「なんで」  「あまりに、手際が見事なんで、わしが手を出すことなんか、なさそうだってことですよ」  そう言って、頭を掻いたが、富士子は長塚が掃除嫌いなのを知っている。彼が不在中に合鍵で入った部屋は、乱雑の極みだった。畳には到るところに、煙草の焦げ後が付いていたし、万年床は敷きっぱなしで、枕元には、一升瓶と掛け湯飲みが散乱していた。自分の部屋でさえ、満足に掃除できないのだ。そのくせ、もし、出ていく段になって、部屋の改修にと、敷金を取ったりすると、文句を言ってくるタイプに決まっている。富士子はそう睨んでいた。  「狭い部屋ですからね。掃除は、私一人だけで十分よ。それより、聞きたいことがあるんだけど寺崎君は、近くに身寄りはないのかな。長塚さん、知らない」  長塚は聞かれた質問の意味が分からなかったようだ。きょとんとした顔つきで、  「ああ、身寄りはいないよ、独り暮らしだったんだ。女なんか来ないよ」  と答えた。それは、気前の悪そうな言い方で、富士子にはピンと来るものがあった。  「女がいたのね。どう言う人」  「おれは、知らない。ただ、時々、二人でいる人影が見えただけだよ」  長塚は、夜中に酒を飲んで、出歩く癖があるから、その時にでも見かけたのだろう。  「いつごろ見たの」  「去年の夏だよ。一晩泊まっていったようだな」  「知らない」といいながら、かなりのことを知っているようだ。互いに床一枚を隔てて、暮らしているのだから、交渉はなくても、行動を目にしてしまうことは、あるのだ。見たくなくても、見てしまうことがあるのだろう。  「どんな人」  「年上のようだった。あれは、いま流行のやつだよ。年上の女だ。随分、甲斐甲斐しく面倒みていたし、やつも甘えていたようだったからね」  この男は、酔っぱらって、意識がないなどといいながら、結構、詳しく、観察して、よく覚えている。そこが、油断のならない狷介なところだ。  富士子は、貸してある炊飯器や鍋とか、食器類を調べてみようと、台所に行った。炊飯器には使った形跡がない。棚に下にしまってあった。ガスレンジに小型の鍋が掛かっていた。インスタントラーメンでも作ったのだろうか、底に僅かに水分が残っていた。富士子はそれを流しに置いて、洗剤で洗った。皿などにも使った形跡がない。鍋から直接食べていたらしい。流しのボールに箸が入れてあった。富士子はそれも洗って、プラスチックの水切りの中に置いた。それだけで、台所の始末は終わった。あっけないものである。これが、誠との二人暮らしでも、家だったら、まだ、沢山の作業をしないと開放されない。いままでも、大勢の店子の面倒を見てきたが、これほど、すっきりと生活しているのを、身近に実感したのは初めてだった。  (若い男の子の独り暮らしって、こんなに切ない物なのね)  全ての作業を終えた富士子は、気が抜けて、窓辺に腰を降ろしていた。庭に雀が来ていた。番いらしい。だれが、作ったのだろう、餌台があって、そこに餌入れが置いてある。そこから、地面に溢れた餌を、盛んに突ついている。一粒も残さないようにというように、競い合ってついばむ。ちょっと、上に飛べば、餌入れ一杯の餌があるのに、気がつかないのだ。  (ほら、飛びなさいよ。ほんの少しだけよ。ちょっと、動けば、あれほどの餌があるじゃない)  富士子は、心のなかで呼びかけていた。だが、その場所に出ていけば雀は逃げるに決まっている。僅かかもしれないが、彼らが自力で餌を得ている姿を見守ることしか出来ない。西に落ちはじめた日の光を受けて、窓辺は、その日最後の一瞬の暖気の中に包まれていた。  (生きていくのは、大変なことなのだ。それも、たった一人では。せめて、二人暮らしなら、どうにか助け合っていける。わたしたちも、そうして、ここまで来たんだ)  そう考えると、いつも頼りなく思っている誠がこのうえなく頼もしい連れ合いに思えてきた。  夕方になった。騒動が一段落して、茶の間で炬燵に当たりながら、誠と一緒にお茶を飲んでいると、電話が鳴った。  「寺崎さんの実家かしら」  勘がいい富士子は、そう言って立っていった。果たして、それは、寺崎の実家の兄からだった。  「色々とお世話を掛けてすまないですわ。実は、そちらの近くだと思いますが、二番目の姉が、暮らしております。連れ合いを亡くして、子供二人を抱えた貧乏暮らしですので、なかなか、連絡もとれなかったんですが。やっと捕まりましてね。話をしたところ、早速、見舞いに行ってくれることになりましてね」  「そうですか。それは、よかったですね」  「そいで、明日にでもお宅に伺わせますが、よろしく願いますだ」  兄は純朴に挨拶した。  「分かりました。お待ちしています。いらっしゃたら、病院に案内しますからね。家の場所は分かりますね」  「へえ、住所を知らせましたんで、どうにかいくでしょう」  それで、話は終わった。この兄は、弟の容体を気使ってはいるが、そう親身ではない。近くにいるという妹に全てを押しつけようとしているように見える。それだけ、手を離せない用意があるのだろうか。だが、血を分けた肉親が、大事に到っているときにしては、そっけない態度に思われてならない。それに、近くに姉がいるなんていうのも初耳だ。それなら、その姉を身元保証人にしていてくれれば、わざわざ、遠くの実家まで知らせなくてもすんだのに、と訝った。  詰まるところ、その姉は保証人にするには、足らぬ所があると言うことかもしれない。あるいは、寺崎の生真面目さから、当主の兄をと、思ったのかもしれない。とにかく、明日訪ねてくる姉は、そう暮らしが楽ではないらしいことは知れた。だから、保証人には出来ないと、寺崎が判断したのかもしれなかった。  翌日、その妹である田沼加代子は、幼い子供二人の手を引いて磯田家を訪ねてきた。その姿を一目見たときに、富士子は、その女の生活の困窮ぶりが、よく分かった。安っぽくみえる着衣がその最初の印だったが、それでも、こざっぱりしているように見えたのは、女が色白で、目鼻が整ったかなりの美人だったからだ。富士子は、  (これが、秋田美人ということか)  と思いながら、愛想良く応対し、女を応接間に上げた。  「この度は、本当にご迷惑をお懸けしました。兄から連絡があって、驚きました。弟がこんな状態になっていたなんて、全く知りませんでした、元気に勤めているとばかり思っていたものですから」  女の話す言葉に訛りはなかった。こちらに出てきて長いのだろう、自然な標準語で、先ずは、非礼を詫びた。  「いえいえ、いいんですよ。それより、助かって良かったです。私たちもできるかぎりのお世話はしているつもりなんですが、なかなか、全部には目が行き届かないので。もし、もう発見が少し遅れていたら、大変なことになっていたかも知れませんが」  「どなたが、見つけてくれたのですか」  「二階の長塚さんという方です。何時もは、他の仕事であまり部屋にはいないんですが、昨日はたまたま、寺崎君の部屋の前を通りかかって、メモを見たんです。長塚さんが、通らなかったら、と思うと、命の恩人かもしれませんね」  「是非お礼に行かないといけませんね」  姉はそう言ったが、富士子はすぐには賛成しかねていた。だが、表向きは、  「そうですね。それより、病院に先に行かないと」  と話の向きを変えた。  「確かにそうですわ」  女がそう言ったのを機に、富士子は誠に、  「車で送ってくれませんか。私も一緒に行きますから」  と頼んで、支度に取りかかった。  田沼加代子は、病室に入ると、昏睡を続ける弟の姿を見て、突然泣きだした。名前を呼んでも応答がないのを知って、症状がかなり重いのを悟ったのだ。実を言うと、加代子はそれほど事態を重大には考えていなかった。簡単な栄養失調で入院したと思っていたらしい。だから、数日、入院して、栄養を補給すれば、すぐに治りと高をくくっていた節があった。だが、容体は正に、緊急を要していたのだ。  富士子もすこし、軽く見ていたのを後悔した。寺崎は、意識を回復しないまま、このベッドに眠りつづけているのだ。口や鼻には何本もの管が通されていて、腕には点滴の管が這っていた。頭の部分は、ビニールで覆われ、酸素吸入も行われている。重体の患者の扱いなのが、すぐにわかる。  「こんなだとは、思っていませんでした」  ひとしきり涙を流したあと、加代子は富士子の方を向いて、言った。手には白いハンカチが握られていたが、すでに、くしゃくしゃになっていた。それほど、質がいい品ではないらしい。  「わたしも、意識がない状態だとは、思わなかったわ。とにかく、お医者さんに挨拶しておきましょう」  富士子に促されて、加代子はナースステーションに向かった。その場所に、緊急治療をした医師がいると聞いたからだ。  「先生、このたびは、本当にお世話になります」  加代子が丁寧に頭を下げると、若い医師は、軽く会釈したあと、  「良かったですよ。早めに見つかって、後一日遅れていたら、取り返しの付かないことになったかもしれない、見つけてくれた人は、命の恩人ですね」  と滑らかに語りかけた。  「そんなに酷い状態だったんですか」  「ええ。脳にまで影響が来ていましたからね。栄養失調による低血糖で、脳の働きが阻害される状態になっていた。これほど、豊かで飽食の時代と言われる時に、珍しいことです。人間は、食欲がありますから、それほど食べることを我慢できない。ひもじくなったら、盗んででも食べるものですが、よく、ここまで、我慢できたと思いますよ。弟さんは相当意志が強い」  「いえ、小さいときから泣き虫で、そんな性格ではなかったんですが」  「そうすると、むしろ、意志薄弱なのかな。しかし、栄養失調で、倒れるなんて患者には、ここ何十年も私は出会っていませんでした」  富士子はその一言を聞いて、自分が非難されているような気がした。あれほどまでに、気を使って、炊飯器まで持っていってやっていたのに、という思いが過ったのだ。  「でも、よかった、すこし、何処かに後遺症が残るかもしれないが、とにかく、命だけは大丈夫です。十分、ゆっくり休ませてください」  医師のその言葉で、加代子は一安心して、また深々と頭を下げた。  「宜しくお願いします」  病室に戻った加代子は、富士子が持参した寝具や着衣類を片付け、二人で寝巻きに着替えさせてから、やっと落ちついて、ベッドの横の椅子に腰掛けた。二人の子供は、病院が珍しいのか、廊下の方に出ていき、富士子と二人きりになった。  「私たちのことを、余りお話ししてないようですが、実はこの子は、私たち兄弟とは、歳が離れすぎていて、あまり、姉弟とは思えなかったんですよ」  加代子がゆっくりと、独り言のように話しだした。  「何歳違うの」  「一番上の兄は、もう五十を過ぎています。八人兄弟の一番末ですから。私はこの子の、一つ上の姉ですが、十二歳違いです。それに、この子は、私たちと母親が違うんです。父親が年取ってから、外の女に生ませた子でね。その母親は身元も分からない。なんでも、飲み屋の女だという話ですが。人のいい父親は、あんたの子だ、という女の言葉を真に受けて、家で引き取って育てることにしたんです。でも、育てたのは二番目の姉です。出戻りで家にいたんですが、嫁ぎ先に置いてきた子供が、この子と同じく位の年頃で、本当に自分の子供だと思って、大事に育てました」  「そうですか。だから、ちょっと、ひ弱な感じがしたんだわ。面倒を見てやらなくちゃという感じがする人だから」  「そう、甘えん坊なんですよ。一人ではなんにもできないんです。それなのに、育ての母の姉が亡くなると、居心地が悪くなったんでしょうか、家を出ると言いだして、こちらに出てきてしまった」  加代子は、しみじみと話を続けた。  「それも、私が駆け落ちして、こちらに居るのを知っていてのことかもしれない。でも、頼りにはしてませんでしたよ。自分で生きていく算段はしていたんです。いい会社に勤めていたのに、人間関係が嫌だと辞めてしまって。やはり、都会の水は冷たすぎたのかもしれない。家の亭主も失業中で、暮らしは楽ではないですが、弟一人くらいは、幾らでも助けて上げられたのに」  加代子は、姉弟の来歴を簡単に話し終えて、また、ハンカチを瞼に当てた。  小さな子供二人を抱えて、加代子は、弟の部屋に泊まりながら、二日間ほど、病院に通った。二日で止めたのは、その頃になって、やっと、弟の意識が戻り、普通に話せるようになったからだ。若さもあってか、寺崎の回復は早かった。たんなる栄養失調が原因だったから、ぶどう糖液の点滴などが効を奏した。但し、何故か、足に後遺症が残った。右足が自由に使えなくなり、びっこを引いて歩くようになったのだ。担当の医師は、首を傾げた。  「血流が悪くなって、筋肉に障害がでたのかもしれない」  と言ったが、本当の原因は分からないようだった。そして、  「まだ、数週間、入院したほうがいいでしょう」  と付け加えたのだ。  寺崎の入院は、半年に及んだが、その後加代子は、姿を見せなかった。だが、この姉と弟は、連絡は取り合っていたらしい。切実なのは、生きていく術だった。無収入では生きていけない。だからといって、すぐ働きに出られるわけではない。この体だと、あるいは、ずっと無理かも知れないのだ。二人は話し合ったのだろう。姉が知恵を持っていた。姉自身が、その対象者だった生活保護の申請をすることにしたのだ。  富士子はそういう事態に係わったことはないから、細かいことは分からなかったが、加代子は、精通していた。複雑な書類を整えて、市役所に提出し、支給の決定がでたのは、寺崎が退院する時だった。姉の東奔西走の結果だった。  退院してきた寺崎は、以前の若者ではなかった。杖を使わないと、立ち上がることは出来なかったし、立っても杖に縋ってのよちよち歩きが、やっとの状態だった。とぼとぼと歩く後ろ姿を見たら、これが、二十代の若者とはとても思えないに違いない。  だが、とにかく生きてはいた。死なないでいたことだけでも、祝うべきかもしれない。これから、何の職に付かなくても、とにかく生きていることだけでも、喜ぶべきかもしれない。  寺崎が退院して、アパートの部屋に戻ったことを、長塚は知っていたが、別に挨拶にも行かなかった。自分があのメモを見付けていなかったら、命がなかったかもしれないということは、すこしは、頭にあったが、それほど重要な事だとは思わなかった。ただ、気まぐれにあの部屋の前を通りかかって、偶然見つけただけのことだ。それより、彼の頭を占めていたのは、一日も早く、若い弟子を探して、いま、自分がやっている土木の仕事の下請けをさせることだ。そうすれば、自分は、賃金をピンはねして、甘い汁が吸える。自分一人で働くより、実入りがよくなるのだ。それが、念願の親方への道だった。彼の小さな人生の計画からすれば、働けなくなった寺崎など、眼中になかった。もともと、このひ弱な青年は、このアパートでも目立つ存在ではない。朝早く出ていって、夜遅く帰ってくる。そしてただ、寝るだけで、又翌朝早く出ていく、という生活を繰り返していたから、富士子の貸した炊飯器を使う余裕などなかったのだ。食事は全て外食で、洗濯だけは、休日にしていたらしいが、それも、大した量ではない。もともと、そう多くの衣類を持っているわけでもない。下着だって三枚もあれば事足りていた。それが、孤独な地方出身の独身者の都会での生活なのだ。  だが、寺崎は、退院後、断末魔のメモを読んで、命を救ってくれたのが、二階に住む中年の独身者だ、と加代子に知らされて、申し訳ないという気持ちが、徐々に大きくなっていった。一日中、布団の中に寝て、安静にしていると、その男の像が、日に日に、膨らんでいった。寺崎は、その男を、休日にたまに見かけることはあった。だが、挨拶の言葉を交わしたことはない。出くわしたこともほとんどないだろう。それほど、二人の生活時間は交差していなかった。  寺崎は、体が良くなってから、改めて、礼を言いにいこうと考えていた。救急車を呼んでくれた薬局の間島さんと病院に一緒に行ってくれた大家の磯田さんにも、礼を言わなければならない、という気持ちがあったが、やはり、心の中で一番、大きな位置を占めていたのは、あまり、顔を合わせこともない第一発見者の長塚だった。  気候も穏やかになってきて、住宅地の奥にある寺山の参道の桜並木に、桃色の蕾が付き始めた。日が伸びて、朝夕の気温も、ずっと、穏やかになってきた。  寺崎は、姉の看病の手も離れて、再び、一人暮らしに戻っていたが、仕事はなかった。姉が手続きしてくれた、生活保護と医療補助金を頼りに、細々と暮らしていたが、それでも、無収入ではないから、どうにか生活はできているようだった。病気療養中に生活に一定のリズムが出来て、健康も徐々に回復していた。足には、依然、後遺症が残って、歩行には杖の介助が欠かせず、よちよち歩きだったが、立ち上がって、出歩けるようになっていた。それでも、普通の人の歩く速さに比べ、半分くらいの速さだった。  天気の良い日には、昼頃になると、外に出掛けていく寺崎青年の姿を見ることが出来るようになっていた。そんな、春先のある日に、寺崎青年が、出掛けるのに出くわしたのは、猫のおばちゃんだった。いつもは、人を見ると、避けるように、すごすごと、姿を消してしまうのだが、この日は違って、自分から、青年に声を掛けたのだ。春先の気分のいい陽気が、この陰気な中年女をも少し、陽気にしていたのかもしれない。  「おや、お珍しい。もうすっかりいいんですか」  そう声を掛けられた寺崎青年は、おばちゃんが胸に抱えている三毛猫に視線を遣りながら、  「ええ、ご心配を掛けましたが、どうにか、元気になりました」  とペコリと頭を下げた。  「そりゃあ、よかった。私も、陰ながら心配していたんですよ」  そんな、愛想が言えるほどだから、猫のおばちゃんは、噂ほどに頭が抜けているわけではないらしい。  「元気になると、改めて、一人暮らしは寂しいと思うようになりましたよ」  「そうだわね。あたしなんか、連れ合いがいても、昼間は一人だから、寂しくて。でも、猫がいるから、なんとか、なぐさみにはなっているのかな」  「いいですね。動物がいると、こころが休まるでしょう。猫は飼いやすいんですか」  寺崎青年は、自分でもこんなことを言うとは思えないことを口にしていた。そんなことを言ったら、このおばちゃんは、百万の援軍を得たという思いになるに違いない。だが、寺崎青年は、このおばちゃんが、長塚に怒鳴り込まれたり、脅されて、猫とともに、部屋に閉じこもらなければならなくなったという事件の経緯など知らないのだ。  「いいですよ。よかったら、飼ってみない」  おばちゃんは、かさに掛かってきた。ここで、一人でも「仲間」が、増えれば、肩身の狭い思いで暮らさなくてもよくなるかもしれないのだ。寺崎青年の心が動いた。独り暮らしの寂しさを解消するために、ペットを飼うのは有効な手段かも知れない、と考えた。一日中家にいる身だから、前のように日中の世話の心配はないのだ。  「でも、このアパートでは、本当は、動物を飼ってはいけないんじゃないですか」  「そんなことは、ないですよ。現に私はずっと、飼っていますよ。大家さんにだめと言われたことなんかないんだから」  おばちゃんは、そう言い張った。  「いいから、私の家に丁度、子猫が生まれたのよ。あげてもいいわよ」  おばちゃんが、珍しく、普段は挨拶もしない自分に愛想よく話しかけてきた訳が分かったような気がした。  寺崎青年は、出掛けるはずだったが、そう言われて、心が動いた。  「どんな猫ですか」  そう言ったのをおばちゃんは見逃ささなかった。  「ちょっと、待って居てね。いま、連れて来るから」  しばらくして、家から出てきたおばちゃんの腕には、先程とは違う、一回り小さな猫が抱かれていた。黄ばんだ白と薄い黒のぶちの毛色だった。  「ほら、かわいいでしょう。抱いてご覧よ」  おばちゃんは、寺崎青年の腕に子猫を渡した。  抱いてみると、確かに可愛かった。本当は犬の方が好きな方なのだが、この愛くるしさを見ていると、動物ならなんでもいいという気になってきた。  「いいなあ、温もりがいいんだよね」  「そうだろう。だからさ、上げるよ。その子上げるから、大事にしてね」  おばちゃんの口振りは断定的だった。だれか、上げる相手を探していたのだろう。そして、その相手が身近に見つかって、素直に喜んでいるのだ。  こうして、寺崎青年は、猫のおばちゃんの雌猫が生んだ子猫の一匹を飼うことになった。おばちゃんは、餌一日分を付けてくれたが、それ以外は何もくれなった。むしろ、貰ったほうが、お礼をしなければならないのかもしれないが、この場合は、むしろ、押しつけられたような取引だったから、それでいいのかもしれなかった。ただ、何事にも律儀な青年には、お返しをしないのは、借りをつくったような気分で、その肩に重荷を負った感じがずっと続いていた。それは、命の恩人である長塚に対する、負い目の感覚と似通っていた。    寺崎青年は、猫を飼うようになって、生活が変わった。独り暮らしの時には、勝手気儘な生活時間で暮らしていたが、動物の小さな命とはいえ、一つの命を預かることの大変さが、生真面目な性格の寺崎には、会っていたようだ。富士子が貸した電気炊飯器を使うようになった。猫と自分との御飯を炊き、時折は、買ってきた材料を使って、料理も作る。自分の食事を同時に、猫にも与え、子猫が食べるのを見ながら、嬉しそうに、食事をする。家族が、一人増え、仲良く食事をする家庭の風景があるようだった。  そして、猫の寝床と排便の場所を作り、それに従って、部屋の掃除もこまめにするようになった。動物を飼うと、自然にその臭いがしてくるものだが、寺崎の部屋ではそんなことはなかった。常に換気を心掛け、掃除もこまめにするうえに、表の薬局から消臭剤を買ってきて、部屋の隅々に掛けてある。無臭、無菌の衛生的な部屋が出来ていた。  寺崎青年は、この部屋で、午前中を過ごしているが、午後は、猫を抱えて、散歩に出る。夕食の買い出しや、手紙を出したり、いろいろな用事をすませるのも兼ねている。天気が良ければ、遠出して、岡の下を流れている川に行く。川に行くのは、なにかの用事があってではないらしい。猫を抱いて、河原に座り、ただ、流れていく水の流れを見ている。それが、楽しいらしいのだ。そして、空気が冷えはじめる頃には、家に戻り、夕食の用意に取りかかるのだ。  こういう生活を半月ほど続けて、季節は春の盛りに向かっていた。料理の腕も相当上がり、手間も時間も掛からず、手早く出来るようになっていたから、早めの夕食をして、テレビのドラマを見ようと、横になったとき、子猫の「トピー」が、居なくなっているのに気がついた。そうだ、寺崎青年が、子猫をそう命名したのは、子供のころの辛い思いでからだった。青年は、栄養失調のためもあって、小学生のころ、酷い皮膚炎にかかったことがあった。体中に湿疹がでて、我慢できない痒みが続き、心身共に疲労した酷い経験だった。我慢しきれなくなって行った医者は、「アトピー性皮膚炎」との診断を下し、「体質改善をしないといけない」と言ったが、貧乏暮らしには、贅沢な病気と思われて、それ以降は、医者には行かなかった。そのうちに、成長につれて、症状は緩和したが、今でも時折、あの痒さの恐怖に襲われることがある。  (その痒さを、こいつに渡してしまえ)  と残酷な計算をして、名前にしたのだったが、「アトピー」の「ア」を外したのは、せめてもの憫情だった。貰った子猫を孤独の癒しにしながら、自分の悪疾の捌け口に利用しようというのだから、人間の打算は底無しだ。真面目で控えめに、世の片隅に身をひそめるように生きているこの青年でさえ、そういう心の悪魔を抱えている。  (あれ、どうしたのだろう。あいつも、俺に飼われるのに慣れてきて、勝手に振る舞うようになっていたからな。もともと、猫は自由が好き。だから、首輪は似合わない)  テレビのドラマが、終わりかけたとき、そんな呑気な事を考えながら、寺崎青年は、立ち上がった。開け放しておいた窓から、「トピー」が飛び出したのではないかと、窓の外を見ようとしたのだ。    窓から顔を出すと、目の前に、異様な人の姿が見えた。その影は野球帽を被っていて、窓の外にうずくまっていた。寺崎青年が、窓を開けたとき、「ギャー」というような叫び声を聞いたような気がしたが、それは、一度だけだった。うずくまっている男は、窓を開けたのを知らない。ということは、寺崎青年が、そちらを見ていることもわかっていないのだ。男が、盛んに手を動かしているのが、道路灯の青白い光に浮かび上がってきた。その光に誘われて、手の先を見ると、野球のボールのような白い球形の物を男は、いじっていた。  寺崎青年は、男に注意を向けさせようとして、  「ゴホン」  と咳をしてみた。その音に気がついたのか、影の男が振り返った。  「なんだ、長塚さんじゃあないですか。何してるんですか」  そう言われて、長塚は、  「ああ。いや、いや、涼んでるんですよ。部屋に居ては熱すぎる日だ」  としどろもどろの受け答えだ。  立ち上がろうとして、両手を後ろに回したのが、不自然だった。  「何を持っているんですか」  「いや、何でもないさ。大したものじゃない。君には関係ないよ」  「そんな、持ったいつけずに見せてくださいよ」  「いいよ、いいから」  「いま、そちらに行きますからね」  寺崎は、窓を乗り越えて、長塚が居る庭に出ていこうとした。窓の外には、サンダルが置いてある。洗濯物を干すときに、つっかけているのだ。そのサンダルを履いて、柵を乗り越え、長塚のほうにいこうとしたとき、長塚は、突然、持っていた物を投げ出して、向こうへ走り出した。驚くほどの速さだ。  「なんだよ。逃げなくてもいいのに」  寺崎は、後を追ったが、右脚が自由にならない身では、健脚の長塚の速さには追いつかない。すごすごと戻ってきて、長塚が放り投げていった物を見た。薄い水銀灯の光に浮かび上がったのは、ぼろ布のような、白と黒の布切れだった。  と最初は思ったのだが、手に取ってみようとして、覗き込んだとき、それが、生き物の死骸だと分かった。野球のボールに見えたのは、頭だった。頸から血を流した跡がある。腹から内蔵が飛びだしていた。いずれも鋭い刃物で切り刻まれてた部分から、出てきたのだ。それは、子猫の「トピー」の無残な姿だった。  寺崎青年は、その事態をすぐには飲み込めなかった。独り暮らしを慰めてくれた同居者が、無残な姿になって、目の前にあった。そして、ついさっきまで、その上に伸しかかるように身を埋めていたのは、間違いなく、逃げていった長塚だ。ということは、長塚が、子猫をこんな無残な姿にしたとしか、考えられない。  (なんで、長塚さんは、こんなことをしたんだろう)  まず、浮かんだのはその疑問だったが、当面は、目の前の「トピー」の死体を始末しないといけない。部屋の中に戻って、新聞紙を持ってきて、死骸を包んだ。何重にも包んで、端を紐で縛り、段ボール箱に入れた。庭の片隅に、土を盛り上げて祭壇を作り、その上に安置して、板切れに名前を書いた墓標を立てて、一端、部屋に戻った。  寺崎青年は、この事態を、合理的に理解できなかった。部屋に帰ってすぐにしたのは、敷きっぱなしの布団に頭からもぐり込んで、掛け布団ですっぽり全身を覆って、寝てしまうことだった。出来るだけ、睡眠に入るように祈っていたのだが、いま、経験したばかりの衝撃的な体験で、興奮が収まらず、頭は冴えきっていた。その、覚醒の中で、浮かんだのは、長塚のこの夜の姿ではない。むしろ、自分を瀕死の状態から救ってくれた救いの主の姿だった。  目を瞑った時の、漆黒の空間に浮かんできたのは、まず、遠くから輝く一筋の光だった。暗闇の遠くの一点から、一条の光が差し始めて、眩しさを堪えながら、その方向に目を凝らすと、一人の男がそのあたりから、こちらに向けて、歩いてきた。それは、あっという間の瞬間だったが、すぐに、男は面前に来て、こちらを覗き込んだ。もじゃもじゃに顔じゅうを覆っている髭と、ちじれた髪の毛を束ねている薔薇の髪飾りが特徴的だった。顔は丸顔だ。一端、こちらを覗き込んだ男は、体を離して、面前に立った。ギリシャの祭り神たちが着ているような一枚衣のゆったりとした服を着て、腰の当たりは紐で結んでいた。布は裾まで垂れている。男は手に松明を持っていた。その光が、頭上から落ちて、地面の上に、男の影を濃く写していた。  男は松明を顔の前に翳して、何かを言いはじめた。顔の前に翳したとき、人相が良く見えた。  「ああ、あんた、長塚さん、なにしてんだい。そんな格好をして」  寺崎はそう叫んだような気がした。  「猫の霊を鎮めているんだ。心静かに神の国に昇れるようにな」  「猫はどうしたんだい」  「すでにここにはない。先程、祭って、埋めた」  「それをしたのは、俺だよ」  「いや、わしも一緒だった。今少し前のことをもう忘れたのか。君はそういう所が抜けている」  「なんで、あんたは、猫を殺したのだ」  「殺したりはしない。君を救ったのだ。君の身代わりに、あの猫は天に召された」  「訳が分からないよ。そんな理屈」  眠ろうとする頭の中では、もう合理的な理屈など考えられないのだろうか、それとも、眠ろうとするときだから、こんな映像が浮かんできたのだろうか。  「君の魂は迷っていた。迷いをもたらしたのは、あの猫だ。猫が君の精神を乱したのを、私は知った、だから、あの猫を君の元から天に送ってあげた」  男はさらに叫んでいた。  「僕のためって、一体、どう言うことなんだ。僕は、あの猫と一緒に居て、気持ちが安らいでいたのに」  「そうじゃない。不安を紛らしていただけだ。君の必要なのは、猫なんかじゃない。君が見ているこの私が、今の君には一番必要だってことが、君にはまだ、分からないのか」  「えっつ、長塚さんが、僕には一番必要な人なの」  「そう、救い主じゃないか。それをないがしろにして、君は猫に心を奪われかけていた。そうじゃないのか」  それは、厳しい指摘だった。いまでも、恩は忘れていないが、確かに、猫が来てから、寺崎の気持ちは猫に奪われていた。  「犬は飼い主の恩を一生忘れないというが、猫は一日で忘れる。君は猫族だな」  そう言われた時、目が覚めた。布団に入ってからそれほど経っていないのに、身体中、汗でびっしょりだった。  部屋は暗く空気は沈んでいた。いま見た夢は、何かの暗示だろうか。そういえば、長塚の顔は疲れているようだった。顔がいつも見るような赤銅色ではなく、幾分、青ざめていた。  (そうだ、長塚さんを探さなきゃ)  寺崎は思いついて、部屋を走り出た。  もうすっかり暗くなった戸外にそよ風が吹いていたが、部屋の中より気持ちが良かった。長塚は、先程、この道を走り去ったのだ。そちらに向かって真っ直ぐに行けば、必ず、見つかるだろう。寺崎はそう考えて、運動靴の踵を踏んずけたまま、杖もささずに道路に走り出た。    長塚が走っていった先は、アパートから五キロ程、岡の下に下っていった用水路の橋のうえだった。一度も休まずに、走り続けたので、すっかり息が上がった。橋の下には、水量を増した水がとうとうと流れていた。長塚がここへ来たのは、その流れの中に、身を沈めようと思ったからだ。これは、一時の激情からではない。もう長い間、頭の中にこびりついて離れない考えからだった。長塚は、生活につくずく、疲れていたのだ。  猫を殺したのは、たまたまだった。今日は気分がむしゃくしゃしていて、昼間から酒を飲んだ。仕事がないから、昼間からする事がない。パチンコに行って時間潰しをしようとも思ったが、懐を探ったら、金がなかった。だから、仕方なく、冷蔵庫に入れてあった最後のビールを昼過ぎからやっていた。気分が一時的には、良くなった。だが、その心地よさも、刹那的で長続きはしない。大ビール缶が三本並んだころには、気分は再び、不愉快になっていた。  すると、そのころ、下の庭から猫の鳴き声が聞こえた。それが、耳に付いた。泣き声が何時までも続き、止まなかった。いかにものんびりとしていて、何の悩みもないで生きているように感じた。それはそうだろう。猫に、人の悩みなど分かるはずがない。まして、その上の部屋で、悶々とした中年男が昼酒を飲んで、憂さを晴らしていることなど、知るわけがない。  それが、長塚には、一層、気に食わなかった。  (あの猫、何時までも鳴いていやがって。うるせえ、やろうだ)  そう、思った時には、立ち上がっていた。ドアを開けて、一気に、階段を走り降り、うずくまっていた猫の背後から、襲いかかった。子猫に抵抗の手段はない。手もなく捕らえられて、長塚の手中に入った。あとは、あのうるさい鳴き声を止めるだけだ、とばかり、長塚は両手に力を込めて、猫の頸を絞めた。呆気ないほどに、猫は泣き止み、程無く、息を止めて、ぐったりとなった、猫の死骸を両手に抱えて、長塚は後をどうしていいか、分からなくなった。そのまま、その場所に放っていってしまおうか、それとも、穴でも掘って埋めようか。決断しかねて、猫の体を切り裂いて地面に置いたときに、庭の後ろの部屋の窓が開いて、寺崎が顔を出したのだ。長塚は、猫を放り出して、逃げだした。一目散に道路に走り出てから、細い道に曲がり、岡の下に下る道をまた、一直線に走り抜けて、下の田圃の用水路に向かったのだった。    水の流れは激しかった。水田の農作業の繁忙期の最中で、近くに広がる水田地帯が、水を大量に必要としているのだ。用水路の両脇に盛られた土手の上を走っていっても、その流れには叶わない。水量は豊富で、しかも流れが速かったら、何人か必ず、水死者が出るのが、この季節だった。  長塚は、その水路に掛かる橋の上から、下を覗いてみた。急流は、静かに流れていた。音は意外と静かだ。この橋を通る人や車は少ない。田圃を縦横に走る畦道の中では太い幹線道路だが、それでも、軽トラックがやっとすれ違うことが出来るくらいの広さだ。  昼でも、遠くで農作業にいそしむ農家の夫婦の姿が見えるだけで、閑散とした場所だが、夜はそれに輪を掛けて、人の姿はない。  その暗がりのなかで、激流だけが動いていた。思い切って、飛び込もうと、考えたとき、長塚は躊躇した。衣服を着たままでは、飛び込んだ後に、水を吸って重いのではないか、と訝ったのだ。考えてみれば、これはおかしなことだ。入水自殺をしようというのに、生きることを考えているということなのだから。  だが、長塚は衣服を脱ぎはじめた。素っ裸になって、飛び込んでも、この激流に身を任せれば、かならず死ねる、という確信を得たからだ。汚い作業着をまず、脱ぎ捨てると、長塚の心は、少し軽くなった。ズボンを脱いだ。さらに気持ちが浮いてきた。これなら、すーっと、飛び込めるだろう。ティーシャツとステテコを脱ぐと、あとは、下着だけになった。気持ちが良かった。春の夜風が吹いてきて、走ってきて汗ばんだ肌を撫でていく。汗が空気の中に吸い込まれていくような快感が、体の中からわき上がってきた。上着を着ていた時には分からなかった、気持ち良さだった。  それも生きているからこそ、味わえる感覚なのだが、長塚の心は、そちらにはない。ただ、眼下に見える水の中に飛び込むことだけを考えているのだ。そのために、着ていた物を捨てたのだ。そのことを、長塚は忘れていなかった。  最後の肌着とパンツを脱ぎ捨てて、長塚は生まれたままの姿になり、小さな橋の僅かに飛びだしたコンクリート製の欄干の上に足を掛けて、登った。あとは、思い切って、両足を蹴り、空中にジャンプすれば、地球の引力が、長塚の体を流れの中に落としてくれるはずだ。  ふと、空を見上げると、満月が輝いていた。その月には群雲がかかり、静かに動いている。丁度、右下の当たりから、左に抜けていくところだった。その光景が、長塚の決心を促した。僅かに残っていた、現世への執着心をすっかり、ぬぐい去って、長塚の心を軽くさせた。  (おれは、誰のためでもない、自分のために飛び込むのだ。猫のためでも、猫のおばちゃんのためでも、寺崎のためでも、まして大家の富士子さんのためでもない)  何度もそう念じながら、長塚は月を見ていた。それは、長塚が生まれるずっと前から、そこにそうしてあり、一日も変わらず、規則的な運動を繰り返してきた不動の力に見えた。  (猫の魂を、一緒に持っていってやるんだ。それも、自分のために)  猫を殺したのは、故意ではない。自分の意思ではない、なにか見えざるものがやらせたのだ。そう長塚は、確信していたから、あらゆる迷える魂を道連れにして、天上の国に同伴していってやる積もりだった。  「さあ、行くぞ」  こころの中で呟いた。足を踏みだして、思い切り、空中に飛んだ。体が、闇のなかに、放物線を描いて、飛んでいった。その落下の始まった瞬間に、長塚は、聞き慣れた男の叫び声を聞いたような気がした。  「長塚さーん。長塚さーん」  甲高い声が、耳に飛んできた。  (やっと、来て暮れたのか)  微かな意識の中でそう思ったが、そのときは、もう、水のなかにいた。激流が体を吸い込み、流れのなかで、息ができなくなった長塚はすぐに、意識を失った。  追っていった寺崎が、  「じゃぼん」  という物が水のなかに落ちる音を聞いたのは、橋に差しかかったときだった。静寂を破って鼓膜に達したその音響は、寺崎の気持ちに、冷や水を浴びせた。長塚の緊急事態を予想したのだ。  「おーい、長塚さーん。どうしたんだよー」  叫びながら、橋の真ん中に行き、下の激流を探した。月明かりの中に、下流に向かって、流れていく黒いものが目に入った。  寺崎は、一気に橋の袂から、堤に出て、走りだした。履いていた物も脱ぎ捨てて、裸足になって、走った。それでも、やっと流れの速さと追いつく程度で、流れていく先のものには追いつかない。だが、スピードに乗ると、徐々に、距離が縮まってきた。黒い物体から、時々、白いものが二本、宙に突き出ていた。腕を空中に突き上げて、助けを求めているのだろうか。それとも、断末魔の苦痛がそういう動きをさせるのか、溺れたことのない寺崎には、分からなかったが、暗闇の中で白いものが見えるのは助かった。その白いものを目印に、追っていく。すると、突然、流れが緩くなった。向こうに広い瀬が広がる、遊水地にでる所だった。細い流れが、広がって、流れを緩やかにしたのだ。  (今がチャンス)  と咄嗟に判断した寺崎は、着のみ着のままで、流れに飛び込んだ。流れていく物に狙いを定めて、一直線に進んだ。それでも、まともに腕をかくことはできないほどの急流だ。寺崎は途中で立ち止まらざるを得なかった。一端、立ち止まってから、逡巡していると、足に板がぶつかった。痛かったが、必死で掴み取り、その上に体を乗せて、足をばたつかせた。すると、板に乗った体は、自由に向きを変え、しかも、流れより早く進んで行けることが分かった。  寺崎青年は、黒いものがスピードを緩めたのを見計らって、その先に進み、緩やかになった浅瀬で、流れてくるのを受けとめる姿勢で、待ち受けた。広い瀬に出て、急激に減速した黒い物体は、まだ、時折白い腕を突き上げる。死んではいない証拠だった。  寺崎青年は、不自由な脚に力を込めて、瀬に立ち上がり、両手を下にして、脚の隙間から物が通り過ぎないような慎重な姿勢をして、その物体をしっかり捕まえた。果たして、生暖かい人の温もりが感じられる生身の人間が手に入っていた。頭から、すくい上げて、両腕に手を回すと、重い体を引き上げ、胸を押した。口から、激しく飲んでいた水が流れ出た。ひとしきり吐いたあと、長塚は体全身を激しく震わせ、ぐったりとなった。  寺崎は、浅瀬の中を長塚の体を引いていって、土手に運び、斜めになった場所に仰向けにして寝かせたあと、自分のコートを脱いで、掛けた。水から出た寒さで震えているのが分かったからだ。それから、胸に手を当てて、鼓動を探り、耳を持っていて呼吸を確かめた。いずれも、動きが感じられたが、強くはない。今度は、ズボンも脱いで、裸の長塚に履かせた。自分はパンツ一枚になっていた。だが、長塚の意識はまだない。  「おおー、長塚さんよ。しっかりしてくれよ」  横にうずくまって、右手で長塚の頬を激しく打った。それを何度も繰り返すと、ようやく、  「うううっつ」  と唸り声が漏れた。  それでも、完全ではない。寺崎は、思い切って、長塚の顔の前にうつ伏せになって、自分の唇を、長塚の青白い口に重ね、思い切り息を吸い込んだ。そして、吐きだした。それを、数回繰り返すと、長塚は胸を大きく膨らませながら、自力の呼吸の動きが強く戻ってきた。それに連れて、心臓の鼓動も力強くなり、長塚の命は、蘇生を始めた。  「もう大丈夫だろうな」 寺崎は、そう判断して、周囲に倒れていた枯れ草を集め、大きな山積みにして、持っていた百円ライターで火を付けた。そうしておけば、長塚は、ひとしきり暖を取っていられる。その間に、誰かに、緊急を知らせなければならない。とにかく、医者の介護が必要だろう、という判断があった。  長塚を介抱しているあいだ、まず、だれに知らせるべきかを、朧気に考えていた。電話があれば、「119番」だろうが、電話はない。すると、走っていって、電話を探すべきか。それも、何だか、面倒だ。いっそ、アパートに戻って、車を持ってきたほうがいいかもしれない。  いろいろ考えたが、生死の瀬戸際にはないと判断して、これは、本人の意思を確かめてから、と決めた。  「おおい、長塚さんよ。ちょっと、知らせに行ってくるが、誰に言えばいい」  このとき、「119番」にすぐに連絡に行かなかったのは、寺崎が自分の時の事を考えたからだ。あのときは、そうしてもらったが、救急車はなかなか来なかった。それが、いまの後遺症に繋がったような気がしていた。  「富士子さんに頼む」  長塚が弱々しい声で、やっとそう言った。  「富士子さんって、あの大家の奥さんだね」  寺崎が言わずもがなを確認すると、長塚は、静かに頷いた。  「よし、分かった」  寺崎は、焚き火の火が、長塚の方に行かないように、しつらえて、裸足で岡のほうに上って行った。  「磯田さん、大家さん。いますか」  寺崎が、磯田の家に到着したとき、磯田家の玄関灯は、消えていた。老夫婦は寝るのが早い、とは聞いていたが、この時間に既に家のなかに光はなかった。  「大家さん、起きてくださいよ」  そう叫びながら、玄関の壁にへばりついている呼び鈴のボタンを押しつづけた。家の奥の方から、けたたましくチャイムが鳴るのが聞こえた。そのチャイムが三度鳴りおわったとき、玄関の室内灯がついて、分厚い玄関ドアーの錠が回るのが見えた。  顔を見せたのは、富士子だった。玄関灯の下に、寺崎の姿を認めて、  「あら、どうしたの。こんなに遅く」  と訝って聞いた。  「いや、すみません。実は、長塚さんが」  寺崎は手短に事件の経過を説明した。  「ええ、そんなことが起きていたの」  富士子はまず驚いたようだった。  「それで、長塚さんは、ひとまず、下の川の土手に置いてきましたが、ぜひ、富士子さんを呼んできてくれと言うんですよ」  「そんなことしている場合じゃないでしょう。溺れた人を一人にしておくなんて。すぐに、医者に見せなくちゃ」  「いや、嫌だというんです。それに、もう、回復しています。体が冷えているから、温めていますが」  「なんで、嫌なのかしら。そういえば、あの人が病気になったとは聞いたことがないわね」  「とにかく、あなたに来てほしいって言ってるんです。いいですか」  「分かったわ、いま、着替えを用意して、主人を起こして行きますから。あなたは、戻って、様子を見ていてくださいね」  そう言われて、寺崎は、ぺこりと頭を下げ、磯田家を後にして、駆け足で川に戻っていった。  富士子は、すぐに夫を起こしてから、長塚用の着替えを持ち、常にお湯が湧いているポットから、持ち運び用のポットにお湯を移し、タオルなども大きな紙袋に用意した。夫は着替えて、車のキーを取りにいった。それから、物置から折り畳み式の担架を持って来て車のトランクに押し込んだ。  準備が整ったところで、二人は車に乗り込み、岡の下の現場に向けて、走りだした。  長塚は、焚き火の火を見つめながら、なぜ、自分がこんな所に横たわっているのか、考えていた。  夕方、自分の部屋で、何時ものように晩酌をして、気分が良くなった。その気持ち良さを、階下から猫の声に破られたのだ。突然、気分が悪くなって、吐きそうになった。それで、部屋のドアーを叩きつけるように、飛びだして行ったのまでは、覚えていたが、それ以後の記憶がなかった。誰かに追いかけられたような気がするが、ただ、心臓の鼓動が激しかったような気がするだけで、なにが起きたのか、まったく、覚えていない。  そのあと、体中が痺れるような感覚がして、全身が震えた。全身の皮膚が、引きつるような感じがして、痛かった。体全体を針で刺されているような感じだった。それが、まだ、腹の当たりに残っていた。だが、今は、心地よい暖かさにくるまれて、気持ちがいい。その心地よさは、あの明るい火のほうから来るようだ。長塚は、火が登っていく先を見つめた。遙か彼方に暗い闇が見えた。その中に、一点だけ一際明るい点が見えた。  「あれは、北斗七星だ。いなかにいたとき、夏の夜空で良く見たな」  誰に聞かせるわけでもない。ただ、独り言を言った。その星の中に、吸い込まれてしまいたいと思った。自分が、こうして、いつまでも地上に生きていることが、不自然な感じがした。こんな生活からは一日も早く足を洗いたいのだ。それなのに、もがき苦しんで生きている。いまや、家族もいなければ、仲間もいない。たった一人で、なんのために生きているのだ、おれは、なんのために、生まれてきたのだ。  それは、いま、土手に戻ってこようとしている寺崎青年が、心の底に抱えている難問と同じ問いだった。社会に何の貢献もしないで、無為徒食に生きているような気がする。その僕が、なんで、水に溺れかかった先輩を助けようとしているのか。彼だって、それほど、生きていくのに積極的ではない。僕と同じように流されて生きているだけだ。そんな中年男が一人、用水路で溺死しても、ニュースにもならないだろう。放っておいてもいいではないか。それが、僕は必死で、助けようとしている。自分の命の救い主だからだろうか。恩に報いるためだろうか。  寺崎青年は、そん問いにいずれも、  「違う」  と明確に答えることができた。  (僕は、そんな計算ずくで、やっているわけではないんだ。助けを求めている人は助けなければいけない。それだけなんだ。長塚さんが、僕を助けてくれたのも、そういうわけだろうから)  整理されてはいないが、それが、自分の今の行動の意味付けになるとしたら、それでいいと思っていた。  長塚は、一端覚醒した意識を再び失いつつあった。体が急激に温まったため、体の外皮は暖かいのだが、内部はまだ、冷えていた。その落差が、体温調節のバランスを崩して、吐き気が再び、襲ってきたのだ。長塚は、意識を強くして、その悪寒を追い出そうとしたが、駄目だった。嘔吐が続き、その苦痛で意識が朦朧としてきた。  (もういいよ。あの空に連れていってくれ)  失われていく意識のなかで、長塚は、最後の叫び声を挙げたが、声にはならなかった。心の中に、残響を残して、呻きとして、吐きだされただけである。  ぐったりとして、狭い堤の上に横たわっている長塚の元に戻って、寺崎は事態が先程より、悪化しているのを知った。流れから救い上げた時には、あった僅かな意識も、薄れていた。必死で顔を叩いたが、反応がないのだ。  「おおい、長塚さん。しっかりしてくれよ。もうすぐ、富士子さんが来るから、頑張れよ」  体を抱え上げようとしたが、筋肉の力を失った体は意外に重く、途中で諦めた。こうなれば、大家夫婦の一刻も早い到着を祈らざるを得ない心境になった。  (あの夫婦なら、どうにかしてくれるだろう)  寺崎は、自分が救われた経験から、老大家夫妻の人生の知恵と経験に最後の期待を掛けたいという気持ちになっていた。  磯田夫婦が、川に着いたとき、長塚の意識は、再び失われていた。ぐったりと横になった長塚の脇に膝を落とした寺崎は、成す術もなく、ただ、手を顔を当てて泣いていた。  「長塚さんが、死んじゃうよ」  駆け寄った富士子に、寺崎は訴えた。富士子は、素早く、長塚の手を取り、脈を見た。脈はあった。そのあと、胸に手を当てて、心臓の鼓動を探った。心臓は力強く動いていた。次に、耳を口元に持っていって、呼吸の具合を見た。呼吸は弱かった。  「水を吸い込んで、肺をやられているわね。それに、こんな、裸同然の格好じゃ、体に悪いわ」  そう言ったとき、誠が車から出してきた衣類の袋を富士子に手渡した。  「服を着せるから、手伝ってね」  そう声をかけられて、寺崎はぎこちない手付きで手伝った。厚手の下着と暖かさそうなセーター姿になった長塚は、顔色も徐々に精気を取り戻していったが、意識は半覚醒の状態だった。名前を呼ぶと、反応はするのだが、答えはない。  「ねえ、あなた、救急車は手配してくれたの」  「もう、大分前に連絡したが、遅いな」  磯田夫婦は、寺崎青年が駆け込んだあと、事故の場所を聞いて、さっそく、出掛ける前に、119番に救急車の手配をしていた。現場で、素人ができることは、限られている。そのできることで、あと残されていたのは、ポットの熱い湯を飲ませることだが、長塚の今の状態では、それは、無理のようだ。二人ができることはもうないようだ。あとは、一刻も早い、救急設備が備わった救急車の到着を待つだけだ。富士子が長塚の胸を規則正しく押す人工呼吸を続けていると、舗装された畦道の先に、回転する小さな赤い火が見えて、見る間に大きくなった。サイレンは鳴らしていない。人の姿が疎らな水田地帯では、警告音は不要なのだろうかと思ったが、到着した救急隊員は、到着が遅れたことへのお詫びの言葉とともに、  「サイレンまで壊れてしまって」  と付け加えた。だが、どうにか来てはくれたのだ。磯田夫婦が、場所を譲ると、担架を担いだ二人の隊員が車の中から出てきて、手際良く、長塚を乗せ、車の後部ドアーから、運び込んだ。富士子が同乗して、救急車は出発した。誠と寺崎は、誠の車で後を追った。  「対象者を収容しました。搬送を開始します」  運転席の隣に座った隊員が、無線で本部に連絡していた。  「用水路に転落して、溺れかけた人です。何方に搬送したらいいでしょうか」  隊員はマイクに向かって、繰り返していた。それを、聞いていた富士子はその質問には重大な意味が含まれていることを、寺崎青年の例から知っていた。  重症で重要な患者は、最新設備を誇る町の中央総合病院に運び、それほどでもない軽傷患者は、個人の救急指定医に搬送するのが、暗黙の慣例になっているようなのだ。  寺崎青年が、重症の栄養失調から復帰できたのは、搬送先が中央総合病院だったことが、大きかった。もし、町医者だったら、簡単な検査しかできずに、「重い風邪の症状」とでも診断されて、帰された可能性も否定できない。その証拠に、看護婦が、  「こちらに運ばれて良かったですね。入院してゆっくり治療ができて」  とふと漏らしたのを聞いたことがあった。  それなら救急隊は、全ての患者を、中央病院に運べばいいのだが、そうしないのは、中央病院の収容力に限りがあるのと、町医者に依頼してまで、救急指定医になってもらっているのだから、一定数の患者を運ばないと、制度の意味がなくなってしまうという行政的な判断もあるのだ。どうも、その人数も暗黙の了解事項になっているらしい。  富士子はそのことを下敷きに、隊員のやり取りを聞いていた。その結果、搬送先は、駅前の評判の悪い開業医院になりかけているのが理解できた。  「ちょっと、すみませんが、あの病院だけはやめてよ。直るものも、駄目になるじゃないの。中央病院に運んでくださいよ」  後部座席に乗って静かにしていた富士子が突然そう言ったので、無線係は、驚いて後ろを向き、  「搬送先を決めるのは、我々です。黙っていてください」  とたしなめた。  「そんなことを言うのなら、降ろしてください。後ろから、夫が付いてきていますから、乗せ換えます。でも、そうなったら、あなたたちの面子がないわね。搬送途中に下ろされて、空荷で行くなんて、役目を果たしていないと、批判されるわね」  「ちょっと、待ってくださいよ。もう一度確認してみますから」  無線係は、改めてマイクに向かい、中央病院の受入れ状態を尋ねた。その際、こちらの患者が意識を失った緊急状態だということを付け加えた。  無線指令室からの回答は、「中央病院で受けいれる」だった。富士子の抗議が効を奏したようだ。  中央総合病院での救急治療の甲斐あって、長塚は、一命を取り留めた。肺に溜まっていた水を取り除き、呼吸を楽にするだけの簡単な治療だったが、それが、良かったのと、持ち前の体力もあって、見る間に、元気を取り戻し、一週間の入院で、退院ができた。   春は満開だった。寺山の桜が咲き誇って、この国が一年で一番華やかな季節を迎えていた。長塚は退院後も、順調に体力を回復した。寺崎や薬屋などの噂を聞いたアパートの同居人の心配りで、衣食には苦労せずに、体の療養だけに専念できたのが、良かったのだろう。  なかでも、生活保護を受けながら昼間も家にいる寺崎青年は、自分がきっかけで起きた事件だけに、毎日、見舞っては身辺の面倒を見ていた。長塚は、好きな酒も一滴も口にせず、人柄にも、人が変わったような温厚さがでて、二人の関係は、旨くいっているようだった。  「春も盛りになってきたし、お祝いの会をやりましょうか」  富士子が、誠にそういったとき、誠は、  「なんの祝いだ」  とそっけなく、聞き返した。  「そりゃあ、みんなが、大きな不幸もなく、どうにか、生きているのをみなで喜び合うんですよ」  「みんなって」  「決まっているじゃないですか。家の店子たちですよ。子供がいない私たちには、実の子供同然じゃないですか」  「いろいろ、苦労を掛けてはくれるが、悪いやつらじゃないのは、確かだ」  「だから、私たちの無事と、あの人達の幸運を祈って、盛大に、花見の会をしましょうよ」  そんな事を富士子が言いだしたのは、初めてだった。これまでは、家賃は老後の生活資金と割り切って、入居者の生活には干渉しない方針で来たのだが、そうも行かなくなっていたし、いろいろと問題を抱えた住人たちの世話をするのが、生きがいになりつつあった。とにかく、彼らは、世渡りがうまくないのだ。世間の常識と思われることが、常識でなく、非常識がまかりとおってしまうようなところがある。それで、巻き起こる問題を、長く世間を見てきた磯田夫妻の見識で、うまく解決できることが、分かった。それほど、エネルギーを費やすこともなく、簡単に解決できる問題が、多い。ちょっとした長生きの知恵が大きく物をいうことが分かった。  「あの人たちは、私たちが長生きしていくための生きがいかもしれないわ。こんな歳でも、世間のお役にたっていると思うと、簡単には、死ねないわね」  「そうだな。彼らの為にも、長生きしてやろうという気になる。これでも頼りにされていると思うとね」  富士子は、考えていた。どんな、お花見の会にしようか、すでに、そのことで頭が一杯になっていた。老夫婦は、カレンダーを見ていたが、四月は半分は予定が埋まっていた。七十代の夫婦では、こんなに忙しい人はそういないだろう。  空いていた中旬の日曜日を候補に決めた。あとは、中身を考えて、誠がワープロを打って、お知らせを作る。  「コーポ磯田住民花見会のお知らせ」  誠は慣れた手付きで、ワープロの表題の最初の一行を打ち出した。  「この一年、いろいろと、事件もありましたが、生死の境を彷徨った長塚、寺崎の両君も、皆様のご助力の甲斐あって、順調に健康を回復し・・・・・・」  ワープロの打ち込みは快調だった。    玄関のチャイムが鳴った。猫のおばちゃんが立っていた。  「家の猫が一匹、昨日の晩から帰らないんです。長塚さんが、また、やったのかも」  今にも泣きそうだ。  「すぐに、行きますからね」  富士子の応対が聞こえた。  「あなた、ちょっと、行ってきますよ」  誠は、いま打っている文書に、また、もう数行付け加え加えなければならないかも、と考えて、キーボードから手を離した。  窓から眺める山の桜は、今にもはち切れそうな桃色の蕾を全身にまとわり付かせて、すぐにも弾けそうである。          (終わり)