「14歳の憂鬱」 (400字詰め換算 106枚)  「ぴっぴっっぴ。午後一時です」  枕元のデュズニー・キャラクターの目覚まし時計が、グーフィーの声で、二度同じ警告の声を発したのを、峰田由美は、寝ぼけ眼で聞いていた。三度目の警告音を発する前に、由美は右手を伸ばして、時計の頭にあるストップボタンを押した。それから、再び、心地良い眠りに落ちた。弛めのスプリングのベッドを覆った羽毛布団を跳ねのけて、起き上がったのは、それから、一時間も過ぎてからだった。  前日が春の運動会だったから、今日の月曜日はその代休だ。それが、分かっていたから、由美は午後まで寝ていたのである。二階の部屋の窓は既に開け放たれていて、爽やかな涼風が、窓を通って、反対側の通気窓に流れていた。春の生暖かい空気の流れが、すっと、寝ている由美の体を撫でていく。そういう、風の微妙な感覚が、由美を遅くまで、ベッドに止まらせた原因だ。  ベッドを跳ね起きた由美は、体には心地良い、疲れの抜けた感じがしていたが、頭はぐずぐずだった。大体が、夢見が良くなかった。大蛇に襲われて、逃げ回る夢を見ていたのだ。そういう夢はこれまでも、何回か見ていたが、今度のは、最後に大蛇が由美と思われる少女に懐いて、おとなしくなったのが、違っていた。恐ろしい大蛇は、最後にはペットのように、手なずけられて、赤い舌をペロペロ出して、少女の掌を舐めていた。子供のころには、この蛇は恐怖の的だった。いつも、その大きな赤い口に飲み込まれそうになって、大声を上げた瞬間、目が覚めた。その目覚めの時には、いつも泣いていた。隣に寝ている母が、驚いて目を覚まし、由美はその胸に飛び込んで泣くのが、慣例だった。  (それが、どうしたのか。今日は、起きなかったし、あの蛇はおとなしかった)  由美は、すこしながらの感動にしたりながら、階段を降りて洗面所に行った。起きてすぐに、洗面所に行き、壁に埋め込まれている鏡で、自分の顔を見るのが、由美の起き抜けのルーティーンだった。  鏡のなかに、見苦しい少女の顔があった。瞼が膨れ、目尻がつり上がり、頬は歪んで膨らんでいる。それより酷いのは、ぼさぼさの髪の毛だった。  (まるで、夜叉のようだ)  と由美は思った。夜叉がなんなのかは知らないが、とにかくこんな顔をしているのが夜叉に違いないと、想像していた。それは、女の姿を構わぬ乱心の形相だった。どうして、いつも、私は起き抜けに、いつもこんな顔をしているのだろう、と由美は漠然と考えた。今日は、気持ちがいいのに、こんな顔をしている。顔には気持ちが現れる、というのは、嘘なのか。心が清ければ、容姿も美しくなるというのは、誤りなのか。そんなことを考えながら、まず、肩までの長い髪の毛を両手で掻きあげた。それで、乱れていた髪の毛は、少し、整えられたが、それでも、死人のような顔つきは変わらない。  由美は顔を見ているのが嫌だったから、視線を下げて、首や胸や腰を舐めるように見ていった。長くすらりとしたうなじ、薄い胸、きゅっと締まった腰の形。それらは、昨日と変わらなかった。友達の加代子が、  「由美はモデルの体型ね」  と言った言葉が思い出された。長身で、すらりとした細身の体付きは、確かに、由美の密かな自慢だった。顔は十人並み以下かもしれないが、スタイルには密かな自惚れがあったのだ。顔は寝起きには酷く変わるが、体型は変わらない。だから、由美は自分自身というものは、顔ではなく、体にある、と考えたかった。多くの人は、人の特徴をその顔つきで記憶し、判断するのだろうが、由美はそういう評価はしてほしくなかった。あくまで、全身で人は評価されるべきだ、と思っていたのだ。そういう思いが、一段と強くなったのは、由美が十四の春を迎えてからだから、そう遠い時ではない。  由美は、都内の私立女子大の付属中学に通う二年生だった。この学校には小学校から入学した。付属小学校には、JR山の手線のM駅から都バスのスクールバスで通った。女生徒ばかりの六年間を過ごしたあと、郊外の付属中学に進学し、その二年目を迎えたばかりだった。  由美は自信のある体から目を上げて、再び顔を見た。酷い顔だった。顔色がすぐれない。蒼白と言ってよかった。血の気がないのだ。昨日の運動会では、同級生たちの溌剌とした青春の肉体が躍動していた。多くの同級生の少女たちが、笑顔を破裂させ、健康な体を思い切り動かしていた。由美もその中の一員だったのが、一夜空けて、自宅の鏡に映った顔には、色がなかった。それは、能面の白さと無表情とを合わせ持つ、無機質の自分の顔だった。大理石を削ったような、あるいは、石膏を流し込んだあとの、彫像の顔ともいえるような硬質の顔だった。  (これは、なんなのだろう。私なのかしら。それとも、どこかの誰かさん。だれなの)  由美は、密かに問いかけたが、勿論、答えなどない。やっと、働きだした脳細胞の片隅に、同じような顔をした少女の群像が浮かんできた。それは、通っている中学の教室の風景だった。由美は白いのっぺらぼうな同じ形をした顔の集団の前で、やはり、同じ能面の顔をして、演説をしていた。毎日一人ずつが演壇に進み出て、スピーチをするのが、カリキュラムになっていた。白い顔が三十九個。  (えっ、三十九個なの。じゃあ、一つは違うんだ)  由美はいま、気が付いた。クラスの人数は四十人だった。欠席は一人もいない日だったので、一人は、白いお面の顔ではないという計算になるのだった。  (そうか、一人は違ってたんだ)  そう気が付いて、由美は救われた気持ちになった。    由美が、話したのは、こういう内容だった。  ーー 今回のスピーチのテーマ「道」という言葉を考えてみると、私達が脚で歩く道、これからの人生で歩んでいく道、人がしてはいけないことを示す道ーーといろいろな意味があると思います。私達は毎日、学校に来るときに、家を出てから、家の前の道に出て、角を曲がり、さらに大きな道を通って、駅に行き、電車に乗って、また駅前から学校へという経路を歩いて来ます。その途中には、いろいろな興味深い光景が置かれています。私は今朝、家から駅に行く道沿いに、猫の死骸があるのを見ました。夜中に車に轢かれたのか、体は布切れみたいにボロボロでした。でも、頭は生きているときそのままに目を閉じて、空を睨んでいたのです。私は、その顔を見て、はっとしました。恐ろしくなって、駆けだして息絶え絶えに駅に駆け込みました。電車に乗っても、頭の中から猫の無念そうな表情が消えずに、残っていました。私は考えました。この猫には、親も兄弟もいるに違いない。飼い主はいないのだろうか。もし、私が、同じように道端で死んでしまったらどうなるのだろう。私は日頃なにも考えずに、歩いている町中の道で、こいう劇的な生死に係わる事態が、突然起きるのだということに気が付いて、日常とはこういう危ういバランスに乗っているのだ、と恐ろしくなりました。  私達がこれから歩んでいく未来には、もっと大きな障害や恐ろしい事態が待ち構えているかもしれないのです。こうして、楽しく平和に暮らしているのが、どこで崩れて、破綻に向かうかは、今では分からないのです。これからの道には、いろいろな情景があるでしょう。そういう多彩な情景を思慮深く乗り切るために、私達は、こうして、学校に通い知識を学んでいるのでしょう。無事に乗りきっていくためには、何物にも動じない、ある確固とした考えかた、思想や主義が必要だと思います。人生の困難な時期に、頼ることの出来る強固な柱があれば、どのような困難にも耐えていけると思います。その柱を見つけるために、私達は毎日、こうして、学校で学び、これからも、ずっと学びつづけていかなければいけないのだと思います。  最近、私達と同じ年代の少年が、小学生を殺して、首を捨てるという事件が起きました。この少年は、この前に猫や鳥を殺して、首を切り捨てて遊んでいたといいます。私が今朝見た猫の死体も、誰が殺したのか分かりません。多分、車に跳ねられたのではないかと想像しますが、そうではなく、あるいは家の近くの子供がやったのかもしれません。そういう想像は、あの事件の後では、当然湧いてきます。私たちの日常の周りにも、あの「異常」は忍び込んできている。あの事件だけが特殊なものではないのかもしれない。それは、私達の毎日の生活のなかに、時折現れては消える悪意に満ちた人間関係や憎悪、怨念と無関係ではないかもしれない。この教室の友達との付き合いの中で、私はたまに、そう考えることがあります。ご静聴ありがとうございましたーー。  ここまで一気に話して、由美は頭を下げた。  由美が話している間中、教室は森閑としていた。由美は話をしながら、教室全体を見回したが、四十人のクラスメートは、皆同じ顔をしていた。いや、正確には一人を除いてだ。白いのっぺりとした顔の上に黒髪が乗っていて、まるで能面のような顔が、並んでピクリともせずに、じっとこちらを見ていた。血の気のない、動かないマネキンのような顔が三十九個ならんで、見つめていた。そういう無表情な無機質な物体に、もし、深夜の暗闇で出会ったら、だれでも、腰を抜かすだろう。そして、そういう冷たい物質のなかに、もし、暖かく温もりを感じる生命体の気配を一つでも感じたら、だれでも、そちらに歩み寄るに違いない。  この日の由美にとって、その温もりのある生命体は、教室の一番後ろ側の窓際の席にいる赤尾たみという名前の同級生だった。たみは、由美が話しているあいだ中、多彩な表情を返してきた。猫の死骸の場所では、暗く沈んだ泣きそうな顔つきを見せ、未来の不安を述べたくだりでは、頭をこっくりと上下させて頷いていた。そして、最後に私達の周囲の問題を提起したとき、たみは、両手を前に合わせて、拍手をしていた。ほかの白い顔たちは、なんの反応も見せなかったから、由美には、たみのいる場所だけが、湯気を立てる鍋のポッカリと開いた時のように生き生きと、揺らめいて映ったのだった。静かに淀んだ昼に向かう静謐な教室の中で、そこだけが息をしていた。  正直言って、由美はその赤尾たみとは親しくなかった。勉強で目立つほうではなかったし、積極的にクラスをリードしていくタイプでもなかった。それに、彼女は、中学からこの学校に入学してきた「外部生」だったから、小学校から上がってきた由美たちとは付き合う友達が違っていた。付属校では、最初は「内部」進学の生徒が主導権を握っていても、学年が進むに連れて、お風呂の湯と水が混ざり合ってエントロピーが落ちつくように、自然と混じり合うものなのだが、由美とたみは、あまり話を交わしたことがなかった。だいたい、「内部」と「外部」が混じり合う過程では、厳しい進学競争を切り抜けてきた「外部生」の生徒の方が成績がいいから、徐々に、「内部生」が、身を引いて譲っていくという経過を辿る事が多い。だが、たみはそれほど、勉強も出来なかったから、注目する者も、友達も少なかったのだ。  しかし、由美はこのとき以来、たみのことが頭から離れなくなった。ほかの友達に比べて、あの時の生き生きとした表情と反応は何故なのだろうか。先生が、由美のスピーチの後で、  「感想はありますか」  と聞いたとき、何にも言わなかったのに、一番、良く聞いてくれたのは、たみに違いなかった。先生のお気に入りの優等生たちは、先生の問い掛けに、一斉に手を上げ、  「猫の所の話が、気持ち悪かった。こういう挿話は、相応しくないと思います」  とか、  「わたしたちの将来について、不安をかき立てる内容で、怖くなりました」  とか、  「とても、リアルな話で、由美さんらしいと思いました」  とか、  「何時もは、優しいのに、こんなことを考えられるなんて、偉いと思いました」  といかにも、先生が気に入りそうな返答をしていたのに、たみは何も言わずに、ただ、にこにこと笑いながら、皆の問答を聞いていただけだったのだ。    放課後、下校時に、由美は赤尾たみと一番親しそうは友達を見つけて、たみについての情報を集めた。たみと同じ小学校からこの学校に進学した人はいなかったから、同じ町から通っている吉野ユリという小柄な生徒に話を聞いたのだ。  「たみさんって、どういう人なの」  直截な質問にも、ユリは不審を抱かず、  「ああ、赤尾さんね。彼女は、いい人よ。とても素直で、優しくて。あまり、目立たないけれども、真面目な勉強家だわ」  「それは、分かるわ。真面目な人だということは。でも、余りに目立たないから、良く知りたいの」  「なぜ、由美さんは、たみさんに関心をもったの」 ユリは逆に質問してきた.それは当然だった。いきなり、あまり付き合いのない友達のことを質問されて、どこまで答えていいのか、迷うのは当たり前だろう。返事の仕方によっては、これまでの友人関係が変化するかもしてないのだ。それは、クラスの人間関係の再編につながる可能性もある。安定して、混乱なく平和に学校生活を送りたいと思っている大多数の生徒には、関係の変化は歓迎できることではない。だから、ユリは慎重だった。  「とても、生き生きとしているし、私にないものを持っているから、ためになればいいと思ったの」  由美は当たり障りのない理由を言った。  「そうね、彼女は苦労しているから。私達にはないものを持っているわ」  「苦労しているの」  「わたしも詳しくは知らないけど、通学途中に話はしたことがある。そのとき、彼女が話したのは、私はこの学校には相応しくない、ということだった。わたしは、なぜって聞いたのだけど、彼女の答えは、校風に合わない、って。それだけだった。だから、それ以上、聞かなかったの」  「校風か」  「どう思う」  「確かにね。この学校は、良妻賢母を育てるのが、教育方針なんだから、独立自立の今の時代とそぐわないのかもしれない」  「彼女が言ったのは、そういうことではないわ。単純に、彼女の性格にはこの学校が似合わない、っていうことだと思うわ」  ユリは自信を持ってそう言った。  由美はこの会話から多くの示唆を得た。赤尾よねは、この学校と自分の個性がそぐわないと感じている。だが、休みもせずに、精勤している。それに、勉強家で努力家で、なにかに苦労しているのだ。そのくせ、あのように生き生きとしている。いや、それは、由美の目にだけ映じた光景かもしれない。他の生徒は気が付いていないかもしれないが、由美には、スピーチを聞いていたときのその晴れやかな精気に満ちた表情だけが、鮮やかに脳裏に残っていた。    赤尾たみは、変わった生徒だった。まず、その家には謎が多かった。近くに住む同級生が、父母から聞いた噂では、たみは父親と二人暮らしだという。それも、もうかなり長い間で、たみが家事一切を取り仕切り、その父は、一日中家にいるらしい。たみは、朝、父と二人の朝食を作り、昼の食事の用意もして、家を出る。帰りがけには夜食の食材を買って帰るのだ、という。父親は一日中、家に居て、滅多に外に出てこない。仕事は手仕事だというが、マネキンをつくっているとか、人形師だとかの説があり、ハッキリしない。その仕事場らしい庭に面した洋間は、いつも、昼過ぎまでカーテンが下がっていて、人影がない。午後になると、男の人影が現れて、夕方まで灯が点いている。それは、夜中まで続くこともあれば、深夜には電灯が消されることもある。とにかく、父親という人は家にはいるのだが、ほとんどその姿を見た人はいない。だが、十年くらい前までは女の人と男の子がいたはずだ、と語る老人もいた。家には夫婦と子供二人の四人が住んでいたと、いうのだ。だが、この十年ほどは、たみは父親と一緒に二人だけで住んでいる。謎めいた家だった。ある時、この家に迷い込んだ猫や犬が帰ってこないという、噂が流れた。子供が迷い込んで、戻ってこないという話もあった。いずれも、噂の域を出ず、その証拠を確かめた人はいない。ただ、いたずら盛りの小学生が、探検に入り、ある光景を見たらしいが、出てきてからは、口を噤んで貝になり、一切話をしない、という風説もあった。小学生はなにかのショックで言葉を失ったのではないかと、大人たちは噂した。こういう秘密めいた屋敷に、赤尾たみは住んでいた。  だから、この少女が、表に姿を現すときは、近所の人達は、ほっと安心するのだった。なぜなら、このように暗い、神秘に閉ざされた屋敷から出てくるには、たみは余りに明るく、表情豊かな少女だったからだ。町で会う人には、誰彼となく、優しい笑顔で挨拶し、長い髪を靡かせて、歩道を駆け抜けていった。擦れ違い、行き交った人には一陣の春風が吹き抜けていったような気がした。程よく日焼けした薄褐色で、はち切れそうな弾力を感じさせる肌が、ゴムまりのように弾んで、駅に向かう坂道を下っていくのを見るのは、近所の人には楽しみだった。今日も一日元気に働こうという気にさせてくれるのだ。  古い西洋館の二階建ての館を取り囲んだ大谷石の塀の切れる正面の門に掲げられている表札には、「赤尾シモン」という名があり、その脇に名前だけで「たみ」と書かれていた。その文字は、意外や黒い墨痕が鮮やかな楷書だった。    これらのことを、由美は一ヵ月かかって、調べ上げた。時々は、たみの家の近くにも行き、近所の人にさりげなく聞いてみたりした。その結果、外形的な様子とおぼろげな暮らしぶりだけは、分かったのだ。だが、その二人暮らしの家庭でどのような父娘の生活が、実際に送られているかは、依然、謎だった。だが、たみが学校に出てきてからの行動はそれとなく、関心を持って観察していれば、段々と分かってきた。  たみが得意なのは、父親譲りの才能もあってか、美術だった。とにかく、並みの中学生ではできないような作品を絵画でも彫刻でも造形でも制作してきた。だが、それは、教育の場所での評価のスタンダードには、合致していなかったから、成績としてはそう良い点は付かなかったようだ。だが、その作品には才能がかいま見えた。特に淡色を多用した墨絵のような水彩画に、由美は感動した。生徒の作品は全部、平等に廊下の壁に掲げられていたが、たみの作品だけは、その作品群の中から突出しているように見えた。それは、眠っている猫を描いた絵だったが、由美はその絵を一瞥したとき、猫が起き上がって、こちらに飛びだしてくるのではないかと、錯覚した程だ。えの部分だけが、盛り上がって、生きていた。しかし、美術の教師は、そういう感動を覚えなかったらしい。もっと絵画的な、微細に描き込んだ美術部の生徒の作品を評価したのか、それが中央に張ってあった。たみの作品はその上に掲げられて、見るものを見下ろしていた。  それに家庭科が良くできた。それは、家での修練のお陰に違いない。毎日、三度の食事を作り、掃除、洗濯をこなしているのだから、当然と言えば言えた。たみはお菓子作りも上手かった。クッキーやプチケーキを焼いてきて、親しい友達に配っていたという話も聞いた。それは、町のケーキ屋で買う売り物のケーキと遜色のない出来だった。由美は、家庭科の授業で、その段取りのいい手順を見ていて、  (たみさんは今のままでもすぐに嫁に行けるわ)  と感動した。  だが、他の教科は、まるで出来なかった。それが、彼女の  「この学校は、私には向いていない」  という自嘲を招いたのかもしれない。  とにかく、学習教科の成績は、クラスでも最低レベルだということだった。体育も楽しく体を動かしてはいたが、そう器用なほうではなかった。小柄で脚も速くなかったし、腕力もないようだった。というより、体を動かすことに関心がないらしく、体育の授業には積極的ではなかったのだ。そういう意味では体育が得意で、他の学習科目も数学を除けば、そこそこに上位の成績だった由美とは対照的な生徒だった。家庭科が苦手の由美とはその点でも正反対だったが、一つだけ共通点は、美術だった。たみの作品も個性的だったが、由美のものもユニークさでは、引けを取らなかったからだ。だが、たみの作品を見て、由美は、そう認めざるを得ないほど、他に抜きんでていると感じた。それは、一つの才能の現れを示していたからだ。    (たみさんと友達になろう)  由美はそう強く感じるようになった。そういう気持ちがますます高じてきたある日の帰校時に、たみを誘った。  「あなた、凄く、絵が上手ね」  「そうかしら、そう言ってくれる人は少ないわ」  「私には分かる。他の人がわからなくてもね。才能があるのよ」  「そうかな、自分では分からないけど」  「こんど教えてくれない。わたし、あなたのようにはなれないかもしれないけど、上手くなりたいの」  「教えるって、そんなこと、無理よ。私にはテクニックはないもの」  「そうか、あれは、テクニックじゃ描けないものね。才能だから。でも、いいの、一緒に絵を描きましょうよ。それだけでいいわ」  「それなら、簡単ね。よかったら、家にいらっしゃらない。アトリエがあるから、そこで・・・」  「それは、いいわね。家にはそんなスペースはないし、おじゃましようかしら」  この年頃の少女は、すぐに友達になってしまうのだろうか。帰校時のそんな会話をきっかけに、二人の交際が、深まったのだった。    赤尾たみの家は、田園都市線の沿線にあった。由美は、この約束をした次の週の土曜日に、渋谷で待ち合わせをして、たみの家に行った。渋谷の待ち合わせ場所は、「とうきゅう109」のビルの前にした。その横のセンター街には、茶髪でミニの制服を着た女子高生が屯していた。皆、同じような白く長いルーズソックスを履いていた。由美はそういうものには、まったく、興味がなかった。ああいう女子高生が、近くの「マツモトキヨシ」に出入りして、化粧品を万引きしたり、テレクラに電話して中年男と援助交際しているということは話には、聞いていた。学校の先生も、そういうことはしないように、遠回しに注意することがあった。ということは、あの学校にもそういうことをしそうな生徒がいる可能性があるということなのかも、知れないが、由美はそういうことをする生徒を、自分とは遠い世界にいる異星人のように感じていたのだった。むしろ、そういう姿を見るだけで、「むかついた」。だから、センター街にそういう生徒が、大勢歩いているのを横目にしながら、まっすぐに、待ち合わせ場所の「109」の丸いビルの前に来たのだった。  休業日だから、由美はもちろん私服だったから、迎えに出てくれたたみが制服を着ていたのは、意外だった。だが、そのお陰でたみの姿を、見つけるのに手間はかからなかった。いつも、学校で見ている同級生の姿と同じ制服を着た少女は、そのとき、たみしかいなかった。もともと、彼女たちの学校の生徒は、この時間にこういう場所に、姿を見せることはないのだ。それだけ、すでに、ここに屯している女生徒達とは「住む世界」が違っているのだ。それは、由美が自覚しなくとも、空気として肌で感じていることだった。それは、世間が盛んにとりざたするようなことーーたとえば、援助交際とか、テレクラとか、ルーズソックスとかーーとは、全く無縁の世界に同世代の彼女らが、住んでいるということの証明でもあった。彼女たちの世界はある境界で閉じていて、大人たちと伝統と歴史が構築した外部の「邪悪なもの」に対するバリアーが完璧に機能していた。その暖かく、居心地のいい空間で、彼女たちは、なんの苦も、心配もなく、十代の最も多感な思春期を過ごすことができるようになっていた。あの能面を思わせる白い統一感に違和感を敏感に感じたりしなければ、なんの問題もなく、健やかに思春期を過ごし、大人へと成長していけたのだ。だが、由美はたみという異質の少女の存在を知ったことで、この現状へのなにかの突破口が見えるような気がした。そして、その本当の姿を知りたくて、こうして、待ち合わせをしたのだった。    赤尾たみの家に行くには、私鉄の電車に乗らねばならない。ステンレス製の銀色の電車は、空いていた。その先頭車両の座席に並んで座った由美とたみは、走り去る町の風景を眺めながら、ある生徒の話をした。  「ねえ、この前、退学した真知子さんね。あれ、なぜなのかしら」  たみが聞いてきた。それは、由美のクラスの生徒だった。  「噂では、生活態度だということよ。非行で捕まってしまったの」  「何をしたの」  たみは、興味深げに、聞いてきた。  「万引きね。これまでも、何度か補導されていたのに、直らなかった。それで、結局、学校側は退学を勧告したのよ」  「でも、なぜ、万引きなんかしたのかしら」  「彼女の家は裕福で、お金に困ったり、物が欲しくてしたんじゃないと思うわ。動機はあくまで個人的なことよ。衝動的にやったんじゃないかしら」  「でも、そうしたら、何度もしなんじゃない」  「そうね。常習ということは、癖になっていたということだわね。病気よ、病気」  「そんな、簡単なものかなあ。あなたは万引きしようと思ったことはないの」  たみの問い掛けは突然だった。由美は思い返してみた。だが、これまで一度も、店の物を盗もうと思ったことはない。それは、確信を持って言えた。  「ないわよ。一度も。誓えるわ」  「そう。それは、いいんだ。私なんか、いつも、お店に入ると、そういう衝動が湧いてくるわ。毎回よ。それを抑えるのにとても苦労するの。やれという悪魔とやってはいけないという神の間で、責め苛まれて、気を失いそうになったこともある。心が引き裂かれるのは、とても辛い経験よ。あなたは、幸せだわね」  そう言われて、由美は不安になった。そういう感情を抱くのは、なにか、自分だけほかの人と違う、という直観から生じる恐怖の毒素が、体の中から湧いて出るためだった。由美は同年代の友達とは違い、自分だけ取り残されているのだろうか、と心配になった。  「兄なんて、そういう狭間を避けきれなくて、死んでしまったんだから」  たみは、そう呟いて、突然、衝撃的な告白をした。由美は、ただ、  「死んだの」  とだけ、聞き返したのだが、たみは、さらに、  「そう、自殺したのよ」  と言って押し黙った。  由美は窓の外を見た。そこでは、先程と変わらぬ家並の続く風景が後ろへ飛び去っていっていた。いつもと変わらぬ私鉄沿線の風景だが、周囲の色が違うような気がした。西の空が暗くなり、雲が雨を連れて、こちらに向かっているようだった。  赤尾たみの家がある駅に着いたときは、土砂降りになっていた。初夏のこの季節にはよくあるにわか雨の襲来だった。由美とたみの二人は、笠を持っていなかったから、駅舎一階の庇の下で雨をやり過ごすことにした。駅の連絡橋を降りて、駅舎の張り出した屋根の下で、桶からぶちまけたように激しく降り注ぐ雨の様子を見ていた。  二人は無言で雨を見ていたが、そのとき、たみは死んだ兄が書き残した日記にあったある物語を思い出していた。    ーー 始発駅では小降りだった雨が、僕の住むその駅に降りたころには、大降りになっていた。駅舎の階段の下で大勢の人が雨宿りしていた。僕もその列に加わったが、軒先は狭く、駅の構内とを仕切る隅の柵の方に、押し出されてしまった。すると、その柵のそばに置かれた段ボ−ル箱の中で、黒いものが動いているのが見えた。ぬいぐるみを入れるくらいの大きさの箱が、その黒いものの動きにつれて、振動していた。  僕は手を伸ばして、段ボ−ル箱を引き寄せてみた。中にはすぶ濡れになった黒いネコが、身体を小刻みに震わせながら、怯えた表情で身を固くしていた。  雨が小降りになってきた。人々は家路を急ぎ始めた。僕はその黒いネコを胸に抱き抱えて、急ぎ足で帰宅した。  黒い子ネコをバスタオルに包んで、水気を取り、別の段ボ−ル箱の中に新聞とタオルを敷いて寝場所を作り、中に入れた。ドライヤ−で毛の奥に入り込んだ水気を飛ばし、ミルクを暖めて哺乳瓶に入れて飲ませた。それでも、子ネコは震えていた。僕はペット用の抗生物質と睡眠薬と入った風邪薬をミルクに混ぜて飲ませた。子ネコはしばらくすると、静かになり、横になって眠った。  僕は、一仕事を終えて、ソファーに座って、コ−ヒ−を飲みながら、このネコのことを考えた。  (捨てネコなのだろうか。飼いネコが迷い込んだのだろうか。なぜあんなに怯えていたのだろうか。なにかに追われていたのだろうか)  翌日、子ネコは少し、元気になって、鳴き声を上げるようになった。そして、段ボ−ル箱から出て、玄関の扉のほうに行き、しきりに外に出たがった。余りにうるさいので、僕は右の耳をペンチでちぎってやった。ネコは「ギャー」と悲鳴を上げて、転げ回って、やがて、静かになった。その様子を見て、僕は飼い主を捜すことにした。子ネコの写真を撮り、パソコンに取り込み、僕の家の電話番号を書き込んで、「迷いネコの飼い主を捜しています」というチラシを作り、印刷した。パソコン・ネットワ−クにもこの文書を登録した。チラシは町の電信柱など、何箇所かに張った。  連絡は当然、電話で入るだろうから、留守番電話には、「ネコをお捜しの方は、あなたのお名前と電話番号、ネコの特徴を言ってください」と吹き込んだ。実は、この子ネコには、大きな特徴があったのだ。それは、左の耳が大きく食いちぎられたように欠けていることだった。その部分は写真には写さなかったから、この特徴を言ってくる人が、元の飼い主に違いない、と考えたからだ。  留守番電話には、十二人の吹き込みがあった。その中で、小学校五年生だという女の子が、このネコの特徴を言い当てていた。  僕は、駅前の喫茶店で、待ち合わせをして、子ネコをこの女の子に返すことにした。その女の子は、こう言った。  「耳を食いちぎっておいて良かったわ。こんなこともあるかと思ったの」  「そうだね。そんなこと、あったんだよ」  僕は、そう言って頷いた。女の子は、右の耳が新たに食いちぎられていることに気が付いたはずなのに、なにも言わなかった。それで、彼女が左の耳を大きくちぎったのだと、僕は確信したーー。    変な物語だった。だが、たみはワープロで打たれ、ノートに張りつけられていたこの話を読んで、兄の心の闇を覗いたような気がした。最終行まで読みおわってから、たみは、ノートを閉じ、その場所に座り込んで、暫く動かなかった。体の奥から嘔吐感がこみ上げてきて、落ちつくまで暫く時間が必要だった。嘔吐感を乗り越えると、知らぬ間に涙が溢れてきた。そして、たみは、心の中で、  (あの兄は、こんなに優しかったのに、これほど残酷だった)  と呟いて、涙を拭き、下の台所に戻って、父と二人分の夕食の用意をしたりの家事をしたのだった。    たみには、今、自分が雨を凌いでいるその場所は、兄が立っていた場所に違いないとの実感があった。だから、一刻も早く雨が止んでほしかった。たみは兄と同じようになるのだけは嫌だった。たとえ、父が「あのよう」になってしまっても、たみは、明るく自分の人生を歩んでいきたかった。  雨は止んだ。たみは先に立って、街の中に歩きだしていき、由美が従った。徒歩五分ほどで、たみの家に着いた。実は由美はこの家に、幾度か脚を運んでいた。たみに興味をもってから、家庭調査に来たのだった。だが、由美は、たみが、  「ここだわ。どうぞ」  と言ったとき、その素振りは全く見せずに、  「大きなお家ね。洋館なの」  と頷いて、中に入って行ったのだった。  たみは、由美を一階のアトリエに招き、片隅のソファーを勧め、すぐに、紅茶を煎れてきた。もちろん、取り置きになっているらしい、たみの手作りのクッキーも一緒だった。  「いつも、わたし、感心してしまうのだけど、お料理が上手ね」  「そういわれると、恥ずかしい。みな、自己流だから」  とたみは、はにかみながらも、まんざらでもない様子だった。  お茶が終わって、いよいよ、絵に取りかかるとき、たみは、  「何を描きましょうか」  と聞いてきた。由美には心に期していたものがなかったから、  「たみさんの描きたいものでいいわ」  と決断をたみに預けた。たみは、その答えを待っていたようだった。  「そう、それなら、私は、これにしたい」  たみは、部屋の壁の収納戸棚を開けて、一体の人形を取り出してきた。それは、精巧に出来た男の子の人形だった。特に顔に特徴があった。栗色の髪の毛に、肌色をした顔は、おが屑にとの粉を塗ってでできているのだろうか、文楽の人形のようになめらかな素肌にくっきりと目鼻が描かれ、その両目と唇が動くようになっていた。長い首の下には、デニムの繋ぎを着た男の子の体が繋がっていた。ちゃんと脚もあり、やはり、との粉を塗った白い脚に、厚手の靴下を履いていた。美少年だった。  たみは、その男の子の人形を、部屋の片隅にあったロッキング・チエアーの上に座らせ、ポーズを取らせた。やや、体を右に傾けて座らせ、背筋を伸ばさせた。右脚を上に両脚を組ませて、右手を頬に当てた。左手は自由に下に垂らして、乱れていた髪の毛を整え終わると、最後に、クローゼットから取り出した灰色の帽子を載せ、はたきで、全身の埃を飛ばした 。  「さあ、これでいいわね」  たみは、人形のポーズを整えおわると、自分のキャンバスをイーゼルに載せ、チョークを持って、デッサンを始めた。由美もたみの動作に合わせて、自分の絵具の用意をした。  南向きに面した出窓から、燦々と初夏の光が差し込んでいて、その光を背に、二人は並んで座り、反対側に、一身に明るい光線を受けて静かに座っている人形の姿を模写していった。二人とも何も話さず、午後の静寂だけが、アトリエを支配していた。僅かに開かれた出窓の隙間から、時折、ゆるやかな風が吹き込んで、停滞しそうな部屋の空気をかき混ぜ、窓の反対側の壁に開いていたドアーのほうに向かって、澱みなく一定の空気の流れを作っていた。それが、この部屋の空気を揺るがす動きの全てだった。それほどに、二人は集中して、対象を見つめ、その姿をキャンバスに定着しようと、努力していたのだ。  由美は時折、たみの制作姿を盗み見た。描き始めの時にこそ、彼女の天才のきらめきが見られる筈だと、考えたからだ。その秘密を見たいがために、由美はこの家に来たのだから。由美はたみがどういう風に描き始めるのか、知りたかった。  だが、たみのキャンバスには、何も描かれていなかった。たみは、ただ、見つめていた。そして、右手を空に浮かせ、白いキャンバスに向かって動かして、空想の絵を描いていた。手はキャンバスの上を彷徨って、激しく動いていたが、そこに残された画像はなかったのだ。  「あら、たみさん、描かないの」  由美が、思わず、驚きの声を発すると、たみは、眠りから目覚めたような表情で、  「もう出来たわ。デッサンは終わりよ」  と言ったのだ。  「でも、何も描いてないじゃないの」  由美は、さらに問いかけた。  「そう、でも、私はできた。あなたに見えないだけだわ」  とハッキリと、答えたのだ。  由美は、狐に摘まれた気持ちで、自分のキャンバスに戻り、デッサンの最後の仕上げに掛かった。そのころ、たみは、立ち上がって、台所に行き、煎れたてのコーヒーをトレーに載せて、持って来た。  「一段落したから、お茶の時間にしましょうよ。私が作ったケーキをどうぞ」  たみは、テーブルの上に湯気が立つコーヒーカップとブルーベリージャムが乗った三角のケーキを三人分置いて、由美に声を掛けた。  「はい、それでは」  由美は描きかけの絵を残して、お茶のテーブルに向かった。そのとき、たみのキャンバスをちらりと、覗いた。そこには、すっかり、輪郭を整えた、人形のダイナミックな画像が、黒い線で描かれてあった。  「あれ、たみさん。本当にデッサンが終わったんだ」  腰掛けようとした由美の声を受けて、  「そう、だから、お茶にしたのよ」  とたみは、平然と受け流した。  そのとき、由美は、  (やはり、この人は天才だ)  と思っていた自分の気持ちに確信を得た。だが、そのことばかりを考えていたため、だが、たみがなぜ、お茶のセットを三人分出したのかには、考えは及ばなかった。  その日は、デッサンだけで終わり、翌週の土曜日に二回目の描く会をすることになった。ほんとうは翌日の日曜日に続けて描きたかったのだが、たみに用事があったため、次週に回したのだった。たみはすっかり疲れ切った様子だったから、由美は一人で、辞去した。たみは玄関まで見送ったが、由美が門を出るときには、すぐに玄関の扉を閉じ、アトリエの明かりも消したようだった。そういう点からすると、たみには翌日の用事があるわけではないのかもしれない。ただ、疲れたので、そう言って翌日の約束をしなかったのだと、言えないこともない。門の所で、由美がアトリエを振り返ると、出窓の奥に人影が二つ見えた。それは、たみの背格好と似ていたが、もう一つは、たみに抱かれた人形のようだった。たみは、人形の影の顔に向かって、話していた。  とにかく、不思議な日だった。たみがいつ、デッサンをしたのか、分からないままに、由美は帰宅した。確かに、由美が最初にたみのキャンバスを見たときは、たみは陶然とした表情で、手で空をかいていた。それが、終わり頃には、すっかり、デッサンが完璧に仕上げられていたのだ。由美は自分の絵に没入し過ぎて、たみの仕事に気が付かなかったのか、とも考えたが、そんなことはありようがなかった。なにしろ、たみは、由美のすぐ右側を離れず、その動作は一挙手一投足まで、手に取るように分かったのだ。では、なにか、超自然的な力が加わって、たみに描かせたのだろうか。透明人間が描いたのだろうか。そうだとすると、筆だけが空中を動いていたはずだが、そんな様子もなかった。とにかく、突然、たみのデッサンは出来上がっていたのだ。  (今日は、彩色をするのだが、果して、たみは描くだろうか)  そう考えながら、由美は翌週の土曜日に、たみの家に向かった。  前回のアトリエで、同じポジションに絵具を配置したあと、たみが人形を持ってきて、椅子の上に置いた。キャンバスに描かれたデッサンを元に、人形のポジションを作り、地の絵具の彩色に掛かった。由美は写生は嫌いではないが、いざ、色を塗る段になると、見た通りに色を塗ったことは、あまりない。由美は何ごとも現実の色が、どういうものかは、それぞれの描き手の印象によると考えていた。対象の見せる特質は、対象そのものの特有の性質なのかどうかは、誰にも分からない。だれもが、見ているという行為によって、対象を捕らえているのだから、その受けた印象によって、対象は受け止められるだけなのだ。だれも、そのものがそこにあるのかどうかさえ、感覚によってしか知ることはできない。その意味で、この世のあらゆる存在物は、個人一人一人の感覚によって捕らえられることによって、知覚され、初めて存在するのだ。  だから、色も、人それぞれの感覚によって捕らえられたものを、画布に定着させればいいのだ。そこに画家の特性があり、個性がある。絵画では形や色彩が違って当然なのだ。だれもが、同じ物を描いたら、それは、写真と同じである。写真にさえ写す人によって、表現に差が出る。それは、人間が対象を捕らえなおすという行為を媒介として、対象が定着されるからだ。  だから、由美は見えた色彩とも全く違う、「心の色」を使おうと考えていた。  この絵の背景には、何色がいいかをまず、考えた。アトリエの背景をそのまま描けば、それは、描きかけのキャンバスが乱雑に並んだものとなるはずだ。由美はそれでは、芸がなさすぎると思った。人形なのだから、暗い茶系統の色がいいだろうか。室内で落ちついている暖かい雰囲気をかもしだすのなら、それもいい。だが、由美は、そろそろやって来る熱い季節の感覚を取り込んでみたかった。だから、明るい空色を背景に使うことにした。後ろには入道雲を描いて、戸外の、しかも、海岸の雰囲気が出せたらいいと思った。だから、人形を描いた中央部を除き、上半分に夏の空を描き始めた。レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」でさえ、微笑みの肖像の背景は川が流れる長閑な田園風景なのだから、そういう手法は昔からあるのだ、と考えていた。  由美は、背景を半分くらい仕上げてから、たみの絵を見た。たみの背景は、暗かった。目を凝らして見ると、茶褐色の背景は、どこか、地下室のようだった。閉じた部屋の淀んだ空気が、匂って来るような感じだった。縦と横の線が入っている細かい格子の上に、白く丸い物が無数に描いてある。覗いてみると、丸い白い物の上部の表面には黒い点が二つ丁寧に描かれていた。それは、頭骸骨だった。黒い点は眼の窪みだった。棚の上にぽつりぽつりと、骸骨が五つ、背景を彩っていた。レンブラントの肖像画にあるような暗い室内に、壊れそうな椅子があって、その上に片足のない、人形が座っている。そういう絵を、たみは描こうとしているらしい。たぶん、油絵具を丁寧に使うのだろう。そうしなければ、この絵は中途半端になる。  (たみは油絵の力作を描こうとしている)  由美はそう考えて、気持ちを締めなおした。それにしても、由美の発想とは、天と地の違いがある。これでは、大人と子供の背比べになってしまいそうだった。圧倒的に、たみは、技の優位を見せつけるに違いない。だが、それで、いいのだ。由美は学ぼうとしているのだから。そう考えると、気持ちが軽くなった。謙虚な気持ちで、対することが出来そうだった。  だが、由美のその期待はこの日も裏切られた。たみは、また、ただ、絵筆で空中を彷徨い歩き、一度も絵の具を筆に付けて、キャンバスに塗るという作業はしないように見えた。それなのに、背景が描かれていった。由美は耐えきれなくなって、とうとう、たみの近くに言って、問いただした。  「ねえ、たみさん、あなたは、描いていないのに、どうして、絵がでてくるの」  たみは、驚いて、由美を見上げながら、  「描いているわよ。ほら、こうして」  そう言いながら、右手を空中に這わせたのだ。  「でも、絵の具は付いていないし、絵筆がキャンバスに触れてもいないわ」  「そんなことはないわ。ほら、徐々に色が付いていくでしょう」  確かに、色がキャンバスの中からわき上がるように滲み出てきて、定着していた。由美は目を見張った。たみが絵筆を持っていった場所の下の布地から色がわき上がり、盛り上がって、留まるのだ。それは、色素のカプセルが入っている発色紙か布を熱して発色させたときのプロセスに似ていた。見る間に色の部分が、わき上がり、盛り上がってくるのだ。  「ねえ、たみさん、どうしてこんな事ができるの」  由美はそ現場を見ながら、聞いた。  「ああ。それね。それは、念力よ。こういう色がほしいなと強く思うの。そうすると宇宙の何処かで感応して、そうやって色が滲み出て来るの」  「デッサンもそうなの」  「そうね。その時は、強く物体の形を意識するの。見ているそのもののイメージを、生き生きと想起するの。そうすると、自然に、形が描かれるのよ」  「それは、私にもできるかしら」  「できるわよ。深く印象して、イメージを意識するの。でも、この人形では無理かもしれない。あなたが、深く係わって来たものなら可能性があるけれど」  「この人形は、貴方の何なの」  「そう、この人形だから、私は自動描写が出来るんだわ。だって、この人形は亡くなった兄ですもの」  由美はそれを聞いて、驚きを隠せなかったが、納得もいった。たみが愛していたお兄さんなら、イメージを凝縮させる作業などしなくても、自然に面影が浮かぶだろう。一番素早く、自動描写をするために、たみはこの人形を対象に選んだのかもしれない。だが、由美には無理だった。たみの兄のことはなにも知らなかったから、強くイメージを思い浮かべることなど無理なことだった。  「私にはそれは、出来ないわね。見たままをこの腕で描いていくしかないわね」  由美が自嘲気味に言うと、たみは、  「そんなことはないわ。兄のことをもっと知ればできないことはないわよ」  と答えたのだった。  「どうすればいいの」  たみに問いなおしたとき、たみは薄笑いを上げながら、立ち上がり、部屋のカーテンを全て締めきって、部屋を出ていった。分厚いカーテンが外光を閉じ込め、部屋を暗くした。出窓の下の小窓から入るそよ風だけが、部屋の空気を揺らしていた。もう夕方を過ぎた時のような暗闇の中で、由美は、逡巡していた。たみの後に従って部屋を出れば良かったのだが、タイミングを失して、この暗い部屋に取り残されてしまった。ドアの近くの壁を探って、電灯のスイッチを探したが、その壁にはないようだった。光を入れないで静かにしているのは、やはり、怖い。太古の昔、原始人が外敵が襲ってくるかもしれない夜を嫌い、恐れたように、現代人の中学生も、暗闇は恐ろしい。  だが、由美は殊勝にも、十五分間くらいは、見えない時間を耐えていた。そろそろ、限界が近い付いて、たみを呼ぶ叫び声を上げそうになったときに、だれかに背中を叩かれた。  「はっ」  となって、叩いたものの方を振り返り、  「だれなの」  と声を上げたが、答えはなかった。  由美は怖くなって、そのものがいそうな方向を狙って、全身で、飛び掛かった。すると、ものが飛びのく気配がして、由美の右手が何かに触れた。由美はその触れた物体に必死でしがみつき、離さないでいた。だが、それを付けていた物体は、その物を残したまま、逃げたようだった。  二十分後、突然明かりが点いた。ドアーを開けてたみが戻ってきて、由美が床に倒れているのを見付け、抱き起こした。  「どうしたの。いま、停電があったでしょう。いつも、兄が現れるときはそうなるの。でも、それは、再会の合図だから、私には嬉しいの」  「停電だったの」  「暗かったでしょう」  「では、何故あなたは、カーテンを閉めたの」  「ああ、感じたからよ」  「何を」  「だから、兄を」  由美は助け起こされて、自分の椅子に戻って、自然に向かい側の人形を見た。以前と変わらずに、崩れた姿で、脚を投げ出していたが、頭に被っていた帽子がなかった。帽子は、由美の右手の中にあった。  驚いて、右手を投げ出して、帽子を捨てた由美に、人形が笑いかけた。  「僕の帽子を粗末にされては、困ります」  由美は卒倒しそうになった。  気を取り直して、人形の顔を良く見直してみたが、それは、堅い人形の顔そのものだった。のっぺらぼうとした無表情が、顔中を覆っていたのだ。  「なにか、言ったのかしら」  由美はたみに聞いた。  「聞こえたのね、兄の声が。それなら、あなたも、絵筆を使わないで絵が描けるかもしれない」  たみは突き放すように言った。  とても信じられない事態だった。再び、椅子に座りなおして、人形を見ていると、あの声が、続いて聞こえてきたのだ。  「ねえ、君は、たみの友達なの」  人形は口を動かさずに、そう言った、ようだった。  「そうですわ。貴方はお兄さんですね」  由美は対話を試みた。  「そう。でも、死んだんだ。もうとっくにね。十年も前だよ。そのころ、僕はあなたと同じ年だった。そうか、そうすると、妹は僕が死んだ年齢になったんだ。あのときは、四歳だったのに」  「あなたは十四歳で亡くなったの」  「そう、たった十四歳だよ。これから、人生で色々なことがあるという歳だというのに、僕は十四歳で死んだんだ」  そのときの声は沈んでいた。いかにも無念そうな押し殺した少年のかすれた声だった。  「もう頭が混乱して、狂いそうよ。その死んだあなたの声が聞こえるなんて、どうしたんでしょう」  由美は悲痛に小声でいった。  「それは、君が僕たちの世界の方に近寄って来ているからだ。あなたは、僕等の世界に興味があって、こちらに来ようとしている。日々の学校の生活で付き合っているみんなより、僕等の世界のように、関心が強いんだよ」  「そんなことはないわ。私は、普通の生徒だし、間違いのない平穏な中学生の生活を送っているのよ」  「でも、それだけでは、満足せずに、疑問を感じている。だから、僕のことが、知りたいんだよ」  思いも掛けない言い方だった。由美はそんなオカルト的な説明に関心は、全くない。ただ、絵が上手くなりたくて、たみの家に来ただけなのだ。  「僕がなぜ死んだのか、知りたくないかい」  人形はそう聞いてきた。  (知りたくないって。そんな言い方は、この年頃の少女には、もっとも、不似合いな言葉じゃない。なんでも知りたがるのが、私達の年頃じゃないの)  由美はそう心で呟いたが、言葉にはしなかった。  だが、人形は、この心を見透かしたように、  「話してあげるよ。君は知りたがっているんだから。僕は話してあげたいんだ。だから、話すことにするよ」  由美は知らずに頷いていた。たみは、そういうやり取りを知っているのか知らないのか、ひたすら画布に向かって、腕を組み考えごとをしているようだった。  「僕は、謀殺されたんだ。僕を殺したのは、この社会だ。大人たちが、僕をなぶり物にして、殺したんだ。僕のことをだれも分かってくれなかった。分かってくれているのは、母だけだった。死んだ後になって、やっと、父が僕の方に向いて来てくれたけど、なにも分かっていない妹は、いまでも、あんなものだ。なにも知らずに悩みもなく、生きている」  人形は話しはじめた。  「謀殺ってどういうこと」  由美はその言葉を聞いたことがなかった。  「図られて殺されてってことさ。大人たちが仕組んで僕を殺した。だから、いまでも、恨んでいる。こうしてたまに現実世界に出てきて、恨みを聞いてもらいたいといつも思っているんだ」  「なんに恨みがあるの」  「君は本当に素直な女の子なんだね。君の年頃で、何の悩みもないなんて。ほら、ちょっとしたことで、ムカついたり、イラついたりしたことはないのかい。たとえば、嫌なあだ名を付けられたりとか、友達に無視されたり、一生懸命やったのに、結果だけ見て、酷くけなされたりして、ふざけんなよ、殺してやると思ったりしたことはないのかい」  人形は問いかけてきたが、由美には心当たりがなかった。ただ、学校では、同じ制服を着て、同じ行動をしている同級生の仮面のような表情に、イラついていることはある。でも、親や先生ににそういう厭味を言われたこともないし、酷く怒られたという経験もない。だから、人に殺意を抱いたことは、なかった。  「私には考えられない。人を殺すなんてこと、考えたこともないわ」  「それは、幸せ者だ。僕は、親を殺そうと思ったんだ。ろくな収入もない父親を軽蔑していたし、その甲斐性のない父親のために身を粉にして働いていた母親も嫌だった。最低だと思ったのは、僕が高校進学で悩んでいるときに、僕をモデルにして、父親が等身大の人形を作ろうとしたことだ。僕はモデルになるように、父親に言われて、このアトリエでポーズを取っていた。今のようにね。だが、じっとしているうちに、無性に腹が立ってきて、何で僕の生涯でも一番大事な時間を、売れない人形を作る父親のために無駄にしなければ行けないのだ、と怒りがこみ上げてきた。それで、僕は父親が部屋を出た時に、カーテンを締め切って真っ暗にし、戻ってきた父親を、人形の形を作るためのナイフで刺したんだ」  「父親は、でも、用心深かった。僕が襲うのを予想していたかのように巧みに僕の攻撃を避けて、僕の握ってナイフを取り上げ、逆襲してきた。もみ合っているうちに、ナイフが僕の胸に刺さり、倒れ、間もなく心臓が停止した。父親は動じなかった。僕の心臓が止まるのを確認して、母に報せ、それから、救急車を呼んだんだ。もし、刺されてすぐに通報していたら、助かったのかもしれない。だが、父親はそれをしなかった。なぜだと思う」  「あなたを憎んでいたからかな。でも、実の父が子供を殺すほど憎めるのかしら」  「そうだ。そのことだよ。僕が死んだのは、間違いないのに、父親はまだ、死んでいないと言っているんだよ。いや、そう思い込んでいるんだ。ましてや、自分が殺したなんて、考えてもいない」  そういえば、たみは父親と二人暮らしだと、聞いていたが、由美はその父親に、まだお目に掛かっていなかった。  「お父さんはどうしたの」  「僕を殺したのに、父親は警察に、事故だと主張した。僕が躓いて、床に立てて置いてあったナイフに胸を叩きつけて、刺さってしまった、と言ったんだ。警察は、民家での事件の上、保護者の父親が言ったのだから、信じたんだ。ただ一人、母だけは父を疑っていた。そして、僕の死後、何度か言い争ったりして、夫婦仲が悪くなり、間もなく母も命を落として、僕のいる方にやって来た。その時は、父は自殺だと主張して、認められた。本当は、父が追い詰めたのに。どうだい、これが、謀殺でなくて、なんだと言うんだい」  「あなたは、全てお父さんの責任だと言うのね。でも、なぜ、お父さんがそんなことしたの」  「僕が、優等生じゃなかったからだろう。僕は疑われていたんだ。なぜかというと、猫を殺したからさ。僕は命に興味があった。生命が生きているということは、どういうことなのだろうと、考えていたんだ。それで、猫を解剖した。家ではペットは飼っていなかったから、野良猫を探した。餌を蒔いて呼び寄せた猫を捕まえて、僕の部屋の屋根裏部屋で解剖したんだ。腹を割くと、綺麗な内蔵が見えた。血液の流れも見えた。みな想像していた以上の素晴らしい色彩だった。僕はその解体した部品の一つ一つを克明に写生し、写真も撮った。頭から脚の先まで、すっかり完全に解体して、綺麗な解剖記録を作った。そして、死骸は道に捨てた」  「満足したの」  「そのときはね。でも、猫では、もっと高等な生物の体の中身は分からないと気がついた。特に脳の組織がよく分からなかった。それに猫を解剖したあと、夜中に、声を聞いたんだ。ヌストリアヌフという全知全能の神が僕の主護神だった。その神が僕等に数々の試練を与え、試していたのだ。それが、大人になるという過程だと、僕は教えられてきた。その神が言ったんだ。もっと真実を、もっと本当のものを、と。本当のものというのはなになのか、僕には疑いもなかった。神にはそれは、生きている人なんだ。人が崇拝している神なのだから、本当のも物とは真実の人間に違いないと、考えた。神は人を求めている。僕はそう信じて、人間を狙うことにした。それは、大人ではまずい。僕が容易に取り扱える大きさでないといけない。そうすると、ターゲットは、小学生になる。僕は小学校の近くの公公園で、獲物を狙うことにした。そして、首尾よく、ある女の子を捕獲して、家に連れてきた。そして、着ているものを全部、脱がせ、まず、写生図を描いた。そして、聴診器で体の内部を調べた。でも、解剖はしなかった。その女の子が余りに愛くるしかったから、殺すのは勿体ないと思ったんだ。ところが、僕の写生図を、父親が見つけて、僕にその子のことをしつこく聞いたんだ。僕は正直に答えた。すると、数日後、その子が家に来ていて、父親が僕と同じように、裸にして観察しているのが分かった。人形のモデルにとでも誘ったみたいだった。その時の父親の表情は、真剣だったけど、卑猥だった。汚れた男の目をしていたんだ。ほら、大人の男が嫌らしい雑誌を見るときにする目だ。僕は僕が見つけた神聖な汚れのない獲物が、弄ばれ、汚されていると感じた。いったん汚されてしまったものは、血で汚れを拭わなければならない。僕は、その日帰っていく女の子の後を付けて、暗い公園の植え込みに誘い、殺した。そういえば、あの子は、君によく似ていて何事も疑うことのない子だったよ」  外は既に暗くなってきていた。たみは、また用事で部屋を出ていたから、暗い部屋の中には、由美とこの語り続ける男の子の人形しかいない。そう考えついて、由美はぞっとした。たみはなにをしているのだろうか。また、お茶でも煎れに行ったのだろうか。そういえば、この前、お茶のとき、たみは三人分を用意していた。あれは、なぜなのだろうか。たみと私と、あと誰に。そうか、部屋にはあとは、この人形がいるだけなのだ。この人形はお茶を飲むのだろうか。見ているかぎり、動作はしない。じっと、椅子に座っている。ただ、声が聞こえて来ていた。だが、動かないというのが、由美の確信だったから、逃げもしないで、好奇心に押し止められて、こうして部屋で対面したままでいることができた。でも、もし、動くとことができたとしたら、話はまるで違う。まず、身の危険を感じて、逃げ出さなければならない。そうしなかったのは、話は聞こえてきても、口は動かず、まるで、テレパシーのように内容だけを聞くことができていたからだ。だが、この人形がお茶を飲むことが出来たら、動くことができるということだ。事態は全く違ってくる。  由美はそう考えて、人形を見詰めながら聞いた。  「あなたはその子を殺したの」  「そうだよ」  凝視している人形の唇が微かに動いたような気がした。  「でも、犯人は僕ではなかった」  確かに唇が動いた。口が両側に引きつって上がり、白い歯が見えた。被害者意識の強い少年時代特有のニヒルな表情だった。由美はすぐにでも逃げだせるように体勢を整えた。爪先立ちになって、その号砲を待っていた。  「そのころ、この家の付近には、女の子を狙うストーカーが出没していた。その容疑者が捕らえられて警察で追及され、自白したんだ。また、大人が嘘をついた、と僕は怒った。れっきとした僕がやったのに、世間は他の男を犯人に仕立て上げたんだ。どこか大人の社会は狂っている。学校では真実を追究するのが、学問だ、と先生は教える。そして試験では、その事実を知っているかどうか試すのに、現実社会では、こんなに重要なことが、いい加減にされている。人の命に係わる問題なのに、真実はいつも閉ざされてしまう。僕の怒りは、本物になった」  そういって、人形は、目を開けた。そして、頭を持ち上げ、由美の方を睨み付けたのだ。由美は脚が竦んで、立ち上がれなくなった。へなへなと腰から床に崩れ落ちて、気を失った。    「久し振りですね。こんなに生きのいい女の子は」  「五年ぶりだよ。これで、あと十年は生き延びられる」  男の声が二つ聞こえた。朦朧とした意識が、雲の中から明るい太陽が少しずつ差してくるように、晴れてきて、僅かに音が聞こえるようになっていた。由美は目を開けてみた。初めに見えたのは、薄暗い天井に張りついているゴキブリの姿だった。天井から目をそらし、部屋中を見回して見た。そこは、八畳くらいの広さの暗い閉ざされた空間だった。最初に天井が見えたのは、由美が仰向けに寝かされていたためだった。背中にひんやりとした感触がある。固い金属でできた平らな板のような物に寝かされているらしい。近くに焦点を絞ってみると、頭上に手術室にある照明灯が二灯下がっていた。そうやって、目を見回していると、突然、その照明灯が点いた。由美は驚いて目を閉じた。先程から、遠くで聞こえていた二人の男の声が、近くで聞こえてきた。少年と大人の声だ。  「そろそろ、目を覚ます頃ではないですか」  「そうだな。目を覚ましたら、すぐにでも手術に掛かろうか」  「麻酔はどうします」  「いらんだろう。痛みはあるが、我々の痛みではない。暴れるようだったら、きつく縛りつければいいさ」  由美は薄目を開けて、声のする方を見た。照明灯の向こう側に見えたのは、あの人形の少年と髭もじゃの大人の男の姿だった。男の姿と分かって、由美は突然、自分の体の状況に意識が移った。そういえば、いつも着ている衣服の重量感と感触がないのだ。感じでは由美はパンティ一枚だけを付けた、あられもない姿で、両手両足をこの冷たい金属の板に縛りつけられていたのだ。由美はそのことに気付いて、やっと大きくなり始めた胸の脹らみを両手で覆おうとしたが、手を縛られていて、できなかった。由美はそれで、自分がまさに、料理の前の俎の鯉の状態にされているのを認識した。  「そろそろ、やりましょうか」  「そうだね。だが、一応、あの標本には、説明をしてやったほうがいいのではないかな。まだ、人間として生きているのだから。これにも、人権はある。われわれは、あくまで合意の上で手術をするのが原則だ。インフォームド・コンセントが、われわれの手術の基本原則だよ」  人形の男の子が、由美の体の上にかかみこんで、様子を見た。そして腹の辺りを手で探ったあと、思い切り、頬を叩いた。  体を探られるだけでも、おぞましくて、由美は耐えきれそうもなかったが、どうにか堪えたあとに、張り手を食らったので、大きな悲鳴を上げた。由美の短い人生でも、これほどのいたぶりと屈辱を味わったことはなかった。  「ヒー、なにすんのさ」  大声を上げたので、二人は由美が目覚めていることを確認した。  「お嬢さん、これから、一寸した手術をしますが、よろしいですか。簡単なものです。ただ、あなたたちの世界の用語で、死ぬことは間違いありません。でも、大したことはありません。死んでもわれわれの世界で生きていくことはできるのですから。いいですね」  由美に同意できる訳はなかった。  「なぜ、なぜ、あなたたちは、そんなことをするの。なにが、目的なの」  「目的。それは、私達が生き伸びるためですよ。あなたを一人、私達の仲間に加えられれば、我々の仲間の十人が生気を取り戻すことができるのです。あなたの命が、十人の仲間の生気を救うのです」  大人の方が答えた。  「そうだ。でも、われわれは、自己紹介をしていない。失礼した。これから、仲間に入れる儀式を執り行うというのに、忘れていた」  由美は男の表情を見た。髭面の下の顔は、蒼白だった。血の気がない。のっぺりとした肌は、人工物の特徴だった。まぎれもなく、彼は人の作った人の型をした物体だった。  「私は、この太郎の父の一郎です」  男は名乗って、礼をした。由美はこの時初めて、あの男の子の人形で、たみの兄という人の名前が太郎で、その父の名前が一郎だと知った。  「太郎がなぜ、死んだのかは、もう御存知でしょう。彼は、まだ、人の世に未練を残している。なにしろ、何事も解決されぬままに、死んでしまったのですから。しかも彼は依然として、自分は父親に殺されたのだと、信じている。事実はちがいますがね。私はそう思い込んで死んでしまった太郎が不憫でならない。父としての責任と役割を果たせなかった私は、人形師としての腕を全力で注ぎ込んで、この人形を作ったのです。だが、それでも、満足出来なかった。いまでも、満足していない。だから、毎年、ずっと作り続け、改良している。ほら、こんなに作ったのですよ」  父親は、壁際に歩みよって、室内照明のスイッチを押した。壁にしつらえられた棚の上に、同じ顔と形をした男の子の人形が所狭しと並んでいた。その一体ずつは少しずつ違い、年頃もいろいろのようだった。足や手が欠けていたり、顔の一部が焼けただれた班紋のようになっている物もあった。だが、そのいずれもが同じ顔をしていた。それは、あのアトリエの少年の人形の顔つきだった。  「私は、これらの人形を作っているうちに、いつの間にか、こちらの世界に来てしまいました。でも、肉体は人間世界にあるのです。私の肉体の心臓は動いていますから。これでも、私は物理的には血の通った人間なのです。でも、精神的には違います。私は、ここにある人形たちと暮らしているのです。人間世界との避けられない用事は、たみがこなしてくれているのです」  一郎は寂しそうな声色で、呟いた。  「それで、私をどうしようと言うのです」  由美は鉄板に繋がれたままで、必死で、問いただした。  一郎は、ゆったりとした動作で、太郎に前に出るように言った。太郎は、不貞腐れた態度で、いやいやながら、由美の目の前に進み出た。一郎は、太郎の服を肌けさせ、胸から腹部にかけてを露出させ、その部分を覆っている部材を外した。中から、精巧に作られた内蔵が見えた。  「ほらご覧なさい。私は腕に縒りを欠けて、内蔵まで正確に作りたいと思い、再現したのです。どうですか出来ばえは」  一郎が由美に聞いたが、由美は無視した。だが、細めた目からのぞき見ると、その内蔵は、スーパーの肉売り場で見かける食肉類よりもリアルだった。色つやが人の内蔵そのもののように仕上げられていて、しかも、心臓は脈打っていた。  「私が、ここまで作るのには、十年を要しました。その壁に置いてある十体の太郎は、一歳ずつ歳が違います。一番右が、死んだときの十四歳の時のもの、あと一歳ずつ成長して二十三歳まで。いま、目の前に立っているのは、十五歳の太郎です。その一体ずつに、最新型の肌や内蔵を開発するたびに、部品を入替えてありますから、全てが最新型なのです。ですが、気に入らないことがある。それは、血の気がないことです。人の肌の温もりがない。人が生きているときの、生き生きとした色つやがない。これは、いくら材料や手法を工夫しても、表現できないのです。私は、それで、行き詰まってしまった。人形師としての限界を知らされて、人形作りを投げ出そうとさえ思った。それが、この太郎が残してくれた、人体の解剖図を見ていて、あるヒントを得たのです。あの解剖図は、少女のものだった。だから、ヒント実行するためには、少女がいいと思うです。その点、たみが連れてきたあなたは最適だ」  由美は頭を揺すって、耳を塞ぎたかった。その話を聞かなかったことにしたかった。  「そのヒントとは、人形には血管が通っていない、ということです。はしなくも私はそのことに気が付いたのです。血液が通っていない人形が生き生きとした表情をするわけがない。私はこれだ、と確信したのです」  「では、私の血を抜き取るというの」  由美は絶叫した。  「そうではありません。血はもう用意してあります。だが、その血を通す管が出来ない」  「血管が、出来ないの」  「そうです。ですから、これは、本物を使うしかない、という結論に達したのです。しかも、太郎は十代だから、その年齢の人の物が欲しい。大人ではだめです。太さや弾力性が違うのです。若い人のが欲しかった。私もいろいろ手を尽くして、入手をしようとしましたが、無理でした。それが、丁度、貴方という人が、家に訪ねてくるようになったのは、幸いでした。たみはいい仕事をしてくれた。飛んで日に入る夏の虫とは、あなたのような人を言うのでしょうね」  一郎は歪ませた口をした蒼白の顔を。横たわっている由美の顔の真上に持っていって、息を吹きかけた。由美は顔をしかめて、その濁った息を避けようとしたが、息は躊躇することなく、吹きかかった。  「いまから、その手術の手順を示したフローチャートと図面を見せます。そのなかに幾つかの選択肢があります。あなたは、それを選んで下さい。あくまで、手術のやりかたは、被験者の選択によるのが、われわれのやりかたですから」  一郎が、奥の机の上のコンピューターのキーボードを操作すると、天井から四角い箱がエレベーター式に降りてきた。その側面は青白く光るディスプレーになっていて、なにかの画像が出ていた。  「ここに、出ているのは、これからあなたに施す手術のやり方の図です。まず、痛み止めの方法について聞いています。人形師は、もちろん、麻酔などは使いませんから、そのことは考慮していません。ですが、やはり、人が相手ですから、余りに痛がられて、転げ回られたりしたら、手に負えませんから、痛みを軽くする処置はします。その選択肢は五つあります。第一は、劇痛を最初に与えて他の痛みを感じさせないようにして、軽減すること。第二には、最初は痛みを感じさせずにおいて、徐々に痛みを増していく方法です。そして、第三は、ずっと中程度の痛みを続けていくやりかた。第四は、激痛を続けること。これは、失神の可能性がありますが、手術の痛みは一番感じませんね。最後は、一切の痛みを感じない方法です。すなわち、即死の状態にして手早く、行わないと行けないので、技術がいります。これが、私が人形作りの長年の経験から、敷衍した手術法です。どれが、いいですか」  由美はもう、耐えられなくなっていた。残された力を振り絞って、全身を震わせて、いまの置かれた状態をから、脱出しようともがいていた。  「どれが、いいですかね。わたしは第一の方法をお勧めします。最初は苦しいが、徐々に痛みは和らぎますからね。どうです、お勧めメニューに従ったら。そうしますか。そうですか。それでは、そのやり方を解説しましょう」  一郎は、次の画面を写すようにコンピューターに命令した。映ったのは、人間の足の裏だった。その土踏まずの辺りに鋭利な錐が差し込まれている写真だった。錐の先は肌を透かして、肉に食い込んでいるようだが、血は出ていなかった。錐を持っているのは、ロボットのアームのような金属製の腕だった。  「ほら、こうして、あなたの足の裏に、針を刺すのです。針といっても、固い金属の錐のような物ですが、中国の鍼術では、その辺りに脳に通ずる痛みの神経の集まりがあるといわれている。その巣を刺激して、最初に激し痛みを感じさせ、徐々に痛みが緩和するのを待つという方法です。なに、最初は激痛が走るが、徐々に、痛みは緩くなります。どうです、これが、一番、あなたに会っていますよ」  一郎は、再び、由美の顔の上に、口を持っていき、汚い息を吹きかけた。由美は。そのあまりの酷い匂いに、この男が、歯槽膿漏を患っているか、この一年間、一度も歯を磨いていないのではないかと、疑った。だが、もう抵抗するにも、息も絶え絶えになり、悲鳴を上げる気力も体力もなかった。それで、なにも答えずにいた。すると、一郎は、  「これで良いようですので。第一の方法を取ることにします。では、次の段階ですが」  そういって、画面をまた、一枚送った。  「腹部にメスを入れて、腹を割きます。そして、血管を探りだす。これらの手順は、全て、プログラミングされた、このマニュピュレーターが行います。ですから、人手はいりません。ですから、手術の正否は、一重にあなたに掛かっているのですよ」  一郎は由美を覗き込んで、諭すように言った。由美はもう反抗する勇気はなかった。失神したのだ。  だが、由美はこのあと、自分の体に行われた作業を、明瞭に思いだすことが出来た。それは、由美が意識しないで得た記憶だった。たぶん、無意識の領域に、いつもは働いていない脳細胞が目覚めて記録したのに違いない。意識して見た記憶はないのに、思い出すことはできるのだ。それは、酷い映像だった。まず、鈍く銀色に光る金属の腕が出てきて、その先端に太い金属性の錐が付いていて、静かに由美の足の裏に近寄り、土踏まずに先端を差し込んだ。由美は足を竦めて、逃れようとしたものの、及ばず、錐はゆっくりとした動作で、足の裏に食い込んだ。由美はかなきり声をあげて、泣き叫んだが、それも五、六分で、静まり、画面は次の場面に移った。その画は、真っ赤な血の海が目の前に広がっていた。そのなかに、黄色や褐色や緑色の内蔵が置かれていた。そのモツの海の中に、金属の手が差し伸べられ、一つ一つの臓物を取り出していき、最後に空洞が残った。時折、カメラは俯瞰して、手術されている女の表情を映し出すが、その顔は紛れもなく、由美だった。由美は目を閉じてはいない。金属の腕の作業を冷めた目で見つめていた。  手術は段階を追って進み、筋肉の上にこびりついている血管のような紐状の組織を、人の繊細な指の動きそのままに、金属の手が切り取って、全ての作業は終了した。こんなに、内蔵を取り去られ、血管を外されても、時折、映る由美の顔の表情は生きたそのままのもので、微笑みさえ見せていた。  「さあ。これで、終わりました。こいつを冷凍保管して、少しずつ、人形に移植していけば、太郎たちは、あと十年は生きられる」  一郎の安堵したような呟きが聞こえた。  由美は夢を見ていた。それは、酷い内容だった。暗い地下室に連れ込まれて、体を切りきざめられる夢だったから、目覚めたあと、つい、腹に手を持っていって、その部分に異常がないかを確認した。身体中にべっとりと不愉快な汗をかいていた。すぐにでも、バスでシャワーを浴びたかった。階下に降りようとしたとき、サイドテーブルの電話の子器のブザーが鳴った。母親の声で、「お友達の赤尾たみさんから電話ですよ」というのが、聞こえた。  由美は子器の受話器を手にして、電話に出た。  「はい、由美ですが」  「ああ、たみです。今度の絵の会のことで、確認のお電話をしたんですが。今日の午後でいいですね。あ、それから、前回の時の忘れ物がありますので、お知らせしようと」  「はい、今日の件は分かっています。でも」  「でも、なんです、おじけ付いたんですか」  たみは探るように言った。おじけ付くとは、どう言うことだ。あの恐ろしい経験はやはり、夢の中の話ではなく、現実にたみの家で起きたことなのだろうか。それを知っているからこそ、たみはそう言うのだろうか。だが、由美はこうして、元気に生きている。内蔵を取られたり、血管を外されたりしたら、こんなふうに、いつもと変わらずにいることはできないだろう。それに、忘れ物があるという。由美は自分でも、かなり、整理整頓好きで、忘れ物やなくし物をした覚えが、あまりなかったから、あのような緊張感を強いられたたみの家に忘れものをすることは、考えられないことだった。  「忘れ物は、何ですか」  「ああ、内蔵ですよ。父が戻すのを忘れたんです。気が付きませんでしたか」  由美は思わず、腹の辺りに目をやり、手でさすっていた。  「それは、気がつきませんでした。なんの違和感もなかったし、体に変わりもなかったから」  「父の腕はいいんです。だから、そういう人は多いですよ」  たみが、由美が経験したあの異様な手術のことを、知っているのは、間違いなかった。由美は、そのことを、今日の会で確かめようと、考えた。  「じゃあ、その忘れ物は。どうすれば、いいですか」  「もとに戻さないといけません。もう一度、父の手を煩わすことになりますが。父はその積もりで、もう、喜んで準備しています」  由美は体を総毛だてた。あの、苦痛をまた、味わわなければならないのか。しかし、忘れてきたからには、取りにいかなければならない。大事な内蔵なのだ。絵も仕上げなければならない。それに、あの手術の後、太郎の人形がどうなったのかにも、興味があった。それよりも、手術を終わってから感じた、全身の虚脱感が、忘れられなかった。あの、世の苦痛や苦悩や悲劇を一挙に与えられながら、そのすべて乗り超えた地点にたどり着いた者にしか分からない、何物にも捕らわれない解放された虚脱感は、一度味わったら忘れられない、官能と恍惚の感覚だった。あの感覚を、もう一度味わってみたい、と由美は微かに、思ってもいたのだ。覚醒剤を打ったときの高揚した感覚の逆にある、癒しの感覚が、残っていた。  「いいですよ。予定通りに伺いますから、よろしく」  そう答えて、由美は、起きがけというのに、再び、苦痛を超えたときのカタルシスとエクスタシーを今日も味わいたいと望んでいる自分に気が付いてた。  (わたし、この感覚を忘れられなくなりそう。これは、多分、娼婦の歓びなのかもしれない)  と自嘲した。そして、自分が十四歳の少女だということは、失念していた。両手で撫でた体の肌の温度が、暖かかった。    たみの家に行くと、何時ものように、太郎の人形が、前と同じ位置に置かれ、由美とたみのキャンバスが用意してあった。画架には、二人の描きかけの絵が載せてあった。由美はたみの絵を覗いてみた。既に背景から、前面の人形の姿までもが、綺麗に描き上げられた作品で、由美が初めて気が付いたのは、人形の肌の色が、赤みを増して、人の肌の感じに変わっていたことだった。前回は、白く無表情な能面のような色彩で描かれていた太郎の人形の顔が、血の気を増して、生身の人間の表情に近くなっていたのだ。  由美は、目の前の人形を見直してみた。たしかに、顔の赤みは人の表情に近くなり、生き生きとした目の輝きとともに、人工的な物質感が減少し、生々しさを増していた。その生き生きとした表情を、キャンバスに定着しようと、由美も絵筆を握ってみた。先日、この人形を描いているときに交わした人形との会話では、太郎が死んだ訳と、その原因となった犯行の自白を聞いた。それは、まだ成仏しきれない死人の告白に似ていたが、由美が教訓を得たのは、生命に対する疑問とそれを解決するために、この少年が取った行動だった。猫や少女を解剖して、真実を追究しようと考えたのは、短絡的だが、他の手立てを考えつかない、この世代の直截的な行動の傾向を示しているようなのだ。由美は、学校でスピーチをしたときに話した、道端の猫の死骸の話は、もしかして、自分の欲望の現れなのではないのかと、感じていた。もっと生の生々しさを感じてみたいのに、大人たちの余りに管理に守られて、安全圏に逃れているのが、十歳代のこの年頃なのかもしれない。  そう考えると、一線を超えてしまい、自らも命を断った太郎という少年が、世代の英雄のようにも感じられてきた。そして、父親の一郎はその息子の生の過激さを敏感に感じているからこそ、息子を手放そうとしない。死んだあとも、毎年のように、息子の面影を再現しようと、人形を新たに作り続けているのだ。  「僕のことを、すこしは分かってくれたようだね」  椅子に座って対象を凝視しはじめた由美に、太郎が話しかけてきた。  「いいえ、何も分からないわ。私が辱められるのを、あなたは黙って見ていたじゃない」  「いや、見ていただけじゃない。手伝っていたんだよ」  「なぜ、人の苦しみを、平然と見ていられるの。いえ、可虐の手助けさえできるの」  「それは、自分のためなんだから、仕方がないよ。僕が、もっと、人間らしくなるために、必要なことだったんだから」  「わたしは、あなたのためになったの」  「それは、なった。君の血管がなかったら、僕はこんなに生き生きとはなれなかっただろう」  「でも、わたしはどうなるの」  「なにも、変わらないよ。僕等の世界に近寄ってくれるだけだから」  「それなら、わたしの忘れ物は、どういうものなの」  そのとき、たみが、口を挟んだ。  「あなたの忘れ物は、父が預かっています。今、父を呼びますね」  と言って、部屋を出ていった。  しばらくして、たみは一郎を連れて帰ってきた。一郎は手に一個の臓器を持っていた。由美はそれを見たが、何なのかは分からない。  「これが、忘れ物なの」  一郎に向かって、由美は聞いた。  「そうですよ。あなたのものです。とても綺麗で、汚れていなかったから、本当は取って置きたかったたのだけれども、やはり、本人に戻したほうがいいと思いましてね。わたしは、人を騙したり、嘘を付いたりしたくはないんです」  「何なんですか。それ」  由美は焦れったくなって語気を強めて聞いた。  「子宮です。とても綺麗で、見ほれてしまいました。これから、ですね。この器官が全力を上げて、働き始めるのは。あなたが生きている証になるための器官でしょう。私は男なので、あまり、注意を払わなかった。そのために、戻し忘れてしまった。申し訳ないことをしました。すぐにでも、お返ししましょうか」  そう語る一郎の唇は歪んでいた。  由美には、それは衝撃だった。女性の印であるその器官を、切除されて、気が付かなかった自分の粗忽さに呆れたが、その器官を戻し忘れて、多分、鑑賞していたこの父と息子の姿を想像しただけで、おぞましさが突き上げた。それに、また、あの、苦痛に満ちた手術をしなければ行けないか、と思うと確かにおじけずいていた。  「結構です。ですが、それは持って帰ります。あなたの手は煩わせません。自分でかたを付けますから。返してください」  由美は健気にもそう言うことができた。  「そうですか、あなたなら、そうおっしゃると思っていました。あなたは、私達に内蔵を提供しながら、依然、確固とした自己を持っている。それは、人形にはできないことです。ほら、わたしが作った息子の人形は、血管を繋いで、血の気が通っても、そういう、しっかりとした人間らしい考えかたまでは、できませんからね」  一郎は寂しそうに言って、持ってきた内蔵を由美の脇に置いた。  由美は、絵など描いている暇はないと感じて、それを掴んで、早々に辞去し、家に帰った。一刻も早く、摘出された子宮を元に戻さないと行けない。そうしないと、女性としての機能が一生働かなくなる。子供が生まれない体になるのは嫌だった。  渡された子宮は、ビニールのバッグに入っていた。多分、生理食塩水だろう液体の中に、黄色い拳大の臓器が浮いていた。由美はそれを自分の体に戻したいのだが、それには、下腹部を切り開かないといけない。それは、苦痛の伴う手術になりそうだった。自分の手で自分の体を切り開くことなど、考えたことは勿論、やったことなどなかったから、臓器を持ち帰ってみたものの、由美は途方にくれた。そこで、冷静に考えてみると、あのたみの家で行われた手術は、本当に現実のものなのだろうか、という疑問が湧いてきた。というのも、由美がいま、開かれた筈の腹部を、丁寧に手で探ってみても、メスを入れたような跡がないし、第一、あのような大手術をしながら、数時間で体が元気に回復しているのは、おかしいのではないか。すると、あの由美が目で見ていた手術は、まがいものだったのではないか、いう疑念が強まった。とすれば、あのおどろおどろしい内蔵も、まがいものなのだろうか。腕のいい人形師の一郎がつくったものなのだろうか。あのような極彩色の色合いも、模造品のような感じを抱かせた。  となると、この子宮も人工物かもしれない。由美はそう信じたくて、おそるおそる、ビニール袋の上から子宮を手で触れてみた。柔らかい感触だった。押すとゆっくりと凹んで、弾力があった。そもそも、由美は本物の子宮に触ったことはないから、比較することはできないが、その感触は子宮とはこういう触感のある器官なのだという実感を由美に与えた。どうも、模造品ではなさそうだ。とはいえ、これが、由美の体から摘出されたとしても、体全体の働きにはなんの支障もでていなかった。それは、例えば、子宮筋腫や子宮がんなどで、摘出されても、多くの人が健康に生活していることからも、不思議ではない。体に不具合はないのだから、無理をして、したこともない手術を自分の体に施す危険を犯す必要はないのだと考えて、由美はすこしの間、様子を見ることにした。持ってきた子宮は、どうも生きているようだ。その生きざまを監察してやろうという気になったのは、そのもの自体が独立した他者のような感じがしたからだった。なにかが、その中で生きているような直観があった。  それで、由美は、自室の書棚の上から二段目のところに、金魚を飼う小型の水槽を置いて、その中にビニールの中の臓器を液体ごとぶちまけて入れて、観察してみることにした。そうして、毎日、棚の上の物体を見ていると、たみの言動に纏わる異常な出来事が、いやに気になりはじめた。まず、なぜ、たみだけが、教室のなかで、色合いを帯びて、由美の話を聞いていたのかが、疑問だった。それに、アトリエで見たたみの絵を描くやりかたのトリックが分からなかった。空白のキャンバスに突然、デッサンが現れたり、自然に彩色がおこなわれたり、不思議なことが多かった。  そんな事を考えながら、棚の上の臓器を観察していると、時間を追うごとに、成長しているのが分かってきた。それに、見るときによって、位置が違っていた。それは、内部で何者かが動いていることの証だろう、と由美は考えた。なにかが、育っているのかもしれない。由美は楽しみになってきた。自分の体内から摘出された子宮の中で新しい生命が育っているのかもしれないのだ。それは、考えてみると、非現実的な、異様な光景かもしれないが、部屋の中で静かに横たわっているときの由美には、現実感があったのだ。  子宮は徐々に大きくなった。育つに連れて、色が失われ、皮膜が透明になっていった。小型の水槽一杯に育ったころに、子宮の中から、赤子の声が聞こえてきた。  「どんな疑問にも。僕は答えることができまちゅ。なんでも、聞いてちょうだいな」  最初に聞こえてきたのは、そういう、男の子の声だった。由美が数々の疑問と疑惑を抱いているのを見透かしているかのような、言い方だった。そこまで、言ってくれるのなら、好意を無にすることはない。由美は聞いてみた。  「あなたは誰なの」  「あなたの子供ですよ」  「父親は」  「分かりませんが、多分、大人の男です」  それはそうだろう。当たり前の話だ。  「それが、誰かと聞いたのよ」  「人形師の男です」  やはり、そうだったのか。一郎は、由美を妊娠させようと、あの手術をしたのだ。血管を取るのは口実だったっていうことか。  「すると、たみさんは、姉になるのね」  「そうです。あなたの友達で、僕の姉になる」  「たみさんは、どうして、あんなに血色がよく生き生きとしているの」  「目立つためです」  「なんのために」  「おとりとしての役割を果たすためです」  「おとりって、だれかを捕まえるの」  「そう、あなたのような、健康で好奇心が旺盛な女の子をね」  (そうか、私はまんまと餌に掛かった生贄のカモなんだ)  由美は初めて、人形たち世界の計略を知った。  「それで、どうして、たみさんは、あんなやり方で上手に絵が描けるの」  「ああ、あれは、トリックでちゅ。驚かしでちゅよ。何枚も描きかけの絵を用意しておいて、掛け代えるんでちゅよ」  (なんだ、そんなことだったのか。聞いてみれば簡単な仕掛けなんだ)  由美は、即座に納得した。  最後に、子宮の中の声が、申し出た。  「そんなことより、楽しい時間を過ごしましょうよ。僕は音楽が得意なんでちゅ。しかもクラッシックがね。なかでも,ぼくの一番好きなのは、バッハでちゅ。いまから、僕の好きな、曲を歌いまちゅ。聞いてくれまちゅか」  子宮の中の胎児は、そう言って、子宮の中から頭を出した。そして,水槽から伸び上がって、水面上に頭を出し、小さな赤い口を開けて、歌いだした。  苦悩と悲痛と憤怒と沈鬱が入り交じった押し殺すような歌声が、部屋中を覆いはじめた。  それはイエスが十字架に磔刑となる過程を、時系列で追っていく、「マタイ受難曲」のレチタティーヴォだった。イエスが、最後の晩餐を終えて、弟子とともに刑場に引かれていく間の情景を、それらの歌曲は詳細に描き出していた。    第五十四節 レチタティーヴォ  ーー エバンゲリスト(福音史家)  さて、祭りのときに、総督は民衆の望みにまかせて、囚人一人を赦免する習わしあり。ときに、バラバという名だたる囚人、ピラトのもとにあり、かくて人々が集まれるとき、ピラト言う。  ーー ピラト   汝ら、わがたれを赦免せんことを願うか? バラバなるか、はたキリストと称するイエスなるか?  ーー エバンゲリスト   これ、ピラト、彼らのイエスを渡ししは、妬みによると知るゆえなり、彼なお裁判の座に着きおるとき、その妻、人を遣わして言わしむ。  ーー ピラトの妻  この義人に係わりたもうな。われ昨夜、夢の中にてこの人のゆえに、さまざまに苦しめり。  エバンゲリスト  ーー されど、大祭司と長老らは民衆を説き伏せ、バラバの赦免を願い、イエスを滅ぼさすべく請わしめたり。総督答えて彼らに言う。  ピラト  ーー この二人のうち、いずれをわが赦免せんことを願うか?  エバンゲリスト  ーー 彼ら言う。  合唱  ーー バラバなり。  エバンゲリスト  ーー ピラト言う。  ピラト  ーー されば、キリストと称するイエスを、われいかになすべきか?  エバンゲリスト  ーー 彼ら皆言う。  合唱  ーー 十字架につくべし!    大音響の合唱が、部屋中を満たした。はたして、あの臓器だけで、これだけの音を出しうるのか。それは、奇跡のようだった。  歌曲は、起伏のあるメロディーとリズムをなぞりながら、十字架の章に入っていった。  第六十四節 レチタティーボ  エバンゲリスト  ーー かく嘲弄してのち、上着を剥ぎて、もとの衣を着せ、十字架につけんとて引き行く。その出ずるとき、シモンというクレネ人に会いたれば、これを強いて、イエスの十字架を負わしむ。  第六十五節 レチタティーヴォ・アコンパニヤート(バス)  ーー しかり、まことにわれらが内なる血肉は、十字架を負うべく強いらるるこそよけれ。重き十字架を負わさるるほどに、われらの魂の益は増すなり。  第六十六節 アリア  ーー 来たれ、重き十字架。われはかく願いて悔いず。わがイエスよ、そをつねに負わせたまえ! かくてわが艱難の重きにわれ耐えぬとき、汝みずから力となりて、そを負わせたまえ。    由美はこの楽章を聞いたとき、あの男児の人形の父親の名前を思い出した。たしか、たみの家の門柱の表札には「赤尾シモン」と書いてあったのだ。そうか、シモンとは、キリストが磔刑になったとき、その十字架を背負っていったクレネ人のシモンという男の名前なのだ。あの父親は、重い十字架を背負って、苦悩しながら、どこへ行こうとしているのだろうか。それは、刑場に違いない。人形師、赤尾シモンが、行こうとしている場所は、無限地獄の墓場のような所なのだろうか。だが、そこには、復活も再生もありうる。シモンは、息子の再生を望んでいるのだろうか。  バッハの歌曲は、バラバという名だたる囚人を、キリストと量りに掛けて、赦免を許したというピラトの決断を歌っていた。では、バラバとは、誰なのかというのが、次の疑問だった。死んで行ったキリストの代わりに許されて、命を永らえたバラバとは、死刑囚だったのだろう。それなら、現世で酷い人体への犯罪を犯したのに違いない。キリストの罪と比べても、それは、酷い犯罪だったに違いない。キリストは、人の罪を一身に背負って、磔にされた。バラバは、重罪を逃れて、生き延びた。キリストが多くの人類の魂の救い主であり、癒しの人となったのに比べ、バラバは、ただ、キリストに代わって赦免された重罪人としか、記録されていない。それは、私達の多くと同じだ。ただ、大衆とだけ、歴史に記されるその他大勢の顔なのだ。  そこまで、考えた由美は、学校の教室の情景を思い浮かべた。白く無表情な硬い仮面が、三十九個。均一に並んでいた。その中に一つだけ、血の通った顔が笑っていた。  「ぴっぴっっぴ。午後一時です」  枕元のディズニー・キャラクターの目覚まし時計が、グーフィーの声で、二度同じ警告の声を発したのを、由美は、寝ぼけ眼で聞いた。三度目の警告音を発する前に、由美は右手を伸ばして、ストップボタンを押した。ベッドを覆った羽毛布団を跳ねのけて、起き上がったのは、それから、一時間も過ぎてからだった。  ベッドを跳ね起きた由美は、体には心地良い、疲れの抜けた感じがしていたが、頭はぐずぐずだった。大体が、夢見が良くなかった。恐ろしい夢を見たのだ。由美は、階段を降りて洗面所に行った。鏡のなかには、美しい少女の笑顔があった。重荷を降ろして吹っ切れたときのような、爽やかな表情だった。血色が良い肌の、丸顔が弾けそうな色つやで、鏡を埋めていた。  「たみさんに似てきた」  由美はそう呟いて、二階に戻って、ベッドに寝ころんだ。  (通学途中に猫を殺したのは、だれなのだろう。あれは、私がやったのかもしれない)  今度は、また、その疑問が出てきた。棚の子宮から、声がした。  「あの猫は、老衰で死んだんでちゅよ。自然死ですちゅよ」  由美は下腹部に違和感を感じた。中で何かが動いたのだ。すぐに、痛みは拡散して、体の芯から湧き出るような官能的な快感と歓喜に変わった。確実に、胎児は育っている。あの透明な子宮の中に宿った命は、日々、生命感を増している。透明なゆりかごの中で、赤い命が育まれている。たみの弟を生むことで、由美はたみの義母になるのだ。それは、赤い血の通う人間なのだろうか、それとも、暗闇に無表情に並んでいる白い顔の人形なのだろうか。  そして、たみは、それがどちらなのかを知っているのだろうか。                      (終わり)