「真知子」  山形県のY市の郊外に、鄙びた温泉旅館が密集した里がある。近年は、列島リゾート化に乗って、スキー場所などのリゾート施設が開発され、洒落た別荘やリゾート・マンションも建つようになったが、その頃は、木造の古い旅館が、狭い道沿いに数軒、並んでいるだけだった。それでも、町の中心部にある老舗の旅館は、江戸時代に藩主が逗留したという格式を誇っており、門構えも、部屋も、「さすがに」と宿泊した人たちを驚かせるに十分だった。鄙びた温泉の旅館とは、思えないくらいの、建物だったのだ。  その頃は、まだ、レジャーが、人々の間に浸透していなかったから、その旅館が、観光用の目玉にされるようなこともなく、一部の事情通と旅行好きな人たちだけが、知っていた。山形県の観光案内書にも、名前は載っていた。だが、客室数と一泊二食付きの宿泊料金が、そっけなく記載されていただけで、そういう立派な旅館とは、分からないのだ。  小坂広は、その旅館のことを、県の役人から聞いた。秋の旅行特集の取材で会った経済部の課長が、  「小坂さん。いい宿があるんですよ。一度、行ってみませんか」  と水を向け、その宿の話をしたのである。  休みを取る予定のなかった小坂は、その時は、そう関心もなく、  「そうですか。いいですね。そん鄙びた宿でゆっくりしたいな」  と応じて、連絡先の電話番号などを書いたメモを貰っていた。  そのことは、その後、すっかり忘れていたが、その年の冬になって、小坂の身辺にある事情が生じた。それは、付き合っていた真知子との仲が、急速に進展し、親密さが増してきて、  「一緒にどこかに、小旅行にいこう」  という話になったのである。その話は、真知子の方から、言いだした。夏が終わるころには、毎日のように仕事が終わってからのデートを重ね、休日の前の日には、一緒に食事をしたあと、夜遅くまで、小坂の家にいて、体を求め会う仲になっていたが、泊まっていくことはなかった。どんなに遅くなっても、小坂は真知子を、たった一人の母が待つアパートに送っていった。女手一つで一人娘を育て上げた老いた母親は、娘の所業に厳格だった。どんなに遅くなっても、娘に、家に帰ってくるように言い、外泊は理由がなければ認めなかった。その真知子が、自分から、  「旅行に行きたい」  と言いだしたのは、愛する男と一緒に朝を迎えたいという気持ちからのことだった、いつも、激しく愛し合ったあと、僅かな余韻だけを感じながら、帰りの身繕いをするのは、真知子の方だったから、燃えきれない残り火を抱えて、ほてったままの体で、独り寝の床に着くのが、苦しくなっていたのかもしれない。  「そういう夜は、もういいわ」  真知子は、秋風が吹きはじめた頃の行為のあとで、耳元で小坂に囁いたことがある。 「僕も、帰したくないよ。朝まで、こうして、一緒になっていたい」  繋がったままの下半身を、真知子の尻と引き寄せながら、小坂は、そう答えた。真知子は、両手で強くしがみついてきて、体を上に返して、小坂の唇を貪った。  そんなことがあってから、小坂の心のなかで、真知子と一緒に、旅行にいこう、という思いが、徐々に大きくなっていった。そして、冬休みの日程が決まったのを機に、真知子も同じ日に公休を取った。一月も前から、老母には  「労働組合の役員会で、一泊旅行に行く」  と話しておいた。老母は何の疑いも持たずに、外泊を許可した。実際、真知子は、組合の婦人部の副部長だったし、そういう会合で、遅くなったり、泊まってくることも、一度はあったのだ。着々と、手は打たれた。あとは、その旅館に連絡して、宿泊の予約をとる作業だけが残っていた。  「もしもし、実は県庁の知り合いから、紹介されたんですが」  電話口で、小坂がそういうと、相手は、恐縮して、  「そうですか。そういうことなら、よろこんでお待ちしております。家で一番の部屋を用意しておきますよ」  初老の年頃らしい宿の番頭は、そう言って、電話を切った。    雪が降っていた。もう毎日のように降り続いている雪は、その温泉に車が近付くに連れて激しくなった。Y市の市街地から、山の中に入って行き、暗い森を抜けて突き当たった所に、山肌にへばりつくようにして、宿が建っていた。その旅館街に入っていく最後の坂が急坂だった。地元の車はスノータイヤやチェーンを付けていて、軽々と、凍りついた坂を上っていったが、小坂の車はノーマルタイヤを付けたまま、強行軍でここまで辿り付いたが流石に、もう限界だった。坂道の途中でタイヤは空転しはじめ、ついに進まなくなった。すでに日はどっぷりと暮れ、辺りは漆黒の闇だった。出掛けたのが遅かったから、その位の時刻になることは、予想していた。宿にも、到着が少し遅くなる、とは言ってあった。だから、焦ることはないのだが、折角、眼の前まで来ていて、ここでチェーンを付けるのは、面倒でしかなかった。だが、仕方がない、小坂は、車を出て、トランクからジャッキとチェーンを取り出して、後輪を持ち上げ、装着した。  その間、真知子は、助手席で、待っていた。そして、手早く、チェーンを取り付けおわった小坂が、道具をトランクに放り込んで、運転席に戻ると、いきなり、しがみついてきて、  「あなたって、やっぱり頼もしい」  と、濡れた目で見つめたのだった。  その宿では、老番頭が待っていて、雪に濡れた持ち物の雪を払うと、それを手にして、廊下を先導していった。途中に橋があったりする長い廊下をかなり歩いて、よく磨きこまれて、黒光りしている急な階段を登ると、すぐの部屋の襖を開いて、  「どうぞ、こちらです」  と招き入れた。  素晴らしい部屋だった。広さは、二十畳ほども、あろうか。途中に欄間がある二部屋の襖を開いて、一つにしてあり、大きな床の間には、武将の鎧兜が鎮座していた。向こうの部屋は書院作りで、二段棚の上に一輪挿しの花が生けてあり、暗い空間に明るい点景を作っていた。こちらの部屋の机の上には、来客をもてなす、茶菓が乗っていた。暖房は聞いていたが、そう強くしていないためか、ひんやりとした空気が、入っていった二人の肌に感じられた。  「いま、暖房を強くしますから、暫く待っていて下さい。それから、お風呂にしますか、それとも、食事になさいますか」  番頭は、用件を切りだした。  小坂は真知子を見たが、真知子は何も言わなかった。  「お風呂は、大浴場が地下にあります。その奥に家族風呂もありますよ」 番頭は風呂を進めているようだった。風呂に入っているあいだに、食事の用意をしたほうが、段取りがいいのだろう。小坂は、  「じゃあ、風呂に入ります。家族風呂は、いま入れますか」  「ええ、大丈夫です。本当は順番なんですが、この時間は、あいていますから」  「では、そうします」  「いま、鍵を持ってきます、ちょっと、待っていてください。その間に、宿帳を書いておいて下さい」  番頭は、書類を鉛筆を置いて、部屋を出ていった。  宿泊者名簿と印刷されたその書類には、住所、氏名、年齢、職業、続柄、電話番号、このあと行く場所などを書く欄があった。小坂はできるだけ正しく書いたが、真知子の前の続柄の欄だけは、考えた。まさか愛人と書けるわけがない。婚約者とも書けない。まだ、そうではないのだし、やはり、正直にいえば、恋人なのだ。だが、世間に恋人という続柄があるわけはない。  「ねえ、続柄は、妻にしておくよ」  小坂が、真知子にそういうと、真知子は、  「妻なの。私、広さんの妻なのね。なら、妻らしくしなくちゃね」  小坂が書き入れた「妻」の字をしみじみと眺めながら、真知子は、眼を潤ませていた。  あの役人には、小坂が独身か、妻帯者かを言っていない。宿を予約したときは、大人二人としか、言っていなかった。なにも、嘘はないと、小坂は自分に言い聞かせた。真知子を妻と偽った以外は、公明正大に、振る舞っていいはずだった。  番頭が家族風呂の鍵を持ってきた。小坂と真知子は、浴衣に着替えて、手拭いを手に、家族風呂に向かった。真知子と一緒に、二人だけで風呂に入るのは、初めてではない。小坂の家に来たとき、何度か、真知子は小坂と一緒に風呂に入った。そのとき、それは布団に行く前の、前技の一部にもなっていた。十分に肌を合わせて、気持ちを昂らせたあと、二人は一体になった。また、終えたあとの安らぎを入浴で求めたこともある。そういうとき、真知子は、満たされる気持ちで、送っていった小坂の車から、降りていく。糸を引かれる思いとは、そのことなのだと、小坂は、実感していた。  だが、今日は、そういう思いをしないですむ。夜が開けるまで、心置きなく、真知子と布団の中にいることができる。互いの熱りが失せるまで、あるいは、熱りを宿したままで、燃え尽きることができるかもしれない。それは、めくるめく、不眠の夜を予感させた。  家族風呂とはいえ、石組の湯口から豊富に湯が溢れだしている、その風呂に、小坂は先に入って、真知子を待った。女性が、生まれたままの姿になって、風呂の扉を開けて、入ってくる瞬間を、視姦するように見ているのが、小坂は好きだった。前を隠さずに入ってくる人は少ないのだ。どのようにして、前を隠し、どういう仕種で、足を踏み入れるのか。その瞬間に、その女性の異性に対する意識が凝縮されている感じがした。  真知子のそのときの仕種は、いつも小坂に感動を与えた。あるときは、下だけを隠し、胸は露にして、ピンク色の乳首を尖らせて入ってきた。多分、小坂を待たせているあいだ、真知子は、乳房を刺激して、勃起させてのだ。また、ある時は、胸だけを画して、下半身の女性の部分を露出させて入ってきた。小坂がその部分を見つめると、その黒い部分は、綺麗に刈り整えられていた。真知子は、そうして、小坂の心を捕らえたのだった。  (この子は、娼婦の素質を持っている)  小坂は、そう思いながら、真知子の戦略に翻弄されていった。  この日、真知子は、長い髪を頭上に巻き上げて、日本髪のように束ね、薄く眉墨を掃いて、顔に化粧をしたまま、入ってきた。全裸だった。体に一糸も纏わず、ゆっくりと、荒い場に腰を降ろして、横になって、盥に湯をとって、体にかけた。二、三度、方から湯をかけたあと、  「入っていいですか」  と聞いて、湯船に入ってきた。右足からゆっくりと体を湯船に入れるとき、下半身の黒い部分が開いて、割れ目が見えた。風呂から湯が溢れ、そのとき、檜の香りが浴室を満たしはじめた。湯船は大人二人が、ゆったりと浸かることが出来るほど広かった。真知子は、小坂の横に並んで、湯に浸かった。  「見ていたよ。綺麗だった」  「あら、恥ずかしいわ。そんなに、見られると恥ずかしい」  「見てほしいくせに」  「いやよ、そんな言い方は」  「綺麗な体だ」  小坂は、耐えきれずに、真知子の乳房に手を伸ばして、握った。乳首が立っていた。その乳首を指で刺激すると、真知子は、身を引いて、必至で耐える表情をした。小坂は、両手で乳房を掴むと、ゆっくりともみしだいた。真知子は、さらに、身を引いて、檜風呂の角に頭を載せて、のけ反った。その行為が続くうちに、束ねてあった髪が解けて、はらりと湯に落ちた。髪の先が濡れて、表に広がった。小坂は、次に、右手で真知子の、秘所をまさぐった。内部まで探りを入れると、その部分は、もうすっかり、濡れていた。その粘り具合いが、それが、お湯のせいではなく、内部からの液体であることをん物語っていた。真知子は体を痙攣させながらも、右手で小坂の下半身を探っていた。その硬いもの探り当てて、握った。握りながら、頭を湯の中に入れると、その部分に口を持っていった。湯面に黒い髪が、広がった。小坂は、腰を上げて、真知子の頭を湯のなかから、外の持ち上げた。そして、立ち上がって、真知子の口の運動を上から見ていた。  そうして、始まった二人の饗宴は、最後に、風呂から出て、互いの体を石鹸で包み込み、洗いあうことで、フィナーレを迎えた。そのころは、体は真っ赤に紅潮し、逆上せそうになっていたが、次々に訪れる快感が、互いを虜にしていた。考ええる限りの痴態を二人は共演した。ただ、最後の行為は、取っておいた。真知子の秘部は、十分に小坂の物を受け入れられる状態になっていたし、小坂も、十分な硬度を維持していた。だが、最後の突入は取っておいた。最後の最後にむさぶり尽くせばいいのだし、今日は、いつもと違って、十分な時間があるのだ。  (朝まで、寝ないでいても、いいんだ)  一晩中、繋がったままでいられたら、どんなに、幸せなことか。二人はそのことを、言葉には出さなかったが、宿に来ることで、暗黙の了解をしていた。    風呂から出ると、部屋には、食べきれないほどの食事が用意してあった。この地方で取れると山菜なのの山の幸、川魚、それに山の中というのに、刺身まであった。メインは特産の牛肉の味噌焼きだった。大切に肥育されたこの地方の牛肉は、東京では偽って、松坂牛のラベルを付けて売られることもあった。それでも、問題は起きなかった。品質が松坂牛に匹敵していたからだ。むしろ、凌駕しているという声さえあった。  風呂のなかでの艶技ですっかり、体力を消耗していたし、血流も活発になっていたから、この大量の料理を、二人は残さずにぺろりと平らげた。食事が終わると、中居が食卓を下げにきて、番頭が、布団を敷いた。敷布団が二枚。ひ色のはぶたえの高級品だった。そして、純白のカバーに包まれた薄い賭布団も二枚。それが、一つの床となったとき、小坂は、布団のある場所だけが、照明を浴びて、浮かびあがっているように感じた。後で、部屋の照明を消してみると、確かに、一灯だけになった白熱灯の照明はその部分にしか、当たらなかった。それは、点照明に照らされた舞台の上の装置に見えた。  真知子は、独り分しかない寝具を眼にして、顔を赤らめていた。番頭は、  「では、ごゆっくり。明日は、お起きになったら、知らせてください」  と新婚客に対するような気配りを見せて、下がっていった。  「寝ようか」  小坂が誘うと、真知子は、頷いた。  布団の右側に小坂がもぐり込むと、すぐに、真知子も、どてらを脱いで、左側に滑り込んできた。窓の外に、夜雪が降る、しんしんとした音が聞こえていた。残っていた最後の部屋の照明を消すと、小さな枕元のスタンド光だけが、二人を見るよすになった。小坂は、寄ってきた真知子の顔を左の腕に載せながら、天井の下に下がっている欄間を見た。猿が三匹、掘ってあった。大きな葉を付けた木の間に、猿が三匹こちらを向いて、眼と口と耳を覆っていた。日光東照宮の左甚五郎の「三猿」を真似た欄間の彫刻だった。  (猿だけが見ている。これから始まる、男と女のめくるめく行為を。だが、猿たちは、秘密を漏らさない)  小坂は、漠然と考えながら、真知子の唇と吸い、浴衣を脱がしはじめた。真知子は、下着を付けていなかった。そのことに気が付いたのは、そのときだったので、  「下着を付けていないのか」  と思わず口走った。  「そう、お風呂から出てから、ずっとよ。そのほうが、うっとおしくないもの」  真知子は当たり前のように、答えた。  下着を付けない理由はすぐに分かった。陰部は熱く熱り、愛液がしたたり、溢れ出ていたのだ。それが、太股を伝って、流れそうだった。これでは、下着を付けても、何度も履き変えないといけない。小坂の物はすぐに、硬度を取り戻した。わすかな愛撫のあと、すぐに、小坂は上になって真知子の中に挿入した。その瞬間、真知子は、「ああっ」と吐息を漏らしたが、すぐに、うっとりとした表情になり、「強く、ね、強く」と鼻声で訴えた。小坂は、全力を絞って、坂を上りはじめた。  その夜は眠らなかった。長い一戦を戦いおえたあと、すぐに、臨戦体制が整い、真知子も、待っていた。戦いは繰り返された。何度坂を上り、何度下ったかを、小坂は覚えていない。ただ、真知子が、戦いの旅に上げる声と最後に内部が波うつリズムが強くなったのだけは、下半身が体で覚えていた。果てたあとの、内部の収縮の度合いも、徐々に激しくなった。そして、愛液は洪水となった溢れだし、小坂の乾いた喉を潤すだけでは、足らず、外部に溢れて、シーツを丸く濡らした。だが、それも、あっというまに乾いて、染みは残さなかった。小坂はその時初めて、女性の秘部が出す液が、ねばっこい手触りとは違い、蒸発しやすい成分で出来ているのを知った。  窓に光が差し、朝がやって来たのを、小坂は、眼の前に見えるもの全てが、黄色く変色して見えることで、理解した。周囲が黄色く変色して見えたのは、これまでの何回かの徹夜明けでは、なかったことだ。何時もは暗い闇の中を、光が切り裂いて朝になったのに、この朝は、柔らかく朝がやって来た。黄色い光が、段々と明るくなり、さらに白くなったころ、やっと、小坂は、真知子から離れて、布団から起き上がった。時計を見ると、午前十一時を回ったときだった。  「遅くなってしまった。はやく起きないと、迷惑を掛ける」  小坂が、呟くと、真知子は、  「まず、お風呂に入りましょうよ。でも洗わないわ。あなたの残り香を流したくないから。さっと、入ってきましょうね」  と言いだした。そうだ、そうすれば、気分はまた、リフレッシュされるだろう。だが、一緒に入ったら、またしたくなる。ここは、別々に、なってもいいだろう。食べたかったものを腹一杯食べて、満腹したら、少し休んだほうがいい。小坂はそう考えて、男の大浴槽に行くと真知子に言った。真知子も女風呂に行く、積もりだったから、だまった頷いた。  小坂が、風呂に入って、自分の逸物を見ていると、真っ赤になっているのが分かった。なんども、真知子の中に入り、暴れまわって、すっかり、疲れ切っていた。小坂は、息子の健闘を讃えたかった。湯船に浸かったまま、袋と一緒にして、両手で柔らかく包み込み、慈しむように握っていた。石鹸で洗ってみようとは考えなかった。真知子の液を吸いつくし、しみ込んだ、その部分を今日は一日、そのままにしておこう。そう思ういと快感が脳髄を貫いた。真知子も、今頃、こいつに、翻弄されたあの部分を、洗おうかどうか、迷っているかもしれない。そのままにして、小坂の匂いを付けたまま、家に帰ろうとしているかもしれない。そうに違いないと深く信じて、小坂は、烏の行水をしただけで、風呂を出た。それだけで、十分、気力は回復していた。  部屋に帰ると、既に、真知子は、着替えを済ませていた。朝食が運ばれ、番頭が顔を出した。  「昨夜は、良く眠れましたか」  紋切り型の朝の挨拶をして、番頭は笑ってみせた。その顔は、  「寝ないで、楽しめましたか」  と言いたいのを、堪えているように小坂には見えた。  干物と半熟の温泉卵に山菜の味噌汁、焼き海苔と漬物の朝食は、うまかった。真知子も全てを平らげた。それは、二人がまったく健康なのを証明していた。健康な体が、十分な運動をしたあとでは、食事はうまい。  帳場で支払いを済まして、宿を出ようとしたときに、番頭がやって来て、  「また、お出で下さい。こんどは、ご家族で。今日は天気が良いようです。この辺では、春は素晴らしい新緑、秋には全山の見事な紅葉が楽しめます。いつでもいいですから、お出でください」  と言った。  「素晴らしい部屋で、感激しました。さすがに、藩主の隠れ宿のことはありますね。食事もうまかった」  小坂が、感謝の気持ちを言った。  「あの部屋は、その藩主が泊まられた部屋ですからね。家で一番の部屋です。欄間に猿が掘られていたでしょう、あの猿は、部屋に泊まられた方を絶対に忘れません。私達の心と同じですよ」  と番頭は、説明した。  猿は、一匹ずつでは、見も、聞きも、話しもしないが、一匹ずつは、聞き、話し、見ているのだ。それも三匹が協力して。だから、忘れないのだろう。小坂は、三猿の裏を考えて、暗然いとなった、昨夜、小坂が真知子を繰り広げた愛の演技は、あの猿たちが覚えていて、見るたびに思い出させる。いつか、この宿を裁訪する機会があったら、あの猿たちは、あそこに居るかぎり、小坂に、この夜のことを思い出すように迫るだろう。小坂には、快楽を極める歓喜の夜になったが、それは、裏返せば、真知子を巻き込んで、ある負い目を負わせる結果になった。    それから、一年して、小坂が、東京に転勤した。去るもの、日々にうとしという諺の通り、真知子とは疎遠になり、親戚の勧めをあって、お見合いをして、結婚した。一男一女の二人の子供も生まれた。平凡なサラリーマン生活を送りながらも、小坂は、真知子のことを忘れられずに、何度か、その町に行って、消息を探したが、真知子は、前の住所にはいなかった。噂では、老母が死んだあと、この町を出ていって、帰ってこないという。真知子は何処かに、行ってしまったのだ。    小坂は、定年を迎えた。人生を六十歳を過不足無く生き抜いて、一線から身を引く時期になったのだ。  「定年になったら、二人で温泉巡りでもしよう」  と妻の圭子と話していたから、小坂は、妻との約束を果たそうと、小旅行のプランを作り始めた。適当な宿をガイドブックを手に探していると、あの温泉宿の名前を見つけた。そのページを開けて見ると、建物の写真が載っていた。それは、小坂が知っているあの日の宿とは、全く違う外観をしていた。鉄筋コンクリートの堂々として建物が写っていた。だが、名前は同じだった。小坂は、懐かしさを感じて、ぜひ行ってみたくなった。あの大きな部屋はどうなたったのだろう。建て替えてもそのまま残してあるのだろうか。あの愛想の言い番頭は元気だろうか。小坂の頭に色々な疑問が湧いてきた。そして、行ってみようと決心した。妻の圭子も、きっと喜ぶに違いない。なんといっても、二人で旅行をするのは、新婚旅行以来なのだから。  小坂が、電話をすると、四十年位前と同じ声が帰ってきた。あの番頭の声に違いなかった。  「そういうご事情なら、喜んでお待ちしていますよ。大した持てなしはできないかも知れませんが、建物も変わったことだし、ぜひ来てください」  番頭はそういって、予約の電話を切った。  そうして、小坂は、圭子と二人で、あの宿にやって来た。  玄関で迎えた番頭はあの時の番頭だった。  「あの大きな部屋は残っていますか」  「ええ、もちろん、家の売り物ですから。いまから、すぐに、御案内します」  番頭は、手荷物を持って、先を行った。長い廊下に赤い橋が掛かっているのも、変わらなかった。ただ、階段はコンクリートの広いものに変わっていた。その階段を上がっていくと、前と同じ場所にその部屋は残されていた。  昔の作りの広い畳の部屋に入ると、圭子は、無邪気に  「素敵なお部屋ね。昔の家老の屋敷みたい」  と感動の声を上げていた。  もちろん、圭子は、小坂の過去の忘れえぬ思い出など知らない。それは、結婚する以前の小坂の物語なのだから、話したことはなかった。  小坂は、欄間の猿を見た。猿は、変わらない姿で、部屋を見下ろしていった。  (あの猿が、すべてを覚えているのか)  小坂の脳裏に、あの若き日の記念すべき、ねくるめく夜の出来事が、鮮明に浮かんできた。その畳の上に敷かれた夫婦布団の上で、真知子の白い裸身が身をくねらせていた。小坂の体の心から熱いものがこみ上げて来た。小坂は、圭子に知られないように、ハンカチで目頭を拭った。  そして、番頭に向いて、  「昔と変わらないですね」  と声を掛けた。  「ええ、私達は、この部屋を宝物にして大事にしています。ですから、部屋は変わったいません。でも、」  「でも、何ですか」  「人は年を取りまうから、変わってしまいます。肉体はそう変わらなくても、心はすぐに変わる。人の心ほど、うつろい易く、信頼できないものはありません。ですから、わたしたちは、その点も抜かりないように、真心でお客さんに接するように心がけているんです」  「素晴らしい。最近はそういう旅館は少ないですからね」  小坂は、座って、客を迎える茶菓を取り、圭子にも、勧めた。  「では、お風呂に致しますか。それともお食事からにしますか」  小坂は、暫く考えた後、  「風呂に入ります」  と答えた。  「家族風呂もありますよ。予約制ですが、今日は空いていますから、すぐに入れます」  「いや、結構です。大浴場に入りますから、御心配なく」  小坂は、真知子と入った家族風呂を思い出していた。だが、圭子とあのような入浴が出来るはずがない。旅の疲れを、大きな湯船で落としたかった。  番頭が置いていった宿帳に記入してから、小坂は、浴衣に着替え、手拭いを持って、風呂に向かった。その宿帳にも、甘酸っぱい思い出がある。真知子を、躊躇しながら、「妻」と書いたのは、この場所だった。真知子は恥じらいで、それを見ていた。風呂にいこうとした小坂は、途中で髭橇を忘れてきたのに気が付いた。部屋に戻ろうとして帰り道を間違った。曲がり角を間違えて、入り込んでしまったのは、裏の調理場だった。  奥で、男女が話をしているのが聞こえた。  「二階の大部屋の老夫婦には、前に会ったことがあるな。小坂という名前だが、真知子、知らないか」  「えっつ。小坂さん」  女がびっくりして、大声を上げた。  調理場を走りでる足音が聞こえた、と思ったのも束の間、女は廊下に出てきて、そこに立っていた小坂と、鉢合わせしそうになった。  小坂は、咄嗟によけようとしたが、狭い廊下で避け切れず、女の体を真正面から受け止めた。  その体には、思い出の感触があった。小坂は、まじまじと、女の顔を見つめた。女は、眼を細めて、小坂の顔を見返した。  窓の外で、赤茶色の枯れ葉が一枚、舞っていた。秋が深まって、あの時と同じ白い雪の季節へと向かいはじめていた。                 (終わり)