「美佐子」  渋谷109の目の前で待ち合わせて、その地下にある喫茶店に入ったのは、午後五時を過ぎていた。  唯夫は、もう五年も付き合って、身も心も知り尽くしている美佐子から  「話がある」  と呼び出されたとき、  (いよいよ、その時が来たか)  と覚悟した。この五年間、二人は、結婚を考えながら、何方からとも言いだせずに、ずるずると、交際を続けてきた。付き合いはじめたときは、高校生だったから、唯夫は美佐子のセーラー服姿を知っている、美佐子も唯夫がにきび面の高校生だったころを知っていた。  大学は違ったが、家から電車で通学する時は、いつも一緒だった。唯夫は私立共学の大学に進んだが、美佐子は、国立の二期校に行った。二人とも、国立の一期校を第一志望にしていたが、付き合い初めてから、成績が落ちはじめ、仕方なく、合格した第二志望の大学に進学したのだった。それでも、二人に悔いはなかった。  「親たちは失望しているかも入れないけど、僕は何とも思っていないさ、大事な十代の終わりの時期を、勉強ばかりで過ごすなんて、地獄だよ。僕は君と付き合ってよかった」  卒業式のあと、一緒に行った河原で、唯夫が言うと、美佐子は、じっと眼を見て、瞳を濡らしながら、  「私も」  と頷いたのだった。  「ずっと、こうしていたのな。でも、無理だから、必ず、別れてしまうけど、また、明日になったら、こうしていたいな」  唯夫の方に頭を載せながら、落ちていく夕日の斜めの光と横顔に受けて、美佐子はそういった。  「大丈夫さ。僕たちが、大学生になれば、もっと、自由に会えるじゃないか」  そうして、入った大学だったが、二人は、殆ど講義に出なかった。大学紛争が吹き荒れて、キャンパスが封鎖され、まともな講義がなかことを良いことに、二人はいつも横浜で、遊んでいた。最初は山下公園でベンチに座って一日中、船と海を眺めていたが、それに飽きると、歩いて岡を上り、港の見える丘公園から、外人墓地、山手地区の西洋館を当たりを歩き回って、一日を過ごした。二年生の夏には、湘南海岸で一日中、体を焼いていた。殆どを二人きりで過ごし、毎日のようにセックスをしたが、避妊には十分な注意をしたので、妊娠はしなかった。  そうして、学生時代をずっと、恋人のように過ごしてきたふたりだったが、唯夫が四年生のときに、卒業の単位を取れずに、留年したのに、美佐子は、すんなりと、卒業して、念願の小学校教師になってから、関係に微妙な影が差しはじめた。美佐子は社会人になり、年齢も二十四歳になっていたから、適齢期だった。だが、唯夫はまだ、大学生で、就職も決まっていない頼りない状態だったから、美佐子の心に、何かが生じて始めていることを、唯夫はうすうす感じはじめていた。  美佐子は関係を確認したがっていた。唯夫は、触れたくなかった。だから、美佐子に呼び出しを受けたとき、唯夫は、  (いよいよ、そのときが来た)  と直観したのだ。    「ねえ、どうするつもり」  「なにを」  「惚けないでよ。私達のこれからのこと」  「ああ、変わらないんじゃないの」  「このままなの」  美佐子は、そう呟いて、テーブルの上のカフェオレのカップを口許に持っていった。  唯夫もそれに合わせて、キリマンジャロのコーヒーを一口、啜った。短い沈黙のあと、美佐子は意を決したように、  「もう、私達、会えないわ」  とポツリと言った。それは、唯夫の予想していたことだった。  「そうだな。そうしたいなら、そうするさ」  「いいわね。私達が、合うのは今日が最後ってこと]  唯夫は黙って、頷いた。そして、黙ったまま、外に出て、丸山町への坂を上っていった。  それが、一昨年の夏だった。    唯夫は翌年の春には、無事、大学を卒業できたが、就職はできなかった。留年して、歳が食っていたうえに、不況で就職は氷河期を迎えていた。卒業後も夏までは積極的に会社回りもしたが、希望する会社は、不採用だったり、募集がなかったりで、まったく、成果がなかった。沈んだ気持ちで、毎日、二階の自室から、空を見ていた。そんなとき、美佐子が暑中見舞いの手紙を寄越したのだ。  ーー 暑さ厳しき折ですが、元気にお過ごしのことと存じます。ところで、報告が後れましたが、私、昨年春に結婚しました。新しい住所をお知らせしますーー。  そういう文の後に、住所と電話番号が書いてあった。姓は変わっていなかった。唯夫と同じで、美佐子の姓でもある吉田というままだった。  (そうか、結婚したのか)  という感慨が強かったが、そのあとすぐに、  (新しい亭主と美佐子は、上手くいっているのだろうか)  と言う疑問とともに、あるイメージが湧いてきた。それは、あまりの暑さのせいかもしれなかったが、隅々まで知りつくした美佐子の裸身が、脳裏に浮かんできたのだ。  (おれが、知り尽くしている美佐子の体を、新しい夫はどこまで知っているのだろうか)  と唯夫は考えていた。「新しい夫」という言葉は、おかしかった。美佐子は初婚なのだから、夫を持つのは初めてなのだ。だが、唯夫は自分がそう考えたことで、その見も知らぬ夫に、密かな優越感を感じていたのかもしれない。  (美佐子の体は、俺が知り尽くしている)  という卑猥な思いが過ったのは、敗者の逆立ちした優越感のためである。  唯夫は美佐子の手紙を、手に持ったまま考えていた。  (こういう手紙を寄越したのは、時節の挨拶にかこつけて、この家を訪ねて来てくれという誘いではないのか。少なくとも、電話をくれという思いがあるのではないか)  と推測を巡らしていた。  だが、決断は付かない。うじうじと、考えているままに、寝てしまった。むしろ、美佐子のことを忘れようとして、眠りに落ちたのかもしれない。  そうして、夏が過ぎ、秋風が吹き出したころ、また、美佐子から手紙が来た。  ーー 御無沙汰しています。お元気ですか。私のほうには、小さな喜びがありました。子供が生まれました。男の子です。名前は唯と名付けました。貴方に似ていますーー。そういう文があり、赤ん坊の写真が載っていた。まるまると太った愛らしい顔が、笑って、こちらを見ていた。  (そうか、もう、子供が出来たのか。月日は着実に過ぎていくな)  手紙を手にしたまま、唯夫は感慨に耽っていた。依然、就職は決まらず、無為徒食日々を過ごしていた自分の身が、哀れになった。  そう考えると、唯夫は無性に、美佐子に会ってみたくなった。人妻になった昔の恋人に会いに行くのは、男として、すべきことではない、とは分かっていたが、体の奥から湧いて来る寂しさが、癒しと温もりを求めていた。  それには、先ず最初に、電話して見ることだ。そう唯夫は気が付いて、電話器の前に行ったが、受話器を取り上げることは出来なかった。  (もし、電話に夫が出たら、何と言えばいいのか)  そう考えると、当意即妙の答えを出来る自信はなかった。だが、会ってみたい気持ちは、すこしも、おさまらない。  (そうか、夫がいない時間なら、大丈夫だ)  と思い至って、そうしようとも思った。  (だが、家人はほかにいるかもしれない[  たいかに、美佐子は夫と二人暮らしではないかもしれないのだ。手紙だけでは、その点は分からない。もし、姑か姑女がいたら、ことはもっと、面倒になる。  丸一日、思い悩んで、その日も寝てしまった。難問の解決には、眠りが一番だと、唯夫は信じていた。嫌なことは、全て忘れられるし、難問は先送りできる。そして、また、明日、考えればいいのだ。  そして、その翌日になった。唯夫は、思い切って、十一時ごろに、手紙にあった電話番号に電話した。受話器に出てきたのは、聞き覚えのある美佐子の甘ったるい鼻声だった。  「あら、お久し振り、元気ですか」  「結婚して子供が出来たんだって、おめでとう」  「有り難う。お変わりないですか」  差し障りのない会話が続いた。  「お祝いをしたいんですが」  「そう、有り難う。ご心配頂いて」  「何がいいですか」  「そうね、赤ちゃんのおもちゃがいいわね。メリーゴーラウンドがいいわ」  美佐子は、唯夫の申し出に、ハッキリと希望を言った。  (そういう、ちゃっかりしたところは、変わっていない。だから、はやばやと、俺を捨てて、結婚したりしたんだ)  唯夫は無念さと悔しさを初めて感じた。  「じゃあ、そのうち、持って伺いますが、いいですか」  「喜んで、お待ちしています」  それだけの会話で、電話は切れた。思い悩んだ割には、あっさりした会話だった。  だが、それで、胸の支えが降りた感じがした唯夫は、その日のうちに、おもちゃ屋に行き、お祝いの品の用意を整えた。  翌日、唯夫は、美佐子の新居を訪れた。  産休に入っている美佐子は、赤子を抱いて玄関に現れ、奥の座敷に招き入れた。室内の様子では、他に家族がいるような感じはしなかった。だが、美佐子が、  「主人は会社に行っていますので」  と挨拶したので、唯夫は納得した。  抱いている赤ん坊の顔を見ると、確かに唯夫に良く似ていた。アルバムに這ってある唯夫の赤ん坊のころの写真と瓜二つだった。  「本当に、あなたに似ているでしょう。主人が、本当におれの子かって、疑うんですよ。全く似てないから」  美佐子は、貞淑な人妻の丁寧さを見せながら、そう言った。    その日は、遅くまで、昔話に話が弾んで、夕食まで御馳走になり、そろそろ帰ろうかと唯夫が席を立ちかかると、美佐子が、  「今夜は主人は、宿直なんです。だから、気を使わずに、ゆっくりしていって下さい」 と懇願するように、引き止めた。  赤ん坊は二階のベビーベッドですやすやと寝息を立てていた。  唯夫は進められるままに、その夜、美佐子の家に泊まった。久し振りに体を合わせた美佐子は、すっかり、成熟した大人の女になっていた。  「わたし、こうなることを望んでいたんだわ」  終えたあとの布団上で、美佐子は唯夫の髪を撫でながら、呟いた。  「おれも、こうなるべきだと思っていた」  美佐子は、生まれた男の子を、唯夫の子だ、と言った。密かに、血液検査をしてみたら、夫の血液型では、生まれる分けがない関係だと分かった。唯夫なら可能だという。  「わたしは、あなたとしか、していないしね」  「だって、結婚したんだろう」  「そう、あなたとよ」    唯夫は、美佐子が結婚したという夫の姿を知らない。それで、いいのだと思っている。  「ねえ、パパ、今日はママはお出かけよ。おめかしをして、出ていったわ。遅くなるんだって。もしかして,デートかもよ」  日曜だったので、ゆっくり寝ていた唯夫を起こす、娘の声がした。  (たしか、俺の赤ん坊は、男だったはずだが)  唯夫は眠い頭で考えた。  青春の夢を見たのだ。