さくらさくら -花霞-
二章 夢幻泡影
| 風に散る花の行方は知らねども 惜しむ心は身にとまりけり 1 白玉楼の広い邸内に、琴の音が流れている。 さんさんと太陽が照りつける夏のひとときということもあり、襖の多くは開けられ、風が通るようにしているのだ。 平素から、霊は多いが人気の無い、静かな冥界である。 時折鳴る風鈴の音とともに、琴が奏でる音色はよく響く。静かな中に聞こえる旋律は、まるで冥界中の者が耳を傾けているかのような、そんな風情があった。 その透明な音色は、例えるならまるで淡雪のよう。 夏の暑気に高揚する空気を深く沈思させ、気持ち良く涼ませていた。 「…ふぅ」 奏で始めたときには中天にあった太陽も、今では傾き始めている。 生身の体を持たない幽々子にとって肉体的な疲労など全く無いが、それでも同じ姿勢でひたすら弾いていたことは、霊体にとっても疲労が溜まるものらしい。 絃の上を舞っていた手を下ろし、幽々子は一息ついた。 頻繁にではないが、幽々子は週に一度ほど、こうして琴を弾く。 琴という楽器はその構造上、外に向かってではなく、下に響くように内面に音を発する。歌舞歌謡向けというよりは、自然の声を聴き、ひとり世俗を忘れ物思いに耽る…といった印象の静謐な音色を紡ぐ。 幽々子自身も誰かに聴かせるというわけでもないので、腕のほどはじつは本人もよくわかっていない。 冥界の管理者となる以前の記憶の大半を、幽々子は失っている。 琴についてもどうして学んだのか忘れているのだが、過去全般について深く考えていない彼女にとって、琴の技術も体が覚えていたものをただ引き出しているに過ぎない。技量などあまり気にしておらず、ただ気の向くまま指を動かしているだけである。気分転換的な要素が強い。 平素から余人には根底では考えているか分からないところがある幽々子だが、果たして何を想い、琴を奏でているのだろうか。 趣味と呼べるものなのであろうが、なんでも飽きやすく、すぐ投げ出しがちな幽々子にとって、琴はわりと続いているものだった。 幽々子が絃を緩めると、その頃合に合わせて、廊下に人が近づいてくる気配があった。 「失礼します。ゆゆ様、一服いかがですか」 見ると、妖忌が手に盆を持って立っていた。載っているものを見て幽々子の顔に笑みが浮かぶ。 「ありがとう、ちょうど甘いものが食べたかったのよ〜」 盆には、茶と水羊羹がそれぞれ二皿。 冷茶だろうか、汗をかいたグラスがとても涼しげだった。 ◆ 「やはり夏の水羊羹は最高よね〜。ご馳走様でした。そういえば、妖夢の分は良かったのかしら」 空になった皿をどこか未練がましそうに見つつ、幽々子が呟いた。 「…そういうことは、食べる前に聞いてください。ちゃんと残していますから大丈夫ですよ」 「ふぅん、なら良かったわ」 だがそういう彼女の表情には、まだ食べたいなという感情が見えなくも無い。妖忌の言葉にも心あらずといった感じだ。 亡霊である幽々子は別に何も食べなくても存在に支障は全く無いはずなのだが、それでも彼女は食に対して執着を見せる。どうしてこうなったのかは、長年仕えている妖忌でも心当たりは無い。 ただ妖忌も、そして妖夢も、幽々子が喜ぶ姿を見るだけでなんだか自分らも嬉しくなっていたので、それについて深く考えてはいないのだった。 「そういえば、」 ふとまた何か思いついたように幽々子が顔を上げる。 「そういえば、妖忌がこうしておやつに誘うなんて珍しいわね〜」 てっきり羊羹のお代わりでも求めてくると思っていた妖忌は、幽々子の思わぬ言葉に意表を突かれた。 そんな幽々子は、妖忌を邪気の無い笑顔で見つめてくる。 「…ま、たまには、こうしてのんびりするのも良いかと思いまして」 思わず視線を逸らしながら答える妖忌に、幽々子は含み笑いをする。 「ふふっ、そうよねぇ。妖忌はいっつも硬いんだから、たまにはこうしてさぼるくらいで調度良いのよ」 「さぼ…、いえ、私は別にさぼっているわけでは……」 「良いの、良いの。冥界の管理だなんて言うと仰々しいけれど、こんなところを襲う奇特な人なんていないんだから。警護なんて適当でいいのよ」 ひらひらと手を振る幽々子。 実際、死者の魂しか存在しないこの地は、もとより生身の者にとっては不吉なだけだ。ここを訪れるということは、すなわち死ぬと同義とも言える。わざわざ張り巡らされている結界を越えてまで入ってくる者など皆無だった。 地獄や天界が飽和状態ということで、閻魔によって新たに作られたのが冥界である。 白玉楼が出来た当初こそ、物珍しさも手伝ってか、妖怪が幾度となく襲ってきていた。結界自体は実ははったりで「立ち入り禁止」の標識程度の強さしかないため、そこそこの力がある者なら誰でも入れてしまうのだ。 だが、そんな興味本位程度で近づいてきた者は妖忌が全て追い払ってきたし、たとえば妖忌でも敵わないような強い力を持った妖怪などは、初めから冥界などにちょっかいなど出してこない。 強い者ほど、「死」を司るこの世界への反逆がどれほど愚かな行為なのか、よく理解しているからだ。 「しかしですな、特異な場所だからこそ気を抜いては──── 、」 「妖忌」 ぴしゃりと、 扇子を開き、妖忌の反論を切り捨てる。 「妖忌、私たちは蝶々なのよ」 「……蝶?」 そう言うと幽々子は掌をかざし、一つの蝶弾を浮かび上がらせる。 浮かび上がった蝶はすぅ…と外へ向かい、庭に咲く花へふらふらと飛んでいったかと思うと、もう儚く消えていた。 なるで、あまりに強い日差しにかき消されてしまったかのように。 幽々子は時々突拍子も無いことを言う。聞く者にとって大抵は理解できないゆえ、彼女は何を考えているか分からないとも、何も考えていないとも、よく言われる。 だが長年仕えてきた妖忌は、幽々子が決して何も考えずに言葉を紡がないことを知っていた。 「ゆゆ様?」 「私たちは、冥界という花に群がる蝶に過ぎないの。蝶は花に依存して、花も蝶に助けてもらってはいるけれど、でも蝶がいなくなっても別の虫が代わりになるだけだし、花だって別に一輪きりってわけではないのよ」 「白玉楼が倒れても、また違う誰かが管理者になる…と?」 「冥界っていう場所が、そもそもその場しのぎみたいなものだしね」 微笑んで、そんなことを言うのだ、この人は。 「……そう…ご自身を卑下しないで下さい」 自分のこと、 白玉楼のこと、 そしてあの霊桜・西行妖のこと──── 、 それらを笑いながら否定されては、幽々子の過去は、何の意味も持たなかったことになるではないか。 幽々子は、確かに覚えていない。 あの妖怪桜を封じるために、自らを犠牲にした娘のことを。 そして妖忌だけは、そのことを覚えているのだ。 だがそれを幽々子に話すということは、幽々子…いや、生前の「ゆゆ」の想いをも裏切ることになってしまう。 ポロン なんとなく沈黙が続いた後、幽々子が絃を一つ弾いた。 「ねぇ、妖忌」 「…はい」 ポロン…ポロン… 「……」 「……」 「…うん、やっぱり妖忌は硬いのよ」 「…え?」 初めにもそんなことを言っていた。 「いや、私にはこれくらいがちょうど良いのです」 幽々子の呟きに、妖忌はただ首を振る。 そうだ。何があっても彼女を守っていこうと誓ったのだ。 望外の能力を持って生まれたために、あまたの災厄を負ってしまった少女。 幽々子は確かに覚えていないのかもしれない。 でもだからこそ、妖忌は全霊を投げ打って、彼女の盾になることを誓ったのだ。 あの日、あの桜の下で。 「いやいや、」 ポロン 「真面目ではない妖忌も面白いかもしれないけど、それは妖忌ではないから。…うん、それはとても見てみたいけれど、でも何か違う。見てみたいけど」 「…………はぁ」 「ねぇ妖忌、貴方は何かしたいことは無いのかしら?」 「したいこと…ですか」 「何でも良いのよ。例えば蕎麦を打ってみたいとか、和菓子を作ってみたいとか、それから…」 頭の中で妄想しているのだろう。よだれを垂らさんばかりの顔で指折り数え始める。 「あの、作ってみましょうか?」 「あ、そうでなくて」 はっと顔を上げる幽々子。 「…」 「妖忌は笑えば男前だと思うのよ」 「…おためごかしを」 「妖忌がいーっつも眉間に皴を寄せて難しい顔をしているから、私まで笑えないじゃない」 そうでもない気がするが…いや、そうなのだろうか。 「硬いばかりだと、中が腐っていても気が付かないんだから」 「そういうものでしょうか」 ポロロン そのとき、眉根を寄せていた妖忌の口に指を差し込み、幽々子は「うにー」っと両側に開いた。 「ひゅ、ひゅひゅさみゃ?(ゆゆ様?)」 「ふふふっ」 そうしてぱっと手を離したかと思うと、そのままさっと部屋から出ていってしまった。 一連の出来事についていけてない妖忌に、外からふわふわとした声だけが届く。 「また明日もお茶菓子を持ってきてちょうだいね〜」 「なっ……!」 呆然としている妖忌を置いて、幽々子はそのまま行ってしまった。 完全にしてやられた感のある妖忌は、結局、そのまましばらく動けないでいたのだった。 (ニ章1節 了) |