とんだばやし混声合唱団
                                    
 

   地の上に絶えずかぶさる人間悪よ  12

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★ 師 走 ★

第九やクリスマスソング゙、カラオケ、など歌う機会の多い月です。

合唱団の練習と忘年会が重なってしまう方も多いのではないでしょうか。

 しばしこの一年を振り返り、またこの一年に“さよなら”をする。

年忘れ……よい意味で2006年と“さよなら”して……新しい年に向かいましょうか。

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「コーラスの楽しさ」  ソプラノ:宮崎 裕子

 

中学卒業以来、ご無沙汰になっていたコーラスをもう一度始めたい!!と思い続け、とんだばやし混声の扉を叩いて早一年になります。

こんな面倒くさがり屋の私を、何故か「練習いかなきゃ」と軽い足取りにしてくれるのは、音楽の楽しさ、そして混声のみなさんの温かい笑顔に他なりません。

あわただしい生活の中、私を癒してくれる音楽。この一年間、受動的に聴くだけでなく、能動的に歌うという楽しさをもう一度かみ締めています。

今年の夏、ヨーロッパの教会で聴いたミサの賛美歌。体中が震えました。様々な国籍の人々が一同に声を揃えて歌うのです、同じ歌を。祈りを捧げるために。毎日同じメンバーが集まって練習しているわけでもないのに、自然と美しいハーモニーが出来上がっているのです。

音楽は言葉や国境を超えて、人々の心を一つにしているんだなぁ、と感じた瞬間でした。

コーラスが何故楽しいのか。これはみんなが心を一つにして創り上げたハーモニーをみんなで楽しむことができるから、ではないかなぁと思います。

美しく歌うことはなかなか難しいですが、楽しく歌うことには自信があります

これからもどうぞ宜しくお願いします。

  

楽しく歌う、とは私たちの合唱団の核心ですね。なぜ合唱は楽しいのか、つらつら考えるのも楽しい?!

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★これからの練習  1月21日迄は変則練習となります

前半は、ファンタジ-合唱団として大地讃頌、アヴェベルムコルプス。
後半は、とんだばやし混声合唱団の通常練習

1216日(土)、16日(土)、113日(土) すばるホール リハーサル室

※※※ みなさま 是非・是非・是非とも!! 
 すばるクラシック ファミリーコンサートのチケット購入にご協力お願いいたします!!


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富田林市少年少女合唱団 第35回定期演奏会

【日時】 2007年1月14() 1時30分開演     
【場所】 すばるホール
【曲目】 ミュージカル「シンデレラ」、合唱組曲「こころのてんきよほう」他
     楽しい歌をたくさん歌います

    ホームページ  :  http://homepage2.nifty.com/tbgc
    すばるクラシックファミリーコンサートの前週でお忙しいとは存じますが
    子供たちの元気な歌声を聴きに来て下さい (渉外 B:山崎康二)



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★「土の歌」作詞者 大木惇夫(おおき あつお)について ━第2回━

 大木惇夫という詩人の経歴。戦時中から戦後にかけて。 出典: フリー百科事典 ウィキペディア 、他

1941(昭和16年)太平洋戦争大東亜戦争)が始まると徴用を受け、海軍宣伝班の一員としてジャワ作戦に配属された。バンダム湾敵前上陸の際には乗っていた船が沈没したため、同行の大宅壮一横山隆一と共に海に飛び込み漂流するという経験もしている。 この際の経験を基に作られた詩を集めて、ジャカルタで現地出版された詩集『海原にありて歌へる』(昭和17年)に我が国戦争文学の最高峰ともいわれる戦友別盃の歌-南支那海の船上にて。』が掲載されている。この作品は前線の将兵に愛誦された。

「戦友別盃の歌」

 昭和1711月  言うなかれ、君よ、別れを/ 世の常を、また生き死にを/
 海ばらのはるけき果てに/ 今や、はた何をか言わん/ 熱き血を捧ぐるものの/ 大いなる胸 を叩けよ/ 満月を盃(はい)にくだきて/ 暫し、ただ酔いて勢(きほ)へよ/ わが征くは バタビヤの街/ 

君はよくバンドンを突け/ この夕べ相離(さか)るとも/かがやかし南十字を/
 いつの夜か、また共に見ん/ 言うなかれ、君よ、わかれを/ 見よ、空と水うつところ/ 
 黙々と雲は行き雲はゆけるを/

この詩集で文学報国会大東亜文学賞を受賞を受賞すると、作品の依頼が殺到した。この国家的要請に対し、彼は誠実に対応し、詩集『豊旗雲』『神々のあけぼの』『雲と椰子』や従軍記、映画向けの作詞、各新聞社が国威発揚のために作成した歌曲の作詞等を行った。その一方で序文以外にはほとんど戦争色の感じられぬ詩集『日本の花』も編集している。しかし、戦争末期には過労が祟って身体、精神共に不調となり、福島県に疎開して終戦を迎えることになる。

戦後は戦時中の愛国詩などによって非難を浴び、一転して戦争協力者として文壇から疎外される。戦争中、彼をもてはやした文学者やマスコミは彼を徹底的に無視し窮迫と沈黙の日が続いた。そのため、戦後は一部の心ある出版社から作品を出版しながら、校歌の作詞等をしながら生涯を過ごした。

1961(昭和36年)には依頼により作成した「鎮魂歌・御霊よ地下に哭くなかれ」の詩碑が故郷である広島市平和公園に建てられるなど、国民の評価は文壇やマスコミとは明らかに異なっていた。

 [平和を祈り 御霊を鎮めん]  
 山河に歎きはみちて 叫ぶ声あり 戦ひは げに 人類の恥辱ぞと ああ 奮ひ起ち挙り立て  心つなぎて つつましく 世界の平和 祈らばや やすらぎの日をもたらして 
 国に殉ぜしもろ人の み霊をこそは鎮めまし み霊よ 地下に哭くなかれ