武田信玄の息女 松姫関連資料


信松院 (八王子市)入り口
の松姫像
1547年 天文16年8月信玄は佐久の志賀城を攻略し笠原新三郎清繁を滅ぼす。清繁の美貌の誉れ高い笠原婦人は自決の寸前を捕らえら他の女子供と共に甲州へ連れられた。笠原婦人はそこで"競売"にかけられ小山田信有が20貫文で買い岩殿城へ連れかえり寵愛したという。   

 
1561年 永禄4年9月武田信玄の五女松姫誕生 信玄川中島の合戦のため出陣中のことであった。(母は側室油川氏、武田勝頼は異母兄)
陣中で姫誕生の知らせを、大きな松の木のそばで聞いた信玄は戦勝間違いなしとして、姫の名を松と付けるよう使者に伝えたという。

1568年 織田信長は信玄との間で長男信忠との政略結婚を図り婚約の儀が行われる。その後松姫は父信玄の居の近くに館を設け輿入れの日を待つことになる。この間信忠との間では物心ともに交流があったという。

1572年 元亀3年上洛を果たそうとする信玄と徳川家康との間で浜松三方ヶ原で両軍が衝突、織田信長が家康に援軍を送ったため信玄は織田との縁を切り松姫の婚約も解消される。松姫11歳 信忠15歳のことであった。
信松院由緒記によれば「生レテ容色志操アリ、、略、、居止言行孤孀ノ者ノ如シ」とある。

1573年 天正元年、父武田信玄没する。この年の秋、兄盛信(15歳)は妹松姫(12歳)を引き取り保護する。

1580年 天正8年、盛信は高遠城主になる。この頃城下の新たな館で美貌の松姫は新館御料人と呼ばれていた。

1582年 天正10年正月まで松姫は高遠城で過ごしていたが、織田信長軍の甲州侵攻に松姫は、盛信の4歳になる督姫や新府城(韮崎)で兄勝頼の4歳の貞姫、小山田信茂の4歳になる香貴姫らの姪を連れて武田旧臣が多く住む武州恩方(東京都八王子市)へと逃れることになる。
 
3月1日織田信忠(織田軍先遣大将)は高遠城に使者の僧を送り城主(婚約者であった松姫の兄盛信)や家臣の命の保証、城の明渡し、賠償等を求めるが、使者の僧は耳鼻をそがれ帰された。
翌2日勇猛で知られる仁科五郎盛信も織田2万の軍勢に抗しきれず討ち死にする。
同月兄竜宝や信貞らは相次いで織田、徳川により殺害される。七男信清は海野城主になり武田滅亡後上杉景勝に仕える。

新府城(韮崎)では織田の軍勢を防ぎ切れないと判断した武田勝頼は岩殿城(大月)での抗戦を決め新府の城を焼き払い転進するが、城主小山田信茂の謀反により反撃され笹子峠を越えられず、進退きわまり日川沿いに大菩薩方面へ向かう。家臣、勝頼婦人、女子供等最後まで行動を共にした数十名は、3月11日天目山田野の戦いで日悲惨な最期を迎えた。

  甲陽軍鑑によれば田野まで逃れた勝頼は新館御料人
  <松姫と考えられる>を山中に退かせる)とある。)

(小山田信茂は信有の子、信茂は織田信長により後日殺害される。)

織田信忠は同年6月2日の本能寺の変の折り、宿舎であった妙覚寺を攻められ自刃する。信忠25歳のことであった。その以前八王子に松姫の生存を知った信忠は、あらためて妻として娶りたいとの使いを出した。松姫が信忠のもとへと向かう途中でこの本能寺の変を聞いたという説がある。
松姫の逃避行とその後
天正10年2月早々に、十数名の供と共に高遠城の盛信と別れ新府城(韮崎)へと向かう

新府城を出発した松姫一行は山梨市の海島寺に1週間ほど滞在し、塩山の向獄寺へ向かう

松姫一行は向獄寺にしばらく滞在したのち、織田の追っ手や落人狩りから逃れがら、時には山中で過ごしながら、武田家旧臣が多く住む武州(八王子)へと向かう。
 (諸説あり)
当時友好関係にあった上杉家を頼らず、敵対関係にあった北条の勢力下である武州へ向かったのは?、
その後に北条氏照から経済的支援を受けていることから考えると武州へと向ったのは、背景に北条家との間に敵対しながらも信頼関係があったようです。

2月から3月の厳しい寒さの中で、幼い姫たちを連れた逃避行はさぞかし難渋であったと思います。

この逃避行には諸説があります、
 新府城から田野まで勝頼に同行していた説
 勝頼に先行し小山田信茂の裏切り前に笹子峠を越えて武州へと向かった説など、、


武州恩方山中での逃避生活を経て金照庵での仮住まい、心源院での出家、信松院で生涯を終えるまで婚約者信忠への愛を貫き通し、姪達を育て、また絹織りや近隣の子等の手習いを教えたりと旧臣達はもとより土地の人々からも大変慕われた。
(信松院の"信"は、信忠の名前からとったとも、父信玄の名前からとも云われるが、皆さんはどうお考えでしょうか?)

徳川家康は天下統一を果たし、信玄の娘松姫が八王子にいることを知り寺領を与えたり、折に触れ消息をたずねていたという。


信松院 (八王子市)
GoogleMap


院内にある松姫お手植えの松の明治時代の
由来碑では、姫自身が天正10年秋に植え
たもの、、、、、、、、との記述がある。
松姫は世にも稀な美しい人 であったといわ
れ信松院には肖像画が残っているそうです。




境内にあった如意輪観音と思われ
る石仏、江戸中期以降のものか?

1616年 元和2年4月16日多くの人々に看まもられながら56年の生涯を閉じた。 奇しくも翌17日に徳川家康も逝去する。  ( 月命日の16日の遺品公開 ブログ記事 ) 

家康は日光東照宮に祀られるがその守護をしたのは武田旧臣達が半数を占める八王子千人同心であり、その総代官の大久保長安もかっては信玄公の旧臣であった。

信松尼公は、全ての女性の幸せ為に誓願を起こされたという。
今もより幸せを願う女性の参詣が絶えないという。



境内裏にある松姫の墓所、お名前にちなむ松の大木
がそばにあります。是非一度は訪ねてみてください

 松姫墓所の周りには武田家臣の子孫(千人同心)が寄進した石柵があります。
 窪田、志村という名前は松姫逃避行に同行したといわれる人と同姓であり興味深いですね。
 院内にある松姫君お手植えの松の碑文には武田信玄公近習役窪田新兵衛・・の記載があり
 ます。


松姫と同行した姫たちのその後

貞姫
 (武田勝頼の娘)
 徳川家康の庇護のもと、徳川家臣により引き取られ、名家・宮原義久に嫁いだ。
 81歳で亡くなった。

督姫 (仁科盛信の娘)
 松姫が信松院が与えられた頃、法蓮寺で出家(玉田院)した。
 病弱であったようで、1608年7月 29歳で亡くなり、現在は極楽寺に墓がある。


香貴姫 (武田を裏切った小山田信茂の娘)
 徳川家康により松姫と同様に保護されたといわれ、陸奥・磐城平の内藤忠興の側室になる。
 2男1女を生み、(内藤家の跡取り内藤義泰の母)95歳で亡くなる。
 松姫は、香貴姫を区別なく姪として可愛がったそうだ。
  *****************************  
  上記以外の松姫一行
    家臣12名 
      窪田、金丸、志村、馬場、加藤、上条、内藤、猿橋、中沢、土橋、平間、柴田
    侍女3名
      土橋、柴田の母、丸山の娘
    下僕3名
      小沢他3名
   松姫含め一行 総勢22名
 平成20年10月 追記           
   ***** この項は 山梨県上野原市西原中学校刊 《松姫伝説の里 西原》より引用*****

  
 桧原村に残る謎の文書--- 松姫逃避行の記録か、
  
後日内容について掲載したいと思います
  桧原村史より引用  ( 他にも 小泉輝三著 八王子南部 史話と伝説に別文書あり )
    ******* この項は 平成21年8月 追記 ******
   
   

信玄の兄弟姉妹

信繁    :信玄の影武者と云われ川中島の合戦で討ち死に。
信廉    :天正10年織田徳川連合軍により府中で殺害。 
信是    :1571年3月死亡(元亀2年)
信竜    :天正10年3月10日上野城で徳川軍により戦死
信実    :1618年元和4年に死亡
今川義元婦人:その長女は信玄の子義信に嫁つぐ
穴山信友婦人:1566年病死
浦野婦人  :不祥
下条婦人  :不祥
禰津神平婦人:不祥
亀御料人  :信玄の養女になる
    
信玄の妻と側室

上杉朝興の娘:妻/政略結婚(信玄は川越の上杉と組み北条氏綱と戦う)
       信清を生む・1534年懐胎し死去する。
三条婦人  :妻/三条公頼の次女・義信、竜宝、信之、北条氏政婦人
       を生む1570年元亀3年死亡
諏訪御料人 :1555年死亡/信玄により滅ぼされた諏訪頼重の娘
       武田勝頼を生む。
油川婦人  :盛信、信貞、松姫、真理姫らを生み元亀2年死亡
禰津神平の娘:信清を生む
   
信玄の子供

義信    :信玄により幽閉され30歳で自害させられる。
竜宝    :天正10年織田徳川軍により殺害。
信之    :10歳で死亡
勝頼    :天正10年織田徳川軍により天目山田野にて戦死
盛信    :天正10年高遠城で戦死
信貞    :天正10年織田徳川軍により殺害
信清    :海野城主になり武田滅亡後は上杉の景勝に仕える
北条氏政婦人:1568年北条・武田の敵対により不縁になり甲州へ帰される。
       永禄12年6月死亡
穴山信君夫人:1622年 元和8年5月死亡
真理姫   :木曾義昌に嫁ぐ 1647年木曾にて死亡  
四女    :不祥 1558年 永禄元年早世
松姫    :本稿の通り
菊姫    :天正7年上杉景勝と結婚 徳川家康への人質として
       伏見に住み慶長9年 1604年死亡
  
参考文献  東京都八王子市台町信松院「信松院のしおり」
        秋田書店「歴史と旅」
        中央公論社刊 笹本正治著「武田信玄」
        及び各種日本史文献。(幾つかの個所で文献上に
        年齢等の相違があり矛盾点についてはわたしの偏見(?)
        で記載してあります。
武田家についてマンノウォーさんの《疾風のたより》に詳しく載っています。