昭和25年 (1950) |
木場の徳島県出身者が、県人の集いがないというので有志が集まり寄付を募った。 これで衣裳・鳴り物を買い揃え、材木商たちの年1度の運動会で踊っていた。 |
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天恵連を産み、育てた 二代目連長 故 鴨川長二氏 |
昭和28年 (1953) |
東京の徳島町と呼ばれていた深川の材木業者80社が集まり、阿波おどり『木場連』として活動を始める。 準備委員長(初代連長)深川・武市木材の中川永一郎氏。4年に1度開催される深川の大祭に初めて参加。 徳島の阿波おどりが東京の町で初めて踊られた。 |
昭和31年 (1956) |
『私の秘密』『紅白歌合戦』初めてのテレビ出演。テレビ映画『研辰の討たれ』出演。 |
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昭和33年 (1958) |
東京・高円寺商店街が『バカ踊り』を始める。がむしゃらに踊っていただけで内容はさっぱり。現葵新連の森田氏が木場連に指導を仰ぐ。〜高円寺記念誌より〜 |
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昭和34年 (1959) |
皇太子殿下・美智子様ご成婚の記念に上野の観光連盟からの要請で上野池之端で踊る。 |
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昭和38年 (1963) |
転勤により上京してきた藤原信一氏が鴨川長二氏を訪ね『木場連』に入連。入連テストは、やはり上野公園での出演にて実戦型テスト。一発で合格。 |
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昭和45年 (1970) |
木場以外の人達にも親しみやすいようにと 『天恵連』と改称。 |
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昭和48年 (1973) |
結成20周年記念に『日劇』(現有楽町マリオン)の公演に参加。徳島からも3連が出演。 |
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昭和49年 (1974) |
突然、約半数の連員が退連。枝分かれ。 連員が激減した。 |
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三代目連長 藤原信一氏 結成50周年記念徳島阿波おどりにて。 |
昭和51年 (1976) |
鴨川長二氏が会長に。藤原信一氏が3代目連長に。 |
昭和58年 (1983) |
鴨川長二氏急逝。結成30周年記念に『追悼誌』を製作。 |
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昭和60年 (1985) |
つくば科学万博に出演。 コンパニオン達に踊りの指導をした。 |
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昭和63年 (1988) |
フジテレビにて『天恵連お囃子テープ』を録音・製作。 |
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平成4年 (1992) |
弁護士 東 徹先生(当時東京徳島県人会理事長)が顧問に就任。 |
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平成5年 (1993) |
結成40周年記念に『写真集』を製作。 新宿住友三角ビル4階・朝日カルチャーセンターで『阿波おどり教室』を5年間にわたり開講。延べ受講生70余名。現在天恵連で活躍中の卒業生11名。 |
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平成6年 (1994) |
藤原連長が『徳島ふるさと大使』に任命された。 |
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平成12年 (2000) |
ミレニアム新年総会の席で『結成50周年記念には徳島へ皆で帰省しよう!』と決起。 |
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平成15年 (2003) |
結成50周年を記念し、徳島にて演舞。祝賀会には飯泉徳島県知事・仙谷由人先生はじめ80名が出席。徳島県知事より首都圏における活動に対し感謝状を受領。祝賀会の模様は四国放送の夕方のニュースで放送された。 「天恵連結成50周年記念里帰り」と題し、徳島で阿波おどりを披露。 |
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平成16年 (2004) |
天恵連結成50周年記念誌を製作。 |
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平成17年 (2005) |
PR用トラック『新鮮なっ!とくしま号』と共に、阿波おどり実演をし、徳島県のPRに協力。 |
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平成18年 (2006) |
東映『バルトの楽園』PRに協力。映画製作発表記者会見・東京ドーム・三越日本橋店で出演。 |
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平成19年 (2007) |
映画『阿波DANCE』に協力。俳優陣に阿波おどり指導。 |
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平成25年 (2013) |
結成60周年を記念し、「天恵連結成60周年記念還暦里帰り」と題し、徳島の演舞場やイベント会場にておどりを披露。 徳島新聞に記事が掲載されました。 |
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評判
『東京の阿波踊りを花に例えると、故、鴨川長二氏の木場農場で栽培していた徳島県産の「踊り種子」を高円寺に植え、高円寺の人達はそれを丹精込めて育て、木場連園芸本社や高円寺支店に頼んで苗を分けてもらう人が多くなった。その中には枯らせてしまった人もいるが、夏の開花シーズンになると、首都圏のあちらこちらの庭で中輪、小輪の花が見られる……といったところ。』
(徳島新聞社谷田匡氏平成2年8月12日徳島新聞特集号掲載)